カテゴリー「ディーリアス」の記事

2018年12月 9日 (日)

ディーリアス 「高い丘の歌」 A・デイヴィス指揮

Shima_a

少し前、毎年11月は、伯父の命日の月で、一緒に眠る従姉の墓参と伯母へのお見舞いに群馬まで出かけます。

そして足を延ばして、四万温泉へ。

四万湖のあたりは、紅葉が終盤で、赤や黄色の絨毯をサクサクと踏み歩き散策しました。

母と姉とで、むかしのことをたくさんお話ししました。

嫌なこと、厳しいことはたくさんあれど、昔語りは幸せなことしか思い出しません。

Delius_appalachia_somg_of_high_hill

  ディーリアス  「高い丘の歌」

    S:オリヴィア・ロビンソン

    T:クリストファー・ボーウェン

  サー・アンドルー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団
                       BBC交響合唱団

          (2010.10.15 オール・セインツ教会)


愛するディーリアス(1862~1934)の作品のなかで、もっとも好きな音楽がこの「高い丘の歌」。

「高い丘の歌」は、1911~12年にパリ近郊のグレ・シュル・ロワンで書かれた30分あまりの音詩。
ディーリアスの音楽って、まさに、「音による詩」と呼ぶに相応しい。
そして、その受け止め方は、聴く人の人生や暮らし、考え方、まわりの自然や見てきた風景、それらによってさまざま。

そう、特定の感情や事象に直接に紐つかないから、いつも新鮮だし、距離感もそこそこあって、自分の感情に飛び込みすぎない優しさがある。

わたくしは、そんな風にして、ディーリアスの音楽をずっと聴いてきました。

グリーグと知り合い、そして、ノルウェーの自然や風物を愛し、その海や厳しい大自然を思わせる音楽をいくつも書いたが、この曲もその一環。
でも、ノルウェーの大自然に接したことがない自分には、写真や映像で見るその自然を想像しつつも、自分の育ったお家から見えた風景や、街の自然を重ね合わせて聴くことできるのだ。
それが、自分にとっての「ディーリアスの世界」なのです。

「わたしは高い丘陵地帯にいるときの喜びと陶酔感を現そうとし、高地と広漠たる空間を前にしたときの孤独感とメランコリーを描こうとしたのだ。
ヴォーカルパートは自然における人間を象徴したのである」

                                                                 (ディーリアス:三浦敦史先生訳)

作者のこの曲に対する言葉。
この作品の魅力を一番物語っている。

丘陵、山や山岳とも違う、丘。
丘的なものも、日本の地味豊かな山々とも違って、殺伐として膨らみがただあるだけのものを想像したりもする。
唯一の英国訪問の際、ロンドンから車で発し、北上してバーミンガム方面へ、さらに南下してドーバー方面へと走りまくったことがありますが、郊外へ出て田園地帯を通過すると、丘のようなぽっこりした緑の小山が、そこここに見られたのでした。
そんな風景も、自分のなかでは英国音楽、とりわけ、ディーリアスやV・ウィリアムズを聴くときに思い浮かんだりするものなのです。

同じように、山を歩んだ音楽として、シュトラウスのアルプス交響曲がありますが、あちらは、もうリアルそのもので、音楽が登山という体験を、まんま表現しつくしている。
 ディーリアスのこちらは、写実的な要素がまったくないから、自分のなかのイメージで、思いのままに聴くことが出来る。
なんでも音や音楽にしてやろうという強引さは、これっぽっちもないので、ともかく優しく、寄り添ってくれるんだ。

何度も書くようで恐縮ですが、自分の育った家の前には、小さな山があって、その山の向こうには、富士山の頭だけがちょこんと見えてました。
夕暮れ時には、西側のその山の空が赤く染まって、ときに壮絶な夕焼けが見られることもありました。
そして、夕焼けのオレンジはやがて濃くなり、藍色にそまって暗くなっていくのです。
そんな風景を見ながら、私はディーリアスの音楽を聴いてました。
いまは離れて暮らしているけれど、ディーリアスの音楽は、また、そうした景色を呼び起こすことで、自分にとっての故郷へのノスタルジーをかり立ててくれるのです。
 この作品の最後、日が暮れ沈んでしまうくらいに、音楽がどんどんフェイドアウトしてしまう終わり方。
後ろ髪ひかれ、そして哀しく、自然の摂理の寂しさすらを感じさせます。

  ---------------

1887年のノルウェー訪問以来、生涯で17回も同国を訪れていたディーリアス。
視力を失い、体が麻痺してしまった晩年でも、車いすでかの地の丘や日没の感じられる場所へ連れていってもらっていました。

作曲の8年後、1920年、アルバート・コーツの指揮で初演。
ドイツでドイツ人指揮者によって初演が企画されるも、大戦で流れた結果のロンドン初演。
ディーリアスは、そのあと、P・グレインジャーに、これは自分の最高の作品のひとつ
と語ったという。

コンサートでは、あまり取り上げらることがないのは、30分あまりのこの曲が、一夜の演目のなかのどこで演奏できるか、その答えがないからだと思ったりもする。
そして、多くの聴衆と一緒に聴くより、ひとり静かに聴くべき音楽だからであろう。

ビーチャム盤はまだ未聴ながら、4つめの「高い丘の歌」。
シャンドスへ、ヒコックスのあとを継いでディーリアスもシリーズ化している、サー・アンドルーの演奏。
デリケートなまでの繊細さで、この曲に対して、実に素晴らしい演奏を録音してくれたことに感謝です。
この美しい演奏をしっかりととらえた雰囲気豊かな素晴らしい録音にも感謝です。

Song_of_summer

今年は、この本の刊行もうれしい出来事でした。
まだ読んでる途上ですが、断片的に接することができていたフェンビーの著述が、こうして翻訳されて体系化されたことに、こちらも感謝です。
聴きなれたディーリアスの音楽に、さらに奥行きが深まりました。

過去記事

「フェンビー&ロイヤルフィル」

「グローヴス&ロイヤル・リヴァプールフィル」

「ロジェストヴェンスキー&BBC響」



Shima_b

1か月前の晩秋。

街はいま、クリスマス。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年8月19日 (日)

ディーリアス レクイエム M・デイヴィス指揮

Cosmos

夏も終盤。

お盆には、いつものように故郷へ帰り、いつもの吾妻山に朝早く登ってきました。

異常な暑さにみまわれたせいか、今年は、早くもコスモスの見頃は終わってました。

季節のサイクルが壊れている。

焦燥にもにた思いを本来、癒しを求めるはずの自然に接して覚えてしまう。

人間にできることはなんだろう・・・

P9216805

     ディーリアス   レクイエム

        S:ヘザー・ハーパー
        Br:ジョン・シャーリー=クヮーク

   メレディス・デイヴィス指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                     ロイヤル・コラール・ソサエティ

                 (1968.2 キングスウェイホール)


「大戦で散ったすべての若い芸術家の霊に捧げて」
ディーリアス(1862~1934)にもレクイエムはあります。
しかし、無神論者であったディーリアスの残したものだから、キリスト者からは、「異端のレクイエム」と呼ばれたりして、かのビーチャムでさえも、この作品を演奏しようとは思わなかったといいます。

「人生のミサ」では、ニーチェをテクストとしたように、このレクイエムは、旧約聖書の伝道の書や、シェイクスピア、そしてニーチェの書からも採られた、とてもユニークな作品となっている。
アンチ・クリスチャンだったディーリアス。
ディーリアスは、いわゆる宗教上の神という概念を超え、自然を愛しぬいたがゆえの汎神論的な想いをもっていたものと思う。

ディーリアスの音楽には、自然の美しさ、自然と人間、動物たちとの共生、人生における別れの哀しみや存在の虚しさ、過ぎた日々や去ったものへの望郷、などをそのたゆたうような流れの中に常に感じる。
こうして、半世紀あまりもディーリアスの音楽を聴いてきたが、一時たりと、その音楽の本質を掴んだこともないようにも思う。
それがディーリアスの音楽なのかもしれない。
いつの間にか、寄り添うようにして存在してくれている。

    ----------------------

5つの章からなるレクイエム。
さらに大きく分けると、第1部と第2部のふたつ。
第1部前半は、バリトンが虚しさを説き、合唱は静かな荘重たる葬送的な場面で応えるが、後半は、エキゾティックな激しいやりとりとなる。
女声は、ハレルヤ、男声は、アッラーを唱える。
来世は否定され、いまある現世を享受せよ。

うってかわって、第2部は、哀しみをともなった抒情的な田園ラプソディー。
この作品の白眉的な場面で、静謐な美しさと輝きあふれた音楽。
バリトンが、最愛の人をたたえ、ソプラノもそれに応え彼の名誉を称える。
やがて、雪の残る山や木、冬の眠りから目覚める自然を歌い継いでゆき、やがて来る春の芽吹きを眩しく表出。
ふたたび、自然は巡り、やってくる春を寿いで、曲は静かに終わる。

死者を悼むレクイエムからしたら、まさに異質。
でも、巡り来る自然に、人生の機微を見たディーリアスの優しい目線、そして、第一次大戦で亡くなった若き芸術家たちへ捧げたディーリアスの想いを、ここに感じることで、慰めと癒しの音楽となるのです。

 Everything on earth will return again, ever return again

  Springtime. Summer, Autumn and Winter, and them comes

  Springtime, Springtime!


   ----------------------

以前にヒコックスの追悼で取り上げた、ヒコックス盤は、「人生のミサ」とのカップリングで、なおかつ録音も素晴らしいが、本日のメレディス・デイヴィス盤は、今でこそ、録音が古めかしく感じるものの、懐かしさ誘う、その全体の響きは、ハーパーとクヮークのジェントルな歌唱とともに、レコードで長らく親しんだものだけに、耳への刷り込みとなっている。
カップリングのこれまた泣けるほどに哀しい「田園詩曲」もともに美しい演奏。

Cosmos1

ノスタルジー誘う、我が育ちの街の景色。

相模湾に箱根の山。

Cosmos2

夏は富士山も隠れてしまいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 9日 (土)

ディーリアス 「ブリッグの定期市」イギリス狂詩曲 私のディーリアスの原点へ

Azumayama_1

毎度で恐縮、かつ、おなじみの吾妻山からのお盆の頃の眺望。

夏の終わりに、今年の夏を回顧すれば、前半は猛暑。
本来の、日本のふるさとの夏を謳歌したかったお盆の夏は、まったくの不発で、曇り空と小雨の日々。

海と空の境界も、曇り空で曖昧。

その後も、猛暑が数日襲いましたが、9月に入っても、関東は涼しく、おとなしい残暑となっております。

Del9_1

  ディーリアス  「ブリッグの定期市」~イギリス狂詩曲

   サー・トーマス・ビーチャム指揮 ロイヤル・フィルハーモニック

                    (1956.10.31)


わがノスタルジーを再び語ります。。。

ディーリアス好きの、原書ともよぶべき、ビーチャムのステレオ初期の1枚。

これは、ディーリアンたちの踏み絵とも呼ぶべき1枚で、もしかして、バルビローリから入った人でも、このビーチャムのディーリアスは、必ず聴いていることと思う。
ネットで見つけたこの素敵なジャケットをお借りしました。

弊ブログを始めた、ごく初期の2005年12月に、「望郷のディーリアス」として記事にしております。
もうあれから、12年も経っていることも驚きだけれども、その記事の内容にも、進歩も進化もなく、でも読めば、その想いは変わらいことに、なんだかうれしくも、確信とともに自身の音楽への歩みと嗜好にブレがないこと、なかったことが確認できて、妙に爽快な想いになったりしてます。

 少し、その昔の記事をなぞるようではありますが、わたくしのディーリアスとの出会いを、改めましてここに残して置こうと。

それは、わたくしが中学1年生のときであったでしょうか。
1971年、すでに、クラシックに目覚め、カラヤンのマジックにかかり、数少ないレコードは、カラヤンやアルゲリッチ&アバドの協奏曲などで、FMからの放送をむさぼるように聴き、いろんな音楽や演奏を吸収していった時代。

レコード欲しい、欲しい、を連発してた子供の夢を叶えようとしていた父母に、今思えば、どれだけ感謝をすればいいのでしょうか・・・・。
ホテル関係の仕事をしていた父が、あるとき、30枚ぐらいのレコードを抱えて帰ってきた。

狂気乱舞のわたくしでしたが、その1枚1枚を検分すると、海外のレコードばかりで、しかも、ジャズやポップスが主体で、クラシックは、ほんの数枚。
でも、なんでも吸収したい貪欲な中坊のワタクシは、なんでもかんでも聴きました。
 その音盤は、赤いものや、青いものもあり、テスト盤の無印みたいなものも。
きっと、ホテルの館内用のものや、もしかしたら、米軍放送局の払い下げみたいなものなども含まれていたのでしょうか。

クラシック系では、フルトヴェングラー、クリスティアン・フェラス、ミルシュティン、ストコフスキー&フランス放送管、カーメン・ドラゴン、などに混じって、白紙のジャケット&白紙のレーベルに、「ビーチャム、デリアスを振る」と書いてあった1枚が。

これが、わたくしと、ディーリアスとの出会い。

いまから、46年前のこと。

ともかくわからない。

ビーチャムってだれ?

デリアスって誰って・・・・

それでも、貴重なレコードですから、日々、何度も聴きました。
そうするうちに、当時、ベートーヴェンやドヴォルザーク、チャイコフスキーの名曲ばかりだった自分の耳に、旋律はあるものの、全体がぼやっとして、はっきりしないその音楽たちが、自らその音楽を語りだすように感じた日がいつしかやってきました。

 そう、多感な中学生ですから、学校のこと、クラスメートのこと、女の子のこと、そして、妙に厭世的になったり、人生とはなんぞや的な、ひよっこ的な想いに浸ったりしていたわけであります。
 そんなときに、なんとはなしに、「ビーチャム、デリアスを振る」のレコードをかけていました。
そして、自室から見ると、目の前は小高い山があり、富士山のてっぺんが晴れた日には、そのうえに見えたりしてました。
そこから見る、壮麗な夕暮れは、自分のなかでの原風景でもあり、そして、さまざまな想いとともに、このディーリアスの音楽がしっかりと結びつくようになり、完全に受け入れることとなったのです。

レコ芸の付録のレコードデータ集のような冊子から、ビーチャムとデリアス(=ディーりアス)をひも解き、その作曲家や曲名がわかったのは、それからほどない中3ぐらいのとき。

以来、私のディーリアス探訪が始まりました。

その完成形は、社会人になってから、EMIから発売された、「ディーリアス・アンソロジー」で、ターナーの絵画をあしらった数十枚のレコードの、ほぼすべてを入手し、そこにあった、私にとって、英国音楽の師とも呼ぶべき、三浦淳史さんの名解説とともに、ディーリアスをむさぼるように聴いたものでした。
1981年ごろのことにございます。

CD時代になってから、EMIからの諸作の復刻、シャンドス、ハイペリオン、ユニコーンなどの英国系レーベルがふんだん
ディーリアスの音楽を、まさに、幅広く聞くことができるようになりました。

 ディーリアス  「ブリッグの定期市」~イギリス狂詩曲

オーストラリア生まれのグレインジャーは、英国邦各地の民謡を採取し、すてきな音楽に編纂したが、そのなかのひとつ、リンカンシャー州で得たものが、「ブリッグの定期市」。
1905年のこと。
テノール独唱とアカペラの合唱のハミングによる美しすぎる佳作。

Ccf20170909_00000

   8月5日のことだった。
   すがすがしく晴れたその日
   ブリッグの定期市に僕はでかけた
   愛しい人にあうために

   朝、雲雀の声と共に
   心はずませ僕は目覚めた
   愛しい人に会えるのだ
   ずっと会いたかったあのひとに・・・・


              (宮沢淳一 訳)

 こんな風に、愛する人に会える喜びを歌いつつも、後半では、そんな想いや、人間そのものも、不滅ではないという、もの悲しい展開になる。

グレインジャーと親交を得て、その許諾のもと、これを原曲にして、書かれたのが、ディーリアスのイギリス狂詩曲。
そのスコアには、先の詩の冒頭の二節が書かれている。

朝靄を感じるような曖昧だけれど、夏の一日の始まりを思わせる清々しい冒頭部。
ここを聴いただけで、わたくしは、遠くに置いてきた自分の若き日々や、故郷の山や海、そして、懐かしい白レーベル・白ジャケットのレコードまで、一瞬にして脳裏に浮かんでくる。
 わたくしにとって、ノスタルジーのかたまりのような、イギリス狂詩曲。

そして出てくる「ブリッグの定期市」の主題。
1度しか行ったことがないイギリスの田舎道を、車で自ら走ったことがある。
どこまでも続く緑と、丸っこい丘、そして可愛い家の集まる集落に水辺。
そんな光景を見た。
それがそのまま音楽になったような気がする。

ビーチャムの凛々しいディーリアスの演奏には、この作曲家を愛しぬいた優しさと使命感のような厳しさもある。
固めのロイヤルフィルの響きと録音も、妙に自分の刷り込みにもなっている。

ディーリアスの音楽との出会いを作ってくれたあのレコード。
あのレコードを運んできたくれた父も、とうの昔に世を去ってしまった。
文字や画像、匂いや味などで、むかしを偲ぶことはできるけれど、音楽は、その時の自分はおろか、感情にまでも遡って体感させてくれるように思います。

Azuma

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017年1月29日 (日)

ディーリアス 北国のスケッチ グローヴス指揮

Shizukuishi

既出写真ですが、岩手県の雫石あたりの風景。

いかにも、北国の雰囲気がたっぷり。

春近い頃でしたが、いまの冬真っ盛りのこの地は、こんな場所に足を踏み入れることさえできないでしょうね。

季節に応じて、いろんな音楽がありますし、ことに四季のめりはりが鮮やかな日本には、美しい言葉の芸術もたくさん。

同じ島国の英国も、夏はやや短いながらも、その四季はくっきりしてる。

そんな機微を英国の作曲家たちは、詩的なタッチでもってたくさんの作品を残してきました。

そんななかのひとり、大好きなディーリアスを。

P9216799

 ディーリアス  「北国のスケッチ」

   サー・チャールズ・グローヴス指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

                         (1974.12.22@ロンドン)


この素敵な曲を、弊ブログにて取り上げるのは2回目。
前回は、ハンドレー指揮のアルスター管によるシャンドス録音。
「フロリダ」組曲とのカップリングで、北国と南国の鮮やかな対比による、ナイスな1枚でした。

そして、今回は、レコード時代から親しんできた、グローヴスの演奏で。

社会人となって、ひとり暮らしを始めたころに、シリーズ化された、音の詩人ディーリアス1800。
そのすべてを、石丸電気で購入して、ディーリアス漬けの日々。

寂しい侘び住まいが、なおさらに切なく、それから故郷の山や海が懐かしく、人々が愛おしくなる想いで満たされた。

そんな望郷とノスタルジーが、わたくしのディーリアス愛。

4つの部分からなる、北国の四季を模した組曲。

  Ⅰ 「秋」・・・秋風が木立に鳴る

  Ⅱ 「冬景色」

  Ⅲ 「舞曲」

  Ⅳ 春の訪れ「森と牧場と静かな荒野」

どうでしょうか、このいかにもイギリスの北の方の景色を思わせる素敵なタイトル。
日本なら、さながら、北海道か、信州あたり。

三浦淳史さんの解説によるE・フェンビーの言葉によれば、若き日は放蕩の限りを尽くしたディーリアスも、歳を経ると、寡黙となり、「人間は空しい、自然だけがめぐってくる!」という思考を持って過ごしていたという。

まさに、この言葉を思わせる、めぐりゆく四季、自然を、そのまま感覚的にあらわしたような音楽なのです。
ここでは、おおむね、静かなタッチの音楽が続き、唯一、舞曲では、フォルテが響く。
春がやってくる前の喜びの爆発。
しかし、それまでの、秋と冬の心に沈みこむような静けさと、幻想的な沈鬱ぶりは、いかにもディーリアスらしいし、夜のしじまに映える、あまりにも美しい音楽だ。

で、それを打ち消す明るい舞曲。
そして最後は、めぐり来た春。
ソフト・フォーカスで、若干の曖昧さも保ちながら、ふんわりとした音楽となっている。
これもまた、ファンタジーである。

ビーチャムの育てたディーリアス・オケ、ロイヤルフィルを指揮したグローヴスの演奏は、わたしにとっては、懐かしくも、完全なるものです。
デジタル時代の、ハンドリーと、少し鄙びたアルスター管もいいが、こちらは、アナログのぬくもりを感じさせてくれる。

Uang_s37140__70591__091520100224352

こちらは、初出時のオリジナル・ジャケット。

ターナーの絵画をあしらったシリーズもいいけど、この写真もいい。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2016年2月27日 (土)

ディーリアス 「シナーラ」 グローヴズ指揮

Naka_1

夜の紅白しだれ梅。

お月さんも、アングルにはおさめられなかったのですが、朧に輝いておりましたよ。

梅の甘い香りが、少しづつ緩みつつある夜の気配に色気を華ってましたね。

Delius_naka

 ディーリアス  「シナーラ」 ダウソンの詩による

         バリトン:ジョン・シャーリー=クヮーク

  サー・チャールズ・グローヴズ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー

                        (1969 @リヴァプール)


ディーリアス(1862~1934)が、薄幸の同世代の世紀末英国詩人、アーネスト・ダウソン(1876~1900)の同名の作品に作曲した「シナーラ」。

1907年に筆をとるも、長く捨て置き、ビーチャムの新作の依頼により、そして、その晩年に献身的に尽したフェンビーの強力を得て、1929年に完成させた。

バリトン独唱が、主人公となって、忘れえぬ女性「シナーラ」を歌う。

ポーランド系の娘、シナーラは、レストランの娘。
ダウソンは惚れこんで、2年間通い、口説いたが、結局、彼女は店のウェイターと一緒になってしまった。
自暴自棄となった彼は、夜の街に沈み、酒と女の日々。
そして、そんな歓楽のなかにも、ふっと思い浮かぶのはシナーラの姿・・・・。

曲は、やるせないまでに切なく、そして官能的でもありつつ、感覚的。
ときに響きはぼやけて虚ろだし、そして、反面明晰。
いろんな要素が10分たらずの曲に込められてる。
それは、忘れられないシナーラを、つねにどこかで求めている主人公の感覚かも。

 「さらに狂える楽を 強き酒を呼ばった
   だが宴が終わりを告げ 燈火消え去れば
  その時こそさしおりるは おまえの影よ

   シナーラ! 夜はおまえのもの
  そしてこの身は想いに沈み 昔の情熱に苛められる
  そうよ 恋しきおまえの唇を求めもとめて
  おまえを思いとおしてきたのだ シナーラよ
  我なりに  」

                南條竹則 訳

三浦淳史さんの解説を参考にいたしました。

ディーリアスの音楽に帰ってくると、ほんとうに、心の底から安寧感に満たされる・・・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年8月31日 (月)

ディーリアス 去りゆくつばめ デル・マー指揮

Azumayama_1

8月も終わり。

お盆を境に、夏の力は急速に弱まって、熱帯夜もなくなりました。

あんなに、暑い暑いと連呼していたのに、ずっと曇り空や、そこから落ちてくる、弱い雨の日々ばかりで、この月は終了。

残暑のない夏なんて・・・・。

セミたちや、夏の虫たちも可哀そう。

今日は、秋を先取りした小さな音楽を。

Delius_delmar

  ディーリアス  去りゆくつばめ

              ~Late Swallows~


     ノーマン・デル・マー指揮 ボーンマス・シンフォニエッタ

                      (1975 ボーンマス)


ディーリアス(1862~1934)ほど、季節の移り変わりの機微を、その自然の描写にのせて、静かに優しく我々に語りかけてくれる作曲家はいません。

そして、四季が明確にある日本の風景や事象、そして、われわれの心情にぴたりとくるんです。

「去りゆくつばめ」とは、また、なんて素敵で、そして、儚いタイトルなんでしょう。
邦訳がともかく美しい。

フランスのパリ近郊の小村、グレ=シュール=ロワンを永久の住みかとしていたディーリアスとイェルカ夫人。
しかし、第一次大戦の影響で、イギリスに一時的に帰らざるをえなくなった頃に書かれていた、弦楽四重奏曲の緩徐楽章が、この「去りゆくつばめ」です。

その四重奏曲は、1916~7年の作品ですが、1962年に、ディーリアスの晩年、献身的にその補佐をつとめたエリック・フェンビーによって、弦楽オーケストラ用に編曲され、単独の小品として残ることになりました。

弦楽四重奏の原曲の楽章に、ディーリアスは、Late Sawllowsと、確かに命名してます。

10分たらずの静かな音楽。
旋律的な要素は少なく、各セクションが上下するモティーフを儚げに繰り返すのみ。
夏に行って欲しくない、もう少し季節がとどまって、あの煌めきを味わっていたい・・・・、
そんな心情が見事に反映されたかのような、後ろ髪引かれる、ちょっと寂しい音楽。
 夏は去り、秋が静かに訪れる風情を感じます。

ディーリアスは、グレの邸宅を去るときに、つばめたちと別れるのが辛いと、夫人にもらしたそうであります。。

隠れたる名指揮者、ノーマン・デル・マーのディーリアス小品集は、瀟洒で、全体が静かなつぶやきや囁きに満ちた桂曲・桂演揃いです。

過去記事

 「去りゆくつばめ  バルビローリ指揮」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年8月25日 (火)

ディーリアス 「むかしむかし」 グローヴズ指揮

Benten_1

このお盆休み、いつものように、神奈川の実家に帰り、親戚巡りをして、その途中、懐かしい場所に寄りました。

いつもは気ぜわしくて寄れなかった場所。

江戸時代からある弁天様。

子供のころ、近くに住む従兄と、休みになると行きました。

ちょっと田舎なここ、かつてはかなり保守的な場所で、よそ者を警戒する風情があって、この美しい場所に行くと、地場の子供たち、出て行けと言わんばかりに、よく追いかけられたものでした。
子供心に、従兄に迷惑がかかっちゃならぬと思い、自粛したものでした。
 でも、ここの美しさは犯しがたく、神聖な雰囲気も漂い、ずっと心のどこかに引っかかり続けた憧れと懐かしさの相まった場所となったのです。。。。

お互いに歳を経た従兄に聴くと、町がきれいに整備しているけれど、最近は、清らかだった水の流れも、淀んできて、アオコが発生したりもしてるとか・・・・
なんとかしたいものです。

Delius

  ディーリアス  「エヴェンテュール~むかしむかし・・・」

    サー・チャールズ・グローヴズ指揮

            ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団

                (1974.12 @リヴァプール)


この懐かしい場所に訪れたのは、小学生低学年以来だから、もうほぼ50年・・・。

夏の日の、こんな懐かしの場所こそ、ディーリアスの音楽が相応しい。

そして、ちょっと怪しい系の怖い思い出も加味したらば、これ、「エヴェンテュール」であります。

曲の途中で、作曲者指定による20名の男声による、「ヘイ!」とか「ワッ!」(?)というシャウトが2度あって、初めて聴いたときには、マジでびっくりしたぞ。

地下に棲む怪物、それは、夜になると出てくるけれど、なかには、気のいい小物もいるんだ・・・、ディーリアスが語ってます。

そう、この15分あまりの作品は、ディーリアスが愛した北欧ノールウェー、そのアースビョルンセンの採集した民話に基づくオーケストラ作品なのです。
 1917年、55歳のときのもの。

伝説を思わせる神秘的な様相を思わせつつも、いつものディーリアスらしい、抒情と懐かしのムードもそこここに、感じさせます。
しかし、この曲は、そればかりに終始せずに、思いのほかに、ワイルドな進行もあって、そんな中で、あの「雄たけび」もシャウトされます。
 木琴の激しい音がつんざくクライマックスが、ディーリアスの音楽の持つ異教徒的な雰囲気に拍車をかけます・・・・。
 でも、最後は、静かに、優しく、郷愁を誘いつつ消えるようにして曲を閉じるんです。

子供の頃の思い出をなぞりつつ、懐かしい場所を再訪できた喜びとともに、ディーリアスのミステリアスな「むかしむかし・・・」を聴きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月27日 (土)

ディーリアス 「高い丘の歌」 ロジェストヴェンスキー指揮

Ebisu_1

中目黒の青い洞窟。

このクリスマス、大変な話題になりました。

もともと、目黒川沿いの散策路のような道で、住宅やお店も密集、さらに車の往来も。

そんなところに、一挙に見物客が集まったものだから、大混雑。

週末や休日は、お休みとなる仕儀に。

Ebisu_5

平日でも、相当な混雑。
わたくしも、その混雑に寄与した一員ですが、運動のため、散歩もかねて、ここから目黒まで歩きましたよ。

それに、しても、クールなブルーは、川面にも映えて美しい。

Derius_song_of_the_high_hills

   ディーリアス  「高い丘の歌」

    ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮 BBC交響楽団

                    (1980.12.10@RAH ロンドン)


気がつけば、あと数日で12月も、2014年もおしまい。

さぁ、大好きな曲たちで締めましょう。

まず、ディーリアス。

もう、3度目の記事となります「高い丘の歌」。

過去記事コピペします。

>「高い丘の歌」は、1911~12年にグレで書かれた30分あまりの音詩。
ライプチヒでグリーグに知り合い、大いに感化されたディーリアスは、ノルウェーの自然や風物を愛し、その海や厳しい大自然を思わせる音楽をいくつも書いたが、この曲もその一環。
大オーケストラと無歌詞による合唱による。

「わたしは高い丘陵地帯にいるときの喜びと陶酔感を現そうとし、高地と広漠たる空間を前にしたときの孤独感とメランコリーを描こうとしたのだ。ヴォーカルパートは自然における人間を象徴したのである」(ディーリアス:三浦敦史先生訳)

この作者の言葉がこの曲の魅力を一番物語っている。<

三浦先生の名で訳でもって、これ以上の解説はわれながら、ないと思います。

この神秘的かつ、自然美にあふれ、世紀末的な甘味な瞬間も。
峻厳な場面もあり、そして、聴きながら誘われる、ノスタルジーの世界へと。

25~7分の切れ目なく続く、たゆたうような時間のなかに、わたくしは、海や山、そして夕暮れの光景へと思いを馳せめぐらし、郷里のことも思いつつ、安らぎを覚えるのです。

歌詞のない、アカペラによる合唱とテノールソロも、とても夢幻的であり、儚く、哀しくさえなってしまいます。

何度聴いても、いつ聴いても、わたくしには、一番好きなディーリアスの作品に思います。

おそらく、この曲の音源は4種。
新しい、サー・アンドリューのものは、まだ未聴ですが、レコードで聴きなじんできたグローヴス盤が一番好き。
そして、作者自伝のフェンビーと、今宵のロジェストヴェンスキー盤。

BBC時代のロジェストヴェンスキーは、英国音楽を相当演奏してまして、そんななかのひとつが、こちらのライブ。
録音のせいもあり、強音がキツく感じるところもありますが、とても丁寧に、いつくしむように演奏しております。
でも、グローヴスに比べると、音の輪郭がはっきりしすぎで、もう少し、もやっと、曖昧なところがあった方がいい。
それと、演奏後の拍手はカットして欲しかった。

しかし、ほんとうに、素敵な音楽です。
そして、静かに、そっとしておいて欲しい音楽のたぐいです。

Ebisu_4

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2014年11月28日 (金)

ディーリアス チェロソナタ L・ウェッバー

Kenchoujia

2週間少し前の、鎌倉の建長寺。

そう、ここで、ヴァイオリンとチェロのリサイタルを聴いたのでした。

Kenchoujib

まだ、緑の占める割合が多かった。

今頃は、きっと、もっと色づき、さらに枯淡の中庭の景色となっているのでしょう。


Delius_cello_sonata

    ディーリアス チェロとピアノのための1楽章のソナタ

       Vc:ジュリアン・ロイド・ウェッバー

       Pf: ベンクト・フォシュベリ

              (1999.9 @アビーロード・スタジオ)


フレデリック・ディーリアス(1862~1934)は、わたくしのもっとも大好きな英国作曲家。

とはいっても、ディーリアスには、英国の血は流れてません。

英国に帰化したドイツ人の両親のもとに、ブラッドフォードで生まれた英国人です。

音楽への傾倒を避けるために、実業家の父によって、フロリダのプランテーションに修行に使わされ、そこでも、黒人霊歌などにインスピレーションを得て、音楽の道忘れがたく、父が折れたのちは、ライプチヒで今度は、音楽修業。
それからパリでさらに、あらゆる芸術に接し、さらに放蕩の限りもつくし、結婚し、パリ近郊のグレ・シュール・ロワンに居を構える。
戦火(第一次)のため、英国に戻ったことはあったものの、その生涯は、愛する妻とグレにて終えている・・・・。

と、こんな風に概略その生涯を見てみると、独・英・米・仏にまたがる、まさに、コスモポリタンだったディーリアス。
でも、その音楽は、やはり、英国の自然や風物、空気を感じさせるものに、まさにほかなりません。

アメリカ時代の作品に、フロリダの自然を感じるのは当然ですが、もうひとつ大切なファクターは、北欧です。

ライプチヒ時代に知己をえたのが、大先輩のグリーグ(1843~1907)で、1880年頃から、グリーグが亡くなるまでの四半世紀に渡って、お互いに敬愛しあう仲となりました。
北欧の厳しい大自然のなかに立ちすくむような光景を感じさせる音楽を、たくさん書いたのも、こうしたつながりがあったからこそでありましょう。

 今日のCDは、ディーリアスと、そのグリーグのチェロ・ソナタをともに収録しているところがミソであります。

約13分ほどの単一楽章によるこのユニークなソナタ。
1916年に、イギリスのチェリスト、ベアトリス・ハリソンのために書かれ、2年後に初演。
単一楽章ながら、3つの部分に別れております。

普通の作曲家なら、3つの部分を、急緩急といくところですが、そこはディーリアス。
全体に渡って、ゆるやかで、そう、ある意味捉えどころがなく、曖昧なままに、たゆたうような音楽が続きます。

いきなりメインの主題が、ラプソディックに歌われます。
その主題を中心に、優しく、流れるような展開が行われ、もう、そこには身を任せるしかありません。
いまは思い出せませんが、ディーリスのほかの作品と似た旋律が出て、そのまま、テンポを落としていって、第2部に入ります。
こちらはもう、静かな静かな、ささやきのような音楽となります。
追憶のディーリアスに相応しい、極めて儚くも、夢見ごこちの雰囲気。
 そして、やがて、徐々に、冒頭の旋律が回顧されて、やがて、しっかりと繰り返されます。
第3部の始まりです。
1部と同じような展開となりますが、徐々にスピードと活気を増して、明るく、きっぱりとした表情も持つようになり、どこか希望を抱けるような展開のまま曲を閉じます。

これは、なかなかの桂曲であります。
なによりも短いのがいい。
その短いなかに、ディーリアスらしさが、しっかり詰まっていて、おまけに、チェロの優しい音色が、とてもよく活かされているし、それを包み込みつつ、幻想味もたっぷりなピアノもいい。

ウェッバーの上品かつ、真摯な演奏でした。

一方、グリーグのソナタは、こちらはもう、まさにグリーグしてます。
あのピアノ協奏曲みたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月 5日 (水)

東京都交響楽団演奏会 ブラビンズ指揮

Geigeki

開演15分前、人々が駅から出て、次々に、こちらに吸い込まれて行く。

そう、東京都交響楽団のA定期演奏会を聴いてまいりました。

わたくしは、この大きなホールが、街の雰囲気も併せて、どうも苦手で、できるだけ避けたいホールのひとつです。

でも、先のB定期(→RVW、ブリテン、ウォルトン)とともに、名古屋フィルのシェフで、英国音楽の演奏の希望の星、マーティン・ブラビンズの客演で、ウォルトンの交響曲のふたつめ、そして、なんといっても、ディーリアスとRVW。

ふたつの定期が、こうして関連だっていて、しかも英国音楽に特化している。

英国音楽を、こよなく愛するわたくしとしては、ホールがどうのこうの言っていられません。

Metorso

  ヴォーン・ウィリアムズ  ノフォーク・ラプソディ第2番 日本初演
                    (ホッガー補筆完成版)

  ディーリアス        ヴァイオリン協奏曲

              Vn:クロエ・ハンスリップ

  ウォルトン         交響曲第1番 変ロ短調

    マーティン・ブラビンズ指揮 東京都交響楽団

  ※P・プラキディス ふたつのきりぎりすの踊り(ヴァイオリンソロ、アンコール)

                       (2014.11.4 @東京芸術劇場)


これまた、わたくし向きのプログラム。
どの作曲家にも、強い思い入れがある。

でも、とりわけ、フレデリック・ディーリアスへの思いは人一倍強い。

本ブログでは、その心情を時おり、吐露しておりますが、亡き人や、故郷への望郷の思いと密接に結びついていて、その作品たちとの付き合いも、もう40年近くになります。

日本のコンサートに、その作品が取り上げられるのは、著名な管弦楽小作品か、「楽園への道」ぐらいで、あとはモニュメント的に、声楽作品が演奏されるぐらい。

ディーリアスのヴァイオリン協奏曲が、こうして演奏されるのって、ほんとにレアなことだと思います。
これを逃したら、生涯後悔するかも・・・、それこそ、そんな気持ちでした。

しかし、不安は、大きなホール。

でも、その思いは実は、1曲目のRVWで、ある程度払拭されてました。

そう、静かで抒情的な場面の連続する、RVWとディーリアスの曲ですが、音のディティールは、細かなところまで、しっかり届きましたし、なによりも、ホール全体に漂う、静かな集中力のようなものを強く感じ、音楽の一音一音をしっかり聴きこむことができました。

27分間にわたって、楽章間の明確な切れ目はなく、多くの時間が、ピアノの静かでゆったりムードで続くディーリアスの音楽の世界は、もしかしたら初めて聴かれる方には、とりとめもなく、ムーディなだけの音楽に聴こえたかもしれません。

ですが、ディーリアスは、そこがいいんです。

茫洋たる景色、海や山が、霞んで見える。
自然と人間の思いが、感覚として結びついている。
リアルな構成とか、形式なんか、ここではまったく関係がない。

その、ただようような時間の流れに、その音楽をすべり込ませて、静かに身を任せるだけでいい。
形式の解説など不要だ。

わたくしは、大好きなディーリアスのヴァイオリン協奏曲の実演に、遠いニ階席で、曲に夢中になりながら弾きこむクロエ嬢と、慈しむように優しいタッチで指揮をするブラビンズさん、そして神妙な都響の面々、そのそれぞれを見ながら、やがて、その実像が、ぼやけてきて、いつものように、望郷の念にとらわれ、涙で目の前が霞んで行くのに、すべてを任せました。

言葉にはできません。
ほんとうに素晴らしかった。
実演で接すると、いろんな発見も、処々ありましたが、それら細かな部分は、全体のなかに静かに埋没してしまい、いまは、もう、そのようなことは構わなく思えます。

タスミン・リトルのあとは、ハンスリップ嬢と、スコットランドのニコラ・ベネデッティがいます。
頼もしい、英国系女性ヴァイオリン奏者たち。
ちょっと踏み外すところや、元気にすぎるところは、ご愛嬌。
かつてのタスミンもそうだった。
 ただ、アンコールは、民族臭が強すぎて、ディーリアスの多国籍かつ無国籍ぶりにはそぐわなかったような気がします。
東欧の響きのように思いましたが、ラトヴィアの作曲家だそうで。

 さて、思いの強さで前後しましたが、RVW作品は、日本初演。

それもそのはず、民謡の採取に情熱を注いだV・ウィリアムズが、それらの素材を活かしたノフォーク・ラプソディを、3曲書きましたが、2番目は未完、3番目は破棄ということで、完全に残ったのは、先に聴いた美しい1番のみ。

未完の2番を、RVW協会の許しを得て、R・ヒコックスがスティーブン・ホッガーという作曲家に補筆完成を委嘱したのが、今回の作品。
2002年に完成し、一度限りの条件で初演されたのが2003年。

ヒコックスのRVW交響曲録音の、3番(田園交響曲)の余白に収められておりますが、その初演以外、しかも、海外で初となる演奏許可を、都響が取りつけたとのことです。

それは、英国音楽の達人ブラビンズあってのことだと思いますし、東京都とロンドンという関係もあってのことかもしれません。

ともかく、VWらしい、郷愁あふれる情緒豊かな音楽で、10分ぐらいの演奏時間のなかに、静かな場面で始まり、スケルツォ的な元気な中間部を経て、また静かに終わって行く、第1番と同じ構成。
親しみやすさも増して、ステキな聴きものでした。

 休憩後のウォルトンの1番。

せんだっても、尾高&藝大で聴いたばかり。
ダイナミックレンジの幅広い、繊細かつ豪快な音楽は、前半の静けさとの対比でもって、とても面白い。
しかし、この大きなホールの2階席は、音像が遠く感じ、迫力のサウンドは思ったほどに届いてこないもどかしさがありました。
前半や、この交響曲の第3楽章が、むしろ、じっくり聴けた感じがあるのは、面白いことでした。

 それでも、CDで聴き馴染んだこの作品は、やはり実演が面白い。
第二次大戦を間近に控えた頃の、不安の時代。
その緊迫感と重々しさを随所に感じつつ、最後は、輝かしいラストを迎えるわけで、交響曲の伝統のスタイルをしっかり踏襲している。
 ほんと、快哉を叫びたかった、リズムもかっこいい第1楽章では、ブラビンズの指揮ぶりを見ていると、とても明快で、オケも演奏しやすいのではとも、思いました。
 変転するような拍子が、妙に不安を駆り立てる難しい2楽章ですが、都響の完璧なアンサンブルは見事なもの。
 そして、一番素晴らしかったのは、沈鬱さと孤独感の中に、クールな抒情をにじませた静かな3楽章。
木管のソロの皆さんの柔らかい音色も印象的で、オケの音色は、透明感を失わずに、くっきり響いてます。
 一転、明るさが差し込む終楽章。
重層的に音楽が次々に盛り上がってゆくさまを、意外な冷静さで聴いておりましたが、最後の方の、トランペットの回想的なソロ(素晴らしかった)のあと、ついに出番が巡ってくる、2基目のティンパニと、多彩な打楽器の乱れ打ち。
この最後の盛りあげがあって、この1番の交響曲が、映えて聴こえるのですが、それにしても、完璧な演奏ぶりでした。

驚くほどのブラボーが飛び交いました。

指揮者を讃えるオーケストラに押されて、ひとり指揮台に立って喝采を浴びたブラビンズさん。
いい指揮者です。
ウォルトンの分厚いスコアを、大事そうに小脇に抱えて、ステージを去るその姿に、好感を覚えた方も多くいらっしゃるのでは。

名フィルの指揮者であり、ロンドンのプロムスの常連。
CDも、コアな珍しいレパートリーでもってたくさん出てます。
ブライアンの巨大ゴシックシンフォニーもあります。
名古屋での、ユニークな演目も聴いてみたいものです。

  過去記事

 ディーリアス ヴァイオリン協奏曲

  「ラルフ・ホームズ&ハンドレー」

  「アルバート・サモンズ&サージェント」

 ウォルトン  交響曲第1番

  「ブライデン・トムソン指揮 ロンドン・フィル」

  「尾高忠明指揮 藝大フィルハーモニア」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

いぬ ねこ アイアランド アバド アメリカ音楽 イギリス音楽 イタリアオペラ イタリア音楽 ウェーベルン エッシェンバッハ エルガー オペラ カラヤン クラシック音楽以外 クリスマス クレー コルンゴルト コンサート シェーンベルク シベリウス シマノフスキ シュナイト シュレーカー シューベルト シューマン ショスタコーヴィチ ショパン スーク チャイコフスキー チャイ5 ツェムリンスキー テノール ディーリアス ディーヴァ トリスタンとイゾルデ ドビュッシー ドヴォルザーク ハイティンク ハウェルズ バス・バリトン バックス バッハ バルビローリ バレンボイム バーンスタイン ヒコックス ビートルズ ピアノ フィンジ フォーレ フランス音楽 ブラームス ブリテン ブルックナー プッチーニ プティボン プレヴィン ベイスターズ ベネデッティ ベルク ベルリオーズ ベートーヴェン ベーム ホルスト ポップ マリナー マーラー ミンコフスキ メータ モーツァルト ヤナーチェク ヤンソンス ラフマニノフ ランキング ラヴェル ルイージ レクイエム レスピーギ ロシア系音楽 ローエングリン ワーグナー ヴェルディ ヴォーン・ウィリアムズ 北欧系音楽 古楽全般 器楽曲 小澤征爾 尾高忠明 幻想交響曲 料理 新ウィーン楽派とその周辺 旅行・地域 日本の音楽 日記・コラム・つぶやき 映画 書籍・雑誌 東欧系音楽 歌入り交響曲 現田茂夫 神奈川フィル 第5番 若杉 弘 趣味 音楽 飯守泰次郎 R・シュトラウス