カテゴリー「シェーンベルク」の記事

2019年10月27日 (日)

マーラー祝祭オーケストラ 定期演奏会

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日曜午後、こんな素敵なプログラムの演奏会があるのを発見し、思い立ってミューザ川崎へ。

新ウィーン楽派の3人の作品のみ。

わたくしの大好物ともいえる作品3作です。

マーラー祝祭オーケストラは、2001年に指揮者の井上喜惟氏の提案のもと結成されたアマチュアオーケストラで、国際マーラー協会からも承認を得ている団体。
毎年の演奏会で、すでにマーラーの全交響曲を演奏しつくし、今回は、マーラーに関わり、その後のウィーン楽壇の礎をを築いた3人の作曲家、新ウィーン楽派の3人に作品を取り上げたものです。

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 ウェーベルン  パッサカリア (1908)

 ベルク            ヴァイオリン協奏曲 (1935)


     Vn:久保田 巧

 シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」(1902~3)

  井上 喜惟 指揮 マーラー祝祭オーケストラ

        (2019.10.27 @ミューザ川崎 コンサートホール)

正直言って寂しい観客の入りで、開演15分前に行って全席自由の当日券でしたが、ふだん、ミューザではなかなか体験できない良席を、両隣を気にすることなく独占し、音楽にのみりこみ、堪能することができました。

マーラーの名は冠してはいても、やはりこうした演目では、なかなか集客は難しいもの。
しかも、川崎の地でもあり、この日は、川崎名物のハロウィンパレードが同時刻に開催。

しかし、そんなの関係ないわたくしは、うきうき気分のミューザ川崎でありました。

ウェーベルンの作品1は、ウェーベルン唯一の大オーケストラによる後期ロマン派臭ただよう10分あまりの作品です。
長さ的に、コンサートの冒頭にもってこられる確率が高くて、これまでのコンサート履歴でも、ほとんどがスタートの演目でした。
しかし、いずれも、オーケストラも聴き手も、あったまる前の状態で、流れるように過ぎてしまうという難点がありまして、今回もまったく同じ状況に感じました。
なにものこりません。
1974年のシェーンベルク生誕100年の年にかかわり、翌年にかけてFMで放送されたアバドとウィーンフィルの演奏が、わたくしの、絶対的な完全・完璧なるデフォルメ演奏であります。
これが耳にある限り、どんな演奏も相当な演奏でないとアカンのですが、今回、この曲のキモもひとつ、曲の終結部の方で、ホルンがオーケストラの中で残り、残影のような響きを聴かせるところ、ここはとてもよかったです。

ベルクのヴァイオリン協奏曲。
この曲が、本日のいちばんの聴きもので、豊かな技巧に裏打ちされ、繊細でリリカルなヴァイオリンを聴かせてくれた久保田さんが素晴らしかった。
本来はデリケートでもあり、バッハのカンタータの旋律も伴う求心的な作品。
主役のヴァイオリンの求道的なソロに、大規模なオーケストラは、ときに咆哮し、打楽器も炸裂するが、このあたりの制御があまり効いておらず、久保田さんのヴァイオリンを覆い隠してしまった場面も多々あり。
ここは、指揮者の問題でもありつつ、全体を聴きながら演奏して欲しいオーケストラにも求めたいところかも。
交響曲のように演奏しては、オペラ作曲家のベルクの作品の魅力は減じてしまうのだから。。。
 でも、曲の最後の方、浄化されたサウンドをミューザの空間を久保田さんのヴァイオリンが満たし、夢見心地のわたくし、死の先の平安を見せていただいたような気がしますよ・・・・
 久保田さんのドレス、ウィーンの同時代を思わせる、パープルとホワイトの素敵なものでした!!

シェーンベルクのペレアスとメリザンド
20日前に、ここミューザで聴いた「グレの歌」とほぼ同時期の、後期ロマン派の作風にあふれるロマンティック極まりない音楽。
ここでも、トリスタンの半音階的手法が用いられ、音楽は当然に男女の物語りだから、濃厚濃密サウンドが展開。
 4管編成の大オーケストラが舞台上にならび、圧倒的なサウンドが繰り広げられ、この作品では、ときおり現れる、各奏者のソロ演奏がキモともなるが、いずれも見事なもので、前半プロとの奏者の編成の違いも判明もしたわけだが、木管、それとトロンボーンセクションとホルン群がここでは素晴らしかった。
単一楽章で、その中に、登場人物たちのモティーフを混ぜあわせながら、それぞれの場面を描き分けるには、指揮者の手腕が試されるところだが、本日はなにも言うまい。
 緊張感を途切れさせず、このはてしない難曲を演奏しきったオーケストラを讃えたいです!

演奏効果や、奏者の出番は考えずに、この素晴らしい演目の順番を、自分的には、前半後半、逆にするのも一手かも、とも。

 1、シェーンベルク ペレアス
 2、ウェーベルン  パッサカリア
 4、ベルク     ヴァイオリン協奏曲

作曲年代順にもなるし、オーケストラと聴衆の集中度と熱の入り方という意味での順番で。。

 次の、このコンビの演奏会は、来年5月に、マーラーが戻ってきて3番です。
蘭子さんのメゾで♡

コンサートの時間帯とかぶるようにして、川崎駅の反対側では、有名となった「川崎ハロウィン・パレード」が行われましたようで、駅へ向かう途上、可愛い仮装の子供たちと、吸血鬼やおっかない妖精さんや、悪魔さんたちにも出会いましたとさ・・・・

わたくしは、やっぱり、世紀末音楽の方が好き・・・・・

(10/30に渋谷でコンサートの予定あり、一日前だから大丈夫でしょうかねぇ)

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2019年10月 7日 (月)

シェーンベルク 「グレの歌」 ノット指揮 東京交響楽団

Musa-3

久しぶりの音楽会に、久しぶりのミューザ川崎。

もとより大好きな愛する作品、「グレの歌」に期待に胸躍らせ、ホールへ向かう。

今年、東京は、「グレ」戦争が起こり、大野&都響、カンブルラン&読響、そしてノット&東響と3つの「グレの歌」がしのぎを削ったわけだった。
いずれもチケットが入手できず、2回公演のあった東響にこうして滑りこむことができました。

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ホール入り口には、「グレの歌」の物語をモティーフとしたインスタレーション。
ミューザのジュニアスタッフさんたちの力作だそうです。

左手から順に、物語が進行します。
第1部~ヴァルデマール王とトーヴェ、第一部の最後~山鳩の歌、第2部~ヴァルデマール王の神への非難と第3部の狩、右端は、夜明けの浄化か愛の成就か・・・

このように、長大な難曲を、物語を通して追い、理解するのも一手ではあります。

が、しかし、シェーンベルクの音楽をオペラのように物語だけから入ると、よけいにこの作品の本質を逃してしまうかもしれない。
デンマークのヤコプセンの「サボテンの花ひらく」という未完の長編から、同名の「グレの歌」という詩の独訳に、そのまま作曲されたもの。
もともとが詩であるので、物語的な展開は無理や矛盾もあるので、ストーリーは二の次にして、シェーンベルクの壮麗な音楽を無心に聴くことが一番大切かと。

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  シェーンベルク  「グレの歌」

 ヴァルデマール:トルステン・ケルル   トーヴェ:ドロテア・レシュマン
 山鳩 :オッカ・フォン・デア・ダムラウ 農夫:アルベルト・ドーメン
 道化クラウス:ノルベルト・エルンスト  語り:サー・トーマス・アレン

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
               東響コーラス
         コンサートマスター:水谷 晃
         合唱指揮     :冨平 恭平

      (2019.10.06 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

山鳩は、当初、藤村美穂子さんだったが、ダムラウに交代。
それでも、この豪華なメンバーは、世界一流。
だって、バイロイトのウォータンを歌ってきたドーメンが農夫、オペラから引退したとはいえ、数々の名舞台・名録音を残した、サー・トーマスが、後半のちょこっと役に、という贅沢さ。

ノットの自在な指揮、それに応え、完璧に着いてゆく東京交響楽団の高性能ぶり。
CDで聴くと、その大音響による音割れや、ご近所迷惑という心配事を抱えることにいなるが、ライブではそんな思いは皆無で、思い切り没頭できる喜び。

そして、さらに理解できた、シェーンベルクのこの巨大な作品の骨格と仕組み。

全体は、ワーグナーに強いリスペクトを抱くシェーンベルクが、トリスタンやほかの劇作も思わせるような巨大な枠組みを構築。
1901年と1911年に完成された作品。
そして、第1部は、ヴァルデマールとトーヴェの逢瀬。
トーヴェのいる城へとかけ寄せるヴァルデマールの切迫の想いは、さながらトリスタンの2幕だが、あのようなネットリとした濃厚さは、意外となくて、シェーンベルクの音楽は、緊迫感とロマンのみに感じる。
トリスタン的であるとともに、9つの男女が交互に詩的に歌う歌曲集ともとれ、「大地の歌」とツェムリンスキーの「抒情交響曲」の先達。
 第2部は、闘いを鼓舞するような「ヴァルキューレ」的な章。
 その勢いは第3部にも続き、王のご一行の狩り軍団は、人々を恐れおののかせる。
この荒々しい狩りは、古来、北欧やドイツ北部では、夜の恐怖の象徴でもあり、ヴァルデマールが狩りのために、兵士たちに号令をかけ、それに男声合唱が応じるさまは、まさに、「神々の黄昏」のハーゲンとギービヒ家の男たちの絵そのものだ。
登場する農民は、アルベリヒ、道化はミーメを思い起こさせる。

こんな3つの部分を、流れの良さとともに、舞台の幅の制約もあったかもしれないが、その場に応じて、曲中でも歌手たちを都度出入りをさせた。
このことで、3つの場面が鮮やかに色分けされたと思うし、途中休憩を1部の終わりで取ったのもその点に大いに寄与した結果となったと思う。
映像で観たカンブルランと読響では、休憩は、2部の終わりに、歌手たちは前後で出ずっぱり。
こうした対比も面白いものです。

それから、今回大いに感じ入ったのは、大音響ばかりでない、室内楽的な響き。
弦の分奏も数々あって、その点でもワーグナーを踏襲するものとも思ったが、歌手に弦の各パートがソロを奏でて巧みに絡んだり、えもいわれぬアンサンブルを楚々と聴かせたりする場面が、いずれも素晴らしくて、ノットの眼のゆき届いた指揮のもと、奏者の皆さんが、気持ちを込めて、ほんとに素敵に演奏しているのを目の当たりにすることができました。

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この日のピークは、1部の終わりにある、トーヴェの死を予見し描く間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」。
それと輝かしい最終の合唱のふたつ。
この間奏曲、とりわけ大好きなものだから、聴いていて、わたくしは、コンサートではめったにないことですが、恍惚とした心境に陥り、完全なる陶酔の世界へと誘われたのでした。
ノットの指揮は、即興的ともとれるくらいに、のめり込んで指揮をしていたように感じ、それに応じた東響の音のうねりを、わたくしは、まともに受け止め、先の陶酔境へとなったのでありました。
 続く、山鳩の歌は、ダムラウの明晰かつ、すさまじい集中力をしめした力感のある切実な歌に、これまた痺れ、涙したのでした。

そして、最後の昇りくる朝日の合唱。
そのまえ、間奏曲のピッコロ軍団の近未来の響きに、前半作曲から10年を経て、無調も極めたシェーンベルクの音楽の冴えを感じ、この無情かつ虚無的な展開は、やがて来る朝日による、ずべての開放と救いの前のカオスであり、このあたりのノットの慎重な描き方は素晴らしかった。
そのあとの、サー・トーマスの酸いも甘いも嚙み分けたかのような、味わいのある語りに溜飲を下げ、さらに、そのあとにやってくる合唱を交えた途方もない高揚感は、もうホール全体を輝かしく満たし、きっと誰しもが、ずっと長くこの曲を聴いてきて、やっと最後の閃光を見出した、との思いに至ったものと思います。
指揮者、オーケストラ、合唱、そしてわれわれ聴衆が、ここに至って完全に一体化しました。
わたくしも、わなわなと滲む涙で舞台がかすむ。

前半の夜の光彩から、最後の朝の光彩へ!
愛と死、そして、夜と朝。
シェーンベルクの音楽は、前向きかつ明るい音楽であることを認識させてくれたのも、このノット&東響の演奏のおかげであります。

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先に触れた、ダムラウと、アレン。
そして何よりも驚き、素晴らしかったのが、レシュマンのトーヴェ。
モーツァルト歌手としての認識しかなかったが、最近では役柄も広げているようで、これなら素敵なジークリンデも歌えそうだと思った。
凛々としたそのソプラノは、大編成のオーケストラをものともせず、その響きに乗るようにしてホール全体に響き渡らしていて圧巻だった。
「金の杯を干し・・・」と、間奏曲の魅惑の旋律に乗り歌うところでは、震えが来てきまいました。
 対する相方、ケルルは、第1部では、声がオーケストラにかき消されてしまい、存分にそのバリトン的な魅力ある声を響かせることができなかった。
わたくしの、初の「グレの歌」体験でも、同じようにテノールはまったくオーケストラに埋没してましたので、これはもう、曲がすごすぎだから、というしかないのでしょうか。
ライブ録音がなされていたので、今後出る音源に期待しましょう。
ケルルの名誉のためにも、まだ痩せていた頃に、「カルメン」と「死の都」を聴いてますが、ちゃんと声は届いてました。

もったいないようなドーメンの農夫。
アバドのトリスタンで、クルヴェナールを聴いて以来で、まだまだ健在。
あと、まさにミーメが似合そうなエルンストさんの性格テノールぶりも見事。

合唱も力感と精度、ともによかったです。

残念なのは、2階左側の拍手が数人早すぎたこと。
ノットさんも、あーーって感じで見てました。

でもですよ、そんなことは些細なことにすぎないように思えた、この日の「グレの歌」は、完璧かつ感動的な演奏でした。
楽員が引いても、歌手と指揮者は何度も大きな拍手でコールに応えてました。
こんなときでも、英国紳士のトーマス・アレン卿はユーモアたっぷりで、観客に小学生ぐらいの女の子を見つけて、ナイスってやってたし、スマホでノットさんを撮ったり、聴衆を撮ったりしてました。

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シェーンベルクの言葉。
「ロマンティックを持たぬ作曲家には、基本的に、人間としての本質が欠けているのである」

「浄夜」を書いたあと、この様式でずっと作曲をすればいいのに、と世間はシェーンベルクに対して思った。
その後のシェーンベルクの様式の変化に、「浄夜」しか知らない人は、驚愕した。
しかし、シェーンベルクの本質は変わらなかった。
ただ、シェーンベルクは、音楽の発展のために、自分の理念を開発する義務があると思って作曲をしていた。
無調や、十二音の音楽に足を踏み入れても、シェーンベルクの想いは「ロマンティックであること」だったのだと。

10年を経て完成した「グレの歌」こそ、シェーンベルクのロマンティックの源泉であると、確信した演奏会です。

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2017年11月19日 (日)

シェーンベルク 「グレの歌」 ラトル指揮 LSO

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レインボーブリッジからの日の入りは、ビルばかりで、しかも富士山の姿もごくわずか。

日没ではなくて、日の出の眩しさ、輝かしさに最後は満たされる音楽を。

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        シェーンベルク   「グレの歌」 

  ヴァルデマール:サイモン・オニール  トーヴェ:エヴァ-マリア・ウェストブロック
  山鳩:カレン・カーギル                      クラウス:ピーター・ホーレ
    農夫:クリストファー・パーヴェス     語りて :トマス・クヴァストス 

    サー・サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団/合唱団
                      バーミンガム市交響合唱団
                      オルフェオ・カターラ

                       (2017.8.19 ロンドン、Proms2017)


ネットで全演目が期間限定で聴けるProms。
この夏も、充実の演目がたっぷりで、仕事をしながら録音し、あとで聴き返すということを何演目も行いました。

そんななかで、大いに感銘を受けたのが「ラトルのグレの歌」。
音楽監督となったロンドン交響楽団との共演も注目の演目。
そして、なんたって大好きな作品。

グレの歌を知り尽くしたラトルが、この大編成のオケにソロに合唱を完璧に束ね、そして、ラトルの棒のもとに、全員が一丸となっているのをこのライブ録音から感じ取ることができる。
音色は全般にラトル独特の硬質でありながら、ロンドン響の鋼のような鉄壁のアンサンブルを得て、ピアニシモの美しさから、巨大なフォルテまで、幾重にもわたる音の層を美しさを聴くことが出来る。
そう、そんなところまで詳細に聴き取ることができるくらいに、この放送音源は録音が優秀なのであります。ネットだからといって、まったくバカにできません。

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私にとっての、この曲のリトマス紙的なヵ所、第1部の終わりの方の間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」は、ほぼ完璧で、アバドの最後のルツェルンのものには及ばないが、適度な荒れ具合も万全で、そして極めて美しく、官能的かつ、儚さに満ちている。カーギルのメゾも良い。
歌手では、クヴァストフの登場で後半がさらに引き締まったし、オニールの若干、力任せながらタフなヴァルデマールもテノール好きを唸らせるものだ。

1900~01年に大方完成、同時期には、「浄夜」と「ペレアスとメリザンド」。
結局この時期のものが、一番聴かれているわけだが、そのあたりのことを作曲者自身の講演の話から引用します。(某応援ファンサークルのFBに書いたものを転用)

シェーンベルク著「人が孤独になるとき」1937年 より~細川晋:訳

<私が『浄夜』を作曲したのは今世紀になる前のことです。だから私は、初期の作品とされる『浄夜』で、なんらかの評判を獲得することが出来たのです。
後の時代の作品がそれほど早く評価されたことはありませんが、私が、ある種の評価を(敵の真っただ中にいるときでさえも)享受できるのはそのおかげです。
この作品は、とりわけ管弦楽版で非常によく聴かれています。
ところが、私が次のような不満を耳にする回数ほど頻繁に『浄夜』をお聴きになられている方はおりますまい。「この様式で作曲をし続ければいいのに!
 私の答は、おそらく不審に思われましょう。
私はこう申し上げました、『最初から、同じ様式や同じ方法で作曲することをやめたことなどありません。
違っている点といえば、今では以前よりももっとうまくできるということだけです。今では以前よりもよく注意が払われ、よく考え抜かれてます。』
 もちろん『浄夜』しかご存じない方が、突然、なんの予備知識もなく私の現在の様式に直面すれば、すっかり当惑されることでしょう。・・・・>

 このように、作曲者自らが、自身の作風・様式の変化を語ってますが、根本は変わらないとも。
そして、十二音技法を編み出したとき、それまでの表現主義的な音楽が成功を収めていた時期を振り返ります。

<そのころ突然、大衆は私の書いたあらゆる作品の感情表現力を忘れかけていたのです。・・・中略、そして『浄夜』でさえも忘れ去られ、私は何人かの評論家から単なる建築技師と呼ばれたのです。
この用語を用いることによって、私が直感的に作曲していないこと、私の音楽は無味乾燥で感情表現を欠いていることをほのめかせたかったのです。・・・・>

 こうして、シェーンベルクが新たな様式に踏み入れる都度、聴衆や評論家は批判や拒絶を繰り返した。
しかし、シェーンベルクは、確信をもって言います。

<私にはある使命を達成しなければならないということがわかっておりました。
表現されるべきことを表現しなくてはなりませんでしたし、自分の好むと好まざるとに関わらず、音楽の発展のために自分の理念を開発する義務があると感じていたのです。
にもかかわらず、私はまた大衆の絶対多数はそうしたことを好まないということを理解しなければならなかったのです。
 しかし、私は自分のどの音楽も初めは醜いとみなされてきたことを思い起こしました。
そしてなおも・・・・私の『グレの歌』の最後の合唱で描かれているような夜明けがやってくるはずでした。私がこの世界にもたらしたいと願うような、音楽における期待に満ちた新しい一日の始まりを告げる太陽の光が訪れることもあるに違いないと私には思われたのです。」

音楽の発展に寄与したい、新たな夜明けを切り開きたい、それを願い作曲を続けたシェーンベルクには、過去も未来も逆になく、今ある自分がつくる音楽が現在なのでした。

グレの歌の最後の壮大なエンディングのまばゆさは、シェーンベルクのずっと変わらぬ音楽への想い。
ラトルとLSOのこのライブは、それこそ壮絶な音のシャワーに、聴く私も目も耳も大きく開き、眩しさに身を震わす想いがしたものです。

このライブ、正規音源にならないものか。

そして、ラトルのベルリンフィル盤を聴き直してみる。

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シェーンベルク   「グレの歌」 

  ヴァルデマール:トマス・モーザー  トーヴェ:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
  山鳩: カリタ・マッティラ            クラウス:フィリップ・ラングリッジ
  農夫、語り手:トマス・クヴァストス 

    サー・サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                      ベルリン放送合唱団
                      MDRライプチヒ放送合唱団
                      エルンスト・ゼンフ合唱団

                       (2001 ベルリン)


16年の開きのある「ラトルのグレの歌」。
こちらは美しい精緻な響きが際立っているほか、やはりベルリンフィルの音色がする。
そしてべらぼうに巧い。
歌手も、こちらの方がオペラに近い雰囲気で、聴きごたえはある。
ことに悲劇的な色合いのモーザーは、トリスタン的だし、マッテラの清楚な歌声と、クールなオッターの山鳩も素敵なものだ。
 でも全体に、LSOのものを聴いちゃうと、踏込みが甘いような気がする。
それは、よく言われるように、録音がイマイチなことで、声はまだしもオーケストラが遠くで鳴っているように感じる。
これはもったいない話だ。
 ラトルとベルリンフィルのグレの歌は、2013年の、フィルハーモニーザール50周年のものがあって、ベルリンフィルの映像アーカイブにはなっているが、そちらの音源化もお願いしたいものだ。

しかし、この曲、ほんと好きなもんだ。
ブーレーズ盤とアバド盤が一番好き。
CDは7種と、音源4種をときおり、とっかえひっかえ聴いてる。

  仰げ 太陽を 天涯に美しき色ありて、東に朝訪れたり。

  夜の暗き流れを出でて 陽は微笑みつつ昇る

  彼の明るき額より 光の髪は輝けり!

未来を見据える、シェーンベルクの素晴らしい音楽であります。

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過去記事 

「ブーレーズとBBC交響楽団のCD」

「俊友会演奏会」

 「アバドとウィーンフィル」

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2016年6月26日 (日)

シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク アバド指揮

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関東は、梅雨まっさかり。

そして、ほぼ3ヶ月ぶりの投稿となりました。

幾多の皆さまから、暖かく、そしてご配慮にあふれたコメントを頂戴しながら、まったくご

返信も、反応もしなかったこと、ここに、あらためまして、お詫び申し上げます。

 ともかく、辛く、厳しい日々は、ブログ休止時と変わりなく続いてます。

しかも、予想もしなかったところから、いろんな矢が飛んできたりもします。

やぶれかぶれの感情は、そこから生まれ、音楽なんて、聴くゆとりも、受け入れる感情もありません。

そんな3ヶ月。

 しかし、でも、めぐってきた、「クラウディオ・アバドの誕生日」

存命ならば、今年は、この26日が、83回目。

そんな日に、アバドが生涯愛した、新ウィーン楽派の3人の作曲家を、いずれもウィーンフィルの演奏で聴きます。

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  シェーンベルク  「グレの歌」から 間奏曲、山鳩の歌

長大なグレの歌、全部を聴けないから、この作品のエッセンスとも呼ぶべき、中ほどにある場面を。
1900年に作曲を始め、第3部だけが、オーケストレーションが大幅に遅れ、最終完成は、1911年。
1913年に、シュレーカーの指揮によって初演。

後期ロマン派真っ盛りの作品ながら、最終完成形のときのシェーンベルクは、無調の領域に踏み込んでいたところがおもしろい。
1912年には、ピエロリュネールを生み出している。

むせかえるような甘味で濃厚な間奏曲、無常感あふれる死と悲しみの心情の山鳩の歌。
アバドのしなやかな感性と、ウィーンフィルの味わいが融合して、何度聴いても心の底からのめり込んでしまう。
久々に、音楽に夢中になりました。

アバドのこのライブ録音は、1992年。
88年には、マーラーユーゲントとECユースオケとで、何度も演奏していた。
そして、最後のルツェルンとなった、2013年に、この間奏曲と山鳩を取り上げた。
この最後の演奏が、掛け値なしの超絶名演で、まさに陶酔境に誘ってくれるかのような、わたくしにとってとても大切な演奏となってます。

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ルツェルンでの最後のアバド。

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  ウェーベルン  パッサカリア

ウェーベルンの作品番号1のこの曲は、1908年の作。

シェーンベルクの弟子になったのが、1904年頃で、グレの歌の流れを組むかのような、これまた濃厚な後期ロマン派的な音楽であり、グレの歌にも増して、トリスタン的でもある。

パッサカリアという古風ないでたちの形式に、ウェーベルンが込めた緻密さとシンプルさが、やがて、大きなうねりを伴って、巨大な大河のようなクライマックスとカタストロフ。

この濃密な10分間を、アバドは、豊かな歌心でもって静寂と強音の鮮やかな対比を見せてくれる。
むせぶようなホルンの効果は、これはまさにウィーンフィルでないと聴けない。

1974年、シェーンベルク生誕100年の年、ウィーンでは、新ウィーン楽派の音楽が数々演奏されたが、そのとき、アバドは、ウィーンフィルとこのパッサカリアや、5つの小品を取り上げ、NHKFMでも放送され、わたくしはエアチェックして、何度も何度も聴いたものだ。
 その音源は、いまも手元にあって、あらためて聴いてみても、若々しい感性が燃えたぎり、ウィーンフィルも、今とはまったく違う、ローカルな音色でもって、それに応じているところが素晴らしい。

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  ベルク  交響的組曲 「ルル」

新ウィーン楽派の3人のなかで、一番若く、そして一番早く死を迎えてしまったベルク。

ウェーベルンと同じく、1904年に、シェーンベルクの弟子となり、以降、ずっとウィーンで暮らすことになるベルクだが、ユダヤの出自であった師がアメリカにのがれたのに対し、ベルクはユダヤではない代わりに、その音楽が退廃音楽であるとして、ナチス政権成立後は、その活動にかなりの制約を受けることとなった。

そんななかで、生まれたのが「ルル」。
破天荒な青年時代を送り、ぜんそくに悩まされ、病弱であったベルクは、文学好きということもあって、オペラの素材には、生々しい死がからむ、いわばヴェリスモ的な内容を選択した。
それが「ヴォツェック」であり、「ルル」である。
さらに、晩年の不倫も、「ルル」の背景にはあるともされる。

人生の落後者のような軍人と、魔性の女、ファム・ファタール。
それらが、悲しみとともに描かれているところが、ベルクの優しさであり、彼独自の問題提起の素晴らしさ。

ことに、「ルル」の音楽の運命的なまでに美しく、無情なところは、聴けば聴くほどに、悲しみを覚える。
自分の苦境に照らし合わせることで、さらにその思いは増し、ますます辛く感じた。
そんな自分のルルの聴き方が、また甘味に思えたりするのだ。

「ルル」は、1928~35年にかけての作品。
間があいているのは、アルマの娘マリーの死に接し、かのヴァイオリン協奏曲を書いたためで、ベルクは3幕の途中で亡くなり、未完のエンディングを持つ「ルル」となった。

アバドは、ベルクも若い頃からさかんに指揮していて、70年のロンドン響との作品集に続き、ウィーン時代の94年に、ウィーンフィルといくつもの録音を残している。
ニュートラルなロンドン盤もいいが、やはり、より濃密で、ムジークフェラインの丸みのある響きも捉えたウィーン盤の方が素晴らしい。

ロンド→オスティナート→ルルの歌→変奏曲→アダージョ

オペラの場面をシンフォニックにつないだ組曲に、アバドは、オペラの雰囲気も感じさせる迫真性と抒情をしのばせた。
「ヴォツェック」は何度も指揮したのに、「ルル」は、ついに劇場では振ることがなかった。
ウィーン国立歌劇場時代、上演予定であったが、辞めてしまったため、その計画を実現しなかったから、この組曲盤は、アバド好きにとっては貴重なのであります。

さてさて、暑いです。

まだ梅雨だけど、そぼ降る雨はなくて、晴れか土砂降りみたいな日本。
熊本の地震もあったし、大きな地震への不安は尽きない

ばかな都知事や辞めたけど、疑惑は消えないし、消化不良のまま参院選と、まもなく都知事選が始まる。
矛盾だらけの政治に社会。
 そして、海外へ眼を転ずれば、どこか某国が、偉そうに軍船で領海侵入を繰り返し、虎視眈々と長期計画で持って、ねらってきているし、さらに英国のEU離脱が、世界規模でもって、政治経済に影響を与える流れが進行中。

今後もトピックは、まだまだ続出するでしょうが、ブログ休止してた間に、こんないろんなことが起きてしまう2016年。
「ルル」の原作ではありませんが、「パンドラの箱」が次々に開いてしまうのか・・・・

しばらく、また消えますが、もう事件事故災害は勘弁してください、神様。。。

それでは、また、いつか。

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2014年2月16日 (日)

シェーンベルク 「ペレアスとメリザンド」 アバド指揮

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クラウディオ・アバドと、若い奏者たち。

アバドは、70年代の早い時期から、ヨーロッパ各地のユース・オーケストラを率先して指揮して、指導してきました。

そのような無私の姿勢も、かつての巨匠たちにには、なかった姿でして、ポストを持っていた一流オーケストラとの集中的な活動と併せて、若い演奏家たちとの協演を、とても大切にしていました。

アバドのような一流指揮者が率先すれば、そこにスポンサーも付き、アバドを創設者とした、若いオーケストラが、いくつか生まれました。

 ・ECユース・オーケストラ(初代指揮者)              1978

 ・ヨーロッパ室内管弦楽団(創設者)              1981

 ・グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ(創設者) 1986

 ・マーラー・チェンバー・オーケストラ(創設者)       1997

 ・モーツァルト・オーケストラ(創設者)             2004


若いオーケストラ以外にも、それとあわせて、プロのオーケストラも、いくつかスタートさせていることはご存知のとおりです(スカラ座フィル、ルツェルン祝祭管)。

前回、アバドのベルリン・フィルでの全霊を傾けた活動について書きましたが、あちらは、年間の指揮数は相当数で、芸術監督としての責務もあったから、それら以外に、初期のウィーンの兼務などは不可能に近いこと。
まして、指揮するたびに、楽員さんが入れ替わるなんて、アバド・クオリティからしたら許しがたいことでしたでしょう。

それらの重責のなかで、若い奏者たちとの交流は、いかにアバドにとって、嬉しく楽しいことでしたでしょうか。

ECユース・オケとの音盤は、ザルツブルグ78年ライブが、熱気ほとばしる、熱い演奏ですが、そちらは今後またの機会として、本日は、マーラー・ユーゲントとの演奏を。

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まず、思う、この秀逸なジャケット。

  シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」

    クラウディオ・アバド指揮 グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケトラ
 


                     (2006.4 ウィーン・ムジークフェライン)

メイン曲、マーラーの4番の健康的ムードではなくて、爛熟世紀末、トリスタンの延長のようなシェーンベルクの音楽に、ぴたりと符合するんです、このジャケット。

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グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ(GMJO)は、オーストリアとハンガリーの若い奏者たちに門戸を広げる意味で、オーケストラ演奏経験を名指揮者たちのもとで積むというスタンスでスタートしました。
そしてすぐに、ヨーロッパ全域の若者を対象とし、さらに26歳までというラインも設定され、このオーケストラを卒業して、各地のオーケストラに旅立って行くというパターンが創出されました。
 このオーケストラの卒業生で造られた、マーラー・チェンバー・オーケストラについては、また次回となります。

 アバドは、若き日々から、シェーンベルク・ウェーベルン・ベルクの新ウィーン楽派の3人の音楽を、さかんに演奏してきました。
しかし、それには、諸所、段階がありました。
かつての昔は、このジャンルの音楽をコンサートのメインに据えるということは、なかなかに起こりえないこともその一因で、ウェーベルンの小品、ベルクの3つの小品、そのあたりを繰り返し演奏し続けました。

そして、有力ポストについて後、ヴォツェックやグレの歌などの、大きな作品に着手。
そんななかのひとつが、「ペレアスとメリザンド」です。

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この曲が大好きなものだから、アバドがいつ指揮するのか。
それが本当に待ち遠しかった。
かなり若い頃に、指揮はしているけれど、ベルリン時代の終わりごろに、「愛と死」のテーマのもと、集中して取り上げるようになりました。

わたくしのライブラリーには、2001年9月のベルリン・フィルライブがありまして、それはそれは、輝かしくて高貴で、美しい演奏で、ベルリンフィルの舌を巻くようなべらぼーなうまさも感じさせてくれる名演であります。
この時のプログラムは、F=ディースカウの語りによる「ワルシャワの生き残り」、P・ゼルキンのピアノによるピアノ協奏曲、というシェーンベルクの一夜なのです。
いまでは実現不能の、すごい顔ぶれです。

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(アバドには、ベルリンのフィルハーモニーとともに、ムジークフェラインもお似合い)

そして、2006年の4月には、GMJOとの欧州ツアーで、この曲と、マーラーの4番を取り上げていて、このときが、このコンビの最後の共演となっております。
結成いらい、各地を回りながら、毎年マーラーを中心に演奏してきました。
さらに、ウィーンモデルンでの現代音楽や、エディンバラでの「パルシファル」など、20年間のアバドとGMJOとの、幸せな結びつきでした。

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 (マーラーのときにも気になりました、パーカッションのかわゆい彼女)

この映像で見る若い奏者たちは、あたりまえだけど、本当に若い。
そして、その音色は、コクや音の背景も感じさせるベルリン・フィルの老練さには、足元も及びません。
 しかしながら、彼らの眼差しのまっすぐぶりは、アバドを尊敬の念を込めて見上げるその真摯な表情とともに、とても気持ちのいいものです。
ツアーを組んで、何度も何度も演奏してきているので、音楽はきっと自分の中に入り込んでいるはず。
だから、譜面を凝視しなくて、指揮者を見ながら演奏している場面の奏者も多々。
 アバドも、そんな彼らと、本当に楽しそうに指揮しています。
演奏が終って、何度も呼び返され、楽員たちもアバドに敬意を表し、立ち上がりませんが、アバドは自分ひとりが喝采を浴びることを、絶対にしない指揮者でした。
必ず、コンマスの手を取って、全員立たせてしまい、指揮台にも上がらず、一緒になってにこにこしてます。
 そんな謙虚なアバドは、相手が若者でも変わりありません。

シェーンベルクの青白い炎のような、甘味なるブルー系の音楽が、若いオーケストラの夢中の演奏から、静かに立ちあがってくるのを聴くことができました。

このDVDの良いところは、もうひとつ。

この曲の解説が冒頭に15分くらいあります。
シェーンベルクが凝って、そして編み込んだ物語の登場人物3人(ペレアス、メリザンド、ゴロー)を中心とするライトモティーフが、演奏シーンでもって紹介され、さらにブルー・グリーン・レッドの3色に置き換えることで、本編では、画面下に、その色のバーがほんのりあらわれるのです。
人物の心情がダブったりする場合は、二色になります。

観て、聴いて、シェーンベルクのペレアスへの音楽理解を深めることができるという、二重の楽しみがあるんです。

アバドが好きだった、マーラーとそのあとの新ウィーン楽派の作曲家たちの音楽。

若い奏者たちとの、生き生きとした表情は、この半年後、ルツェルンとの今思えば、最後の来日での、にこやかさとともに、病後、最良のコンディションにあったのでは、と思います。

若い奏者たちは、こうしてアバドや、ブーレーズなどの名手との貴重な体験を経て、プロ・オーケストラに旅立って行きましたし、なかなかポストもないことは、洋の東西ともに同じ。
アバドと仲間たちは、卒業生を中心とした、精鋭による、マーラー・チャンバー・オーケストラをあらたに創設したのでした。

次回は、マーラー・チャンバーとアバドの演奏をたどります。

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過去記事

 アバド&GMYOのマーラー4番

 バルビローリのペレアスとメリザンド

 ベームのペレアスとメリザンド

 エッシェンバッハのペレアスとメリザンド

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2013年11月17日 (日)

シェーンベルク 「清められた夜」 バレンボイム指揮

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低気圧の去ったあとの、急激かつドラマティックな夕暮れ時を捉えることができました。

夕焼け大好き男が、そのフェイヴァヴァリット嗜好をはぐくんだのは、この場所。

実家の家の、2階にあった自分のお部屋から見た夕焼け。

かつてはなかった建物もありますし、木々が変化して、富士山の頭も見えなくなってしまったけれど、小さな街が海から北側に開ける様子を、こうして横から眺めることができます。

右手は丹沢・大山山系、左手は吾妻山です。

夕暮れ時は、窓から見えるこんな景色を眺めながら、ワルキューレのウォータンの告別や、パルシファルのラストシーン、トリスタン、マーラーの第3や第9、ボエームやトスカ、ディーリアスの儚い音楽の数々、・・・・、あげればキリがないくらいの音楽たちとともに過ごしました。
若くて、多感な日々ですが、歳を経てしまった今では、それらはノスタルジーにしか過ぎず、この場所に戻ってこれるのは年に数回のみ。
自ら選んだ道とはいえ、都会の現実の厳しい日々にさらされる毎日です。

多くの方々にも共感いただける現実ではないでしょうか。

身をおいた境遇から脱することは易くありませんが、音楽はかつての自分に近付けてくれる、なんら変わらない存在なのです。

そう思うと、音楽を聴かないという自分は想像もできないし、音楽の数々のその存在に感謝したくなるんです。

今夜は、そんなノスタルジーかきたてる、そしてあの夕焼けが、だんだん藍色の空に染まって、やがてこの西の空に金星が輝き、暗い空にまたたいてゆくのを眺めて聴いた、シェーンベルクの「浄夜」を。

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   シェーンベルク  「清められた夜」

     ダニエル・バレンボイム指揮 イギリス室内管弦楽団

                   (1967.6@アビーロード・スタジオ、ロンドン)


後期ロマン派、濃厚な情念あふれるスウィートかつ、どこか苦みも聴いたサウンド。

全編がそんな感じの「浄夜」。

1899年の作曲、シェーンベルク25歳の若き日の作品。

わかりますよ、25歳。

だれしもあった(ある)、20代の燃え盛るような思い。

それは人生に対してであったり、仕事に対してであったり、そして恋愛に対して!

そして、年々、そんな思いはいずれも遠くになりゆき、すべてが客観的になったり・・・・。

ドイツ世紀末の詩人、リヒャルト・デーメルの詩「女と世界」のなかの同名の詩に触発されて書かれた弦楽六重奏曲が原曲で、シェーンベルク自身による弦楽合奏版の編曲の方が演奏機会が多いですね。

いまは「浄夜」という呼び名の方が一般的になったけど、わたしには、いまだにかつて呼び親しんだ「清められた夜」というタイトルが相応しく思える。

どこか古風な感じと、「静」とひた隠しにした思いと、陰なる行為の果て・・・・

  男と女が寒々とした林の中を歩んでいる。
  月がその歩みにつきそい、二人を見下ろしている。
  月は高い樫の木の梢のうえにかかっている・・・・・


原詩ですが、その彼女は、違う男の子どもをはらんでいる。
告白する女。
男はすべてを受け入れ、静かにふたり、月の光のなか歩んでゆく・・・・。

すべては月の光で清められるのでありました、なーんて。うまくいくかね?

今夜は、わたくしにとって懐かしく、カラヤンとともに、忘れ得ぬ、バレンボイムの25歳。
そう、シェーンベルクがこの曲を書いた同じ歳での録音で。

ほぼ、バレンボイムの指揮録音デビュー時の頃のものです。

ピアニストに限らず、器楽奏者が、オーケストラという大きな自分のキャンバスを得たときに、表現意欲過多となる傾向がある。
オイストラフ、ロストロポーヴィチ、アシュケナージ、エッシェンバッハなどに思い当たること。
でも、バレンボイムは、どこか違う。
そんな様相もあるけれど、最初からピアニストと別の顔として、指揮者の並々ならぬ手腕と、生まれながらの指揮者的な不敵な要素も持ち合わせていた。
イギリス室内管を指揮してスタートしたキャリア当初から、堂々たる演奏と、濃厚な表現ぶりが際立っていたように思う。

カラヤンのような綺麗な濃密さとは違い、同じ濃厚さを持ちつつも、爽やかさも持ち合わせた青年が背伸びしたような味わいを持っている。
そんな感じが、「清められた夜」には妙に相応しい。

その後のバレンボイムの歩みは、みなさまご存知のとおり。
若いころの、大人びた演奏の方が好きだな。

このレコード、「ジークフリート牧歌」とヒンデミットがカップリング。
ワーグナーが実に素敵な演奏でした。

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2013年1月31日 (木)

シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」 アバド指揮

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芝浦の運河のひとコマ。

手前は行き止まりで、納涼船やクルーザーが待機してますが、いつも気になるのは、橋梁の方が低いこと。

潮が引くと出れるんですかね。ふむ。

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  シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」

       語り:マクシミリアン・シェル

    クラウディオ・アバド指揮 ECユース・オーケストラ
                    ウィーン・ジュネス合唱団

                       (1979.8 @ザルツブルク)


1947年、アメリカ亡命時のシェーンベルクの作品。
第二次大戦後、ナチスの行った蛮事が明らかになるにつれ、ユダヤ系の多かったリベラルなアメリカでは怒りと悲しみが大きく、ユダヤの出自のシェーンベルクとて、姪がナチスに殺されたこともあり、強い憤りでもって、この作品を書くこととなりました。

クーセヴィッキー音楽財団による委嘱作でもあります。

73歳のシェーンベルクは、その前年、心臓発作を起こし命はとりとめたものの、病弱でその生もあと数年であったが、この音楽に聴く「怒りのエネルギー」は相当な力を持って、聴くわたしたちに迫ってくるものがあります。

12音技法による音楽でありますが、もうこの域に達するとぎこちなさよりは、考え抜かれた洗練さを感じさせ、頭でっかちの音楽にならずに、音が完全にドラマを表出していて寒気さえ覚えます。

ワルシャワの収容所から地下水道に逃げ込んだ男の回想に基づくドラマで、ほぼ語り、しかし時には歌うような、これもまたシュプレヒシュティンメのひとつ。
英語による明確かつ客観的な語りだが、徐々にリアルを増してきて、ナチス軍人の言葉はドイツ語によって引用される。これもまた恐怖を呼び起こす効果に満ちている。

そして、叱咤されガス室への行進を余儀なくするその時、オケの切迫感が極度に高まり、いままで無言であった人々、すなわち合唱がヘブライ語で突然歌い出す。
聖歌「イスラエルよ聞け」。
最後の数分のこの出来事は、最初聴いたときには背筋が寒くなるほどに衝撃的だった。
この劇的な効果は、効果というようなものでなく、抗いがたい運命に従わざるを得ないが、古代より続く民族の苦難に耐え抜く強さと後世の世代にかける希望を感じるのであります。

アバドのザルツブルクライブは、若い演奏家たちの熱い思いが独特の緊張感を孕んでいて感性の鋭い演奏となっております。
M・シェルの極めて劇的な語りも絶妙です。

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後年、アバドはウィーンフィルと正式に録音しておりますが、こちらはウィーンフィルの独特の音色が不思議な雰囲気を醸し出していて、かつG・ホーニクの語りは歌い手のようで、オペラティックな様相を呈しております。
こちらも好きな演奏。

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レコード時代、大いに聴いたのがブーレーズとBBCの鋭利で冷酷な演奏。
これはすごかった。
いまだに完璧です。

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2013年1月26日 (土)

神奈川フィルハーモニー 第286回定期演奏会 下野竜也指揮

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みなとみらい地区の一番好きな景色のひとつ。

この日は、月と雲もうまく収まりました。

あと14分で、コンサートが始まります。

いつもながらギリギリの行動は、我ながらどうにかならないものでしょうかね・・・。

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  ニコライ  「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲

  ハイドン   トランペット協奏曲

           Tr:三澤 徹

  ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

    下野 竜也 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

            
              (2013.1.25@みなとみらいホール)


ユニークなプログラムの1月の定期。
「マーラーとその時代、爛熟のウィーン」が今シーズンのお題目で、今回の演目は、「ウィーン」に関わりある4人と、マーラー後のシェーンベルクが爛熟の世紀末ということで、きれいに収まった感があります。

下野さんならではの曲の配置に、今シーズンの目玉のひとつとして期待しておりました。
小柄だけれど、その指揮姿は安定感ありひとつもブレません。
後ろ姿を見ている私たちには安心感があり、その指揮を見つめる楽員さんたちからは信頼感がきっとあるのでしょう。
この日も、オケの皆さんは音楽に入り込んで、時に微笑みつつ、いきいきとしておられました。

楽しくセンスあふれるニコライの序曲。
いまにも幕があがりそうな、そんな雰囲気にあふれた感興満点の桂演でした。
年初めの定期演奏会の幕開きに相応しい音楽に演奏です。

首席トランペットの三澤さんが登場のハイドンの協奏曲。
神奈フィルのマーラーやシュトラウスで、輝かしいソロを聴かせてきた三澤さん、少し緊張の面持ちで、聴くこちらも緊張が伝播してしまいそう。
でもすぐにほぐれていつもの煌めくようなトランペットを響かせてくれました。
楽器一本で、ホール一杯に音を満たしてしまう、そんなトランペットっていう楽器はスゴイと同時に怖いイメージもありますが、三澤さんの音色は優しく柔和で、耳にとても優しいものでした。
奏者泣かせの緩徐楽章。いつも思うのはドイツ国歌、すなわち同じハイドンの皇帝四重奏曲に似ていること。トランペットを静かに吹くのは難しいことと実感しましたし、罪な曲とも思いましたよ。
鮮やかで爽快に曲を閉じると、まずは心温かい仲間たちからの祝福の拍手。
メンバーがソロをつとめたときに、オケのみんなの演奏ぶりと、演奏後のうれしそうな姿をみるのは毎度楽しく心温まるものです。
ホンワカ気分となりましたハイドンでしたね。

休憩後は、お楽しみのブラ・シェン。
手持ちのツェンダー盤とエッシェンバッハ盤でもって、今回はギレリスの四重奏版も加えて徹底的に聴きこんでいどんだ本番だけに、音のひとつひとつ、旋律のどれもこれもが耳に親しく馴染んでどんどん飛び込んでくる、あっという間の40分間でした。
聴きながら痛感したのはここにある明らかな世紀末の響きで、すなわちシェーンベルクのもの。
それも当時アメリカにいて12音技法も極めてしまったのちに、若い日々の後期ロマン派の響きに帰りつくといった感があって、ウェーベルンのパッサカリアを思い起こしてもしまった。
アメリカの学生や聴衆も意識して、平易な作風を心がけるようになっていたというシェーンベルクですが、遠い故国やヨーロッパを思う望郷の響きも今回の演奏に感じることができました。

とうのは、下野さんの指揮は、哀感あふれる場面で思いきりオケを歌わせ、心憎いほどに聴いてるわたしの気持ちを刺激してくれちゃうのですから。
第1楽章の第2主題は、思わずこっちも4拍子を取りたくなっちゃうほどに、感情あふれる歌い回し。
3楽章のこれぞブラームスのロマンともいうべき、いぶし銀的な優しい旋律はじっくりと、深呼吸するかのように深々と。
はちゃむちゃなジプシー・チャルダッシュの4楽章の中にも、何度も楽器間で受け継ぎながら奏でられる哀愁のメロディーのチャーミングかつ連綿たる歌わせ方。
シモノーさんの揺さぶるような指揮に応えて、楽員さんたちも、本当に気持ち良さそうに、心を込めてのめり込むようにして演奏してましたよ。

それにしても、ブラームスの原曲が持っている楽章間・楽章内の多面性、それがシェーンベルクによって鮮やかな対比でもって引き出されているのを痛感しました。
ミステリアスな冒頭部分の音列にシェーンベルクが着目したのは別稿で書いたとおりですが、それがどんどん発展・進行してゆくさまを、オーケストラによって目の当たりするのは耳と目の贅沢なご馳走でした。
しかも、神奈フィルの美音が終始満載なのですからね。
 第3楽章の中間部に打楽器高鳴る行進曲が潜んでいるなんて思いもしません。
原曲の四重奏曲ではしっくりと収まっているんだけど、シェーンベルク版では、凶暴なくらいに突出してきて、別次元に連れていかれそう。
この楽章が印象深く静かに終わったと思うと、お一人様拍手が起きてしまいました。
それほどに、この楽章がふたつに聴こえて、もう4つの楽章が終わってしまったと思われたのでしょうか。
 2楽章も奇異なまでにふわっとした存在で、マーラーの怪しげでロマンティックな楽章のように感じられる。ここではホルンと、山本さんのチェロが素敵だったことを添えておきます。
 そして終楽章では興奮しましたね。炸裂する打楽器、唸りを上げるコントラバス、嘆き節のクラリネット、華麗なヴァイオリンソロ、どれもこれもがキマリまくり!
先に書いたとおり、下野指揮の着実な煽りは、最後、見事に爆発して、わたくしは興奮の坩堝。
思わずブラボーしちゃいましたぞ!

いやはや素晴らしいコンサートをありがとうございました。

ブラームスとシェーンベルクと下野さんと素晴らしい聴き手と、そしてそして、神奈川フィルに感謝です。

ということで、毎度お馴染みアフターコンサートで、ビールと紹興酒を飲みまくるのでした。

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今回もお疲れのところ、楽員、楽団からそれぞれお越しいただき、さらに新しいメンバーもお迎えして、終電コースでございました。

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心地よい酔いで、終電でウトウト。

満足の1日はこうして更けゆくのでした。

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2013年1月24日 (木)

ブラームス シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲 エッシェンバッハ

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もう終わってしまいましたが、ソニービル前のモニュメント。

「愛の泉」と名うたれ、募金すると、この色が数々のバージョンに変化をします。

人が多く、奇跡的にブルーのこの色を無人で撮影できました。

明日、金曜日の晩は神奈川フィルの定期演奏会。

渋いけれど、絶対的に音楽好きを刺激する攻撃的なプログラム。

  ニコライ  「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲

  ハイドン   トランペット協奏曲

           Tr:三澤 徹

  ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

    下野 竜也 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

             2013年1月25日 (金) 19:00 みなとみらいホール

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   ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

      クリストフ・エッシェンバッハ指揮 ヒューストン交響楽団

                       (1995.9 @ヒューストン)


本記事は、過去記事や別稿に書いたものを引用いたします。あしからず。

ブラームスピアノ四重奏曲第1番は、1861年の作品で、晦渋な雰囲気を持ち、難曲ともされ、とっつきはあまりよろしくない。

その76年後の1937年、シェーンベルクが大オーケストラ曲に編曲した。
そして曲は、ブラームスの交響曲第5番とも呼ばれるような風格溢れるユニークな作品に変貌した。

シェーンベルク(1874~1951)はブラームスやJ・シュトラウスが好きだったらしく、ブラームスを通じてモーツァルトのリリシズムや起伏あるフレーズ、切り詰められた構造、組織だった作曲技法などを学んだと言っている。
もともとブラームスが大好きで、大いに影響をうけたシェーンベルクですが、ごく初期の番号なしのまさに0番の弦楽四重奏曲は、まんまブラームスであります。

ブラームスから大いに後押しされていたツェムリンスキーと知己を得て、師と仰ぎ、やがては自分の妹がツェムリンスキーと結婚して義兄弟となるふたり。
ツェムリンスキーからは、ワーグナーとマーラーという巨星の影響も受けるが、ウェーベルンとベルクという弟子と仲間を得て、その音楽は無調からやがて12音技法へと進化していった。

ブラームスの主題の展開と導き方に関し、思わぬ斬新さに大いに着目していて、そうした若い頃からのブラームス好きがあいまって出来上がった作品。

ナチス台頭によるアメリカ亡命後、寒い東海岸で病をえてしまい、西海岸ロサンゼルスに移動。
1937年、当時ロサンゼルスフィルの指揮者だったクレンペラーの勧めもあってこの曲の編曲に踏み切ったわけで、当然にクレンペラーが初演者であります。

この曲の解説には必ず出てくるシェーンベルクの言葉がこちら。

①「この作品が好きだった」

②「この曲があまり演奏されない」

③「たまに演奏されたとしても、あまりよくない演奏ばかり。よいピアニストほど、大きく鳴らしてしまうので、あなた方には弦が聞こえなくなってしまう。   一度そのすべてをわたしは聞いてみたい。ゆえに、挑戦したのだ。」

②と③については、いまやそんな思いはないのではないでしょうか・・・・。

冒頭の上下するト短調の第一主題のほの暗さと斬新な音の運びにシェーンベルクは着目していて、この冒頭を、木管のミステリアスな出だしで開始し、それが弦に広がり、徐々に分厚いサウンドに展開してゆくさまを、ブラームスの語法でもって完璧に再現している。

この動機の反転ともいうべき音の配列の例は、シェーンベルクを始めとする新ウィーン楽派たちも好んで採用しており、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲、ベルクのヴァイオリン協奏曲、ルルなどにも伺うことができる。

シェーンベルクは、ブラームスのスタイルにしっかりと固執しつつ、ブラームスがいまその時代にあったならばしたであろうやり口でもって再現したと自信を持ちつつ確信しています。

その後に生まれるブラームスの交響曲第1番の前に、そのブラームスは、もう交響曲の萌芽をここに生み出していて、ベートーヴェンの10番とも言われた第1交響曲の作曲者のこのピアノ四重奏曲は、シェーンベルクによって、ブラームスの第5交響曲として現出されたのであります。

4つの楽章のしっかりとした構成感。
一方で、悲劇的な要素へ傾き、それを打破せんとする決然とした勇猛感。
神秘的なまでの抒情と最後の民族的な異国感あふれる大爆発。

ブラームスのオリジナルのこれらの要素は、シェーンベルクによってしっかりとオーケストラの中に取り込まれ、倍増もされていて耳に斬新かつ圧巻。 

ブラームスの作品にはあきらかにない響きは、輝かしい金官、とくにトランペット。
グロッケンシュピール、スネアドラム、バスドラム、シンバルなどなどの打楽器の数々。
あまりにブラームス的なおおらかな3楽章の間に挟まれた行進曲と、終楽章のハンガリーのリズムが交錯し、クラリネットや弦のソロたちが最後に哀愁あふれるハンガリーを表出したかと思ったら、激しく舞い踊るようにしてダイナミックな終結を迎えるのです。

新ウィーン楽派の音楽を思いのほか好んで演奏、録音しているエッシェンバッハ。
ピアニストとしてもブラームスの元の曲を弾いて極めた結果として、このシェーンベルク版に取り組んでいるわけで、悠揚せまらぬ堂々たるブラームスを聴かせると同時に、打楽器のギラギラとした響きがいびつに感じるくらいに、異様なるシェーンベルクサウンドも同時に鳴らしつくしているところが、いかにもこの指揮者らしいところ。
3楽章の入念な歌いぶりも聴き応えあり、終楽章のチャールダッシュでは激しい興奮を味わえます。

神奈川フィルの美音で聴くことのできる明日の演奏会。
楽しみでなりませぬ。

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2013年1月23日 (水)

新ウィーン楽派による「J・シュトラウス」

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ちょっと華やか、でもこの駅前を発し、ちょっと行くと、そこそこの場末感としみじみとした庶民感覚がしっかりと味わえる、ここは北区赤羽。

最近、お気に入りの街です。

広くはないけど、ぜんぶあり、ぜんぶ心地よく人懐こい。

Akabane2

よく見れば、AKABANE、軽くうかがえばAKB。

ナイスじゃございませぬか。

今日は、シェーンベルクを中心とする新ウィーン楽派の面々による、ウィーンの彼らのちょっと前のトレンド、先達のJ・シュトラウスのワルツの編曲バージョン作品を。

神奈川フィルの定期公演の演目のお勉強の流れで。

  ニコライ  「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲

  ハイドン   トランペット協奏曲

           Tr:三澤 徹

  ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

    下野 竜也 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

 2013年1月25日 (金) 19:00 みなとみらいホール

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  J・シュトラウス 「皇帝円舞曲」 シェーンベルク編曲

            「南国のばら」  シェーンベルク編曲

            「酒、女、歌」   アルバン・ベルク編曲

            「宝石のワルツ」 ウェーベルン編曲

      ボストン交響楽団 室内アンサンブル

                      (1978 ボストン)


あまりに有名な喜遊感たっぷりのウィンナ・ワルツの名曲の数々は、わたしたち日本人には、NHKが放送してくれるきらびやかな黄金のムジークフェラインでの映像とともに、甘く切ない休日音楽としてすりこまれ、認識されているかと思います。

そのワルツを、約40年ほど活躍期があとのウィーンの次ぎの世代がサロン風な親密な音楽にしたてあげたのがこれらの編曲バージョン。

シェーンベルクはアマチュアから発し、ツェムリンスキーの強力な後押しを経て、「浄夜」や「グレの歌」で成功を勝ち得たものの、ウィーンではなにかとユダヤの出自が足を引っ張るものとなった。
真正ユダヤ教も隠し、プロテスタントしてふるまいつつも、かくなる不遇。

一方で、ベルリンではキャバレー・ソングで小金を稼ぐこともしたが、でもやがてRシュトラウスに認められたりして、音楽界の中央に出るようになり、私的な音楽レッスンで知り合ったウェーベルンとベルクとは完全に意気投合し師弟の間柄となる。
1904年のことだが、彼らの連動作業は、1920年代、J・シュトラウスのワルツの室内楽化で三者三様の成果をもたらすこととなりました。

さらにそれぞれ、弟子は先生の作品を、先生はバッハやブラームスといった偉大なドイツの先達を、ウェーベルンはさらにバッハを極め、ベルクは同時代のシュレーカーを、といった具合に各自が驚きの編曲の成果を出しているところが、この新ウィーン楽派の類い稀な存在であります。

上記のように、この音盤に収められたそれぞれは、J・シュトラウスの原曲が1880~90年代ということで、彼らの編曲バージョンとは30~40年ほど経た頃あいのもの。
第一次大戦後、次の戦争前のある意味怪しい爛熟期にあり、マーラー後、シェーンベルクと一派たちは無調から12音へと変転の頃。
日本は、大正時代の上向き文化吸収時代でありました。

3人の個性は、さほど明確ではありませんが、ピアノやアルモニウム、打楽器の多用が目立ち、妙に不安感をつのるのがシェーンベルク編。
優しくマイルドで、原作に響きが忠実、かつロマンティックなベルク版。
室内楽的で精緻な細やかさを持ち繊細かつ透明感あふれるウェーベルン。

当時のコンマス。シルヴァーシュタインが中心のベラボーにうまいボストン響のアンサンブルのこの演奏は、まったく素晴らしくって、味わいと機能性とにかけてません。
DGの名作のひとつです。

あとアルバン・ベルクSQがこれらに自在な演奏を残してますが、それはまた別の機会に。

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