シューベルト 「美しき水車小屋の娘」 シュライヤー
春から初夏にかけての野辺は、少し荒れ気味だけれど、こうした野放図な自然さがあるから美しい。
グリーンでブルーな感じが好き。
シューベルト 歌曲集「美しき水車小屋の娘」
テノール:ペーター・シュライヤー
ハンマークラヴィア:シュテフェン・ツェール
(1980.2 @ウィーン)
31歳で亡くなったシューベルト(1797~1828)、同様に詩人のヴィルヘルム・ミュラー(1794~1827)も33歳になる数日前に世を去っている。
活動時期もかぶるこの二人、実際に相まみえたことはないようだが、ほぼ一体化したミューラーの連作詩とシューベルトの歌曲集には、主人公の粉ひき職人を目指す「ぼく」と相棒の「小川」に「水車小屋」、そして愛する「娘」といった主人公たちに加え、「田園」「水」「花」「緑」といったモティーフたちが、極めて叙事的に描かれているように思う。
ベートーヴェンの田園は牧歌的であり、自然と語る風情があるが、シューベルトの水車小屋はドラマであり、自然と人間が一体化してしまい、死すらともにしてしまう。
ゲーテのヴェルテルが、当時の若者に与えた影響は大きかったと言われるが、水車小屋の詩と音楽に感じる「死の影」というものは、いまの現代人の感性からしたら、とても推し量ることのできないものでもある。
元気に意気揚々と旅に出た若者が、恋をして、嫉妬をして、自暴自棄になり、やがて絶望して静かに死を選ぶ。
こんなストーリーのなかで、わたくしが好きな7曲目「いらだち」と、悲しいけれど18曲目「しおれた花」。
恋をして舞い上がった心持ちで、何度も「Dein ist mein Herz」わが心はきみのものと歌うところが好き。
こんどは、辞世の句を訥々と歌うかのように、しおれ、色褪せた花たちを歌う、この寂しさも好き。
ともにこの歌曲の二面の心情であり、シューベルトの音楽の神髄を感じさせると思います。
ペーター・シュライヤーは、これら2篇を選んで聴いただけでも、そのお馴染みの声でもってわれわれを惹き付けてやみません。
2年半前に亡くなってしまったシュライヤーには、水車小屋の録音は4種あります。(たぶん)
最初がオルベルツ(71年)、ついでギターのラゴスニック(73年)、ついでハンマークラヴィアのツェール(80年)、最後はアンドラーシュ・シフ(89年)
シューベルト当時の市井の仲間内で、さりげなく手持ちの楽器を伴奏にして歌ったかのようなギター版。
NHKテレビで放送もされたのでよく覚えてますが、シュライヤーはギターの横で座って、語りかけるようにして歌ってました。
次は、シューベルト当時のピアノ、いまでいえば古楽器ともいえるハンマークラヴィアと録音したのが本日のCD。
ピアノのような多彩な音色でなく、朴訥かつ地味な色合いで響きも少なめで、滑らかさはなくギクシャクして聴こえる。
でもどこか懐かしいレトロな感じは、かつて日本のどこでもあったような田んぼやあぜ道、おたまじゃくしがいるような小川をどこか思い起こしてしまった。
実際に子供時代は、そんな田園や野辺で遊んだものだ。
想像の広がりも甚だしいが、水車小屋のピアノをハンマークラヴィアで聴くというのも、そんなオツな感じだったのです。
70年代までのシュライヤーは、清潔で端正な歌いまわしで、劇的な要素というのは過度ではなかったが、70年代後半からオペラでもミーメやローゲを歌うようになって表現の幅が大きくなりました。
でも、ここで聴くシュライヤーの声は70年代の録音で聴き親しんだ優しく、誠実な歌に変わりはない。
ドイツ語を聴くという語感を味わう美しさもここにはある。
雨上がりの新緑と青空が窓の外に見えます。
こうして聴いた、この時期ならではの「美しさ水車小屋の娘」、目にも耳にも優しいものでした。
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