カテゴリー「ショスタコーヴィチ」の記事

2017年3月21日 (火)

ショスタコーヴィチ ふたりのペトレンコ

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お彼岸の昨日。

東京は、温暖の陽気に。

ここ、増上寺も、桜がちらほらと、開花し始めました。

東京の開花宣言は、靖国神社で、そちらが、まだ準備ととのわずとのことだったけれど、21日の今日、開花宣言なされました。

春ちかし。

が、しかし、冷たい雨で、一進一退・・・・

で、ペトレンコ。

Petorenko

これからの、オーケストラ界をリードする指揮者たち。

今回は、ふたりのペトレンコ。

ニュース的に、情報量の少なさや、日本での馴染みの不足から、驚きの報だった、キリルの方のペトレンコ。

シベリア地方の出身で、音楽家だった両親とともに、若き日に、オーストリアに移住し、同国と、ドイツのオペラハウスで、叩き上げのオペラ指揮者として、徐々に頭角を現すようになった。
 そんな、伝統的なカペルマイスター的な、積み上げの成果が、バイエルン国立歌劇場の音楽監督や、バイロイト音楽祭でのリングに結びつき、そして、ベルリンフィルの指揮者という最高のポストにたどり着いた。

2018年の正式就任には、46歳となるキリルさにん。

天下のベルリンフィルに、この年代で若すぎるのでは・・、と思ったら、現任のサイモン・ラトルは、47歳での就任だった。
クラウディオ・アバドは、さまざまな華やかなポストを歴任したあとの、ベルリンフィル音楽監督は、57歳。
ちなみに、カラヤンは、フルトヴェングラーのあとを継いだのは47歳。

より自主性を増したこのオーケストラの判断の正しさは、これまでの歴史と経緯が物語ってます。
そして、さらに、キリル・ペトレンコの音楽メディアに対する慎重さが、ユニークであり、そして、キリルに対する謎めいた雰囲気を高める効果ともなっている。
 いま聴ける、正規音源が、スークの作品と、ベルりンへの客演映像のみ。
商業的にたくらみそうな、ベルリンフィルとの録音や、バイエルンでの映像もなし。

いいじゃないか、こんな硬派な存在!

数年前のライブ録音を、youtubeから聴いた。

 ショスタコーヴィチ  交響曲第7番「レニングラード」

   
キリル・ペトレンコ指揮 RAI交響楽団


2013年ごろの演奏会ライブと思われます。
RAIは、トリノのイタリア国営放送のオーケストラで、ローマと、ミラノ、トリノにあった放送オケをトリノで一体化させたもの。

 スピード感と、音圧のすごさを、この放送音源からでも感じます。
そして、重苦しくならない、軽やかさと、不思議に明るい解放感も。
 終結の、豪勢きわまりないエンディングも、このイタリアのオーケストラから、びっくりするぐらいの精度も伴って引き出してました。
 しかしながら、表面的な効果狙いとは遠く、さまざまな問題提起のある、意義深いショスタコを聴いた想い。
これはまた、ベルリンでのショスタコの全曲演奏に、大いなる期待を抱かせてくれるひとこまでありました。
 ちなみに、戦争の主題の繰り返しのサブリミナル効果場面では、ものすごい興奮と熱狂が聴く人を待ちうけてますよ。

こういったところも、うまいんだ、これまた、キリルさん。

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  ショスコーヴィチ 交響曲第13番「バビ・ヤール」

     Br:アレクサンダー・ヴィノグラードフ

 ヴァシリー・ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団
                       〃          男声合唱団
                  ハッダーズ・フィールド・コーラル・ソサエティ

                       (2013.9 @リヴァプール)

もうひとりのペトレンコ、ヴァシリーの方は、今年41歳。

キリルと比べても、まだ若手だけど、しかし、もうすでに多くの録音と、日本への数度の来日もあって、その存在は、ひろく知れ渡っている。
 サンクトペテルスブルクの出身で、若き日々にソ連崩壊を経験し、音楽家としては、オペラの道を極めようとした点で、キリルと同じ。

しかし、旧西側でのポスト、ロイヤル・リヴァプールフィル、さらにはオスロ・フィルの指揮者となることで、コンサート指揮者としての存在ばかりが評価されるようになった。
この世代としては、録音に恵まれていて、ナクソスとEMIに、相当量の音源を残しつつあるし、共演盤も多いことから、合わせものでの才覚もある。
 が、しかし、ヴァシリーさんは、キリルと異なって、得意であるはずのオペラに、いまだに恵まれていない。

キリルさんの方は、とんとん拍子に、オペラとオーケストラを高度なポストでもって披歴することが可能となったが、ヴァシリーさんは、いまのところ、コンサート系のみ。
 オペラのポストは、なにかと忙しいし、苦難も多いから、それがゆえに、才能あふれるヴァシリーさんには、どこかオペラのポストも得て、ゲルギーなみの物理的な多忙さをコントロールしていって欲しい。

で、リヴァプールフィルによるショスタコーヴィチは全曲録音も完結し、次々に、多様なプロジェクトに取り組むヴァシリーさん。
ロシア物以外にも、エルガーに取り組んで、英国での長い活動をレパートリーに反映させるようになってきた。
このあたりの本来の多彩な活動ぶりが、もっと表面化し、評価されるようになると、ヴァシリーさんは、さらにステップアップすると思います。

で、今回の「バビ・ヤール」。
スマートで、イギリスのオーケストラならではの、ニュートラルな雰囲気で、金管をはじめ、弦は爽快なまでに爽やか。
でも、ときに、手荒な混沌たる響きを導きだすのが、ヴァシリー・ペトレンコの腕前で、悲壮感あふれる強大なフォルテの威力は強烈だ。
 わたくしには、このリヴァプールのオケは、チャールズ・グローヴスのもと、ディーリアスの数々の繊細な演奏での印象が強くあるが、こんな音色を聴くことになることに、驚きを感じた次第。
13番ならではの、皮肉にあふれたシニカルな様相も、たくみに表出されている。
 しいていえば、エグさが少ないかも。
その点は、キリルさんの方が多様に持ち合わせているかも。

 キリルとヴァシリー、ふたりのペトレンコ。
これからも、注目して、聴いて行きましょう。

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2015年10月11日 (日)

神奈川フィルハーモニー第313回定期演奏会  川瀬賢太郎指揮

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暗く立ちこめる曇空の土曜日。

これから聴く、ショスタコーヴィチの音楽を先取りしたような気分で、みなとみらいホールに、この日は、横浜駅から歩いてみました。

またこの日は、横浜ジャズプロムナードという恒例催しが行われていて、街中で、ジャズが流れてましたよ。

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  ショスタコーヴィチ  交響詩「十月革命」 op131

               ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 op77

        Vn:三浦 文彰

  シベリウス       交響曲第5番 変ホ長調 op82

     川瀬 賢太郎 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                       (2015.10.10 みなとみらいホール)


ショスタコーヴィチ(1906~1975)没後40年、シベリウス(1865~1957)生誕150年。
ともにアニヴァーサリー作曲家ですが、同時に、ロシア→ソビエト連邦という巨大な国の元、または影響下にあったふたりなのです。
 ショスタコーヴィチは、巧みにその本音を隠しながらときにシニカルに、ときにあきれかえるほど露骨に、体制におもねり、そして批判を繰り返した。
そして、シベリウスは、圧政に対する、民族の誇りと祖国愛を歌い上げた。

そんな二人の音楽の対比を楽しめた素晴らしい演奏会でした。

①「十月革命」、交響曲でいえば、13番と14番の間にあるけれど、その時期のシリアスで内面的な作風とはうってかわって、あっけらかんとした、虚しささえ覚えるプロパガンダチックな音楽。
そんな15分間の音楽をCDではなく、ライブで聴くと、オーケストラの皆さんが、それこそ必死こいて演奏されているのを、そして川瀬さんの颯爽とした指揮ぶりを、拝見してるだけで、妙に興奮してしまいました。
神戸さんのティンパニの炸裂と、平尾さんのスネアの小見味よさを味わえました。
カッコいいし、ダイナミックなので、ちょっと爽快だけど、しかしまぁ、なんてヘンテコな曲でしょうか・・・・面白かったけど。
 思えば、10月革命にまつわる他の作品、2番と12番の交響曲とともに、曲作りは面白いけれど、内容的には、どうも虚無感がつきまとうように感じますね。

②チャイコフスキー、ベートーヴェンに次いで、3度目の三浦さんのヴァイオリン。
いつものとおり、ひがみじゃないけど、前髪が気になる(笑)
 それはそうと、こちらは、かなりシリアスな音楽で、交響曲でいえば、9番と10番の間。
まともに体制側から批判をされた時期、こっそり引っ込めてしまったこの因縁の作品を生で聴くのは初めて。
 夜想曲と題された夢想と沈滞を繰り返す第1楽章から、三浦さんの繊細で透明感あるヴァイオリンは、冴え渡ってます。
つぐ、スケルツォも鮮やかに決まり、オケとの掛け合いも楽しく、聴くわたくしもノリノリでしたよ。
 そして、古風で荘厳なたたずまいすら感じるパッサカリア楽章。
オケの背景も深刻極まりないものです。
 長大・超絶技巧のカデンツァでの、三浦さん。
この若者の集中力と気迫に圧倒されました。
ホールは静まり返り、一挺のヴァイオリンに聴衆の耳は釘付けとなりました。
 そして休むことなく突入するブルレスケには大興奮。
ショスタコの常套手段的な、無窮動ミュージックに完全に飲みこまれてしまいますが、それでも冷静かつ沈着な三浦さんの演奏姿には恐ろしいものがありました。
川瀬さんの指揮ぶりにも熱がこもってきて、怒涛のクライマックスを築き、さすがに前髪掻き乱れつつの三浦ヴァイオリンと息もつかせぬ壮絶エンディングとあいないりましたsign03
 ワタクシ、思わず、ブラボーしちゃいましたよ。

相変わらず、ショスタコを聴いたあとは、一体何だったんだろ、的な狐につままれた思いが去就するのですが、ともあれ、三浦さんのヴァイオリンは凄かった!

拍手に応えて、何度も登場するなか、三浦さんは手ぶら、川瀬さんはヴァイオリンを手に、ちゃっかり喝采を受ける茶目っ気のある指揮者に、会場は笑いに包まれました。

③休憩後は、シベリウス。
その田園的・牧歌的な雰囲気は、大好きです。
冒頭のホルン。前半のショスタコとうってかわったその音色と、音楽の雰囲気に、耳が浄化されるような思いです。
救いのないショスタコの聴後感が払拭されました。

あぁ、やっぱりシベリウスはいいわ~

透明感のある神奈川フィルならではの弦と、柔らかな木管、輝かしい金管、それが見事に溶け合ったシベリウス。
北欧の響き、ことに、かの地のオーケストラから感じる、突き抜けるような冷凛とした音とは対局にあるような柔らかなシベリウスに思いました。
日本人が演奏し、日本人が聴く、身近なシベリウス。
そして、神奈川フィルの聴き手にとってはハマのシベリウスでした。
 川瀬さんは、ことにオーケストラを抑え、各ソロが突出することも控えているように感じます。
最後に持ってくる曲としては、華やかな結末に欠けるこの5番を盛りあげるのは、なかなかに難しいこと。
もちろん音楽が創成され、自然豊かな野山を感じさせるようにクレッシェンドしていく第1楽章の鮮やかなエンディングには興奮しました。
そして、6つの途切れ途切れの和音で、最高のクライマックス築くのに、抑えに抑えた川瀬さんの音楽造りは、とても効果的です。
じわじわくるシベリウスの醍醐味を味わわせてくれたように思います。
 そして、間に挟まれた、それこそ田園風の第2楽章は、優しく可愛く、そして楽しい聴きものでした。

来シーズンは、1番と7番を、本場の大御所、親日家のオッコ・カムで聴ける神奈川フィル。
楽しみ極まりなし。

今回も、アフターコンサートは、個人的にお休みして、雨がポツポツし始めたMM21地区を抜けて横浜駅に向かいました。

Bayquater

ハマのシベリウスのあとのベイサイド。なんのこっちゃ。

さぁ、次回はコルンゴルトですよheart01

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2015年9月28日 (月)

ショスタコーヴィチ 交響曲 お願いランキング

Heiwapark

数年ぶりの広島。

宿泊先が近かったので、晩と朝、平和記念公園まで歩いてきました。

常に更新されている、彩り鮮やかな、おりづる。

折り紙も再生しながら、循環させる仕組みも出来上がっていて、広島の人々の気持ちがつながっていることを、稀にしか訪れない自分でも、強く感じることができました。

それにしても、今回の日本の安保法案採択の一連の出来事は、虚しかった・・・・・。

政権与党も、烏合の野党も、どちらも情けない。

本音をお互いが言葉にしないもどかしさを、常に感じました。

 9月25日は、ショスタコーヴィチの109回目の誕生日。
そして、ちょっと遡って8月9日は、1975年の没後から40年。

今回は、15曲ある、ショスタコーヴィチの交響曲の、自分の好きなランキングやっちゃいます。

Onegai_tako

 ブルックナーとマーラーのブームが訪れて、完全定番化した現在。

そのブーム勃興の渦中、その後に来るのは誰だ!

それを、問題提起したのは、亡き、若杉弘さんでした。

ワーグナー、ブルックナー、マーラーを連続して、演奏しつくした生前の若杉さんの発言。

そして、それは誰でしょう的に、具体的に語らずに、旅立ってしまった若杉さん。

音楽監督時代、その指揮台にあまり立つこともなく、無念の死を迎えてしまった新国立劇場でのプログラムの中で、病魔に倒れる前は、自身の指揮で、と予定されていたのが、ショスタコーヴィつの「ムツェンスクのマクベス夫人」。
残念ながら、若杉さんは、そのピットに立てず。

ですから、ポスト・ブルックナー+マーラーは、ショスタコーヴィチと、その後の流れのなかに確信できます。
 ですが一方、そんなポスト云々は無意味とも思ったりもしてまして、交響曲の概念はもうすっかり変貌してしまい、それは、もうマーラーで集結していて、後がなかったのではないかと思ったりもしてます・・・・・。

ショスタコーヴィチの15曲の交響曲は、交響曲であってそうではない。

ソ連という国体の影がちらつき、かつ、その本音の実態が見えない。
なんだったんだろう。

わたくしが、ショスタコーヴィチにむちゃくちゃのめり込んだのは、例の、ヴォルコフによる「ショスタコーヴィチの証言」という書簡で、分厚い、その本を読破しました。
 ハイティンクが、ちょうど全曲録音に挑んでいるなかで、その証言集は、まさにリアルに受け止めていたのですが、それが、こともあろうに、虚構ではないかとの説も、のちに出ました。

いまは、なにが真説か不明ななかにありますが、音符として残されたショスタコーヴィチの楽譜は、間違いなく本物なのですから、そんなややこしい経緯はともかくとして、その楽譜をいかに解釈するかだけの、純粋な問題になっているかと思います。
 そんな中で、やはり、楽譜のみを信じ、シンフォニストとして、マーラーの延長線上的な解釈の徹した、ハイティンクの演奏の諸所は、自分では一番客観的で、正しい存在ではないかと思います。
ただし、生々しさや、毒気がまったくなく、整いすぎていることも事実。

でも、わたくしのショスタコーヴィチのランキングのなかで、ハイティンクの占める割合は高いです。
そして、今後ますます、しがらみにとらわれない、よりニュートラルな音楽表現が次々に生まれてくるものと思います。
 ヤンソンスの次世代クラスで。
ふたりのペトレンコ、ネルソンス、セガン、P・ジョルダン、クルレンツィス、そして、われが川瀬氏はいかに。

 自分的な一方的ランキングします。

 ① 交響曲第4番     ハイティンクCSO、ラトル、サロネン

 ② 交響曲第13番    ハイティンク、オーマンディ、コンドラシン、プレヴィン

 ③ 交響曲第15番    ハイティンク、ヤンソンス、オーマンディ、ロジェヴェン

 ④ 交響曲第6番     ムラヴィンスキー、ハイティンク、プレヴィン

 ⑤ 交響曲第14番    ロストロポーヴィチ、ハイティンク、オーマンディ

 ⑥ 交響曲第10番    カラヤン旧盤、ネルソンス、コンドラシン、ラトル

 ⑦ 交響曲第8番     ハイティンクACO、プレヴィンDG、ヤンソンス

 ⑧ 交響曲第11番    ハイティンク、ヤンソンス

 ⑨ 交響曲第12番    ハイティンク、ヤンソンス

 ⑩ 交響曲第7番     バーンスタインCSO、ハイティンク、ヤンソンスRCO

 ⑪ 交響曲第5番     オーマンディ、バーンスタイン旧

 ⑫ 交響曲第9番     バーンスタイン、ハイティンク、コンドラシン

 ⑭ 交響曲第1番      バーンスタイン、ハイティンク

 ⑮ 交響曲第2、3番      ハイティンク、ヤンソンス  

  ハイティンクばかりのこのランキング(笑)

ソ連・ロシア的な演奏からは、意識して遠ざかってまして、コンドラシンとロジェストヴェンスキー、キタエンコは、いつか全部揃えたいと思ってます。

ショスタコーヴィチ。
今後、さらなるボーダレスな演奏解釈に、各方面の指揮者にオーケストラから期待したいと思います!

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2015年7月 8日 (水)

ショスタコーヴィチ 交響曲第13番「バビ・ヤール」 コンドラシン指揮

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中国の瀋陽市に行ってきました。

一応、お仕事です。

瀋陽は、旧満州国の奉天。そう、小澤征爾さんが生まれたところです。

最近では、ピアニストのラン・ランがこの地の出身。

人口800万人を超える大都市で、中国には、この規模以上の街が、ごろごろあるから、そりゃマスとしての力はスゴイもんです。

ホテルからの朝の景色は、高層マンションの群れ。
街中、ビルだらけで、環状線で見事に整備された都市景観となってました。

ベンツなどの国内生産の欧州ブランド車に、韓国車など、いずれもいい車ばかり。
しかし、その運転は激しくて、よく事故らないかと思うくらいに、スリルにあふれていて、乗ってて心臓が、何度も飛び出しそうになりましたよ。
 ちょっとでも前へ出ようと、車線変更の嵐で、へたすりゃ車線の真ん中を走ってるし。
自転車も、歩行者も、みんな強気で、車とすれすれ・・・・。
 でも、へこんだりしてる車があんまりないから、連中は運転が超絶上手いのでしょうか・・・・。

いろんなことを見て、思いましたが、それは、またいずれ。

ともかく、光と影、外から来た人に見えるところと、そうじゃないところ、それらが明確に区別されているような気がしました。
株価急落とか云々も、まったくわからないし。

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 ショスタコーヴィチ 交響曲第13番 変ロ短調 op113 「バビ・ヤール」

        Br:ジョン・シャーリー=クワァーク

    キリル・コンドラシン指揮 バイエルン放送交響楽団
                     バイエルン放送合唱団

                                        (1980.12.18 ミュンヘン)


ショスタコの13番。
好きなんですよ。
ともかく、暗くて、シニカルで、かつダイナミック。
独唱と合唱も、どこも皮肉たっぷりのペーソスが効いてる。

過去記事より~「1962年、スターリン体制終結後のフルシチョフ体制化の作品で、「体制の雪どけ」で固く閉ざしてきたリアルな音楽を書き始めた頃。
エフゲニー・エフトゥシェンコの詩「バビ・ヤール」のいくつかの部分と、さらに、この作品のためにあらたに書かれた詩の5篇からなる。
「バビ・ヤール」は、キエフ郊外にある谷の名前で、ナチスがユダヤ人はおろかウクライナ人、ポーランド人、ロシア人までも大量虐殺した場所という。」

 しかし、初演後、当局からは、反体制のレッテルを貼られ、詩は改定を余儀なくされ、その後数回演奏されただけで封印されてしまった。
初演は、まさに、キリル・コンドラシン。

モスクワ・フィルを指揮した、コンドラシンのショスタコーヴィチ全曲録音の13番は、1967年の録音で、当然に、改訂版が用いられている。
 
 このいわくつき作品を西側初演したのがオーマンディで、70年、大阪万博の年にフィラデルフィアで、同時に録音。
こちらは、当然に、初演時の版によるもの。

 そして、その8年後、1978年、この曲の初演者コンドラシンは西側に亡命。
1980年、首席指揮者が内定していたバイエルン放送交響楽団に客演し、この「バビ・ヤール」を指揮した。

バイエルンとコンセルトヘボウ、ウィーン、ドイツ各地、東京などで、ひっぱりだことなった、コンドラシンは、81年3月、67歳の誕生日を迎えてすぐ、心臓麻痺を起こして、亡くなってしまう。
 「バビ・ヤール」の演奏後、3ヶ月。

ソビエト時代は、モスクワフィルの音楽監督として長く活躍し、そのイメージは、見た目の厳しさも加味して、妥協のないシャープな演奏で、ソビエト体制下にある厳密な指揮者だった。
でも、マーラーを早くから取り上げたり、来日公演でも第9を演奏するなど、他のソ連指揮者と、どこか違うところも散見されました。
 わたしのコンドラシン観は、そんなもので、西側に出て、急速に、その実力が日の目をみてからというもの、イメージは一新されました。
 そのターニング・ポイントは、コンセルトヘボウとの「シェエラザード」と、N響への客演。

早めのテンポ設定で、スマートな演奏を築きあげつつ、細部もおろそかにせず、なかなかこだわりの表現もするコンドラシンでした。
このきっと思い入れ深かった「バビ・ヤール」を、異常なまでの集中力と、一気呵成の勢いと厳しさでもって指揮してます。
それに応えるバイエルン放送響のうまさと、機能性の高さ。
ハイティンク盤のコンセルトヘボウとともに、この曲に、大いなる奥行きを与えているオーケストラなのでした。
 

この演奏、NHKFMで放送され、エア・チェックしたテープは、いまもCDRとして保存してあります。
そして、この日、演奏されたのは、あと、ベートーヴェンの8番で、こちらも名演でした!

過去記事より~

①「バビ・ヤール」この曲の白眉的な1楽章。ナチスによる暴虐が描かれる。
独唱は、自分がユダヤ人ではないかと歴史上の人物たちを上げて歌う。アンネ・フランクの悲劇についても言及される。リズミカルで不気味な行進調の音楽が2度ほど襲ってくる。
ファシストたちの到来である・・・・。

②「ユーモア」、ユーモアを忘れちゃならねぇ。支配者どもも、ユーモアだけは支配できなかった。辛辣かつ劇的な楽章、オーケストラの咆哮もすさまじい。

③「商店で」、獄寒のなかを行列する婦人たちを称える讃歌。
これも皮肉たっぷりだが、音楽は極めて深刻で寒々しい・・・。

④「恐怖」、これまた重い、重すぎの音楽。恐怖はどこにでもすべりこんでくる。その恐怖はロシアにおいて死のうとしている。・・・・が、詩(DSは作曲であろうか)を書きながらとらわれる、書かないという恐怖にかられる。仮面を被った痛切きわまりない音楽に凍りそうだ。

⑤「出世」、終楽章は一転おどけた、スケルツォのような音楽だ。
ガリレオ、シェイクスピア、パスツール、ニュートン・・・、世の偉人たちが生前そしられ、誹ったものたちは忘れられ、誹られた人々は出世した・・・・。
「出世をしないことを、自分の出世とするのだ」
皮肉に満ちた音楽、最後はチェレスタがかき鳴らされ静かに曲を閉じる。。。。。

過去記事

 「プレヴィン&ロンドン響」


 「ハイティンク&コンセルトヘボウ」

 「オーマンディ&フィラデルフィア」


 

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2014年8月 3日 (日)

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 サロネン指揮

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7月最後の日の、夕暮れの東京タワー。

7時前だけど、またタワーには、明かりが灯ってません。

ほかのサイトには公開したけれど、みなさん、不気味な空と雲に注目されてらっしゃる。

暑すぎる毎日、日が沈むころになると、気温も下がり、温度差で風も巻き起こり、地上と上空の気温の開きも大きくなる・・・・
 そんなこんなのいろんな事象が、空の色や光の現象となって起こるのでしょう。

しかし、一方で、かの大震災のおりにみられた雲の奇妙さ。

いろんな要素があるとは思いますが、注意は怠りなく過ごしたいと思います。

Schostakovich_sym4_salonen

  ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調

    エサ・ペッカ・サロネン指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニック管弦楽団

                  (2011.12 @ウォルト・ディズニー・ホール、LA)


タコ4、大好き。

この長大で、正直ワケのわからん3楽章の交響曲を、何度も聴いてきたけど、その都度思うことは、「さて、いまの時間は、なんだったのだろう・・・・・?」。

音楽は、まるでパッチワークそのもの。

いま泣いたカラスがもう笑った・・・。
いまや死語ですが、そんな私たちの親世代が、子供たちに対して発したセリフが、まんま、あてはまります。
 急転直下、悲喜、怒笑、叫嘆安堵・・・・あらゆる感情が、次々にあらわれては変転して、消えてゆく。

この感じは、マーラー以上で、ショスタコーヴィチのオリジナルといってもいいかもしれない、章節単位のとりとめなさの、一大集結とも呼ぶべき音楽です。

これを交響曲と呼ぶべきかは、作曲当時の1936年、プロパガンダ的な2番や3番のあと、純粋交響曲として4番を送り出したショスタコーヴィチが、オペラ、「ムツェンスクのマクベス夫人」でもって、当局の怒りに触れ、引っ込めてしまった要因のとおりに、本来の意図、すなわち、当局や体制に対する思いを密かに込めた標題性を、ここに、いかに読みとるかにもよります。

ですが、そのあたりの謎や、不合理感を突き止める証拠や根拠も少なく、いや、あるにしても、ショスタコの音楽を、譜面に書かれた通りのことを、音として万全に昇華するという演奏スタイルが、いまや主流として定着したものと思います。

ハイティンクのヨーロッパ人としての普遍的な演奏こそが、その最良の姿であると核心しますが、ショスタコをかなり演奏しているはずの、サロネン(サロさま)の、ついに出現した4番も、それをさらに拍車をかけ、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ、すべての様相が盛り込まれ、かつ、冷静沈着な演奏にその表層は終始してるところが凄いのです。 
 そればかりでなく、その沈着さとともに、高いテンションのある、攻撃的な様相も、1楽章の中間部あたりから、びんびん聴かれ、興奮の坩堝と化してしまいます。

サロさまの音楽は、いっけんクールでありながら、思わぬライブ的熱狂を見せつけるところが超魅力なのであります。
同じ志向の、ブーレーズ閣下とは、音符のひとつひとつの熱さでもって、サロ様の方が、曲によっては上と感じられますし、冷静なの裏返しの情熱は、サロネンのほうが高いかな、と思わます。。。

3つの楽章が、それぞれに長大で、雄弁ながら、浅薄な感情にとらわれているような気がしてならいけれど、オーケストラを聴く楽しみや刺激が、たっぷり盛り込まれている交響曲だと思います。
 5番の雰囲気も、たくさん感じますが、タコさん交響曲をたくさん聴いてくると、5番よりも、4番の方が面白く、切実に感じられてくるのです。

いまの現在なら、これくらいは、普通に、もしかしたら鼻歌交じりに聴くことができる、そんな音楽です。

サロネンのロスフィル時代は、1992~2009年と長かっただけに、録音もたくさん。
ドビュッシーやマーラー、ブルックナーなど、明晰さが際立ち、エッジも効いた名演ばかりですよ。
近現代ものばかりのイメージがあるけれど、本拠地では、ベートーヴェンやブラームスも指揮してました。
アメリカのオケの指揮者は、当然にそういった普遍的なレパートリーも求められるわけで、それがドイツの本場あたりにいくとどうなのだろうか、という疑問もあるけれど、わたしは、ベルリン・フィルの次期指揮者には、サロネンを推したいです。
5~10年くらいの任期で、ラトルのあと、次の次の世代への橋渡しにも、世代的にちょうどいい。
数年後にやってくる、ヤンソンスのあとの、バイエルン放送響でもいい。

このイケメン指揮者の動向には注視したいですね。
とかいいながら、サロネンとわたくし、同い年なんです・・・、しょぼ~ん。

ショスタコーヴィチ4番 過去記事

 
 「大野和士&新日本フィル」

 「ハイティンク&ロンドンフィル」

 「ハイティンク&シカゴ響」

 

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2014年3月29日 (土)

弦楽四重奏によるロシア音楽~情熱と哀愁~

Lalyre


神奈川フィルのヴァイオリン奏者、平井さんが第1ヴァイオリンを担当する、弦楽四重奏のコンサートに行ってきました。

2度目のホ-ル「ラ・リール」。

昨年は、同じ神奈フィルのチェロ奏者、迫本さんのコンサートでした。

きれいに響くホールで、拡散しすぎず、むしろ音に芯があって、リアルに耳に届きつつ、4つの楽器が美しくブレンドしてました。

土曜の午後、桜もほころび、外はうららかな陽気。

ごらんのように、中庭が窓の外に見えて、とても気持ちがいいコンサートなのでした。

Lalyre_3

 ハイドン              弦楽四重奏曲「ロシア四重奏曲第2番 冗談」

 ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番 ハ短調

 ライオネル・バート 「ロシアより愛をこめて」

 ショスタコーヴィチ 「ポルカ」

 ボロディン      弦楽四重奏曲第1番、1・2楽章

 チャイコフスキー  弦楽四重奏曲第1番~アンダンテ・カンタービレ

             ロシアより愛を込めて ~ アンコール

   ヴァイオリン:平井 茉莉     ヴァイオリン:森垣 悠美

   ヴィオラ   :佐藤 裕子     チェロ    :柳本 直子

                  (2014.3.29 @ラ リール 文京区大塚)


ロシアに関連づけられた演目ばかり。

爽快、洒脱、濃厚、悲観、楽観、自然感、ロマン・・・。

あらゆる要素が入り混じったのがロシアの音楽。

若い4人の女性奏者たちによるカルテットは、そんな、ロシアン・ムードを溌剌と表出しきってまして、聴いてて、拝見してて、とっても眩しかった。

①初聴きのハイドンの「冗談」

春の暖かさに気持ちがほぐれ、終楽章まで爽快に。
でも、最後は、平井さんのフェイント攻撃にはまり、拍手しちまいました。
 というのも、ハイドンさまの、いたずら心が終楽章に仕込まれていて、休止で終ったと思ったら、まだあった・・・
いつぞやの、神奈フィル音楽堂での「川瀬ハイドン90」でも、見事引っかかったワタクシなのでございました。

②大好きなタコ8

常套と引用の一杯詰まった、この8番の四重奏曲。
ふだんは、重苦しさと死の影、そして不可解さを常に持っていたこの曲。
今日の、明るい日差し溢れるホールで聴く、若い彼女たちの感性の前に、ショスタコの惜別の念の音楽は、どこか明るい未来志向へと変わった感がありました。
はなはだ、勝手な思いでしたが、ショスタコ演奏は、こうして、いろいろあり、なんでもありと、思った次第。
 この曲をやりたかったとの、森垣さん。
ほんと、インパクトある音楽です。
作曲者の名前が、音符に織り込まれ、終始登場するフレーズも明快。
第10交響曲で、完全織り込み済み。
それとチェロ協奏曲や、マクベス夫人の虚しい旋律。
楽しかった。

③THE OO7

ロシアンです。かっチョよかった。

④タコ・ポルカ

諧謔の見せかけの姿のピチカート。
これまた、楽しい~

⑤ボロディン~

「お~い、お茶」のCMで使われてた1楽章は、よく聴くけど、曲名が思いだせなかった曲でもあります。
その伸びやかな曲調にぴたりの演奏と、夜想曲の2楽章の夢想的なロマン。
平井さんに、きっとしみついている、美音の神奈フィルサウンドが、しっかりと聴かれました。
加えて、ほんと、いい曲だわ。

⑥チャイコ

こちらもメロディメーカーのご本尊様。
副主題の哀愁感が、とてもよし。
各楽器での橋渡しが美味。
美しい演奏でした。

このような、美しいサウンドで、ワタクシ、お酒を飲みたくなりました。

音楽界は、着実に、若い世代と女性へと流れが変わってます。
日本は問わず、世界のオーケストラを見てもそう。

わたくしのようなオジサンは、過去を懐かしむ前に、若い方々のフレッシュで、果敢な演奏に耳を傾け、忌憚なく聴き、素直に楽しむこと。
そのことを心に刻むべきなのでしょう。

すてきな演奏会を楽しみました。

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拝見!

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2013年10月 8日 (火)

ショスタコーヴィチ 交響曲第8番 プレヴィン指揮

Yasukuni201310_2

この大きな鳥居は、靖国神社の第一鳥居で、高さは25mだそうです。

先日、市ヶ谷に用事がありまして、そのあと神保町に向かって靖国通りを歩きました。

なにかとよからぬことをする輩もいるものですから、警察の方々もそこここに。

それでも都会のど真ん中にある神社ですから、外国の観光客もそこそこいらっしゃいましたね。

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  ショスタコーヴィチ 交響曲第8番 ハ短調

   アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団

              (1992.10 @オール・セインツ教会、ロンドン)


交響曲でいう「第8番」は、ベートーヴェンが規模的には短め・軽めの作品を残し、第9との対比で交響曲史上稀にみる前例を残したが、それとは逆のパターンをやってしまったのがショスタコーヴィチ。

7番、8番と第二次世界大戦中の大作を書き、勝利に終わった戦後、だれしもが壮大な規模と感動をもたらす巨篇としての第9を期待していたところに発表されたのは、軽快で小ぶりな9番だった。
こうした軽い裏切りともとれる肩すかしを、ショスタコーヴィチは意図的にやるところがあって、それは、例の証言にもあるような隠された秘密などとは程遠い、悪戯のような、遊びの境地ではなかったのではと思ったりもします。

死人に口なし、早々に死んじゃったから真相はわからないけれど、ショスタコーヴィチの音楽はあれこれ詮索せずに、その音楽を純粋に聴き親しむの限ると思ってる。
もちろん、いろんなニュアンスが満載の多面的な顔を持ったその音楽だから、時には、時代背景や、当時のソ連のことなども考えて、想像をたくましくして聴くのもよし、です。

この8番は、67分という長さを持ってますが、全体の色調はともかく暗くて憂鬱。

過去記事から以下引用します。

>全5楽章、そのうちを、演奏時間で40%近くを第1楽章が占めるといういびつなバランス。
しかも、その1楽章は中間部に強烈なアレグロ部分を有するアダージョ楽章であって、その冒頭部分とともに第5交響曲を連想させる。
 この楽章は、今や聴き古して表層的に思えてきてしまった第5の1楽章と異なり、聴くほどに深く激しく孤高な音楽として迫ってくるものがある。

同じように深みある音楽が第4楽章のラルゴ。
パッサカリア形式の人類への葬送行進曲のような、何とも言えず内面的な音楽で、前楽章の大音響から休みなく始まり、皮相的な終楽章にそのまま連結している。

 リズミカルな動きが妙に楽しく、そして虚しくもあっけないスケルツォの第2楽章。
こちらもリズミカルだが、もっと強烈かつ行進曲的で激しい第3楽章。

先のラルゴをはさんで、妙に楽天的かつ捉えどころのない終楽章は、途中驚くべき悲劇への逆戻りのカタルシス大音響が待ち受けているものの、すぐさま妙な明るさを取り戻し、最後のピチカートを伴った消えゆくようなエンディングに収斂していく。

この満たされない終わり方。

ここに明るいきたるべき未来を見るか、戦争や悲劇はまだ続く、と見るか・・・・。
私には、どちらかわからない。<

なんだか今夜はよく眠れそうにないな・・・・。

だからムラヴィンスキーの演奏はまったくすごいし、コンドラシンもキッレキレだけど、わたしには、このプレヴィンやハイティンクの、ある意味優しい演奏の方が好きだな。
静かな場面に、プレヴィンのマイルドさがとてもよく出ているし、LSOの優秀さもばっちり受け取れる録音の良さも特筆もの。
EMI旧盤も最近復刻されたので、聴いてみたい。

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2013年7月16日 (火)

ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 ヤンソンス指揮

Narita

成田山新勝寺の境内。

数週間前の日曜。

週末は千葉にいるので、成田のイオンに買い物のついでに行ってきました。

電車でも車でも、いま住むところから、成田はそんなに遠くない。

成田山の噴水公園の周りを囲むようにして、易者が数十人も連なって構えておりまして、それはなかなか当たると、昔から有名です。

わたくしは、そういった系は天の邪鬼なもので、まったく気にしてないのですが、カミサン方は関西系だし、なにかにつけ行っていたみたいで、子供二人の名付けのときも、見てもらうことになりました。
ついでに、親まで占われちゃうし、2度も行くと辟易(ダシャレじゃないですよ)としてましたが、いざその時となると夢中になっちゃうのが人間の心理なのでしょうな。

その後、当然に、わたしには縁のないことなのでしたが、なにげに、10年以上前、わたくしが会社を辞めて独立すると言いだしたときに、カミサンは両親と、こっそり占いに行っていたみたいなのです。
その詳細は、ここに記すまでもないですが、いまはきっと、それ見たことか!的な様相を呈しておりまして、いろんな要因はもう吹っ飛んでしまっているから恐ろしいことです。
しょうがないですね、結果がすべてですからして・・・・・。

いつになく、私的なことを書いてます。

今日は、ショスタコーヴィチが無性に恋しくなって、聴いてます。

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  ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 ロ短調

   マリス・ヤンソンス指揮 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

                        (1991.1 @オスロ)


何かを隠している面倒くさい強度の近視のオジサン、というレッテルがすっかりお馴染みとなったショスタコーヴィチ。
体制への皮肉や反骨、ときに同調などが複雑に、その音楽の中には刷り込まれ、姿を隠している・・・・。
という定説も、一部は真実であると思う。
 もう一方で、このオジサンのしたたかであるという実態は、実はなにもそこまでは音楽は語っていなくて、意の赴くまま、自身の感じた音だけを正直に紡いでいただけにすぎないのではないか、という思い。
 そのどちらもがショスタコーヴィチの姿であり、音楽であるような気がしてならない。

第5交響曲が、ベートーヴェン以来の伝統でもある、陰から陽、暗から明、勝利で終わる終結を鮮やかに導きだしていたように、ショスタコーヴィチの音楽には、その対局同士が、曲の中に易々と混在し、いま泣いて、悲しんで、すぐに笑って、怒って、爆笑する・・・そんな多面的な感情のパレードが、どの曲でも開陳される。
5番は、一見、4つのしっかりした構成の楽章に封じこめられているけれど、各楽章は幻想的なまでに自由で、かつ感情の諸所ありさまも多面的に思う。
4番などは、そのもっともたる例で、マーラーをはるかに超えたややこしく、しちめんどくさい泣き笑いのオンパレードだ。

6番も負けていないが、もっと集約的で、長大で深遠なラルゴが第1楽章という冒頭に、しかも16分もかけて延々と虚しさと明日への希望のなさを募らせるように存在する。
いったい何が言いたいのか不明。
そいて2楽章は、スケルツォ的なとりとめもなく、聴きようによってはお下品な音楽。
なんで、あの1楽章のあとに、こんな軽妙・底浅な顔をできるんだろ。
そして、無窮動なリズムがどこまでも勝手に暴走してひた走るような興奮著しい3楽章。
ショスタコーヴィチの曲にいつもよくあるように、このハチャムチャな終結部の展開に、聴く人は誰も、興奮の坩堝に追いやられ、それまでの哀しみや謎を放棄してしまい、一気呵成の乱痴気騒ぎに万歳となって終わってしまうのです。

こんな風に騙されてしまうのがショスタコーヴィチの音楽の本質の一面ではないかと。

だからあまり深読みせずに、音楽本来の面白さを素直に受け止めて入り込むのもいいのではと。

ともかく、ショスタコの音楽は面白いのですから。

13番や14番の超シリアス音楽をいかに面白く聴くか、それがまた難題ではありますが。

ヤンソンスの生真面目でかつ、オーケストラドライブの巧みな演奏には、さほどの深刻さもなく、素直に、スコアがあるがままに鳴っている様子を聴くことができる。
オケも含めて、フレッシュかつ弾力のあるサウンドです。
後年のバイエルンとの放送録音は、1楽章の彫りがもっと深く、終楽章はもっとダイナミックなのだが、オスロの明るさもまた捨てがたい。
 しかし、この曲はなんといっても、ムラヴィンスキーの冷酷かつ一糸乱れぬ狂乱ぶりが忘れがたい。
でもあの演奏に何を読みとるか、それもまたわからない謎の演奏で、ヤンソンスやハイティンク、プレヴィンのようなスコア重視の素直な演奏の方が、何度も聴くにはよろしいようで。

過去記事

 「ムラヴィンスキー&レニングラード」

 「プレヴィン&ロンドン響」

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2013年6月21日 (金)

ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲第2番 マイスキー

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なんだかよくわからないけど、紫陽花。

6月の梅雨は、この花があるから救われる。

日本情緒ゆたかな植物。

いろんな種類も楽しめるし、梅雨ならではの、ブルーとピンク主体の淡いパステルがとてもお洒落。

でも、赤や黄色は、品種改良でもご法度ですな。

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  ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲第2番

     チェロ:ミッシャ・マイスキー

  マイケル・ティルソン・トーマス指揮 ロンドン交響楽団

                   (1993.8@ロンドン)


まだやります、この鬱陶しい天気に迎合するように、哀しみ、絶望、救い少なめの音楽。

ショスタコーヴィチに癒しとか、心温まるとかいう言葉はまずありません。

シニカルを標榜してはいても、その実態は、どこまでがその本質か不明。
実はなんのことはなかった、単なる彼の作風の常套であったのかもしれないし、もしくは本当に時の体制への隠れ蓑だったのかもしれないし・・・・。
これこそが謎なんでしょうな。

一方で、しっちゃかめっちゃかな、破れかぶれともいうべきハメを外したかのような明るさ。

そのどちらも、ショスタコ。
東西もなくなったいまに、タコさんが生きていたとして、その音楽はどんなだったでしょうね。

ショスタコの交響曲はすでに制覇し、それを聴けば何番ぐらいにはわかるようには、なりました。
協奏作品とオペラも大体に同じ感じ。
しかし、弦楽四重奏を始めとする室内楽作品はまだまだ。

だいたいに、メロディや曲の雰囲気だけを知ってもままならないのがショスタコの音楽。
暗さと明るさ、深刻と軽薄、深淵と表層、憂鬱と明朗、絶望とユーモア、悲観と楽観・・・・、あらゆる反対語がその音楽からは聴こえてくるようだ。
そのどれもがショスタコーヴィチの音楽の姿で、実はそれ以上のこともない、なんのこともないのではないかと思ったり。
わからん、いまだに不思議なオッサンです。
こうして、理解できない欲求不満におちいり、鼻を抓まれた印象で終わってしまう気分が、それこそショスタコーヴィチの音楽なのでしょう。
かの激烈な「ムチェンスクのマクベス夫人」なんかも悲惨このうえないけれど、あらゆる皮肉と希望への願望が満載なのだから。

総論はともかく、こちらの1966年製第2チェロ協奏曲のたっぷり暗澹さの詰まったアイロニー500%ぶりは、聴く者をマイナスオーラにしっかりと包んでくれます。
と同時に、ショスタコらしい打楽器満載の五感に訴えてくるリズミカルな爆音もあります。

よくある内面的で暗く、とっきの悪い1楽章。
続く2楽章はスケルツォ的なアレグレット。悲壮感抜群であります。
そして終楽章にもこの流れは続き、ますますとりとめがなく、自分はいったい何を聴いてるのかわからなくなります。
2楽章で出てきて、終楽章にも引き継がれる妙に劇画チックな旋律。
90年代初頭から、どうも聴いたことがあると、思っていた気になる旋律。

そう、小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」に聴こえるんですよ、私には。

だから、ずっこけちゃう。キターーッですから。

しかし、そんなこといいながら、なんだかんだで、終結部はますます謎と混迷を深めていって、ユーモアと皮相感たっぷりに突然に(?)曲は死んじゃいます。

第4と14、15番の交響曲の終わりにも似たり。

この作品、時に交響曲では13と14番の狭間、弦楽四重奏では11番と同じ年。
わたくしは、8歳の小学生。
関係ないけど、バイロイトではベームのリングとトリスタンのライブ録音の年。

日本初演は、ロストロポーヴィチがたしかN響で、71年ごろ?。
テレビで見ましたが、子供だったワタクシ、「へ~んなの?」でお終いでした。

酸いも甘いも、の歳となった今。
「わからんが、キターーーッ」でございます。

マイスキーとMTTは、むちゃくちゃいいと思います。はい。

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2013年4月11日 (木)

ショスタコーヴィチ ヴィオラ・ソナタ ツィンマーマン

Ueno2

もう散ってしまったけれど、賞味期限切れにならないうちに。

不忍池からのぞんだスカイツリー。

スカイツリーの出現は、東京や近県の景色をあらたに更新したような気がします。

思わぬところで見えたりするんです。

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     ショスタコーヴィチ ヴィオラ・ソナタ op147

         Vla:タベア・ツィンマーマン

         Pf:ハルトムート・ヘル

                 (1991.1@ザントハウゼン)


ショスタコーヴィチ(1906~1975)の最後の作品。
亡くなる2か月前に完成した1975年の作品。

ショスタコーヴィチはペシミストの殻をかぶったオプティミストだったと勝手に思ってます。

多くの交響曲や室内楽作品は、重苦しい様相のなかに、あっけにとられるくらいの熱狂と楽天的な爆発も内包してます。
それがまた時に虚しく空虚に響くところが誰の音楽にもないところなのです。
マーラーの方が、はるかにはっきりしてるし、プロコフィエフやブリテンもさらにわかりやすく、共感もしやすい。
ともかく、ショスタコーヴィチの聴後感は、常にふっきれないものを感じ、奥歯にものが挟まったままの状態にされるのです。
思えば、ゲルギエフのショスタコのライブを2度聴いてますが、なにも感じさせない、恐ろしくさばさばと無味乾燥に演奏することで、その感触も倍増され、ホールをあとにするときは、頭の中が???だらけになってしまうという経験を持ってるんです。

むしろそこが魅力の、ショスタコーヴィチなのでしょうか。

割り切れない思いに人をおいやる音楽。

だんだんとそんな風に聴くようになってきたショスタコーヴィチ。

でも、彼の音楽の、緩徐楽章の深い悲しみを感じさせる美しさには、有無を言わせぬ力があります。
交響曲の場合でもそうです。
いろんな引用の多い最後の15番のラルゴにも、哀惜のこもった深淵なる響きを聴きます。

こちらのヴィオラ・ソナタは、全篇にわたり暗い雰囲気が漂いますが、3楽章形式の最後の楽章が全曲の半分を占める大きさで、かつ巨大ともいえるほど深みがあります。
 本CDの外盤の解説に、ヴィオラという楽器はほかの楽器に比べて、悲しみや哀悼を表現するのに向いているとあります。
まさにそう思いますね。
さらに、ここには、マーラーの10番でのヴィオラの活躍まで言及されておりました。

そうした表現のとおりに、このショスタコーヴィチのソナタの終楽章は、厳しくシリアスな感情表現が終始なされており、相当な緊張感を強いられることになります。
そして、ここでは、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」の幻想的な第1楽章が、かなりそのままの姿に引用されていて、ピアノのあの音形が、ヴィオラソロに連符以外の音が、それぞれ随所にわたって登場します。
ベートーヴェンの月光にある幻想味は、沈滞感にとってかわられておりますが、集中して聴くこと15分。その音符の重さがわかり始める最後の方、さしもの雰囲気は徐々に浄化されていって透明感があふれてまいります。
ここにいたって、大いなる感動と、精神の解放感を少しばかり感じるのです。
最後の最後に、救いはありました。
最終作品と意識はしてなかったであろうショスタコーヴィチ。
次の交響曲や、ヴィオラのための複数の作品も準備されておりました。

ベルクのヴァイオリン協奏曲の冒頭をヴィオラソロのピチカートでなぞったような開始部分を持つ厳しい内容の第1楽章。
自作の皮相なオペラ「賭博者」からの引用のある、いかにもショスタコ・スケルツォ的な第2楽章。

トータルで内容の濃い、ショスタコーヴィチののヴィオラ・ソナタでした。

ツィンマーマンとヘル、ともに親日家の演奏家による、コクと暖かさのあるショスタコーヴィチは、冷徹さがひとつもなく、人声のようなヴィオラの音色の魅力と驚くべき表現力を聴かせてました。
ほかの演奏も、いろいろ聴いてみたいです。

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