2008年11月 9日 (日)

ブログ開設3年 ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」から ベーム指揮

3_2  2005年11月7日が初記事でありました。

今の世の中、変化が早く何が起きるかわからないから、3年前は大昔にも感じてしまう。
むしろ、30年前とか昔の方が最近のことのように思う私は歳を無駄に重ねてしまった証拠か・・・・、とほほ。

本記事で743本目。
別館の放置飲食ブログが、重複あるものの255本。あわせて998本の記事。
今月節目の誕生日を迎えるまでに1000本記事は行けるかも。
我ながらよく続けられたもので、これも読んでいただける方々がいらっしゃるからであります。
感謝感謝、Danke schon!

写真は、仙台郊外の秋保大滝。

ブログを始めて、1枚のCDをよりじっくりと味わうようになった。凡人ゆえ、おいそれと文章にならないのである。それと、ますます好きな分野に特化していくようにもなった。
ブログ前なら、1日に何枚も聴くことが出来たけれど、今は1枚をじっくり聴く楽しみの方が勝るようになった。これもブログのおかげかもしれないな。
一方で、雨あられのように発売される魅力的な音源・映像にも心が動き、ついつい購入してしまう。未聴のCDや忘却買いのCDであふれかえった部屋は家族の苦情の元となりつつあり、そろそろ抜本策を打たねばならぬ状態。

悩ましい日々、されど楽しき音楽のある生活。
綱渡りの日々ではあるけれど、これからもこんな毎日が続行できることが幸せなのかもしれない。

Tristan_bohm3 またまた「トリスタンとイゾルデ」の登場であります。
記事にして、これで13度目。
「パルシファル」13本、「ばらの騎士」9本あたりが上位。

一番の最初の記事が、二期会の「さまよえるオランダ人」。
ブログタイトルの由来でもあり、ワーグナー信者としてのスタートに相応しかったから。
そして、今日はワーグナーの中でも1,2を争うほど好きなトリスタンを。
昨晩、美しいシェーンベルクを聴いたので、トリスタンの響きを確認してみたかった。

全部は聴けないから、抜粋して。
前奏曲~イゾルデのモノローグ~1幕幕切れ~2幕前奏曲~二重唱~マルケのモノローグ~2幕幕切れ~3幕前奏曲~トリスタンのモノローグ~愛の死

今年はトリスタンの当たり年だったかもしれない。
パリオペラ座公演、メットオペラビューイング、飯守シティフィル、そして今月、コウトN響の2幕ほかの演奏会。いずれも観劇または予定。ほんと、好きだねぇ。
私の初トリスタンは、カラヤンのレコードのFM放送録音で、初レコードはベームのDGバイロイトライブ。中学生の頃、初オペラのレコードでもある。
5枚組9000円。平塚のレコード屋さんの棚に鎮座しているのを始終目にして、いつか買ったる!との思いでいた。
小遣いを貯めて、ドキドキしながらこのレコードを棚から持ち上げた時の重量感といったらなかった。そう、昔のレコードは重かったし、組物は装丁が超ゴージャスだったから。
そして、レジにもってゆくと、店員さんの驚きの表情といったらなかったな。
田舎の中坊が、こんなレコードを買おうとしてるんだもの。
その後に拝み倒して買ってもらった「ベームのリング」とともに、以来、擦り切れるほど聴いたこのトリスタンは、やはり私にとっての刷り込み演奏である。
レコードの5枚目のB面には、3幕のリハーサルが収録されていて、元気でおっかないベームの声が嬉しかった。

トリスタン:ウォルフガンク・ヴィントガッセン  イゾルデ:ビルギット・ニルソン
マルケ王:マッティ・タルヴェラ       ブランゲーネ:クリスタ・ルートヴィヒ
クルヴェナール:エーベルハルト・ヴェヒター メロート:クロード・ヒーター
牧童:エリヴィン・ヴォールハルト     舵取り:ゲルト・ニーンシュテット
水夫:ペーター・シュライアー

   カール・ベーム指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
                合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ
                演出:ヴィーラント・ワーグナー
                      (66.7@バイロイト)

ライブで燃焼しつくすベームの指揮、前奏曲からむせ返るような熱気に満ちている。
早いテンポは、のちのバーンスタインの超ねっとりテンポと双璧。
1幕最後のスリリングな高揚感は興奮を呼ぶ。
長大な愛の二重唱では、濃密ななかにも、ベームらしい透明感があって筆舌に尽くし難いほど美しい・・・。ヴィーラントの演出、照明はこの音楽の時にどのようであったろうか!
ヴィントガッセンの長丁場をものともしない強靭な歌を支えるオーケストラ。
思い切り歓喜にむせび、悲嘆にくれる。イゾルデの来訪への興奮と、見え隠れする船を見守り一喜一憂する場面。飛ばし過ぎなくらいに凄まじい演奏。
 最後は怜悧なニルソンの歌唱とともに浄化されつつ高みへ昇ってゆくベームの音楽。
やっぱり、私のトリスタンは、ベーム盤。
歌手も最高だし、録音も鮮烈。
昨今の演出優位のオペラではなく、大指揮者が要となっていた時代。
もちろん当時のバイロイトでは、兄ヴィーラントの理念が真っ先にあったわけだが、ベームこそヴィーラントの意向をもっとも体現した指揮者であった。
あとは、クリュイタンスとサヴァリッシュ。

さて、皆さん、これからも我が道を行きます。
どうそよろしくお願いします。

・今後のシリーズ特別予告  
 
 「ブルックナー&蕎麦」、「ショスタコーヴィチ交響曲全曲」、「V・ウィリアムズ交響曲全曲」、「ブリテン・オペラシリーズ」、「プッチーニ全集(あと少し)」

・トリスタン過去記事

 大植バイロイト2005
 アバドとベルリン・フィル
 
バーンスタインとバイエルン放送響
 P・シュナイダー、バイロイト2006
 カラヤン、バイロイト1952
 
カラヤンとベルリン・フィル
 ラニクルズとBBC響
 バレンボイムとベルリン国立歌劇場公演
  レヴァインとメトロポリタン ライブビューイング
 パッパーノとコヴェントガーデン
 ビシュコフとパリ・オペラ座公演
 飯守泰次郎と東京シティフィル

                

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2008年11月 3日 (月)

ヴェルディ 歌劇「マクベス」 アバド指揮

Desiny_hotel 本日眠いです。
朝6時前に起床、子供たちだけで冒険的に企画したディズニーランドの行きの運転手役が急遽私に回ってきたものだから。
休日ゆえ道路はスイスイ。7時20分頃、30分足らずで着いてしまう。いやはやこんな早くからTDL周辺はいるもんだねぇ、車も人も。
画像はヨーロッパのお城のようなディズニーランドホテル。
8時に帰宅して、さて何しようと悩む中高年ひとり。

Abbado_macbeth1 う~む・・・、そうだ久しぶりに純正イタリアのヴェルディでも聴こうじゃないか、と取り出したのがアバドの「マクベス」。

ミラノ生まれ、父も兄も係わりのあったヴェルディ音楽院卒業のアバドが、なるべくしてなったミラノ・スカラ座の指揮者。
68年、36歳で音楽監督となり芸術監督も経て86年までスカラ座とともにあったアバド。
リベラルなアバドは、国情ゆえ財政難だったスカラ座の地位をなげうってまで抗議したりもした。
ヴェルディの持つような高貴でかつ愛国的な熱い血のかよったアバドなのである。
 アバドの後を継いだムーティも長年スカラ座に君臨したが、その最後は後味の悪い決裂となってしまった。
ウィーンもそうだが、名門歌劇場というのはなかなか伏魔殿的な要素が多いようだ。
スカラ座を去って以来、アバドは故郷の指揮台に立つことはない。

スカラ座のオーケストラや合唱の素晴らしさはかつてより変わらないが、アバドが就任するまでは、60年代半ばのDGによる「ドン・カルロ」や「リゴレット」「トロヴァトーレ」等以降、正規の録音が久しく途絶えていた。
74年にこのコンビが録音したのが「ヴェルディ・オペラ合唱集」で、高校生の私はロンドンのオケとの雲泥の違いに驚愕し、次いで世界が待ち望んだ全曲録音がこの「マクベス」というわけ。
レコードアカデミー大賞を受賞した名盤中の名盤であります。
連続して翌年発売された「シモンボッカネグラ」の方がさらに完成度が高い弧高の名演。

26作あるヴェルディ(1913~1901)のオペラの中にあって、「マクベス」は10作目、作者33歳の作品。位置付けとしては祖国愛や激しい恋愛ロマンを描いている作品の多い初期から、人間の心理をより深く見つめ出した中期にかけてのオペラ。
後続が「リゴレット」や「トラヴィアータ」だからヴェルディが悩み多き登場人物のドラマにいかに素晴らしい音楽を書き始めた頃かがよくわかる。
シェイクスピアの原作にほぼ忠実。この原作もアバドのレコードを聴いてから読んだが、簡潔ながらシェイクスピアがマクベス夫人に与えた邪悪な野望の持主という性格は恐ろしいものであった。そしてそれに鼓舞されて人生を狂わせてしまうマクベス。
 ヴェルディもシェイクスピアの意そのままに、マクベス夫人を歌う歌手は「完璧に歌うのでなく、粗くて、しゃがれたようなうつろな響き」を持ち「悪魔的な感じ」を求めたという。
そして、マクベス夫妻の歌のスコアには、「ソットヴォーチェ」とか「叫びで」、「暗く、うつろに」「しゃべるように」・・・・、といった指示がたくさん書かれている。
 このオペラの二人の主役がいかに難しく、性格描写が求められるかがわかるというもの。
以前にテレビの劇場中継で、玉三郎のマクベス夫人、平幹次郎のマクベスを観たことがあるが、凄まじいまでの迫力とともに、権力を求める哀れさを感じた覚えがある。

第1幕
 3組の魔女たちが歌うところに、マクベスとバンクォーが登場。
魔女は、マクベスがコーダーの殿となり、やがて王ともなる。バンクォーは王の父となると予言する。そこへ、マクベスがコーダー領主となったとの使者が現れ、二人は驚く。
 マクベスの居城では、夫の手紙を読み野望にメラメラと燃える夫人がいる。
おりから、王ダンカンが今宵やってくるとの報に、帰館した夫に王暗殺をしむける。
ついに刺殺してしまうマクベスは、おお殺っちまったとおののくが、夫人は凶器の短剣を夫から取上げ、王の部屋へ置きにゆく。やがて大騒ぎとなる・・・・。

第2幕
 国王となったマクベス。魔女の言葉を一緒に聞いたバンクォー親子の存在が気になってしょうがない。
ならいっそのこと、と夫婦で次の殺害をたくらみ、刺客を雇ってバンクォーを殺してしまうが息子マクダフは逃げおおせる。
城の広間に客人をもてなすマクベス夫妻。しらじらしげに、バンクォーはいかがした?とか言いながら、バンクォーの席に座ろうかなどと言うと、血にまみれたバンクォーの亡霊が座っているのが見え動揺しまくるマクベス。
夫人はその場をとりなし、夫を励ます。

第3幕
 マクベスは魔女たちに気になる未来を見てもらおうとする。
魔女たちは、幻影を呼び出し、その幻影が語る。「マクダフに用心、女から生まれた者でマクベスに勝つ者はいない、バーナムの森が動かない限り戦いに負けない」と。
有り得ないことばかりに意を強くしたマクベスだが、王たちやバンクォーの亡霊が現れ、バンクォーの子孫たちが生き返ると聞かされ気絶してしまう。
 帰って夫人に報告し、二人でマクダフの城を攻めてしまえと毒づく。

第4幕
 マクベスの暴政に悲しむ人々の合唱。復讐に燃えるマクダフに亡き王の息子マルコムは、バーナムの森の木々を切ってそれを手に持って姿を隠そうと作戦を練り励ます。
城ではマクベス夫人が狂乱の死の境に立っている。
手についた血のしみや匂いに囚われてしまっている・・・・。
 マクベスは今しもイギリスと組んで攻めこようとするマクダフ軍に毒づき、最後の時が近づくのを悟り、自分の墓には悪口しか残されることはないと歌う。
そこへ、バーナムの森動くとの報。くそっとばかりに武器を持って戦場へ出るマクベス。
マクダフと出会い、母の腹をやぶって取り出された生い立ちを聞かされ、マクベスは「地獄の予言を信じたゆえ罰を受ける。卑劣な王冠のために・・」と歌い破れ死ぬ。
 勝利に沸く民衆とマクダフとマルコム。 
幕。

  マクベス:ピエロ・カプッチッリ   マクベス夫人:シャーリー・ヴァーレット
  バンクォー:ニコライ・ギャウロウ マクダフ:プラシド・ドミンゴ
  マルコム:アントニオ・サヴァスターノ 待女:ステファニア・マラグ
  医師  :カルロ・サルド         従者:ジョヴァンニ・フォイアーニ

   クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                    ミラノ・スカラ座合唱団
               合唱指揮:ロマーノ・ガンドルフィ
                         (76.1 ミラノ)

前奏曲からピシっと一本筋が通ったように張りつめたオーケストラの音。
すべてに意味があり、血が通っているように聴こえる。それがあまりにも雄弁であるがゆえに、この演奏を聴くにはかなりの緊張と集中力を要する。
アバドの指揮するヴェルディの素晴らしさは、緻密な表現の中にも持って生まれた歌心と劇場的な開放感もあることで、ドラマテックな場面でのたたみ込むような表現には興奮してしまう。よく優等生などと言われるアバドであるが、これらヴェルディをはじめとするオペラの数々を耳をかっぽじって聴くがよいだろう。

Abbado_macbeth2 名バリトン、カプッチッリのマクベスには邪悪さはあまりないかもしれないが、夫人と運命の綾に翻弄される矛盾した存在を美しく輝く声で表現している。
輝かしいバリトンだからこそ、強烈な性格表現にも嫌味がなく迫真の歌に息を飲む思い。
ギャウロウの深みある声も同様。
ただ、ドミンゴの声は立派すぎるというか、テカテカしすぎかとも思うのは贅沢か?
アバドがマクベス夫人として指名したヴァーレットは、同時期のムーティ盤のコソットの強烈さこそないが、緻密な頭脳的歌唱で、多彩な声の使い分けも見事。
ヴェルディが望んだほどの「悪魔的な感じ」というには遠いが、女性的なマクベス夫人でもあった。
合唱・オケともに超強力。
録音も超優秀。
なんだか誉めすぎのアバドのヴェルディでありました。

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2008年11月 1日 (土)

ラフマニノフ 歌劇「アレコ」 キタエンコ指揮

Neko おいおい、そんなに隠れなくたっていいじゃないか。

ねこを見かけたので、いつものように声掛けをしたら車の下に逃げ込んでしまった。
ねこは、逃げても必ずどこかで見ている。好奇心旺盛なんだ。

オジサンはね、悪い人なんかじゃないんだよう。

Rachmaninov_aleko ラフマニノフ(1873~1943)が残したオペラは完成されたもので3作品。
それ以外にも未完のものや、構想だけで終わったものがいくつもあって、ラフマニノフは劇場作品への適性と、多忙な演奏活動や自身のなさで、作品を完遂できなかったことがうかがわれる気がする。

今回聴いた「アレコ」は1幕ものの1時間作品で、1892年の作曲。
なんと20歳である。
モスクワ音楽院の卒業作品でもあったこのオペラ、高い評価を得て、大金メダルという賞を受賞した。
19や20歳の頃の自分って何やってたんだろ?

短い作品ながら、そのドラマはヴェリスモっぽくて、ジプシーの暗い生活と嫉妬や死の横溢する激しい内容である。原作者はプーシキン

簡単なあらすじ

都会の生活を捨てた壮年のアレコ。ジプシーの群れに加わって生活してゆくうちに、若いゼムフィーラと恋仲になった。
年老いたジプシーは、かつて愛した女が異なるジプシーの集団についていってしまい、残された娘がゼムフィーラ、その日から女というものが信じられなくなったと歌う。
ズムフィーラは、アレコが他所から来たインテリで利己的で最近しっくりこないと思っている。あからさまに歌で揶揄し、アレコはいらつく。
有名なアレコのカヴァティーナで、かつての愛を懐かしみ、心変わりを責める。
 その夜、若いジプシーとゼムフィーラはいい仲となってしまい、その場をアレコに見咎められる。アレコは必死に昔を思い出して欲しいと歌うが、それを蔑む二人。
ついにアレコは切れ、若いジプシーを殺害し、ゼムフィーラをも殺してしまう・・・。
ジプシーたちが現れるが、口々に「恐っろしい」を連発するのみで、老ジプシーも「わしらには掟なし、罪も攻めぬ。が、血も見たくない。一緒にいれない」と悲しく歌う。
アレコは「不運なこの身、またも一人・・・・」と歌い、幕。

なんともいえないばからしさではあるが、「パリアッチ」や「外套」のようだし、最後は身勝手な「オネーギン」や「ドン・ホセ」をも思わせる筋立て。
ジプシーの自由気ままさと、奔放さ。それ以外の人間との隔たりと社会との疎外感。
何とも暗い内容ではある。

若書きとはいえ、どう聴いてもラフマニノフなのである。
序奏に、ふたつある劇中のダンス、甘味な間奏曲などのオーケストラ部分。
歌も、劇の内容の濃厚さとは裏腹に結構さわやかな抒情と、ラフマニノフ特有のリズムに乗った特徴的な旋律に彩られていて、なかなかの聴きものと思う。

アレコ:エウギニ・ネステレンコ  若いジプシー:アレクサンドル・フェディン
老いたジプシー:ウラディーミル・マトーリン 老いたジプシー女:ライザ・コトヴァ 
ゼムフィーラ:スヴェトラーナ・ヴォルコヴァ

 ディミトリ・キタエンコ指揮 モスクワフィルハーモニー交響楽団

ネステレンコのたっぷりしたバスが聴きもの。
ロシア人特有の肉太でヴィブラートがかった声はなんとも濃厚で深刻。
アレコのカヴァティーナのあとに始まる間奏曲の幻想的でロマンテックなことといったらない。このあたりで、ウォッカ2杯は飲めちゃう。
キタエンコのシンフォニックな解釈は、べたつかずスマートなラフマニノフとして非常によろしい。
ほかのラフマニノフ・オペラも聴きたくなってきた。

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2008年10月26日 (日)

R・シュトラウス 楽劇「ばらの騎士」 クライバー指揮

Rosenkavalier_kleiber 昨日HMVで、購入したホヤホヤのCD。
そして、今日、封を切るのももどかしいくらいに、ワクワクしながらCDを取り出しトレーにセット。

拍手が始まり、その拍手が鳴り終わる前に指揮棒が振り下ろされ、湧き上がるような上気したホルンの第一声が響き渡る・・・・・。

あぁ、なんて素晴らしいんだろう。
その場に居合わせたら、もうそれだけで涙が出てしまうかもしれない。

ついに出ました。カルロス・クライバーR・シュトラウス「ばらの騎士」正規ライブ!!!
「ばらの騎士」ばかり、何度も登場させて辟易とされている方もいらっしゃいましょうが、ここは、カルロスに免じてご容赦のほどを。ちなみに、今回でオケ版も含めて9本目の記事。

何がすごいかって、まず、カルロスのオペラ・ライブは映像を除いては初めてということ。
それも、ミュンヘンで毎年のように指揮していた名物「ばらの騎士」。
それから、映像で残されたカルロスのばら騎士は、79年のミュンヘン、94年のウィーンとあるが、今回の73年といえば、そのクライバーが鮮烈なデビュー作「魔弾の射手」を録音した年である。その翌年には、ウィーンフィルとの「第5」録音や、バイロイトでの「トリスタン」などが控えていて、ともかくクライバーの登場が音楽ファンを狂気させていた時期なのである。
 加えて、亡き名バス、リッダーブッシュのオックスが聴けることも大きい。
さらに、録音の鮮明さ。ライブ感溢れる立派すぎるステレオ録音。

 元帥夫人 :クレーア・ワトソン   オクタヴィアン:ブリギッテ・ファスベンダー
 ゾフィー  :ルチア・ポップ     オックス男爵:カール・リッダーブッシュ
 ファーニナル:ベンノ・クッシェ    マリアンネ:アンネリー・ヴァース
 ヴァルツァッキ:デイヴィット・ソー アンニーナ:マルガレーテ・ベンツェ
 警官  :アルブレヒト・ペーター  家令   :ゲオルク・パスクーダ
 テノール歌手:ゲルハルト・ウンガー

   カルロス・クライバー 指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
                   バイエルン国立歌劇場合唱団
                演出:オット・シェンク
                         (73.7 @ミュンヘン)

72年にプリミエを迎えたシュンクの伝統的なプロダクションは、79年の映像でも確認できる。74年には、クライバーの初来日として、日本でも上演された。
この年の公演、私はまだ高校生になったばかりでオペラ観劇デビューにはまだ2年を待たなくてはならなかった。(サヴァリッシュのワルキューレやドンジョヴァンニも最高のキャストで上演されたのに・・・・)

先に書いたとおり、冒頭から音楽はいきいきと弾むようにオーケストラピットから湧き出てくるようで、耳にすっかり馴染んだシュトラウスの音楽に鮮やかな彩りを与えているかのようだ。奔流のように溢れては劇場に飛び散るような音たちに、私は聞き惚れるばかり。
 各所に散りばめられたワルツのふんわりと柔らかな肌ざわりと、豊かな歌心に抜群のリズム感。あまりに有名なオックスのご機嫌印のワルツで、こんなに体を一緒に動かしたくなってしまうことってかつてないこと・・・。
 そして、1幕後半のマルシャリンの独白の聞かせどころ、あまりの儚い美しさに茫然と聞き惚れ、目頭が熱くなった。時計の音を刻む場面の冷凛とした雰囲気なども息を飲むほど。
2幕の騎士を待ちわびる時めく音楽の高まり、そして、ついに騎士登場の場面のさらなる最高潮。姿も声もオクタヴィアンになりきったファスベンダーの颯爽とした姿が目に浮かぶ。映像はなくても、あのお姿が脳裏に焼き付いている。
 銀のばら贈呈の場面の陶酔的な美しさ(ルチア・ポップ!!!)、その後に再び歌われる二人の束の間の愛の二重唱の息苦しいまでの素晴らしさ(私はイタリア2人組に見つかるまでの、この場面がたまらなく好き)。
2幕も3幕も、拍手とかぶりながら指揮棒を振り下ろすクライバー。
曖昧で錯綜する複雑なオーケストラの3幕冒頭。見事なアンサンブルで応えるシュターツオーパーのオケ。毎度このオーケストラは放送響と並んでその暖か味ある音色がいい。
相当な練習を積んだことであろう、ユーモアも溢れる自在なカルロスの指揮のもと完璧。
オックスが大騒ぎで賑やかに出ていったあと、シュトラウスの精妙な筆使いの冴え渡る最高の大団円を迎えると、音楽も徐々に様変わりしてゆく。
三者三様の心持ちを支える素晴らしいオーケストラ。時におののくように、時に期待と、そして別れの寂しさを堪えるように。
舞台を左から右に、そうゾフィーのところへ移動するマルシャリンのドレスの絹ずれの音がいやでも舞台の情景を思い起させ、そしてこれから始まるあまりに美しい3重唱に胸が締め付けられる思いがする。

 あの人を正しい愛し方で愛そうと思っていた・・・、まさかこんなに早くその日が・・

マルシャリンが静かに歌いだすとき、私の涙はダム決壊状態に。
この場面、クライバーが導きだす、ホルンの強奏と豊麗かつ甘味な響きに陶酔するばかり。若い二人の鈴音のような二重唱に続き、急転直下のこ洒落た結末に息つく間もない。

Rosen_kleiber  まったくもって素晴らしいキャストの中にあって、リッダーブッシュのオックスが期待通りに素晴らしい。当時、舞台に録音にひっぱりだこだったこの不世出のバス歌手は、美声に加えて豊かな声量とタフなスタミナを兼ね備えた完璧な人だった。
オックスの一応貴族の出自を思わせる気品と、いやらしい品のなさ、この両方を幅広い歌唱力をもって見事に歌っている。そして声の威力にも唖然とする。
リッダーブッシュ、最高のザックス歌手という私の思いに加えて、モルとともに、最高のオックス歌手といいいたい。
 映像と同じファスベンダーポップのコンビには、もう何もいうことはありませぬよ。
声の相性とミックスの具合がえも言えず天国的であります・・・・。
ワトソンについては、ちょっと評価しずらいところ。少し古めかしい場面もあるが、とてもデリケートで入念な歌で、耳をそばだてさせる魅力がある。
先にあげた心震わせる最後の3重唱の素晴らしさ。ファーニナルと登場し、「Ja,Ja」と歌う声の儚さは何ともいえない。

ジャケットは、クライバーの書き込みのある「ばらの騎士」の総譜。
2幕で、ゾフィーがペルシャのばら油を一滴垂らした銀のばらの香りをかいだところ。

   まるで、天国からの あいさつのよう
  香りが強すぎて 耐えられないくらい
  胸がきゅんと引っ張られるよう・・・

カルロスの子息マルコ・クライバー氏の書いたCDの解説の表題、「天国からのあいさつ」とある。

    "Ist wie ein Gruβ von Himmel"

Kleiber スロヴェニアにあるカルロス・クライバーのお墓。
2004年7月13日が命日。
もう4年になる、いやまだ4年か・・・、
追悼音源があまり出ないこともあってか、もっと月日がたってしまった感もある。

そして、今日、あまりに素晴らしい「ばらの騎士」を聴くことが出来た。
オルフェオには、この先も貴重な放送音源の正規発売に頑張って欲しい

 「ばらの騎士」の過去記事

  新国立劇場        シュナイダー指揮
  チューリヒ歌劇場     ウェルザー・メスト指揮
  ドレスデン国立歌劇場  ルイージ指揮
  
神奈川県民ホール(琵琶湖) 沼尻竜典指揮
  新日本フィル公演      アルミンク指揮
  
  
ドホナーニ指揮のCD&4つの舞台のレビュー
  バーンスタイン指揮のCD
  ヴァルヴィーゾ指揮のCD(抜粋)
  プレヴィン指揮の組曲版CD

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2008年10月19日 (日)

モーツァルト 「コシ・ファン・トゥッテ」 ベーム指揮

1 気持ちいい秋晴れの日曜、窓の外は淡い青空と色づき始めた公園の木々が風に揺れている。

こんな清々しい日には、モーツァルトのオペラでも聴きましょう。
モーツァルトのメジャー7大オペラは、ワーグナーに目覚めたと同時に聴き始め、何回聴いたものかわからない。
若い頃は、オペラといえば、ワーグナー、モーツァルト、ヴェルディばかり日々聴いていた。
シュトラウスやプッチーニを楽しめるようになったのは、ちょっとイケナイ大人になってから。

モーツァルトのオペラに親しんでいくうえで、多大なお世話になったのがFMでのザルツブルクライブ放送である。
かつては、ザルツブルクの公演のオペラ・コンサート・リサイタルのほぼすべてが放送されていたから、いながらにして超一流のアーティストによるライブがコレクション出来たもんだ。カラヤンとベームのオペラは毎年必ずあったから贅沢なものである。
モーツァルトでは、カラヤンのフィガロに魔笛(ルネ・コロのタミーノ!)、ベームのコシ、イドメネオ、ドン・ジョヴァンニなどがウィーンフィルの演奏で毎年放送されていたのだからすごいもんだ。

その中で、圧倒的な人気を博し、同じメンバーでロングランを続けていたのが「ベームのコシ」である。
その74年のライブ録音が今回のCDで、賞もいくつか受賞したのではなかったかな?
当時レコードで3枚組み。完全全曲盤となると4枚組。
フィガロも、ドンジョヴァンニも4枚組だったことを思うと、2枚のCDにきっちり収まり、廉価盤ともなると千円札2枚で買えてしまう今が恐ろしくもあり、消費財と化してしまった感がある。高額なレコードは始終買える訳でないから、エアチェックしたカセットテープで音楽の裾野を広げていった時代が懐かしい。
 久しぶりにベームのコシを取り出して、そんな思いに浸ってしまった・・・・・。

フィオルディリージ:グンドゥラヤノヴィッツ ドラベッラ:ブリギッテ・ファスベンダー
グリエルモ:ヘルマン・プライ         フェルランド:ペーター・シュライアー
デスピーナ:レリ・グリスト           ドン・アルフォンソ:ロランド・パネライ

  カール・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
               ウィーン国立歌劇場合唱団(ワルター・H・グロル指揮)
               演出:ジャン・ピエール・ポネル
                       (74.8.24 ザルツブルク)

2 60~70年代にモーツァルトを上演するなら真っ先に思い浮かんだ理想的なキャスト。
今こうして名前をみているだけでも、ため息が出ちゃうくらい。
ベームには、60年代終わり頃の映画版コシもあって、そちらは、ヤノヴィッツ、ルートヴィヒ、プライ、シュライアー、ベリー、グリストという配役だったかと記憶するが、そちらも是非DVD化して欲しい。

このオペラは、6人の登場人物による素晴らしいアリアが満載だが、ソロばかりでなく、アンサンブルも重要で、最初の恋人同士、男同士、姉妹同士、偽りの恋人同士、それに狂言回しの二人が絡んだり、四重唱、六重唱ありと、声のハーモニーがとても大切。
その意味では、名歌手ばかりが名を連ねればいい訳ではなく、劇場で日頃練り上げられたメンバーによるアンサンブルによるものの方が仕上がりがよいのかもしれない。
ベームの2度目のEMI録音は、強力な名歌手を揃えた名盤だが、個々のソロは別として、アンサンブルオペラとしてのコシを考えた場合、同じメンバーで毎年上演された3度目のライブ盤の方に魅力を感じる次第。

3_2  そして、フィルハーモニアよりは、自発性と感興に富んだウィーンフィルの方がいいのは明らか。
60年代の厳しくかっちりしたベームの緻密な音楽と異なり、70年代半ば以降は、ウィーンフィルの個性も相まって愉悦と微笑みに満ちた音楽も聴かれるようになった。
60年代に比べ、やや緩くなったのは否めないが、早めのテンポに乗って弾むように、ライブのベームならではのモーツァルトが楽しめる。
名アリアや重唱にちょこちょこと聴かれるホルンや木管の合いの手に、堪らないくらいに色がある。指揮者がどう指揮をしようと出てくるウィーンの音には参ってしまう。
数日後に迫ったムーティとウィーン国立歌劇場の公演に行かれる方が羨ましい!

4 個々の歌手では、私としてはヤノヴィッツが相当に素晴らしいと思う。
二つある名アリア、それぞれに心情が違うシチュエーションだが、それをえもいわれぬ素適な高音を効かせながら、そして女心の微妙な移り変わりを歌い分けている。
ファスベンダーは、日頃の中性的な役柄ではなく、姉よりもおきゃんで積極的な妹をくっきりと歌っている。
二人の姉妹の重唱はとても美しく、天国的ですらある・・・・。
男組についても文句なし。プライシュライアーの気持ちの良い声といったらない。
二人が自分たちの相手の心変わりを怒り嘆くところの悲喜こもごもには、さすがの歌唱を聴かせる。
グリストの可愛げある自在なデスピーナ、ベテランのパネライがやや精彩を欠くかもしれないが、味わいある歌はさすがなもの。

カセットテープを通じて聴いてきたベームのこのプロダクション。
ついつい手放しで誉めちゃうけれど、私には懐かしくも捨て難い名演なのだ。

1790年に完成したダ・ポンテの台本による「コシ・ファン・トゥッテ」。
「フィガロ」の第1幕で、スザンナの部屋に隠れたケルビーノを見つけたドン・バージリオが「コシ・ファン・トゥッテ」と歌う。
「女はみんなこうしたもの」、浮気性の伯爵=男の「フィガロ」と対をなすこのオペラ。
恋人が入れ替わっても、待女が変装してもわからない女たちが、あまりにコロリと騙されてしまう台本の陳腐さはあるし、世の女性の怒りを買うのも当然ではあるが、騙す男性陣も心から楽しんでいることも事実。「男も女もみんなこうしたもの」
でも、ここにあるモーツァルトの音楽の軽やかさと天衣無為の美しさは例えようがなく魅力的で素晴らしすぎます。

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2008年10月16日 (木)

プッチーニ 「トゥーランドット」 新国立劇場

Turadot_shinkoku 新国立劇場のシーズンオープニング演目、プッチーニの「トゥーランドット」を観劇。
今回の新演出プロダクションは、10月1日が初日で、6回目の今夜が千秋楽。
ということで、どんな舞台であるかは、お仲間の記事などから何となく情報収集済みで、面白そうだったので大いに楽しみにしていた。そして最終ということで、舞台も歌も練れてきているであろうし。

ついでに書くと、プッチーニのオペラ全曲のブログ記事制覇も、このトゥーランドットで残りあとふたつ。
難敵「蝶々夫人」と未知「エドガー」が残るのみ。
年内には、取り上げて、プッチーニのメモリアルイヤーの記念としたいところ。

ッチーニ最後のこの未完のオペラは、3幕でリューが自害し、悲しみに包まれつつ静かに音楽を閉じるところまでしか完全には残されなかった。
結末にこだわり過ぎて、癌に勝てなかったプッチーニ。  
ミラノでの初演時、トスカニーニがここで指揮棒を置いて、「先生が残されたのはここまでであります」と言って会場はし~んとなった。
かつて、NHKでプッチーニの生涯を描いた海外連続ドラマが放送されたことがあった。
その最後のシーンがこれだった。高校生の時に見たこのドラマ、この場面をとても覚えている。プッチーニの声は高嶋忠男で、美食と色好きのプッチーニをとてもよく描いていた。
         
アルファーノによる補完版がいまや定番となって、華々しいフィナーレを持つようになったのはご承知のとおり。最近ではベリオ版も出ていて、このオペラのとってつけたような結末にはこれからも論議をうむことであろう。


Ki_20001473_6 演出面でこの結末を逆手に取って、ユニークな解釈を施したのが、今回のブロックハウスのもの。
リューが死ぬまでを、仮面に覆われた劇中劇に仕立て、音楽が始まるまでに創作パントマイムが行われる。
時代設定を作曲時の1920年代に置きかえ、霧に覆われた舞台に人々が三々五々現れ、カフェや出店、遊戯施設などの準備が整う。そこへ一組の夫婦が現れるが、ちょっとよそよそしい。男は夫人の目を盗んで、カフェのウェイトレスと怪しい雰囲気を醸しだしている。
ここで、狂言回し的な連中が現れ、登場人物たちに仮面を渡す。人々も仮面を付け、なりも中国人風になっちゃった。中国劇団のお芝居の始まり・・・・。
夫婦はトゥーランドットとカラフだし、ウェイトレスはリュー、店主はティムールだ。
ここで、エキゾチックな和音が高鳴り、音楽が始まった。
狂言回しが3人いて、連中が劇場主のようだ。
バットマンのジョーカーのような顔や仕草で、このある意味で夫婦邂逅の茶番劇の仕掛人である。

この無言のプロローグと、リューの死以降が対となっているわけ。

Ki_20001473_5 劇中劇は、登場人物達が舞台真ん中て歌い演じるなか、左右にいる人々がその観客でもあり、北京の群集でもありで、彼らが飲み食いしたり、色んなをやっているし、悪趣味で目の痛くなるような衣装と化粧のピン・パン・ポンに加えて、マイムの狂言回しの3人がアクロバテックに動きまわっているものだから、舞台に落ち着きがないことこのうえない。
1幕最後、カラフが銅鑼を叩きトゥーランドットと叫ぶこのオペラ最高のエキサイティングな場面。やや緊張の求心力が欠けたのはごちゃごちゃした動きとカラフルで軽々しい舞台設定のせいかもしれない。
 2幕になると、逆にこちらも慣れてきた故、ごちゃごちゃも違和感がなくなってきた。
バレエ・ダンスの多用もこの演出の特徴で、ピンパンポン(3P)が故郷へのノスタルジーに沈んでいるとき、たくさんのお姉ちゃんたちが戯れるように踊っていたが、妙に南国風だったのが気になった。このあたりは少し単調で、意味不足。
しかし、トゥーランドットが山車に乗って現れ、トゥーランドット役のテオリンが一声を発すると、舞台が一挙に締まった。
そのあとの、カラフとのクイズ合戦から幕切れにかけて、主役二人の見事な声に緊張して舞台に集中することができた。
 3幕は観客が期待したカラフの「誰も寝てはならぬ」が大声量で歌われていやでも盛り上がる。
やがて仮面を付けたリューとティムールが引き出されてきて、名前を吐けと迫られる場面。このオペラのクライマックス。このあたりはごく普通だが、かわいそうなリューの運命を知る身としては、早くもうるうる状態に。
Ki_20001473_11 仮面を外したリューが自己犠牲を歌い、さらに、あまりに素晴らしいアリアを小上がりの舞台に上りつつ、トゥーランドットににじり寄るように歌う時、トゥーランドットはその顔も見たくないとばかりに顔を背けている。
夫の心が離れた当の愛人がニクイのか!
そのリューの浜田さんの心を打つ演技と楚々とした歌唱に、我々観客は涙をそそられ、あちこちで鼻をすする音が・・・・。ワタクシももちろん涙ぼろぼろ。
トゥーランドットの頭からかんざしを奪い自決。
亡骸にすがりつくティムールが哀れを誘う。
そんな一方で、他の人物たちは、中国衣装をそそくさと脱ぎ、プロローグの時と同じ20世紀初頭のファッションに戻りつつある。
ティムールというか、カフェ店主は、一歩で遅れて、後ろ髪引かれつつ衣装変え・・・。
リューの亡骸は男たちによって運び出され、劇中劇が終了した。

あとは、台詞とシテュエーションが矛盾だらけのエピローグに。
夫に向かって「異邦人の王子」だし、夫は妻に「前から好きだったよう」だし。
勝手に二人で戻った愛に酔いしれ、周囲もそれを称える。
可哀想なリューはウェイトレスはどうしちゃったの??
彼女だけが劇中に亡くなり、カフェ店主ひとりが皆が盛り上がるなか、しょぼんとして下を向いている。
ちょっと辛口で、苦い後味の残る「トゥーランドット」

演出家のノートによれば、気の多いプッチーニは嫉妬深い妻にあらぬ疑いを掛けられて自殺に追い込まれた、かつての小間使いを思い起してリューを登場させたとある。
 そして、未完の総譜の最後には「ここから先はトリスタンとイゾルデのように・・・」と書き記されているとされる。
リューの自己犠牲が夫婦の愛情を呼びおこすきっかけとなったのだろうか?
「トリスタン」の方は、いずれも死んでしまうが、イゾルデの死は、死による愛の浄化ともいえるから、今回の演出は、あながち遠い解釈でもないのかもしれない。
プッチーニの意図は、今となっては不明だが、リューの死で終わるのも不完全だし、ベリオ版は二重唱のあと静かに終わるというし・・・・。
まだまだいろんな可能性を秘めた「トゥーランドット」ではある。
しかし、どんな版であっても、プッチーニの完全に残した部分は、オペラというジャンルの最高峰に位置する傑作ではなかろうか。

  トゥーランドット:イレーネ・テオリン   カラフ:ヴァルテル・フラッカーロ
  リュー :浜田 理恵            ティムール:妻屋 秀和
  皇帝アルトゥム:五郎部俊朗       ピン    :萩原 潤
  パン  :経種 廉彦             ポン    :小貫 岩夫
  官吏  :青山 貴             マイム   :ジーン・メニング

   アントネッロ・アッレマンディ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                        新国立劇場合唱団
                 演出:ヘニング・ブロックハウス
                          (10.15@新国立劇場)

1 歌手は揃っていた。
今年バイロイトでイゾルデを歌ったテオリン。強靭な声が強大な声で会場の隅々に響き渡った。
クールで、往年のニルソンを思い起す北欧系のトゥーランドットは素晴らしい聴きものだった。
対するフラッカーロのカラフは、最初こそ押さえ気味に感じたが、2幕からピーンと張った声がギンギンに冴えていった。
見映えもデカイこの二人に、負けないくらいに見事な声と細やかな演技で光ったのが浜田さんのリュー。
今年聴いたメリザンドの静的な歌唱に心打たれたが、彼女の佇まいはプッチーニの好んだリューのイメージにピッタリ。
哀れ誘うティムールを歌った妻屋さん、激しい動きを強要されながらもよく歌った3Pの面々、みなさん良かった。
新国合唱団の強力ぶりは今回も変わらず。
アッレマンディの指揮は、強弱がすごく豊かで鳴らすところはものすごい迫力を感じさせるし、きれいに歌う場面では、かなりのこだわりを感じた。
ワーグナーやマーラー、ドビュッシーの延長線でプッチーニを捉えた場合、この指揮者とオーケストラはまだまだ解像度不足かもしれなかった。
実演では、プッチーニの精妙なオーケストレーションは捉えにくいのかもしれない。
(CDで聴く、メータやマゼールの素晴らしさ)

2 なんだかんだで、2度の幕間にワインとジントニックをしっかり飲み、そして泣き、そして楽しんだ「トゥーランドット」であります。
オペラのシーズンがまたこれで始まり、気もそぞろ。

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2008年9月25日 (木)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 新日本フィルハーモニー公演

Img_0002 ばら戦争」は終わっていなかった!
昨年来の「ばらの騎士」の饗宴、今度こそ最後だろう。
2007年5月から数えて、通算5つ目の「ばらの騎士」を観劇。
一昨日の「トリスタンとイゾルデ」の響きがまだ脳裏に残るなか、迎えてしまった今日のばらの騎士。ワーグナーとシュトラウス、私のもっとも好きな作曲家達による、もっとも好きなオペラ。よりによって、こんなに集中して演ることはないじゃないの! 
好きだからこそ、そのすべてを聴きたくなるから困ったものだ。

今回は、新日本フィルの定期公演でもある、セミステージ上演。
オーケストラをステージ奥にきっちきちに押し込んで、その手前、つまり指揮者のうしろで演じ、歌われる仕組みだった。

簡単なセットは、左手の第1ヴァイオリンの前に据えられ、歌手達は、ステージ左手で歌うことが多く、右手前方の席だった私の首はいまも痛いっ

制約ある条件ながら、演出はしっかり付けられていて、飯塚励生(れお)さんによるもの。ニューヨーク生まれのこの方、以前の新日ホールオペラ「ローエングリン」の演出をはじめとするホールものの数々、またサイトウキネンの「グレの歌」なども手掛けた気鋭。
実力派の歌手たちばかりだから、果たして、どこまでが振り付けか個々の動きは不明だが、ホールオペラの利点を活かし、出演者と指揮者が掛け合いをしたり、客席からオクタヴィアンが従者を伴なって登場したり、オックスのチンピラのようななりをした手下たちが客席のあちこちで、ファーニナル家の女性たちを追いまわすなどの仕掛けが豊富であった。
アンニーナが、オックスの脱いだカツラを、こともあろうにイケメンのアルミンクにかぶせてしまい爆笑!
 さて、こうしたアイデアは楽しめたが、限られた舞台に新たな解釈を持ち込もうとしたものだから、私にはそれは「過ぎたるは及ばざるが・・・・」の印象であったことも事実。
最初から、原作にない白いドレスを着た妖精のような少女が出てきて、出演者にまとわりついたり、舞台の斜め右から一喜一憂しながら眺めたりしている。
1幕では、幼稚園児くらいの少女。2幕では、あれ成長したと思ったら、小学高学年くらいの少女。途中から二人とも登場・・・・。
ともかくその演技も、父親世代から見ると可愛くてしょうがないのだが、大人のドラマに何故?不自然であると同時に、ドラマの感興をそいでいたように思う。
モハメット君の役割は別にいるわけで、最後はぞろぞろ3人出てきて、今回はゾフィーが肩から落としたショールを拾いあげて幕となったくらい。
 可愛い彼女たち。
時の経過を司る少女たちではないかと思料。
1幕でオクタヴィアンと戯れるマルシャリンには見えなかったのに、幕の後半に、時間を意識してアンニュイになったあとから、マルシャリンには少女たちが見えるようになった。
少女に手を引かれ、オクタヴィアンの走り去った舞台を去る。
もう一人、少女たちが見えていたのは、オックス男爵。
2幕で、オクタヴィアンに決闘を挑まれるが、少女がオックスを後ろからチョンチョンとつついて、なに?と振り返った拍子にオクタヴィアンの剣でちょこっと怪我をする。
愛し合うオクタヴィアンとゾフィーと、少女たちの接点はなかった。
 云わんとするところはよくわかった。時間の経過とそれへの受入れ、同じコンセプトは、今春の横浜の「ホモキ演出」の根源だった。
ホモキは、舞台を逆さまにしたり、衣装を脱がせたりすることで、巧みにそれを表出していたが、今回の少女たちは、私としては、ちょっと過剰であったように思う。
それでも、カーテンコールで演出家へのブーイングは心無いことだ。
そんなことをしてどこが気持ちいいのだろう。素晴らしかったファーニナル役のユルゲン・リンが、あれれどうしてよ??というような面持ちだった。

 元帥夫人:ナンシー・グスタフソン オックス:ビャーニ・トール・クリスティンソン
 オクタヴィアン:藤村実穂子     ゾフィー:ヒェン・ライス
 ファーニナル:ユルゲン・リン    マリアンネ:田中三佐代
 ヴァルツァッキ:谷川佳幸      アンニーナ:増田弥生
 歌手     :佐野成宏

  クリスティアン・アルミンク指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
                     栗友会、東京少年少女合唱団
                     演出:飯塚励生
                        (9.25 @トリフォニーホール)

何と言っても、オクタヴィアン初挑戦の藤村さんがいい。
あの小柄な体で、そうしてあんなパワーある声が出せるんだろう。声が大きいというよりは、明晰で豊かな声量だから、オーケストラを圧してホールに響き渡るのだ。
その声も、暖かであり感情移入も豊かなので、聴き手の心をとらえてやまない。
バイロイトでフリッカやクンドリーを歌う藤村さんが、本場でも大きな歌手に負けずに評価されているのがよくわかる。日本人ばなれした声量と、日本的な細やかな歌唱。
 アイスランド生まれのクリスティンソンの深々としたバスにも感心。クルト・モルを思い出してしまったくらい。
ウィーンで活躍するグスタフソンのマルシャリンは、そのアメリカ人風の豊かな表情のとおり、少し大らかな歌唱だったが、若い歌手達の中にあって貫禄たっぷりの歌声。
Chen20reiss20fotoklein 予定された歌手が体調不良で降板し、代役で登場のライスは、驚くほど立派な声だった。
ゾフィーにしては声が強すぎかもしれないが、その美貌がまた素適な彼女、今後活躍しそうな歌手に思う。(画像)
他の諸役は、みんな良し。

それにしても、アルミンクと新日フィルの精緻でシンフォニックなシュトラウスは聴きものだった。右を向きすぎて疲れたとき、数々のワルツを優雅に指揮するアルミンクの姿を眺めたりしていたものだ。
 
 シュトラウスの巧みでニクイまでのオーケストレーション。
こうして舞台にあがったオーケストラを一望することで、普段ピットで見えないことが実によくわかった。弦楽器もソロあり、重奏ありで変幻自在な透明感をかもし出す。
何度観ても、何度聴いても、飽くこと無い「ばらの騎士」、そしてシュトラウスの音楽。
3幕の3重唱では、お約束の陶酔郷に誘われ、思わず涙が・・・・。

さて、5つめの「ばらの騎士」。
ひとつだけ、特殊な上演ではあったが、「これもあり」の「ばら騎士」。
あえて比較はいたしません。

次の「ばらの騎士」の舞台は、いつになるでしょうか?

「ばらの騎士」の過去記事

  新国立劇場        シュナイダー指揮
  チューリヒ歌劇場     ウェルザー・メスト指揮
  ドレスデン国立歌劇場  ルイージ指揮
  
神奈川県民ホール(琵琶湖) 沼尻竜典指揮
  ドホナーニ指揮のCD&4つの舞台のレビュー
  バーンスタイン指揮のCD
  ヴァルヴィーゾ指揮のCD(抜粋)
  プレヴィン指揮の組曲版CD

Dsc07552 開演前のホールの前の夕空。

そしてうれしいニュース。
カルロス・クライバーの「ばらの騎士」73年ミュンヘンの正規CDが出るとのこと。
リッダーブッシュのオックスが聴ける。  

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2008年9月23日 (火)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 東京シティフィル公演

Tristan_iimori_tcpo 東京シティフィル、オーケストラル・オペラ「トリスタンとイゾルデ」を楽しんできた。
指揮は日本が誇る大ワーグナー指揮者、飯守泰次さん。
今回は、会場をティアラ江東に移しての公演で、客席数1200、響きの豊かなこのホールは、これまでの文化会館や日生劇場よりは、ずっとワーグナーに適していたように思う。
第一、歌唱がオーケストラに消されることなくよく聞こえたし、オーケストラの音も芯があって、各楽器のブレンド具合がとても美しい。
このところ、ツェムリンシキーやスクリャービン、アルヴェーンなど、トリスタン後の音楽を聴いていたものだから、そうした作曲家たちが魅せられた本家トリスタンをオーケストラを俯瞰するような形式でじっくり聞きこむことができて、あらためてこの作品の偉大さに感服つかまつった次第。
日本人だけによる全曲上演は、もしかしたら初めてではなかろうか?
もし違っていたら教えてください。
私はかつて、95年、名古屋に単身赴任中に、時の音楽監督飯守さんの指揮で名古屋フィルのトリスタン演奏会形式抜粋を聴いたことがある。主役は岩本明志と渡辺美佐子。その時の記憶はうっすらとしかないが、まだまだ若々しかった飯守さんの指揮ぶりがやたら印象に残っている。
 あれから13年、髪もシルバーになり、ワーグナーにおけるカリスマ性を増して、恰幅のいい豊かで自在な音楽を作り出す巨匠となった飯守さん。
本日の主役は、飯守さん指揮する東京シティフィルだった。
ワーグナーの息の長い旋律と、刻々と移り変わる網の目のように張り巡らされた精妙なライトモティーフ。そんなオーケストレーションの妙を、このコンビは見事なまでに描きだしている。多少の傷はあったものの、そんなことはまったく気にならない。
1幕のイゾルデの長丁場を支える明晰な響き、2幕のブランゲーネの警告の夢幻なまでの美しさ、トリスタンが故郷を語る場面での寂寥感、3幕のトリスタンの渇望と熱狂。
こんな場面におけるオーケストラの素晴らしさ。
2年のブランクをおいて満を持しての「トリスタン」。かなり厳しい練習を積んだであろうし、なによりも飯守=シティフィルというくらいに、長い期間をかけたこのコンビが熟成の時を迎えているのかもしれない。リングの一部を除き、ローエングリン、パルシファルと聴いてきての実感。
フランスものを担当する矢崎さんの存在も大きいものと思う。
演奏終了後、拍手に応える楽員の中には泣いている方もいらっしゃった。
思わずこちらも涙腺が・・・・。
今年聴いた「ワルキューレ」もこのオケがピットに入ればよかったのに。

  トリスタン:成田勝美     イゾルデ:緑川まり
  マルケ王:小鉄和広     ブランゲーネ:福原寿美枝
  クルヴェナール:島村武男  メロート:青栁素晴
  羊飼い :近藤政伸

  飯守泰次郎 指揮 東京シティフィルハーモニー
              東京オペラシンガーズ
                     (9.23@ティアラ江東)

今ワーグナーを歌える日本を代表する歌手が勢ぞろい。
舞台栄えのする成田さん、出だしは体力をセーブしたのか慎重だったが、2幕の二重唱のリリカルな歌いまわし、対して3幕では声を全開してかなり思い切った歌となり、こちらも息を飲んだ。
緑川さん、少し前の出演をキャンセルしていて体調不良がまだ残っているのかもしれない。声の威力は相変わらず目を見張るものの、音程が決まらず、高音が苦しい、というか歌えていなかった。ちょっと気の毒。飯守さんのオケが巧みにバックアップしていた。
 あと、一番良かったのが、福原さんのブランゲーネ。「アリアドネ」の作曲家役で関東でも人気者になってしまった関西二期会の実力者だが、声に存在感が充分あって、その女主人よりも立派に聴こえてしまった。2幕の警告の場が、オケとともに極めて美しかった。
クルヴェナールの島村さん、前回の「パルシファル」のクリングゾルでの道化のような衣装の印象が私的にはまだ拭いきれないが、やや暗めの声によるクルヴェナールは実によかった。クルヴェナールが、トリスタンの傍らに倒れる時、毎度涙をそそられるものだが、演出の都合から、メロートと刺し違え、絶え絶えに倒れたとき、やはりグッときた。
 小鉄さんのマルケ、サルミネンばりの深々とした声に感心したが、ちょっと声が揺れぎみなのが気になったところ。
他の方々も贅沢な役どころで文句なし。水夫さん立派すぎだし。

舞台ぎりぎりにこぼれそうなオーケストラの背景に据えられた小舞台。
そこで、最低限の演技をするが、舞台奥の壁に刻々と変わる静止映像が映し出される。
当初は、ほぅ~と思ったが、何故に惑星の宇宙映像や、たくさんの覗き見お目々の映像は趣味わるすぎ。
でも2幕のグリーンの葉っぱはとてもきれい。
「愛の死」での胎児や宇宙、地球は、愛の死の浄化と救済を意味するのだろうか。
 映像はあってもなくてもよかったような・・・・、それよりも音楽が雄弁なものだから。

次のオーケストラル・オペラは、「オランダ人」「タンホイザー」「マイスタージンガー」のどれだろう。いずれも合唱がたくさん登場するだけに、ホールオペラ上演が難しそう。
いずれ、ティアラ江東で、「リング」連続上演をやってもらいたいものだ!
飯守さんのワーグナー、録音でもしっかり残していって欲しい。

「トリスタンとイゾルデ」過去記事

 大植バイロイト2005
 アバドとベルリン・フィル
 
バーンスタインとバイエルン放送響
 P・シュナイダー、バイロイト2006
 カラヤン、バイロイト1952
 
カラヤンとベルリン・フィル
 ラニクルズとBBC響
 バレンボイムとベルリン国立歌劇場公演
  レヴァインとメトロポリタン ライブビューイング
 パッパーノとコヴェントガーデン
 ビシュコフとパリ・オペラ座公演

おまけ画像=思い出の名古屋
Tristan_iimori_nagoya

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2008年9月21日 (日)

プッチーニ 「トスカ」 シュタイン指揮

Zakuro石榴の実。

めったに見かけなくなったが、先日都心で発見。
子供の頃、隣の家にその木があり、よく実をもらって食べたものだ。
だが不思議と、その味に記憶がない。決して美味しいものではない。

でも昔では考えられないほどに、その効能ぶりが