2008年6月29日 (日)

R・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」② 二期会公演

Ariadne_nikikai

ダフルキャスト2演目めの二期会R・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」を観劇。
シュトラウスのオペラを愛するものとして、ダフルキャストを組まれちゃったら、行かざるを得ない。
この冬の「ワルキューレ」も両方観たし。
歌手が異なることで、演出の意図や役柄の雰囲気が違ってくる。
大好きなワーグナーとシュトラウスだからこそやってしまう行為だけど。

新国は、シングルキャストで4~7公演やって、そのプロダクションの精度を高めて行くが、常設劇場を持たない二期会や藤原歌劇団は、海外で活躍する傘下の歌手達の国内での実績披露の場も確保しなくてはならない。
新国は外国勢が主役級を占めることが多いからなおさら。

これまで幾多の名歌手たちを生みだしてきた国内オペラ団と、経済的な不安の少ない新国との有機的なコラボレーションがさらに高まることを望みたいな。

そんなこんなだけれど、昨年の「ダフネ」に続き、同じ時期にR・シュトラウスを最高の布陣で上演してくれたこと事態が感謝感激。
関西二期会との競演は、甲乙付けがたく、その双方を楽しんだ次第であります。

    
    アリアドネ:横山恵子          バッカス:青栁素晴
    ツェルビネッタ:安井陽子       作曲家:小林由佳
    音楽教師:初鹿野 剛          舞踏教師:小原啓楼
    ハルレキン:萩原 潤         エコー  :谷原めぐみ
    執事長 :田辺とおる         ほか・・・

     ラルフ・ワイケルト 指揮 東京交響楽団
                 演出:鵜山 仁
                 (2008.6.27@東京文化会館)
 

P6070053 幕が開く前からオーケストラボックスに架けられた花道に、くたびれた犬のぬいぐるみが横たわっている。このワン公、かなりリアルで二期会のHPから拝借した画像。
執事長によって、汚いもののようにして取り去られてしまうが、オペラの最後で、アリアドネが自分のことを「洞窟で待つくたびれた雌犬」と歌うが、このあたりの伏線か。
この犬に代表されるように、ちょろちょろといろんな仕掛けが出てくるのだが、それらが透明・洒脱な「ナクソス島のアリアドネ」にどのように機能していたのか、正直わからなかったのが今回の演出。
Ariadnenaxos_c203_2  その執事長の田辺とおるさん、ドイツ語でまくし立てなくてはならない難しい役だが、見事にこなしていたし、指先の動きまでに演技のこもったプロの姿を見た思い。
舞台は、左右にお決まりのバルコニーを据えて、安っぽい照明や小道具が雑然と並ぶ。
燕尾服でお堅い作曲家チームと、悩ましいタイツ姿のツェルビネッタとお笑い芸人チーム、そして有り得ない衣装をまとったオペラ歌手チーム。見た目にも鮮やかな対比が。
ステージの両脇には、右に劇場のシート、左にベンチが並んでいて、後々の展開が予測される。
前回の谷口さんの作曲家がタカラジェンヌのような凛々しさがあったのに比べ、今回の小林さん、少し小柄でより女性的な雰囲気。明瞭な発声で、かなりよかったと思う。
ツェルビネッタが、作曲家に自分と同質の孤独を認め、二人、いい雰囲気になるのだが、前日の幸田さんの演技の方がかなり誘惑の度合いが濃かったように思ったし、作曲家の動揺ぶりも谷口さんの方がよく伝わってきた。この場面におけるシュトラウスの音楽の美しさといったらもう例えようがない!
 オペラ編の最後にツェルビネッタが舞台袖から登場し、この作品の本質ともいうべきセルフを歌うが、その時、幸田ツェルビネッタは、さりげなくシートで観劇する作曲家に触れて目を交わし舞台中央へ向かったが、安井ツェルビネッタは、ほぼ素通り。
このように、演出の枠の許容範囲の中で、歌手によってちょっとした違いもあるから、オペラは楽しいのだ。
 ちなみに、関西二期会では、この二人はバルコニーの上に仲良く顔を出したものだ。

Ariadnenaxos_c206 本編のオペラは、能狂言の舞台を思わせるような小ステージとついたて。そこには、まさに安っぽく枯淡の雰囲気ある岩山の絵が。岩戸や洞窟は省かれ、海は舞台仕掛けのみで、バッカスの船はおもちゃで、そこで人(道化たち)が遊んでいる。
具体的なもの、壮大なものは徹底して避け、完全な劇中劇としてのオペラを浮き彫りにしようとの意図。カーテンやカラフルな豆電球、クレーンに乗って姿を出したり引っ込んだりして滑稽ななりのバッカス。最後にむくむくと現れる岩もそれぞれ陳腐とも言える安装置にこだわったかのよう。アリアドネの糸もなし。
先にも書いたが、それらが全体として観てどうだったかは、今考えてみてもよくわからない。
アリアドネは、能の世界に住み表情を読めない。ニンフたちがやたらとまとわりつくのは、ちょっとどうかと思ったけれど、今回の3人のアンサンブルはとてもきれいなハーモニーを聴かせてくれた。
チャップリンやカトちゃんたち(ハルレキンたち)の愉快な歌やダンスにもニコリとしない。
客席のご婦人がたは大喜びだったけど。
佐々木アリアドネは、ツェルビネッタやお笑い芸人たちをともかく無視したが、横山アリアドネは、冷たく睨み返すのみ。
10分におよぶツェリビネッタのアリアでの退席は、歌を無視してツェルビネッタに背を向け花道を降りた。
さぁ、ここからが安井さんの極めて素晴らしかった歌の見せ所。
おもしろいように、コロラトゥーラが決まる。それとともに、客席もどんどん引き込まれてゆく。幸田さんよりも軽い声だが、より澄んでいて愛らしい。甲乙付け難い二人、新たなスターがまた生まれたようだ。彼女が拍手を一番集めていた。
 
バッカス登場で、能の襖絵は真中でふたつに割れ、カーテンの奥に怪しい姿が。
アリアドネの心が溶けたのであろう。表情も変わった。
そのバッカスが、やまあらし頭で、あちこちから、ぬぅーっと登場するものだから、笑いをこらえるのに困ったぞ。
Ariadnenaxos_c210 過度にベタベタしないアリアドネとバッカス。プロローグの登場人物たちが舞台両袖から現れ、腰を降ろし、舞台の行方を見守る。
最後に、ツェルビネッタが登場し、二人の横にたち、「新しい神(男)が愛を求めてやってくると、女たちは黙って身をゆるすもの・・・・」と歌う。
まさに、「コシ・ファン・トゥッテ」であります。
オペラ編のすべての登場人物たちが、その3人を囲み、和やかなムードで記念写真のように揃って幕となった。

横山さんのアリアドネ、佐々木さんの風格に負けず劣らずプリマ然とした気品ある歌声。
どちらもシュトラウスの歌唱としは最高。バッカスにより開放され、変化する様子がとても歌いこまれていた。
青栁さんのバッカスは、元気よく登場しなくてはならないのに、声の威力がいまひとつ。
声が素直でよすぎるので、もっとバカっぽいくらいの傲慢さがあってもよかったのでは。

ワイケルト指揮の東響は、前回はやはり硬かった。
音を押さえているのは、今回も同じだが、シュトラウスの千変万化する音楽を充分楽しむことが出来た。さらなる軽やかさも欲しいと思ったが、精緻さは出せても、日本のオケにはなかなか難しい領域ではなかろうか。

劇中劇に徹底してこだわった今回の演出。多くして語らない部分も多々あったと思うが、2日間、とても楽しんだ。
ダブルキャストそれぞれが、実力伯仲の見事な出来栄え。
シュトラウスのオペラにさらに魅せられてゆく自分であります。

画像は、「クラシック・ニュース」より拝借。

 

    

       

「ナクソスのアリアドネ」の過去記事

 6月26日 二期会公演

 関西二期会公演
 
 
サヴァリッシュとウィーンフィルによるCD

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月26日 (木)

R・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」① 二期会公演

Ariadne_nikikai 二期会公演R・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」を観劇。
関西二期会の東京公演に続き、今年2本目。
同じ二期会グループなのに、まったく異なるプロダクションによる同一演目は、いかなる巡り会わせか不詳なれど、ドイツものに強い本家として、関西とどのように住み分けるのか、おおいに楽しみだった。

初見のメンバーながら、なかなか実力派ぞろいだった関西版。対する東京は日頃見聞きしている方々ばかりで、安心感もある。
ダフルキャストの2本目を観る予定だったが、佐々木典子さんと、なんといっても、幸田浩子さんが日に日に聴きたくてしょうがなくなってきた。
その思いを後押しして、チケットゲットに走らせたのは、幸田さんがDJ出演するFM放送。
「きままにクラシック」という番組で、笑福亭笑瓶との関西弁による楽しくお茶目でかつ知的な会話を運転中などに聞くにつけ、彼女のファンになってしもうた。
番組で、素人代表の笑瓶が、「ツェルビネッタってどんな役ですねん?」と聞くと、「キャッキャ系で、今回はちょっとお色気が・・・」発言に、即携帯ぴあ直行であった。
たんなるオジサン

     アリアドネ:佐々木典子        バッカス:高橋 淳
    ツェルビネッタ:幸田浩子       作曲家:谷口睦美
    音楽教師:加賀清孝          舞踏教師:大野光彦
    ハルレキン:青戸 知         エコー  :羽山弘子
    執事長 :田辺とおる         ほか・・・

     ラルフ・ワイケルト 指揮 東京交響楽団
                 演出:鵜山 仁
                    (2008.6.26@東京文化会館)

Ariadnenaxos_c107_2  舞台の様子は、また明日。
オーソドックスだった関西版に比べ、東京版は特に衣装やメイクが凝ったものだった。
まさにこの世のものらしからぬ3人のニンフたち、ライオンキング、はたまた、ごくせんの生徒かとも思わせたバッカスの頭髪。
ベティちゃんのようなツェルビネッタ。関西では正統イタリア系道化だったが、今回は、お笑い芸人勢ぞろい。
チャップリンにカトちゃんに、かぶりものあり、靴フェチありで、結構笑える。
全体として、明るく楽しいムードに満ちたアリアドネの舞台ではなかったろうか。

さて、注目の幸田さん。繊細で細やかな歌いぶりと、しっかりしたテクニックに裏付けられた軽やかなコロラトゥーラぶり。クセがなく、とても素直な声は誰もが好ましく思うはず。
小柄な容姿と、にこやかな笑顔は、アリアドネの中の狂言回し以上の存在感があった。
長大なアリアは、少しあぶなっかしいところがあったけれど、極めて素晴らしかった。
残念だったのは、というか、けしからんのは、アリアの最後のシュトラウスらしい洒落たエンディングを待たずに、まだ数フレーズ残っているのに拍手が始まってしまったこと。
これには、頭に来たので、しーッと言ってしもうた。
歌の素晴らしさに興奮したのも頷けるが、日本の聴衆もレヴェルも高まっているのだからこうした曲は是非とも予習もして欲しいもの。

Ariadnenaxos_c110 シュトラウス歌唱に関しては、ダブルの横山さんとならんで、随一と思う佐々木さんアリアドネも群をぬいていた。
ドイツ語のディクションの素晴らしさと、しなやかな歌声。すらっと伸びたプリマ然とした容姿。これで、彼女のシュトラウスは、ダナエにマルシャリンに続き3役目。
次ぎは、アラベラかカプリッチョあたりを観たいもの。

バッカスの高橋さん、彼の主役級は初めて聴いたが、その声量にびっくり。
性格テノール系かと思ってたけれど、どうしてどうして、かなりの力強さを伴なった美声で、あまり重くないワーグナー系諸役などよさそう。近くのご婦人が、カーテンコールで、「じゅんちゃ~ん」と声をあげておりました。

他の方々、でこぼこ道化衆やニンフ3人組(羽山さんのエコーきれい)、いずれも皆さん芸達者で文句なし。
中では谷口さんの真剣なる作曲家も姿よし声よしで、楽しみな存在というかファンなりそうなワタクシ。

Ariadnenaxos_c112 W・メストの前のチューリヒ・オペラを率いたラルフ・ワイケルトは、実績充分のオペラ指揮者。N響にも客演してワーグナーやチャイコフスキーを指揮していた。
ドイツもの一辺倒でもなく、ロッシーニも軽やかに振れる人だから、透明感あふれるシュトラウスの音楽を、極めて自然に東響から引き出していたように思う。
小編成のオケが前提ながら、音量はかなり押さえぎみ。ホールの違いはあるが、飯守/関西フィルの方がでかい音が出ていたかもしれない。
大きなホールで、複雑で繊細なシュトラウスの音楽をきれいに鳴らし、その上に声量のあまり豊富でない日本人歌手たちの歌声を響かせようとの指揮だったのかもしれない。
このあたりは、明日、異なる席でまた確認しよう。
 ただ、会場から舞台に登場人物が行き来できるように、ピットに一部ステージを架けたものだから、一部楽員は指揮がよく見えたのだろうか?音も、その影響があったのではなかろうか?

今日は、このへんで。
明日の別キャストで、再度シュトラウスの素晴らしい音楽に浸ることとしよう。
画像は、「クラシック・ニュース」より拝借。

「ナクソスのアリアドネ」の過去記事

 関西二期会公演
 
 
サヴァリッシュとウィーンフィルによるCD

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月 5日 (木)

フランクフルト放送交響楽団演奏会 P・ヤルヴィ指揮

Furankfurt_rso パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団の来日公演を聴く。
このオーケストラは、やはりエリアフ・インバルの名を抜きには考えられない。インバル後、キタエンコやウルフがよく務めたものの、インバルとのマーラーを初めとする精密で分析的な演奏は、このオケの名前についてまわる宿命かもしれない。

ウルフは、シュトットガルトのように、ピリオド奏法をこのオケに植えつけたが、そちらの分野にもめっぽう強い多角的なP・ヤルヴィの音楽監督就任は、誠にいい選択かもしれない。

インバルの幻影を打ち払うことができるか!

私の大好きな演目に、そこそこリーズナブルなチケットで、即飛びついた私だ。

       R・シュトラウス  最後の4つの歌
               S:森 麻季

       マーラー      交響曲第9番

    パーヴォ・ヤルヴィ指揮 フランクフルト放送交響楽団
                        (6.4@サントリーホール)

観客は7割の入り、休憩後のマーラーになって8割くらいに増えたかな?
シュトラウスは、フライング拍手があったりで、客の反応はちょつとイマイチ。
マーラーになると、聴衆の側の聴き入ろうとする空気が違って感じられたから、いかにマーラーが時代を掴んでしまったかがわかる。

Maki_mori そのシュトラウスの歌曲だが、ドレスデンでのゾフィーが巨大NHKホールの前に力負けしてしまった森麻季ちゃんのきれいな声がサントリーホールでは、いかに響くかが、大いに気になるところであった。
そして、結果は・・・私の2Rの席には響いてこなかった。
第1曲「春」の歌いだし「In dammirigen gruften・・・」だけは聴き取れた。
がしかし、その後は完全にオケに埋没してしまっていた。
指揮者の押さえようという雰囲気がなかったから、前方の席ではよく聴こえていたのだろう。前方で観劇した、「ばらの騎士」は全然問題なかったから、一重に声量なのだろうか?
第2曲「9月」のオケを透かして聴かれる歌いまわしや美声は素晴らしいのに・・・。
ここでのホルンのソロの素晴らしいこと!
続く「眠りにつくとき」、「夕映えの中で」は、いずれもオケの奏者達の腕の冴えが目立つ。
 もう少し編成を刈込んでもよかったのでは。
素適な声の持主だけに、オケとの合わせものは慎重にした方がいいのかも。
おなかに、赤ちゃんがいらっしゃるので無理はしないで欲しいし・・・。
今日の彼女、黒いドレスに髪をアップにして、大人の雰囲気。
遠目には、キャスリーン・バトルを思い起させた。
 オケも含めて、昨秋聴いた、シュナイト&神奈川フィルの美音に敵わない。

本日は、二人の世紀をまたいだ作曲家の晩年の作品を集めたプログラムだが、シュトラウス作品が1948年。マーラーの第9が1910年。
38年もの開きがあるのに、かたやロマンティシズムにどっぷりとつかり、過去を回顧するかのような爛熟の響き。一方は、無調の扉を開き、新時代への掛け橋とならんとする彼岸の響き。
どちらも好きなだけに、これを並べたプログラミングの妙に感心。

Furankfurt_rso2 メインのマーラーは、ユニークかつ壮絶な名演とあいなった。
個々のカ所では、初めて聴くような音の押さえ方や、出し方、間の取り方など、細かな点がたくさん散見。大枠で言えば、リズム感が豊かで(パーヴォの指揮はいつも弾むような動き)しなやか。そして明るく、前向きな音楽の運び。
マーラーの第9と、大仰に構えず、1曲の交響曲として全体を見据え、全体を睨みながらも清新な響きを細部にまで漲らせる。
私には、息詰まるような緊張感はあまり感じられず、音楽の美しさ(終楽章の美演)や革新性(1楽章の終わり)を意識させる演奏だった。
後ろ姿のパーヴォ、N響のラフマニノフに続いて2度目だが、その姿が実に指揮者してる。
ブレない正確かつ明確な指揮は、きっとオケからしても頼もしいのだろうな。
恐ろしきヤルヴィ一門。
 終楽章エンディングは、克明な解釈で、しっかり指揮して、オケもしっかり着いていった。
それがまた完璧に決まった。
この曲、お約束となってしまった静寂の享受は、演奏者と聴衆が見事に一体となって完璧だった。
楽員が去る中、ヤルヴィは拍手に呼びだされてステージに再度登場。

それにしても、完璧な精度のオーケストラだ。機能性も充分伺えたし、弦は厚く、管も層が幾重にもある。金管も完璧。ドイツの放送オケはすごい。
そして、明らかにインバルとは違う個性を見出し、フランクフルトは多様性を持ったマルチオケとなる気配を感じる。
心配は、パーヴォ氏の多忙。ドイツカンマーに故国のエストニア・オケ、シンシナシティに、このフランクフルト。さらにパリ管までも手中に・・・・。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年5月21日 (水)

R・シュトラウス 「ティル」「ドン・ファン」「死と変容」 セル指揮

Matsusaka_cat 私は、無類の犬猫好きだけど、まだ猫と暮らしたことはありません。

今、ご一緒するなら、「ねこ」だけれど、現状は集合住宅の規約ゆえ不可能。
でも、いずれ死んでしまうことを考えると、かわいそうでご一緒できない。

だから、街で見かける「ねこ」を追いまわしてしまう。

こいつは、とある公園で見かけた、後姿のいいねこ。
最近死語の「バックシャン」ねこである。体を包む尻尾、丸くなった背骨、三角耳の生えた丸い後頭部、前足は折りたたみ、肩が上がっている。いいねぇ~。

Szell_rstrauss

R・シュトラウス作品シリーズ。
今晩は、定番の「ティルオイレンシュピーゲル」と「ドン・ファン」「死と変容」の3つの交響詩を収めた名盤を。
3曲で約55分。
本来、LP1枚に収まるのに、LP時代はなかなかなかった選曲。
ドンファンとティルをLPの片面に収めるのが厳しかったのかもしれない。
かといって、この組み合わせのCDもあるようでない。

このカップリングの数少ないLP、ジョージ・セル指揮のクリーヴランド管弦楽団のものは、文字通り擦り減るくらいに聴いた思い出の名盤。
詰め込んだA面は、ちょっと音量レヴェルが落ちるけれど、3曲ともに、極めて音楽的で明晰な録音。カートリッジやスピーカーの配置を換える度にレファレンス的にも愛用した1枚なのだ。

CD化されたものは、かつて国内盤で一度出たきり。
組み合わせを替えれば、それぞれ手に入るが、ちょっと寂しいぞ。

メリハリの効いた強弱豊かなティル、光彩陸離、一直線のドン・ファン、割れるようなホルンの咆哮に、凄まじいばかりにオケをドライブするセル、手も着けられないくらいに一気加勢の死と変容。
いずれも、シュトラウスが描いた数分の音楽のドラマを鋭くえぐりだし、巧みな棒さばきで、優秀なオーケストラから、熱狂とともに、明晰かつ怜悧な音楽を引き出した名演。
こんなすごい演奏に、多弁無用。
まだお聴きになったことがなければ、この3曲のどれかを是非お聴きいただきたい。
いやになっちゃうくらいの、セルの名演奏。
おまけに、1957年の録音とは思えない、分離のいい素晴らしい録音。

Matsusaka_cat2_2 さて・・・、後姿・バックシャンの真のお姿はこちら。
あれ、あれれ??
あんた、その顔どーしたの?
お疲れ様です、くたびれ、おんぼろムードのねこでした。
顔洗いましょうよ。

| | コメント (10) | トラックバック (2)

2008年5月 3日 (土)

R・シュトラウス 楽劇「エレクトラ」 シノーポリ指揮

Komeda1このところ、名古屋に仕事でよく行く。名古屋は、亡父に次ぎ、親子二代に渡って、単身赴任した地だけに愛着がある。
義弟までもが、千葉から転勤して、当地で嫁をめとってしまったがや。

名古屋東海地区のグルメを連続冒頭に紹介するで、見とってね。

まずは、超メジャーな「コメダ珈琲」だがや。
昼食時に、軽食というより、ボリュームたっぷりの食事が出来るがね。
この日は、コーヒーにハンバーガーを注文。登場したバーガーは、どえりゃぁデカくて、びっくりだったわ。
直径約15センチ超はあろうかと。バンズは、柔らかくてキメ荒いし、パティも普通で大味。
でもこの大きさと、普通にうまいコーヒーに満足ぜにゃぁね。
いや、関東を車で走っとって、喫茶店は絶滅状態。コメダのような、キレイで寛げて心配りの豊かな店は知りゃぁ~せん。
関東にも進出し、横浜あたりの店は超混雑しとるがね。
名古屋発の喫茶店文化、コメダの業態を借りて、全国制覇も可能かも知れんて。
喫茶店のモーニングは、赴任時代結構味わったけど、かなりスカレートしとるみたいやな。
(名古屋地区のみなさま、こんな物言いをして申し訳ありませ~ん)

Elektra_sinopoli

R・シュトラウスの4作目のオペラ「エレクトラ」は、前作「サロメ」と同様、楽劇と名付けられた。
44歳の壮年期の作。
前作と同様ワーグナー以上に、刺激的な大音響や不協和音が溢れていて、後年の新古典的なシンプルサウンドを好む者からすると、この2作は、ちょっと聴くのが辛い。

作品の大まかな内容は、かつて取り上げたバレンボイム盤の方をご覧下され。

ギリシア神話に題材を求めたこの作品、エキセントリックで強烈な娘が主人公であり、超ドラマテックなソプラノを要することで、サロメと同じような存在。
人が死ぬ場面も満載。おまけに、エキセントリックつながりで、テノールの役の義父、不貞の実の母、というところまで一緒。
 異なるところは、親も親なら・・・・がサロメなのに、エレクトラは、見た目イってしまっていても、亡父の復讐を心に秘めた列女で、ごくありきたりの女である妹との対比も鮮やか。
でも、弟との再会に近親相姦とも思えるくらいに異常なまでのエクスタシー状態になるところなんざ、サロメと違った意味でコワイ。
弟エギストは、反逆者であり、かつ解放者である。これはイコール、サロメのヨカナーン。
 よって、「サロメ」との相違点で明確なのは、妹クリソテミスの存在のみ。
良識と家庭と子供に憧れる女性。シュトラウスが書いた、もっとも大人しい女性かも。

 エレクトラ:アレッサンドラ・マーク   クリソテミス:デヴォラ・ヴォイト
 クリテムストラ:ハンナ・シュヴァルツ エギスト  :ジークフリート・イェルサレム
 エギスト   :サミュエル・ラミー   

   ジュゼッペ・シノーポリ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                           (1995年9月録音)

Elektra_sinopoli2 シノーポリが残した貴重なシュトラウスのオペラ録音。
「サロメ」「エレクトラ」「アリアドネ」「影のない女」「平和の日」の5作で終わってしまった。
残る10作を順じ取り上げる予定だっただけに、その早すぎる死が惜しまれる。
シュトラウス、ワーグナー、プッチーニ、ヴェルディはおそらくすべて録音してくれたかもしれないシノーポリ。
精力的なばかりでなく、味わいあるドラマをオーケストラから引き出しつつあった頃。
ウィーンフィルの絶叫しない音色を自在に操りながら、見事なまでのクライマックスと熱狂を導き出す。エギストが現れてからの後半の盛上げ方なんぞ素晴らしいの一言につきる。
実際、義父・母が逝ってしまってからの熱狂の音楽はものスゴイっす。
最後の強烈なエンディング!! ウィーンフィル最高。

スターを揃えたキャストに文句なし。
低音域に難はあるものの、圧倒的なパワーとキレのよさを聴かせるマークのエレクトラ。
同様にドラマテックだが、優しい声の持主ヴォイト。このアメリカン巨大コンビは、ちょいと聴きもの。さらに、マッチョなレミーのエギストも、シリアスすぎて怖いくらい。
シュヴァルツイェルサレムの唯一ドイツ・コンビは、妙に歌い崩さず、生真面目に歌っていて、不可思議ないやらしさが出ているように思う。

この楽劇、最近舞台じゃご無沙汰かも。
新国で2006年に上演された時は、見逃した。
大昔、小沢/新日フィルのセミステージ上演を観劇したのみ。
この時は、中丸さんのほぼデビューだった。
新国の再上演、レパートリー化を望む。

  

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月20日 (日)

R・シュトラウス 「影のない女」 カラヤン指揮

3静岡の居酒屋の名店「鹿島屋」にて、旬の「かつお」を食す。
「かつお」は大好物なのである。

肉厚の切り身は、食べ応え充分で、一口頬張れば、かつお特有のねっとりとした食感と、芳醇な味が楽しめる。
そして、そのあと純米酒を口に含めばもう・・・・・・・。

たまりませんなぁ。

Die_frau_ohne_schaten_karajan

先日、HMVをチェックしに覗いたら、長く見かけなかった、カラヤンR・シュトラウス「影のない女」が復活して店頭に並んでいた。
「かつお」とともに大好きなオペラ。
しかも3890円也と嬉しい価格。(後で調べたら、ネットでうまく買うともっと安い!)
そくレジに直行。ついでに、尾高&札響のエルガーも手にして。

カラヤンは、正規録音として「影のない女」を残すことがなかったから、このウィーンライブは唯一のものとなる。
シュトラウスを得意にしたカラヤンが、録音したオペラは、「サロメ」「ばらの騎士」「アリアドネ」の3作に、同じライブ音源の「エレクトラ」と「影のない女」と意外に少ない。
オーケストラ曲なら豪奢に聴かせることに長けたカラヤンが、シュトラウスの後半生を飾ったオペラ作品の大半に手を出さなかったのもわかるような気がする。
新古典主義的な簡潔さと、地中海的な明晰さ・晴朗さといった要素が支配的な後半生の様式が、カラヤンに合うようで合わない。
ベームやクラウス、サヴァリッシュらとの個性の違いで言いえることでもあろうか・・・。
私のかつてな思い込みかもしれない。ダフネやカプリッチョあたりをやっていたら、すごく面白かったに違いない。

なんてことを思いつつ聴いたこの「影のない女」。
シュトラウス生誕100年の記念公演でもった、1964年6月11日、ウィーン国立歌劇場での公演は、きしくもカラヤンが、ウィーンと決裂して分かれてしまう最後の上演の一環ともなったらしい。
以降、1977年の歴史的な復活まで、カラヤンはこの劇場のピットに姿をあらわすことがなくなった。
以降のカラヤンのオペラ上演は、ザルツブルク音楽祭と、手兵のベルリン・フィルを初めてピットに入れることとなった、1967年から始まるのザルツブルク復活祭が中心となる。

「魔笛」にも似た錯綜する筋と荒唐無稽のお伽話、長大な内容で、慣習的なカットも施されることが多いが、カラヤンはより簡潔に、舞台転換もスピーディにするかのように、さらなるカットをなしている。大きなものでは、2幕の3場と5場のバラクの家での二つの場面がひとつにされている。
これはちょっといただけないと思ったが、当時の上演体制では、やむを得ない処置なのだろうか・・・・。
そんなこともあって、1幕63分・2幕53分・3幕55分、と短めの演奏時間。

早めのテンポで全編さっそうと進められるのがカラヤンらしいが、思い切り歌われるバラク夫妻の愛情こもった音楽や、2幕のエンディングのすさまじいまでの、猛烈きわまりない興奮。3幕の、皇后の葛藤を描く緊張感。そして最後、夫婦愛を唱和する二組で迎える幕切れの高揚感には、こちらも涙ちょちょぎれ状態だ。
オペラ指揮者としてのカラヤンの実力を見せ付けられる。
 かなりライブな雰囲気に満ちているため、ちょこちょことミスもあるし、弦のウィーン風のポルタメントな弾き方が少し古さを感じる。カラヤンならもっと完璧であってしかるべきかもしれない。

  皇帝 :ジェス・トーマス       皇后 :レオニー・リザネック
  バラク:ヴァルター・ベリー      バラクの妻:クリスタ・ルートヴィヒ
  乳母 :グレイス・ホフマン      使者 :ヴァルター・クレッペル
  若い男:フィリッツ・ヴンダーリヒ  鷹の声ほか:ルチア・ポップ
  天の声:マルガリータ・リロヴァ

    ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
             演出:カラヤン
             舞台装置:ギュンター・シュナイダー・ジームセン
                       (1964.6.11)モノラル録音

このライブの聴き所は、カラヤンもさることながら、充実した歌手陣にある。
見ていてため息のでるような顔ぶれ。
トーマスの皇帝は、カイルベルト盤よりヒロイックで、弧高の悲しみに満ちた歌唱で、トーマスらしい気品がまた素晴らしい。キングとコロと並んで最高の皇帝だ!
ルートヴィヒのバラクの妻は、もしかしてこれが唯一の音源かもしれない。これがまた超素晴らしい。ドラマテックな歌唱を要求される難役だが、皇后以上に、世俗に悩まなくてはならないその苦しみを、圧倒的な歌唱力でもって歌いのけている。
私生活でも夫役のベリーの暖か味ある歌唱とも共通した、人間味豊かな歌に感銘。
ちょい役で、ヴンダーリヒや若いポップの歌が聴けるのも、カラヤン治世下におけるスター主義の贅沢。
リザネックの聴きようによっては、ささくれたような歌は、確かに部分的に荒く感じるが、さすが、皇后にかけてはほかに右に出る歌手も見当たらない、役にのめり込んだ迫真ぶりがよい。後のベームや実演で観たドホナーニのハンブルク来日公演となんら変わらぬ歌いぶりが、息の長い歌手であることを思わせる。
聴きどころの、影を拒む「Ich will nichit!」は、後年のものの方が感銘が深いように思った。

それにしても、シュトラウスのファンタジーと人間愛に溢れた音楽は素晴らしい。

 過去記事の自己リンク

 サヴァリッシュのCD
 ショルティのDVD&ドホナーニ/ハンブルク歌劇場来日公演
 「影のない女」幻想曲 スウィトナー

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月16日 (水)

R・シュトラウス 「サロメ」 ラインスドルフ指揮

Peach Plim1

左が「桃の花」、右が「プラムの花」。
どちらもおいしい果実がなり、その花もあやしいまでの美しさだ。
晩春を彩る短い命か。

Salome_caballe 本来の旧約聖書上、「サロメ」は少女ということになっている。
オスカー・ワイルドの戯曲では、その少女は妖艶で淫蕩な性格となっているため、R・シュトラウスの楽劇でもそうした設定が音楽上なされていて、さらに何かに憑かれたかのような狂信ぶりも加味されているから、実におっかない女なのだ。

そのサロメ、重量級ドラマティック・ソプラノの難役だし、舞台では踊りも披露しなくてはならない。
かつてのサロメは、歌がすごければ舞台でも全然OKだったが、今や演技と風貌も伴なわなくてはならない時代となり、われわれの目も肥えてしまったもんだ。

そんな思いを抱きつつ聴いたのが、今日の「サロメ」。
なんと、「モンセラット・カバリエ」が歌っているラインスドルフ盤
これが聴きたくて購入した、「カバリエ・オリジナル・ジャケットコレクション」で15枚のCDがそれぞれ紙ジャケットに収められボックス化された。しかも激安。
懐かしいジャケットのオペラアリア集やスペイン歌曲、シュトラウス歌曲、ノルマ全曲など、これまで未CD化のものばかり。

   サロメ :モンセラット・カバリエ    ヨカナーン:シェリル・ミルンズ
   ヘロデ :リチャード・レヴィス     ヘロディアス:レジーナ・レズニック
   ナラボート:ジェイムズ・キング    ヘロディアスの小姓:ユリア・ハマリ
   
       エーリヒ・ラインスドルフ指揮 ロンドン交響楽団
                             (1968年6月録音)

オペラ好きなら、思わず唸るこのキャスト。
イタリアオペラばかりに思われるカバリエミルンズキングハマリがちょい役に。
ラインスドルフの指揮もシュトラウスは珍しく、ロンドン響のシュトラウス・オペラも他にあったかな?

聴いてみて、いずれも違和感なく堂に入った歌唱に満足の極み。
カバリエは、ベルカントものから徐々にドラマテックな役柄にレパートリーを広げていったように思われるけれど、若い頃からシュトラウスを得意にしていて、元帥夫人やサロメ、アリアドネ、アラベラなどをも歌っていた。
そう考えると、モーツァルトからワーグナー、ドニゼッティからプッチーニ、ベルリオーズからプーランク、独・伊・仏のすべてのレパートリーをものにしたカバリエのような歌手は他にいないのではなかろうか。
同じスペイン出身で考えると、知的な歌唱においても、後輩のドミンゴと同じことがいえるのではないだろうか
一重に、一時期のあの体型がイメージとしてのマイナス要素だったかもしれないし、彼女の実際の舞台で相当苦労を強いられていたはず。
私は、唯一の舞台体験として、NHKのイタリアオペラの「アドリアーナ・ルクヴルール」を観たが、あの巨大で無機質のNHKホールの隅々に響き渡るピアニシモの歌声は、カバリエをおいて他に見当たらない。見た目には、カバリエとコソットの強烈コンビに翻弄されるカレーラスが気の毒に思ったくらいだけれど。
 そのカバリエのサロメは、少女でもあり、妖婦でもあり、その声の芳醇かつ豊満なことといったらない。独語の子音の発音が弱いかもしれないが、その極めて幅のある歌唱は、豊かな肉体という共鳴体が生み出す、繊細な楽器へと化しているかのようだ。
重ったるい独系や、怜悧すぎる北欧系のサロメと比べ、透明感と肉惑が一体になった魅力的なサロメ歌唱ではないだろうか

マッチョなイメージのミルンズが歌うヨカナーンは、以外に真面目で、かつ大人しめ。
エコーがかかった声が、井戸から償還されると、力強いリアルな声での歌唱になるが、録音の魔術はあるとしても、その変幻ぶりが実にリアル。
豊麗で啓蒙的なミルンズの声は、サロメではないが、聴いていて快感をも覚える。
でも独語との違和感が強く、カバリエ同様、子音が引っ掛からない。なめらかにすぎる。

そんな中で、切羽つまったような、極めて贅沢なキングのナラヴォートが存在感溢れている。
録音当時はジークムント歌いとしてギンギンに鳴らしたヘルデン・テナーが振られ役の端役。この劇の第一声は、キングの「Salome~」で始まるから、この録音が極めて締まったものになったとも言える。

キングで聴きたかったヘロデのレヴィス。演技派の英国歌手は、そんな思いを吹き飛ばすような、めらめらした怪しげなヘロデを歌っている。
レズニックの憎たらしいヘロディアスや、若いハマリも存在感がすげぇことになってる。

発売当時は、イマイチの評価だったろうが、今聴けば全然OKの「サロメ」。
オケは巧いもんだが、ラインスドルフの指揮が時に無粋かつ無機質に感じ、情感と切れ味不足。それゆえか、最後の場面、特に死ねと言わんばかりの迫力はコワイ。
当時のRCAは、オペラはラインスドルフばかりだった。ウィーン生まれのマルチ指揮者。
意外にプッチーニ、ヴェルディなどがよかったし、ワーグナーはロマンテック系がよかった。
考えたら不思議指揮者、ラインスドルフ。

カバリエは後年、バーンスタインとサロメの一部を録音したが、この全曲盤と比べ、その老練さと指揮の雄弁さばかりが目立つが、旧盤の新鮮なサロメは、なかなかに聴けるものではない。

 「サロメ」過去記事自己リンク

  ショルティ指揮のCD
  新国立劇場公演

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月 3日 (木)

R・シュトラウス 「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 マリナー指揮

Hama_neko 酒場の路地をさまよっていたら、どこからかネコの鳴き声がする。
さがしてみると、頭上、二階の屋根からこちらを見下ろしているじゃない。
フラッシュを炊いてパチリと撮ると、ご覧のようなまさに猫目(赤目?)。
結構笑える1枚になりましたよ。

Strauss R・シュトラウス・シリーズ、今日はあまりにも有名な「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を。
「ドン・ファン」「マクベス」「死と変容」に続く4作目の交響詩で、1895年の作。
オペラの分野では、まだ第1作の「グンドラム」を仕上げたばかりの31歳。
早熟なシュトラウスは、もうこの若さで、オーケストレーションの魔術師のような熟達ぶりだ。

副題は「昔のならず者の物語によるロンド形式の大オーケストラのための・・・・」となっている。
馬にのって暴れ、市場に飛び込んだり、小便を引っ掛けたり、女性をナンパしたりと、やりたい放題のティルは、最後死刑台の露と消える・・・。15分あまりの曲に、こうした出来事が音としてリアルに表現されている。
オーケストラ・ピースの1曲に過ぎない評価を与えられかねないが、じっくり聴くとオケは難しいことをいろいろとやっているし、精緻で細やかに書かれた名作に思える。

サー・ネヴィル・マリナーのR・シュトラウスなんて聴いているのは、私ぐらいかしらん。
イメージがそぐわないからかもしれないが、どうしてどうして、かなり本格的な名演なのだ。
というか、語り上手でもないし、濃厚なロマンもないし、華やかさもないのだけれど、スッキリと整然としたシュトラウスは、これらを聞き古した耳には、とても新鮮に響く。
かつて手兵であった、シュトットガルト放送響がまたスリムで機能的。
味のありすぎる演奏に飽きたら、こうした何気ない演奏で耳を掃除するのもいいもんだ。
この「ティル」や「ドン・ファン」もいいが、「カプリッチョ」前奏曲や「ばらの騎士」組曲がまた実によろしい。涙がでるほど粋な演奏。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月23日 (日)

R・シュトラウス 楽劇「ばらの騎士」 神奈川県民ホール

Rosen_yokohama_1 横浜で「ばらの騎士」を観劇。オープン戦を横目にスタジアムを通り抜け、県民ホールへ。
昨年から続く「ばら戦争」、通算4回目。
新国・チューリヒ・ドレスデンのこれまでの3作いづれも印象に残る舞台で、いまでもありありと思い出すことできる。

トリをつとめるベルリン・コーミッシェ・オーパーのプロダクションはいかに!
びわ湖ホールと県民ホール、二期会の共同制作ですでに大津では上演済みとのこと。
最大の見物は、アンドレアス・ホモキの演出。
この人の演出、新国で「西部の娘」を見たが、簡潔な装置ながら、人の動かし方が細やかで、演劇性が強いという印象がある。

舞台の様子を。(これから観劇の方、ご覧にならない方が・・・)

第1幕
 舞台の中に屋敷の断面が据えられている。舞台いっぱいではなく、室内は狭い空間。窓ガラスもなく(上部にある天窓は閉じられている)、三方にある扉だけ。真ん中のベッドの下でじゃれあう二人。テーブルがないから、運ばれた食事はベッドの上、あげくのはては床におかれ、マルシャリンはパンをくわえてオクタヴィアンとおふざけ。
 オックス登場に大慌てするも、剣や靴はいつもマルシャリンとオクタヴィアンが隠しもっていて、その様子が観ていて楽しい。執事などの恰好からして、時代設定は作曲者の意図したマリア・テレジアの時代の様子。
オックスは早くも鬘をとり、そのはげ頭を露出させている。
孤児や売り子、イタリア人コンビなどが入ってくるが、その狙いは何故か最初はオックス男爵。そして全員出ていってしまい、イタリア人歌手の歌が始まるのにどうなるかと思ってい
Berlin たら、ひとりマルシャリンが、ロココ調の白いドレスと鬘で現れ、その後から大仰な成りをした歌手が着いてきて、彼女のために例のアリアを歌う。
周囲も暗くなり、ここにマルシャリンの心の転換のポイントを見たホモキの演出は明らか。
 以降、彼女はアンニュイに浸り、戻ったオクタヴィアンにもそっけない。
オクタヴィアンの仕草が、男の私が見てても、ほんといじらしい。
諦念にとらわれるマルシャリンをどう表現するか、この劇の演出の核心でもあるが、ホモキは彼女が何もない舞台に立ち尽くすことで、そのすべてを表現した。

第2幕
 幕が上がると、前幕と同じ設定。ファーニナル家の人々が家具や調度を忙しく運んでいる。ちなみに、時計は最後まで、11時30分のまま。
彼らは、20世紀初頭の衣装で、いつの間にか時代が早まっている。
ゾフィーや父親もダークグレーのスーツやドレスで機能的。
そわそわと、騎士登場を大勢で待つなか、意外やアッサリとオクタヴィアン登場。
黒の軍服姿は、警察官のようで、華やかさはコレッぽちもない。
「銀のばら」は箱に入ったまま手渡され、蓋を開けて覗きこむ次第。
二人で覗き、視線を合わせると、家中の人々がピタリと動きを止めてしまう。
Berlin3 周囲静止したまま、若い二人は夢のように美しいシュトラウスの調べに乗せて二重唱を歌う。
オックス男爵は、その仲間も含め、のっけから粗暴で、いやらしい。ここでも早くも、鬘を脱ぎ捨ててしまうし、ゾフィーにのしかかってしまう。ご機嫌な男爵やファーニナルにくらべ、ゾフィーのショックの表現は並々でない。男爵のワルツにのって、すすり泣くのだ。
 私の大好きな、若い二人の二度目の二重唱は、距離をだんだん縮めながら歌う場面が自然で、その素晴らしい音楽とともにウットリとしてしまう。
 男爵に一撃を加える場面は、なんだかわかんない(見ようによっては、自分から刺されたみたいに)うちに突かれてしまう。その後の騒動は全員出動で、大騒ぎ。
こんな騒ぎは見たことない。ファーニナルと喧嘩したゾフィーは何故か服を脱ぎ捨ててしまい出ていってしまう。
怪我しながらも、ワインで気分がよくなる男爵。舞台は、左に傾き斜めになった。
マリアンデルのニセ手紙のシーンでは、ご機嫌の男爵を、オクタヴィアンとヴァルツァツキが物陰から楽しそうに見ている。

第3幕
 舞台は傾いたまま、でも枠が逆さまになっている。閉ざされていた丸窓がぽっかり空いて下にきていて、かつての出入口は上部にあって、扉は壊れてぶら下がっている。
家具や調度もみな斜めに倒れている。
ここが料理屋の特別室とは思えない。廃墟のようだ。男爵とマリアンデル(オクタヴィアン)は立ち飲みのように、家具の上にワインを置いて酒を飲むし、倒れた家具のドアを開けるとフトンが転がりでてくる。
オクタヴィアンの女の子ぽい動きがとてもかわいい。ワインは2杯、一気飲み、あとはボトルをラッパ飲み。笑える。
お化けや奇妙な動きがあるのでなく、派手な雷鳴が何度もとどろく。その度に、男爵は布団に転がる。当然、ここでも鬘はどこかへいったまま。
仕上げの、本妻と隠し子登場に、舞台上は給仕ばかりか大勢の人々で溢れる。
オクタヴィアンは子供たちの合唱指揮までしている。
警部登場は、ピシッとコートを着た、まるで、ドラマに出てくるような警部。取り調べも部下を伴ない本格的だ。呼ばれたファーニナルは、殺傷事件もあって相当にくたびれたまま。
ゾフィーも下着の上にコートを羽織っただけ。
 そして真打、元帥夫人登場となるが、例の丸窓をかいくぐって出てくるので、威厳がちょっと・・・・。でもこれで、最後のクライマックスにむけてひたひたと感動が高まってゆく。
すべてを悟ったはげ頭の男爵、なかなか往生際が悪い。これを一括するマルシャリンは、かなり厳しく言葉でたしなめるが、態度ではなく、言葉だけでも今日の佐々木さんの歌は凄かった!
 何かが飛んできたかのように、舞台の4人は中空を見る。(いったい何の意図なんだろ?)そして、男爵が大騒ぎで出てゆく場面でも激しく雷鳴がとどろき、全員おおあらわ。
最後の絶美の3重唱、ごちゃごちゃした家具はみな騒ぎのなかで片付けられて、なにもない舞台に3人三様に立ち尽くす。
ゾフィーに近づく元帥夫人。どぎまぎして、仕切りに躓き尻餅をついてしまうゾフィー。
彼女に手を貸し立ち上がらせる元帥夫人。こうしたちょっとした動きに意味がこもっている。「この日が来ることがわかっていた・・・・・」ここでついに、マルシャリンの時間が一挙に現実のものとなった。
ファーニナルを元気づけるのは、馬車で送ること・・、との言葉に若い二人は声をあげて笑う。こんなの初めてだ。なるほどね。
恋人二人は外へ出てしまい、その歌い声がするだけで、舞台にはマルシャリンがひとり。
その歌声を聴き入っていたかと思うと、その場に倒れる・・・、でも気を取り直し、起き上がり鬘を脱ぎ、白いドレスも脱いでしまった。ロココ時代から一挙にほかの人々と共通の時代の人となったかのようだ。
思い出したように、「銀のばら」の箱を片隅から拾いあげると、マホメット君登場。
1幕では、インド風のお小姓だったのに、こんどは、ニューヨークにいるような黒人のカジュアル・ボーイに変身している。
その彼、マルシャリンから箱を受け取り外へ走りでてゆき、それを見送るマルシャリンが舞台に残り、鮮やかな幕切れとなった!

長くなってしまったけれど、自分の鑑賞記録だからもうちょっと。
プログラムのホモキの言葉によれば、時代設定は20世紀初頭。ロココの1幕から始まることで、舞台空間の外側では時間が進行していることを意味付ける、とある。
なるほど、これは秀逸に思う。このオペラの最大のモティーフは、老い(時代)を先行して呼んだ元帥夫人の悩みでもあるのだから。
そして、やたらにみな服を脱いだけれど、元帥夫人は、最後にまとっていたドレスを脱ぐことにより、没落しつつある貴族、そして若いツバメのいた自分からの脱却と新しい一歩を意味していたように思う。終幕の場面では、明るい表情だった。
モハメドが、もう小姓でないのも同じこと。
ゾフィーは、父の言いなりの「よい子」からの脱却なのだろうか。

まだまだいろいろと考えたくなる、面白い舞台。
一挙手一投足がこのオペラすべてに渡って見逃せず、意味がある。
ホモキの舞台は大掛かりな仕掛けはないが、表情や細かな動きまでに気を配った繊細な演出であった。

  元帥夫人 :佐々木典子      オクタヴィアン:林美智子
  オックス男爵:佐藤泰弘       ゾフィー   :澤畑恵美
  ファーニナル:加賀清孝       マリアンネ  :渡辺美佐子
  ヴァルツァッキ:高橋 淳      アンニーナ :与田朝子
  テノール歌手 :上原正敏         ほか

      沼尻竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                 びわ湖ホール声楽アンサンブル
                 二期会合唱団 (3月22日 神奈川県民ホール)

広いけれど、よく声の通るホールに、室内劇風の演出もあって、日本人歌手たちは、全員驚くほどイキイキと演じ、歌った。
先般のワルキューレにもまして、日本人によるドイツオペラもここまで来たかの感が強い。
一番素適だったのが、佐々木さん。バイロイトでも歌った彼女の言語明瞭で、しなやかな歌声はシュトラウスにピッタリ。以前のダナエの愛の感激がまた味わえてうれしい。
そして、林さんのかわいいオクタヴィアンには、お父さん参ったヨ。
もちろん、歌も立派でした。
少しバリトンがかってはいたけれど、声量豊かで、かといって低音もしっかり響かせていた佐藤さん。細やかな表情づけがきれいな澤畑さん
ほかの皆さんも、よかった。

沼尻氏の指揮は、まず無難なものだったけど、演出や歌手たちを考えよくオーケストラをコントロールしていたように思う。
指揮に色香にない分は、神奈フィルのきれいな音が補っていたのではないか。
おかげさまで、毎週のようにこのオケを聴く機会があるが、弦と木管が実にきれいだ。
石田氏は今日は降り番だったが、ピットをのぞくと、いつものメンバーがずらり。
ときおり乱れもあったが、在京の某オケのように致命的にならないところがいい。

今日も、お決まりの涙ひとしずく、の場面は、1幕のマルシャリンの独白、2幕のふたつの二重唱、3幕の三重唱・・・・。

4つの「ばらの騎士」を体験して、ますますこのオペラが好きになってゆく思い。
9月には、アルミンク/新日フィルがセミステージ上演するが、なんと藤村美穂子さんがオクタヴィアン、森麻季ちゃんがゾフィーなのだよ。ついにバイロイトでクンドリーを歌う藤村さん、日本の宝ですよ。

最初から、ゲホゲホしたり、ウェッヘンとか声を発する爺さんがいて気になったが、2幕で指揮者がいざ棒を振ろうというタイミングで、うェ~イ~と大きく一発。
これには、会場うけて沸いた。沼尻さんも、思わずずっこけてたし。ははは。

幕間に、山下公園を散策し、これまでの「ばらの騎士」の舞台などを思い起こしていた。
その比較や感想はまたの機会に。

 
  新国立劇場        シュナイダー指揮
  チューリヒ歌劇場     ウェルザー・メスト指揮
  ドレスデン国立歌劇場  ルイージ指揮
  
  バーンスタイン指揮のCD

| | コメント (6) | トラックバック (2)