2007年10月18日 (木)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ベルリン国立歌劇場公演

Linden_2 ベルリン国立歌劇場公演、トリスタンとイゾルデを観劇。当プロの最終日、平日15時開演にもかかわらず、巨大NHKホールが満席。大入りの看板も出ていた。みんなどんな人なんだろ?
まぁワタクシもその一人、というか、おバカなんですが。

まず、わたくし結論から先に言ってしまうと、世界のどこを見渡しても、こんな素晴らしいトリスタンはない、ということ。生涯最高の音楽体験と確信している

2000年のアバド/ベルリンフィルのトリスタンを例外として、いや、音楽体験としても、それに迫る稀有の名演奏として、胸に刻まれことになる上演だった。

それほどに素晴らしく、こちらも没頭してしまった名舞台、最後の「愛の死」でマイヤーに淡いスポットライトがあたり、彼女の歌に、オーケストラに、私は涙に濡れていた。
恍惚と歌い終え、オケの後奏が続き、オーボエの音を残しつつ、波が引くように音楽が終わる。
いや終わるはずだった。
ここで拍手がパラパラと起きてしまった。でも、さすがにマズイと思ったのか、パラパラでやんだ。しかし、最後の和音がまだ残っているのに、また始まった。これはもう止まらない怒涛の拍手になだれ込んでしまった・・・・・・
こんなぶち壊し拍手に、どう対応したらいいというのか
舞台は初めてでも、前奏曲と愛の死くらいは聴いてるだろ
イタリアオペラじゃねぇんだよ
主催者は、機械のように、何度も写真や携帯の注意を呼び掛けるんじゃなく、拍手のマナーも放送しろい
マーラーの第9ばりの静寂を要求してるわけじゃねぇ
ほんの少しでもいいから、余韻を楽しめないのかよう
そう、プンプンな私だけれど、それ以外は大満足だった。悔しいけど、忘れよう・・・・・。

Tristan1_2 すでに舞台をご覧の皆さんがいろいろ書かれていらっしゃる通り、クップファー演出としては、さほど強烈なコンセプト演出ではなく、仕掛けも少なく(気付かなかっただけ?)シンプルな内容だったように思う。
それだけに、凝縮されピリリと辛口の舞台だったのでは。
3幕を通じ横たわる、大きな羽を持った天使のようなオブジェがステージ中央に据えられ、この上で物語は進行する。このオブジェは一体何だろうか?
私は愛の女神と思った。誰の愛の女神か?
主人公二人であり、男性登場人物相互、女性登場人物相互、それぞれにである。
さすがに水夫は違うだろうけど、牧童や舵取までも、トリスタンに殉ずるわけだし、みんな死んでしまう姿を背景で見せていた。マルケ王は、嫉妬に怒り狂い、クルブェナールとその一派を打ち負かしてしまう。2幕で、トリスタンがメロートの刃に飛び込み倒れる先は、マルケ王の腕の中。ジークムントとウォータンのようにも見えるし。
 そしてイゾルデ以上に、ご主人様と密着度の高いクルヴェナール。
このいびつな関係が錯綜しているから、女神の羽は根元の部分で一部折れてしまっているし、その顔はうつむいて埋もれてしまっている。

舞台奥には、墓石が4つ斜めになって並んでいる。誰の墓だろうか?これはまったく意味不明。
そして、1幕最後、マルケ王のもとに到着すると、これまた舞台奥には、男女が横を向いて微動だにせずに登場。次いで2幕の濡れ場を急襲した際にも登場。
無言の傍観者の意味するところは彼らの衣装は、劇の時代設定とはまったく関係なく、ワーグナーの時代のもの。
舞台奥のワーグナーの時代の人々や墓石から、羽の上で演じられるトリスタンのモノトーンの世界を挟んで、現代の我々聴衆。アウトローの登場人物たちを傍観する二つの時代(世界)か
う~む、私には読めない、わからない。
 イゾルデの服が、1幕は赤、2幕は渋めのブルー、3幕は濃いグレーと彼女の心象を映し出すかのような効果を感じた。
2幕での、長大な愛の二重唱では、舞台は真っ暗になり、一筋のブルーの光だけがオブジェの上から当てられていたのが、とても美しい。

大枚はたいた、もしかしたら初トリスタンの年配の方々には、かえって最小限の舞台装置で動きも少なく、むしろ音楽に集中できるこの演出はわかりやすかったのではないだろうか。だからゆえ、あの拍手だけは許せない。 

  トリスタン:クリスティアン・フランツ   イゾルデ :ワルトラウト・マイヤー 
  マルケ王:ルネ・パペ           クルヴェナル:ローマン・トレケル 
  ブランゲーネ:ミシェル・デ・ヤング    メロート :ライナー・ゴールドベルク    
 
     ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
                演出:ハリー・クプファー 
                     

現在トリスタンを振らせたら、その実績も含め最高の指揮者は、バレンボイムであろう。前奏曲から、異様なまでに音楽に気が満ちている。3時間30分の演奏時間のすべての音符に、その意志がこもっているし、その表現意欲が空回りすることなく、音楽の強さとなって奔流のようにオーケストラピットから音が湧き出てくるようだ。
それと、オーケストラの技量の素晴らしさもさることながら、弦楽器を中心として、音が本当に美しいと感じた。この美しさは、一昨日のシェーンベルクでは味わえなかったので、やはり音楽のケタの違いとでもいえるのだろうか。

そして、マイヤーのイゾルデ!!! 彼女がとてつもなく、素適だった。圧倒的な音域の広さ、余裕あるメゾの音域に裏打ちされた力強い高音。
なにより魅力は、中域の美しく輝くかのような声。ビジュアル的にも申し分なし。
ポラスキ(アバドの時、これまた大らかでナイスなイゾルデ)、ステンメ(女性的なやさしさ)らと並んで、最強イゾルデが、マイヤー。
Tristan2_2 それから、パペの深々としたノーブルなマルケ。フンディングばかりだったけれど、いよいよ当たり役が聴けた。
トレケルの友愛の象徴のようなクルヴェナールは、ベタつきはともかくとして、相変わらず真摯な歌唱。声量がもう少しあればいいけれど、その分見た目がよろしいから恵まれている。新国の神経質なグンターも懐かしい。
大柄なデ・ヤングのブランゲーネも印象に残る。彼女の強い歌唱は、さらに磨いて、将来ドラマテックな主役級をこなすようになるかもしれない。
それでもって、フランツのトリスタンであるが、最初から、新国のジークフリートやカニオ(パリアッチ)の見た目のイメージを引きずってしまい、イメージ的に受け入れにくかった。あのメタボ体型もちょいと、トリスタンとしては、がっかりだよ。
3幕の長大なモノローグで、温存していたスタミナを全開にして、スゴイ迫力となった。声がトリスタンにしてはあっけらかんとしすぎで、もう少し陰りが欲しいところだが、他にこれほどまでに歌えるテノールはいないから・・・・。
なつかしいR・ゴールドベルクがメロートとして登場。20年前、同じベルリンの公演でマイスタージンガーのヴァルターとして聴いて以来。トリスタンを刺すべく、じわじわ登場したとき右手がぶるぶる震えていたのが見えたけれど。演出なのかしら?

なんだかんだいって、すこぶる楽しめ、感激したトリスタン。
主役はオケとマイヤーかな、いや、ワーグナーの書いた音楽です
隅々まで、聴き親しみ、舞台でも4度目の今回だけれど、観るたび、聴くたびにいろんな発見があり、大いなる感動がある。
最後、画龍点睛に欠ける出来事があったが、まずは最高の「トリスタンとイゾルデ」が体験できた。
終演後のちょっと一杯も心から楽しいひと時でした。お疲れさまでした。

Tristan3 ちなみにベルリンでは、この次のトリスタンが上演されていて、この画像は、真っ白けで、今回のモノクロ的舞台とかなり異なる。日本のオペラパレスでは、いつトリスタンが登場するのだろうか?

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2007年10月15日 (月)

シェーンベルク 「モーゼとアロン」 ベルリン国立歌劇場公演

音楽が弦のユニゾンで消えていったとき、その伝えんとするものが何か、そんな単純なものでいいのだろうか?音楽が託したメッセージもこれでいいのだろうか?という思いにとらわれ、茫然となってしまった。

Linden ベルリン国立歌劇場来日公演から、シェーンベルクモーゼとアロンを観劇。 トリスタンの優先予約で確率を上げるためには、セット券が必須だったので、ドン・ジョウァンニでなく、モーゼを選択。
めったに出会えない演目だし、トリスタンと合わせることも意義あろうかと。
でも心配は音楽が少ないことで、歌もシュプレヒシュティンメで語り歌いが多いなど。
外来では1970年万博の年に、ベルリンドイツオペラが持ってきている。

当時、小中学生のワタシ、雑誌の写真をためすながめつして、同時にやった「ルル」とともに、どんな音楽なんだろ??と想像するばかりだった。
R・ゼルナーの演出、B・マデルナの指揮(これってものすごい!!!)で上演された舞台は、60年代後半のサイケデリックな色使いによる刺激的なものに思われ、私の妄想は膨らむばかりだった。

音楽だけはそれなりに聴いていたが、同じ12音でもベルクの旋律的なものと大違いで、とっつきの悪い、しかめっ面的音楽に辟易する思いもあったことは確か。

今回の舞台は2004年プリミエで大成功した、現総裁のムスバッハの演出。
早くから画像が公開され、映画「マトリックス」的な無機質の登場人物で構成されることで、注目されていた上演だ。
今日も、文化会館の前にはチケット求むの人が数人おられた。

簡単に劇の内容を記すと、旧約聖書モーゼの出エジプトの場面。映画ならば、「十戒」と重なる情景。神から人々を約束の地カナンへ導くことを命じられたモーゼだが、語りが苦手なモーゼ。語り手として弟分のアロンの口を借りて民衆を率いることになるが、シナイ山で神の掟(いわゆるこれが十戒)を受けている間に、山の麓では、疑心暗鬼になった民衆を押さえられなくなったアロンが、神の偶像崇拝を許し、ハチャメチャなことになる。
ここに下山したモーゼが現れ、偶像を壊し、アロンを罰するというもの。

こうした聖書上の史実にシェーンベルクは、ユダヤ人たる自己を意識して、独自の解釈に基づくドラマを作り上げた。
モーゼとアロンを神への無条件帰依と偶像崇拝という形をともなう信仰という、拮抗する対立要素として明確にとらえ、その元に揺れ動く群集の愚かさをよりはっきりと取り入れた。

Mose1 ムスバッハは、舞台を近未来的な、シルバーモノトーンの世界に置き、モーゼとアロンを含む登場人物すべてに黒いスーツとサングラスをまとわせた。
これによって、誰が誰だかわからなくなってしまう。女性も男性もない。
偶像のもとに繰り広げられる性的な儀式や肉惑も、中性的なモノセックスなものになっている。この群集の牛歩のような動きが実に効果的で、不気味であり、それが指導者モーゼとアロンを惑わしていく。ときに2階部分から見おろし、両袖から追い詰めながら。
そして、この作品のクライマックスたる偶像現出の場面。
舞台は暗闇となり、地下から白く光る杖(スターウォーズの剣を思い起こして下され)を持ちながら、まるで一歩先が見えぬかのように民衆が徐々に登場する。神の不在を象徴か?
いつのまにか、金の偶像の首部分が、民衆の手から手に渡されリレーされ前面に登場している。(この首、だれかが蹴ってしまったのか、オーケストラボックスに落ちそうになってしまった~笑)
オーケストラが一番面白い「金の子牛(偶像)の踊り」では、首なし立像が現れ、それを舞台に民衆が怪しい動きをする。
この立像、レーニン、チャウシェスク、フセイン、金日成・・・・を誰もが思い起こしたことだろう。

Mose2 モーゼが現れ、アロンは困惑して言い訳をするが、モーゼもシナイ山で得た神の掟が記された石盤を、脱いだ上着で包んで隠しもっている。
これをアロンに石盤も所詮偶像=印に過ぎぬと言われ、しょんぼりのモーゼ。
自ら倒した石像の上に座りながら、「おお言葉よ、われに欠けたるは、汝言葉なり」と歌うように語り幕となる。

最後のモーゼとアロンの「神のかたち」についてのやりとりのなか、民衆が無言で現れ、無数の小さなテレビを舞台にびっしり置いていった。
一方的な情報の発信と、それを無条件に受け止めるわれわれ。被害者兼加害者。
そんなメッセージだろうか?
冒頭、モーゼが語る。「唯ひとつにして、永遠なる神、あまねくところにおわす神。眼にも見えず、想像も絶する神よ!」・・・・この言葉の持つ甘味さと危険な因子。
シェーンベルクがウィーンに生まれながらのユダヤ人として、心の底から訴えたかったのは?

ムスバッハの優れた演出がどこまでシェーンベルクの思いに迫れたのかは、私ごときではわからない。
でも、この題材に身近なことが事象として常に起きている。
東洋の島国にわれわれとて同じこと・・・・・。

懐かしい、J・フォーゲルがモーゼで、明瞭な発声で頑迷で悩む役柄を見事演じる。
そして、リリックからヘルデンに転じた、T・モーザーが歌いどころの豊富なアロンを、モーゼの二重人格のように歌い演じた。
ほかの歌手は、外観が見分けつかずわからんが、見事なアンサンブル。
それ以上に合唱=民衆の演技と特異な歌に対する適応力と敏感さに驚かざるをえない。

いま、復習でブーレーズ(旧盤)を確認しながら書いているが、30年前には鮮烈だったブーレーズとは異なる意味で、デジタル的鮮明さと、強烈な表現意欲の違いを今更ながら思った。
ブーレーズの冷徹な音もそれでいいが、舞台を感じさせることがなかった。
 今日のバレンボイムの熱血指揮は、オケも舞台も聴衆も引きずりこんでしまう濃厚完璧ものだった。
今日の語り手は、モーゼでなく、アロンでもなく、ダニエルその人だった!

なんたる辛口で、重く衝撃的な体験だったろうか。
明後日のトリスタン甘味で待ち遠しいご馳走のように思えてきた。

本日は音楽著名人を複数お見かけした。
サンドイッチをぱくつくミッチーや来日中のプレトニョフ、降り番の歌手たちふう、有名評論家の方がた。これもオペラ幕間の楽しみ。
カーテンコールに応える歌手たちは、みなサングラスのままで、主役以外は正体不明。
主催側の若いねーチャンが、花束を持って現れると、サングラスを下げてわざわざ覗き込むユーモアあふれる歌手もいて、深刻な中にも、オヤジ的に微笑ましい出来事があり。

いやはや、怒涛のドイツ4連荘は終わったが、また一日おいて、最大の公演が控える。
明日夜飲み会があり、一抹の不安が走る・・・・・・。


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2007年10月 6日 (土)

ワーグナー オペラ管弦楽曲 バレンボイム指揮

Nimonji_1 またまた「うなぎ」
名古屋で「一人ひつまぶし一人ひまつぶし」(じゃなくて)をした翌日は、岐阜へ赴き、商談を済ませると、先方さんが「お昼行こうか、なにがいい?(岐阜風に)」とおっしゃるので、何でも結構です、と答えたら、うなぎ屋さんに連れていかれてしまった。

う~む。晩にうなぎ、翌昼にうなぎ、というのは生涯初の試みだけあって、鼻血ブゥ~にならないか、とても心配だった。

がしかし、そんな思いとは裏腹に、その絶品具合に降参。
いやはやウマイのなんの。浜松あたりの混在を境に、うなぎはよく言われるように、東は背開きで蒸しを入れる。西は腹開きで有頭でそのまま焼く。
ほろほろで柔らかく濃厚な東に比べ、西は少し固めだけど、香ばしくもさっぱりとしている。
岐阜で江戸時代から続く「ニ文字屋」にて。
おかげで、スタミナ満載、元気に夜は松阪で3軒呑みまくり、そして翌日死んだようになった。

Barenboim_wagner 今日も、若きバレンボイム君を。
しかもお得意のワーグナーの出発点となった1枚。
フルトヴェングラーを私淑するバレンボイムだけに、ワーグナー、それも「トリスタン」を指揮することは大きな願望であったろう。
1981年、39歳の若さで、バイロイトで「トリスタン」を指揮したのがその始まり。
以来、「パルシファル」「リング」「マイスタージンガー」を指揮し、バイロイトの重鎮となった。
ピアニストのバレンボイムが、モーツァルトの弾き語りをしていた頃、誰がそんなことを予測できたろうか?
今では、ワーグナーの主要作品を録音してしまい、伝統あるベルリンで、繰返し指揮し続けている。
なかでも、「トリスタン」は最も得意とするところで、ポネルの美しい演出のDVD版、ミューラーの閉所的な演出のNHK放送版に続き、クプッハー演出の最も新しい「バレンボイムのトリスタン」がもうじき体験できる。

 「トリスタンとイゾルデ」 前奏曲と愛の死、第3幕前奏曲
 「さまよえるオランダ人」 序曲
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 前奏曲
 「ラ・クルティユからの帰り道」 
    ※レコードには入っていたが、CDではカットされ、ワルキューレの騎行が!
   ダニエル・バレンボイム指揮  パリ管弦楽団

82年、バイロイトデビュー後の録音。当時の手兵「パリ管」がここでは決め手!
でも、パリ管でありながら、華やかな要素はまったくなく、堂々とした落ち着きが憎らしいくらいだ。テンポもゆったりとしていて、マイスタージンガーなど最長のブーレーズにも匹敵するくらい。トリスタンでは、弦もたっぷり弾かせていて、なかなか濃厚な響きが聴かれる。
劇場経験を積んで、後年はもっと密度が濃くなり、テンポも上がっていくが、多分に大先達を意識した演奏は、なかなかに面白い。
そして、パリ管が自分達の音色を時おりチラチラと響かせているのも楽しい。
特に木管やホルンは、フランスのそれを意識させる。

この頃のバレンボイムは、いいんだか、悪いんだかわからず掴み所がなくて、かえって面白い。ことにオケがシカゴやパリや、ロンドンだったりするので、オケ好きには違った興味もわいて楽しい。

「モーゼ」と「トリスタン」は再来週。楽しみでならない。

ワーグナーの話題ふたつ。
11月のドレスデンの来日公演、ファビオ・ルイージが「タンホイザー」を降り、「ばらの騎士」にまわり、準・メルクルとエトヴェシュが「タンホイザー」を。
あらら、がっくり・・・。私のタンホイザーは、エトヴェシュ。あちらでは大活躍のオペラ指揮者で、いい機会かも。でも、速攻で、「ばらの騎士」を買い求めた。また散財、トホホ・・・。

来年のバイロイトの新演出は、「パルシファル」で、ヘールハイムの演出、ダニエル・ガッティの指揮。これで、くそシュルゲンジーフは葬り去られることに。
ガッティの活躍も目を見張る。
  

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2007年10月 5日 (金)

ブルックナー 交響曲第4番「ロマンテック」 バレンボイム指揮

Mabushi 名古屋の「ひつまぶし
美味そうやろ!
その後の展開は、別館にてご覧下され。
私は、名古屋弁が好きで、名古屋圏に行くと言葉も変わってしまう(?)
名古屋圏といっても、三河や尾張、岐阜、東濃とかなり言葉の様子が違う。
そして西に走り、川を渡ると桑名インターの料金所のオジサンは、「まいどおおきに・・」と関西に近い三重弁となる。ほんの数分なのに。

私は名古屋とは非常に縁が多い。
単身赴任で数年住んだ都市だし、その前後も今も出張で始終訪問している。
亡父も、名古屋に10年は赴任していたし、義弟も赴任中で、当地で結婚までしてしまった。だから、家族で名古屋弁をものにしてしまった。
名古屋にお住まいの方がたからはお叱りを受けるかもしれんが、名古屋弁は何故か、楽しくていかんわ。東海ラジオの昼の番組「聞いてみや~ち」をレンタカーで聞いて、笑っとるのは、ワシだがね。コマーシャルも楽しいわ
そして、忘れられん思い出は他でもないわ、数年まえ、新幹線ホームでのことだがね。
電車の入線を知らせるベルとともに、駅員さんの放送「ホームのはじを歩いてみえるお客さん、あぶないですから・・・・・」これには、正直笑えた。
最初の頃、名古屋に行ったら、「今度いつ名古屋にみえる?」と言われ??となったもんだ。

Barenboim_bru4a
名古屋とは関係ない、今来日中のバレンボイムブルックナーを聴きましょう。
最初の全集はシカゴ交響楽団と70年代におこなっていて、その最初の録音がこの4番。
1973年、まだ大オーケストラを指揮しはじめた頃の31歳。ジャケットの通り、もじゃもじゃ頭でやたら若い。そしてシカゴ響のDGデビュー盤でもあった。

もぎたてのリンゴのよう・・・」とかいう歌い文句で宣伝され、当時、すぐに買ったレコード。
録音がめちゃくちゃ良かった。
安物の私のシステムが、実によく鳴った。
そしてシカゴ響の金管の威力が恐ろしいまでに味わえた。

Barenboim_bru4b ジャケットの裏面の録音風景のぎっしり並んだオケを見ながらアメリカの物量と豊穣さに圧倒される思いだった。

そんな強力な武器を使いながら、バレンボイムは物怖じせず、堂々たるテンポで大人びた指揮ぶりである。柄は大きいが、音のひとつひとつの響かせ方が豊かで、美しいものだから、決して威圧的なムードにならず、フレッシュで眩いくらいに明晰さを感じる。
だから2楽章のアンダンテが誠に美しい。
ヴァイオリンのピチカートに乗って歌うヴィオラの旋律がこんなに屈託なく歌われながらも瑞々しいのが素晴らしい。

大家となってしまったバレンボイム。

「そんな時代もあったわね♪・・・」誰にもあった若き日々をバレンボイムも思うのだろうか。

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2007年5月 9日 (水)

フランク 交響曲 バレンボイム指揮

Ikari_choko 今日は、秋田から帰ってきました。
秋田でも北の方だったから、涼しくて、東京に帰ってきたら、この暑さ。
日本は夏と冬の2季時代に突入するかしら?

さて、こちらの画像は、大阪のさるホテルの一室。ちょっと前の出張のもの。
大阪駅構内の「いかりストア」で買った「ナナ・チョコレートムース」。
ベルギー産のチョコを使った、ちょっとビターなスイーツ。私のようなオジサンでも楽しめる大人の味。
呑んべいは、これにドライな白ワインを飲んでしまうのであります。バカだなぁ

Franck_symphony_barenboimセザール・フランク」(1822~1890)は、地味な人、そう、ビターな作曲家である。
写真をみても厳しい真面目な顔つきで、その音楽のように峻厳な印象を与える。
彼がフランス人でなく、ベルギー人であり、宗教心に篤いところなども、ベルリオーズと対極にある存在となったのであろうか。

実際にその音楽は、派手なところや劇的な部分は少なく、常に感情を押えたかのような緩やかさに溢れている。
決してフォルテがない訳ではないが、ここぞと盛り上がって欲しい部分でも、すぅ~っと引いてしまうようなあっけなさがある。こんな、いわば「しんねり・むっつり」のセザールさんの代表作の「ニ短調交響曲」が好きである。
私のフェチ曲はいくつかあるけれど、この曲もかなり集めた。ショップに行くと必ずチェックしていた棚のひとつだった。今日数えたら19種類の演奏があった。

全曲を通じ共通の動機が使われていることから、循環形式と呼ばれる、しっかりした構成をもった音楽は、ドイツ的でもあり、フランス的でもある。
中学生の時に初めて聴いて、第1楽章で形を変えて反復されるカッコイイ動機に惚れ込んだ。年をとってからは、第2楽章のイングリッシュ・ホルンの旋律がしみるようになった。
終楽章の全曲を回顧するかのような雰囲気のあと、歓喜の中に終結するが、演奏会の最後などでは、その効果がなかなか難しいのかもしれない。

76年に「パリ管」時代の「バレンボイム」が録音した演奏は、パリのオーケストラを使いながら、その響きは重く、薄雲のヴェールがたち込めているようだ。
テンポも焦らずじっくりしたもので、若いのに老成した指揮ぶりが、逆にフランクにぴったりだと思っている。
でも木管のソロ楽器の色あいは、あきらかにフランスのもの。この作用がまた楽しい。

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2006年9月26日 (火)

フォーレ レクイエム  バレンボイム

Baremboim_faure このところ毎日のように、車や交通機関の事故、それもバカどものあきれた過失による事故が続出している。そのため命を奪われるのは無力な子供達だ。あまりに辛くむごい。
新首相が掲げる「優しさにあふれた国」、「美しい国」はやってくるのだろうか?

このCDの解説によると、5大レクイエムと呼ぶ作品は、「モーツァルト」「ケルビーニ」「ベルリオーズ」「ヴェルディ」「フォーレ」であると、評論家高崎保男氏が述べているという。
うーむ、ケルビーニはまた地味やな。ブラームスは純粋レクイエムではないのか。
ドヴォルザークは?デュルフレは?ブリテンやディーリアスは特殊?

まあいろいろ議論はあるにしても、3大レクイエムなら、「モーツァルト」「ヴェルディ」「フォーレ」に決まりであろう。
そして聴く者を優しくつつむ癒しのレクイエムこそフォーレ。
声高に叫ばず、死者を、残された人々を優しくいたわる。

今日の演奏は1974年、バレンボイムがパリ管の音楽監督就任初期に録音したもの。  

    S:シーラ・アームストロング   Br:フィッシャー・ディースカウ
        パリ管弦楽団とエディンバラ音楽祭合唱団

冒頭の「入祭唱」開始から、ただならぬ思い入れを込めた入念な響きに驚く。え?フォーレだよね?と、最初はびっくりしてしまう。低音もズィーンと良く響く。
全編にわたり、オケも合唱もかなり克明に演奏し歌う。これは、ブラームスである。
その雰囲気に拍車をかけるような、フィッシャー・ディースカウの言葉一語一語を歌いこんだ歌唱。「ピエ・イエズス」でのアームストロングは、なかなかに清澄な歌いぶりであるが、私の好きな「バーバラ・ボニー」ちゃんの無垢な声とは遠い。
せっかくパリ管なのに、ブラームスじゃん・・・・。

とか言いながら、実はこれはこれでそのシリアスさがすごく面白く、私は充分に堪能した。
一筋縄ではいかないこの頃のバレンボイムの個性は、今では味わえないものだ。
フォーレのレクイエムも、その時の気分でコルボやクリュイタンス、ヘリヴェッヘなどで聴き分ければいい。

余白に入った「パヴァーヌ」。レクイエムがそぉっと終わったあとに洒落た組合せである。
ここではオケと合唱のバージョン。

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2006年9月20日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第4番 バレンボイム

Barenboim_tchaiko4 チャイコフスキーも久しぶりにちゃんと聴くといいもんだ。
なんだかんだで、好きなのだから。

今日は変わりダネの演奏で、バレンボイムがニューヨーク・フィルを振った4番の交響曲を。
バレンボイムがピアニストから本格的な指揮者になるまでは、イギリス室内管でモーツァルトあたりでじっくり練習しながら、大きな編成のものにチャレンジしていった。70年代に入ると、ロンドンのオケやアメリカのメジャーを振り始め、EMIからDGに鞍がえしたのもその頃。その狭間に、CBSに録音したのがこの1枚。
今では考えられないNYPOとの共演。1971年の録音である。

Barennboim ちょうどその頃、日本にイギリス室内管とやってきた。
その画像がコレ。
もじゃもじゃ頭に、自信たっぷりの反り返った演奏ぶり。
同時にN響に客演し、今日のチャイコ4番を中心とするプログラムを振ってみせた。ズッカーマンとのメンデルゾーンもやったように記憶する。
テレビで見てたが、今でも思い出す力瘤のはいった指揮。拳を下に向けエイッとばかりに決める姿は頼もしかった。現在の薄毛の円熟した姿とは似つかない。

演奏は、ほぼ上記の印象のとおり。開放的なオケだから、結構野放図に鳴ってしまうが、時おり巧く押さえ込んでカラヤンばりの抑制の効いた上手な演奏となっている。
注目の終楽章のコーダは、極端なアッチェランドはかけずに、じっくりとした盛上げになっていて好ましい。オケの明るさも良いところだが、若きバレンボイム君、もう少し若気の至りがあってもよかったのでは?
しかし、バレンボイムの貴重な録音であることは確か。若い頃から大人びたもじゃもじゃ君だったのである。

Odate 先日、秋田の大舘の居酒屋で食べた「馬刺し」。比内地鶏の産地ながら、ちょっと足を伸ばせば、青森。下北の岩手寄り南部は馬の産地だ。
程よい肉感と脂身のサシが微妙に美味い。ニンニク生姜でいただく。
大舘の地酒「北鹿」のシャープな味との相性は抜群だった。

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2006年7月20日 (木)

シューベルト 交響曲第2番 バレンボイム

Barenboim_schubert 梅雨寒のこの数日。日本は広く、こうしている間にも避難生活をされている人々がいることに同情を禁じえない。

青年シューベルトの交響曲は欧米でも大変人気があるようで、ネットラジオを聞いていると、5番あたりを非常に良くかけている。
以前、ダイエーかなにかのスーパーの館内有線音楽で、3番の終楽章をシンセサイザーっぽくならしていて、どっかで聴いたな?と激しく悩んだことがある。
購買欲をそそる音楽なのだろうか、人を明るい気持ちにさせるのだろうか?

本日の2番は変ホ長調。明るい色調につらぬかれ、シンコペーションのリズムも楽しい。
ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンの響きを聴き取ることも可能だ。
2楽章などは、変奏曲形式で書かれていて、ハイドンそのものとも言える。
短調のメヌエット楽章でも弾むリズムは印象的で、トリオでは2楽章が回想されるなど、良く考えられている。終楽章も1楽章と曲想も構成も似せていて、曲の統一感も充分に表わせれている。

バレンボイムがパリ管の指揮者をつとめていた頃、シカゴと並んで、ベルリン・フィルも盛んに指揮していて、カラヤンの後継の有力候補の一人だった。
CBSに入れたシューベルト全集は、あまり注目を集めなかったが、私は「未完成」狙いから、この1枚だけを持っている。かなりロマンテックに傾いた未完成で、意外と好き。

そして1番と並んで、不思議と好きな2番は、少し重くはあるが、丁寧に扱った丹念な演奏で、思わず座りなおしてしまうほどの交響曲演奏になっている。
少し過去を振り向いた演奏ではあるが、シューベルトの優しさ、初々しさは充分に味わえる演奏である。
シューベルト18歳の交響曲第2番は桂曲である。

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2006年3月22日 (水)

ラヴェル ボレロ、ラ・ヴァルスほか バレンボイム

bareboim_ravel バレンボイムがパリ管弦楽団の音楽監督だった頃のCDで、ラヴェルの作品集を久々に取り出した。81年の録音で、CD初期の頃、1枚4000円から4500円もした今から見ると信じられない時代に購入したもの。ほんとに良くこんな金はたいて買っていたんだなぁ。独身時代、給料は酒とCDに消えていたのだ。

「ボレロ」「亡き王女・・」「ラ・ヴァルス」「ダフニス」の4曲がきれいに収まった1枚は55分。
日本人の典型である私からすると、「パリ管」という言葉だけで、おフランスを感じさせる甘酸っぱい何かを思い起こさせてくれる。「フランス国立管(国立放送管)」はもっと機能的なイメージを与えるが、このオーケストラのイメージは、ザ・パリなのだ。
 が、しかし歴代の指揮者陣は、ドイツ系ばかり!ミュンシュ亡き後、カラヤン、ショルティ、バレンボイム、ビシュコフ(?)、エッシェンバッハ、という具合。
こうした指揮者たちの、フランス物が面白いのである。
本日のバレンボイムのラヴェルは、いずれも遅めのテンポでじっくりと聴かせる。「ボレロ」など17分かけて、最後までじんわりインテンポで進め、エンディングも焦らず堂々と終了する。私の大好きな「ラ・ヴァルス」もゆったりと、ねっとりと進行して、もう少し軽妙さが欲しいと思わせる。逆に「亡き王女のためのパヴァーヌ」はこうしたねっとり感がプラスに思われ音楽の美しさを実感させてくれる。
 さらに「ダフニスとクロエ」も同様に、夜明けの場面の弦楽器のシルクのような美しさに、木管陣が絡み付く様は、惚れ惚れとしてしまう。無言劇のフルートも往年の主席デボストもかくやと思わせる素晴らしさ。全員の踊りでのクライマックスの築きかたも、まずは見事に決まって、「終わりよければ・・・」的な後味でCDは終了する。

本当いうと、せっかくの「パリ管」なのに、という気持ちはぬぐえない。でもバレンボイム壮年期の記録以上に、「パリ管」でしか出せない、弦の輝きと木管の華やかさ、金管のゴージャスさ、こういった響きがDGの優秀録音でちゃんと味わえる。
 エッシェンバッハ(結構好き)の風変わりな曲のラヴェルも、先ごろ手に入れた。そちらのNew パリ管の視聴も楽しみなところ。

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