カテゴリー「イギリス音楽」の記事

2018年12月 9日 (日)

ディーリアス 「高い丘の歌」 A・デイヴィス指揮

Shima_a

少し前、毎年11月は、伯父の命日の月で、一緒に眠る従姉の墓参と伯母へのお見舞いに群馬まで出かけます。

そして足を延ばして、四万温泉へ。

四万湖のあたりは、紅葉が終盤で、赤や黄色の絨毯をサクサクと踏み歩き散策しました。

母と姉とで、むかしのことをたくさんお話ししました。

嫌なこと、厳しいことはたくさんあれど、昔語りは幸せなことしか思い出しません。

Delius_appalachia_somg_of_high_hill

  ディーリアス  「高い丘の歌」

    S:オリヴィア・ロビンソン

    T:クリストファー・ボーウェン

  サー・アンドルー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団
                       BBC交響合唱団

          (2010.10.15 オール・セインツ教会)


愛するディーリアス(1862~1934)の作品のなかで、もっとも好きな音楽がこの「高い丘の歌」。

「高い丘の歌」は、1911~12年にパリ近郊のグレ・シュル・ロワンで書かれた30分あまりの音詩。
ディーリアスの音楽って、まさに、「音による詩」と呼ぶに相応しい。
そして、その受け止め方は、聴く人の人生や暮らし、考え方、まわりの自然や見てきた風景、それらによってさまざま。

そう、特定の感情や事象に直接に紐つかないから、いつも新鮮だし、距離感もそこそこあって、自分の感情に飛び込みすぎない優しさがある。

わたくしは、そんな風にして、ディーリアスの音楽をずっと聴いてきました。

グリーグと知り合い、そして、ノルウェーの自然や風物を愛し、その海や厳しい大自然を思わせる音楽をいくつも書いたが、この曲もその一環。
でも、ノルウェーの大自然に接したことがない自分には、写真や映像で見るその自然を想像しつつも、自分の育ったお家から見えた風景や、街の自然を重ね合わせて聴くことできるのだ。
それが、自分にとっての「ディーリアスの世界」なのです。

「わたしは高い丘陵地帯にいるときの喜びと陶酔感を現そうとし、高地と広漠たる空間を前にしたときの孤独感とメランコリーを描こうとしたのだ。
ヴォーカルパートは自然における人間を象徴したのである」

                                                                 (ディーリアス:三浦敦史先生訳)

作者のこの曲に対する言葉。
この作品の魅力を一番物語っている。

丘陵、山や山岳とも違う、丘。
丘的なものも、日本の地味豊かな山々とも違って、殺伐として膨らみがただあるだけのものを想像したりもする。
唯一の英国訪問の際、ロンドンから車で発し、北上してバーミンガム方面へ、さらに南下してドーバー方面へと走りまくったことがありますが、郊外へ出て田園地帯を通過すると、丘のようなぽっこりした緑の小山が、そこここに見られたのでした。
そんな風景も、自分のなかでは英国音楽、とりわけ、ディーリアスやV・ウィリアムズを聴くときに思い浮かんだりするものなのです。

同じように、山を歩んだ音楽として、シュトラウスのアルプス交響曲がありますが、あちらは、もうリアルそのもので、音楽が登山という体験を、まんま表現しつくしている。
 ディーリアスのこちらは、写実的な要素がまったくないから、自分のなかのイメージで、思いのままに聴くことが出来る。
なんでも音や音楽にしてやろうという強引さは、これっぽっちもないので、ともかく優しく、寄り添ってくれるんだ。

何度も書くようで恐縮ですが、自分の育った家の前には、小さな山があって、その山の向こうには、富士山の頭だけがちょこんと見えてました。
夕暮れ時には、西側のその山の空が赤く染まって、ときに壮絶な夕焼けが見られることもありました。
そして、夕焼けのオレンジはやがて濃くなり、藍色にそまって暗くなっていくのです。
そんな風景を見ながら、私はディーリアスの音楽を聴いてました。
いまは離れて暮らしているけれど、ディーリアスの音楽は、また、そうした景色を呼び起こすことで、自分にとっての故郷へのノスタルジーをかり立ててくれるのです。
 この作品の最後、日が暮れ沈んでしまうくらいに、音楽がどんどんフェイドアウトしてしまう終わり方。
後ろ髪ひかれ、そして哀しく、自然の摂理の寂しさすらを感じさせます。

  ---------------

1887年のノルウェー訪問以来、生涯で17回も同国を訪れていたディーリアス。
視力を失い、体が麻痺してしまった晩年でも、車いすでかの地の丘や日没の感じられる場所へ連れていってもらっていました。

作曲の8年後、1920年、アルバート・コーツの指揮で初演。
ドイツでドイツ人指揮者によって初演が企画されるも、大戦で流れた結果のロンドン初演。
ディーリアスは、そのあと、P・グレインジャーに、これは自分の最高の作品のひとつ
と語ったという。

コンサートでは、あまり取り上げらることがないのは、30分あまりのこの曲が、一夜の演目のなかのどこで演奏できるか、その答えがないからだと思ったりもする。
そして、多くの聴衆と一緒に聴くより、ひとり静かに聴くべき音楽だからであろう。

ビーチャム盤はまだ未聴ながら、4つめの「高い丘の歌」。
シャンドスへ、ヒコックスのあとを継いでディーリアスもシリーズ化している、サー・アンドルーの演奏。
デリケートなまでの繊細さで、この曲に対して、実に素晴らしい演奏を録音してくれたことに感謝です。
この美しい演奏をしっかりととらえた雰囲気豊かな素晴らしい録音にも感謝です。

Song_of_summer

今年は、この本の刊行もうれしい出来事でした。
まだ読んでる途上ですが、断片的に接することができていたフェンビーの著述が、こうして翻訳されて体系化されたことに、こちらも感謝です。
聴きなれたディーリアスの音楽に、さらに奥行きが深まりました。

過去記事

「フェンビー&ロイヤルフィル」

「グローヴス&ロイヤル・リヴァプールフィル」

「ロジェストヴェンスキー&BBC響」



Shima_b

1か月前の晩秋。

街はいま、クリスマス。

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2018年10月 8日 (月)

フィンジ エクローグ、チェロ協奏曲 A・デイヴィス指揮


9月のお彼岸に、彼岸花の群生(といっても町で植えたわけですが)を見てきました。

お家からすぐです。

個々には、怪しい雰囲気の花だけど、緑に赤、集めてみるととても美しいです。

日本の野山や路傍には、必ず咲いてます。
生命力のある花だし、古来、害獣を防ぐ効能があることから、お墓や田畑の境界に植えていったといいます。

夏が終わり、深まりつつある秋への、ちょっと寂しい想い。

高い空を見上げつつ、秋に聴くに相応しい音楽を。


Finzi_davis_1

 フィンジ  チェロ協奏曲 イ短調

      ピアノと弦楽オーケストラのための「エクローグ」

        ノクターン~新年の音楽

       「大幻想曲とトッカータ」~ピアノとオーケストラ


     チェロ:ポール・ワトキンス

     ピアノ:ルイ・ロルティ

  サー・アンドルー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団

            (2018.2.3,4 ワトフォード)

ジェラルド・フィンジ(1901~56)の音楽を聴き始めて、もう14~5年は経つけれど、しばらくなかったフィンジ作品の新録音の登場に小躍りしてしまった自分。
しかも、シャンドスレーベルが、その英国音楽の録音の使途としたアンドルー・デイヴィスの指揮によるものです。

短い生涯で、ただでさえ寡黙な作曲家だったのに、自己批判も強く、いくつかの作品やスケッチを破棄してしまい、40数曲の作品しか残さなかったフィンジ。
どの作品も、いずれも優しく、ナイーブな感性に貫かれ、英国抒情派と呼ぶにふさわしい存在。
フィンジは、ディーリアスと同じように、みんなで、よってたかって、聴きまくるというよりは、静かに、ひとり、ひっそりと聴くような、そんな作曲家であり音楽であります。
 とかいって、ワタクシ、本ブログで、二人の作品を書きまくって、ほめちぎっておりますが・・・・。
ロンドンっ子で、イングランド南部ハンプシャー州アッシュマンズワースで、50代半ばにして悪性リンパ腫がもとで亡くなってしまう。

父を9歳にして亡くし、その後も兄や弟という最愛の肉親も相次いで亡くなる。
さらに父の影をみたかもしれない音楽と心の師であった、アーネスト・ファーラーをも戦争で失ってしまう。18歳までにして、このように親しい人との別離を経験してしまったフィンジ。
こんな切なく悲しい体験が、フィンジの心に哀しみの思い出となって蓄積ということはかたくない。
それでも、作曲家を志し、いろんな先輩作曲家や演奏家(なかにはボールトもいる)と関係を築き、徐々にその名を音楽界にあらわしていくようになります。
 先に書いた通り、慎重な筆の進め方だったので、だいたい、年1~2作のぺースで、30歳代にはロンドンでもそこそこ名の通った作曲家となります。
 歌曲や、このCDに入ってる「ノクターン」などがそうです。
あとピアノ協奏曲も若い頃の作品ですが、これが未完に終わり、「エクローグ」として残されます。

その30代前半、バークシャー州のオルドボーンに移り、そこでなんと、リンゴの研究を始める。さらに39年には、ロンドンの西部、ハンプシャー州ニューベリー郊外アッシュマンズワースに移住し、ここでの田園生活で残りの生涯を過ごすことになります。

Ashmansworth

そこでは思索に満ちた作曲活動とともに、果樹園を手にいれての果樹栽培という園芸家としての才能もあらわします。

Finzi_fomer

 そこでは、アマチュア演奏家を集めて、いろんな作品を演奏したりしたそうです・
いまも現存するフィンジの家の画像を見ると、そんな慎ましくも微笑ましい田園生活ぶりが伺えます。
 フィンジ好きが、いまでもここで、小さなコンサートを催しているようです。
FINZI FRIENDS

第二次大戦後は、筆のペースも少しあげ、クラリネット協奏曲を書いたりもしますが、先に記した通り、フィンジに残された命はあと少ししかありませんでした。。。

チェロ協奏曲は、フィンジがずっと書きたかったジャンルの音楽で、もうあと5年から10年ぐらいの余命と宣告されていた時期に、バルビローリの勧めに応じて、書き始め、1955年に完成させたのが38分に及ぶ大作。
同年7月、チェルトナム音楽祭で、C・ビューティンの独奏、バルビローリとハルレ管によって初演された。
翌年56年のプロミスで、バルビローリび急病を受けて指揮台に立ったJ・ウェルドンの指揮によりロンドン初演。
しかし、そのあとすぐに、フィンジは亡くなってしまう。

以下は、以前の記事より引用。

>3つの楽章のうち、1と2の楽章で30分あまり。
そのふたつの大きな楽章の素晴らしさと、終楽章の舞曲風な明るい楽しさの対比が、妙に心に残る。

シリアスで、自在なスタイルで作曲することの多かったフィンジが、協奏曲の王道にのっとり揺るぎないソナタ形式で書いた第1楽章。
ラプソデックであり、かつヒロイックなチェロ独奏は、思いのたけを思い切りぶちまけているようで熱く、それを受けてオーケストラも孤独の色濃く壮絶。
辛いけれど、聴きごたえ充分で、大河ドラマの主題歌のようにドラマテックな音楽に驚く。

でも第2楽章は、あの優しくシャイなフィンジが帰ってきて、静かに微笑んでくれます。
このいつまでも、ずっとずっと浸っていたい音楽はいったいどのように形容したらよろしいのでしょうか。
冒頭、オーケストラによって、この楽章の主要旋律が、どこか懐かしい雰囲気で静かに奏でられる。
あまりの美しさに、手をとめて、目をとじて、じっと聴いていたい。
今日のいやなこと、昨日の悲しいこと、明日ある辛いこと・・・、そんなことは、もういいよ、といわんばかりにフィンジの音楽が包みこんでくれます。
楽章の終りに、メイン主題がチェロによって静かに繰り返され、オーケストラがピアニシモで儚くそれに応え、静かに終わります。泣きそうになってしまいます。

そして、チェロの上昇するピチカートで開始される舞曲風の第3楽章。
明るいけれど、2楽章と違った意味で、どこか懐かしい。
ふたつの楽章からすると軽めだけど、クラリネット協奏曲の終楽章と相通じる飛翔するような音楽。
洒落たエンディングが待ち受けております。<

シャープな印象だけれど、内省的な第1楽章を、今回のワトキンスの大らかだけど、芯のしっかりしたチェロで聴くと、フィンジの見据えたゆらぐ不安と未来のようなものが、しっくりと描かれているよな気もします。
そして、フィンジ節満載の2楽章は、チェロも、サー・アンドルーのオーケストラも美しさの極みで、そして儚い。
終楽章の軽めなあり方も、この演奏でよいと思います。
 ワトキンスは、エルガーのチェロ協奏曲もCDで持ってますが、何と言っても指揮者としても活躍しており、都響でエルガーの3番を聴きました。→ワトキンス指揮都響

お馴染みの泣ける音楽の筆頭、「エクローグ」。(牧歌)
 清純無垢の汚れない美しい音楽で、これを聴いて心動かされない人はありえませぬ。
言葉にすることができません。
 作曲家ラッブラは、この作品を称して「乱れぬ落ち着き」としたそうでありまして、それは落ち着いた悲しみの抒情という意味でまったくその雰囲気を言い得ているものといえましょう。
1929年、ピアノと弦楽のための協奏曲の2楽章として造られたものだが、1952年に、全体を未完として、エクローグとして残されることとなったが、死後の1957年まで、出版されることも演奏されることもなかった・・・・。

 ここでのロルティのピアノは、エクローグという曲にもまして繊細です。
デイヴィスの指揮する弦楽オーケストラも含めて、これまでの、エクローグの演奏音源の中で、一番といっていいほどに、静かで、内省的で、ドラマもなく、劇的でもなく、そして何もありません。
 こんなエクローグは、聴くまで想像もしてなかった。
現在の英国楽壇のメジャーな演奏家たちによる静かすぎるフィンジの演奏。
 ささやくような、その演奏。
いやでも、耳を澄まさなくてはなりません。
そこに浮かび上がるフィンジの抒情のひとしずく。
ほんとに、美しく、そして儚く、どこか哀しい。

ノクターン」は、常に助言者でもあり、仲間でもあった、ヴォーン・ウィリアムズを思わせる、ちょっと古風な言い回しの、篤信あふれる音楽。
弦が主体の祈りの気持ちが、ときに篤く、そしてちょっと寂しさも。

 BBC響の緻密なサウンドでもって、この古風な雰囲気の作品が蘇るような、そんなアンドルーさんの指揮ぶり。

幻想味溢れるピアノが聴ける、ちょっとジャジーで、即興的な雰囲気も感じる「大幻想曲とトッカー」。タイトルから想像がつくように、大バッハを意識した作品です。

1920年代後半に、書かれた若書きの幻想曲に、ずっと後年、1953年にトッカータを書いて追加した作品で、合わせて16分あまり。
「エクローグ」との作品の関係性も、フィンジのピアノ協奏曲の完成形という意味でもあります。

 (以下過去記事を基に編集してます)

静的でナイーブな落ち着きを持った「エクローグ」と異なり、この「幻想曲とフーガ」は、技巧的で自由で即興的な雰囲気が漂い、とりわけ幻想曲では、バロック的な華やかさとバッハ風の峻厳さを感じます。
 これを聴くと、わたしは、キース・ジャレットのピアノを思い起こします。
思えば、キースもバッハの人。
ピアノによるソロが長く続きます。
そんなジャジーな幻想曲を聴いてると、フィンジとは思えなくなってきます。

そして、ウォルトンに影響されて付け足すこととなったトッカータは、一転、オーケストラによる爆発的な開始で、ピアノ協奏曲の第3楽章のようなフィナーレ的な効果を持つ華やかなものです。
 その後、数十年を経ながらも、フィンジは、前半の幻想曲のフレーズを、後半オーケストラとピアノで、シリアスの奏でて、やがてトッカータが帰ってきて爽快に終了するように書きました。

このように、前半と後半が、巧みに結びついたこの曲に、「エクローグ」は入り込む余地はありませんでした。
やっぱり、別々に聴きましょう。
まして、ロルティのピアノは、ここでは冴えまくっていて、エクローグの時の静的な雰囲気とはかなり違います。
デイヴィスの指揮するBBC響も、バリッと冴えてます。

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フィンジの代表的な作品に、最新の録音による名演が加わったことを、心から喜びたいと思います。
 と、同時に、もっと違った演奏、例えば、もっともっと耽溺的な哀しすぎる演奏をも、心の中では求めているのも事実です。

Higanbana_1

秋の日に。

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2018年8月19日 (日)

ディーリアス レクイエム M・デイヴィス指揮

Cosmos

夏も終盤。

お盆には、いつものように故郷へ帰り、いつもの吾妻山に朝早く登ってきました。

異常な暑さにみまわれたせいか、今年は、早くもコスモスの見頃は終わってました。

季節のサイクルが壊れている。

焦燥にもにた思いを本来、癒しを求めるはずの自然に接して覚えてしまう。

人間にできることはなんだろう・・・

P9216805

     ディーリアス   レクイエム

        S:ヘザー・ハーパー
        Br:ジョン・シャーリー=クヮーク

   メレディス・デイヴィス指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                     ロイヤル・コラール・ソサエティ

                 (1968.2 キングスウェイホール)


「大戦で散ったすべての若い芸術家の霊に捧げて」
ディーリアス(1862~1934)にもレクイエムはあります。
しかし、無神論者であったディーリアスの残したものだから、キリスト者からは、「異端のレクイエム」と呼ばれたりして、かのビーチャムでさえも、この作品を演奏しようとは思わなかったといいます。

「人生のミサ」では、ニーチェをテクストとしたように、このレクイエムは、旧約聖書の伝道の書や、シェイクスピア、そしてニーチェの書からも採られた、とてもユニークな作品となっている。
アンチ・クリスチャンだったディーリアス。
ディーリアスは、いわゆる宗教上の神という概念を超え、自然を愛しぬいたがゆえの汎神論的な想いをもっていたものと思う。

ディーリアスの音楽には、自然の美しさ、自然と人間、動物たちとの共生、人生における別れの哀しみや存在の虚しさ、過ぎた日々や去ったものへの望郷、などをそのたゆたうような流れの中に常に感じる。
こうして、半世紀あまりもディーリアスの音楽を聴いてきたが、一時たりと、その音楽の本質を掴んだこともないようにも思う。
それがディーリアスの音楽なのかもしれない。
いつの間にか、寄り添うようにして存在してくれている。

    ----------------------

5つの章からなるレクイエム。
さらに大きく分けると、第1部と第2部のふたつ。
第1部前半は、バリトンが虚しさを説き、合唱は静かな荘重たる葬送的な場面で応えるが、後半は、エキゾティックな激しいやりとりとなる。
女声は、ハレルヤ、男声は、アッラーを唱える。
来世は否定され、いまある現世を享受せよ。

うってかわって、第2部は、哀しみをともなった抒情的な田園ラプソディー。
この作品の白眉的な場面で、静謐な美しさと輝きあふれた音楽。
バリトンが、最愛の人をたたえ、ソプラノもそれに応え彼の名誉を称える。
やがて、雪の残る山や木、冬の眠りから目覚める自然を歌い継いでゆき、やがて来る春の芽吹きを眩しく表出。
ふたたび、自然は巡り、やってくる春を寿いで、曲は静かに終わる。

死者を悼むレクイエムからしたら、まさに異質。
でも、巡り来る自然に、人生の機微を見たディーリアスの優しい目線、そして、第一次大戦で亡くなった若き芸術家たちへ捧げたディーリアスの想いを、ここに感じることで、慰めと癒しの音楽となるのです。

 Everything on earth will return again, ever return again

  Springtime. Summer, Autumn and Winter, and them comes

  Springtime, Springtime!


   ----------------------

以前にヒコックスの追悼で取り上げた、ヒコックス盤は、「人生のミサ」とのカップリングで、なおかつ録音も素晴らしいが、本日のメレディス・デイヴィス盤は、今でこそ、録音が古めかしく感じるものの、懐かしさ誘う、その全体の響きは、ハーパーとクヮークのジェントルな歌唱とともに、レコードで長らく親しんだものだけに、耳への刷り込みとなっている。
カップリングのこれまた泣けるほどに哀しい「田園詩曲」もともに美しい演奏。

Cosmos1

ノスタルジー誘う、我が育ちの街の景色。

相模湾に箱根の山。

Cosmos2

夏は富士山も隠れてしまいます。

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2018年8月12日 (日)

ブリテン 戦争レクイエム コリン・デイヴィス指揮

Yasukuni

みたままつりの晩、靖国では、こんな美しい夕焼けが見ることができました。

今年の夏は、気温が高いのと、湿度が高いのとで、こんなオレンジから濃いピンクにかけての夕焼けが見られることが多いです。

そして、ことしもめぐってまいりました、日本の8月。

毎年、この時期聴きます、ヴェルディのレクイエムか、ブリテンの戦争レクイエム。

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    ブリテン  戦争レクイエム

       S:スーザン・アンソニー
       T:イアン・ポストリッジ
       Br:サイモン・キーリンサイド

     サー・コリン・デイヴィス指揮 ロンドン交響楽団
                        ロンドン交響合唱団
             フィンチリー・チルドレンズ・ミュージック・グループ

              (2004.8.1 @ロイヤル・アルバート・ホール)


プロムス2004でのライブ録音。
サー・コリンは、ブリテンの作品を多く指揮し、自演をすべてに残した作曲者以外の初録音の偉業があるのもデイヴィス。
残された録音、「ピーター・グライムズ」「ねじの回転」「真夏の夜の夢」のオペラ三作は、傑作オペラに新たな視線を向けさせた名盤です。

それなのに、「戦争レクイエム」に正規な録音を残すことがなかった。
しかし、2004年のプロムスにての演奏がNHKで放送され、それを録音したものが、いまやわたしにとって貴重な音源となった。

デイヴィスが亡くなったのは、2013年4月。
その亡くなる9年前の演奏。
LSOの自前レーベルでも商品化はされなかったが、2011年に、J・ノセダ指揮したバービカンでのライブは、シャンドスから発売された。
しかも、ポストリッジとキーリンサイドの二人の歌手は共通。
もしかしたら、いろんな経緯があってのことでしょうが、それゆえに貴重なプロムスライブなんです。

演奏は、デイヴィスらしい、音楽への渾身の打ち込みぶりのなかに、緊張感あふれる厳しさと、剛毅なダイナミズムを強く感じるものとなっている。
歌を主体として全体像を大きく構成しつつ、そのなかに、個々の曲の細部を歌を主体に掘り下げてゆく、まさに、オペラや声楽作品を得意とした指揮者、デイヴィスならではと思います。
最後の「リベラ・メ」、平和のなかに憩わせたまえ、アーメンと調和理に、静かに閉じたあと、静寂につつまれ、拍手が起きるまでの長い沈黙が支配し、ホール全体が大きな感動につつまれたことを実感する。

 14年まえの放送録音、思いきりのフォルティッシモが混濁してしまうのはやむをえない。
ここ数年の、プロムスやバイロイトのネット放送が音質の面でも、相当に進化しているものと感じる。

ソプラノはアメリカ、男声ふたりはイギリス。
ともに、連合国側の歌手たちで、敵国同士を混合してなどという初演時の考えは、異物化してしまったし、実際にそのような企画を貫き通すのも都度都度では難しくなっている。
それよりも、この作品が生まれて57年。
終戦から73年。
年月の経過とともに、反戦と平和希求のこの作品の根本概念はそのままに、演奏行為が一般の作品と同じように普遍化したことを、昨今痛感します。
日本やイタリアのオーケストラが普通に演奏し、録音する名曲のひとつなのです。

ポストリッジの誠実かつ、切実なテノールに、ともに性格的な歌い込みぶりだが、より劇的なキーリンサイド。
このふたりの個性的な歌唱にくらべると、S・アンソニーの歌は、ちょっと踏み込みが不足するが、懸命さと必死さはとても好ましい。

オケも合唱も、LSO、うまいもんです。

というわけで、サー・コリン・デイヴィスの「戦争レクイエム」を感動とともに味わった、2018年の盛夏です。

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以下、「戦争レクイエム」の作品の概略を、過去記事から引用。

1961年、戦火で焼失したコヴェントリーの聖ミカエル大聖堂の再築落成に合わせて作曲された「戦争レクイエム」。
翌62年の同地での初演は、戦いあった敵国同士の出身歌手をソロに迎えて計画されたものの、ご存知のように、英国:ピアーズ、独:F=ディースカウ、ソ連:ヴィジネフスカヤの3人が予定されながら、当局が政治的な作品とみなしたことで、ヴィジネフスカヤは参加不能となり、英国組H・ハーパーによって行われた。
翌63年のロンドン再演では、ヴィジネフスカヤの参加を得て、かの歴史的な録音も生まれたわけであります。
戦争は終わったものの、国の信条の違いによる冷戦は、まだしばらく続行した、そんな歴史を私たちは知っております。
この曲が生まれてから50年。
世界各処、いや、いまの日本のまわりでも、思いの違いや立場の違いから諍いは堪えません。

年に1度、この時期に、この曲の持つ、戦没者への追悼という意味合いととともに、ブリテンが熱く希求し続けた反戦平和の思いをあらためて強く受け止め、考えてみるのもいいことです。

しかし、この曲は、ほんとうによく出来ている。
その編成は、3人の独唱、合唱、少年合唱、ピアノ・オルガン、多彩な打楽器各種を含む3管編成大オーケストラに、楽器持替えによる12人の室内オーケストラ。
レクイエム・ミサ典礼の場面は、ソプラノとフルオーケストラ、合唱・少年合唱。
オーエン詩による創作か所は、テノール・バリトンのソロと室内オーケストラ。

この組み合わせを基調として、①レクイエム、②ディエス・イレ、③オッフェルトリウム、④サンクトゥス、⑤アニュス・デイ、⑥リベラ・メ、という通例のレクイエムとしての枠組み。
この枠組みの中に、巧みに組み込まれたオーエンの詩による緊張感に満ちたソロ。
それぞれに、この英語によるソロと、ラテン語典礼文による合唱やソプラノソロの場面が、考え抜かれたように、網の目のように絡み合い、張り巡らされている。


「重々しく不安な感情を誘う1曲目「レクイエム」。
 戦争のきな臭い惨禍を表現するテノール。
 曲の締めは、第2曲、そして音楽の最後にあらわれる祈りのフレーズ。

②第2曲は長大な「ディエス・イレ」。
 戦いのラッパが鳴り響き、激しい咆哮に包まれるが、後半の「ラクリモーサ」は、悲壮感あふれる素晴らしいヶ所で、曲の最後は、ここでも祈り。

③第3曲目「オッフェルトリウム」。
 男声ソロ二人と、合唱、二重フ―ガのような典礼文とアブラハムの旧約の物語をかけ合わせた見事な技法。

④第4曲「サンクトゥス」。
 ピアノや打楽器の連打は天上の響きを連想させ、神秘的なソプラノ独唱は東欧風、そして呪文のような○△※ムニャムニャ的な出だしを経て輝かしいサンクトゥスが始まる。

⑤第5曲は「アニュス・デイ」。
 テノール独唱と合唱典礼文とが交互に歌う、虚しさ募る場面。

⑥第6曲目「リベラ・メ」。
 打楽器と低弦による不気味な出だしと、その次ぎ訪れる戦場の緊迫感。
やがて、敵同士まみえるふたりの男声ソロによる邂逅と許し合い、「ともに、眠ろう・・・・」。
ここに至って、戦争の痛ましさは平和の願いにとって替わられ、「彼らを平和の中に憩わせたまえ、アーメン」と調和の中にこの大作は結ばれる。」

Britten_3

最後に至って、通常レクイエムとオーエン詩の、それぞれの創作ヶ所が、一体化・融合して、浄化されゆく場面では、聴く者誰しもを感動させずにはいない。

敵同士の許し合いと、安息への導き、天国はあらゆる人に開けて、清らかなソプラノと少年合唱が誘う。
このずっと続くかとも思われる繰り返しによる永遠の安息。
最後は、宗教的な結び、「Requiescant in pace.Amen」~彼らに平和のなかに憩わせ給え、アーメンで終結。

この楽園への誘いによる平安に満ちた場面は、ドラマティックでミステリアスなこの壮絶かつ壮大な作品の、本当に感動的なか所で、いつ聴いても、大いなる感銘を受けることとなります。
オペラでも器楽作品、声楽作品でも、ブリテンの音楽のその終結場面は、感動のマジックが施されていて、驚きと涙を聴き手に約束してくれます。

Yasukunijinjya

 過去記事

「ブリテン&ロンドン交響楽団」

 「アルミンク&新日本フィル ライブ」

 「ジュリーニ&ニュー・フィルハーモニア」

 「ヒコックス&ロンドン響」

 「ガーディナー&北ドイツ放送響」

 「ヤンソンス&バイエルン放送響」

 「ネルソンス&バーミンガム市響」

「K・ナガノ&エーテボリ交響楽団」

「ハイティンク&アムステルダム・コンセルトヘボウ」

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2018年7月16日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 エルガー「ゲロンティアスの夢」 ジョナサン・ノット指揮

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暑い、暑い夏の夜、涼し気な水辺。

大いなる感銘に心開かれ、爽快なる気持ちに浸ることができました。

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  エルガー  オラトリオ「ゲロンティアスの夢」 op.38

      T:マクシミリアン・シュミット
     Ms:サーシャ・クック
     Br:クリストファー・モルトマン

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
                  東響コーラス
           合唱指揮:冨平恭平
           コンサートマスター:グレブ・ニキティン

                    (2018.7.14 @サントリーホール)

ともかく感動、曲中、わなわなしてきて嗚咽しそうになった。

2005年、同じく東響の大友さん指揮のゲロンティアスを聴き逃してから13年。
実演でついに、それも理想的かつ完璧な演奏に出会うことができました。

CDで普段聴くのとは格段にその印象も異なり、この音楽の全体感というか、全貌を確実に掴むことが出来た思いです。

この半月あまり、ネット視聴と、その録音でもって、バイエルン国立歌劇場のペトレンコの「パルジファル」と、サロネン&フィルハーモニアの「グレの歌」をことあるごとに聴いていた。6月末から7月にかけて、演奏・上演されたそれらの、わたくしの最も好む音楽たち。
 そしてほどなく、こちらの「ゲロンティアス」。

いずれもテノールが主役で、苦悩と、その苦悩のうちから光明をつかむ展開とその音楽づくり。
今回、ゲロンティアスをじっくりと、そしてノットの指揮で聴くことができて、それらの作品(もっともグレは、発想はほぼ同時期ながら、作曲はゲロ夢の少しあと)との親和性を強く感じた次第でもあります。
あと、いつも想起するのが、ミサ・ソレムニス。感極まる合唱のフーガ。

     -------------------

いつでも機会があったのに、ノットの指揮を聴くのは実に2006年のバンベルク響との来日以来のこと。
武満徹に、濃密な未完成、爆発的なベト7の演奏会で、その時の柔和な横顔に似合わぬ強い指揮ぶりをよく覚えてます。
 ところが、久しぶりのノットの指揮姿は、流麗かつ柔らかなもので、そこから導きだされる音楽は、どんなに大きな音、強い音でも刺激的なものは一切なく、緻密に重なり合う音符たちが、しなやかに織り重なって聴こえるほどに美しいのでした。
ドイツのオペラハウスから叩き上げの英国指揮者。
根っからの歌へのこだわりが生んだ、緻密ながらも歌心ある演奏。
それに応える東響のアンサンブルの見事さ。
完全にノットの指揮と一体化していたように思います。

それから特筆すべきは、東響コーラスの見事さ。
暗譜で全員が均一な歌声で、涼やかで透明感あふれる女声に、リアルで力強い男声が心に残ります。
時に聖句を持って歌うか所があるが、それらは本場英国の合唱さながらに、まるでカテドラルの中にいて聴くような想いになりました!

 あと、ノットの選んだ3人のソロ歌手も、非の打ち所のないすばらしさ。

ドイツ人とは思えない、イギリス・テナーのような歌声のシュミット。
エヴァンゲリストやバッハのカンタータ、モーツァルトのオペラ、フロレスタンなどを持ち役にするリリックなテノールですが、無垢さと悩み多き存在という二律背反的な役まわりにはぴったりの歌声でした。

声量は抑え目に、でも心を込めた天使を素敵に歌ったのがアメリカ人のクックさん。
最後の業なしたあとの告別の場面は、涙ちょちょぎれるほどに感動しました。
バッハのカンタータから、大地の歌、カルメン、ワーグナーまでも歌う広大なレパートリーを持った彼女ですが、そのチャーミングな所作とともに、清潔な歌がとても気にいりました。

出番少な目でもったいないぐらいに思ったのが、極めて立派な声で決然とした歌にびっくりしたモルトマン。この方は英国人。
英国バリトンは、柔らかく明るめの基調の声の方が多いが、モルトマン氏は、明瞭ながらもかなり強い声。ドン・ジョヴァンニやヴェルディのバリトンの諸役を得意にしているそうだから、きっとそれらもバリッといいことでしょう!

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しかし、ほんとに、いい音楽。

わなわなした箇所いくつか。

①いきなり前奏曲で、荘重な中からの盛り上がりで。

②ゲロンティアスが、サンクトゥスと聖なる神を称えつつも許しを祈る場面。
 この何度も繰り返し出てくるモティーフが大好きで、ときおり歌ってしまうのだ。

③第一部最後に、決然と歌いだすバリトンの司祭。背筋が伸びました。

④わなわなはしなかったけれど、悪魔たちの喧騒、そしてHa!
 生で聴くと、スピーカーの歪みや周りを気にせずに、思い切り没頭できるのさ。

⑤悪魔去り、天使たちが後の感動的な褒めたたえの歌を、前触れとして、ささやくように歌うか所。

⑥そして、ついに来る感動の頂点は、ハープのアルペッジョでもってやってくる。
 合唱のユニゾンでPraise to the Holiest in the light
  キターーーーーー、もうここから泣き出す。

⑦いつもびっくりの一撃は、これも生だと安心さ。

⑧最後のトドメは、最後の天使の歌と、静かな平和なるエンディング。
 祈るような気持ちで聴いてました。

ノットの指揮棒は、しばらく止まったまま。

ホールも静まったまま、誰ひとり動かない。

そっと降ろされるノットの腕。

しばらくして、それはそれは大きな拍手で、ブラボーはあるが、野放図さはなし。
間違いなくホールの聴き手のずべてが、感動に満たされていたと思う。

本当に素晴らしかった、心に残るコンサートでした。

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終演後、澄み切った味わいの日本酒を。

遠来の音楽仲間と語り合いました。

 過去記事

「エルガー ゲロンティアスの夢 ギブソン指揮」

「ジョナサン・ノット指揮 バンベルク交響楽団演奏会2006」

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2017年9月 9日 (土)

ディーリアス 「ブリッグの定期市」イギリス狂詩曲 私のディーリアスの原点へ

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毎度で恐縮、かつ、おなじみの吾妻山からのお盆の頃の眺望。

夏の終わりに、今年の夏を回顧すれば、前半は猛暑。
本来の、日本のふるさとの夏を謳歌したかったお盆の夏は、まったくの不発で、曇り空と小雨の日々。

海と空の境界も、曇り空で曖昧。

その後も、猛暑が数日襲いましたが、9月に入っても、関東は涼しく、おとなしい残暑となっております。

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  ディーリアス  「ブリッグの定期市」~イギリス狂詩曲

   サー・トーマス・ビーチャム指揮 ロイヤル・フィルハーモニック

                    (1956.10.31)


わがノスタルジーを再び語ります。。。

ディーリアス好きの、原書ともよぶべき、ビーチャムのステレオ初期の1枚。

これは、ディーリアンたちの踏み絵とも呼ぶべき1枚で、もしかして、バルビローリから入った人でも、このビーチャムのディーリアスは、必ず聴いていることと思う。
ネットで見つけたこの素敵なジャケットをお借りしました。

弊ブログを始めた、ごく初期の2005年12月に、「望郷のディーリアス」として記事にしております。
もうあれから、12年も経っていることも驚きだけれども、その記事の内容にも、進歩も進化もなく、でも読めば、その想いは変わらいことに、なんだかうれしくも、確信とともに自身の音楽への歩みと嗜好にブレがないこと、なかったことが確認できて、妙に爽快な想いになったりしてます。

 少し、その昔の記事をなぞるようではありますが、わたくしのディーリアスとの出会いを、改めましてここに残して置こうと。

それは、わたくしが中学1年生のときであったでしょうか。
1971年、すでに、クラシックに目覚め、カラヤンのマジックにかかり、数少ないレコードは、カラヤンやアルゲリッチ&アバドの協奏曲などで、FMからの放送をむさぼるように聴き、いろんな音楽や演奏を吸収していった時代。

レコード欲しい、欲しい、を連発してた子供の夢を叶えようとしていた父母に、今思えば、どれだけ感謝をすればいいのでしょうか・・・・。
ホテル関係の仕事をしていた父が、あるとき、30枚ぐらいのレコードを抱えて帰ってきた。

狂気乱舞のわたくしでしたが、その1枚1枚を検分すると、海外のレコードばかりで、しかも、ジャズやポップスが主体で、クラシックは、ほんの数枚。
でも、なんでも吸収したい貪欲な中坊のワタクシは、なんでもかんでも聴きました。
 その音盤は、赤いものや、青いものもあり、テスト盤の無印みたいなものも。
きっと、ホテルの館内用のものや、もしかしたら、米軍放送局の払い下げみたいなものなども含まれていたのでしょうか。

クラシック系では、フルトヴェングラー、クリスティアン・フェラス、ミルシュティン、ストコフスキー&フランス放送管、カーメン・ドラゴン、などに混じって、白紙のジャケット&白紙のレーベルに、「ビーチャム、デリアスを振る」と書いてあった1枚が。

これが、わたくしと、ディーリアスとの出会い。

いまから、46年前のこと。

ともかくわからない。

ビーチャムってだれ?

デリアスって誰って・・・・

それでも、貴重なレコードですから、日々、何度も聴きました。
そうするうちに、当時、ベートーヴェンやドヴォルザーク、チャイコフスキーの名曲ばかりだった自分の耳に、旋律はあるものの、全体がぼやっとして、はっきりしないその音楽たちが、自らその音楽を語りだすように感じた日がいつしかやってきました。

 そう、多感な中学生ですから、学校のこと、クラスメートのこと、女の子のこと、そして、妙に厭世的になったり、人生とはなんぞや的な、ひよっこ的な想いに浸ったりしていたわけであります。
 そんなときに、なんとはなしに、「ビーチャム、デリアスを振る」のレコードをかけていました。
そして、自室から見ると、目の前は小高い山があり、富士山のてっぺんが晴れた日には、そのうえに見えたりしてました。
そこから見る、壮麗な夕暮れは、自分のなかでの原風景でもあり、そして、さまざまな想いとともに、このディーリアスの音楽がしっかりと結びつくようになり、完全に受け入れることとなったのです。

レコ芸の付録のレコードデータ集のような冊子から、ビーチャムとデリアス(=ディーりアス)をひも解き、その作曲家や曲名がわかったのは、それからほどない中3ぐらいのとき。

以来、私のディーリアス探訪が始まりました。

その完成形は、社会人になってから、EMIから発売された、「ディーリアス・アンソロジー」で、ターナーの絵画をあしらった数十枚のレコードの、ほぼすべてを入手し、そこにあった、私にとって、英国音楽の師とも呼ぶべき、三浦淳史さんの名解説とともに、ディーリアスをむさぼるように聴いたものでした。
1981年ごろのことにございます。

CD時代になってから、EMIからの諸作の復刻、シャンドス、ハイペリオン、ユニコーンなどの英国系レーベルがふんだん
ディーリアスの音楽を、まさに、幅広く聞くことができるようになりました。

 ディーリアス  「ブリッグの定期市」~イギリス狂詩曲

オーストラリア生まれのグレインジャーは、英国邦各地の民謡を採取し、すてきな音楽に編纂したが、そのなかのひとつ、リンカンシャー州で得たものが、「ブリッグの定期市」。
1905年のこと。
テノール独唱とアカペラの合唱のハミングによる美しすぎる佳作。

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   8月5日のことだった。
   すがすがしく晴れたその日
   ブリッグの定期市に僕はでかけた
   愛しい人にあうために

   朝、雲雀の声と共に
   心はずませ僕は目覚めた
   愛しい人に会えるのだ
   ずっと会いたかったあのひとに・・・・


              (宮沢淳一 訳)

 こんな風に、愛する人に会える喜びを歌いつつも、後半では、そんな想いや、人間そのものも、不滅ではないという、もの悲しい展開になる。

グレインジャーと親交を得て、その許諾のもと、これを原曲にして、書かれたのが、ディーリアスのイギリス狂詩曲。
そのスコアには、先の詩の冒頭の二節が書かれている。

朝靄を感じるような曖昧だけれど、夏の一日の始まりを思わせる清々しい冒頭部。
ここを聴いただけで、わたくしは、遠くに置いてきた自分の若き日々や、故郷の山や海、そして、懐かしい白レーベル・白ジャケットのレコードまで、一瞬にして脳裏に浮かんでくる。
 わたくしにとって、ノスタルジーのかたまりのような、イギリス狂詩曲。

そして出てくる「ブリッグの定期市」の主題。
1度しか行ったことがないイギリスの田舎道を、車で自ら走ったことがある。
どこまでも続く緑と、丸っこい丘、そして可愛い家の集まる集落に水辺。
そんな光景を見た。
それがそのまま音楽になったような気がする。

ビーチャムの凛々しいディーリアスの演奏には、この作曲家を愛しぬいた優しさと使命感のような厳しさもある。
固めのロイヤルフィルの響きと録音も、妙に自分の刷り込みにもなっている。

ディーリアスの音楽との出会いを作ってくれたあのレコード。
あのレコードを運んできたくれた父も、とうの昔に世を去ってしまった。
文字や画像、匂いや味などで、むかしを偲ぶことはできるけれど、音楽は、その時の自分はおろか、感情にまでも遡って体感させてくれるように思います。

Azuma

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2017年8月30日 (水)

ブリテン 戦争レクイエム ハイティンク指揮

Ninomiya_galas_1

この画像を、ここに載せるのは、もう何度になるでしょうか。

ガラスのうさぎ。

夏には、多くの千羽鶴が寄せられるようになり、平和祈願の発祥地のようにもなってます。
私の育った神奈川の小さな町。
終戦直前、近くの平塚市には、軍需工場があり、すさまじい空襲を受けたが、この町には何もない。
にもかかわらず、駅に停車していた貨物車を狙い機銃掃射。
疎開していた親子に着弾し、お父さんが亡くなった。
 いまは、建て替えられたけど、子供の頃の駅舎には、銃痕が残っていました。

ともかく、戦争忌避の思いは誰もあり、そして過去を反省する思いは、人類がみな共用すべきものと思います。
そのうえで、日々緊迫する世界情勢に対応するための施策を、施政者は批判を恐れずになして欲しい。

毎夏に聴く音楽。

そして、年とともに、この音楽への共感が増し、その都度の感銘を深めていく。

画像は、コンセルトヘボウらしいものとして拾いました。

Haitink

   ブリテン  戦争レクイエム

     S:フェイ・ロビンソン    T:アンソニー・ロルフ=ジョンソン
     Br:ベンジャミン・ラクソン

   ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
                      アムステルダム・コンセルトヘボウ合唱団
                       オランダ少年合唱団

                    (1985.10.27@コンセルトヘボウ)

カセットテープに残した、NHKFMの放送音源。

山ほどある段ボールのなかのカセットテープとVHS。

この先の人生も考え、取捨選択をするように心がけ、がんがん処分、そしていかにして、自らのライブラリーに残すか。

音源については簡単だった。
ヤマハのCDライターが壊れてしまい、超シンプルな、USBカセットテープ再生マシーンを導入できて、さくさくPCへ取り込み中。

真っ先に取り込んだのが、「ハイティンクの戦争レクイエム」だ。

これがまた、実に素晴らしい演奏だったのだから!

ともかく美しい。
ハイティンクとコンセルトヘボウが、もっとも蜜月に結ばれていて、指揮者の個性も、オーケストラの音色も、そしてコンセルトヘボウというホールの響きも、完全に一体化している時期のものゆえの美しさ。

ふっくらした音を、入念に醸し出すハイティンクとコンセルトヘボウが、ブリテンの緻密に書かれた音楽の、優しさと、デリケートな繊細さを素晴らしく描きつくすのだ。
ディエス・イレでの強烈な咆哮は、録音のせいもあるが控えめ。
そう、この曲に、痛切さや、壮大さ、そして、強いメッセージ性を求める向きには、このハイティンクとコンセルトヘボウの柔らかな響きは、もの足りなく思えるかもしれない。

でも徹底した平和主義者で、弱者のことに目線を多く向けたブリテンの優しさを、この演奏には感じることができるかもしれない。
カセットテープから起こした音源だから、音に芯が少なく、もっといい録音状態であったら、いますこし印象はかわるのかもしれないが。

3人のイギリス人歌手たちは、それはもう素晴らしく、完璧。
ことに、ロルフ・ジョンソンの鬼気迫る歌と、ラクソンの美声は聴きものだった。

オランダ放送協会のデジタル録音でした、とのアナウンスまで入っている、このNHKFM音源。本家での正規音源化はならぬものだろうか。
東ベルリン時代にベルリン響に客演した、A・ギブソンの録音ももってます。
あと、サヴァリッシュとN響、シュライヤー、FD夫妻のものなんかも。

60年代は、作曲者本人の自演盤のみしかなく、それが絶対とされた「戦争レクイエム」。
いまいくつのCDが出てることだろうか。
作者の手を離れて、多くの演奏家たちによって、この作品が、どんどん名曲として確立してゆき、聴き手の心を世界中で揺さぶるようになった。

平和を唱えていても、相手があることだから、一方的に事を起こされる不条理もある。
でも、戦争はご免だ。
この曲、あの大きな国で演奏されちゃったりするんだろうか??

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2017年6月22日 (木)

ブリテン イギリス民謡組曲「過ぎ去りし時・・・」 ラトル指揮

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少し前の東京タワーと芝公園。

都心は狭いもので、歩いていろんな場所へ行けちゃうけど、ほんのちょっと移動するだけで、そこに普段住まう方や、勤務する方のカラーがまったく違って見える。

大使館などもあれば、外国の方の人種や雰囲気もすぐに違ってみえる。

狭いけど、大きすぎる東京は、行き過ぎた都会だな。

疲れちゃうよ。

私が、神奈川の片田舎から、都内に初めて出てくるようになったのは、幼稚園ぐらいのことかしら。
親戚の家が板橋にあったので、内部がまだ木製の湘南電車に乗って、東京駅まで出て、そこから丸の内線で池袋。
活気あふれる高度成長時代、車の排気ガスなんか、へっちゃらで、渋滞だらけで、カローラとサニー、いすゞN360とかが走りまくってた。

当時の写真は、みんなモノクロだけど、いまやそれもセピア色に変じてしまった。

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    ブリテン イギリス民謡組曲「過ぎ去りし時」

     サー・サイモン・ラトル指揮 バーミンガム市交響楽団

                (1984.5@ワーウィック大学、コヴェントリー)

ブリテン(1913~1976)最後の管弦楽作品。

1974年秋に完成させ、翌年のオールドバラ音楽祭にて初演。
その翌年には、63歳で亡くなってしまうブリテン。

最晩年にいたって、イギリス民謡を扱った作品を残し、英国作曲家の先達の伝統に回帰した。
それもそのはず、この作品は、パーシー・グレインジャーに捧げられている。

三浦淳史先生の解説を参考に記します。

 この作品の副題は、トマス・ハーディの詩「生まれる前と死んでから」よりとられていて、この詩をもとに、ブリテンは、「冬の言葉」という名歌曲を編んでいる。

 誰にもおそらく想像がつくように そして地上のさまざまな証拠が示すように

 意識というものが生まれる前 万事はうまくいっていた・・・・・

 しかし、感じるという病がおこった 

 そして原始の正しさは間違った色に染まり始めた

 いったい無知が再認識されるのは あとどれくらいの時間がかかるのだろうか


                   ハーディ 命の芽生えの前とあと

なるほどのの、なかなかに深い詩、だけど、明快なテーマ。

 そして組曲は、5つからなる。

  ①「美果と美酒」 Cakes and Ale

  ②「にがいヤギ」  The Bitter withy

  ③「まぬけのハンキン」 Hankin Boody

  ④「リスを追え」 Hunt the squirrel

  ⑤「メルバーン卿」 Lord Melbourne


17~8分の、いたって平易でシンプルな音楽で、とても聴きやすい。

勇ましい感じの①、ちょっと、まさに苦みあふれる雰囲気の②は、ハープの美しさがアクセント。
舞曲調で、シニカルでドラムも効いてる③
面白いのは④、弦楽器でバグパイプそのものを再現してしまった。
そして、一番深みあふれるのが⑤
コールアングレの物哀しいソロが、懐かしさを誘い、どこかに忘れてきてしまった、そして記憶のどこか遠くにあるものを思い覚ますような、そんな淡さをもった音楽。

 この曲、初めて聴いたのは、バーンスタインの演奏で、初演間もないNYPOとの録音だった。

Britten_bernstein_nypo

FMでの録音だったけど、後年、CDで買い直して聴いてみて、明快なバーンスタインの指揮と、ブリテンへの共感にあふれた演奏が素晴らしいと思った。
それとこのバーンスタイン盤は、「ピーター・グライムズ」からの「4つの海の前奏曲」と「パッサカリア」がとてつもなくいい演奏だ。

それと、ラトル盤。
シンフォニア・ダ・レクイエムの名演に隠れてカップリングされたこの曲に喜んだものだ。
ラトルの音楽への切り込みの鮮やかさは、バーミンガム時代の方が、いまよりもずっと上ではないかと思ったりもする。
フィルハーモニアとの初来日を聴いて、ラトルのCDを聴きまくったけれど、ベルリンフィルになってから、ほとんど持ってません(笑)
ちゃんと聴かなくては、と思いつつ、いまに至る。

で、過去を振り返るのでありました。

 

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2017年1月29日 (日)

ディーリアス 北国のスケッチ グローヴス指揮

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既出写真ですが、岩手県の雫石あたりの風景。

いかにも、北国の雰囲気がたっぷり。

春近い頃でしたが、いまの冬真っ盛りのこの地は、こんな場所に足を踏み入れることさえできないでしょうね。

季節に応じて、いろんな音楽がありますし、ことに四季のめりはりが鮮やかな日本には、美しい言葉の芸術もたくさん。

同じ島国の英国も、夏はやや短いながらも、その四季はくっきりしてる。

そんな機微を英国の作曲家たちは、詩的なタッチでもってたくさんの作品を残してきました。

そんななかのひとり、大好きなディーリアスを。

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 ディーリアス  「北国のスケッチ」

   サー・チャールズ・グローヴス指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

                         (1974.12.22@ロンドン)


この素敵な曲を、弊ブログにて取り上げるのは2回目。
前回は、ハンドレー指揮のアルスター管によるシャンドス録音。
「フロリダ」組曲とのカップリングで、北国と南国の鮮やかな対比による、ナイスな1枚でした。

そして、今回は、レコード時代から親しんできた、グローヴスの演奏で。

社会人となって、ひとり暮らしを始めたころに、シリーズ化された、音の詩人ディーリアス1800。
そのすべてを、石丸電気で購入して、ディーリアス漬けの日々。

寂しい侘び住まいが、なおさらに切なく、それから故郷の山や海が懐かしく、人々が愛おしくなる想いで満たされた。

そんな望郷とノスタルジーが、わたくしのディーリアス愛。

4つの部分からなる、北国の四季を模した組曲。

  Ⅰ 「秋」・・・秋風が木立に鳴る

  Ⅱ 「冬景色」

  Ⅲ 「舞曲」

  Ⅳ 春の訪れ「森と牧場と静かな荒野」

どうでしょうか、このいかにもイギリスの北の方の景色を思わせる素敵なタイトル。
日本なら、さながら、北海道か、信州あたり。

三浦淳史さんの解説によるE・フェンビーの言葉によれば、若き日は放蕩の限りを尽くしたディーリアスも、歳を経ると、寡黙となり、「人間は空しい、自然だけがめぐってくる!」という思考を持って過ごしていたという。

まさに、この言葉を思わせる、めぐりゆく四季、自然を、そのまま感覚的にあらわしたような音楽なのです。
ここでは、おおむね、静かなタッチの音楽が続き、唯一、舞曲では、フォルテが響く。
春がやってくる前の喜びの爆発。
しかし、それまでの、秋と冬の心に沈みこむような静けさと、幻想的な沈鬱ぶりは、いかにもディーリアスらしいし、夜のしじまに映える、あまりにも美しい音楽だ。

で、それを打ち消す明るい舞曲。
そして最後は、めぐり来た春。
ソフト・フォーカスで、若干の曖昧さも保ちながら、ふんわりとした音楽となっている。
これもまた、ファンタジーである。

ビーチャムの育てたディーリアス・オケ、ロイヤルフィルを指揮したグローヴスの演奏は、わたしにとっては、懐かしくも、完全なるものです。
デジタル時代の、ハンドリーと、少し鄙びたアルスター管もいいが、こちらは、アナログのぬくもりを感じさせてくれる。

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こちらは、初出時のオリジナル・ジャケット。

ターナーの絵画をあしらったシリーズもいいけど、この写真もいい。

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2016年12月24日 (土)

フィンジ 「ディエス・ナタリス」(カンタータ「クリスマス」) マリナー

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今年のクリスマス、街の雰囲気や、わたくしも含めた人々の浮かれたような便乗さわぎは、少なめに感じます。

イルミネーションもそこそこに出現していて、例年通りですが、受け取る側が慣れてしまったのか、それとも、心情的に、そうとばかり言ってられないからなのか・・・・・。

イルミ好き、観察者としては、毎年、だいたい同じ場所を巡回しますが、今年は各処とも、こう言っちゃなんですが、年齢層高め。
あっ、自分もそうかもですが、若い人よりは、そうした方々の方が多く見受けられる気もします。
 イルミに限りませんが、どこへいっても、シニア層は、みなさん元気です。
そして若者は、静かだし、いても目立たない。

こんな風に見たり、思ったりしていること自体が、自らの視線がシニア層に近づきつつあるということなのでしょうね。
みなさん、元気で、屈託なく、感性も若い。

うまいこと、いろんな意味で、ベテランズと若い人たちの、いろんな循環が生まれるといい。

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シンプルで、森の一角を思わせるツリー。

こちらは、丸の内仲通りのあるビルのエントランスです。

けばけばしいイルミよりは、基本ツリーが好きであります。

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 フィンジ 「ディエス・ナタリス」~カンタータ「クリスマス」

     テノール:イアン・ボストリッジ

  サー・ネヴィル・マリナー指揮 

       アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ゼ・フィールズ

                     (1996.6 ロンドン)

ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の「ディエス・ナタリス」。

生誕の日」または、「クリスマス」という邦題。

以下、以前の自己記事からの引用です。

しばらくブログを休止して、思いだしたように書いたりしてる不完全な状態を続けていると、筆は鈍るし、音楽すら久しぶりに聴いたりするものだから、言葉に結びつけるのは、ほんとに難儀なことになりました・・・
 自分の過去記事に、妙に感心してしまったり、ほうほう、そうだな、そうだったなぁ、とか、時間があれば、自らのブログを振り返ったりもしてます。

ですから、そんななかの一品、フィンジのこの曲のコピペ、お許しください。

「ディエス・ナタリス」は、1926年の若き日々に書き始めたものの、その完成は1939年で、13年の月日を経ることになった。
そんな長きの空間を、とこしえとも思える静けさに変えてしまう不思議さ。
この音楽に感じるのは、そんな静けさです。

弦楽オーケストラとテノールのためのカンタータ。
またはソプラノによる歌唱も可とするこの曲。
もともとはバリトンによるものですから、あらゆる声域で歌える美しい曲。

器楽によるイントラーダ(序奏)に導かれた4つの歌からなる20分あまりの至福の音楽は、いつもフィンジを聴くときと同様に、思わす涙ぐんでしまう。
イエスの誕生を寿ぐのに、何故か悲しい。

17世紀イギリスの聖職者・詩人のトマス・トラハーンの詩集「瞑想録」から選ばれた詩。

 1.イントラーダ(序奏)

 2.ラプソディ(レシタティーボ・ストロメンタート)

 3.歓喜(ダンス)

 4.奇跡(アリオーソ)

 5.挨拶(アリア)


この曲で最大に素晴らしいのは、1曲目の弦楽によるイントラーダ。
最初からいきなり泣かせてくれます。
いかにもフィンジらしい美しすぎて、ほの悲しい音楽。
何度聴いても、この部分で泣けてしまう・・・・・。
1曲目のモティーフが形を変えて、全曲を覆っている。
この曲のエッセンス楽章です。

トラハーンの詩は、かなり啓示的でかつ神秘的。
その意をひも解くことは、なかなかではない。
生まれたイエスと、イエスの前に初心な自分が、その詩に歌い込まれているようで、和訳を参照しながらの視聴でも、その詩の本質には、わたしごときでは迫りえません。

全編にわたって、大きな音はありません。
静かに、静かに、語りかけてくるような音楽であり歌であります。

楚々と歌われ、静かに終わる、とりわけ美しい最終の「挨拶」。

 ひとりの新参者
 未知なる物に出会い、見知らぬ栄光を見る
 この世に未知なる宝があらわれ、この美しき地にとどまる
 見知らぬそのすべてのものが、わたしには新しい
 けれども、そのすべてが、名もないわたしのもの
 それがなにより不思議なこと
 されども、それは実際に起きたこと


生まれきたイエスと、自分をうたった心情でありましょうか。
訥々と歌う英語の歌唱が、とても身に、心に沁みます。

いつものフィンジらしい、そしてフィンジならではの内なる情熱の吐露と、悲しみを抑えたかのような抒情にあふれた名品に思います。

わたしには、詩と音楽の意味合いをもっと探究すべき自身にとっての課題の音楽ではありますが、クラリネット協奏曲やエクローグと同列にある、素晴らしいフィンジの作品。

と、5年前の自分が書いておりますが、その詩と音楽との意味合い、まったく探究じまいであります。
が、フィンジのナイーブな音楽は、ここでもともかく魅力的で、少しの憂愁と哀感が、優しさでそっと包まれているのを感じます。

マリナーの飾らない、楚々たる指揮ぶりが、フィンジの音楽を語らずして語る。
ポストリッジの神経質なまでの繊細な歌は、フィンジのナイーブな音楽を、その詩の神聖ぶりを、そしてちょっとの多感ぶりを表出している。
すてきな演奏!

国内外に、ロクなことがありませんが、静かで穏やかなクリスマスになることを祈ります。

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