カテゴリー「オペラ」の記事

2023年6月26日 (月)

ヴェルディ 「ファルスタッフ」 アバド指揮

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毎年の梅雨の時期には、小田原城で紫陽花と菖蒲を楽しみます。


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そして、6月26日は、クラウディオ・アバドの90回目の誕生日。

90越えで現役のブロムシュテットとドホナーニが眩しい存在です。

2005年秋にblogを開設以来、2006年のアバドの誕生日を祝福しつつアバドの記事を書くこと、今年で17回目となりました。

さらに1972年にアバドの大ファンになって以来、今年はもう51年が経過。

つくづく永く、アバドを聴いてきたものです。

今年の生誕日には、アバドの演奏のなかでも、間違いなくトップ10に入るだろう大傑作録音、「ファルスタッフ」を取り上げました。

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  ヴェルディ 「ファルスタッフ」

   ファルスタッフ:ブリン・ターフェル   
   フォード:トマス・ハンプソン
   フェントン:ダニエル・シュトゥーダ  
   カイユス:エンリコ・ファチーニ
   バルドルフォ:アンソニー・ミー 
   ピストーラ:アナトゥーリ・コチュルガ
   フォード夫人アリーチェ:アドリアンネ・ピエチョンカ
   ナンネッタ:ドロテア・レシュマン 
   クイックリー夫人:・ラリッサ・ディアドコヴァ
   ページ夫人メグ:ステラ・ドゥフェクシス

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
               ベルリン放送合唱団

        (2001.4 @フィルハーモニー、ベルリン)


2000年の春に胃癌のため活動を停止し、その年の10月から11月にかけて、日本にやってきてくれた。
そのときの瘦せ細った姿と裏腹に、鬼気迫る指揮ぶりは今でも脳裏に焼き付いています。
その翌年2001年からフル活動のアバドは、いまDVDに残るベートーヴェンのチクルスを敢行し、そのあとザルツブルクのイースター祭で「ファルスタッフ」を上演します。
それに合わせて録音されたのが、このCD。

病後のベルリンフィル退任前の2年間は、アバドとしても、ベルリンフィルとのコンビとしても、豊穣のとき、長いコンビが相思相愛、完全に結びついた時期だったかと思います。
ベルリンフィルにカラヤン後の新たな風を吹かせた、そんなアバドの理想のヴェルディがここに完結した感がある。

一聴してわかる、音の輝かしさと明るさ伴う若々しさ。
カラヤンとは違う意味で雄弁極まりないオーケストラは、アンサンブルオペラ的なこの作品において、歌手たちの歌と言葉に、完璧に寄り添い、緻密にヴェルディの書いた音符を完璧に再現。
オーケストラも歌手も、完全にアンサンブルとして機能し、その生気たるや、いま生まれたての瑞々しさにあふれてる。
ヴェルディの音楽におけるオーケストラの完成度という意味では、アバドのファルスタッフは私にはNo.1だと思う。
カラヤンのドン・カルロもすごいけれど、あそこまで嵩にかかったオーケストラにはひれ伏すのみだが、アバドのヴェルディにおけるベルリンフィルは、しなやかさと俊敏さがあり、何度も聴いても耳に優しい。
若い恋人たちの美しいシーンはほんとうに美しいし、2幕最後の洗濯籠のシーンもオーケストラは抜群のアンサンブルを聴かせ、ワクワク感がハンパない。
各幕のエンディングの切れ味と爽快感もこのうえなし。
さらには、3幕後半の月明りのシーンの清涼感とブルー系のオケの響きも無類に美しく、そのあとのドタバタとの対比感も鮮やか!

ファルスタッフのオーケストラでいえば、カラヤンのウィーンフィルは雄弁かつオペラティックで面白いし、うまいもんだ。
同じウィーンフィルでも、バーンスタインはヴェルディを自分の方に引き寄せすぎ、でも面白い。
トスカニーニのNBCは鉄壁かつ、でも歌心満載。案外アバドの目指した境地かも・・・
ジュリーニのロスフィルは、これがあのメータのロスフィルかと思えるくらいに、落ち着きと紳士的な雰囲気。
スカラ座時代にアバドがファルスタッフを取り上げていたらどうだったろうか。
と空想にふけるのもまたファンの楽しみです。

病気あがりで、ザルツブルクでの上演前にみっちり練習を兼ねたレコーディング。
ファルスタッフのターフェルがレコ芸のインタビューで、そのときの様子を語ってました。
「彼はかなり痩せてしまい、皆とても心配していた。すると彼は音楽をすることによってエネルギーを得て、本当に元気になってしまいました。録音中、彼の瞳はきらきらと輝き、指揮をしながら飛び上がっていたのです。彼はこのオペラの生気、朗らかさを心の底から愛しているのだと思います。それが彼の健康に素晴らしい効力を発揮したのでした」
その音楽に明確な意見を持ちながら、若い歌手や演奏家たちに、完璧主義者でありながらフレンドリーで暖かく指導することで、レコーディング自体がすばらしいレッスンだったとも語ってました。
アバドの人柄と、あの大病を克服した音楽への愛を強く感じるエピソードです。

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ターフェルが36歳のときの録音で、その頃、すでにファルスタッフを持ち役にしていただけあって、その歌唱には抜群の巧さと切れ味がある。
初演の練習にずっと立ち会ったヴェルディは、歌手たちに細かい指示を出し、それはリコルディ社は書き取り記録したそうだ。
その細かな指示を歌手は反映させなくてはならず、ファルスタッフの多彩な性格の登場人物たちは、そのあたりでも役柄の描き分けが必要なわけ。
ターフェルは若い威力あふれる声を抑制しつつ、緻密な歌いぶりで、きっとアバドとの連携もしっかり生きていることでしょう。

ハンプソンのフォードも若々しく、ターフェルとの巧みなやりとりも聴きがいがある。
若すぎな雰囲気から、娘に対する頑迷な雰囲気はあまり出ないが、この歌手ならではの知的なスタイルはアバドの指揮にもよく合っている。

女声陣の中では、ナンネッタのレシュマンが断然ステキで、軽やかな美声を堪能できる。
ピエチョンカを筆頭とする夫人たちの、声のバランスもいいし、なかでは、クイックリー夫人が楽しい。
2000年当時の実力派若手歌手の組み合わせは、いまでも新鮮につきます。

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シェイクスピアと台本のボイート、そしてヴェルディの三位一体で極められた最高のオペラがファルスタッフ。
昔の栄光をいまだに忘れられない没落の士、ファルスタッフは、経済的な打開策としても、夫人たちに声をかけた。
それがしっぺ返しを食らうわけだが、思えば可哀想なファルスタッフ。
喜劇と悲劇を混在させたかのような見事なドラマと音楽に乾杯。

「世の中すべて冗談だ。
 人間すべて道化師、誠実なんてひょうろく玉よ、知性なんてあてにはならぬ。
 人間全部いかさま師!みんな他人を笑うけど、最後に笑うものだけが、ほんとうに笑う者なのだ」
                (手持ちの対訳シリーズ、永竹由幸氏訳)

皮肉に見つつも、真実を見極めた言葉に、屈託のないヴェルディの輝きあふれる音楽。
でも真摯極まりないアバドの演奏は、もしかしたら遊びの部分が少なめかも。

シェイクスピアに素材を求めたヴェルデイのオペラは、「マクベス」「オテロ」そして「ファルスタッフ」。
いずれもアバドは指揮しましたが、残念ながら「オテロ」は95~97年に3年連続でベルリンフィルと演奏してますが、録音としては残されませんでした。
オテロ役が3年で全部ことなり、レーベルのライセンスの問題もあるかもしれないし、おそらくアバドは理想のオテロ歌手に出会えなかったのかもしれません。
台本に内在する人間ドラマにもこだわる、そんなアバドが好き。
そんなアバドの高貴なヴェルディ演奏が好きなんです。

「ファルスタッフ過去記事」

「新国立劇場公演 2007」

「ジュリーニ&LAPO」

小澤征爾と二期会のファルスタッフを観劇したのが1982年。
国内上演4度目のものを体験。
先ごろ亡くなった栗山昌良さんの演出、タイトルロールは栗林義信さんだった。
日本語による上演で、今思えば悠長なものでしたが、でもわかりやすく、舞台に普通に釘付けとなりましたね。
「わっかい頃は、この俺だって・・・」とファルスタッフが自慢げに歌う場面は、日本語で歌えるくらいに覚えちゃったし、クィクリー夫人登場の挨拶は、「よろし~~く」で、もう出てくるたびに会場は笑いに包まれたものだ。
きびきびと楽しそうに指揮していた小澤さんも若かったなぁ。



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6月のアバドの誕生祭は、毎年、紫陽花が多め。

忙しかったので、記事は遅れ、バックデートして投稿してます。

アバド生誕祭 過去記事一覧

「ロメオと法悦の詩 ボストン響」2006

「ジルヴェスターのワーグナー」2007

「ペレアスとメリザンド 組曲」2008

「マーラー 1番 シカゴ響」2009

「ブラームス 交響曲全集」2010

「グレの歌」2011

「エレクトラ」2012

「ワーグナー&ヴェルディ ガラ」2013

「マーラー 復活 3種」2014

「シューベルト ザ・グレート」2015

「新ウィーン楽派の音楽」2016

「メンデルスゾーン スコットランド」2017

「スカラ座のアバド ヴェルディ合唱曲」2018

「ヤナーチェク シンフォニエッタ」2019

「スカラ座 その黄金時代DVD」2020

「ランスへの旅」2021

「アバド&アルゲリッチ」2022

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2023年4月14日 (金)

R・シュトラウス 「平和の日」 二期会公演

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日曜の午後の渋谷。

信号が変わるたびに、この群集が渡る光景、駅へ向かう人以外はいったいどこへ?

わたしのいまいる小さな町の人口ぐらいの人数がここにあるくらいだ。

学生時代を過ごしたワタクシの昭和の渋谷は、もう見る影もない。

隅々まで知っていたのに、迷子になってしまう。

人をかき分けて、この日はオーチャードホールへ。
最愛の作曲家シュトラウスのオペラを観劇に、苦難をもろともせずに向かう。

この多くの人々は、平和と自由を享受し、危機と、もしかしたら来るかもしれない苦難という言葉は知らないようだ。

Friedenstag2023

       R・シュトラウス 「平和の日」

  司令官:小森 輝彦  マリア :渡邊 仁美
  衛兵 :大塚 博章  狙撃兵 :岸浪 愛学
      砲兵 :野村 光洋  マスケット銃兵:高崎 翔平
  ラッパ手:清水 宏樹 仕官  :杉浦 隆大
  前線の仕官:岩田 建志 ピエモンテ人:山本 耕平
  ホルシュタイン人 包囲軍司令官:狩野 賢一
  市長 :持齋 寛匡  司教  :寺西 一真
  女性の市民:中野 亜維里

 準・メルクル 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
           二期会合唱団
       合唱指揮:大島 義彰
       舞台構成:太田 麻衣子
       (カヴァー マリア:冨平 安希子)

         (2023.4.9 @Bunkamura オーチャードホール)

日本初演、アジア圏初演、2日目に観劇してきました。

舞台にあがったオーケストラの前に、簡易な装置を据えたセミステージ上演。

わたしにとって、シュトラウスはヨハンでなくてリヒャルト、そしてリヒャルトはオペラ作曲家です。

15作あるオペラの12作目。
主要な管弦楽作品はとっくに書き終えていて、オペラ以外では、かの明朗なるオーボエ協奏曲や二重協奏曲、メタモルフォーゼンなどが残されているのみ。
オペラでは、タイトルとは裏腹な、言葉の洪水のような「無口な女」の半年あと、1936年6月の作曲が「平和の日」。
本作以降が「ダフネ」(1937)、「ダナエの愛」(1940)、「カプリッチョ」(1941)となります。

このシュトラウス作品の流れで「平和の日」を捉えてみると感じるのは、シュトラウスらしからぬ表層感といきなりの平和賛歌の唐突感。

もう15年も前の弊ブログ記事で、作品の成り立ちやドラマはご確認いただけましたら幸いです。

「平和の日 シノーポリ盤」

CD1枚サイズのオペラを本格舞台で上演するにはコスト的にも大変。
シュトラウスが想定した「ダフネ」とのダブルビルトも集客的にも難しい。
ということで、今回の二期会セミステージ上演はその点でまず大成功。

そして独語上演では歴史と伝統のある二期会の公演、スタッフも協力者もすべてにおいてシュトラウス演奏に適材適所の安心の布陣。
舞台奥に紗幕的なスクリーンを配置し、そこにドラマの進行にあわせてイメージ動画が流れる。
30年戦争当時の神聖ローマ帝国らしき地図や、戦端の模様、教会の鐘など、音楽とドラマに巧みにリンクしていてわかりやすかった。
ただ最後の地球は、正直、新味に乏しく、各国の平和の文字であふれるところもうーーむ、という感じだった。
思えば、地球で平和裏に終わる演出は、これまでいくつ見てきただろうか。
パルジファル、キャンディードなどが記憶にあり。

その紗幕の向こうに合唱が配置。
びっしり並んだオーケストラを指揮する準・メルクル氏に、歌手たちはその指揮者に背を向けて歌うわけで、オペラ上演と真反対。
舞台袖上部に指揮者を映すモニターが据えられていたし、メルクルさんは、巧みに歌手たちに見やすいように、そして的確に指揮しておりまして関心しました。

手持ちのCDはいずれも海外盤なので、今回字幕付きでじっくり堪能できたのは、ほんとにありがたかった。
これまでちょっと曖昧だった部分がすっきり解決、みたいな感じ。
市長などが司令官を訪れ、市民の疲弊の説明と講和を進めるが、頑なな司令官は午後に決定を知らせると話す。
その午後に教会の鐘が打ち鳴らされるわけだけど、宗教をひとつの理由とした戦渦で、久しく鐘は鳴ることがなく、それを司令官の意志と思った市長や市民たち、そんな平和の誤解がよく理解できた。
 頑迷な司令官はそんなの知らない、敵司令官の訪問にも頑なな態度を崩さなかった。
このあたりのいきさつが、今回とてもよく理解できた。
 あと司令官夫妻の二重唱では、熱烈な愛の二重唱だと思い込んでいたけれど、お互いの思いのすれ違う言葉の応酬だった。
それでもマリアのモノローグから、夫妻の二重唱、そのあとのオーケストラの間奏など、まさにシュトラウスの音楽の醍醐味を痺れるような感銘とともに味わうことができました。

フィデリオや第9みたいだと思いつつ、合唱幻想曲をも想起してしまう、そんな歓喜の爆発エンディングは、衣装をコンサートスタイルに変えた登場人物たちが舞台前面に並び立ち、割と前列だったワタクシは、思い切り皆さんの力のこもった力唱のシャワーを浴びることになり、興奮にも包まれたのでした。

1975年の若杉弘さんの指揮する「オテロ」が、わたくしの初オペラで、初二期会でした。
以来、二期会のオペラは多く観劇してきましたが、日本初演の上演も多数経験できました。
なかでも、「ジークフリート」「神々の黄昏(日本人初演)」は自分的に誇るべき体験でしたし、シュトラウスも多くの日本初演を二期会で体験できました。
そして今回の「平和の日」も忘れえぬモニュメントとなりそうです。

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ウォータンやシェーン博士など、いくつもの上演で聴いてきた小森さん。
やはり素晴らしい。
ドイツ語がまず美しいのと、歌としての自然さがまったく違和感なくなめらか。
独白的な場面も、めちゃくちゃ説得力があって、渋い演技とともに堅物の司令官の姿を見事に描ききってました。

あと驚きは渡邊さんのマリアで、あの長大なモノローグを情熱的に見事に歌ってのけて、女声好きのシュトラウスの残した聴かせどころを大いなる共感とともに表現してました。
この場面では、後期のシュトラウスの透明感と諦念のような作風も感じるので、思わず涙ぐんでしまった。
今後の二期会のシュトラウス上演に渡邊さんと、今回カヴァーに入っていた富安さんは欠かせない存在となりそうです。
あのモノローグをいま聴きながら書いてますが、いろんな要素が詰まってますね。

大塚さんの衛兵、深いバスは、かなり前にグルネマンツを聴いたことを思い出しました。
ほかの諸役も、二期会のオペラでお馴染みの方ばかりですが、よくよくおひとりひとり見て聴いていると、なんと難しい歌唱なのかと痛感。
シュトラウスの楽譜は、きっと歌手も楽器もおんなじ扱いで、高難度で、よくぞこんなの暗譜して歌えるなと感心してしまうことしきり。
これら諸役で、案外の決め手役は、イタリア歌手としてのピエモンテ人で、ドイツ人のなかにあるイタリア人的な輝きと明るさが特異な役柄。
しかも今回は、演出で司令官の意図を察して行動する役柄だけど、つねにその行動に不安と疑問を持っている。
ルルでのアルヴァ役が記憶にある山本さん、いい声響かせてました。

先に触れたオペラ指揮者としてのメルクルさんの手練れぶり。
「ダナエの愛」を聴き逃したのは痛恨ですが、新国のリング以来のメルクルさんでした。
なによりも大編成のオーケストラを過不足なく響かせつつ、歌手の声もホールに明瞭に届けなくてはならない。
その意味で、オーケストラをコントロールしながらも、斬新なシュトラウスサウンドを堪能させてくれた。
もっと大胆に、豪放にやることもできたかもしれないが、東フィルから繊細かつスマートな音響を引き出してました。
久々の東フィルも実にうまい!

二期会の積極的なネットでの広報や、専門家や出演者による解説など、事前のお勉強にとても役立ちました。
加えて最後にお願い、というか提案。
このような珍しいオペラはリブレットの理解が必須で、国内盤もないなか、海外盤に頼らざるをえない。
広瀬大介さんの素晴らしい翻訳は、当日販売するとか、有料配信するとかできないものか。
有名オペラ以外は、こうした手段も取って欲しいと思います。

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1月末に営業終了した東急百貨店。
連結するBunkamuraも、このオペラ上演翌日より、一体再開発のため長期休館となりました。
オーチャードホールは、日曜のみ開館するようですが、1989年のオープニングを思い出します。
シノーポリ率いるバイロイト音楽祭の引っ越し公演でこけら落とし。
結婚したばかりで余裕のなかった当時のワタクシ、泣く泣くこの上演は見送りましたことも懐かしい思い出です。

変貌に次ぐ変貌をとげる渋谷の街。
「私の昭和の渋谷」は遠い過去のものになってしまった。
地下に潜ると迷子になってしまうし、地上も景色が変わってしまわからない。
途切れることのない人の流れに戸惑うワタクシ、まさに「さまよえるオジサン」でした。

昼食を取ろうにもラーメン屋や行列店ばかり。
外人さんだらけ。
大人の残された空間のようなお寿司屋さんをみつけ、すべりこんで一息つきました。

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人ごみに流されたあとの一杯は極上でございました。

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お手頃ランチ握りも極上。

静かな店内をひとたび外へ出るとまたあの雑踏。

東京一極集中は、日本にとってほんとによろしくないな。

でもオペラは楽しい。

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2023年2月11日 (土)

コルンゴルト 「ヘリアーネの奇蹟」

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夕焼け、日の入りが好きな自分ですから、毎日夕方になると外を眺めてます。

夕日モードで撮影すると三日月にカクテルのような夕焼を写すことができます。

すぐに暗くなってしまう瞬間のこんな刹那的な空が好き。

5つあるコルンゴルトのオペラ、4作はすべて取り上げましたが、ついにこの作品を。

10年以上、聴き暖めてきたオペラです、長文失礼します。

        コルンゴルト 歌劇「ヘリアーネの奇蹟」

「喜ぶことを禁じた国の支配者。そこへ、喜びや愛を説く異邦人がやってくるが、捕まってしまい、死刑判決を受ける。
さらに王妃のヘリアーネとの不義を疑われ自ら死を選ぶ。

その異邦人を自らの純血の証として、甦えさせろと無理難題の暴君。
愛していたことを告白し、異邦人の亡きがらに立ちあがることを念じるが、反応せず、怒れる民衆は彼女を襲おうとする・・・・
そのとき、奇蹟が起こり、異邦人が立ちあがり、暴君を追放し、民衆に喜びや希望を与え、愛する二人は昇天する。。。。」


Korngold-heliane

   ヘリアーネ:サラ・ヤクビアク
   異邦人:ブライアン・ジャッジ
   支配者:ヨーゼフ・ヴァーグナー
   支配者の女使者:オッカ・フォン・デア・ダメラウ
   牢番:デレク・ウェルトン
   盲目の断罪官:ブルクハルト・ウルリヒ
   若い男:ギデオン・ポッペ

  マルク・アルブレヒト指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団

               ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団

    演出:クリストフ・ロイ

       (2018.3.30~4.1 @ベルリン・ドイツ・オペラ)

コルンゴルトの音楽を愛するものとしては、5つあるそのオペラをとりわけ愛し大切にしております。

しかしながら、そのなかでも一番の大作「ヘリアーネの奇蹟」は長いうえに、国内盤も買い逃したので、その作品理解に時間を要してました。
もう10年も若ければ、国内盤のない「カトリーン」のときのように辞書を引きつつ作品解明に努めたものですが、寄る年波と仕事の難儀、なによりもCDブックレットの細かい文字を読むのがもうしんどくて、なかなかにこのオペラに立ち向かうことができなかったのでした。
若い方には、視力と気力のあふれるうちに、未知作品を読み解いておくことをお勧めします。

そこで彗星のように現れた日本語字幕付きのベルリン・ドイツ・オペラの上演映像。
音楽はすっかりお馴染みになってましたので、舞台の様子を観ながら、ついに全体像が把握とあいないりました。
痺れるほどに美しく、官能的でもある2幕と3幕の間の間奏曲がとんでもなく好き。

1927年、コルンゴルト、30歳のときのオペラ

  ①「ポリクラテスの指環」(17歳) 

  ②「ヴィオランタ」(18歳)

  ③「死の都」(23歳)

  ④「ヘリアーネの奇蹟」(30歳)

  ⑤「カトリーン」(40歳)


「市の都」の大ヒットで、ウィーンとドイツの各劇場でひっぱりだこの存在となってしまった若きコルンゴルト。
息子を溺愛し、天才として売り出しバックアップしてきた音楽評論家の父ユリウス・コルンゴルトが良きにつけ悪しきにつけ、「ヘリアーネの奇蹟」を成功した前作のように華々しい決定打とならなかった点に大きなマイナス要素となった。
舌鋒するどい父の論評は、その厳しさを恐れる楽壇が、息子エーリヒ・ウォルフガンクの作品を取り上げるようになり、マーラー後の時代を担う存在として、大いに喧伝した。
そんな後ろ盾がなくともコルンゴルトの音楽は時代を超えて、いま完全に受入れられたことで、父の饒舌なバックアップがなくとも、いずれ来る存在であったことがその証でしょう。
不遇の不幸は、足を引っ張ったやりすぎの父の存在以上にナチスの台頭であり、ナチスとその勢力が嫌った革新的な新しい音楽ムーブメントと少しあとのユダヤ人出自という存在であった問題。
 当初はユダヤ排斥よりは、社会的に熱狂的なブームとなったジャズや、クラシック界における十二音や即物主義や、その先の新古典的な音楽という伝統を乗り越えた音楽への嫌悪がナチスのそのターゲットとなった。
コルンゴルトより前に、ユダヤであることの前に、そうした作風の音楽家は批判を浴びたし、作曲家たちはドイツを逃れた。
 こんな情勢下で作曲された「ヘレアーネ」。

原作はカール・カルトネカーという文学者の「聖人」という作品で、彼はコルンゴルトの若き日のオペラ「ヴィオランタ」を観劇して、大いに感銘を受けていて、その思いが熱いうちに「聖人」を書いたという。
カルトネカーは早逝してしまうが、コルンゴルトはこの作品を読んで、すぐにオペラ化を思い立ち、友人のハンス・ミュラーに台本作成を依頼して、生まれたのがこの「ヘリアーネの奇蹟」。

人気絶頂期での新作ヘリアーネの初演は、まずハンブルグで行われ成功。
次いで本丸ウィーン国立歌劇場での初演を数日後に控え、当のウィーンでは、人気のジャズの要素と世紀末的な雰囲気をとりまぜたクシェネクの「ジョニーは演奏する」の上演も先鋭的なグループを中心に企てられており、それにナチス勢力が反対する流れで、コルンゴルト対クシェネクみたいな対立要素が生まれていた。
そんななかで、シャルクの指揮、ロッテ・レーマンの主役で初演されるものの、Wキャストの歌手と指揮者との造反などの音楽面とは違う事情から続演が失敗に終わり、ウィーンでの上演では芳しい評価は得られなかった。
ドイツ各地でのその後の上演も、音楽への評価というより、クシェネクのジョニーの高まる評価に逆切れした父の評論活動が引き続きマイナスとなり、そんなことから、作品の長大さや筋立ての複雑さ、歌手にとっての難解さなどから「ヘリアーネの奇蹟」はここでどちらかというと、失敗作との判断を受けることとなってしまった。

愛する女性との結婚にまでもあれこれ口をはさみ、嫌がらせをした保守的な親父ユリウスの功罪は大きく、この傑作オペラがナチスの退廃烙印以外でも評価が遅れた原因となっていることのいまに至るまでの要因。
でもコルンゴルトが、当時の音楽シーンの移り変わりや最新の動向に鈍感でなかったわけでなく、このヘリアーネでも随所に斬新な手法が目立ちます。
それでもいま、コルンゴルトの音楽がマーラー後の後期ロマン派的な立ち位置にとどまったのは親父殿の存在があってのものと思わざるをえないのであります。


長大かつ、筋立てが複雑な歴史絵巻。
CDでもたっぷり3枚は、聴き応えもある。
大胆な和声と不安を誘う不況和音も随所に聴かれるし、甘いばかりでない表現主義的ともいえるリアルな音楽展開は、ドラマの流れとともにかなり生々しいです。
音楽は、ピアノ、オルガン、複数の鍵盤楽器・打楽器の多用で、より近未来風な響きを醸すようになりつつ、一方でとろけるような美しい旋律があふれだしている。
民衆たる合唱も、移ろいゆく世論に左右されるように、ときに感動的な共感を示すとともに、狂えるようなシャウトも聴かせる。
オケも合唱も、「死の都」とは段違いの成熟ぶりと実験的なチャレンジ意欲にあふれていて大胆きわまりないのだ。

歌手たちの扱いは、従来のオペラの路線を踏襲している。
清廉なソプラノの主人公に、甘いテノール、悪漢風のバリトンという構図は、コルンゴルトの常套で、ここでは意地悪メゾが加わった。

聖なる存在と救済のテノールとして、ローエングリンとパルジファルを思い起こすし、エルザやエリーザベトの存在のようなワーグナー作品との類似性を思い起こすことが可能だ。
同様に邪悪な存在としてのバリトンとメゾも、ローエングリンのそれと同じくする。
そんな風に紐解けば、筋立ての難解さも解けるものかと思う。

とある時代のとある国

第1幕

「愛するものに祝福あり。悪しきなきものは死を逃れる。愛に命を捧げるものは再び蘇る」

大胆な和音で開始したオペラは、こうした合唱で幕開けする。
まさにこのオペラのモットー。
 異国からやってきた男がとらわれ、牢番に連れられてくるが、牢番は彼に同情的で縄を解いてやり、なんで愛や喜びの話をしたんだい?と問いかける。
平和な日々の日常の大切さを説く異邦人、この国に愛はないのだよ、と実態を語る牢番。
そして、この国の支配者が荒々しくやってきて、この俺の国になんていうことをしてくれたんだと怒りまくる。
異邦人は支配者に対し自分の役割を話すが、支配者は逆切れして、愛に捨てられた俺に残されたのは権力だけだと、死刑宣告をする。
死への恐怖に絶望的になった異邦人のもとへ、支配者の妻ヘレアーネが慰めのためにお酒を持って偲んでくる。

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彼女は異邦人の最後の求めに応じ、美しい髪と美しい足を与え、異邦人はそれを愛おしく抱きしめる。
最後に彼女は、異邦人に自身の裸をさらして、彼の心を慰めようとし、いたく感激した異邦人は彼女を抱きしめ、ふたりは愛情を確かめあう。
最後の一線は越えず、ヘリアーネはこの場を外し彼のために祈りに外へ出る。今度は支配者がやってくる。
彼は、愛する妻がまったく心を開かない、俺の代わりに彼女の気持ちを自分に向けさせてくれ、俺が彼女を抱くところを見守って欲しい、そうしたら命は助けてやると強要するが、異邦人は頑として応じない。
そこへ折り悪く、ヘリアーネが裸のままにここへ戻ってきてしまう。
激怒する支配者、異邦人への死刑の確定と妻を不貞で逮捕することを命じる。

第2幕

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怒りの支配者、女使者に妻への不満をぶちまけるが、女使者は、なに言ってんだいあんた、あたしを捨てといてふざけんじゃないよと毒づく。
支配者は彼女にそんなこと言わねーで助けてくれよと助けを求めたりする。
盲目の断罪官と裁判官たちが到着し、ヘレアーネも引っ立てられてくる。
不貞を責められるヘリアーネ、裸を見せたことは真実だが、気持ちだけは捧げ、神に祈りました。
彼の苦悩を感じ、それを共有することで、彼の者になったの、私を殺して欲しいと切々と歌い上げる。
断罪官たちは、判決は神に委ねるべしとする。
理解の及ばない夫は妻に、判決はいらない、これで自決するがよいと短剣を手渡す。
そこへ異邦人が連れてこられ、証言を求められるがそれを拒絶し、最後にヘリアーネと二人にして欲しいと懇願し認められる。

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あなたを救いにきた、自分がいなくなれば支配者は許すでしょうと自分を殺して欲しいと懇願する異邦人。
神に与えられた使命のために逃げて生き抜いて欲しいとするヘリアーネ、最後に口づけを求める異邦人は、ヘレアーネの短剣に飛びこむようにして自決。

騒然となるなか支配者は、なかばヘレアーネを貶めるため、人々に向かい王妃はその純血ゆえに奇蹟を起こすだろう、彼女は奴を死から蘇えらせるだろうと言う。
人々や断罪者は、神への冒涜、天への挑戦だと言う一方、彼女の無実を認め、神を讃えようと意見は二分。
最後に、ヘレアーネは決意し、私のために死んだこの人を蘇えさせると誓う。

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第3幕

人々の意見は二分し分断された。
死はなくなり墓があばかれる。神のみ使いとして死の淵から彼を呼びだす。
いや、死の鍵を握るのは神だけなのだ、けしからん・・・・
 そこへ若い男が語る。
王妃は優しいお方だ、自分の子供が病で苦しんでいるときに救ってくれた、癒しの女王なんだと説き、人々も心動かされ、慈悲深いお方、愛する者には愛をと歌う。
しかし、支配者の女使者は、魔女の仕業に違いないと一蹴する。

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いよいよ神の試練を受けるヘリアーネ。
夫である支配者は、やめるんだ、蘇りができないとお前には死が待ってると説得する。
ついに「神の名のもとに、蘇りなさい」ヘレアーネは異邦人に命ずる。
しかし、彼女は、「できない、私は愛した、ふたりで破滅の道を選んだの、私は聖女なんかじゃない」と告白。
人々のなかでは、だまれ娼婦め、殺せ、嘘つきめ、と動揺と怒りが蔓延しはじめる。
さらにヘリアーネは、夫に向かい、いつも血の匂いがした、闇のなかではもう生きられない、そこからの救いを彼に求めた、幸せはみんなのものよ!と指摘し、ついに支配者も勝手にしろと匙をなげる。
人々はもう大半が離反し、「火刑台へ」と叫ぶ。
そのとき、横たわっていた異邦人がゆっくりと起き上がる!
人々の驚愕。
合唱は、「愛に命を捧げる者は再び蘇る」と歌い神々しい雰囲気につつまれる。
蘇った異邦人はヘレアーネに第7の門に天使が立っているが、その前に試練が待ち受けていると諭す。

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とち狂った支配者はヘレアーネをナイフで刺してしまい、人々も選ばれた女性を殺すとはけしからんと怒り、そして異邦人は出て行け人殺しめと、この場から追い出してしまう。
最後の試練を受けたヘレアーネを抱き起す異邦人、息を吹き返す彼女とともに甘味で長大な二重唱を歌う。
天に向かって昇りゆくふたり、神秘的な雰囲気のなか、「どんなに貧しくとも、失ってはいけないものがある、それは希望」と高らかなオルガンも鳴り響いてオペラは幕を閉じる。

         幕

やや荒唐無稽の感もある筋立てではあるが、神の力と愛の力を描いた清らかな秘蹟ドラマともいえる。
死の都から7年を経て、ひたすら美しく万華鏡的・耽美的音楽にあふれていた前作からすると、よりその趣きを進化させ、前述のとおり、革新的な技法も鮮やかに決まっている。
異邦人が蘇るときのときの、オーケストラの盛り上がりの眩くばかりの効果は、まるでJ・ウィリアムズの音楽と見まがうくらいで、未知との遭遇クラスの驚きの音楽だ。

謎の全裸だけど、これは生まれたままのピュアで清廉な姿ということで、自分を救ってくれるかもしれない人への信頼と愛情の表現とみたい。
見ようによっては色物とされかねない要素なので、ここにはスピリチュアルななにかだと認めたい。

初演時の舞台の様子などを写真で見ると古色蒼然とした王宮のメロドラマ風な感じに見える。
ところが、クリストフ・ロイの舞台はまるきり現代社会のもので、衣装も全員がスーツ姿。
装置も全3幕、大きな会議室のようなホール内で外からの明かりもなく、閉ざされた空間。
このなかでのみ行われる人間ドラマは、まるでサスペンス映画を観ているような人物の心理的な描き方である。
ゆえにこそ、コルンゴルトの素晴らしい音楽に集中でき、逆にその音楽がすべてドラマを語っていることがわかるという具合だ。
壁には時計があるが、その時刻は2時5分で最初から最後まで止まったまま。
まさに愛のないこの世界は、時間軸もないという証か。
最後のふたりの昇天はリアルに描かれず、部屋のドアが開き、外から眩しい光が差し、そこへ向かって二人は歩みを進め出て行く。
人々はすべてその場に倒れているが、ただひとり、ヘリアーネを称賛し信じた若い男のみが生き残りひとり見守る。
こんな風にわかりやすい演出でもありました。

ヘレアーネや「死の都」のマリエッタを持ち役とするヤクビアクは、文字通り一糸まとわぬ体当たり的な演技を見せる。
美しいには違いないが、なにもそこまで的な思いはあるも、その一途な歌唱は素晴らしいものがある一方で、やや言葉が不明瞭でムーディに傾くきらいもあるが、この作品の初DVDには彼女なくしてはならないものになったと思う。
音だけでも最近は何度も聴いていて、聴き慣れると悪くないなと思い始めました。

ふたりの男声もとてもよろしく、ほかのCDの同役に引けを取らない素晴らしさで、とくにヴァーグナーの苦悩に富んだ支配者役は実によろしい。
あとダメラウの憎々しい役柄もよくって、声の張り、言葉の乗せ具合もこうした役柄にはぴったり。

このDVDの最高の立役者は、M・アルブレヒトの共感に富んだ指揮ぶりだろう。
ときおり映るピットの中の指揮姿を見るだけでわかる、この作品へののめり込みぶりで、ピットから熱い歌と煌めきのコルンゴルトサウンドが舞い上がるような感じで、数年前、都響に来演したとき聴いたコルンゴルトの交響曲の熱演を思い起こすことができた。
アルブレヒトはシュトラウス、マーラー、ツェムリンスキーなどを得意としていて、先ごろオランダオペラで上演されたフンパーディンクの「王様の子供」なんかもとてもよかった。
これからの指揮者は、マーラー以降の音楽をいかにうまく聴かせるかということもキーになるだろう。

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   ヘリアーネ:アンナ・トモワ-シントウ
   異邦人:ジョン・デイヴィッド・デ・ハーン
   支配者:ハルトムート・ウェルカー
   支配者の女使者:ラインヒルト・ルンケル
   牢番:ルネ・パペ
   盲目の断罪官:ニコライ・ゲッダ
   若い男:マルティン・ペッツルト

  ジョン・モウチェリ指揮 ベルリン放送交響楽団

              ベルリン放送合唱団

       (1992.2.20~29 @イエス・キリスト教会) 

デッカの「退廃音楽シリーズ」は90年代初めの画期的な録音の一環だった。
そんななかのひとつが、この時代を不運のうちに生きた作曲家たちのオペラで、なかでもコルンゴルトのヘリアーネは、「死の都」がラインスドルフ盤で注目を浴びたあと、「ヴィオランタ」がCBSで録音され、次にきたのがこの録音。
コルンゴルトの作品受容史のなかで、今後もきっと歴史的な存在を占める録音になるでしょう。

外盤CDで購入以来、何度も何度も聴きまして音楽のすべてが耳にはいりました。

聴いてきて思うのは、モウチェリの指揮がシネマチックにすぎるけど、よくオケを歌わせ、シュトラウスばりのオケの分厚さの中に光る歌謡性をうまく表出しているし、いまのベルリン・ドイツオーケストラの機能性豊かな高性能ぶりが見事。
なんたって、録音が素晴らしい。

トモワ=シントウは歌手陣のなかではピカイチの存在。
声の磨きぬかれた美しさ、たくみな表現力、人工的な歌になりかねないこの役柄を、豊かな人間味ある歌で救っている。
ずっと聴いてきたけれど、やや声を揺らしすぎかな、とも思うようになりました。
ウェルカーの支配者役はまさに適役で文句なし。
カンサス出身のアメリカのテノール、デ・ハーン氏はリリックにすぎ、やや頼りなさも。
ピキーンと一筋あって欲しい声でもあります。
モウチェリ盤の不満はここにあります。

でも、パイオニアのようなこの果敢な録音。
これからもありがたく聴きたいと思います。

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   ヘリアーネ:アンネマリー・クレーマー
   異邦人:イアン・ストレイ
        支配者:アリス・アルギリス

   支配者の女使者:カテリーナ・ヘーベルコーヴァ
   牢番:フランク・ヴァン・ホーヴェ
   盲目の断罪官:ヌットハポーン・タンマティ
   若い男:ジェルジ・ハンツァール

 ファブリス・ボロン指揮 フライブルク・フィルハーモニー管弦楽団
             フライブルク歌劇場合唱団 
                                 フライブルク・バッハ合唱団のメンバー


      (2017.7.20~26 @ロルフ・ベーム・ザール、フライブルク) 

デッカの録音から24年、頼りになるナクソスから登場した録音は、舞台に合わせてスタジオでのレコーディング。
ドイツの地方オペラハウスの実力を感じさせる演奏となりました。

3人のメイン歌手がとてもいい。
きりりとしたヘリアーネ役のオランダの歌手クレーマーさん、とてもいいと思いました。
映像になっているトリノでの「ヴィオランタ」でも歌っていて、真っ直ぐな声はコルンゴルトにぴったり。
異国の異邦人役のストーレイも思いのほかよくて、没頭感はないものの、気品ある声は聖なる人の高潔な一面を歌いだしている一方、生硬さもある声は、この役柄の頑迷さも歌いこんでいて妙に納得。
アルギリスの支配者さんも嫌なヤツと認識させてくれる存在だ。

フライブルクのオペラのオーケストラは初聴きだ。
ドイツの地方オケはオペラのオーケストラも兼務することが多いが、なかなかに巧い。
しかし、緻密さや、音の切れ味、重層的な音色では、明らかにベルリンのふたつのオケには敵わない。
でも、ボロンさんの指揮ともども、オペラティックな舞台の雰囲気はとてもゆたかでありました。

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この数週間、ヘリアーネの悲劇を何度も、何度も聴きました。
寝ながら夢のなかででも鳴り響き、聴いてました。

ベルリン・ドイツ・オペラでは3月に、ヤクビアクとアルブレヒト、ヒロインと指揮者を変えずに再び上演されるようです。

お金と時間さえあれば飛んで行って観劇したいです。

でも許されぬいま、夕映えの美しさを眺めつつ、これら3つの音源や映像を楽しむことにします。

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2022年11月19日 (土)

R・シュトラウス 「サロメ」 グリゴリアン、ノット&東響

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ジョナサン・ノットと東京交響楽団によるコンサート・オペラ、R・シュトラウス・シリーズ第1弾。
「サロメ」を聴いてきました。
コロナ前に、モーツァルトのダ・ポンテ三部作も同じく手掛けたコンビ。
衣装は通常のドレスで、椅子を据えただけで、簡潔な演技でオーケストラの前や後で歌う形式。
演出監修は、サー・トーマス・アレンです。

なんたって、いま、サロメを歌い演じたら世界一とも思われるアスミク・グリゴリアンの日本デビューでもありました。
ミューザとサントリー、どちらに行こうかと悩んだが自身のスケジュールからミューザに。
ほんとは両方とも聴きたかった。

 R・シュトラウス 楽劇「サロメ」

   サロメ:アスミク・グリゴリアン      
   ヘロデ:ミカエル・ヴェイニウス
   ヘロディアス:ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー    
   ヨカナーン:トマス・トマッソン
   ナラボート:岸浪 愛学 ヘロディアスの小姓:杉山 由紀
     ユダヤ人:升島 唯博      ユダヤ人:吉田 連
   ユダヤ人:高柳 圭   ユダヤ人:新津 耕平
   ユダヤ人:松井 永太郎  カッパドキア人:高田 智士
   ナザレ人:大川 博    ナザレ人:岸波 愛学      
   兵士  :大川 博    兵士  :狩野 賢一

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

    演出監修:サー・トーマス・アレン

     (2022.11.18 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

100分間、金縛りあったように、まんじりとせずに聴き入り、そしてステージでのグリコリアンに釘付けとなりました。
黒いタイトなドレスをまとったグレゴリアンのサロメ。
椅子に腰かけながら歌う場面がなくても舞台の進行のなかでも放つ存在感。
それは気品をまといつつ、または不安を覚えるようでもあり、足を組みつつ尊大であったりと歌わなくてもサロメを演じてました。
そしてひとたび声を発すれば、ホールを圧し、ホールの隅々までに届く強靭さを示す。
登場してナラボートにすがりつつ欲求を満たさんとする少女のサロメも、ヨカナーンを見て欲望の虜になっていくサロメも、ここでは恋をしたような恋情も感じさせた、こんなサロメの揺れ動きを歌でもって見事に表出。
ビビりまくりの義父へダンスの報酬を要求する「ヨカナーンの首を」という数度の返答も、たくみに歌いわけ、最後通告ではしびれるほどに強く、有無を言わせぬ強烈さがあった。
そしてもちろん、最後の長大なモノローグでは繊細なまでにヨカナーンへの恋情を切々と歌い、しかも熱狂の虜となってしまったように、狂える達成感を歌い上げてみてホール全体を熱く、熱くしてしまった!
強大なほどの声のレンジを感じさせ、どんなにノットがオーケストラを煽っても、それをも超えて響いてくるグリコリアンの声。
強さと繊細さ、声による巧みな表現能力。
ここまでやられちゃうと、受け取る側も疲弊してしまう。
そんなにまですごかったグリコリアン様でした。

2018年のザルツブルグ音楽祭でのサロメを視聴して彼女の特異な才能と美貌に魅入られた次第。
その後、さかのぼって「エウゲニ・オネーギン」のタチァーナ、「エレクトラ」のクリソテミス、「イエヌーファ」「オランダ人」のゼンタ、「賭博者」のポリーナ、「三部作」の3人のヒロインなどを聴いてきた。
やはり、一途な思いの役柄が得意なようで、感情移入が巧みな彼女ならではの歌と演技が、いずれも素晴らしいと思った。
リトアニア出身でご亭主はロシア出身の演出家ヴァシリー・バルハトフ 。
初来日の彼女、日本を好きになっていただいたようで、彼女のサイトを見てみたら「I Love Japan」と書かれていて、抹茶アイスの写真などが添えられてました。
カーテンコールでも、人をたてつつ、でしゃばらず、ステージマナーの所作もステキな彼女でした。

グリゴリアンとジュネーヴで共演歴のあるノット監督率いる東京交響楽団。
日本のオケがこんなに輝かしく、分厚い音と繊細な音色でもって、シュトラウスの万華鏡のような変幻自在の音楽を巧みに表出できるなんて!
ノットの指揮する東響もほんとに素晴らしかった。
歌手たちと事前に細密に打ち合わせてのことだろうが、しかしこの日のノットは思い切りオケを鳴らしていた。
それに負けない歌手たちだろうと踏んでのことだろうし、上に響くバランスのいいミューザのホールの特性も頭にいれてのことだろう。
サントリーでの公演はまた違ったアプローチをするかもしれない。
ピットの中では見ることのできない巨大編成のオーケストラが、分奏したり、打楽器がそんなところで、とか、ともかくコンサート形式のオペラでのビジュアルの喜びも堪能。
スコアで確認したい、ヨカナーンの首を落とすところは、オケ団員が床を踏んで鳴らしていた。

驚きの太っちょヘルデン、ヴェイニウス。
大きなお腹にもかかわらず、思いのほかスマートですっきりとした明快なヘルデン。
すっとこどっこいぶりは薄めだけれど、この必死なヘロデの声は思いのほか力強く耳に届いた。
ワーグナー諸役を持ち役にしているようで、新国あたりでうまく起用したらいいかと思った。

トマッソンのヨカナーンは、P席の横で、オケの上、斜め右で歌った。
ここからの声がホールを圧するすごさで、ブリリアント。
そう輝かしいヨカナーンだった。
オケのステージに降りると、グレゴリアンの声は通るのに、トマッソン氏の声がオケに混濁してしまうこともあった。
聴く位置にもよるかもしれないが、それだけグリコリアンの声がすごかった。
トマッソンは、バレンボイム・ベルリン・チェルニアコフ「パルジファル」でユニークな心優しいバーコード頭のクリングゾルを歌ってます。

バウムガルトナー、たぶん初聴きですが、この人の声もよく耳に届き、凛とした真っ直ぐな声のメゾでした。
ワーグナー諸役ではフリッカとオルトルートを得意役としているようで、こうした歌手はほんとに貴重だし、好きですね!

がんばった日本の歌手たち。
直前にナザレ人からナラボートにまわった岸浪さん、リリカルなお声だったけど、ナラボートの必死さをよく歌ってましたし、ほかの諸役、いずれも安心して聴けるレヴェルです。
こうしたみなさんが、日本のオペラをしっかり支えてくださり、日本各地でクラシック音楽を広めてくださる。
裾野は広く、レヴェルはともかく高いと認識です。

トーマス・アレン卿の演技指導は、ともかく的確で余剰な動きなしで、音楽を阻害しないもの。
ヨカナーンをともかく遠くに置き、手の届かない存在に見せつつ、サロメが興味深々になると手が触れるくらいまでに近づける。
こうした空間の活用はうまいし、各人が椅子に座りながらも何気に表情や演技で歌以外でも参画しているのも、コンサートオペラが無味乾燥にならずに息づいて受け止められることで演出が関与する意味合いがあるというもの。
アレン卿、カーテンコールでグリコリアンに促されて出てきて、ダンスをするなど、相変わらずお茶目でした。

サロメをヘロデが断罪したあと、急転直下のエンディングとなりますが、その瞬間ホールの照明は落とされ、一瞬の暗闇となりました。
最後にも驚愕の感銘が。

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アレン卿に、グリコリアン、きっとのノット監督の人脈でしょう。
ほんとにありがたいことです。
2023年5月は「エレクトラ」が予定されてます。

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ミューザは音がいい。

この日、東海道線で事故があり、ミューザの最寄り駅の川崎駅では各線の混乱が生じた。

あと一本あとだったらたどり着かなかった。

このコンサートも10分遅れでスタート。

ともかく久しぶりの演奏会だし、無事に聴けたし、とんでもなく素晴らしい「サロメ」を堪能しました。

過去記事

 「サロメ」 視聴しまくり、聴きどころ、見どころ

 「サロメ」 二期会公演

 「サロメ」 新国立劇場

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2022年10月30日 (日)

プロコフィエフ 「賭博者」 バレンボイム指揮

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壮絶なる夕焼け。

こうした燃えるような、焼けるようなダイナミックかつ濃厚な夕焼け大好きです。

自宅からの夕焼けであります。

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ再開。

いまさらながら、プロコフィエフの生まれた場所を調べてみたら、もっか話題のウクライナ、ドネツク州のソンツォフカという村だった。
ウクライナ→ロシア→ソ連→ウクライナ(→)ドネツク
こんな風に変遷を繰り返す場所で、ムリ無理に親ロシアの共和国として独立承認させてしまったばかり。
でも西側からしたら、ウクライナです。

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

年代順にプロコフィエフの音楽を聴いていこうという遠大なシリーズ。

まだ①のロシア時代で、この時代のモダニスト的な先鋭ぶりが実に面白いところだ。

コロナ禍における引きこもり生活で、海外から日々流されたオペラストリーミングの数々のなかで、ばっちり目覚めてしまったのがプロコフィエフのオペラ。
そんななかで、一番ピピっときたのが「賭博者」でありました。


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  プロコフィエフ 「賭博者」

①のロシア時代の作品で、1916年の完成。
1909年18歳のプロコフィエフは、ドストエフスキーの自伝ともいうべき「賭博者」を読んで、その内容に魅せられた。
1915年にロンドンに渡り、ディアギレフに出会ったときも、オペラ化を考えていた「賭博者」を提案したものの、断られ、ロシアっぽいバレエを書きなさいということで、「アラとロリー」や「道化師」が生まれることになる。

イギリス音楽好きとしてはなじみ深い指揮者で、当時キーロフ劇場にいたアルバート・コーツから、あらためて「賭博者」のオペラ化をすすめられ着手したのがディアギレフに断られたすぐあとで1916年にはスケッチが、翌17年には全曲が完成。
これまで天才的に評価され成功を重ねてきたプロコフィエフだが、すんなりと初演にはいかなかった。
1918年キーロフ劇場での初演は、おりからの2月革命の影響で歌手たちが、プロコフィエフの難解なスコアをろくに練習ができず難しすぎると訴え、さらには劇場も暴動などを恐れキャンセルされてしまう。
さらにはその年の5月、プロコフィエフはロシアを出ることを決断し、シベリア鉄道で日本経由でアメリカへと向かう。
「賭博者」のスコアは、キーロフ劇場に残されたままで・・・

ロシアを離れて9年、革命10周年を契機に、プロコフィエフはソ連に演奏旅行のため一時帰国するが、多忙な演奏会の合間にブレイクしていた若きショスタコーヴィチのピアノ演奏に接し感嘆している。
そして、朋友であった演出家メイエルホリドの提案で、「賭博者」の改定に乗り出した。
ヨーロッパに拠点のあったプロコフィエフが次にソ連に一時帰国をしたのが1929年で、2年前の帰国ではさほど感じなかったスターリン体制の息苦しさを体感することになる。
第1次5か年計画の挙国一致の機運が文化・芸術の分野にも波及しはじてており、反モダン・反ジャズ・反西欧・反古典を標ぼうする「RAPM」(ロシア・プロレタリア音楽同盟)という組織が音楽界を牛耳る動きを示していた。
メイエルホリドはプロコフィエフに事前に、こうした環境下にあると危機感を手紙で送っていたが、プロコフィエフは楽天的にとらえていたようだ。
プロコフィエフの2度目の帰国は、RAPMの連中にとって、やっかいな人物の登場と捉えられ、キーロフ劇場での「賭博者」の初演に横やりをいれて、中止にしてしまう。
この2稿版での初演は、ベルギーのモネ劇場でフランス語訳で同年に初演され大成功をおさめ、2年間のロングランとなったそうだ。
ソ連での上演は遅れること1963年、ロジェストヴェンスキーの指揮でのことだった。
いま上演される「賭博者」は、この第2稿によるものがほとんどで、初稿は2001年に同じくロジェストヴェンスキーによってなされていてCD化もされているが入手難の様子。

 プロコフィエフ 「賭博者」

   アレクセイ:ミッシャ・ディディク
   ポリーナ :クリスティーネ・オポライス
   将軍   :ウラディーミ・オグノヴェンコ
   バブレンカ(お婆様):ステファニア・トツィスカ
   公爵   :シュテファン・リューガマー
   アストレー氏:ヴィクトール・ルート

   ブランシェ:シルヴィア・デ・ラ・ムエラ
   ニルスキー王子:ギアン・ルカ・パゾリーニ
   ブルメールハイム男爵:アレッサンドロ・パリアーガ
   ポタピッチ:プラメン・クンピコフ
   カジノ責任者:グレプ・ニコルスキー

  ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団

                ベルリン国立歌劇場合唱団

   演出:ディミトリー・チェルニアコフ

         (2008.9.5 @ベルリン国立歌劇場)

場所:架空のヨーロッパのリゾート 、ルーレッテンバーグ

時間: 1860年代

1

グランドホテルの庭で、将軍の家族の家庭教師であるアレクセイは、侯爵に借金をしている将軍の姪であるポリーナに会う。
アレクセイはポリーナを愛しており、宝石を資金にしてギャンブルをするという彼女の指示を実行し、お金を失ってしまう。
将軍は、若いブランシュに夢中で、侯爵、そしてイギリス人のアストリー氏と一緒。
彼の損失について尋ねられたとき、アレクセイは自分の貯金を失ったと言い、収入がそこそこある人はギャンブルをするべきではないと叱られるが、アレクセイは、辛辣にお金を節約するという考えを見下したように言う。
アストリー氏はめずらしく思いアレクセイをお茶に招待する。
その後、将軍はモスクワの叔母バブレンカ(ポリーナの祖母です)から電報を受け取ります。
 ポリーナは、侯爵への借金を返せないことに不満を感じている。
ポリーナはアレクセイに彼の愛を証明し、公園に座っているドイツの男爵夫人をバカにすることによって、彼が本当に彼女のために何かをするかどうかを確認するように要求。
アレクセイは男爵夫妻を小ばかにした行動をとり、男爵の怒りを買ってしまう。

2

ホテルのロビーで、将軍はアレクセイの行動を非難。
アレクセイは悔い改めず、将軍は彼を家庭教師として解雇のうえ、スキャンダルの流出を防ぐために侯爵の助けを得ようとします。
ブランシュは以前に男爵に融資を求めていましたが、それは男爵夫人を動揺させた経緯があり、男爵夫妻の社会的地位が高いため、将軍は必死となる。バブレンカから遺産の分け前を受け取るまで、将軍はブランシュにプロポーズできない。
アレクセイは、ポリーナが自分の相続分を受け取ると、侯爵が彼女を引き渡そうとするだろうと考え始めます。

侯爵は将軍に代わって現れ、アレクセイの行動を和らげようとします。
アレクセイは、侯爵が小学生のように振る舞うのをやめるように要求するポリーナからのメモを作成したので侯爵を軽蔑し、怒って去る。
侯爵は将軍とブランシュに、アレクセイを追い払うのにに成功したと告げる。

将軍はバブレンカの死ぬことを予見し喜ぶが、その直後、彼女が健康でホテルに到着、彼女の声が聞こえた。
彼女はアレクセイとポリーナに愛情を込めて挨拶しますが、すぐに将軍たちを見抜き冷たくあしらい、お前には遺産はあげないと言いのける。
彼女は病気を克服したのでスパで休んでギャンブルをする予定なのだ。

3

カジノでバブレンカ は、ルーレット で 負け続ける。
将軍は意気消沈し、ブランシュとのチャンスが減るのを恐れおののく。
侯爵がバブレンカがどれだけ失ったかを話した後、将軍は警察を召喚することを提案しますが、侯爵は彼を思いとどまらせる。
アレクセイが到着し、将軍と侯爵はバブレンカのギャンブルでの損失を食い止めるために彼の助けを求める。
次に、ブランシュの別の潜在的な求婚者であるニルスキー王子が到着し、将軍はバブレンカを失うことをさらに恐れる。
ブランシェはニルスキーと一緒に出発しまう。
アレクセイは、バブレンカが経済的損失を被った後、ポリーナの家族がどうなるのかと思い悩む。
バブレンカは資金を使い果たし、モスクワに帰りたがっている。
バブレンカはポリーナに一緒に来るように頼むが断る。
将軍はバブレンカを嘆き悲しみわめく。

4

ホテルの部屋で、アレクセイは侯爵からの手紙を持っているポリーナを見つける。
侯爵は抵当に入れた将軍の財産を売却すると言い、ポリーナのために5万を許し、侯爵は彼らの関係が終わったと見なすと書いてきた。
ポリーナは、これが彼女に対する侮辱として強く感じており、侯爵の顔に50,000の金を投げつけたいと激しく言う。
アレクセイは、ポリーナが彼に助けを求めたことを非常に喜ぶ。

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カジノに駆けつけたアレクセイは、幸運に恵まれ、20回連続で勝ち、銀行を破綻させてしまう。
常連客はアレクセイの勝ちに勝つすごさについて興奮。
アレクセイは勝利のあと大金を得て自分の部屋に戻りますが、ディーラーや他のギャンブラーの声が聞こえ続けます。
彼を待っていたポリーナに、侯爵に返済するための資金を彼女に提供する。
彼女はこれを拒否し、自分の体と引き換えにお金を受け取ることを主張し、彼が本当に彼女を愛しているかどうか尋ね、ふたりは情熱的に抱き合う。
ところがポリーナは自分の行動を即時に後悔し、アレクセイがお金を渡すと、彼女はそれを彼の顔に投げ返しそれを使い果たす。
走り去るポリーナ、残されたアレクセイは、カジノでの彼の成功を狂気のように思い出したたずむ・・・・・

            

原作者ドストエフスキーもルーレットで多額の負債を負い、自作の版権を担保に借金をすることになるほどだった。
このオペラもほぼドストエフスキーの原作に忠実な内容となっているようだ。
温泉保養地で繰り広がられる色恋ギャンブル沙汰。
多くの映像作品も見たが、出演者はみんな酒とタバコは手放さず、放蕩の限りだ。
これもまたロシア人の姿か。
わかっちゃいるが、とことん行く、止まらない。
しかし、最後は「愛情と金は引き換えにはならない」のだ。
そこで救われるが、女心はわからない。

ここにつけた若きプロコフィエフの音楽は、洗練さとともに、禍々しさと激しさも満載で、リズム感とスピード感あふれる音楽には、その繰り返し的な効果もふくめ、聴く側に表現は不適切ながら中毒症状にも似た快感を与えてくれる。
とくに、4幕のカジノシーンは、その切迫した音楽が賭博に興じる主人公やギャンブル客の興奮を熱狂的に見事に描いている。
アリアなどは一切なく、全編がレシタティーボで出来てるような音楽劇であります。
冒頭に奏される旋律が、このオペラのキモとなっていて、陶酔的で、最後のクライマックスでいい感じに出てきて惹きつけられること受け合いだ。
そして、いまでも通じる内容でもあるので、設定を置き換える演出も、ここぞとばかりに取り組み甲斐いのあるオペラである。

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チェルニアコフの演出は、こうした作品では抜群の切れ味を示す。
ホテルのロビーを真ん中に据え、左にはアレクセイの部屋、右は客室、真ん中は通路になっていて、その奥はガラスの回転ドアがある。
ジャケットのゲームマシンに興じるねーちゃんは、この通路でカジノシーンで登場するもの。
そのカジノ会場は、ホテルのロビーだったところが、キンキラになって、タバコの煙がもくもくする気密性の高い部屋へと変貌する。
こうした舞台装置もチェルニアコフは毎度自分で考えて制作しているので、だいたいパターン化してくるが、先のベルリン・リングではお金もかかったろうが、最高に緻密な舞台ができあがっていた。

登場人物たちは、完全にドラマの主人公のようで、その所作はオペラの舞台で演じているのでなく、映画の登場人物のようですらある。
心理描写にたけた演出家らしく、事細かにその所作にも意味あいがつけられているし、その動きが現代人であるわれわれの日々の生活の延長みたいにも感じる。
さらに歌わない登場人物も多くいて、主人公たちの背景でそれぞれが会話したりしている姿もずっとあって、これがまた全体のフレームのなかでリアル感を打ち出すことになっている。
「孤独のグルメ」で主人公の背景で、ほかの客が食べたり話したりするのが映っているけど、まさにあんな感じでリアルなんです。
カジノシーンの緊張と没頭感は人々の巧みな心理描写を背景にした動きで見事に表出。
4つの演出で舞台映像を観たが、カジノシーンはこのチェルニアコフが一番見事だった。

しかし、リングのときも書きましたが、そのオペラの全体像をしっかり把握したうえでないと、理解が追い付かないのも事実。
かなりのお勉強も必要でした。
ということで同時に、ゲルギエフのマリンスキー劇場での上演も観てますが、こちらは抽象的だけど簡潔なのでわかりやすい。
しかし、なにもなさすぎて、スカスカに感じてしまうのも寂しいものだ。

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歌手たちはいずれも素晴らしく、アレクセイを得意役とするディディクの渾身の演技に歌は文句のつけようがない。
そして悲劇的な役柄を歌わせては抜群のオポライスのシリアスな歌声は、女優のようなその美貌とともに魅せられる。
オグノヴェンコの将軍さまも、ユーモラスさとともに、頑迷さをよく歌いこんだバスだった。
懐かしいトツィスカの傍若無人も面白く、相変わらずド迫力の声でユニークなものだ。

ベルリンでバレンボイムは、驚きのレパートリーを築いたが、そのひとつがプロコフィエフ。
「賭博者」とともに、「修道院での婚約」も上演しているし、R・コルサコフの「皇帝の花嫁」、ムソルグスキー「ボリスゴドゥノフ」らのロシアものを、いずれもチェルニアコフと組んでいて、いかにバレンボイムがこの演出家を気に入ってるかがわかる。
そのバレンボイムの指揮、オーケストラもウマいもので、プロコフィエフの音楽を重厚かつダイナミックに描いてみせた。
さばさばと流れてしまうゲルギエフよりは、メリハリもあっていいと思った。

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正規録音では唯一のゲルギエフ盤。
1996年の録音で、キーロフ劇場でのロシアオペラ録音を精力的に行っていた時期の記録。
まず音がよくて、プロコフィエフが若い頃から精緻な音楽を書いていたことがよくわかる。
一気呵成に聴かせてしまう勢いがあり、劇場の雰囲気も豊かだが、ロシアでの演奏であればもっとがっつりと逞しく図太くあってもよかった。
スタイリッシュにすぎるかも。
 映像でも視聴、歌手ではビジュアルも歌も素敵なカゾノフスカヤのポリーナがいい。
アレクセイのガルージンが力強くクセもある声だが、見た目がオッサンにすぎるので、ディディクに比べるとキツイ。

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1974年のボリショイ劇場でのライブでステレオ非正規盤。
非正規にしてはリブレットも充実していて変な話だけど本物っぽい。
指揮はラザレフで、録音はさえないが、オケの響きは太くとくに金管もロシアっぽく力強い。
全般にゲルギエフよりもはるかにロシアしてる演奏で、狂気の塩梅もよろしい。
70年代のソ連を代表する歌手たち、この頃はロシアオペラの来演はボリショイ劇場だったから、きっと日本にもやっきたはずのメンバー。
マスレンニコフのアレクセイが破滅的にすごい。

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2017年のウィーン国立歌劇場上演。
コロナ禍の世界のオペラ劇場のストリーミング大会の恩恵を受けて視聴。
これより前のベルリンでのチェルニアコフの映像もベルリンのストリーミングで見ていたけれど、このウィーンの上演でこの作品のドラマと音楽を把握できた次第。
 アレクセイはベルリンと同じディディクで、年月を経てさらに歌唱に磨きがかかり、ギャンブルへの取り憑かれ具合も増して威力を増した。
ポリーナは親しみを持てるロシアのエレーナ・カセーヴァで、わたくし彼女が好きなんですが、西側での活動を継続してるみたいで安心した。
バブリンカには、かつてのブリュンヒルデ、おなじみのリンダ・ワトソンが演じていて味わいが深いです。
指揮はシモーネ・ヤングで、これがまたいい。
シモーネ女史はウィーンでの近代オペラの指揮を一手に引き受けていて、ピットないでの生き生きとした指揮姿はウィーンフィルでも散見されるメンバーを夢中にさせるナイスなものです。
音楽もキレがよく、すみずみまで明快です。
強いて言えば、どす黒さのなく健康的すぎることでしょうか。
その演奏が寄り添ったのがカロリーネ・グルーバーの演出で、ドラマの本質は変えず、多彩な表現で個々の人物や出来事に意味付けを行う。
穏当ながら大胆な解釈もあり、ラストシーンでは驚きがあった。
カジノシーンでは、アレクセイは悪魔に変身する途上で、人間の心を人々が集団的に失っていく様が回転する回り舞台でよく表現されている。
グルーバーとヤングのコンビは、真夏の夜の夢でも傑作を生みだしてるし、わたしも二期会のルルでその演出を体感したばかり。
 DVD期待、いきなりチェルニアコフでなく、ゲルギエフでもなく、こちらから鑑賞するのがいいかもしれない。
ウィーンのプロコフィエフは甘くて酸っぱいのだ。

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2019年にリトアニア国立歌劇場で上演された映像を期間限定で観ることができた。
これがチェルニアコフばりの上下左右を巧みにつかった空間活用演出で、時代設定も現代そのもので、いまに生きる「賭博者」そのもの。
演出家はヴァシリー・バルハトフという30代のロシア人で、その夫人はなんと、いまをときめくアスミク・グリコリアン。
その彼女がポリーナを演じていて、これまた深みのある演技と強い声で持って舞台をけん引している。
しかし、それ以上の演出家のアイデアが秀逸で、リゾートホテルをドイツの廉価なホステルに変え、そこに集うカジュアルな平服を着た人々へと設定を変えた。
ホテルのロビーはコインランドリーに格下げとなり、舞台はそこからスタートするしEUをもじったような政治的な主張もはいる。
ポリーナは子連れで、もしかしたら姪っ子かもしれないが、この女の子の所作が可愛くてときに舞台をさらってしまう。
分割された空間=部屋を見事に生かして、キッチンの様子やテレビでゲームに興じる女の子、マックのPCでネットサーフィンをするアレクセイなど、実に今風でリアル。
バブリンカはモスクワ旅行から帰ってきた風で、みんなに安いスーベニアを配っていて、そのすべてが細かすぎでよく出来ていて笑える。
驚くべきはカジノが、オンライン化されていて、世界中のいろんなユーザーと同時対戦をして勝ち抜くことになり、そのメンバーたちの悲喜こもごもが拡大されたスマホ画面に映し出されること。
アレクセイが勝った証左は、PCで確認というまさにリアル現代。

アレクセイのドミトリー・ゴロフニンもカジュアルな身のこなしがナイスな歌手でロシア臭のないスマートぶり。
ラストシーンも斬新。
モデスタフ・ピトレナスという若いリトアニアの指揮者も才気煥発な感じで実によろしい。
バルト三国は、非ロシアであり、ロシアのエッセンスももったヨーロッパの国々だ。
ロシアの演奏家を聴けなくなったいま、この三国は救いだ。
リトアニアの賭博者、めちゃおもしろかった。

 というわけで、すっかりプロコフィエフの音楽にやられちまっている状況で、夢のなかでも賭博者鳴ってますぜ、やばいよ。

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もう夢、見ませんように。

秋の夕景は美しい。

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2022年6月 5日 (日)

ブリテン 「グロリアーナ」 P・ダニエル指揮

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英国女王エリザベス2世が、即位70周年のプラチナ・ジュビリーをむかえました。

1953年、父ジョージ6世の後を受けて即位して70年。
英国史上、一番長く君臨する君主となりました。

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                                                     (BBCより拝借)

英国は4連休となり、さまざまな祝賀行事が行われていますが、96歳の高齢に加え、体調も最近は崩し勝ちとのことで各イベントへのご登場はほとんどお休みの様子。
親しみあふれる女王なのでちょっと心配ですが、ますます健やかに英国を統べていただきたいものです。

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イギリスには1度だけ行ったことがありまして、これがそのときの絵葉書。

仕事で赴き、視察的半分なお遊び的なツアーでして、レンタカーでロンドン周辺を走り回りました。
高速に乗って少し走ると、緑の丘がポコポコと見えるなだらかな美しい光景が見れましたし、海の方へ長躯走ると、絶壁の厳しい海岸線もみることができました。

市内では運転していて、目の前にビッグベンが登場したときはびっくりしたものです。

そして、ターミナル的なところにやむを得ず車を停めてちょっと離れたら、そこには怖そうなポリスマンが立ってました。
君々!ここは駐車禁止じゃよ!と無表情で睨まれました。
こちらは、たどたどしい英語で、すいませ~ん、わからなかったんです、旅行で来てるもんですから・・・・と素直に謝りました。
そしたら、お巡りさん、態度が一変、そうかそうか、次は気を付けるんだよ、よい旅をな~って無罪放免してくれたんです。

プライド高そうな英国の人々だけど、実はフレンドリーで、日本人には優しかったのでした。

そのときの、旅は前半がパリだったんですが、ハンドルも車線も逆だし、高速なんて地獄のように怖かったし、そもそもフランス人は日本人の話す英語なんてまるきり無視して見下したような雰囲気でした・・・・

(以下、過去記事を修正しつつ引用します)

      ブリテン 歌劇「グロリアーナ」

1953年、現女王エリザベス2世の戴冠式奉祝として作曲されたブリテンのオペラが、オペラ16作中8番目の「グロリアーナ」。

スコアの献辞に「この作品は、寛容なるご許可によってクィーンエリザベス2世陛下に捧げられ、陛下の戴冠式のために作曲された」とあります。

原作は、リットン・ステレイチーの「エリザベスとエセックス」。
台本は、南アフリカ生まれの英国作家ウィリアム・プルーマーで、彼は「カーリューリバー」の脚本家。

1953年6月6日に、コヴェントガーデン・ロイヤルオペラハウスで、政府高官や王列関係者たちだけのもとで初演。
英国作曲界の寵児であったブリテンの期待の新作オペラではあったけれど、初演の反応は不芳で、むしろジャーナリストたちからは、果たして女王に相応しい音楽だろうか?として攻撃を受け、やがて連日非難が高まり、このオペラはなかったもののようにして忘れられていく存在となってしまった。

それは、オペラのあらすじをご覧いただければ一目了然。
物語の主人公はエリザベス1世、期せずして、1533年生まれ1603年没。
その別名が彼女を讃えるべくつけられた「Gloriana」グロリアーナ(栄光ある女人)でもあるわけです。
イングランドに黄金期をもたらせた女王は、スペイン無敵艦隊に対する勝利が栄光のピークで、このオペラはずっと後年の晩年近く、1599年から1600年のことを描いている。
登場人物たちは、そのまんま歴史上実在の人物たち。
成功続きだった女王の治世も陰りが出てきて、生涯独身だったエリザベスにも老いが忍び寄っていた時期。
エセックス公ロベルト・デヴリューを寵愛し、一方で女王から信頼を受けていた政治の中枢、ロバート・セシルとエセックス公は敵対関係にあった。
ドニゼッティのオペラにも、英国女王3人にまつわる3部作があり、エセックス公=「ロベルト・デヴリュー」があります。
アンナ・ボレーナの娘がエリザベス1世で、スコットランド女王メアリー・ステュアート(マリア・ステュアルダ)と敵対し、エセックス公ロベルト・デヴリューをめぐってもさや当てをすることとなるのがドニゼッティの一連のオペラ。

こんな背景を頭に置きながら、このオペラを味わうとまた一味違って聴こえます。

ちなみにブリテンは、このオペラから交響組曲「グロリアーナ」を編み出していて、最近そちらの演奏機会も増しているし、録音もなされるようになってきました。
ブリテン自身の指揮によるシュトゥットガルト放送録音がCD化されてますが、そこではエセックス公の1幕で歌われるリュート歌曲が、ピアーズの歌唱で収録されてまして、それはもう儚さの境地です。

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ブリテン  歌劇「グロリアーナ」

 エリザベス1世:スーザン・ブロック
 エセックス公ロベルト・デヴリュウー:トビー・スペンス
 エセックス公夫人フランセス:パトリシア・バルドン
 マウントジョイ卿チャールズ・ブラント:マーク・ストーン
 エセックス公の姉レディ・リッチ、ペネロペ:ケート・ロイヤル
 枢密院秘書長官ロバート・セシル卿:ジェリー・カーペンター
 近衛隊長ウォルター・ラーレイ卿:クリヴ・ベイリー
 エセックス公の従者:ヘンリー・クッフェ
 女王の待女:ナディーヌ・リビングストン  
 盲目のバラッド歌手:ブリンドリー・シェラット

  ポール・ダニエル指揮

            ロイヤル・オペラ。ハウス管弦楽団
     ロイヤルオペラ合唱団
  
  演出:リチャード・ジョーンズ

      (2013.6 @ロイヤルオペラハウス)


第1幕
 
 馬上試合の場面、エセックス公は従者とともに試合観戦中。
従者からの報告で一喜一憂。しかし結果は、マウントジョイの優勝。
女王から祝福を受ける彼をみて、エセックス公は、本来なら自分がそこに・・・と嫉妬をにじませる。
人びとは、エリザベス朝時代の女王を讃える歌「Green Leaves」を歌う。
そのマウントジョンとエセックス公は、やがて口論となり小競り合い。
そこに登場した女王のもとに、二人は跪き、彼女の仲裁で仲直りする。
人びとは、ここで再度「Green Leaves」を歌い、今度はフルオーケストラで、とくにトランペットの伴奏が素晴らしい。

「Green leaves are we,red rose our golden queen・・・・」 

この讃歌は、このオペラに始終登場して、その都度曲調を変えて出てきます。

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 ②ノンサッチ宮殿にて。腹心のセシルとエリザベス。
彼は、女王に先の馬上試合での騒動の一件で、エセックス公への過度の肩入れは慎重に、と促し、女王も、それはわかっている、わたくしは、英国と結婚しています、と述べる。
 彼と入れ替わりにやってきたのは、そのエセックス公。
彼はリュートを手にして歌う。明るく楽しい「Quick music is best」を披露。
もう1曲とせがまれて、「Happy were he could finish」と歌います。
それは、寂しく孤独な感じの曲調で、ふたりはちょっとした二重唱を歌う。
オーケストラは、だんだんと性急な雰囲気になり、エセックス公はここぞとばかり、アイルランド制圧のための派兵のプランを述べ、命令を下して欲しいと懇願。
女王は、すぐさまの結論を出さず、公を退出させる。
ひとり彼女は、神よ、わたくしの信民の平和をお守りください・・・と葛藤に悩む。

第2幕

 ①ノーリッジ 訪問の御礼に市民が女王の栄光をたたえるべく、仮面劇を上演。
マスク役のテノールが主導する、この劇中劇の見事さは、さすがブリテンです。
そんな中で、結論を先延ばしにする女王に、エセックス公はいらだつ。
劇が終ると、人びとは女王のそばにいつも仕えますと、感謝の意を表明し、女王はノーリッジを生涯わすれませんと応える。
 ここでまた、Green leaves。

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 ②ストランド エセックス公の城の庭
マウントジョイとエセックス公の姉ペネロペは恋仲。ふたりはロマンティックな二重唱を歌い、そこにエセックス公夫妻もやってくるが、最初は公は姉たちがわからない位置に。
エセックス公は、プンプン怒っていて、弟君は、何故怒っているのかとペネロペに問う。
自分の願いが認められなくて、イライラしてるのよ、と姉は答える。
やがてそれは4重唱になり、愛を歌う姉、どんだけ待たせるんだとの弟とマウントジョイ、自制を促すエセックス公の妻。
しまいには、女王はお歳だ、時間はどんどん彼女の手から流れ去ってしまう・・・・と3人は急ぐように歌い、ひとり妻は、ともかく慎重にと促す。

 ③ホワイトホール城の大広間 エセックス公の主催の舞踏会
パヴァーヌから開始。やがて公夫妻、マウントジョイとペネロペ入城。
夫人は豪華絢爛なドレスを纏っていて、マウントジョイにペネロペは、弟があれを着るように言ったのよとささやく。
ダンスはガイヤールに変わり、4人はそれぞれにパートナーで踊ります。
 そこに女王がうやうやしく登場。彼女は、エセクス公夫人を認めるなり、上から下まで眺めつくす。
彼女は今宵は冷えるから体を温めましょうと、イタリア調の激しい舞曲ラヴォルタをと指示。
音楽は、だんだんとフルオーケストラになり、興奮の様相を高めてゆく。
 ダンスが終ると、女王は、婦人たちは、汗をかきましたからリネン(下着)を変えましょうと提案し、それぞれ退室。その後も、モーリス諸島の現地人のダンス。
しかし、レディたちがもどってくるが、エセックス公夫人があの豪華な衣装でなく地味なまま飛び込んできて、さっきの服がない、誰かが着てると騒ぎ立てる。
そのあと、女王が大仰な音楽を伴って戻ってくる。
そのドレスは、なんとエセックス公夫人のあの豪華な衣装。
しかも、体に合わず、はちきれそう。
唖然とする面々にあって、婦人は顔を手でおおって、隅に逃げ込む。
屈辱を受けながらも、怒りに震える夫と、姉、マウントジョイには、それでも気をつけてね、相手は女王なのよ、とたしなめる健気な夫人。
 お触れの、お出ましの声で、元のドレスに戻った女王が登場。
エセックス公に、近衛隊長ラーレイが、大変な名誉であると前触れ。
そして女王が、「行け、行きなさい、アイルランドへ、そして勝利と平和を持ち帰るのです」とエセックス公に命じ、手を差し出す。
うやうやしく、その手をとり、エセックス公は感激にうちふるえ、「わたしには勝利を、貴女には平和を」と応えます。
明日、あなたは変わります、そして今宵はダンスを!クーラントを!
女王の命で、オーケストラはクーラントを奏で、やがてそれは白熱して行って終了。

第3幕

 ①ノンサッチ宮殿 女王のドレッシングルーム。
メイドたちのうわさ話。3つのグループに分かれて、オケのピチカートに乗ってかまびすしい。エセックス公のアイルランド遠征失敗のことである。
そこに当の、エセックス公が息せき切ってやってきて、女王にいますぐ会わなくてはならないという。
女王は、まだ鬘も付けず、白髪のままで、何故にそう急くのか問いただすものの、エセックス公はいまある噂は嘘の話ばかりと、まったく当を得ない返答。
何か飲んで、お食べなさい、そしてリフレッシュなさい、とエセックス公をたしなめ帰すエリザベス。
待女とメイドたちの抒情的で、すこし悲しい美しい歌がそのあと続く。

 秘書長官セシル卿を伴って女王登場。
セシルは、アイルランドはまだものになっておらず、しかもスペインやフランスの脅威も高まってますと報告。女王は、これ以上彼を信じることの危険を感じる。
女王は命令を下します。「エセックス公を管理下におき、すべて私の命に従うこと、アイルランドから引き上げさせ、よく監視すること。まだ誇りに燃えている彼の意思をつぶし、あの傲慢さを押さえこむのよ、わたくしがルールです!」と。

 ②ロンドンの路上 盲目のバラッド歌手が、ことのなりゆきを歌に比喩して歌っている。
少年たちは、セシルやラレーのようになろう、と武勇を信じ太鼓にのって勇ましく行進中。
エセックス擁護派は、王冠を守るために働いているのだ、女王は年老いたと批判、かれが何をしたのか・・・と。
バラッド歌手は、反逆者だと?彼は春を勘違いしたのさ、と。

 ③ホワイトホール宮殿 エセックス公の公判
セシルとラレーは、彼がまだ生きていることが問題と語っていて、女王が入廷すると、エセックス公に対する処刑命令が宣告される。その最終サインは女王。
「彼の運命はわたくしの手にゆだねられたのね、サインはいまはできない、考えさせて・・」と女王は判断を伸ばすが、セシルは、恐れてはいけません、と迫る。
女王は、「わたくしの責任について、よけいなことをいうのでありません」とぴしゃりと遠ざけてしまう。

ひとりになった女王は、哀しい人よ、と嘆く。
そこへ、ラレーが、エセックス公夫人、姉、マウントジョイを連れてくる。
彼らは、女王にエセックス公の助命を懇願にやってきたのだ。
まず、夫人がほかの二人に支えられて進み出て、「あなたの慈悲におすがりします。わたくしのこのお腹の子とその父をお救いください」と美しくも憐れみそそる歌を歌う。
これには、女王も心動かされ、嘆願を聞き入れる気持ちに傾く。
 その次は、エセックスの姉ペネロペが進み出て語る「偉大なエセックス公は、国を守りました・・」、その力はわたくしが授けましたと女王。姉は、まだ彼の力がこのあなたには必要なのですと説くと、和らいだ女王の心も、一挙に硬くなり、なんて不遜なのだ、と怒りだす。
食い下がるペネロペにさらに怒り、3人を追い出し、執行命令書を持ってこさせ、サインをしてしまう。

この場面での悲鳴は、エセックス公婦人、オーケストラはあまりに悲痛な叫びを発します。
ここから、音楽は急に、暗く寂しいムードにつつまれます。

女王は、大きな判断をして勝利を勝ち取りました、しかし、それは虚しい砂漠のなかのよう、と寂しくつぶやく。

遠くでは、エセックス公が、死の淵にあるいま、みじめなこの生を早く終わらせることが望みです・・・・。とセリフで語る。
以下は、セリフの場面が多く、音楽は諦念に満ちた雰囲気です。

女王は、自分はわたくしの目の前で、最後の審判をこうして行ってきました。王冠に輝く宝石は国民の愛より他になく、わたくしが長く生きる、その唯一の願いは、国の繁栄にほかなりません、と語る。
 外では、群衆の喝采が聴こえる。

  「mortua, morutua, mortua, sed non sepulta!」
 
女王がつぶやくように歌うこちら、ラテン語でしょうか、意味がわかりません。

セシルが再びあらわれ、女王に早くお休みになるように忠告するが、女王は、女王たるわたくしに、命令することはおやめなさい。それができるのは、わたくしの死のときだけと。
そしてセシルは、女王の長命をお祈りしますとかしこまります。

弦楽四重奏と木管による、1幕でエセックス公が歌った寂しげな旋律のなか、女王は「わたくしには、生に執着することも、死を恐れることも、ともに、あまり重要な意味をいまや持ちません」と悲しそうに語る。

ハープに乗って静かに
「Green leaves are we,red rose our golden queen・・・・」が、合唱で歌われ、それはフェイドアウトするように消えてゆきます。

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舞台では、ひとりにきりになった女王が立ちつくし、やがて光りも弱くなり、暗いなかに、その姿も消えていきます・・・・・・。

                    


このような、寂しくも哀しい結末があるオペラで、楽しい劇中劇や舞踏のシーンはあるものの、たしかに祝賀的な内容ではありません。

老いから発せらる女王の嫉妬や、時間のないことへの焦り。
そして、ある意味、醜いまでのその立場の保全。
さらに、重臣たちの完璧さが呼ぶ、あやつり人形的な立場。
しかし、これがグロリアーナ・エリザベス1世の晩年の現実で、ブリテンは、エリザベス1世の人間としての姿を、正直に描きたかったのに違いありません。

ブリテンのオペラの主人公たちが常に持つ、その背負った宿命や悲しさ、そしてそこから逃げられない虚しさ、
あがいても無駄で、そこにはまりこんでしまい、もがく主人公たち。
でもやがてその宿命を受け入れ、ときには死を選ぶ。
その彼らへの、愛情と同情、そしてそれが生まれる社会への警告と風刺にあふれたブリテンの作り出したオペラの世界。

クィーンだったエリザベス1世に対しても例外でなかったのです。

当然に、当時の保守的な英国社会は、ふとどきな作品としてネガティブキャンペーンをはります。
音楽業界も、完全にスルーして、通例だった作者自身の指揮によるデッカへのレコーディングも、この作品ばかりはなされなかったのでした。
ブリテンも、わかっていたかのように、静かにその評価を受け止めます。

しかし英国は、ブリテンを最大級のオペラ作曲家として次も評価し、ブリテンも傑作を次々と編み出す。
チャールズ・マッケラスが録音でこの作品に光をあて、2013年のエリザベス女王在位60年にコヴェントガーデンで、上演もされました。
そのときの上演が今回のDVD 。

わたくしは、コロナ禍のオペラストリーミングでこちらを観劇し、あまりにステキな上演だったものですから、本盤を入手しました。

当時の衣装をそのままに、さらに鮮やかな色彩をほどこした絢爛たる舞台。
しかし、リチャード・ジョーンズは時代を1953年に戻して、劇中劇としました。
若きエリザベス2世、現女王もオペラの最初と最後に登場します。
また、英国王室の歴代の移り変わりを冒頭にしゃれた演出にてもってきまして、王室へのリスペクトとしております。
劇中劇仕立てなので、装置も舞台のなかの舞台みたいで、適度にデフォルメされていて、モニュメント化された小道具も見て、推察して考えをめぐらす楽しみもあります。
リチャード・ジョーンズの舞台は新国や二期会、DVDでもそこそこ見てきましたが、背景や壁紙の使い方が実によろしく、スタッフたちのセンスの良さが常にひかります。
オペラの中に仮面劇があるのですが、劇のなかの劇のなかのこれまた劇が、とてもおもしろくて、群衆のカラーリングや農産物などまったくおもしろかった。
 さらに、ブリテンの筆が冴えまくる舞踏会の場面も、女王が嫉妬したエセックス公夫人の黄色いドレスがとても素敵で、旦那も黄色で、ほかの人物たちは黒、色の対比が鮮やか。
ルネサンス風の舞踏から熱狂へ向かうブリテンの音楽が、こうして舞台を伴うと最高にスリリングだった。
 3幕からは暗い影が忍び寄り、女王も老いさらばえ、果断の判断もおぼつかないし、悩みのなかに、国のためになすことを判断するシーンは光と影を巧みに使った迫真の舞台となっている。

ワーグナーソプラノとして何度か聴いたことのあるスーザン・ブロックの体当たり的な演技と、エキセントリックな歌い口も織り交ぜた迫真の歌唱がまったく素晴らしい。

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あとトビー・スペンスは、まさにあたり役。
リリックな英国テナーのいまや代表格となったトビーは、先ごろフィンジの歌唱を絶賛したばかり。

ボルドーオペラで活躍中のP・ダニエルの暖かい目線の通った指揮は、こうしたリアルなオペラにはぴったり。

このオペラのラストシーン、やはり寂しい、泣けます。
孤独とはこういうものなのだろうと。
そして、この演出で現女王がふたたび登場するラストシーンは、あまりにも素晴らしいし、まさにグロリアーナへの敬愛の賜物でありました。

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こちらは1953年の初演時とガラコンサートのコヴェントガーデンのバルコニーでの女王陛下。

こちらでその貴重な記録が確認できました。

https://www.youtube.com/watch?v=m-tWBZgbvyM

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                 (BBCより拝借)

エリザベス女王のご健康とご多幸を末永くお祈り申し上げます。

英国と日本の結びつきもますます強固になりますことを願います。

過去記事

「マッケラス指揮 グロリアーナ」

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2021年12月19日 (日)

R・シュトラウス 「サロメ」

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六本木の毛利庭園には、ハート型にうまくねじれたモニュメントが通年あります。

冬の夜景が一番しっくりきます。

遠くに東京タワーは、赤のライトアップ仕様。

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どんな色が施されても、東京タワーはスクッと美しい。

同期生、ワタシも頑張らねば。

そして、頑張って「サロメ」を乱れ聴いた。

R・シュトラウスのblog2度目のオペラ全作シリーズ。

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悩めるヘルデンテノール役を主人公にしたワーグナーの完全な影響下にあった1作目「グンドラム」(1894年)
ジングシュピール的メルヘン劇の「火の欠乏」(1901年)

これら、いまや上演機会の少ない2作に続いて書かれた「サロメ」は、シュトラウスとしても当時、興行収入が大いにあがったオペラで、ガルミッシュに瀟洒なヴィラを建てることもできた。
そして、いまや世界中でこぞって上演される劇場になくてはならぬ演目となりました。

原作のオスカー・ワイルドの戯曲は1891年にパリでフランス語により作成。
ドイツでは、独語訳により1901年に上演されているが、同時期にシュトラウスにオペラ化の提案がありその気になった。
しかし、その台本は採用されず、ラッハマンの原作の独語訳を採用することで1903年より作曲を開始、1905年に完成。
同年、ドレスデン初演され成功を博し、各地で上演されたものの、好ましくない内容として上演禁止にされることもあったという。
前2作以上に、ワーグナー以降のドイツオペラにあって革新的であったのは、優れた文学作品をその題材に選んだことで、しかもその内容が時代の先端をゆくデカダンス=退廃ものであったこと。
そうしたものを、実は人間は見たいのである。
 初演時のサロメ役は、見た目はまったく少女でもなく、しかし、こともあろうに、演出のせいもあったが、自分は品性ある女性、倒錯と不埒さばかり。。と駄々をこね、周りを困らせたらしい。
シュトラウスは、16歳の少女の姿とイゾルデの声のその両方を要求する方が間違っていると、自分のことながら皮肉をこめて語っている。
保守的なウィーンでの初演はずっと遅れて1918年。
マーラーのウィーン時代に、当局より検閲を受け、マーラーはシュトラウスあてに、上演できない旨の手紙をしたためているが、この手紙は投函されず仕舞い。いつかは上演できるとの思いもあったのではとされます。
オーストリア皇室の反対が強く、マーラーと劇場の関係が悪化したのも、そうしたことも理由にあるらしい。

日本初演は、ドレスデンでの世界初演から遅れること57年、1962年です。
調べたら、大阪で、グルリット指揮の東フィル、歌手はゴルツや、ウール、メッテルニヒという本場でも超強力のメンバーで、当時の日本の聴衆はさぞかし驚いたことだろう。
いまでは、日本人歌手のみによる上演も普通になされるようになり、半世紀における演奏技術の進化には目をみはるものがあります。
それは、世界的にみてもおなじことで、サロメを歌う歌手たちは、ビジュアル的にもスリムになり、磨きもかかり、声と演技とに、さまざまなスタイルの女性を歌いあげることも、ますます普通のことになった。

さて、シュトラウスの激しく、劇的で、しかも官能と甘味あふれる音楽。
「私はすでに長い間、東方およびユダヤ的側面を持つ音楽について、実際の東洋的な色彩、灼熱した太陽に不足していることを感じていた。
とくにめずらしいカデンツァで艶のある絹のように多様な色彩を出すような、本当に異国風な和声の必要さを感じた。
モーツァルトがリズムの差による人物描写を天才的な手法で行ったように、ヘロデとナザレ人たちの性格を対比するには、単純なリズムで特徴づけるだけでは不十分だと思った。
鋭い個性的な特徴を与えたいという思いから、多調性を採用した」
シュトラウスのこれらの言葉にあるように、サロメの音楽は色彩的であるとともに、描写的にも、これまで多くの交響詩で鍛え上げられた筆致の冴えが鮮やかなまでに生かされている。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「サロメ」を視聴するにあたり、自分の着目ポイント

①冒頭を飾るナラボートの歌

②井戸から引き出されたヨカナーンとサロメの会話~エスカレートする欲求
 「体が美しい」→「黙れソドムの子」
 「体は醜い、髪が美しい」→「黙れソドムよ」
 「髪の毛は汚らわしい、お前のその口を所望する、接吻させろ」
 (ナラボート、ショックで抗議自殺)

③神々しいヨカナーン
 「お前を助けることができるのは唯一ひとり」
  ガリレア湖にいるイエスを歌う場面
  急に空気感が変わる清涼な雰囲気の音楽
  最後は「お前は呪われよ!」と強烈な最後通告を下す!
  そのときの凄まじい音楽

④ヘロデのすっとこどっこいぶり
 「さあ、サロメよ酒を飲め、そして同じその盃でワシも飲むんだから」
 「あまえの小さい歯で果物に付けた歯形を見るのが好き。
  少しだけ噛みきっておくれ、そしたら残りを食べるんだから、うっしっし」
  嫁にたしなめられつつも、お下劣ぶりはとまらない

⑤ユダヤ人たちの頑迷さと、救世主を待望するナザレ人
  それぞれの性格や、混乱ぶりを音楽で見事に表出

⑥7つのヴェールの踊りへなだれ込む瞬間が好き
  単体で聴いたんじゃ面白くない、流れが肝要
  この「7」という数字には意味合いがあるのだろうか?
  キリスト教社会にある、「7つの大罪」とリンクされているのだろうか

⑦ダンスのあとの、おねだりタイム
 H「見事、見事、褒美を取らすぞ、なにが欲しい?」
 S「銀の鉢へ」
 H「ほうほう、可愛いことを言いようるの、なんじゃ、なにが欲しい?」
 S「ヨカナーンの首」
 H「ぶーーっ、だめだ、だめぇーー」
 妻「ははは、さすがは、わたしの娘」

  ここでのヘロデのリアクションが面白いし、音楽も素っとん狂だ

  これまで観たヘロデびっくりリアクションの金賞は、メット。
  キム・ベグリーの思わず酒を吹く芸人魂あふれる演技

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   (サロメはマッティラ、かなりきめ細かな噴射でございます)

  ヘロデは、ルビー、宝石のありとあらゆるもの、白い孔雀などなど
  代替の品を提案する。
  シュトラウスの音楽の宝石すら音にしてしまう至芸を味わえる。
  提案のたびに、サロメは、「ヨカナーンの首を」と否定。
  
  この「ヨカナーンの首」を所望するサロメの言葉。
  この場面で、全部で「7回」あります。
  ここでも「」が!

  この7つの「ヨカナーンの首」をそれぞれ表現を変えて歌うサロメもいる
  
  「Gib' mir den Kopf den Jochanan!」
  ヨカナーンの首をくれ、という最後の7つめは壮絶
  ここだけでも、聴き比べが楽しい。
  演劇的な要素も多分に求められるようになったオペラ歌手たち。
  かつては考えられない、多様な歌唱を求められるようになったと思う。

⑧サロメのモノローグ

  あらゆるドラマテックソプラノのロールの最高峰級の場面
  聴き手はもう痺れるしかないが、歌手はほんと大変だ。
  愛おしむように、優しく歌い、
  でも官能と歓喜の爆発も歌いこまなくてはならない
  
⑨おまけ ヘロデのひと声

  おい、あの女を殺せー
  「Man töte dieses Weib!」

  ドラマの急転直下の結末を与える、このエキセントリックなひと声も大事
  いろんなヘロデで楽しみたい。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そんなわけで、いろんなサロメや、オーケストラを聴きたくて、新旧いくつもの音源をそろえること8種類。
映像も4種、エアチェック音源は10種も揃えることとなりました。

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①「ショルティ盤」1961年
1961年、そう、日本初演の前年に、「リング」録音のはざまに、カルショウのプロデュースで録音されたもの。
あのリングの延長上にあるような録音で、生々しいリアルサウンドが、キレのいいショルティの剛直な演奏をまともに捉えたもので、ニルソンの強靭な歌声もいまだ色あせない。
しかしながら、ニルソンはすごいけれど、現代のもっとしなやかで、細やかな歌唱からすると強靭にすぎるか。
全般に現在の感覚からすると、やりすぎで重厚長大な感も否めない。
これ単体とすれば、立派すぎて非の打ちようもないのだけれども。

②「ベーム盤」1970年
CD時代になってから聴いたベーム&ハンブルグ歌劇場の70年ライブ。
ライブのベームならでは。
熱いけど、重くなくて、軽やかなところさえある。
長年サロメを指揮してきた勘どころを押さえた自在な指揮ぶりは、感興たくましく、さまざまなサロメの姿を見せてくれる。
それにしても、最期のサロメのモノローグのすさまじいばかりの盛りあがりはいつ聴いてもたまらない。
グィネス・ジョーンズの体当たり的な熱唱も、ベームに負けじおとらずで、私はがんらい、ジョーンズの声が好きなものだから、彼女の声や歌いぶりを批判する批評は相容れません。
70年代はじめ、オルトルート、レオノーレ、オクタヴィアンなど、メゾの領域もふくめた幾多のロールに起用され、指揮者からもひっぱりだこだったジョーンズ。
あわせてヴェルディやプッチーニも積極的に歌ってました。
私は、そんなジョーンズが好きで、ブリュンヒルデ、イゾルデ、バラクの妻、トゥーランドッドなど、みんな好き。
そう、ニルソンにかぶります。

③「スウィトナー盤」1963年
スウィトナーとドレスデンのサロメ。
味わいの深さと、ベームのような軽やかな局面もあり、モーツァルト指揮者だったスウィトナーが偲ばれる。
63年の録音で、前年に日本初演の舞台に立ったゴルツのサロメが、いま聴いても古臭くなく、なかなかに鮮烈なもの。
チョイ役に、アダム、ヨアヒム・ロッチュ、ギュンター・ライプなど、のちに東ドイツを代表する歌手たちの名前があるのが懐かしいが、準主役級はやや古めかしい歌唱も混在。

④「ラインスドルフ盤」1968年
以前にもブログに書いたラインスドルフ盤は、なんといってもカバリエのサロメ。
繊細な歌唱が、少女から妖女までを巧みに歌いこんでいて、まったく違和感はない。
マッチョなミルンズのヨカナーンとか、レズニックのヘロディアスなんかもいいし、キングのナラボートがヒロイックだ。
オペラ万能指揮者のラインスドルフとロンドン響も悪くない、ユニークだけど、普通にサロメが楽しめる。

⑤「ドホナーニ盤」1994年
まず、録音がいい。ショルティ盤がやや古めかしく感じるほどにいいし、ウィーンフィルのよさもばっちりわかる。
ドホナーニの指揮もかつてはドライに感じたが、いまやそうでもなく、ほどよい湿り気があっていい。
あとマルフィターノが、素晴らしい。
表現の幅が、無限大な感じで、少女から妖女までを声で見事に演じ切ってる。
映像もいくつか見たけど、顔もおっかないし、大胆なダンスも。。。
ターフェル立派すぎ、リーゲルのヘロデはナイスです。

⑥「メータ盤」1990年
なんたって、ベルリンフィル唯一のサロメ。
もうね、誰が指揮者でもいいや。
ともかく、いつものベルリンフィルの音がするし、べらぼーにウマいし、ゴージャス。
シンフォニックにすぎるメータの捉え方もあり。
マルトンは声の威力は十分で、少女らしさもあったりして意外、でも大味。
ヴァイクルは柔和すぎだが、ツェドニクのミーメのようなヘロデも素敵なもんだ。
ファスベンダーがヘロディアスという豪華さ

⑦「ベーム盤」1965年
メトロポリタンでのモノラルライブで、ニルソンの圧倒的なサロメ。
ここでも燃えまくるベームの指揮がすごい。
カール・リーブルという懐かしい名前がヘロデ役に。
クナのパルジファルのクンドリー、ダリスがヘロディアス。
ヨカナーンは知らない人

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⑧「シノーポリ盤」1990年
全体にリリカルなシノーポリのサロメ。
デビュー時の煽情的な演奏スタイルはなりを潜め、予想外のしなやかで、美しく、微細な感情移入にあふれたサロメの斬新な姿。
ステューダーの起用も、そんな意図に裏付けられていて、歌手ありきでもあるし、歌手もそんな演奏スタイルに全霊を注いでいる。
少女がそのまま無垢なまま妖しい女性になった感じ。
不安定さもその持ち味のまま、揺れ動くサロメ像を歌ったステューダー。
リザネック、ターフェル、ヒーステルマンも万全。
最近、一番好きなサロメの音盤かもです。

おわかりいただけただろうか、「カラヤン」がないのを。
なぜかこうなりました。
そのうちが、いつかになり、で、年月が経過した結果にすぎません。

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エアチェック編

①「ケンペ&バイエルン国立歌劇場」1973年
 当時のカセットテープから発掘、しかし、冒頭と最後の場面の40分ぐらい。
   むちゃくちゃ熱いケンペの指揮。
 リザネックが伝説級。

②「ホルライザー&ウィーン国立歌劇場、来日公演」1980年
 いまでもウィーンの舞台はこのバルロク演出。
 テレビ観劇もしました。
 リザネックは映像では厳しかったが、さすがの貫禄

③「シュタイン&スイス・ロマンド」1983年
 ジュネーヴ大劇場のライブ。
 シュタインのベームばりの熱気を感じさせる指揮が熱い。
 ミゲネスの芸達者なサロメに、エステスの力感豊かなヨカナーン。
 ロバート・ティアのヘロデに、ナラボートには若きウィンベルイ。

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④「ネルソンス&ボストン」2014年

 演奏会形式、鮮度抜群、切れ味よし、最高水準のオーケストラサウンド。
 バーグミン、ニキティン、シーゲル、ヘンシェル、みんないい。
 これはそのままCD化できる。
 音質も最高。

⑤「ラニクルズ&ベルリン・ドイツ・オペラ」2014年
 プロムスへの客演のライブ。
 ラニクルズの熱さと、BDOの手練れのおりなす充実のライブ。
 シュティンメのサロメがじっくり聴ける。

⑥「ペトレンコ&バイエルン国立歌劇場」2019年
 同時配信の映像も見た。
 複雑な心境になる演出で、最後は全員服毒自殺を・・・
 死んでないヨカナーン・・・
 ペトレンコの最高に鮮烈で、生き生きした、しかも切れ味抜群の早めのテンポで駆け抜けるようなオーケストラ。
 ペーターゼンのスリムでリリカルなサロメは、映像を伴わないと物足りないかも。
 でも、その歌は単体として説得力があり、魔性を感じさせる。
 コッホのやや醜いヨカナーンはいたぶり甲斐もあった。
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 そんだけ、ビジュアルを伴ったペーターゼンはすごい!
 演出はワリコフスキー。そのうち映像化されるかも。
 盛大なブーを浴びてます。

⑦「レオ・フセイン&ウィーン放送響」2020年

 テアター・アン・デア・ウィーンのコロナ前の1月のけ込み上演。
 ここでもペーターゼンの絶唱が。
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 奇抜な演出の模様は画像でも確認できる。
 バイエルンがいまだに映像化できないのは、こちらがあるからか?
 ウィーンも100年経って変わったものだ。

⑧「ボーダー&ウィーン国立歌劇場」2020年
 アンデア・ウィーンが斬新な演出で上演した同じ月、1月には、本家の国立歌劇場でもサロメ。
 72年からずっと続いているバルロク演出、ユルゲン・フリムの衣装・舞台。
  クリムト風の世紀末と旧約聖書の物語の融合はいまでも色あせない。
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 美人さん、リンドストロムのサロメが好き。
 北欧出身ならではの硬質さに、繊細な歌いまわし、首おくれ!も迫力あり。
 マイアーの鬼ママもいいし、フォレ、ペコラーロもさすが。
 ただ、前にも書いたが、最後にオケがこけてる・・・・
 同時期に、リンドストロムは、セガンの指揮で影のない女を歌ってまして、そちらもステキ

⑨「ルイージ&ダラス響」2020年
 ダラス響の演奏会形式上演。
 ルイージの明快な指揮に、明るいオケ。
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 リトアニア出身のステューンディテはサロメ、エレクトラで引っ張りだこ
 ザルツブルクでのエレクトラもいい。
 しなやか声の持ち主で、今後、ワーグナーを中心に据え活躍期待。

⑩「シャイー&スカラ座」2021年
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 きっとDVD になるだろうと思うスカラ座上演。
 こういうのは、シャイーはうまい。
 キャストもスカラ座ならではの豪華さ。
 ロシアのスキティナは美人でいま、こちらも引っ張りだこ。
 シーゲル、リンダ・ワトソン、コッホ、リオバ・ブラウンなどなど
 ミキエレットの風変りな演出も見てみたいぞ。
 
映像&舞台編

①「シノーポリ&ベルリン・ドイツ・オペラ」1990年
 昔のVHSテープにて。
 演出は穏健、マルフィターノの、のめり込んだ迫真の演技と歌。
 ダンスではすっぽんぽんに。
 ぼかし必須だ。
 エステスのヨカナーンが凄まじい

②「サマース&メトロポリタン」2008年
 メトにしては、現代風な演出。いまや普通。
 マッティラのビジュアルちょっと無理あるサロメだけど。
 歌は素晴らしい。
 上述のとおりのヘロデのベグリーのすっとこぶりが最高
 ヨカナーンはうしたろう。

③「ガッティ&コンセルトヘボウ」2017年
 演出がわけわからん中途半端っぷり。
 もっとはじけてもいいと思ったけど、そのくせ血みどろなところが苦手
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 スリムな美人ビストレムは、強靭さなしの、しなやか系サロメ。
 いいと思う。
 タトゥーンまみれのニキティンもいい
 なにより、ガッティとコンセルトハボウが硬軟合わせた万能ぶり

④「メスト&ウィーンフィル」2018年 ザルツブルク
 以前より活躍していたアスミク・グレゴリアンを驚きをもって聴いた!
 ショートカットのまさに真白きドレスをまとった少女。
 最初はおどおど、やがて顔色ひとつ変えない冷徹な美少女に変身
 そんな演技と役作りを、歌でも完璧に聴かせる。
 ソットボーチェから、強靭なフォルテまで、広大なレンジと声質七変化!
 まいりました!
  ほかの役柄、意味の分からない演出は彼女の前では無力。
 メストとウィーンフィルは無色透明で、これでよい。

舞台は、まだ2回のみ。
新国のエヴァーディング演出、二期会のコンヴィチュニー演出
過去記事リンクになってます。。

ながながと書きました。
いま、サロメのお気に入りは、ペーターゼンとグリゴリアンでござる。

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  (ペーターゼンのバイエルン、この番号はなに?
   実験動物の遺伝子ID・・・か)
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 (グリゴリアンのサロメ、おっかないサロメのイメージはいにしえに)

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サロメは、シュトラウスのオペラのなかでは苦手な存在だったけれど、こんだけ集中して聴くと、妙に愛着がわいた。
頭の中が、リングとサロメだらけで参った。
しかし、サロメには、ばらの騎士の音楽の要素もあるんだ。
やはりこうして、シュトラウスならではの音楽を、各処に確認することができたし、オペラ初期2作から、ここに至った筋道も確認、同時に、エレクトラもギリシア劇としての視野が次に用意されたことも、ここに認めることができる。

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2021年12月 6日 (月)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」 ベルリン・ドイツ・オペラ 2021

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東京タワーの横にある「もみじ谷」公園にて。

今年は青空がやたら青くて、いまのところ連日の晴れ。

赤が映えます。

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             (ラインの黄金~ローゲと神々のみなさま)

ベルリン・ドイツ・オペラの新しい「リング」が、昨年から始まって、11月に完了。
RBB(ドイツのネット放送)で、全4部作を高音質で聴くことができた。

ベルリン・ドイツ・オペラのリングといえば、われわれ日本人が通しリングを始めて体験した、ゲッツ・フリードリヒのトンネル・リングが長らく定番として上演されてきました。
それに代わる「リング」
コロナの影響を受けて、「ワルキューレ」のみ2020年、ほかの3作を2021年に相次いで上演して新リングを完成させました。

演出は、人気のステファン・ヘアハイムということもあり、4部作は映像収録され、来年に発売されるそうだ。
お値段次第でポチっとするかもしれないけど、トレーラーを見てなんともいえない気分になるのは、昨今の演出のありがちなこと。
全部見なくちゃわからんが、正直言って、ギャグ満載のリングのパロディ化か・・・・
いや、面白いよ、きっと。。。たぶん・・・・

各役柄にいろんな意味を持たせる手法、それが観劇すれば説得力を持って、劇のなかで大きな流れのなかのパズルのひとつになる。
そうなれば、万々歳なんだけど・・・・ヘアハイム・リングはどうなるだろうか。

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    (ワルキューレ~夫婦喧嘩を見守る群衆、盾もお笑い)

音だけで4部作を聴いての悪印象は、登場人物の歌以外に発する声。
うなり声、叫び声、笑い声、それも下卑たヒヒヒだったり多数・・・、音だけで聴いてると、正直、音楽の感興を阻害することとなる。
で、舞台写真やトレーラーから推察される、それらの声。。
なんで、そんなことまでして、ワーグナーの本来の本質をわざと外して意味付けを行い、解釈をするんだろうか・・・・
アルベリヒと息子のハーゲンのいやらしいヒヒヒはキモイ。
しかも、彼らの顔は、バッドマンのジョーカーそのものだ。
さらに、グンターに変身したジークフリートは、オバQみたいだったww

すいません、つらつらと、ちゃんと全部見て語れってことだけど。

しかし、その演奏面は素晴らしい。
まずもって、長らくベルリン・ドイツ・オペラを率いる、スコットランド出身のドナルド・ラニクルズの指揮が素晴らしい。
ワーグナーやリングを指揮して30年以上、と本人も語るとおり、演出抜きして堂々たるワーグナーを聴かせてくれる。
重厚なれど軽やかで、しかも鮮明で一点の曇りなし。
大きな流れをまず構築しつつ、細部を緻密に積み上げ、壮大かつダイナミックな雄大なワーグナー。
バイロイトでも90年代タンホイザーを指揮、そのころから聴くようになったラニクルズ。
ここで、こう決めて、こう伸ばして、こう、がぁーーっときて、という具合に、ワタクシが思う流れがぴたりと符合して心地いい。
左手に指揮棒、サウスポーのワーグナー指揮者ラニクルズ氏の待望のリングです。
サンフランシスコ・オペラとベルリン・ドイツ・オペラの指揮者であり、英国でもBBC系のオーケストラとの音源多数。
ラニクルズのマーラーやブルックナーも素晴らしいです。

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        (ジークフリート~ミーメさんと主人公)

ベルリン・ドイツ・オペラのオーケストラの巧さも定評のあるところ。
傷も散見されたが、ピットの中の熱気あふれる演奏を堪能。
神々の黄昏の大団円は、ことさらに感動的だった。

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  (神々の黄昏~たぶん自己犠牲のシーン、下着まみれ・・・)

歌手では、なんといっても、シュティンメのブリュンヒルデが、安定感と力強さ、しなやかさで比類ない存在を示してました。
しかしね、ヘアハイムって、下着姿が好きなんだよな、ほかの演出でも。
全編にわたって、その下着姿が氾濫していて、ブリュンヒルデにも容赦ない。
ラインの乙女たちも、あられもない姿で、男とアレしちゃうし、下着姿の群衆が、いたるとこでヤリまくってる・・・・
何だこりゃって感じで、R指定になるよこりゃ・・・

ジークフリートで登場したアメリカのテノール、クレイ・ヒレイ(Clay Hilley)が驚きの歌声。
明るく屈託のない、よく伸びる声は自然児ジークフリートにぴったり。
黄昏では、より厳しさも求めたいところだったが、スタミナも十分で最初から最後まで元気な声。
なかなかの巨漢で、動きがアレなのはしょうがないが・・・

ミーメのチュン・フン?(Ya-Chung Huang)もびっくりの発見。
台湾出身の新星で、のびやかでクリアーボイス。
ベルリン・ドイツ・オペラの専属になったようで、今後の活躍も期待。

ウォータン&さすらい人は、スコットランド出身のパターソンで、このバスバリトンも最近ウォータンを各地で歌っており、パリのジョルダン・リングでもそうだった。
やや軽めで、もう少し力強さも求めたいところだけど細やかな歌いまわしは巧みで、アルベリヒやミーメとの絡みは面白かった。
ただラインの黄金では、オーストラリア出身のデレック・ウェルトンがウォータンで、より若々しい雰囲気。
あえて、ラインの黄金のウォータンを異なる立場で描きたかった演出意図なのかもしれない。

あと印象に残ったのは、アメリカのヨヴァノヴィチのジークムントは豊かな実績を裏付ける力唱だし、ダムラウのヴァルトラウテもシュティンメのブリュンヒルデに負けず劣らずの存在感。
ほかの諸役も初めて聞く名前ばかりだが、いずれもベルリン・ドイツ・オペラの水準の高さを物語る歌唱でありました。


「ラインの黄金」

ウォータン:デレック・ウェルトン ドンナー:ヨエル・アリソン
フロー :アットリオ・グラッサー ローゲ:トマス・ブロンデーレ
フリッカ:アンニカ・シュリヒト  フライア:フルリナ・シュトゥッキ
エルダ :ユデット・クタシ      ファゾルト:アンドリュー・ハリス
ファフナー:トビアス・ケラー   アルベリヒ:マルクス・ブリュック
ミーメ :ヤ-チュン・フン    ウォークリンデ:ヴァレリア・ザヴィンスカヤ
ウェルグンデ:アリアナ・マンガネッロ フロースヒルデ:カリス・トラッカー

                      (2021.6/12)

ジョーカーのアルベリヒは、トランペットを手にしつつ、4部作中、ずっと据えられているピアノの中から即、指環を取り出し、黄金強奪となった。
悪魔くんみたいなローゲは、見た目は悪魔に変身したミッキーマウスか?
やさぐれた神々たちも情けない雰囲気。
聴衆から笑い声もあがる(笑)
でも虹色はきれいだな。



「ワルキューレ
 
ジークムント:ブランドン・ヨヴァノヴィッチ   
ジークリンデ:エリザベス・タイゲ
フンディンク:トビアス・ケラー   ウォータン:イアン・パターソン
フリッカ:アンニカ・シュリヒト   ブリュンヒルデ:ニーナ・シュティンメ

ワルキューレは本物の狼さんが出てるし大丈夫か?
ジークムントはニートみたい。
ピアノから剣を引っこ抜くのは無理筋じゃね?
そうそう、ピアノからみんな登場するね。
ヘアハイムのパルジファルでも、クンドリーは貞子みたいに、穴からせせりあがってきたし。
ジークリンデの感動的な感謝の歌をピアノ伴奏するブリュンヒルデ。
告別シーンはどんなだろ?

見てみたい。



「ジークフリート」

ジークフリート:クレイ・ヒレイ  ミーメ:ヤ-チュン・フン
さすらい人:イアン・パターソン アルベリヒ:ヨルダン・シャナハン
ファフナー:トビアス・ケラー  エルダ:ユデット・クタシ
ブリュンヒルデ:ニーナ・シュティンメ      
森の小鳥:ドルトムント少年合唱団員

          (2021.11.12)

ほぼワーグナーそっくりのミーメ。
ピアノから楽譜を誕生させる楽器職人かい。
それにしてもジークフリートがでかい、小柄なミーメの3倍もあるよ。
大蛇ファフナーが秀逸で、牙がラッパになってるし、そこからファフナーは引っ張り出される。
巻き付けた白い布をジークフリートにくるくるされて、時代劇の悪代官みたいに、あれぇーー、とばかりに、ほれはれほれはれ、されてしまいステテコ姿にされたあげく刺されちゃう。
しかし、大きな疑問は、鳥の声を少年に歌い演じさせたこと。
苦し気だし不安しか感じない。
さらに血まみれで横たわってたし・・・・まさかジークフリートに・・ってか??
ハッピーエンドも、主役の二人以外に、下着男女が乱れまくり、やりまくり・・・・・

なんだかんだで、観てみたいww



「神々の黄昏」

ジークフリート:クレイ・ヒレイ  ブリュンヒルデ:ニーナ・シュティンメ
グンター:トマス・レーマン   
ハーゲン:アルベルト・パッセンドルファー
アルベリヒ:ヨルダン・シャナハン グルトルーネ:アイレ・アスゾニ       
ワルトラウテ:オッカ・フォン・デア・ダムラウ・     
第1のノルン:アンナ・ラプコフスカヤ      
第2のノルン:カリス・タッカー     第3のノルン:アイレ・アスゾニ   
ウォークリンデ:ミーチョット・マレッロ 
ウエルグンデ:カリス・タッカー  フロースヒルデ:アンナ・ラプコフスカヤ

             (2021.10.17)

ノルンたちはスキンヘッド、どうでもいいけど、下着マンたちのひらひらはどうにかならんのか?(笑)
元気にピアノを弾くブリュンヒルデ。
ギービヒ家はリッチマンのおうち。
最初は普通の人だったハーゲン、夢に父親が現れてからジョーカー顔に変貌。
ラインの乙女もスキン化してしまうのか?
ラストシーンも下着衆ぞろぞろ、手のひらピラピラ鬱陶しい。

いやはや、やっぱり全部観てみたいww

聴衆の反応のyutubeもあり、歌手と指揮者にはブラボーの嵐。
演出家ご一行が出てくると、ブーが飛んでました。

でも、さすがはドイツ、コロナがまだ蔓延してるのに、リングをやってしまう。
そして、聴衆も演出はアレ?で批判しつつも、ワーグナーを求める心情止み難しで、演奏と音楽には大熱狂。
行かなかったけど、日本でも2年越しのマイスタージンガーが上演された。
世界中、やはり、ワーグナーがなければ生きていけないのだ。

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しかし、35年前に観劇した「トンネル・リング」が懐かしい。
同時期に、二期会による日本人リングも観劇していたが、そちらは新バイロイト風の抽象的な舞台だっただけに、具象的な動きで表現意欲も強かったトンネル・リングは当時の自分には驚異的ですらありました。
映像で親しんだ、シェローのリングや、クプファーのリングも、いまや懐かしの領域に。
いずれも現代の演出からしたら穏健の域にあるが、でもそのメッセージ力は、なんでもありのいまのものからしたら、ずっとずっと強かったと思う。

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晩秋から初冬を抜かして、本物の冬がしっかりときました。

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2021年9月 2日 (木)

ベルク 「ルル」 二期会公演

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二期会公演、ベルク作曲の歌劇「ルル」を観劇。

昨年、東京文化会館で上演の予定が1年延期して、今度は別株が登場するなか、果敢なる上演。

きめ細かな対策を取り、舞台も絶妙なディスタンスを保った演出で、見事な上演で、その成功を大いに讃えたいと思います。

Sihinjyuku

文化会館から場所を移して、新宿文化センターで、この昭和感あふれるレンガの建物には、なんと2006年以来15年ぶりとなります。

そのときは、演奏会形式のR・シュトラウスの「ダナエの愛」で、若杉弘さんの指揮による日本初演でした。

約1,600席(ピット使用時)の比較的コンパクトなホールで、客席の傾斜は緩めなので、前の方が大きかったりするとステージに被ってしまい、一部見ずらいこともある。
残念なことに、斜め前にいた座高の高い方が、幕間で空いていたわたくしの前に移動してきてしまい、2幕ではちょっと往生しました・・・・

そんなことはともかく、演出には、ちょっとひとコトありますが、まずもって素晴らしい上演でありました。

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「ルル」は、未完のオペラ。
ヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を原作にベルクが3幕7場台本を書き作曲を進めたが、完成されたのは2幕までで、3幕はショートスコアのみで、オーケストレーション中途となり、ベルクの死により未完となった。
 別途、3つの幕からチョイスした5つの楽章からなる「ルル」交響曲があり、3幕で使用される予定だった変奏曲(ルルの逃亡)とアダージョ(ルルとゲシュヴィッツ伯爵夫人の死)のふたつを、完成された2幕のあとに続けることで初演され、それが2幕版ということになります。

ベルクの未亡人ヘレーネは、第3者による補筆を禁じていたが、実はその補筆計画は密かに進行していて、フリードリヒ・ツェルハによる3幕完成版が1979年に、シェロー&ブーレーズのコンビにより3幕版として上演されました。

12年前に「ルル」を初観劇しましたが、そのときは3幕版(びわ湖ホール)
今回の二期会公演は2幕版での上演でした。

日本での「ルル」上演史 
 ① 1970年 ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演 ホルライザー指揮
 ② 1999年 コンサート形式          若杉 弘 指揮
 ③ 2003年 日生劇場/二期会           沼尻 竜典 指揮
 ④ 2005年 新国立劇場            アントン・レック指揮
 ⑤ 2009年 びわ湖ホール            沼尻 竜典 指揮
 ⑥ 2021年 二期会              マキシム・パスカル指揮

         ベルク 歌劇「ルル」

  ルル:冨平 安希子    ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:川合 ひとみ
  衣装係、ギムナジウムの学生:杉山 由紀
  医事顧問:加賀 清孝   画家:大川 信之
  シェーン博士:小森 輝彦 アルヴァ:山本 耕平
  シゴルヒ:狩野 賢一   猛獣使い、力業師:小林 啓倫
  公爵、従僕:高柳 圭   劇場支配人:倉本 晋児
  ソロダンサー:中村 蓉

    演出:カロリーネ・グルーバー

  マキシム・パスカル指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

       (2021.8.29 @新宿文化センター)

二期会のサイトで、演出家グルーバーが、2幕版を採用した理由を語っておりました。
・ベルクが残した真正な部分だけで上演することに意義がある。
・ヴェーデキントの独語が古く、ドイツ人でも難解。
 特に3幕は歌手の負担が大きいため
・共同制作は、多くの歌手を手当てできるアンサンブル劇場でないと難しい
ドイツでは、いろんな意味で、音楽にも真正さを追求する動きがあり、世界的にみても2幕版で上演される機会が増えているとのこと。

3幕で、ベルクが完成できなかった場面で、2幕版で省略されるシーン。
1場:パリでの逃亡生活、賭博、株暴落とさらなる逃亡(登場人物多数)
2場:ロンドンでの娼婦生活、その日の最初の客(医事顧問が演じる)
  ルル、ゲシュヴィッツ令嬢、シゴルヒ、アルヴァらのうらぶれた生活
  客の黒人(画家が演じる)によるアルヴァ殺害

2幕版では、以上が略され、続いて3人目、切り裂きジャック(シェーン博士が演じる)の登場とルルの殺害、帰り際にさらにゲシュヴィッツ伯爵令嬢も殺して去り、彼女は虫の息で、ルルへの愛を歌い幕となる。
  
上記の3幕の省略部分は特に、株暴落シーンなど、雑多すぎるし、人物もたくさん出るので私はいつも困惑する場面なのです。
しかし、今回の2幕版は、音楽としては通例通り変奏曲とアダージョが演奏されたわけだが、舞台ではなにも起こらなかった、と言っていい。

舞台上に女性のマネキンを多く配置し、ルルと同じ姿のダンサーを常に登場させ、ルル本人と対比させている。
マネキンは極度に女性の身体を強調した作りで、さまざまな鬘や衣装をまとい、演出家グルーバーさんの意図は、登場男性やゲシュヴィッツ伯爵令嬢からみたルルを意図しているという。
確かに、ルルを男性たちが呼ぶ名前は、ミニョンだったり、エーファ、ネリーだったりして、要は男性が自分の思いをルルに勝手に押し付けているというわけである。
そして、ダンサーはルルの内面の現れをパフォーマンスしている。
舞台の進行に合わせて、ダンサー・ルルは壁沿いを苦痛に満ちて動いたり、遠くから傍観していたりと、愛やもしかしたら感情の薄いルルの心情を表そうと様々に表現していた。

そして、最後のシーンである。
2幕の終わりで、アルヴァと二重唱を歌ったあと、アルヴァの思い、エーファであり母マリアである、聖母マリアの姿になったルル。
アルヴァはデスクに倒れた(寝た)ままにして、ルルはマリアの姿をかなぐりすてて、スリップ姿となり、虚空を見つめるように舞台を左右にさまよう。
そこに、ルルの内面のダンサーが様々に踊りつつ、ルル本体に近づき、ついには絡み合い、一体化したように表現したと見てとれた。
ここで幕となった・・・・・。

そうなんです、切り裂きジャックは登場しないし、当然に殺害シーンもないし、さらにはゲシュヴィッツ伯爵令嬢も出てこないし、彼女も巻き添え死をくらうことなく、令嬢のルルへの愛の声は、その姿なく流されるのみ。
まだかまだかと待ってた、当然にあるべきシーンがなく、拍子抜けだったと正直言いたい。
だって、衝撃的なフォルティシモでも舞台ではなにも起こらず・・・・・です。

事前に見ていたグルーバーの考えからすると、こういうのはありだろうな、というのが後付け的な感想ではあります。
ファム・ファタールとしての「ルル」の見方は間違っている(それこそが古い)と語っておられます。
当時の家父長制の問題が生んだ女性の悲劇であり、消費される女性に対する反証、そのあたりは、オスティナートにおけるシネマ(上田大樹氏による映像作品)で、ルルの逮捕劇・脱獄などの暗示が、おびただしい数のマネキンの部位が降り注ぐなか表現された秀逸なものであった。
さらにグルーバーによると、ベルクがヴェーデキントの劇をおそらく見たとき、当時の識者が、「女性を好きなように利用できる制度のひどさ」を例えて評論したものに接したかもしれない。
100年前の当時で、そのようなことを、しかも男性がいうと言うことは、大きなことであったが、いまはそれが良い方向になったのか?
今現在、真の意味での男女の平等が達成されているのか?
そうした問題提示も意図していると語る演出者。

極度のフェミニズムには、少し距離を取りたい自分ですが、この演出意図を事前に確認して観劇に及びましたが、さしたる過激さはなく、ただ、ルルの殺害シーンを消してしまったことで、効果としては、どこかぼやけてしまったという思いが強い。
内面のルルと実存のルルの最後の一体化は、わからんではないが、例えば映像作品などで、いくつの演出で見ることができる、「死による浄化」的なものを描いてもよかったのでは。
いや、こんな風に思うことが、ルルを単なるファム・ファタールとしてしか捉えていない、古臭い自分だということになるのか・・・・

あと、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の献身的な愛も、最後に姿を少しでも現すことで、その自己犠牲ともとれる存在で、ルルの内面一体化に華を添えることができたのではないかな、素人考えですがね。
コレラに罹患しながらもルルを救ったゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、聖母マリアのブルーの衣装をまとっていたのも意味あることなのだろうか。

舞台全体の印象はシンプルで無駄を省いたスタイリッシュなもの。
ドア付きの稼働する箱、兼スクリーン機能をもった装置がいくつも並び、人物たちは、そのなかで自分の好みのマネキン(すなわち好みの自分のルル)と一緒に、ルルとシェーン博士との緊張のやりとりをのぞき込んだりする。
その箱が動いて、「LULU」の文字を映し出したり、それが「LUST」という言葉に変じたりしていた。
「LUST」、すなわち「欲望」である。

プロローグの猛獣使いのシーンや、場面展開のシーンでは、紗幕がたくみに使われ、観劇するわれわれの想像力を刺激したものだ。

長文となりましたが、1回ではとうてい理解が及ばないし、何度も観てみたい舞台と演出であることは確かだ。

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こうした演出で歌い演じた歌手のみなさんは、ともかくいずれも完璧で素晴らしかった。
12年前のびわ湖ルルで、ルルのカヴァーキャストだった冨平さん、舞台映えするお姿に負けず劣らずの素晴らしい高音を駆使して、同情さそう可愛い女性となってました。
3年前の素敵だったエンヒェン役以来の冨平さん、ただ素晴らしい高音域に対し、中音域の声にもうひとつ力が加わると万全かと思いました。
偉そうなこと書いてますが、コロラトゥーラとドラマティコ双方の難役でもある、このルル役、これだけ歌い演じることができるのは、並大抵のことではありません!

日本人ウォータンとして、最高のバスバリトンと思っている小森さんのシェーン博士も迫真の演技と、ドイツ語の明確できっちりした発声による完璧な歌唱に感銘を受けた。
願わくは、ジャック役でも見てみたかったが。
 このグルーバー2幕版では、おいしい役柄だったアルヴァ役の山本さん、ルル賛美での伸びのある歌かなテノール声は、プッチーニあたりを聴いてみたいと思わせるものでした。
 この演出では、やや影が薄い存在になってしまったゲシュヴィッツ伯爵令嬢の川合さん、3幕版でないとその存在の重さが出ませんが、もっと聴きたい声と、ちょっとセクシーなお衣装も素敵でした。
味のある狩野さんのシゴルヒ、粗暴ななかに力強い小林さんの力業師、リリカルな大川さんの画家、あと存在感があったのは可哀想な学生さん役の杉山さんで少年っぽさ、中性っぽさがよく出ていて可愛かったです。
ちょい役になってしまった医事顧問にベテラン加賀さん、ほかのみなさんも充実。
 演出家の強い意図をしっかり汲んで、しかも困難な環境のなか、練習を積んで見事な成果を結実されたと思います。
もうひとつのキャストと併せて、記録としても映像作品で残して欲しいと思います。

最期に最大級の賛辞を指揮者とオーケストラに。
休憩中、ピットの中をのぞきに行こうとしたら係員に静止されてしまったが(なんでやねん)、第1ヴァイオリンは8挺で、チェロやコントラバスの3~4ぐらいだった。
浅めのピットに、左側が弦、右側が木管・金管、さらに舞台袖に打楽器類ということで、ぎっしりだけど、ホールのキャパや歌手たちへの負担減も合わせた軽めの編成ではなかったかと。
これからの時代、ワーグナーもシュトラウスもこれでいいんじゃね、と思いましたし、聴いて納得でもありました。
 パスカル氏の指揮が、そのあたりを前提としても、実に緻密で抑制力も併せ持ちつつ、劇性も豊かな音楽を作り出していたと思う。
大柄なイケメンさんで、指揮棒を持たず、動きは少なく、オケも歌手たちも指揮者の指先に気持ちを集中させなければならない。
ベルクの微に入り細に入り、なんでも取り入れられた雑多ななかにも精妙さの光る音楽が、最大もらさず再現された。
私がベルクの音楽にいつも求める甘味な、アブナイくらいに宿命を感じさせる音色も東フィルから引き出してます。
ルルとシェーン博士との会話の部分、ラストのアダージョ、もうたまらなくって、わたしは舞台を見つつも、オケの紡ぐサウンドに陶酔境に誘われる思いだった。。。。泣けるぜ。

Lulu-dvd

私の手元にある「ルル」のDVD、あとメットの上演も。
音源は、ベーム、ブーレーズ、アントン・レックの3つのみ。

この作品は、歌手の技量と演技力の向上とともに、やはり映像で観てみたいもの。

いずれも3幕版ですが、youtubeで観たヴィーラント・ワーグナー演出のライトナーの指揮、シリアのルルによるいにしえ感漂うモノクロ映像がリアルで、もしかしたら初演時はこんな感じだったのか?と思わせるものでした。

2017年、ハンブルクでの上演。
回廊の魔術師、マルターラーの演出、ケント・ナガノの指揮では、斬新な演出が施されたという。
2幕版で、プロローグの場面の自在に動かしたり、最後には、ヴァイオリン協奏曲が全曲演奏されるという大胆さ。
音楽面、ベルクの気持ち的にも、それはありかもの上演。
バーバラ・ブラニガンの身体能力あってのもの。
観てみたい!

かように、まだまだ版や演出の楽しみもある「ルル」。
未完ゆえに、われわれをこの先も悩ませそうであります。

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2021年8月 6日 (金)

ワーグナーの夏

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お台場に設置されている聖火を見てきました。

オリンピック反対を訴えていたマスコミは、日本人選手の大活躍に手のひら返しを行い、夢中になって放送を続けております。

まぁ、そんなことになるだろうとは思ってました。

わたしは、やるんなら、堂々と胸はってやってしまえと思ってましたし、開会式のあのショボい日本感のない演出はともかくとして、世界の選手たちの晴れやかななお顔を見て、やっぱりよかったと思いましたね。

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そして、一方、わたしには、ワーグナーの夏が帰ってきました。

昨年は軒並み公演中止だった。
この夏は、各地でワーグナーが堰を切ったように上演されていて、やはり世界はワーグナーを求めていたんだと痛感。
ちなみにバイロイトでは、客数は50%以下で上演。

いくつかの上演を動画含めて視聴したので、簡単にあげときます。
演出の内容などは、まだ理解に及んでないので、いずれまた書くかもしれません。

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バイロイト初の女性指揮者、オクサーナ・リニフが2021年のプリミエ作品、「さまよえるオランダ人」を指揮しました。
ウクライナ出身で、母国でピアノ、ヴァイオリン、フルートと指揮を学び、2004年26歳で、バンベルク響のクスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで3位となり、ジョナサン・ノットの元でバンベルクの副指揮者となります。
ちなみに、4年ごとに行われるこのコンクールは、その2004年が初回で、優勝者はドゥダメルです。
ドイツ各地で学び、ウクライナではオペラも指揮、さらにペトレンコのバイロイトリングでは、助手もつとめ、バイエルン州立歌劇場でも指揮をして、オペラ指揮者として頭角をあらわすようになり、2016年には、グラーツ歌劇場の音楽監督となりました。

  ワーグナー 「さまよえるオランダ人」

          ダーラント:ゲオルク・ツッペンフェルト
     ゼンタ:アスミク・グリゴリアン
     エリック:エリック・カーター
     マリー:マリアナ・プルデンスカヤ
     舵手 :アッティリオ・グラサー
     オランダ人:ジョン・ルントグレン

  オクサーナ・リニフ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
              バイロイト祝祭合唱団

     演出:ディミトリ・チェルニアコフ 

        (2021.7.25 バイロイト祝祭劇場)

Holland-1

リニフの指揮に加え、歌手では、いまや引っ張りだこのグリゴリアンもバイロイトデビュー。
さらに、こちらも各劇場で引く手もあまた、チェルニアコフ演出がオランダ人で登場。

そのリニフさんの指揮が驚きのすばらしさで、全曲に渡ってどこもかしこも的確で、気の抜けたところは一切なし。
こうして欲しいと思うところは、自分的に納得のできる落としどころになっていたし、音楽のニュアンスがとても豊かで、ドラマティックな盛り上げにも欠けていなかった。

歌手では、グリゴリアンの力いっぱいの歌唱が目立ち、頑張りすぎー、と思うくらい。
もともと、彼女は、その演技も含めて、かなり役に没頭するタイプなので、ゼンタのような夢見心地と倒錯感ある役柄には向いてます。
今後、ジークリンデとか、飛躍してクンドリーなんかも聴いてみたい。
ツェペンフェルトの安定感と、初登場のカーターさんエリックもよかった。
ルントグレンのオランダ人は、この人、これまでウォータンで聴いたり、新国でスカルピアを聴いたりもしてるが、そのときのイメージ通り。
破壊的な声で、ちょっと大味、宿命を背負った深刻さや、気品はいまいち。

合唱団は演技だけで、実際は別室で歌ったというのもコロナ禍のバイロイトならでは。

もっとも、チェルニアコフ演出が、オランダ人もゼンタも、社会やその町から疎外された人物と描いているから、それに即した歌いぶりでもあるので、各歌手は演出上の役柄にピタリとはまっていたと思う。
その演出、工夫して映像で全部見たけど衝撃的です。
そのあたりは、またの機会に。
オペラDVDを試行錯誤しつつ集めてますが、気が付けばチェルニアコフ演出ばかり・・・・www

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 ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

    ザックス:・ミヒャエルフォレ         
    ポーグナー:ゲオルク・ツェペンフェルト

    フォゲルゲザンク:タンセル・アクツィベク 
    ナハティガル:アルミン・コラチェク

    ベックメッサー:ボー・スコウフス 
    コートナー:ヴェルナー・ファン・メッヘレン
 
    ツォルン:マルティン・ホムリッヒ  
    アイスリンガー:クリストファー・カプラン

    モーザー:リック・フルマン   
    オルテル:ライムント・ノルテ

    シュヴァルツ:アンドレアス・ヘール    
    フォルツ:ティモ・リッホネン
    ヴァルター:クラウス・フローリアン・フォークト  
    ダーヴィット:ダニエル・ベーレ

    エヴァ:クリスタ・マイヤー   
     マグダレーネ:ヴィーケ・レームクル

    夜警:ギュンター・グロイスベック

   フィリップ・ジョルダン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                 バイロイト祝祭合唱団
                          エーベルハルトト・フリードリヒ:合唱指揮

     演出:バリー・コスキー

          (2021.7.26 @バイロイト祝祭劇場)

2017年から始まったコスキー演出は、昨年のお休みを経て4年目。
ユニークで、ユーモアとペーソス、風刺も効いた好演出は、さらに継続するか不明なれど、歌手にかなりの演技力と細かな動きも要求されるので、5年を経て、完全なるチームワークが出来上がっていたんだろうと思われます。
映像作品も、初年度とともに、こうした熟した舞台を残しておいて欲しいもの。
そんな欠かせないメンバーのひとり、もはや、ザ・ベックメッサーとなってしまった感のあるマルティン・クレーンツルが声が万全でなく、急きょ、劇場側はボー・スコウフスに依頼して、まさにギリギリの到着で初日公演に間に合った。
スコウフスは声だけの出演で、舞台袖から歌い、演技は手慣れたクレーンツルが行ったといいます。
ほかの日は復調したのか気になりますが、バイロイトのHPを見ると、26日と1日がスコウフスとありますが、残りの4公演はいかに。
 そのスコウフスのベックメッサーが聴けたという点で、今年のマイスタージンガーは貴重なものでした。
お馴染みの、やや陰りありバリトンで聴くベックメッサーは、味があり、神経質で妙にかっこよくもシュールな感じもしました。
ほかのいつもの歌手たち、弾むようなビビットな音楽造りのジョルダンの指揮、万全です。

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  ワーグナー  「タンホイザー

    領主ヘルマン:ギュンター・クロイスベック 
    タンホイザー:ステファン・グールド

    ウォルフラム:マルクス・アイヒェ  
    ヴァルター:マクヌス・ビジリウス

    ビテロルフ :オラフール・ジグルダルソン 
    ハインリヒ:ヨルゲ・ロドリゲス・ノルトン
    ラインマール:ウィルヘルム・シュヴィンハマー 
    エリーザベト:リゼ・ダヴィットソン 
    ヴェーヌス:エカテリーナ・グバノヴァ 

    牧童:カタリーナ・コンラディ
    ル・ガトー・ショコラ:ル・ガトー・ショコラ 
    オスカル:マンニ・ライデンバッハ

   アクセル・コバー指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                 バイロイト祝祭合唱団
       合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ
      
    演出:トビアス・クラッツァー

           (2021.7.27 バイロイト祝祭劇場)

3年目だけど、昨年なしだったので、2年目のタンホイザー。
こちらも演技性の高いドラマのようなオペラになってるだけに、今後も主な役柄は固定されるでしょう。
初年度は怪我で最初は出演できなかった、本来のヴェーヌス役グバノヴァと、ヘルマン役のグロイスベックが登場。
一昨年、一番輝いていた代役ヴェーヌスのツィトコワの印象があまりに鮮やかだっただけに、グバノヴァにはちょっと不利だったかもしれないが、やはり力のある声は認めざるを得ないだろう。
フリーダム謳歌のヴェーヌス、どんな演技にビジュアルだったか、見てみたいものだ。

Tannhuser-bayreuth-1

左が一昨年のツィトコワ、右が今年のグバノヴァです。
しかし、これみてタンホイザーってもう、、、、50年前の人が見たら卒倒するでしょうな。
歌手は、みんな素晴らしかった。
 多忙さと、劇場の音響で苦戦したゲルギエフは早々に降りてしまい、代わりを任されたのは、またもアクセル・コバー。
これがまた実によかった。
オケと音響と舞台上の出来事も完全に掌握した手慣れた指揮は、安定感があり、これぞ真正ワーグナーの音楽、といえるものだ。
いつも書くけど、バイロイトには、シュタインやシュナイダーのような職人ワーグナー指揮者が必ず必要なんだ。
ライン・ドイツ・オペラの指揮者であるコバーは、いま同劇場でのリングが発売中で、なんとか聴いてみたいと思ってます。

ちなみに、冒頭の画像は、3幕の幕切れの場面で、タンホイザーの元でこと切れたエリーザベト、途方に暮れ羨ましいウォルフラム、悪い憑き物が取れすっきりしたヴェーヌスの姿です。
スクリーンでは、楽しそうに旅立つ二人が映しだされるシーンです。

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  ワーグナー 「ワルキューレ」

        ウォータン:トマス・コニェチュニ  
      ジークムント:クラウス・フローリアン・フォークト
        ジークリンデ:リセ・ダヴィッドセン
        ブリュンヒルデ:イレーネ・テオリン   
        フンディンク:ディミトリーベロッセルスキー
        フリッカ:クリスタ・マイヤー

        ワルキューレ:略

  ピエタリ・インキネン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

     アーティスト:ヘルマン・ニッチェ     

           (2021.7.29 バイロイト祝祭劇場)

2020年に、若いオーストリア人演出家、ファレンティン・シュヴァルツとインキネンの指揮でリング4部作が出る予定だったが、コロナで2年延期となり、その前哨戦的に上演されたワルキューレ。
 しかし、演出というか管掌アーティスト的な存在になったのは、ウィーン生まれの82歳のヘルマン・ニッチェ。
舞台美術家であり、劇作家であり、作曲家、画家でもある多角的な芸術家さんです。
ワーグナーにも造詣が深いとのことで、ワルキューレの音楽に合わせて舞台の上でパフォーマンスや絵画的なものの制作をするというもの。
写真でわかるとおり、歌手たちは黒い衣装を着て最低限の動きしかしていないようで、背景の白いキャンバスが、様々にペイントされてます。
ほかの写真では、舞台に思い切り塗料をぶちまけたり、磔刑のイエスみたいなものもありました。
評論では、「血まみれのカラフルな出来事におおわれたワルキューレ」とか書かれちゃってます。
 なんだかなぁ~って感じで、3幕が終わるとブーイングが飛んでます。

来年のリングに音楽面では備えるはずだったものの、ウォータン役のグロイスベックがウォータン役から降りると申し出ていて、来年はどうなるんだろうと心配です。
ということで、ここでも急きょ別の歌手が手配され、実績豊かなコニェチュニが歌いました。
クセのある独特の声は決して好きじゃないけれど、さすがにうまいもんです。
 歌手では、あとはなんといってもフォークトのジークムントのバイロイトデビューです。
決して背伸びしない、いつものフォークトならではの、明るい声によるジークムント。
健康的にすぎると思いもしたが、こんな明晰な声で歌われるジークムントはとても新鮮でした。
あと、ダヴィッドセンのジークリンデも素敵だが、テオリンのブリュンヒルデはどうだろう。
高域が絶叫になるすれすれに感じましたし、テオリンさん、こんなに声が揺れたっけ?

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インキネンの指揮が思ったほど精彩に欠けたように思います。
現地の評判でも、テンポが遅すぎとか書かれてますが、たしかに、2幕なんて96分もかかってる。
慎重になりすぎたのと、やはりホールの音を聴きながら的な、慣らし運転の思いもあったのかもで、気の毒にもブーも浴びたらしい。
なにより、舞台装置もなく、演技も少なめなのでやりにくかったでしょうね。
マッシモ劇場でのインキネンのリングをネット鑑賞したことがありますが、もっと熱くてドラマテック指揮だったですので、来年は楽しみではあります。

リングの他の3作をイメージしたアート作品が、劇場周辺に展示されているらしい。
神々の黄昏は、日本の塩田千春さんの作品です。

今年のバイロイト、以上4作に、ティーレマンの指揮で「パルジファル」の演奏会形式演奏。
あとネルソンスで、ワルキューレ1幕と黄昏の抜粋、ローエングリン、パルジファルなどのコンサートがあります。

2022年は、「リング」とあとは、「タンホイザー」「オランダ人」でしょうか?
2023年には、「パルジファル」新演出で、アメリカ人のジェイ・シャイブという演出家で、なんだか嫌な予感・・・
しかし、ジョゼフ・カレヤがパルジファルデビューします。
コロナと共生するバイロイト、上演も大胆な試みが引き続き必要です。

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  ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」

   トリスタン  :ステュワート・スケルトン
   イゾルデ   :ニーナ・シュティンメ
   マルケ王   :フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ
   ブランゲーネ :ジェイミー・バートン
   クルヴェナール:ジョゼフ・ワーグナー
   メロート   :ドミニク・セグウィック
   舵取り・牧童 :リナルド・フリエリンク
   舵手     :イヴァン・スリオン

    サー・サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団
               エストニア・フィルハーモニック室内合唱団

       演出:サイモン・ストーン

      (2021.7. 8 @エクサン・プロヴァンス)

この7月には、エクサン・プロヴァンス音楽祭でも「トリスタン」
しかも、演出は話題の映画監督でもあるサイモン・ストーン。
ストーンはザルツブルク音楽祭でメディア、ウィーンでトラヴィアータ、ミュンヘンで死の都とヒットを連発している。
フランス放送局から、音楽だけ聴きましたが、映像も全部見れました。
あまりに面白すぎる発想、まさに映画の世界、映像映えするから商品化間違えなし。
一番目の画像は、媚薬を飲んだ後、胸の赤いのは媚薬のワイン。

Tristan-aix-en-3

中東から、ブランド会社の社長夫人へ、社内で夜の偲び合い、他にも逢瀬の恋人たち、不倫発覚で真昼のオフィスに。
怪我を負い、地下鉄で故郷へ、社内にはレインボウプライドのひととか、みんなマスク着用。
ドレスアップしたイゾルデは、愛の死を歌い終えると、車外へ・・・・

一度じっくり再視聴します。

Tristan-aix-en-2

シュティンメは相変わらず素晴らしく、どの音域も無理なく聴こえるし、ふくよかで力強い(映像ではちょっと〇過ぎだけど)
スケルトンもこの役を何度も歌い演じて、完全に堂に入ってきた。
最初の頃は、乱暴な破滅的なトリスタンだったけど、いまでは落ち着いて、歌唱に厳しさも見せるようになったと思う。
でも太りすぎ。。。
あとみんな演技もうまく、歌唱もそれぞれよろしい。

驚きのロンドン響のオーケストラピット。
シンフォニーオーケストラのオペラは、充実したオケの響きが舞台の声をほったらかして奏者たちが飛ばしてしまう傾向があるが、ロンドン響は抑制の効いたラトルの指揮でもあり、普段からピットで演奏しているかのように、雰囲気あるものに感じました。
ロンドン響を離れるのがつくづくともったいない、ラトルの指揮。
いろんなところで、トリスタンを指揮していて、すっかり手の内に入ってます。
手持ちのラトルのトリスタンは、ウィーン、ベルリン、メトと今回のものとで4種。
いつか聴き比べを書いてみたいです。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Tristan-bayerische-1

  ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」

   トリスタン  :ヨナス・カウフマン
   イゾルデ   :アニヤ・ハルテロス
   マルケ王   :ミカ・カレス
   ブランゲーネ :オッカ・フォン・デア・ダメラウ
   クルヴェナール:ウオルフガンク・コッホ
   メロート   :シーン・ミハエル・プランプ
   舵取り    :マニュエル・ギュンター
   牧童     :ディーン・パワー
   舵手     :クリスティアン・リーガー

    キリル・ペトレンコ指揮 バイエルン州立歌劇場管弦楽団
                バイエルン州立歌劇場合唱団

       演出:クシストフ・ワリコフスキー

      (2021.7. 31 @バイエルン州立歌劇場)

ミュンヘンでもトリスタン。
ミュンヘン音楽祭のプリミエで、ここはなんといっても、カウフマンがついにトリスタンを歌ったことに話題が集中。
音源も限定放送の映像も確認しました。
カウフマンの声に、ちょっと飽きが来てたという、まったく不遜のワタクシを、びっくりさせてくれました。
悲劇性の強い、バリトン声のカウフマンはトリスタンやジークムントにぴったりと思ってたが、まさにそれを実感させてくれました。
3つの幕の長丁場、1幕は抑え気味に、2幕もソフトに、そして3幕にピークを持ってきて病めるトリスタンを緊張感豊かに歌い上げてました。
まだまだ余裕を感じるくらいでしたが、演技の少ない抑制された演出も歌手にとってはありがたかったかもしれません。

あと素晴らしかったのが、音楽監督としては最後の指揮となったペトレンコ。
全幕にわたり、これまた集中力が切れず、厳しい音楽造りでありながら、情感は豊か、オーケストラが舞台の歌手たちと一緒になって演じているかのような抜群の表現能力。
ラトル&LSOとペトレンコ&バイエルンのふたつのトリスタン、どちらも個性と音楽性にあふれてました。

リリカルなハルテロスがイゾルデを歌うなんて、最初は危惧しましたが、無理せず、ハルテロスらしい柔らかな声による女性らしいイゾルデでした。
愛の死は、ペトレンコの指揮とともに、美しい軌跡を描いて沈んでいくような夕陽のような感銘深いラストを歌ってました。
コッホとダメラウもいいが、カレス氏はビジュアルはいいが、その声が私の好みではなかったかも。

Tristan-bayerische-2

ワリコフスキーの演出は、よくわからなかった。
基本、トリスタンとイゾルデはまったく触れ合うことがなく、ディスタンスを保ったまま。
映像で補完、そして意味不明のスケキヨみたいな男女のパペットみたいな演じ手の人形。
これもまた、感情の補完なんでしょうかね。
決闘シーンなんかも、なくて、座ったまんまフリだけ。
海はこれっぽちもなく、すべて室内での出来事。
愛の二重唱の高まりの行き着く果ては、ふたりで注射器で腕にお注射でした。

プロヴァンスのトリスタンの写実的な舞台に比べると、暗く寂しいものでした。

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以上、7月にこんなにワーグナーが上演されました。
東京のマイスタージンガーは、初日がコロナ発生で中止とか、ともかく病禍にたたられっぱなし。
しかし、ともかく、世界も日本も、ワーグナーがなくては我慢ができません!

022a

聖火に群がる人々を制するように、ディスタンスを呼びかける係員。

人々もオリンピックに酔い、祭を待ち望んでる

020a

ずっと続く、人類は共生しなくてはならないのだろう。

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