2009年7月 2日 (木)

ハイドン トランペット協奏曲 ハーセス&アバド

Pepsiso_2 今年の夏の限定ペプシは、「しそ」。

去年は、ブルーハワイ、一昨年はキューカンバー(きゅうり)だった。

楽しいのうsmile

一口飲めば、まるで「しそ」。
おいしそーでしょ・・・・、でもないかbleah

Cso 今日は、ハイドントランペット協奏曲
1796年、ハイドン64歳の最充実期のこの作品。

改良が進んでメカニックになったトランペットを想定して書かれた曲だけに華やかなソロが目立つ。
一方のオーケストラは、シンフォニーのように鳴りのよさがあって、とてもよく書かれている。
さすがはハイドン。

フンメルと並んで、髄一のトランペット協奏曲の名曲。
あとは、ヴィヴァルディ、テレマン、ずっと下ってトマジ、ジョリヴェあたりだろうか。
トマジの曲は、神奈川フィル定期で聴いたことがあった。ジャジーな雰囲気が粋な曲だった。
でも、モーツァルトは、何故にトランペット協奏曲を書かなかったんだろ?

15分たらずの演奏時間、変ホ長調の屈託ない明るい協奏曲は、中身はともかく、メロディも一聴して覚えてしまう親しみ溢れるものだ。
これが、シカゴ交響楽団の名手、アドルフ・ハーセスの手にかかると、フレンドリー感はそのままに、多彩で鮮やかな音色を難なく次々に繰り出してみせて、舌を巻くどころか唖然とさせてくれる。
ショルティ時代を飾った、「ザ・シカゴ」のような音色のハーセスだけに、ピーンと突き抜けるような響きがあまりに素晴らしい。
マーラーの5番、展覧会、ツァラトゥストラなどなどに、刷り込みのようなその音色。
すごいものです。

アバドシカゴ響の品のいいバックも弾みがよろしく素敵なのである。

このCDは、アバドがシカゴの首席客演指揮者時代の貴重な1枚で、ほかはいずれもモーツァルトで、グレヴェンジャーのホルン、エリオットのファゴット、スティルのオーボエのそれぞれ協奏曲が聴ける。
シカゴ、ベルリン、ウィーン、ドレスデン、パリ、管の名手が多いオーケストラ。
名人揃いのオーケストラ、指揮者は楽なのだろうか、それとも大変なんだろうか・・・

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2009年6月27日 (土)

マーラー 交響曲第1番「巨人」 アバド指揮

Ajisai_3

これも「あじさい

実家の庭に咲いている。

墨田の花火」というそうな。
あじさいっぽくないけど、華麗な雰囲気は夏を迎えるのに悪くない。

 マイケル・ジャクソンが亡くなりましたな。
ジャクソン・ファイブの時から知っていたその少年は、80年代にダンスのパフォーマンス付きで大ブレイクした。社会人になった頃だったなぁ~。MTVでさんざん見たもんだ。

そして、もうひとり、アメリカの一時代を思わせる、ファラ・フォーセット(メジャース)も数日前亡くなっている。
そう、チャーリーズ・エンジェルの彼女。
大学時代、日曜の晩の放送がすごく楽しみだった。
アメリカの西海岸の心地よい軽やかなイメージがぴったりで、そのレイヤーズヘアは、誰もがマネした。楽しき大学時代・・・・。
アメリカのドラマも楽しいものばかりで、彼女の夫は一時、リー・メジャースで、サイボーグ人間のかっこよくも人情味あるドラマ「600万ドルの男」の主役だった。

懐かしいなぁ~。
どんどん歳とるなぁ~。
アメリカの一時代を築いたお二人、ご冥福をお祈りします。

そして、記事はうってかわって、メデタイお話にwine

Abbado_mahler1 この記事が書きあがるころには日付は変わってしまいますが、6月26日は、クラウディオ・アバドの76回目の誕生日。

「さまよえるクラヲタ人」をご覧になっていただいている皆様には、さんざん表明しておりますとおり、わたくしは、アバドの大ファンであります。
ワーグナー・アバド・イギリス音楽・オペラ、そして酒と食>な~んて、プロフィールに書いてありますよ。
それはずっと昔から変わらない、私の音楽の基本。
72年頃から、アバドを聴いて、もう37年。
アバド39歳の頃。わたしゃ中学生。
リングもディーリアスもしっかり聴いてましたよ。

以来、アバドは、ウィーンフィルの首席、スカラ座の音楽監督、ロンドン響の音楽監督、シカゴの首席客演、ウィーン国立歌劇場の音楽監督、ベルリンフィルの芸術監督、という具合に指揮者としてのポストの頂点に登りつめていったのはご承知のとおり。
 自分をあまり主張することなく自然体のアバドは、周りから請われるようにして頂点を極めた慎ましさがあって、逆にポストにしがみつくことなく、あっさり投げ出してしまう潔さもあって、私などはそのもったいない行動にヤキモキしてしまうことが多かった。
サラブレット的な血筋の良さからくる余裕ともとれるが、音楽をすることのみを至上とし、そこに喜びを見出すアバドならではの生き方だと思う。
逆に、アバドを物足りなく思う方からは、優等生としか映らないのだろう。

そんなアバドが好きなのだが、さらに拍車がかかったのは、生死の堺を見てしまった後の、研ぎ澄まされ神がかり的な高みに到達してしまったその凄まじさ。
これまた何度も書くが、東京での「トリスタン」上演と、ルツェルンとのマーラー。
これらは、人生で何度も巡り合うことのできない異常なまでに強烈な音楽体験だった。
ついでにいうと、スカラ座との「シモン」もすごかった!

あわせて、若い人への愛情の注ぎかた。アバドはいくつ若いオーケストラを育てたろうか。
ルツェルンの豪華メンバーもそうだが、一緒に共感しあいながら音楽を作っていく・・・、そんな共同作業の大いなる喜びに、いまだに喜々としているアバド。

今だに若々しい表情を失わない秘訣は、こうした音楽への愛情と、そののめり込み具合なのだろうな。
私も、よたよたしてないで、マエストロにあやかりたいものだ。

Abbado 今日は、超お得意のマーラーから、第1番を。
81年のシカゴとの一度目の録音は、ライブ感あって自在なベルリンフィル就任の後年の録音よりも、まとまりがあって、しなやかかつ、シャープでスリム。
ショルティの剛毅な指揮のもとにあったシカゴが、アバドが振ると強靭さはそのままに、繊細なまでの豊かな歌が溢れだしていたからおもしろい。
 シカゴの意中は、アバドだったというし、ニューヨークフィルからのお誘いにも乗る気だったから、ウィーンのオペラのポストがなかったらアバドはアメリカで長期活躍したかもしれない。
1番は、ロンドン響との来日公演が、火の玉のように熱い演奏だった。
その演奏がこれまでの最高。

そして、今年のルツェルンでは、この1番と4番をメインとしたふたつのプログラムが予定されている。
ルツェルンでのマーラー・チクルスも、今年が終われば、あと8番と9番。
8番は来年、スカラ座に復帰して演奏するので、先が見えてきたというもの。
交響曲も歌曲も、何度も何度も演奏するアバド。
ほんとは、ワーグナーとヴェルディもやって欲しいんだけれど。
それとバッハもね。

まぁ、永遠に元気そうだから、きっと演奏してくれる。

マエストロ・アバド、いつまでも元気で素晴らしい演奏を聴かせて下さいnote
ワタシモ、ガンバリマスpunch

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2009年6月19日 (金)

ヴィヴァルディ 「四季」 クレーメル&アバド

Shiba 雨上がりの公園で見かけた花。
なんて言う名前?
コスモスっぽいけど、そんな季節じゃないし。

いまやネットで、季節や色で、その花を検索できる。
それによれば、「ディモルフォセカ」か「オステオスペルマム」という感じだけど、いったいなんだろね、外国の名前そのものは??
花の品種も、かつては考えられないものがたくさん入ってきていて、昔からの日本の花にはそれ風の名前があるのに、それらはさっぱりピンときませんな。

Four_seasons_kremerabbado 今日は、「四季」。
イ・ムジチに始まった「四季」ブームは、猫も杓子も「四季」を録音するアナログ時代がピークだったように思う。

ミュンヒンガー、ファザーノ&ローマ合奏団、パイヤール、オーリアコンブ&トゥールーズ、マリナー&アカデミー、シモーネなどの室内合奏団はもとより、オーマンディ、バーンスタイン、ついにカラヤンあなたもか、アバド、小沢、ムーティ、シャイーなどのオーケストラ指揮者までがこぞって録音。
 そして名ヴァイオリン奏者たちも。スターン、シェリング、グリュミョー、クレーメル、ムターなどなど、たくさん。
そして、古楽優勢の時代となり、アナログ時代のトレンドは、デジタル化とともに、ピリオド奏法による演奏家たちが主流となっていった「四季」。
ビオンディ、カルミニョーラなど、わたくしは詳しくないのであとはわかりません。
昨今の指揮者たちはもう録音しなくなってしまった。

そんな文字通り、「四季」の録音の移り変わりに思いをめぐらせてみるのも楽しい。

今日は、有名ヴァイオリン奏者と有名指揮者とシンフォニー・オーケストラが組んだ、当時ユニークだった「四季」を。
ギドン・クレーメルクラウディオ・アバドロンドン交響楽団の1980年の録音。
アナログ最後期、この年の半ばからDGもデジタル化するが、最初は硬かったDGのデジタルなので、アナログ末期にこの録音がなされたのは救いかも。
 
当時は先鋭に感じられたこの演奏。
昨今のピリオド奏法による切れ味よい演奏に慣れてしまった耳には、さほど鋭さを感じなくなってしまった。我々聴く側の耳も日々変化しつつある証左。
でもそんなことを考えなければ、チェンバロを多様したアバド指揮するロンドン響の弾みのよさと、精妙なまでの繊細さ、立ちあがりのよさに、弱音部分の美しさ。そして歌。
 いつものアバドとロンドン響がここにある。
そう、あのストラヴィンスキーのようなクリアな響きなんだ。
 そこに載るクレーメルの自在さは、今の丸くなったクレーメルより練達感がある。
早いフレーズでも一音一音に芯があってしっかり聴き取れるし、技巧の限りを尽くしてもそこに必然があるから嫌味もないし。
 驚きは、「冬」の第2楽章ラルゴ。冬の炉辺の暖かなストーブのイメージじゃなく、凍てつく外の冷たい雨のような感じで、通常の倍のテンポ。
まぁ、やりすぎにも思うけれど、せめてこれくらいのユニークさがないとね。

クレーメルはその後、弾き振りで録音しているから、自身の考えをもっと徹底したかったのだろう。そちらは未聴。

たまにはアナログの「四季」もいいもんだ。

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2009年6月10日 (水)

ベルク 管弦楽のための3つの小品 アバド指揮

Itami Itami_2 大阪の阪神高速を疾走。
伊丹空港の脇を通ると上にはモノレールが。

中国自動車道に入ると、空にはこんな飛行機雲が。

夕暮れの空を見ながら気持ちよく走る。次の日は雨、そんな夕雲。

Umeda 関東人の私が、大阪を車で走るときは、とても緊張するし、正直怖い。
都内や首都高は全然平気だけど、大阪や京都は、まるで外国に来たみたい。

かつて大阪出身の後輩に、「Yさん阪神高速で合流するときは、ぶつける気持ちではいらなあかんで」「東京みたいに、譲ってくれへんさかいにな!」・・・・。
はぁ、そうですか。
この言葉が、ずっと私にトラウマのようにのしかかっていて、たまにかの地で運転をせざるを得ない時に、重くのしかかってきて、緊張しまくりとなるんだ。
おまけにかつて、会社の大阪の先輩を乗せて運転したとき、「Yちゃんな、ここはややこしいんやで、合流して、一番向こうの車線までいち早くいかにゃぁならんのや。」
何車線もむちゃくちゃある一番あっち??しかも、みんなすげぇスピードで走ってるし、分岐はすぐ先に見えるじゃん!!
 あぁ、恐ろしい。でもなせばなる、大阪。目つぶって、突っ込んだら行けました。
あと、もうひとつ、市内の南西あたりの会社へ車でいかなくてはならない。
これまた先輩が「Yちゃん、ここらへん、ややこしいから気ぃつけてな。」
その一言でもう、わたくしガチガチでございましたよ。

大阪や京都以外の関西は全然平気なんですが、やはり人の口による先入観というものは覆せないものなんでしょうかねぇ。在阪のみなさん、すんません。

Berg_orchesterrtucke ワルツを聴いてますシリーズ。
後期ロマン派からベルクを。
ウィーンのワルツとはきってもきれない環境にあった新ウィーン楽派。
中でもベルクは円舞曲のスタイルをその作品に自然に取り入れている。

オペラでは「ヴォツェック」と「ルル」、オーケストラ作品では、「3つの小品」にワルツが挿入されている。
前者は、アイロニーのように悲しみさえ浮かべながら、後者では曖昧混沌とした中に、マ-ラー的な大音響とともに。

1915年の完成で、無調様式によっていて、師シェーンベルクの誕生日に捧げる予定が間に合わなかったらしい。
同時期に「ヴォツェック」を作曲していて、お互いの響きは重なり合っているように聴こえる。
「前奏曲」「輪舞」「行進曲」の3曲。

輪舞」がワルツなわけだが、この2曲目は2拍子の部分と、3拍子のワルツが交互に姿を変えつつ交錯する、いわばワルツが時おり明滅するようにあられる音楽で、一度や二度聴いたんじゃよくわからない。
甘味でありながら冷徹、微笑みと苦渋が同居するようなベルク特有の音楽は、前後の二つの曲も耳を刺激する無類に素晴らしい音楽。

ゆっくりとした打楽器のトレモロに管が絡んで始まる「前奏曲」はプリミティブな効果満点のカッコいい音楽。
行進曲」は騒然とした中にいろんな要素が包括されていて、中間部に明快に登場する行進曲には胸がすくような気分となる。
やがてものすごいクライマックスに到達し、死にたえそうな静かな雰囲気のなか、半音階ピチカートの鳴り響く中、木管が踊るようなスタッカートを切る。
そして、金管の強烈なファンファーレが鳴り響き、断末魔のような最後の一撃をもって曲を閉じる。

アバドはこの作品を非常に得意にしていて、70年にロンドン響と、92年にウィーンフィルと録音しているほか、演奏会でも始終取り上げていた。
今日はウィーン盤を聴いたわけだが、輪舞におけるワルツの鳴り方は、まさにウィーンの音楽そのものとして響く。
こうした無調の音楽に味わいを感じさせるのはウィーンフィルならではだし、アバドも学生時代から自分の体にしみついたウィーンの音楽言語を話しているかのように一体化している。そこに歌があって、明析さも併せ持つところがアバドならでは。
ブーレーズと並んで双璧かと思われるベルクだけれど、旧LSO盤のニュートラルで切れ味鋭い演奏も実に捨てがたいんだ。
M・プライスとの「アルテンベルク・リーダー」や「ルル」組曲も、同様にウィーン録音と甲乙付けがたい素敵なベルク。
久しぶりに聴いたアバドのベルク。
新ウィーン楽派をベルリン卒業後あまり演奏しなくなってしまったアバド。
ルツェルンでもう一度

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2009年6月 4日 (木)

「黒田恭一さんを悼む」~ヴェルディ・スカラ座・アバド

今日の朝刊でお写真入りで黒田恭一さんの訃報が報じられた。
まだ71歳というではありませんか!
先だって日曜のFM放送を出張先の車で聴いたおり、まさかこの声、黒田さん??
とびっくりするくらいだった・・・・・。

まさかの早すぎるその死を悼んで今日は、氏の愛したオペラ、それもヴェルディを聴きましょう。

黒田さん、私などは「クロキョウ」さんと言ったほうが馴染みがある。
FMやAM、テレビを通じて、そのお声をお聴きの方々が非常に多いと思われる。
マイルドで優しいお声と品のある解説は、音楽のよいところを巧みにリスナーに嫌味なく伝えていて、「このような方がおっしゃるんなら、クラシックも聴いてみようか」などと思わせてくれる名調子でありました。
 私のような世代だと、そのお声というよりは、数々の著書やレコ芸・FMファンなどでの執筆を通じて親しみある存在だった。

レコ芸の月評のあとに、てい談コーナーがあって、黒田さんと林光さん、粟津則雄さんの3人が、その月のレコード数枚を取り上げて語り合うコーナーだった。
辛口で厳しいけどユーモア溢れていた粟津さんがボケ役、冷静沈着でツッコミ役的な林さん。そして黒田さんは、進行役でもあり、どちらにも相槌を欠かさず、それでいながらご自身の好きなアーティストやジャンルだと、熱くなって語ってしまう。
そんな人柄で、信頼感あふれる方だった・・・。
 そして氏の好きなジャンルは、オペラ。
ヴェルディにワーグナー、ベルカントを中心にまんべんなくお聴きだった。
クロキョウさんに、オペラにおいて、どれほど影響を受けたか。氏と高崎保男さんが、私のオペラの机上の師であります。
 そして、氏の好きなアーティストは、カラヤン、そしてアバドだった。
若いアバドが、評論家諸氏にボロクソ言われていた中で、クロキョウさんは常にアバドの美質を見抜き擁護していた。
ずっとアバドを応援してきた私にとって、これほど嬉しい音楽評論家はいらっしゃらなかっつた。

La_scala_verdi_abbado ほんとうに久々にレコード録音復帰した「スカラ座」のオケと合唱、そしてそれを縦横に指揮するフレッシュなアバドの指揮に、黒田さんが大興奮していた1枚を今日は聴きましょう。
3年前、すでに記事にした1枚だけれど、こうして久しぶりに聴くと、耳も心も洗われるような純正ヴェルディに、日頃の鬱憤や悩み事もすっきり晴れるかのようだ。
メトやベルリン、ウィーン、ましてや新国などの一流劇場のオケや合唱が束になってかかっても到底敵わない、ヴェルディの音楽が血肉と化したかのようなアバドとスカラ座のコンビ。
来年、アバドはマーラーの8番でもって、手兵とスカラの混成部隊を指揮して復帰するが、そこでヴェルディを振る日が来るのを切に願いたい。

「十字軍のロンバルディア人」~「おお主よ、ふるさとの家々を」
「ナブッコ」~「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」

あまりに素晴らしいアバドの演奏。これらが、ほんとうに心に響く今宵。

ヴェルディには気品と熱気が大事。
そんなことを思いながら、黒田恭一さんに哀悼を捧げます。

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2009年4月22日 (水)

マーラー 交響曲第9番 アバド指揮

Myoukenji1 茅ヶ崎は、大岡越前守忠相ゆかりの地。
先週には、大岡越前祭があったという。
家康が関東に入府したときに、大岡家は茅ヶ崎に知行地をもらったことがその由来で、その代々の菩提寺が、市北部にある「浄見寺」。
車で走行中、発見し寄り道。
その庭がこちら。
静謐で心が静まりましたよ。

Abbado_mahler9_bpo 今日は、マーラー交響曲第9番
こんな中身の濃い大曲、平日の晩に気軽に聴けないけれど、今回はアバドの指揮で、どうしても取りださざるをえなかった。
最近のエントリーは、お気に入りのシンフォニーが続いております。
チャイコフスキーの5番を除いては、以前の記事に書いた「私の好きな曲ベスト」の交響曲部門ノミネート曲なのです。
それを、私の現役フェイバリット指揮者で取り上げるという、はなはだ自分勝手な特集なのだ。
その指揮者は、弊ブログをご覧いただいているとおわかりのメンバーで、登場回数も多い人たちなのですよ。
ハイティンク、プレヴィン、マリナー、アバド。あとは最近微妙になりつつあるけどヤンソンス。ヤンソンスだけ、ちょっとスターっぽいけど、基本は真面目で静かな指揮者が好き。
真面目にコツコツだけど、時に熱いものを吹きあげるような情熱を秘めている。

アバドとは、通算もう36年の付き合い。
ずっと変わらず聴いてきた。
ウィーン・フィルと来たときも、振ってるだけとかオーケストラに乗っかってるだけとか言われ、散々の評価を受けてしまった。
アバドの指揮の基本は、オーケストラとの協調と、音楽を一緒に作り上げることに喜びを見出そうとするコスモポリタン的な連帯意識。
それらを無心なまでに訴求し、病の淵から復活した今、最高の高みに達している。
 アバドは勉強家だから、ベーレンライター版をとりいれたり、ピリオド奏法も少しやってみたりと、進取の精神の若さを保っているが、本人は、そんなことはどうでもいいと思ってやっているのかもしれない。
 そこに音楽があるから、音楽が好きだから、そんな純粋な思いだけで貫かれている、いつまでも前向きなアバドなんだ。

ベルリンフィルとのこの録音は、1999年9月のマーラー・ツィクルスでの演奏会ライブ。
この頃はすでに病魔に冒されていて、翌年の演奏会は大半がキャンセルされてしまった。
そして、2000年11月にびっくりするくらいに痩せてしまい、目だけが鬼気せまる気迫に満ちた様相で「トリスタン」をひっさげて文化会館に現れた。
スカラ座の「シモン」、ベルリンの「トリスタン」、いずれも文化会館のピットでのアバドの指揮ぶりは、わたくし生涯忘れ得ぬ思い出でございます。

久しぶりに、アバドへの思いを書き連ねてしまった。

肝心のマーラーの第9。
深刻になりすぎず、精緻。しかしよく歌い、表情は明るい。
そんなアバドのマーラー。バーンスタインやテンシュテットのような陶酔的な演奏とは対極にあるすっきり系の演奏。
でもその細部は、ベルリンフィルの驚異の名技性とアンサンブルを得て、完璧なまでに研ぎ澄まされ、ところどころ、おやっと思うような表情付けがあったりするものだから気がおけない。
そして、ウェーベルンをも思わせるような1楽章の終わりの無常観に明晰な歌を聴かせてくれるところは、まさにオペラのアバド。
それは、終楽章も同じで、終始よどみないテンポで歌うこと!
アバドのトリスタンも、音楽をつきつめて、歌に特化した先に生れた、しなやかかつ緻密な演奏だが、そのアバド・トリスタン的な世界を感じさせる光明あふれる浄化の世界。
「死に絶えるように・・・」とマーラーが楽譜に記した言葉。
そして、その死の先の浄化を大いに意識させるのが、このアバドの演奏。
そう、死の先は終わりでなく、そこに救いがあるのです。
そんな明るいアバドのマーラーの第9。

ルツェルンでのマーラーは、ひとまずお休み状態だが、是非ともこの第9をやってほしい。
それと、トリスタンの1幕・3幕。そしてヴェルディのレクイエムに、マタイ、大地の歌・・・・。

Chigasaki_2_2 先の浄見寺を出ると、そこには、こんな鮮やかな桜の花が青空に映えて待ち受けていた・・・・・・。

このアバドのライブ、最後の音が消えてから38秒にもおよぶ静寂とその後のじわじわと盛り上がる拍手が収録されている。

 

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2009年3月11日 (水)

ブラームス 「運命の歌」 アバド指揮

Utsunomiya_johan 宇都宮の「聖ヨハネ教会」。
同じ市内の松が峰教会と同じく、大谷石でできた教会。

1933年の建築で、そのまま。
日本の神社仏閣もそうだが、教会はバランスがとてもよく美しく、見るものを安心させる。
日本聖公会、英国国教会系の教会。

Abbado_brahms3 今週の金曜日は、またもや13日が巡ってきた。
そんなことはどうでもいいけれど、横浜では、シュナイト翁の神奈川フィルハーモニー音楽監督としての最後の演奏会が行われる。
その演奏会は、まさに祈りの音楽がしっかりとプログラミングされている。
あまりに渋い演目にたじろいではいけません。 

ブラームス/悲劇的序曲作品81
ブラームス/哀悼の歌作品82
ブラームス/運命の歌作品54
ブルックナー/テ・デウム

熱心なカトリック信者であられるシュナイト師が、その総決算として演奏するこの内容。
涙覚悟で行く所存でございます。

これらの中で、私がもっとも好きなのが、ブラームス「運命の歌」。
つい、運命の力と言ってしまいそうになるけれど、あちらのオペラは運命に翻弄される悲劇を強烈に描いたものだが、ブラームスの「運命の歌」は、もっと優しく抒情的で、その内容は神々の世界と人間の苦悩に満ちた世界との対比を歌いこんだもの。

ヘルダーリンの詩に基づくもので、その詩の内容は、前半では天上に暮らす方々のまばゆくも神聖な様子が歌われ、後半は、地上のわれわれの苦しい状況が悲嘆を伴って歌われる。
 こんな感じで。

   けれども、私たちには休息の場が与えられません。
   悩み苦しむ人々は消えていきます。落ちていきます。
   やみくもに、時から時へと、水が断崖から断崖へ落とされるように
   たえずあてどなく下の方へと

あちゃ~、まったくの悲劇的内容。
合唱はこれを歌って終わるのであります。

ところが、ブラームスのマジックはこの歌では終わらせない。
そのあとのオーケストラの後奏が、とてつもなく美しく、安らぎと癒しに満ちているのであります。これで、われわれ人間は救われるのであります。
今の厳しい世の中に暗澹としてばかりではいけません。
その先には平安がきっとある。
今日の田口さんご家族と、金賢姫さんとの面会の様子を見て思わず涙してしまった私。
苦しみや悲しみの後にはきっと・・・・・・。
そんなことを思いつつ、運命の歌を聴いていた。
アバドは、この曲が若い頃から好きで、始終演奏し、録音してきた。
ベルリンフィルのブラームス・チクルスの一環で録音されたこのCDは、しなやかでかつ甘さをも併せもった微笑みの名演なのだ。
その序奏部からもう目頭が熱くなってしまう。なんて歌に充ち溢れた演奏なのだろう。
E・ゼンフ合唱団の緻密な歌に加え、ベリリンフィルの音はまさにブラームスそのもの。

 ニュー・フィルハーモニアを指揮した旧盤、アバドのベルリンフィル音楽監督としての最後の演奏会のFMライブ。手元にある3種のどれもが愛おしい。

金曜日は、ハンカチ2枚は必要だ。

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2009年2月14日 (土)

チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」 アメリカ7大オケ

1 今日はバレンタインデー。
私のような、おじさんにはまったく関係のない日だけれど・・・・。

ファルスタッフのように、「おれだってっ若いときゃ・・・」と歌いたくなりますぜ。

ははっ。しっかし、昨日は、13日の金曜日。
ジェイソン君も微笑む日だったのであります。
まぁ、関係ないけど。

2

こちらの二つの写真は、山の斜面にある巨大な「恋文」、いや「ラブレター」。
遠いものだから、アップで撮ってみました。
神奈川県の藤野町の国道20号線(甲州街道)から見えます。
なんでも、造園会社が造ったらしいです。
ばかばかしいけど、いいでしょheart02

ばかばかしさついでに、本日は愛の名曲、チャイコフスキー幻想序曲「ロメオとジュリエットを、アメリカの7大メジャーオケで聴いてしまおう企画なのであります。
Rome_juli_6_2 こんな、おバカな企てをどうかお許しください。
指揮者の重複はあるものの、たまたま、アメリカオケでそろっていたし、シカゴの超優秀・高性能ぶりを真近に見せつけられたばかりなので。

①シカゴ交響楽団             アバド指揮
②クリーヴランド管弦楽団         シャイー指揮
③フィラデルフィア管弦楽団    ムーティ指揮
④ボストン交響楽団          アバド指揮
⑤ニューヨークフィル         バーンスタイン指揮
⑥ロサンゼルスフィル         メータ指揮
⑦サンフランシスコ交響楽団     小沢指揮

なかなかの愛読家だったチャイコフスキーは、シェイクスピアを愛し、その作品にちなんだ音楽をかなり書いているが、この「ロメオとジュリエット」が一番有名で、20分足らずのなかに、原作のストーリーとは必ずしも忠実ではないものの、愛のシーンや、争いのシーンなどをしっかり盛り込み、起伏に富んだ素晴らしい作品にできあがっている
ロメ・ジュリを素材にした音楽作品は、ベルリオーズ、べルリーニ、グノー、プロコフィエフ、ディーリアス、バーンスタインなどなど、多々あるが、一番簡潔で演奏効果もあがる名曲ではないかしら。

7大オケを勝手に順位付けしてみたけど、①以外は順位不明で、もしかしたら、デトロイトやシンシナシティ、ミネソタ、セントルイスなどが来てもおかしくない。
ビッグ7に加えて、これらを入れて「エリート・イレブン」なんてサッカーみたいな呼び方もかつてはあったように記憶します。

シカゴは、ショルティやバレンボイムとも録音があるが、手元にはアバドのCBS盤のみ。克明・緻密なアンサンブルには驚きを禁じえない。でもアバドの歌心溢れる指揮が、固さや冷たさから救っていて、オペラティックな雰囲気さえも漂う。ただ録音に潤いが・・・。
クリーヴランドのスリムでしなやかなアンサンブルが、優秀なデッカ録音のもとでリアルに眼前に迫ってくる。シャイーの一直線な指揮ぶりも好ましく、佐々木小次郎みたい。
フィラデルフィアはやはりうまい。役者が違う。でもオーマンディのような普遍性の美しさがムーティにはなく、力技の巧さが鼻につく。でも、歌に満ち満ちていて、歌とドラマの結びつき方が絶品。EMIでなくフィリップスだったらよかったのに。
ボストン響は、やはりどう聴いてもヨーロッパ・トーンを持っている。
RCAから移籍して、DGに録音し始めた頃だから、よけいにそうした雰囲気があるし、若きアバドの情熱と歌に充ち溢れる指揮にまともに応えてしまった気迫に満ちたライブ感が、どうしようもなく素晴らしい。録音も含めていまでも色あせない、私にとってのアバドとの出会いを記念する超名演なんだ。
ニューヨークフィルは、バーンスタインで。後年のDGの悠揚迫らざる演奏ではなく、若きCBS盤にて。こちらはちょっと勢いで押してしまったような演奏で、ニューヨークフィルも荒っぽい。でも聴いていて手に汗的な面白さがあるのも事実。
ロスフィルは、落ち着いたプレヴィン盤もあるが、こちらも若きメータ盤。
ロスフィル時代の典型ともいえるスピード感とバリバリのかっこよさ。闘争の場のダイナミックな描き方は、これらの演奏のなかでも随一だし、反面、愛の場面のロマンテックなことといったらないっす。
サンフランシスコ時代の小沢の代表盤は、これら個性派からすると大人しい。
思いのほかまっとうで真面目。フレーズもきっちり押さえていて、無用な色付けもなく、あっさりとさわやか。オケのアンサンブルにやや難ありと思われるが、日本人の感性としてはすんなりと受け入れられる愛の音楽で、結構好き。

以上でございます。

Abbado_bso で、私の一番は、アバド&ボストンです。
後年のベルリンとの3度目の録音も含め、一番好きな演奏なのです。

というわけで、私には関係ないけど、ハッピー・バレンタインnote

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2008年11月 3日 (月)

ヴェルディ 歌劇「マクベス」 アバド指揮

Desiny_hotel 本日眠いです。
朝6時前に起床、子供たちだけで冒険的に企画したディズニーランドの行きの運転手役が急遽私に回ってきたものだから。
休日ゆえ道路はスイスイ。7時20分頃、30分足らずで着いてしまう。いやはやこんな早くからTDL周辺はいるもんだねぇ、車も人も。
画像はヨーロッパのお城のようなディズニーランドホテル。
8時に帰宅して、さて何しようと悩む中高年ひとり。

Abbado_macbeth1 う~む・・・、そうだ久しぶりに純正イタリアのヴェルディでも聴こうじゃないか、と取り出したのがアバドの「マクベス」。

ミラノ生まれ、父も兄も係わりのあったヴェルディ音楽院卒業のアバドが、なるべくしてなったミラノ・スカラ座の指揮者。
68年、36歳で音楽監督となり芸術監督も経て86年までスカラ座とともにあったアバド。
リベラルなアバドは、国情ゆえ財政難だったスカラ座の地位をなげうってまで抗議したりもした。
ヴェルディの持つような高貴でかつ愛国的な熱い血のかよったアバドなのである。
 アバドの後を継いだムーティも長年スカラ座に君臨したが、その最後は後味の悪い決裂となってしまった。
ウィーンもそうだが、名門歌劇場というのはなかなか伏魔殿的な要素が多いようだ。
スカラ座を去って以来、アバドは故郷の指揮台に立つことはない。

スカラ座のオーケストラや合唱の素晴らしさはかつてより変わらないが、アバドが就任するまでは、60年代半ばのDGによる「ドン・カルロ」や「リゴレット」「トロヴァトーレ」等以降、正規の録音が久しく途絶えていた。
74年にこのコンビが録音したのが「ヴェルディ・オペラ合唱集」で、高校生の私はロンドンのオケとの雲泥の違いに驚愕し、次いで世界が待ち望んだ全曲録音がこの「マクベス」というわけ。
レコードアカデミー大賞を受賞した名盤中の名盤であります。
連続して翌年発売された「シモンボッカネグラ」の方がさらに完成度が高い弧高の名演。

26作あるヴェルディ(1913~1901)のオペラの中にあって、「マクベス」は10作目、作者33歳の作品。位置付けとしては祖国愛や激しい恋愛ロマンを描いている作品の多い初期から、人間の心理をより深く見つめ出した中期にかけてのオペラ。
後続が「リゴレット」や「トラヴィアータ」だからヴェルディが悩み多き登場人物のドラマにいかに素晴らしい音楽を書き始めた頃かがよくわかる。
シェイクスピアの原作にほぼ忠実。この原作もアバドのレコードを聴いてから読んだが、簡潔ながらシェイクスピアがマクベス夫人に与えた邪悪な野望の持主という性格は恐ろしいものであった。そしてそれに鼓舞されて人生を狂わせてしまうマクベス。
 ヴェルディもシェイクスピアの意そのままに、マクベス夫人を歌う歌手は「完璧に歌うのでなく、粗くて、しゃがれたようなうつろな響き」を持ち「悪魔的な感じ」を求めたという。
そして、マクベス夫妻の歌のスコアには、「ソットヴォーチェ」とか「叫びで」、「暗く、うつろに」「しゃべるように」・・・・、といった指示がたくさん書かれている。
 このオペラの二人の主役がいかに難しく、性格描写が求められるかがわかるというもの。
以前にテレビの劇場中継で、玉三郎のマクベス夫人、平幹次郎のマクベスを観たことがあるが、凄まじいまでの迫力とともに、権力を求める哀れさを感じた覚えがある。

第1幕
 3組の魔女たちが歌うところに、マクベスとバンクォーが登場。
魔女は、マクベスがコーダーの殿となり、やがて王ともなる。バンクォーは王の父となると予言する。そこへ、マクベスがコーダー領主となったとの使者が現れ、二人は驚く。
 マクベスの居城では、夫の手紙を読み野望にメラメラと燃える夫人がいる。
おりから、王ダンカンが今宵やってくるとの報に、帰館した夫に王暗殺をしむける。
ついに刺殺してしまうマクベスは、おお殺っちまったとおののくが、夫人は凶器の短剣を夫から取上げ、王の部屋へ置きにゆく。やがて大騒ぎとなる・・・・。

第2幕
 国王となったマクベス。魔女の言葉を一緒に聞いたバンクォー親子の存在が気になってしょうがない。
ならいっそのこと、と夫婦で次の殺害をたくらみ、刺客を雇ってバンクォーを殺してしまうが息子マクダフは逃げおおせる。
城の広間に客人をもてなすマクベス夫妻。しらじらしげに、バンクォーはいかがした?とか言いながら、バンクォーの席に座ろうかなどと言うと、血にまみれたバンクォーの亡霊が座っているのが見え動揺しまくるマクベス。
夫人はその場をとりなし、夫を励ます。

第3幕
 マクベスは魔女たちに気になる未来を見てもらおうとする。
魔女たちは、幻影を呼び出し、その幻影が語る。「マクダフに用心、女から生まれた者でマクベスに勝つ者はいない、バーナムの森が動かない限り戦いに負けない」と。
有り得ないことばかりに意を強くしたマクベスだが、王たちやバンクォーの亡霊が現れ、バンクォーの子孫たちが生き返ると聞かされ気絶してしまう。
 帰って夫人に報告し、二人でマクダフの城を攻めてしまえと毒づく。

第4幕
 マクベスの暴政に悲しむ人々の合唱。復讐に燃えるマクダフに亡き王の息子マルコムは、バーナムの森の木々を切ってそれを手に持って姿を隠そうと作戦を練り励ます。
城ではマクベス夫人が狂乱の死の境に立っている。
手についた血のしみや匂いに囚われてしまっている・・・・。
 マクベスは今しもイギリスと組んで攻めこようとするマクダフ軍に毒づき、最後の時が近づくのを悟り、自分の墓には悪口しか残されることはないと歌う。
そこへ、バーナムの森動くとの報。くそっとばかりに武器を持って戦場へ出るマクベス。
マクダフと出会い、母の腹をやぶって取り出された生い立ちを聞かされ、マクベスは「地獄の予言を信じたゆえ罰を受ける。卑劣な王冠のために・・」と歌い破れ死ぬ。
 勝利に沸く民衆とマクダフとマルコム。 
幕。

  マクベス:ピエロ・カプッチッリ   マクベス夫人:シャーリー・ヴァーレット
  バンクォー:ニコライ・ギャウロウ マクダフ:プラシド・ドミンゴ
  マルコム:アントニオ・サヴァスターノ 待女:ステファニア・マラグ
  医師  :カルロ・サルド         従者:ジョヴァンニ・フォイアーニ

   クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                    ミラノ・スカラ座合唱団
               合唱指揮:ロマーノ・ガンドルフィ
                         (76.1 ミラノ)

前奏曲からピシっと一本筋が通ったように張りつめたオーケストラの音。
すべてに意味があり、血が通っているように聴こえる。それがあまりにも雄弁であるがゆえに、この演奏を聴くにはかなりの緊張と集中力を要する。
アバドの指揮するヴェルディの素晴らしさは、緻密な表現の中にも持って生まれた歌心と劇場的な開放感もあることで、ドラマテックな場面でのたたみ込むような表現には興奮してしまう。よく優等生などと言われるアバドであるが、これらヴェルディをはじめとするオペラの数々を耳をかっぽじって聴くがよいだろう。

Abbado_macbeth2 名バリトン、カプッチッリのマクベスには邪悪さはあまりないかもしれないが、夫人と運命の綾に翻弄される矛盾した存在を美しく輝く声で表現している。
輝かしいバリトンだからこそ、強烈な性格表現にも嫌味がなく迫真の歌に息を飲む思い。
ギャウロウの深みある声も同様。
ただ、ドミンゴの声は立派すぎるというか、テカテカしすぎかとも思うのは贅沢か?
アバドがマクベス夫人として指名したヴァーレットは、同時期のムーティ盤のコソットの強烈さこそないが、緻密な頭脳的歌唱で、多彩な声の使い分けも見事。
ヴェルディが望んだほどの「悪魔的な感じ」というには遠いが、女性的なマクベス夫人でもあった。
合唱・オケともに超強力。
録音も超優秀。
なんだか誉めすぎのアバドのヴェルディでありました。

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2008年7月18日 (金)

マーラー 交響曲第6番 アバド指揮

1_2 横浜はいわゆる「家系」の濃ゆ~いラーメンが多いけど、それ以外の個性派もたくさんある、ラーメン共和国なのだ。

こちらは、その名も「浜虎」。
野球でいうと、なんとも憎たらしいような複雑な名前だし、ファッションでいえば、いかにも「ハマ」らしくて、洒落た名前。
西口から近いが、周辺は怪しげな店舗もあったりする。
塩鶏そば」、あっさりとしながらも、筋の通ったしっかりしたスープにもちもちの麺が実によかった。
鶏チャーシューも美味。

Imgp3330 当たった、当たった!!
2006年の、アバドルツェルン祝祭管弦楽団の来日公演に先立つ、公開リハーサルの招待状。

忘れもしない、2006年10月のこと。
平日の昼間、仕事をほっぽりだしてサントリーホールへ。
私服のオケが三々五々集まり、カジュアルなアバドが元気に登場。
マーラーの6番のリハーサルが始まった。

2006luzern_2 冒頭、トランペットの名手がこける。
あれ?二度目の繰返しでは、ものの見事に決めて面目躍如。
アバドは指揮しながら、ニコニコと投げキッスを送る。トランペット氏の嬉しそうな顔。
さらいながらも、一挙に全曲演奏。
モーツァルトのアリアも同様。
いずれもリラックスした力の抜けた演奏。

アバドはどこでしょう?
マイヤーもいるし、ヴィオラのクリストも・・・。


2006luzern_1 翌日の本番は、リハーサルとはうって変わった凄まじいまでの演奏。
人間の行為、営みのなせる技の極地に達した演奏。
完璧とか素晴らしい、などという言葉が当てはまらない。
指揮者は、マーラー交響曲第6なのに、時に微笑みさえ浮かべて、音楽をすることが楽しくてしょうがないといわんばかりの指揮ぶり。
対するオーケストラは、スターがびっしりと並んでいるが、奢りも高ぶりもなく、むしろ必死になって体一杯に音楽を表現している。
これを体験して、マーラーの心理がどうのこうの、アルマがどうだ、ウィーンがどうだの、といったことは、まったく関係がなくなってしまった。
あれ以来2年、マーラーの6番の交響曲は聴いていない。
聴けないのだ。ルツェルンのDVDすら観ていない。ハイティンク&シカゴも怖くて聴けない。完全なトラウマ状態なんだ。
生涯最高ともいっていい音楽体験だった。
演奏終了後の長い静寂は、語り草になってゆくことであろう。
オケのメンバーも、涙して抱き合い、感動を分かちあっていた。

画像は、イケナイとわかっていながら、撮ってしまった、ブルックナーの終演後。
この曲のライブは、ほかは若杉&N響。
初聴きは、バーンスタインの旧盤、レコードは、アバド&シカゴが初買い。

こんな訳ですから、マーラー・シリーズ、6番は聴かずして欠番ということで、思い出話でご勘弁ください。女々しいことであります。いつかは、ちゃんと聴かなくては・・・・・。
さいなら。

  アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団演奏会(2006.10)

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2008年7月 9日 (水)

マーラー 交響曲第2番「復活」 アバド指揮

Imanoya

今日のラーメンは、福島県の白河ラーメン
白河市は、東北の玄関口で、城下町として栄え、今でも蔵がいくつもあって風情ある街。
手打ちの縮れ麺に、自家製焦がしチャーシュー、スープはあっさりした醤油が主体。
さっぱり、あっさり、かつ醤油のこくもある味わい深いラーメン。
いまの家」のチャーシュー・ワンタン麺。見た目にも美しい。

Mahler2_abbado_lucerne マーラー交響曲第2番「復活」
1番の完成後、すぐに書きはじめ1894年に完成。
敬愛したビューローの死とも因縁づけられるが、死の気分とクロプシュトックの讃歌「復活」、そして自作の「子供の不思議な角笛」、これらが渾然となって、長大な交響曲を生むこととなった。

どんな演奏でも、最後の壮大なクライマックスには感動の坩堝となってしまう。
例によって、この曲の初聴きは・・・、思い出せない。たぶん、フジテレビの援助カットによる日本フィルの解散白鳥の歌となった、小沢の演奏のテレビ放送か、同時期の朝比奈&大フィルのFMかどちらか?
レコードでは、アバドとシカゴによる新しいマーラー演奏の画期的な1枚が初買い。
演奏会では、ベルティーニと都響のものしか経験なし。
私のマーラー狂いは、80~90年代までで、ライブはワーグナーのオペラに注力していたため、今に至るまで意外なくらいにマーラー生体験が少ないのある。

アバドと「復活」は、切っても切れない関係にあり、65年のセンセーショナルなザルツブルクデビューに始まり、マーラー第1弾のシカゴとの録音、ウィーン国立歌劇場音楽監督時代、ベルリンフィル時代、そしてルツェルン音楽祭での新たなスタート時に、それぞれ取り上げている勝負曲なのだ。

いずれも歌と情熱、知性と感性、それぞれのバランス豊かなしなやかな演奏で、「復活」といえば、アバドの音源として残されている、シカゴ盤・ウィーン盤・ルツェルン盤、それぞれを聴くことが多い。

本日は、2003年のルツェルン音楽祭を飾った演奏の映像を楽しんだ。

病の淵から文字通り復活したアバドが、マーラー・チェンバーオケの若手を主体に、かつて育てたユースオケなどの卒業生や、アバドを慕う各オーケストラの名手達で結成された「ルツェルン祝祭管弦楽団」を指揮した第1弾。
2000年の来日での激痩せぶりからすると、肉付きもよくなり、相変わらず若々しい指揮ぶりが伺える。
そうした相も変わらないアバドの的確な指揮ぶりを眺めつつも、オーケストラメンバーの豪勢な顔ぶれにも目を奪われる。
ブラッヒャーのコンマス、カプソン、ハーゲン、B・クリスト、G・ファウスト、グートマン、ボッシュ、パユ、A・マイヤー、ザビーネ・マイヤー、ドール、フリードリヒ・・・・、枚挙にいとまがない。このメンバー、少しづつ変わりつつあるようだが、室内楽も得意にする名手たちのオーケストラ演奏は、まさに互いを聴きあい、音のブレンドを大事にする姿勢が貫かれている。

   S:エイェリ・クヴァザヴァ    A:アンナ:ラーション
   合唱:オルフェオン・ドノスティアルラ合唱団

Abbado_mahler 演奏は、テンポよく。明るく若々しい!
音の粒立ちの明確さと、その立ち上がりの見事さ。自主性に満ちた完璧なアンサンブル。
楽員は、アバドの弧を描くような指揮に応じて、リアクションも大きく体も大きく揺れる。
時に指揮者ともどもにこやかに、楽しそう。
音楽する喜びが、マーラーの復活という、普通演奏するだけでも大変な曲で、普通ににじみ出ているところが、このコンビのスゴイところ。
終楽章のクライマックスでは、インテンポで意外なくらいに爽快なエンディングを築きあげている。バーンスタインやシノーポリのような、胸かきむしるような壮絶さはなく、復活の讃歌は明るく前向きだった。

アバド&ルツェルンのマーラーは、このあと第5、第6、第7、第3と続き、今年はひとまずお休み。テンポも早まり、密度は逆に濃くなって、アバドの前向きなマーラーは進化するばかり。歳とともに若くなり、推進力の増す稀有の音楽家。

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2008年6月24日 (火)

ドビュッシー 「ペレアスとメリザンド」組曲 アバド

A 霧に煙る東京タワー。
梅雨時の東京タワーは、夜間いつもこんなふうだ。
遅くなると、上部を消してしまうので、「3丁目の夕日」のような未完成東京タワーのように見える。

土曜には、完全消灯が実施された。
墨田の新タワー(名前は??)の兄貴分として、東京のシンボルとして、頑張って(何をどうやって?)欲しいもんだ。

Abbado_debussy_pelleas_suite

6月26日は、私の私淑するクラウディオ・アバドの誕生日。1933年生まれ、75歳を刻む今年。
何度も書いてきたことだけれど、72年、アバド30台の頃からずっと聴き続けてきて、もう36年あまり。
私が中高生、大学、社会人と歩み続けるとともに、アバドを常に聴いてきた。
そのアバドも、ウィーン、ロンドン、ミラノ、シカゴ、そしてベルリンと着実にステップアップしていった。
私のようなデコボコ人生に比べて、なんと順風万般な王道を行くエリートの歩み。
 でもアバドの人間性の素晴らしいところは、常に奢らず、謙虚で、ポストや名誉に拘らず、時にあっさりと投げ出してしまうところ。
そう、でしゃばらず、周りから推され自然に高みにいざなわれたとでも言おうか・・・。
そしてそれに、ちゃんと応える素晴らしい実績を残しているところが、天性の才能。

そのアバドが、ベルリン時代に癌に冒され再起も危ぶまれたとき、私らファンの心境たるやいかばかりのものだったろう!心無い人は、不謹慎なことを言うし。
病み上がりの体で、まるで執念のように集中力溢れた「トリスタンを、2000年には東京で演奏してくれた。
この時ほど、ひとりの人間の音楽にかける意気込みの凄まじさを感じ取ったことはない。
ピットを見ていて、もうお願いだから、そんなに頑張らないで・・・という気分にもなった。
 その後、ベルリンでのアバドは異常なまでの充実ぶりで、オケも必死になってアバドのために演奏しているのがヒシヒシと感じたものだ。
そして、ベルリンから、夢の実現のためにルツェルンへ。
そんな頑張るアバドに押されるように、会社をスピンアウトして飛び出してしまった私。
生きるか死ぬかの思いに、いつもアバドの音楽は私を励ましてくれるようだった。
2006年、アバドはアバドを慕う音楽家たちとともに来日した。
このルツェルンとのマーラーブルックナーは、生涯忘れ得ぬほどの感動をもたらしてくれ、我が人生にもなにかしらの転機をももたらしたかもしれない。
そして、さらにアバドは進化を続けているようだ。
私も負けていられないよ。

アバドの愛する作品のひとつに、ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」がある。
Abbado_pelleas スカラ座やウィーンで何回も上演し、ウィーンフィルとも素晴らしい録音を残してくれた。
より精妙なベルリンフィルとも上演して欲しかったが、ラインスドルフが編曲した、オーケストラ版組曲を98年に録音している。
約30分ほどの4部からなるこの組曲は、原作と同じく、強い音・フォルテの部分がほとんどなく、静的で精緻な音楽となっている。
それぞれ、5幕ある原作から前奏や間奏をうまくつなぎ合わせ、オペラのエッセンスが込められた桂作。
 病魔に冒されていたかもしれないアバド。そんなことは思いもよらないくらいの集中力と、歌心をもって、ドビュッシーのニュアンス豊かな音楽を極めて感度豊かに表現してゆく。
全曲を聴く時間のないときなどに、このCDは、その褐を満たしてくれる。
ベルリンフィルの豊麗なサウンドは、いつになく押さえられ、かなり渋いが響きは明晰。
そしてその響きに、トリスタンやパルシファル、ウェーベルンを聴くことができる。
 欲をいえば、言葉(歌)が欲しい。この作品に、フランス語のディクションは不可欠だから。あと蛇足ながら、あたしには、ぶどう酒だよ。

少し早いけれど、26&27日は二期会「アリアドネ」、28日は新国「ペレアス」があるので、アバドの誕生日を記念する記事をUPしました。
28日の若杉さんの「ペレアスとメリザンド」、とても楽しみ。
来年は「ヴォッェック」を上演するというから、若杉さんもワーグナー以降の音楽シーンを、アバドと同じような思いで見ているのだろう。

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2008年6月22日 (日)

ロッシーニ 「ラ・チェネレントラ」 アバド指揮

1 先週後半は、仙台~八戸~青森に出張。八戸から帰ることも出来たけれど、長時間の新幹線はツライ。
三沢空港は、いつも満席。
どうせ車だから、青森まで走らせ、青森空港を利用することに。
最終便までの間に、市内で寿司を食べても充分に間に合う。
詳細は、近日別館にてご案内。

もう、美味すぎ!
貴重品となりつつある「いか」。
コリコリで、甘い。菊を添えて食べればさらに甘い!

青森では、例の秋葉原のことが日々の話題だ。お客さんのなかに、妹が同級だったとか、親父は○○銀行だとか・・・・。どこへ行っても、人の口は減らないもんだなぁ。

Abbado_cenerentora ロッシーニ(1792~1868)は、39ものオペラを書いたが、そのすべてはその生涯76歳の半ばである37歳までに書いてしまった。
その後の悠々自適ぶりは、皆さんご承知のとおり。
美食と料理の研究にあかした後半生、羨ましいやらもったいないやら・・・・・。

普段は、ロッシーニはあまり聴かない私。
唯一、アバド好きとして、アバドのものだけを聴く。
アバドはオペラ指揮者としては、ロッシーニやドニゼッティ、ベルリーニからそのキャリアをスタートさせている。
特にロッシーニは、何を振っても評価されない日本の評論家たちには、ストラヴィンスキーとともに絶賛された。
アルベルト・ゼッダの校訂を経た版を採用したその演奏は、当時とても新鮮で、この「チェネレントラ」と「セヴィリアの理髪師」は、既存盤を過去のものとしてしまう存在となった。

今でこそ当たり前となってしまったが、当時は打楽器が派手に鳴り、オーケストラも無用に厚く、厚化粧を施されたロッシーニ・・・・、ように思われた。
アバドを聴いてから、遡って過去演を聴いたから、順序は逆だけれど、アバドの演奏は、その厚化粧を取り去り、まるで風呂上りのようなサッパリとした風情が漂っている。
でもスッピンの味気なさではなくて、音楽の持つ色気や風情がニュートラルに表わされていて、新鮮かつ活き活きとしている。いやピチピチとしていると言えようか。
明晰で、どこまでも清潔。まさに水を得た魚のようなアバドに、誰一人不平を唱えられない。当時、ざまみろ!という心境だった。へへっ。

シャルル・ペローの有名なる原作「シンデレラ姫(灰かぶり姫)」。

第1幕
 時は18世紀イタリアの某所。
落ちぶれ貴族、ドン・マニーフィコの娘二人がはしゃぐなか、アンジェリーナ(チェネレントラ)は古い悲しい歌を歌っている。彼女は、ドン・マニーフィコの後妻の娘で、今はいびられ、小間使いのようにされている。しかも母の持参金も親父とその娘たちに使い果たされてしまった・・・・・。
 そこへ、王子の顧問アリドーロが、乞食に扮してやってくる。姉たちは、追い返すが、チェネレントラは優しく食べ物などを与える。
王子が従者に変装して現れ、チェネエントラと一目、恋に落ちる。
かたや、王子に変装した従者ダンディーニは、ドン・マニーフィコや二人の娘たちにちやほやされる。チェネレントラは、先の従者会いたさに、城の舞踏会に行かせて欲しいとせがむが、ドン・マニーフィコに聞き入れられない。偽王子の、3人いるはずの娘さんは?との問いにも、死にましたとダン・マニーフィコ。
偽王子の気を引こうと躍起の二人の娘、そこへ先の乞食に扮したアリドーロの手助けで、宮殿に着飾って登場したチェネレントラ。

第2幕
 偽王子のダンディーニは、チェネレントラに結婚を申し込むが、彼女は従者を愛していると素直に断る。そこへ、本物の王子が進み出て、結婚を申し込むが、チェネレントラは腕輪のひとつを渡してその場を走り去る。
ドン・マニーフィコは、偽王子に従者の身分を明かされ唖然と・・・。
 何事もおきず、元通りになってしまい嘆くチェネレントラ。二人の姉がまたあたる。
この時期のオペラにつきものの、嵐のシーン。
雨を避けて、王子とダンディーニが立ち寄る。チェネレントラの腕輪を認め、よく見ようとする王子だが、あっちへ行ってろと意地悪親父。
さすがに王子は怒り一喝。それでも、親姉をとりなす優しいチェンレントラ。
 宮殿では、許されたドン・マニーフィコと姉たちを、抱擁してチェネレントラは歓びとともに、素晴らしいアリアを歌って幕。

  チェネレントラ:テレサ・ベルガンサ  王子ドン・ラミロ:ルイジ・アルヴァ
  ダンディーニ:レナート・カペッキ  ドン・マニーフィコ:パオロ・モンタルソロ
  クロリンダ :マルゲリータ・グリエルミ ティスベ :ラウラ・ザンニーニ
  アリドーロ :ウーゴ・トラーマ

      クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団
                      スコテッシュオペラ合唱団
                     チェンバロ:テオドル・グシュルバウアー
                          (71.9エディンバラ)

Abbado_cenerentora_2 先に書いたとおりのアバドのスマートな指揮に、ニュートラルなロンドン響が実にいい。
後年のウィーンフィルでは、オケがはみ出してしまうこともあって、それもいいが、ロンドン響は、まさにアバドの手足となって、この粋な演奏の一躍を担っている。
両者のつくり出すロッシーニ・クレッシェンドは、極めて幅が広く唖然とするほど見事にきまる。
歌手は、今でこそ、バルトリという超絶歌手が出てしまったが、当時はベルガンサが随一の存在。ちょっと大人びた風情と少しの色気が、とてもいい。装飾歌唱の自然さとその技巧も素晴らしい。のちに、カルメンを歌うようになることが信じられない。
 ほかのベテラン歌手たちの芸達者ぶりも見事だが、ちょっと古臭く感じることも・・・・。
姉役のグリエルミは、クライバーのボエームのムゼッタだったな・・・。

右の画像は、72年の発売時の広告。
レコード産業は、ピークを数年後に迎えつつあった。


 

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2008年6月21日 (土)

ベルリオーズ 「テ・デウム」 アバド指揮

Nagoya_tvtower 名古屋のテレビ塔。
栄近辺は名古屋らしい商業の街。
でも名駅周辺の相次ぐビルや商業施設の開発で、ビジネスや買物がそちらに流れ、少し変化したかも。

それでも、お得意の夜の繁華街「錦3」は、他の都市のそれに比べたら賑やかなものだ。

かつてのデザイン博で、おしゃれになった名古屋の街。
テレビ塔を背景にシュールな雰囲気。

Abbado_berlioz_te_deum 廃盤となって久しい、アバドの指揮するベルリオーの「テ・デウム」。
アバドのベルリオーズといえば、「幻想交響曲」ばかりが有名だけれど、録音はこちらの方が早く、レパートリーとして取り入れたのも、この曲の方が早かったのではないかしら。

ベルリオーズ(1803~1869)は、破天荒の人生や「幻想」の大音響のイメージがどうしても強い。
膨大なオーケストラ編成に、大合唱を伴なった作品が多いこともそうした印象が先行することにもなる。
オペラを含め、そのすべてをまだ聴き尽くしてはないが、このところ聴いていて思うのは、ベルリオーズの抒情性なのだ。
メンデルスゾーンやシューマンと同時期に活躍したベルリオーズの天才性は明らかだが、その輝かしい響きは、静かな部分があってこそ生きる。

テンパニ奏者10人、シンバル10等の膨大な打楽器とブラスを要する「レクイエム」も、表面上は賑々しいが、実は祈りに満ちたとても静かな音楽でもあると思う。
同様に、それほどの編成は要さないものの、オルガンと大合唱団を伴なう「テ・デウム」は、初演時950人もの大編成だったらしい。
あと50人で、マーラーじゃないか。
Abbado_berlioz_te_deum2  「テ・デウム」は、信仰の勝利と賛歌を扱った聖歌で、教会で演奏されることを念頭におきながら、天上の効果が聴く側に現れるような配置までも指示されている。
第2曲「すべての御使いも」では、クライマックスで3度鳴らされるシンバルが、極めて輝かしい効果をあげているし、第6曲「裁き主よして来たると」では、全曲の最後を飾るに相応しい壮麗なフーガが展開される。
 一方で、ブラームスのような渋い第3曲「主よ、我らを守りたまえ」や、テノール独唱の入る美しい第5曲「願わくは、尊き御血をもちて」などは、オペラアリアのように聴き応え充分。

   テノール:フランシスコ・アライサ オルガン:マルティン・ハーゼルベック
   合唱指揮:リチャード・ヒコックス

     クラウディオ・アバド指揮  ECユースオーケストラ
                     ロンドン交響合唱団、ロンドンフィル合唱団
                     少年合唱団多数
                       (81年聖オールバンス大聖堂)

アバド指揮する、若いオーケストラの面々の紡ぎ出すフレッシュで清冽な音は、ベルリオーズにとても相応しく、教会の豊かな響きを捉えた録音も素晴らしい。
いかにもアバドらしく、演奏効果に背を向けたような誠実で内面的な演奏。
アライサの声もいい。

Abbado_berlioz_te_deum アバドにはもうひとつ、10年後、92年の映像がある。
こちらは、復帰後のカレーラスを迎え、ウィーンフィルを指揮したもの。
壮麗さも押さえ、かなり大人の演奏で、キュッヘル、ヒンクら、懐かしい面々が勢ぞろい。旋律の細やかな歌わせ方などは、こちらの方が上だ。
シンバル奏者が5人もいてこれも見もの。

そして、アバドはこの5月のベルリンフィル定期に登場して、この曲を取り上げている。
フィルハーモニーザールの出火で、ヴァルトヴューネでの野外コンサートとなったらしいが、きっと映像や音源で確認できることであろう。
今のアバドであれば、きっと神々しい演奏になったはず。

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2008年6月 8日 (日)

シューマン 「ファウストからの情景」 アバド指揮

Cofee_chu コーヒーの焼酎。
サミットの洞爺湖畔にある洋食屋さん「望羊蹄」のブレンド珈琲豆を使用した凝ったお酒。
昨年、仕事で洞爺湖畔に泊まったおり、近くの酒屋で購入。
 そしたら、なによ、イオンにも売ってるじゃない・・・・。

お味は、まさにコーヒーで、なかなかクセになるおいしさ。
多量に飲むと眠れなくなりそうだから、夜静かに音楽なんぞ聴きながらチビチビ飲むのがいい。

昨日の神奈川フィル演奏会で聴いたシューマン。その時にわかったこと、今日6月8日は、シューマンの誕生日だということ。
そこで、シューマンの畢生の大作、オラトリオ「ファウストからの情景」を聴くこととしよう。

Abbado_schumann_faust ゲーテの「ファウスト」を題材にした音楽は非常に多い。人間の野望と贖罪、弱者の救済、といった不変のテーマに幾多の作曲家の筆をとらせることとなった。
ベルリオーズ、グノー、シューマン、リスト、ワーグナー、ボイート、ブゾーニ、マーラーなど。

これらの中にあって、シューマンの作品は、オラトリオという形式もって、一際、地味な存在。
1844年から53年の9年間もかけて悩みつつ作曲した大作は、序曲と全3部からなる2時間あまりの曲。

第1部~グレートヒェンとファウストの恋愛と母を殺し、不実の子を宿し、神に祈りながら亡くなるグレートヒェンを描かれる。
第2部~悔悟に暮れるファウスト、メフィストフェレスとの縁を切ろうと決心する。
そこへ、灰色や憂愁の女たちが現れファウストに取り付く。ファウストは視力を失いつつも
自由の国の建設のために、メフィストフェレス挑み、死を決して亡くなる。
第3部~「ファウストの変容」と題された場面。ファウスト、グレートヒェン、エジプトのマリア、そしてマグダラのマリアらは、聖母マリアを称え救済され天上に上る。

作曲は、第3部から遡るようにしてなされ、途中、机の引き出しにしまいこんでしまうほどに、悩んだらしい。こうして聴くと、第3部が一番聴きやすくシューマンらしい歌謡性に溢れていて、前半のものほど、とっつきが悪く感じる。
そうした場面が、この作品を地味な存在に見せかけているのかもしれない。
私は、アバドのCDで初めてこの作品に触れ、何回か聴くうちに、この作品の味わい深さが、まるで「するめ」を噛むかのような思いで楽しめるようになった。
 ブリテンやクレーのレコードは存在したが、ベルリンフィルの音楽監督がその定期で、こうした地味な作品を何度も取り上げるなんて、アバドならではのこと。
アバドは、気に入った作品があると、執念のようにそれを折りあるごとに取り上げ、完璧きわまりない演奏で、それを古今東西の名曲に仕立て上げてしまう。
「シモン・ボッカネグラ」「ヴォッェック」「ボリス・ゴドゥノフ」「ランスへの旅」などの渋い劇作品。マーラーのいくつかの交響曲と「リュッケルト歌曲」、ブラームスの「運命の歌」などもそう。
この「ファウスト」もそれらの中に入る作品。

他の作曲家たちが残したように、このシューマン作品でも、グレートヒェンに切実で素晴らしい歌がある。また、シューマンらしいファンタジー溢れる自然描写もありオーケストラの美しさに合唱が見事に応える。
そして、充実の第3部は、素材も同じくして、「マーラーの千人の交響曲」の第2部を先取りしたような音楽だ!
あまりに美しいマリアを崇拝する博士の賛歌。天上の音楽を描くかのようなハープの音色に乗って歌うバリトンの歌。ここで感動のあまり涙ぐんでしまうことになる。
そして、最後には「神秘の合唱」が感動的に歌われ、静かに曲を閉じる。
 さらなる曲の精度や、歌謡性を求めたくなる場面もあるけれど、これがシューマンと思って聴けば過不足なく感じ取れる。

   ファウスト、マリア崇拝の博士:ブリン・ターフェル
   グレートヒェン:カリータ・マッティラ 
   メフィストフェーレ:ヤン=ヘンドリック・ローテリング
   バーバラ・ボニー、エンドリク・ヴォトリヒ、スーザン・グレアム
   ハンス=ペーター・ブロホヴィッツ、イーリス・ヴェルミヨン

    クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                    スウェ-デン放送合唱団
                    エリック・エリクソン室内合唱団
                          (94.6月ベルリン)

Abbado_bpo 録音当時、すでに病魔が迫っていたかもしれないアバド。
際立った集中力と、歌に対する細心の心配りを持った指揮。
シューマンの文学へのこだわりから生まれたこの作品。その描こうとした人間の弱さや、救済感をアバドは優しい眼差しをももって描ききっていると思う。
 素晴らしいメンバーの歌手たちもいい。
ターフェルは神妙で、普段のアクの強さが少なめなのがいい。

シューマンの誕生日に聴いた大作。
シューマンの多様性と、言葉=歌へのこだわりがよく感じられた。

おっと、明日は今度は、息子の誕生日だ。

 

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2008年6月 1日 (日)

ヴェルディ 「仮面舞踏会」 アバド指揮

Tadachi 今日は素晴らしい天気。
外で子供とちょっと運動したたでけで、汗だくになってしまった。

こんな日は、こんな緑と清流のかたわらで、ビールをシュパっと開けて、「そうめん」などをするっと食べると最高だな。

最近知合った仕事仲間で、海外にもよく行く方がいて、外国から来たお客さんをもてなすのに、自宅で「そうめん」を食べさせるそうな。
白くて細く長い麺に、皆、目をしろくろさせているが、「これは、日本の宮廷のやんごとなき食べ物であ~る」と宣言するそうな。
すると、外人たちは箸を使いながら神妙に、音を立てずに、そろりそろりとお食べになるそうな。実際に、宮廷食だったこともあるそうだが、まあ意地悪なこと。

Verdi_un_ballo_in_maschera_abbado

今日は、久しぶりにヴェルディのオペラを。
仮面舞踏会」は、ヴェルディ中期43歳の作品。
26作あるヴェルディのオペラ、初期のものは「マクベス」を除いてちょっと苦手だが、でもその溢れ出すメロディの宝庫には、魅力を禁じえない。

前作の「シモンボッカネグラ」あたりから、祖国愛ばかりでなく、登場人物の苦悩や葛藤といった心理的な描き方が深みを持ち始めた。
オーケストラも、大きな音を響かせる一方で、輝かしさと、内省的な渋さが目立ってくる。

「運命の力」「ドン・カルロ」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」と、後期の充実作品へと、さらにヴェルディの筆は磨きがかかることとなる。

有名な作品だから、超概略。舞台はボストン。本来のスクリーブの台本は、スウェーデンのギュスタフ三世を扱っていて、実際にあった話。
ナポリで初演をしようとした際に、イタリア人によるナポレオン三世暗殺未遂事件があり、その情勢から、舞台と人物を移し変えて上演せざるをえなかったらしい。

 第1幕
ボストンの知事リッカルドは、秘書レナートの妻アメーリアに想いを寄せている。
その知事を暗殺せんとする、サムエルとトムの2人組み。そのふたりを見張るレナート。
給仕のオスカルが、占い女のウルリカの助命を求めてくるので、リッカルドはウルリカに会いにゆく。リッカルドを占ったウルリカは、最初に握手をした友人に殺される運命にあると言う。そこへ、レナートが現れ、知事の安全を知り握手する・・・・。

 第2幕
ボストンの郊外の野辺。アメーリアは、恋を忘れる薬草を探している。そこへ、リッカルドが現れ、陶酔的な素晴らしい二重唱となる。
そこへ、危険を知らせにレナート登場。アメーリアをレナートに託し、リッカルド去る。
そこへ、サムエル&トム登場。自分の妻とも知らずに・・・とからかう二人。
ヴェールを脱がすと、何と妻。レナートは、リッカルドの暗殺計画に加担することに。

 第3幕
レナートの部屋。アメーリアは死を決意し、レナートは素晴らしいアリアで応酬。
2人組との打ち合わせで、レナートは自らが刺すことを決定。
一方、知事室では思い悩んだリッカルドが、レナート夫妻を本国に帰すことで、この問題解決をはかることを決意。オスカルが、仮面舞踏会は危険との手紙を持ち込む。
 さて舞踏会場では、仮面のためレナートはリッカルドを見つけられない。
オスカルに重要な用件として、姿を聞き出したレナート。
おりから、危険を知らせるアメーリアに会ったリッカルドをレナートは剣で刺してしまう。
絶え絶えのリッカルドは、二人を移動させようとしていたこと、アメーリカは無実であることを語り息絶える。

  リッカルド:プラシド・ドミンゴ   アメーリア:カーティア・リッチャレッリ
  レナート :テナート・ブルソン  オスカル :エディタ・グルベローヴァ
  ウルリカ :エレナ・オブラスツォワ サムエル:ルッジェーロ・ライモンディ
  トム   :ジョヴァンニ・フォイアーニ

     クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                       ミラノ・スカラ座合唱団 
                                    (79・80年ミラノ)

Abbado_2  アバドスカラ座時代に残したヴェルディ録音は、「マクベス」「シモン」「仮面」「アイーダ」「ドンカルロ」の4作のみで、その数の少なさは残念極まりない。でも、レパートリーの選択に慎重だったアバドは、ヴェルディで取り上げたのは、あとは「ナブッコ」くらい。
「オテロ」と「ファルスタッフ」は、ベルリン時代だったから、機が熟すのを待っていたのか。
ついでに、スカラ座時代のレパートリーは、「フィガロ」、「セビリア」、「チェネレントラ」、「ルチア」、「カプレーキとモンテッキ」、ヴェルディ諸作、「ローエングリン」、「ボリス」、「ホヴァンシチナ」、「カルメン」、「ヴォツェック」、「3つのオレンジ」など。
いかにもアバドらしい演目ばかり、こんな内容でイタリアの殿堂スカラ座を束ねていたのだから、その手腕と地元出身者の強みを感じざるを得ない。

歌に偏重すると、ヴェルディが取り組みだした大胆な和声や響きがおろそかになる、そんな難しい「仮面舞踏会」だが、アバドはそんな難題に見事に応えているように思う。
アバドの得意な歌うピアニシモ、その反面のダイナミクスの幅の大きさ。たたみかけるような迫力や抜群なテンポ感も充分。
2幕のワーグナーをも思わせるようなロマンテックな響き。
幕切れもペシミステックになりすぎず、冷静な節度を保っているのがいい。
そんな熱くならないヴェルディが面白くなければ、アバドよりはムーティを聴けばいい。

このオペラの主役は、真面目なテノールがいい。かつてはベルゴンツィ、そしてここで歌うミンゴが理想的。この頃は、イキがよく、何を歌ってもそれは見事なものだった。
その相手役リッチャレッリも、若く美しく、苦悩する役を真摯に歌っている。
もともとドラマテックな声でない彼女、無理せずに身の丈にあった歌いぶりだが、2幕のアリアなどでは、さらに強い声を求めたくなるのも事実。
ブルソンは当時もうベテランだったが、この録音が本格的なメジャーデビューではなかったかと記憶する。後年の彫りの深い声とは違って、美声だけが目立つ気もしなくはない。
カプッチルリだったらば・・・・・。
オブラスツォワは、あきらかに異質。でも、グルベローヴァライモンディが贅沢にも脇をしめていて、彼らがちょこっと歌うと場が引き立つ思いだ。

スター歌手を揃えながら、それぞれの出来栄えが微妙にしっくり来ない。

アバドは後年、ウィーンのニューイヤーコンサートで、J・シュトラウスの作になる「仮面舞踏会」のカドリーユを、むちゃくちゃ楽しそうに、そして唖然とするほど見事に指揮していた。
いずれも、アバドの一時代の記録であろう。

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2008年5月 7日 (水)

ヴェルディ 「運命の力」序曲

2 3 まだ続くで、名古屋東海の味シリーズ。
今日は「きしめん」だがね。
この、ひらひらの麺の由来は諸説あるらしいが、尾張伝統の平打ち麺は歴史も古く、いかにもお得感(名古屋では、お値打ち)漂う食べ物である。
アツアツに、かつを節をたっぷりかけて、そのかつを節が踊るなか、一気にズルジュルっと食べちゃう。アツアツも冷たいのも、どちらもたまらなくうまい!
この店は、尾張旭市でふらっと入った店だけれど、定食を頼んだら、付け合わせに、スパゲッティサラダかと思ったら、これまで「きしめん」だった。その徹底した潔さに感服だわ。
名古屋の麺は、蕎麦ではなく、うどん文化。ほかに、煮込み、ころ、伊勢と、いろいろあるでね。

Abbado_verdi_rca ヴェルディのオペラは、愛国心に燃えたものや、純文学を素材にしたものなど、バラエティに溢れているが、まさに天性の劇場の人ならではで、観る人・聴く人の心をとらえて離さないものがある。

ヴェルディはオペラ全体を視聴するのが一番ながら、その序曲や前奏曲だけをオーケストラで楽しむだけでも、なかなかに気分が盛り上がるもんだ。
後期作品は、ドラマの緊迫感をより高めるために短い前奏曲や、前奏のみであるが、中期作品は、オペラ全体の主題を駆使したなかなかに聴き応えある序曲が付属している。
そのもっともたる作品が、「運命の力」や「シチリア島の晩鐘」、「ナブッコ」などであろう。
なかでも「運命の力」は、オーケストラ・ピースとして、単独に聴いてもなかなかに優れた作品に思う。コンサートのアンコールなどでも、盛り上がるので、よく取り上げられる。
そのアンコールで、忘れ得ないのは、75年のムーティの初来日時のウィーン・フィルを振った演奏。ベームとともにやってきたムーティ。ベームのチケットが、抽選で応募したけれど全滅で、ムーティのみが簡単に当たった。
ブラームスの二重協奏曲と新世界というプロで、若獅子ムーティは大人しかったが、アンコールにそのナポリ魂を全開させた!すさまじいまでの迫力と猛烈な歌は、その後の原典尊重主義で厳格になりすぎたムーティには聴けなくなった若々しい叫びであった・・・。

8分あまりのドラマテックなこの序曲で、私の好きな演奏は、このアバドロンドン響のもの。数年後のベルリン・フィルとの輝かしい演奏も同様に素晴らしいが、スカラ座で日々ヴェルディを演奏していた頃の旧盤の方が、歌心が豊かに感じる。
意のままになるロンドン響との組合わせということもある。
じわじわと盛り上がってゆくクレッシェンド、歌いまくる木管群、気品を失わない金管群。
ヴェルディには、熱狂や歌とともに、気品も必須だ。
短い序曲に泣けます。

カラヤンもいいが、燦然としすぎだし、シノーポリはちょっと暴れすぎ、ムーティは録音ではいまひとつ、あとは以外にシャイー(ナショナルフィル)が好きであります。
皆さんのお薦めは?

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2008年4月24日 (木)

モーツァルト 交響曲第40番 アバド指揮

Hills 以前も貼った六本木ヒルズの花々。
豪華でちょいと賑やかにすぎるが、花は心休まる。
人工的に改良されたものもあろうが、自然の偉大さは、こんな美しい生き物をも生み出したこと。

 各地で、その心無い行いが報道されているが、人の心は乾き、殺伐としてしまったのだろうか?
ニュースを見れば連日、暗く嫌なことばかり。
ニュースの世界と思っていたことが、身の周りでも起きてしまう。
あぁ、息が詰まりそう・・・・・。

そんな日々にあって、自宅に帰り音楽を聴くことが何よりの癒し。
相変わらず、へなちょこベイスターズは負けちゃうし、そんな悲しい(?)気分を慰めてくれるモーツァルトが聴きたくなった。

Abbdo40 久しぶりに、アバドロンドン響を指揮した名盤、後期の2曲を収めたものから、40番ト短調交響を聴く。
1980年の録音で、もう28年も前になってしまった。
この頃のアバドは、スカラ座の音楽監督(翌年来日)、ロンドン響の主席、ウィーンフィルのパーマネントコンダクター、シカゴ響の主席客演、と引っ張りだこの大活躍だった。
アバドのレコードは、すべて購入していたから、即買ったLPだが、当時は何でロンドン響?
ウィーンフィルとなんで録音しないの?・・・・との思いで手にしたものだった。
しかし、ターンテーブルに乗せて、鳴り出した40番の冒頭を聴いたときに、ウィーンじゃなくてロンドンだった理由がとてもよくわかった。

極めて、楽譜重視。それを真っ直ぐ見つめて、余計な観念や思いを一切はさまずに素直に音にしたような演奏だったのだ。
甘い歌いまわしや、悲しさの強調、熱さなどとはまったく無縁。
古楽器やピリオド奏法が定着した今聴いても、その印象は変わらない。
こんなに素直な演奏をすっきりしなやかにやられたら、聴く我々の心も緩やかな気持ちにならざるを得ない。
深刻な短調のモーツァルトを、胸かき乱して聴く方からすれば、この冷静な演奏には歯がゆい思いをするであろう。
実際アバドとロンドン響は、あっけないくらいに客観的な場所にたって演奏しているかのように聴こえる。
この客観性が生む知的でバランスの取れた彫像のような佇まいが、おのずと語るドラマ。
良い音楽は、ナチュラルに演奏すれば、自らが輝く。
これこそがアバドの音楽性で、マーラーやワーグナー、ヴェルディ、新ウィーン楽派の音楽と共通したアプローチであると思う。

ちょっと評論家じみてしまったけれど、アバドを聴き続けて36年。
若い頃も、最近のルツェルンの演奏も、基本的にアプローチは変わらないのではないかと思う。さらに最近では、そうしたアバドに共感と奉仕に満ちた感情を抱く音楽家たちが、また異なる次元の高みへと、アバドの音楽を運んでいってくれるようになった。

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2008年2月 4日 (月)

プロコフィエフ 「アレクサンドル・ネフスキー」 アバド指揮

Nosyapu 昨日は、関東でも終日雪で、私の住む千葉でも10cmは積もったろうか。
子供は、朝からテンションが上がりっぱなし。
雪に慣れた地域の方からすれば、なんのことはないと思われるだろうが、ちょっとの雪で道路や鉄道は止まってしまうし、ケガ人も続出。

この画像は、数年前の1月に訪れた根室の「納沙布岬」。
日本最東端の地からは、北方領土も真近に見えるはずだったが、ご覧の吹雪状態。
これ、ワタシです。ゆえあって、アライグマの恰好をしております。
道内の方と一緒だったが、その方もせっかく来たのだから行きましょうと、吹き荒れる岬に向かった。途中、車が雪にハマってしまい、地元の方に助けられたりもした。
Imgp0370 Imgp0377その方からは、「バカなことすんでねぇ」なんて怒られたけれど、我々は決行してしまった。
灯台に近づくほど、雪はない、というか強風で雪が飛ばされてしまっているのだ。
風と氷の世界に、身も凍る思いだった!

Prokofiev_alexander 氷の世界、といえば、この音楽も。
プロコフィエフ(1891~1953)の「アレクサンドル・ネフスキー」。
この中に、「氷の上での戦い」が描かれている。
この音楽のクライマックスでもあるが、氷のツルツルとした雰囲気も音楽でかもし出されているし、戦いの凄まじさもクレッシェンドしてゆき、やがて大音響となる様子で描きだされている。

映画への付随音楽、いわゆるサウンド・トラック音楽に熱をいれていたプロコフィエフが、「戦艦ポチョムキン」で有名なエイゼンシュタインの依頼で、この「アレクサンドル・ネフスキー」の映画に音楽を付けることとなった。1938年のこと。
プロコフィエフは、この音楽から7編を抜き出し、カンタータ形式の声楽作品にしたてあげたのが、この曲。

13世紀、ゲルマン騎士団の侵攻をくい止め、撃破したアレクサンドル・ネフスキーを描いた映画を一度、この音楽とともに観てみたいものだ。
プロコフィエフの音楽は、ドラマテックであるとともに、国を蹂躙されて苦しむロシアの民を深刻に描いたり、戦士を悼んだ独唱が入ったり、最後は賛歌ありと、なかなかヴァラエティー豊かで楽しめる。

ロシア音楽を好むアバドは、とりわけムソルグスキーとプロコフィエフが得意だ。
ムーティやシャイーもプロコ好きだから、イタリア人はプロコがお好きなのか。
リズムとモダニズム感が、共感を呼ぶのであろうか。
アバドは、圧力に苦しむ民衆の声を描いた部分と、その解放の喜びに大きな共感をよせて指揮しているようだ。
強弱の幅が、めちゃくちゃ広くて、どんな大きな音でも、細部がよく聴こえる。
オブラスツォワの歌う哀歌、彼女の歌も素晴らしいけれど、オケの美しさも特質すべき。
アバドとロンドン響の名盤のひとつは、録音も目覚しくよい。

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2008年1月17日 (木)

ストラヴィンスキー 「火の鳥」 アバド指揮

Nara 今日も寒かった。
昨日から仙台・郡山に出張。雪も散らついたけれど、何のことはない、地元千葉も少し積もったらしい。

帰宅するや、めずらしくテレビを見つづけてしまった。
まずは、「秘密のケンミンSHOW」、各都道府県出身者が登場し、各県のおもしろ・おかしい風物や風習を紹介する番組。
こりゃ、楽しいし、自県になると意地もでちゃう。
なんといっても面白いのが大阪と愛知。大阪は街角の人々はみな芸人やし、つっこみ上手。オバはんの豹柄服は以前から私も注目しておったけど、この番組で指摘しおったし、今日のネタ、「同じことを二度言う、大阪サービス精神」にも納得やで。
愛知は、コーヒーに「あんこ」いれちゃうアン文化が、これまた納得だでね。

そのあと、テレビは「鹿男あをによし」を見た。
これがまたすこぶる面白い。テレビドラマもたわいない恋愛ものや、死の横行するサスペンスなどから、どんどん進化しつつあるように思う。
最近、玉木宏や佐々木蔵之助らのテレビ露出が多すぎるという難点はあるが、これからが楽しみ。
画像は、少し以前だけれど、東大寺の鹿さん。
今日のドラマはまさにこんなショットがあってびっくり。この鹿さんは、何枚か撮ったけれど、ここに一人(匹)ずっと佇んでいた。

Abbado_fire_bird 今日はテレビ鑑賞をしてしまったので、大慌てで短めの曲を。
ストラヴィンスキーの「火の鳥」。
全曲もいいが、20分足らずの組曲で充分満足できる。
ストラヴィンスキー(1882~1971)が28歳の1910年に初演されたバレエ音楽。
当時は「春の祭典」ほどじゃないけれど、かなり革新的な音楽としてセンセーションを巻き起こしたらしい。
カスチェイの踊りなど、変拍子で激しい叩きつけるような和音に皆驚いたのだろう。
今は普通に、クラシカルな音楽なんだけど。

そんなストラヴィンスキーに、スマートなスピード感と豊かな歌謡性でもって新しい響きをもたらしたのがアバドの演奏。
70年代半ば、こんな大胆なまでの軽やかさでストラヴィンスキーを演奏した人はいなかった。ハルサイが一番傑作だけれど、ストラヴィンスキーのシリーズ第1弾だった当盤は、よく歌い、かつ緻密な仕上がり。
ロンドン交響楽団がアバドの手足のように機能的で、俊敏かつ敏感な演奏ぶり。
アバド好きの私にとって、ロンドン響との時代は一番輝いていたように思える。
83年にこのコンビで来日し、東京で主席から音楽監督昇進の発表があったはず。
3公演すべて聴きにいった。
①「火の鳥」と「巨人」、②「中国の不思議役人」「幻想交響曲」、③「ラ・ヴァルス」「マーラー5番」、こんな素適なプログラムだった。
懐かしいなぁ。
このストラヴィンスキー・シリーズのジャケットもよかった。

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2008年1月10日 (木)

ブラームス カンタータ「リナルド」 キング&アバド

Ninomiya 私の実家のある、神奈川の小さな町。毎年正月は、その町を通過する箱根駅伝を楽しみ、海へ出て砂浜を散歩していた。
子供の頃から、この砂浜が遊び場だった。

ところが、昨年9月に直撃した台風で、西湘バイパスの半分が陥落してしまったばかりか、砂浜がすっかりなくなってしまって、海岸線がすぐに足元まで上がってきてしまった。

キスがふんだんに釣れた投げ釣りや、生シラスのとれた地引網もできなくなってしまった。当然、海水浴なんて不可能。
もともと、急激に落ち込んで深かった海だけに、台風の高波で砂浜ごともっていかれたのだろう。
思い出のたくさん詰まった場所がなくなってしまうなんて、こんなに悲しいことはない。
この海岸を復元する支援活動も始まっていて、さっそく署名に協力した次第。

Abbado_rinaldo 今日の1枚は、かなりシブイところから。
ブラームス(1933~97)のカンタータ「リナルド」という曲。
ブラームスは、いうまでもなくオペラを書かなかった作曲家で、それどころか表題音楽的な作品も非常にすくない。
そんなブラームスの、オペラに一番近いジャンル作品がこのカンタータ。

カンタータといいながらも、各声域の独唱が活躍して物語するわけではまったくなく、オーケストラと合唱とテノールのための音楽。
原作も、ゲーテの詩によるものだから、かなり謹厳でこれまたシブイ。
内容は、十字軍に参加した戦士「リナルド」と、彼を愛する魔法使いの「アルミーダ」の物語をもとにしたもの。
聖地へ向かう航海の途上、アルミーダの誘惑にとらわれてしまうリナルド。それを励ます仲間たち(合唱)。こうしてリナルドは仲間に助けられ、ついでにアルミーダも解放し、妃として一緒に帰還する、という何だかわからない物語。
ハイドンやグルックもオペラとして取上げている。

ブラームスの30歳台の作品で、「ドイツレクイエム」と同時期。
音楽は以外に明快で聞きやすい。宗教作品でもないから、思ったほどの取っ付きにくさはなく、美しい旋律も豊富。
当然、どこをどう聴いても、ブラームスの響きがする。
私のような、オペラ好きからすると、そこでもっと歌を解放して欲しい・・・、と思う場面も多々あるが、そこはブラームスゆえガマンすることとなる。

そのあたりのわずかな欲求不満を解消してくれるのが、ここで歌っている「ジェイムズ・キン」であろうか。普段ワーグナーやシュトラウスで聴きなれた声が、神妙にブラームスを歌っているが、ときおり劇場向けの解放的な歌が顔を出す。
ブラームスには、正直不向きな声だが、私にはちょうどいい。
アバドとキングの唯一の貴重な競演。
1968年のデッカ時代のアバド。オーケストラが、ニュー・フィルハーモニア管であるところも希少。アバドの紡ぎ出す音色がキングよりは、かなり渋くまとまっている。
ただ渋いといっても、その音色はよく練られ、落ち着きをもちながらも明晰なもので、後年のアバドのブラームスと変わることのない響きがする。

カップリングの「運命の歌」。アバドが好むヘルダーリンの詩による伸びやかな作品は、都合3度録音していて、どれもが素晴らしい演奏。
さらに、FM録音した、ベルリン・フィルの退任コンサートでの演奏などは、涙を誘う名演なのだ。

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2008年1月 8日 (火)

R・シュトラウス 「ドン・ファン」 アバド指揮

Abbado_strauss_dg モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」から、ちょうど100年のち、R・シュトラウス(1864~1949)も同じ題材で、交響詩を作曲した。
1888年のこと。
この作品の前に交響詩「マクベス」を作曲してはいるが、発表が前後したため、「ドン・ファン」が世に出た、シュトラウスの交響詩第1号となる。
シュトラウス24歳!
これ以前は、習作的な交響曲と協奏曲、器楽・室内楽がある程度で、本格的な成功作がこの「ドン・ファン」

モーツァルトのドン・ジョヴァンニが、やたらに女色を好み漁りまくったあげく天罰を受けたのに比べ、レーナウの詩に基づく、シュトラウスのドン・ファンはもっと崇高な思いをもって理想の女性を探し求める、といった弧高(??)の人物像を描いているという。

天衣無為なモーツァルトの音楽は、そうしたドン・ジョヴァンニに相応しく、悪ふざけと神妙さが同居する人間の二面性を鮮やかに描き出した。

何でも音にしてみせたシュトラウスは、やたらに高尚で冗談のつけいる余地のない音楽を書き上げた。ドン・ファンの愛の歌はともかく真剣味に満ちているし、二人の愛情もどうやら本物だ。が、しかし、ドン・ファンの求める女性ではなかった・・・・。
決然としたホルンとともに、あらたな遍歴の旅に出る。その先には死あるのみ・・・・。

17分の交響詩にシュトラウスが描いてみせたドン・ファンの生き様。
私らには到底関係ないお話。
まったくいい気なものだ。
シュトラウスの音の洪水に心地よく浸っていると、某嫁が来て、「うるさい!」と・・・。
さて、私の理想の女性はいったいどこへ消えてしまったのだろう?

アバドが1982年に、ロンドン交響楽団と録音したシュトラウスを集めた1枚。
今もって大好きなCD。カラヤンもいいけれど、アバドのすっきりとした切り口で歌われるシュトラウスは、マーラーとの近似性を感じさせる。
構えたところが一切ないかわりに、物語性・表題性が乏しいが純音楽的な真摯な演奏は聞き飽きることがないはず。
ジャケットには、クリムトの「愛」が使われていて、センスよろしい。

Abbado_strauss_sony

ベルリン時代の1992年、アバドはジルヴェスター
コンサートでシュトラウスを特集し、同曲を冒頭に演奏した。
こちらは、ライブならでは、一気呵成の一筆書きのような勢いと流れの豊かな演奏。
そしてベルリン・フィルの密度の高い響きは、ロンドン響との違いを見せつけてしまう。

どちらも、私にとって大事なシュトラウス。
ベルリン盤は、アルゲリッチとの「ブルレスケ」や、シュターデ、フレミング、バトルといった夢のような競演による「ばらの騎士」が入っている。
ラトルが、一昨年、同じようなプログラムを組んだけれど、先輩アバドの方がシュトラウスに関しては新境地を見せていたように思う。

オペラ全曲を終えたシュトラウス、今年は他の作品を順次取上げることとしよう。

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2008年1月 1日 (火)

J・シュトラウス ワルツ「もろびと手をとり」 アバド指揮

Fuji_tanukiko 年が明けました。
今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

今年も、いい音楽をどしどし聴きますぞ。

こちらは、富士宮市の冨士を望む田貫湖からのベストショット。

今年の目標!

①あふれかえって分散したCDを整理すること。

②一年発起して、レコード芸術の購入をガマンすること。
そして捨てられない37年分ものレコ芸をどう処分するか真剣に考えること。

③狭い我が家の一室を独占している、お父さん(私)が息子に部屋を譲る準備をすること。

④新国のリング前半に絶対に行く。(2009年春なのでチケット奪取)でも指揮は、ダン・エッティンガーらしい。う~む。

これらの難題に果敢に取り組むのであります。
どなたかお知恵を下されぇ~・・・・・。

Abbado_neujahrskonzert88 ウィーンとの蜜月時代のアバドが、ニューイヤー・コンサートに登場した時のもの。
1988年のこと。
朋友カルロス・クライバーと合前後して1991年にも登場して、都合2度のニューイヤーのアバド。

そのアバドが70年代からよく取上げ、好きなワルツが、「もろびと手をとり」というヨハン・シュトラウス晩年の曲で、私も大好きだ。
是非一聴をお薦めしたい1曲。

仲が良かった、ブラームスに捧げられた曲。
この明るく伸びやかで、優美な円舞曲を聴きながら、あの難し顔のブラームスとどういう交友があったのだろうと、想像するのも楽しい。

ジャケットに映るウィーンフィルの面々も懐かしい。
今年のプレートルは、案外ツボにはまっているかもしれないな。

お正月、しばらくお休みします。

今年も、音楽を愛する人々の上にミューズの神が微笑みますように。

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2007年12月30日 (日)

ワーグナー 「ローエングリン」 アバド指揮

Abbado_lohengrin 昨晩のバイロイト放送は、今年新演出の「マイスタージンガー」だった。(映像少しあり)
ウォルフガンク・ワーグナーの娘、カタリーナのバイロイト初演出。リヒャルトの正統の血を引く曾孫の彼女、将来はバイロイトの運営者ともささやかれる彼女がどのような演出を出したかは放送では不明。

 写真や報道を見聞きする限りでは、相当過激なものだったらしく、3幕が終わるとすさまじいブーイングに包まれるのが放送でも聴かれた。
私のバイロイト放送試聴の経験で、同様の激しいブーは、古いところからいくと、「G・フリードリヒのタンホイザー」、「シェローのリング」、「シュルゲンジーフのパルシファル」の3演目が挙げられるけれど、「カテリーナのマイスタージンガー」はそれに匹敵するくらいのブーイング。果たしてこれから、シェロー・リングのように輝かしい成功の道をたどるのだろうか?それとも、陳腐なだけのシュルゲンジーフのようになってしまうのか?

 記事を見ると「ナチズムの歴史と記憶からの回避」が根底にあるという。
聖地バイロイトは、我々日本人から見れば、純粋にワーグナー音楽の聖地なのだが、ドイツそして、ワーグナー家からすれば、ヒトラーに利用された忌まわしい過去がついてまわるということであろうか。
総裁のウォルフガンクが自身ができないことを、他の演出家に毎度やらせてきたこと。
まるで、ウォータンとジークフリートの関係のようだ。
カテリーナは、ブリュンヒリデとなりうるだろうか?
これだけ自己批判精神の強さを見てしまうと、なにやら気恥ずかしい気分でもある。
誰も傷つかない、万事丸く治めようとする、煮え切らないどこぞの国とは大違い・・・・。

いやはや、前置き長すぎ。

CDで聴くオペラは純粋に音楽に没頭できていい。
今回のアバドのローエングリンは、ウィーンのムジークフェラインでの完全なスタジオ録音なので、正に完璧な仕上がり。
ライブ録音ばかりになってしまった昨今にあって、こうした完璧なスタジオ録音が懐かしい。
Abbdo_lohengrin2 いうまでもなく、アバドはバイロイトに登場しなかった(この先もないだろう)大指揮者の一人だが、以外に若い頃から、ワーグナーを目指した人だった。
トリスタンやローエングリンの管弦楽曲は、早くから演奏してたし、スカラ座の監督時代にシーズンオープニングで、ローエングリンを上演して大成功を収めている。
この時は、ルネ・コロとの共演だから音源があれば是非聴いてみたいものだ。
 さらにウィーン国立歌劇場の音楽監督時代にもローエングリンを取り上げ、ドミンゴが歌った。
その後に録音されたCDが今回のもの。
さらに、ベルリンフィルに着任し、ザルツブルクのイースター祭で、ついに念願のトリスタンを指揮する。
その後は、病後パルシファルを上演して、ベルリンを離れてしまい、ワーグナー全曲を指揮する機会は失われたままである。

ローエングリン→トリスタン→パルシファル、この3作の流れは結果的に、いかにもアバドらしい。マーラーや新ウィーン楽派、ドビュッシーを好むアバドならではの選択に思われるから。アバドは、ベルリン時代、タンホイザーとマイスタージンガーを取り上げることも考えていたらしいから、彼の病気と離任はとても残念なこと。
 ルツェルンに新しいオペラも上演できる劇場が建設されるらしいから、そこでの活躍も期待しよう!

アバドのワーグナーの特徴は、ワーグナーを特別なものでなく、ごく普通の音楽としてとらえ、そこに精緻で清冽な響きと、豊かな歌を盛り込んだもので、マーラーやベルクを演奏するのとなんら変わらない品格をそこに与えることだ。
その精度の高さと、音符ひとつひとつにかける執念のような思いがにじみ出た音楽造りに、私はいつも感激してしまう。
それが重々しくならず、常に澄み切って軽やかなところが、カラヤンとはまた違ったワーグナー像の創造であると思う。
そんなアバドに、ウィーン・フィルの決してうるさくならない美音が大きく寄与していて、木管と金管のまろやかさにまいってしまう。
 でも、数年後ベルリン・フィルの音をより自発的で開放的なものに変えてしまったアバドにとって、最高のワーグナーを聴かせるパートナーはウィーンでなく、ベルリンになった。

ローエングリン:ジークフリート・イェルザレム エルザ:チェリル・ステューダー
ハインリヒ    :クルト・モル         テルラムント:ハルトムート・ウェルカー
オルトルート  :ヴァルトラウト・マイアー   伝令士  :アンドレアス・シュミット

  クライディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                  ウィーン国立歌劇場合唱団
                           (92年録音)

豪華なキャストは、当時のDGならでは。
一番凄みがあるのが、マイアーのオルトルート。憎々しくもしおらしい、クンドリーと対をなすその二重の対比ぶりが素晴らしい。
主役二人には強烈な個性こそないが、やはり立派なもの。
ムジークフェラインの柔らかく雰囲気豊かな響きを捉えた録音もいい。

かつての記事から~アバドとローエングリン関連で

 アバドのワーグナー  「ワーグナー アバド」(ジルヴェスター) 
 アバドのワーグナー  「トリスタンとイゾルデ」
 アバドのワーグナー  「アバドのワーグナー」(ベルリンフィル)
 ローエングリン     「アルミンク 新日本フィル」
 ローエングリン     「マタチッチ バイロイト」
 ローエングリン     「スゥイトナー ベルリン」
 ローエングリン     「ラインスドルフ ボストン響」
 ローエングリン     「バイロイト2005」
  

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2007年8月30日 (木)

マーラー 交響曲第3番 アバド指揮

Abbado_mahler3 このところの涼しさに、かえって猛暑の時の体の疲れが出てしまうようだ。
朝起きれない、眠い。
朝、ぼ~っとしながら、歯ブラシに歯磨き粉をつけて口に入れた。
げげっ~つ!!なんじゃこの薬品は。
娘の洗顔フォーム「クレアラシル」じゃねえか!青と白のチューブでいかにも歯磨き粉のようだ。
悲しいよう。。。。

そんなオバカなわたしだけど、音楽のこととなると、身が引き締まりキリリとします。
去る夏を惜しんで、マーラーの3番の交響曲を聴くことにする。
この曲はマーラーの自然観、肯定的な人生観、愛への思いなどが幸せな形で表現されていると思う。年中イケルが、夏の朝や晩に涼しい風に吹かれながら聴くと、また爽やかな幸福感もひとしおである。
かつては、6楽章まであり、100分もかかる長大さに、聴いたこともないのに敬遠していたものだ。バーンスタインとショルテイ、ホーレンシュタインぐらいしかレコードもなかったし。
時代がマーラーの予言どおり、その作曲家を受け入れてからは、人気曲のひとつとなった。オーケストラの演奏能力の向上もあって始終演奏会に登っている。

Abbado そんな3番の私のフェイバリットは、アバドとウィーンフィルの旧盤である。
1980年のこの録音は、ウィーンとの蜜月の幸せな結実のひとつでもある。

隅々まで目が行き届き、ゆったりと、どこまでも自然な感情に裏うちされた素直な演奏。
その伸びやかな歌心に、ウィーンフィルが全面的に協力している。
指揮者とオーケストラの個性が、完全に一体化してしまった稀な演奏ではなかろうか。
健在だったG・ヘッツェルのもとのウィーンフィルは、現在ほどインターナショナル化しておらず、ウィーン訛りもそここに聴かれる。
ムジークフェラインの響き、そのもののような名録音も花を添えている。

アバドは99年に、ロンドンでベルリン・フィルとのライブを再録音している。
ウィーンとベルリンの両方で、さらに他曲はシカゴでマーラーを録音した指揮者は、アバドをおいてほかにない。
ベルリン盤は、表現がもっと自在で、流れがよく大河のような大らかさがある。
加えて、ウィーンの柔に、ベルリンの剛にして明晰。でも共通しているのは、全編に流れる歌とマーラーへの熱い共感だ。

そして今年、アバドはルツェルンでこの3番を再び取上げた。
この8月、ロンドンのプロムスでも出張公演を行なった。
この模様はBBCのネットライブですぐさまに聴いた。
このところのアバド/ルツェルンのトレンドで、快速感があって、かつ音のひとつひとつの充実度が、オケの高性能もあって並外れて漲っている。
いずれNHK放送もあろうし、DVD化もあろうが、マーラーへの愛情が満ちた、これまた幸福感一杯の3番になっていることだろう。

余談ながら、今年のプロムスは例年にもましてスゴイ。
ハイティンクとコンセルトヘボウが、「ブル8と、トリスタンとパルシファル」、ドゥダメルが「ショスタコ10」、S・オラモが「エルガーのアポステルズ」、ヤンソンスが「第9」、そしてリングシリーズ最終回は、ラニクルズの「神々の黄昏」
この黄昏は、実によかった。ブルーワー、アナセン(どうしちゃったの?くらいの立派さ)、トムリンソン。BBCのオケ。みんな素晴らしい。
ラインはラトル、ワルキューレはパッパーノ、ジークフリートはエッシェンバッハ(パリ菅だぜ!!)。こうした4部作。
まさにプロムスの厚みを思い知らされる思い。NHK音楽祭だかも、もっと激しくやってよ。

再度、終楽章「愛が私に語ること」を聴いている。
少年合唱の「ビムバム・・・・」が静かに消えると、そおっとした雰囲気であの素晴らしい旋律が流れ始める。
アバドのウィーン盤がこのあたりは最高だ。
Img_ceremony01_01_2 今を去ること、愛情(??)も去ること数十年前、舞浜の某ホテルにて行なった、拙者の結婚式の背景音楽は自分が選んだ(無理やり)好きな曲ばかり。
「ローエングリン」「喋々夫人」「ショパンの協奏曲2番」「ラヴェルのP協奏曲」「ラフマニノフの交響曲2番」「ディーリアスの楽園への道」「ビージーズの愛はきらめきのなかに」「ナット・キング・コール」・・・・
そしてトリは、このマーラーの終楽章。しかもアバドのこの演奏。
式の終了の挨拶に、両家を代表して・・・・、亡き父が訥々と感謝の言葉を述べた。
その背景に流れるマーラーの音楽。
散々飲まされていた私も、ことここに至って神妙になり、涙がはらはらとこぼれてしまった・・・・・。

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2007年8月 5日 (日)

ドビュッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」 アバド指揮

Paris_1_3 ヨーロッパの各国は、島国の我々からすると、驚くほど近く、そして遠い。
陸続きなのに、言語・文化がまるで違う。
河川や山脈による分断は、海以上に大きい。

フランスとドイツも国境を接していながら異質といえるほどの違いがある。もちろん、ストラスブールのように両者が融合したような都市もあって、緩衝材みたいだけれど。

こんなことを今更に思うのは、音楽紀行シリーズがフランスに至ったから。
ことに、オペラや歌曲になるともう、フランス語の語感は、ドイツのそれと極端に異なる。同じ語源ながらイタリア・スペインとも違う。
すべての文字を発音しなくては気が済まぬドイツ語、書いてあるのに?なんでそう発声するの?のフランス語。
私にはさっぱり、わかりません。あの鼻母音の特徴を覚えれば、それっぽく聞こえるけれど。
画像は、大昔パリに行ったときのもの。凱旋門あたりの公園にて。

Abbado_pelleas そんなフランス語の魔力が満載なオペラが、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」。
10年の歳月(1892~1902年)をかけて作曲した、ドビュッシーの最高傑作は、ワーグナー後の新たな音楽の地平線を築いたとされる。

もともと、熱心なワグネリアンだったドビュッシー、トリスタン的な、半音階和声やライトモティーフなどの影響は伺えるものの、ワーグナーから一線を画し、いわばワーグナーからの決裂と旅立ちをこのオペラで実践した。

音楽はフォルテの部分は決して多くなく、嫉妬に狂ったゴローの場面くらいで、全体は緩やかな波のように、押しては引いていく極めて微妙なもの。
歌唱も絶叫する場面や聴かせどころのようなアリアもない。レシタティーボでもない、歌唱ともいえない歌(朗唱)が全編にわたって展開する。ここにフランス語の絶妙でニュアンス豊かな語感がどれだけ寄与していることだろうか!
ワーグナーには、リアルなドイツ語こそが相応しいが、ドビュッシーの切り開いた世界はフランス語あってのものと痛感する。

歌ばかりに気を取られてばかりいると、背景のオーケストラの千変万化する精妙かつ繊細な響きを聴き逃してしまう。
森の深さ、木々のざわめき、泉の清冽さ、清らかな愛の囁き、実際の闇と人の心に巣食う闇の恐怖、生と死・・・。これらをドビュッシーは見事な筆致で描き尽くす。
そのキャンパスは、淡いが耳には実に鮮やかなもんだ。
なんて素晴らしい音楽!

  メリザンド:マリア・ユーイング    ペレアス:フランソワーズ・ル・ルー
  ゴロー  :ホセ・ファン・ダム     アルケル:ジャン・フィリップ・クルーティス
  ジュヌヴィエーヌ:クリスタ・ルートヴィヒ イニョルド:パトリシア・パーチェ

    クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

アバドは、特定のオペラ作品に異様に入れ込み、執念のように没頭し名演を極めることが多い。シモン、ボリス、ヴォツェック、トリスタン、そしてペレアスもそのひとつ。
ウィーンフィルのあたたかくもニュアンス豊かな響きを手にいれて、アバドはしなやかな指揮ぶりで、音の強弱をいくつもの段階に渡って紡ぎ出している。
恣意的な要素はひとつもなく、あくまで自然に、感じたままが音になっていると思わせる。
欲をいえば、ベルリンフィルとも録音して欲しかった。

Abbado_pelleas2 歌手はいずれも良い。若いル・ルーは繊細でその若い熱さがペレアスそのもの。
ファン・ダムは押し付けがましいゴローになり切っていて見事なはまり役。
ことさら、よかったのは、クルーティスの慈悲深いアルケル。
肝心のユーイングのメリザンドは、悪くはないが、少し濃いかもしれない。
F・シュターデだったら・・・・。

最後の場面は、アバドの押さえ込んだ弱音の美しさが、レクイエムのように悲しくもあり、優しくペレアスの死を包み込むようでもあって、心に響く。

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2007年7月14日 (土)

ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」 アバド指揮

Abbado_boris 台風が本州を北上しつつある。
関東も終日雨。時おり強い雨あし。
この3日間は仕事をせずに休むことにした。
音楽を聴きまくろうと画策したものの、たまにいるとヤボ用が多く、なかなかうまくいかないもの。

それでもオペラを1曲。

ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」 1869年にアマチュア同然のムソルグスキーが30歳にして完成させた社会派オペラ。
プーシキンの原作に基づき、ムソルグスキー自身が台本を書いた。
完成時、ロシア当局から、アリアや女声の登場人物が少なく、バレエなどの場面がまったくないことに異議を唱えられ、演奏が却下された。すぐにその指摘を補完して完成させたのが、原典版の決定稿である。初演は大成功だったらしいが、すぐに忘れ去られ、のちにR・コルサコフが手を入れ大幅に改定された。グランド・オペラ的な体裁が整い、この版がずっと「ボリス」の通常版としての地位を占め続けた。
1970年の大阪万博時の「ボリショイ・オペラ」公演では、ボリス個人の悪逆だけを非として、民衆や政治を善とした解釈で、テレビ観劇した小学生の私も、これが「ボリス・ゴドゥノフ」なのだと刷り込まれてしまった。豪華絢爛たる、戴冠式の場は今もって脳裏にある。
 レコードでは、同じ70年代、カラヤンがウィーンで録音したデッカ盤が、やはりグランドオペラとしての「ボリス」の典型で、ギャウロウをはじめとする名歌手達の歌と録音の鮮烈がドラマテックな「ボリス」として捉えていた。
悔恨にあえぐ「ボリスの死」によって、幕を閉じると、個人が引き起こした悲劇が終わって、次代に希望を残した終結と感じさせる。

その後、原典を見直す動きや、ソ連にも自由な空気が入りはじめたことなどで、80年代からは、ムソルグスキーが本来書いた原色のロシア色に塗りこめられた、救いの訪れない世界を表出するようになった。
ボリスは歴史の一コマに過ぎず、無知蒙昧で、一時的な熱狂に酔う民衆。
日和見の貴族(政治家)や宗教家。ボリスのあとの息子や、偽皇子も先が見えている。
ボリスが死んだあと、凱旋する偽皇子。
だが終わりのない悲劇が繰り返されるロシア、それを予見する聖愚者のつぶやきで幕となる。

原典版が見据えた社会派的な問題提起。
それを置き去りにしてきた時代はもう過去のものになったのだろうか?
いまの世界、いや日本にも通じるものを、ムソルグスキーが描いたドラマと音楽に見ることができるような気がする。

Boris_wien_1 この原典版の興隆に一役かったのが、「クラウディオ・アバ」。アバドは執念のようにムソルグスキーに取り組んできた。「はげ山」も原典にこだわり、何度も録音している。
「ボリス」にいたっては、各地の劇場で何度も上演している。
スカラ座のオープニングにこれをもってきてしまうほどで、華やかなシーズン開幕を期待した聴衆を驚かせてしまったくらい。その時のライブもあるが、そのすさまじいばかりの説得力にどんな人間も黙らざるを得ない。

ボリス・ゴドゥノフ:アナトーリ・コチュルガ   フェオドール:リリアーナ・ニチテアヌー
クセーニャ:ヴァレンティーナ・ヴァレンテ   シェイスキー公:フィリップ・ラングリッジ
ピーメン :サミュエル・レイミー         グリゴーリィ :セルゲイ・ラーリン
マリーナ :マリヤナ・リポヴシェク       居酒屋女将 :エレーナ・ザレンパ

    クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                   スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団
                   ベルリン放送合唱団 (93年11月録音)

アバド指揮するオケは、いつもは明るい音色なのに、原色のムソルグスキー・カラーに塗リ込められていて渋い。でも随所に恐ろしいほど見事なアンサンブルを聞かせるし、硬派でありながらも、リズム感が抜群なために決して単調にもならず、むしろ多々ある群集の場面では生き生きとした音楽に驚く。
歌手もふくめて、音符の一音一音にアバドの魂が込められた驚くべきムソルグスキー。

Boris_wien_2 アバドは、1983年にロンドンで、名映画監督「タルコフスキー」(惑星ソラリスの監督)を演出に抜擢し、「ボリス」を上演した。86年にタルコフスキーは病死するが、1991年にも、音楽監督だったウィーンで上演し、94年のウィーンの日本公演にも、このプロダクションを上演した。
NHKホールのS席7列7番という、最高の席で観劇することができた。
金縛りにあったような感銘を受けた。
暗譜で指揮するアバドの指揮棒一本に、歌手も合唱もオケも一体になり、我々聴衆はアバドとタルコフスキーの舞台が提示する問題提起に釘付けとなってしまった。
幕が引けて、渋谷の繁華街に下っても、別世界にいるようでボウっとしてしまったものだ。
先立つ、1993年のザルツブルクでは、時代設定を変えた、ジャケット写真の「ヴェルニケ」演出でも上演している。

Boris_wien_3_abbado タルコフスキーとアバド、同じ年の生まれで、映像の詩人ともうたわれたタルコフスキーに、社会派アバドは大きく共感した。ソラリス以外の映画は未見だが、これを機に他の作品を見てみたい。
アバドがどこに共感したのかも見据えてみたいから。

  

 

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2007年6月28日 (木)

ワーグナー  アバド指揮

Abbado2a 昨日6月26日は、「クラウディオ・アバド」の誕生日。1933年の生まれ、今年で74歳。

毎年アバドの誕生日には、とりわけ好きなCDを取り出して聴いているが、今年は1日遅れで取上げることとなった。

アバドとの付き合いは長く、1972年頃からかれこれ34年近く聴いてきたことになる。
ボストン響との「スクリャービンとチャイコフスキー」のレコードで完璧に好きになり、ウィーン・フィルとの来日公演のテレビ放送でダメを押すようにファンになった。

当時は、「メータ」「小沢」と並んで、「若手3羽がらす」と呼ばれた。今時3羽がらす、なんて言葉は死語かもしれないけれど、かつての昔は、中三トリオとかいうように3人を揃えて呼ぶことが非常に多かった・・・・。
3羽がらすのその後の活躍はここに言うまでもないが、当時は「メータ→小沢→アバド」のような人気・実力の評価だったように思う。
今振り返れば、アバドがポストのうえでも一頭抜きん出てしまったように感じる。
スカラ座、ロンドン響、ウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場、シカゴ響(主席客演)、ベルリンフィル、というような錚々たるポストを歴任したのだから。
そして今も、腕っこきスーパーオケ「ルツェルン祝祭」を率いるほか、マーラー管、マーラー・チェンバー、モーツァルト室内管、かつてのECユースオケ、ヨーロッパ室内管等々、若手オケを数々設立・指導することも行なってきた。
音楽へ奉仕する真摯なアバドならではの経歴。名ポストもおのずと付いてまわるわけだ。

Abbado_wagner ベルリンフィルのジルヴェスターコンサートでは、毎年テーマを決めていた。
1993年の大晦日は「ワーグナー」特集であった。
ウィーンでの「ローエングリン」はあったが、ベルリンフィルとの本格的なワーグナーに、テレビの前でもうわくわくしっぱなしだった。

すべて暗譜で指揮をするアバドは、ワーグナーでもことさら構えることなく、いつもと同じように、見ようによっては楽しそうに見えたものだ。
明るい色調で、隅ずみまで見通しがよく、混濁しない響きは時にキラキラと輝いて聴こえるかのようだ。
カラヤンのねっとりかつ重厚なワーグナーとは雲泥の違いがある。どちらも、ワーグナーの本質をついていると思う。

  1.「タンホイザー」序曲
  2.「タンホイザー」~「おごそかな広間よ」  S:ステューダー
  3.「タンホイザー」~「夕星のうた」      Br:ターフェル
  4.「ローエングリン」~第2幕二重唱     S:ステューダー Ms:マイヤー
  5.「マイスタージンガー」前奏曲
  6.「マイスタージンガー」~「迷いだ・・・」   Br:ターフェル
  7.「ワルキューレ」~第1幕3場        S:マイヤー  T:イェルサレム
  8.「ワルキューレ」~「ワルキューレの騎行」

じつにいい選曲でしょう。
どれもこれも本当に鮮度は高く、かつオペラの感興にあふれていて、少ししか聴けないのが口惜しくてならないほど。
なかでも「マイスタージンガー」の前奏曲のハ長の響きは、アバド向きの音楽なだけにまったくもって素晴らしく、そのまま教会での合唱に突入してもおかしくない。
ザックスのモノローグの伴奏も、雰囲気豊かで極めて敏感な名演に思う。
ここでのターフェルのザックスは、立派だがちょっとマッチョすぎる。
 あと素晴らしさでは「ワルキューレ」!
月の明かりが差し込んできて、春が訪れる場面のみずみずしくもロマンテックな音楽作りに感銘の受けっぱなし。むせ返るようなロマンテックではなく、若く、今生まれたばかりのような新鮮な響きなのだ。
マイヤーや素適だが、イェルサレムは前半不安定。

このある意味ユニークなアバドのワーグナーは、その後さらに進化し、癌という大病を経て、「トリスタン」の超越的な名演奏をやってのけるまでの高いステージに上り詰めた。
その「トリスタン」の全曲録音が残されていないことが極めて残念、かつ音楽文化の大きな損失のひとつとなるであろう。

音楽への誠実な奉仕者「クラウディオ・アバド」、来年は「フィデリオ」を手掛けるらしい。
いまなお新しいレパートリーに取り組むアバド、健康とさらなる活躍をいつも願ってやまない。

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2007年6月13日 (水)

ヒンデミット 交響曲「画家マティス」 アバド指揮

Grunewald_isenheim00 アバドの交響曲シリーズ、最終はヒンデミット(1895~1963)の「画家マティス」。

ヒンデミットは作風はさほど現代風でなく、比較的聴かれる作品は新古典的なものが多い。でも若い頃は過激作品もあるようで、聴いてみたいもの。
年代的にはそんなに昔の人ではない。
何と言っても、ウィーン・フィルの初来日時の指揮者として日本に来ているくらい。

Grunewald_isenheim03_full_1 その時何を演奏したか・・・、「ジュピター」にベト4に、ハイドン変奏曲に、なんと自作の「気高き幻想」などを指揮していて面白い。
1956年のこと。

交響曲「画家マティス」は、同名の歌劇から作り出された交響曲で、その歌劇はドイツ・バロックの画家、マティアス・グリューネバルトの生涯の一部を題材したもの。


Grunewald_isenheim04_full グリューネバルトの代表作は、現フランスのコルマールにある「イーゼンハイム祭壇画」で、真中の聖アントニウス像を取り囲むような3面の絵で出来た大作。
左上が、1面で「イエスの受胎告知と降誕と復活」。
真中が、2面で「イエスの磔刑とピエタ」。
一番下が、3面で聖アントニウスの誘惑」。

ヒンデミットは、この交響曲の3つの楽章に、「天使の合奏」「埋葬」「聖アントニウスの試練」と名付け、この絵を見たときの心の状態を音楽にしたかったらしい。

音楽はやや難解ながら、聞くほどに味わいが増す、スルメ系の音楽。
晦渋な雰囲気で始まるが、旋律はしっかりあるし、オケもよく鳴るように書かれている。
終楽章の終わりに築かれるクライマックスで、コラールが徐所にその姿をあらわし、金管で高らかに「ハレルヤ」が奏されると、かなりの感銘が味わえる。
聴き様によっては、かっこいい音楽であるともいえるかも。

Abbado_hindemith アバドは96年に、ヒンデミットの代表作を集めたこのCDを録音した。
得意とするレパートリーであり、緻密にスコアを見つめ、効果を狙わず渋すぎなくらいにじっくりと内省的な演奏に徹した感じだ。
ベルリンフィルのべらぼうなうまさは感じるが、意識的に押えられている様子で、もしかしたらオケの猛者たちはもっと爆発したがっていたのかもしれない。私はこれでいいのだろうと思う。
 もっと面白い演奏でいえば、バーンスタインやカラヤンを聴けばよい。

「気高き幻想」、「ウェーバー変奏曲」どちらもいい。
後者は、ロンドン響との旧盤のハツラツとした演奏も忘れがたい。

Abbado_2_3 これで、時代順に追って聴いてきたアバドの交響曲シリーズは終了。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、ブラームス、ブルックナー、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、マーラー、シェーンベルク、スクリャービン、プロコフィエフ、ヒンデミット、以上15人がアバドが手掛けた作曲家。

逆にアバドが振らない交響曲作曲家は、シューマン、ニールセン、グラズノフ、シベリウス、ショスタコーヴィチ、英国作曲家など。

こうして見ると、アバドの好みがよくわかるような気がする。シューマンは声楽作品などはよく取上げているのに、交響曲はさっぱり。鳴らないスコアがもどかしいのだろうか?
 ムソルグスキー好きだから、ショスタコの14番あたりをやりそうだったけれど。
私としては、エルガーあたりを振ってくれたら、すごくいいんじゃないかと夢想している。

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2007年6月12日 (火)

プロコフィエフ 古典交響曲 アバド指揮

Neko_shiba 驚き、警戒するネコ。

街をさまよい中に発見した。
この妙なポーズの彼(彼女)は、このお姿から想像されるとおり、片足を90度上げて毛づくろい中だった。

ん?

撮影が終わると一目散に逃げてしまった。

Abbado_prokofiev アバドの交響曲も終了が近い。
お得意のプロコフィエフ(1891~1953)、若き60年代に、ロンドン響と「ロメオ」と「シンデレラ」、「古典交響曲」と「第3交響曲」、ピアノ協奏曲などを録音していて、敏感極まりない秀演だった。
その後も数々の録音がある。
イタリア人はプロコフィエフがお好きなのか?

 交響曲シリーズにあたっては、奇天烈第3交響曲を取上げたかったが、すでに登場済み。

86年にヨーロッパ室内管と再録音した「古典交響」を。
プロコフィエフ27歳の作品で、若書きに特有の新古典主義もどきかと思ったら、すでに過激な「スキタイ組曲」なんぞも書いていて、聴衆は天才プロコフィエフが遂に作曲した交響曲がすっきりした古典的な作品だったので肩透かしをくったらしい。
でも単に古典を模倣しただけの作品でないことは、移り変わる曲想や転調の激しさなど、創意工夫がみなぎっていて、単純なだけではなさそう。
このあとに続く2番、3番がかなりアヴァンギャルドな作風なだけに、プロコフィエフの真意はどこにあったのだろうか?

私は、この手の作品がどちらかというと苦手。ブリテン、ビゼーなどの同種の作品も。
でも好きなアバドの手にかかれば、まるでロッシーニを思わせる軽やかさに、はじけるリズムのよさが、極めて新鮮。微笑んで軽く指揮をするアバドの姿が思い浮かぶよう。

加えてこのCDの選曲がおもしろい。「ピーターと狼」はともかくとして、「行進曲」や「英雄の主題の序曲」など、普通の人が取上げない作品をカップリングしているのは、アバドの見識。
実際それらの曲がおもしろい。
このCDは、各国の有名人をナレーターに起用した企画で、英語圏はスティング、日本は玉三郎だった。
私の1枚は、スペイン向けらしく、ナレーターのカレーラスはバリバリのスパニッシュで、妙な違和感がある。ジャケットもそうで、「ペーター」は「ペドロ」になっちまってる。
う~む・・・・。

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2007年6月11日 (月)

スクリャービン 交響曲第5番「プロメテウス」 アルゲリッチ&アバド指揮

Ginza_sonoko ちょっと前だけれど、銀座の夜の光景。

ひときわ目を引く、さるお方の白い顔。

夜の街に怪しく微笑む。

ふっふっふ・・・・・。

Abbado_prometheus_cd

アバドの録音した交響曲シリーズ。
シェーンベルクらの時代と同じ頃、ロシアで神秘主義に傾倒した作曲家、「アレクサンドル・スクリャービン」(1872~1915)が、妄想にふけっていた。

「音と色」との融合についてである。
当時開発された、色光鍵盤を用いて交響曲を作曲した。
音とその音に対応した色が出る楽器。
なんじゃそれ?の世界だが、当時はさながら極彩色映画のように眩く見えたことだろうな。

それぞれの色には、意味が込められ、スクリャービンの紡ぎ出す、ちょいとエロく、神秘的かつ陶酔の音の世界と結びついた効果を上げたことであろう。
科学や芸術、人間の持つ、諸感覚の統一により「法悦」の境地に入り込むと思っていたらしい。

プロメテウス」はギリシア神話上の神。
音から神の姿に似せて人間を作り、魂と命を与えた。そのうえに、火と技術を与えたことで、「ゼウス」の怒りに触れた。人間がゼウスら神の好敵手となったからである。
プロメテウスはコーカサスの岩場に縛られ、その肝臓をワシについばまれることとなる。
その肝臓は枯れることなく、プロメテウスは苦しんだ・・・・・。
それを後に救ったのが「ヘラクレス」である・・・・。(ジャケット解説より)

なんともまぁヘンテコな話であること。

Abbado_prometheus_dvd この作品は交響曲というよりも、幻想曲のようで、ピアノが活躍するから協奏曲的イメージもある。
サブタイトルは「火の詩」。
アバドはベルリン・フィル時代、毎シーズンのテーマを決めてコンサートプログラムを考えた。
1992年は、「プロメテウス」がテーマ。
一夜に、ベートーヴェン、リスト、スクリャービン、ノーノの題名曲を取上げたコンサートのライブが今夜の1枚。

ピアノは朋友「アルゲリッチ」で、息のあった二人は、激情よりも精妙な神秘性をクローズアップしたスクリャービンを作りあげている。
スクリャービンの持つ一方の特徴、後期ロマン派風の特徴をむしろ引き出している。
DVDも出ていて、やはりこちらの方が面白い。
発色ピアノではなく、ホールの照明を駆使しての演奏。
フィルハーモニーザールが、青や緑、赤や黄色に変幻自在に変わってゆくのが妙に心くすぐられる。ときおりクローズアップされる、ライスター、ツェラー、シュレジンガーらの超名手たちも、同じ色に染まっている。
でも法悦の境地には私は達しなかったぞ?

こんな曲でも美しく、しなやかに聞かせてくれるアバドに感謝。
若き頃、ボストン響と録音した「法悦の詩」が懐かしい。同曲一の名演だと思っている。

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2007年6月 7日 (木)

シェーンベルク 室内交響曲第1番 アバド指揮

Kyoto_st 京都駅。

平成9年の出現からもう10年。
このトラスとガラスの無機質ぶりはすっかりお馴染みになったが、いつも風が吹き抜け、夏は暑く、冬寒い。
ここに佇むと目眩を感じるのは私だけ?

Abbado_schoenberg アバドの交響曲、シェーンベルクの室内交響曲第1番op9を聴く。
この曲を交響曲と呼べるかどうか?
刈り詰めた15人の奏者による室内楽といってもいい。フルート、オーボエ、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラ、コントラファゴット、ホルン2、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。

1906年の作品は、まだ調性音楽で、後期ロマン派風の濃厚な色合いも持っているが、時に調性が崩壊しかねないような不安定感もちらついていて、何となく落ち着かない雰囲気。

そして驚くのは、各奏者に要求される名技性。編成が薄い分、あらゆる楽器が明確に聞こえるが、どの楽器ひとつをとっても何だか激しく吹き・弾きまくっている。
それが渾然となって独特の雰囲気をかもし出している。
全体は切れ目ない5部からなるが、冒頭の4度跳躍による動機が曲のモットーのように時おり鳴り響く。
しかし、第4部の緩徐楽章は、なかなかに美しい。
ベルクのヴァイオリン協奏曲のような雰囲気。
最後は賑々しく、あっけなく終わるこの曲。
ツェムリンスキーを挟んで、マーラーの10番のあとに続くような音楽に思う。

アバドは新ウィーン楽派を最も得意にしている。
どんな錯綜した部分も、明晰に聴かせる。そのうえに、どんなパッセージやフレーズにも歌心が感じられて無機的にならないときている。
ヨーロッパ室内管の凄腕たちも間然としたところがまったくない。
95年のイタリア、フェラーラにおけるライブ録音。
リゲティの妙に美しいフルートとオーボエのダブル協奏曲も収められている1枚。

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2007年6月 6日 (水)

マーラー 交響曲第7番「夜の歌」 アバド指揮

Tokyo_tawer_1 一瞬、パリの雰囲気かと思いきや、三田界隈から見た東京タワー。
コテコテの立喰い「麻布ラーメン」が悲しみをそそる。

パリの話題をふたつ。

1.「エッシェンバッハ」がパリ管を2010年で去り、後任は「パーヴォ・ヤルヴィ」が予定されているそうな。
頭部は似ているが、似ても似つかぬ個性。
フィラデルフィアも辞め、どこへ行くエッシェンバッハ!
それにしても、息子ヤルヴィの快進撃はすごい。

2.2008年7月に、パリのバステューユ・オペラがやってくる。
かのモルティエ体制下、過激な歌劇(!)が見られる。
演目はなんと、「トリスタン」「青髭城」「消えた男(ヤナーチェック)」「青髭(デュカス)」。チケットはかなり高い。どーする、フレンチ・トリスタン

Abbado_mahler7

アバドの交響曲、今日はお得意のマーラー
68年ザルツブルクにおいて「復活」で歴史的成功を収め、以来70年代後半から今にいたるまで、全交響曲をまんべんなく演奏し続けてきた。

自身の回想録で、マーラーへの共感と同質性を訥々と語っているアバド。
先達らと違い、アバドはマーラーの音楽にのめり込まず、客観的な視点でどこまでも自然にスコアに書いてある音楽を捉えている。
その響きは強大なものでなく、スリムでしなやか。
というわけで、バーンスタインやテンシュテットのマーラーと対極にあるマーラーは、30年来変わらない。ルツェルンでは、オケがアバドの意志を完璧に捉える共同作業態だから、さらに熟練の度合いを深め、すべての音ひとつひとつがマーラーの音楽そのものを自然に語り始めるようにまで進化した。

ほぼ2度に渡る全曲録音のなかで、登場するオケは、シカゴ・ウィーン・ベルリン・ルツェルン。スカラ座やロンドン響とも録音してもらいたかった。
4つのオケとの演奏のすべてが好きだが、個人的に思い入れがあるのは、シカゴ響とのもの。70年代後半、同団の主席客演指揮者だったアバド。
音楽監督ショルティのもと豪気なマーラーを、アバドとは繊細かつ鋭利なマーラーを、そしてジュリーニとは深遠なマーラー、レヴァインとは明快なマーラー。
今に至るまで、まさにシカゴは、マーラー・オケなんだ。
これらの指揮者とともに、シカゴ響は、当時「新時代のマーラー」の担い手だったわけ。

どうも昔ばなしばかりになるが、84年録音のこの7番の二つの「夜の音楽」の楽章を聴いていると、アバドが紡ぎ出すニュアンス豊かな歌心に、当時のことをいろいろと思い出してしまう。私もまだまだ、夢や希望に満ちあふれていたんだ。

この奇矯な交響曲に、今夜は少しばかり感傷的になってしまった。

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2007年6月 1日 (金)

ドヴォルザーク 交響曲第8番 アバド指揮

Mita_1 いい青空に、いい雲。
でもこのあと、にわかに厚い雲に覆われ、大粒の雨が降り出した。

昨日の港区の空。

ちょろりと見える、尖がったビルはN○○の本社ビル。
いいよな、裏金作って接待はともかく、遊興費だもんな!
勘違いも甚だしい。大企業の枠に甘んじたおバカさんたち。仕事もなくて汲々としている人々がゴマンといるというのに・・・・。

Abbado_dvorak_8_1 ビルの先端は無視して、青空のように爽やかな音楽、ドヴォルザークの交響曲第8番
今はそんなことはないけれど、かつては「イギリス」なんて副題がついていた。
単に出版元が英国の業者だったからで、音楽の中身はドヴォルザークらしい、ボヘミア臭の色濃いもので、あふれ出る旋律の数々は親しみやすく、心和ませる。
ドヴォルザークはメロディメーカーなんだ。
年取ってどの曲も第2楽章の静かな部分が好きになってきた私だが、この曲も負けてはいませぬ。
詩的であるとともに、小鳥のさえずりなども聞こえる自然賛美でもあって、この楽章ひとつだけでも取り出して聴くことがある。

アバドとベルリン・フィルの93年のライブ録音は、アバドには珍しく、即興的な歌いまわしや思い入れをこめたアゴーギク豊かな演奏。
ベルリンフィルの余裕ある明るい響きがそれに輪をかけて、幸せな音楽が出来上がった。
オケの面々が気持ちよさそうに、体を揺らしながら演奏しているのが目に浮かぶよう。
同じオケでも、カラヤンのそれは、もっと都会的で洗練されていたが、そこには強烈な統率のもと、アリの這い出る隙もない完璧さが優先していたように思う。
アバドの個性は、楽員との協調から生まれる音楽の喜びがまず先にあった。
そこから生まれるライブ感が、時に爆発的なものを生み出す場合があったし、病魔に冒されつつあった時は、そっけないような音楽しか生まれないこともあった。
このドヴォルザークは、いうまでもなく、前者のたぐいの名演で、この愛すべき音楽の理想的な演奏ではないかと・・・・。
ためしに2楽章を聴いてもらいたい。自然の息吹きや草いきれなどを感じる。
メランコリックな3楽章の、繊細な響き。弱音の中にも豊かな歌があって、オペラの一場面のよう。

FM音源での、ロンドン響、ウィーンフィル、それぞれの8番を聴いたが、このベルリン盤が最高。

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2007年5月30日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第3番「ポーランド」 アバド指揮

Biei 初春の北海道
4月でもこんなに寒々しい。

美瑛から富良野のあたり。
夏とはまさに別世界。訪れる人とてなく、閉ざされたまま。

北国は、街はオールシーズンだけれども、それ以外は一年の1/3が隔絶されてしまう。

日本は広いわ。

Abbado_tchaikovsky3 チャイコフスキーの交響曲第3番は、6曲の交響曲のなかでも一番地味だ。
私がこの曲を聴いたのは6曲の中でも一番最後で、間違えてB面から聴いても、さっぱりわからなかった。交響曲というより、バレエ音楽かいな?と思った。

余談ながら、今度タワーレコードが復刻する寄せ集め的、交響曲全集の3番は「アツモンとウィーン響」だ。
これは、DGが70年代に目論んだ「大交響曲全集」のチャイコフスキー編の一部で、当初「ムラヴィンスキー様」に全部録音してもらおうとしたが、当然無理で、1番=T・トーマス、2番=アバド、3番=アツモン、後期3曲=ムラヴィンスキー、という、それこそ元祖寄せ集め全集になってしまった。この中の唯一新録音が、アツモン盤で、記憶によれば単独発売はされていないはず。だから、このアツモンの3番買いで、タワーのチャイコ全集はお薦めですよ!

やれやれ、昔ばなしは止まらないのだ・・・・。

3番は、有名なピアノ協奏曲と白鳥の湖の狭間に書かれた交響曲で、5楽章の変則。
シューマンの影響と、ふたつ並んだスケルツォ的楽章は、メンデルゾーンの影響もあるという。そうした、外見はともかく、音楽はまさに、豪華でかっこよく、ほどよく民族的、まさに日頃聴いてる親しみあふれるチャイコフスキーの音楽そのもの。
しみじみ聴けば、ほんといい曲。あまり深刻でないのもいい。
「ポーランド」の名称は、終楽章がポロネーズのリズムで出来ているためという。
まだお聴きでない方は、是非一聴をおすすめします。

アバド/シカゴ響の全集の最後の1枚。1番とともに、アバドがこんな曲を振るなんてもうありえない貴重な1枚。
これが、あのシカゴ? と思わせる軽やかで、しなやかな音。
みんな半分くらいしか力を出していないのではないの?と思わせるくらいに、肩の力が抜けていて、聴いてて実に気持ちがいい。
でもシカゴの威力はそこここに聴いてとれる。最後のしつこいくらいのクライマックスは、さすがと思わせる。
一方で、3楽章アンダンテの寂しい抒情も、アバドらしい歌が満ちた桂演。

この曲のあとに痛快な「1812年」が、カップリングされていて、ついにシカゴ・パワーが炸裂する!

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2007年5月29日 (火)

ブルックナー 交響曲第7番 アバド指揮

Kyoto_kiyomizu_sunset 少しまえの出張で訪れた京都
清水坂を登りながらの夕日。

大急ぎで仕事を終え、せめて行きたい観光スポット。
しかし残念ながら、5時で門が閉まってしまった後。

宵闇迫るなか、ひとり産寧坂を下り八坂方面へ。
もう一歩きすれば、祇園が待ってる・・・・。

Abbado_bruckner7 アバドの交響曲、今日はブルックナーの第7番
剛より柔のアバドの資質からして、ブルックナーのなかでも一番アバド向きの曲。
おまけに、ウィーンフィルという、ブルックナーには理想的な伴侶を得てこれぞ「7番」という演奏を残してくれた。
ウィーンフィルのまろやかな響きは、南ドイツ的なあたたかいブルックナーの特質にピッタリで、ことにホルンを中心とする管とやわらかな弦とのハーモニーは、ほかには替えがたい。

ブルックナーが7番を仕上げたのは、1883年。ワーグナーの亡くなった年。
その死が近いのを予見し、その悲しみを長大な第2楽章に込めた。
そして作品は、ワーグナーのパトロン、悲劇のルートヴィッヒ2世に捧げられた。
これだけキャストが揃うと、ワーグナー好きとしては捨ておけない作品だが、その音楽はワーグナーの雄弁さとは次元を異にして、自然と宗教を賛美する慎ましさに満ちていて、人間臭さがまったくない。これはブルックナーの音楽すべてに言えることだけれども。

4つの楽章は、長さの点でアンバランスだけれども、アバドはそんなことはまったく感じさせない。そしてアバドの指揮で聴く終楽章が、本当に素晴らしい。
終楽章は、いろいろな主題が小刻みに交錯しつつ、音楽は常にゆったりとした呼吸をもっていなくてはならない。アバドはこうした部分は、最も得意とするところ。
伸びやかに歌いつつ、リズムの良さは抜群で、音楽がどこまで拡がっていくのかわからないくらい。

ウィーンフィルを信頼して、その響きに乗ってしまったアバド。そしてアバドの歌心がウィーんの面々を解放してしまう。そんな幸せな結びつきのブルックナー。
一部のブルックナー・ファンからは、ダメのレッテルが貼られそうだが、私は大好き。

ウィーンを離れてしまい、ベルリンも卒業したアバドは、ルツェルンでまたこの「7番」をとりあげた。そこでは、ウィーンフィルとの共同作業はもうなく、アバドの感じた、純粋な「音楽」だけが鳴り響くようになった。
このウィーン盤が64分、ルツェルンでは60分を切る演奏時間となったが、中身が濃いから短く感じない。
ルツェルン盤は、「アバドの音楽への奉仕」に心から共感する楽員による最上級の音楽。

そして、今日の旧盤は、いまだに進化を続ける「アバド」のウィーン時代の美しい録音。

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2007年5月25日 (金)

ブラームス 交響曲第3番 アバド指揮

Torigata 秋田県大館市にある「鳥潟会」。

この地(かつては花岡町、現大館市)に生まれた「鳥潟隆三」の生家。
鳥潟家は、佐竹藩の時代にまで遡る名家で、隆三氏は京都帝大教授までなった秀才で日本の外科医学に多大な貢献をしたという。

さらに同家からは、無線電話の発明者や、欧州で名の知られた世界的軽業師などが生まれた。
その一族の家が、市により保全され、拝観できる。京都から職人を呼んで作らせた庭は、北東北とは思えない風情があった。

Abbado_brahms3

アバドの交響曲、シューマンがないので、次はラームス。アバドはずっとブラームスを演奏し続けてきた。交響曲と協奏曲はそれぞれ2回以上、声楽曲も何度も録音している。

アバドのブラームスには、新旧を問わず、ドイツ的な響きではなく、アルプスの南側的な明るい響きがある。ブラームスが思いあこがれていた音の一面を見事に照らし出しているアバド。
 ことに2番と3番の交響曲、2番の協奏曲、合唱曲などは、まったくツボにはまっている。
ベルリンフィルから、こんなに歌謡性豊かな響きを引き出していることが驚き。
3番の交響曲で、私が一番好きなのは、第2楽章。早めのテンポでとどまることなく歌われる、やさしい木管の歌。やがて弦がそれをなぞりながらも、明るいロマンの森へいざなうような美しい展開へ導いてゆく。このいかにも、ヨーロッパ的なサウンドにずっと浸っていたいと思う。

ブラームスの英雄交響曲なんて、とんでもない。2番と並ぶ自然派交響曲でありましょう。
2番から6年後、1883年、作者50歳の作品。この年こそ、ワーグナーの亡くなった年。
もうリングもパルシファルも世に出ていたことを思うと、頑固爺さんのブラームスが微笑ましい。
26歳の女声歌手に恋していた50歳のブラームス
独身だったとはいえ、いいねぇ。我々オジサンたちも、見習わなくっちゃ??

1973年に、アバドはウィーンフィルとともに初来日した。
NHKで、ブラームスとベートーヴェンの3番の演奏会を見た。アンコールは「青きドナウ」。70年頃からDGへの録音が本格化し、アバドが好きだったが、この来日で完全にアバドのファンとなった。長髪を振り乱し、真摯に名門オケを振る指揮姿もよかった。
極めつけは、アンコールで、こともあろうに彼等の国家ともいえる曲で、木管が出を間違えてしまった。アバドと楽員たちは、さも可笑しそうに、もうニコニコとしながら演奏を続けた。
音楽の楽しさを見せ付けられるような思いだった。

そのアバドの1回目のブラームス全集は、4つのオケを振り分けたもので、むしろそちらのほうが好きなくらい。いずれ、特集しましょうかね。

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2007年5月24日 (木)

ベルリオーズ 幻想交響曲 アバド指揮

Ginza_6

銀座の街角から。

銀座の新参者、エルメスのある意味無機質な組みガラスのビルと、銀座の街並みの老舗不二家とキャノンの対比が面白い。

Abbado_berlioz_1ベルリオーズの幻想交響曲」が世に登場したのは1830年のこと。
ベートーヴェンの第9が1824年に初演され、シューベルトのグレイトが1928年。
シューマンはまだ交響曲を書いていないし、リストやワーグナーはまだ10代。ブラームスに至ってはまだ生まれていない!

「幻想交響曲」がもつ革新性にあらためて驚き。
リストやワーグナーが好んで取上げた「ライトモティーフ」は、この作品が原点とも言えるかもしれない。
夢想する作曲家ベルリオーズは、破天荒な生き方をしたが、その人生を写すようなこの交響曲。
恋に敗れた若い芸術家が、阿片自殺を図るが、致死量にいたらず、幻想に取り付かれ、恋する女性を裏切りと妄信して殺害してしまう・・・・」というすさまじい内容。
もう呆れて、ものが言えませぬ。
昨今の世の中では、あながちありえない話でもないところが恐ろしいぞ。

まあ、こんな内容を気にせずに、ベルリオーズが残した美しくも、賑々しい音楽に身を任せましょう。よく聴けば、ほんとうによく書けている音楽なんだから。

かつてこの曲にやたらとはまった時があった。棚には16枚の幻想が並んでいる。
どれも楽しんだ1枚だが、「アバドとシカゴ響」のDG盤は、目覚しい録音の素晴らしさも相まって、初出のときから愛着をもっている。
83年の録音で、シカゴ響は、ショルティがギンギンに頑張っている頃だったけれど、豪気なショルティの作り出す鋼のような音に比べ、アバドが振ると、強靭な音を背景にしなやかな歌に満ちた響きを出すようになった。
この幻想も、ブラス陣のとてつもない音塊に、さすがはシカゴと思わせるが、この演奏の真髄は第3楽章の「野辺の情景」ののびやかで、映画のひとコマのような美しいシーンの描写である。
若い頃は、断頭台や魔女のロンドの大音響に酔ったものだが、歳を経てくると前半の方が耳に馴染むようになってきた。

終楽章の鐘の音は、たしか「広島の祈念公園」の鐘を使ったはず。
今宵、「酒気帯び幻想交響曲」をしていると、なんだかんだ言って後半のはちゃむちゃな大音響に興奮を隠せない自分を見つけることになる・・・・。

アバドはロンドン響と日本にやってきたことがあって、バルトークのマンダリンと、この幻想を演奏した。他のマーラーを中心とする全3プログラムをすべて聴いたが、いずれも火の着くような熱く輝かしい演奏だった。
 超円熟のいま、例のドゥメダルのベネズエラのユースオケを指揮して、幻想をライブ録音しているので、近いうちに聴けるであろう。
いつまでも、若いマエストロである。

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2007年5月23日 (水)

メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」 アバド指揮

Ninomiya_sikenjyou

前回ご紹介の「しろつめ草」 の群生。

これだけ一斉に集まると、にぎやかな初夏がいちどきにやってきてしまったようだ。

花々は春から夏にかけて思い思いに咲き乱れるけれど、冬にも少しはその彩りを分けて欲しいものだな。

Abbado_mendelssohn

実は、アバドが録音した交響曲の数々を、年代を追って取り上げている。
今日は、メンデルスゾーン。
アバドはデビュー当時から、メンデルスゾーンを好んで取上げ、複数のレーベルにその録音を残した。
ロンドン響とのデビュー間もない67年の3・4番の録音、同じロンドン響との全集、そしてベルリンでの95年のジルヴェスター。
今回の4番は、ベルリンフィルとのジルヴェスター・ライブのもの。

思えば、我々日本国で、大晦日はベルリンのジルヴェスター、数時間後の元旦の晩は、ウィーンのニューイヤーがテレビで楽しめるようになって何年経つだろうか?
 カラヤン時代からと記憶するが、カラヤンのジルヴェスターは、有名曲のオンパレードで、通常のコンサートの延長のように思われた。
 アバド時代は、シーズン定期に大きなテーマを定め、その関連芸術をベルリン市をあげて取り組むようになった。こうしたコンセプト計画のうまさはアバドのマルチぶりを示していて、アバドの偉大な業績のひとつでもある。心無い人は、アバドの音楽を無能呼ばわりするけれど、ウィーン時代から続くアバドの音楽を藝術の総合と捕らえる思考をよく見極めて欲しいものだ。
ジルヴェスターも同様に、毎年テーマを定めて選曲がなされた。

こうしたコンセプト造りは、ラトルにも引き継がれている。
音楽の嗜好が似ているため、今のところ録音も同じような曲が続いている。
ラトルはデビュー当時、尊敬する指揮者として、「アバドとハイティンク」を挙げていた。
寡黙だが、音楽に語らせる・・・というような意味ことを言ってたはずだ。

寄り道しすぎたけれど、95年のジルヴェスターのテーマは「メンデルスゾーン」。
「真夏の夜の夢」と「イタリア」が演奏された。
この真夏の夜が実にロマンティックでよろしいが、今晩は、「イタリア交響曲」を。

一口で言うと、こうした名曲を隅々まで知り尽くしたコンビによる自在な演奏。
軽やかで、音色はどこまでも明るく、嫌みをまったく感じさせないスリムな響きに満ちている。初期LSO盤の、はち切れるような歌にみちた演奏もいいし、大人のコンビが素直に楽しむかのようなベルリン盤も実によろしい。

5月とは思えない暑い陽気も、アバドのメンデルスゾーンは爽やかな一陣の風でもって、リセットしてくれたようだ。

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2007年5月18日 (金)

シューベルト 交響曲第1番 アバド指揮

Mokoubara_2木香薔薇(もっこうばら)」

2~3cmくらいの小さな黄色い花が咲き乱れる棘のないバラ。
垣根に垂れ下がる様子が美しい、
5月の庭。

Abbado_schubert_2 シューベルトの交響曲第1番 ニ長調は、16歳の若書き交響曲だ。といっても、35歳の生涯だから若いも何もないけれど。
1番の前には習作的な序曲がいくつか書かれ、神学校を卒業するにあたって満を持して書いた本格交響曲。
重厚さを出そうとした部分などがあって、力みが見られかえって微笑ましく思う。
でも何と言ってもそこはシューベルト、やさしくたおやかなメロディが汲めども尽きぬようにあふれ出てくる。

重い序奏を持つが、いきいきと楽しい1楽章に続く、アンダンテの2楽章が美しい。
いかにもシューベルトを思わせる、伸びやかな抒情がいい。そして、時おり気分転換のように短調に転調し、ふっと悲しみがよぎるところなどたまらなくいい。
楽しいレントラー風のトリオを持つ3楽章。繰返しの弾むようなリズムにのった明るい終楽章。

アバドが87年にヨーロッパ室内管と、一挙に録音したシューベルト全集は全編、歌う喜びに満ちたアバドならではの演奏である。
4番以降は、自筆稿をもとにした初の録音だったが、グレイトなどは聴きなれないフレーズが出てきて驚いたもんだ。

アバドは、この1番を昔から得意にしていて、若き日のウィーンフィルとのFMライブなどは、すがすがしい美演だった。
このCDでは、若い室内オケの抜けるように明るく、透き通った音色を充分に活かした演奏で理想的なシューベルトを残してくれた。

この全集が発売された頃、アバドはこの手兵と来日して、シューベルトの交響曲全曲チクルスをやった。ペライアを伴なって、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲との組合わせで。
私は協奏曲の2番と「グレイト」のコンサートを聴いたが、あまりに精妙かつ新鮮な演奏に、ずっと耳を澄ましっぱなしだった。ペライアのピアノの美しさにも驚きだったし。

シューベルトの交響曲、5月の晴れた1日に相応しい音楽であり、演奏である。
あ~気持ちがいい~。

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2007年5月17日 (木)

ベートーヴェン 交響曲第4番 アバド指揮

Ninnomiya_fuji_1 藤の花、これはやはり棚にたわわに咲き誇る姿が美しいが、山の斜面などに、人の手を経ないで 咲いているのも、その淡い紫が素適である。
甘い香りは陶然と人を酔わせるかも。

Abbdo_beethoven_4

「ふたつの北欧神話の巨人にはさまれた、ギリシアの乙女」
シューマン
がベートーヴェンの4番の交響曲を評した言葉。
個性的な大交響曲の狭間に咲いた愛すべき作品が好きである。
同時期の同番のピアノ協奏曲もいい。

エロイカであれだけ強烈な冒頭を作りだしているのに、以外や神妙な序奏による開始をともなう第1楽章。
そのあとの勢いある第1主題は明るく気分が開放的になるし、木管による第2主題も素適だ。
でも何と言っても、ロマンあふれる第2楽章のアダージョが好きだな。
ヴァイオリンで奏でられる美しい歌に満ちた第1主題。クラリネットのはにかむような第2主題。これらの背景には低音楽器の伴奏が常にやさしく伴なっている。
おっとりとしたのどかな雰囲気のトリオを持つスケルツォの第3楽章。
性急な開始が抜群の躍動感とともに発展し続ける、これも明るい終楽章。

アバドが80年代後半から90年代初めにかけて完成させた、ウィーンフィルとの全集。
クリムトベートーヴェン・フリーズをジャケットに使ったシリーズは、1枚づつ発売され、全集完結に向けてCDを収集する無常の喜びを味わせてくれたもの。
アバドの音楽性にあった曲だけに、どこまでも伸びやかな歌に満ち、スッキリと実に気持ちがいい演奏になっている。
本音をいうと後のベーレンライター版よりは、ウィーンとの演奏の方が好き。
ウィーンフィルの美質をあますことなく引き出した、これはこれで個性的といえる全集の中でも偶数番号がいいのはワルターみたいだ。

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2007年5月16日 (水)

モーツァルト 交響曲第36番「リンツ」 アバド指揮

Ninomiya_margalet 初夏の花々は眩しいくらいに素適だ。アゼリアのように香りも色も濃いと少し疲れてしまうけれど、このくらいが楚々としてちょうどいい。

Abbado_36_1  モーツァルトのハ長調交響曲のもうひとつの名作「リン」。あっという間に仕上げたことがうそのように、堂々としっかりとした交響曲。

曲は重々しく始まるが、すぐに元気のよい主部が始まり、いくぶんギャラントに楽しく、堂々と音楽は進む。
オペラアリアのような第2楽章、ヴァイオリンとオーボエ、ファゴットで歌われるトリオが妙に好きな第3楽章。
そして終楽章は、旋律がとめどなく次々に流れまくり、その流動感は明るく楽しい。まるで、オペラのフィナーレのよう。

病に倒れる前、活気あふれる、ベルリン時代のアバドの最良のモーツァルト。
にこやかに楽しそうに指揮をするアバドの姿が目に浮かぶよう。
ここではまさにオペラそのものの演奏であるかのように音楽が飛翔している。

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2007年5月15日 (火)

ハイドン 交響曲第100番「軍隊」 アバド指揮

Menyu 以前見たテレビ・ドラマをご紹介。タモリの「世にも不思議な・・・」だったかな?よく覚えていない。

倦怠ぎみの夫婦が営む、街の流行らない定食屋での出来事。
一人の男が店にやって来た。
男は壁のメニュー看板の一番右端の「カツ丼」を注文。
待つこと数分、「カツ丼」がやって来て、男はおもむろに食べだす。
厨房では、料理人の主人は一仕事終え、新聞なんぞを読んで一服。
女将さんも、テレビを見ている。
「カツ丼」を食べ終えたその男、メニュー看板を見やり、カツ丼の隣の「親子丼」を注文。
女将さんは、一瞬「え?」という表情だが、厨房に「親子丼」の注文を通す。
「親子丼」を無表情に淡々と食す「その男」。

「親子丼」を食べ終えると、さらにその隣のメニュー「生姜焼き定食」を注文。
女将さんは、こんどは「え、え??」・・・、「生姜焼き定食」を黙々と食べ終えると、その男、今度はさらにその隣のメニュー「焼き魚定食」を注文・・・・・・。
ここまでくると、厨房の旦那も一人の男が食べていることに驚き、顔を出して覗きこんでいる。ルーティンな仕事ぶりだった旦那も、こうとなっては「その男」との勝負とばかり、真剣な眼差しで、調理に打ち込む。
女将も、「あんた頑張るんだよう!」とばかりに声援を送る。
それでも、メニューの一覧を片っ端から食い尽くす「その男」

その様子を近所の人々が聞き付け、続々と人が店に集まってくる。
婆ちゃんが、子供たちが、近所の主婦たちが、おまわりさんが、営業マンが、自転車で、駆け足で、次々と集まり、店の周りは人だらけに。
注文を再びするたびに、周囲からは「おぉー」という声があがる。

突然、「その男」の箸が止まってしまう・・・・・。旦那・女将・近所の人々は、ゴクリと固唾を飲む。
何のことはない、コップ一杯の水を飲んでまた箸が動きだした。
「はぁ~~っ」人々は安堵のため息をつく。

さて何十種類のメニューを食べつくしたろうか、メニュ看板のついに一番左端に到達。
それを作り終えた旦那は、感無量になり、女将と涙を流し合って感動している。
そして「その男」は、淡々と食べ終えた。ついに、茶碗と箸をテーブルに置いた。
人々も皆、感動に包まれている。

「その男」、表情ひとつ変えずにメニュー看板を見ている。
そして一言「カツ丼」・・・・・。
旦那と女将、周囲の人々の驚愕の表情でドラマはおしまい。

Abbado_haydn100 ハイドンいきましょう。
100番は軍隊交響曲。1793年頃の作曲。もう200年以上前の作品。ちっとも古臭くなく、楽しくも新鮮。
第2楽章で打楽器が派手に鳴る響き、マーラーの5番の冒頭も聴かれる。はっはっは!愉快だのう。
あまり考えず、悩まずに楽しめるぞ、ナイス・ハイドン!

でも聴けば聴くほどよく出来ている音楽。
ハイドンをうまく聴かせようとすることって、非常に難しい。
高校時代、いっとき同校のオーケストラに所属していて、ハイドンの96番をやることになった。もう大変。ソロも多く、メンバーの技量が一定でないと空中分解してしまう。早いパッセージではもうぐちゃぐちゃに。モーツァルトの方が雰囲気で音楽を作れてしまう。

アバドとヨーロッパ室内管の、若々しくも小股の切れ上がったようなイキのいい演奏は、ハイドンにピッタリ。今、マーラー・チェンバーの面々と演ったらさぞかし面白いだろうな。

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2007年4月 7日 (土)

チャイコフスキー 交響曲第5番 アバド指揮

Asakusa_sakura_1 桜のある風景。
今日は、昨日撮った「浅草」のアサヒビールの○○○ビルを背景の1枚をどうぞ。

浅草には幸運なことに、隔週くらいで訪問しています。
しかも、訪問先はこの画像の近く。
隅田川沿いのビルの上階で、いつも厳しい打ち合わせを行いながらも、窓の外はこの○○○が鎮座していて、心和ませてくれるのであります。
ここからは、お花見も、隅田川の花火大会もベランダから臨むことができて、夢のような立地なのであります。そして、近くには、「カミヤバー」を始め、有名な店がたくさん。
そして、浅草は、日本人の各地のなまりばかりか、世界中の言語に満ち溢れる国際観光地なのであります。
だから○○○は、このオブジェ本来の意味であるところの「炎」。そう前進を意味する「躍進」をかたどっていると、ここに宣言しておかなくてはなりませんね。

Abbado_tyaiko5 今日の1枚は、そんな「炎」ような「躍進」が音楽の隅々に感じられる演奏を。
超メジャーとなった名曲、チャイコフスキーの第5交響曲を、「アバド指揮ロンドン交響楽団」で。

1970年、アバド38歳の録音。
そう、日本は万博の年で、大阪フェスティバルホールに、キラ星のごとく世界中から名オーケストラやオペラ団が訪れた。

当時はアバドは、デッカに数枚録音していたが、日本では「若い俊英」と評されるだけであった。

カラヤンやベームのドイツ系ばかりが本格扱いされ、イタリアの若い指揮者などは、「イタリア人らしくよく歌う」とか「明るい」とかいうレッテルしか貼られず、あまり聴かれなかったように思う。

そんなアバドを強力にサポートしたのが、DGである。
ロンドン、ベルリン、ウィーン、ボストンで、名門オケを相手にロッシーニは別として、カラヤンのレパートリーを次々に録音していった。
スカラ座とのヴェルディ、シカゴとのマーラーは、もう少しあとのはなし。
今日のチャイコフスキーもまさに、カラヤンの得意分野。
これ以前にニュー・フィルハーモニアと2番、このあと、ウィーンフィルと6番4番を録音したが、DGでは全集に至らなかった。
後に、全集の一環として、シカゴ響と。さらにベルリンフィルとも録音しているが、このロンドン響とのものは、アバドとの出会いの頃の、私にとって一番大切な1枚である。

響きが豊かで、かつ全体がしっかりとまとまっていて、交響曲としての枠組みが完璧なカタチで示されている。
でも、節度を保った豊かな歌に満ちていて、オケがニュートラルなものだから、しなやかな雰囲気は聴いていてホンワカとしてしまう。特に第2楽章。
終楽章も前途豊かな希望に満ちていて、前へ進む力に満ちているが、強引さは少しもなく、オペラの一場面のように劇的であると同時に、自然な感情の高まりが音に現れていると思う。

円熟の極にある、アバドという指揮者をこうした過去の演奏で聴いていただくのも、アバドが昔から変わらなかったことが認識できるものと思う。

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2007年3月26日 (月)

チャイコフスキー 交響曲第4番 アバド指揮ウィーンフィル

Byoudouin_sakura2 いきなり春がやってきちゃった。どこ行ってたの?という感じもあるけど、来たらうれしい春。
先日、大阪出張のおり、宇治にも仕事があり、いつもの癖で空いた時間で周辺を散策。
「宇治」といえば、「宇治川」に「平等院」。
平等院の枝垂れ桜は、ちらほらと花開いていた。う~ん、ええなぁあ。

Uji_river Byoudouinなみなみと豊富な水量の宇治川沿いを散策し、夕刻迫る平等院へ。
平等院なんて、中学の修学旅行以来。
記憶の中の平等院、いや名勝のどこもかしこも、もっと大きく広々としていたはずなのに、こうして訪れてみると以外に小ぶりなサイズ。
この感覚は不思議。自分が幼少時代過ごした場所、まして幼稚園などを訪問すると、まさに箱庭のよう。
こんな感覚は誰もが経験していると思う。
だからよけいに、今、このときが大事なのよね!

Photo_3 アバドがチャイコフスキーの後期交響曲を録音したのは70年代前半。
DGの大交響曲全集には間に合わなかったけれど、75年に録音したこの4番で後期が完結。同じ「ウィーンフィルとの悲愴」は73年の録音。
76年に国内発売されたこのレコードが、私のチャイコ4番の初レコード。
以来、悲愴と同じく、擦り切れるくらい聴いた1枚。

後年、シカゴ響との再録音は、オーケストラの優秀さもあって、強靭な歌と鋭いエッジに満ちた名演に思うが、こちらはなんといってもウィーンフィル。
アバドの柔らかな指揮振りに、随所にウィーンらしいまろやかさや、ホルンや木管の独特の響きが聞かれ、オペラの一場面のような豊かな歌に全編満ちている。

ウィーンフィルでも、カラヤンはうま過ぎて鼻に付くし、ゲルギエフはやりすぎて、オケが軋んでしまいかわいそう。
私としては、やはりアバドやプレヴィンがいい。
第2楽章の木管の響きとアバドの敏感な指揮ぶり、終楽章の明るく、冷静ななかにもおおらかな歌声の満ちた爆発的なエンディング。

過去の演奏を懐かしむというよりは、今を確かめながら過去の演奏を確認する。
そしてそこに大いなる喜びを見出す。音楽はそうして、いつも新しい何かを自分に与えてくれるものと思う。(な~んてね)

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2007年2月 2日 (金)

ブルックナー 交響曲第1番 アバド指揮

本日も晴天なり。乾燥した空気は、曲がり角を何十回も過ぎた中高年のワタシのお肌によろしくない。駅のトイレで見た自分のカサカサの顔に驚き、構内の「無印良品」で男性用乳液を購入(実に便利なステーション・ライフ)し、すかさずお手入れ。アタシら中高年も肌のケアはしなくてはネ・・・・。ふふふ。
それより都心で、もう花粉が舞っているとのこと。異常気象も慣れれば普通か?

Abbado_bru1 1866年、ブルックナー42歳の作品、交響曲第1番。
え? 42歳で1番?? そう、このあと72歳で没するまでの30年の間に残る8曲の交響曲を苦労しながらも書くわけだ。
それこそ、中高年の仲間に入るまでブルックナーは何をしていたのか?
答は「オルガンを弾いていた」。その合間に作曲法を勉強し、ミサ曲や序曲、無印交響曲、第0交響曲なんぞをモジモジしながら書いていた。

この1番は、そうしたブルックナーがリンツ教会のオルガニストを務めていた時に作曲され、その時の版を「リンツ版」といい、手直し名人の名のとおり、後年66歳になってから手を入れた版が「ウィーン版」といわれる。
どちらも、作曲者自身の手になるものだから、優劣は言えないが、私はリンツ版の方がフレッシュで好きだ。
そもそも、ブルックナーの日陰者的な地味交響曲が好きなのだ。
この1番に、2番、6番の3作品。とりわけ、それぞれの緩徐楽章がいい。
前にも書いたことがあるが、アルプスの山々に咲く花々のように可憐でいじらしく、自然の力強さに満ちている、という感じ。

さてこの好きな1番、いろいろ聴いているが、文字通り一番好きなのが、アバドが1969年・36歳のデッカ録音のもの。最近CD化され即購入したが、ジャケットが陳腐ゆえ、所有するレコードジャケットをご紹介。
早めのテンポで溌剌と進むブルックナーゆえ、人によっては違和感があるかもしれない。
ロッシーニのようだ、と評した人もいる。冒頭が行進曲風だからよけいだ。
私はこんな明るく前向きブルックナーも好きだ。
そんな溌剌とした部分と対比するような、優しい鳥の歌のような木管やみずみずしい弦の調べなどが、ウィーンフィルの魅力とともに100%味わえると思っている。
もちろん、第2楽章のアダージョは清らかで素適な演奏。

Abbado_bru1_1_1 30年以上を経過し、2度目の録音は1996年。
DGへのブルックナー・シリーズの一環は、瑞々しさはそのままに、旋律の歌いまわしの自在さや表情にスケール感が増している。
 デッカ盤 46分15秒    DG盤 48分27秒
演奏時間にもそのあたりが現れている。
ソフィエンザールの生々しくウィーンフィルの音を捉えた録音に対し、柔らかでマイルドなムジークフェラインでのDG録音。
比較して聴くと、どちらも捨てがたく、日陰者1番の魅力が充分に味わえる。

「アバドのブルックナー」ジャケットをフォト・アルバムにしてみた。

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2006年12月29日 (金)

マーラー 交響曲第5番 アバド/ルツェルン

これぞ冬。寒い一日は、身が引き締まる。クリスマスが終わると夜の街は、暗く寂しくなってしまう。日本ってどうしてこうなんだろう?25日を境に、昨日までのクリスマスのことなんか、まるでなかったことのように、きれいさっぱり忘れ去ってしまう。
キリスト教国でない国の、単なるお祭騒ぎの一環なのだ。何だかなぁ。。。?

H6_w06_gross リングのあとのバイロイト放送は「さまよえるオランダ人」。
短いから、終わったあとに長いものも聴ける。それが嬉しい。
アルローの夢想に満ちた独創的な演出は、4年目で、どこか昨年の二期会の舞台にも似てる気がする。
昨年は、オランダ人のラシライネンがふらふらで、さっぱりだったが、今年は再びトムリンソンが復帰して、音楽に安定感が戻った。独特の存在感ある声は立派ではある。
タガーのゼンタがいいが、エーベルツのエリックが力みすぎ。
M・アルブレヒトは可もなし、不可もなし。普通すぎるかも。

Abbado_mahler5 短いといっても2時間30分の幕間なしの通し上演のオランダ人のあとに、マーラーなんぞ聴くと、それなりにヘビーでこたえるが、今晩はDVDで視聴。

今年の、いや私の音楽体験のなかでも、トップに位置したともいえる「アバドとルツェルン」の来日公演。マーラーブルックナーも人間が成し得る極めて高度な音楽表現だった。あの時以来、マーラーの6番は聴けなくなってしまった。

この思い出に少しでも近付きたくて、2004年のルツェルンで演奏された第5交響曲を取り出した。いるいる、あの時のメンバー達が。ついでに会場には降り番のポリーニまでいる。
 さらにVPOやBPO、ABSQ、ハーゲンSQ、グッドマン・・・錚々たる顔ぶれがずらりと居並び、アバドの指揮棒に見入って体を揺らしながら、夢中になって演奏している。

このもの凄い集中力を何といったらいいだろう。ソロ奏者でも一流の面々が、互いの音を聴きながら、アバドの指揮だけを信じて音楽に没頭する姿。
アバドの指揮もしなやかで自在なもの。時おり、笑顔で楽しそうに振っている。
こんな姿は東京でも見られた。マーラーの5番や6番を笑顔で指揮するのは、この人くらい。マーラーの音楽と一体化して、好きでしょうがないといった感じ。
過去2度の録音より、テンポも速くなり、無駄なものが一切ない透徹し切った演奏は、見て・聴いていて、時間の経過というものを忘れさせてしまう。
気が付いたら最終楽章のコーダの興奮の中に自分を見出す。
聴衆の興奮と楽員の晴れやかな顔も充分に楽しめる。

この選曲はかなり意識したもの。一昨日から、チャイコフスキー、シューベルトと5番の交響曲が3つ並んだ。「5・5・5」、「ゴー・ゴー・ゴー」、語呂がよろしく、来年に向けての勢いもある。「5・5・5」はシリーズ化しよう。

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シューベルト 交響曲第5番 アバド指揮

Beer_2 今夜のターミナル駅は、「お疲れさまでしたぁ、よいお年を・・」な~んて会話が、あちらこちらで聞かれた。
そんな仕事納めの方々に送る「お疲れさまビール」、先だって行った激ウマ・ハンバーガーショップのビール画像です。

「こちとら、まだ明日もあさってもあらぁな」というより、数日後すぐに会うのに何でこんな仰々しい挨拶するのさ?と毎年思いつつ、「お世話になりましたぁ」なんて言ってる自分。帰宅すると、今宵はカレー。う~む・・・、カレーには、サッポロ・ドラフトワンだ!!
占いづいているのか、「カレー占い」なるものを発見。私は陽気な「トド・カレー」だってさ?ようわからん・・・・。

G1_w06_gross NHKのバイロイト放送のリングは、いよいよ大団円「神々の黄昏」。
舞台写真を見ると、シェローの歴史的な76年演出の装置に似ている。
ドロストの演出は、やや主張が弱く賛否両論のようだ。
音楽に関しては、指揮者のすごさと、今後のチームワークも加味されてくれば、ベームやブーレーズ以来のリングになるのでは、と期待させる。
黄昏では、ワトソンのブリュンヒルデがハリのある声で実に良いと思った。本来リリカルなフォンタナのグートルーネは絶不調。どうしたのだろう。
最後の自己犠牲のワトソンの歌唱とティーレマンの指揮の素晴らしさは稀に見るもので、ホントにホントにいい。涙が出てきた。

ワーグナー好きに朗報、29日深夜、NHKBSで「ビルギット・ニルソン」のドキュメンタリーが放送されますよ。

連日のワーグナー呪縛。その後のブログ更新。年末のこの時期、胃も耳も疲弊してきている。あともうひと踏ん張り。こんな今の私に、ピッタリなのがシューベルト。
何ていったって、作曲家占いじゃ、わたしゃぁ「シューベルト」だもの(自慢してる)。

Abbado_schubert ロココ的なムードと優しさに満ち溢れた5番の交響曲は、シューベルトの交響曲の中では、一番愛らしく、楽しい気分が横溢している。
こんな素敵な交響曲をシューベルトは19歳で作曲している。ベートーヴェンが第9を作曲している頃。私は19歳のとき、一体何を・・・・。

アバドとヨーロッパ室内菅は、軽やかにに口笛でも口ずさむように演奏している。リズムは弾み、響きは柔らかく、どこまでも爽快なシューベルト。
当時の気鋭の若い奏者達で組織されたオーケストラも初々しく、新鮮。このオーケストラから、今はきっとウィーンやベルリン、各地のオーケストラに羽ばたいていって活躍しているであろう。
今は冬だけど、こんな春を感じさせる曲に演奏に、ほっと一息つきたくなる。
我ながら、いい選択だった。(自慢してる)。

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2006年12月18日 (月)

R・シュトラウス 交響詩「死と浄化」 アバド指揮

Suzuran 札幌大通り公園の「ホワイト・イルミネーション」。よく見たら毎年同じ。
この「すずらん」も数年前からお馴染み。でも、きれいでなにより。
この公園内は、アイスバーンと化していて、恐ろしくツルツル。あらゆる国の言葉がすべる悲鳴と共に聞かれるのも、国際観光都市「サッポロ」ならでは。私もカメラ片手によちよち歩き。「なまら怖いさぁ」

Abbado_rstrauss 今日の「のだめ」は、「シューマンの第2ソナタ」と「ペトルーシュカ」。
渋いぜ。おまけに、ペトルーシュカは「今日の料理」ときたもんだ。愛好家なら誰しも「はは~ん」とくるミス・マッチング。
ついでに「キューピー3分クッキング」も絡ませたら最高だったのに。
それにしても、おカマちゃんが多すぎる。困ったものだ。
音楽界にはとかく多い(?)が、クラシック界をヘンな色眼鏡で見られちゃ困るわ・・・・・?

そんなことは、さておき。R・シュトラウスでも聴こう。
シュトラウスは何を聴いても、その豊穣なサウンド、甘すぎる音色、激しくも良く鳴るオーケストレーションに夢中になってしまうが、私の場合オペラに比べると、管弦楽作品で聴く指揮者は限られていて、「プレヴィン、ハイティンク、メータ、アバド、ケンペ」となっていて、「カラヤンやショルティ、マゼール」はあまり積極的でない。サラリ系か、スピード系が好き。

アバドが手兵のロンドン響と1982年に録音したこの1枚には「ドン・ファン」「ティルオイレンシュピーゲル」「死と浄化」の3曲がきれいに収められている。
当時、ストラヴィンスキーやプロコフィエフ、マーラー、ヴェルディに没頭していたアバドが、まさかR・シュトラウスのこうした有名曲を録音するなんて夢にも思わなかった。
しかも、オーケストラがウィーン・フィルでもシカゴ響でもなく、ロンドン響だった。

3曲とも音楽的で作為がなく、シュトラウスの音楽の楽しさ・無類の表現力とは一線を画した順音楽的な演奏に思う。前半の2曲は、後のベルリン盤がかなり勝るが、「死と変容」はアバドに合った抒情的な作品なので、淡々としながらも繊細でしなやかな演奏は期せずして曲の核心に迫っている。

作者25歳の若書き。(その頃、私は何をしていたろう・・・)
「死に瀕した貧しい重病人が、うなされながらも、子供の頃の思い出にふける。しかし、死は容赦なく彼を連れ去る。しかし、その魂はあこがれの天上に召される・・・・」
こ~んな、ヘヴィーな詩が後付けでつけられた。

死との戦いについては他にいくらでも激演があるが、天上に昇華するような音楽の描き方の美しさにおいては、アバドは完璧に美しい。静やかに歌っている。
オケもニュートラルできめ細かく、ぬくもりもある。

「グスタフ・クリムト」の絵をあしらったジャケットもセンスがよく、スピーカーの上にでも飾って聴いていると雰囲気がすこぶるよろしい。

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2006年11月26日 (日)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 C・リカド&アバド

Rachmaninoff_p2_licad_abbado 久しぶりに音楽に戻ってきた。日曜の夜10時。
出張や実家への所用などでまともに音楽が聴けず、記事更新も間が空き音楽渇望状態に陥ってしまった。次週もこんな感じだからどうしよう・・・。

そんな訳で、リング・シリーズも完結する時間がないし、シュトラウス・オペラ・シリーズもダメ。 だめ? ん? NO?  のだめ? じゃん・・・。
あの手の最新流行に極めて奥手のわたし。まず娘が友達から漫画を借りてきた。
何気に手にする父。「なにこれ、おもしれーじゃん」。 テレビも私以外が笑って見ていた。
半信半疑で見てみた。「ひゃひゃひゃっ・・・」、家族の誰よりも笑う父。

かくして、わたしも毎週月曜9時を楽しみにするおじさんとなった。

音楽渇望を短時間で埋めるには、コレだ!! とばかりに取りいだしたるは、「ラフ2」こと「ピアノ協奏曲第2番」だ。ラフマニノフ好きの私にとって、「ラフ2」は「交響曲」であるが、コンチェルトも2番だったのね。「ソナタ2番」もいいし、過度に失敗を恐れるラフマニノフにとって、失敗と思い込んだ1番の諸作より、2番の方が自信に満ちた傑作となったのも頷ける気がする。

ともかく歌と美しい旋律に満ちた音楽。映画「逢引」に使われ皆を陶酔させたこの音楽の魔力は、今となっては「のだめカンタービレ」の楽しい世界にとってかわられた。
あのドラマでは、連綿たる抒情ややるせない恋情というより、音楽の楽しさやそこに打ち込む情熱がこの音楽によって表わされているように思う。(後続のドラマがどうなるか、知らないけれど・・・・・)

1楽章の鐘を打つようなピアノの打鍵のあと訪れる荘重かつ豊かな歌、2楽章の甘い連綿たる歌、3楽章の技巧の限りを尽くしたピアノの飛翔と大きく息づくロマンテックな歌。
何度聴いてもいい曲。エンディングの「ジャンジャカジャン」は、毎度お馴染みでも。

ピアノの「セシル・リカド」は、フィリピン生まれ。音楽家の家系に生まれピアニストになるべく育てられ、アメリカに留学後、「ゼルキン」「ホルショフスキ」「リプキン」に学んだ本格派。
1983年に「アバドとシカゴ響」との共演後、このCDは録音された。
若々しく、まさに若鮎のようにしなやかで、生き生きとしたピアノ演奏だ。考えたり、とどまることがなく、音楽は前のみを向いて進む。伸び盛りの若さの特権だろう。
完璧な技巧のもとに、歌いまくるところも万全。気持ちのいいピアノ。
 サポートする「アバド」も、歌うことにかけてはひけをとらない。マーラーやチャイコフスキーのシリーズで相思相愛だったシカゴ響がガンガン鳴らずに、柔軟で精緻な響きを聞かせるのもいい。後年、ベルリンでの「ジルベルシュタイン」との共演より、私は好きだ。

テレビでは、「アーノンクールのモーツァルト」をやっている。こちらはビデオ撮りし、今夜はラフマニノフに熱中しよう。

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2006年11月21日 (火)

ロッシーニ 序曲集 アバド指揮

Abbado_rossini 今日は懐かしいまず1枚を。
アバドが1975年にロンドン交響楽団と録音した「ロッシーニの歌劇序曲集」、ロンドン響と蜜月時代の幸せを感じさせる演奏。

  「セビリアの理髪師」 「チェネレントラ」 「どろぼうかささぎ」
  「アルジェのイタリア女」 「ブルスキーノ氏」 「コリントの包囲」

理髪師とチェネレントラ(シンデレラ)は、71年の全曲録音からとられていて、ちょっとズルイかな。でも演奏はそんなことを抜きにして、素晴らしすぎてウキウキしてしまう。

 アバドがアルベルト・ゼッタの改訂版で、当時よりオリジナルに近いと思われたロッシーニ演奏を打ち出す前までは、大オーケストラで過剰な響きに満ちた重ったるいロッシーニ演奏が当たり前だった。それはそれで、ブッファの伝統的解釈としてドタバタと楽しいものであったろう。
 でも、アバドの「チェネレントラ」と「セビリア」が登場した時、その清新な響きに、皆驚かされたであろう。 そしてこの序曲集は、全曲盤より広く聴かれたはずで、余分な脂肪をそぎ落とし、すっきり爽やか、軽快かつ心地よい響きに気持ちよい思いをした方も多いに違いない。今聴いても、どこまでもよどみない歌は美しく、一緒に口笛を吹きたくなるような歌心に満ちている。いわゆるロッシーニ・クレッシェンドは、弱音で歌うアバドの面目躍如たるもので、完璧に決まっている。アバドを優等生とか面白味がないという方には、チェネレントラ」序曲でも聴いていただきたい。いつ幕が開いてもおかしくない劇場の感興に満ちている。
Abbdo_rosiiini  ジャケットもセンス溢れる素敵なものだった。最近国内廉価盤で、オリジナルが復活した。これが1000円で買えちゃう、嬉しいけれど、複雑な気分。こちらは、私の持つ再発レコード。2000円でも廉価盤だった・・・・。

  

Abbado_rossini_rca 1978年にどうしたことか、RCAにロンドン響と録音したロッシーニ。
 「セミラーミデ」 「絹のはしご」 「イタリアのトルコ人」
 「セビリアの理髪師」 「タンクレディ」 「ウィリアム・テル」
規模の大きな序曲もあり、録音もキングスウェイ・ホールでRCAということから、こちらはやや響きが壮麗。でも小気味良さは変わらない。

Abbado_rossini_eco 1989年若い手兵「ヨーロッパ室内管」と再び録音。
 「セビリアの理髪師」 「セミラーミデ」 「アルジェのイタリア女」
 「ウィリアム・テル」 「チェネレントラ」 「絹のはしご」 「どろぼうかささぎ」
実に3度目の録音もある、このCDは前2作をミックスしたような選曲。
テンポも速まり、小回りのより効いた自在な演奏。鮮度はやや後退したが、若い演奏者たちとのコラボを楽しんでいる様子が目に浮かぶ。

最近のロッシーニ演奏が、どういう状況にあるか、私には不明だが、これらのアバドの演奏はひとつのスタンダートであり、トスカニーニやカラヤン、ムーティらとも全く異なった個性的な演奏だと思う。

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2006年11月 5日 (日)

チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 アバド

Abbado_tyhaiko6_ さて今日は名曲を一発。
「悲愴」ほどの名曲となると、なかなか改まって聴く機会がないし、ちょっと濃いから田園や新世界のような訳にいかない。
でも名曲の名曲たる由縁、愛好家が必ずとおる道にこの作品はある。

今の若い方々はどうかしらないが、私のような年代だとおそらく「悲愴」には泣かされたのではなかろうか。悲哀に満ちた旋律に胸かきむしられるような感情を持ったものだ。私の最初のレコードは、コロンビアのダイアモンド1000シリーズ(知ってますかねぇ)のパイ原盤による「バルビローリ」盤だった。やるせなくなるような悲愴だった。
今思うと、バルビ節だった。
 これに親しんだ私が、大好きな「アバド」の「悲愴」が出て飛びついた。しかもウィーン・フィルだった。

Abbado_tyhaiko6 1973年、ちょうどこのコンビの来日のあと、ムジークフェラインでの録音。
黄色がトレードマークだった、当時の日本グラモフォンは、大いに売り出したものだ。
 高校生だった私は、まず一聴して、その生々しい録音の素晴らしさに目を剥いた。安いステレオが実によく鳴った。それも、まだ見たことも聴いたこともなかったホールのややデットながら柔らかな音をまともに捉えた音だった。ウィーン・フィルといえば、デッカのゾフィエンザールの分離のよい明晰な録音のイメージが強かったが、DGはコンサートの本拠地での録音を敢行し、見事な成果をあげていた。

録音ばかりでない、アバドの明るく、今生まれたばかりのような新鮮な解釈は、当時チャイコフスキーなんてほとんど演奏したことがなかったウィーン・フィルの面々を夢中にさせ、正にウィーン・フィルの魅力満載の滴り落ちるような美音を響かせることになった。

ウィーンの管楽器の独特の音色で聴くチャイコフスキーは本当に魅力的。
アバドの指揮もおそらくこれらの美音を意識しつつ、旋律をいとおしむように歌うところは、若いこの時期ならではのもの。
しかし、センチメンタルな憂愁はこれっぽちもなく、ここにあるのは、純粋に楽譜に書かれたチャイコフスキーの美しい音だけである。
 第1楽章の素晴らしい第2主題が次々と展開される場面は、さながら夢のような美しさ。
それが事切れ、ファゴットの下降する音が止む。指揮者とオーケストラが次のフォルティシモに向けて身構えるところは、緊張の瞬間が捉えられている。そのあとに続く生々しい展開も、威圧的にならない。
 中間部の弱音の部分の歌い方が豊かな第2楽章、騒々しくなく平常心の第3楽章、重苦しい情感がなく、淡々と染み入るような第4楽章。

久々の「アバドの悲愴」は、若き日々に聴いた通りだった。

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2006年10月30日 (月)

ブラームス セレナード第1番 アバド

Abbado_brhams_serenade 今日はいい天気。日差しは暖かいけど、空気はちょっと涼しい。
思い切り深呼吸すると、ほんとに気持ちがいい。

こんな秋晴れに日は、月曜にもかかわらず、ブラームスがいい。
ブラームス25歳(1858年)の若書きの作品11のセレナードを聴く。

ほんの少しあとに作曲された、管楽のための2番と対をなすこの1番は、フルオーケストラのために作られた。
全6楽章、若いとは言え、全編どこをとってもブラームスそのものの音がする。
明るい活気に満ちた1楽章から泣かせる。今日のような天気のいい日に、草原に大の字に寝て聞いて見たいような曲だ。ほんとにいい曲なのだ。
3楽章のアダージョの静やかな様子は、後年の交響曲の緩徐楽章そのもの。
内省的だが、もう少し青臭く、回顧的でなく、今青春を愁う様子が感じられる。
哀愁にみちたメヌエットやスケルツォ、快活な終楽章。
 後年の重苦しい北ドイツ的な雰囲気は皆無なのだ。

アバドが81年に音楽監督になる前のベルリン・フィルを指揮した演奏は、アバドの気質にピッタリあった曲だけに悪かろうはずがない。
どこまでも明るく、屈託がない。リズムは弾み、音楽は次から次へと進み、旋律は晴れやかに歌われ、決して低回しない。
 まだカラヤンが頑張っていた時期だが、そろそろコンビに隙間風の吹きだした頃。
アバドの明るい色調の音楽作りに、ベルリン・フィルが嬉々として楽しそうの取り組んでいるのがよくわかる。このコンビの超名作、第1回目の2番の交響曲を思い起こすような素敵な演奏がこれである。

デビュー間もないアバドとベルリンのセレナード2番も、滴るような美演。
今年、アバドは「マーラー・チェンバー」とこの1番を演奏するはず。
若さにどんどん逆戻りするかのような、マエストロ。聴いてみたいもの。

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2006年10月22日 (日)

ヴェルディ 「シモン・ボッカネグラ」 アバド指揮

Simon_1 アバドの録音の中でも、非の打ち所のないトップクラスの超名盤CD。

いや、あらゆるオペラ録音で、自分のなかでは5指に入ると思っているうちのひとつが、この「シモン・ボッカネグラ」。
アバドの指揮姿が鮮やかに残影として残っているうちに、これを取上げてしまおう。

スカラ座監督時代、執拗に同じキャストを伴って上演し続けた「シモン」は年を経るごとに完成度が高まっていった。
そしてそのピーク時に伝説的な来日公演が行われた。(1981年)

Simon_2 76年のこのレコード録音も完璧なまでに素晴らしい出来栄えで、一音一音に気持ちとドラマがこもっていて、その雄弁さに驚いてしまう。

前作「マクベス」がレコード・アカデミー大賞を獲得してしまったので、こちらは受賞できなかったが、歌手も含めた完璧さでは、「シモン」の方が上だと思う。
アバドは、この地味な作品の人間ドラマの隅々までに、光をあて、深遠な心理ドラマを作りあげている。アバドがいなければ、そして故カプッチルリがいなければ、「シモン」は埋もれたままのオペラであったろう。
これほどまでに、アバドが心血を注ぐ作品はなかったろう。あと、オペラで名前を挙げれば「ボリス・ゴドゥノフ」「ヴォツェック」「トリスタン」、であろうか。

Scala 81年のスカラ座初の日本公演は、音楽監督のアバドが「シモン」、「セビリアの理髪師」、「ヴェルディのレクィエム」。
同行したカルロス・クライバーが「オテロ」と「ラ・ボエーム」、合唱指揮のガンドルフィが「ロッシーニのミサ」を。
今思えば超々豪華版であった。
歌手も、フレーニ、シントウ、ヴァレンティーニ・テラーニ、ドミンゴ、アライサ、カプッチルリ、ヌッチ、ギャウロフ・・・と綺羅星のごときありさま。
今パンフレットを見てもため息がもれるばかり。

Scala_ticket 当時まさに新入社員であった私が、毎晩繰り広げられる先輩達への付き合いと薄給で、こんな夢の公演に行ける訳がなかった。
会社の付き合いが、すべてに優先される時代であった。
これまた恐ろしき時代。
でも、必死の思いでS席を手に入れたのが「シモン・ボッカネグラ」。

Simon_3 初めて会うアバドに、もうドキドキだった。颯爽と登場すると、会場は完全な暗闇に。これにはビックリ。当時文化会館で二期会のオペラなども観ていたが、非常灯やいくつかの明かりぐらいは点いていた。
ドラマと音楽への集中力を高めようという意図か。
文化会館の壁にオーケストラ・ピットの明かりを受けて浮かび上がるアバドの指揮するシルエット。そして最初の一音からして、そのけた違いの素晴らしさに驚き、心揺さぶられた。NHKのイタリア・オペラ公演ですでに「シモン」は実演経験済みだったが、N響とスカラ座オケのこのあまりの違い。深みのある音からアドリア海の風光が浮かびあがってきたのだ! あとは、もう感心と感動のしっぱなし。

Simon_trtio ストレーレルの名舞台は隙がなく、政治と偶然性にもて遊ばれる人間ドラマを、舞台で見事に表出していたように思う。
 プロローグの終結部の熱狂には大いに興奮したが、忘れ得ぬ場面は、お互いが父娘とわかったときのシーン。ここでアバドは、思い切りオーケストラを響かせ、観る側を感動の渦に引き込んだ。ヴェルディとは思えないような、濃密でロマンテックな場面だ。
 それから、3幕の悪役パオロが民衆のなみいるなかで、自分を呪わなくてはならなくなった場面。合唱も伴い、そのクライマックスで、音楽が一瞬止まる。
アバドが指揮棒を振り下ろし、止めると、舞台は衝撃を受けたパオロだけにスポットが当たり、真っ暗になった。この劇的な場面に鳥肌が立ったのを覚えている。
 終幕でシモンが苦しみのうちに死ぬ場面は、さながらレクィエムのように沈痛で静謐な音楽が展開された。

これらを情熱こめてまとめ上げた、アバドの劇場指揮者としての実力をまざまざと思い知らされた上演だった。
Simon_abbado
そして忘れ得ぬのが、全盛時代のフレーニ・ギャウロフ夫妻とカプッチルリの水ももらさぬ呼吸のあった舞台姿。このうちの男声二人が、もうこの世にいないなんて信じられない。それほどまでに生き生きとした姿が焼き付いている。
歌手生命のはかなさと時間の経過は留めようがない。

心からうれしいのが、アバドは時代とともに、音楽をする仲間は違っても、常に進化しつつ音楽を心から楽しんでいること。

「シモン」ばかりは、アバド以外の演奏は想定できない。ショルティ盤は聴く気もしない。
ムーティすら手を付けなかった。

 

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2006年10月20日 (金)

アバド ルツェルン祝祭管弦楽団 演奏会②

Lucerne_1 10月19日「ルツェルン・フェスティバル」の最終日。  

  ブラームス   ピアノ協奏曲第2番       ピアノ:ポリーニ
  ブルックナー  交響曲第4番「ロマンテック」

こんな、重厚だが素敵なプログラム。
50分に65分という、最近ではなかなかにお目にかかれない組み合わせ。そういえば、先般のコンサートも、マーラー1曲でも充分なのに、モーツァルトのこれまた素敵なアリアを前半に演奏してくれた。
今回は個性は違うが、最もドイツ的な2曲。ドキドキしながら、その始まりを待った。

ホルンの素晴らしいソロに続き、ポリーニのピアノが入ってくる。一瞬オヤっと思ったが、後は実に緻密でなめらかな演奏が流れるように展開される。
実は、先般のマーラーの響きがずっと頭の中にあって、リハビリ的に今日の曲目を聴いては来たが、耳が頭がブラームスに切り替わらない。自分でももどかしい思いが数分続く。
 あれよあれよで、3楽章。これにはまいった。
今日のチェロ主席のブルネロのソノリティの豊かさにである。泣けそうくらい感銘を受けた。ポリーニのピアノの硬質で宝石のような美しさも堪らない。
ここに至って、ようやくマーラーの呪縛が解かれた。
終楽章のピアノと驚異的に素晴らしい木管群との楽しいやり取りに、体が揺れ動いてしまうのを押さえようがなかった。
 同郷の朋友とめざましいばかりのオーケストラの醸し出すブラームスは、明るく、重心も少し上の方にある。こんな素敵なブラームスが大好きだ。

休憩後は、緊張をはらみながら、ブルックナーの開始を待った。
メンバーも勢ぞろいし、コンサートマスターのブラッヒャーもすでに着席し、音出しをしようと立ち上がった。その時、一人遅れてきた第一ヴァイオリン奏者が小走りに登場。
聴衆は、コンマス登場と勘違いして、拍手が巻き起こった。これには、聴衆もオーケストラの面々も大笑い。ははっ。これで緊張が解け、リラックスしてアバドの登場を待てた。
結構ナイスな雰囲気が醸し出された。

アバドが静かに棒を動かすと、さりげなく弦のトレモロが開始された。ホルンが一瞬ヒヤっとしたが、ここはもう百戦錬磨のメンバーたち。以降は全く危なげなく、スムーズに音楽がスイスイと流れ行く。
お酒で言うと純米大吟醸クラスになるとピュアな「水」に近くなる感覚を覚えるが、例えていうとそんなブルックナーのようだ。アバドは、マーラーの時ほど、情熱的に振りかぶらない。
音の響きを大切にしながら、ゆったりとした指揮ぶりだった。
 圧巻は第2楽章と終楽章。2楽章の森を散策し、時に立ち止まり、思いにふけるような美しいシーンが展開された。ビオラ・セクションのツヤの良さといったらない。
そして、マイヤーやズーンといった管の美しさは、ここで最大限に楽しめた。
終楽章は、まとまりを作るのが難しい曲だが、さすがはアバド。どこまでも流れよく、よどみなく音楽が橋渡しされていくようだ。そして常に鮮度の高い響きが伴っている。
最後のコーダが始まると、心のなかで、このコンビと今夜別れなくてはならない、という切なさがこみ上げてきて、涙が出てきた。

最後の和音が充分に鳴り切って、少しの間をおいて拍手が起こった。
今日の我々聴衆も、音楽の一部となって一体感を共感していた。素晴らしい聴衆。
アバドもオーケストラもそれは、充分に感じてくれたものと思う。
舞台近くで聴いていた方の話だと、先日のマーラーでも抱き合って泣いていた奏者がいたというし、今夜もそうしたシーンがいくつかあったという。

200132 聴衆も楽員も、そしてアバドも、純粋に音楽を感じ、音楽のためにそこにあった。
これぞ、音楽を楽しむ真の素晴らしさであろう。
今回のいくつかのコンサートは、生涯忘れえぬ思い出となろう。
そして、これからも純粋に音楽を聴いて生きたいという、なにやら前向きな気持ちで一杯になった。

終演後、楽員たちを見送った。ザビーネ・マイヤーも間近に拝見し、微笑んでいただいた。ふふふ。そしてそして、マエストロを見送ることもでき大感激。
 ご一緒できた「romani」さんと、アバド大好きの皆さんとコンサートの打ち上げとアバドの健勝を祈って美酒を楽しむことができました。大感激!!
 

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2006年10月14日 (土)

アバド ルツェルン祝祭管弦楽団 演奏会

Lucherun 10月13日(金)サントリーホール。ルツェルン・フェスティバル・イン・東京2006のオーケストラ・コンサートは、モーツァルトのコンサート・アリアで穏やかに幕を開けた。

K416・K418・K383の3曲をアバドお気に入りの「ラヘル・ハルニッシュ」のソプラノで。細身の姿にお似合いのきめ細かな美しい声。
やや苦しいところもあったが、小編成のオーケストラの暖かなバックに支えられとても気持ち良い歌を聴かせてくれた。
デビュー当時の「シェーファー」を思わせる歌手で、これから彼女のように性格的な歌も身につけ大成して行くかもしれない。

休憩後のメイン「マーラー 交響曲第6番」。
前日のリハーサルに立ち会うという幸運を経ての本番だけに、聴くこちらも聴き所を予め設定して準備万端。ある意味リラックスもしてアバドを待ち受けた。

開始早々、リハーサルとは全く違うオーラがアバドの後姿から照射される。
オーケストラは全員夢中になって体を揺らしながら音楽を思い切り受止めている。
いろいろ意識していたこちらも、もうすべてを忘れ目の前に繰り広げられる音楽に完全に没頭し、意識も何も消し飛んでしまいホールの一部に自分が組み込まれてしまったかの気分になった。
ただもう音楽がそこにあり、自分がそれに向かいあっているだけ。
80分間にわたりずっとその感触。言葉に出来ない。浮かばない。
感動といった次元とも違う何かかもしれない。わからない。

ベルリン盤と同じく、従来の2と3楽章を入れ替えた演奏。
これに慣れると、かつての演奏も入替えて聴いてしまう。昔からそうだった気がする。
そんな考えも頭をほんの少しよぎるだけ。
かつては、マーラーの音楽をまず意識した。悲劇的であるとか、フロイトであるとか、アルマであるとか・・・・。マーラーに慣れ親しんだわれわれには、もうした知識は折込済みであるにしても、今回の演奏は「マーラー」云々という概念をひとつも感じさせない。
音楽とそれに奉仕する演奏家だけがそこにあった。

終楽章の終わりのあたりで、涙腺を刺激された。もっと続いて欲しい。
だが、曲は無常にも空しい終末を迎える。突然のトゥッティのあとの終結。

アバドが静かに腕を下ろす。われわれ聴衆は拍手も忘れ茫然と縛られたように座り尽くす。オーケストラの面々は動きを止めたまま。静寂が30秒は続いた。
ブラボーの一声が、呪縛を解いた。そのあと嵐のような拍手が続いた。
オケのメンバーの喜ばしい顔、そしてアバドの本当にうれしそうな笑顔。
メンバーが去ったあとも一人歓声に応えるアバド。
私が35年間見つめ続けてきた、偉大で謙虚な小柄な音楽家がそこにあった。

感想らしいことが書けない。言葉がないのだ。
ただひとつ、オーケストラのもの凄さ。ベルリン・フィルの次元とは異にする別ステージ。
くどいようだが、アバドとともに音楽するだけが目的の音楽集団。
私は、マイヤー(ワルトラウトじゃなくてザビーネ!)とアバドばっかり見ていたが、びっしり並んだスタープレイヤー。その狭間に随所に配置された先日のマーラー室内管の若いメンバー達。これからの音楽シーンを象徴するような図式かもしれない。

Abbado_3 1972年、ウィーン・フィルとマーラーの6番を練習中の若きアバド。
長髪の若々しい姿。
当時の評では、「人間の弱さと優しさを描きつくした」とされた。
この人のいい微笑みは今も変わらない。

Abbado_2_1 翌1973年、ウィーン・フィルと初来日した文化会館での演奏会。
ブラームスとベートーヴェンの3番のプロ、アンコールは青きドナウ。
テレビ放送に釘付けになった。
 あれから30年以上が経ち、病から完全に復調し、別次元を目指して飛翔するアバド。ベルリンの時より、にこやかで温厚な様子。
夢多き中学生だった私も今や中高年の一員で、夢も破れ空しく日々を過ごす。
かたや音楽界の頂点に上り詰めながら慎み深く謙虚なアバド。
これまで、彼の音楽に何度励まされたかわからない。
その総決算のような今回の演奏会だった

感動の火照りが覚めやらぬまま、アバド・ファンの方々と楽しい談笑と美酒を酌み交わすことが出来、望外の喜びでありました。楽しく語りあううちにまたも感動がこみ上げました。
素晴らしい機会をおつくりいただいたYさん、ほんとうにありがとうございました。感謝です。

本日土曜は、仕事ながら一日惚けたように過ごした。他の音楽が今日は聴けない1日。

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2006年10月12日 (木)

アバド ルツェルン祝祭管 リハーサル

Imgp3330 「ルツェルン祝祭管弦楽団」、アバドを慕って世界のトッププレーヤーが参集したオーケストラ。6年ぶりのアバドとともに遂に来日した。
オーケストラ・コンサートに合わせ、室内楽、「ポリーニ」リサイタルなど、が10月11日から19日まで東京で開かれる。

薄い財布に鞭打つように、2回のオーケストラ・プログラム・チケットを手にいれた。
おまけに、だめもとで出した「公開リハーサル」に見事当選。
数年前のわが「ベイスターズ」優勝の時と同じように、家庭と仕事を顧みない数日間が、幕を切って落とされたのだ。

3327 本日の様子(これいけないが、客席に明かりが灯ったので撮っちゃった)の一こま、アバドがいます。

定刻前に、「ハッピーバースデイ」がなってたが、詳細は不明。
いきなり、マーラーの6番が冒頭から始まった。
一楽章ずつ、すべてを演奏し、合間に少し確認を入れながらさらう程度。アバドのちょっとした指示でオケはすぐに反応している。演奏中もコンマスのブラッハーにいろいろ語りかけていて、実にスムーズに流れていく。全曲を2時間でさらい終えた。

休憩後、売り出し中のソプラノ「ハルニッシュ」を迎えてモーツァルトもコンサート・アリア。
ここでは、楽器の配置や音の大きさなどを、ホールに控える副指揮者に確認しながら、和やかに柔らかに音楽が進められ、終了。

明日の本番を控え、多くは書きません。
「ものすごいことになりそう」、ということだけ報告。

楽しかった光景、1楽章で「トランペット」がやや空転。繰り返し同じヶ所が巡ってくると、今度はものの見事に決まった。アバドは。左手で投げキッスを送った。
トランペット・トップのそれは嬉しそうで幸せそうな顔といったらなかった。

オーケストラのメンバーは、ほぼフルメンバー。見た顔ばかり。ザビーネ・マイヤーが一際目立った。終了後も、アバドはステージに残りメンバー達と会話を交わしている。
アバドとオケ、オケとアバドが一体となった稀有のメンバー。

帰り際、ホール出口で、「ネスカフェ・コーヒー」と「キット・カット」をいただいた。
こんな素晴らしい演奏をタダで聴けて、お土産まで頂戴してしまうとは、「ネスカフェ」さま、ほんとうにありがとうございましたぁ。

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2006年10月 4日 (水)

ゲオルギュー&アラーニャ ヴェルディ2重唱 アバド指揮

Gheorghiualagna_2  さて、前回人気絶頂の「ネトレプコ」を取上げたばかりだが、2物賜いしもうひとかた「アンジェラ・ゲオルギュー」を忘れては片手落ち。
ショルティに起用され、一挙に花開いた彼女は、ネトレプコの少し先輩にあたる。ルーマニアの音楽の環境ではない普通の家庭に生まれ、ものすごい努力を経て歌手になった。ルーマニア特有の黒髪にエキゾチックな容姿は魅力的だ。ネトレプコは、その名前ゆえ苗字にチャンをつけてしまったが、ゲオルギューにちゃんはおかしい。この場合は「アンジェラちゃん」と呼びたいが、彼女は大人の女性のシックな魅力で一杯だ。

しかも、ダンナがイケメン・ナイスガイのテノール「アラーニャ」ときたもんだ。
Gheorghiualagna2 「ネトレプコにMr.ビーン」は少し憎らしいが、「アンジェラにロベルト」はもう音楽的にも同質性が漂っているし、文句なしの実質コンビ。
舞台に録音にますます数が増えている。
こんな実力派同士のコンビ、しかもヒーロー・ヒロインのコンビはかつてないかもしれない。

今回のCDは、1998年に録音された「ヴェルディのオペラ・デュエット集」。
ここでも贅沢に「アバドとベルリン・フィル」がバックをつとめている。
この二人、もとはリリコからスタートしているが、徐々にドラマティコに役柄を拡張して行き、今ではカルメンやトスカ、マンリーコまでも歌うようになった。
無理をしてレパートリーを広げているわけではなく、慎重に自己の個性を活かしながら知的な歌に徹していて、その知能的歌唱は聴く側に快感にも似た爽快感を与える。
ドイツ物以外はすべてこなす驚異的レパートリーを既に手にいれているが、役の掘り下げも時代にマッチした重々しさのない、クールなもの。

Georghyu2 アバドとベルリン・フィルは隅々まで目の行き届いた相変わらず見事なもの。ヴェルディの沸き立つ興奮よりは、悩む登場人物の心理をとらえた、これまた知的なアプローチで、二人の歌にぴったりだ。

欲をいうと、せっかくのベルリン・フィルなのだから、もう少し伴奏ばかりでない部分も選曲して欲しかった。音楽が二重唱ばかりだと、単調におちいり、全体が少し平板に思う。

まあ、これは贅沢な注文。
舞台ばかりでなく映像も、技術の加速度的な進歩で、歌手の超アップが部屋でも楽しめるようになり、オペラのあり方もかわりつつある。
Cosmos_upimgp2545 歌手達も自助努力をして、美しい体とルックスを声とともに獲得・維持しなくてはならない時代になった。だから、イイ女・イイ男の歌手はこれからも続出するであろう。(たぶん)

千葉の佐倉のコスモス。

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2006年10月 3日 (火)

アンナ・ネトレプコ アリア集 アバド指揮

Netrebko_abbado_1 人気・実力とともにトップ・クラスとなった、ロシア出身の「アンナ・ネトレプコ」を聴く。バックを「アバドとマーラー・チェンバー・オケ」がつとめる豪華版。ソロデビューもウィーン・フィルとの共演で昨今ビジュアル派に対するDGの力の入れようがわかろう。
それ以上に、彼女の実力はピカイチだ。モーツァルト、ベルカントオペラ、ヴェルディあたりが得意とするところだが、今後徐々にドラマテックな役にも挑戦して楽しませてくれるであろう。

Netrebko2_1 天は2物を与えたもうた。ともかく美人である。ロシア風な彫りの深さと輪郭の整った美しさ。見た目は声にも言えていて、清冽で過剰な歌いまわしもなく、どこまでも音楽的で、かつドラマの一場面を常に思わせる演劇性も適度の表現されていて、誉めすぎながら完璧なのだ。

「トラヴィアータ」「夢遊病の女」「清教徒」「ランメルムーアのルチア」「オテロ」「ジャンニ・スキッキ」と次々に歌われ、アリアの周辺も他の諸役を伴って演奏されているために、こちらもオペラの各場面に引きこまれることとなる。
Abbdo_netrebko_1 中でも、ベルカントものは素晴らしい。高度な歌唱力を意識させない瑞々しさを感じる。「ルチア」では、グラスハーモニカの涼やかな伴奏を伴う玲鈴たる歌声に感動した。
将来、エルザやジークリンデなど歌ってくれないものだろうか?

嬉しそうなアバドの指揮も最高。オペラを知り尽くした指揮者が、優秀な室内オケをまったくやる気にさせ、オペラティックで精緻でかつ弾むような伴奏をおこなっている。
絶対指揮しないプッチーニが演奏されているのも嬉しい。

美人だからいつもより、画像も多くなっております。

そんなネトレプコちゃんとベタベタと共演の多い「ロラント・ヴィラソン」も人気物になった。
私は多くを聴いていないが、声の無類の美しさを認めるが、もう少し気品が欲しい。
声もベタベタとしんどいのだ。「アルフレート・クラウス」のような高貴なテノールはもういないのだろうか。
Vilason_2 Mrbsunr_2

「ヴィラゾン」と「ローワン・アトキンソン」すなわち「ミスター・ビーン」
同じである。
このイメージもどこかいけない。

ネトレプコちゃんにミスター・ビーンはいけない。
              (ヴィラソン・ファンの方すいません)
             美女に目が眩んだオヤジのやっかみである。

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2006年9月22日 (金)

メンデルスゾーン 交響曲第3番「スコットランド」・第4番「イタリア」 アバド

Abbado_menderrsson_1 涼しさが日に日に増してきて、ますます酒も旨いし、音楽も耳によろしい。
食事で発泡酒(ビールは家では飲めません)と芋焼酎をさんざん飲んだのに、音楽と共にシングル・モルトのスコッチをロックでチビチビ飲っている。

今晩は、快活でロマン溢れるメンデルスゾーンの定番交響曲をふたつ。

クラウディオ・アバド34歳の若き日の録音。1967年ロンドン・キングスウェイホールでのデッカ原盤。
音楽を聴き始めたころから、「レコード芸術」はバイブルだった。ついでに当時は「ステレオ芸術」なんてオーディオとクラシック音楽の融合本もあった。そしてFM誌はFMファンだ。
レコ芸も古いところは切り抜いたりしてしまった。今考えるとなんともったいない。

そんなひとつが、毎号巻末を飾っていた「ロンドン・レコード」の広告。
1971年の号で、300円ですよ。音楽メディアはむちゃくちゃ安くなってしまったけど、雑誌はその逆である。

広告にあるように、「アバドはアバード」だったし、「天才」扱いされていた。
天才なんて音楽家に対して、今はめったに使わない言語だろう。
クルー・カットのアバドの若さも印象的だが、風景写真を用いた見開きジャケットが美しい。

アバドが世界的な注目を浴びたのは、1965年のザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを振っての「復活」であることは有名だが、66年にはウィーン・フィルとベートーヴェン、ロンドン響とプロコフィエフ、67年には当録音やベルリン・フィルとのブラームス。68年にはスカラ座の音楽監督に就任するという、30台で破竹のキャリアを築いていった。

伸びやかで若やいだ表情が横溢するこのメンデルスゾーンは、均整の取れた美しい絵画のようだ。ハイティンクやサヴァリッシュのような陰りを帯びた抒情はないが、これからどんどん前向きにすすんで行こうという快活な明るさに満ちていて、聴く側もなんだか気持ちが
よくなってくる。
ロンドン響は当時、ケルテスやショルティらに鍛えられ最高のコンディションにあったオケで、後々アバドと個性豊な名演を残して行くのも納得できる。

1971年のレコ芸か・・・、万博は終わったけど、翌年には札幌オリンピックが控えていた。
「トワ・エ・モワ」の「虹と雪のバラード」なんてのを思い出してしまった。懐かしい~。

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2006年9月 2日 (土)

プロコフィエフ 交響曲第3番 アバド

Abado_janacek_hindemith_proko 昨晩は、ショスタコーヴィチの救いの無い暗い交響曲を聴いた。
今晩は、その少し先輩にあたる、プロコフィエフの交響曲を取り出した。
プロコフィエフの交響曲は、7曲あるが、1番と5番以外はなかなか人気が高まらない。
ショスタコほどには、交響曲作家ではないが、規模の大きい「歌劇」や「バレエ」といった劇場音楽にその真髄をみることができる。ついで言うと、ピアノ作品も、自身が名手であったとおり名作が多い。

7曲の交響曲は、V・ウィリアムズやショスタコーヴィチのように、それぞれが全く違う作風で書かれていてまったく飽きさせない。1番の単純さに続き、2番の春祭のような超暴力的な
作風に驚く、次いで書かれた3番は、2番の持つアヴァンギャルドな雰囲気は残しながらも、甘く美しい旋律も、冒頭の暴力的な旋律も、いわばなんでもありの曲になっている。

比較ばかりで恐縮だが、ショスタコーヴィチの4番の交響曲のようなつかみ所のない多彩な作品に似ている。

さきにふれたとおり、冒頭から叩きつけるような凄いサウンドに度肝を抜かれるが、それは冒頭だけ、続く旋律は親しみやすく、ロシア風の雰囲気になる。
高名な「ロミオとジュリエット」が好きな人ならば、この楽章も好きになるに違いない。
 一転して2楽章は、荒涼としたロシアの大地を思わせる怜悧な曲想に支配される。
このクールなリリシズムはプロコフィエフ独自の聴きものかもしれない。
 さて、注目は3楽章。いくつにも分かれた弦楽群が、不可思議このうえないグリッサンドを奏でるのだ。ネズミや猫が追いかけっこをしているかのような様子だ。
中間部では優しい旋律が繰返し各楽器間でやりとりされるが、すぐにまたネズミと猫が登場して、ファンファーレのように中間部の旋律も高鳴ってあれよあれよで終わってしまう。
 終楽章は、厳しいフォルテの応酬始まり、各楽章の旋律をさまざまに扱いながら技巧の限りを尽くして豪快に終わる。

突拍子もない音楽だが、繰返し聴くとプロコフィエフの独特な味わいが見えてくる。

1968年、アバド34歳の才気溢れる録音で、ロンドン響の曲への適性も抜群。
アバドは有名な5番は全く演らないが、この3番だけは何度も演奏している。
アバドに続くイタリアの指揮者達、ムーティやシャイーもこの曲を得意にしている。
イタリアの歌心を刺激する何かがあるのか。チャイコフスキー、ムソルグスキー、ストラヴィンスキーは演るが、ショスタコーヴィチは演らない。キーは「歌」であろうか?

知ってるようで、知らない、知られざるプロコフィエフ。
私には解明する能力も時間もないが、気になるプロコフィエフその人であった。
 

 

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2006年8月16日 (水)

ヴェルディ 「レクィエム」 アバド指揮

Abbado_requiem 毎年、真夏は各種レクィエムを聴いている。とりわけ、ヴェルディのそれは熱い祈りが夏にこそふさわしくも感じられ、聴くこちらも熱い気持ちになる。
中学生のころだったか、テレビでこの曲をバーンスタインとロンドン響のライブで観たのが、盛夏の頃だった。
テレビで見るバーンスタインは、飛んだり跳ねたり、両手で指揮棒を握り締め、時には祈りに満ち、かつ激情に満ちた指揮ぶりだった。こんな映像と音楽が一体化して、夏の印象ともなっている。

レクィエムは数々あれど、優しさと怒り、そして何よりもオペラティックなまでに歌に満ちたレクィエムは、このヴェルディの作品を置いて他にない。
 ヴェルディ晩年の最充実期に書かれたこの作品の構想は、当初ロッシーニの追悼のために当時イタリアを代表する作曲家達が、各章を分担して作曲しひとつのレクィエムがなされる企画に遡る。この企画はイタリアらしく経済的な事情や不手際で流れてしまったが、数年後、ヴェルディは自分の担当の「リベラ・メ」を活用し、自国の詩人「マンゾーニ」の死を悼んで大作「レクィエム」を完成させた。

作品中何度か現れる「怒りの日=ディエス・イレ」の強烈な場面ばかりが、オーディオ的にも耳を引くが、本当はそうした激烈さはこの作品の一面にすぎない。
全体の半分近くを占める「怒りの日」も、いくつかの部分に分かれていて4人の独唱者たちが、次々と耳を奪うような心打つ歌を紡いでいく。テノールのアリアのような「インジェミスコ」、後半は怒りの日の再現になだれ込むバスのやわらかい歌唱の「コンフターティス」、ベルカントオペラのようなソプラノとメゾの二重唱「レコルダーレ」、圧巻は4重唱と合唱の「ラクリモーサ」、切実な悲しみと慰めに満ちた名曲だ。ここらが、全曲のクライマックスでもあろう。
 後半も超素晴らしい展開がなされる。光彩たる「サンクトゥス」、木管と弦のたゆたうようなトレモロに乗った、美しい「ルクス・エテルナ」、ソプラノを伴った劇的・切実な「リベラ・メ」

アバドは、若い時から、機会あるごとに、「ヴェルディのレクィエム」をとり上げて勝負してきた。録音も10年置きに、その時の手兵をもって残していて、70~80年代のスカラ座、80~90年代のウィーン、90~00年代のベルリン、といった具合である。
歌手陣もその時代のベストの布陣を集め、それぞれに素晴らしい記録となっている。
Abbado_verdi  さらに忘れられないのが、1981年のスカラ座との来日公演での演奏である。私は「シモン」しか観れなかったが、「レクィエム」はフレーニとトモワ・シントウと独唱を違えた2回の演奏がFM放送され、その音源は私のお宝にもなっている。

常にアバドの演奏に言えることは、このレクィエムの剛のイメージでなく、聴く者の心のひだに染み入るような優しさを感じさせることだ。
もちろん、怒りの日もダイナミックな響きを聴かせてくれるが、それに対比する弱音は、全演奏者が細心の集中力をもって響かせて極めて精緻である。そして素晴らしいのが、そこにも豊な歌心が溢れている点である。
さらに、スカラ座のオーケストラの輝かしさはどうであろう。加えて、合唱の力強さと完璧なまでの劇場的な表現力にもびっくりしてしまう。バイロイトのオケと合唱にも同じものを感じてしまう。オペラがもつ、音楽のひとつの表現手段から導かれた結実だと思う次第ある。
 独唱では、リッチャレッリの真摯な歌とギャウロフの豊で美しい歌が印象に残る。

劇性と祈りに満ちた「レクィエム」を聴いていると、世の絵空事が空しく感じられる。
声高に言い争ったり、拳を上げたりしている連中の耳に届けたい。

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2006年8月 7日 (月)

ビゼー 「アルルの女」 アバド

Imgp0669b 先週、金曜日のことだが、東京ドームのチケットを頂戴し、息子と野球観戦をした。我が親子は、「横浜ファン」なのであるが、毎年いただくチケットは、1塁側のオレンジ色に染まった席。最初はおとなしくしているが、ビールが進むと、本性を出してしまう。周りの冷たい視線とごくまれに入る青い色の同朋。同朋とは、仲間視線ビームを交わし合うが、他は目を合わさないのが基本。金曜は、4月以来の、夢にまで見た最下位脱出。嬉しいが、束の間と思うの
Imgp0686a が肝要。最後はクルーンがカッチリ3者三振で締めたが・・・・。
残る2試合を、予想通り負けて、三日天下ならぬ、一日5位。
トホホである。数年前の優勝を甲子園で体験した身としては、今年の不甲斐なさにはホトホト参っている。
 おまけに、高校野球でも「横浜高校」は奢りすぎで、初戦敗退。
今年は、もう野球はこれにて、おしまい。

Abbado_bizet それはともかく蒸し暑い。西には台風が近付いていて不穏な雰囲気。
そんなイヤな気分を吹き飛ばすように、ジャケット写真のような陽光溢れる「アバドのアルルの女」を取り出した。

文豪ドーテの原作品は「アルルの一農村を舞台に、闘牛場で知り合った女に惚れた青年が、家族に猛反対され、かわりに清純な娘と婚約する。しかし、彼はくだんの女が忘れられずに、嫉妬のあまり自殺する」という陰惨な小説。
 そう、「カルメン」も似ているし、まるでヴェリスモ・オペラの世界だ。
ビゼーが原作に付けた劇音楽は27曲に登るらしいが、そこからチョイスされた組曲を聴く限り、そんな生々しいドラマは感じられない。

晴れ渡った青い空、遠く鳴る鐘、楽しい民衆の踊り、田園風景・・・、こんな絵のような、南フランスの情景を思いながら楽しく聴ける、ナイスな組曲なのだ。
ヴェリスモ系を一切やらないアバドが、「カルメン」とこの曲だけは指揮をした。
真摯に感情を抑え、音楽の持つ美しさとリズムの楽しさを素直に感じさせてくれる演奏だ。
クリュイタンスの輝きや、カラヤンの語り口の巧さはないが、流れるようなしなやかさは他の演奏からは聴けない。それでも、「ファランドール」では猛然としたアッチェランドを聴かせてくれるお楽しみもある。
ロンドン響時代の生き生きとしたアバドの記録である。

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2006年6月26日 (月)

チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、スクリャービン「法悦の詩」 アバド

Abbado_skriabin 1933年6月26日。今日は、私の一番好きな指揮者、「クラウディオ・アバド」の誕生日である。毎年、アバドももうそんな年か・・・、と思っているうちに、34年も過ぎてしまい、自分もそっくりアバドを聴きつづけるうちに年を経てしまった。
 しかし、アバドに勇気づけられるのは、音楽のみを希求してやまない熱意と、その情熱から大病をも克服してしまった精神力である。

私がアバドの音楽に確信をもったのは、今回のレコードである。
1971年の録音で、ボストン交響楽団を指揮した2枚目のもの。

Abbado_bso_a ヌードのジャケットは、刺激的だった。それ以上に、チャイコフスキーもスクリャービンも初めて聴く作品だけに、そのロマンテックな響きに参ってしまった。何度も何度も聴いた。
聴くうちに、アバドが、旋律を明るく、明確に、隅々まで光を当てるように、情熱的に歌いまくっていることがわかってきた。
これは大変な曲であり、演奏なのだと、思うようになった。

そして、オーケストラの素晴らしさ、巧さ。当時はベルリンやウィーンばかりで、アメリカのオーケストラなんてろくに聴いたこともなかった。
RCA専属から離れて、初めてヨーロッパのメジャーに録音したボストン響である。
オーケストラにも、ものすごい気迫が感じられる。アバドが情熱の塊と化して、グイグイ引っ張るものだから、ボストンも上品にしていられない。
金管はうねるように咆哮し、弦はエッジを効かせて決めまくる。打楽器、とりわけティンパニは冴え渡っている。

録音がまた素晴らしい。RCA時代は生々しい録音ばかりで潤いが欲しかったが、DG録音は第1作のフランスものも同様に、ホール・トーンを生かしながらも、各楽器が手にとるような臨場感を持ってとらえられている。
今聴いても、かなりのものだ。

ボストン響はこの後、小沢の手に委ねられることになるが、アバドとの相性は非常に良かった。シカゴでも素晴らしいマーラーを聴かせてくれたが、ボストンとマーラーを演奏していたらどうなっていたろうか。同時期、フィラデルフィアやクリーヴランド、ニューヨークにも客演していた。ミラノに腰を据えなければ、アメリカのメジャー・オケの指揮者にもなっていたかもしれない。実際、ウィーン国立歌劇場のポストを受ける前に、ニューヨークから、メータの後任を打診されていて、本人もその気になっていたらしい。
歴史はきまぐれ。結果としては、ミラノ・ロンドン・シカゴ・ウィーン・ベルリンというお馴染みのポストが正解であったし、残された録音も至玉の作品ばかりののだから。