カテゴリー「スクリャービン」の記事

2015年3月14日 (土)

スクリャービン 交響曲第3番「神聖な詩」 キタエンコ指揮

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霧雨にけぶった、みなとみらいへの眺め。

開港時の景色とは、明らかに違いますが、ここ、横浜は、いまも進取の気性にあふれた、高感度の街です。

そして、わたくしには、この街は、後期ロマン派的な場所とも思えるんですよ。

Scriarbin

 スクリャービン  交響曲第3番 「神聖な詩」

    ドミトリー・キタエンコ指揮 フランクフルト放送交響楽団

                       (1994 @フランクフルト)


今年は、アレクサンドル・スクリャービン(1872~1915)の没後100年。

モスクワ生まれ、途中、西欧に過ごしたが、モスクワに病死したスクリャービンは、43歳という短命でした。

もう少し、長く生きていたら、相当に面白い作品たちが生まれたはず。

その生涯に、作風が見事に変転していったからであります。

同時代人に、ラフマニノフ(1873)、シェーンベルク(1874)、ラヴェル(1875)などが、いますが、その変化っぷりは、シェーンベルクに等しいものがいえると思います。

ピアノの名手でもあったことから、ショパンやリストの影響下にあった前期。
そして、後期は、ニーチェに心酔し、神秘主義へと、その音楽も変化させてゆき、神秘和音を編み出し、やがて、視覚と聴覚に訴えかける作品(プロメテウス)も生み出すようになる。

さらに拡張して、五感を呼び覚ます長大な劇作品をも手掛けたが、未完。

どうです、その先、どうなっていったか、むちゃくちゃ興味ありますよね。

 日本では、ピアノ作品は、さかんに取り上げられますが、オーケストラ作品では、4番の「法悦の詩」ぐらいしか、あまり聴かれないのではないでしょうか。
欧米でも、せいぜい、5番「プロメテウス」と、そして、3番「神聖な詩」ぐらい。

50分あまりを要する、この大規模な交響曲は、先に書いた作風の変化の、ちょうどターニングポイントみたいな曲で、素材からして、神秘主義的な傾倒のあらわれが見受けられます。
その音楽も壮大かつ、濃厚なロマンティシズムのなかに、怪しい不思議感をも感じさせ、とても魅力的なんです。
 ちなみに、リッカルド・ムーティが、この作品をとても得意にしていて、盛んに取り上げておりました。
エアチェック音源でも、ウィーンフィルやバイエルンとのものを愛聴してますよ。

1904年の完成で、妻を捨ててまで、同じ神秘主義仲間(?)のタチャーナ・シュレーゼルと同居し、さらに西欧へもしばしば出かけていた時分。
ニーチェからの影響のあらわれか、連続する3つの楽章は、それぞれ、フランス語で、「闘争」、「快楽」、「神聖なる戯れ」とタイトルされております。

曲の冒頭に、威圧的ともとれる序奏がついていて、これが全曲通じて出現するモットーとなってます。
1楽章は、このモットーがかなり威勢よく鳴り響く一方、活気ある主題も印象的で、約26分の長大さも、飽かずに聴くことができます。
 
 

 わたしが、たまらなく、好きなのは、濃密な2楽章で、これが、「快楽」なのかしらと、思える、イケナイ雰囲気は、甘味料もたっぷり。
ときおり、だめよダメダメ的な警告音も入りますが、このトリスタン的な世界は、ともかく魅力的でアリマス。

 甘味な思いに浸っていると、曲は止まることなく、すぐさま、トランペットの早いパッセージでもって「神聖なる戯れ」に突入。
そう、この作品は、全般に、トランペットが大活躍するのです。
「法悦の詩」でもそうですが、輝かしさと、狂おしさ、ともどもの表出は、スクリャービン作品では、この楽器がキーポイントです。
独奏ヴァイオリンが、「快楽」の思いでをちょいと奏でますが、すぐに、トランペットに否定されちゃいます。
 そう、快楽はほどほどに、神聖の儀なのでアリマス。
曲は、全楽章を振りかえりながら、金管を中心に、カッコよく展開し、だんだんと崇高の境地に至ってまいります。
最後のフィナーレは、めちゃくちゃ盛り上がりますぜ!

キタエンコの指揮は、ロシア的な分厚さや、押しつけがましさが一切ない、西欧風なものでありながら、しっかりした音のうねりを感じさせる点で、まったく素晴らしいものです。
インバルに続いて、ふたつのスクリャービン全集を録音した、フランクフルトのオーケストラの優秀さについては申すまでもなく、トランペットも突出することなく、全体の響きのなかに溶け合っていて、ドイツのオーケストラであることを実感させます。

この曲のあとに、4番「法悦の詩」を聴くと、スクリャービンの変化をさらに感じることができます。

スクリャービン過去記事

 「交響曲第1番  キタエンコ指揮」

 「交響曲第4番  アバド指揮」

 「交響曲第4番  アバド指揮」

 「交響曲第5番  アバド指揮」

 「ピアノ協奏曲  オピッツ」

 「ピアノ協奏曲  ウゴルフスキ」

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2014年4月13日 (日)

「法悦とロメオ」  アバド指揮

Momo

桜より、ちょっと早く、でもほぼ同じ頃に花をつけるのが、桃の花。

よく見ると、梅の花にも似てますね。

子供の頃の実家の目の前には、県が運用している試験場の桃畑があって、一面がピンク色でした。
そして、その横には、山桜がたくさん咲いて、春はもう、それは華やかななものでした。

その桃も、いまは、ほんの一部になって、春の花の色合いが薄れてしまいましたが。

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  スクリャービン    交響曲第4番「法悦の詩」

  チャイコフスキー   幻想序曲「ロメオとジュリエット」


   クラウディオ・アバド指揮 ボストン交響楽団

                      (1971.2 @ボストン)


1972年に発売された、このレコード。
ちょっぴりエッチなジャケットにどきどき。
当時まだ中学生だったわたくし。
誕生日、クリスマスのプレゼント、それからお年玉をためて・・・・そんなサイクルで、レコードを集めてました。

1973年の正月に、横浜西口のヤマハで、買ったのがこのレコード。

完全に打ちのめされ、アバドのカッコいい音楽造り、ボストン響のウマさ、そして、チャイコのロメオ、スクリャービンの法悦の詩の音楽に、すっかり打ちのめされました。

この2曲は、この演奏がそれぞれに刷り込みですし、40年経った現在も、わたくしにとって、これらを超える演奏はまったくございません!

子供の頃は、当時360円ぐらいだったレコ芸や、ステレオ芸術や、FM雑誌が、唯一の音楽情報で、それらの雑誌の評論を参考に、高額なレコードを選択していたのでした。

そして、このレコードは、志鳥氏の担当する管弦楽曲部門で、激賞。
アルゲリッチのショパンで、すでに気になっていたアバド。
FMでも、ザルツブルク音楽祭の活躍などを耳にしてたし、ボストン響とのドビュッシーとラヴェルもすでに先行していた時分でした。
 さらに、73年のその年、若くしてパーメネントコンダクターとなったウィーン・フィルと来日するといいます。

アバドを完全に追いかけて行こうと、確信した瞬間がこのレコードとの出会いです。
その後のウィーンフィルの来日演奏会のテレビ観劇でダメ押し。

RCAの専属だったボストン響が、DGと契約して録音を始めたとき。
第1段は、先に書いたアバドとのフランスものと、A・フィードラーのボストン・ポップスとのクリスマス・ミュージックでした。
 その次にきた、このロシア系のレコード。
ともかく、鮮明・鮮烈な録音の良さに、まずはびっくりした。

中学生レベルの当時のボクちゃんクラスの安ステレオ装置が、やたらと目覚ましくよく鳴ったもんだ。

メータのハルサイや惑星とともに、このレコードの録音の良さは、わたしの装置にとってのご馳走のような存在でした。

そして、なんたって、この演奏の素晴らしさ。

アバドがいなくなって、そして、心の中に生き続けているいま、かつて何度も、何度も、聴いてきたこの音源を聴いてみる。
とても、かけがえなく感じる、それらの音源たちに、あいかわらずアバドの姿を見出だすことができ、そして、その時の自分も鮮烈に蘇ります。

もう40年前の自分。
海辺の小さな街の、潮騒聞こえる中学校に通って、好きな女の子に憧れたり、大人にイライラしたり、ともかく多感な毎日。
 あのときから、アバドは変わらずに、歌心は満載で、静寂から、ブリリアントなフォルティッシモまで、そのダイナミックレンジは広大。
若い頃のスタイルは、繊細・美音のピアニッシモで歌うこと。
その静かな歌にボリュームを上げて聴いていると、驚きのフォルテがやってきて、超びっくりとなります。

どちらも、エッジの効いたボストン響の威力炸裂。
ほんらい、ねっちっこい不健康スクリャービンも、この演奏では、歌いつくしの健康志向。
ともかく、明るいヨーロピアンサウンド。
後期ロマン派・世紀末系としてのスクリャービンを、アバドはよくぞ録音してくれたものです。
最後の異様な盛り上がりも、整然と緻密な冷静さでもって、少しも下品になりません。
そして、聴き手をしっかり興奮に導いてくれます。

チャイコフスキーも同様。
早めのテンポで一気に駆け抜けながら、歌いどころでは、思いきり気持ちを込めてオケを歌わせてます。
アバドのあの指揮姿がまぶたに浮かびます。
ティンパニの劇打も素晴らしい。

ボストンとの共演が、2枚のレコードだけだったのは、とても残念なことです。
シカゴ、ボストン、ニューヨーク、クリーヴランド、フィラデルフィア、かつての5大オーケストラから等しくラブコールを受けていたアバドです。

アバドも若かった、自分も若かった。

アバドの音楽は、若いころから、ずっと変わらなかった。
さらに高みへ進化しただけ。
それに引き換え、頑張れ自分。

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金曜は、アバド好きの集いへ。

おいしい千葉産、朝取れの魚の美しさ。

いつもお世話になってます、「com grazia」さんの呼びかけで、アバドに感謝する会。

アバドの話しかしない会。

みんなそれぞれの心にあるアバドを、思いきり語り、笑い合いました。

泣かないで行こうと思ってたけど、涙もろいワタクシは、決壊してしまいました。

Matteo


もう一軒。

アバドを思いつつ、選んでいただいたイタリアワインは、本当に優しく、包みこまれるような味わいに溢れてました。

みなさま、お疲れさまでした、お世話になりました。

ありがとう、クラウディオ。

 



過去記事 

 「チャイコフスキー、スクリャービン  アバド指揮」

 「チャイコフスキー ロメオ アメリカ7大オケで聴く」

 「スクリャービン  交響曲第5番プロメテウス 」


   

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2009年3月23日 (月)

スクリャービン ピアノ協奏曲 ウゴルフスキ&ブーレーズ、そして札幌

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スクリャービン
(1872~1915)はピアニストでもあって、大変な名手だったらしい。
そのピアノ作品や交響曲に聴く作風の変化にも、シェーンベルクやストラヴィンスキーにも負けないくらいに驚く。
後年の神秘主義的な怪しいムードに比べて、前期のメロディアスでロマンテックな作風は、後期ロマン派色満載で、私は結構好き。
このピアノ協奏曲は、2度目の記事だけど、アシュケナージ盤が出た昔から聴いてきた好きな曲。
どこからどこまでもショパンのような詩情に溢れた懐古調の協奏曲。
憂愁に満ちた1楽章は、胸焦がすような青春サウンドだ。こちらはラフマニノフにも近いが、第2主題などはもろショパン。
緩徐楽章も、まさにショパンの2楽章そのもの。変奏曲形式で、中間部のピアノの鮮やかさといったらない。
そこまでやることはないだろう的な、3楽章。何がそこまでかって?
ショパン似ですよ。こちらは自己陶酔的な様相を帯びているし、民族色もある。
ロマンティックな音楽が好きな方、是非にも聴いてみてください。
 ブーレーズがどんな顔してこの曲を振っているのかわからないけれど、結構まっとうにやってるし、ウゴルスキはもう、そちら系の名手だから、このCD全然問題ない。
でもなんで、シカゴなんだ?

 過去記事 「オピッツ&キタエンコ」

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函館から、昼過ぎに札幌駅に降り立つ。
どこかで、パソコンを借りて、少し仕事の整理をしたい。
でもその前に腹ごしらえだ。
ラーメンだ。

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駅近くであれば、ホクレンビル地下の「一粒庵」。
地産地消で素材を道内産にこだわった店で、今人気。
2時近いのに行列。
食べたのは、「元気の出る味噌ラーメン」。
納豆かと思ったら、行者にんにくとチャーシューを卵で炒ってあるものがトッピング。
そして、濃厚な味噌がめちゃくちゃうまい。

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大通り公園をちょいと撮影。

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夜は、いよいよ札幌コンサートホール「キタラ」へ。
地下鉄の駅から、中島公園を抜けて歩く。
圧雪の上を、地下鉄で同時に降りた方々と一列になってザクザクと雪を踏みしめて行進する。遠く、キタラの照明が見えてきて、期待がいやでも高まるというものだ。

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コンサートのあとは、すすきのへ侵攻。
お馴染みのお寿司やさん「すし万」で、おいしくいただく。
ウニをスプーンですくって食べる。
そして酒を飲む。

Kani

 



















「かに」ごございます。

大将、今回もご馳走さまでした。
また食べたいっす。

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疲れもあったのか、そこそこ酔ってしまった。
トボトボと、雪に足後を付けながらホテルに戻る。
記憶が曖昧。
悲しいことに、アル中ハイマーは進行しているのだろうか。

Chitose

 



















次の日の朝、千歳空港を飛び立つ前に・・・。
さすがに食べれませんや。
撮影のみのラーメン大会。

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さらば北海道。
苫小牧あたりか。
また来るぞ~。
札響に合わせて。
それと、今年のPMFは、MMTがマーラーを振るんだ。これは注目。

Ana



















機内の様子。
あれ?
また飲んでる。
3月で切れてしまう、アップグレードを利用して、贅沢にもプレミアクラスに搭乗。
軽食と飲み物は飲み放題。
シャンパンを午前中から飲んじゃった。

明日からまた日常へ。

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2007年6月11日 (月)

スクリャービン 交響曲第5番「プロメテウス」 アルゲリッチ&アバド指揮

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ちょっと前だけれど、銀座の夜の光景。

ひときわ目を引く、さるお方の白い顔。

夜の街に怪しく微笑む。

ふっふっふ・・・・・。

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アバド
の録音した交響曲シリーズ。
シェーンベルクらの時代と同じ頃、ロシアで神秘主義に傾倒した作曲家、「アレクサンドル・スクリャービン」(1872~1915)が、妄想にふけっていた。

「音と色」との融合についてである。
当時開発された、色光鍵盤を用いて交響曲を作曲した。
音とその音に対応した色が出る楽器。
なんじゃそれ?の世界だが、当時はさながら極彩色映画のように眩く見えたことだろうな。

それぞれの色には、意味が込められ、スクリャービンの紡ぎ出す、ちょいとエロく、神秘的かつ陶酔の音の世界と結びついた効果を上げたことであろう。
科学や芸術、人間の持つ、諸感覚の統一により「法悦」の境地に入り込むと思っていたらしい。

プロメテウス」はギリシア神話上の神。
音から神の姿に似せて人間を作り、魂と命を与えた。そのうえに、火と技術を与えたことで、「ゼウス」の怒りに触れた。人間がゼウスら神の好敵手となったからである。
プロメテウスはコーカサスの岩場に縛られ、その肝臓をワシについばまれることとなる。
その肝臓は枯れることなく、プロメテウスは苦しんだ・・・・・。
それを後に救ったのが「ヘラクレス」である・・・・。(ジャケット解説より)

なんともまぁヘンテコな話であること。

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この作品は交響曲というよりも、幻想曲のようで、ピアノが活躍するから協奏曲的イメージもある。
サブタイトルは「火の詩」。
アバドはベルリン・フィル時代、毎シーズンのテーマを決めてコンサートプログラムを考えた。
1992年は、「プロメテウス」がテーマ。
一夜に、ベートーヴェン、リスト、スクリャービン、ノーノの題名曲を取上げたコンサートのライブが今夜の1枚。

ピアノは朋友「アルゲリッチ」で、息のあった二人は、激情よりも精妙な神秘性をクローズアップしたスクリャービンを作りあげている。
スクリャービンの持つ一方の特徴、後期ロマン派風の特徴をむしろ引き出している。
DVDも出ていて、やはりこちらの方が面白い。
発色ピアノではなく、ホールの照明を駆使しての演奏。
フィルハーモニーザールが、青や緑、赤や黄色に変幻自在に変わってゆくのが妙に心くすぐられる。ときおりクローズアップされる、ライスター、ツェラー、シュレジンガーらの超名手たちも、同じ色に染まっている。
でも法悦の境地には私は達しなかったぞ?

こんな曲でも美しく、しなやかに聞かせてくれるアバドに感謝。
若き頃、ボストン響と録音した「法悦の詩」が懐かしい。同曲一の名演だと思っている。

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2007年3月31日 (土)

スクリャービン 交響曲第4番「法悦の詩」 スヴェトラーノフ指揮


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滋賀県と岐阜県の境にある、「伊吹山」。
当地ではまるで人の名前のように「イブキサン」と呼ぶ。
今年は雪がほとんどなかったが、新幹線で岐阜と米原の間、毎冬徐行運転をして遅れるのは、この山が吹き降ろす「伊吹降ろし」による雪によるもの。
彦根・米原と東近江が雪国なことも、この山がそびえているから。

麓で行なわれる歴史を見つめてきた山。
こうして見ると実に美しい。
冬は厳しいが、夏は高山植物が咲きほこる
癒しの山。いいもんだ。

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ロシアの個性的な名匠「エウゲニ・スヴェトラーノフ」が亡くなって、もう7年も経つ。晩年N響に毎年来て、テレビでもお馴染みになったけれど、実演では一度も接することなく、帰らぬ人となってしまった。
73歳は早すぎる死だった。かなり昔から活躍していたので、もっと歳かと思っていた。
あのお腹の出た体、いかにも酒を飲みそうな顔、血圧も高そう・・・。

そんな見た目イメージは、爆演系の指揮者としてイメージ通りのド迫力を生み出す。
同時にその強すぎる個性は、どんな作品をも、自分に引き寄せて、スヴェトラ流にしてしまう。マーラーしかり、今日のCDのカップリング曲、ドビュッシーをも。
「フランス国立管弦楽団」を指揮しながら、やたらにドビュッシー臭くない、重ったるい演奏をしてしまった。恐るべき海、海フェチの私でも、この海には引いてしまう。ひぃ~・・。

でも、スクリャービンともなると話は別。
ねっとりと、じわじわと、むっつりと、この淫靡な曲が演奏されている。
スヴェトラおじさんの唸り声も随所に聞かれる。
フランス国立管、この機能的ながらフランスの香りを持ったオーケストラから原色のドギツイ音色をふんだんに引き出してしまった。でもロシアのオケと違って、金管はヴィブラートは少なめだし、管も上品なアンサンブルを聞かせてくれる。

 ところが、驚きは最後に控えていた!
最終の盛上りの前、大爆音のあとオーケストラが完全休止するが、この休止たるや、10秒以上におよぶ。まるで音楽が終わってしまったかのような10秒間。
そしてそのあと、いやがうえにも、弦楽器が官能的な調べを紡ぎ出し、それが徐々にクレッシェンドして行き、全楽器にそれが拡張されて、途方もないクライマックスに突入する。
このクライマックスの最終音が、なんと20秒近くもフォルテのまま引き伸ばされるのである!! これには誰しも度肝を抜かされるであろう。
もう止めて、と途中で思うくらいの凄まじさ。

こんな演奏ばかり、拳を振り上げて指揮していたら、燃焼しすぎだよな。
アバドとボストン響の輝かしくも歌いまくる演奏が大好きだが、このスヴェトラ盤も時にはよろしい刺激となった。

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2006年6月26日 (月)

チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、スクリャービン「法悦の詩」 アバド

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1933年6月26日。今日は、私の一番好きな指揮者、「クラウディオ・アバド」の誕生日である。毎年、アバドももうそんな年か・・・、と思っているうちに、34年も過ぎてしまい、自分もそっくりアバドを聴きつづけるうちに年を経てしまった。
 しかし、アバドに勇気づけられるのは、音楽のみを希求してやまない熱意と、その情熱から大病をも克服してしまった精神力である。

私がアバドの音楽に確信をもったのは、今回のレコードである。
1971年の録音で、ボストン交響楽団を指揮した2枚目のもの。

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ヌードのジャケットは、刺激的だった。それ以上に、チャイコフスキーもスクリャービンも初めて聴く作品だけに、そのロマンテックな響きに参ってしまった。何度も何度も聴いた。
聴くうちに、アバドが、旋律を明るく、明確に、隅々まで光を当てるように、情熱的に歌いまくっていることがわかってきた。
これは大変な曲であり、演奏なのだと、思うようになった。

そして、オーケストラの素晴らしさ、巧さ。当時はベルリンやウィーンばかりで、アメリカのオーケストラなんてろくに聴いたこともなかった。
RCA専属から離れて、初めてヨーロッパのメジャーに録音したボストン響である。
オーケストラにも、ものすごい気迫が感じられる。アバドが情熱の塊と化して、グイグイ引っ張るものだから、ボストンも上品にしていられない。
金管はうねるように咆哮し、弦はエッジを効かせて決めまくる。打楽器、とりわけティンパニは冴え渡っている。

録音がまた素晴らしい。RCA時代は生々しい録音ばかりで潤いが欲しかったが、DG録音は第1作のフランスものも同様に、ホール・トーンを生かしながらも、各楽器が手にとるような臨場感を持ってとらえられている。
今聴いても、かなりのものだ。

ボストン響はこの後、小沢の手に委ねられることになるが、アバドとの相性は非常に良かった。シカゴでも素晴らしいマーラーを聴かせてくれたが、ボストンとマーラーを演奏していたらどうなっていたろうか。同時期、フィラデルフィアやクリーヴランド、ニューヨークにも客演していた。ミラノに腰を据えなければ、アメリカのメジャー・オケの指揮者にもなっていたかもしれない。実際、ウィーン国立歌劇場のポストを受ける前に、ニューヨークから、メータの後任を打診されていて、本人もその気になっていたらしい。
歴史はきまぐれ。結果としては、ミラノ・ロンドン・シカゴ・ウィーン・ベルリンというお馴染みのポストが正解であったし、残された録音も至玉の作品ばかりののだから。

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それにしても、今聴き返してみて、アバドの指揮の歌謡性に驚く。チャイコフスキーはもちろんとして、スクリャービンの作品でこんなに歌が溢れているとは。
それがダラダラと流れないのは、全体を見通す鋭い視線による見事な構成感に裏付けられているからである。全体の色調は明るく、若々しい。最後のクライマックスでは、オルガンも鳴り、壮絶な頂点を迎える。長く伸ばされる最終和音もクリアーで美しさを失わない。
聴いていて、ショパンの詩情に満ちたスクリャービンが、詩情を残しながらも神秘主義的な陶酔に満ちた音楽に変貌していった様子がわかる。
ここに、ワーグナーやドビュッシーの響きを聴き取ることも難しくない。

進化するアバドは、この5月に、ベルリン・フィル定期に登場し、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」とシューマンの劇音楽「マンフレッド」全曲を演奏した。
新レパートリーである。どこまでもチャレンジするアバド。今年の来日が楽しみだ。
ありがとう、クラウディオ!

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2006年5月29日 (月)

スクリャービン ピアノ協奏曲 オピッツ&キタエンコ

Skriabin

 

 



月曜はどうにも冴えない。雨や晴れが目まぐるしく、気温の上下もあって、皆疲れている。今朝の電車も、運良く途中座れたら、即寝。爆睡である。
普段は1時間立っていて、座っている人が羨ましいが、自分が座れたりするともうそんなことはお構いなしに眠る。行き帰りの電車睡眠は誠に快楽。

今晩は、スクリャービンのピアノ協奏曲を聴く。ゲルハルト・オピッツのピアノに、キタエンコ指揮フランクフルト放送響の93年の録音。ジャケットには表記ないが、キタエンコの交響曲全集の1枚から。フランクフルトは全集をインバルとも録音していて、偶然ながら珍しい。

さて、この曲は何といったらいいのか? 一言でいうと、ショパンなのである。
そう、まるでショパン。さらに言うと、「ショパンを弾くラフマニノフ」といった風情。
1896年の作であるから、かなり後ろを振り返ったような作風なのだ。
後年のまがまがしい、神秘的・感覚的な作風には到底結びつかない。そしてあの一連の後期のピアノソナタ群ともかけ離れている。何が変貌の要因か、私はそこまでスクリャービンを知らないのでわからない。
ここに聴かれる、全編に溢れる詩情と情熱。作曲者24歳、青春真っ盛り。
ともかく、ショパンの第3協奏曲のようだが、素直に美しい音楽と思う。
オーケストレーションはかなりのもので、北国風の鄙びた管の雰囲気などなかなかだし、1楽章の魅力的な旋律を弦が透き通るように歌うところなどは、一度聴くと忘れられない。
 ピアノもさほどの技巧を要求されない雰囲気だが、ショパンのようにキラキラ弾いてはうまくいかない。程よく陰りや朴訥さも必要なのかもしれない。
終楽章の最後のピアノの和音が、オーケストラが鳴り終えても、しばらく残響のように伸ばされるのが印象的だ。

演奏は、二人ともカチッとしすぎており、もう少し柔軟さが欲しい気もするが、これはこれで曲が曲だから、まあいいのだろう。キタエンコの他の交響曲の演奏は、それは見事なもので、いずれじっくりと取り上げてみたい。
 この曲には、ピアニスト専任の頃のアシュケナージがマゼール/ロンドン・フィルと録音したものがあり、その昔FM録音して何度も聴いた。聴く私も青春してたわけ・・・。

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