2008年9月11日 (木)

ツェムリンスキー 「抒情交響曲」 エッシェンバッハ指揮

Softbank 告白した女性に「タダトモでいましょう」と言われ悲嘆にくれる兄。
「人生には、いろいろある」と父。
「オヤジ がんも!!

最高に笑える名作CMではないか
白い犬「カイくん」の人気もすごいね。
北大寺欣也の声がまたよろしい。

わたしも、息子を叱る時は、「おまえには、まだ早い」とか言っちゃったりしてますぜ。

Zemlinsky_lyrische_sym_eschenbach_2 年端もいかないお子様が聴いてはいけない音楽のひとつが、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」だ。
子供たちには、「おまえにはまだ早い」「くるみ割り人形」でも聴いて寝ちまえ!と息巻いて、自分は後期ロマン派臭がプンプンのツェムリンスキーを一人楽しむ悪い大人なのだ。

今日の歌入り交響曲は、ツェムリンスキー(1871~1942)の「抒情交響曲」
1823年完成、翌年自身により初演。
マーラーやR・シュトラウスの後継者であり、シェーンベルクの義兄であり、その「新ウィーン楽派」作曲家たちやコルンゴルドらの師であったツェムリンスキー。
初期の頃はブラームス流でもあったが、無調→十二音に行き着くことなく、マーラーの先を推し進めた、新しくて、かつ後ろ向きの作曲家。
マーラーが完璧に受容された80年代後半頃からその再評価が始まった。
オペラの数々に、人魚姫に、3つの番号交響曲、室内楽曲、歌曲、詩篇など。
でもその代表は「抒情交響曲」であろうな。
バリトンとソプラノの独唱を配した7曲の連作歌曲のような交響曲。
そう、まさに「大地の歌」。作者自身も、その延長上にある作品と公言しているし、原詩をインドのノーベル賞作家「ラビンドラナート・タゴール」のベンガル語の叙情詩に求めていることから、世紀末的な東洋主義への傾倒ぶりにおいても、マーラーと同じ世界である。
 その英語訳が「The Gardener」という名前の詩集で、「園丁(庭師)」という軽々しさを持っているが、さらにそのドイツ語訳のテキストなので、なかなかにインドの雰囲気は見出すことが出来ない。
男女の出会いと、その愛の憧れの成就と別離による終末が歌われていて、その音楽は繰返しになるが、ギンギンの後期ロマン派風であり、甘味で濃厚、汲めども尽きぬロマンティシズムの泉である。

Ⅰ「私は不安だ、彼方のものに焦がれているのだ・・」
Ⅱ「お母さま、若い王子さまは、この戸口の前を・・・」
Ⅲ「おまえは、私の夢の空に広がる夕べの雲」
Ⅳ「お話下さい、いとしいお方!」
Ⅴ「おまえの甘ききびきから解き放しておくれ、恋人よ」
Ⅵ「最後の歌を歌って、別れましょう」
Ⅶ「安らかに、わが心よ。別れの時を甘味なるものにさせよう・・・」

わたしは、「人魚姫」と並んで、ともかくこの曲が好きで、レコード時代のマゼールBPO&F・ディースカウ夫妻の名演に始まり、ギーレン、シノーポリ、シャイー、クレーなどを愛聴している。
     
   Br:マティアス・ゲルネ   S:クリスティーネ・シェーファー

    クリストフ・エッシェンバッハ指揮 パリ管弦楽団
                           (2005.6)

このエッシェンバッハ盤はやたら滅法に素晴らしい。
もたれるくらいに念入りな指揮ぶりだが、だれることなく、気力がみなぎっていて、一音足りとも気の抜けた音がない。甘味さやロマンティシズムよりは、入念さがもたらす緊張感が全曲に貫かれているのがいい。終曲のエンディングの濃密な雰囲気などため息もの。
そして、ドイツのオケでなく、パリ管であるところがまたこの演奏のウリ。
パリ管は歴代非フランス系の指揮者だっただけに、インターナショナルな音を響かせることにかけては、国際級だが、それでも管の音色はさすがに、おフランス系のきらびやかさがある。管ばかりでなく、咆哮するブラスに泣きの弦や唸りを上げる低弦。それらに身を浸らせる喜びは堪らない喜びをもたらしてくれる。
 そして二人の歌手も、他の音盤が霞んでしまうくらいに理想的。
FDの弟子にして、FDを忘れさせてしまう知的かつ情熱的な歌声のゲルネはとんでもなく素晴らしい。
それと、シェーファー。こうした音楽を歌うために生まれてきたかのような同質ぶり。
ピエロリュネールやルルとともに、絵に描いたようにはまっている
第6曲など背筋が寒くなるようなスゴサなんだ。

いやはや、この1枚は私にとってかけがえのない1枚となりそうだ。

「人生には、いろいろある」、大人たちよ、ツェムリンスキーのこの曲を聴け!!

過去記事

 「シャイーの抒情交響曲」
 「シャイーの人魚姫」

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2006年6月16日 (金)

ワーグナー「ワルキューレ」 メトロポリタンオペラ

Met

無謀にもメトロポリタンのヴァルキーレを観劇した。相次ぐコンサートで懐は火の車なのに、ワーグナーとなるとどうしても止められない。完全なばかである。当初はレヴァインだし、チケットやたら高いから諦めていたが、レヴァインがコケて怪我をした。代理は誰かと思ったら何と、エッシェンバッハ。
この発表と同時に止められないバカが頭をもたげ買ってしまった。
劇的な意外性を表出するスキンヘッド・クリストフが好きなのである。最近まで、パリでリングを指揮していたから、手の内に入った作品であろう。

そしてよくよく見たらキャストがすごかった。ドミンゴにポラスキ、モリス、ヴォイト、パペと世界的にもめったに拝めない顔触れだったのだ。心配は全盛期をちょっと過ぎたのではという人も混ざっていること。この不安は半ば当たり、半ば外れた。

私がヴァルキューレを聴く時に、うるうるしてしまう個所を追いながら今日の上演を振り返ってみたい。
 
第1幕は、ジークムントの「父が約束してくれた武器」のモノローグから幕切れまでのロマンチックな二重唱。ドミンゴはさすがに場数を踏んだ落ち着きと高音の輝かしさを聴かせる。しかし中央域から低域がキツい。ウエルゼーの叫びも精彩上がらず、剣を抜くクライマックスもいまひとつ。
エッシェンバッハとの息も会ってないような。レヴァインだったらそれを感じさせずに修復してしまうだろう。ヴォイトのジークリンデは少し肥えてて動きが、どっこらしょ的だが、声はクリアーでよい。
 第2幕ではヴォータンの長大なモノローグ。ここは渋い個所だがヴォータン歌いの最大の聴かせどころ。モリスは予想以上に健在だった。美しい低音が底光りしていた。
続くポイントは、死の告知の場面。ポラスキは神々しい中にも、同情を込めた温かな歌いぶりで見事。ドミンゴもここは集中して熱い歌唱を聴かせる。動きも65歳とは思えない。
Img1  
2幕の最後も見所。剣折れたジークムントがヴォータンの腕の中に倒れ込むのが好きな演出だが、今晩はいかに。ヴォータンは離れた所にいて、ジークムントは一人倒れた。
あれっと思ったら、最後に倒れているジークムントを抱き起こし、虫の息のジークムントは父の腕の中で事切れる。ジーン。こりゃいい。モリスのフンディングに対する「行け!」はソットヴォーチェで刺すように歌われ見事。

さて第3幕の大団円に向かって期待が高まったが、この幕の最初のポイントはブリュンヒルデがジークリンデにお腹の子供を告げる場面。ここでは将来が暗示されるかのように、ジークフリートの動機や救済の動機がなる感動ものの場面。二人ともに信愛のともなった素敵な歌唱で素晴らしかった。エッシェンバッハは両腕を広げ、オーケストラに思い切り感動を歌い上げさせていた。
 
最後のポイントは父娘の二重娼から告別の最後まで。怒りに震えるヴォータンに娘が愛を見捨てられず裏切るに至った心情を訴える。ポラスキの素晴らしい歌は心を打つ。遂にヴォータンも娘の願いを入れて炎に包んで守ることを受け入れる。この最後の場面はワーグナーの書いたもっとも素晴らしい音楽であろう。
怒りから、娘を愛する父の心情へと変化する場面をモリスは味わい深く表現している。別れを前に、感極まった父娘が抱擁する場面も泣ける。

しかし、告別の場面で、モリスの声が聞こえなくなった。アレアレ?私の席が悪いのか?どうしちゃったのか。最後の「槍を恐れるものは、足を踏み入れるな」の決め所は何とか無事歌ったが。不明である。

さらに、どんな炎が上がるのかと思ったら、煙だらけになってしまい、ヴォータンの姿が見えない。失敗なのか?これも不明。
名残おしつつ、振り返りながら去るヴォータンの姿を見たかったのに、煙で見当たらない。こんなのアリ?
エッシェンバッハが最高の聞かせどころを熱くしてくれたのに、煙に気をとられて何とも後味がすっきりしない。

歌手を総括すると、一番よかったのは「ポラスキ」。オーケストラを突き抜けて響く声は圧倒的ながら、暖かみにも欠けず人間性に満ちた素晴らしい歌唱だ。この人の舞台はこれで3度目だが、聴くたび良くなってきている。
続いて、「ナエフ」のフリッカ、怖い妻だけでなく夫の気を引きとめようとする女性的な歌で、声も良く通って立派。「パペ」のフンディングも舞台を引き締めてくれる名バスだ。いつ聴いても美声である。他の主役級は前述のとおり。
ドミンゴの日本最後の舞台を聴けたのは、ひとつの喜びではある。

エッシェンバッハの指揮は、思ったより真っ当だった。シュタインやシュナイダーのような早めのテンポで凝縮されたドラマを描きだすのとは違い、時おり間を作ったり、思い切り歌ったりと、多彩な表現が新鮮に感じた。それが、今のところドラマに有機的に作用しているとはいえないかもしれないが、劇場空間での経験をさらに積むと独自のワーグナー指揮者となるかもしれない。

演出はオットー・シェンクのメトならではの伝統的なもの。このところ読替えを伴った語る演出に馴れていただけに、逆に新鮮だ。贅沢なもので、物足りなくも思ったが、観劇中いろいろ悩まずに音楽に素直に集中できるのは良い。

5時開演で終了したのは10時をまわっていた。最後はアレ?だったが、心地よい疲れを噛みしめながら、雨の渋谷の坂を下って帰途についた。
ヴァルキューレの舞台体験は演奏会形式も含めて、いずれも国内で今晩で7度目。
いずれ、まとめたいとは思うがいつ聴いても、いつ観ても最高の感動を味わえる。
バカはやめられない。

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2006年4月14日 (金)

ワーグナー 「パルシファル」第3幕 エッシェンバッハ

Echenbach この写真は貴重な髪の毛ありヴァージョンの指揮者エッシェンバッハ。
70年代に都響に来演したときのもの。
 今日は、多くの日本人には何のこともない金曜日だが、キリスト教社会においては、イエスが十字架に架けられた「聖金曜日」にあたり、欧米では復活祭週間(イースター)の長いお休みがある。

ワーグナーの最後の大作は、舞台神聖祭典劇と自ら名付けたように、聖金曜日に起きる奇跡の物語でもある。この「パルシファル」の物語を採用する前までは、仏陀の物語も検討していたらしい。もしそちらが作曲されていたら・・・。考えるだけで楽しい。
かなり性格のよろしくなかったワーグナーが、宗教的人間とはなかなか思えない。おそらく救済という思想における宗教のひとつとして「キリスト教」を取り上げたにすぎないのかもしれない。そういう意味では、今バイロイトで行われている不快な「シュルゲンジーフの演出」がアフリカの土着信仰に置換えてしまっていることも意味あることかもしれない。

エッシェンバッハは、かつて1年だけバイロイトに登場し、「パルシファル」を指揮した。1年で降りてしまった経緯は不明だが、その年はNHKでも「パルシファル」だけ何故か放送されず、頭にきた私はNHKに抗議したものだ。
 エッシェンバッハがワーグナーをレパートリーにして行くだろうことは予測していただけに、残念なことだった。その渇を癒してくれるのが、海賊盤ながらこの演奏会形式の3幕ライブなのである。
       アンフォルタス:アルベルト・ドーメン
       グルネマンツ  :ルネ・パーペ
       パルシファル  :ステュワート・スケルトン
       北ドイツ放送交響楽団/合唱団ほか  2004年4月録音

約80分をかけたゆったりとした演奏であるが、弛緩せず、マーラーでも演奏するかのように、一音一音入念に描いている。最近純粋ドイツ人でもスッキリ系ワーグナーを演奏する人が多いなか、これだけ特徴的なワーグナーを聴かせるのも珍しい。同じ系統のティーレマンはもっと重心が低くく、軸足は少し過去にあるが、このエッシェンバッハはもう少し軽く、劇場にしがらみのない自由な雰囲気がある。
こうしたワーグナーはあまりお目にかかれないだけに、大変おもしろく聴けた。
聖金曜日の音楽は、目のつんだ美しい陶酔的な演奏になっている。
 歌手は、すばらしい。まずは、ドーメンのアンフォルタスがいい。苦悩の滲むような切実なアンフォルタスとなった。パーペのグルネマンツは美声で惚れ惚れとしてしまう。欲をいえば、声が若すぎる。もう少し人生に疲れてほしいところか。
売り出し中のオーストラリア出身ヘルデンのスケルトンのパルシファルは、素材良くいい声の持主と見たが、やや音程が揺れて微妙。

日本でこの時期に「パルシファル」が上演されるようになればいいのに。
自慢じゃないが、最後に私の「パルシファル」体験を披露・・・。
①ウィーン国立歌劇場来日上演(ホルライザー、コロ) ②ベルリン国立歌劇場演奏会形式(バレンボイム、マイアー) ③読響上演(アルブレヒト、モル、グルントハーパー、エルミング) ④東京シティ・フィル上演(飯守) ⑤N響3幕(シュタイン)・・・・。

 

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2006年4月13日 (木)

ラヴェル 夜のガスパール エッシェンバッハ

Eschenbach_ravel 6月にやって来る「メトロポリタン・オペラ」。豪華歌手陣付きでチケットはバカ高い。おまけに最近食傷気味の太っちょレヴァインの指揮とあって、ワーグナーを演るのにまったく食指動かずの状態であった。チケットも売れ残り。そんなに日本の聴衆は甘くないっていうの!!
 何て言ってたら、レヴァインが転んで肩に怪我して来日不能に。
代わりの指揮者は、なんと「エッシェンバッハ」と「A・デイヴィス」という発表が本日あった。これを「災い転じて福」と言うのだろうか、ともかくコケテよかった。って言ったらレヴァイン・ファンに怒られるだろうか。
そうとわかったら、NHKホールの極悪環境ながら、朝からチケットを押さえにかかり見事にGET。しかし、高い、高すぎ。ドミンゴ一人のおかげで何なんだ!けしからん。同様の怒りは、ジンマン/チューリヒ・トーンハレのチケットにも言える。全部の公演にヨーヨーマが付いてくるためバカ高い。何でや?という気分で、純粋にトーンハレ・サウンドを味わいたい人にあまりに失礼な価格設定なのだ。バカヤローと言いたい。

それはともかく、指揮者エッシェンバッハが好きなのである。髪ありのピアニストであった頃の神経質で繊細な若者は、スキンヘッドの何かをやってくれる爆演オジサンに変貌してしまった。今の指揮者としての彼から遡って、ピアニスト・エッシェンバッハを振り返るとなるほどと思わせる。ピアノという鍵盤だけに限られた表現手段から、同じ両手でも100人の音楽家を自由に導ける立場になったのだから、有り余る表現意欲が滝のように溢れ出すわけである。
同じ立場のバレンボイムやアュケナージも根本は、同じかもしれないが、この二人は身の丈以上のことを無理してしようとしているように感じる。エッシェンバッハの場合は幼少の体験やドイツ人としての血などが複雑に入り混じって、計り知れない何かを感じる。どこまでが彼の本質なのかわからないのである。こうしたことは、いずれ出てくる数々の演奏でじっくりと聴かせていただくとして、パリ管とのラヴェルである。

メインが「夜のガスパール」の管弦楽版(M・コンスタン編曲)で、原曲の雰囲気をうまく引き出した作品。曲間に原曲がインスピレーションを得た「詩」が朗読されている。この朗読、美しいフランス語で意味はまったく解せないが、香りが漂うような語り口なのだ。繊細なオーケストレーションを慎重にエッシェンバッハは扱っているのがわかる。最後に「ツィモン・バルト」のピアノで原曲の一部「オンディーヌ」が収められている。
 他の収録曲も渋い。「クープランの墓」「古風なメヌエット」「亡き王女・・」「道化師・・」である。いずれもやや腰が重いが、そこはパリ管、キラキラした管楽器に瀟洒な金管、滑らかな弦楽器でエッシェンバッハのくまどりの濃い指揮ぶりに答えていて、微妙な化学反応を起こしているように感じる。このコンビで行われた「リング」はどうだったのだろう?
 フィラデルフィアでのラヴェルも聴いてみたいもの。

 

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