東京交響楽団 定期演奏会 ジョナサン・ノット指揮
青く、めちゃくちゃ天気のよかった土曜日。
ミューザ川崎での東京交響楽団の演奏会に行ってきました。
ラゾーナ側から回り込んだので、ちょっと違うアングルのミューザ川崎です。
武満 徹 「鳥は星形の庭に降りる」(1977)
ベルク 演奏会用アリア「ワイン」(1929)
S:高橋 絵理
マーラー 交響曲「大地の歌」 (1908)
Ms:ドロティア・ラング
T :ベンヤミン・ブルンス
ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
(2024.5.11 @ミューザ川崎シンフォニーホール)
2014年の音楽監督就任以来、当初より取り上げてきたこのコンビのマーラーの最終章。
大地の歌をもって、すべて取り上げたことになるそうです。
あと2年の任期がありますが、ずっと続いて欲しいというファンの思いもありつつ、こうしてひとつの節目とも呼ぶべき憂愁あふれるプログラムを体験すると、残りの任期をいとおしむことも、またありかな。
そんな思いに包まれた感動的なコンサートだった。
プログラムの選定のうまさは、知的な遊び心以上に、われわれ愛好家の心くすぐる演目ばかりであることからうかがえることばかりでした。
都内の保守的な聴き手の多いオケや、入りを気にしなくてはならない地方オケでは、絶対に出来ない演目ばかり並ぶノットのこれまでの演奏会。
今回は、時代をさかのぼる順番で、マーラーに端を発する音楽の流れを体感させてくれました。
もっとさかのぼると、トリスタンとパルジファルがあって、マーラーときて、新ウィーン楽派・ベルクときて、ドビュッシーにして武満です。
マーラーは終着ではなくて、通過点であり、その先の音楽の豊穣があることを確信させるような演奏、「Ewig・・・ewig」繰り返される「永遠に」の言葉が今宵ほど美しく、この先が明るく感じられる演奏はなかった・・・・
①「鳥は星形の庭に降りる」
調べたら手持ち音源は、小澤、岩城、尾高と武満音楽を得意とする日本人指揮者の音盤をいずれも持っていた。
さらに記憶をたどると、岩城宏之指揮するN響のライブも聴いていた。
いずれも遠い彼方にある音楽だったが、今宵はドビュッシーとベルクの延長線上にもある武満音楽を我ながらすごい集中力で持って聴くことができた。
武満作品は、演奏会の冒頭に置かれることが多いので、どうしても後々の印象が薄くなったり、演奏に入りきれないまま終わってしまうケースが多いと思う。
今回は事前に、この日のプログラムを演奏順にCDで予習してきたので、後半に明らかにベルクを思わせるシーンを捉えていたので、まんじりとせず、耳をそばだてながら聴いた。
静謐さのなかに、鳥の舞い降りるイメージや音がホールの空間に溶けていってしまう様子など、ノットの共感に満ちた指揮ぶりを見ながら、音楽を感じ取ることができました。
②「ワイン」
名品「初期の7つの歌」のオーケストラ編曲をした翌年、「ワイン」は「ルル」を書き始める前に書かれたコンサート・アリア。
3つの部分でなっていたり、シンメトリーが形成されていたり、イニシャルと音階への意味づけ、ダ・カーポ形式といういわば古い酒袋に十二音技法を詰め込んだような、そんなベルクらしいところが満載な音楽なんです。
アバドのCDと、ベームのライブなどを何度も聴いて、その芳醇な音楽とルルを思わせるシーンがいくつもあることなどで、大いに楽しみだった。
まず、ソプラノの高橋さんのぶれの一切ない強いストレートな声に驚いた。
リリックソプラノを想定したアリアだけれど、私の席に届いた声はもっと強靭にも感じた一方、タンゴの部分でのしゃれっ気ある身のこなし、軽やかな歌いこなしなど、表現の幅も広く、感心しながらも楽しみつつ拝聴。
ノットの指揮するオーケストラも、ベルクのロマン性と先進性をともに表出していて、ベルク好きの私を陶然とさせていただきました。
③「大地の歌」
コンサートチラシにある言葉「人生此処にあり」
この言葉が意味するごとく、「生は暗く、死もまた暗し」・・・ではなくって、人生いろいろ、清も濁もみんなあり、みんな受け入れようじゃないか・・・そんな風に感じた、スマートかつスタイリッシュな「大地の歌」だったように思います。
ご一緒した音楽仲間がタイムを計測してまして、60分を切るトータルタイムだったと証言してます。
早い部類に属するかと思いますが、聴いてて絶対にそんな風に感じさせない個々のシーンの充実ぶりと、気持ちのこもった濃密さ。
概して明るめの基調だったわけですが、歌手の選択にもそれはいえて、ふたりの声の声質は明るめでした。
テノールのブルンスは、出てきたときからどこかで見たお顔とずっと思い聴いてた。
帰って調べたら、バイロイトのティーレマン指揮のオランダ人(グルーガーの変な演出)のときに舵手を歌っていた人だった。
さらにみたら、バッハコレギウムでエヴァンゲリストも歌ってました。
だから声はリリカルで柔らかくもあり、強いテノールでもないが、張りのある声と言語の明瞭さが決してその声を軽く印象付けることがなかった。
聴いた瞬間に、タミーノを歌う歌手だなとおもったら、やはり重要なレパートリーのひとつだった。
3つの楽章、みんな明瞭かつ清々しい歌唱だったが、「春に酔った者たち」がマーラーの音楽と詩の内容とが巧みにクロスするさまも交えて、とても印象的だった。
ヒロイックでないところがいちばん!
メゾのドロティア・ラングは、名前からするとドイツ系と思われたがハンガリー系とのこと。
Dorottya Láng = わからないけれど、ハンガリー風に呼ぶならば、ドロッテッヤ・ラーンクみないた感じじゃないかしら、しらんけど。
身振り手振りも豊かに、音楽と詩への共感とのめり込み具合が見て取れる。
オペラでの経験も豊富で、オクタヴィアンと青髭のユーディットなども持ち役で、ドラマチックな歌唱も得意とするところから、この大地の歌も表現の幅がとても広く、ビブラートのないこちらもストレートで透明感ある声と思った。
「告別」での感情移入はなみなみのものでなく、わずかに涙を湛えているかのように見えました。
それでも表現が過度にならないところは、ノットの指揮にも準じたところで、客観性もともないながら、音楽の持つある意味、天国的な彼岸の世界を明るく捉えていたのではないかと思う。
東響の素晴らしすぎる木管群に誘われ、ラングの歌は、どんどん清涼感と透明感を感じるようになり、聴くワタクシも知らずしらず、歩調をともにして、マーラーの音楽と呼吸が合うようになり、いつしか涙さえ流れてました・・・・
こんなに自然に音楽が自分に入り込んできて、気持ちが一体化してしまうなんて。
彼女のナチュラルな歌唱、ノットと東響のお互いを知り尽くした自然な音楽造りのなさせる技でありましょうか。
「永遠に・・・・」のあと、音楽が消えても静寂はずっとずっと続きました。
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アフターコンサートは久方ぶりに、気の置けないみなさまと一献
コンサートの感動でほてった身体に、冷たいビールが染み入りました。
つくね、ハイボールもどこまでも美味しかった。
この土曜日は首都圏のオーケストラでは、同時間にいくつもの魅力的な演奏会が行われました。
それぞれに、素晴らしかったとのコメントも諸所拝見しました。
こうして音楽を平和に楽しめること、そんな日本であること、いつまでも続きますことを切に願います。
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