カテゴリー「ワーグナー」の記事

2024年9月22日 (日)

ワーグナー 序曲・前奏曲集 ネルソンス指揮

Autum

秋の日の空は高く、澄んだ空気が気持ちいい。

しかし、いつまでも気温は高く実感できない秋はこのまま終わってしまうのか?

そんなこと思いながら、またまたワーグナー。

Wagner-nelsons

  ワーグナー 序曲・前奏曲集

 アンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

    (2016~20  @ゲヴァントハウス)

ブルックナーの交響曲全曲録音の一環に、その余白にカップリングされていたワーグナー。

全集を購入したついでに、自分でひとつのファイルにまとめて作曲年代順に聴いてみました。

  「リエンツィ」序曲 (2020)
  「さまよえるオランダ人」序曲 (2020)
  「タンホイザー」序曲 (2016)
  「ローエングリン」第1幕 前奏曲  (2017)
  「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死 (2021)
  「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲  (2019)
  「ジークフリート牧歌」  (2018)
  「神々の黄昏」 葬送行進曲  (2018)
  「パルジファル」 前奏曲 (2018)

2016年から5年間に渡る録音期間。
ネルソンスがゲヴァントハウスのカペルマイスターに就任したのが2018年なので、こうして聴いてみると、最初の頃の演奏の方が大胆でユニーク、最近のものになるほど、音楽の恰幅が豊かになり緻密にもなっているのがわかりました。

また母国ラトビアのリガの歌劇場の指揮者も務めていたこともあるように、オペラでの経験も豊富で、バイロイトではお騒がせノイエンフェルスの「ローエングリン」で2010年に登場し、その後は「パルジファル」も予定されたかがキャンセル。
コヴェントガーデンでも、ワーグナーをいくつか指揮しているので、45歳という年齢を考えれば、ワーグナー指揮者として今後も期待できる大きな存在といってもいい。
ゆくゆくは、バイロイトでのリングも期待したいところだが、復帰するティーレマンとの兼合いも・・・・

バーミンガム時代(2008~15)のネルソンスのスマートな姿は、そのままシャープな音楽造りに表れていたが、ここ数年の大きくなった、しかも髭面の恰幅いいネルソンスの音楽は、豊かになり、かつ掴みも大きくなり、よりドラマテックになったと思う。

ここに聴くワーグナーも、タンホイザーはまるで一幅の交響詩のようで、堂々たる構えを持ちつつ切れ味も抜群。
しかし、バイエルンでペトレンコが指揮した同曲は、快速でありながら中身がギッシリと詰ったオペラティックな演奏だった。
このように、これらのネルソンスのワーグナーは、ブルックナーの余白を意識したようなオーケストラピース的なあり方としての演奏に思った。
一番新しいトリスタンの演奏は、極めて美しく、ゲヴァントハウスの優秀さ、対抗配置の弦の素晴らしさを実感できるし、ここには情念的なもの、こってりした高カロリーのワーグナーはなく、洗練された高度なオーケストラ演奏の鏡のようなものを感じる。
リエンツィでも勇壮さは遠く、ノーブルさもあり、パルジファルもすんなり美しい。

批判するともなく、褒めることもない内容になってしまったが、これがいまの世界トップクラスのオーケストラ演奏なのだ。
より高性能のもうひとつの手兵、ボストン響とやってもこのように美しいワーグナーが出来上がるだろう。

言いたかったのは、ゲヴァントハウスのオーケストラ、かつてのコンヴィチュニーの指揮で聴き親しんだあの音はどこへ行ってしまったんだろう、ということ。
そりゃもちろん、半世紀以上も経ったいま、生き物でもあるオーケストラが同じ響きや音色を出すこと自体がありえないことだろう。
しかし、コンヴィチュニーで聴くベートーヴェンやシューマン、ブラームスは自分にドイツのオーケストラそのもののイメージを与えてくれていた。
豊かな低音域に、渋めの中音域に彩られたその音色は、ちょうどいま聴きなおしてもみたが変わらずに素晴らしい。
 このゲヴァントハウスの音が変ったのは、マズアあたりからだろうか。
80年代以降は、ヴィンヤード型の現代的な新しいホールも出来て、録音で聴く音色の変化も明らかになったと思う。
ブロムシュテット、シャイーと指揮者が代わっていくなか、ゲヴァントハウスも変わっていった。
トマス教会でのバッハも、歌劇場のピットのなかでも、シャイーの指揮で聴くそれぞれは、あのゲヴァントハウスとは違ってしまった。
コンセルトヘボウがシャイーで変化したのと同じ印象だ。

Leipzig

地図をみるとわかるように、同じザクセン州にある近くのドレスデンは、イタリア人指揮者をこれまでも迎えつつも変わることなくドレスデンだった。
重心の低い演奏をすることもあるネルソンスが、今後、ゲヴァントハウスとボストンで、どんな演奏を残し、オーケストラをどのように導いていくか、ともに名門オケだけに責任重大だとおもうのだ。
ドレスデンはチェコとポーランドにも近く、南ドイツのミュンヘンはもっと下の方で、同じくオーストリアもドイツからしたら南の国。
こうして飽くことなく地図を眺めるのが好きです。

Leipzig-2

こちらがライプツィヒの文化の中心地で、ゲヴァントハウスとオペラハウスは至近で、近くにはメンデルスゾーンの家もある。
そしてトマス教会も見えていて、この3か所でゲヴァントハウスのオーケストラは忙しく活動しているわけです。

今後のこのコンビに期待するとして、これらのワーグナーのなかで、いちばん気に入ったのが「ジークフリート牧歌」でありました。
愛らしく幸せな音楽が、キリリと引き締まった演奏で、まぎれもないリング作成中のワーグナーの音楽であることがよくわかる本格演奏。
オーケストラとの親密な雰囲気も感じさせるのも桂演、よきコンビの証。

肝心のブルックナーの方は、まだ全部聴ききれてませんが、いつかまとめたいと思います。
それにしても、アニバーサリーとはいえ、コンサートもCDもブルックナーばかりで大杉。

Autum-1

冬の煌めきとは違う、秋の宵の明星🌟

| | コメント (0)

2024年9月 8日 (日)

バイロイト2024 勝手に総括

Byruth2024_20240906093201

夏のワーグナーの祭典、バイロイト音楽祭は8月27日に終わり、ちょうどそのころは日本は居座る台風の影響で各地に被害が出ておりました。

ワーグナーの夏も終わり、台風の去ったあとは、朝に晩が過ごしやすくなり虫の音も優しく響きます。

ヨーロッパの音楽祭では、あとはプロムスが数日残すのみで、秋の本格シーズンを迎えることとなります。

行く夏を偲んで、恒例のバイロイト音楽祭を勝手に総括してしまうという試みをやります。

今年は祝祭劇場の写真を絵画風に編集し、タイトルもつけてしまった。

2024年の演目は、すでに取り上げた新演出の「トリスタンとイゾルデ」、「タンホイザー」(2019年)、「パルジファル」(2023年)  「ニーベルングの指環」(2022年)、「さまよえるオランダ人」(2021年)の5つ。
このうち3作品が女性指揮者によるもので、音楽面では画期的となったのが今年だ。
パルジファルはなぜか放送されなかったので、それ以外の作品を全部聴きました。
併せて、ずっと観たくもなかった「リング」の2022年プリミエ映像を全部視聴。

Tristan-11

  「トリスタンとイゾルデ」

    トリスタン:アンドレアス・シャガー
    イゾルデ :カミラ・ニールント
    マルケ王 :ギュンター・クロイスベック
    クルヴェナール:オルフール・シグルダルソン
    ブランゲーネ :クリスタ・マイヤー
    メロート :ビルガー・ラデ

  セミョン・ビシュコフ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
               バイロイト祝祭合唱団
      合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ

      演出:トルレイファー・オルン・アルナルソン
      
               (2024.7.25)

カーテンコールに応えるニールントとシャガー。
ドラマテックな声でないニールントにはイゾルデは重いかもしれないが、その細やかな歌唱と柔和な声がとても新鮮だったし、愛の死は感動的だった。
チューリヒなどで、ブリュンヒルデにもチャレンジしているが、じっくりとニールントならではの役柄を極めて欲しいものです。
そして、グールド亡きあと、フォークトとともにバイロイトを支えるヘルデンはシャガー。
厳しさも備えつつ、そのタフな声は3幕では劇唱だった!
ごちゃごちゃした装置や道具満載の舞台に圧された感のあるビシュコフの指揮は、来年さらによくなるものと期待。
解釈を施さなくては、という呪縛が、変な演出と原作の本筋を外してしまうという昨今の演出。
アルナルセンも同じくで、最初から好き合っていた二人、妙薬は飲まずに抱擁し、ふたりは別々に本来の毒薬を飲んで死んでいく。

Th-2024

  「タンホイザー」

    タンホイザー:クラウス・フローリアン・フォークト
    エリーザベト:エリザベス・タイゲ
    ヘルマン:ギュンター・グロイスベック
    ウォルフラム:マルクス・アイフェ
    ヴェーヌス:アイリーン・ロバーツ

   ナタリー・シュトッツマン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

     演出:トビアス・クラッツァー

5年目のクラッツァーのタンホイザーは、完全成功を勝ち取り、聴衆の評価も安定したものとなり多くが好意的なブラボーを飛ばしていた。
驚きの解釈に初年度はブーが飛びかったが、年とともにこの楽しめるタンホイザーが受入れられていった。
その点、後述するリングとは大違い。
グールドを継いだ2年目のフォークトのタイトルロールがよい。
明るい声の自由を夢みるロマンティストたるタンホイザーそのものだった。
タイゲの強い声のエリーザベトもステキで、彼女は将来のブリュンヒルデ候補だろう。
チームワークが出来上がってるこのプロダクション。
シュトッツマンの指揮も絶賛されていて、緩急自在の雄弁なオーケストラは聴きごたえがあったが、ややあざとさも見受けられたところも自分には感じた。
この指揮者は、オールソップのあと、アトランタ交響楽団の指揮者となっており、今後、オペラにオーケストラに活躍しそうだ。
小澤さんの弟子筋にもあたる彼女、次のパリ管の指揮者になるだろうと勝手に予想中。

Goetterdaemmerungbayreuthphotoenriconawr

  「ニーベルングの指環」

    ウォータン:トマシュ・コニェチュニー
    ブリュンヒルデ:クリスティーネ・フォスター
    ジークフリート:クラウス・フローリアン・フォークト
    アルベリヒ:オルフール・シグルダルソン
    ハーゲン:ミカ・カレス
    ジークムント:マイケル・スパイアーズ
    ジークリンデ:ヴィダ・ミクネヴィシウテ
    ミーメ:ヤ-チュン・ファン
    グンター:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
    グートルーネ:ガブリエッラ・シェラー
    フリッカ:クリスタ・マイアー
    ローゲ:ジョン・ダザック
    ファフナー:トビアス・ケーラー
       ほか

  シモーネ・ヤング指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

      演出:ヴァレンティン・シュヴァルツ

     (2024.7.28,29,31,8.2 )

コロナ禍に悩まされた本来は2020年にプリミエとなるはずだったリングも、はや3年目。
こちらもコロナ罹患などもあり、毎年指揮者が変ったが、今年はオペラの手練れ、シモーネ・ヤングが登場し、ついにピット内のオーケストラは安定を迎えることとなった。
ともかく安心、安定の肝を完全に掌握した指揮ぶりで、どこをとっても自然で、いつも言うことだが、ここはこう鳴って、こう響かせて、こういう感じで高鳴らして欲しいというところが、すべてずばりと決まっていて、聴いていてほんとに気分がよかった。
あのとんでもない演出、ことにクソみたいな「黄昏」のエンディングの舞台なのに、そこで鳴り響いたたワーグナーの音楽は、極めて素晴らしく、ほんとに感動した。
シャガーに代わって今年からジークフリートを歌ったフォークトが注目された。
チューリヒで歌ってはいたが、ついにフォークトのジークフリートがバイロイトに登場。
とんでもない演出で、無茶な演技をしいられながら、ジークフリートの成長をうまく歌で表現したし、ここでも明るい声がプラスに。
さらに声に厳しさを求められる黄昏では、思わぬほどに強い声で、え?フォークトなの?と思ったりもした。
こんな風に、聴き慣れたジークフリートの歌に一喜一憂したのも久しぶりで、結果を申せばフォークトならではのジークフリートだったのがすばらしかった。
 同様に素晴らしく、安定した歌唱を聴かせてくれたフォスターのブリュンヒルデは完璧で、その声に輝かしさも加わってきた。
10年前のペトレンコ指揮のリングからずっと聴いてきたけれど、今年が一番かも。
絶頂期に、日本の舞台でフォスターの声は聴いてみたいもの。
 コニェチュニーのウォータン、フリッカほかの諸役で活躍のマイヤー、クルヴェナールよりずっといいシグリダルソンのアルベリヒ、カレスのハーゲン、こちらもいずれも万全。
ベルリン・ドイツ・オペラで歌っている台湾出身のチュン・ファンのミーメも驚きの巧さと狡猾ぶり。
そして、今年絶賛されたのが、神々しいジークムントを歌ったスパイアーズ。
久しぶりに悲劇色あふれ、そして哀感も伴ったテノールを聴いた感じで、来年のマイスタージンガーでも登場予定。
ミクネヴィシュウテのジークリンデもやや声の揺れが気になったが、なかなかによかった。

という感じで、音楽面ではまずもって素晴らしいリングで、聴いてる分にはまったく満足。

Young

        バイロイトピットのヤングさん

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

気が向かないまでも、ようやく2022年の上演の模様を全幕全曲視聴。
自分においての結論からいうと、面白いアイデア満載の4部作ではあるが、それらがてんでバラバラに感じ、「よけいなことをするんじゃない!」という怒りを覚えた。
1976年のシェロー演出が、喧嘩沙汰の大騒ぎを引き起こし、神々の黄昏でジークフリートを刺したハーゲンに対し、「ハーゲンなにをしたのだ」と責める言葉をもじって、「シェローよ、なにをしたのだ」と揶揄されたものだ。
しかし、このシェロー演出は年を重ねるごとに評価を改め、高く評価されるようになり、バイロイトの聴衆にもしっかり受け止められるようになったのだ。
2022年のプリミエ、ことに最後の黄昏のカーテンコールでは、出てきた演出陣に対して容赦ない激しいブーイングがなされた。
翌年の2023年も同じく非難のブーは大きく、そして今年2024年もまったくブーは収まることなく激しかった。

多くの聴衆、そして映像で見たワタクシにも受け入れがたいのは、神話がベースのリングの物語から、その神話性や必須のモノが一切登場せず、ことごとくそれらを否定してみせたことだ。
なんたって、ストーリーと音楽の核心、争奪戦となる「指環」がこれっぽちも出て来ない。
ワーグナーが微に入り細に入り造り上げたライトモティーフが鳴っているのに、それを意味するモノや行為がまったくない。
4つの楽劇の連続性があるのは認めるが、下らん解釈を施すので、それらが矛盾だらけで一貫性がない。
わざと逆張りをしているかのような腹の立つ解釈を無理無理にしてる。
ワーグナーの素晴らしい音楽が、アホらしい舞台で台無しになっているのだ!
指揮者と歌手には最大限の賛辞を捧げたいが、映像で見ると、歌手たちはほんとにプロだと思う。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ネタバレを承知のうえで、アホな内容を羅列しておこうではないか。
画像は2022年のもの

「ラインの黄金」

Rhein

・ラインの黄金の始まりは、胎児ふたりの映像、これでもってきっと黄昏の最後も、胎児来るかなと思ったらちゃんと来た。
・幼稚園の先生のようなラインの乙女たちはプールサイドで子供たちの世話
・アルベリヒは子供をさらってしまう
・ウォータン一家は、みんな原色のカラーの服で、アメリカのエスタブリッシュな家族のように見える
・ニーベルハイムは幼稚園のクラスのようなキラキラルームでで、女の子たちはお絵描き中
 黄色いポロシャツの男の子が浮いていて悪さばかりする
・ミーメは優しいヲタク、男の子はピストルを持っていて狂暴
・子供を連れ去るウォータンはピストルも手に入れる
・巨人たちが報酬を求めてくるが、指環じゃなく男の子を持ち去る
・巨人兄弟の争いは、メリケンサック(ナックルダスター)でひとたまりもなくぶっ殺し
・フライアは目の前のピストルを茫然と見つめる自殺をほのめかす
・ローゲはスワロフスキー指揮のリングのレコードをかけ、虹の架け橋の準備、踊るウォータン

War21

「ワルキューレ」

・ジークリンデはすでに身重に・・誰の子やねん
・冬の厳しさも去り・・と歌うジークムント、四角い明りの蓋を取るとそこにはピストルが
・グラーネは馬でなく、馬のたてがみのようなロンゲのおじさんで、やたらとスマホで写メ撮り
・フライアの遺影がある
・ウォータンのジークムントを守るなの命令にブリュンヒルデはやたらと切れるし、叫んだりと異常
・逃避行の兄妹、臨月寸前、苦しむ妹にウォータンが近づき、下着を脱がせてなにやらしようとしてる
・戦いのシーン、ジークムントは父の姿を認め、喜びの顔するが、ウォータンは無慈悲にもピストルで射殺
・gehとフんディングに命令するウォータン、普通に行ってしまうフンディングで死なない
・整形外科の待合室のワルキューレたちは、超ワガママで、スマホで自撮り、ファッション誌を楽しみ、
 ブランド品に身を包み、豊胸手術成功を自慢
・逃げてきたジークリンデはもう出産していて、ブリュンヒルデが赤ちゃん抱いていて、そのあとはグラーネ男が抱く
・さすがのわがままワルキューレたちも、ジークリンデの感謝の場には感動して泣いてる
・ウォータンから放出の命令を受けるブリュンヒルデに、ほくそえみ嬉しそうなワルキューレたち
・ブリュンヒルデは眠らされず、どこかにいなくなり、ウォータンはひとりで告別を歌う
・フリッカがワインを持って出てきて乾杯を促すが、ウォータンをグラスからワインを捨て拒否る
・ワインを運んできたカートに乗る1本のろうそくの炎をクローズアップしながら幕

Sieg_20240908111601

「ジークフリート」

・ヲタク風のミーメは、いろんな人形を作成、ジークリンデもいる
・鍛冶場はなく電子レンジに、水槽
・ジークフリートは熊追いはなく、ボトル片手にヘロヘロで登場
・ミーメの体を拭いてあげたり、なにかと介護をしてるジークフリート
・高齢化のミーメ、訪問したさすらい人もよろけたりする。
・ミーメがジークフリートに女性のヌード写真を見せると、メチャ欲しがる
・壁の向こうで炎、剣はなんやら細くて頼りないフェンシングの剣みたいなもの
・寝たきり、点滴中のファフナーに看護師が付き添いお世話。
・傍らには黄色いポロシャツとジーンズの青年、これはラインの黄金の子供か!
・アルベリヒがちっちゃい花束を持って面会に、そのあとはお供をつれたさすらい人がゴージャス花束を持って登場
 ちっちゃい方の花束、看護の女性に捨てられてしまう
・二人は、その後も残ってソファでウィスキーを飲んでる
・ミーメに連れられたジークフリート、森はひとつもなく、ソファでくつろぐ。
・若い看護師がファフナーにセクハラを受け、ジークフリートが優しく接する
・起きだしたファフナーをベッドから叩き落してしまうジークフリート
・敵意と憎しみの顔の黄色いポロシャツ男に、戦利品のメリケンザックを渡すジークフリート
・若い看護師は森の小鳥だった。
・看護師、ジークフリート、ミーメ、黄色いポロと4人のソファー
・ミーメがだんだんとおかしくなってきて、酒をちゃんぽんで配合、
 ジークフリートは剣でぶっ刺し、このシーンをまんじりとせず観察するポロシャツ男
・2幕と同じ部屋、ホームレスのようになったエルだは、ボロボロの若い娘を連れているが誰?
・さすらい人がジークフリートを阻止するのは槍でなくピストルで、あの華奢な剣で叩き落されてしまう
・寝てないブリュンヒルデは、立ったままで、包帯とマントにサングラス、傍らにはグラーネ男
・黄色いポロシャツも着いてきてるが、彼はジークフリートがブリュンヒルデに近づき起こそうとしている姿に怒りを禁じえず、姿を消す
・二重唱では、ブリュンヒルデの拒絶に合い、ジークフリートはヌード写真を取り出して思いを焦がす(会場は笑い)
・ふたりを迎えにきた車のヘッドライトが窓外に、家を走り去る 即座にブーイング

Go94d51

「神々の黄昏」

・お化けのようなノルン3姉妹、浮き輪のような輪っか、びびる少年
・幸せな雰囲気のリビングルーム、子供時代のジークムントとジークリンデの絵と、いまのジークフリートとブリュンヒルデ写真
・優しい母親のようなブリュンヒルデ、旅立ちたいジークフリート
・白髪となった老いたグラーネ男は、2つのスーツケース、リュックを持ってジークフリートに従って行く。
・ギービヒ家は新築間もない様子でお手伝いさんが、かいがいしく働く。
・ハーゲンは黄色いポロシャツとジーンズで、ここで正体がわかった。
・ロン毛、グラサンのちゃらいギュンターにけばけばしいグートルーネは、いかにも金持ち風

Goette3

・あらわれたジークフリートは忘れ薬が即効きで、グートルーネを抱きしめ、ひっぱだかれる。
・急にグラーネ男に冷淡となり、ねっとしした液体をかけて虐める
・ジークフリートが去ったあと、ハーゲンの独白のときに、血だらけになり拷問を受けたグラーネ男が運ばれてくる
・ワルトラウテも歳をとり、ブリュンヒルデがいれたコーヒーに砂糖をカップ1杯いれてしまう
・変身したグンターはそのまま登場し、やたらと暴力的で無謀でブリュンヒルデを襲う
・ボクシングをするハーゲン、スパークリングの相手をするアルベリヒ
・呼びかけに応じ出てくる人々は、みな神々のお面
・ビビるブリュンヒルデとともに連れてこられた子供
・裏切りを怒りまくるブリュンヒルデ、おどおどしまくりのグンターに、傍観者のような人々
・復讐を誓う場では、3人は神々の仮面、舞台には仮面が散乱し、それはエイリアンのようにも見えた
・ライン川のほとりは、朽ちた船の船底で、上部は鉄柵で仕切られている。
・落ちぶれたラインの乙女たちの服やバックは綻びだらけ
・ジークフリートは少年に釣りを教えている。
・ハーゲンは下に降りてくるが、酔ったグンターと男たちは上部にいて出来事をのぞき込んでる
・グンターは白いレジ袋を持っている
・思い出しの酒を次々と飲むジークフリート、子供は横で寝てる
・ハーゲンは、メリケンサックをポケットから出して眺めながらも、
 ナイフでジークフリートを刺す
・上から何するんだと人ごとのように言うグンターたち。
・グンターはレジ袋を下に投げ落として逃げてしまう。
・葬送行進曲が響くなか、ハーゲンは傍らでなぜか寂しそう、子供はジークフリートが動かなくなって泣いている
・ブリュンヒルデはラインの乙女たちを伴って上部に登場。
・グンターもグートルーネも後ずさりしていなくなる
・モノローグの合間に、ブリュンヒルデはジークフリートの眠る船底に降りてくる
・グンターの捨てたポリ袋から、驚くことに、グラーネ男の生首を取り出して、それを抱きしめ、愛おしそうに歌う
・首を抱きつつ、ジークフリートの傍らに横たわり、上空を指さして夢見心地になりつつ、救済の動機が鳴る
・むき出しの無数の蛍光管が降りてきて、壁には胎児の映像・・・

        幕 激しいブー

なんじゃこりゃ・・・・

徹底的に私たちの「指環」の概念を壊す。
そこに持ち込んだのは、神々、人間界、地上と地下に住まう登場人物をすべて人間化。
しかもその人間たちの価値観、家族観の崩壊をテレビドラマ(いわゆるNetflix風なアメリカンな陳腐なドラマ)に落とし込んでみせた。
ドラマは常にリビングルームや寝室など室内で展開し、森や川、山といった大自然はひとつも出て来ない。
愛馬グラーネさえも擬人化されオッサンになってた。
肝心の指環はまったくないし、隠れ兜、剣、槍、黄金、炎・・・いずれもなし。
 では、争奪戦が繰り広げらる「指環」はどこへいった、代わりはなんだったのか・・・
それが「子供」だった(たぶん)。
だとすると、アルベリヒが連れ去った攻撃的な男の子が指環に?、女の子たちは黄金?
この男の子は、成長し病床のファフナーの傍らにいたし、次はジークフリートに着いていくが、頼りのジークフリートがブリュンヒルデと結ばれるのを見るや姿を消す。
かわりに黄昏ではハーゲンであったことが判明。
ハーゲンはジークフリートに敵意を示しつつも、殺したあとに寂しそうに悔恨の様子を示すし、残された子供をいたわったりもしてた。
で、ブリュンヒルデとジークフリートに子供がいたという無理筋の設定が噴飯で、この可愛い、男の子とも、女の子ともつかない子供は、ブリュンヒルデの自己犠牲のモノローグが始まると倒れて死んでしまう。
何なの??
この理解できない歌わない登場人物たち、そしてト書きには出て来ない人物たちが、平然と出てきて、その場で重要な役回りをしてしまう、これを冒涜と言わずしてなんだろうか!

若いシュヴァルツは、子供のときからショルテイのリングのレコードに親しんできたというが、妄想もほどほどにして欲しい。
登場人物たちが、スマホを使いこなし、さかんに写メを撮りまくり、ワルキューレたちは整形で見栄えにこだわる。
ネットの世界に溺れる若者、35歳のシュヴァルツ君なのでした。

※以上は、あくまで、わたくしの私見にすぎません


Hr-2024

  「さまよえるオランダ人」

    ダーラント:ゲオルク・ツッペンフェルト
    ゼンタ:エリザベス・タイゲ
    エリック:トミスラフ・ムジェク
    マリー:ナディーヌ・ワイズマン
    舵手:アッティリオ・グレイザー
    オランダ人:ミヒャエル・フォレ

   オクサーナ・リニフ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

      演出:ドミトリー・チェルニアコフ

       (2024.8.1)

4年目のこちらも聴衆から受け入れられ、同時に安定したオーケストラと歌唱がますます充実してきた感じだ。
思わぬ悲劇的な結末の伏線がいくつもあり、それを見出したり、あとで気が付いたりするのが刺激的な楽しみでもあるチェルニアコフ演出。
リニフ女史の的確かつ、舞台の呼吸も心得た指揮ぶりは、聴いていてどこにも破綻なく安心なもの。
できればオランダ人だけでなく、シュトッツマンとオランダ人、タンホイザーを交互に指揮してもらいたく、聴いてみたいものだ。
ルントグレンが降りたあとのフォレの滑らかな美声のオランダ人、これまたグリゴリアンのあとを受けたタイゲのゼンタ、これまた安心安全の奥深いツェペンフェルトのダーラント、実によい布陣だった。

2年目のパルジファルが聴けなかったが残念だが、今年もバイロイトのワーグナーは音楽としては自分には大成功だったと思います。

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

バイロイトのワーグナー家の当主カタリーナ・ワーグナーは、2030年までその地位にとどまることが決定。
その後のこと、ワーグナー家の血筋を引く人物はほかに?などと今後も興味はつきないです。

音楽祭開始前に、以前も書いた通り、文化大臣が、音楽祭をもっと若々しく、多用的にしなくてはならない、たとえば「ヘンゼルとグレーテル」などの上演にも門戸を開くべきと発言し、大々物議をかもした。
ドイツ政府は正直狂ってると思ってるので、ワタクシなどの東洋から本場を崇める主義の保守的な人間には許しがたいものと受け止めた。
一般の方からも大反対を受け、件の大臣はトーンダウンしたようだが、カタリーナ・ワーグナーは実績として、子供のためのワーグナーオペラをやっているので、若返りとかいう指摘はお門違いだし、子供たちのなかからさらなるワグネリアンは間違いなく生まれるのがドイツだと思ってます。

Gould

音楽祭の最初や合間に野外コンサートも行われてますが、今年は昨年亡くなったステファン・グールドの追悼も行われたようだ。
これらのコンサートが放映や放送されないのは残念。

合唱指揮のエバーハルト・フリードリヒが今年で退任となり、後任はエイトラー・デ・リントという若いオーストリア人指揮者となる。
コスト削減で人員が大幅削減となってしまう合唱団に新風を吹き込めるか。
思えば、バイロイトの合唱指揮者も歴代長く、それぞれに名匠でありました。
  1951~1971  ウィルヘルム・ピッツ
  1972~1999 ノルベルト・バラッチュ
  2000~2023   エバーハルト・フリードリヒ

来年の演目は新演出の「マイスタージンガー」が、英国人のマティアス・デイヴィッズで、ミュージカル系の演出からオペラ演出へと幅を広げた人らしく、どんな歌合戦になりますか?
無難な指揮者の選択、パルジファル以来のガッティの指揮ですが、私は好きなヨアナ・マルヴィッツさんに登場して欲しかった。
再演の「リング」「パルジファル」「トリスタン」に加え、ティーレマンが久々に登場して「ローエングリン」再演を指揮する。

その先のことも発表されていて、2026年には「リエンツィ」が初めて上演。
2028年にはリングが刷新され、指揮は早くもカサドとアナウンスされている。
そして2027年からは、新制作が2作目途となり、これまではだいたい4~5年ぐらいのサイクルだったものが、人気の出たロングラン演出以外は、ほかの劇場でも上演できるようにするという。
それがコストを意識した共同制作なのか、あくまでバイロイトからの貸与となるのか、興味は尽きないが、もしかしたら日本の新国立劇場でもバイロイトと同じものを観劇することができるようになるかもしれない。
これは画期的ではありますが、一面でバイロイトに行かなくてはならない独自性と希少性も失われることになるわけだ。

ますますほかの劇場と同じようになりつつあるバイロイト。
若き頃に、バイロイトに行くことを夢見て焦がれた自分は、いまや歳も重ね、思いは遠くになりにけり、だ。
  

| | コメント (0)

2024年8月 7日 (水)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ビシュコフ指揮 バイロイト2024

Wagner-bayreuth-24

画像はドイツのニュース記事から拝借してます。

バイロイトの夏、今年も7月25日に開幕。

新演出は「トリスタンとイゾルデ」

一昨年、昨年と「トリスタンとイゾルデ」は上演されたが、それはロラント・シュワヴによる新演出で、今回のものは、アイスランド出身のトルレイフル・オルン・アルナルソンという演出家による、これまた新演出。

2020年がコロナ禍により音楽祭中止で、そこで予定されていたリング新演出(シュヴァルツ演出・インキネン指揮予定)が2年延期となり、翌2022年の上演となった。
コロナでリング中心の新演出上演のサイクルが乱れ、荒れるだろうと予測された破天荒のリングの不満のハケ口のようになったのが、2年前の穏健なトリスタンだったと思う。
2年で交替となったからには、今回の新演出への期待はいやでも大きかったが・・・・

2026年には、これまでバイロイトで上演されたことのない初期3作のひとつ「リエンツィ」が上演されるが、ことしの音楽祭前には、文化・メディア担当大臣のクラウディア・ロートが、バイロイトをより多様で若々しいものにしなくてはならない、「ヘンデルとグレーテル」のような作品も上演されるべし、と発言して炎上。
たしかに、フンパーディンクはワーグナーの後継でもあったが、より多くの層の観客に愛されるべしとの思いからなのだろう。
遠く、東洋の果てから、バイロイトに憧れを抱いてきた私たちからすれば、そんなのやめてくれ!ってことです。
ちなみに件の大臣さんは、緑の党の系統といいますので、押してしるべし・・・

※以下、画像はバイエルン放送局のものを拝借してます。

Ich borgte das Bild von der Stelle vom BR, die Station ausstrahlt.

Ich lasse dich sofort einen Staat von Bayreuth vermitteln und danke dir jedes Jahr sehr.

Tristan-kino

  ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

    トリスタン:アンドレアス・シャガー
    イゾルデ :カミラ・ニールント
    マルケ王 :ギュンター・クロイスベック
    クルヴェナール:オルフール・シグルダルソン
    ブランゲーネ :クリスタ・マイヤー
    メロート :ビルガー・ラデ
    牧童   :ダニエル・ジェンツ
    舵手   :ロウソン・アンダーソン
    若い水夫 :マシュー・ニューリン

  セミョン・ビシュコフ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
               バイロイト祝祭合唱団
      合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ

      演出:トルレイファー・オルン・アルナルソン
      装置:ヴィータウタス・ナルブタス
      衣装:シビル・ウォーラム

          (2024.7.25 @バイロイト)

バイエルン放送の生放送を録音し、すぐさまに視聴。
今年もあの素晴らしいバイロイトの木質のサウンドが聴ける喜び。
美しい弦が、左右に分かれて展開し、やがそれがうねりを呼び、熱気へと向かい、ピークに達したあとに静まってゆく、この前奏曲を堪能し、若い水夫のテノールソロが始まる。
トリスタンを聴くとき、まず最初にワクワクするところだ。

Tristan-04

イライラと動揺を隠せないイゾルデの第1声は、バイロイトでのイゾルデデビューとなる、ニールントだ。
年々、ドラマテックな役柄にレパートリーを広げてきたニールント。
今年はチューリヒで先行したイゾルデに、ブリュンヒルデ、そしてバイロイトでイゾルデで、私は大丈夫かなと危ぶんだが、彼女は決して無理はせず、ニールントならではの細やかな歌唱で決して絶叫することのない、優美ともいえるイゾルデを歌ったと思う。
確かに声量という点では不満が残るが、いつものシュトラウスを歌うニールントらしい、やや硬質の声は魅力的だと思いました。
思えば2007年にニールントのマルシャリンを観劇して17年、年月とともに大歌手となったものです。

Tristan-05

相方のトリスタンは、もうこの役柄では定評あり、ジークフリートと並んでトリスタンは、シャガーがいないと成り立たないくらいのものになりました。
演技も声も、やや楽天的になる傾向のあったシャガーは、ここではそんな雰囲気は影をひそめて、極めて厳しいストイックな歌唱に感じられ、映像でもそんな姿を認めることができたのは大きな収穫。
3幕の長大なモノローグでは、それこそ声が枯れんばかりの劇唱で、ある意味聴いてて手に汗握るくらいでした。
終演後、いちばん大きな拍手とブラボーを受けていたのもわかります。

2幕でなぜかブーイングを浴びてしまったグロイスベック。
素晴らしいツェッペンフェルトに聴き慣れてしまったのか、少しクセのあるグロイスベックがお気に召さなかったのか。
はたまた、ウォータンを降りてしまったことへの反発か、バイロイトの聴衆は厳しいが、わたしは好意的に聴いた。

ブランゲーネのクリスタ・マイヤーがとても素晴らしく、主役ふたりに次ぐ喝采をあびていた。
昨年までメロートだったシグルダルソンのクルヴェナールは、声の質が軽すぎるように感じ、サンタクロースみたいなもっさりした風貌もトリスタンの機敏な朋友には見えにくかった。

Tristan-03

総じて歌手は見事で、その歌手たちがきっと歌いやすかったであろう、そして情報少なめの舞台を補完するような雄弁かつ説得あるオーケストラを率いたのがビシュコフ。
概してテンポは遅めだったが、その遅さはまったく感じず、豊かなダイナミズムは、繊細なピアノから強いフォルテまで、行く段階ものレベルを備えていて、ときには歌手に寄り添い、歌手たちを燃え立たせ、もしかしたら退屈な舞台を鼓舞するよな指揮ぶりだった。
ロシア人だったビシュコフは、カラヤンに注目され楽壇にデビューしたが、華やかなキャリアを歩まず、案外と地味な存在であり続けた。
そのビシュコフがチェコフィルで成功し、オペラもウィーンやドレスデン、パリで着実な歩みをみせていて、巨匠の第一候補かと思います。
 私は2008年のパリ・オペラ座の来日公演で、ビシュコフ指揮でおなじトリスタンを観劇しました。
パリのオーケストラの音色もあり、肌ざわりのいい粘らない、それでいてニュアンスが極めて豊かな音を引き出していることも素晴らしかった。
それと木管や特にホルンに日頃聞きなれないフレーズが強調されたりと、とてもユニークかつ新鮮。
ビシュコフのトリスタンの音源としては、2006年ウィーン国立歌劇場(マイヤー、ウィンヴェルイ)、2013年プロムス(ウルマーナ、スミス)の2種を聴いているが、タイムは今回のものとほぼ同じであったことも興味深い。
以上、総じて歌手たちと指揮に関してはほぼ万全だし、新鮮なイゾルデが聴けたことも大きい。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アイスランド出身のアルナルソンは、もともとは俳優として劇場とのかかわりをスタートし、演出家としてはウィスバーデンの劇場で活躍をしているようだが、私は初めて耳にする名前。
北欧的なものを意識して演出をしてきたようで、劇としての「ペールギュント」で大成功を納めたりしていて、「パルジファル」も手掛けているようだ。

Tristan-08

今回のトリスタン演出、工夫して映像で見た私の印象は、よけいなことはしてないかわりに、可も不可もない無難なものでありつつ、装置や衣装へのこだわりをみせたものの、それらがトータルとして雑多でごちゃごちゃした印象を与え、美的には好ましくないものに終始した。
演出をしたという解釈としては、目新しいところはあったが、それはトリスタンのあるべき本質をあえて外してしまったものに思われた。

Tristan-06

トリスタンとイゾルデが、禁断の関係を結んでしまうきっかけが、ブランゲーネが忖度した媚薬。
しかし、この演出では、イゾルデが手にした薬の瓶は、媚薬でなく毒薬。
1幕でトリスタンはイゾルデから瓶を奪い取るが、それを飲むことなく、二人は初めて見つめ合い、なんだ、もとから好きだったんだようという楽天的な抱擁を交わす。

Tristan-07

2幕で、メロートに率いられたマルケ王が乱入するが、トリスタンはイゾルデに着いてくるかい?と故郷のことを歌いつつ、毒瓶を飲んでしまう。
メロートの剣に飛び込むのでなく、自らが独薬を飲む。
さらに、その瓶を奪い飲もうとしたイゾルデからは、メロートが瓶を取り上げて放り投げる。
メロートは嫌なヤツでもなく、トリスタンを愛するおホモだちのように見えたがいかに・・・
3幕では、死に際に飛び込んできたイゾルデは、生きてください、どうして?何で?と歌うモノローグのところで、毒瓶を飲み干してしまう。
トリスタンの死ぬ、その横で、イゾルデは死に際の歌のように、「愛の死」を歌ってこと切れる・・・

Tristan-10

このように媚薬はなく、死を覚悟した毒薬が、主役の二人を死に導くというストーリー解釈だった。

これには怒る聴衆がいてもおかしくない。

ブラボー飛び交うカーテンコールの最後に出てきた演出チームには、今年も容赦なくブーイングが浴びせられた。
シュヴァルツの2年前のリングほどではないが。
しかし、ブーに恐れをなしたアルナルソンは、チームのほかの4人を残し、カーテンの裏に駆け込み、歌手たちを招きだそうとした。
歌手たちは、そんな準備も出来てないので、しばしの間、演出の張本人の欠けた、装置や衣装、照明の担当たちがカーテンの前で立ち尽くすこととなった。
ブーで自信消失となったアルナルソンのこの奇態はまずかったな・・・
堂々としたより若かったシュヴァルツ君の方が立派だったと思うよ。

そもそも、そんなにビクビクすることはない、独自の解釈だったと思う。

この楽劇で死んでしまうのは、この演出では「トリスタンとイゾルデ」だけだった。
メロートもクルヴェナールも、兵士たちも、みんな戦わず、死ぬこともなく、ふたりの恋人の死を、ブランゲーネやマルケとともに見つめ立ち会うのだった。
歌っている内容との矛盾にあふれてはいるが、ふたりの死のみをクローズアップした演出だろう。
こうすることで、登場人物たちは、静的で動きが少なく、背景で見つめ立ち会う存在のようにもなり、マルケも悩みつつも立ち尽くし、また座りつくす存在となっていて、全体の印象を単調にしてしまう結果ともなったと思う。

Tristan-01_20240807162101

その単調さに比して、舞台装置の雄弁さと雑多さには苦言を呈したい。
1幕で結ばれた二人が船に空いた穴から下をのぞき込んで終了したが、2幕のふたりの逢瀬は、きっとその船の船底。
そこには古今東西の美術品やらイゾルデの幼少時代の写真やら、あきれるほどによくできたリアル品々がびっしり並んでいる。
マルケはトレジャーハンターなのか、世界からお宝を収集するオタクなのか、イゾルデもそんな収集品のひとつだったのだろうか。
3幕は、トリスタンの故郷のコーンウォールとは思えず、2幕のままにその場が朽ちただけに見えた。
あまりに小道具が多すぎて、気分がそがれることこのうえない。
死に体のトリスタンの元に駆けつけるイゾルデは、ものが多すぎる、こうしたごちゃごちゃした道具を乗り越えて、そろりそろりとやってくるので、切迫感ゼロだ。

こんな風に変なとこもあげればキリがないが、この演出家の意図は、今後よく見て考えてみたいし、海外評なんかも読んでみたいと思う。

演奏は全然OKで素晴らしく、演出は消化不良でイマイチ、でも余計なことしてないので頑張りました!
ということに今年はさせていただきました。

毎年毎年、勝手に偉そうなこと書いててすいません。
これもまたバイロイト、ワーグナーの楽しみなのですから。

今年は、あと「オランダ人」「タンホイザー」「リング」「パルジファル」が上演されている。
残念ながら「パルジファル」の放送がないが、ほかの作品は順次聴いております。
また書くかもしてません。

来年は、ガッティが新演出「マイスタージンガー」、ティーレマンが再演の「ローエングリン」が追加されるので、タンホイザーとオランダ人はお休みか。
そして早くも次の28年の「リング」の指揮に、カサドの名前があがっている。

Hoozuki-1

手水舎にあった涼しげな、「ほおずき」。

夏本番🌻

| | コメント (0)

2024年7月21日 (日)

ワーグナー 「タンホイザー」

Izumo-1

数度目かのワーグナー全作シリーズ。
初期3作、オランダ人についで、ようやく「タンホイザー」
全作シリーズは、もういい歳になってしまった自分、きっと最後です。
2回にわけて、音源、舞台経験、映像とジャンルをわけて総括。

その前に、以前の記事から少し編集をして、作品の概要を。

オランダ人、タンホイザー、ローエングリンのロマンテックオペラ3作は、後期に花開くドラマムジークへの序奏でもあり、初期3作で試みた当時のオペラスタイル(ベルカント、国民オペラ+ブッファ、グランドオペラ)をさらに発展させ、ライトモティーフのさらなる活用や番号オペラの廃止で、ドラマと音楽がより緊密に結びつき、緊張感とロマン性が流れるように、しかもおのずとあふれる作品群となっている。

タンホイザー」は、「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦のロマン的オペラ」という長いタイトルが当初のもの。
パリからドレスデンに移ったワーグナーは、「リエンツィ」と「オランダ人」の成功でその地で宮廷指揮者の職を得て、順風満帆のなか、「タンホイザー」を仕上げた。
1945年のことで、初演は大成功。
その後、聴衆の理解をさらに深めるように改訂をして、これが「ドレスデン版」となる。
管弦楽作品として聴かれる序曲が15分間演奏され、その後ヴェヌスブルクの音楽が少し入る版である。
1861年にパリでの上演を依頼された際に、序曲の途中からヴェヌスブルクの音楽になだれ込み怪しいバレエを挿入したり、歌合戦の一部を割愛したのが「パリ版」である。
さらに、ドレスデンとパリの両版の折衷版が「ウィーン版」とも呼ばれ、これがまた「パリ版」などと称されているからややこしやぁ。
指揮者や演出家によって、いろんなミックスバージョンがあるから、さらにややこしい。
でも昨今はドレスデン版を基調に、バレエ軍団の活躍の場を広げるためにも、折衷版が主流になった感あり。

舞台でもCDでも、最後の場面は涙なくしては聴けない。
エリザベートの自己犠牲から、法王からは杖にした枯れ枝から芽が生えないように、お前の罪は消えることはない!と宣言されながらも、奇跡の発芽。
ここに流れる奇跡のような音楽は、あらゆる音楽のなかでも極めて感動的なものと思う。

ワーグナーの劇音楽作者としての天才性は、このあたりにも如実に表れている。
こうした人間にとっても普遍的な感動は、演出家にとって、極めてやりがいのあるもので、逆に昨今のなにかを付け加えなくては存在意義を失った演出家には、これまた絶好の素材となるのでした。

中世13世紀頃、神聖ローマ帝国にあったドイツ中部のテューリンゲンが舞台。
ミンネジンガー=吟遊詩人たちは、高尚な恋愛や騎士道を歌にして、城内や貴族館などで歌い演じていて、それは職業ではなく、従者や城仕えのサラリーマン、騎士、貴族などだった。
2幕のヴァルトブルク城での歌合戦では、美辞麗句、高尚なる古風な純愛、建て前ばかりにの歌を披露する騎士たち。
それを聴いて生ぬるい、俺はもっと愛を極め、酒池肉林の世界に行っていたことをカミングアウトしてしまうタンホイザー。
  ローマ神話の愛と美をつかさどる女神であるヴェーヌスは、原始キリスト教においては、キリスト教を迫害する側のローマの神々であったし、それはカトリックにおけるマリア信仰と対をなす官能の女神として邪なる存在であった。
 その世界におぼれてしまっていたタンホイザー。
キリスト教社会から足を踏み外してしまったアウトロー。
身バレしてしまったタンホイザーは即座に、異端のとんでもないヤツとされ凶弾。
しかし、そこへ身を挺して、必死に彼の命乞いをするのがエリーザベト。
この場面は、重なる年齢とともにその味わいが増ように思え、若い頃は大げさに感じたこのシーンが、人の痛みや苦しみを共感しようという高潔なヒロインの真摯な歌に心から感銘を受けるようになったと思う。
しかし、こうした献身的な女性の麗しい姿も、いまや女性差別の批判の的ともなります。
「自己犠牲」という言葉がいまやフラット社会やポリコレの対象となりかねない時代。

ほんとに、ばかやろうといいたい。
こんな風潮のもとにおもねって演出にそんな要素を入れてしまった連中、歴史の揺り戻しで、そんな思想は消されるときがくる。
だから言いますよ、ひねくりまわさずに、ト書きを中心とした演出に解釈をくわえればいいじゃんよ。

と、また怒りだしてしまうのですが、ここからは手持ちの音源を振り返ります。

ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー (1970)
  
Tammhauser-solti

トリスタンとリングに続いてショルテイが録音したワーグナー。
デッカの鮮やかなゾフィエンザールでの録音芸術はここでも鮮やか。
レイ・ミンシャル、ゴードン・パリー、ジェイムズ・ロック、コリン・ムアフットなど、この当時のカルショウ後のお馴染みのデッカチーム。
シカゴでの指揮活動も本格化し、同時期にはマーラーの5番や6番も録音。
オペラ中心から、コンサート活動へとシフトしていった時期でもあります。
ゴリゴリの剛直な指揮から、柔和さも加わり、多彩な表現力を示すようになったショルティさん。
ウィーンフィルを締め上げずに、柔らかなホルンや管の持ち味も生きていて、このジャケットにあるようなヴァルトブルク城の幽玄な雰囲気すら感じさせます。
若いコロの貴重な時期の録音は、甘味すぎる声で、後年に舞台で観劇したときの頭髪も後退し、人生に疲れた味のある歌い口とは別人のようなのです。
さらに2014年に、ルネ・コロのさよならコンサートでも、ローマ語りは聴いたが、そこでの苦渋に満ちた歌いぶりに、この不世出のテノールの行きついた境地に感嘆したものです。
清廉なデルネッシュもいいし、ルートヴィヒの贅沢すぎるヴェーヌスもよい。
若いゾーテインの美声のヘルマンもいいが、ブラウンのウォルフラムはちょいと弱い。
ピッツとバラッチュの指導する合唱も強力。

②ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 バイロイト (1962)

Tammhauser-sawallisch

61年から始まったヴィーラント・ワーグナーの演出2年目のライブ。(過去記事をコピペして編集)
ドレスデンとパリの折衷版ともいえるウィーン版。
バレエの振り付けにモーリス・ベジャール、ヴェーヌスに「黒いヴェーヌス」として評判をとった
グレース・バンブリーが歌ってセンセーションとなったが、いまではあたりまえのことで、隔世の感あり。
でもサヴァリッシュの指揮は、いまでも鮮度が高く活気に満ちている。
音楽がどこまでも息づいていて、それがドラマにしっかり奉仕していて気の抜けたところが一瞬たりともない。
この素晴らしい緊張あふれる指揮ぶりは、同時期に担当したオランダ人とローエングリンにも共通して言えることで、時にその意欲が空転してしまいオケが走りすぎてしまうところもある。
サヴァリッシュのこの清新な指揮ぶりは、後年若さによる踏み外しがなくなり、さらに磨かれつくし知的でスタイリッシュな音楽造りになっていく。
この頃のヴィントガッセンは歌手としてピークで、その後のベームとのトリスタンやジークフリートは絶頂期からややピークを過ぎたあたり。
ここで聴くタンホイザーの声は威勢もよく、ドラマティックな威力も抜群で、意気揚揚とヴェーヌスに三行半を叩きつけ、歌合戦でも夢中だし、ローマ物語もヤケのやんぱちになってしまうところが凄まじい迫真の歌唱となっている。
ライブゆえの傷もややあるが、最後までスタミナ十分なところも当時の大歌手の実力をまざまざと見せつけてくれるもの。
若きシリアの夢中の歌唱、友愛のヴェヒター、安定のグラインドルに加え、バンブリーのコクのある以外にも深みのある声が素敵なものだ。

③ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バイロイト(1954)

戦後51年に再開したバイロイト音楽祭、タンホイザーは54年がプリミエでヴィーラント演出、そのライブ。
録音はかなりいい方です。
この年やカイルベルトとともに、ヨッフムも指揮を担当。
カイルベルトの逞しく気力あふれる指揮は、リングやオランダ人の音盤と同じで、古めかしさは一切なし。
音の決まり方が気持ちよくって、こちらの耳にタンホイザーの音楽のあるべきものがバシバシ飛び込んでくる。
1幕でのタンホイザーと旧友たちとの邂逅の熱さ、その後の盛上りは、猛然とアッチェランドをかけかなりのスピード感でもって興奮させる。
2幕は華やかさなどは微塵もなく、後半の感動的な場面では、ともに泣くかのような思い入れを込めた演奏。
一転3幕の、澄んだ空気に悲劇を予見させる前半は、じっくりと歌い上げていて、ニュアンス豊かなF・ディースカウの名唱とともに味わいが深い。
そして、「ローマ物語」からは、ヴィナイの重戦車のような大迫力タンホイザーもあいまって、大いなる感動をもたらし、最後の巡礼の合唱では感涙にむせぶこととあいなったが、やや尻切れトンボのように豪快すぎる終わり方。
前述したヴィナイの悲劇の固まりのようなタンホイザーがよろしい。

④アンドレ・クリュイタンス指揮 バイロイト(1955)

Wagner-tannhauser-cluytens-1

54年がプリミエのヴィーラント演出の翌年のライブはクリュイタンスが担当。
このヴィーラントのプロダクションは、2年間で取下げとなり、次のタンホイザーは61年のサヴァリッシュ指揮のものまで間が開くことになる。
バイエルン放送局の正規音源なだけあり、カイルベルト54年盤より音は数段よろしい。
クリュイタンスのタンホイザーは個性的である。
かなりゆったりと美しく旋律を歌いながら始まる。
しかし、バッカナールの場面では、かなり強烈な響きとなるし熱い。
全般にテンポを微妙に揺らしながら、強弱も付けながら、単調に陥らない素晴らしい表現力でもって攻めまくる。
2幕の後半のタンホイザーの罪を請うエリーザベトの歌に始まる重唱などは、古い演奏にあるようにごちゃごちゃ混濁せず、見通しがよく、盛り上がりも清潔な。

3幕、エリーザベトを送る静かななシーンでは、そのしなやかさが印象的で、最終の場面では、テンポを絶妙に落とし、ジワジワと感動を盛り上げてくれる。
実にいいタンホイザーなのだ。
 全盛期のヴィントガッセンは、同年リングでもフル活躍しているから、そら恐ろしいタフネスぶりである。
そして、その気迫に満ちた野太い声は実に説得力に満ち引き込まれる。

FDのウォルフラムが素晴らしく声に華があり、一語一語に心がこもり、同情を歌で表現できている。
 クリュイタンスは次のヴィーラントのタンホイザーでも65年に指揮をしているが、そのときの音源は発売されていない。
クリュイタンスのバイロイトでの指揮は、このタンホイザーと、ローエングリン、マイスタージンガー、パルジファルで、いずれも聴くことができる。

⑤オットー・ゲルデス指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ (1969)

Tannhauser_gerdes

過去記事より~このレコードが出た時、新世界でぞっこんだったので「おっ、ケルテスじゃん」と思ったら「ケ」じゃなくて「ゲ」だった。

「ゲ」の方のゲルデスは、DGのプロデューサーとして、おもにカラヤンの録音に多く携わっていた人で、「リング」など多くのレコードにその名前がクレジットされている。
もともとは指揮者でもあったので、同時期に、ベルリンフィルを指揮して「新世界」やバンベルク響とヴォルフ、ベルリン・ドイツ・オペラとオテロ抜粋などを録音している。
余計なことはしていないし、音楽の良さも正直に伝わってくるからよしとしよう。
ただし面白みは少なめ、聴いていて、そこでこう、あーもっとこうして、という思いが捨てきれないのも事実。
最初から疲れたヴィントガッセンのタンホイザー。
ギンギンに威力漲る二役のニルソンに押されいて、「頼むから許して下され」的な、哀れさそう1幕。

このお疲れモードのヴィントガッセンのタンホイザー、3幕のローマ語りでは、多大な効果を発揮する。
さんざん辛酸を舐め、人生に疲れ切った男の苦しげな独白はあまりに堂に入りすぎていて同情すら誘う。

すっかり大人となったFDのいい人だけど、ウマすぎるウォルフラム、気品あふれるアダムのヘルマンをはじめ、端役にもウベンタール、ヒルテ、ソーティン、レンツなどの実力派をそろえた豪華なもので、歌の魅力ではタンホイザー諸盤に引けを取らない。

⑥オトマール・スウィトナー指揮 ベルリン国立歌劇場 (1982)

Wagner-thannhauser-suitner

当時は完全東側だったベルリンのシュターツカペレを長らく率いたお馴染みのスウィトナーは、N響への客演に合わせ、オペラの引っ越し公演にオケとの来演に、もう何度日本にきてくれたでしょうか。
85年には、日本でもタンホイザーを上演してくれて、NHKの放送も入って、そのときのエアチェック音源も大切にしてます。
こちらは本拠地でのライブ放送の音源で、音質も問題なくきれいなステレオ録音です。
自在さと、以外なまでの燃焼度の高さをみせるスウィトナーは、やはり劇場の人なのだと思わせます。
いつも言いますが1幕の最後が短縮版なので、期待が萎えてしまう恨みはありますが、全編にわたり、オペラを知り尽くした指揮者が全体を統率していて、すべてに一体感を感じる。
スウィトナーは快速テンポで、あの飄々とした指揮ぶりで、よどもなく音楽を進めますが、ぎっしりと音が凝縮していて密度は濃く、ここぞというときの迫力はなみなみでなはない。
 この音盤のありがたみは、あとなんたって、スパス・ヴェンコフで、その声の太さと力強さ、ノーブルな輝きとほの暗さ。
タンホイザーとトリスタンのためにあるような声です。
歌手のまとまりの良さも劇場でのライブである強み。
この時の映像がyotubeにもありますので、そちらも確認済みです。

⑦ベルナルト・ハイティンク指揮 バイエルン放送交響楽団 (1985)

Tannhauser-haitink

ハイテインク初のワーグナーは「タンホイザー」
ずっと連れ添ったコンセルトヘボウでなく、音楽監督の任にあったコヴェントガーデンでなく、ミュンヘンのオーケストラだった。
以前より常連だったが、この頃を境に、バイエルン放送響とはさらなる蜜月となり、定期的にコンサートに招かれ、レコーディングでも起用されるようになったオーケストラ。
魔笛とリング、ダフネと、あまりに素晴らしいレコーディングもなされた名コンビ。
そのイメージがある方ならば、聴かずともわかる理想のミュンヘンのワーグナーサウンドが、ここにある。
この中世のドイツの物語をベースにいた手堅いオペラ、ハイティンクとバイエルン放送は理想的なオーケストラサウンドでもって完璧に再現してる。
オーケストラとして完全無比の演奏であるけれど、そこに歌がありドラマがあるとなるとちょっと浅い。
ハイティンクの人の好さとか温厚さが、この頃ではまだ音楽に厳しさや、オペラに必須のドラマ性を再現しきれていない。
数年後のリングの充実とはまた違った「ハイティンクのワーグナー」は、ともかく美しく完璧です。
 大好きなルチア・ポップの清々しいエリーザベトに、ドイツの深い森を感じさせるマイヤーのヴェーヌスも素晴らしい。
しかし、ケーニヒのタンホイザーがオッサンにすぎる、これが一番の難点なハイティンク盤なのでした。

⑧ ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場 (2001年)

Tannhauser-barenboim

80年代以降、ワーグナーの手練れとなったバレンボイムは、その頃からトリスタンとパルジファル、リングといった後半の作品ばかりを指揮していて、前半のロマンティークオペラはあまり指揮してなかったはずだ。
ベルリン国立歌劇場を引き継いだ1992年から2023年までの長期にわたる活動のなかで、ワーグナーの全作品を取り上げたマエストロ。
私たちになじみのあったスウィトナーのタンホイザーから18年。
東から西へ、タンホイザーも自由の名のもとに、その音楽も刷新された感が、スウィトナーとバレンボイム、ふたつの演奏を聴いて感じることができる。
政治的な時代背景の変化と国の在り方の変化、東と西、その違いを音源で聴き分けるのは至難の技ですが、陰りの失せた、曇り空のないワアーグナーの音はここに感じます。
しかしですよ、一方でスウィトナーが巧ますして聴かせていたドイツの森や篤い宗教心のようなものはなく、完璧な音楽表現のなかに失われてしまった部分かと思う。
 ザイフェルトの覚醒的なタンホイザーがすばらしく、あのころに売り出し中だったイーグレンは脂肪分過多で歌がぼやけ気味。
でも他の歌手はめっぽうすばらしく、マイヤーさんに、ハンプソンの贅沢ウォルフラムなど。
録音がすばらしく、歌手とともに、めっぽう素晴らしい。

手持ちの音源は以上で、バイロイトでの記録はエアチェック済だから購入してない。
カラヤンの演奏記録、シノーポリのDG録音は見入手であります。
なんでドミンゴだよ・・という不満で聴く気になれないのであります。

さて次は、映像部門、エアチェック音源部門にまいります。

Izumo-2

| | コメント (0)

2024年1月13日 (土)

ワーグナー ワルキューレ1幕後半 ベルリンフィルで聴く

001_20240112221301

数日前、極寒の曇り空に1日に、夕方には雲が切れて壮絶な夕焼けとなりました。

次の日はきれいに晴れ渡る好天でした。

日本は広い、被災エリアにお日様の暖かさを届けたいものだ。

大晦日に行われたベルリンフィルのジルヴェスターコンサートでは、久方ぶりにワーグナーが特集された。
指揮はもちろん、キリル・ペトレンコで前半に「タンホイザー」序曲とバッカナール、メインが「ワルキューレ」第1幕でした。

そこで歴代指揮者たちで、ワルキューレ1幕をベルリンフィルで聴いてみた、の巻です。
アバド盤が2重唱以降なので、コンパクトに後半のみを。

Image-1_20240113205201

    ジークムント:ジョン・ヴィッカース

    ジークリンデ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (1966.12 @イエス・キリスト教会)

ザルツブルクでの4年間の上演に先立ち録音された1年おきのリング4部作。
最初の録音がワルキューレで、リリックな歌手を起用してカラヤンのリングに対する考え方を明らかにさせ、世界を驚かせた。
全編、抒情的で緻密な演奏で、その音楽は磨きぬかれて洗練の極み。
2重唱も美しく、とくに繊細でしなやかなヤノヴィッツの歌うか所では、オーケストラは耽美的ですらある。
しかし、そんななかでもさすがはカラヤンと思わせるのが、ふたりの愛の高まりとともに、オーケストラの高揚感も最高に高まり、最後は手に汗握るような情熱のかたまりとなる。
こういうところがオペラ指揮者としてのカラヤンのすごいところ。
ベルリンフィルも鉄壁であるが、録音会場が響きすぎるのがやや難点か。
しかし、60年代録音で聴き慣れた、自分には馴染みある響きでもあり。
ヴィッカースは異質である。

Image_20240113205301

    ジークムント:ジークフリート・イェルサレム

    ジークリンデ:ヴァルトラウト・マイヤー

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (1993.12.31 @フィルハーモニー)

カラヤンのワルキューレから27年後。
ローエングリンのみをそのレパートリーにしていたアバドが、ジルヴェスターで抜粋とはいえ、オランダ人、タンホイザー、マイスタージンガー、そしてワルキューレを指揮した。
当時は、NHK様がジルヴェスターコンサートはテレビでライブ中継していたころで、わたしはもう画面に釘付け。
毎年、テーマを設けてひとりの作曲家や文学作品、民族などを特集していたアバド。
慎重なアバドだが、やはりライブでは燃える。
この夜のハイライトはやはりワルキューレだった。
音たちの磨きぬかれた美しさは、もしかしたらカラヤン以上で、混じり物のないクリアで明晰なワーグナーは、のちのトリスタンで突き詰めたアバドのワーグナー演奏の端緒ともいえる。
カラヤンとはまったく違った、よい意味での音の軽さは、ベルリンフィルの名技性があってのものだろう。
ここにアバドの大胆さを感じる。
ここに聴く抒情は、カラヤンのウマさのともなう美しさでなく、どこまでもしなやかでピュアで、新鮮だし、抑えに抑えたオーケストラはそれこそ室内楽のようで、歌手と対等の立場にある。
 わたしの世代では、コロやホフマンとならぶヘルデンだったイェルサレムが好きだ。
イェルサレムのジークムントは実演で2度聴けたが、ここでも知的でありつつ、熱くもあり、力感も十分だ。
同じく実演でのジークリンデを経験できたマイヤーもステキの一言につきる。
彼女のメゾがかった弱音が実に素晴らしいのだ。
ということで、アバド盤、ほめすぎですかね。
ラストの白熱感も、着実でたまらなく素晴らしいです。

Silvester-2023

    ジークムント:ヨナス・カウフマン

    ジークリンデ:ヴィダ・ミクネヴィシウテ

  キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (2023.12.31 @フィルハーモニー)

アバドのジルヴェスターから30年。
私も歳をとったが、ベルリンフィルの超絶うまさは健在だ。
ラトルもワルキューレはザルツブルクで上演しているが、残念ながら聴いたことがないのでここでは省略。

ペトレンコ就任から4年を経て、そのレパートリーも音楽もだんだんわかってきた。
しかし、ベルリンフィルの指揮者になったからといって、ベートーヴェンやブラームスの全集を作ったり、メジャーレーベルを股にかけて活躍したりといったことはいっさいせずに、わが道をゆくといった求道的な姿を見せるペトレンコ。
豊富なオペラ指揮者としての経験がありながら、劇場レパートリーをこなすといった日常のルーティンワークでなく、思い定めた作品を徹底的に極めていくタイプ。
であるがゆえに、その演奏は徹底していて完璧さを求める緊張感にあふれている。
そして相方がベルリンフィルというだけあって、その完璧さが鉄壁にすぎて、ときに緊張疲れしてしまうのではないかとわたしは危ぶむ。
両社の緊張関係が途切れたときどうなる・・・わたしにはわからない。
だから完璧にうまくいっているこのコンビを今こそ聴くべきなのだろう。

以上つらつらと思ったままの演奏がこのワルキューレ。
ペトレンコにまいどのことで、そのテンポは速めで、そのうえに情報はぎっしり詰まっている。
カラヤンにあった甘味な抒情、アバドにあった優しさと微笑みの歌、それらはまったくなく、ワーグナーの厳しい造形音楽と感じる。
これをライブで、または劇場で舞台を伴って聴いたなら、CDやDVDよりも完璧に感じ、同時に音の熱量も高いので、体を焦がすような興奮も味わえるだろう。
カラヤン、アバド、ラトル、それぞれのベルリンフィルと、また違う次元のオーケストラサウンドをペトレンコは導き出すものと思う。

お叱りを覚悟でいいます、なんでもかんでもカウフマン、少し食傷気味です。
バリトンがかった悲劇臭あふれるジークムントは、たしかに役柄的に最適だが、カウフマンの声はもう重すぎると思った。
突き抜けるようなテノールの声がないので、曇り空なんです。
同時期のウィーンでのトゥーランドットも最近聴いたけれど、こちらはプッチーニだけに、不満はもっと大きかった。
 一方、売り出し中のリトアニア出身のミクネヴィシウテの若々しい、張りのある声がすばらしい。
ベルリン国立歌劇場ですでにジークリンデを歌っていて、この夏はバイロイトで、何度も共演してるシモーネ・ヤングの指揮でもジークリンデを歌う予定。

002_20240112221301

我が家の庭にある紅梅も咲きはじめ、甘い香りが漂ってます。

ジークリンデの「君こそが春」、ジークムントの「冬の嵐は去り」を聴いて、まさに甘い思いに浸る。

ベルリンフィルというオーケストラは、まさにスーパーな存在であり、楽員たちが選ぶその指揮者たちとも歴代にわたり、見事な結実を示してきました。

ラトルも含めて、ベルリンフィルをこうしてさまざまに聴ける幸せをかみしめたいものです。
これはウィーンフィルでは絶対に感じない思いです。

003_20240112221301

| | コメント (4)

2023年11月25日 (土)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ②

Oiso-1

大磯の砂浜から見た伊豆大島。

島影くっきり、三原山も見えます。

伊豆半島や房総半島から見たらもっと近くに見えますが、近くの海から、こんな至近に見える不思議な感覚。

島というのは、昔から謎めいたイメージを持っていて、とくに大島は近いので若い頃、2度ほど行ったことがありますが、地質の違いや生々しい火山の様子など、とてもミステリアスに思っていた。
あと、小説や映画の世界ではあるが、呪いのビデオの貞子の生まれ故郷というのも、なんとなくミステリアス感を増長させるものだった。
貞子といえば、メトロポリタンオペラのパルジファル演出では、花の乙女がみんな貞子風になっていたのもなんとも言えないものだったし、バイロイトのパルジファルでも、ヘアハイム演出ではクンドリーが井戸みたいなところから出てくる設定だった・・・

Oiso-2

沖にいる人々を超拡大してみた。

洋上の人々、すごいですね、わたしなんか絶対にムリ。

Hollander_20231105215501

               エヴァーデンク演出 1971 バイロイト

さまよえるオランダ人、自分的まとめ「その2」は音源篇。

ハイネの作品「フォン・シュナーベレヴォプスキー氏の回想記 」のなかから、「さすらいのオランダ人」という部分にインスパイアされ、1939年にドイツからイギリスへの航路で、嵐にみまわれこのオペラの着想を得た。
この台本をパリのオペラ座に持ち込んだものの、作曲の依頼はされず、草案だけが買い取られ、金に困っていたワーグナーはやむなく引き下がった。
その草案を使って別の台本が作られ、ピエール・ルイ・ディーチュという作曲家が「幽霊船」というタイトルでオペラ化してしまった。
ワーグナーは「リエンツィ」のすぐあと、1841年にパリで完成させ、当地での上演を願ったがうまくいかず。1843年にドレスデンで初演し、ほぼ成功。
この時の初版は、全曲通しで、序曲と最終に救済による清らかなendingがなく、荒々しくドラマを閉じるもの。
物語も現行のノルウェーでなく、スコットランドで、役柄も名前が違う。
初稿版ではゼンタのアリアは高域が駆使されるイ短調で作曲されているが、ドレスデン初演の際には歌手の力量もあったことから、低めのト短調に直されたり、幕間が設けられたりと、早くも改訂がなされている。
20年後、1860年には、いま多く聴かれる救済シーン付きへの改訂を行っている。
トリスタンを完成させたあとだけに、死による愛の成就という考えへの思いもあったのかもしれないし、パリでのタンホイザー上演にむけて、効果のあがるパリ版を用意していたことも遠因としてあるかもしれないですね。

「オランダ人」はいつもなにげに聴いてるけれど、ワーグナーも手を入れてるし、いま普通版になってるものは、それらを総合したもの(ワインガルトナー編)によるもので、ほんとの初稿版が10年前にミンコフスキで録音されたように、いくつかの版が共存するようになりそうだ。
昨今の上演では、初版のエンディングを採用し様々な解釈を施しやすい演出が主体ともなっているが、序曲だけでは、やはり救済付きのエンディングの方が演奏効果としては1枚上ということになるだろう。

しかしながら、救済シーンありのト書きは、いまいろんな演出を観てきたうえで読むと荒唐無稽にすぎ、工夫のしようもないことがわかります。
「ゼンタがオランダ人の船が出奔すると海に身を投げる・・・同時にオランダ船も砕けて海に沈んでしまう。静まった海のかなた、昇ってゆく太陽の眩い光のなか、ゼンタとオランダ人の浄化された姿があらわれ、互いに手を取り合って天に昇る様子が見える」

手持ちの音源は12種にとどまり、重要録音も未捕獲で残されていることが今更にわかった。

【正規音源】

①ライナー&メトロポリタン 1950年
 良質なモノラル録音で、気品あふれるホッターのオランダ人が聴ける。
 ヴァルナイやスヴァンホルムなど豪華な顔ぶれ。
 ライナーの切れ味するどいスピード感ある指揮もよい。

②カイルベルト&バイロイト 1955年

Uhde
 
 リングと同じく、音質は立派なステレオ録音でよし。
 粗削りな一方、スマートさも兼ね備えた案外モダンなカイルベルトの指揮。
 最高のオランダ人ともいえる悲劇的なウーデの声。
 ヴァルナイ、ウェーバーなどの当時絶頂歌手も素晴らしい

③コンヴィチュニー&ベルリン国立歌劇場 1960年

Wagner-hollander-konwitschny-1

 重厚なかつてのドイツのオーケストラの音がする。
 知性的なインテリオランダ人のFDは貴重。
 G・フリック、ショック、ヴンダーリヒなど男声がすばらしい。
 コンヴィチュニーはワーグナー指揮者だったことがよくわかる

④サヴァリッシュ&バイロイト 1961年 救済なしバージョン

Hollander-sawallisch-bayreith

 いまでも清新なスタイリッシュな若きサヴァリッシュの指揮。
 シリアの心ここにあらず的な忘我なゼンタがいい。
 クラスのオランダ人が美声で、早逝の悔やまれるバスとつくづく思う。
 男性陣が強力だし、合唱もすごいがずれちゃうくらいにライブ感満載

⑤クレンペラー&ニュー・フィルハーモニア 1968年 救済なし変化球
 3幕版による厳しくも剛直な演奏で、イギリスのオケとは思えない。
 アダムのオランダ人が極めて高水準でドイツ語が美しい。
 シリアもここでも凄まじい。

⑥ベーム&バイロイト 1971年

Hollande-bohm

 ライブで燃えるベームならではの熱く、劇場の雰囲気満点のオランダ人。
 ピッツ指導の合唱も、ついでに足踏みも迫力満点。
 G・ジョーンズの体当たり的な熱唱、スチュアートの気高い声も好き。
 当時大活躍のリッダーブッシュのダーラントもいまや貴重。
   ジャケットもオランダ人大賞を進呈したいくらい。
 69~71年の3年間のみ終わったエヴァーディンク演出のオランダ人。
 ヴァルビーゾが指揮を受け持った年も正規化して欲しい。
 マッキンタイアやR・コロも聴けるので。

⑦ショルティ&シカゴ 1976年

Wagner-hollander-solti-1

 すさまじいまでのオケの威力は、剛毅なショルティの指揮でひと際すごい。
 ただ、あまりにあっけらかんとしすぎて陰影に乏しいとも感じる。
 N・ベイリーの英国調オランダ人が思いのほか素晴らしい。
 マルトンの声は若く少女風、なんたってコロが立派すぎるエリックだ。

⑧カラヤン&ベルリンフィル 1981~3年

Hollander-karajan

 鉄壁のオケ、シカゴと双璧だが、オペラティックな雰囲気では勝る。
 後期作品のように演奏したカラヤンの豪奢な指揮は素晴らしい。
 素晴らしすぎ、うますぎてそう何度も聴けない。
 美声だらけの歌手も、何度も聴けない気分にさせる。
 唯一、P・ホフマンが指揮者の呪縛からはみ出ていて実によい。

⑨ドホナーニ&ウィーンフィル 1991年

Hollander-doho

 やはりウィーンフィルがいい、ホルンがいい、管がみんないい。
 ドホナーニのヨーロピアンな劇場感覚の指揮もウィーンで引立つ。
 先ごろ亡くなったR・ヘイルの美声でかつヒロイックなオランダ人が好き。 
 暖かなベーレンスの声で歌われるゼンタは、オランダ人に恋した女性。
 ふたりのコンビがよろしいドホナーニ盤。
 録音が最高にいい。

⑩バレンボイム&ベルリン国立歌劇場 2001年 救済なしバージョン

 初稿版を採用した集中力あふれるバレンボイムの指揮とオケの充実ぶり。
 コンヴィチュニーと比べるとよりインターナショナルな音色。
 シュトルックマン、イーグレン、ともにいまひとつ。
 ザイフェルトのエリックがすばらしい。

⑪ヤノフスキ&ベルリン放送響 2010年

 ワーグナー主要7作を一気に録音したヤノフスキ。
 いまや名匠の名を欲しいままにしているが、地味ながらも明晰極まりない演奏
 録音の抜群の良さもあり、解像度高い演奏で、完璧さが不満になるという。
 ドーメンのほの暗いオランダ人、メルベトのストレートボイス。
 スミスの強い声のエリック、サルミネンのお馴染みの声。
 総じて歌手はこの盤が一番安定している。

⑫ミンコフスキ&ルーブル宮 2013年 救済なし初稿

Hollnder-minkowski

 初稿版を忠実に再現した初録音。
 過剰な表現は抑え、歯切れよく、テキパキと進めるミンコフスキ。
 スコアが透けてみえるようで新鮮、カラヤンやティーレマンとは対極にある。
 10年前の録音だが、いまや第1線に立つ歌手を選んだ慧眼も評価したい。
 ニキティン、ブリンベリ、カレス、カトラーなど。
 
 4枚組で、素材を買われたディーチュの「幽霊船」も収録されている。
 おどろおどろさは皆無で、むしろ明るく、明らかにフランスな感じ。
 ヒロインがコロラトゥーラなんだから、ワーグナーとは異質な世界。
 ワーグナー初期作の「妖精」の方がずっと立派。
 しかし、ミンコフスキは凄いですね、こんなこと企画してくれた。

「未聴のオランダ人」
 クナッパーツブッシュ、フリッチャイ、ドラティ、シノーポリ
 レヴァイン、ネルソンス、ヴァイル(初稿)

【エアチェック音源】

①D・ラッセル・デイヴィス&バイロイト 1980年
 映像化されたネルソンよりも攻撃的でよろしい

②シュナイダー&バイロイト 1982年
 このあと、リングで脚光を浴びるシュナイダー

Hollander-kupfer

③ネルソン&バイロイト 1984,85年
 映像と同じ年のライブ ネルソンはソ連出身で西側に亡命。
 ソ連時代にクレーメルとの録音もあり、ドイツではオペラで活躍
 私もハンブルオペラ来演でローエングリンを観劇。
 早逝が惜しまれる指揮者。

④シノーポリ&バイロイト 1990~93年

600pxhollander-1990-4

 タンホイザーに続くシノーポリのバイロイト
 ヴィヴィッドなオランダ人で音楽が明快そのもの
 安定した4年間、ヴァイクルも年とともによくなる

⑤シュタイン&N響 1995年 演奏会形式
 シュタインには日本でもっとワーグナーをやって欲しかった。
 新国がもっと早く出来ていれば・・・と思いますね

⑥シュナイダー&バイロイト 1999年
 シノーポリのあとを引き継いだのはここでもシュナイダー
 オランダ人もタイトスに変った。
 このときのディーター・ドルン演出映像もなにもないね

⑦MT・トーマス&サンフランシスコ響 2003年
 なぜかNHKFMで放送されたサンフランシスコライブ
 これが実によろしいが、全体にアメリカンな雰囲気も

⑥小澤征爾&ウィーン国立歌劇場 2003年
 小澤さんらしいまとまりのいいオランダ人
 アクがなさすぎがかえって好き

⑦マレク・アルブレヒト&バイロイト 2003~6年

Bay2006derfliegendehollaender4

 いま聴いても悪くないアルブレヒトの爽快な指揮
 歌手は小粒だが、4年間のいいプロダクションだった。
 こちらのグート演出も記録少なめ、見たかったな

⑧ティーレマン&バイロイト 2012~14年
 映像篇で酷評した演出なれど、オケは素晴らしい
 音だけは安心して聴けるプロダクション

⑨アクセル・コバー&バイロイト 2015,16年
 ティーレマンのあとはコバー、演奏時間も5分短縮
 シュタイン、シュナイダーのように重宝される本格実務派
 歌手も一新され新鮮だった

⑩ゲルギエフ&メトロポリタン 2020年

Hollander-met

 メトを出禁になる直前のゲルギエフ
 ラストのハープを伴う救済シーンをねっとり仕上げてます
 メトの新演出、昇天シーンもきっとあったろう。
 シネコンでもやったが触手が動かず

⑪リニフ&バイロイト 2021~23年

Derfliegendehollaenderbayreuth2023114_h5

 映像篇でもほめたリニフさん、いいです。
 オランダ人が毎年変り、21年のマイヤー、23年のフォレ
 いずれもよかったし、グリゴリアンのあとのタイゲもいい
 芸達者のフォレでもう一度映像化して欲しい

【舞台】

①サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立歌劇場 1992年

 演出:ギールケ、モリス、ヴァラディ、ロータリング、ザイフェルト
 優れた歌手たち、キビキビしたサヴァリッシュの指揮、オケのよさ
 しかし、変な演出だった。
 海賊船の船乗りたちが歩くとピンクの足跡が付くのが記憶にあり

②デ・ワールト指揮 読響 2005年

 演出:渡辺和子、多田羅迪夫、ヨハンソン、長谷川顯'、青柳素晴
 演出はビジネスマンに仕立てたオランダ人と夢想のゼンタで救済なし
 いまではお馴染みの展開だが、当時はブーイングが飛んだ
 デ・ワールトの指揮がすばらしかったな

③ボーダー指揮 東響 2007年

 演出:シュテークマン、ウーシタロ、カンペ、松井浩、ヴォトリヒ
 伝統的な普通の安心できる演出、日本人好みかも
 世界第一線の歌手がすばらしかった。
 オペラ指揮者ボーダーのツボを押さえたオケもよかった。

以上、2023年時点での「さまよえるクラヲタ人」の「さまよえるオランダ人」の総括終了。

Oiso-3

何気に今月は、ブログ開設18年目の月でありました。
その第1号記事は、下記リンクの一番下段の「エド・デ・ワールトの二期会オランダ人」でした。
いまやオワコンといわれるブログという媒体ですが、途中の中断はあったもののよく継続しているものです。
一番の読者は自分。
あのとき、あんなことがあった、あんな音楽を聴いてたんだと読み返すこともあります。
ボケるまで、キーボードが叩けるまでは続けよう。
次のワーグナーは「タンホイザー」。

オランダ人過去記事一覧

「さまよえるオランダ人 映像篇」

「クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア」

「バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場」

「ティーレマン指揮 バイロイト2012」

「ヤノフスキ指揮 ベルリン放送交響楽団」

「サヴァリッシュ指揮 バイロイト1961」

「ライナー指揮 メトロポリタン歌劇場」

「サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立歌劇場 DVD」

「ベーム指揮 バイロイト1971」

「コンヴィチュニー指揮 ベルリン国立歌劇場」

「ボーダー指揮 新国立劇場公演」

「ショルティ指揮 シカゴ交響楽団」

「アルブレヒト指揮 バイロイト2005」

「デ・ワールト指揮 読響 二期会公演2005」

| | コメント (2)

2023年10月24日 (火)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ①

Oiso-a

相模湾に浮かぶ漁船の群れ。

大磯の山の上からパシャリと1枚。

Oiso-b

山を下り、海辺から先ほどの漁船をパシャリ。

手前の天然の岩礁は、大磯のこちら照ヶ崎海岸に飛んでくる「アオバト」の飛来地として知られますが、この日はいませんでした。

緑色の可愛いハトさんで、大磯のマスコットキャラクターになってます。


Holander

  ワーグナー 歌劇「さまよえるオランダ人」

ワーグナーの作品すべてを取り上げるシリーズ。
初期3作を入れての通し企画では2回目、オランダ人以降の通しでは2回あり。
ワーグナーの音楽とその舞台が好きなだけで、別に専門家でもない素人の殴り書きですから、あくまで個人の思い出とするもので、あとで自分で読んで、なるほどと思ったりしている程度です。

しかし、もうわたしも若くない。
この先の限りある音楽視聴、最後のワーグナー・チクルスと思い、そんな気持ちで主要7作は総まとめ的な記事にして残しておきたいと思いました。
同時に進行しているシュトラウスのオペラも同じ思いで書いてます。

オランダ人以降の作品が頻繁に取り上げられ、バイロイトでもそうした慣例に則っているわけだが、劇場150年の記念の年2026年には、「リング」新演出と「リエンツィ」を上演するとのこと。
バイロイトのその先を占う年となりそうで、ともかく元気で音楽を聴いていたいと思うものだ。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

クラシック聴き始めの頃は、ワーグナーはおろか、オペラなんて遠い存在だったけれど、よくあるとおりに、音楽の情報源はレコ芸だった。
1970年、大阪万博の年に、日本は空前の外来演奏家のラッシュとなりました。
カラヤン、バーンスタイン、セルなどの名指揮者たちにならんで、小学生のワタクシの耳目を引いたのはレコ芸での来演オペラ特集と高崎先生によるバイロイト音楽祭の演目紹介シリーズ。
これらの写真を日々、穴のあくほど見つめながら、この音楽はどんなだろうと想像をめぐらしていたのでした。

冒頭の画像は、1965年のヴィーラント演出のもので、スウィトナーの指揮とT・スチュアートのオランダ人。
これとアニア・シリアのゼンタの写真、次のベームのライブも残されたエヴァーディンク演出の写真が、わたくしのオランダ人のイメージの刷りこみであります。

ただし序曲以外にオランダ人を楽しむすべはなく、バイロイトのFM放送を知り、聴きだしたのは72年からなのでオランダ人の上演はなく放送もありません。
組物レコードを買う勇気も資力もないままに迎えたのが、ベームの71年バイロイトライブで、73年初めの発売。
このFM放送をエアチェックして聴きまくって始まったのがワタクシのオランダ人のスタート。
それより前の72年のバイロイト放送で、タンホイザー、ローエングリン、リングは聴くことができてましたし、パルジファルは73年のイーズターの時期に聴いてます。

歳とともに、さらには都心が遠くなってしまったのでオペラを観に行くという行為がおっくうになり、オペラは音源での視聴と同等ぐらいに、映像で楽しむようになった。
しかも困ったもので、斬新な演出にはブーブー言いながらも、ト書き通りの演出では、安心感はあっても、もはや触手が伸びなくなぅてしまい、ことにワーグナーではその傾向が高まるばかりだ。
というか、ワーグナーではもう、普通の演出がなくなってしまい、なにが普通なのかさえもわからなくなってしまったのだ・・・・
これは悲しむべきことなのだろうか。
ワーグナー聴き始めの頃の新鮮な驚きや、前褐のとおり想像を巡らせていた好奇心といったようなものが、遠い昔の懐かしい出来事のように思われる。

【映像】

ネタバレを多く含みますので、映像未視聴の方はすっとばしてください。
自分の記録なので忘れないように書いてしまうんです。

①サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立劇場 1974 カシュリーク演出

Hollander_sawallosch

オペラ映画仕立ての作品で、年代を感じさせる古めかしい演技。
でも歌は絶品で、貴重なリゲンツァ映像。
サヴァリッシュはバイロイトでもドレスデン版で、救済なしバージョンだったが、ここでもそう。
ゼンタはオランダ人を追って海に身を投げるが、オランダ人に抱きかかえられ、やがてふたりで沈んでいくラスト。
サヴァリッシュの94年のバイエルン来演のオランダ人を観たが、そのときは救済ありだったと記憶します。

②W・ネルソン指揮 バイロイト1985 クプファー演出

Hollander-1985

1978年に東独から招聘されたクプファーの衝撃のオランダ人演出、その最後の年の上演が映像化されたのは幸いだった。
78年のデニス・ラッセル・デイヴィスによる演奏は、音源化して所蔵してますが、あたりまえだと思ってたゼンタの自己犠牲による救済の動機が序曲でもラストでもならず、荒々しい終結部になっていた。
なぜこのドレスデン版となったか、そのことがこの映像によってよくわかる。
ゼンタは最初から最後まで出ずっぱりで、常にオランダ人の肖像を胸に抱いて夢想的な態度を示している。
オランダ人と出会っても勝手に二人の胸の内を語るだけで、接点はまったくない。
エリックだけが、ゼンタを支える暖かい存在だが、マリーも娘たちも、市民たちも徐々に距離をおくようになり、オランダ人が去ったあとは、自ら自決してしまう。
そのあとのけたたましい音は、映像を観ることで初めてわかった。
街の人々が、窓の扉をガチャンと閉める音だった。
ゼンタの妄想の終結は衝撃的だった。
黒人のバス・バリトン、エステスの歌も演技も強靭で目覚ましかったオランダ人と、ともに7年間ずっとゼンタを受け持った夢見がちのバルスレフがすばらしい。

③ティーレマン指揮 バイロイト2013 グローガー演出

Bayreutherfestspielefliegenderhollaender

2012年から1年お休みをおいて、6年間上演された若いグローガー演出によるもの。
音楽面はずばり素晴らしい。
ティーレマンとダーラントのゼーリヒが実によろしくて、非の打ち所がない。
しかし演出の陳腐さとあまりに不釣り合いだ。
電子系のビジネスマンのオランダ人に、扇風機工場のゼンタ達、船はクソみたいな段ボール製。
すべてが脈連なく感じ、なにかのアンチテーゼか比喩なのか、わかりたくもなし。
最後はゼンタは腹を刺したようで、オランダ人も同じ痛みにあえぎ、段ボールの山の上で抱き合い、舞台は暗転。
救済ありの音楽のなか、ふたたび幕が開くと、翼の生えたゼンタの抱き合うふたりのスーベニアを女工さんたちが次々に完成させている。
バイロイト観劇の土産になって、めでたく永遠にあなたのデスクの上に・・・ってか。

④アルテノグリュ指揮 チューリヒオペラ2013 ホモキ演出

Hollander-zurich

船も港もまったく登場しない、唯一壁に掛けられた動く絵で荒波が表現。
貿易会社が舞台で、アフリカから搾取でもしてるのか、途中、現地人の氾濫のようなシーンもあり、水夫たちの合唱、実は会社員の合唱のなかで、何人かがぶっ〇ろされてしまう。
オランダ人は、どこからともなくあらわるし、終始出ているが、どこか存在感を薄く演出されていて、これもまたゼンタの夢見た幽霊船の船長よろしくゴースト的な存在になってるし、ターフェルの化粧もそんな禍々しさがある。
肖像画を手にするゼンタは、社内のタイピストたちに馬鹿にされっぱなし。
エリックは海の男でなく、漁師になっていて手には猟銃。
ゼンタはオランダ人の正体を知ったあと、微笑みを浮かべるが、そのオランダ人がいつの間にか消え去ってしまい人々の間を探しまくる。
そしてエリックから銃を奪い・・・・
当然に救済なしバージョンで、ラストシーンはショッキングだ。
救済こそないが、幽霊や未知の世界の人々、荒海などなど、ロマン性は斬新さをともない、しっかり描かれていて、さすがはホモキと思わせる。
ホモキの舞台は、これまで、フィガロ、ボエーム、西部の娘、ばらの騎士などの実際の舞台を観劇してきたが、ここでも納得の面白さだった。

アルテノグリュの指揮はいい、ワーグナーの初期的な雰囲気をよく捉えているし、なによりも明快でわかりやすい音楽だ。
ターフェルはアクの強さが、この演出の謎の人物という表現では実に生きているし、アニヤ・カンペのゼンタも、昨今の大活躍を先取りする素晴らしさ。大ベテランのサルミネンも健在。

⑤ネルソンス指揮 ロイヤル・オペラ2015 アルベリー演出

Hollander-roh

英国の港風に横づけされた船の前を舞台に、船員たち、オランダ人も英国調の船乗りだ。
船の模型が、舞台前面に張られた水に最初から最後まで置かれている。
女工さんたちはちゃんと勢ぞろいしてミシンで裁縫の作業中で、仕事を終えると作業着を脱いでみんなおめかしして夜のお出かけに備えるのが見ていて楽しいし、水夫たちと楽しくパーティに興じるのもよろしい。
ラスト、ゼンタはオランダ人が去った船への梯子階段に手をかけ、そのままぶら下がったまま足が浮いてしまうが力尽きて普通に落ちちゃう。
ひとり残されたゼンタは船の模型を手に、悲しく打ちひしがれる。
当然に救済なしバージョンで、ゼンタはオランダ人に振られた格好だ。
なんだが不甲斐ない幕切れで、残尿感の残るものであった。

しかし、ネルソンスの指揮はいまほど太ってなくて、切れ味と重厚感、ともによろしく、指揮姿もキッレキレだ。
ここでもターフェルは堂に入った船長で、フィッシャーマンセーターがお似合いで、ビジュアル的にはこちらの方が上だ。
ピエチョンカのゼンタもいい。

⑥フィオーレ指揮 フィンランド国立劇場2016 ホールテン演出

Hollantilainen

ネット視聴だが、これは面白かった。
現代に時を設定し、オランダ人は絵描きで、満足できる作品がずっと描けず、酒と何人もの女に溺れ、ついには自決さえしようとする。
心臓も壊しているようで呼吸も苦しそうだ。
ダーラントは裕福な美術貿易の資本家で、娘のゼンタも芸術愛好家、人々はみんなスマホを持ってる。
オランダ人の作品を評価し、興味を持ったゼンタはその芸術家をビデオ撮影したりしてドキュメンタリーを作る。
エリックの登場で絶望したオランダ人はカメラの前でピストル自殺。
ラスト、舞台は反転し、そこはゼンタの作品発表の場で、人々はモニターをみて喝采し、彼女もシャンパングラスを手にしている。
画面はオランダ人のモノクロ映像、ひとりゼンタは悲しみの表情を浮かべ涙にくれる。
こんなラストシーンで救済ありバージョンのエンディングとなった。
やや難解だが、こんな解釈もありなのだと感心。

ニールントのゼンタが極めて立派で貫禄がありすぎるのが難点。
デンマークのバスバリトン、ロイターのオランダ人がめっけもん的な素晴らしさだけど、演技に熱が入りすぎて、文字通り口角泡を飛ばす様子が見苦しいかも。
最近ひっぱりだことのちょっぴり太とめの指揮者、フィオーレがツボを心得た指揮ぶりでフィンランドのオケも優秀でした。

⑦リニフ指揮 バイロイト2021 チェルニアコフ演出

Hollander-bayreuth-2020

今年3年目を迎えたオランダ人の新演出時の映像。
必ず読替え演出をする、そして観るわれわれも、どんな風に読み込み解釈をするんだろうという期待を持って臨むようになってる。
私のDVDコレクションもチェルニアコフの演出によるものはとても多い。
 しかし、このオランダ人にはびっくりさせられたが、無理があるなぁと思わざるを得なかった。
当然に船なんてどこにもなくて、北欧の港町を思わせる場所の設定で、例によって小道具から歌わないアクターまで、すべてが事細かくリアルに描写されていて、酒場のカウンター、うまそうなリアルビール、ダーラント家の食卓、女性たちが用意したうまそうなランチなど映画の世界のようだ。
前にも書いたが、背景にいる人物たちも、孤独のグルメの客のように無言で会話をしていたりで、これもリアル映画の世界だ。
 序曲から無言劇が進行し、オランダ人の少年時代が描かれ、春をひさぐ気の毒な母親が街の人々に蔑まれ命を絶つシーンが描かれれ、のっけからショッキングなシーンをみせられる。
幕が開くと、のちのオランダ人が母が亡くなった窓辺を見上げていて、傍らでは金持ち風のダーラントを囲んで男たちが酒盛りをしている。
いつの間にか、静かにオランダ人はテーブルの片隅に座ってしまい無言でじっとしてる・・・・
酒場の傍らには時計が据えられ、この時計が劇の進行とともに、ちゃんと時を刻む。
そう、オランダ人は、何年かのときを経て、復讐しに故郷に帰ってきたお礼参りの設定なのだ。
昔の日本映画や時代劇によくある物語で、ある意味、スリラーでもあり、そういう点ではゴシックロマンとでも言えるかも。
 しかし、チェルニアコフは一筋縄ではいかない。
実際に水夫たちの合唱とオランダ人の部下たちが衝突をするが、オランダ人は懐からピストルを取り出して何人か殺ってしまう。
ゼンタはおきゃんな現代っ子のようで、マリーはダーラントと結婚してるみたいな設定。
マリーが大切に持っていた若い男子の写真をゼンタはふざけて取り上げたりしてからかう。
それが誰だかわかったのは、ダーラント家に夕食に招待されたオランダ人がゼンタといい雰囲気になったとき、マリーは歯ぎしりをして悔しがる。
エンディングは、マリーがオランダ人をライフルでぶっ〇〇してしまう・・・・
嫉妬であるとともに、憎しみからの解放をしてあげたということか、救済ありバージョンでの終結だった。

ということで、やや作りすぎたかな、というのが印象ですが、それにしてもここまで読んで解釈してしまうのはすごいものだ。

初年度だけで降りてしまったグリゴリアンが、歌に演技にはじけていて実によろしい。
ルントグレンの見た目.病んだようなオランダ人はイメージ通りで、破滅的な声もよいが、もう少し心理描写的な歌唱もあっていいかも。
ツェッペンフェルトは文句なしで、思わぬ大役となったマリー役のプルデンスカヤは、とてもいいと思ったが、この1年で終わってしまった。
でも、このオランダ人のプロダクションの真のヒロインは、指揮のリニフさん。
劇の呼吸をわきまえた、劇場向きの指揮者で、細やかでありつつ、全体感も感じさせ、ここはこうあるべしというところが、ちゃんとそのように響くし、歌手たちも無理なく歌えそうなオケなのでありました。
ボローニャの指揮者として近々に来日するリニフさんです。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

映像はまだあるけど、二人仲良く昇天する演出のものが手持ちになかった。
まさに昨今はそうした解釈が主流なのであろう。
逆に、救済付きでの昇天演出を観たら新鮮なのかもしれないことが皮肉なものだ。

音源篇は②へ続く


オランダ人過去記事一覧

「クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア」

「バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場」

「ティーレマン指揮 バイロイト2012」

「ヤノフスキ指揮 ベルリン放送交響楽団」

「サヴァリッシュ指揮 バイロイト1961」

「ライナー指揮 メトロポリタン歌劇場」

「サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立歌劇場 DVD」

「ベーム指揮 バイロイト1971」

「コンヴィチュニー指揮 ベルリン国立歌劇場」

「ボーダー指揮 新国立劇場公演」

「ショルティ指揮 シカゴ交響楽団」

「アルブレヒト指揮 バイロイト2005」

「デ・ワールト指揮 読響 二期会公演2005」

| | コメント (2)

2023年10月15日 (日)

ふたりのアメリカン・ワーグナー歌手、ヘイルとグールドを偲んで

Robert-hake-1

テキサス州出身のバス・バリトン歌手、ロバート・ヘイルが8月に90歳で逝去。

私には思い出深い歌手のひとりでした。

アメリカでの活動から、80年代頃からベルリン・ドイツ・オペラを中心にしたヨーロッパに拠点を移し、ワーグナーやシュトラウスの第一人者となりました。

1987年のベルリン・ドイツ・オペラのリング通し公演で初めて知ったロバート・ヘイルのウォータンの名唱。
そのときの驚きは、日記をブログ化したものを再掲。

「なめらかな美声と、押しの強いバス・バリトンの声は、文化会館に、大オーケストラを圧するようにして響きわたったのでした。
R・ヘイルの少しマッチョなテキサス風ウォータンが素晴らしかった。
最後の告別での悲しげかつ、ヒロイックな姿と、その豪勢な声の魅力は忘れえぬものです。
こんなバス・バリトンがなぜいままで知られてなかったのか。
容姿からして第一、目を引く。威厳を備えた若々しい舞台姿とその声。
ハリがあって、すみずみまでよく通る声。深く暖かい。
悟りも感じさせる表現力も豊かで、今後が大いに期待できる歌手。」

こんな風にべた誉めでした。
ヘイルのウォータンは、サヴァリッシュのリングでも聴けるし、ドホナーニとクリーヴランドの未完のリングでも極上の録音で残された。
あと同じく、ドホナーニのオランダ人、ショルティの影のない女の映像なでで、その素晴らしさが確認できます。
同じアメリカ人ウォータン、ジェイムス・モリスとともに、バイロイトの舞台に立つことのなかった名歌手だと思います。

Stephen-gould

ステファン・グールドの早すぎる死は、日本にも親しい存在だっただけにショックだった。

おまけに、われわれは飯守泰次郎さんの逝去を悲しみのなかに迎えたばかりだったのに・・・

今夏のバイロイトを体調不良で、急きょ全キャンセルし、音楽祭終了を待って、自身が胆管癌に侵され余命もきざまれていることを発表。
その後ほどなく届いたグールドの死去の知らせ、9月19日、61歳での死でした。
タフなヘルデンテノールのグールド氏のことだから、きっと元気に復帰するだろうと思い込んでいたし、当ブログでもそんなことを描きました。
訃報にわたしは、思わず、あっ、と声を上げてしまいました。
逝去の記事を書くこともためらいました。

新国の舞台によく立っていただきました。
わたしは、フロレスタン、トリスタン、オテロを観劇するこができましたが、ジークフリートは残念ながら聴くことができなかった。

以下、グールドを聴いたときの当時の感想。
「今夜のフロレスタンも劇場の隅々まで響き渡る豊かな歌声を聞かせた。
とても囚われて兵糧責めにあっている男の声には聞こえないのが難点。」

「私のような世代にとって、オテロといえば、デル。モナコ。
あの目の玉ひんむいた迫真の演技に崩壊寸前のすさまじい歌唱。
 そんなイメージがこびり付いたオテロ役だが、観客の中からノシノシと現れたグールド。
そして、Esulutate! の一声は・・・・、それはジークフリートが熊を駆り立てて登場したかのような「ホイホー!」の声だった。
私には、ジークフリートやタンホイザーで染み付いたグールドの声、声はぶっとくてデカイが、独特の発声にひとり違和感がある。
ワーグナー歌いのそれなのだ。
グールドの唯一のイタリアものの持ち役なんだそうな。
巨漢だから、悩みも壮大に見え、とてもハンカチ1枚に踊らされる風には見えない。
デル・モナコやドミンゴがオテロという人物に入り込んで、もうどうにも止まらない特急列車嫉妬号と化していたのに比べ、グールドは鈍行列車嫉妬号。
だがやがて3幕あたりから、ジークフリートは影をひそめ、いやまったく気にならなくなってきて、その力強い声に迫真の演技が加わりこりゃすごいぞ、と思うようになってきた。強いテノールの声を聴くことは、大いなる喜びなのだ。
耳が慣れればなんのことはない。ヘルデン・オテロも悪くない。」

「バイロイトのジークフリートやタンホイザーの音源で親しんできたヘルデンテノール。
フロレスタンとオテロを新国で観ているが、いずれもジークフリートのイメージを自分の中で払拭しきれなかった。
が、今回のトリスタンは全然違う。
立派すぎる声に、トリスタンならではの悲劇性の色合いもその声に滲ませることに成功していて、これはもう天衣無為のジークフリートではなかった。
以前は空虚に感じた声も、実に内容が豊かで、髭で覆われた哲学者(ザックスみたい)のような風貌も切実に思えた。」

ずいぶんと偉そうなことを書いていて恥ずかしいが、グールドは知的な歌手で、その大柄な姿とは裏腹に考え抜かれた歌唱で、役柄に応じた役作りに徹し、ジークフリートの明るさと力強さ、トリスタンの悲劇性もともにスタイリッシュに歌い分けることができた。
影のない女やアリアドネも舞台が引き締まる存在だった。
近時の最高傑作は、クラッツァー演出のバイロイト・タンホイザー。
これほどまでに演出の意図を体現した演技と歌唱はあるまいと思わせ、味わい深さもあるタンホイザーだった。

自由に行動することを夢見たタンホイザーが、エリーザベトと夢を追う旅に出る。
そんなエンディングにおけるグールド。

Tannhueser

祝福された平安の中に・・・・・、タンホイザーの最後のシーン。

   ーーーーーーーーーーーーー

ロバート・ヘイルさん、ステファン・グールドさん、ともにワーグナーの音楽を聴く喜びを与えてくださいました。

その魂が安らかなりますこと、お祈り申し上げます。

追)7月にはドイツのヘルデンテノール、ライナー・ゴール土ベルクも亡くなっておりました。
84歳になる直前だったとのこと。
80年代、東側から忽然と登場した歌手で、ショルティのバイロイトリングでジークフリート起用が予定されながらキャンセル。
レヴァインのリングでレコーディングは残されましたね。
わたしは、スウィトナーのマイスタージンガーで実演に接しております。
ドイツの往年の歌手といったイメージで、やや硬い声でしたが、当時貴重な存在として各劇場で大活躍。

まいどのことですが、歌手の訃報は悲しく、寂しいものです・・・

| | コメント (0)

2023年9月16日 (土)

「ベームのリング」発売50周年

バイロイト音楽祭は終了し、暑さも残りつつも、季節は秋へと歩みを進めてます。

今年のバイロイトは、新味と味気のない「パルジファル」の新演出で幕を開け、昨年激しいブーイングに包まれたチャチでテレビ画面で見るに限る「リング」、チェルニアコフにしては焦点ががいまいちの「オランダ人」、安心感あふれる普通の「トリスタン」、オモシロさを通り越してみんなが味わいを楽しむようになった「タンホイザー」などが上演された。

でも、音楽面での充実は、暑さやコ〇ナの影響による配役の変更があったにせよ、極めて充実していたと思います。
指揮者で一番光ったのは、タンホイザーを指揮したナタリー・シュトッツマンでドラマに即した緩急自在、表現力あふれる生きのいい演奏でした。
次いで、カサドの明晰で張りのあるパルジファルというところか。
コ〇ナ順延と自身の感染で、2年もお預けとなり初年度にして最後となってしまったインキネンのリングは、正直イマイチと思った。
気の毒すぎて、本来3年目にして最良の結果を出すところだったのに。
来年はジョルダンに交代となってしまう。

悲しいニュースとしては、体調不良で音楽祭開始前に出演キャンセルをしたステファン・グールドが、音楽祭終了と同時に胆管癌であることを発表し、余命も刻まれていることを公表したこと。
世界中のワーグナー好きがショックを受けました。
タフなグールドさん、ご本復を願ってやみません。

Ring_20230915221901

1973年の7月30日、世界同時に「ベームのリング」が発売されました。

今年は、それから50年。

思えば、このリングのレコードを入手したことから、ワーグナーにさらにのめり込み、好きな作曲家はまっさきに「ワーグナー」というようになった自分の原点ともいうべき出来事だったのです。

Ring-1

72年頃から、NHKのバイロイト放送を聴きだし、その年に初めてのワーグナーのレコードとして、「ベームのトリスタン」を購入。
その秋には、レコ芸のホルスト・シュタインのインタビューで、66・67年の「ベームのリング」が発売されるという情報を得る。
翌73年夏、ヤマハからパンフレットと予約のハガキを送ってもらい、親と親戚を説得して購入の同意を獲得。
待ちにまった「ベームのリング」が父親が銀座のヤマハから運んできてくれたのが8月1日。

Ring-3

分厚い真っ赤な布張りのカートンケースは、ずしりと重く、両手で抱えないと持てないくらいの重厚さ。

中蓋には手書きで愛蔵家のシリアルナンバーがふられてました。

Ring-2

この番号、いまならパスワードにして生涯使いたいくらいです。

Rring-8



ボックスの中には、4つの楽劇がカートンボックスに納められ入ってました。

4つのカートンには、それぞれ対訳と詳細なる解説が盛りだくさんの分厚いリブレットが挿入。

舞台写真や歌手たちの写真、ベーム、ヴィーラントの写真もたくさん。

これを日々読み返し、新バイロイト様式による舞台がどんな風だったか、想像を逞しくしていたものでした。

ときにわたくし、中学3年生の夏でした。

Ring-9

解説書の表紙にもヴィーラント・ワーグナーの舞台の写真が。
なにもありませんね、いまの饒舌すぎる舞台からするとシンプル極まりない。
音楽と簡潔な演技に集中するしかない演出。

そうして育んできた私のワーグナー好きとしての音楽道、ワーグナーはおのずとベームが指標となり、耳から馴染んだ音響としてのバイロイト祝祭劇場の響き、そして見てもないのに写真から入った簡潔な舞台と演出、それぞれが自分のワーグナーの基準みたいなものになっていったと思います。

Ring-6

ヴィーラント・ワーグナーとベーム博士。

戦後のバイロイトの復興においては、このふたりと、クナッパーツブッシュ、カイルベルトをおいては語れない。
いまのように映像作品も残せるような時代だったらどんなによかっただろうと思う。
映像でワーグナーの舞台が残されるようになったのは、バイロイトではシェロー以降だが、そもそもいまでは普通の感覚となった、あの当時では革命的であったシェロー演出も、ヴィーラントとウォルフガンク兄弟の興した新バイロイトがあってのもの。

そもそもヴィーラント・ワーグナー(1917~1966)が早逝していなければ、その後、外部演出家に頼るようになったバイロイトがどうなっていただろうか。
祖父の血を引く天才肌だっただけに50前にしての死は、ほんとうに残念でなりません。

「ベームのリング」は66年と67年のライブ録音ですが、このヴィーラント演出は1965年がプリミエで、全部をベームが指揮。
66年は1回目をベームが指揮し、残りの2回をスウィトナーが担当。
67年には、ベームはワルキューレと黄昏の1,2回目のみを指揮してあとは全部スウィトナー。
こんななかで、2年にわたるライブが録られたことになります。
68年には、マゼールに引き継がれ69年にはヴィーラント演出は終了してます。

ヴィーラントの死は、1966年10月ですが、その年の音楽祭が始まる頃には、ヴィーラントはすでに入院していて、だいぶよくないとの噂で、バイロイトの街も沈んでいたといいます。(愛読書:テュアリング著「新バイロイト」)
そんな雰囲気のなかで始まった66年のリング、「ラインの黄金」と「ジークフリート」はともに初日の録音。
みなぎる緊張感と張りのある演奏は、こんな空気感のなかで行われました。
同時に、「ベームのトリスタン」も同じ年です。

ついで67年は、ヴィーラント亡きあと、ウォルフガンク・ワーグナーに託されたバイロイトの緊張感がまたこれらの録音に詰まっていると思います。
演出補助は、レーマンとホッターが行っていて、ベームはワルキューレと黄昏のみに専念。
2年間に渡る録音で、ベストチョイスの歌手が統一して歌っているのも、このリングの強みでしょう。
ダブルキャストで、ウォータンを66年にはホッターが歌っているのが気になるところですが、通しで統一されたのは、ショルティやカラヤンよりも一気に演奏されたベーム盤の強みです。

指揮者の招聘にもこだわりをみせたヴィーラントは、その簡潔で象徴的な舞台に合うような、「地中海的な精神の明晰をもって明るく照らし出すことのできる指揮者」、曇りのない音楽を求めたものといわれる。
サヴァリッシュやクリュイタンスがその典型で、モーツァルトの眼鏡でワーグナーを演奏するとしたベームもそうだろう。
その意味でのスウィトナーがベームとリングを分担しあったのもよくわかることです。
さらに、ブーレーズに目を付け、ついに66年に登場したものの、ヴィーラントはすでに病床にあったのは悲しいことです。

モーツァルトとシュトラウスの専門家のように思われていた当時のベームは、20年ぶりに指揮をしたという65年のバイロイトのリングで、これまでのワーグナー演奏にあったロマン主義的な神秘感や情念といったものをそぎ落とし、古典的な簡潔さとピュアな音、そこにある人間ドラマとしての音楽劇にのみ集中したんだと思う。
そんななかでの、ライブならではの高揚感がみなぎっているのもベームならです。
ヴィーラント・ワーグナーの演出ともこの点で共感しあうものだったろうし、象徴的な舞台のなかで音楽そのものの持つ力を、きっと観劇した方はいやというほどに受けとめたに違いない。
いま、ほんとにそれを観てみたい。

過剰で、いろんなものを盛り込み、自己満足的な演出の多い昨今。
みながら、あれこれ詮索しつつ、その意味をさぐりつつ、いつのまにか音楽が二の次になってしまう。
映像で観ることを意識した演出ばかりの昨今。
ワーグナーの演出、しいてはオペラの演出に未来はあるのか?
突き詰めたベームのワーグナーを聴きながら、またもやそんなことを考えた。

Ring-7

タイムマシンがあれば、あの時代のバイロイトにワープしてみたいもの。

不満をつのらせつつも、行くこともきっとない来年のバイロイトに期待し、ワーグナーの新譜や放送に目を光らせ、膨大な音源を日々眺めつつニヤける自分がいるのでした。

それにしても、スウィトナーのリングもちゃんと録音して欲しかった。

| | コメント (4)

2023年8月 6日 (日)

フェスタサマーミューザ ヴァイグレ&読響 「リング」

Muza-20230901-c

ベートーヴェンさんも、ヴァケーションを謳歌中。

にやり、としつつも、ほんとはあんまり嬉しくないのかも(笑)

真夏の音楽祭、フェスタサマーミューザのコンサートへ。

Muza-20230901-a
  
  ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調

  ワーグナー   楽劇「ニーベルングの指環」
           ~オーケストラル・アドヴェンチャー~
            ヘンク・デ・フリーヘル編

   セバスティアン・ヴァイグレ指揮 読売日本交響楽団

           コンサートマスター:日下紗矢子

         (2023.8.1 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

いうまでもなく、聴衆のねらいは、「リング」。
フランクフルト歌劇場をながく率い、リングの録音もあるし、バイロイトでの経験もあるヴァイグレのワーグナーですから。

しかし、65分ぐらいのサイズは演奏会の後半向きで、前半になにをやるかが、プログラム作成上のおもしろさでしょう。
これまで2度のコンサート鑑賞歴がありますが、ペーター・シュナイダーと東京フィルでは、今回の同じベートーヴェンで4番。
デ・ワールトとN響のときは、シュトラウスの「4つの最後の歌」で、このとき歌ったスーザン・ブロックは、ブリュンヒルデとしても自己犠牲のシーンに登場するという本格ぶりでした。
あと、いけなかったけど、神奈川フィルではスコットランド系の指揮者で、前半はエルガーの「南国から」を演奏している。

そんな前半のベートーヴェン8番は、さわやかで、肩の力がぬけた桂演で、7番と対をなすリズムの交響曲であることも実感できました。
コンサート前、ヴァイグレさんが、プレトークに登場し、この8番のおもしろさを歌いながら語ってくれました。
ヴァイグレさん、いい声ですね、テノールの声域で口ずさむメロディも見事につきます。
日本語もほぼ理解されてるようで、心強い!
ワーグナーの解説では、ワーグナーというと身構える方も多いかもですが、ともかく聴いて、面白いと思ったら帰ったらネットで物語の内容を調べて、長大な音楽にチャレンジを!と語ってました。

低弦から始まる「ラインの黄金」の前奏からリアル・オケリングが眼前で楽しめました。
フリーヘルの編曲は、ヴァイグレさんも語ってましたが、いつのまにか他の場面に自然につながっていく巧みなもので、休止なく、ラストのブリュンヒルデンの自己犠牲に65分でたどり着く、まさにアドヴェンチャー体験です。
ヴァイグレの指揮は、流麗で早めのテンポ設定を崩さず、流れを重視したもので、聴き手は安心して身を任せて聴き入ることができます。
その分、ワーグナーのうねりや、コクの深さのようなものは感じられず、すっきりスマートな今風のワーグナーだと思いまろんした。
もちろんフリーヘルの編曲が、名場面とジークフリートの自然描写的な場面が重きをおいているので、そうしたワーグナーの要素を求めるのは無理かもしれませんが。
そんななかでも、葬送行進曲は、わたしにはサラサラと流れ過ぎて、クライマックスでいつも求める痺れるような感銘はなかったし、最後の大団円でも、あざといタメのようなものも求めたかった。
それでも、全体感と通しで聴きおおせたときの感動はかなり大きく、最後の和音が清らかに鳴り終わったあとも、ヴァイグレさんは指揮する両手を上に掲げつつ、しばし静止し、オーケストラも微動だにしない時間が続いた。
まんじりとしないホール内。
ゆっくりと腕を下ろして、しばし後に巻き起こるブラボーと盛大な拍手。
実によきエンディングでした。
昨今、無謀な早計な拍手やブラボーを非とするSNSなどの書き込みを拝見してますが、今宵はそんなのまったく信じがたい、実に心地よく感動的な大団円でした。
救済の動機を奏でるヴァイオリンの音色が、ハープに伴われてミューザの天井に舞い上がって行くのを耳と目でも実感してしまった。
涙がでるほど美しかった。

鳴りやまぬ拍手に、楽員が引いたあと、ヴァイグレさんは見事だったホルン首席を伴って登場し喝采を浴びてました。

Muza-20230901-b

来年からはワーグナーさんも混ぜてあげて・・・・

短すぎる65分と思う人々に、4楽章形式での「リング」交響曲を提案したい(笑)

Ⅰ「ラインの黄金」 序とかっこいい入城シーンをラストとする第1楽章
Ⅱ「ワルキューレ」 緩除楽章として兄妹の二重唱とウォータンの告別、勇ましい騎行はこの際なし
Ⅲ「ジークフリート」スケルツォ楽章、剣を鍛えるシーンに恐竜退治に森のシーン
Ⅳ「神々の黄昏」  夜明け→ラインの旅→ギービヒ家→裏切りとジークフリートの死→自己犠牲でフィナーレ

1時間45分、マーラーの3番、ブライアンのゴシックなどのサイズでいかがでしょうか。

あとフリーヘル編、存命だったら指揮して欲しかった指揮者はカラヤンですな。

Muza-20230901-d

帰宅してから乾杯。

ヴァイグレさん、アイスラーやるんだ。
歌手が豪華ですよ、さすがオペラの人のコネクション。
ガブラー、マーンケ、ヘンシェル、シュトゥルクルマン。
行こうと思うが平日なのが・・・・

フランクフルトオペラを引退したヴァイグレさんの後任は、注目の若手、グッガイス。
ヴァイグレさんは、どこかほかの劇場に行かないのかな、気になるところです。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

いぬ ねこ アイアランド アバド アメリカオケ アメリカ音楽 イギリス音楽 イタリアオペラ イタリア音楽 ウェーベルン エッシェンバッハ エルガー オペラ カラヤン クラシック音楽以外 クリスマス クレー コルンゴルト コンサート シェーンベルク シベリウス シマノフスキ シュナイト シュレーカー シューベルト シューマン ショスタコーヴィチ ショパン スクリャービン スーク チャイコフスキー チャイ5 ツェムリンスキー テノール ディーリアス ディーヴァ トリスタンとイゾルデ ドビュッシー ドヴォルザーク ハイティンク ハウェルズ バス・バリトン バックス バッハ バルビローリ バレンボイム バーンスタイン ヒコックス ビートルズ ピアノ フィンジ フォーレ フランス音楽 ブラームス ブリテン ブルックナー プッチーニ プティボン プレヴィン プロコフィエフ ヘンデル ベイスターズ ベネデッティ ベルク ベルリオーズ ベートーヴェン ベーム ホルスト ポップ マリナー マーラー ミンコフスキ ムソルグスキー メータ モーツァルト ヤナーチェク ヤンソンス ラフマニノフ ランキング ラヴェル ルイージ レクイエム レスピーギ ロシア系音楽 ロッシーニ ローエングリン ワーグナー ヴェルディ ヴォーン・ウィリアムズ 北欧系音楽 古楽全般 器楽曲 小澤征爾 尾高忠明 幻想交響曲 料理 新ウィーン楽派とその周辺 旅行・地域 日本の音楽 日記・コラム・つぶやき 映画 書籍・雑誌 東欧系音楽 歌入り交響曲 現田茂夫 神奈川フィル 第5番 若杉 弘 趣味 音楽 飯守泰次郎 R・シュトラウス