マーラー 交響曲第9番 ジュリーニ指揮
鹿児島ラーメンでごわす。
桜島の噴火は怖いけど、鹿児島は、北海道と同じように自然と人が懐かしく、一度行くとやみつきになる県であります。
何よりも酒と食が最高にいい。
みなさん熱いし、ゆるい。
そしてその豚骨ラーメンは、クリーミーで味わい深く、あっさりした中にコクがあってとてもおいしい。
ガルフと読むこの店は、鹿児島発信のラーメン店で都内やイオンに出店中。
かごんま、ほんのこて、うまいでごわんしょ。
マーラーの交響曲第9番は、多くの愛好家にとって特別な曲であり、すべてのクラシック音楽の中でも上位にくる人気度の高い作品。
私とて例外でなく、昨年のマイベスト音楽選の交響曲部門5傑の中にノミネートされた曲(なんじゃ?)
私のような古くさいクラヲタにとって、マーラーは途中からやってきて、いきなりホームランバッターになってしまったような作曲家だ。
若い愛好家の方々の中には、マーラーが普通に4番バッターで、モーツァルトやベートーヴェンが3番5番、そして地味な7番バッターくらいにブルックナーがいたりするのではないだろうか。
そんな日本のマーラー受容史において、画期的な演奏会は、1970年の万博の年に来日したバーンスタインとニューヨークフィルによる第9の演奏だろう。
小学生の私が行けるはずもなく、購読を始めたレコ芸の記事で吉田秀和氏が絶賛していた。それは、演奏がどうのこうのでなく、マーラーの音楽のすごさを書いていたものに思う。
そして演奏会は真夏のことで、バーンスタインとNYPOの面々は白い夏用の燕尾服を来た写真だった。
マーラーの第9とはいったいどんな曲なのだろう??
押さえようもない興味にかられ、初めて聴いたのが、その数年後のFM放送で、なんとコンドラシンとモスクワフィルのレコードによるものだったが、驚くべきことに終楽章の終わりのほうでちょん切られてしまった・・・・、という風に記憶する。
その無常観を抱きつつ、バーンスタインの演奏のさわりを、サンプラーLPで聴いたり、N響が森正の指揮で演奏したテレビを見たりしていた。
そして75年に、クーベリックとバイエルン放送響の来日公演の放送や、ジュリーニがウィーン交響楽団と演奏した録音の放送を録音し、すっかりこの音楽に馴染んでいった。
そして、満を持して購入したジュリーニとシカゴ響とのLPは、アバドの復活とともに、当時、私の心を震わせたマーラーのモニュメント的な2枚組である。
同じオーケストラを振ったジュリーニもアバドと同様明るい音色が基調となっていて、歌に満ちあふれている。野放図に歌うことに傾注しているわけでなく、しっかりした構成感の元、堅固な造型の中にあるので、全体像が実に引き締まっている。
ルネッサンスの巨匠ミケランジェロを思わせる音の大伽藍。
テンポはゆったりと、沈着で、品格が漂う。
こんなに長い1楽章はないが、それを遅いと感じさせないのは、歌が豊かだからなのだろう。
諧謔と自嘲にあふれた第2と第3楽章は、慌てず騒がず堂々としたもんだ。
3楽章の中間部は、僥倖のようでとても美しく、終楽章への伏線として納得感のある表現だ。
そしてその終楽章は、音楽を慈しみつつも歌に傾注していて、目を閉じて聴いていると、指揮棒をぐわっしと握りしめ顔をかしげたジュリーニの指揮姿がまぶたに浮かんでくるようだ。弦はボウイングを思い切り使い鳴り切っていて、粘りも充分。
だがその粘りは、情念系のバーンスタインのように胸掻き毟るようなことがなく、どこまでもスッキリかつ明晰。
「死」を意識するというよりは、諦念の後にやってくる澄み切った境地を感じる。
70年代後半レコードで聴いていた頃は、音楽の持つスゴサに平伏してしまって、ジュリーニの音楽がこんなに歌に満ちていたなんて思わなかった。
その後に様々な第9を受容してから、CD化されたジュリーニ盤を聴いてみての今回の印象が以上である。
古典派から脈々と続いた純粋交響曲のピークを飾るに相応しい演奏がジュリーニ。
アバドは、この曲のあとに新ウィーン楽派が控えていることを意識させる点で、ジュリーニの完結型の演奏と異なるように思ったりしている。
例によって実演体験を。
なんといっても、バーンスタインとイスラエルフィルの超絶的な名演が忘れられない。
まさにジュリーニと正反対にあるセルフイマジネーション的なバーンスタインの指揮は、ユダヤの同朋たちと完璧に溶け合い怒涛のような演奏をしてのけた。
ユダヤ人司祭による儀式に参列したかの思いだった・・・。
ベルティーニ&都響、若杉&N響、エッシェンバッハ&フィラデルフィア、ヤルヴィ&フランクフルトなどなど。
名曲名演目白押し。皆様も思い出がたくさんおありかと思います!
| 固定リンク | コメント (6) | トラックバック (0)





























