2008年7月18日 (金)

マーラー 交響曲第6番 アバド指揮

1_2 横浜はいわゆる「家系」の濃ゆ~いラーメンが多いけど、それ以外の個性派もたくさんある、ラーメン共和国なのだ。

こちらは、その名も「浜虎」。
野球でいうと、なんとも憎たらしいような複雑な名前だし、ファッションでいえば、いかにも「ハマ」らしくて、洒落た名前。
西口から近いが、周辺は怪しげな店舗もあったりする。
塩鶏そば」、あっさりとしながらも、筋の通ったしっかりしたスープにもちもちの麺が実によかった。
鶏チャーシューも美味。

Imgp3330 当たった、当たった!!
2006年の、アバドルツェルン祝祭管弦楽団の来日公演に先立つ、公開リハーサルの招待状。

忘れもしない、2006年10月のこと。
平日の昼間、仕事をほっぽりだしてサントリーホールへ。
私服のオケが三々五々集まり、カジュアルなアバドが元気に登場。
マーラーの6番のリハーサルが始まった。

2006luzern_2 冒頭、トランペットの名手がこける。
あれ?二度目の繰返しでは、ものの見事に決めて面目躍如。
アバドは指揮しながら、ニコニコと投げキッスを送る。トランペット氏の嬉しそうな顔。
さらいながらも、一挙に全曲演奏。
モーツァルトのアリアも同様。
いずれもリラックスした力の抜けた演奏。

アバドはどこでしょう?
マイヤーもいるし、ヴィオラのクリストも・・・。


2006luzern_1 翌日の本番は、リハーサルとはうって変わった凄まじいまでの演奏。
人間の行為、営みのなせる技の極地に達した演奏。
完璧とか素晴らしい、などという言葉が当てはまらない。
指揮者は、マーラー交響曲第6なのに、時に微笑みさえ浮かべて、音楽をすることが楽しくてしょうがないといわんばかりの指揮ぶり。
対するオーケストラは、スターがびっしりと並んでいるが、奢りも高ぶりもなく、むしろ必死になって体一杯に音楽を表現している。
これを体験して、マーラーの心理がどうのこうの、アルマがどうだ、ウィーンがどうだの、といったことは、まったく関係がなくなってしまった。
あれ以来2年、マーラーの6番の交響曲は聴いていない。
聴けないのだ。ルツェルンのDVDすら観ていない。ハイティンク&シカゴも怖くて聴けない。完全なトラウマ状態なんだ。
生涯最高ともいっていい音楽体験だった。
演奏終了後の長い静寂は、語り草になってゆくことであろう。
オケのメンバーも、涙して抱き合い、感動を分かちあっていた。

画像は、イケナイとわかっていながら、撮ってしまった、ブルックナーの終演後。
この曲のライブは、ほかは若杉&N響。
初聴きは、バーンスタインの旧盤、レコードは、アバド&シカゴが初買い。

こんな訳ですから、マーラー・シリーズ、6番は聴かずして欠番ということで、思い出話でご勘弁ください。女々しいことであります。いつかは、ちゃんと聴かなくては・・・・・。
さいなら。

  アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団演奏会(2006.10)

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2008年7月 9日 (水)

マーラー 交響曲第2番「復活」 アバド指揮

Imanoya

今日のラーメンは、福島県の白河ラーメン
白河市は、東北の玄関口で、城下町として栄え、今でも蔵がいくつもあって風情ある街。
手打ちの縮れ麺に、自家製焦がしチャーシュー、スープはあっさりした醤油が主体。
さっぱり、あっさり、かつ醤油のこくもある味わい深いラーメン。
いまの家」のチャーシュー・ワンタン麺。見た目にも美しい。

Mahler2_abbado_lucerne マーラー交響曲第2番「復活」
1番の完成後、すぐに書きはじめ1894年に完成。
敬愛したビューローの死とも因縁づけられるが、死の気分とクロプシュトックの讃歌「復活」、そして自作の「子供の不思議な角笛」、これらが渾然となって、長大な交響曲を生むこととなった。

どんな演奏でも、最後の壮大なクライマックスには感動の坩堝となってしまう。
例によって、この曲の初聴きは・・・、思い出せない。たぶん、フジテレビの援助カットによる日本フィルの解散白鳥の歌となった、小沢の演奏のテレビ放送か、同時期の朝比奈&大フィルのFMかどちらか?
レコードでは、アバドとシカゴによる新しいマーラー演奏の画期的な1枚が初買い。
演奏会では、ベルティーニと都響のものしか経験なし。
私のマーラー狂いは、80~90年代までで、ライブはワーグナーのオペラに注力していたため、今に至るまで意外なくらいにマーラー生体験が少ないのある。

アバドと「復活」は、切っても切れない関係にあり、65年のセンセーショナルなザルツブルクデビューに始まり、マーラー第1弾のシカゴとの録音、ウィーン国立歌劇場音楽監督時代、ベルリンフィル時代、そしてルツェルン音楽祭での新たなスタート時に、それぞれ取り上げている勝負曲なのだ。

いずれも歌と情熱、知性と感性、それぞれのバランス豊かなしなやかな演奏で、「復活」といえば、アバドの音源として残されている、シカゴ盤・ウィーン盤・ルツェルン盤、それぞれを聴くことが多い。

本日は、2003年のルツェルン音楽祭を飾った演奏の映像を楽しんだ。

病の淵から文字通り復活したアバドが、マーラー・チェンバーオケの若手を主体に、かつて育てたユースオケなどの卒業生や、アバドを慕う各オーケストラの名手達で結成された「ルツェルン祝祭管弦楽団」を指揮した第1弾。
2000年の来日での激痩せぶりからすると、肉付きもよくなり、相変わらず若々しい指揮ぶりが伺える。
そうした相も変わらないアバドの的確な指揮ぶりを眺めつつも、オーケストラメンバーの豪勢な顔ぶれにも目を奪われる。
ブラッヒャーのコンマス、カプソン、ハーゲン、B・クリスト、G・ファウスト、グートマン、ボッシュ、パユ、A・マイヤー、ザビーネ・マイヤー、ドール、フリードリヒ・・・・、枚挙にいとまがない。このメンバー、少しづつ変わりつつあるようだが、室内楽も得意にする名手たちのオーケストラ演奏は、まさに互いを聴きあい、音のブレンドを大事にする姿勢が貫かれている。

   S:エイェリ・クヴァザヴァ    A:アンナ:ラーション
   合唱:オルフェオン・ドノスティアルラ合唱団

Abbado_mahler 演奏は、テンポよく。明るく若々しい!
音の粒立ちの明確さと、その立ち上がりの見事さ。自主性に満ちた完璧なアンサンブル。
楽員は、アバドの弧を描くような指揮に応じて、リアクションも大きく体も大きく揺れる。
時に指揮者ともどもにこやかに、楽しそう。
音楽する喜びが、マーラーの復活という、普通演奏するだけでも大変な曲で、普通ににじみ出ているところが、このコンビのスゴイところ。
終楽章のクライマックスでは、インテンポで意外なくらいに爽快なエンディングを築きあげている。バーンスタインやシノーポリのような、胸かきむしるような壮絶さはなく、復活の讃歌は明るく前向きだった。

アバド&ルツェルンのマーラーは、このあと第5、第6、第7、第3と続き、今年はひとまずお休み。テンポも早まり、密度は逆に濃くなって、アバドの前向きなマーラーは進化するばかり。歳とともに若くなり、推進力の増す稀有の音楽家。

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2008年6月24日 (火)

ドビュッシー 「ペレアスとメリザンド」組曲 アバド

A 霧に煙る東京タワー。
梅雨時の東京タワーは、夜間いつもこんなふうだ。
遅くなると、上部を消してしまうので、「3丁目の夕日」のような未完成東京タワーのように見える。

土曜には、完全消灯が実施された。
墨田の新タワー(名前は??)の兄貴分として、東京のシンボルとして、頑張って(何をどうやって?)欲しいもんだ。

Abbado_debussy_pelleas_suite

6月26日は、私の私淑するクラウディオ・アバドの誕生日。1933年生まれ、75歳を刻む今年。
何度も書いてきたことだけれど、72年、アバド30台の頃からずっと聴き続けてきて、もう36年あまり。
私が中高生、大学、社会人と歩み続けるとともに、アバドを常に聴いてきた。
そのアバドも、ウィーン、ロンドン、ミラノ、シカゴ、そしてベルリンと着実にステップアップしていった。
私のようなデコボコ人生に比べて、なんと順風万般な王道を行くエリートの歩み。
 でもアバドの人間性の素晴らしいところは、常に奢らず、謙虚で、ポストや名誉に拘らず、時にあっさりと投げ出してしまうところ。
そう、でしゃばらず、周りから推され自然に高みにいざなわれたとでも言おうか・・・。
そしてそれに、ちゃんと応える素晴らしい実績を残しているところが、天性の才能。

そのアバドが、ベルリン時代に癌に冒され再起も危ぶまれたとき、私らファンの心境たるやいかばかりのものだったろう!心無い人は、不謹慎なことを言うし。
病み上がりの体で、まるで執念のように集中力溢れた「トリスタンを、2000年には東京で演奏してくれた。
この時ほど、ひとりの人間の音楽にかける意気込みの凄まじさを感じ取ったことはない。
ピットを見ていて、もうお願いだから、そんなに頑張らないで・・・という気分にもなった。
 その後、ベルリンでのアバドは異常なまでの充実ぶりで、オケも必死になってアバドのために演奏しているのがヒシヒシと感じたものだ。
そして、ベルリンから、夢の実現のためにルツェルンへ。
そんな頑張るアバドに押されるように、会社をスピンアウトして飛び出してしまった私。
生きるか死ぬかの思いに、いつもアバドの音楽は私を励ましてくれるようだった。
2006年、アバドはアバドを慕う音楽家たちとともに来日した。
このルツェルンとのマーラーブルックナーは、生涯忘れ得ぬほどの感動をもたらしてくれ、我が人生にもなにかしらの転機をももたらしたかもしれない。
そして、さらにアバドは進化を続けているようだ。
私も負けていられないよ。

アバドの愛する作品のひとつに、ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」がある。
Abbado_pelleas スカラ座やウィーンで何回も上演し、ウィーンフィルとも素晴らしい録音を残してくれた。
より精妙なベルリンフィルとも上演して欲しかったが、ラインスドルフが編曲した、オーケストラ版組曲を98年に録音している。
約30分ほどの4部からなるこの組曲は、原作と同じく、強い音・フォルテの部分がほとんどなく、静的で精緻な音楽となっている。
それぞれ、5幕ある原作から前奏や間奏をうまくつなぎ合わせ、オペラのエッセンスが込められた桂作。
 病魔に冒されていたかもしれないアバド。そんなことは思いもよらないくらいの集中力と、歌心をもって、ドビュッシーのニュアンス豊かな音楽を極めて感度豊かに表現してゆく。
全曲を聴く時間のないときなどに、このCDは、その褐を満たしてくれる。
ベルリンフィルの豊麗なサウンドは、いつになく押さえられ、かなり渋いが響きは明晰。
そしてその響きに、トリスタンやパルシファル、ウェーベルンを聴くことができる。
 欲をいえば、言葉(歌)が欲しい。この作品に、フランス語のディクションは不可欠だから。あと蛇足ながら、あたしには、ぶどう酒だよ。

少し早いけれど、26&27日は二期会「アリアドネ」、28日は新国「ペレアス」があるので、アバドの誕生日を記念する記事をUPしました。
28日の若杉さんの「ペレアスとメリザンド」、とても楽しみ。
来年は「ヴォッェック」を上演するというから、若杉さんもワーグナー以降の音楽シーンを、アバドと同じような思いで見ているのだろう。

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2008年6月22日 (日)

ロッシーニ 「ラ・チェネレントラ」 アバド指揮

1 先週後半は、仙台~八戸~青森に出張。八戸から帰ることも出来たけれど、長時間の新幹線はツライ。
三沢空港は、いつも満席。
どうせ車だから、青森まで走らせ、青森空港を利用することに。
最終便までの間に、市内で寿司を食べても充分に間に合う。
詳細は、近日別館にてご案内。

もう、美味すぎ!
貴重品となりつつある「いか」。
コリコリで、甘い。菊を添えて食べればさらに甘い!

青森では、例の秋葉原のことが日々の話題だ。お客さんのなかに、妹が同級だったとか、親父は○○銀行だとか・・・・。どこへ行っても、人の口は減らないもんだなぁ。

Abbado_cenerentora ロッシーニ(1792~1868)は、39ものオペラを書いたが、そのすべてはその生涯76歳の半ばである37歳までに書いてしまった。
その後の悠々自適ぶりは、皆さんご承知のとおり。
美食と料理の研究にあかした後半生、羨ましいやらもったいないやら・・・・・。

普段は、ロッシーニはあまり聴かない私。
唯一、アバド好きとして、アバドのものだけを聴く。
アバドはオペラ指揮者としては、ロッシーニやドニゼッティ、ベルリーニからそのキャリアをスタートさせている。
特にロッシーニは、何を振っても評価されない日本の評論家たちには、ストラヴィンスキーとともに絶賛された。
アルベルト・ゼッダの校訂を経た版を採用したその演奏は、当時とても新鮮で、この「チェネレントラ」と「セヴィリアの理髪師」は、既存盤を過去のものとしてしまう存在となった。

今でこそ当たり前となってしまったが、当時は打楽器が派手に鳴り、オーケストラも無用に厚く、厚化粧を施されたロッシーニ・・・・、ように思われた。
アバドを聴いてから、遡って過去演を聴いたから、順序は逆だけれど、アバドの演奏は、その厚化粧を取り去り、まるで風呂上りのようなサッパリとした風情が漂っている。
でもスッピンの味気なさではなくて、音楽の持つ色気や風情がニュートラルに表わされていて、新鮮かつ活き活きとしている。いやピチピチとしていると言えようか。
明晰で、どこまでも清潔。まさに水を得た魚のようなアバドに、誰一人不平を唱えられない。当時、ざまみろ!という心境だった。へへっ。

シャルル・ペローの有名なる原作「シンデレラ姫(灰かぶり姫)」。

第1幕
 時は18世紀イタリアの某所。
落ちぶれ貴族、ドン・マニーフィコの娘二人がはしゃぐなか、アンジェリーナ(チェネレントラ)は古い悲しい歌を歌っている。彼女は、ドン・マニーフィコの後妻の娘で、今はいびられ、小間使いのようにされている。しかも母の持参金も親父とその娘たちに使い果たされてしまった・・・・・。
 そこへ、王子の顧問アリドーロが、乞食に扮してやってくる。姉たちは、追い返すが、チェネレントラは優しく食べ物などを与える。
王子が従者に変装して現れ、チェネエントラと一目、恋に落ちる。
かたや、王子に変装した従者ダンディーニは、ドン・マニーフィコや二人の娘たちにちやほやされる。チェネレントラは、先の従者会いたさに、城の舞踏会に行かせて欲しいとせがむが、ドン・マニーフィコに聞き入れられない。偽王子の、3人いるはずの娘さんは?との問いにも、死にましたとダン・マニーフィコ。
偽王子の気を引こうと躍起の二人の娘、そこへ先の乞食に扮したアリドーロの手助けで、宮殿に着飾って登場したチェネレントラ。

第2幕
 偽王子のダンディーニは、チェネレントラに結婚を申し込むが、彼女は従者を愛していると素直に断る。そこへ、本物の王子が進み出て、結婚を申し込むが、チェネレントラは腕輪のひとつを渡してその場を走り去る。
ドン・マニーフィコは、偽王子に従者の身分を明かされ唖然と・・・。
 何事もおきず、元通りになってしまい嘆くチェネレントラ。二人の姉がまたあたる。
この時期のオペラにつきものの、嵐のシーン。
雨を避けて、王子とダンディーニが立ち寄る。チェネレントラの腕輪を認め、よく見ようとする王子だが、あっちへ行ってろと意地悪親父。
さすがに王子は怒り一喝。それでも、親姉をとりなす優しいチェンレントラ。
 宮殿では、許されたドン・マニーフィコと姉たちを、抱擁してチェネレントラは歓びとともに、素晴らしいアリアを歌って幕。

  チェネレントラ:テレサ・ベルガンサ  王子ドン・ラミロ:ルイジ・アルヴァ
  ダンディーニ:レナート・カペッキ  ドン・マニーフィコ:パオロ・モンタルソロ
  クロリンダ :マルゲリータ・グリエルミ ティスベ :ラウラ・ザンニーニ
  アリドーロ :ウーゴ・トラーマ

      クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団
                      スコテッシュオペラ合唱団
                     チェンバロ:テオドル・グシュルバウアー
                          (71.9エディンバラ)

Abbado_cenerentora_2 先に書いたとおりのアバドのスマートな指揮に、ニュートラルなロンドン響が実にいい。
後年のウィーンフィルでは、オケがはみ出してしまうこともあって、それもいいが、ロンドン響は、まさにアバドの手足となって、この粋な演奏の一躍を担っている。
両者のつくり出すロッシーニ・クレッシェンドは、極めて幅が広く唖然とするほど見事にきまる。
歌手は、今でこそ、バルトリという超絶歌手が出てしまったが、当時はベルガンサが随一の存在。ちょっと大人びた風情と少しの色気が、とてもいい。装飾歌唱の自然さとその技巧も素晴らしい。のちに、カルメンを歌うようになることが信じられない。
 ほかのベテラン歌手たちの芸達者ぶりも見事だが、ちょっと古臭く感じることも・・・・。
姉役のグリエルミは、クライバーのボエームのムゼッタだったな・・・。

右の画像は、72年の発売時の広告。
レコード産業は、ピークを数年後に迎えつつあった。


 

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2008年6月21日 (土)

ベルリオーズ 「テ・デウム」 アバド指揮

Nagoya_tvtower 名古屋のテレビ塔。
栄近辺は名古屋らしい商業の街。
でも名駅周辺の相次ぐビルや商業施設の開発で、ビジネスや買物がそちらに流れ、少し変化したかも。

それでも、お得意の夜の繁華街「錦3」は、他の都市のそれに比べたら賑やかなものだ。

かつてのデザイン博で、おしゃれになった名古屋の街。
テレビ塔を背景にシュールな雰囲気。

Abbado_berlioz_te_deum 廃盤となって久しい、アバドの指揮するベルリオーの「テ・デウム」。
アバドのベルリオーズといえば、「幻想交響曲」ばかりが有名だけれど、録音はこちらの方が早く、レパートリーとして取り入れたのも、この曲の方が早かったのではないかしら。

ベルリオーズ(1803~1869)は、破天荒の人生や「幻想」の大音響のイメージがどうしても強い。
膨大なオーケストラ編成に、大合唱を伴なった作品が多いこともそうした印象が先行することにもなる。
オペラを含め、そのすべてをまだ聴き尽くしてはないが、このところ聴いていて思うのは、ベルリオーズの抒情性なのだ。
メンデルスゾーンやシューマンと同時期に活躍したベルリオーズの天才性は明らかだが、その輝かしい響きは、静かな部分があってこそ生きる。

テンパニ奏者10人、シンバル10等の膨大な打楽器とブラスを要する「レクイエム」も、表面上は賑々しいが、実は祈りに満ちたとても静かな音楽でもあると思う。
同様に、それほどの編成は要さないものの、オルガンと大合唱団を伴なう「テ・デウム」は、初演時950人もの大編成だったらしい。
あと50人で、マーラーじゃないか。
Abbado_berlioz_te_deum2  「テ・デウム」は、信仰の勝利と賛歌を扱った聖歌で、教会で演奏されることを念頭におきながら、天上の効果が聴く側に現れるような配置までも指示されている。
第2曲「すべての御使いも」では、クライマックスで3度鳴らされるシンバルが、極めて輝かしい効果をあげているし、第6曲「裁き主よして来たると」では、全曲の最後を飾るに相応しい壮麗なフーガが展開される。
 一方で、ブラームスのような渋い第3曲「主よ、我らを守りたまえ」や、テノール独唱の入る美しい第5曲「願わくは、尊き御血をもちて」などは、オペラアリアのように聴き応え充分。

   テノール:フランシスコ・アライサ オルガン:マルティン・ハーゼルベック
   合唱指揮:リチャード・ヒコックス

     クラウディオ・アバド指揮  ECユースオーケストラ
                     ロンドン交響合唱団、ロンドンフィル合唱団
                     少年合唱団多数
                       (81年聖オールバンス大聖堂)

アバド指揮する、若いオーケストラの面々の紡ぎ出すフレッシュで清冽な音は、ベルリオーズにとても相応しく、教会の豊かな響きを捉えた録音も素晴らしい。
いかにもアバドらしく、演奏効果に背を向けたような誠実で内面的な演奏。
アライサの声もいい。

Abbado_berlioz_te_deum アバドにはもうひとつ、10年後、92年の映像がある。
こちらは、復帰後のカレーラスを迎え、ウィーンフィルを指揮したもの。
壮麗さも押さえ、かなり大人の演奏で、キュッヘル、ヒンクら、懐かしい面々が勢ぞろい。旋律の細やかな歌わせ方などは、こちらの方が上だ。
シンバル奏者が5人もいてこれも見もの。

そして、アバドはこの5月のベルリンフィル定期に登場して、この曲を取り上げている。
フィルハーモニーザールの出火で、ヴァルトヴューネでの野外コンサートとなったらしいが、きっと映像や音源で確認できることであろう。
今のアバドであれば、きっと神々しい演奏になったはず。

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2008年6月 8日 (日)

シューマン 「ファウストからの情景」 アバド指揮

Cofee_chu コーヒーの焼酎。
サミットの洞爺湖畔にある洋食屋さん「望羊蹄」のブレンド珈琲豆を使用した凝ったお酒。
昨年、仕事で洞爺湖畔に泊まったおり、近くの酒屋で購入。
 そしたら、なによ、イオンにも売ってるじゃない・・・・。

お味は、まさにコーヒーで、なかなかクセになるおいしさ。
多量に飲むと眠れなくなりそうだから、夜静かに音楽なんぞ聴きながらチビチビ飲むのがいい。

昨日の神奈川フィル演奏会で聴いたシューマン。その時にわかったこと、今日6月8日は、シューマンの誕生日だということ。
そこで、シューマンの畢生の大作、オラトリオ「ファウストからの情景」を聴くこととしよう。

Abbado_schumann_faust ゲーテの「ファウスト」を題材にした音楽は非常に多い。人間の野望と贖罪、弱者の救済、といった不変のテーマに幾多の作曲家の筆をとらせることとなった。
ベルリオーズ、グノー、シューマン、リスト、ワーグナー、ボイート、ブゾーニ、マーラーなど。

これらの中にあって、シューマンの作品は、オラトリオという形式もって、一際、地味な存在。
1844年から53年の9年間もかけて悩みつつ作曲した大作は、序曲と全3部からなる2時間あまりの曲。

第1部~グレートヒェンとファウストの恋愛と母を殺し、不実の子を宿し、神に祈りながら亡くなるグレートヒェンを描かれる。
第2部~悔悟に暮れるファウスト、メフィストフェレスとの縁を切ろうと決心する。
そこへ、灰色や憂愁の女たちが現れファウストに取り付く。ファウストは視力を失いつつも
自由の国の建設のために、メフィストフェレス挑み、死を決して亡くなる。
第3部~「ファウストの変容」と題された場面。ファウスト、グレートヒェン、エジプトのマリア、そしてマグダラのマリアらは、聖母マリアを称え救済され天上に上る。

作曲は、第3部から遡るようにしてなされ、途中、机の引き出しにしまいこんでしまうほどに、悩んだらしい。こうして聴くと、第3部が一番聴きやすくシューマンらしい歌謡性に溢れていて、前半のものほど、とっつきが悪く感じる。
そうした場面が、この作品を地味な存在に見せかけているのかもしれない。
私は、アバドのCDで初めてこの作品に触れ、何回か聴くうちに、この作品の味わい深さが、まるで「するめ」を噛むかのような思いで楽しめるようになった。
 ブリテンやクレーのレコードは存在したが、ベルリンフィルの音楽監督がその定期で、こうした地味な作品を何度も取り上げるなんて、アバドならではのこと。
アバドは、気に入った作品があると、執念のようにそれを折りあるごとに取り上げ、完璧きわまりない演奏で、それを古今東西の名曲に仕立て上げてしまう。
「シモン・ボッカネグラ」「ヴォッェック」「ボリス・ゴドゥノフ」「ランスへの旅」などの渋い劇作品。マーラーのいくつかの交響曲と「リュッケルト歌曲」、ブラームスの「運命の歌」などもそう。
この「ファウスト」もそれらの中に入る作品。

他の作曲家たちが残したように、このシューマン作品でも、グレートヒェンに切実で素晴らしい歌がある。また、シューマンらしいファンタジー溢れる自然描写もありオーケストラの美しさに合唱が見事に応える。
そして、充実の第3部は、素材も同じくして、「マーラーの千人の交響曲」の第2部を先取りしたような音楽だ!
あまりに美しいマリアを崇拝する博士の賛歌。天上の音楽を描くかのようなハープの音色に乗って歌うバリトンの歌。ここで感動のあまり涙ぐんでしまうことになる。
そして、最後には「神秘の合唱」が感動的に歌われ、静かに曲を閉じる。
 さらなる曲の精度や、歌謡性を求めたくなる場面もあるけれど、これがシューマンと思って聴けば過不足なく感じ取れる。

   ファウスト、マリア崇拝の博士:ブリン・ターフェル
   グレートヒェン:カリータ・マッティラ 
   メフィストフェーレ:ヤン=ヘンドリック・ローテリング
   バーバラ・ボニー、エンドリク・ヴォトリヒ、スーザン・グレアム
   ハンス=ペーター・ブロホヴィッツ、イーリス・ヴェルミヨン

    クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                    スウェ-デン放送合唱団
                    エリック・エリクソン室内合唱団
                          (94.6月ベルリン)

Abbado_bpo 録音当時、すでに病魔が迫っていたかもしれないアバド。
際立った集中力と、歌に対する細心の心配りを持った指揮。
シューマンの文学へのこだわりから生まれたこの作品。その描こうとした人間の弱さや、救済感をアバドは優しい眼差しをももって描ききっていると思う。
 素晴らしいメンバーの歌手たちもいい。
ターフェルは神妙で、普段のアクの強さが少なめなのがいい。

シューマンの誕生日に聴いた大作。
シューマンの多様性と、言葉=歌へのこだわりがよく感じられた。

おっと、明日は今度は、息子の誕生日だ。

 

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2008年6月 1日 (日)

ヴェルディ 「仮面舞踏会」 アバド指揮

Tadachi 今日は素晴らしい天気。
外で子供とちょっと運動したたでけで、汗だくになってしまった。

こんな日は、こんな緑と清流のかたわらで、ビールをシュパっと開けて、「そうめん」などをするっと食べると最高だな。

最近知合った仕事仲間で、海外にもよく行く方がいて、外国から来たお客さんをもてなすのに、自宅で「そうめん」を食べさせるそうな。
白くて細く長い麺に、皆、目をしろくろさせているが、「これは、日本の宮廷のやんごとなき食べ物であ~る」と宣言するそうな。
すると、外人たちは箸を使いながら神妙に、音を立てずに、そろりそろりとお食べになるそうな。実際に、宮廷食だったこともあるそうだが、まあ意地悪なこと。

Verdi_un_ballo_in_maschera_abbado

今日は、久しぶりにヴェルディのオペラを。
仮面舞踏会」は、ヴェルディ中期43歳の作品。
26作あるヴェルディのオペラ、初期のものは「マクベス」を除いてちょっと苦手だが、でもその溢れ出すメロディの宝庫には、魅力を禁じえない。

前作の「シモンボッカネグラ」あたりから、祖国愛ばかりでなく、登場人物の苦悩や葛藤といった心理的な描き方が深みを持ち始めた。
オーケストラも、大きな音を響かせる一方で、輝かしさと、内省的な渋さが目立ってくる。

「運命の力」「ドン・カルロ」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」と、後期の充実作品へと、さらにヴェルディの筆は磨きがかかることとなる。

有名な作品だから、超概略。舞台はボストン。本来のスクリーブの台本は、スウェーデンのギュスタフ三世を扱っていて、実際にあった話。
ナポリで初演をしようとした際に、イタリア人によるナポレオン三世暗殺未遂事件があり、その情勢から、舞台と人物を移し変えて上演せざるをえなかったらしい。

 第1幕
ボストンの知事リッカルドは、秘書レナートの妻アメーリアに想いを寄せている。
その知事を暗殺せんとする、サムエルとトムの2人組み。そのふたりを見張るレナート。
給仕のオスカルが、占い女のウルリカの助命を求めてくるので、リッカルドはウルリカに会いにゆく。リッカルドを占ったウルリカは、最初に握手をした友人に殺される運命にあると言う。そこへ、レナートが現れ、知事の安全を知り握手する・・・・。

 第2幕
ボストンの郊外の野辺。アメーリアは、恋を忘れる薬草を探している。そこへ、リッカルドが現れ、陶酔的な素晴らしい二重唱となる。
そこへ、危険を知らせにレナート登場。アメーリアをレナートに託し、リッカルド去る。
そこへ、サムエル&トム登場。自分の妻とも知らずに・・・とからかう二人。
ヴェールを脱がすと、何と妻。レナートは、リッカルドの暗殺計画に加担することに。

 第3幕
レナートの部屋。アメーリアは死を決意し、レナートは素晴らしいアリアで応酬。
2人組との打ち合わせで、レナートは自らが刺すことを決定。
一方、知事室では思い悩んだリッカルドが、レナート夫妻を本国に帰すことで、この問題解決をはかることを決意。オスカルが、仮面舞踏会は危険との手紙を持ち込む。
 さて舞踏会場では、仮面のためレナートはリッカルドを見つけられない。
オスカルに重要な用件として、姿を聞き出したレナート。
おりから、危険を知らせるアメーリアに会ったリッカルドをレナートは剣で刺してしまう。
絶え絶えのリッカルドは、二人を移動させようとしていたこと、アメーリカは無実であることを語り息絶える。

  リッカルド:プラシド・ドミンゴ   アメーリア:カーティア・リッチャレッリ
  レナート :テナート・ブルソン  オスカル :エディタ・グルベローヴァ
  ウルリカ :エレナ・オブラスツォワ サムエル:ルッジェーロ・ライモンディ
  トム   :ジョヴァンニ・フォイアーニ

     クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                       ミラノ・スカラ座合唱団 
                                    (79・80年ミラノ)

Abbado_2  アバドスカラ座時代に残したヴェルディ録音は、「マクベス」「シモン」「仮面」「アイーダ」「ドンカルロ」の4作のみで、その数の少なさは残念極まりない。でも、レパートリーの選択に慎重だったアバドは、ヴェルディで取り上げたのは、あとは「ナブッコ」くらい。
「オテロ」と「ファルスタッフ」は、ベルリン時代だったから、機が熟すのを待っていたのか。
ついでに、スカラ座時代のレパートリーは、「フィガロ」、「セビリア」、「チェネレントラ」、「ルチア」、「カプレーキとモンテッキ」、ヴェルディ諸作、「ローエングリン」、「ボリス」、「ホヴァンシチナ」、「カルメン」、「ヴォツェック」、「3つのオレンジ」など。
いかにもアバドらしい演目ばかり、こんな内容でイタリアの殿堂スカラ座を束ねていたのだから、その手腕と地元出身者の強みを感じざるを得ない。

歌に偏重すると、ヴェルディが取り組みだした大胆な和声や響きがおろそかになる、そんな難しい「仮面舞踏会」だが、アバドはそんな難題に見事に応えているように思う。
アバドの得意な歌うピアニシモ、その反面のダイナミクスの幅の大きさ。たたみかけるような迫力や抜群なテンポ感も充分。
2幕のワーグナーをも思わせるようなロマンテックな響き。
幕切れもペシミステックになりすぎず、冷静な節度を保っているのがいい。
そんな熱くならないヴェルディが面白くなければ、アバドよりはムーティを聴けばいい。

このオペラの主役は、真面目なテノールがいい。かつてはベルゴンツィ、そしてここで歌うミンゴが理想的。この頃は、イキがよく、何を歌ってもそれは見事なものだった。
その相手役リッチャレッリも、若く美しく、苦悩する役を真摯に歌っている。
もともとドラマテックな声でない彼女、無理せずに身の丈にあった歌いぶりだが、2幕のアリアなどでは、さらに強い声を求めたくなるのも事実。
ブルソンは当時もうベテランだったが、この録音が本格的なメジャーデビューではなかったかと記憶する。後年の彫りの深い声とは違って、美声だけが目立つ気もしなくはない。
カプッチルリだったらば・・・・・。
オブラスツォワは、あきらかに異質。でも、グルベローヴァライモンディが贅沢にも脇をしめていて、彼らがちょこっと歌うと場が引き立つ思いだ。

スター歌手を揃えながら、それぞれの出来栄えが微妙にしっくり来ない。

アバドは後年、ウィーンのニューイヤーコンサートで、J・シュトラウスの作になる「仮面舞踏会」のカドリーユを、むちゃくちゃ楽しそうに、そして唖然とするほど見事に指揮していた。
いずれも、アバドの一時代の記録であろう。

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2008年5月 7日 (水)

ヴェルディ 「運命の力」序曲

2 3 まだ続くで、名古屋東海の味シリーズ。
今日は「きしめん」だがね。
この、ひらひらの麺の由来は諸説あるらしいが、尾張伝統の平打ち麺は歴史も古く、いかにもお得感(名古屋では、お値打ち)漂う食べ物である。
アツアツに、かつを節をたっぷりかけて、そのかつを節が踊るなか、一気にズルジュルっと食べちゃう。アツアツも冷たいのも、どちらもたまらなくうまい!
この店は、尾張旭市でふらっと入った店だけれど、定食を頼んだら、付け合わせに、スパゲッティサラダかと思ったら、これまで「きしめん」だった。その徹底した潔さに感服だわ。
名古屋の麺は、蕎麦ではなく、うどん文化。ほかに、煮込み、ころ、伊勢と、いろいろあるでね。

Abbado_verdi_rca ヴェルディのオペラは、愛国心に燃えたものや、純文学を素材にしたものなど、バラエティに溢れているが、まさに天性の劇場の人ならではで、観る人・聴く人の心をとらえて離さないものがある。

ヴェルディはオペラ全体を視聴するのが一番ながら、その序曲や前奏曲だけをオーケストラで楽しむだけでも、なかなかに気分が盛り上がるもんだ。
後期作品は、ドラマの緊迫感をより高めるために短い前奏曲や、前奏のみであるが、中期作品は、オペラ全体の主題を駆使したなかなかに聴き応えある序曲が付属している。
そのもっともたる作品が、「運命の力」や「シチリア島の晩鐘」、「ナブッコ」などであろう。
なかでも「運命の力」は、オーケストラ・ピースとして、単独に聴いてもなかなかに優れた作品に思う。コンサートのアンコールなどでも、盛り上がるので、よく取り上げられる。
そのアンコールで、忘れ得ないのは、75年のムーティの初来日時のウィーン・フィルを振った演奏。ベームとともにやってきたムーティ。ベームのチケットが、抽選で応募したけれど全滅で、ムーティのみが簡単に当たった。
ブラームスの二重協奏曲と新世界というプロで、若獅子ムーティは大人しかったが、アンコールにそのナポリ魂を全開させた!すさまじいまでの迫力と猛烈な歌は、その後の原典尊重主義で厳格になりすぎたムーティには聴けなくなった若々しい叫びであった・・・。

8分あまりのドラマテックなこの序曲で、私の好きな演奏は、このアバドロンドン響のもの。数年後のベルリン・フィルとの輝かしい演奏も同様に素晴らしいが、スカラ座で日々ヴェルディを演奏していた頃の旧盤の方が、歌心が豊かに感じる。
意のままになるロンドン響との組合わせということもある。
じわじわと盛り上がってゆくクレッシェンド、歌いまくる木管群、気品を失わない金管群。
ヴェルディには、熱狂や歌とともに、気品も必須だ。
短い序曲に泣けます。

カラヤンもいいが、燦然としすぎだし、シノーポリはちょっと暴れすぎ、ムーティは録音ではいまひとつ、あとは以外にシャイー(ナショナルフィル)が好きであります。
皆さんのお薦めは?

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2008年4月24日 (木)

モーツァルト 交響曲第40番 アバド指揮

Hills 以前も貼った六本木ヒルズの花々。
豪華でちょいと賑やかにすぎるが、花は心休まる。
人工的に改良されたものもあろうが、自然の偉大さは、こんな美しい生き物をも生み出したこと。

 各地で、その心無い行いが報道されているが、人の心は乾き、殺伐としてしまったのだろうか?
ニュースを見れば連日、暗く嫌なことばかり。
ニュースの世界と思っていたことが、身の周りでも起きてしまう。
あぁ、息が詰まりそう・・・・・。

そんな日々にあって、自宅に帰り音楽を聴くことが何よりの癒し。
相変わらず、へなちょこベイスターズは負けちゃうし、そんな悲しい(?)気分を慰めてくれるモーツァルトが聴きたくなった。

Abbdo40 久しぶりに、アバドロンドン響を指揮した名盤、後期の2曲を収めたものから、40番ト短調交響を聴く。
1980年の録音で、もう28年も前になってしまった。
この頃のアバドは、スカラ座の音楽監督(翌年来日)、ロンドン響の主席、ウィーンフィルのパーマネントコンダクター、シカゴ響の主席客演、と引っ張りだこの大活躍だった。
アバドのレコードは、すべて購入していたから、即買ったLPだが、当時は何でロンドン響?
ウィーンフィルとなんで録音しないの?・・・・との思いで手にしたものだった。
しかし、ターンテーブルに乗せて、鳴り出した40番の冒頭を聴いたときに、ウィーンじゃなくてロンドンだった理由がとてもよくわかった。

極めて、楽譜重視。それを真っ直ぐ見つめて、余計な観念や思いを一切はさまずに素直に音にしたような演奏だったのだ。
甘い歌いまわしや、悲しさの強調、熱さなどとはまったく無縁。
古楽器やピリオド奏法が定着した今聴いても、その印象は変わらない。
こんなに素直な演奏をすっきりしなやかにやられたら、聴く我々の心も緩やかな気持ちにならざるを得ない。
深刻な短調のモーツァルトを、胸かき乱して聴く方からすれば、この冷静な演奏には歯がゆい思いをするであろう。
実際アバドとロンドン響は、あっけないくらいに客観的な場所にたって演奏しているかのように聴こえる。
この客観性が生む知的でバランスの取れた彫像のような佇まいが、おのずと語るドラマ。
良い音楽は、ナチュラルに演奏すれば、自らが輝く。
これこそがアバドの音楽性で、マーラーやワーグナー、ヴェルディ、新ウィーン楽派の音楽と共通したアプローチであると思う。

ちょっと評論家じみてしまったけれど、アバドを聴き続けて36年。
若い頃も、最近のルツェルンの演奏も、基本的にアプローチは変わらないのではないかと思う。さらに最近では、そうしたアバドに共感と奉仕に満ちた感情を抱く音楽家たちが、また異なる次元の高みへと、アバドの音楽を運んでいってくれるようになった。

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2008年2月 4日 (月)

プロコフィエフ 「アレクサンドル・ネフスキー」 アバド指揮

Nosyapu 昨日は、関東でも終日雪で、私の住む千葉でも10cmは積もったろうか。
子供は、朝からテンションが上がりっぱなし。
雪に慣れた地域の方からすれば、なんのことはないと思われるだろうが、ちょっとの雪で道路や鉄道は止まってしまうし、ケガ人も続出。

この画像は、数年前の1月に訪れた根室の「納沙布岬」。
日本最東端の地からは、北方領土も真近に見えるはずだったが、ご覧の吹雪状態。
これ、ワタシです。ゆえあって、アライグマの恰好をしております。
道内の方と一緒だったが、その方もせっかく来たのだから行きましょうと、吹き荒れる岬に向かった。途中、車が雪にハマってしまい、地元の方に助けられたりもした。
Imgp0370 Imgp0377その方からは、「バカなことすんでねぇ」なんて怒られたけれど、我々は決行してしまった。
灯台に近づくほど、雪はない、というか強風で雪が飛ばされてしまっているのだ。
風と氷の世界に、身も凍る思いだった!

Prokofiev_alexander 氷の世界、といえば、この音楽も。
プロコフィエフ(1891~1953)の「アレクサンドル・ネフスキー」。
この中に、「氷の上での戦い」が描かれている。
この音楽のクライマックスでもあるが、氷のツルツルとした雰囲気も音楽でかもし出されているし、戦いの凄まじさもクレッシェンドしてゆき、やがて大音響となる様子で描きだされている。

映画への付随音楽、いわゆるサウンド・トラック音楽に熱をいれていたプロコフィエフが、「戦艦ポチョムキン」で有名なエイゼンシュタインの依頼で、この「アレクサンドル・ネフスキー」の映画に音楽を付けることとなった。1938年のこと。
プロコフィエフは、この音楽から7編を抜き出し、カンタータ形式の声楽作品にしたてあげたのが、この曲。

13世紀、ゲルマン騎士団の侵攻をくい止め、撃破したアレクサンドル・ネフスキーを描いた映画を一度、この音楽とともに観てみたいものだ。
プロコフィエフの音楽は、ドラマテックであるとともに、国を蹂躙されて苦しむロシアの民を深刻に描いたり、戦士を悼んだ独唱が入ったり、最後は賛歌ありと、なかなかヴァラエティー豊かで楽しめる。

ロシア音楽を好むアバドは、とりわけムソルグスキーとプロコフィエフが得意だ。
ムーティやシャイーもプロコ好きだから、イタリア人はプロコがお好きなのか。
リズムとモダニズム感が、共感を呼ぶのであろうか。
アバドは、圧力に苦しむ民衆の声を描いた部分と、その解放の喜びに大きな共感をよせて指揮しているようだ。
強弱の幅が、めちゃくちゃ広くて、どんな大きな音でも、細部がよく聴こえる。
オブラスツォワの歌う哀歌、彼女の歌も素晴らしいけれど、オケの美しさも特質すべき。
アバドとロンドン響の名盤のひとつは、録音も目覚しくよい。

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2008年1月17日 (木)

ストラヴィンスキー 「火の鳥」 アバド指揮

Nara 今日も寒かった。
昨日から仙台・郡山に出張。雪も散らついたけれど、何のことはない、地元千葉も少し積もったらしい。

帰宅するや、めずらしくテレビを見つづけてしまった。
まずは、「秘密のケンミンSHOW」、各都道府県出身者が登場し、各県のおもしろ・おかしい風物や風習を紹介する番組。
こりゃ、楽しいし、自県になると意地もでちゃう。
なんといっても面白いのが大阪と愛知。大阪は街角の人々はみな芸人やし、つっこみ上手。オバはんの豹柄服は以前から私も注目しておったけど、この番組で指摘しおったし、今日のネタ、「同じことを二度言う、大阪サービス精神」にも納得やで。
愛知は、コーヒーに「あんこ」いれちゃうアン文化が、これまた納得だでね。

そのあと、テレビは「鹿男あをによし」を見た。
これがまたすこぶる面白い。テレビドラマもたわいない恋愛ものや、死の横行するサスペンスなどから、どんどん進化しつつあるように思う。
最近、玉木宏や佐々木蔵之助らのテレビ露出が多すぎるという難点はあるが、これからが楽しみ。
画像は、少し以前だけれど、東大寺の鹿さん。
今日のドラマはまさにこんなショットがあってびっくり。この鹿さんは、何枚か撮ったけれど、ここに一人(匹)ずっと佇んでいた。

Abbado_fire_bird 今日はテレビ鑑賞をしてしまったので、大慌てで短めの曲を。
ストラヴィンスキーの「火の鳥」。
全曲もいいが、20分足らずの組曲で充分満足できる。
ストラヴィンスキー(1882~1971)が28歳の1910年に初演されたバレエ音楽。
当時は「春の祭典」ほどじゃないけれど、かなり革新的な音楽としてセンセーションを巻き起こしたらしい。
カスチェイの踊りなど、変拍子で激しい叩きつけるような和音に皆驚いたのだろう。
今は普通に、クラシカルな音楽なんだけど。

そんなストラヴィンスキーに、スマートなスピード感と豊かな歌謡性でもって新しい響きをもたらしたのがアバドの演奏。
70年代半ば、こんな大胆なまでの軽やかさでストラヴィンスキーを演奏した人はいなかった。ハルサイが一番傑作だけれど、ストラヴィンスキーのシリーズ第1弾だった当盤は、よく歌い、かつ緻密な仕上がり。
ロンドン交響楽団がアバドの手足のように機能的で、俊敏かつ敏感な演奏ぶり。
アバド好きの私にとって、ロンドン響との時代は一番輝いていたように思える。
83年にこのコンビで来日し、東京で主席から音楽監督昇進の発表があったはず。
3公演すべて聴きにいった。
①「火の鳥」と「巨人」、②「中国の不思議役人」「幻想交響曲」、③「ラ・ヴァルス」「マーラー5番」、こんな素適なプログラムだった。
懐かしいなぁ。
このストラヴィンスキー・シリーズのジャケットもよかった。

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2008年1月10日 (木)

ブラームス カンタータ「リナルド」 キング&アバド

Ninomiya 私の実家のある、神奈川の小さな町。毎年正月は、その町を通過する箱根駅伝を楽しみ、海へ出て砂浜を散歩していた。
子供の頃から、この砂浜が遊び場だった。

ところが、昨年9月に直撃した台風で、西湘バイパスの半分が陥落してしまったばかりか、砂浜がすっかりなくなってしまって、海岸線がすぐに足元まで上がってきてしまった。

キスがふんだんに釣れた投げ釣りや、生シラスのとれた地引網もできなくなってしまった。当然、海水浴なんて不可能。
もともと、急激に落ち込んで深かった海だけに、台風の高波で砂浜ごともっていかれたのだろう。
思い出のたくさん詰まった場所がなくなってしまうなんて、こんなに悲しいことはない。
この海岸を復元する支援活動も始まっていて、さっそく署名に協力した次第。

Abbado_rinaldo 今日の1枚は、かなりシブイところから。
ブラームス(1933~97)のカンタータ「リナルド」という曲。
ブラームスは、いうまでもなくオペラを書かなかった作曲家で、それどころか表題音楽的な作品も非常にすくない。
そんなブラームスの、オペラに一番近いジャンル作品がこのカンタータ。

カンタータといいながらも、各声域の独唱が活躍して物語するわけではまったくなく、オーケストラと合唱とテノールのための音楽。
原作も、ゲーテの詩によるものだから、かなり謹厳でこれまたシブイ。
内容は、十字軍に参加した戦士「リナルド」と、彼を愛する魔法使いの「アルミーダ」の物語をもとにしたもの。
聖地へ向かう航海の途上、アルミーダの誘惑にとらわれてしまうリナルド。それを励ます仲間たち(合唱)。こうしてリナルドは仲間に助けられ、ついでにアルミーダも解放し、妃として一緒に帰還する、という何だかわからない物語。
ハイドンやグルックもオペラとして取上げている。

ブラームスの30歳台の作品で、「ドイツレクイエム」と同時期。
音楽は以外に明快で聞きやすい。宗教作品でもないから、思ったほどの取っ付きにくさはなく、美しい旋律も豊富。
当然、どこをどう聴いても、ブラームスの響きがする。
私のような、オペラ好きからすると、そこでもっと歌を解放して欲しい・・・、と思う場面も多々あるが、そこはブラームスゆえガマンすることとなる。

そのあたりのわずかな欲求不満を解消してくれるのが、ここで歌っている「ジェイムズ・キン」であろうか。普段ワーグナーやシュトラウスで聴きなれた声が、神妙にブラームスを歌っているが、ときおり劇場向けの解放的な歌が顔を出す。
ブラームスには、正直不向きな声だが、私にはちょうどいい。
アバドとキングの唯一の貴重な競演。
1968年のデッカ時代のアバド。オーケストラが、ニュー・フィルハーモニア管であるところも希少。アバドの紡ぎ出す音色がキングよりは、かなり渋くまとまっている。
ただ渋いといっても、その音色はよく練られ、落ち着きをもちながらも明晰なもので、後年のアバドのブラームスと変わることのない響きがする。

カップリングの「運命の歌」。アバドが好むヘルダーリンの詩による伸びやかな作品は、都合3度録音していて、どれもが素晴らしい演奏。
さらに、FM録音した、ベルリン・フィルの退任コンサートでの演奏などは、涙を誘う名演なのだ。

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2008年1月 8日 (火)

R・シュトラウス 「ドン・ファン」 アバド指揮

Abbado_strauss_dg モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」から、ちょうど100年のち、R・シュトラウス(1864~1949)も同じ題材で、交響詩を作曲した。
1888年のこと。
この作品の前に交響詩「マクベス」を作曲してはいるが、発表が前後したため、「ドン・ファン」が世に出た、シュトラウスの交響詩第1号となる。
シュトラウス24歳!
これ以前は、習作的な交響曲と協奏曲、器楽・室内楽がある程度で、本格的な成功作がこの「ドン・ファン」

モーツァルトのドン・ジョヴァンニが、やたらに女色を好み漁りまくったあげく天罰を受けたのに比べ、レーナウの詩に基づく、シュトラウスのドン・ファンはもっと崇高な思いをもって理想の女性を探し求める、といった弧高(??)の人物像を描いているという。

天衣無為なモーツァルトの音楽は、そうしたドン・ジョヴァンニに相応しく、悪ふざけと神妙さが同居する人間の二面性を鮮やかに描き出した。

何でも音にしてみせたシュトラウスは、やたらに高尚で冗談のつけいる余地のない音楽を書き上げた。ドン・ファンの愛の歌はともかく真剣味に満ちているし、二人の愛情もどうやら本物だ。が、しかし、ドン・ファンの求める女性ではなかった・・・・。
決然としたホルンとともに、あらたな遍歴の旅に出る。その先には死あるのみ・・・・。

17分の交響詩にシュトラウスが描いてみせたドン・ファンの生き様。
私らには到底関係ないお話。
まったくいい気なものだ。
シュトラウスの音の洪水に心地よく浸っていると、某嫁が来て、「うるさい!」と・・・。
さて、私の理想の女性はいったいどこへ消えてしまったのだろう?

アバドが1982年に、ロンドン交響楽団と録音したシュトラウスを集めた1枚。
今もって大好きなCD。カラヤンもいいけれど、アバドのすっきりとした切り口で歌われるシュトラウスは、マーラーとの近似性を感じさせる。
構えたところが一切ないかわりに、物語性・表題性が乏しいが純音楽的な真摯な演奏は聞き飽きることがないはず。
ジャケ