カテゴリー「レクイエム」の記事

2017年10月29日 (日)

ドヴォルザーク レクイエム ケルテス指揮

Shiba_park

カメラの絞り機能が不全で、かえってこんなに幻想的な写真が撮れました。

あざみの花もぼけてしまい、影に覆われ、ぼんやりとした夕焼けとちぎれた雲が寂しい。

Dvorak_requiem_kertesz

     ドヴォルザーク   レクイエム op.89

 S:ピラール・ローレンガー        A:エルジェーベト・コムロッシ
 T:ロバート・イロースファルヴァイ   B:トム・クラウセ

   イシュトヴァン・ケルテス指揮 ロンドン交響楽団
                      アンブロジアン・シンガーズ
                      合唱指揮:ジョン・マッカーシー

              (1968.12 @ロンドン、キングスウェイホール) 


自分の持つCDは、ダブルデッカのもので、こちらの画像とは違いますが、子供時代に見た、このジャケットが、やたらと思い出にあるので、デッカの初出時のものを拝借しました。
ロンドンレコードから出た邦盤は、大きな白枠ベースの中に、この絵画。
 1971年ごろに出た「ケルテスのドヴォルザークのレクイエム」は、レコ芸のオレンジ色のロンドンレコードの広告で、大きな紙面を割いてのものでした。

この絵画は、ブリューゲルの「十字架を担うキリスト」で、手前に磔刑に向かうイエスを嘆き、悲しむマリア一行がまず目に入る構図。
十字架を負うイエスは、連行する軍と日常の生活を送る人々の中に埋もれるようにして見える。右奥のサークルは、処刑場だ。
人々は、ブリューゲルの生きた16世紀の頃の存在になっている。
背景や、カラス、全愛の構図等、とても恐ろしく、そして悲しみに満ちた絵画に思います。

ドヴォルザークのレクイエムは、死の恐ろしさや、悲しみもあるけれど、もっとそれ以上に優しく、神への帰依と信頼にあふれた孤高の作品でありました。。。


音楽聴き始めの少年にとって、ドヴォルザークは新世界だし、ケルテスも新世界、レクイエムは、モーツァルトとヴェルデイしか、存在すら知らない。
なのに、ドヴォルザークのレクイエムって、しかも2LPでやたらと長そう・・・・

そんな思いをずっと引きずって、同じドヴォルザークの「スターバトマーテル」はやたらと聴くけれど、レクイエムは、常に遠い存在だった。
 遅ればせながら、この夏に、「ドヴォルザークのレクイエム」は、わたくしの心にピタリと符合するようにして、近しい存在としてやってきてくれました。

今年から事務所詰めが多くなったので、音楽を垂れ流し。
ドヴォルザークの全作品を、手持ち音源と、ネットで聞き流してやろうと思いつき、2か月かけてやってみましたよ。
イマイチ初期交響曲や、どれもこれもおんなじに聴こえちゃう室内楽も、あらためて体系的に、そして作曲順に聴いてみれば、それぞれが、ドヴォルザーク特有のメロディとリズムにあふれていることが日に日にわかるように。
 今回、とくによかったのが、弦楽四重奏や五重奏系、それと抒情的なピアノ曲たち。
それと味わい深いオラトリオ、ミサ、テ・デウム、聖書の歌などの声楽作品に、むにゃむにゃ系のチェコ語は難解ながら、メロデイふんだんなオペラ(さすがに音源なしもあります)。

そんななかでの「レクイエム」は手持ち音源のケルテス盤と、エアチェック音源の、ルイゾッテイ盤(ベルリンフィル)、youtubeにあった、パリの教会での演奏会を繰り返し視聴。

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1884年に、ロンドンのフィルハーモック協会の招聘で、ロンドンに赴き、「スターバト・マーテル」を演奏して、大絶賛され、ここからイギリスとの蜜月が始まるドヴォルザーク。
交響曲第7番や、8番もこうして生まれた。
 同時に、数々の名誉にも授かった充実のこの時期。
オーストリア=ハンガリー帝国皇帝から鉄王冠章、チェコ芸術アカデミー会員への推挙、プラハ音楽大学教授、カレル大学名誉博士・・・
 こんな時期に、バーミンガム合唱音楽祭からの委嘱で、1890年、10か月をかけて作曲されたのが「レクイエム」。

7年前に書かれたヴェルデイのレクイエムのことは、きっと頭にあったドヴォルザーク。
編成や、音楽の規模は、ほぼ同じ。
 特定の人物(マンゾーニ)の追悼の意図をもってかかれたヴェルディのそれは、死者のためのミサ曲であるレクイエムのとして、劇的かつ歌謡性にも富んだ壮大な作品。
ドヴォルザークの方は、特定の追悼の対象はなく、熱心なカトリック信者だった作曲者の内面の吐露であるとともに、シンフォニストとして、巧みな筆致を駆使した総決算的な作品なのだ。

通常のラテン語典礼文を使いながら、切り分けや、区切りを自由に行っていて、四角四面のレクイエムでもない。
ディエスイレはありますが、ヴェルディのような咆哮はなく、短めで簡潔。
むしろ、のちのフォーレ的なスタンスも後半には感じる。

曲は、大きく分けて二部。
1部は、入祭唱たるRequiem Aeternamから始まり、昇階唱、ディエスイレ、トゥーバ・ミルム、レコルダーレ、呪われしものConfutatis、そしてラクリモーサで締める。
 第2部は、奉献唱Offertorium、Hostias、サンクトゥス、Pie Jesu、アニュス・デイ。
ここでは、1部のラクリモーサのなかの、Pie Jesuが再現されるところが、この作品のキモかもしれない。
 冒頭にあらわれる旋律が、モットーとなって、全曲の重要な局面で使われていることで、大曲を引き締め、統一感を持たせることにもなっている。

1部は、峻厳できびしい雰囲気が漂い、神への痛切な祈りと死への涙にあふれているが、2部では、優しいドヴォルザークの目線を感じる、慰めと静かな祈りの世界。

合唱は、しばし、アカペラで歌い、ソロ歌手たちの扱いも、絶叫シーンはなく、静かな語り口のものが多い。
オーケストラも中間トーンで渋いが、よく聴きこむと、ソロや合唱を引き立てるとともに、単なる合いの手ばかりでなく、いろんなフレーズが、いろんな楽器の巧みな使い方で飛び出してきて、オケだけに注目して聴いてみても、大いに楽しめた。
とりわけ、2部が素晴らしいと思ってます。
Pie Jesuから、Agnus Deiの終曲ふたつは、絶品で、しんしんと深まる夜、静かに聴くに相応しく、心、休まります。
      ------------------

録音時38歳だったケルテスの熱い指揮ぶりと、緻密な全体を見通す指揮ぶりとが、こうした大曲では、見事に発揮される。
有能な指揮者のもとに、オーケストラも歌い手たちも、完全一体化している。
ソロでは、ローレンガーの清らかな声が素敵だ。

この録音の5年後には、43歳で、テルアヴィブの海で亡くなってしまうケルテスだが、イスラエルフィルの客演に、ケルンから同行していたのが、バスの岡村喬生さん。
一緒に海に行ったのが、その岡村さんと、ルチア・ポップとイルゼ・グラマツキとのこと、岡村さんの著書に、その顛末が詳しく、ネットでも読めます。
読んでて、涙がでました。
そのときのイスラエルフィルでの演奏、ハイドンのネルソンミサも音源化されてます。

ケルテス、いい指揮者だった。
存命してれば、とも思いつつ、ドヴォルザークのレクイエムを聴きました。

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2015年8月13日 (木)

ヴェルディ レクイエム バーンスタイン指揮

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前回の記事(ジル・レクイエム)のときに書いた、わたしの育った町にある幼稚園のカトリック教会。

とてもシンプルで、整然とした美しさ。

宗派は異なっても、教会とは、このように静かに、自分に向き合うところでもあるから、ありすぎない方がいい。

レクイエムは、カトリック典礼のミサで、その作曲者の奉じる宗派によっては、「レクイエム」とは無縁の人もいました。
だから、おのずとカトリックの多い、南の方の国にレクイエムは多いように思います。
 それでも、レクイエムの持つ、追悼と癒しの観念から、ブラームスやディーリアス、ブリテンのように、典礼文から離れた作品を残したり、声楽なしで、楽器だけのレクイエムを残した方もたくさんいます。

今日は、ブリテンとともに、毎年、この時期に聴く、ヴェルディのレクイエムを。

この作品こそ、ラテン系の正統レクイエムの最高傑作です。

Verdi_bernstein

    ヴェルディ  レクイエム

         S:マルティナ・アーロヨ   Ms:ジョセフィーヌ・ヴィージー

   
         T:プラシド・ドミンゴ      Bs:ルッジェーロ・ライモンディ

    レナード・バーンスタイン指揮 ロンドン交響楽団
                        ロンドン交響合唱団
                        ジョン・オールディス合唱指揮

               (1970.2.25 @セント・ポール教会、ロンドン)


毎夏聴く、ヴェルディのレクイエムですが、バーンスタインのヴェルレクは、記事として、今回が2度目。
最初は音源、今回は映像記録です。

1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を退任し、その活動の軸足を、ヨーロッパに向けだしたのが、1970年。
 もちろん、バーンスタインに一目惚れし、相思相愛となった街、ウィーンは、60年代半ばより定期的に客演する関係でしたが、ベートーヴェン生誕200年の記念の年、1970年あたりからは、さらに蜜月の度合いを深めていきました。

 同じく、バーンスタインを愛したオーケストラであり、愛した街がロンドン。
ロンドン交響楽団とは、桂冠指揮者の関係を得て、多くの録音や、音楽祭への出演があり、このオーケストラの豊かなフレキシヴィリティに、バーンスタインが大いなる共感と親近感を抱いてました。

1970年2月にバーンスタインは、そのロンドンに腰を据えて、ヴェルディのレクイエムに取り組みました。
 解説書の記録によれば、2月19~21日に、ロイヤル・アルバート・ホール(RAH)でリハーサル、22日にコンサート本番、23、24日に、レコーディング。
25日には、場所をセント・ポール教会に移して映像収録。
26日に、RAHに戻って録音の手直し。
という具合に、1週間に渡って密なる取り組みがなされたようです。

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すでに取り上げた、音盤を聴いての印象と演奏の内容は、基本は、同じに思います。

演奏時間90分は、他盤にくらべて長め。
 後年、ぐっとテンポが粘りぎみになる時代のものにくらべると、遅さと速さが同居していていながら、じっくりとやる場所は、思い入れも深く、早いヶ所は、より速く、その対比が実に鮮やか。
 そして、全編にあふれる覇気は、なみなみならず、こんなに、気合いと、強い思いを感じさせる演奏はありません。
 それらが映像で、バーンスタインの熱い指揮ぶりを見ながら聴くとなおさら。

 全曲、暗譜で指揮をするバーンスタイン。このとき、52歳。
まだお腹も出てないし、髪の毛も白さはほどほどで、銀髪の映画俳優のようなカッコよさ。
怒涛のように、のたうち、そして軽やかに踊るように舞い、祈るように、心を込めたその鮮やかな指揮ぶり。
この時代のレニーの本質の姿を本当に久しぶりにつぶさに見て、感激してしまいました。

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 前にも書きましたが、この映像は、NHKが、71年か2年の、8月のこの時期に放送しまして、当時、中学生だった自分は、「ヤング・ピープルズ・コンサート」で、バーンスタインの指揮は、つぶさに観て知っていたのですが、ここで、彼の指揮する「ディエス・イレ=怒りの日」の音楽の凄まじさに、目も耳も、すっかり奪われたのを覚えてます。

 以来、この作品を愛し、永く聴いてきましたが、劇的な激しさとともに、そこにある歌心と優しい抒情、その方にこそ、感銘を見出すようになって久しいです。

 そんな目線や聴き方で、一見、派手なバーンスタインのヴェルレクを聴くと、真摯な独唱者や合唱たちの姿も相まって、熱くて切ないほどの祈りの気持ちが響いてきます。

 ことに、「ラクリモーサ」は、バーンスタイン独特の世界が展開され、痛切なる思いに浸ることとなりました。
 二人の女声の歌声にしびれる「レコルダーレ」、若々しいドミンゴの歌う「インジェミスコ」、滑らかな美しいライモンディの「コンフタティス」・・・、いずれも、イタリアオペラ的でない、バーンスタインの流儀のカンタービレは、歌と感情に即した、音楽の万国人たる、ユニークな感じ方ではないかと・・・。

 そして、太鼓が教会の残響を豊かに伴って鳴り渡る「ディエス・イレ」は、CDのコンサート会場のものとは違って、勇軍かつ、劇的な雰囲気を作りだしてます。

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 若かった歌手たちのなかでは、わたくしは、J・ヴィージーのまっすぐの歌声が、その気品あふれるお姿を拝見しながら聴くことによって、一番よかったです。
カラヤンの選んだフリッカである彼女、まだ85歳で健在のようです。

 アーロヨさんも、まだ78歳でお元気の様子で、声のピークは、この頃ではなかったでしょうか。ヴェルディ歌手としての本領を感じますが、もう少し突き抜けるような軽さが欲しいかしらね。

 で、まだまだ元気のドミンゴとライモンディの同年コンビは、73,4歳。
おふたりともに、その美声は、後年よりもより引き立ってますし、そのお姿も若い。

 話は、少しそれますが、かつての昔は、オーケストラの中には、女性奏者を入団させず、男性だけのオーケストラが多くありました。
 今では、とうてい考えられないことですが、歴史的にもいろんなワケがあって、そうした妙な伝統として、近年まで守りぬかれていたことですが・・・・
 その代表格は、ウィーン・フィルとベルリン・フィル。
ベルリンでは、ザビーネ・マイヤーを入団させようとしたカラヤンとオーケストラの間で、大きな軋轢が生まれたことは、高名な話です。
 さらに、ニューヨークフィル、ロンドン響、レニングラードフィル、読響なども思い浮かびます。
 今回、映像により、ロンドン響の演奏姿を拝見したわけですが、たしかに、男性奏者だけ。
83年に、アバドとの来日公演を全部聴きましたが、記憶は不確かですが、そのときは、女性奏者はちらほら。
しかし、その公演にもいたお馴染みの、有名奏者たちが、この70年の演奏にも、見受けることができて、とても懐かしかったです。

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バーンスタインが健在なら、いまや96歳。
今年は、没後15年を迎えます。

年月の経るの早いものです。

この映像の冒頭に、バーンスタイン自身のナレーションが入ります。

1940年の4万人の死者を出したロンドン大空襲において、被災しなかった、セント・ポール教会で、多くの爆撃を受けた人々に哀悼をささげる。
 (あらゆる)戦禍と迫害は、忌まわしい非人道的行為であり、過去の犠牲者のみならず、現代と未来の我々のためにも、この演奏を捧げる。
過去の死者のためのみらなず、いま、生きる者の苦悩のためにも・・・

2度の世界大戦、朝鮮、ベトナム、ナイジェリアなどの戦争の名をあげ、さらに、指導者の暗殺などにも言及しています。

ヒューマニスト、バーンスタインならではの思いの発露でありましょう。

 あくまで、私見ですが、この当時は、敗戦国日本への大空襲や原爆にふれることは、きっとタブーだったはずだし、その実態も隠されていたものと思われます。
東京大空襲だけで、11万7千人、二度の原爆で20万人超、全国に空襲は広がり、50~100万とも・・・・。
 情報公開がしっかりしているアメリカから、最近になって、驚きの報がいくつも出てきます。

バーンスタインは、のちに、広島に訪れ、心からの追悼の念を持って、みずからの「カデッシュ交響曲」を指揮しました。

 レニーが、いま健在だったら、テロや憎しみ、隣国同士の恨み、それらを見て、どのような行動を起こすでしょうか・・・・。

過去記事 ヴェルディ「レクイエム」

「アバド&ミラノ・スカラ座」

「バーンスタイン&ロンドン響」

「ジュリーニ&フィルハーモニア」

「リヒター&ミュンヘン・フィル」

「シュナイト&ザールブリュッヘン放送響」

「アバド&ウィーン・フィル」

「バルビローリ&ニューフィルハーモニア」

「カラヤン&ベルリン・フィル」

「アバド&ベルリン・フィル」

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2015年8月11日 (火)

ジャン・ジル レクイエム コーエン指揮

Uminohoshi_1

わたくしの育った町にある幼稚園のカトリック教会。

海の松原が、風で鳴る音が聞こえる家に住んでました。

そして幼稚園は、さらに海に近いところに2か所って、わたくしが通ったのは、ここではなく、西にほんのちょっと行ったところにある、プロテスタント系の幼稚園。

こちらの、カトリック系のほうが、敷地も広く、日曜学校でも、クリスマス会でも、ちょっと派手で、子供心に羨望をいだいたりしたものでした。
 50年も経って初めて、こちらの教会の中に、足を踏み入れてみましたが、思いのほか、簡潔で、とても清潔でした。
その様子は、また次の投稿で。

Umi_gilles

   ジャン・ジル   レクイエム

     S:アンヌ・アゼマ     CT:ジャン・ニルエ
     T:ウィリアム・ハイト   Br:パトリック・メイソン

 ジョエル・コーエン指揮 ボストン・カメラータ
                 エクサン・プロヴァンス音楽祭合唱団
                  アンサンブル・ヴォーカル・サジッタリウス
                  プロヴァンス・タンブール・アンサンブル

  (1989.7、1992.8 @サン・ソブール大聖堂 エクサン・プロヴァンス)


ジャン・ジルは、17世紀の南フランスの作曲家。

1669年生まれ、1795年没と、その生涯は、わずかに36年。
生来、虚弱な体質であったそうで、残された作品も、モテットが15曲、詩篇7曲に、この大作レクイエムのみ。
以下、かつてのレコード解説を一部、参考にしてます。

 いうまでもなく、ルイ14世の治下、パリ・ヴェルサイユに政治・文化が一極集中するなか、多くの音楽家は、都に集まり、華やかなヴェルサイユ楽派を形成しました。
 同時代の作曲家に、リュリ、ラモー、ドゥラランド、カンプラなどがいます。
そんななか、ジルは、南フランスから出ることなく、教会の音楽長として、プロヴァンスや、ラングドック地方の教会のために音楽を残し、演奏し、そして、最後は、トゥールーズの教会での職でもって亡くなります。

体が弱かったことや、生家が貧しかったことなども要因したのでしょうか。
この早世の、作曲家ジルの名前は、しかし、このレクイエム1曲でもって、音楽史に大きな足跡を残したものといえます。

同じ、プロヴァンス出身のカンプラは9歳上で、兄弟子にあたり、ジルのことを、とても可愛がり、このレクイエムもとても大切にあつかいました。
 カンプラのレクイエムも、とても美しい作品ですが、そちらの作曲は、1695年頃と言われてまして、こちらのジルが1694年。
 カンプラは、ジルのレクイエムが世に広まるよう大いに努め、カンプラの死後、フランス王族の葬儀や、ラモーの葬儀などにも演奏され、人々に愛されたといいます。
 さらに、南フランスでは、ジルとカンプラの、ふたつのレクイエムをミックスして演奏するようになり、それは、フランス革命が起きるまでの習慣となったそうです。

 ジルとカンプラのレクイエムは、わたくしは、もう30年も前でしょうか、ルネサンス・古楽の音楽にハマっていた頃に、レコードで、同時に購入しました。
それは、ともに、ルイ・フレモーの指揮で、いまでは、とうてい考えられないような、ロマンティックな、ヴィブラートギンギンの演奏でした。
 でも、それらは、この二つの美しいレクイエムが、南フランスの音楽のカテゴリーにあることをとてもよく理解させてくれるものでもありました。
さらにいえば、「ディエス・イレ」を持たない、鎮魂と救いの眼差しを大切にした、癒しのレクイエムという点で、ずっと後年の、フランスのレクイエムフォーレデュルフレにそのスタイルは引き継がれているのであります。

 その後に、古楽分野としての、ちゃんとした(?)演奏をCDで購入し、耳の膜が、1枚も1枚もそぎ落とされたような、新鮮かつピュアな思いで、さらに、これらのレクイエムの優しさが、一段と身にしみるようになりました。

 このジルのレクイエムは、南国ムードたっぷり。

曲の冒頭に、プロヴァンスの太鼓が葬送の開始のようにして、連打されます。
それは、痛切というよりは、どこか明るく、海から響く風音のようです。
このCDでは、曲の冒頭と最後に、それぞれ、フェイド・イン、ファイド・アウトで、プロヴァンスの現地の太鼓軍団が実際に演奏しているものが収録されてます。(なかほどにもあり)

そして、かつてのレコードではなかったことですが、ミサの典礼にのっとり、「ジルのレクイエム」の合間合間に、グレゴリオ聖歌の死者のためのミサが、挿入されてます。
これが、実に教会で体感しているような雰囲気あるものです。
 しかし、結果として、CD1枚の演奏時間がかなり長くなって、冗長さを覚えるのも事実です。
ですから、わたくしは、ときに、ジルの部分だけを抜き出して聴きます。
 曲は、全般に、明るい色調で、屈託なく、爽やかです。
レクイエムなのに、爽やかという表現もなんですが、南の風が吹き抜けるような、ゆるやかな優しさなのです。
そして、カンプラとも通じる、典雅で、繊細な抒情的な曲調。
巧みに、統一された音形は、全体のなかで、豊かな構成を伴い、品よくまとめられていて、起承転結的な聴後感もあって、レクイエムなのに、幸せな気持ちになります。
 まさに、癒しなのでしょうね、これが。

ひさびさに、取りだしたコーエンの演奏ですが、もう20年も前の演奏。
その先も、進化した古楽演奏。
変な言い方ですが、もっと、新しい解釈でも、こんど聴いてみたいものです。

過去記事

 「カンプラ レクイエム  ガーディナー指揮」

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2011年10月 4日 (火)

モーツァルト レクイエム マリナー指揮

Higanbana2011_1

涼しくなったり、暑くなったり・・・・、そんな代わる代わるの毎日で気が付いたらもう10月。
そして、気が付くと各所に彼岸花が咲いてました。

曼珠沙華とも呼びますがね、わたしはそちらの、少し禍々しい名前よりは、彼岸花という名称の方が好き。

例年、今頃の記事には、彼岸花の写真を飾ってますので見てみてください。
群生したり、白かったりで、美しい花に思います。

Higanbana2011_2

この花の花言葉は、wikしたら、「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」・・・、とありました。

なんだか、いかにも秋の寂しい草花っていう感じ。

だからという訳じゃありませんが、今日はモーツァルトレクイエム

Mo_requiem_marriner

モーツァルト最後の作品、レクイエムはご存じのとおり未完に終り、その補筆補完を弟子のジェスマイアーが行ったのであるが、これまで幾百と聴いてきたこのレクイエム(いわゆるモツレク)。
レコードで聴いた場合、A面までが、曲でいうと「ラクリモーサ」あたりまでが、モーツァルトの手になる部分。
そのあと、B面は弟子の補筆・作曲部分ほとんど。
私が、このレクイエムに開眼したのは中学生の頃、たびたび取り上げますコンサートホール・レーベルの1枚で、ピエール・コロンボ指揮によるウィーンの楽団の演奏。
飽くことなく聴き、いまだに刷り込みだったりします。
そしてとかく稚拙と言われちゃうB面も、公平に聴いてました。

ずっと後年になってからです。
ジェスマイアー部分がイマイチではないかということを、話に聞くにつれ読むにつれ気が付いたのは。
でも、本心では、ずっと聴きなじんできた、トータルとしての「モーツァルトのレクイエム」であり、そんなことは別にどうでもいいことと、実は今でも思っています。

1971年にミュンヘンのヴィオラ奏者であり、かのコレギウム・アウレウムのメンバー、そして当地の大学教授フランツ・バイアーが行ったジェスマイアー版への補作。
レヴィン版など、ほかにも出ているが、いまのところ、ジェスマイアーを認めつつ、よりモーツァルトらしさを求めた版としては、このバイアー版による演奏がその他バージョンとしては一番多い。

コレギウムアウレウムのレコードはあったが、このバイアー版をメジャーとして大々的に取り上げ、大いに宣伝し売れまくったのが、今日聴くマリナーの演奏。

  S:イレアナ・コトルバス  Ms:ヘレン・ワッツ
  T:ロバート・ティアー    Bs:ジョン・シャーリー・クヮーク

    サー・ネヴィル・マリナー指揮 
        アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ&コーラス
                             (1977.ロンドン)

学究肌的な模索的取り組み具合を一切感じさせない、真摯でかつ気負いのないマリナーならではのモーツァルト。
マリナーのモーツァルトらしく、すっきりと見通しよくって、テクスチュアが透けて見えて、しかもとてみ親近感あふれる演奏。
モツレクに親近感などと、いささか不具合かもしれないけれど、遠くで鳴っているようで、実は身近にあるモツレク、といった感じで、わたしが昔から聴いてきた、先の深刻なコロンボ盤や壮麗なカラヤン、厳しいベーム盤などと比べれば歴然だったのでありました。

そして肝心のバイアー版の違いは・・・。

ジェスマイアー版を基本としているので、楽譜でも対比してじっくり検証しない限り、明確な違いは個々には申し述べることができません。
でも、過剰な伴奏部分の見直しが核にもあった由で、たしかに耳で感じるのは、全体としてのすっきり感と透明感。
それと、単調な繰り返しに終始していたホザナの終結部が、とても宗教的な様相に変わってそれらしくなった。
あと、ティンパニやトランペットの追加によるピリオド的な効果。

でも、モツレクはモツレク。
どんな版でもいいんです。

当時人気のコトルバスの情味に満ちたソプラノと、ほかの抑制の効いた英国歌手たちとのバランス感が少し気にはなるが、英国のモーツァルトとも言ってもいい、サー・ネヴィルのモツレクは、後年のジェスマイアー版による再録音よりも、ずっと気に入っている。

今週の神奈川フィルのモツレクは、どうなるのでしょう?
かつてシュナイト師は、バイアー版。
気負いなく、すっきりと聴かせて欲しいものです。

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2010年8月 7日 (土)

ヴェルディ レクイエム シュナイト指揮

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先週末の、西宮「キャンディード」観劇前に訪問した「アンネのバラの教会」。
アンネの日記につづられた平和と愛への思いを受け継ぐべく設立された教会。
庭には、アンネの立像が立ち、そのまわりには、「アンネのバラ」と呼ばれる黄金に近い色のバラがたくさん植えられている。
もうシーズンは終わってしまって残念。
こちらで見てみてください。

Anne_5
西宮の山の手に建つちょっと可愛い教会。
かなりの坂道を登り、もう汗だく。
でも、ここは高台、さわやかな風が吹き抜けていました。

Verdi_requiem_schneidt
 毎年、夏のこの時期に聴きたくなる曲。
ヴェルディレクイエム
何度も書くことで恐縮ですが、中学の時に、テレビでバーンスタインの指揮する演奏をテレビで観たのが8月で、これがきっかけ。
飛んだり跳ねたり忙しいバーンスタインだったけど、祈るような指揮姿にこそ、レクイエムの本質を見た思いだった。

いくつも音源を揃えたけれど、やはりアバドとスカラ座のものが一番であることは自分のなかで変わりがない。

今回は、見つけたとき、こんなのあったのかと驚いた、ハンス・マルティン・シュナイト指揮のCD。
シュナイト師のイメージは、どうしてもバッハを中心とするドイツの宗教音楽のスペシャリストということになってしまうが、教会の少年合唱団からスタートし、オルガンも修めたことから宗教と教会音楽が身にしみついている事実からである。
そして、急逝したリヒターのあとを継いで、ミュンヘンバッハの指揮者になったことも、そのイメージを強める事実であろう。

でも、シュナイト師は、オペラ指揮者としても活躍したし、コンサート指揮者としてもいろんな録音を残しているはずだ。
そして、我々がよく知っているシュナイト師の顔は、日本を愛した滋味あふれる姿である。
時に厳しすぎて、演奏者を震え上がらせたらしいけれど、出てくる音楽はいつも優しい歌に満ちあふれ、聴く者を大きく包みこんでしまうような大人であった。

    S:シャロン・スゥイート    Ms:ヤルド・ファン・ネス
    T:フランシスコ・アライサ  Bs:サイモン・エステス

  ハンス・マルティン・シュナイト指揮ザールブリュッケン放送交響楽団
                       ミュンヘン・バッハ合唱団
                       フランクフルト・ジングト・アカデミー
                         (1988.10.30@ミュンヘン)

この演奏は正直素晴らしい。
イタリア人が一人も見当たらない演奏であるが、ここにあるのはまぎれまない歌心と真摯なる祈りの音楽であり、たまたまそれはヴェルディの音楽であることにすぎない。

だからもっともヴェルディ的な、インジェミスコではテノールのアライサは押さえに抑えられていて、清潔な歌に徹しているのが面白い。
華やかなサンクトゥスも、流線的な流れるような解釈で、少しも浮つかない。
よって、多くの聴き手が期待する、怒りの日の爆発力とドラムの迫力は、ここではおとなしめで、足音はドタドタするけれど、少しも威圧的じゃない。
次ぐトゥーバ・ミルムでは、ラッパの付点が感じられるような特徴的な吹かし方で、まさにくしきラッパを思わせる克明なもの。迫りくる地獄の裁きをいやでも感じさせる迫力も次いで現出する。

ゆったりとしたラクリモーサは、重い足取りで涙にくれているようだが、音色は不思議と明るい。そしてアーメンをもう止まるくらいにじっくり歌う。
哀れなる我、レコルダーレ、ルクス・エテルナ・・・、これら、ヴェルレクの中でも美しい場面は、それこそ歌と温もりに満ちていてずっと浸っていたい耽美すれすれの演奏。

劇的な解釈や抒情的な場面は、聖句の意味するところに重きを置いて施しているようで、こうすることによって、ヴェルディの歌心が不思議とシュナイト節と渾然となってしまい、ユニークなレクイエムが出来あがっているのだ。

女声ふたりは素晴らしいし、バランスもいいが、アライサは苦しそうだし、エステスはちょっと異質で時おりオランダ人が顔を出すのがおもしろい。
合唱の精度はもう完璧です。さすがにミュンヘンバッハ

壮絶でやや重いリヒターの演奏と比べ、少し歌に傾きすぎるくらいに祈りをそこに乗せてしまいヒューマンな演奏としたシュナイト。
ヴェルレクは、どんな演奏でも素晴らしい。

Anne_4_2 

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2010年8月 6日 (金)

ベルリオーズ レクイエム 小澤征爾指揮

Hiroshima_1

去年訪問した広島の平和記念公園。
修学旅行生や、外国のお客さんがいつもたくさん。
どんな人間でも、ここへ行ったら無口になり、同じ人間が造り出す戦争の凶器への怒りを感じることになる。

Hiroshima_3

8月は、日本の戦後のスタートラインの月でもあるが、日本が世界にも例のない悲惨な体験をしてしまった月。
86(ハチロク)、89(ハチキュウ)のことを、もっと世界に声を大にして言うべきとも思うし、一方で、他国になしてきたこともしっかりと認めて、みそぎを続けるという、そんな強いしたたかさも必要で、日本人にはなかなか持ちえない気質かもしれない。
 その点、同じ敗戦国でも、ドイツ人は明快であり続ける国民性で、自己主張とともに、自己批判精神もはっきりしてて豊かだ。
いい悪いがはっきりしてる。

Berlioz_requiem_ozawa

小澤征爾が、渡仏してコンクールをいくつも突破していったのが50年前。 
 一人の才能ある音楽家として、こいつはいい、と認められた日本人。
師事した名指揮者たちの中にシャルル・ミュンシュがいる。
思えばミュンシュと同じポストをたどり、ベルリオーズやラヴェルを特に若い頃に得意にした小澤さん。
ボストン交響楽団と同時に、パリ管弦楽団をもよく指揮してたので、パリ管の指揮者になることもファンとしては願ったのだけれど、いくつかの録音を残したあとは、パリでの活動はフランス国立管が中心となった小澤さん。
フランスのオケとのベルリオーズも聴きたかったところである。

DGへのベルリオーズ録音がコンプリートされず、RCAやCBSにまたがることになったのは、イマイチ残念。
DGというレーベルは、有力アーティストが名前を連ねていたので、アーティストが録音したいレパートリーも非常に制約を受けると、というようなことを小澤さんはDG専属時代に語っていた。
ちなみに、DGは、そのあと、バレンボイムとパリ管でベルリオーズ全集を企画し、さらにそのあと、レヴァインとベルリンフィルでも企画したが、いずれも未完。

合唱付きの大作を手際よく明晰に聴かせる小澤さんは、ベルリオーズのレクイエムを若いころから得意にしていて、何度も取り上げていたはずだ。
シンバル10、ティンパニ10人、大太鼓4、バンダ4組・・・・、という途方もなくバカらしい巨大な編成を必要とするこのレクイエム。
さぞかしすさまじい大音響なんだろう、とやたらと期待しつつFM放送を録音したのが小澤&ベルリン・フィルのライブで、高校生の頃。
 たしかにティンパニとラッパが鳴り渡るトゥーバ・ミルムのド迫力はすさまじいもので、カセットテープでは音がびり付いてしまい、どうしようもなかったくらい。
でも、そんな大音響の場面は、全曲80分間の中のごく一部。
 このレクイエムは、抒情と優しさに満ちた美しい音楽なのだと、何度もそのカセットテープを聴いて思うようになった。
その後にやはり放送録音した、レヴァインとウィーンフィルのライブでも、ウィーンのしなやかな音色が際立つ優しい音楽として実感。

こうした硬軟の際立つイメージを持ちつつ、正式音源を手にしたのはCD時代になってから。
その珍しい組み合わせとレーベルの珍しさからずっと聴きたかった「ミュンシュ&バイエルン放送、シュライヤー」のDG盤をまず購入。
この剛毅さと歌心を併せ持った名盤は、いずれまた取り上げたいと思う。
 その後、バーンスタイン、プレヴィン、そして今宵聴いた小澤と揃え、演奏会でもゲルギエフと読響の意外なまでに祈りに満ちた名演も聴くことができた。

ベルリオーズのレクイエムが結構好きなのであります。

作品番号5、ベルリオーズ34歳の作品は、その若さがとうてい想像もできないほどの、壮大さと緻密さ、そして教会の大伽藍のもとで聴かれることを想定して書かれた響きの放射。
一方で、心にしっかりと響いてくる祈りの音楽としての立ち位置もしっかり確保されている。
ベルリオーズの本質は、ばかでかい巨大サウンドではなく、抒情味にあると確信できる音楽に思う。

冒頭のレクイエムからキリエの場面では、死に際しての戸惑いや祈りを模索するかのような静かな出だし。
そして、最後のアニュスデイでも、冒頭部分が繰り返されるが、不思議なまでの清涼感が漂い、ティンパニの静かな連打もかつての怒りが遠く過ぎ去って平安が訪れようとする安堵感に満たされて曲を閉じる。

 これらに挟まれて、ディエス・イレ(トゥーバ・ミルム)の爆音、明るいまでの輝かしさを持つみいつの大王、無伴奏の合唱による静かな雰囲気のクエレンス・メ。
ラクリモーサは、涙の日を怒りで迎える趣の強い大音響サウンドを持っている。
オーケストラのリズムの刻みがやたらと印象的で、この作品の中でも好きなか所。
続く奉献唱のドミネ・イエスでは、また静かで抒情的になって木管を中心としたオーケストラの背景が美しい。
終曲にも同じ場面が回顧されるホスティアスは、男声、トロンボーン、フルートによる宗教的な対話のようである。
そして、この曲最大の聞かせどころがサンクトゥスで、テノール独唱が天国的なまでに美しく神を賛美して歌う。これはもうオペラアリアのようである。
続くホザンナのフーガのような壮麗な合唱、そしてまたテノール独唱が回帰し、その後も眩しいくらいに高らかにホザンナが歌われ、最終のアニュスデイに引き継がれる・・・。

小澤さんの演奏は、この作品のこけおどし的な存在から背を向け、ベルリオーズの抒情性が綾なす祈りの音楽という本質に迫った真摯なもので、師であるミュンシュやバーンスタインとも違った独自のベルリオーズとなっていると思う。

  小澤征爾指揮 ボストン交響楽団/ダングルウッド祝祭合唱団
            T:ヴィンソン・コール
                    (1993.10@ボストン)

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2010年7月13日 (火)

ロパルツ レクイエム M・ピクマル指揮

Otsu_church_5
教会の堂内に差す光は、神々しくも、心を透かしてしまうような清々しさがある。
教派によってその建築法も違うのでありましょうが、採光に心を配っているのは、どちらも同じ。
かつては、文字を理解しない人々のために四方に据えられたステンドグラスが、それこそ絶妙に映えるのであります。
 こちらは、以前に訪れた「大津教会」。
100年の歴史を刻む、珍しい瓦屋根をいただく教会。

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ジョセフ・ギィ・ロパルツ(1864〜1955)は、ブルターニュ地方に生まれたフランスの近代作曲家で、大学で法学を専攻しつつも、音楽が好きで学生オケを指揮しつつ、その情熱は止むところがなく、パリ音楽院にさらに進んで、作曲家となった人。

年代的に、私の愛好する世紀末軍団のひとりでもあるが、その作風は後期ロマン派風ではありながらも、敬愛したフランクやフォーレの影響が多大で、全音階に基づく、フランスの穏健な抒情派とみてよいかもしれない。

ロパルツの作曲したジャンルは、交響曲・管弦楽曲・室内楽・器楽・オペラ・歌曲・宗教曲、といった具合に、クラシック音楽のすべてを網羅した広範なもので、ここ数年で、かなり多くの音源が出て、その全貌を確認することができるようになった。

5年以上前に、名前は知りつつも何気なく買ってはいたものの、あまりに甘すぎる音楽に、これはいかがなものかと、勝手に思い込み、それっきりにしていたムッシュー・ロパルツ。
 それが、ソプラノのドゥランシュ目当てに購入した、オペラ「故郷」が素晴らしく美しく、かつ劇的なものだから、このレクイエムを改めて聴き直した次第。

このレクイエムは、フォーレのそれを系譜に持つ抒情派ミサ曲で、全編が静かで優しく、聴いていてフォルテが一か所もないのではないかと思うほど。
ディエス・イレ、トゥーバ・ミルム、ラクリモサを欠き、ピェ・イエズスが入り、最後には、楽園にてで、締めくくるのもフォーレと同じ。
しかし、独唱はバリトンは入らないで、ソプラノとメゾ・ソプラノの女声ふたりによる。

1937〜8年の作品で、先輩フォーレのレクイエムは、1887年。
後輩デュリュフレのこれまた美しいレクイエムが1947年であります。

このロパルツのレクイエム。
ともかく美しい。そして甘味ささえも漂うくらいに神への祈りにあふれた敬虔な作品。
あまりにきれいなものだから、宗教感など持たずとも、ヒーリング的に癒しの音楽として受け止めて聴いても全然OK。
ピェ・イエズスは、それこそフォーレそっくりのムードで、無垢なソプラノ独唱と純な合唱とによる極めて優しい音楽でありました。

  ソプラノ:カトリーヌ・ドゥボー  メゾ・ソプラノ:ジャクリーヌ・メユール

   ミシェル・ピクマル指揮 ジャン・ワルター・オードリ・アンサンブル
                  イル・ド・フランス合唱団
                          (録音:90年頃)


名前の知らぬ演奏者の方々、なかなか心のこもったいい演奏ではないでしょうか。

Otsu_church_1
瓦屋根の大津教会。
十字架とも不思議なマッチング。
いまにも、戦国の切支丹大名が出てきそうな雰囲気であります。

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2010年5月12日 (水)

ブラームス ドイツ・レクイエム シュナイト指揮

Megumi
澄み切った青い空に十字架。
平安を心に呼ぶ容としての十字架は、均整のとれた人間の容ともとれるから安心感も生まれる。
仰ぎ見るとき、宗教観は関係なく落ち着きある存在として感じるのは私だけではないかもしれない。
 この教会は、私が通った海のそばの幼稚園併設のもの。
耳を澄ますと、潮騒の音、風に揺れる松の樹の音が聞こえたものだ。
1960年代、高度成長期の可能性にあふれた時代。
テレビはまだ白黒が主体の頃でありました。
帰りたいな、あの頃に。
日本も青年期を迎える前だったな・・・・。

Brams_ein_deutsches_requiem
プロテスタントのレクイエムといえば、ブラームス
典礼としての死者のためのミサ曲=レクイエムのラテン語の世界から、聴衆に身近なドイツ語によるコンサート作品としてのレクイエムを書いた。
篤信家であると同時に、音楽への忠実な僕であったブラームスらしい真面目な「ドイツ・レクイエム」。
敬愛するシューマンの死をきっかけとして、また完成を後押ししたのが、愛する母の死。
でもそうした要因がなくても、ブラームスはこの曲を書いたであろうと思われるし、それほどに、ドイツ人としての音楽家魂の発露にあふれている。

 イエスの名前や復活という言葉を歌わないレクイエムは、聴く機会に特別な状況を選ぶことがない。
どんな時も、安らぎと平安をもとめて聴くことができる。
 そんな通常のレクイエムから離れたメッセージ力をもっている特別なレクイエムを書いたのは、シューマン、ディーリアス、ブリテンなどでしょうか。

この渋くも、味わい深い「ドイツ・レクイエム」が、ブラームス24~35歳で書かれたのは驚きで、例によって時間をかけて悩みながらの作曲ぶり。
ブラームス自身がルター訳の聖書から選んだその歌詞を、この曲を聴きつつ読み進めるとやたらと感動し、涙さえ出てくる。
それは、宗教を超えた、人間存在としての普遍の言葉であり、心にどんどん染み込んでくるんだ。

Ⅰ「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるであろう」
Ⅱ「人はみな華のごとく その栄華はみな草の花ににている
  草は枯れ 花は散る」
Ⅲ「主よ、わが終わりと わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ
     わが命のいかにはかないかを知らせてください」
Ⅳ「あなたの家に住み 常にほめたたえる人はさいわいである」
Ⅴ「このように、あなたがたにも今は不安がある
     しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう」
Ⅵ「この地上に永遠の都はない 来たらんとする都こそ
     わたしたちの求めているものである」
Ⅶ「彼らはその労苦を解かれて休み そのわざは彼についていく」


どの楽章も、素晴らしい旋律と歌にあふれていて好きであります。

のオーケストラの静かで大らかな開始のあとに、歌いだす「悲しんでいる人は・・・」の合唱。それがだんだんと盛り上がりを見せて、やがて明るく安らかな雰囲気を醸し出してゆく。全曲のエッセンスのような楽章。オーボエが美しい。
の十字架を背負うかのような重い足取りの音楽もよいが、において登場するバリトンの神妙で切実な歌が好きで、ここは歌い過ぎると軽々しいアリアのようになってしまうところが難しいところ。後半の壮麗なフーガとの対比も見事な音楽。
の抒情的で優しい合唱に心なごまぬ方はいますまい。
、天国的ともいうべき無垢のソプラノ独唱。
は、他曲の怒りの日と比べると壮絶さはないが、それでも全曲の中で一番ドラマテックな場面が展開し、バリトンも劇的なものだ。ここでも終結部のフーガがやたらと感動的。
Ⅶ、この独特のレクイエムを完結するに相応しい平安に満ち足りてくる安堵の世界。

今日は、シュナイト師と師のもとに集まったシュナイト・バッハ合唱団・管弦楽団の2008年4月のライブ録音で。
この演奏会場に、私もいました
その時の感動は、聴き終わって一献傾けて、家に帰っても、そしてその翌日もずっとしばらく、さらに次の日もずっと、じんわりと継続するたぐいのスルメ系のほのぼの演奏であった。
この時は、コンマス石田様をはじめ、神奈川フィルのメンバーが主力のオーケストラで、長年シュナイトさんを奉じて歌ってきた合唱団とともに、親密で信頼感に満ちた演奏が繰り広げられたものだ。
 その時の雰囲気をそのままに、CDだけにその精度はさらに高まっていて何度聴いても完璧な仕上がり感を強く持つことができて、この名曲名演を手元に置くことができる喜びはまったくもって尽くしがたいものがある。
シュナイト師ならではの、明るい基調と歌心、そして言葉の意味に深く根ざした祈りの音楽。
ライブの感銘がなかなかCDには収まりにくいシュナイト師の音楽だけど、この1枚はホールの響きもうまく取り入れ、指揮者の唸り声までもまともに捉えた雰囲気豊かなものに仕上がっている。

   ブラームス    ドイツ・レクイエム

          S:平松英子    Br:トーマス・バウアー

    ハンス=マルティン・シュナイト指揮 シュナイト・バッハ管弦楽団
                          コンサートマスター:石田泰尚
                                                                      シュナイト・バッハ合唱団
                           (2008.4.5 @オペラシティ)

過去記事

「シュナイト&シュナイトバッハ」
「シュナイト&神奈川フィルハーモニー」

「尾高忠明&札幌交響楽団」

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2010年3月15日 (月)

デュリュフレ レクイエム A・デイヴィス指揮 

Tsuruoka_church_1
雪の舞う教会。
山形県の鶴岡カトリック教会
去年の冬の画像、今頃出します。
1903年(明治36年)築の歴史あるロマネスク建築の美しい教会。
私は、行った先々に教会があると訪問します。
幼稚園が併設されていて、子供たちのにぎやかな声も聞こえることが多いのが教会。
こちらもそうでありました。
でも一たび堂内に足を踏み入れると、そこは静謐な空間で、いやでもありうべし存在と、そして裸の自分と向き合うことになるのです。
Tsuruoka_church_2
堂内はこのように極めて美しいものでありました。
有名な黒のマリア像や、まるで外国を思わせる本格ステンドグラスなども拝見しました。
そちらはまたご案内できるかと思います。

キリスト教やその教会を思うとき、入信者ではありませぬが、常に音楽がともにそこにあります。
音楽を深めるとともに、西洋の宗教も体に入ってくるような思いも強くなってきました。
Tsuruoka_church_5
先週末は本当に忙しかった。
週末に大阪に所用があり、飛行機も宿もすべて手配していた旅立ちの前夜遅く、敬愛した叔父の訃報。
急なことで、予定も不明のまま飛行機に飛び乗り、とりあえず大阪に向かったものの、思いのほかの日程が組まれ、大阪から意図半ばで急遽帰京。

叔父一家は、キリスト者でして、日曜は教会が礼拝にはいるため利用できません。
忙しいお別れになってしまいました。

亡父が可愛がった叔父、その父の思いを、叔父は息子の私に何かにつけて返してくれました。
音楽好きの私にN響の第9のチケットを毎年送ってくれて、おかげさまで、スゥイトナーやシュタインの第9を何度か聴くことができたし、私が社会人になったときにスーツを見立ててくれたり、食事をご馳走してくれたり・・・・。
思い出はつきないのであります。
教会でのお別れ会では、馴染みの音楽がオルガンで数々演奏されてまして、ことに「主よ人の望みよ喜びよ」には、落涙を禁じえませなんだ・・・・・・。

人を愛する気持ちはどんな宗教でも、無宗教でも一緒であります。
誰にでも優しく、相手の気持ちで生きていきたいと思ったりしてます。
厳しい世なのか、人のことは構ってられない時代だけど、気持ちの中には絶対持っていなくては。


Foure_durufle_requiem
叔父はプロテスタントだったけれど、今日はカトリックの音楽ですが、お許し願おうかと思います。
私の大好きなレクイエムのひとつが、モーリス・デュリュフレ(1902~1986)の作品。
フランスの20世紀の作曲家でだけど、その作風は保守的で、常に教会とともにあってオルガニストであった人。
合唱曲や器楽曲、オルガン曲など、地味な分野での作品の中にあって、「レクイエム」が一番有名になっている。
以前の記事をご参照いただけれだ幸いです。

フォーレのレクイエムをお好きならば、このデリュフレ作品も是非にもお聴きにならなくてはなりません。
癒し系レクイエムとして、フランスでは、カンプラ、フォーレ、ロパルドなどと並ぶ名品でございます。
この人のミサ曲なども、とても美しく聴けます。

私が死んだら音楽葬で、この曲もかけてもらいたいくらい。
その時の音楽はきっとワーグナーも入っちゃうから、きっと参列者は長すぎで帰れなくなっちゃうでしょうよ(笑)。
ぼちぼち選曲しておこうかと思う今日この頃であります。

サー・アンドリュー・デイヴィスの若き日の録音。
77年。先にこちらが録音され、次いでフォーレも録音された。
レコードでは2枚に別れて別に発売されたけど、CDでは1枚に収まってしまった。
どちらも、アンドリューの真摯でかつ熱い思いが、癒しを超えた熱烈な祈りの境地を描きだしていて素晴らしい。
キリとニムスゲルンの歌がまたオペラに傾く寸前の思い入れの濃さを伝えてくれる。
キリは、デッカ専属前。無垢な声。
ニムスゲルンは、ワーグナー歌手として大成するまえ。明るい美声。

カップリングのフォーレで、ルチア・ポップの歌う「ピエ・イエズス」に落涙を隠せなかったこともご報告しておきましょう。

  S:キリ・テ・カナワ  Br:ジークムント・ニムスゲルン

  サー・アンドリュー・デイヴィス指揮フィルハーモニア管弦楽団
                       アンブロジアン・シンガーズ
                          (1977.1@オール・セインツ教会)

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2009年9月10日 (木)

ヴェルディ レクイエム リヒター指揮

Hakodate_catheric_1 今年の春先に訪れた函館の元町教会群の中のひとつ。
カトリック元町教会。

夕闇せまる美しい教会。

カトリック、プロテスタント、ロシア正教、英国国教、ギリシア正教・・・、神はひとつでも、多々あるキリスト教派。
その協会建築もそれぞれ違うが、いずれも高さと空間へのこだわり、そして対称の美しさを感じさせる。
でも、人々の祈る心は世界のどの宗教も一緒。

そして、祈りの念を音楽に乗せて必死に訴え続けた指揮者シュナイトさんが、その指揮棒をこの日本で置いたのが先週のこと。

歌劇場で仕事をしていたシュナイトさんを、再び教会・宗教音楽に近い場所に呼び寄せたのが、皮肉にも、カール・リヒターの突然の死。
ミュンヘン・バッハの指揮者を引き継いだのがシュナイト

Verdi_requiem_richter_2 カール・リヒターが54歳の若さで亡くなったのが1981年。
早いもので、もう28年も経つ。
そのリヒターの極めて珍しいレパートリー、ヴェルディのレクイエム。
発売後、即購入したものの、何故かずっと眺めるだけで、封も切ることがなかった。
別に大きな理由はないけれど、なんとなくイメージが作りにくかったのと、毎夏に聴くならわしを自分に課していたので、それまでと思いオクラ入りにしていた。

シュナイト師の「ロ短調ミサ」を聴き、若杉さんをおくり、そう、ついにこの「リヒターのヴェルレク」を聴くときがやってきた。

解説によれば、これは放送音源でなく、マニアだった合唱団の一員が録音したものという。
1969年、ミュンヘンのコングレスザールでの演奏会ライブである。
れっきとしたステレオ録音で、音も鮮明ではあるが、強音で音割れするのが苦しい。
でも、個人録音としては相当なもので、他にもまだ隠れたる音源をお持ちではないかと、期待したくなる。

    S:イングリット・ビョーナー   Ms:ヘルタ・テッパー
    T:ヴァルデマール・クメント   Bs:ゴットロープ・フリック

   カール・リヒター指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
                  ミュンヘン・フィルハーモニー合唱団
                   ミュンヘン・バッハ合唱団
                        (69.2.28 ミュンヘン)

渋いヴェルディのレクイエム。
この一言に尽きる。
ワーグナー歌手をソリストにしたから、さぞや重厚でドイツ風に傾いているかと思いきや・・・・。

オペラ作曲家が書いた歌にあふれたレクイエムではなくて、たとえば、バッハのように神を見据えた純粋ともいえる宗教音楽としてのレクイエムの演奏。

冒頭からかなり克明な歌わせ方で、じっくりと歩む。

ディエスイレは、最初、もっさりと感じるものの、低音の強烈さは、迫真的。

メゾのあと2度目におとづれる怒りの日も、意外とあっさり聴こえる。

クメントは音程に揺れがあってやや苦しいが、インジェミスコは素晴らしい。
イタリア系が歌うとオペラアリアのように歌いまくってしまうが、
ドイツ系のテノールって感じが濃厚で、その少しバリトンかかった声が新鮮。
私はジークムントを思い起こしてしまった。

名ハーゲンのフリックはどうだろう。
このふくよかで美しい歌声は、あのハーゲンの姿からは遠い。
まるで慈悲深き神父のようではないか。

しかし、そのバスのコンタティスのあとの怒りの日は、激しく咆哮している。

その後のラクリモーサ。
テッパーのあまりに深い声は、あのマタイを思い起こしてしまうもの。
続くフリックのバス、そして4人のバランスのよい重唱。
オーケストラの沈痛な響き、金管・テンパニの強調、まるで葬送行進曲のような重々しさ。
私は、こんなに悲痛なラクリモーサを聴いたことがない。
アバドのような優しさに溢れた演奏に馴染んできたゆえに、正直辛いものがあった。

サンクトゥスは輝かしさよりは、感謝の一途さの爆発に聴こえるし、そのあとのアニュスデイは休みを置かず、すぐにソリストが歌い始める。これまた深い演奏。

美しいルクス・エテルナで、アカペラで歌われる4人の独唱。それをフリックの深みあるバスがしっかりと下支えをしている。オーケストラは、しばしヴェルディを聴いていることを忘れてしまうほどに、入念で克明。
私は、ワーグナーがもし宗教曲を書いたらこうなる、という思いに囚われてしまったが、どうであろうか。
4人とも、声が外に向かわず、極めて内省的。
いつもは天国的な響きに包まれるのに、こんなルクス・エテルナは聴いたことがない。

最後の怒りの日。何とここでは、これまで3度登場する怒りの日ともまた違う。
重々しい。
それがおさまったあとの、レクイエムの極端にデリケートで密やかな響きと歌いぶり。
大味な印象のあったビョーナーの繊細さに驚く。
強烈なリベラ・メがやってきて、曲は深い祈りに満たされながら終わる。

なんと、壮絶なヴェルディのレクイエムであろうか。
聞き手ひとりひとりに、まるで十字架を背負わせてしまうかのような重い1枚。
そう何度も聴けるものではない。
でも私は、いろいろ確認したくて5回も聴いてしまった。
こうしてリヒターは、その命を燃やしてしまい、早世してしまったのだろうか。

初めてヴェルディのレクイエムを聴く方には、決してお勧めできないが、これまでいくつか聴かれてきた方に聴いていただきたい。
これみよがしの壮大さや華麗さとはかけ離れた壮絶なレクイエムであった。

※これを機に、多々あるレクイエムをいろいろと取り上げようと思っている。

過去のヴェルディのレクイエムの記事

「アバド指揮ミラノ・スカラ座」
「バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団」
「ジュリーニ指揮フィルハーモニア」

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