マーラー 交響曲第9番 バルビローリ指揮
7月のはじめ、自宅から見た夕刻の空。
夕焼けというものは、その日、その時によって、このように息をのむような壮絶な光景を見せてくれます。
人生の夕暮れを感じることもできますし、次にまたやってくる明日を感じることもできます。
歳とともに、前者の思いが深まるばかりです。
マーラー 交響曲第9番 ニ長調
サー・ジョン・バルビローリ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(1964.1 @イエスキリスト教会、ベルリン)
久々のマーラー(1860~1911)。
言わずとしれた、バルビローリの第9を久しぶりに聴きます。
ベルリンフィルに定期的に客演していたバルビローリは、得意とするマーラーを携えてベルリン入りすることが多く、いまや数々のライブ復刻音源が出ております。
第9もその一環で、あまりに有名な楽員からのレコーディング要望という経緯も、いまや「バルビローリのマーラー第9」という普遍的な固有名詞的な存在と、その逸話でもって、燦然と輝いているのでございます。
マーラーの音楽を聴くということは、ひとむかし前なら、すべての夾雑物を排して、土曜日などの休前日の晩に、真剣に命をかけるようにして取り組んでいたものです。
同じように、ワーグナーもそのようにしておりました。
それが、いまや、マーラーは日常茶飯事のように、思ったその時に聴いてしまうという、ごく親しい存在になっているのです。
こうしたマーラー受容経験を経たのちに、またあらたに、かつての60~70年代のマーラーを軽いスタンスで聴くということが、じつはあんまりできないんです。
それぞれに、真剣に思い入れも込めて聴いてきた音源は、いまでも軽々しく聴くことはできないのでした。
ラトルやノット、ヤンソンスの第9は、さらりと何気なく平日の晩に聴けるのですが、バーンスタインやアバド、カラヤン、テンシュテットなどは、おいそれとは日常的に聴けない。
ところが、心優しいバルビローリの名盤は、そのどちらでもなくて、真剣に取り組んでもよし、軽い平日の晩のタッチで聴くもよし、身近に感じることのできる第9なのです。
彼岸に踏み出した、あっちへ行っちゃってる音楽という認識や概念は、ここではまったく感じることがなく、どこまでも音符のひとつひとつを慈しむ指揮者を、信望してその持てる最高性能のすべてを全開してしまったオーケストラ、という図式が成り立ってます。
優しい雰囲気に終始あふれた1楽章と、ずっとずっと弓を引っ張りながら、歌の限りをつくす終楽章がともかく素晴らしい。
バーンスタインとはまた大きく違ったエモーショナルな終楽章は、強引さはひとかけらもなくって、オケの全員がサー・ジョンの思いに寄り添い一丸となってしまった、たぐい稀な音楽表現であると確信します。
言葉は不要、多くの方々が聴いてきた、高名なるバルビローリのマーラー第9に、わたくしもここで讃辞を捧げたいと思います。
余談ながら、日曜に聴いた神奈川フィルの佐村河内交響曲は、日に日にその思いを増してます。
ここ数日、ワーグナー、チャイコフスキー、マーラー、ブリテンと聴いておりますが、佐村河内音楽の根底にあるのは、ワーグナーの錯綜する複雑かつ、劇的な音楽造りに共通するもの。
パルシファルとリングとの共通項を、言葉には変換できませんが、いくつも見出しております。
この夏は、ほんと、忙しいです。
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