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2023年9月16日 (土)

「ベームのリング」発売50周年

バイロイト音楽祭は終了し、暑さも残りつつも、季節は秋へと歩みを進めてます。

今年のバイロイトは、新味と味気のない「パルジファル」の新演出で幕を開け、昨年激しいブーイングに包まれたチャチでテレビ画面で見るに限る「リング」、チェルニアコフにしては焦点ががいまいちの「オランダ人」、安心感あふれる普通の「トリスタン」、オモシロさを通り越してみんなが味わいを楽しむようになった「タンホイザー」などが上演された。

でも、音楽面での充実は、暑さやコ〇ナの影響による配役の変更があったにせよ、極めて充実していたと思います。
指揮者で一番光ったのは、タンホイザーを指揮したナタリー・シュトッツマンでドラマに即した緩急自在、表現力あふれる生きのいい演奏でした。
次いで、カサドの明晰で張りのあるパルジファルというところか。
コ〇ナ順延と自身の感染で、2年もお預けとなり初年度にして最後となってしまったインキネンのリングは、正直イマイチと思った。
気の毒すぎて、本来3年目にして最良の結果を出すところだったのに。
来年はジョルダンに交代となってしまう。

悲しいニュースとしては、体調不良で音楽祭開始前に出演キャンセルをしたステファン・グールドが、音楽祭終了と同時に胆管癌であることを発表し、余命も刻まれていることを公表したこと。
世界中のワーグナー好きがショックを受けました。
タフなグールドさん、ご本復を願ってやみません。

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1973年の7月30日、世界同時に「ベームのリング」が発売されました。

今年は、それから50年。

思えば、このリングのレコードを入手したことから、ワーグナーにさらにのめり込み、好きな作曲家はまっさきに「ワーグナー」というようになった自分の原点ともいうべき出来事だったのです。

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72年頃から、NHKのバイロイト放送を聴きだし、その年に初めてのワーグナーのレコードとして、「ベームのトリスタン」を購入。
その秋には、レコ芸のホルスト・シュタインのインタビューで、66・67年の「ベームのリング」が発売されるという情報を得る。
翌73年夏、ヤマハからパンフレットと予約のハガキを送ってもらい、親と親戚を説得して購入の同意を獲得。
待ちにまった「ベームのリング」が父親が銀座のヤマハから運んできてくれたのが8月1日。

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分厚い真っ赤な布張りのカートンケースは、ずしりと重く、両手で抱えないと持てないくらいの重厚さ。

中蓋には手書きで愛蔵家のシリアルナンバーがふられてました。

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この番号、いまならパスワードにして生涯使いたいくらいです。

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ボックスの中には、4つの楽劇がカートンボックスに納められ入ってました。

4つのカートンには、それぞれ対訳と詳細なる解説が盛りだくさんの分厚いリブレットが挿入。

舞台写真や歌手たちの写真、ベーム、ヴィーラントの写真もたくさん。

これを日々読み返し、新バイロイト様式による舞台がどんな風だったか、想像を逞しくしていたものでした。

ときにわたくし、中学3年生の夏でした。

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解説書の表紙にもヴィーラント・ワーグナーの舞台の写真が。
なにもありませんね、いまの饒舌すぎる舞台からするとシンプル極まりない。
音楽と簡潔な演技に集中するしかない演出。

そうして育んできた私のワーグナー好きとしての音楽道、ワーグナーはおのずとベームが指標となり、耳から馴染んだ音響としてのバイロイト祝祭劇場の響き、そして見てもないのに写真から入った簡潔な舞台と演出、それぞれが自分のワーグナーの基準みたいなものになっていったと思います。

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ヴィーラント・ワーグナーとベーム博士。

戦後のバイロイトの復興においては、このふたりと、クナッパーツブッシュ、カイルベルトをおいては語れない。
いまのように映像作品も残せるような時代だったらどんなによかっただろうと思う。
映像でワーグナーの舞台が残されるようになったのは、バイロイトではシェロー以降だが、そもそもいまでは普通の感覚となった、あの当時では革命的であったシェロー演出も、ヴィーラントとウォルフガンク兄弟の興した新バイロイトがあってのもの。

そもそもヴィーラント・ワーグナー(1917~1966)が早逝していなければ、その後、外部演出家に頼るようになったバイロイトがどうなっていただろうか。
祖父の血を引く天才肌だっただけに50前にしての死は、ほんとうに残念でなりません。

「ベームのリング」は66年と67年のライブ録音ですが、このヴィーラント演出は1965年がプリミエで、全部をベームが指揮。
66年は1回目をベームが指揮し、残りの2回をスウィトナーが担当。
67年には、ベームはワルキューレと黄昏の1,2回目のみを指揮してあとは全部スウィトナー。
こんななかで、2年にわたるライブが録られたことになります。
68年には、マゼールに引き継がれ69年にはヴィーラント演出は終了してます。

ヴィーラントの死は、1966年10月ですが、その年の音楽祭が始まる頃には、ヴィーラントはすでに入院していて、だいぶよくないとの噂で、バイロイトの街も沈んでいたといいます。(愛読書:テュアリング著「新バイロイト」)
そんな雰囲気のなかで始まった66年のリング、「ラインの黄金」と「ジークフリート」はともに初日の録音。
みなぎる緊張感と張りのある演奏は、こんな空気感のなかで行われました。
同時に、「ベームのトリスタン」も同じ年です。

ついで67年は、ヴィーラント亡きあと、ウォルフガンク・ワーグナーに託されたバイロイトの緊張感がまたこれらの録音に詰まっていると思います。
演出補助は、レーマンとホッターが行っていて、ベームはワルキューレと黄昏のみに専念。
2年間に渡る録音で、ベストチョイスの歌手が統一して歌っているのも、このリングの強みでしょう。
ダブルキャストで、ウォータンを66年にはホッターが歌っているのが気になるところですが、通しで統一されたのは、ショルティやカラヤンよりも一気に演奏されたベーム盤の強みです。

指揮者の招聘にもこだわりをみせたヴィーラントは、その簡潔で象徴的な舞台に合うような、「地中海的な精神の明晰をもって明るく照らし出すことのできる指揮者」、曇りのない音楽を求めたものといわれる。
サヴァリッシュやクリュイタンスがその典型で、モーツァルトの眼鏡でワーグナーを演奏するとしたベームもそうだろう。
その意味でのスウィトナーがベームとリングを分担しあったのもよくわかることです。
さらに、ブーレーズに目を付け、ついに66年に登場したものの、ヴィーラントはすでに病床にあったのは悲しいことです。

モーツァルトとシュトラウスの専門家のように思われていた当時のベームは、20年ぶりに指揮をしたという65年のバイロイトのリングで、これまでのワーグナー演奏にあったロマン主義的な神秘感や情念といったものをそぎ落とし、古典的な簡潔さとピュアな音、そこにある人間ドラマとしての音楽劇にのみ集中したんだと思う。
そんななかでの、ライブならではの高揚感がみなぎっているのもベームならです。
ヴィーラント・ワーグナーの演出ともこの点で共感しあうものだったろうし、象徴的な舞台のなかで音楽そのものの持つ力を、きっと観劇した方はいやというほどに受けとめたに違いない。
いま、ほんとにそれを観てみたい。

過剰で、いろんなものを盛り込み、自己満足的な演出の多い昨今。
みながら、あれこれ詮索しつつ、その意味をさぐりつつ、いつのまにか音楽が二の次になってしまう。
映像で観ることを意識した演出ばかりの昨今。
ワーグナーの演出、しいてはオペラの演出に未来はあるのか?
突き詰めたベームのワーグナーを聴きながら、またもやそんなことを考えた。

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タイムマシンがあれば、あの時代のバイロイトにワープしてみたいもの。

不満をつのらせつつも、行くこともきっとない来年のバイロイトに期待し、ワーグナーの新譜や放送に目を光らせ、膨大な音源を日々眺めつつニヤける自分がいるのでした。

それにしても、スウィトナーのリングもちゃんと録音して欲しかった。

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2023年8月 6日 (日)

フェスタサマーミューザ ヴァイグレ&読響 「リング」

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ベートーヴェンさんも、ヴァケーションを謳歌中。

にやり、としつつも、ほんとはあんまり嬉しくないのかも(笑)

真夏の音楽祭、フェスタサマーミューザのコンサートへ。

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  ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調

  ワーグナー   楽劇「ニーベルングの指環」
           ~オーケストラル・アドヴェンチャー~
            ヘンク・デ・フリーヘル編

   セバスティアン・ヴァイグレ指揮 読売日本交響楽団

           コンサートマスター:日下紗矢子

         (2023.8.1 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

いうまでもなく、聴衆のねらいは、「リング」。
フランクフルト歌劇場をながく率い、リングの録音もあるし、バイロイトでの経験もあるヴァイグレのワーグナーですから。

しかし、65分ぐらいのサイズは演奏会の後半向きで、前半になにをやるかが、プログラム作成上のおもしろさでしょう。
これまで2度のコンサート鑑賞歴がありますが、ペーター・シュナイダーと東京フィルでは、今回の同じベートーヴェンで4番。
デ・ワールトとN響のときは、シュトラウスの「4つの最後の歌」で、このとき歌ったスーザン・ブロックは、ブリュンヒルデとしても自己犠牲のシーンに登場するという本格ぶりでした。
あと、いけなかったけど、神奈川フィルではスコットランド系の指揮者で、前半はエルガーの「南国から」を演奏している。

そんな前半のベートーヴェン8番は、さわやかで、肩の力がぬけた桂演で、7番と対をなすリズムの交響曲であることも実感できました。
コンサート前、ヴァイグレさんが、プレトークに登場し、この8番のおもしろさを歌いながら語ってくれました。
ヴァイグレさん、いい声ですね、テノールの声域で口ずさむメロディも見事につきます。
日本語もほぼ理解されてるようで、心強い!
ワーグナーの解説では、ワーグナーというと身構える方も多いかもですが、ともかく聴いて、面白いと思ったら帰ったらネットで物語の内容を調べて、長大な音楽にチャレンジを!と語ってました。

低弦から始まる「ラインの黄金」の前奏からリアル・オケリングが眼前で楽しめました。
フリーヘルの編曲は、ヴァイグレさんも語ってましたが、いつのまにか他の場面に自然につながっていく巧みなもので、休止なく、ラストのブリュンヒルデンの自己犠牲に65分でたどり着く、まさにアドヴェンチャー体験です。
ヴァイグレの指揮は、流麗で早めのテンポ設定を崩さず、流れを重視したもので、聴き手は安心して身を任せて聴き入ることができます。
その分、ワーグナーのうねりや、コクの深さのようなものは感じられず、すっきりスマートな今風のワーグナーだと思いまろんした。
もちろんフリーヘルの編曲が、名場面とジークフリートの自然描写的な場面が重きをおいているので、そうしたワーグナーの要素を求めるのは無理かもしれませんが。
そんななかでも、葬送行進曲は、わたしにはサラサラと流れ過ぎて、クライマックスでいつも求める痺れるような感銘はなかったし、最後の大団円でも、あざといタメのようなものも求めたかった。
それでも、全体感と通しで聴きおおせたときの感動はかなり大きく、最後の和音が清らかに鳴り終わったあとも、ヴァイグレさんは指揮する両手を上に掲げつつ、しばし静止し、オーケストラも微動だにしない時間が続いた。
まんじりとしないホール内。
ゆっくりと腕を下ろして、しばし後に巻き起こるブラボーと盛大な拍手。
実によきエンディングでした。
昨今、無謀な早計な拍手やブラボーを非とするSNSなどの書き込みを拝見してますが、今宵はそんなのまったく信じがたい、実に心地よく感動的な大団円でした。
救済の動機を奏でるヴァイオリンの音色が、ハープに伴われてミューザの天井に舞い上がって行くのを耳と目でも実感してしまった。
涙がでるほど美しかった。

鳴りやまぬ拍手に、楽員が引いたあと、ヴァイグレさんは見事だったホルン首席を伴って登場し喝采を浴びてました。

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来年からはワーグナーさんも混ぜてあげて・・・・

短すぎる65分と思う人々に、4楽章形式での「リング」交響曲を提案したい(笑)

Ⅰ「ラインの黄金」 序とかっこいい入城シーンをラストとする第1楽章
Ⅱ「ワルキューレ」 緩除楽章として兄妹の二重唱とウォータンの告別、勇ましい騎行はこの際なし
Ⅲ「ジークフリート」スケルツォ楽章、剣を鍛えるシーンに恐竜退治に森のシーン
Ⅳ「神々の黄昏」  夜明け→ラインの旅→ギービヒ家→裏切りとジークフリートの死→自己犠牲でフィナーレ

1時間45分、マーラーの3番、ブライアンのゴシックなどのサイズでいかがでしょうか。

あとフリーヘル編、存命だったら指揮して欲しかった指揮者はカラヤンですな。

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帰宅してから乾杯。

ヴァイグレさん、アイスラーやるんだ。
歌手が豪華ですよ、さすがオペラの人のコネクション。
ガブラー、マーンケ、ヘンシェル、シュトゥルクルマン。
行こうと思うが平日なのが・・・・

フランクフルトオペラを引退したヴァイグレさんの後任は、注目の若手、グッガイス。
ヴァイグレさんは、どこかほかの劇場に行かないのかな、気になるところです。

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2023年7月30日 (日)

ワーグナー 「パルジファル」 カサド指揮 バイロイト2023

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ドイツのニュース画像から拝借。

ワーグナーの夏、バイロイト音楽祭が7月25日から開幕。

世界中が猛暑にみまわれるなか、バイロイトのオープニングは雨となり、気温も22度ぐらいと、あの冷房なしの劇場はきっと過ごしやすかったことでしょう。
政治家や著名人が集うレッドカーペットは、バイロイト市民の楽しみとも言いますが、政治から引いたメルケル元首相は、今年も旦那さんとともに注目を浴びていて、EUのライエン委員長とともに写っている一方、現職のショルツ首相は見当たらないので地味さは否めない。

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EUにおけるドイツの地位の低下、しいてはEUそのものの在り方が、よりアメリカになびかざるを得ない状態がウ・露戦で浮彫になったと思う。
それをバイロイトに結び付けるとも強引かとも思うが、Netflixのようなオリジナルドラマ化を目指した「リング」に加え、マサチューセッツ工科大学の音楽と演劇の教授であり、演出家のジェイ・シャイブは、まさにアメリカ人であり、今回の「パルジファル」の舞台もアメリカ抜きでは考えられない内容になっているとおもった。

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  ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルジファル」

    アンフォルタス:デレク・ウェルトン  
    ティトゥレル:トビアス・ケーラー

    グルネマンツ:ゲエルク・ツェッペンフェルト     
    パルジファル:アンドレアス・シャガー

    クリングゾル:ヨルダン・シャナハン 
    クンドリー:エリナ・ガランチャ

    聖杯守護の騎士:シャボンガ・マクンボ、イェンス=エリック・アスボ
    小姓:ベスティ・ホルネ、マーガレット・プルンマー
       ヨルゲ・ロドリゲス=ノルトン、ギャリー・ディヴィスリム
    花の乙女:エヴェリン・ノヴァーク、カミーユ・シュノア
         マーガレット・プルンマー、ユリア・グリュター
         ベスティ・ホルネ、マリー・ヘンリエッテ・ラインホルト
    アルト独唱:マリー・ヘンリエッテ・ラインホルト

   パブロ・ヘラス-カサド指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                 バイロイト祝祭合唱団
        合唱指揮:エーベルハルト・フリードリヒ
        
        演出:ジェイ・シャイブ

          (2023.7.25  @バイロイト)

バイエルン放送によるストリーミング音楽再生を早々に視聴。
フライブルクのバロックオケとシューベルトやメンデルスゾーンまでのロマン派領域まで時代考証を経た演奏を重ねてきたカサド。
さらにはモンテヴェルディのスペシャリストでもあり、ウィーンでそのオペラ三部作を上演中。
かと思えば、ブラームスやチャイコフスキー、ヴェルディ、現代音楽も普通に指揮してるという、ともかく想定外のレパートリーを次々と繰り出す指揮者、そんなイメージだったカサド氏。
さぞかし、快速でブーレーズばりの高解像度のパルジファルを作り上げるのかと思った。
しかし、予想はなかばあたりつつも、大幅に外れた、それも予想外に良い方に。

バイロイトでの演奏タイム

 トスカニーニ              4時間48分
 クナッパーツブッシュ (1962) 4時間19分
 ブーレース        (1970) 3時間48分
 シュタイン        (1969) 4時間01分
 ヨッフム         (1971) 3時間58分
 シュタイン        (1981) 3時間49分
 レヴァイン        (1985) 4時間38分
 ティーレマン       (2001) 4時間20分
 ブーレーズ          (2005) 3時間35分
 A・フィッシャー     (2007) 4時間05分
 ガッティ         (2008) 4時間24分
 F・ジョルダン      (2009) 4時間14分
 ヘンシェル        (2016) 4時間02分
   ビシュコフ       (2029)      4時間09分  
 カサド         (2023)      4時間06分

毎度のとおり、演奏時間がその演奏の良しあしではないですが、その演奏のひとつの目安でもあります。
カサドは歴代指揮者の中で、早くもなく、遅くもなく、全体のテンポ感では中庸と言えます。
こうしてみるとブーレーズの大胆ぶりがわかるし、レヴァインの長大ぶりもわかります。
あとシュタインが、ベームばりの凝縮された演奏に徹していたこともわかる。

そんななかで、テンポ感だけからみたカサドの演奏は、1幕と3幕の聖杯騎士たちの合唱の部分が、ものすごく速く強弱も豊かでビビットであること。
実際の舞台を見れば即わかる、こんな場面では荘厳・勇壮な音楽では釣り合わないと。
しかしながら、即興性あふれる豊かな情感を伴ったカサドのパルジファルは、夏の暑さに早くも食傷気味の私にとって、新鮮かつ極めて鮮烈だった。
抑え気味になにも起こらない清潔な前奏曲、長大なグルネマンツの昔語りも、まるで昨日のことのように具象的、パルジファル登場の躍動感、聖堂へいざなわれる場面のスピード感と、先にあげた騎士たちの合唱の躍動感。
2幕では、妙に健康的な花の乙女たちのシーン、最高の聴きものだったパルジファルの覚醒と悩めるクンドリーのシーンの緊迫感。
3幕は、まったく普通に聖金曜日の音楽の高まりがすばらしく、同じく普通に感動してしまう。
ラストシーンは清涼感あるも、あっさりと通り過ぎてしまいすぎで、あんな舞台ではなぁと思ったりもしたが、このあたりの霊感不足は今後もっと良くなると思いますね。

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 映像では、バイロイトの特製Tシャツや、ポロシャツをカジュアルに着こなして指揮をするカサドの姿が各幕映されてます。
暑そうなピットに、指揮棒を持たないカサドの指揮ぶりがよく分かる仕組み。
カーテンコールでは、スリムスーツ姿で登場して喝采を浴びてます。

歌手もいずれも素晴らしい。
このプロダクションの目玉のひとつがクンドリーに挑戦したガランチャ。
こちらは美人だから映像で見るとまたひとしおなんですが、冷徹・冷静・悲劇的なクンドリーを歌い演じた。
まっすぐな声は、彼女の強い表現意欲を感じさせ、ふたりのメゾが必要とされるほど二面性のあるこの役の難しさを、まさにひとりで体現していて、知的なセンスに裏打ちされた考え抜かれた歌唱は、かつてのスマートな歌いぶりとは違う、強靭さと強い感情表現に驚いた。

安定のツェツペンフェルトの安心して聴けるグルネマンツはまったく素晴らしい。
ただあまりの目力の強さは、演技以上に、いろんな意味あいを持たせてしまうので、あんまり、目の玉ぎろぎろしない方がいいのではといつも思う。

カレヤの罹患でピンチヒッターとなったのはシャガーで、歌い慣れたパルジファルだけあって、力強さと説得力は抜群で、アンフォルターースの叫びも堂にいったものだ。
楽天的な歌いぶりが、パルジファルやジークフリートのような役柄にはぴったり。
悩めるアンフォルタスのウェルトンが思わぬ拾い物で、これまでクリングゾルを歌ってきてのアンフォルタスは没頭感あるバス・バリトンとして、この先、ウォータンで登場する可能性を思わせた。
ほかの諸役も万全だが、端役や合唱に多国籍・多様な面々が目立つのも昨今のバイロイト、そして欧州の劇場のいまであろう。

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Photo Borrowed from the Bavarian Radio

映像による舞台も鑑賞。
ことしのパルジファルのジェイ・シャイブの演出は、当初よりARメガネ着用による新たな観劇スタイルということが喧伝された。
拡張現実という、ゲームの世界からビジネス、医療などへとその分野を文字通り拡張していった仮想空間体験をオペラでも味わってもらおうというもの。
しかしながら、バイロイトの劇場のキャパ2000人に対し、準備されたARグラスの数は330。
最後部座席とBOXシートに座った方々だけが、そのARグラスを装着することができた。

舞台は舞台で、それだけを観てる人には普通の上演であり、一方で音楽を耳から、ARグラスで仮想空間の映像を観るという、いわばふたつの観劇方法を制作するということで、その労たるや・・・とまず思ってしまう。
いずれDVDで発売されるときは、その両方が楽しめるようになると思うが、実際に客席にいた人は、ARグラスを外してしまう方も多かったといい、視覚疲れとか、音楽に集中できないとか、別な問題が生じた模様。

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その仮想空間では、どんなものが見えたかというと、ドイツの新聞情報では、パルジファルのシンボルの数々、昆虫、花、木、槍、血を流す白鳥、平和の鳩などのようで、その他、この演出家の主眼であった環境問題に関することなどが映しだされた模様。
そりゃ疲れますわな、虫がリアルに自分の方に飛んできたら悲鳴上げる人もいるだろうよ。

一方の舞台も、考え、解釈するのもめんどくさいことばかりの昨今の演出を裏切らないもの。

グルネマンツは、前奏曲からクンドリーそっくりの第2クンドリーとイチャイチャしてて困ってしまう。
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黄色いエプロンを付けた工場の監督官みたいな存在で、聖杯守護の騎士や小姓たちも、工場労働者風。
奥では黄色いガスのようなものも発生していて、舞台には泉が据えられ、メタルっぽい全体感がある。
クンドリーがアンフォルタスに持って来た秘薬は、ビニール袋に入った黄色い粉。
パルジファルが射貫く白鳥は、超リアルで、血みどろ。

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聖堂のシーンでは、天井から放射状のLEDライトで出来た丸い輪っかが降りてきて、眩しい光の加減などから、まるで「未知との遭遇」を思わせた。
アンフォルタスは白いカジュアルなロングシャツで、患部に丸い穴が開き血が出てる。
騎士たち、というか労働者たちが聖具的なグッズを数々運んできて前に並べるが、これらは偶像の品々で宗教へのアンチテーゼだろうか。
聖杯の開帳を急くティトゥレルは、まるでミイラのように醜い。
聖杯と思しきものは「2001年宇宙の旅」に出てくるようなメタリックな群青色の岩石で、これにアンフォルタスは傷口を開いて血を浴びせる。
その滴る血を器に入れ、それをティトゥレルは口にすると、驚くべきことに、ミイラみたいなティトゥレルはつやつやの顔に若返り、シャンとしてしまい、騎士たちもそれぞれにその血を口にする。
これらの異様な儀式を見ていたパルジファルは、さかんにアンフォルタスの傷と同じ場所を痛がっている。

さっきの聖杯みなしの岩石と同じ形に穴の開いたピンクに彩られた場所から、これまたピンクのスーツに、花柄の肉襦袢を付けたクリングゾルが、精力みなぎる雄牛の被り物で腰を槍にこすり付け、股間もまさぐりつつ歌う姿はエロ魔人そのもの(笑)

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花の乙女たちもみんなピンクで、一部は金髪、パツキンのねーちゃん。
もれなく花の肉襦袢を着ていて、みんな脱いじゃう。

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パルジファルになぎ倒された男の死体もあるが、新しい若者の登場で、その死体の首はぶん投げられ、死体も人形そのものの動きで彼女たちに投げ捨てられてしまい、声に出して笑った。
クンドリーは情熱的というよりは悩み多い雰囲気で、陳腐なベットソファでパルジファルと濃厚な接吻を見せる。
助けに応じ出てきて槍を構える師匠クリングゾルに対し、楯となってパルジファルを守る仕草をするクンドリーが新しい。

朽ちた世界が舞台に展開。
ここでボロボロになった戦車のような機械が全貌を現し、どうやら掘削マシーンのようだ。
眠るクンドリーの傍らに潰れたペットボトル、そしてすっかり汚れてしまった服を着たグルネマンツもペットボトルを手にして水を飲む。
半分白かったクンドリーの髪は、ほとんど白髪に変貌し、表情も変化。

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鎧が傷だらけとなったパルジファル、槍は泉のほとりに立て、定番の聖金曜日に準備は整い、ほぼ通例の洗礼シーンに安心する。
クンドリー2号も同じくパルジファルの足を洗う仕草をする。
花畑はまったく展開しないが、クンドリー2号が花束を持っている。

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聖杯騎士たちの嘆きのシーンでは、池からLEDのリングが忽然と出現し、またもやスピルバーグかと思う。
ここでは、クンドリー2号が全体を見通して仕切っているようにも見えるがいかに。
アンフォルタスの破れかぶれの様子に混乱の人々、もみくちゃにされるグルネマンツ、冷静に見守るクンドリー1号。
そこへパルジファルは、しずしずと出てきて槍(っぽいもの)をアンフォルタスの傷口に当て、すっかり治癒。
ラストの聖杯を掲げる場面は、例の群青色の岩石を掲げたはいいが、下にたたきつけて粉々にしてしまう。
音源で気になっていたガシャーンという音はこれだった(笑)
泉の中央に進み出たパルジファルは、戸惑うクンドリー1号をこちらへといざない、彼女も真ん中へ。
リングの上方を見つめつつ、楽劇は大団円を迎えるが、傍らではグルネマンツとクンドリー2号が抱き合いご縁を戻した様子。
はぁ~、と思いつつ幕。

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なんだかよくわからん演出だけど、余計なことをしてないし、ヘンテコな読み下しもない。
しかし、海外紙や演出家の言葉などからわかったこと。

騎士団は、レアアースのコバルトを採掘する鉱山労働者だった。
この際、十字軍以降の騎士団の歴史などを調べてみようとも思うが、宗教的な活動から端を発し、軍事的な存在にもなっていく各騎士団。
経済的な存在にも併せてなっていくので、先住民族のいるエリアに入り込んで収奪も行ったかもしれない。
そんな背景がここにあるのかはわからないが、J・シャイブはレアアース獲得競争が引き起こす環境破壊をもテーマにしているようだ。
ということで、彼らが崇めていたのは、聖杯でなく、そのレアアースであるコバルトそのものだった。
それを拝み、血の儀式を行うことで息長らえる。
騎士たちは、白いTシャツを着ていて、そこには平和の象徴、パルジファル最後に聖杯の周りを飛翔する「鳩」の絵が描かれていた。
3幕では、そのシャツを着た人物は一人ぐらいしか見当たらず、迷彩服、またはアフリカ民族衣装的な衣装が3幕では大半となった。
収奪が進み、コバルトを掘りつくしてしまったのか。

パルジファルの本来背景にある男性社会、その絆が導き出す聖杯守護の騎士たちという概念。
これを完全無視し、それがここでは崩壊している。
さらに、パルジファルは聖杯と見立てたレアアースを粉々にしてしまう。
これは、環境破壊に対するアンチテーゼであり、いまの世界にとって答えのない問いなのである。
パルジファルでこれをやるか?

パルジファルのシャツの胸には「Remenber me」、クンドリーの衣装の背中には「Forget me」と記されている。
このふたりの和解による共同事業がラストシーンでもあると思われた。
クンドリーは救済されて息絶えることなく、生きてパルジファルととも歩むことを予見させる。
ついでに、クンドリー2号にもforget meと書いてあり、グルネマンツと再び結ばれちゃう。なんやねん。
男性社会に徹底的にNoを突きつけるのだな(笑)

過去のアメリカのSF映画の名作を思わせるシーンや、2幕のピンクずくめの世界は、70年代のヒッピー文化のようで、サイケデリック。
花の乙女はバービー人形そのものだった。

こんな感じに断片的な印象しかなく、鈍感な私には、通底する強いメッセージはまったく読み取れなかった。
大いに感心したのは、衣装や装置などが見事にエージングされていて、経年劣化の様子や服の汚れ具合が実に見事。
逆にあまりみたくないのが「血」。
血のシーンが多いし、関係ないけど接吻シーンも妙にリアルで長い(笑)
伝統破壊のキャンセルカルチャーで、ワーグナーの楽劇をめちゃくちゃにしないでほしい。
ともかく世界の「パルジファル」はみんなこんなになっちまった。

カーテンコールは1幕でブーが飛び、3幕終了後は、歌手たちと指揮者に盛大なブラボーの嵐。
演出家・衣装・舞台製作などのチームが出てきたらお約束の激しいブーイングに包まれ安心しましたよ(笑)

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亡父に花を手向けるアンフォルタス。

今年のバイロイトは、ことにリングの売れ行きが悪く、チケットもばら売りをしたとか。

バイロイトの当主、ワーグナー家の運営に対する批判も多く、資金的な問題もあったりして、バイロイト友の会、連邦政府、州政府などとの駆け引きも今後注目。
数年後にはカタリーナ・ワーグナー体制の継続可否が問われるようだ。
ウィーンのインテンダントを長く務めたホーレンダーは、バイロイトばかりでない、ドイツのオペラ界のよくない兆しとして「気に入らないものを食べさせられたら、もう同じものを注文しない」としてオペラからの観客離れを指摘している。

同時に、インフラの高騰で生活の厳しくなっている世界中の人々にあって、オペラの高いチケットは早々に手が出るものでない。
まして、またアレ?を見せられるのかとなると、わざわざ高いお金を使いたくないだろう。
社会問題をわざわざ、オペラを通じて見せられることの意義はあるのか?
私はNOです。
そんなの違うとこでやれよと。
「伝統と革新」、バイロイトの立ち位置とするところと思うが、いまの社会問題は政治性が強すぎて、どこに真の問題を見出すか困難だと思う。
もっとワーグナーの本質をみせて欲しい、それこそが伝統であり、そのうえに今一度、革新性を築き上げて欲しいものだ。

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2023年7月22日 (土)

ワーグナー 「ワルキューレ」第1幕 クレンペラー指揮

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何度も書きますが、夕焼けが大好きです。

ワーグナーとディーリアスに目覚めた中学時代。

こんな夕焼けを眺めながら、ウォータンの告別や黄昏の自己犠牲、ディーリアスの音楽を聴いたものです。

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     ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」 第1幕

        3幕~ウォータンの告別

    ジークムント:ウィリアム・コックラン

    ジークリンデ:ヘルガ・デルネッシュ

    フンディンク:ハンス・ゾーティン

    ウォータン :ノーマン・ベイリー

 オットー・クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

     (1969.10、12、1970,10 @オール・セインツ教会)

7月6日は、波乱万丈の大指揮者、オットー・クレンペラー(1885~1973)の没後50年の日でした。

10代の中学生だった自分、覚えてますよ。
88歳、チューリヒの自宅で子供たちに囲まれての大往生だったといいます。
ドイツとイスラエルの二重国籍のクレンペラー、ワーグナーに関しては管弦楽曲集が高名だし、オランダ人の全曲も神々しい演奏。
しかし、後期の作品は劇場でほとんど指揮をしていなかったともいわれ、一方で自身と同時代のオペラ作品を積極的に世に広めることをしたこととの対比が、いかにもクレンペラーっぽいところ。

一聴して驚くそのテンポの遅さ。
聴き慣れたワルキューレの1幕はだいたい60~62分ぐらいなのに、クレンペラーは71分。
しかし、このテンポはこの演奏の一面であって、この特異なワルキューレに耳がすぐに慣れてしまい、まったく自然だし、そこにぎっしり詰まったクレンペラーの作り出す音に圧倒され、そのままあっという間に兄妹の歓喜は駆け抜けるようにして終わってしまう。
そう、こちらの音楽を聴いているという時間軸を感じさせないと同時に、情感の高まりも感じさせないのでした。

弛緩した感じさは一切なく、そこには緊張感とともに、音楽の意味がぎっしり詰まっているし、楽員の緊張と感じ入っての演奏の様子も聴いて取れる。
しいていえば、1年後に録音された3幕の方に、やや緊張感の切れる場面を感じたりもした。
総じて、頑固一徹、ロマンティシズムに背を向けた無慈悲なワルキューレの1幕で、ジークムントのヴェールゼの叫びや、ノートゥンクと妻を得た喜びはなく、ウェルズングの血を叫ぶ最後の雄たけびもあっさりかたずけられ肩すかしを食う。

ワルキューレの1幕はこうあるべきだ、悲劇臭の濃い、そのなかに見いだせる禁断のロマンティシズムといった、こちらの思い込みをすべてくつがえしてくれるクレンペラーの演奏。
でも不思議と響きは軽く透明感があるのは当時のマイルドなフィルハーモニア管の持ち味にもよるところだろうか。
録音会場の響きの豊かさもあるかもしれず、アビーロードスタジオでなかったことも幸い。

テスタメントの1幕のみの復刻と、国内盤の2CDを聴いているが、あきらかにテスタメント盤の方が明晰で音のビリ付きは少ない。
タワレコによる復刻版もあるようだが、いまの自分にはこれで充分。
クレンペラーがもう少し早くリング全曲を見据えて録音してくれたら・・・・そんな思いですが、はたしてどんなリングになったろうか。

デルネッシュのジークリンデがすばらしい。
カラヤンとブリュンヒルデ、ショルティとエリーザベトを録音した時期のもので、デルネッシュのドラマティックソプラノとしての最盛期の記録。
のちのベーレンスに通じるような、女性らしさを伴った凛々しく真っ直ぐな声は気品という風格を与えていると思う。

あとレコーディングにはあまり恵まれなかったゾーティンの豊かで、コクのあるバスも素晴らしいと思う。
私はバイロイトでグルネマンツを長く歌ったゾーティンの深みと若さもあるバスが好きで、ウィーンの来演で観たオックス男爵も実に印象深い。

ジークムントのコックランはどうかな?
スタイリッシュなほかの歌手のなかにあって、やや古めかしい歌唱に感じたし、やや一本調子に陥るところもある。
コックランは、のちの録音であるシュレーカーの「烙印」での狂気あふれる歌唱が印象的な歌手。
ここでは、ジークムントらしくないし、クレンペラーに押さえられて爆唱に至らなかったのではと思ったりもしてる。

告別のみのベイリーのウォータン。
このブリテッシュ・バス・バリトンは美声。
まろやかな声と歌い口が過ぎて、厳しさ不足だけれども、告別のシーンだけだからよし。
ショルティのマイスタージンガーのザックスもとてもよかった。

1幕とウォータンの告別だけで、やはりお預けを食らった欲求不満は募ります。
2幕の死の告知や、ウォータンの長大なモノローグ、3幕の父娘のやりとりなど、クレンペラーはどんなふうに指揮しただろうか。
残された大巨匠のリングの断片から、あれこれ妄想するのも楽しからずや。
しかし、不思議なワルキューレとの思いもいつも捨てられない。

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73年に発売時のレコ芸広告。

この1973年は、アンチェル、ケルテス、カザルス、イッセルシュテット、ホ-レンシュタイン、クレッキ、シゲティと、思い出深い音楽家の訃報が目立ちました。

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もうすぐ始まる夏のバイロイト。

今年も話題は豊富で、カサドの指揮による「パルジファル」では客席でAR視聴をするというもの。
タイトルロールのカレヤがおそらくコ〇〇で、はやくもリタイアし、シャガーが急場を救う。
ほかにも歌手の入れ替えは多数。
ガランチャのクンドリーはどんなふうに?
インキネンのリングの指揮はどうなるか?
タンホイザーを指揮するシュトルッツマン、女性指揮者が二人という史上初のバイロイト、今後もさらに増えそう。

年中聴いてるけど、夏こそワーグナー。


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2023年1月14日 (土)

ワーグナー「リエンツィ」スタインバーグ&ヴァイグレ指揮

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相模湾です。
あまりの沖合なので、うっすらとしか映りませんでしたが、昨秋行われた国際観艦式を見てやろうと吾妻山に登りました。
12か国が参加した観艦式。
遠目にも艦隊とわかるその姿、何船も見えるそのシルエットは相模湾とは思えませんでしたね。

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バイロイトでは上演されない、「さまよえるオランダ人」より前の3作。
「妖精」「恋愛禁制」「リエンツィ」

正式名は「リエンツィ 最後の護民官」。

当ブログ2度目の初期作を交えたワーグナー全作を取り上げるシリーズ、ようやく「リエンツィ」です。
過去記事に手を入れながら再掲します。

「妖精」は、ウェーバーの影響を受けつつ、マルシュナーのような幻想世界をも意識したドイツロマン派の流れに、ベルカント的な要素も取り入れた折衷的なオペラ。

恋愛禁制」は、一転してこれがワーグナーかと思わせるようなブッファの世界で、ロッシーニ的な劇の進行もあったものの、しっかりとワーグナー的な分厚い音が出てきた。

リエンツィ」は、史劇をもとにした、これまでとまた異なるグランド・オペラの世界となり、尺も長大となり、ここでもワーグナーのスタイルを確立するにいたった。

指揮者として活動していたロシア領のリガで「リエンツィ」の構想を練り始めたワーグナーだが、かさんだ借金から逃亡するように、ロンドンを経てパリへ赴く。
マイヤーベア風のグランドオペラスタイルになっているのも、パリで書かれ、そこで上演を目論んだから、というのが最大の理由。
パリで一花咲かせ、借金も返済しという目論見で、オペラ座での初演を画策しつつ1840年に完成させ、同時に台本も作り上げていた「さまよえるオランダ人」の作曲も開始した。
この間、屈辱的なアルバイトで困窮を耐え忍び、音楽系の新聞に寄稿したり、小説を書いたりすることで、表現者としての自己満足に安住する日々だったようだ。
こうした耐乏の2年間を過ごし「オランダ人」も完成。
「闇夜、困窮のなかに茨の道を通って栄光の世界へ。神よこれを与えたまえ」と書き残してもいるワーグナー。
オペラ座から声がかからず、ひたすら耐えること2年で、「リエンツィ」と「オランダ人」のドレスデンでの初演が決定した。
かつて捨てた第2の故郷とも呼ぶべきドレスデンへと帰ったワーグナー、1842年の「リエンツィ」初演は規格外の大成功となった。
ワーグナーの伝記映画で、子供たちがリエンツィの勇ましい曲を吹き鳴らしながら行進しているシーンがあって、きっとドレスデンの市民たちも、あの序曲で出てくるテーマに熱狂したものと想像できる。

史劇の「リエンツィ」と神話や伝承に題材をとり、ライトモティーフを活用した「オランダ人」が同時期に書かれ、オランダ人以降の有名作とのタイムラグはほとんどなかった「リエンツィ」。
ワーグナーのスタイルの確立は、「リエンツィ」であったといえるだろう。
ワーグナーが自身の立ち位置を、性格のまったく異なる初期3作で順次確立したわけである。


序曲ばかりが超有名な5幕のロングなオペラは、カットなしだと3時間40分もかかる。
完全全曲盤は、ホルライザー盤とサヴァリッシュ盤のふたつで、30年ぶりの新盤、3つ目のヴァイグレ盤は合理的なカットを施した短縮版で2時間45分。
同様にP・スタインバーグのDVDも短縮版による上演です。

「平民の出であるリエンツィは貴族たちの横暴に対して平民の自由のため立ち上がり、熱狂した市民たちは国王になってもらいたいと乞われる。しかし、リエンツィは護民官と呼ばれたいという。
貴族たちはリエンツィを殺そうとし、ローマの新皇帝と教皇も貴族たちの奸計によりリエンツィを弾圧する。
扇動された無知な市民たちはリエンツィに反抗的な態度を見せるようになり、リエンツィは教会側から破門。
市民はリエンツィに投石し、彼の話など聞かなくなり、宮殿に火をつけてしまい、リエンツィはその火焔のなかに姿を消す・・・」

ざっくりとこんなストーリー。

実際に存在した「コーラ・ディ・リエンツォ(1313~1354)」は、公証人から政治家になった人物で、貴族批判をつらぬき、最後はやりすぎの施策から諸方から嫌悪され殺されてしまう劇的な人生を送った人物のようだ。
思えば、ワーグナーの好みそうな存在だったわけだ。

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  ワーグナー 歌劇「リエンツィ」

 リエンツィ:トルステン・ケルル
 イレーネ(妹):マリカ・シェーンベルク
 アドリアーノ(妹の恋人、コロンナの息子):ダニエラ・ジンドラム
 コロンナ(貴族):リヒャルト・ヴィーゴルト
 オルシーニ(貴族):シュテファン・ハイデマン
 枢機卿オルヴィエート:ロベルト・ボルク
 バロンェッリ(リエンツィの同士):マルク・ヘラー
 チェッコ(リエンツィの同士):レオナルド・ネイヴァ
 平和の使者:ジェニファー・オローリン

ピンカス・スタインバーグ指揮 トゥールーズ・キャピタル管弦楽団

               トゥールーズ・キャピトール合唱団
               ミラノ・スカラ座アッカデミア合唱団


      演出:ジョルジュ・ラヴェッリ
 
                           (2012.10  @キャピトール劇場、トゥールーズ)

10年前の上演時当時、3時間出ずっぱりの難役、リエンツィを歌わせては随一だったのがトルステン・ケルルで、ケルルの出た2010年のベルリン・ドイツ・オペラでの舞台もDVD化されてましたが、ナチスを思わせるその舞台に嫌気を覚えたのでフランスのこちらを選択。
しかし、観た途端にがっかり・・・・というか殺伐としすぎて、人間味がゼロで幕が下りたあとに、後味の悪さが残る舞台だった。
直接感はないが、やはり独裁者を思わせる演出。

この演出では、時代設定は衣装などからルネッサンス期で忠実とを思わせたがいかがだろうか。
市民、貴族、聖職者、近隣諸国指導者といった登場人物たちは、その衣装からうまく対比されているが、その人物たちのすべての顔は白塗りで、ここがキモイというか、殺伐としすぎて感じた次第だ。
白塗りの顔は、いろんなものに変化できる、という比喩なのだろうか。
市民に称賛され担がれたリエンツィが、今度は批判され貶められてしまう、そんな移り気な人間たちを描こうとしたのだろう。
仲間が豹変してしまい、白塗りのうえにさらに仮面をつけてしまう禍々しさもあった。

舞台装置はほとんどなくシンプルだが、舞台奥に重層的な檀があり、そこに聖職者たちが並んで歌う場面はなかなかに効果的だったし、教会の内部を照明でうまく表したのもよい。
でも何度も見返したくなる舞台とは思わなかったな。

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ケルルのリエンツィが、ルネ・コロを忘れさせるくらいの素晴らしい歌唱だ。
持ち味のほの暗い中低域に、よく伸びるスピンとした高域とムラのない素晴らしい声。
アップになるとビジュアル的に白塗りがキツイ姿だが、あまり演技力を要求されない演出だけによかったという皮肉な面もあり。
アドリアーノ役の迫真の歌唱もよかったし、妹イレーネのリリカルな歌も存在感ありでかつ清々しい。
合唱団のなかに、東洋人が散見され、白塗りはキョン〇ーに見えてしまいなんともいえない。

最近名前をあまり聴かなくなった、ピンカス・スタインバーグのきびきびととしあ音楽造りは、ここでは曲の冗長さを補っていて、トゥールーズの明るいサウンドもワーグナーの若書きの音楽に彩りを添えていた。
ウィレム・スタインバーグの息子、ピンカス氏も70歳後半で、かつてよくN響に来てたし、いまはブタペスト・フィルの指揮者のようだ。

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 リエンツィ:ピーター・ブロンダー
 イレーネ:クリスティアーネ・リボール
 コロンナ:ファルク・シュトルックマン
 アドリアーノ:クラウディア・マーンケ
 オルジーニ :ダニエル・シュムッツハルト
 枢機卿オルヴィエート:アルフレート・ライター
 バロンチェリ:ベアウ・ギブソン
 チェッコ:ペーター・フェリックス・バウアー

セヴァスティアン・ヴァイグレ指揮
 
  フランクフルト歌劇場管弦楽団/合唱団


     (2013.5.17~20 @アルテ・オパー、フランクフルト)

30年ぶりの音盤は、ワーグナー生誕200年の際に行われた演奏会形式による初期3作のフランクフルトにおけるライブ。
これはまず、ヴァイグレの気合のこもった熱意ある指揮ぶりを讃えたい。
文字通り、一気呵成といった感じで、舞台を伴わない、しかも一般的に聴き慣れていない音楽の冗長さを聴き手に飽きさせないように、巧みにメリハリをつけて聴かせてくれる。
テンポは快速で、これはこれで大胆な演奏とも言えそうだ。
しかし、ホルライザー盤がドレスデンの音色も手伝って聴かせてくれた味わいや、サヴァリッシュの舞台と一体となったスタイリッシュかつ熱狂感などとは遠く、やや乾いて、遠くに聴こえたのも事実。
舞台での上演だったら違っていたかも。

リエンツィ役のドイツ系イギリス人歌手ブロンダーは、この役にしては声が軽く、どちらかと言うとローゲとかヘロデを持ち役にするようなタイプなので、ヒーロー感は薄い。
マーンケのアドリアーノの強靭な声、シュトルックルマンの性格的なコロンナ、リボールの優しいけれど一本気な歌唱もよし。
合唱団もふくめ、オペラハウスのまとまりのよさが強み。

初期3作のボックスセットが格安になっているので、これらのオペラを聴き馴染むようにするには最適の一組です。

日本では、若杉弘がコンサート形式でハイライトを94年に、同じく若杉弘が藤沢市民オペラで98年に舞台初演を行っている。
その上演に立ち会えなかったのが痛恨でありました。
「妖精」は舞台観劇経験あり、あと「恋愛禁制」と「リエンツィ」を体験できれば、ワーグナー全作観劇達成となりますが、はたしてこの先なりうるでしょうか・・・・

14世紀ローマ

第1幕

 ラテラーノ教会へ向かう路上、貴族のオルシーニ一行が現れリエンツィの妹イレーネを誘拐する。
ここへ同じ貴族コロンナ家が通りかかり、それを逆に奪おうともみ合いが始まる。
コロンナの息子アドリアーノ(ドラマテック・ソプラノ役)は、愛するイレーネを助けようとするが、そこへ民衆も加わり大騒ぎとなる。
ライモンド枢機卿が鎮めようとしても無理。
そこへ、リエンツィが登場して貴族たちに世界の法律と謳われたローマの栄光はどこへ!と大熱弁をふるい民衆を熱狂させ、「リエンツィ万歳!」と叫ぶ。
成り上がりものめと、不満をぶつける貴族たちは、いずれ見ておけと城壁の外へと去ってゆく。
リエンツィは、貴族たちが今後一切横暴なことはしないと誓わない限り城内にはいれないことを提案し、枢機卿や民衆の賛同を得る。
 イレーネは自分を助けてくれたアドリアーノをリエンンツィに紹介する。
アドリアーノが「民衆の力で何をするのか」と問うと、リエンツィは「ローマの解放と自由都市の実現」と答える。
貴族の立場ではそれに従えないし、イレーネを愛してるしで、心境は複雑なアドリアーノである。
 ここで、ソプラノ二人による愛の二重唱となる。

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やがて民衆が集まり、武装したリエンツィを迎えると、人々は「リエンツィを王に!」と叫ぶが、リエンツィは自分はあくまで「護民官」として欲しいと応え、「リエンツィ万歳!護民官万歳!」と讃える。

第2幕

カピトール宮殿内。
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城外の貴族たちは治安を守る宣誓をしたうえで、城内に戻っていて、ローマは一時的に平穏になった。
使者からもその平和の知らせを受けるリエンツィである。
 貴族のコロンナとオルシーニも挨拶にくるが、そのあとオルシーニはコロンナにお前それでいいのか、と反逆をそそのかし、二人してリエンツィ暗殺を相談する。
それを影で聞きつけたアドリアーノは、リエンツィに忠告するが、衣装の下に甲冑を着けているから大丈夫と答える。
 ここで各国へも手を打った結果として、諸国の使者を接見し、平和の祝賀会が始まり、長大なバレエが挿入される。
リエンツィは諸国使者に神聖ローマ帝国への忠誠を示唆するような発言もして、諸国の連中はえ?ってなる。
やがて計画通りオルシーニが刃物でリエンツィを襲うが、甲冑によって未遂に終わる。
捕らわれた貴族たちの人民裁判がすぐさま行われ、死刑が求刑される。

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アドリアーノとイレーネが、父コロンナの助命を嘆願し、リエンツィは躊躇しつつも心動かされ、人民がそれを望むなら・・・、として、再び平和を守ると誓わせて許すことと相成った。
許された貴族たちは、逆に情けをかけられたとして馬鹿にされたと内心、怒りを覚える。
 市民の急進派でリエンツィの支持者バロンチェリとチェッコは、ほんとにいいのだろうか、甘すぎないかと不安を隠せない・・。


第3幕

古代の広場。
ローマを離れた貴族たちが武装してローマに攻めてきていることが判明。
リエンツィは、民衆を鼓舞して反乱軍を迎え撃ち戦おうと立ち上がる。
 一人残ったアドリアーノは、ついに父と恋人の板ばさみになってしまったことを嘆いて歌う。
進軍ラッパが鳴り、戦場に向かうリエンツィたちを追い、父とともに戦おうと飛び出そうとするが、イレーネに懇願され引き止められる。
 やがて戦いで夫や子供が亡くなってゆくことを女性たちは嘆く、一方でリエンツィが勝利して凱旋してくる。
コロンナとオルシーニの死骸も運ばれてきて、アドリアーノは、叫びをあげて悲しむ。
彼はついにリエンツィとの決裂を選び、恨んで復讐を誓う。
民衆もあの時処刑していれば・・・とわだかまりが高まり、仲間もリエンツィの判断はおかしかったと言いだす。
しかし、戦勝祝いのトランペットが響きわたる。

第4幕

 ラテラーノ協会前。
バロンチェリとチェッコが悪い噂を聞いたかということで、語り合っている。
リエンツィが、ドイツの王子の神聖ローマ皇帝選出についての協議をしたことなどが大使から法王に伝えられ、不興を買っていること。
そもそも、妹と貴族の息子の関係を利用して貴族側に取りいろうとしているようだ、と不満が続出する。
 そこへアドリアーノが現れ、リエンツィの裏切りの証拠ならいくらでも出せると意気込む。
朝となり、リエンツィとイレーネは教会へ向かうが、すっかり冷めてしまった空々しい民衆の態度。

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そこへ枢機卿が、貴族側の工作もあり貴族に傾いたローマ法王から、リエンツィ破門の知らせを持ってきてそれを宣言する。
「破門」の言葉にショックを受けるリエンツィ。
アドリアーノは一緒に逃げようとイレーネを促すが、彼女はその手を振りきり、兄のもとにとどまることと決意。

第5幕

 カピトール宮殿内。
リエンツィは「全能の神よ、私をお見下ろしください・・・」という祈りに満ちた名アリアを歌う。
そこへイレーネが現れ、自分を見捨てなかったのは天と妹だけだというが、妹は、これがローマの女の勉めとしながらも、恋人と別れる辛さはわからないだろうとと悲しむ。
兄はアドリアーノの元へ行けというが、妹は一緒に死を選ぶ覚悟を選ぶ。
いま一度、民衆を説得しようと出てゆく。
そこへアドリアーノがやってきて、イレーネに逃げようと誘うが彼女は受け入れない。
おりから民衆が松明をもって宮殿に向かってくるので、イレーネは慌てて兄のあとを追う。
 宮殿に向って民衆が石を投げつけたりして騒いでいるなか、リエンツィがバルコニーに現れ、「誰がこの自由をもたらせたのか?・・・」と演説を説くが、人々はもう耳を貸そうとしない。
バロンチェリは「耳を貸すな、ヤツは裏切り者だ」と叫ぶ。
リエンツィは最後の言葉として、「これがローマか?永くローマの7つの丘は顕在だった。永遠の都市は不滅だ!お前たちは見ることだろう、リエンツィがきっと帰ってくることを!」と叫ぶ。

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だが民衆は、ついに宮殿に火を放ってしまう。
イレーネもあらわれ、それを救おうとアドリアーノも宮殿に飛び込む・・・。
しかし、その宮殿の塔が崩れ落ち、リエンツィ、イレーネ、アドリアーノの3人は焼け落ちた宮殿とともに下敷きとなってしまう。


いやはや、長い長い。あらすじも端折ると訳がわからなくなる筋なので長文となりました。

短縮された箇所は、2幕の諸国使者の個々の挨拶、長大なバレエ、4幕と5幕の一部。
そこがなくとも過不足なく感じた次第。

群衆心理の恐ろしさと、先導者が扇動者となってしまうことの矛盾。
権力を握ると言動にも注意しなくちゃならんという歴史の教訓なども描かれていて、その後のワーグナーの生きざまや、ワーグナーの音楽を政治利用した輩なども知ってる私たちには、なるほどなるほどとなります。

オランダ人とほぼ同じ時期に書かれているので、合唱の扱いなどはオランダ人を思わせるところもあり、聖職者たちが破門を告げるか所などは、幽霊船の合唱にも通じるところがあり。
さらにこの先のタンホイザーを思わせるところは、3幕のアドリアーノのアリアなどはエリザベートの2幕の懇願の場面、教会のテ・デウムなど。
オケは雄弁で、歌手に与えられた歌も難しい。
なによりも巨大な編成と、多くの優秀な歌手が必要。
ルネッサンス・ローマの史実に対し、読み替え的な時代設定を無視した演出を持ち込むと、いまのご時世、逆に問題となりかねないので、かつてのミュンヘンにおけるポネル演出のような舞台がいいと思う。

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初期3作を終え、次は「さまよえるオランダ人」。
オランダ人はありままるほどに上演され、録音も映像も残されてきた。
リエンツィはそれを思うとあまりに気の毒な存在だ。

序曲ばかりが有名になりすぎたオペラも珍しいものだ。

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今日、1月14日はマリス・ヤンソンスの誕生日で、存命であれば80歳になるところでした。
オスロフィルとの若き頃のワーグナー録音は、以前blogであまりよろしくないですね、と偉そうな記事を起こしてますが、「リエンツィ」序曲は勢いよろしく、また艶やかでもありいい感じです。
長い「リエンツィ」の記事をヤンソンスの指揮で締めたいと思います。

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陽光まぶしい相模湾の向こうに真鶴半島と伊豆半島。

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2022年10月22日 (土)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」 ティーレマン指揮

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ワーグナーの本場、ドイツはやはりすごかった。

昨年はベルリン・ドイツ・オペラでヘアハイム演出でリング4部作が上演完成し、今年はバイロイトで延期になっていたリングの通し上演がなされ、賛否両論を巻き起こす騒ぎとなりました。
またシュトットガルトでも順番に上演中で、さらにこの10月にはベルリン国立歌劇場でも1週間のうちにリングを通し上演する新演出公演がなされました。
指揮は当然に、この劇場に君臨してきたバレンボイムで、監督になって30年目、11月の80歳の記念上演となるはずでした。
今年の2月頃から体調がすぐれず、キャンセルを繰り返してきたバレンボイムですが、夏に復調を見せたにもかかわらず、医師から深刻な神経疾患ゆえリングの指揮にストップがかかりました。
バレンボイムはこれを機に、今後のこの劇場での指揮もふくめ、指揮活動も見直す発言をしてわれわれを驚かせました。

その代役といってはあまりあるほどの大物ティーレマンが選ばれ、ティーレマンとしては故郷ベルリンの老舗での指揮ということになり、3回のチクルスのうち2回を指揮することとなりました。
のこり1回は、この劇場の副指揮者でバレンボイムの弟子筋でもあるグッガイス。
彼は、ヴァイグレの後任としてフランクフルトオペラの音楽監督となる有望株です。

全4作がネット配信されましたので、すべてを喜々として聴いてみました。

演出はバレンボイムのお気に入りのチェルニアコフで、保守的なイメージの先行するティーレマンもチェルニアコフの才能は高く評価していると表明してました。
その手掛ける演出は、さながら心理劇のような複雑な考察を持ち込んだもので、舞台も人物も完全に設定替えをしてしまう、そんな天才肌のチェルニアコフ。

公開画像とほんの少しのyoutube映像からは、いつものこの演出家らしい閉ざされた空間と、小割りにした左右・上下に連続する部屋、天井の低さを犠牲にしても複層的に階上も利用する巧みさなどを確認できる。
これらの空間が回り舞台のように場面展開とともにクルクルと動いて、登場人物たちが移動したりする。
こうした舞台設定のなかで、人物たちはまるで映画俳優に求められるような、大胆かつ細やかな演技をしつつ歌うわけで、歌手への負担はとても大きいと思う。
 そしてなにより、大胆な読み替えもあることから、本来のドラマと音楽とを知悉していないと途方にくれることになるは、毎度のチェルニアコフ演出の術。

短いトレーラーを見ただけでもワクワクしてしまう面白さ。
これは確実に映像化されるだろう。
観たくてしょうがない。

ドイツの評論を読んでみた。
またちょっと長めのトレーラーも見たので半ば推測の域ですが。
舞台はウォータンが所長をつとめる研究機関で、その名も「ESCHE」と書いてある。
調べたら「トネリコ」の意味だった。
いくつもの部屋は緻密に区割りされていて、実験室、待合室、講堂、体育館、ガラス張りの家、廊下、エレベーター室、檻などなど。

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上記はおそらくその平面図で、下のフロアは3人の老いたノルンとブリュンヒルデ、黄色い服はジークリンデが着ていたレガシーだろう。
ともかくすべてが細かいから映像向き。

1960年代から現代までを、研究室を舞台に4つの楽劇で睡眠療法やらストレス療法、心理療法とやらをやっていて、神々たちは支配者と上級の研究者であり、人間や巨人たちは実験体で、地下作業場ではそれに対立するニーベルング族が労働を強いられている。
ジークムントは自閉症ぎみの逃亡者で、ジークリンデもホームレスで同じ症状で突発的行動をとり、フンディングは警官。
ガラス張りの部屋の外や階上からは所長ウォータンが常に動向を監視。
ラインの乙女も、ワルキューレたちもみんな研究所のスタッフ。
ブリュンヒルデを囲う炎はなし。
ジークフリートはアディダスのジョギングスーツを着たやんちゃ坊主だが、これもまた実験体。
おもちゃやレゴを与えられて育ったが、それらを破壊し、火をつける、その行為が剣を鍛える場面とは。。。
ミーメは神経質な老人で、ファフナーは拘束着をつけた野蛮人で係員にジークフリートのところへ連れてこられぶっコロされる。
森の小鳥も白衣のスタッフさんで、ジークフリートを所内をくるくると案内してブリュンヒルデの元へいざなう。
あとわからないのがギービヒ家の立ち位置で、ウォータンは所長を引退しており、あらたなビジネスとして取り組んでいるのがギービヒ家なのだろうか?上級市民風に見える。
ジークフリートはグンターに化けることなく、そのままでブリュンヒルデの前にあらわれるので、これはブリュンヒルデは精神的にもキツイだろう。
ジークフリートは体育館でバスケットボールに興じるなかで、登り旗の先っぽで刺されてしまう。
イジメを受けて死んだジークフリートの周りで後悔する人々。
ここからラストがどういう展開か、ほんとに見てみたいし知りたい。
ひとり生き残るのがブリュンヒルデで、彼女は自己犠牲に殉ずることはない模様。
※ラストシーンはワーグナーが草稿の段階で書いていた結末の台詞を背景にブリュンヒルデが旅立つ様子を描いたようだ。
「わたしは世界の終わりを見た」というものだろう。
実験の失敗、あたらしい人間の創造の失敗・・・・・

黄金なし、剣なし、槍なし、炎なし、ライン川なしのないないずくしの室内リング。
ここまで解釈を施してしまうのがチェルニアコフだし、昨今の演出。
面白いし刺激を受けることにおいては最高の楽しみだろう。
しかし、室内的な空間でワーグナーの壮大なドラマが矮小化されてしまうのも事実だろう。

ベルリンにおいては、昨年のヘアハイム演出よりは上位だとの見方のようですが、さていかに。

画像と動画はすべてベルリン国立歌劇場のサイトからお借りして引用しております。

Alle Bilder und Videos stammen von der Website der Berliner Staatsoper


  ワーグナー 楽劇 四部作「ニーベルングの指環」

   クリスティアン・ティーレマン指揮

    ベルリン国立歌劇場管弦楽団

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  「ラインの黄金」

ウォータン:ミヒャエル・フォレ  ドンナー:ラウリ・ファサール
フロー :シャボンガ・マキンゴ  ローゲ:ロランド・ヴィラソン
フリッカ:クラウディア・マーンケ フライア:アンネット・フリテッシュ
エルダ :アンナ・キスユジット    ファゾルト:ミカ・カレス
ファフナー:ペーター・ローゼ   
アルベリヒ:ヨハンネス・マルティン・クレーンツェル
ミーメ :ステファン・リューガメーア   
ウォークリンデ:エヴェリン・ノヴァーク 
ウェルグンデ:ナタリア・スクリッカ 
フロースヒルデ:アンナ・ラプコプスカヤ

                      (2022.10/2)


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   「ワルキューレ」

ジークムント:ロバート・ワトソン 
ジークリンデ:ヴィダ・ミクネヴィチウテ 
フンディンク:ミカ・カレス    
ウォータン:ミヒャエル・フォレ

フリッカ:クラウディア・マーンケ 
ブリュンヒルデ:アニヤ・カンペ
その他ワルキューレのみなさん

                    (2022.10.3)

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 「ジークフリート」

ジークフリート:アンドレアス・シャガー 
ミーメ:ステファン:リューガメーア
さすらい人:ミヒャエル・フォレ 
アルベリヒ:ヨハンネス・マルティン・クレーンツェル
ファフナー:ピーター・ローゼ  エルダ:アンナ・キスユジット
ブリュンヒルデ:アニヤ・カンペ      
森の小鳥:ヴィクトリア・ランデム

                             (2022.10.6)

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  「神々の黄昏」

ジークフリート:アンドレアス・シャガー  ブリュンヒルデ:アニヤ・カンペ
グンター:ラウリ・ファサール       ハーゲン:ミカ・カレス
アルベリヒ:ヨハンネス・マルティン・クレーンツェル 
グルトルーネ:マンディ・フレドリヒ       
ワルトラウテ:ヴィオレッタ・ウルマーナ     
第1のノルン:ノア・ベイナルト      
第2のノルン:クリスティーナ・スタネク 
第3のノルン:アンナ・サミュエル   
ウォークリンデ:エヴェリン・ノヴァーク 
ウエルグンデ:ナタリア・スクリッカ  
フロースヒルデ:アンナ・ラプコプスカヤ
エルダ:アンナ・キスユジット     ウォータン:ミヒャエル・フォレ

                      (2022.10.9)


神々の黄昏でカーテンコールに出てきたチェルニアコフに対し、盛大なブーイングがなされていたけれど、音楽面ではティーレマンのそれこそ壮大な指揮が実に素晴らしいと思った。
聴きながら、腰を低く構え、両腕を開きつつ指揮棒の丸い持ち手を揺らしながらも、堂々としたティーレマンの指揮ぶりが脳裏に浮かんでしようがなかった。
ともかくテンポがじっくりで、揺るがせにしない巨大な音楽が終始鳴り響く。
いろんなモティーフがじっくりと歌われるし、弦楽のいろんな刻みもこんなに克明に弾かれると驚きの効果を生むし、こんな風になってたのかと聴いていて驚くか所もたくさんあった。
それでいて、緻密で細やかな配慮にもことかかず、音楽はときに繊細ですらあった。
若い頃には唐突なパウゼがいかにも不自然だったが、いまや舞台の進行や人物たちの心理にも寄り添うように、ときおり起こすタメはとても音楽的だった。
ワルキューレ2幕のウォータンの、終末を望む強い言葉「Das Ende」を繰り返すが、そこにあったパウゼは、これまで聴いたワルキューレのなかで、一番、最大に長かったし、緊張の瞬間でもあった。

演奏時間が演奏の良しあしではないが、ティーレマンのリング演奏時間の違いは過去演と比較するととても大きい。
ウィーンでのリングを持っていないので、バイロイトでの演奏家から、2008年の正規盤でなく、2006年の手持ちライブで比較。

           2006年      2022年

ラインの黄金    2時間30分     2時間47分 

ワルキューレ    3時間42分     3時間53分

ジークフリート   4時間1分       4時間5分

神々の黄昏     4時間25分     4時間42分

年齢を重ねてテンポが伸びるのはよくあるが、ティーレマンの演奏はより中身が濃くなっていると同時に、音楽の繊細さも増していると思う。
ラインの黄金と黄昏における長大さは、今回のドイツの評でも指摘されていた。
オーケストラもこらえ切れない場面も散見されたが、ティーレマンの指揮にベルリンのオケも聴衆も間違いなく魅了されたことだろう。
バレンボイムのあともありだ!

このティーレマンの指揮に、微に入り細に入りぴたりと符合するように繊細で細やか、そして滑らかな語り口で、きっと演技にも巧みに合わせていたであろうウォータンがフォレ。
この滑らかかつ饒舌なフォレと丁々発止と絡むのが、マイスタージンガーでもいつも共演しているクレーンツェル。
このアルベリヒの巧みさも文句なしで、神々の黄昏ではすっかり老いてしまっているのも歌でよくわかるほどの演技派。

思えば、イゾルデ、クンドリーとシャガーとともに共演し、そこでもバレンボイム&チェルニアコフだったのが、アニヤ・カンペのブリュンヒルデへの挑戦。
背伸びした役柄でもあるが、彼女らしく繊細・細やかな歌い口で、静かなシーンではとても感動的で、父娘の会話などフォレの名唱とともになかなかに感動的だった。
しかし、ジークフリートと黄昏のラストではかなり厳しい局面となってしまった。
 一方の相方のシャガーはジークフリートにもすっかりなじんで、天真爛漫そのもの。
トリスタンの映像でも、今回のジークフリートの映像の一部でも、チェルニアコフの指示だろうけど、ずいぶんとファンキーな動作をしていて笑える。

ハーゲンをはじめ、リングの悪方3役を巧みに歌ったカレスは、声が明るめなバス。
ローゲに果敢に挑戦した新境地打開のヴィラソンさん、声に灰汁が濃すぎて、見た目のげじげじさんも不評だったようだが、私は応援したい。
小柄なリトアニア出身のジークリンデ、ミクネヴィチウテさん、すてきな歌唱だった。
好きなメゾ、マーンケさんのフリッカも安定感あるうまさ。
ジークムントのアメリカ人テノールは、そのお声がアメリカンすぎる歌いまわしで不評、でもわたしは今後よくなると思った。
ミーメのリューガメーアはまさに職人気質の性格テノールで実によろしい。

歌手はやはりリンデン・オーパーなだけにコネクションの豊富さもあり、ドイツ・オペラに比べると充実の極み。

ともかく、歌手のみなさん、たいへんです、お疲れ様です、といいたい。

リンデンオーパー、日本にバレンボイムとなんどもやってきてくれた。
その前、スゥイトナーの時代にも、数限りなく来日してくれた。
ふたりの監督のオペラやオケ公演を幸いにして何度か接することができたが、もしかしたらこの先、ティーレマンとの来演となるのだろうか。
ドレスデンの指揮者が、かつてはコンヴィチュニーやスゥイトナーのようにベルリンでも長く活躍する、そんな先達のなおれのように、ティーレマンも受け継ぐのだろうか。

バイロイト以外のドイツのワーグナーの演奏史はこうして受け継がれていくことに、安堵している。

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2022年8月 7日 (日)

バイロイト ブーイング史

Bayreuth

絶賛開催中のバイロイト音楽祭。

3年ぶりにフルスペックでの通常開催。

しかし、目玉のひとつ、新演出の「ニーベルングの指環」が賛否両論の大炎上。

4夜を聴き終え、各幕では歌手を讃えるブラボーが飛び、4作すべての終幕では総合的な評価として激しいブーイングが浴びせられました。

73年頃から聴きだしたバイロイト音楽祭の放送、今年ほどの激しいブーはちょっとなかった。

ということで、70年代以降の放送のみから記憶する、バイロイトのブーイング史をたどってみるという企画です。

激しさは別、年代順のブー記録。

①「タンホイザー」1972年 G・フリードリヒ演出 ラインスドルフ指揮

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 東ドイツ圏から登場のフェルゼンシュタイン系の演出家フリードリヒは、当時は先鋭で、巡礼者にナチスを思わせる軍服を着せ、これが盛大に炎上した。
音楽面でも数十年ぶりに復帰したラインスドルフが不調で、こちらも不評で、シュタインに初年度から変わった。
1951年のハルトマン以来の外部演出家、エヴァーディングが穏当なオランダ人で、その次に来たのがフリードリヒ。
あとのローエングリンは絶賛され、パルジファルは、ワーグナーの血をひかない演出家による初のものだったが、さほどに批判もされず。
でも指揮のレヴァインは嫌々指揮してたとかのエピソードあり。

②「ニーベルングの指環」1976年 P・シェロー演出 ブーレーズ指揮

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これこそ、バイロイトの最大のブーイングを浴びたプロダクション。
産業革命時代にしたその舞台、時代設定を動かしたことも、もしかしたらバイロイト初だし、当時先端を行ってたドイツの演出でも斬新。
しかし、70年代から、新バイロイト様式への反発がドイツ各地で生まれ、カッセルなどでは目を見張る演出が行われつつあった。
そんななか、シェローが、こともあろうにバイロイトで、しかもバイロイト100年という記念の年にやってしまった。
抽象的かつ簡潔を旨としたバイロイト様式と、すべて真反対の具象化、時代置き換え、大げさかつリアルな演技がシェロー演出。
肩車した巨大なリアル巨人や、残虐なまでの殺害シーン、アルベリヒは指ごと切られ血しぶきが舞う。
当時の穏健な演出になれた聴衆には、戸惑うことばかりだし、よりによってそこは聖地バイロイトだった。
シェローを強く推して、ウォルフガンク・ワーグナーを説得したブーレースの指揮も準備不足で、スコアを追うのに精いっぱい。
有名な話ですが、団員がふざけてブルッフのヴァイオリン協奏曲を弾いても、指揮者はわからなかったとか。
そんなことで、4夜すべて録音しながら年末を過ごした、当時の大学生だったワタクシは、初めて聴くブーイングの激しさに驚いた。
なんでも、黄昏の終演では、客同士が小競り合いを起こし、警察も出動したとか。
バイロイトの当主、ウォルフガンクにも非難があつまり、シェローに「指環から手を引かせる」会みたいなのが組織され、抗議活動がなされた。
しかし、シェローは、演出を少しずつ改善し、ブーレーズも瞬く間にリングを手の内にして、楽員を関心させてしまった。
年を追うごとに、ブーは鳴りを潜め、ブラボーが勝るようになり、最終年度は完璧に出来上がったプロダクションとなった。

このシェロー&ブーレーズのリングは、バイロイトが戦後の新バイロイト様式と決別し、本来のワーグナーが目指した実験劇場としての存在に、再び、新バイロイトの精神と同じように立ち返った画期的な上演となりました。
こうしたターニングポイントには、当然ながらブーイングはつきものだろう。

③「さまよえるオランダ人」 1978年 H・クプファー演出 D・R・デイヴィス指揮

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東側から社会派演出家クプファーの登場と、黒人歌手エステスの登場で話題になった。
初版の救済のないバージョンで、ゼンタの精神分裂的な妄想として描いた斬新な演出で、荒々しい初版の音楽とともに、初年度は観客の拒否反応にあった。
しかし、クプファーはこれで西側でも高名になり、数々の名舞台を作り上げるようになる。

④「ニーベルングの指環」 1883年 P・ホール演出 ショルティ指揮

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シェロー演出の反動のように、ト書きに忠実に、ロマンティックなリングを目指した、フレンチ組に対するブリテッシュ組のホール演出。
一糸まとわずプールで泳ぐラインの乙女たちを巨大な鏡に映しこんだりと、大がかりな仕掛けが話題を呼んだが、ドラマへの求心力不足は否めなかったとの評が多い。
ピットを覆う天井を取り払い、直接的なサウンドを狙ったショルティの試みだが、劇場の優れた音響を活かしきれず、格闘するショルティがオケを煽るようにして、今聴いてもやたらと速くてせわしない。
ベーレンスのブリュンヒルデが大輪の花を咲かせた。

⑤「ニーベルングの指環」 1988年 H・クプファー演出 バレンボイム指揮

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レーザー光線を巧みに使い、SFタッチ、近未来的な社会派ドラマを作り上げたクプファーの凄腕。
初年度は聴衆の戸惑いと、バレンボイムの指揮の空転ぶりがブーを浴びた。
それ以降はシェローと並ぶ、ワーグナー兄弟以降の最高のリングのひとつと評されている。

⑥「パルジファル」 2004年 シュルゲンジーフ演出 ブーレーズ指揮

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あらゆる宗教の神々を登場させ、アフリカの土着宗教までもが表現されたらしい。
ウサギが腐り、う〇がわく様子を映像で見せたりと、ともかくパルジファルからキリスト教的な神聖なものをすべて洗いざらい捨て去ることが主眼だった様子。
この演出、映像はおろか、舞台写真も少なめ。
とんでもないブーと口笛ピーピーの応酬。
 ブーレーズはそんな舞台はどこ吹く風、30年以上前のヴィーラント演出時の演奏とまったく変わらないところが恐ろしい。
このプロダクションは4年で引っ込められた。


⑦「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 2007年 カタリーナ・ワーグナー演出 ヴァイグレ指揮

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ワーグナーのひ孫の初バイロイト演出で、なにかやってやろうという意欲が空回り。
美術学校を舞台に、妙な性描写、デフォルメされた顔人形など、客観的にもその意図が混迷。
ザックスとワルターとに保守と革新を代弁させ、バイロイトとワーグナー家の行く末なども暗示か。
お馴染みのヴァイグレさんも、だんだんよくなったし、フォークトという歌手がここから新たなワーグナー歌手として活躍するようになった。

⑧「ローエングリン」 2010年 ノエンフェルス演出 ネルソンス指揮

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お騒がせオジサン、ノイエンフェルスの遅すぎたバイロイト登場。
ネズミ王国、しっぽとハゲ鬘にお笑いを誘いつつ、飼いならされる群衆=ネズミ軍団、おどおどした独裁者の王様、エルザとオルトルートの均一性などを巧みに描き、そこに迷い込み脱出を試みたローエングリンや、キモイ跡継ぎなど、情報過多に初年度は理解不能で笑いとブーが。
指揮と歌手は、絶賛。

⑨「タンホイザー」 2011年 バウンガルテン演出 ヘンゲルブロック指揮

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これは観た瞬間にアカンと思った。
第一、キモイ。
ヴェーヌスの妊娠、爬虫類の登場、化学薬品の工場、バイオハザードなタンホイザーなんてクソだった。
1回見ただけでもう勘弁。
ヘンゲルブックもすぐに降りてしまった。
4年で打ち切りの刑。

⑩「ニーベルングの指環」 2013年 カストルフ演出 ペトレンコ指揮

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ペトレンコの指揮にのっけから注目が集まり、その指揮と強靭かつビビッドな音楽は絶賛。
しかし、ラインの黄金から、アメリカのR66沿いのSSやラブホが舞台の猥雑さ、通じて石油をリングに見立てたような設定で、社会主義の限界資本主義の矛盾など、ワーグナーの音楽の本質からはずれたイデオロギーをぶち込もうとして失敗した感じ。
4作が脈連なく感じたのも、逆に面白く、4作が別々でもよかったモザイク的なリング。
ペトレンコの指揮がもったいなかった。

⑪「タンホイザー」 2019年 T・クラッツァー演出 ゲルギエフ指揮

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クラッツァーの前歴を知ってたので危ぶんだが、これがまた実に面白かった。
タンホイザーにLGBTや階級格差、自由への渇望などを巧みに盛り込んだ演出で、それこそ、今風で、かつ映像を巧みに用いたDVD・動画を意識した演出だった。
めっちゃ面白かったけど、でもこれ、タンホイザーじゃないんじゃね?とも思った次第。
忙しすぎのゲルギエフの練習不足もたたり、ゲルギーも批判され、なかば追い出されるようにして首になってしまった。

⑫「ニーベルングの指環」 2022年 シュヴァルツ演出 マイスター指揮

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コロナで苦節2年の順延、しかも、予定のインキネンもコロナでこけてしまい、練習も2週間もないままに、マイスターが担当。
待ちに待った「リング」の聴衆の反応は、シェロー以来の、いやそれ以上のブーイングを浴びた。
「黄昏」のみが映像化され、ドイツ国内限定で視聴が可能。
工夫して観ることも出来なくはないが、どうもそんな気もしないし、4部作全部を観ないと、その演出意図もわからないだろう。
画像と海外評のみから読み解くのも、今回の33歳の若いシュヴァルツ演出はそうとうに入り組んでるし、伏線やギャグもやたらと多そうだ。
演出家いわく、ネットフリックス風としたように、画像はまるでアメリカのファミリードラマ風で、衣装も原色だったりキラキラ系だったりで、神々や巨人の姿は造像できないし、ハーゲンなんて黄色いポロシャツ1枚のカジュアルぶりだ。
また本来は登場してこない人物も、平気で出てくるし、写真からは推し量ることができない。

「パルジファル」が、いまやその神聖性をはく奪されてしまったように、シュヴァルツは、「リング」から、あらゆるリング的な要素をすべて消し去ることをしたのではないか、と思う。
ライン川、黄金、槍、剣、炎、森・・・・なにもないらしい、ワーグナーが微に入り細に入り散りばめたライトモティーフは、なにを意味するのか、この舞台ではまったく意味をなさずに鳴り響いたのだろう(か?)
ウォータンが手にしたたのは槍じゃなくてピストル。
ジークフリートは防弾チョッキ着てるし、ブリュンヒルデを守る愛馬グラーネは、ピストルもった男だった。
ワルキューレたちは、美容整形に夢中で、鼻・あごなどを整形中で包帯まきながら、みんなスマホに夢中ww
アルベリヒはラインの黄金では、少年を誘拐し、きっとこれが4部作を通じる「子供」がキーポントなんだろうと想像。
黄昏のラストシーンも、そこに落としどころがあるらしい。

はたして、このシュヴァルツ演出が、半世紀前のシェロー演出のように名舞台として今後受け入れられるだろうか。
もしくは、実験で終わるのだろうか。
どちらになるにしても、ブーイングを覚悟に、こうした演出を聖地に持ってきたワーグナー家の末裔、その姿勢は正しく勇気があると言えるだろう。

指揮のマイスターにもブーイングは容赦なかった。
ときに揺らしたり、伸びたりといった場面はあったが、もしかしたら舞台の進行に合わせてのことだったかもしれない。
わたしは、面白く新鮮に聴いたがどうだろう。
お馴染みのブリュンヒルデを歌ったテオリンさまにもブーが。
強烈なくらいに巨大な声は相変わらずだが、今回は言語不明瞭と非難された。
指揮者の交代があったように、歌手も急な交代がいくつか。
ワルキューレでウォータンのコニュチュニーが椅子からこけて、ギャグかと思われたが、怪我をして3幕はカヴァーだったグンター役が登板。
めっちゃ張り切ったけど、ラストの告別シーンで失速。
神々のジークフリート、超人グールドが体調を壊し、これもカヴァー役のヒリーに交代し、彼は見事に歌った。
ベルリン・ドイツ・オペラのヘアハイムのリングでのジークフリートだった彼。
ウォータンで活躍したドーメンがハーゲンで復帰し、その暗めの声が実によかったし、シャガーのジークフリートが実に素晴らしい出来栄え。
歌手は、総じてよかったが、あの演出で細かな演技をしながらと思うと、昨今のオペラ歌手はたいへんだな、と思う次第だ。



ここに書いたものは網羅できませんでしたが、激しいブーを動画にまとめてみました。

ちょっと疲れる10分間ですが、今年はことにすごい。

ブーも疲れるだろうに・・・・

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2022年7月30日 (土)

ワーグナー トリスタンとイゾルデ ポシュナー指揮バイロイト2022

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ある日のビルとビルの間から見た青空、そして街路樹の緑がうまく取り囲むようにしてうまく撮れた。

半世紀前なら、こんなお洒落で自然豊かな通りではなかった丸の内の中通り。

7月25日にプリミエを迎えたバイロイト音楽祭。

「トリスタンとイゾルデ」の舞台画像をみて、自分が写した写真を思い起こした次第。

画像はすべてバイエルン放送より拝借してます。

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  ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

    トリスタン:ステファン・グールド
    イゾルデ :キャサリーネ・フォスター
    マルケ王 :ゲオルグ・ツェッペンフェルト
    クルヴェナール:マルカス・アイフェ
    ブランゲーネ :エカテリーナ・グバノヴァ
    メロート :オラフール・シグルダルソン
    牧童   :ヨルゲ・ロドリゲス・ノルトン
    舵手   :ライムント・ノルテ
    若い水夫 :シャボンガ・マキンゴ

  マルクス・ポシュナー指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
               バイロイト祝祭合唱団
      合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ

      演出:ロラント・シュヴァーブ
      装置:ピエロ・ヴィンチグエッラ
      衣装:ガブリエーレ・ルップレヒト

          (2022.7.25 @バイロイト)

バイエルン放送協会により、ネット同時放送がされ、すぐさまにストリーミング配信もされたので、即日に効くことができました。

音質の良さは、申すまでもなく、ドイツの放送局のネット配信はどこも質が高く、ひとつも乱れることなく聴くことができる。

まいどのことですが、こうして毎夏、バイロイトの音をすぐさまに聴くことのできる幸せは、昔だったら考えられないこと。

コロナ禍により、2年前、新演出上演される予定だった「リング」が中止となり、昨年もコロナで準備も整わず順延。
もともと予定されていた「トリスタンとイゾルデ」と、延期になった「リング」通し上演が今年2022年の目玉となりました。
このふたつの大きな作品を新演出しようとカタリーナ総裁をはじめ決意できたのは、パンデミックの温床となってしまう合唱団の登場が少なめだっただからとか。

それでも一波乱あり、リングのインキネンはコロナで出演不可となり、トリスタンの指揮予定のマイスターがリングに。
急きょ、穴の開いたトリスタンを指揮したのがポシュナーでしたので、今年は新演出への注目と、2回のリハーサルで挑んだポシュナーの指揮に注目が集まりました。

ミュンヘン生まれのポシュナーはドイツとオーストリアを中心に、多くのオーケストラとオペラハウスで活躍してきた指揮者で、アーヘンの歌劇場、スイス・イタリア語放送オケ、リンツ・ブルックナー管などのポストを歴任。
地味だけど、手堅い実力者で、パルジファルと使徒の饗宴を組み合わせたCDや、全集進行中のブルックナーの一部を聴いたことがある。

前奏曲が始まると、最初は燃焼不足ながら、すぐにいい感じになってきて、自分的にはいい速度を保ちつつ、余剰なタメは少なめ、適度なうねりも効果的で、幕が開いて水夫、そしてイゾルデが歌いだすと、オーケストラの音たちは舞台上のドラマ・歌手の歌と均一化して一体化して全3幕、最後までだれるところが一切なく、息も切らさず集中して聴くことができた。
テンポも走りすぎることなく、適切だし、ここはというときの爆発力も備えていて万全。
オーケストラだけでも、今回のトリスタンは、わたしは成功だと思う。
このよきトリスタンが、今年は2回しか上演されないのももったいないと思う。

40度近くになったドイツの猛暑のなか、歌手たちは体調管理も大変だったであろう。
主役級で、一番安心して聴けて安定してたのがツェッペンフェルトのマルケ。
この美しくも深く、滋味深い声は、年々よくなると思う。
いまや最高のマルケであり、グルネマンツだ。

アイフェの友愛あふれるクルヴェナールも、このバリトンにあった役柄だけに素晴らしく聴けた。
今年は、トリスタンとタンホイザーでグールドとのコンビだ。
クルヴェナールの死は、なかなかに泣かせました・・・

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カストルフのリングでブリュンヒルデをすべて歌ったイギリスのフォスターも、かつてのグィネス・ジョーンズに次ぐブリテッシュワーグナーソプラノとして、わたしの好きな歌手で、イゾルデに回った今年も、疲れを見せぬ安定した歌唱でした。
彼女のTwitterをフォローしたら、気軽に返してくれて、どこでいま何を歌っているかがわかり、身近な存在となりました。
今年のイゾルデの舞台写真をみたら、なんだか前首相メルケルさんに似てるな・・と思ったり。

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対するグールドの八面六臂の活躍ぶり。
トリスタンを2回、タンホイザーを4回、黄昏のジークフリートを3回!
今年60歳になったグールド、その疲れを知らぬ力強さと親しみやすさを持った声は今年も健在で、このタフマンにバイロイトは本当に救われていると思う。
しかし、贅沢な欲をいえば、聴き慣れすぎて、トリスタンの声には、若々しさをともなった、孤独と気品をさらに求めたい気も。

グバノヴァのブランゲーネも悪くなくて、フォスターとの声の対比と、イゾルデの反面的な存在意義も、よく出ていた。

ほかの端役諸氏は、年々知らない名前が連ねるようになった。
そしてなかなかの多国籍ぶり。

歌もオケも、充実のトリスタン、ちょっと褒めすぎかな。

しかし、驚くべきことに、「愛の死」がまだ鳴り終わってないのに、聴衆からは拍手が巻き起こってしまった・・・・・・

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ブーイングのない新演出って、もう何年振りだろうか。
1幕からブラボーが飛び交い、終幕は前段に述べた通りのありさま。

それだけ、よけいなことをしなかった、シュヴァーブ演出は、写真だけ見るとなかなかに美しく幻想的な「トリスタン」で、聴衆は思わず、こんなの待ってましたとばかりに熱狂したのでしょうか。

写真だけで批評はできませんが、いくつかの断片や、ニュース映像、ドイツ各紙の反応などを見ると、いずれも好評で、「星・波・色」の3要素を巧みに使い悲劇でなく、また分断でもなく、愛のある未来を描いたようだ。

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最初の3幕の画像にあるリングのようなものは、最初から据えられていて、2幕では、恋人たちはここに水が満たされて飲まれてしまう。
恋人たちを上からのぞき込む若い男女、イゾルデの愛の死の後には、年老いた男女の恋人がこれを見守る・・・といった風なことを読みました。
なんか、美しいと思う。
コロナで世界中の人々の心は荒んでしまった。
リングは、嫌な予感もしなくもないが、いまオペラの演出は、妙にこねくり回し、解釈を施すより、心に響くもの、そんな愛のあるもの、ワーグナーの音楽に満ち溢れるものにして欲しいものだ。

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これは、メロートの刃を見立てたネオン管が降りてきて・・・という2幕のシーン。

暑いけど、とんでもなく暑いけど、ワーグナーは最高だ💓

Marunouchi-2

今年のバイロイトでは、スタッフか関係者で、性被害だが差別だかが行われたとかなんとかでもめたらしい。

世界はほんと、そんなことばかりだし、告発や被害仕立てもSNSであっというまに拡散し炎上する。
もう、そうしたようなことも飽きたし、やめて欲しい。
静かに過ごしたいし、目にもしたくない。

バイロイト音楽祭の終盤は、ネルソンスによりオーケストラコンサートが2回あり、ここでは、オランダ人、タンホイザー、トリスタンの断片が演奏されるが、歌手はフォークトとフォスター。
フォークトのトリスタン(2幕)が聴ける。

来年のバイロイトは、パルジファルの新演出が、カサドの指揮、カレヤのタイトルロールで。
タンホイザーの指揮に、ふたりめの女性指揮者ナタリー・シュトゥッツマン。
シュトゥッマンは、歌手から指揮者となり、こんどはアトランタ響の首席にもなることが発表され、各オペラハウスでもその活躍が著しい。
はやくも、来年も楽しみなバイロイト。

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2022年7月20日 (水)

ワーグナーの夏、音楽祭の夏、はじまる

Shonandaira-07

平塚市の大磯町との境目にある「湘南平」。

5月でしたが、ほぼ半世紀ぶりに行きました。

戦時中には、B29をねらう高射砲が据えられたが、平塚大空襲のときに爆破されてしまった。

いまでは、恋人たちが、ここに鍵を結ぶ平和なデートスポットになっていて覚醒の感があります。

子供時代、わたしの住む隣町にも防空壕が多くあり、怖いけどもぐったりしたものですが、これは予測された米軍の相模湾上陸に備えてのものだと大人になってわかり、身震いがしました。

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目を東京方面に転じると、江の島と三浦半島が見えます。

手前は烏帽子岩に、平塚港。

天候不順なれど、夏来たり、そして国内外に音楽祭の季節。

悲しみと不安のなかにありますが、音楽界は平常運転で、夏がめぐってきました。

ヨーロッパ各地は現在、記録的な猛暑にみまわれ、イギリスでは40度を記録・・・

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夏の音楽祭といえば、わたしにはバイロイト

初めて買ったワーグナーのレコードが、突如として現れた「ベームのリング」。
そのときの予約特典が、2枚組のハイライト盤で左の画像。
そのあと、フィリップス社が既存の名盤、サヴァリッシュのオランダ人、タンホイザー、クナッパーツブッシュのパルジファルをセットにして発売。
そのときのサンプラー廉価盤が右の画像。
このとき、はじめて世評高い孤高の名盤とされた「クナのパルジファル」に接し、さわりだけだったけど、神々しい感銘を受けたものです。

こうして、ともかく私のワーグナーはバイロイトあってのもので、年末に放送されるNHKの放送を必死に録音し、あの劇場のサウンドを脳裏に刻み付けてきました。
年末でなくとも、リアルタイムでバイロイトの現地の音や映像がすぐさまに確認できるようになった現在。
コロナで変則的な上映が続いたここ2年、今年はフルスペックで予定通りの上演になるかと思いきや・・・・

2022年の上演作品は、新作が「トリスタンとイゾルデ」と「リング」、再演が「オランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」ということで、新演出が2本と前期ロマンテックオペラ3作が揃って上演されるという珍しい年となりました。

2020年に予定されたプリミエから2年経過してとうとう上演される、ヴァレンティン・シュヴァルツ演出による「リング」。
指揮者のインキネンがコロナにかかり、オーケストラとのリハーサルがろくに出来ずに降板。
つくづくインキネンはついてない。
代わりに、トリスタンを指揮する予定のコルネリウス・マイスターがリングの任に当たることに。
マイスターは、シュトットガルト歌劇場の音楽監督として、リングを手掛けており、同劇場のサイトで、ピアノを弾きながら楽曲解説を行うマイスター氏を確認しましたが、わかりやすい解説と明快なピアノ演奏に驚きましたね。
読響の首席客演時代はパッとしなかったみたいですが、劇場叩き上げ的な指揮者として、シュタイン、シュナイダー、コバーなどと同じく、バイロイトを支える職人指揮者のようになって欲しいものです。

リングに移ったマイスターの代わりにトリスタンの指揮者に選出されたのは、マルクス・ポシュナー。
ポシュナーはミュンヘン出身で、現在リンツ・ブルックナー管の指揮者で、全曲録音も進行中。
ブルックナーの専門家みたいにしか思われてないけど、手持ちCDで、アーヘンの劇場との録音で、パルジファルと使徒の愛餐がありました。
はたして、いかなるトリスタンを聴かせてくれましょうか。

指揮者では、オランダ人はリニフ、タンホイザーはコバー、ローエングリンはティーレマンと盤石。

歌手は、変動多くて、ウォータンとオランダ人を歌う予定のルントグレンが降りて、前者はシリンスとコニチュニーに、オランダ人はおなじみのマイヤーに。
 ステファン・グールドがかつてのヴィントガッセン級の八面六臂の大活躍で、トリスタン、ジークフリート(黄昏)、タンホイザーを歌うタフマンに。
あと、フォークトは、ジークムントとローエングリン。
シャガーがジークフリートに。
 イゾルデを長く担当したテオリンがブリュンヒルデ、前のリングのブリュンヒルデを歌ったフォスターがイゾルデ、と言う具合にステキなクロスも楽しみ。

演出はどうなんでしょうね。
こんな風に、始まる前から妄想たくましくして記事が書けるのもバイロイトの楽しみです♬

Proms2022

バイロイトと並んで、わたくしの夏を飾る音楽祭がイギリスの「Proms」

約2か月間にわたって、ロンドンの巨大なロイヤル・アルバート・ホールで催されるフレンドリーな音楽祭。

イギリス全土のBBC局をつなぐので、ロンドン以外の各地の面白いコンサートを、極東の日本でも居ながらにしてネット空間で楽しむことができる。

でも主流はアルバートホールでの演奏会で、今年、わたくしがチェックしたものは、「オラモ&BBCのヴェルレク」がファーストコンサート。
大活躍のウィルソンの英国音楽の数々、セシル・スマイスのオペラ「漂流者たち」をティチアーティのグラインドボーンメンバーで。
ヤマカズ&バーミンガムで、スマイスとラフマニフ2番。
エルダー卿とハレで、プッチーニ外套、ロイヤルフィルによる日本人作曲家の一日、ダウスゴーのニールセンシリーズ、ラトル&LSOの復活、ガードナーのゲロ夢、ペトレンコ&BPOのマーラー7番、シフによるベートーヴェン後期ソナタ、セガン&フィラ管のエロイカ、バーバー、プライス、スタセフスカヤのラストナイト。

10月末には、スタセフスカヤ&BBCで、proms2022Japanが開催されます。
プログラムは自分的にはイマイチだけど、ニッキーがやってくるので、行きたいな。

promsは、BBCのネット放送で、すべてストリーミング再生可能です。

オラモ&BBCのヴェルディのレクイエムを早くも聴きました。
タイミングがタイミングなだけに、深刻な面持ちで聴きましたが、極めて純音楽的でカチっとした演奏。
ただ歌唱陣は自分には今ひとつ。
ソプラノ歌手がドラマテックさはよいとしても、言語不明瞭な感じで不安定で、ムーディだった。

こんなこと言ってはサイトの存続すら危うくなりますが、Promsの今年の画像ひとつとっても、ここにうかがわれるのは、「多様性」。
BBCはアメリカの各局と並んで、こうしたジェンダー的なことに、そうとうにこだわりぶりを見せてます。
極東の小さな町で、世界につながったネット放送を聴く自分が偉そうなことは言えませんが、半世紀以上音楽を聴いてきた自分の耳を信じたいと思った。
なにが優先されるのか、なにが大切なのか・・・・
私は、とんでもないことに言及しているかもしれません。

Salzburg

相変わらず豪華ザルツブルグ音楽祭

フルシャ指揮のカーチャ・カバノヴァ(コスキー演出)、アルティノグリュー指揮のアイーダ、クルレンツィスの青髭公、ヴィラソン演出(?)のセビリアの理髪師、メスト&グレゴリアンのプッチーニ三部作、マルヴィッツの魔笛、ルスティオーニ指揮のルチアなどなど。
どれも映像付きで観たい聴きたい。

オーケストラ演奏会も豪奢ですので、オーストリア放送のネット配信がどれだけあるか楽しみではあります。

Exp


現在開催中でもうじき終わっちゃうのがエクスアン・プロヴァンス音楽祭

サロネンの舞台付きマーラー復活、サロメ、イドメネオ(日本人スタッフ)、ロッシーニのモーゼとファラオ、ポッペアとオルフェオのモンテヴェルディ2作、ノルマ、ベルリオーズ版オルフェオとエウリディーチェ

夏の後半はルツェルン音楽祭
アバドから引き継いだシャイーは、今年はラフマニノフ2番とマーラー1番。
フルシャがこのところ、ルツェルンでドヴォルザークをシリーズ化して、今年は新世界。

Bregenz

湖上の祭典、ブレゲンツ音楽祭では、ウィーン交響楽団が主役。
蝶々夫人、ジョルダーノの珍しいオペラ「シベリア」、ハイドンのアルミーダ。
湖上の蝶々さん、なんかステキそうですが、ここの演出はいつもぶっ飛んでるからな。
演出はホモキだから、まあ大丈夫か、見たいな。

アメリカへ渡ると、ダングルウッド
ボストン響とネルソンスの指揮が主体ですが、毎年、オペラをコンサート形式で取り上げます。
今年は、ドン・ジョヴァンニ。
ネルソンスがふんだんに聴けるのがこの音楽祭前半で、ハルサイ、ガーシュイン、ラフマニノフ3番など、いずれもネット配信されます。
録音も抜群にいいのが、ボストン響やタングルウッドのライブの楽しみです。

日本ではサマーミューザ
聴きに行きたいけど、突然行くパターンにしないと、ほんとに行けない昨今のパターン。

Bayreutherfestspiele2022

悲しい事件はあったけど、暑さに負けるな、コロナなんて〇〇っくらえ、仕事も頑張れ。夏は音楽祭だ、ワーグナーだ!

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2021年12月 6日 (月)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」 ベルリン・ドイツ・オペラ 2021

Momijidani-a

東京タワーの横にある「もみじ谷」公園にて。

今年は青空がやたら青くて、いまのところ連日の晴れ。

赤が映えます。

Re
             (ラインの黄金~ローゲと神々のみなさま)

ベルリン・ドイツ・オペラの新しい「リング」が、昨年から始まって、11月に完了。
RBB(ドイツのネット放送)で、全4部作を高音質で聴くことができた。

ベルリン・ドイツ・オペラのリングといえば、われわれ日本人が通しリングを始めて体験した、ゲッツ・フリードリヒのトンネル・リングが長らく定番として上演されてきました。
それに代わる「リング」
コロナの影響を受けて、「ワルキューレ」のみ2020年、ほかの3作を2021年に相次いで上演して新リングを完成させました。

演出は、人気のステファン・ヘアハイムということもあり、4部作は映像収録され、来年に発売されるそうだ。
お値段次第でポチっとするかもしれないけど、トレーラーを見てなんともいえない気分になるのは、昨今の演出のありがちなこと。
全部見なくちゃわからんが、正直言って、ギャグ満載のリングのパロディ化か・・・・
いや、面白いよ、きっと。。。たぶん・・・・

各役柄にいろんな意味を持たせる手法、それが観劇すれば説得力を持って、劇のなかで大きな流れのなかのパズルのひとつになる。
そうなれば、万々歳なんだけど・・・・ヘアハイム・リングはどうなるだろうか。

Wa
    (ワルキューレ~夫婦喧嘩を見守る群衆、盾もお笑い)

音だけで4部作を聴いての悪印象は、登場人物の歌以外に発する声。
うなり声、叫び声、笑い声、それも下卑たヒヒヒだったり多数・・・、音だけで聴いてると、正直、音楽の感興を阻害することとなる。
で、舞台写真やトレーラーから推察される、それらの声。。
なんで、そんなことまでして、ワーグナーの本来の本質をわざと外して意味付けを行い、解釈をするんだろうか・・・・
アルベリヒと息子のハーゲンのいやらしいヒヒヒはキモイ。
しかも、彼らの顔は、バッドマンのジョーカーそのものだ。
さらに、グンターに変身したジークフリートは、オバQみたいだったww

すいません、つらつらと、ちゃんと全部見て語れってことだけど。

しかし、その演奏面は素晴らしい。
まずもって、長らくベルリン・ドイツ・オペラを率いる、スコットランド出身のドナルド・ラニクルズの指揮が素晴らしい。
ワーグナーやリングを指揮して30年以上、と本人も語るとおり、演出抜きして堂々たるワーグナーを聴かせてくれる。
重厚なれど軽やかで、しかも鮮明で一点の曇りなし。
大きな流れをまず構築しつつ、細部を緻密に積み上げ、壮大かつダイナミックな雄大なワーグナー。
バイロイトでも90年代タンホイザーを指揮、そのころから聴くようになったラニクルズ。
ここで、こう決めて、こう伸ばして、こう、がぁーーっときて、という具合に、ワタクシが思う流れがぴたりと符合して心地いい。
左手に指揮棒、サウスポーのワーグナー指揮者ラニクルズ氏の待望のリングです。
サンフランシスコ・オペラとベルリン・ドイツ・オペラの指揮者であり、英国でもBBC系のオーケストラとの音源多数。
ラニクルズのマーラーやブルックナーも素晴らしいです。

Sieg
        (ジークフリート~ミーメさんと主人公)

ベルリン・ドイツ・オペラのオーケストラの巧さも定評のあるところ。
傷も散見されたが、ピットの中の熱気あふれる演奏を堪能。
神々の黄昏の大団円は、ことさらに感動的だった。

Gotter
  (神々の黄昏~たぶん自己犠牲のシーン、下着まみれ・・・)

歌手では、なんといっても、シュティンメのブリュンヒルデが、安定感と力強さ、しなやかさで比類ない存在を示してました。
しかしね、ヘアハイムって、下着姿が好きなんだよな、ほかの演出でも。
全編にわたって、その下着姿が氾濫していて、ブリュンヒルデにも容赦ない。
ラインの乙女たちも、あられもない姿で、男とアレしちゃうし、下着姿の群衆が、いたるとこでヤリまくってる・・・・
何だこりゃって感じで、R指定になるよこりゃ・・・

ジークフリートで登場したアメリカのテノール、クレイ・ヒレイ(Clay Hilley)が驚きの歌声。
明るく屈託のない、よく伸びる声は自然児ジークフリートにぴったり。
黄昏では、より厳しさも求めたいところだったが、スタミナも十分で最初から最後まで元気な声。
なかなかの巨漢で、動きがアレなのはしょうがないが・・・

ミーメのチュン・フン?(Ya-Chung Huang)もびっくりの発見。
台湾出身の新星で、のびやかでクリアーボイス。
ベルリン・ドイツ・オペラの専属になったようで、今後の活躍も期待。

ウォータン&さすらい人は、スコットランド出身のパターソンで、このバスバリトンも最近ウォータンを各地で歌っており、パリのジョルダン・リングでもそうだった。
やや軽めで、もう少し力強さも求めたいところだけど細やかな歌いまわしは巧みで、アルベリヒやミーメとの絡みは面白かった。
ただラインの黄金では、オーストラリア出身のデレック・ウェルトンがウォータンで、より若々しい雰囲気。
あえて、ラインの黄金のウォータンを異なる立場で描きたかった演出意図なのかもしれない。

あと印象に残ったのは、アメリカのヨヴァノヴィチのジークムントは豊かな実績を裏付ける力唱だし、ダムラウのヴァルトラウテもシュティンメのブリュンヒルデに負けず劣らずの存在感。
ほかの諸役も初めて聞く名前ばかりだが、いずれもベルリン・ドイツ・オペラの水準の高さを物語る歌唱でありました。


「ラインの黄金」

ウォータン:デレック・ウェルトン ドンナー:ヨエル・アリソン
フロー :アットリオ・グラッサー ローゲ:トマス・ブロンデーレ
フリッカ:アンニカ・シュリヒト  フライア:フルリナ・シュトゥッキ
エルダ :ユデット・クタシ      ファゾルト:アンドリュー・ハリス
ファフナー:トビアス・ケラー   アルベリヒ:マルクス・ブリュック
ミーメ :ヤ-チュン・フン    ウォークリンデ:ヴァレリア・ザヴィンスカヤ
ウェルグンデ:アリアナ・マンガネッロ フロースヒルデ:カリス・トラッカー

                      (2021.6/12)

ジョーカーのアルベリヒは、トランペットを手にしつつ、4部作中、ずっと据えられているピアノの中から即、指環を取り出し、黄金強奪となった。
悪魔くんみたいなローゲは、見た目は悪魔に変身したミッキーマウスか?
やさぐれた神々たちも情けない雰囲気。
聴衆から笑い声もあがる(笑)
でも虹色はきれいだな。



「ワルキューレ
 
ジークムント:ブランドン・ヨヴァノヴィッチ   
ジークリンデ:エリザベス・タイゲ
フンディンク:トビアス・ケラー   ウォータン:イアン・パターソン
フリッカ:アンニカ・シュリヒト   ブリュンヒルデ:ニーナ・シュティンメ

ワルキューレは本物の狼さんが出てるし大丈夫か?
ジークムントはニートみたい。
ピアノから剣を引っこ抜くのは無理筋じゃね?
そうそう、ピアノからみんな登場するね。
ヘアハイムのパルジファルでも、クンドリーは貞子みたいに、穴からせせりあがってきたし。
ジークリンデの感動的な感謝の歌をピアノ伴奏するブリュンヒルデ。
告別シーンはどんなだろ?

見てみたい。



「ジークフリート」

ジークフリート:クレイ・ヒレイ  ミーメ:ヤ-チュン・フン
さすらい人:イアン・パターソン アルベリヒ:ヨルダン・シャナハン
ファフナー:トビアス・ケラー  エルダ:ユデット・クタシ
ブリュンヒルデ:ニーナ・シュティンメ      
森の小鳥:ドルトムント少年合唱団員

          (2021.11.12)

ほぼワーグナーそっくりのミーメ。
ピアノから楽譜を誕生させる楽器職人かい。
それにしてもジークフリートがでかい、小柄なミーメの3倍もあるよ。
大蛇ファフナーが秀逸で、牙がラッパになってるし、そこからファフナーは引っ張り出される。
巻き付けた白い布をジークフリートにくるくるされて、時代劇の悪代官みたいに、あれぇーー、とばかりに、ほれはれほれはれ、されてしまいステテコ姿にされたあげく刺されちゃう。
しかし、大きな疑問は、鳥の声を少年に歌い演じさせたこと。
苦し気だし不安しか感じない。
さらに血まみれで横たわってたし・・・・まさかジークフリートに・・ってか??
ハッピーエンドも、主役の二人以外に、下着男女が乱れまくり、やりまくり・・・・・

なんだかんだで、観てみたいww



「神々の黄昏」

ジークフリート:クレイ・ヒレイ  ブリュンヒルデ:ニーナ・シュティンメ
グンター:トマス・レーマン   
ハーゲン:アルベルト・パッセンドルファー
アルベリヒ:ヨルダン・シャナハン グルトルーネ:アイレ・アスゾニ       
ワルトラウテ:オッカ・フォン・デア・ダムラウ・     
第1のノルン:アンナ・ラプコフスカヤ      
第2のノルン:カリス・タッカー     第3のノルン:アイレ・アスゾニ   
ウォークリンデ:ミーチョット・マレッロ 
ウエルグンデ:カリス・タッカー  フロースヒルデ:アンナ・ラプコフスカヤ

             (2021.10.17)

ノルンたちはスキンヘッド、どうでもいいけど、下着マンたちのひらひらはどうにかならんのか?(笑)
元気にピアノを弾くブリュンヒルデ。
ギービヒ家はリッチマンのおうち。
最初は普通の人だったハーゲン、夢に父親が現れてからジョーカー顔に変貌。
ラインの乙女もスキン化してしまうのか?
ラストシーンも下着衆ぞろぞろ、手のひらピラピラ鬱陶しい。

いやはや、やっぱり全部観てみたいww

聴衆の反応のyutubeもあり、歌手と指揮者にはブラボーの嵐。
演出家ご一行が出てくると、ブーが飛んでました。

でも、さすがはドイツ、コロナがまだ蔓延してるのに、リングをやってしまう。
そして、聴衆も演出はアレ?で批判しつつも、ワーグナーを求める心情止み難しで、演奏と音楽には大熱狂。
行かなかったけど、日本でも2年越しのマイスタージンガーが上演された。
世界中、やはり、ワーグナーがなければ生きていけないのだ。

    ーーーーーーーーーーーーーーーー

しかし、35年前に観劇した「トンネル・リング」が懐かしい。
同時期に、二期会による日本人リングも観劇していたが、そちらは新バイロイト風の抽象的な舞台だっただけに、具象的な動きで表現意欲も強かったトンネル・リングは当時の自分には驚異的ですらありました。
映像で親しんだ、シェローのリングや、クプファーのリングも、いまや懐かしの領域に。
いずれも現代の演出からしたら穏健の域にあるが、でもそのメッセージ力は、なんでもありのいまのものからしたら、ずっとずっと強かったと思う。

Momijidani-b

晩秋から初冬を抜かして、本物の冬がしっかりときました。

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