2008年8月 8日 (金)

マーラー 交響曲第9番 ジュリーニ指揮

Tachikawa_garufu鹿児島ラーメンでごわす。
桜島の噴火は怖いけど、鹿児島は、北海道と同じように自然と人が懐かしく、一度行くとやみつきになる県であります。
何よりも酒と食が最高にいい。
みなさん熱いし、ゆるい。
そしてその豚骨ラーメンは、クリーミーで味わい深く、あっさりした中にコクがあってとてもおいしい。
ガルフと読むこの店は、鹿児島発信のラーメン店で都内やイオンに出店中。
かごんま、ほんのこて、うまいでごわんしょ。

Mahler9_giulini マーラー交響曲第9番は、多くの愛好家にとって特別な曲であり、すべてのクラシック音楽の中でも上位にくる人気度の高い作品。
私とて例外でなく、昨年のマイベスト音楽選の交響曲部門5傑の中にノミネートされた曲(なんじゃ?)

私のような古くさいクラヲタにとって、マーラーは途中からやってきて、いきなりホームランバッターになってしまったような作曲家だ。
若い愛好家の方々の中には、マーラーが普通に4番バッターで、モーツァルトやベートーヴェンが3番5番、そして地味な7番バッターくらいにブルックナーがいたりするのではないだろうか。

そんな日本のマーラー受容史において、画期的な演奏会は、1970年の万博の年に来日したバーンスタインとニューヨークフィルによる第9の演奏だろう。
小学生の私が行けるはずもなく、購読を始めたレコ芸の記事で吉田秀和氏が絶賛していた。それは、演奏がどうのこうのでなく、マーラーの音楽のすごさを書いていたものに思う。
そして演奏会は真夏のことで、バーンスタインとNYPOの面々は白い夏用の燕尾服を来た写真だった。

マーラーの第9とはいったいどんな曲なのだろう??
押さえようもない興味にかられ、初めて聴いたのが、その数年後のFM放送で、なんとコンドラシンとモスクワフィルのレコードによるものだったが、驚くべきことに終楽章の終わりのほうでちょん切られてしまった・・・・、という風に記憶する。
その無常観を抱きつつ、バーンスタインの演奏のさわりを、サンプラーLPで聴いたり、N響が森正の指揮で演奏したテレビを見たりしていた。
 そして75年に、クーベリックとバイエルン放送響の来日公演の放送や、ジュリーニがウィーン交響楽団と演奏した録音の放送を録音し、すっかりこの音楽に馴染んでいった。

そして、満を持して購入したジュリーニとシカゴ響とのLPは、アバドの復活とともに、当時、私の心を震わせたマーラーのモニュメント的な2枚組である。
同じオーケストラを振ったジュリーニもアバドと同様明るい音色が基調となっていて、歌に満ちあふれている。野放図に歌うことに傾注しているわけでなく、しっかりした構成感の元、堅固な造型の中にあるので、全体像が実に引き締まっている。
ルネッサンスの巨匠ミケランジェロを思わせる音の大伽藍。
テンポはゆったりと、沈着で、品格が漂う。
こんなに長い1楽章はないが、それを遅いと感じさせないのは、歌が豊かだからなのだろう。
諧謔と自嘲にあふれた第2と第3楽章は、慌てず騒がず堂々としたもんだ。
3楽章の中間部は、僥倖のようでとても美しく、終楽章への伏線として納得感のある表現だ。
そしてその終楽章は、音楽を慈しみつつも歌に傾注していて、目を閉じて聴いていると、指揮棒をぐわっしと握りしめ顔をかしげたジュリーニの指揮姿がまぶたに浮かんでくるようだ。弦はボウイングを思い切り使い鳴り切っていて、粘りも充分。
だがその粘りは、情念系のバーンスタインのように胸掻き毟るようなことがなく、どこまでもスッキリかつ明晰。
「死」を意識するというよりは、諦念の後にやってくる澄み切った境地を感じる。
70年代後半レコードで聴いていた頃は、音楽の持つスゴサに平伏してしまって、ジュリーニの音楽がこんなに歌に満ちていたなんて思わなかった。
その後に様々な第9を受容してから、CD化されたジュリーニ盤を聴いてみての今回の印象が以上である。

古典派から脈々と続いた純粋交響曲のピークを飾るに相応しい演奏がジュリーニ。
アバドは、この曲のあとに新ウィーン楽派が控えていることを意識させる点で、ジュリーニの完結型の演奏と異なるように思ったりしている。

例によって実演体験を。
なんといっても、バーンスタインとイスラエルフィルの超絶的な名演が忘れられない。
まさにジュリーニと正反対にあるセルフイマジネーション的なバーンスタインの指揮は、ユダヤの同朋たちと完璧に溶け合い怒涛のような演奏をしてのけた。
ユダヤ人司祭による儀式に参列したかの思いだった・・・。
 ベルティーニ&都響、若杉&N響、エッシェンバッハ&フィラデルフィア、ヤルヴィ&フランクフルトなどなど。
名曲名演目白押し。皆様も思い出がたくさんおありかと思います!

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2008年7月27日 (日)

マーラー 交響曲「大地の歌」 ワルター指揮

1 3 かつて、デパートの最上階には大食堂があった。
そして屋上には遊園地があり、子供には夢のような場所だった。
いまでも現存するそんな大食堂があるのは、岩手県花巻市の「マルカン百貨店」。ロートル級エレベーターにガタゴト揺られて最上階に到着するとそこは、40年はタイムスリップしてしまう。
一日中営業していて、食事にお茶に宴会にと地元に愛されている。
味もお値段もボリュームも超驚きの食堂。なんでもある。
私が食べたのは「マルカンラーメン」。辛子味噌の野菜あんかけの下には麺がごっそり。
ほじってもほじっても出てくるし、具もやたらと多い。かまぼこも半分くらい入ってるし。
 箸で食べる超ロングのソフトクリームが有名で、一度食べてみたい。

Mahaler_lied_von_der_erde_walter さて、マーラー・シリーズも終盤を迎えた。
大地・第9・第10は、マーラーの人生の集大成という以上に、死や別れが色濃く映しだされた3作となった。
1908年に、48歳で書いた「大地の歌」は心臓疾患の恐怖に怯えつつ、現世への未練とその告別や、死への憧れなどが悲喜こもごも歌いこまれた歌曲集でもある。

マーラーの交響曲の中でも、かなり早くから聴き始めたこの曲。
最初は歌詞もろくに意識せずに、かっこいい第1楽章のテノールの歌ばかりが好きで、最後の告別まではなかなかたどり着かなかった。
いずれも、FMからの録音ばかりで、今は誰とは思い出せない。
告別が素晴らしい音楽だとわからせてくれた決定的な演奏は、カラヤンとルードヴィヒのFMライブを録音して聴いた時だ。
ewig,ewig・・・と繰返しながら消えてゆく音楽。あまりに美しく、音楽が終わって絶妙の間で、聴衆の一人が静かに「ブラァ~ボ」とつぶやいた。
カラヤンの美音とルートヴィヒの素晴らしい歌唱、そして粋な聴衆にこの曲のよさを教えてもらった。

でもこの曲の初買いLPはカラヤンではなくて、同じ歌手によるバーンスタインとイスラエルフィルによるもの。75年に購入し、当時高校生の私は、初めてその歌詞の意味するところを音楽と対比しながら何度も聴いた。
若い頃に特有の人生を憂える日々に、見事に合致した音楽だったのだ。
その後ショルティ盤を購入後、CD時代に入って数々揃えたが、いずれも一長一短で、以外と初買いのバーンスタイン盤が一番好きだったりする。でも録音が悪い。
実演は体験ゼロ!

歌手の魅力でいえば、K・フェリアーの歌ったワルター盤が随一。
歌いまわしがいまや時代を感じさせてしまうかもしれないが、その豊かで気品と深みのある声は、まさによき時代の高貴なる英国を感じさせる。早世が惜しまれる。

テノール部門は、テカテカしすぎだけどR・コロが好きだ。
その対極にあるパツァークは、田舎から出てきたおっさんのような歌いぶりで、ヘルデンばりのかっこいい出だしを期待すると、みごとにがっくし来る。
でも以外なことに、私はこの人の歌を聴いていて、ヴィントガッセンのもっさりした歌いまわしを思い起こしてしまった。ある意味厭世的、ある意味自暴自棄。酔っ払いのホイリゲおじさん。
昔、ダイヤモンド1000シリーズという廉価LPで、パツァークの「冬の旅」が出ていた。
大人となった今、こんなダルな雰囲気の相棒とともに「冬の旅」も悪くないぞと思う今日このごろ。

指揮部門は、やはり陶酔型のバーンスタインまたは巨大なクレンペラーか。
きっと今なら素晴らしいであろう、アバドは何故かこの曲に手をつけようとしない。「告別」だけは演奏したらしいが、残念だ。
ワルターの指揮によるオーケストラは、遠い昔に聴いたことのある音楽が、少し距離を置いて鳴り響いているような感じに思える。
ポルタメントを聴かせた弦に、ひなびたオーボエ、泣きのホルンとウィーンフィルの魅力にもことかかない。マーラーも聴いたはずのその音楽がここある。
思いのほか淡々と進む「告別」は、フェリアーの大きなフレージングの歌唱とともに懐かしい友との別れをつつましく描ききっている。
そんなに悲しくないし、いつかまた戻ってきてくれそうな雰囲気。
振り返ったら、昔のままずっと変わらずに微笑んでくれそうな友人だ。

新しい録音が次々に出ても、独特の存在であり続けるこのワルター盤。

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2008年7月24日 (木)

マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」 小沢指揮

Pyon2 暑い暑いっ!

こんな時は「そーめん」とか「冷し中華」がいいですな。
辛いものを思いきり食べるのもいい。今日のお昼はマーボー豆腐だったし。

それと冷麺もさらにいいですな。
焼き肉の締めに食べるのでなく、立派な昼食として。
知り合いに、焼き肉屋行くと、まず冷麺を先に食べちゃう人がいました。焼き肉を食べてお腹がいっぱいになっちゃうと食べれなくなるので、先に食べるんだそうな・・・。お前はアホか! 
東京でも有名になった盛岡の「ぴょんぴょん舎」。うまいよ~

Mahler8_ozawa_2

マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」
ラーメンとともに、順を追って聴いてきたけれど、この曲を前にすると、ちょっとひるんでしまうのは私だけだろうか?

大編成でめったやたらと演奏されないし、録音もかつては非常に限られたものしかなかった。
今でこそ、オペラが実演でなくとも豊富な映像で、日常生活に溶け込みつつあるが、かつてはオペラをレコードで聴こうと思えば対訳と首っ引きで、1日がかりだった。
 それと同じことが、この交響曲にも言えた。
声楽入りの交響曲が珍しくないマーラー作品の中でも、全編歌入りで、歌詞の理解がないと受け止め具合もよろしくない。
だから、私も自宅で聴く場合は、年末などの特別な時期に、区切りをつけるような気分で聴いていた。
 それがどうだろう。マーラーを聴くことが日常化し、むしろ食傷ぎみになってしまった今、8番も構えずに、普通にすらすらと聴くことができるようになってしまった。
演奏する側も、長足の進化で、世界中のどんな場所でも、この8番が演奏されているのではなかろうか。

古めの演奏などでは、おっかなびっくりの奏者たちだから、指揮者の強力な統率力に引っ張られている感じがする。
バーンスタインの旧盤や、オペラチックなショルテイ盤などがそんな感じかも。
そんな厳しい演奏から脱却して、この遠大な音楽に新鮮なみずみずしさと躍動感を与えつつ、奏者・歌手の自主性も引き出した演奏が小沢盤。

小沢氏の演奏を聴かなくなって久しい。かつて、小沢ばかりを聴いていた時期があったし、実際その演奏は素晴らしいものばかりだった。
ボストンとのコンビの終わりくらい、サイトウキネンの始まりくらいから、急速に興味を失い、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に何故かなったときから、まったく聴かなくなってしまった。「かど」がとれすぎて、練達の境地に達しすぎてしまったのだろうか、日本人同士で共感しすぎてそうなってしまったのか。私には面白い演奏がひとつもなくなってしまった。

マーラー全集の初期にあたる80年録音のこのボストン交響楽団との演奏は、そんな後年の私は感じる迷いは一切ない。
思うところを堂々と歩み、オケは雄弁に語り、自慢のダングルウッドの合唱団から生々しい歌声を引き出している。
75年頃から、この曲を集中的に取り上げ、千人のスペシャリストだった小沢。
ベルリンフィルとの圧倒的なライブと、フランス国立管との教会でのライブ。どちらも熱いすぎる演奏だった。CDR化したエアチェック音源は保存ものである。
同年、師匠のバーンスタインがザルツブルクでも白熱の演奏を繰り広げたのも懐かしい。

 S :フェイ・ロビンソン、ジュディス・ブレゲン、デボラ・サッソン
 MS:フローレンス・クイヴァー、ローナ・マイヤーズ
 T :ケネス・リーゲル
 B :ベンジャミン・ラクソン、グゥエン・ハウエル

歌手が全般に小粒で大味なのが残念だし、合唱のドイツ語が英語訛りに感じるのもご愛嬌だが、ボストン響の明るくヨーロピアンな響きは、フィリップス録音の良さと相まってすっきりと美しい。(私の好きなラクソンはいい)

この曲の初聴きは、朝比奈&大フィルの放送録音。何がなんだかわからなかったけれど、すごい音楽だぞ、っと思った。
レコードでは、この曲最高の演奏、ショルティ&シカゴのウィーン出張録音。歌手が素晴らしく、まるでオペラ。
実演では、唯一の経験が、亡きコシュラー指揮の都響。文化会館がぎっしり並んだ合唱とオケでギッチギチだった。ものすごく感動しまくった。
多くの方は、この春のインバルの演奏に酔いしれたことでしょう。行きたかった・・・・。

小沢さんも、もう一発、この曲をやってもらいたい!
各ブログや愛好家の評を拝見するに、小沢さんもこのところ素晴らしいようだ。
ほんとは、パリ管あたりでもう一花咲かせてほしいもんだな。

第1部がラテン語の讃歌「来たれ創造主なる霊よ」。第2部が「ゲーテのファウスト」からの情景。オペラを1曲も書かなかったマーラーの、これぞオペラ。
第1部は気分的にやや空転してしまうが、第2部は歌好きからするとワクワクのしどうし。
冷気ただよう山の雰囲気から、神を称えるバリトンがあらわれ、バスやテノールによって情熱的に展開する。ついで、叙情的な場面に入りグレートヒェンの歌や光明の母の歌などで浄化され、マリアを賛美するテノールのアリアで私はもう感動の階段を昇り始める。(テノールの最高の歌唱は、そう、言わずと知れたR・コロ。リーゲルもこの曲の最多録音歌手だけにヴェリスモチックに熱いぜ)
そして、締めは「神秘の合唱」。もう誰しも感動の坩堝。
崇高な興奮の大団円は、人間やっててよかったな!と思わせちゃうもの。

自身の心象にこだわりぬいたマーラーの交響曲のなかで、異質な存在の8番。
小沢ライブよ、もう一度。

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2008年7月22日 (火)

マーラー 交響曲第7番「夜の歌」 テンシュテット指揮

1 柏崎市の「栄寿し

これはいったい・・・・?

外観は完全な寿司屋。
でも路上には、ラーメンの幟があちこちに立っている。
ラーメン屋で寿司が食べれる、いや、寿司屋でラーメンが食べれる、珍しくもうれしいお店。
劇団ひとり食いだったので、カウンターに座った。
大将が寿司を握っている、その前でラーメンをズルズルすするこのミスマッチング~ゥ!
ラーメンは数種類あり、マーボー麺を選択した。
「なんでもアリ」の世界だ。

Mahaler7_tennstedt

「何でもアリ」と言えば、マーラーの音楽もそう。
フロイトの絶好の研究対象ともいえる複雑な人物だった、われらがグスタフ。
今泣いていたかと思えば、もう笑っているし、悲しみと歓びは背中合わせ。
神妙な大交響曲の中で、真面目に人生を語っていたかと思うと、急に軍楽隊がやってくるし、牧歌的な鐘が鳴らされたりと忙しい。
ウィーンの都会もあり、ボヘミアの田舎もあり。

そんなマーラーに、われわれ音楽愛好家が魅せられるようになったのも、多様化した現代ゆえ。
その多様化した現代社会、日本では、アメリカのお仕着せ型消費社会の歪みが都会や地方を問わずに顕在化し、後戻りできないくらいにかつて日本が誇った地域の横社会の美学が崩壊してしまった。

マーラーの音楽を聴く恐ろしさを、私はときおり感じる時がある。
音楽に何もそこまでと思うが、マーラーの何でもアリ音楽がもてはやされる中に、人と素直に交わらなくなった現代人の姿を見てしまう。自己耽溺的なマーラーの音楽に潜む魔力。
ワーグナーには、ドラマがあり人間の生々しい感情がある。ブルックナーには、自然と宗教がある。シュトラウスには、ドラマと写実というリアル感がある。
マーラーは、何でもありながら、逆に何もないのではなかろうか。
あるのはただ、マーラーの心象風景だけ。でも音楽の革新性はいやというほどある。
そして、やはりその音楽に魅力を感じ続けている自分がいる。
何を言っているかわからなくなってきた。これもマーラーだ。

マーラーの中でも6番と7番は、人気の点で出遅れ組だったが、今や一番人気の2曲となってしまった。
交響曲第7番は、ふたつの夜曲があるために「夜の歌」というタイトルがつけられているが、全曲は夜の気分というよりは、楽天的なムードの方が勝っている。
荘重かつドラマテックな1楽章、夜曲その1の行進曲風の2楽章、奇矯で怪しげな3楽章、まさにセレナード風の夜曲その2の4楽章、明るい大団円の終楽章は乱痴気さわぎ。
これぞまさに、マーラー・ワールドだが、私は3楽章と4楽章が好き。
日曜の晩、明日からまた始まる1週間を思い、アンニュイな気分の時に、4楽章を寝る前に聴く。ほのぼのと心安らかに就寝できる。

テンシュテットのEMIへのマーラー録音は全集を揃えた。
なかでも7番は、録音も含めて最高の演奏に思う。
テンシュテットのやや分裂気質的な指揮が、ロンドンフィルのくすんだマイルドな響きで緩和されていい具合になっている。
3種あるアバド、新旧バーンスタインともに好きな演奏。世評名高いライブ盤は未聴。
 この曲の初聴きは、ショルティとシカゴのFM放送。
初買いは、レヴァインとシカゴのLP、のちにアバドとシカゴのCD。そうシカゴづくしなのだ。
ところがですよ、実演体験はなし。若杉/都響のチクルスのチケットを持っていながら、熱を出して行けなかった。
なかなか曰くのある曲であり、私にとって怪しい魅力の曲。

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2008年7月18日 (金)

マーラー 交響曲第6番 アバド指揮

1_2 横浜はいわゆる「家系」の濃ゆ~いラーメンが多いけど、それ以外の個性派もたくさんある、ラーメン共和国なのだ。

こちらは、その名も「浜虎」。
野球でいうと、なんとも憎たらしいような複雑な名前だし、ファッションでいえば、いかにも「ハマ」らしくて、洒落た名前。
西口から近いが、周辺は怪しげな店舗もあったりする。
塩鶏そば」、あっさりとしながらも、筋の通ったしっかりしたスープにもちもちの麺が実によかった。
鶏チャーシューも美味。

Imgp3330 当たった、当たった!!
2006年の、アバドルツェルン祝祭管弦楽団の来日公演に先立つ、公開リハーサルの招待状。

忘れもしない、2006年10月のこと。
平日の昼間、仕事をほっぽりだしてサントリーホールへ。
私服のオケが三々五々集まり、カジュアルなアバドが元気に登場。
マーラーの6番のリハーサルが始まった。

2006luzern_2 冒頭、トランペットの名手がこける。
あれ?二度目の繰返しでは、ものの見事に決めて面目躍如。
アバドは指揮しながら、ニコニコと投げキッスを送る。トランペット氏の嬉しそうな顔。
さらいながらも、一挙に全曲演奏。
モーツァルトのアリアも同様。
いずれもリラックスした力の抜けた演奏。

アバドはどこでしょう?
マイヤーもいるし、ヴィオラのクリストも・・・。


2006luzern_1 翌日の本番は、リハーサルとはうって変わった凄まじいまでの演奏。
人間の行為、営みのなせる技の極地に達した演奏。
完璧とか素晴らしい、などという言葉が当てはまらない。
指揮者は、マーラー交響曲第6なのに、時に微笑みさえ浮かべて、音楽をすることが楽しくてしょうがないといわんばかりの指揮ぶり。
対するオーケストラは、スターがびっしりと並んでいるが、奢りも高ぶりもなく、むしろ必死になって体一杯に音楽を表現している。
これを体験して、マーラーの心理がどうのこうの、アルマがどうだ、ウィーンがどうだの、といったことは、まったく関係がなくなってしまった。
あれ以来2年、マーラーの6番の交響曲は聴いていない。
聴けないのだ。ルツェルンのDVDすら観ていない。ハイティンク&シカゴも怖くて聴けない。完全なトラウマ状態なんだ。
生涯最高ともいっていい音楽体験だった。
演奏終了後の長い静寂は、語り草になってゆくことであろう。
オケのメンバーも、涙して抱き合い、感動を分かちあっていた。

画像は、イケナイとわかっていながら、撮ってしまった、ブルックナーの終演後。
この曲のライブは、ほかは若杉&N響。
初聴きは、バーンスタインの旧盤、レコードは、アバド&シカゴが初買い。

こんな訳ですから、マーラー・シリーズ、6番は聴かずして欠番ということで、思い出話でご勘弁ください。女々しいことであります。いつかは、ちゃんと聴かなくては・・・・・。
さいなら。

  アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団演奏会(2006.10)

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マーラー 「亡き子をしのぶ歌」 F=ディースカウ

2 名古屋の「庚申」という店で食べた味噌ラーメン。
伏見の御園座のすぐ裏。

実にインパクトある名古屋風のラーメンだった。そしてともかくウマイ!
麺は、味噌スープに埋没しているから、先にスープを一口すする。
おおっ、こりゃ八丁味噌じゃん。
そう、北海道味噌と岡崎の八丁味噌をブレンドしている由。
ダメな人はだめだけど、私は全然OK。というか美味い。
そして麺が黒いのよ。木炭を一緒にすり込んで打っているらしく、コシがすごくあった。賛否両論かもしらんが、わたしには美味かったでな。

Mahler_kindertotenlieder_fd さて、またもや歌曲。
マーラーの「亡き子をしのぶ歌」。
1901年から1904年にかけて作曲されたこの不吉な歌曲は、交響曲第6番の直前の作品。
こちらもリュッケルトの詩によるもので、マーラーはアルマとの結婚前に作曲し、完成は結婚をまたいで完成を見ている。
アルマが、この作品を知って怒ったのは有名な話。
数年後、彼らの娘マリア・アンナが亡くなってしまう。

アルマは、その後も再婚したグロピウスとの娘も亡くなり、ベルクが絶美のヴァイオリン協奏曲を残した・・・・・。
世紀末は、音楽と死は、密接な関係を持ちつづけていた。

この曲は、前日に聴いた「リュッケルト・リーダー」とも表裏一体をなしているように思う。
あちらは、アルマとの幸せな瞬間も歌いこまれているのに対し、こちらは、終始、絶望と厭世が音楽の上に覆いつくされている。
 
 ①いま太陽は明るく昇る
 ②今、私にはわかるのだ、なぜあの暗い炎を
 ③おまえの母さんが
 ④よく私は考える
 ⑤こんなひどい嵐の日には

この音楽ほど、マーラーのなかで、ワーグナーに接近したものはないのではないかと思う。
そう、トリスタン的な半音階上昇の曲調や、寂しげなオーボエに代表される響き、憧れや渇望に満ちた部分や、終末的な結末など・・・・。

 よく私は考える、子供たちはちょっと出掛けただけだ。
 またすぐに、家へ帰るであろう・・。

悲しい内容に、新婚生活を始めるアルマの不可解な気持ちがよくわかる。
この歌曲に、第6交響曲だもの。

最近の日本の悲しい風潮は、「お父さんは、ちょっと出掛けただけだ・・・・、」あとは言うまい。私の場合は、「お父さんは、ちょっと飲みにいっただけだ、電車がなくなってしまったんだとよ・・・・」

⑤の音楽は、昔、JUNブランドのCMで使われていた。
もう30年くらい前、「ソウルトレイン」のCM。
あれは、サイケでインパクトあったな。

ベームが残した唯一のマーラー。ベルリンフィルを指揮して、それこそシュトラウスかワーグナーのような音がしている。
能弁で色濃いバーンスタインとウィーンフィルの対極にある、ベームとベルリンフィル。
ちょうどモーツァルトの交響曲を録音しつつあった頃で、音符のひとつひとつをしっかりと扱った克明さもある。ドイツの音楽である。
 そして、フィッシャー・ディースカウの抜群にうまい歌唱は、言葉の端々に、ただならぬ思いを注入している。声の若々しさも60年代ならではのもので、後年の濃い頭脳プレーはまだあまり感じられず、極めて音楽的な歌唱に思う。

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2008年7月17日 (木)

マーラー 「リュッケルトの詩による5つの歌曲」 ハンプソン

3 屋台の昔風のラーメンが食べたくなるときってありますな。
シンプルな具に、醤油味の茶色いスープ。
飾り気ない味が懐かしく、鶏ガラと昆布出汁のみ。

そんなラーメンは、専門店では凝り過ぎていて気がぬけない。
意外と、中華料理屋のものがいい。
赤い色のカウンターで、餃子とビールでも飲みながら、ラーメンをすする。幸せの瞬間。

港区芝(慶応中通り)にある「亀喜」は、元々中華料理屋だったから、こんなラーメンが食べれちゃう。
この店、大盛りで有名で、なかでも「オムライス」はすごい!
私は食べている人を見ているだけだが、女性はまず半分くらいしか食べられない。
お店の人も「頑張って下さい」と言って出してくる。お持ち帰りパックもあります。
画像は検索するとたくさん出てきまっせ!

Mahaler_lieder_bernstein マーラー・シリーズ、交響曲はひとまず置いて、その交響曲と同時期に書かれ、旋律などにも関連性が高い歌曲集を。
交響曲第2~4番は「子供の不思議な角笛」と、そして交響曲第5・6番は「リュッケルトの詩による5つの」と「亡き子をしのぶ歌」と連動している。
リュッケルト(1788~1866)の詩には、シューベルトやシューマンも曲をつけているが、マーラーのこの二つの歌曲集の方が近年は有名かもしれない。
デリケートで愛情あふれ、また厭世的で絶望的ですらある詩の内容に、マーラーはまさに矛盾に満ちた自己の心情を見出し、その詩にピッタリの音楽を残した。

 ①美しさのために愛するなら
 ②私の歌をのぞかないで下さい
 ③ほのかなかおりを私はかいだ
 ④真夜中に
 ⑤私はこの世に忘れられた

アルマとの結婚でほのぼのとした幸せに満ちた①や②、ロマン溢れる③はまさに音楽の芳香が漂ってくる。
④と⑤がこの曲集の核心。
④弦楽器を休ませ、管だけによる真夜中の静寂と恐怖を恐ろしいくらいに描いていて、心がえぐりとられるような深みがある。
⑤第5のアダージェット楽章である。何もそんなに世を儚むことはないじゃないか!
あまりに辛く切ない。涙も出ない苦難の世界。

  私は世とともに多くの時を浪費したが、今や世は私の消息を聞かなくなって久しい。
  ・・・・世の騒音から私は死んでしまい、しずかなところにやすらいでいる。
  私はひとり私の天のなかに、そしてまた、私の愛と私の歌の中に生きている。

アメリカのナイスなバリトン、トマス・ハンプソンは驚くほどの感情移入を見せておきながら、それが決してもたれず、嫌味にもならない。
FDとも異なった、現代的・頭脳的な歌唱に思う。各曲のさまざまな様相を歌い分けも見事。
バーンスタインとウィーンフィルがまた、絶美ともいえるオーケストラによるパレットを描いている。特に④と⑤には唸ってしまう。
 この曲、女声ではルートヴィヒが最高。
あと、エアチェックながら、クヴァストフとアバドによる超越的な高みに達した演奏は、すごすぎてそう何度も聴けない・・・・・。

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2008年7月16日 (水)

マーラー 交響曲第5番 レヴァイン指揮

Azabu1 今日のラーメン。
港区界隈では有名な「麻布ラーメン」。
麻布十番が本店で、屋台が発祥という。
本店のほか、芝と田町(三田)にあって、いずれも職場近くなので、締めとして利用する。
ここ田町店は、立食で、入口で食券を購入し、立つこと数分で、カウンターにラーメンが運ばれてくる。
タクシーの運転手さん、サラリーマン、学生さんと、ここは男の世界なのだ。
いろいろな種類があるが、醤油豚骨とあっさり中華そばが私は好き。
こちらは、「醤油豚骨&角煮入り」。腹一杯になるぜ。おじさんには、背脂がちょいとキツイ。もやしキムチ食べ放題だぜ、学生諸子!

マーラーの交響曲も折り返し点の第5番
コンサートになくてはならぬ定番作品となったのは、80年半ば以降か。
外来はおろか、日本のオケもこぞって取り上げる名曲は、70年代ではとても考えられないことだった。こんな難しい曲を演奏するのも大変だったはずで、トランペットやホルンが絶対にコケテしまったろうし、最後の大爆発まで力尽きてしまうのが日本のオケだった。
演奏技術の進歩は、確実にオーケストラのレパートリーを拡張していて、マーラーはその典型であろうな。アマチュアや学生オケが、軽々とマーラーや春祭を演奏してしまうのだから。

例によって、この曲の実演体験を。
ベルティーニ&都響、マゼール&ウィーンフィル、アバド&ロンドン響、小沢&新日フィル、ショルティ&シカゴ響、ずっと最近になって尾高&札響、ヤンソンス&バイエルン。
結構聴いているけど、古い話である。
この中では、アバドのかっこいい演奏とマゼールの古風な演奏、シカゴのお口あんぐりの演奏が印象に残っている。
 レコードでの初買いは、メータ&ロスフィルで、これまた擦り切れるほど聴いたけれど、今思うとやたらに早い。それよりもアバド&シカゴのシャープな演奏がいまだに、私のNO1。

Mahaler5_levine 今回のチクルスでの5番は、懐かしいレヴァインフィラデルフィア管の演奏を。
これもレコードで聴いていたもので、10番アダージョとともに2枚組だった。
77年の録音で、72年頃にレコード・デビューしたレヴァインは、RCAにメジャーオケを振って次々に交響曲録音を行なっていて、マーラーもその一環。
ザルツブルクに「幻想」で登場したとき、その超スピードの演奏は、颯爽と輝いていたし、ヴェルディのオペラの数々もスピーディで爽快だった。
そんなイメージで、マーラーを聴くと、そのゆったりとしたテンポと大らかさに驚くこととなる。
その後、ワーグナーをはじめとして、弛緩するくらいに遅いテンポをとるようになり、あの若き突進ぶりは消えてしまった・・・・。
レヴァインへの興味も急速に萎えてしまい、オペラはいいけど、それ以外はよくわからない指揮者となってしまったのだ。

久しぶりに聴き直してみて、堂々たるテンポ設定の中に、威勢の良さが充分うかがえ、それにフィラ管の各奏者の名人芸が見事に応えている。
音色が明るすぎるのが難点だが、バーンスタインやテンシュテットとは、完全に一線を画する普通の音楽としての接し方で、気負いも醒めたところもない、元気な演奏。
ここでは、マーラーの何でもありの複雑な深層心理の世界が、あまりに綺麗に整理され、すらすらと開示されてしまう。
最後のフィナーレも猛然とアッチェランドが掛けられ、あっけらかんとしたエンディングとなる。
こんなにこだわりがなくてよいのかしら?
そう、これはこれで当時は極めて新鮮でビューティフルなマーラーだったのだ。
今では、さらに精度や密度の高い演奏が次々に現れるようになり、レヴァインの演奏の軸足も少し過去のものと感じるのは私だけだろうか。

素晴らしく美しいアダージェットを聴いて、懐かしくも学生時代や新人の頃を思い出したりもしたレヴァインの演奏である。

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2008年7月15日 (火)

マーラー 交響曲第4番 ハイティンク指揮

Suzuki_1 週末の英国音楽とオペラをおいて、マーラー、そしてラーメンであります。

こちらのラーメンは、見るからにアッサリ君。
その名も「中華そば」、基本の具がシンプルに配置され、澄んだスープ越しに麺が伺える。

名古屋の「鈴木」という名の店。
錦3の繁華街にあって、飲んだあとの締めラーメンとして、そのいけない地位(メタボぅにとってネ)を確立しつつある名店。

Mahaler4_haitink_2

番号を追って、今日のマーラーは、交響曲第4番
1番と並んで、一番最小のシンフォニー。
終楽章に女声の独唱が入る。
3番でおさまらなかった、モティーフ「子供が私に語ること」が、そのまま持ち越された。
「角笛」交響曲のひとつ。
短いといっても、約1時間。
長大で、まさに天国的な美しさをもつ3楽章が21分、1楽章が17分、あとは10分に満たない。
終楽章のみが、女声ソロが入るが、歌が入ることによって、バランスが取れたともいえる歪(いびつ)な構成ではなかろうか。

例によって、この曲との出会い。
4番は、バーンスタインのニューヨーク時代のテレビ番組。
TVK(テレビ神奈川)にて、中学時代に見た毎週土曜のモノクロ放送で、バーンスタインが青少年向けに、NYPOを振りながら、楽曲解説を行なっていくもの。
ここで、この曲を念入りに解説していた(はず)。今はもう覚えていないが、鈴の音色だけが、やたらに印象に残っている。
その後は、アバド&ウィーンフィル、ゼーダシュトレムの歌による、ウィーン音楽祭のエアチェック。これが刷り込みで、その後に輪をかけて、聴きまくったのが、DG盤アバド/VPO/シュターデの名盤。
さらにハイティンクとコンセルトヘボウの2度目の録音。
音源はこれらと尾高/東フィルのFM放送が何故か名演。
 悲しいことに、実演はないのです。

今日のCDは、ハイティンクコンセルトヘボウを指揮して50周年を記念した演奏会のライブで、2006年11月の演奏会の模様。
前褐のとおり、ハイティンクとコンセルトヘボウは、①初回の全集、②クリスマスアチネ・ライブ、③83年デジタル録音、④ベルリンフィル、⑤06ライブと、4度に渡って録音している。
この4番に、こえだけ愛着をもって取り組んでいる指揮者は、ハイティンクをおいていないだろうな。ベルリンは別格として、同じコンセルトヘボウで、演奏がどう変化しているか・・・。

正直、コンセルトヘボウの滴り落ちるような美音と濃厚な味わいがあるのは、③の録音が随一。これはフィリップスのホールと渾然一体となった名録音によるところも大きい。
①は未聴なれど、②も③と同じ印象を受ける。
そして、今回の新録音は・・・・・。以外にあっさりムードで、ここをもっと粘って欲しい部分で、すすっ~といってしまうし、以前の録音で顕著だったポルタメントの強調も薄く感じる。

この変化はどう考えたらいいのだろうか。
無駄なところがなくなり、より簡潔になったが、先週聴いたシカゴとの3番のあの超シビレル名演との違いはいかに・・・。
演奏時間は、過去演との違いはさほどなく、極めてオーソドックス。
大きな違いは、3楽章の低回なく進められる伸びやかな歌の運び具合。
手持ちの過去演(BPO不明)と比較するとわずかながら一番早い。
この曲の最大の聞かせどこころで、意気込まずにさりげなく、感動の頂点を築きあげているんだ。
長年のコンビとは、どこからどこまでが指揮者とオケかの境界線がなく、完全に一体化しつつも、ハイティンクらしいあっさりした味付けと、昨今の巨匠然とした大きな音楽造りがの双方が伺える。
シカゴでは、大曲の大家・無為の大巨匠にオケが、その持てるキャパシティーのありったけを全開してしまうことで、壮絶な巨大演奏が成し遂げられ、かつての仲間とは、ややあっさりした中にもフィリップス録音をすっきりさせたような練達の境地を聞かせる・・・・。
異論はあるかもしれないが、コンセルトヘボウは、シャイーやヤンソンスの治世を経て、ハイティンクのもと、戻れない過去を振り返るような演奏をしてしまうようになったのだろうか。
かつてのコンビの至芸は、絶対的なものだけに嬉しいような、寂しいような気がする。
逆に、ハイティンクはオペラを極めることで、異なるステージに昇ったわけで、ドレスデンやシカゴとの新たなコンビは、オペラ指揮者としてのドラマティックなハイティンクの姿なのであろうか!

ここでの独唱は、シェーファー。実にリアルで、音符が手に取るような感じの歌だ。

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2008年7月11日 (金)

マーラー 歌曲集「子供の不思議な角笛」 バーンスタイン指揮

Koya_nagoya1 坦々麺でござる。
スープベースに、決め手は芝麻醤と辣油。
普通もっとオレンジ色で、辣油の色と辛味が強いが、こちらはマイルドかつクリーミー。
ピーナッツもそうとうに効かせていた。
適度な濃厚さが堪らん。
麺が見えず、ラーメンぽくないね。
名古屋駅太閤通り口側の「甲家」。

Mahler_knaben_wunderhorn_bernstein マーラーの歌曲集「子供の不思議な角笛
アルニムとブレンターノの二人のロマン派詩人が収集した600曲あまりのドイツ民謡詩集から、マーラーは1988~9年にかけて14曲の歌曲を作曲した。
マーラーはこの民謡集がよほど好きだったと見えて、ほかの歌曲集にも数曲取り入れている。

この歌曲集から、数曲が転用されたため、交響曲の第2~4番は、「角笛交響曲」と呼ばれるのはご存知の通り。
この歌曲集を聴いて驚くのは、雄弁なオーケストラ部分で、歌の伴奏以上の存在感を示していること。
それから、全体にシニカルで皮相的な雰囲気に溢れていて、以外に深い内容を湛えていること。
交響曲の世界で示した、マーラーの相反する複雑な要素がその詩とともに音楽にしっかりと刻まれている。
最初から、歌曲集として関連付けて作曲されたものではないので、曲数や曲順も演奏によってマチマチではあるが、このバーンスタイン盤は、前半に軽めの曲、後半に濃厚かつ深みのある曲を選んでいるようだ。
  
       ソプラノ:ルチア・ポップ   バリトン:アンドレアス・シュミット
   
   レナード・バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ
                           (87年録音)

ルードヴィヒとベリーの夫妻と、オケおよびピアノで録音していたバーンスタインが晩年に交響曲全集の余波をかってDGにライブ録音したもの。
雰囲気のあるコンセルトヘボウのオケを、バーンスタンはあまり粘らずに慈しみをもって指揮していて、こんなバーンスタインもあり!?と思わせる。
 そして何よりも素晴らしいのが、これも亡きルチア・ポップの名唱
暖かく、チャーミングで豊かな声は、馥郁たる香りをマーラーの音楽から立ち昇らせてくれる。まさにマーラーが、これらの詩集に嗅いだ中世ドイツのロマンの世界をものの見事に歌い出しているのではないだろうか。
どれも彼女が担当した曲はいいが、とりわけ「トランペットが美しく響くところ」と「原光」には泣かされる。あまりにも深い。
 相方のシュミットは、神妙にそして巧みに歌ってはいるが、やや堅苦しい。
声の若々しさは申し分ないが。

ポップは、ヴァイクル(!)とともにテンシュテットの指揮でも録音しているが、未聴。
FDとシュヴァツルコップ&セルの名盤も未聴(濃そう)。
オッター、クヴァストフ&アバドを日頃バーンスタイン盤とともに聴いている。

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2008年7月10日 (木)

マーラー 交響曲第3番 ハイティンク指揮

Kyoto_daiichiasahi 今日のラーメンは、まさに京のラーメン。
京都もラーメンは激戦地で、私には胃袋がひとつしかないものだから(牛じゃない、あたりまえ)夜もあるし、そんなに食べてない。
唯一、こちらの「第一旭」と「新福菜館」ぐらい。
見た目の濃さとはうらはらに、鶏豚のスープベースは、あっさりとしたもの。大量の九条葱(たぶん)がうれしゅうおす。

Mahler3_haitink マーラー交響曲第3番は、1896年の完成。
「復活」後すぐにとりかかり、1年で仕上げたハイペース。歌曲集「子供の不思議な角笛」も同時進行していた。
有能な指揮者としても多忙な日々だっただけに、その創作力たるやすごいものがある。
全6楽章、100分あまりの長大さは、交響曲の長さのギネスかもしれない。(未知作品でブライアンとかあるかも)
 70年頃の音楽の聞き始め、名曲を聴くばかりで、名曲解説全集で、マーラーの項目を見て、いったいこの男は何者だと思った。
マーラーなんてほとんど聴かれない頃だった。
交響曲は、4楽章で出来ているものだとばっかり思っていたから、まったく未知のマーラーの第3交響曲が6つもの楽章で出来ているのを見て呆れてしまった。
こいつはバカではないかと・・・・・。

そんな私がバカだったわけだが、「私の時代がきっと来る」としたマーラーの虜にしっかりなってしまった時期が私にも後にやってきたわけだ。
第3交響曲の初聴きは、断片ながらローゼンストックとN響とホーレンシュタインとロンドン響のそれぞれFM放送。さっぱりわからなかった。
この作品の真価をしっかり味わうことになるのは、ベルティーニとウィーン響のエアチェックテープと、初レコードのアバド&ウィーンフィルの名盤。
少ないライブ経験では、ベルティーニとN響、小沢とボストン響。

この曲で好きなのは、牧歌的で長大な1楽章と、終楽章の「愛が私に語ること」。
とりわけ後者は、マーラーの中でも最も好きな音楽で、ゆったりとしたテンポで歌うように演奏されたものでなければだめだ。時間で言うと23~4分くらい。
その理想は、アバドのウィーン盤なのである。

Bhaitink3_2  そんな思いをさらに一挙に満たす演奏があらわれた。
ハイティンク指揮のシカゴ交響楽団の2006年ライブ。
この巨大な演奏を何と評したらよいのだろうか。
演奏時間で音楽の良し悪しは測れないが、手元のコンセルトヘボウのスタジオ録音とクリスマスマチネ・ライブは全曲で約94分。終楽章が22~3分。
ベルリン盤は未聴ながら、このシカゴ盤は全曲101分、終楽章24分39秒。
歳とともに、ますます重厚長大な作品に巨視的な眼差しで、充実した名演を繰り広げるようになったハイティンク。
コンセルトヘボウという名器とともに歩み、今はそのヘボウではなくとも、薫り高い名演を繰り広げることができる。
思うに、コンサート指揮者から、グライドボーンやコヴェントガーデンでのオペラ指揮者としての経験を経たことが、ハイティンクの音楽に劇場的な広がりと豊かな潤いを与えることとなったのでは。

シカゴ響の蟻の這い出る隙間もない鉄壁のアンサンブルと、とりわけ金管奏者たちのべらぼうな巧さ!バシバシ決まるティンパニに、分厚くかつしなやかな弦。
ぎっしりと詰まった充実した音の塊に終始圧倒されっぱなし。
でもショルティ時代の「剛」のイメージばかりでなく、ハイティンクの指揮からは柔和で暖かな響きも随所に聴き取ることができる。
アバドやジュリーニが指揮したシカゴのマーラーとも異なる、ヨーロッパ的なアルプスの峰々を感じさせる壮大なマーラー。
メゾの、ザ・ブランゲーネともいうべきミシェル・デ・ヤングが若々しい。
いやはや、誉めすぎて言葉もないくらいだが、終楽章のあまりにも感動的なフィナーレには全身に戦慄が走り、同時に涙が溢れて止まらない・・・・。素晴らしすぎる!

ムーティの音楽監督受諾で、ドレスデンと同じように中継ぎ的なポジションで終わってしまうのが残念だが、ポストはともかく、シカゴのマーラーとブルックナーはハイティンクがすべて受け持って欲しいものだ。
既発の6番とブル7も聴きたいし、近く好きなショスタコ4番も出る。きっとスゴイぜ。
それと、シカゴの来シーズンのハイティンクの演目は、「復活」「ブル8」「英雄の生涯」「ショスタコ15」。大曲に混じって「ルトスワフスキ3」「ブリテン・イルミナシオン」「ウェーベルン・夏風の中で」「ジークフリート牧歌」などの素適な曲が予定されている。
ぜーんぶCD化して欲しい。
ムーティの「ヴェルレク」、シャイーやサロネンのマーラーまであっちゃうから、シカゴ響はとんでもなく充実しているってもんだ。

興奮してしまったけど、今回のCD、多くの方に聴いて感動していただきたい。
ちょいと高くて躊躇したけれど・・・。

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2008年7月 9日 (水)

マーラー 交響曲第2番「復活」 アバド指揮

Imanoya

今日のラーメンは、福島県の白河ラーメン
白河市は、東北の玄関口で、城下町として栄え、今でも蔵がいくつもあって風情ある街。
手打ちの縮れ麺に、自家製焦がしチャーシュー、スープはあっさりした醤油が主体。
さっぱり、あっさり、かつ醤油のこくもある味わい深いラーメン。
いまの家」のチャーシュー・ワンタン麺。見た目にも美しい。

Mahler2_abbado_lucerne マーラー交響曲第2番「復活」
1番の完成後、すぐに書きはじめ1894年に完成。
敬愛したビューローの死とも因縁づけられるが、死の気分とクロプシュトックの讃歌「復活」、そして自作の「子供の不思議な角笛」、これらが渾然となって、長大な交響曲を生むこととなった。

どんな演奏でも、最後の壮大なクライマックスには感動の坩堝となってしまう。
例によって、この曲の初聴きは・・・、思い出せない。たぶん、フジテレビの援助カットによる日本フィルの解散白鳥の歌となった、小沢の演奏のテレビ放送か、同時期の朝比奈&大フィルのFMかどちらか?
レコードでは、アバドとシカゴによる新しいマーラー演奏の画期的な1枚が初買い。
演奏会では、ベルティーニと都響のものしか経験なし。
私のマーラー狂いは、80~90年代までで、ライブはワーグナーのオペラに注力していたため、今に至るまで意外なくらいにマーラー生体験が少ないのある。

アバドと「復活」は、切っても切れない関係にあり、65年のセンセーショナルなザルツブルクデビューに始まり、マーラー第1弾のシカゴとの録音、ウィーン国立歌劇場音楽監督時代、ベルリンフィル時代、そしてルツェルン音楽祭での新たなスタート時に、それぞれ取り上げている勝負曲なのだ。

いずれも歌と情熱、知性と感性、それぞれのバランス豊かなしなやかな演奏で、「復活」といえば、アバドの音源として残されている、シカゴ盤・ウィーン盤・ルツェルン盤、それぞれを聴くことが多い。

本日は、2003年のルツェルン音楽祭を飾った演奏の映像を楽しんだ。

病の淵から文字通り復活したアバドが、マーラー・チェンバーオケの若手を主体に、かつて育てたユースオケなどの卒業生や、アバドを慕う各オーケストラの名手達で結成された「ルツェルン祝祭管弦楽団」を指揮した第1弾。
2000年の来日での激痩せぶりからすると、肉付きもよくなり、相変わらず若々しい指揮ぶりが伺える。
そうした相も変わらないアバドの的確な指揮ぶりを眺めつつも、オーケストラメンバーの豪勢な顔ぶれにも目を奪われる。
ブラッヒャーのコンマス、カプソン、ハーゲン、B・クリスト、G・ファウスト、グートマン、ボッシュ、パユ、A・マイヤー、ザビーネ・マイヤー、ドール、フリードリヒ・・・・、枚挙にいとまがない。このメンバー、少しづつ変わりつつあるようだが、室内楽も得意にする名手たちのオーケストラ演奏は、まさに互いを聴きあい、音のブレンドを大事にする姿勢が貫かれている。

   S:エイェリ・クヴァザヴァ    A:アンナ:ラーション
   合唱:オルフェオン・ドノスティアルラ合唱団

Abbado_mahler 演奏は、テンポよく。明るく若々しい!
音の粒立ちの明確さと、その立ち上がりの見事さ。自主性に満ちた完璧なアンサンブル。
楽員は、アバドの弧を描くような指揮に応じて、リアクションも大きく体も大きく揺れる。
時に指揮者ともどもにこやかに、楽しそう。
音楽する喜びが、マーラーの復活という、普通演奏するだけでも大変な曲で、普通ににじみ出ているところが、このコンビのスゴイところ。
終楽章のクライマックスでは、インテンポで意外なくらいに爽快なエンディングを築きあげている。バーンスタインやシノーポリのような、胸かきむしるような壮絶さはなく、復活の讃歌は明るく前向きだった。

アバド&ルツェルンのマーラーは、このあと第5、第6、第7、第3と続き、今年はひとまずお休み。テンポも早まり、密度は逆に濃くなって、アバドの前向きなマーラーは進化するばかり。歳とともに若くなり、推進力の増す稀有の音楽家。

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2008年7月 8日 (火)

マーラー 交響曲第1番「巨人」 ヤンソンス指揮

Sai ラーメンを貼ります。
別館にて過去紹介済ですが。
夜半にこんな画像をご覧にいれて恐縮であります。
今回の企画は、「マーラー&ラーメン」なのであります。
みんな大好き「マーラーメン」!
ちょいと強引な企画だけど、マーラーに食傷ぎみの私も、ラーメンとセットにして全曲を踏破しようじゃないか!

こちらのラーメンは、札幌の「菜」という店の「ぶた味噌ラーメン」。
チャーシューの角切りもごろごろ入った肉好きには堪らない一品。マイルドな味噌のスープは、心から和む味だった。

Mahler1_jansons マーラー(1860~1911)の交響曲第1番は1889年の作。指揮者として、ライプチヒからブタペストへ移動するさなか、84年からじっくりと書き進めたこの作品は、当初、交響詩として発表されたらしい。
シュトラウスはオペラをまだ作曲しておらず、交響詩も数曲のみ。チャイコフスキーの第5が88年、ドヴォルザークの第8が89年、ブラームスは、85年に第4交響曲を書き終えていた。

これだけ普遍的な曲になると、演奏する側も聴く側もルーティンになりがち。
この曲をはじめて聴いたのは、もう何年前だろうか。高校生だったか、たぶんバーンスタインの演奏のFM放送かと思う。
それと、75年頃、ドホナーニがベルリンフィルを振ったライブをエアチェックして何度も聴いた。1楽章に一回と終楽章に二度訪れるクライマックスを身を痺れるような思いで聴いたものだ。
実演では、ドラティ/読響、ベルティーニ/都響、アバド/ロンドン響、小沢/新日、ずっと最近になってヤンソンス/コンセルトヘボウなどを聴いた。
これらの中では、日比谷公会堂を揺るがせるような音を引き出したドラティと、乗りに乗ったアバドのスタイリッシュな演奏が印象に強く残っている。

ヤンソンスは、オスロ・フィルとも録音しているが、第9とカップリングしたそのCDを棚に置いたまま聴かないうちに、コンセルトヘボウとの新盤が出てしまった。
2006年のライブで、ちょうど日本にこのコンビでやってくる直前の録音。
日本での演奏は、前半の内田光子のモーツァルトの25番とアンコールのシューベルトがあまりにも霊感に満ちた名演で、後半のマーラーは分が悪かった。
当時のレヴューを読み返して、マーラーの感動も書かれているので、良い演奏だったのだろう。でも心に残ったのは前半の内田のピアノだったから、ちょいと寂しい。

そんな思いを抱きつつ聴いたこのCD。
まず、録音が実によい。ホールの自然な響きを難なくとらえているし、音の溶け合いがとてもよろしい。ヤンソンスの唸り声も異様なくらいによく聴こえるし・・・。
 そして演奏は、洗練され磨きぬかれた綺麗な演奏といえる。
ホルン、木管、自慢の弦、どれをとっても美しくホールの響きと渾然一体となった名器は、指揮していてとても気持ちがいいだろうな。
そして、いつものヤンソンスらしく音楽はイキイキとしていて、リズムの弾み具合も抜群。
3楽章の民謡調の哀感に満ちた旋律と行進曲の対比などは、そうしたヤンソンスの個性が実によく出ているし、終楽章の着実な盛上りとエンディングなどは、聴かせ上手のヤンソンスならでは。最後の盛上りは実際に、ホンマにすごい!
 だが、そろそろマリス君には、もっとさらなる深みある次元へと到達して欲しいものだ。
うまく聴かせるという以上に、何かもっと突き抜ける何かが欲しいような気がする。

こんなことを思いながらも、そのライブに接すると、ものの見事に乗せられてしまうんだな、マリス・ヤンソンスにね。
一年おきに、手兵を替えて、この秋もやってくるヤンソンス。
今年は、演目があまり触手が伸びない。
ドヴォ8、イタリア、ラヴァルス、展覧会、ブラ3・・・・・・。
何だろね?このプログラムは??アンコール大会が目に見えるようだ。
プロモーターの考えなのかしらんが、本拠地では、トゥーランガリラとかワーグナーとか、面白そうな演目をやっているのに。そんな本格演目でも充分会場は埋まりますよ!

明日は「復活」だっ!

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