カテゴリー「ベルク」の記事

2024年5月14日 (火)

東京交響楽団 定期演奏会 ジョナサン・ノット指揮

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青く、めちゃくちゃ天気のよかった土曜日。

ミューザ川崎での東京交響楽団の演奏会に行ってきました。

ラゾーナ側から回り込んだので、ちょっと違うアングルのミューザ川崎です。

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  武満 徹   「鳥は星形の庭に降りる」(1977)

  ベルク   演奏会用アリア「ワイン」(1929)

             S:高橋 絵理

  マーラー   交響曲「大地の歌」 (1908)

    Ms:ドロティア・ラング

    T :ベンヤミン・ブルンス

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

    (2024.5.11  @ミューザ川崎シンフォニーホール)

2014年の音楽監督就任以来、当初より取り上げてきたこのコンビのマーラーの最終章。
大地の歌をもって、すべて取り上げたことになるそうです。
あと2年の任期がありますが、ずっと続いて欲しいというファンの思いもありつつ、こうしてひとつの節目とも呼ぶべき憂愁あふれるプログラムを体験すると、残りの任期をいとおしむことも、またありかな。
そんな思いに包まれた感動的なコンサートだった。

プログラムの選定のうまさは、知的な遊び心以上に、われわれ愛好家の心くすぐる演目ばかりであることからうかがえることばかりでした。
都内の保守的な聴き手の多いオケや、入りを気にしなくてはならない地方オケでは、絶対に出来ない演目ばかり並ぶノットのこれまでの演奏会。

今回は、時代をさかのぼる順番で、マーラーに端を発する音楽の流れを体感させてくれました。
もっとさかのぼると、トリスタンとパルジファルがあって、マーラーときて、新ウィーン楽派・ベルクときて、ドビュッシーにして武満です。
マーラーは終着ではなくて、通過点であり、その先の音楽の豊穣があることを確信させるような演奏、「Ewig・・・ewig」繰り返される「永遠に」の言葉が今宵ほど美しく、この先が明るく感じられる演奏はなかった・・・・

①「鳥は星形の庭に降りる」

 調べたら手持ち音源は、小澤、岩城、尾高と武満音楽を得意とする日本人指揮者の音盤をいずれも持っていた。
さらに記憶をたどると、岩城宏之指揮するN響のライブも聴いていた。
いずれも遠い彼方にある音楽だったが、今宵はドビュッシーとベルクの延長線上にもある武満音楽を我ながらすごい集中力で持って聴くことができた。
武満作品は、演奏会の冒頭に置かれることが多いので、どうしても後々の印象が薄くなったり、演奏に入りきれないまま終わってしまうケースが多いと思う。
今回は事前に、この日のプログラムを演奏順にCDで予習してきたので、後半に明らかにベルクを思わせるシーンを捉えていたので、まんじりとせず、耳をそばだてながら聴いた。
静謐さのなかに、鳥の舞い降りるイメージや音がホールの空間に溶けていってしまう様子など、ノットの共感に満ちた指揮ぶりを見ながら、音楽を感じ取ることができました。

②「ワイン」

 名品「初期の7つの歌」のオーケストラ編曲をした翌年、「ワイン」は「ルル」を書き始める前に書かれたコンサート・アリア。
3つの部分でなっていたり、シンメトリーが形成されていたり、イニシャルと音階への意味づけ、ダ・カーポ形式といういわば古い酒袋に十二音技法を詰め込んだような、そんなベルクらしいところが満載な音楽なんです。
アバドのCDと、ベームのライブなどを何度も聴いて、その芳醇な音楽とルルを思わせるシーンがいくつもあることなどで、大いに楽しみだった。
まず、ソプラノの高橋さんのぶれの一切ない強いストレートな声に驚いた。
リリックソプラノを想定したアリアだけれど、私の席に届いた声はもっと強靭にも感じた一方、タンゴの部分でのしゃれっ気ある身のこなし、軽やかな歌いこなしなど、表現の幅も広く、感心しながらも楽しみつつ拝聴。
ノットの指揮するオーケストラも、ベルクのロマン性と先進性をともに表出していて、ベルク好きの私を陶然とさせていただきました。

③「大地の歌」

 コンサートチラシにある言葉「人生此処にあり」
この言葉が意味するごとく、「生は暗く、死もまた暗し」・・・ではなくって、人生いろいろ、清も濁もみんなあり、みんな受け入れようじゃないか・・・そんな風に感じた、スマートかつスタイリッシュな「大地の歌」だったように思います。
ご一緒した音楽仲間がタイムを計測してまして、60分を切るトータルタイムだったと証言してます。
早い部類に属するかと思いますが、聴いてて絶対にそんな風に感じさせない個々のシーンの充実ぶりと、気持ちのこもった濃密さ。
概して明るめの基調だったわけですが、歌手の選択にもそれはいえて、ふたりの声の声質は明るめでした。

 テノールのブルンスは、出てきたときからどこかで見たお顔とずっと思い聴いてた。
帰って調べたら、バイロイトのティーレマン指揮のオランダ人(グルーガーの変な演出)のときに舵手を歌っていた人だった。
さらにみたら、バッハコレギウムでエヴァンゲリストも歌ってました。
だから声はリリカルで柔らかくもあり、強いテノールでもないが、張りのある声と言語の明瞭さが決してその声を軽く印象付けることがなかった。
聴いた瞬間に、タミーノを歌う歌手だなとおもったら、やはり重要なレパートリーのひとつだった。
3つの楽章、みんな明瞭かつ清々しい歌唱だったが、「春に酔った者たち」がマーラーの音楽と詩の内容とが巧みにクロスするさまも交えて、とても印象的だった。
ヒロイックでないところがいちばん!

 メゾのドロティア・ラングは、名前からするとドイツ系と思われたがハンガリー系とのこと。
Dorottya Láng = わからないけれど、ハンガリー風に呼ぶならば、ドロッテッヤ・ラーンクみないた感じじゃないかしら、しらんけど。
身振り手振りも豊かに、音楽と詩への共感とのめり込み具合が見て取れる。
オペラでの経験も豊富で、オクタヴィアンと青髭のユーディットなども持ち役で、ドラマチックな歌唱も得意とするところから、この大地の歌も表現の幅がとても広く、ビブラートのないこちらもストレートで透明感ある声と思った。
「告別」での感情移入はなみなみのものでなく、わずかに涙を湛えているかのように見えました。
それでも表現が過度にならないところは、ノットの指揮にも準じたところで、客観性もともないながら、音楽の持つある意味、天国的な彼岸の世界を明るく捉えていたのではないかと思う。
東響の素晴らしすぎる木管群に誘われ、ラングの歌は、どんどん清涼感と透明感を感じるようになり、聴くワタクシも知らずしらず、歩調をともにして、マーラーの音楽と呼吸が合うようになり、いつしか涙さえ流れてました・・・・
こんなに自然に音楽が自分に入り込んできて、気持ちが一体化してしまうなんて。
彼女のナチュラルな歌唱、ノットと東響のお互いを知り尽くした自然な音楽造りのなさせる技でありましょうか。
「永遠に・・・・」のあと、音楽が消えても静寂はずっとずっと続きました。

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アフターコンサートは久方ぶりに、気の置けないみなさまと一献

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コンサートの感動でほてった身体に、冷たいビールが染み入りました。

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つくね、ハイボールもどこまでも美味しかった。

この土曜日は首都圏のオーケストラでは、同時間にいくつもの魅力的な演奏会が行われました。

それぞれに、素晴らしかったとのコメントも諸所拝見しました。

こうして音楽を平和に楽しめること、そんな日本であること、いつまでも続きますことを切に願います。

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2021年12月30日 (木)

わたしの5大ヴァイオリン協奏曲

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東京駅丸の内、仲通りのイルミネーション。

とある日曜日に行ったものだから、通りは人であふれてました。

冬のイルミネーションは、空気が澄んでいてとても美しく映えます。

勝手に5大ヴァイオリン協奏曲。

一般的には、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキーが4大ヴァイオリン協奏曲。

ここでは、私が好きなヴァイオリン協奏曲ということでご了解ください。

順不同、過去記事の引用多数お許しください。

①コルンゴルト(1897~1957)

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   ニコラ・ベネデッティ

 キリル・カラヴィッツ指揮 ボーンマス交響楽団

        (2012.4.6 @サウザンプトン)

好きすぎて困ってるのがコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。
順不同とか言いながら、これは、一番好き、自分のナンバーワンコンチェルトです。
若き頃はモーツァルトの再来とまで言われながら、後半生は不遇を囲い、亡くなってのちは、まったく顧みられることのなかったコルンゴルト。
そして、いまや「死の都」は頻繁に上演される演目になり、なによりもこのヴァイオリン協奏曲も、ヴァイオリニストたちのなくてはならぬレパートリーとして、コンサートでもよく取り上げられ、録音も多く行われるようになりました。
1945年、ナチスがもう消え去ったあとに亡命先のアメリカで作曲。
アルマ・マーラーに献呈。
1947年、ハイフェッツによる初演。
しかし、その初演はあまり芳しい結果でなく、ヨーロッパ復帰を根差したコルンゴルトの思いにも水を差す結果に。
濃厚甘味な曲でありながら、健康的で明るい様相も持ち、かつノスタルジックな望郷の思いもそこにのせる。
 11種のCD、10種の録音音源持ってました。
若々しい表情でよく歌い上げたベネデッティの演奏。
銀幕を飾った音楽を集めた1枚で、トータルに素晴らしいのでこちらを選択。
ムター、D・ホープ、シャハムなどの演奏もステキだ!

②ベルク(1885~1935

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   イザベル・ファウスト

 クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

     (2010.12 @マンツォーニ劇場、ボローニャ)

ベルクのヴァイオリン協奏曲も、このところコンサートで人気の曲。
マーラーの交響曲との相性もよく、5番あたりと組み合わせてよく演奏されてる。
1935年、「ルル」の作曲中、ヴァイオリニストのクラスナーから協奏曲作曲の依嘱を受け、2カ月後のアルマ・マーラーとグロピウスの娘マノンの19歳の死がきっかけもあって生まれた協奏曲。
ベルク自身の白鳥の歌となったレクイエムとしてのベルクのヴァイオリン協奏曲。
甘味さもありつつ、バッハへの回帰と傾倒を示した終末浄化思想は、この曲の魅力をまるで、オペラのような雄弁さでもって伝えてやまないものと思う。
 音楽の本質にずばり切り込むファウストの意欲あふれるヴァイオリンと、モーツァルトを中心に古典系の音楽をピリオドで演奏することで、透明感を高めていったアバドとモーツァルト管の描き出すベルクは、生と死を通じたバッハの世界へも誘ってくれる。
 10種のCD、12種の録音音源。


③バーバー(1910~1981

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   エルマー・オリヴェイラ

  レナート・スラトキン指揮 セントルイス交響楽団

     (1986.4 @セントルイス)

1940年の作品。
戦争前、バーバーはこんなにロマンテックな音楽を作っていた。
私的初演のヴァイオリンは学生、指揮はライナー。
本格初演は1941年、ヴァイオリンはスポールディング(なんとスポーツ用品のあの人)とオーマンディ。
3楽章の伝統的な急緩急の構成でありますが、バーバー独特の、アメリカン・ノスタルジーに全編満たされている。
 幸せな家族の夕べの団らんのような素敵な第1楽章。

第2楽章の、遠くを望み、目を細めてしまいそうな哀感は、歳を経て、庭に佇み、夕闇に染まってゆく空を眺めるにたるような切ないくらいの抒情的な音楽。
無窮動的な性急かつ短編的な3楽章がきて、あっけないほどに終わってしまう。
この3楽章の浮いた存在は、バーバーのこの協奏曲を聴く時の謎のひとつだが、保守的なばかりでない無調への窓口をもかいま見せる作者の心意気を感じる次第。
 ハンソンのロマンティック交響曲とのカップリングで発売された、アメリカ・ザ・ビューティフルというシリーズの1枚。
ポルトガル系アメリカ人のオリヴェイラのヴァイオリンは、その音色がともかく美しく、よく歌うし、技巧も申し分ない。
加えてスラトキンとセントルイスの絶頂期は、アメリカのいま思えば良き時代と重なり、まさにビューティフルな演奏。
 CDは5種、録音音源は8種。 

④シマノフスキ(1882~1937)

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  アラベラ・シュタインバッハー

 マレク・ヤノフスキ指揮 ベルリン放送交響楽団

     (2009.5 @ベルリン)

ポーランドの作曲家シマノフスキの音楽作風はそれぞれの時期に応じて変転し、大きくわけると、3つの作風変化がある。
後期ロマン派風→印象主義・神秘主義風→ポーランド民族主義風
この真ん中の時期の作品がヴァイオリン協奏曲第1番。
ポーランドの哲学者・詩人のタデウシュ・ミチンスキの詩集「5月の夜」という作品に霊感をえた作品で1916年に完成。
 単一楽章で、打楽器多数、ピアノ、チェレスタ、2台のハープを含むフル大編成のオーケストラ編成。
それに対峙するヴァイオリンも超高域からうなりをあげる低音域までを鮮やかに弾きあげ、かつ繊細に表現しなくてはならず、難易度が高い。

鳥のざわめきや鳴き声、透明感と精妙繊細な響きなどドビュッシーやラヴェルに通じるものがあり、ミステリアスで妖しく、かつ甘味な様相は、まさにスクリャービンを思わせるし、東洋的な音階などからは、ロシアのバラキレフやリャードフの雰囲気も感じとることができます。
これらが、混然一体となり、境目なく確たる旋律線もないままに進行する音楽には、もう耳と体をゆだねて浸るしかありません。
 この作品が好きになったのは、ニコラ・ベネデッティとハーディングのCDからだけど、彼女の演奏はコルンゴルトで選んじゃったから、同じ美人さんで、シュタインバッハーとヤノフスキのものを選択。
鮮やかで確かな技巧と美しい音色のヴァイオリンは、万華鏡のようなシマノフスキの音楽を多彩に聴かせてくれます。
 この作品もコンサート登場機会が急上昇中。
CDは3種のみ。録音音源は5種。

⑤ディーリアス(1862~1934)

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 メレディス・デイヴィス指揮 ロイヤル・フィルハーモニック

   (1976.6 @アビーロードスタジオ)

1916年、グレ・シュール・ロワンにて作者54歳の作品。
 戦火を逃れ、ドイツからロンドンに渡ったディーリアスは、メイ&ビアトリスのヴァイオリンとチェロの姉妹二重奏を聴き感銘を受け、姉妹を前提に、このコンチェルトや二重協奏曲、デュプレで有名なチェロ協奏曲が書かれた。だからイメージは3曲とも、似通っているが、このヴァイオリン協奏曲がいちばん形式的には自由でラプソディーのような雰囲気に満ちているように思う。
単一楽章で、明確な構成を持たず、最初から最後まで、緩やかに、のほほんと時が流れるように、たゆたうようにして過ぎてゆく。
デリック・クックはこの単一楽章を分析して、5つの区分を示し、ディーリアスの構成力を評価したが、わたしはそうした聴き方よりも、感覚的なディーリアスの音楽を自分のなかにある心象風景なども思い起こしながら、身を任せるように聴くのが好き。
フルートとホルン、ヴァイオリンソロでもって、静かに消え入るように終わるヴァイオリン協奏曲。
夢と思い出のなかに音楽が溶け込んでいくかのよう・・・・・
 メニューインとデイヴィスの、いまや伝説級の70年代のEMI録音は、録音も含めて、ジャケットのターナーの絵画のような紗幕のかかったノスタルジーあふれる演奏を聴かせてくれる。
この雰囲気の豊かさは、最新のデジタル録音では味わえないものかもしれないが、だからこそ、タスミン・リトルの新しい録音は是非にも聴かねばならぬと思っている。
CD音源3種、録音音源2種。

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週1か隔週ぐらいのペースでblogを更新しましたが、今年ほど思わぬ訃報が舞い込んでお別れの記事を書いた年はないかもしれません。

来年はどんな年になりますかどうか。
音楽を聴く環境も様変わりし、コンサートに出向く機会も激減。
いくつも仕掛り中のシリーズを順調に継続したいけど、時間があまりなく、風呂敷を広げすぎたかなと反省中。

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2021年9月 2日 (木)

ベルク 「ルル」 二期会公演

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二期会公演、ベルク作曲の歌劇「ルル」を観劇。

昨年、東京文化会館で上演の予定が1年延期して、今度は別株が登場するなか、果敢なる上演。

きめ細かな対策を取り、舞台も絶妙なディスタンスを保った演出で、見事な上演で、その成功を大いに讃えたいと思います。

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文化会館から場所を移して、新宿文化センターで、この昭和感あふれるレンガの建物には、なんと2006年以来15年ぶりとなります。

そのときは、演奏会形式のR・シュトラウスの「ダナエの愛」で、若杉弘さんの指揮による日本初演でした。

約1,600席(ピット使用時)の比較的コンパクトなホールで、客席の傾斜は緩めなので、前の方が大きかったりするとステージに被ってしまい、一部見ずらいこともある。
残念なことに、斜め前にいた座高の高い方が、幕間で空いていたわたくしの前に移動してきてしまい、2幕ではちょっと往生しました・・・・

そんなことはともかく、演出には、ちょっとひとコトありますが、まずもって素晴らしい上演でありました。

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「ルル」は、未完のオペラ。
ヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を原作にベルクが3幕7場台本を書き作曲を進めたが、完成されたのは2幕までで、3幕はショートスコアのみで、オーケストレーション中途となり、ベルクの死により未完となった。
 別途、3つの幕からチョイスした5つの楽章からなる「ルル」交響曲があり、3幕で使用される予定だった変奏曲(ルルの逃亡)とアダージョ(ルルとゲシュヴィッツ伯爵夫人の死)のふたつを、完成された2幕のあとに続けることで初演され、それが2幕版ということになります。

ベルクの未亡人ヘレーネは、第3者による補筆を禁じていたが、実はその補筆計画は密かに進行していて、フリードリヒ・ツェルハによる3幕完成版が1979年に、シェロー&ブーレーズのコンビにより3幕版として上演されました。

12年前に「ルル」を初観劇しましたが、そのときは3幕版(びわ湖ホール)
今回の二期会公演は2幕版での上演でした。

日本での「ルル」上演史 
 ① 1970年 ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演 ホルライザー指揮
 ② 1999年 コンサート形式          若杉 弘 指揮
 ③ 2003年 日生劇場/二期会           沼尻 竜典 指揮
 ④ 2005年 新国立劇場            アントン・レック指揮
 ⑤ 2009年 びわ湖ホール            沼尻 竜典 指揮
 ⑥ 2021年 二期会              マキシム・パスカル指揮

         ベルク 歌劇「ルル」

  ルル:冨平 安希子    ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:川合 ひとみ
  衣装係、ギムナジウムの学生:杉山 由紀
  医事顧問:加賀 清孝   画家:大川 信之
  シェーン博士:小森 輝彦 アルヴァ:山本 耕平
  シゴルヒ:狩野 賢一   猛獣使い、力業師:小林 啓倫
  公爵、従僕:高柳 圭   劇場支配人:倉本 晋児
  ソロダンサー:中村 蓉

    演出:カロリーネ・グルーバー

  マキシム・パスカル指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

       (2021.8.29 @新宿文化センター)

二期会のサイトで、演出家グルーバーが、2幕版を採用した理由を語っておりました。
・ベルクが残した真正な部分だけで上演することに意義がある。
・ヴェーデキントの独語が古く、ドイツ人でも難解。
 特に3幕は歌手の負担が大きいため
・共同制作は、多くの歌手を手当てできるアンサンブル劇場でないと難しい
ドイツでは、いろんな意味で、音楽にも真正さを追求する動きがあり、世界的にみても2幕版で上演される機会が増えているとのこと。

3幕で、ベルクが完成できなかった場面で、2幕版で省略されるシーン。
1場:パリでの逃亡生活、賭博、株暴落とさらなる逃亡(登場人物多数)
2場:ロンドンでの娼婦生活、その日の最初の客(医事顧問が演じる)
  ルル、ゲシュヴィッツ令嬢、シゴルヒ、アルヴァらのうらぶれた生活
  客の黒人(画家が演じる)によるアルヴァ殺害

2幕版では、以上が略され、続いて3人目、切り裂きジャック(シェーン博士が演じる)の登場とルルの殺害、帰り際にさらにゲシュヴィッツ伯爵令嬢も殺して去り、彼女は虫の息で、ルルへの愛を歌い幕となる。
  
上記の3幕の省略部分は特に、株暴落シーンなど、雑多すぎるし、人物もたくさん出るので私はいつも困惑する場面なのです。
しかし、今回の2幕版は、音楽としては通例通り変奏曲とアダージョが演奏されたわけだが、舞台ではなにも起こらなかった、と言っていい。

舞台上に女性のマネキンを多く配置し、ルルと同じ姿のダンサーを常に登場させ、ルル本人と対比させている。
マネキンは極度に女性の身体を強調した作りで、さまざまな鬘や衣装をまとい、演出家グルーバーさんの意図は、登場男性やゲシュヴィッツ伯爵令嬢からみたルルを意図しているという。
確かに、ルルを男性たちが呼ぶ名前は、ミニョンだったり、エーファ、ネリーだったりして、要は男性が自分の思いをルルに勝手に押し付けているというわけである。
そして、ダンサーはルルの内面の現れをパフォーマンスしている。
舞台の進行に合わせて、ダンサー・ルルは壁沿いを苦痛に満ちて動いたり、遠くから傍観していたりと、愛やもしかしたら感情の薄いルルの心情を表そうと様々に表現していた。

そして、最後のシーンである。
2幕の終わりで、アルヴァと二重唱を歌ったあと、アルヴァの思い、エーファであり母マリアである、聖母マリアの姿になったルル。
アルヴァはデスクに倒れた(寝た)ままにして、ルルはマリアの姿をかなぐりすてて、スリップ姿となり、虚空を見つめるように舞台を左右にさまよう。
そこに、ルルの内面のダンサーが様々に踊りつつ、ルル本体に近づき、ついには絡み合い、一体化したように表現したと見てとれた。
ここで幕となった・・・・・。

そうなんです、切り裂きジャックは登場しないし、当然に殺害シーンもないし、さらにはゲシュヴィッツ伯爵令嬢も出てこないし、彼女も巻き添え死をくらうことなく、令嬢のルルへの愛の声は、その姿なく流されるのみ。
まだかまだかと待ってた、当然にあるべきシーンがなく、拍子抜けだったと正直言いたい。
だって、衝撃的なフォルティシモでも舞台ではなにも起こらず・・・・・です。

事前に見ていたグルーバーの考えからすると、こういうのはありだろうな、というのが後付け的な感想ではあります。
ファム・ファタールとしての「ルル」の見方は間違っている(それこそが古い)と語っておられます。
当時の家父長制の問題が生んだ女性の悲劇であり、消費される女性に対する反証、そのあたりは、オスティナートにおけるシネマ(上田大樹氏による映像作品)で、ルルの逮捕劇・脱獄などの暗示が、おびただしい数のマネキンの部位が降り注ぐなか表現された秀逸なものであった。
さらにグルーバーによると、ベルクがヴェーデキントの劇をおそらく見たとき、当時の識者が、「女性を好きなように利用できる制度のひどさ」を例えて評論したものに接したかもしれない。
100年前の当時で、そのようなことを、しかも男性がいうと言うことは、大きなことであったが、いまはそれが良い方向になったのか?
今現在、真の意味での男女の平等が達成されているのか?
そうした問題提示も意図していると語る演出者。

極度のフェミニズムには、少し距離を取りたい自分ですが、この演出意図を事前に確認して観劇に及びましたが、さしたる過激さはなく、ただ、ルルの殺害シーンを消してしまったことで、効果としては、どこかぼやけてしまったという思いが強い。
内面のルルと実存のルルの最後の一体化は、わからんではないが、例えば映像作品などで、いくつの演出で見ることができる、「死による浄化」的なものを描いてもよかったのでは。
いや、こんな風に思うことが、ルルを単なるファム・ファタールとしてしか捉えていない、古臭い自分だということになるのか・・・・

あと、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の献身的な愛も、最後に姿を少しでも現すことで、その自己犠牲ともとれる存在で、ルルの内面一体化に華を添えることができたのではないかな、素人考えですがね。
コレラに罹患しながらもルルを救ったゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、聖母マリアのブルーの衣装をまとっていたのも意味あることなのだろうか。

舞台全体の印象はシンプルで無駄を省いたスタイリッシュなもの。
ドア付きの稼働する箱、兼スクリーン機能をもった装置がいくつも並び、人物たちは、そのなかで自分の好みのマネキン(すなわち好みの自分のルル)と一緒に、ルルとシェーン博士との緊張のやりとりをのぞき込んだりする。
その箱が動いて、「LULU」の文字を映し出したり、それが「LUST」という言葉に変じたりしていた。
「LUST」、すなわち「欲望」である。

プロローグの猛獣使いのシーンや、場面展開のシーンでは、紗幕がたくみに使われ、観劇するわれわれの想像力を刺激したものだ。

長文となりましたが、1回ではとうてい理解が及ばないし、何度も観てみたい舞台と演出であることは確かだ。

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こうした演出で歌い演じた歌手のみなさんは、ともかくいずれも完璧で素晴らしかった。
12年前のびわ湖ルルで、ルルのカヴァーキャストだった冨平さん、舞台映えするお姿に負けず劣らずの素晴らしい高音を駆使して、同情さそう可愛い女性となってました。
3年前の素敵だったエンヒェン役以来の冨平さん、ただ素晴らしい高音域に対し、中音域の声にもうひとつ力が加わると万全かと思いました。
偉そうなこと書いてますが、コロラトゥーラとドラマティコ双方の難役でもある、このルル役、これだけ歌い演じることができるのは、並大抵のことではありません!

日本人ウォータンとして、最高のバスバリトンと思っている小森さんのシェーン博士も迫真の演技と、ドイツ語の明確できっちりした発声による完璧な歌唱に感銘を受けた。
願わくは、ジャック役でも見てみたかったが。
 このグルーバー2幕版では、おいしい役柄だったアルヴァ役の山本さん、ルル賛美での伸びのある歌かなテノール声は、プッチーニあたりを聴いてみたいと思わせるものでした。
 この演出では、やや影が薄い存在になってしまったゲシュヴィッツ伯爵令嬢の川合さん、3幕版でないとその存在の重さが出ませんが、もっと聴きたい声と、ちょっとセクシーなお衣装も素敵でした。
味のある狩野さんのシゴルヒ、粗暴ななかに力強い小林さんの力業師、リリカルな大川さんの画家、あと存在感があったのは可哀想な学生さん役の杉山さんで少年っぽさ、中性っぽさがよく出ていて可愛かったです。
ちょい役になってしまった医事顧問にベテラン加賀さん、ほかのみなさんも充実。
 演出家の強い意図をしっかり汲んで、しかも困難な環境のなか、練習を積んで見事な成果を結実されたと思います。
もうひとつのキャストと併せて、記録としても映像作品で残して欲しいと思います。

最期に最大級の賛辞を指揮者とオーケストラに。
休憩中、ピットの中をのぞきに行こうとしたら係員に静止されてしまったが(なんでやねん)、第1ヴァイオリンは8挺で、チェロやコントラバスの3~4ぐらいだった。
浅めのピットに、左側が弦、右側が木管・金管、さらに舞台袖に打楽器類ということで、ぎっしりだけど、ホールのキャパや歌手たちへの負担減も合わせた軽めの編成ではなかったかと。
これからの時代、ワーグナーもシュトラウスもこれでいいんじゃね、と思いましたし、聴いて納得でもありました。
 パスカル氏の指揮が、そのあたりを前提としても、実に緻密で抑制力も併せ持ちつつ、劇性も豊かな音楽を作り出していたと思う。
大柄なイケメンさんで、指揮棒を持たず、動きは少なく、オケも歌手たちも指揮者の指先に気持ちを集中させなければならない。
ベルクの微に入り細に入り、なんでも取り入れられた雑多ななかにも精妙さの光る音楽が、最大もらさず再現された。
私がベルクの音楽にいつも求める甘味な、アブナイくらいに宿命を感じさせる音色も東フィルから引き出してます。
ルルとシェーン博士との会話の部分、ラストのアダージョ、もうたまらなくって、わたしは舞台を見つつも、オケの紡ぐサウンドに陶酔境に誘われる思いだった。。。。泣けるぜ。

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私の手元にある「ルル」のDVD、あとメットの上演も。
音源は、ベーム、ブーレーズ、アントン・レックの3つのみ。

この作品は、歌手の技量と演技力の向上とともに、やはり映像で観てみたいもの。

いずれも3幕版ですが、youtubeで観たヴィーラント・ワーグナー演出のライトナーの指揮、シリアのルルによるいにしえ感漂うモノクロ映像がリアルで、もしかしたら初演時はこんな感じだったのか?と思わせるものでした。

2017年、ハンブルクでの上演。
回廊の魔術師、マルターラーの演出、ケント・ナガノの指揮では、斬新な演出が施されたという。
2幕版で、プロローグの場面の自在に動かしたり、最後には、ヴァイオリン協奏曲が全曲演奏されるという大胆さ。
音楽面、ベルクの気持ち的にも、それはありかもの上演。
バーバラ・ブラニガンの身体能力あってのもの。
観てみたい!

かように、まだまだ版や演出の楽しみもある「ルル」。
未完ゆえに、われわれをこの先も悩ませそうであります。

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2019年11月19日 (火)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮

Muza

東京交響楽団の定期演奏会を、本拠地のミューザ川崎で聴く。

ベルクとマーラー、わたしにとっても、指揮者ジョナサン・ノットにとっても欠かすことのできないレパートリー。

聴くという受容側の自分が、レパートリーなどと、偉そうなことを言いますが、ずっとその界隈の音楽を聴き続けてきた。
いまや、それらが世界の音楽シーンで受け入れられ、人気の音楽たちとなった。

9月頃から、このブログも、最近では珍しいコンサート通いも含めて、つとめて意識して、この分野・この時代の音楽を取り上げてきたことにお気づきでしょうか・・・・

R・シュトラウス、コルンゴルト、シェーンベルク、ツェムリンスキー、ウェーベルン、ベルク、マーラー、クリムト(シューベルト)、これらが、自分のブログによく並んだものだと、われながら思います。
こうした曲目を演奏会でも選択できる東京という音楽都市もすごいものだと思います。

Nott-tso-201911

  ベルク   管弦楽のための3つの小品

  マーラー  交響曲第7番 ホ短調

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

       (2019.11.17 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

①ベルクの唯一といっていいオーケストラ作品。
マーラーの交響曲に感化され、同じような規模の大作品を書こうと目論んだが、師のシェーンベルクから、それはベルクの本分ではないと諭され、大規模さを受け継ぎながらも「性格的小品」を作曲することとなった。
それがこの作品で、実演で聴くのは、これが初めてでありました。
音源では、これまで、アバドとロンドン響のレコードをずっと聴いてきて、CDでもアバドとウィーンフィル、ブーレーズ、デイヴィスなどをずっと聴いてきたけれど、やはりライブで、大オーケストラを眼前にして聴くと、各奏者がどんなことをしているか、指揮者はどんなふうに振り分けているのか、などなど、きょろきょろしながらも、この複雑な作品を少しでも紐解く術となったような気がします。
「前奏曲」「輪舞Reigen」「行進曲」の3つの小品のなかに、それぞれA-B-Aという対称構造があって、それがなんとなくわかったような、これもまた、気がします。
でも「行進曲」は、つかみどころがなく、音の咆哮がどこに向かうのかわからなくなって、焦燥感を抱いたりもした。
この対称構造は、ベルクのいつも追い求めたもので、「ヴォツェック」などは、完全にそれに一致する緻密な作品だ。
その「ヴォツェック」の響きも、「ルル」もヴァイオリン協奏曲も、この作品のどこかしこに、潜んでいるような気もしながら聴いた。
 ノットのよく整理された指揮ぶりは、熱いながらも、とても緻密で、東響も、このベルクの音楽によく食らいつき、青白くも、宿命的なベルクサウンドをよく響かせていたと思う。
ミューザ川崎は、こんな作品の響きがとてもよく似合うと思う。

②前半からヘヴィーな20分。
後半も、超大編成の80分。
この合計100分を、われわれ聴衆は、まんじりともせず、集中力を途切らすことなく聴きとおしたのだ。
それだけ、音楽に没頭させる、夢中にさせてしまう、そんな感度と鮮度の極めて高い、とりわけ後半のマーラーだったのだ。
 わたくしのお隣にいらっしゃった、かなり年配のご夫妻は、きっと7番なんて初めてかもしれない、でも、ずっと真剣に聴いていたし、終わったあとも、スゴイ、いいよ、すごいよ、をご夫婦で連発されてました。
きっとホールにいらした方の、ほとんどの印象かもしれません。

ともかく、このマーラーの万華鏡のような、めくるめく変転する「7番」という交響曲を、まさに百花繚乱のごとく演奏したのが、この日の「ノット&東響」なのだ。
明るくよく響き渡るテナーホルンを吹かれた方、その艶のある音色は、この日の演奏の成功を半分約束されたようにも感じてしまいました。
そして、曲はだんだん加速するのだが、そこでノットは、テンポを落として、徐々に加速するスタイルをとったのにはちょっと驚き。
それ以外は、インテンポで、要所・各処をビシバシと決めていく、キレ味のいいマーラーとなりました。
ノットの気合に満ちた指揮ぶりを、斜め正面から見る席だったので、その「圧」の強さに、演奏してない自分までもが引き込まれて、長い1楽章からもう気圧されたようになってしまい、その楽章の終了時には、思い切り息と肩をついて、ふぅ~っとなりました。

最初の夜曲、第2楽章では、ホルンの見事さ、そして東響の各奏者の冴え、それと弦楽のユニゾンの楽しさなどを満喫。
ノットさんも、楽しそうに振ってましたね。
鐘はどこに? 録音かと思ったけど、最上階だったらしい・・・

「影」のように、す、すッーと滑りこむような第3楽章。
CDなどで聴いてると、その中間部も含めて、とらえどころがなく、もやもやしてますが、ここもやはりライブの楽しさ。
各楽器が、あんなことやってる、こんなことやってる、と観察しながら聴くのもいい。
5つの楽章の真ん中の折り返し。
前後に夜曲にはさまれ、これも思えば、シンメトリーな構造。
ベルクの作品を並べた、その対比の意図も、ここにあるのかもしれません、なんて思いながら聴いていた。

大好きな4楽章の夜曲、奇怪な夜の森の楽章のあと、最後の歓喜の前の、ひとときの「なごみの夜の音楽」。
わたくしは、若い頃、日曜の夜のアンニュイな気分を沈めるために、寝る前に、ウィスキーをくゆらしながら、この楽章だけをよく聴いたものです。
そのときの演奏は、バーンスタイン旧盤か、アバド・シカゴ盤でありました。
 そんな懐かしき若き思い出に浸りながら聴いた、ノット&東響のこの楽章には、ノスタルジーとともに、ちょっと不安の淵なども垣間見せるような、深みのある演奏となりました。
自分的には、この楽章が一番いい出来栄えかとも思いましたね。

そして、なんでこんなに歓喜の爆発になっちゃうんだろ的な、パロディも交えた、とどまることをしらない終楽章の明るさ。
6番のあとに、そして8番の前に、こんなむちゃくちゃな7番を書いたマーラーという作曲家の不思議さと、泣いたカラスがもう笑った的な、なんでもありのマーラーの心象に、切り込むような、バラエティあふれる演奏なんじゃないかと、この終楽章を聴きながら思った。
でも、そんなことはどうでもいい、というくらいに、最後のコーダでは、これでもかというくらいの盛り上がりに、もうドキドキが止まらない!
ノットの、掛け声ともとれる声も聴こえ、曲は大エンディングとなりました。

そのときの、われわれ聴衆の、大爆発たるや、こんなの久しぶりでした。
わたくしも、ブラボー一発かませましたぜ!
ノットさんのお顔も上気して、にこやかに会心の出来ばえとみて取れましたし、東響の皆さんの疲れと満足感の入り混じったお顔もそれぞれ印象的でした。
最後は、ひとり、ノットさんがコールに応えて出てきて、ここでもブラボーの嵐でした。

いやぁ~、ひとこと、「楽しかった~」

Azeria

川崎駅チカのツリー。

めくるめくマーラーサウンドを堪能したあとのツリー。

ドイツの黒い森、暗い夜、自然のあらゆる営みとささやき、人間の醜さと愛、なにもかもが詰まったようなマーラーの7番を、そのあるがままに、展開して見せてくれたのが、この日の「ノットの夜の歌」だったかもしれない。
そこに、何を聴くか、何を求めるかは、わたしたち聴き手次第。

前夜もサントリーホールで演奏しているが、そのときとも、また違う演奏だったと言っている方もおりました。
そして、東響の会員である知人の話では、2公演あると、そのいずれも違う、というノットのいつもやり方のようです。
楽員も命がけだし、ノットも常に、考え、探求し続けている。
日本のオーケストラシーンのなかでも、もっとも先端をゆく名コンビになりつつあるようだ。

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2019年10月27日 (日)

マーラー祝祭オーケストラ 定期演奏会

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日曜午後、こんな素敵なプログラムの演奏会があるのを発見し、思い立ってミューザ川崎へ。

新ウィーン楽派の3人の作品のみ。

わたくしの大好物ともいえる作品3作です。

マーラー祝祭オーケストラは、2001年に指揮者の井上喜惟氏の提案のもと結成されたアマチュアオーケストラで、国際マーラー協会からも承認を得ている団体。
毎年の演奏会で、すでにマーラーの全交響曲を演奏しつくし、今回は、マーラーに関わり、その後のウィーン楽壇の礎をを築いた3人の作曲家、新ウィーン楽派の3人に作品を取り上げたものです。

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 ウェーベルン  パッサカリア (1908)

 ベルク            ヴァイオリン協奏曲 (1935)


     Vn:久保田 巧

 シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」(1902~3)

  井上 喜惟 指揮 マーラー祝祭オーケストラ

        (2019.10.27 @ミューザ川崎 コンサートホール)

正直言って寂しい観客の入りで、開演15分前に行って全席自由の当日券でしたが、ふだん、ミューザではなかなか体験できない良席を、両隣を気にすることなく独占し、音楽にのみりこみ、堪能することができました。

マーラーの名は冠してはいても、やはりこうした演目では、なかなか集客は難しいもの。
しかも、川崎の地でもあり、この日は、川崎名物のハロウィンパレードが同時刻に開催。

しかし、そんなの関係ないわたくしは、うきうき気分のミューザ川崎でありました。

ウェーベルンの作品1は、ウェーベルン唯一の大オーケストラによる後期ロマン派臭ただよう10分あまりの作品です。
長さ的に、コンサートの冒頭にもってこられる確率が高くて、これまでのコンサート履歴でも、ほとんどがスタートの演目でした。
しかし、いずれも、オーケストラも聴き手も、あったまる前の状態で、流れるように過ぎてしまうという難点がありまして、今回もまったく同じ状況に感じました。
なにものこりません。
1974年のシェーンベルク生誕100年の年にかかわり、翌年にかけてFMで放送されたアバドとウィーンフィルの演奏が、わたくしの、絶対的な完全・完璧なるデフォルメ演奏であります。
これが耳にある限り、どんな演奏も相当な演奏でないとアカンのですが、今回、この曲のキモもひとつ、曲の終結部の方で、ホルンがオーケストラの中で残り、残影のような響きを聴かせるところ、ここはとてもよかったです。

ベルクのヴァイオリン協奏曲。
この曲が、本日のいちばんの聴きもので、豊かな技巧に裏打ちされ、繊細でリリカルなヴァイオリンを聴かせてくれた久保田さんが素晴らしかった。
本来はデリケートでもあり、バッハのカンタータの旋律も伴う求心的な作品。
主役のヴァイオリンの求道的なソロに、大規模なオーケストラは、ときに咆哮し、打楽器も炸裂するが、このあたりの制御があまり効いておらず、久保田さんのヴァイオリンを覆い隠してしまった場面も多々あり。
ここは、指揮者の問題でもありつつ、全体を聴きながら演奏して欲しいオーケストラにも求めたいところかも。
交響曲のように演奏しては、オペラ作曲家のベルクの作品の魅力は減じてしまうのだから。。。
 でも、曲の最後の方、浄化されたサウンドをミューザの空間を久保田さんのヴァイオリンが満たし、夢見心地のわたくし、死の先の平安を見せていただいたような気がしますよ・・・・
 久保田さんのドレス、ウィーンの同時代を思わせる、パープルとホワイトの素敵なものでした!!

シェーンベルクのペレアスとメリザンド
20日前に、ここミューザで聴いた「グレの歌」とほぼ同時期の、後期ロマン派の作風にあふれるロマンティック極まりない音楽。
ここでも、トリスタンの半音階的手法が用いられ、音楽は当然に男女の物語りだから、濃厚濃密サウンドが展開。
 4管編成の大オーケストラが舞台上にならび、圧倒的なサウンドが繰り広げられ、この作品では、ときおり現れる、各奏者のソロ演奏がキモともなるが、いずれも見事なもので、前半プロとの奏者の編成の違いも判明もしたわけだが、木管、それとトロンボーンセクションとホルン群がここでは素晴らしかった。
単一楽章で、その中に、登場人物たちのモティーフを混ぜあわせながら、それぞれの場面を描き分けるには、指揮者の手腕が試されるところだが、本日はなにも言うまい。
 緊張感を途切れさせず、このはてしない難曲を演奏しきったオーケストラを讃えたいです!

演奏効果や、奏者の出番は考えずに、この素晴らしい演目の順番を、自分的には、前半後半、逆にするのも一手かも、とも。

 1、シェーンベルク ペレアス
 2、ウェーベルン  パッサカリア
 4、ベルク     ヴァイオリン協奏曲

作曲年代順にもなるし、オーケストラと聴衆の集中度と熱の入り方という意味での順番で。。

 次の、このコンビの演奏会は、来年5月に、マーラーが戻ってきて3番です。
蘭子さんのメゾで♡

コンサートの時間帯とかぶるようにして、川崎駅の反対側では、有名となった「川崎ハロウィン・パレード」が行われましたようで、駅へ向かう途上、可愛い仮装の子供たちと、吸血鬼やおっかない妖精さんや、悪魔さんたちにも出会いましたとさ・・・・

わたくしは、やっぱり、世紀末音楽の方が好き・・・・・

(10/30に渋谷でコンサートの予定あり、一日前だから大丈夫でしょうかねぇ)

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2019年3月18日 (月)

ベルク ヴァイオリン協奏曲 

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先週の河津桜と東京タワー。

芝公園の一角で、四季折々の花がきれいに整備され、美しく咲きます。

寒暖の差も大きく、その歩みは一進一退なれど、春はそこまで。

年中聴いてますが、とりわけ桜の季節に、そして沈丁花の香りが漂いだすころに聴きたくなるのがベルクの音楽。

何度かしか経験はないが、ベルクのオペラを観劇したあとは、歩く足元もふわつき、どこか割り切れない不条理さにさいなまれ、そして周辺の空気が甘く感じたりして、官能的な思いに浸りながら帰宅した思いが何度かある。

もう、33年前に初めて観た二期会の若杉さん指揮する「ヴォツェック」の帰り、モクレンの香りだったか。
そして、10年前に琵琶湖まで飛んで行った、「ルル」。
その時の帰りは、湖畔を散策しながら、ほてった頬を冷ましながら、怪しいまでに美しい湖面に浮かぶ月を眺めたものだ。

かようにして、わたくしのベルクへの想いは、香りや、光といった五感の一部とともに印象付けられているのだ。

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    ベルク  ヴァイオリン協奏曲

           ~ある天使の思い出に~


        Vn:ギドン・クレーメル

    サー・コリン・デイヴィス指揮 バイエルン放送交響楽団


             (1984.3 ミュンヘン)

初めて買ったベルクのヴァイオリン協奏曲の音源が、クレーメル盤。
外盤で出て即、買った。
何度も、何度も聴いた。
とりわけ、日曜の晩、床に就く前に、グラスを傾けながら聴くと、より切ない感じになってたまらなかった。。

クレーメルの硬質な、ちょっと神経質な音色もいいが、ほんとは、も少し色が欲しいところ。
でも、デイヴィスとバイエルンの暖かな音色はいい。


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              Vn:ヘンリク・シェリング

    ラファエル・クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団


             (1968.5 ミュンヘン)

そして、その次に買ったのが、LP時代の名演、シェリングとクーベリックのもの。
気品ある端正なヴァイオリンに、クーベリックとバイエルンのこれまたマーラー仕込みの柔らかな響き、この融合にヨーロッパの音楽の流れと歴史を感じる。
この1枚は、ほんとうに気に入った。いまでも大好き。

そして、ベルクのヴァイオリン協奏曲を次々に入手、エアチェックも多数。

ちょいと羅列すると、渡辺玲子、パイネマン、ズッカーマン、スピヴァコフ、スターン、ブラッヒャー、ファウスト、アラベラ・シュタインバッハ、ツィンマーマン、テツラフ、ムローヴァ、堀、アモイヤル・・・・まだあるかも。

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        Vn:イザベル・ファウスト

    クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

               (2010.12@マンツォーニ劇場、ボローニャ)


アバドの指揮する3つの音源。
ソリストも、オーケストラも、いずれも違う。
ムローヴァ(ベルリンフィル、エアチェック音源)、ブラッヒャー(マーラー・チェンバー)、ファウスト(オーケストラ・モーツァルト)。
豊饒さと激性、でも豊富な歌いまわしのムローヴァ盤、気脈の通じた、元コンサートマスターとの自在かつ、緻密なブラッヒャー盤、そして、いまのところ、ベルクのヴァイオリン協奏曲で、一番と思っているのが、イザベル・ファウスト盤。
がっつりと音楽の本質に切り込むファウストのヴァイオリンと、モーツァルトを中心に古典系の音楽をピリオドで演奏することで、透明感を高めていったアバドとモーツァルト管の描き出すベルクは、生と死を通じたバッハの世界へと誘ってくれるような演奏に思う。

過去記事より、曲についてのこと。

1935年、オペラ「ルル」の作曲中、ヴァイオリニストのクラスナーから協奏曲作曲の依嘱を受け、そして、その2カ月後のアルマ・マーラーとグロピウスの娘マノンの19歳の死がきっかけで、生まれた協奏曲。

「ある天使の思い出に」と題されたこの曲がベルク自身の白鳥の歌となった。

第1楽章では、ケルンテン地方の民謡「一羽の鳥がすももの木の上でわたしを起こす・・・」が主要なモティーフとなっていて、晩年、といっても40代中年の恋や、若き日々、夏の別荘で働いていた女性との恋なども織り込まれているとされる。

こうしてみると、可愛がっていたマノンの死への想いばかりでなく、明らかに自身の生涯への決裂と追憶の想いが、この協奏曲にあったとされる。

その二重写しのレクイエムとしてのベルクのヴァイオリン協奏曲の甘味さと、バッハへの回帰と傾倒を示した終末浄化思想は、この曲の魅力をまるで、オペラのような雄弁さでもって伝えてやまないものと思う。

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     バッハ     カンタータ第60番「おお、永遠、そは雷のことば」

        A:ヘルタ・テッパー
        T:エルンスト・ヘフリガー
        Bs:キート・エンゲン

     カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
                   ミュンヘン・バッハ合唱団

                  (1964 ミュンヘン)


ベルクが、引用したバッハのカンタータ。
1723年の作曲で、イエスの行った奇跡を著した福音書をもとに、「恐怖と希望の対話」をえがいたもの。(解説書より)

死に怯える「恐怖」と、一方で、奇跡が起こる強い信仰を持つ「希望」との対話。
やがて、お互いが寄り添い、希望の喜びを歌う。

このカンタータの最後におかれたコラールが、ベルクがその旋律を引用したもの。
ここに聴くバッハの原曲も、憧れとどこか、終末観を感じさせるもので、リヒターのアナログ的な演奏も懐かしく、甘いものがある。
信仰とは、ときに、甘味なるものなのだ。

 「足れり、主よ、み旨にかなわば、割れを解き放ちたまえ!
  わがイエス来たりたもう。いざさらば、おお、世よ!

  われは天なる家に往くなり。われは平安をもて確かに往くなり。
  わが大いなる苦しみは地に葬られる。 足れり」  (訳:杉山 好)

ふたつの作品を聴きつつ過ごした日曜。

朝晩はまだ寒いが、日中は、暖かさに、鼻腔をくすぐる芳香を感じる。

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2018年7月 1日 (日)

新日本フィルハーモニー定期演奏会 ベルク&マーラー リットン指揮

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梅雨明けの暑い夕暮れ、こんな景色が望めるホールに行ってきました。

久々のトリフォニーホールは、ベルクとマーラーの世紀末系、わたくしの大好物が並ぶ、新日フィルの定期でした。

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   ベルク    歌劇「ルル」組曲

           アルテンベルクの詩による歌曲集

   マーラー    交響曲第4番 ト長調

            S:林 正子

    アンドリュー・リットン 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団

                (2018.6.29 @すみだトリフォニーホール)


林正子さんを、3曲ともにソリストに迎えた、わたくしにとって魅惑のプログラム。
昨年のマルシャリンが素晴らしかった林さんのソロ、感想を先に言ってしまうと、マーラーよりベルクの方がよかった。
それは彼女の声質や、ホールでの聞こえかたからくる印象かもしれませんが、透明感と、一方で力強さのある声がストレートにわたしの耳に届いたのがベルクの方でした。
マーラーは、よく歌っていたけれど、オーケストラとのバランスや、間がちょっとかみ合わないような気もして、それはリットン氏の指揮にも要因があったようにも感じます。
 短い場面だけれど、ファムファタールたるルルを可愛く、そして小悪魔的に、宿命的歌わなければならない「ルルの歌」。幅広い音域を巧みに、でも柔らかさも失わずに聞かせてきれたように思います。
 一方のもうひとりの役柄、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の哀しみも、虚無感とともに、とても出てました。

 アルテンベルクは短い歌曲集だけれど、いまだに、何度聴いても、全貌がつかめません。
生で聴くのが初めてで、今回、たっぷり大編成のオーケストラが時に咆哮しても、知的に抑制され、歌手もその中で、楽器のように生かされているのを感じました。
そして、イメージやフレーズが、ヴォツェックに親和性があることも、よくわかったし、オペラの形態で追い求めたシンメトリーな構成をも聞き取ることができたのも実演のありがたみ。
林さんの、これまた抑制された歌声は、クールで切れ味も鋭いが、暖かさもただよわす大人の歌唱で、完璧でした。
 ベルクは、この歌曲集を、1912年に作曲しているが、作曲の動機は、マーラーの大地の歌を聴いたことによるもの。

時代は遡るが、後半はベルクからマーラーへ。

マーラーを得意にしているリットンさん。
手の内に入った作品ならではの、自在な音楽造りで、もうすっかり聴きなじんだ4番が、とても新鮮に、かつ、面白く聴くことができました。
強弱のつけ方、テンポの揺らしなど、細かなところに、いろんな発見もありました。
新日フィルも、それにピタリとつけて、とても反応がよろしい。
 1楽章の集結部、ものすごくテンポを落とし、弱めに徐々に音とスピードを速めていって、にぎやかに終わらせるという、聴きようによってはあざとい場面を聴かせてくれたが、実演ではこんなのもOKだ、面白かった。
 2度上げで調弦されたヴァイオリンと2挺弾きのコンマスの西江さん、繊細かつ洒脱でとてもよろしいかった2楽章。こちらも、細かなところにいろんな仕掛けがあって楽しい聴きもの。
 で、一番よかったのが、天国的なまでに美しかった3楽章。
美しいという形容以外の言葉しか浮かばない。
よく良く歌わせ、思い入れも、タメもばっちり、わたしの好きな、この3楽章の演奏のひとつとなりました。
 終楽章は、先にも書いた通り、歌が入ることで、ちょっとバランスがどうかな、となりましたが、これまた、心がホッとするような平安誘う、静かなエンディングと、大きな拍手までのしばしの間を楽しむことが出来ました。

ルル組曲の最初の方が、エンジンかかりきらない感じはありましたが、愛好するベルクの「ルル」を久々にライブで聴けた喜びとともに、マーラー⇒ベルクという世紀またぎの音楽探訪を、夏の一夜に堪能できました♪

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ホールを出ると、こんなクールなスカイツリー。

幸せな気分を後押し。

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2016年6月26日 (日)

シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク アバド指揮

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関東は、梅雨まっさかり。

そして、ほぼ3ヶ月ぶりの投稿となりました。

幾多の皆さまから、暖かく、そしてご配慮にあふれたコメントを頂戴しながら、まったくご

返信も、反応もしなかったこと、ここに、あらためまして、お詫び申し上げます。

 ともかく、辛く、厳しい日々は、ブログ休止時と変わりなく続いてます。

しかも、予想もしなかったところから、いろんな矢が飛んできたりもします。

やぶれかぶれの感情は、そこから生まれ、音楽なんて、聴くゆとりも、受け入れる感情もありません。

そんな3ヶ月。

 しかし、でも、めぐってきた、「クラウディオ・アバドの誕生日」

存命ならば、今年は、この26日が、83回目。

そんな日に、アバドが生涯愛した、新ウィーン楽派の3人の作曲家を、いずれもウィーンフィルの演奏で聴きます。

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  シェーンベルク  「グレの歌」から 間奏曲、山鳩の歌

長大なグレの歌、全部を聴けないから、この作品のエッセンスとも呼ぶべき、中ほどにある場面を。
1900年に作曲を始め、第3部だけが、オーケストレーションが大幅に遅れ、最終完成は、1911年。
1913年に、シュレーカーの指揮によって初演。

後期ロマン派真っ盛りの作品ながら、最終完成形のときのシェーンベルクは、無調の領域に踏み込んでいたところがおもしろい。
1912年には、ピエロリュネールを生み出している。

むせかえるような甘味で濃厚な間奏曲、無常感あふれる死と悲しみの心情の山鳩の歌。
アバドのしなやかな感性と、ウィーンフィルの味わいが融合して、何度聴いても心の底からのめり込んでしまう。
久々に、音楽に夢中になりました。

アバドのこのライブ録音は、1992年。
88年には、マーラーユーゲントとECユースオケとで、何度も演奏していた。
そして、最後のルツェルンとなった、2013年に、この間奏曲と山鳩を取り上げた。
この最後の演奏が、掛け値なしの超絶名演で、まさに陶酔境に誘ってくれるかのような、わたくしにとってとても大切な演奏となってます。

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ルツェルンでの最後のアバド。

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  ウェーベルン  パッサカリア

ウェーベルンの作品番号1のこの曲は、1908年の作。

シェーンベルクの弟子になったのが、1904年頃で、グレの歌の流れを組むかのような、これまた濃厚な後期ロマン派的な音楽であり、グレの歌にも増して、トリスタン的でもある。

パッサカリアという古風ないでたちの形式に、ウェーベルンが込めた緻密さとシンプルさが、やがて、大きなうねりを伴って、巨大な大河のようなクライマックスとカタストロフ。

この濃密な10分間を、アバドは、豊かな歌心でもって静寂と強音の鮮やかな対比を見せてくれる。
むせぶようなホルンの効果は、これはまさにウィーンフィルでないと聴けない。

1974年、シェーンベルク生誕100年の年、ウィーンでは、新ウィーン楽派の音楽が数々演奏されたが、そのとき、アバドは、ウィーンフィルとこのパッサカリアや、5つの小品を取り上げ、NHKFMでも放送され、わたくしはエアチェックして、何度も何度も聴いたものだ。
 その音源は、いまも手元にあって、あらためて聴いてみても、若々しい感性が燃えたぎり、ウィーンフィルも、今とはまったく違う、ローカルな音色でもって、それに応じているところが素晴らしい。

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  ベルク  交響的組曲 「ルル」

新ウィーン楽派の3人のなかで、一番若く、そして一番早く死を迎えてしまったベルク。

ウェーベルンと同じく、1904年に、シェーンベルクの弟子となり、以降、ずっとウィーンで暮らすことになるベルクだが、ユダヤの出自であった師がアメリカにのがれたのに対し、ベルクはユダヤではない代わりに、その音楽が退廃音楽であるとして、ナチス政権成立後は、その活動にかなりの制約を受けることとなった。

そんななかで、生まれたのが「ルル」。
破天荒な青年時代を送り、ぜんそくに悩まされ、病弱であったベルクは、文学好きということもあって、オペラの素材には、生々しい死がからむ、いわばヴェリスモ的な内容を選択した。
それが「ヴォツェック」であり、「ルル」である。
さらに、晩年の不倫も、「ルル」の背景にはあるともされる。

人生の落後者のような軍人と、魔性の女、ファム・ファタール。
それらが、悲しみとともに描かれているところが、ベルクの優しさであり、彼独自の問題提起の素晴らしさ。

ことに、「ルル」の音楽の運命的なまでに美しく、無情なところは、聴けば聴くほどに、悲しみを覚える。
自分の苦境に照らし合わせることで、さらにその思いは増し、ますます辛く感じた。
そんな自分のルルの聴き方が、また甘味に思えたりするのだ。

「ルル」は、1928~35年にかけての作品。
間があいているのは、アルマの娘マリーの死に接し、かのヴァイオリン協奏曲を書いたためで、ベルクは3幕の途中で亡くなり、未完のエンディングを持つ「ルル」となった。

アバドは、ベルクも若い頃からさかんに指揮していて、70年のロンドン響との作品集に続き、ウィーン時代の94年に、ウィーンフィルといくつもの録音を残している。
ニュートラルなロンドン盤もいいが、やはり、より濃密で、ムジークフェラインの丸みのある響きも捉えたウィーン盤の方が素晴らしい。

ロンド→オスティナート→ルルの歌→変奏曲→アダージョ

オペラの場面をシンフォニックにつないだ組曲に、アバドは、オペラの雰囲気も感じさせる迫真性と抒情をしのばせた。
「ヴォツェック」は何度も指揮したのに、「ルル」は、ついに劇場では振ることがなかった。
ウィーン国立歌劇場時代、上演予定であったが、辞めてしまったため、その計画を実現しなかったから、この組曲盤は、アバド好きにとっては貴重なのであります。

さてさて、暑いです。

まだ梅雨だけど、そぼ降る雨はなくて、晴れか土砂降りみたいな日本。
熊本の地震もあったし、大きな地震への不安は尽きない

ばかな都知事や辞めたけど、疑惑は消えないし、消化不良のまま参院選と、まもなく都知事選が始まる。
矛盾だらけの政治に社会。
 そして、海外へ眼を転ずれば、どこか某国が、偉そうに軍船で領海侵入を繰り返し、虎視眈々と長期計画で持って、ねらってきているし、さらに英国のEU離脱が、世界規模でもって、政治経済に影響を与える流れが進行中。

今後もトピックは、まだまだ続出するでしょうが、ブログ休止してた間に、こんないろんなことが起きてしまう2016年。
「ルル」の原作ではありませんが、「パンドラの箱」が次々に開いてしまうのか・・・・

しばらく、また消えますが、もう事件事故災害は勘弁してください、神様。。。

それでは、また、いつか。

Shiba_8
    

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2016年3月30日 (水)

大好きなオペラ総集編

Tokyo_tower

桜は足踏みしたけれど、また暖かさが戻って、一気に咲きそう。

まだ寒い時に、芝公園にて撮った1枚。

すてきでしょ。

大好きなオペラ。

3月も終わりなので、一気にまとめにはいります。

Tristan

  ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」

ワーグナーの魔力をたっぷりと含んだ、そう魅惑の媚薬のような音楽。
この作品に、古来多くの作曲家や芸術家たちが魅かれてきたし、いまもそれは同じ。
我が日本でも、トリスタンは多くの人に愛され、近時は、歌手の進化と、オーケストラの技量のアップもあって、全曲が舞台や、コンサート形式にと、多く取り上げられるようになった。

わたくしも、これまで、9度の舞台(演奏会形式も含む)体験があります。

そして、何度も書いたかもしれませんが、初めて買ったオペラのレコードがこのトリスタンなのであります。
レコード店の奥に鎮座していた、ずしりと重いベームの5枚組を手に取って、レジに向かった中学生を、驚きの眼差しでもって迎えた店員さんの顔はいまでも覚えてますよ。

ですから、指揮も歌手も、バイロイトの響きを捉えた、そう右から第1ヴァイオリンが響いてくる素晴らしい録音も、このベーム盤がいまでも、わたくしのナンバーワンなんです。

次に聴いた、カラヤンのうねりと美感が巧みに両立したトリスタンにも魅惑された。
あとは、スッキリしすぎか、カルロスならバイロイトかスカラ座のライブの方が熱いと思わせたクライバー盤。ここでは、コロの素晴らしいトリスタンが残されたことが大きい。
 それと、いまでは、ちょっと胃にもたれるバーンスタイン盤だけど、集中力がすごいのと、ホフマンがいい。
フルトヴェングラーは、世評通りの名盤とは思うが、いまではちょっと辛いところ。

あと、病後来日し、空前絶後の壮絶な演奏を聴かせてくれたアバド。
あの舞台は、生涯忘れることなない。
1幕は前奏曲のみ、ほかの2幕はバラバラながら聴くことができる。
透明感あふれ、明晰な響きに心が解放されるような「アバドのトリスタン」。
いつかは、完全盤が登場して欲しい。

Ring_full_2

  ワーグナー 「ニーベルングの指環」

わたくしの大好きなオペラ、ナンバーワンかもしれない・・・

興にまかせて、こんな画像を作っちゃいました。

オペラ界の大河ドラマとも呼ぶべきこの4部作は、その壮大さもさることながら、時代に応じて、いろんな視点でみることで、さまざまな演出解釈を施すことができるから、常に新しく、革新的でもある。
 そして、長大な音楽は、極めて緻密に書かれているため、演奏解釈の方も、まだまださまざまな可能性を秘めていて、かつては欧米でしか上演・録音されなかったリングが、アジアや南半球からも登場するようになり、世界の潮流ともなった。

まだまだ進化し続けるであろう、そんなリングの演奏史。

でも、わたくしは、古めです。
バイロイトの放送は、シュタインの指揮から入った。

Bohm_ring1

そして、初めて買ってもらったリングは、73年に忽然と出現したベームのバイロイトライブ。
明けても覚めても、日々、このレコードばかり聴いたし、分厚い解説書と対訳に首っ引きだった。
ライブで燃えるベームの熱い指揮と、当時最高の歌手たち。
ニルソンとヴィントガッセンを筆頭に、その歌声たちは、わたくしの脳裏にしっかりと刻み付けられている。
なんといっても、ベームのリングが一番。

そして、ベーム盤と同時に、4部作がセットで発売されたカラヤン盤も大いに気になった。
でも、こちらと、定盤ショルティは、ちょっと遅れて、CD時代になって即買い求めた。
歌手にでこぼこがあるカラヤンより、総合点ではショルティの方が優れているが、それにしても、カラヤンとベルリンフィルの作り上げた精緻で美しい、でも雄弁な演奏は魅力的。

あと、忘れがたいのが、ブーレーズ盤。
シェローの演出があって成り立ったクリアーで、すみずみに光があたり、曖昧さのないラテン的な演奏だった。歌手も、いまや懐かしいな。
 歌手といえば、ルネ・コロのジークフリートが素晴らしい、そしてドレスデンの木質の渋い響きが味わえたヤノフスキ。

舞台で初めて味わったのが日本初演だったベルリン・ドイツ・オペラ公演。
G・フリードリヒのトンネルリングは、実に面白かったし、なんといっても、コロとリゲンツァが聴けたことが、これまた忘れえぬ思い出だ。

舞台ではあと、若杉さんのチクルスと、新国の2度のK・ウォーナー演出。
あと、朝比奈さんのコンサート全部。
みんな、懐かしいな。。。

以下、各国別にまとめてドン。

ドイツ

 モーツァルト   「フィガロ」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」

 
 ワーグナー   「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」 「ローエングリン」
           「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
            「ニーベルングの指環」「パルシファル」

 ダルベール   「低地」

 R・シュトラウス 「ばらの騎士」「ナクソスのアリアドネ」「影のない女」「アラベラ」
            「ダフネ」「ダナエの愛」「カプリッチョ」

 ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」 (昔々あるとき、夢見るゾルゲ2作は練習中)

 ベルク      「ヴォツェック」「ルル」

 シュレーカー   「はるかな響き」 「烙印された人々」「宝探し」

 コルンゴルト  「死の都」「ヘリアーネの奇蹟」「カトリーン」

 ブラウンフェルス 「鳥たち」

 レハール    「メリー・ウィドウ」「微笑みの国」

イタリア

 ロッシーニ   「セビリアの理髪師」「チェネレントラ」

 ヴェルディ   「マクベス」「リゴレット」「シモン・ボッカネグラ」「仮面舞踏会」
           「ドン・カルロ」「オテロ」「ファルスタッフ」

 カタラーニ   「ワリー」

 マスカーニ   「イリス」

 レオンカヴァッロ  「パリアッチ」「ラ・ボエーム」

 プッチーニ   「マノン・レスコー」「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」「三部作」
           「ラ・ロンディーヌ」「トゥーランドット」

 チレーア    「アドリアーナ・ルクヴルール」

 ジョルダーノ  「アンドレア・シェニエ」「フェドーラ」

 モンテメッツィ 「三王の愛」

 ザンドナーイ  「フランチェスカ・ダ・リミニ」

 アルファーノ  「シラノ・ド・ベルジュラック」「復活」

 レスピーギ   「セミラーナ」「ベルファゴール」「炎」

フランス

 オッフェンバック 「ホフマン物語」

 ビゼー      「カルメン」

 グノー      「ファウスト」

 マスネ      「ウェルテル」

 ドビュッシー   「ペレアスとメリザンド」

イギリス
 

 パーセル   「ダイドーとエネアス」

 スマイス    「難破船掠奪者」

 ディーリアス  「コアンガ」「村のロメオとジュリエット」「フェニモアとゲルダ」

 R・V・ウィリアムズ  「毒の口づけ」「恋するサージョン」「天路歴程」

 バントック   「オマール・ハイヤーム」

 ブリテン    「ピーター・グライムズ」「アルバート・ヘリング」「ビリー・バッド」
          「グロリアーナ」「ねじの回転」「真夏の夜の夢」「カーリュー・リバー」
          「ヴェニスに死す」

ロシア・東欧

 ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」

 チャイコフスキー 「エフゲニ・オネーギン」「スペードの女王」「イオランタ」

 ラフマニノフ    「アレコ」

 ショスタコーヴィチ 「ムチェンスクのマクベス夫人」「鼻」

 ドヴォルザーク   「ルサルカ」

 ヤナーチェク    「カーチャ・カヴァノヴァ」「イエヌーファ」「死者の家より」
             「利口な女狐の物語」「マクロプロス家のこと」

 バルトーク     「青髭公の城」

以上、ハッキリ言って、偏ってます。

イタリア・ベルカント系はありませんし、バロックも、フランス・ロシアも手薄。

新しい、未知のオペラ、しいては、未知の作曲家にチャレンジし、じっくりと開拓してきた部分もある、わたくしのオペラ道。
そんななかで、お気に入りの作品を見つけたときの喜びといったらありません。

それをブログに残すことによって、より自分の理解も深まるという相乗効果もありました。

そして、CD棚には、まだまだ完全に把握できていない未知オペラがたくさん。

これまで、さんざん聴いてきた、ことに、長大なワーグナー作品たちを、今後もどれだけ聴き続けることができるかと思うと同時に、まだ未開の分野もあるということへの、不安と焦り。
もう若くないから、残された時間も悠久ではない。
さらに、忙しくも不安な日々の連続で、ゆったりのんびりとオペラを楽しむ余裕もなくなっている。
それがまた、焦燥感を呼ぶわけだ。

でも、こうして、総決算のようなことをして、少しはスッキリしましたよ。

リングをいろんな演奏でツマミ聴きしながら。。。。
 

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2014年4月 9日 (水)

アバド追悼演奏会 ルツェルン

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4月6日に行われた、ルツェルン春の音楽祭における、クラウディオ・アバド追悼演奏会。

日本時間、同日晩に、慎んでネット観劇いたしました。

こちらは、終演後の聴衆を映したもの。

このパンフレッウトだけでも、グッときてしまう。

1

 シューベルト  交響曲第8番「未完成」 第1楽章

          ルツェルン祝祭管弦楽団

 ヘルダーリン  

          語り:ブルーノ・ガンツ

 ベルク      ヴァイオリン協奏曲

          Vn:イザベル・ファウスト

 

 マーラー    交響曲第3番 第6楽章

    アンドリス・ネルソンス指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団

                       (2014.4.6 @ルツェルン)


アバドの音楽への想いを集約したような選曲。

あと、ここに、モーツァルトとベートーヴェン、そしてブラームスとヴェルディがあれば完璧と思うのは贅沢で不謹慎すぎること。

ルツェルンのクンストハウスのホールの、あるじなしの指揮台。

2

オーケストラだけで、演奏された「未完成」の第1楽章。
痛切すぎる、涙にぬれたような未完成は、聴いてて辛くなった。
コンマス(この人、名前が出てこない)が、大きな身ぶりで主導しつつも、各セクションは、アバドの指揮でもあったように、お互いに聴きあいつつ、目線を交わしながらの演奏。

次いでのヘルダーリンは、まったく不明、わかりません。
ガンツさんは、アバドとの共演歴も長く、CDやDVDでも多く一緒に出てます。

そして、ベルク。

3

イザベルさんとのベルクは、先年、モーツァルト管とのライブが出たばかり。
CD音源での精度の高さには及ばぬものの、彼女の熱い思いを込めたベルクは、切実で、静かに始まりつつ、後半の憑かれたような演奏には、驚きと感動を禁じえませんでした。
きっと、アバドとの共演を、思い描きながら弾いていたのでしょう。

そのアバドへの想いが、とてつもなく、最高度に高まり、神々しくも、侵しがたい雰囲気にホール全体が包まれてしまったマーラー。

アバドが愛したマーラーの、しかも、「愛がわたしに語るもの」。

5

追悼を通り越して、これはもう、クラウディオ・アバドという名伏しがたい存在に対する、人々の想いの昇華であり、彼を失ったことに対する、人々それぞれの想いの結実なのかもしれません。

観て聴いて、ずっと不条理に哀しんでいた自分のなかで、オケも聴衆も、等しく涙する姿で、ようやく一体感を持って、アバドとの現生の告別を済ませることができた気持ちです。

4


いつもの金管セクション。
フリードリヒさん。
2006年の来日でのリハーサルで、マーラー6番で、見事ひっくり返った。
繰り返しでは、完全復調。
アバドに投げキッスをされて、顔を真っ赤にして、嬉しそうにしていたフリードリヒ。
いつも必ず、彼はアバドの指揮の時には主席を吹いてます!

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涙・・・・

7


そして、涙。


9


ルツェルン名物、楽員同士のハグも、今回は、涙。


8

やむことのない拍手。

ネルソンスの頬にも涙。

そして、スタンディングの聴衆にも・・・・・

オーケストラが去ったあとも、拍手はずっと、ずっと、放送中、止むことはありませんでした。

あと、数日後に、アバド仲間のみんなとお会いする予定です。

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