マリア・カラス 生誕100年
秦野の街と富士山。
西に雲がかかっていないと見れば、富士山を見に行くことが多いです。
これから気温ももっと下がってくれば、よりキリリとした富士の姿が見れるようになるでしょう。
レコード芸術1978年11月号の表紙。
レコ芸の装丁はそれこそ芸術的に美しかった。
不世出の大歌手、マリア・カラスが12月2日で、生誕100年を迎えます。
1923年にニューヨークで生まれ、1977年9月16日にパリに死す。
53歳という早すぎる死と、短命に終わったけれど、その濃密すぎる歌手生活、そしてひとりの女性としての生き様は、いまだに多くの伝説に飾られてます。
ギリシアからの移民を両親にアメリカで生まれ、アテネでデビュー、その後、ヨーロッパを中心に活躍。
メットとはビングと喧嘩して仲違いしてしまうが、ミラノ、ロンドン、パリといったヨーロッパの都会での活動と生活がカラスはもっとも好きだったんだろうと思う。
正規に残されたスタジオ録音もそれらの都市でのもの。
EMIへのオペラ録音は23作。
それ以外のソロが11枚(たぶん)。
ライブ録音や海賊盤を数えると数多くの記録が残されてますが、いずれもモノラルの時代からステレオ初期のものに限定されてます。
歌手生命の絶頂期がモノラル期ということで、このあたりがもしかするといまの若い聴き手には、すでに遠い存在と感じさせるかもしれません。
生誕100年の日、彼女のソロ録音を集大成したセットを中心に聴いてみました。
カラスの全盛期は、1950年代で、60年代前半40代にはいると、すでに声は下降線をたどってしまった。
1965年、ロンドンでのトスカを最後に舞台生活に終止符を打つ。
それから1973年まで、再起を目指して、有力なトレーナーのもと、発声の改善などに取り組んだ。
1973年には、長崎にやってきてマダム・バタフライ・コンクールの特別審査員や入賞者へのレッスンなどを行う。
1974年には、復活の世界ツアーで、ディ・ステファーノとデュオ・リサイタルの最後の訪問地として来日。
NHKホールでのコンサートはテレビとFMで放送され、高校生だったワタクシも大感激でした。
その一環の札幌でのコンサートが、カラスの最後の演奏会となりました。
54年録音のプッチーニ集は、セラフィンとフィルハーモニア管の演奏。
プッチーニはカラスの主要レパートリーとして舞台で歌うのはトスカだけだったらしいが、ここで聴くトゥーランドットが鳥肌ものの素晴らしさ。
その強靭な真っ直ぐの声の姫に対し、同じ歌手とは思えないほどに愛おしさを歌い込めたリューも素敵だ。
そんなカラスには、私は高校生の時に出会った。
現役を退いてしまっていた頃だけれど、「トスカ」の初レコードとして、プレートル盤を購入したのだった。
トスカの音楽そのものにのめり込んでいたし、ベルゴンツィが好きだったし、ゴッピのスカルピアという絶対的な存在も自分には決めてになる演奏だった。
もちろん、レコードで聴くカラスの歌は、女優が立ち、歌う舞台が思い浮かぶかのようなドラマチックかつ迫真にせまるもので、擦り切れるほどに聴いたものだから、カラスの声は完全に自分の脳内にそれこそ刷りこまれてしまった。
今にして思えば64年のこの録音では、もうカラスの声は衰えが正直感じられ、ずっとあとになって聴いた53年のデ・サバータ盤の絶頂期の声と、その比ではないが、自分にはプレートル盤は忘れがたいものであります。
トスカを最大のあたり役のひとつとしたカラス、その舞台ではまさに本物の宝石を装着し、ともかく役柄になりきることに徹し、全身から指の先までまさに、すべてが大女優としての所作であったとされます。
歌に生き恋に生きのアリアは、観衆に背を向け、聖母マリア像にだけ向かって歌ったと、ドナルド・キーンさんの読み物で知りました。
さらにスカルピアを刺す、果物ナイフへの一瞥も、徐々に殺意が帯びるようにその演技を高めていくその演技力も感嘆すべきものだったという。
ともかく、オペラを演出で楽しみ、劇場でも、DVDでも楽しむようになった現代、カラスのような大歌手ほど、それに相応しい存在だったといえます。
カラスの功績のひとつは、ベルカントオペラの興隆をもたらしたこと。
ベルリーニとドニゼッティ、ロッシーニではイタリアのトルコ人など、これまであまり取り上げられなかったオペラに息を吹き込んだのがカラス。
単なるコロラトゥーラを越えて技巧の先にある登場人物の心理に踏み込んだ深い解釈。
次元の異なるカラスのベルカントオペラは、その後にやってくるサザーランド、シルズ、カバリエなどの後輩の歌唱に引き継がれることになる。
最大のライバルと言われたテバルディは、ベルカントオペラはあまり持ち役にしておらず、レパートリーも実際のところかぶっていないので、劇場でもうまく住み分けができたいたんだろうと思います。
息のながい活動をした大らかで親しみあふれるテバルディに対し、妥協を許さないストイックな活動をして短命に終わったカラス。
どちらも大歌手と呼ぶに相応しいですね。
これまで何度か書いてますが、コロナ渦における大量のオペラストリーミング視聴により、いまさらながら目覚めたベルカントオペラ。
目覚めた耳で、実はまだ「ノルマ」は聴き直していない。
カラスの代表的なオペラだと思いますので、こちらはいつか取り組んで記事にしたいと考えます。
そして、ソロCDのなかのスカラ座でのカラスに収められた1955年録音の「夢遊病の女」の長大なアリア。
セラフィンとスカラ座の雰囲気あふれるオケを背景に、落胆から歓喜の爆発を目が覚めるような歌唱で聴かせてます。
こちらも全曲盤が欲しいところです。
あと、廉価盤になったときに購入した「ルチア」のレコードは60年のロンドンでの再録音。
こちらも学生時代によく聴いたレコードなれど、まだCDでは買い直していない。
狂乱の場をありふれたお決まりのシーンにすることなく、運命に翻弄された女性の儚げな存在としても多面的に歌い上げるカラス。
これもカラスの大ファンだったドナルド・キーンさんの話だけれど、スコットランドが舞台なので、カラスの黒髪ではルチアらしくないということで、赤毛の鬘を装着したという。
そして、その鬘は、マレーネ・デートレヒにもらったものだといいます。
ヴェルデイの全曲録音はひとつも持っていない体たらくですが、このソロアルバムのなかにある「マクベス」の3つのアリアのシーンが絶品。
58年、レッシーニョ指揮のフィルハーモニアの録音。
しわがれ声というヴェルディの指示とはまったく違う、ピキーンと張りつめた強靭かつ有無を言わせない声。
3つのシーンにおけるマクベス夫人のそれぞれのシテュエーションを見ごとに歌い分けていて、驚異的な思いで今回あらためて聴き直した。
メットで、この役を歌う予定もあったとかで、それが実現して録音でも残されていたら決定的な存在になったと思う。
カルメンも含め、カラスの全曲盤はあまり持っていない自分。
フレーニ、スコットの現役世代とともにオペラを聴いてきた自分には、カラスはひと昔まえの世代となります。
生誕100年の節目に、聴いたカラスの歌。
モノ音源の時代ほどにぶれなく、どの音域でも均一の音色と解像度の高さを感じ、60年代半ばになると、表現が粗くなる局面も感じられた。
しかし、カラスはどこまでもカラス、強い表現意欲をアリアの隅々にまで浸透させ、聴き手を納得させ、しまいにはねじ伏せてしまう強さがあった。
もっともっと、端的に言うと、「歌がめちゃくちゃうまい」のである。
このような歌手はいまはもういないし、いまのような歌劇場のシステムでは生れ得ないだろう。
作られたスター歌手は出るだろうけど、カラスのように、出自、努力、運、声、演技力、ともに克復して大成するような歌手はきっともう出ない。
1974年にNHKホールで歌ったカラス。
そのときのテレビでの印象を以前のブログで書いてます。
>前年にオープンしたNHKホールという巨大空間で、ピアノ伴奏による、ディ・ステファノとのジョイントコンサートが開かれた。
欧米を経てから、カラスの生涯最後のコンサートが、日本だったことは複雑な気持ちだが、その公演はNHKで放送され、テレビとFMに釘付けだった。
出来栄えがどうのこうのではなく、モニュメント的なコンサートだったが、映像で見たカラスは、その立居振る舞いに大歌手のオーラが出まくっていた。
そして、カラスより、ステファノが現役そこのけの立派な歌だったのも鮮明に覚えている。
この映像と音源は、私の貴重なコレクションとなっている・・・・・・。<
>その翌年、カラスは横浜の県民ホールで「トスカ」の舞台に立つ予定だったが、やはり無理だった。
かわりにカラスに指名されたのが、モンセラット・カバリエ。
皮肉にも、カバリエの巨漢と、見事なソットヴォーチェをわれわれ日本人に強く印象付けた上演だった。<
日本公演のあと、パリでの生活。
お気に入りのレストランでほどよい量の食事を楽しみ、コーヒーを飲みながらお気に入りの小節を読むのがお決まりだったとか。
そんな姿をパリの人びとは見ていたが、突然に訪れたその死。
映画やドキュメントもたくさんあり、あんまり好きでない女優アンジェリーナ・ジョリーのカラス役による最新映画もある。
いずれも私には興味がない。
セレブというレッテルをはり、その局面にスポットをあてるのだろう。
舞台のカラス、カラスの素晴らしい歌声、たくまぬ努力、そのあたりに正当にひかりを当てて欲しいがいかがなものだろうか。
あっぱれ富士山!
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