カテゴリー「ブルックナー」の記事

2024年1月 9日 (火)

ブルックナー ミサ曲第3番 バレンボイム指揮

Motosu

新年を寿ぐ言葉も申しあげることなく、年が明けて1週間が経過しました。

それでも個人的には海外の配信を中心に音楽はたくさん聴いております。

第9はあえて聴かないと決めたへそ曲がりは、ラフマニノフとプロコフィエフ、フンパーディング三昧で年を越し、年初はショックと暴飲暴食三昧で日々茫然としつつも、ティーレマンのニューイヤーをネット配信で聴き、悪くないと感心。
ジルヴェスターでは、ペトレンコのワルキューレ1幕で、ベルリンフィルというオーケストラの超高性能ぶりに唖然としつつ、こんな緊張感の高い演奏ばかりしていて大丈夫かな、血管とか切れないかな、とかあらぬ心配をしたりもした。

あとスカラ座のオープニングのドン・カルロではネトレプコとガランチャに酔い、ピッツバーグのアーカイブ放送からマゼールのブルックナー8番も堪能。
あとネットオペラ放送では、プロヴァンスでのマリオッテイ指揮のオテロ、ベルリンでのユロフスキ指揮のR・コルサコフのクリスマス・イヴも聴いた。
コルサコフのオペラは、いずれも幻想味があってとても美しい~

そんななかでも、仕事もちょいちょいしているし、親と孫のお世話もしてるので、ともかく忙しい。

こんな年末年始を過ごしましたよ。

あ、ちなみに写真は12月に巡った富士五湖のなかから、本栖湖。
この日は終日、雲ひとつない晴天で5つの湖すべてで富士山を望めました。

2024年のアニバーサリー作曲家の目玉のひとつは、ブルックナー(1824~1896)でしょう。

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  ブルックナー ミサ曲第3番 へ短調 (ノヴァーク版) 

   S:ヘザー・ハーパー Ms:アンナ・レイノルズ
   T:ロバート・ティア Bs:マリウス・リンツラー

  ダニエル・バレンボイム指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
                ニュー・フィルハーモニア合唱団
       合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ

                                    (1971 @ロンドン)

交響曲作家としてのブルックナーには、本来は宗教音楽作曲家としての側面もあり、そちらが音楽のスタートラインだったと思う。
父親と同じく、オルガニストとして活動したブルックナー。
交響曲第1番を完成させたのは42歳になってからで、その前に習作的な交響曲はあるものの、自信をもって番号を付したのは1番から。
0番は1番のあと。

40歳以前の作品は、その自信のなさから破棄されてしまったというので、ほんともったいない。
そしてミサ曲は、番号付きの3つの作品以外に初期に4作あり、全部で7つのミサ曲とレクイエムがひとつある。
あとは秀逸なモテットやテ・デウム。

ミサ曲の1番は40歳、2番は交響曲第1番とともに42歳(1866)。
そしてミサ曲第3番は、第1交響曲の初演にこぎつけた1868年、44歳のときの作曲。
こんな時系列を頭にいれてブルックナーの初期、といっても立派なオジサン年齢ですが。。。初期と呼ぶ作品群を聞くと興味深いですね。

キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイの通常のミサの形式からなり1時間の大作。

宗教作品らしく音階の大胆な展開は少なく、全般に穏やかかつ平穏な雰囲気。
そしてなによりも美しい。
ブルックナーの緩徐楽章を愛する人ならば、このミサ曲のそこかしこに、ブルックナーの交響曲の2楽章にある自然を愛で賛美するような清らかな音楽が好きになるに違いない。
またソロヴァイオリンを伴って、テノールが熱く歌うシーンなどは、テ・デウムと同じくだし、やはり篤い宗教心や祈りの気持ちが陶酔感を伴うように熱を帯びているのも篤信あふれるブルックナーの音楽ならでは。

しかし、何度も何度も聴いても美しいという印象は受けるものの、聴き終わって、全体のディティールや旋律などが明確に自分のなかに出来上がらないし、残らない。
そんなところが、このミサ曲の魅力なのか・・・

2008年、いまから16年も前に、神奈川フィルの音楽監督だったマルティン・シュナイトの指揮で、このミサ曲だけの演奏会を聴いた。
バレンボイムの58分の演奏時間に対し、そのときのタイムは70分あまりもかかった。
しかし、初めて本格的に聴いたそのシュナイトのブルックナーのミサは、神奈川フィルの美音も手伝い、祈りと感謝に満ちた、まるで教会で音楽に立ち会うかのような荘厳な演奏だった。

そのときのブログから

>アルプスの山々を見渡す野辺に咲く花々を思い起すかのような音楽に、私は陶然としてしまった。
2番への引用もなされたこの章の、神奈川フィルの弦と、フルートの素晴らしさといったらなかった。

そして誠実極まりない合唱も掛け値なしに見事。
 それに続く、アニュスデイも天上の音楽のように響きわたり、ホールが教会であるかのような安らぎに満ちた空間になってしまった。
合唱が歌い終え、最後に弦とオーボエが残り静かに曲を閉じた時、シュナイトさんは両手を胸の前に併せて、祈るようなポーズをとって静止した<

南ドイツでバッハを極めたシュナイトさんと、駆け出し指揮者だったバレンボイムとを比べるのも酷だが、ここでのバレンボイムの指揮は神妙で、優しい手触りでもって丁寧に仕上げた。
克明で言葉も明瞭な合唱は、かのピットの指揮。
ぎりぎり存命だったクレンペラーの君臨したニュー・フィルハーモニアのしなやかな弦も美しいし、管もブリリアント。
この時期のフィルハーモニア管はよかった。
60~70年代の声楽作品のイギリス録音では、ハーパー、レイノルズ、ティアーは常に定番で、あとはシャーリー・クヮークでしょうか。
ここでのリンツラーの独語の明快さと美声、もちろんほかの定番3人も素晴らしい。

このミサ曲3番、このバレンボイム盤以外は持ってません。
エアチェックとしては、ヤノフスキ、ヤンソンスなどのライブも聴きましたが、バレンボイム盤が一番美しい。
ヨッフムも聴かなくちゃいけませんね。
今年はほかに新録音なども出るのでしょうか。

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湖畔道路に降りて、ちょっとアングルを変えて。

こんな風にひとりカヌーを楽しむ方も。

気持ちいいだろ~な

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さらに近づいて、水辺の様子を。

コバルトブルーの美しさ。

幾多の災害を経ても復活する日本の自然のピュアな美しさ、ぜったいに守らなくてはいけません。

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2023年2月23日 (木)

平塚フィルハーモニー演奏会

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昨年開館した平塚市のひらしん平塚文化芸術ホール

地元のアマチュアオーケストラである平塚フィルの演奏会に行ってきました。

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  シベリウス  交響曲第5番 変ホ長調

  ブルックナー 交響曲第4番 変ホ長調「ロマンティック」

  シベリウス  アンダンテ・フェスティーボ(アンコール)

 田部井 剛 指揮 平塚フィルハーモニー管弦楽団

       (2023.02.19 @平塚文化芸術ホール)

ともに変ホ長調の交響曲で自然を賛美するような音楽。

この2曲をプログラムに据えるという果敢な演奏会で、新しいホールでの新鮮な響きにも大感激でした。

30年の歴史がある平塚フィルは、意欲的なプログラムで年2回の演奏会を開いていて、前から聴きたいと思っていました。

人口25.7万人の都市、平塚は私のいまいる町の行政管轄都市で、商業でも栄えた街なので、子供の頃からお買い物は平塚でした。
長く親しんだ街のオーケストラをようやく聴くことができたのも、昨年実家に帰ってきたからでした。

そんな思いを抱きながら聴く、2つの私の大好きな交響曲。
まったく個性の異なるふたつの作品を、しっかりと聴かせてくれた平塚フィルです。
ここまで見事な演奏になるとは思いませんでした。
オーケストラに敬意を表したいと思います。

爽やかなシベリウスは、3楽章に至ってだんだんと熱っぽくなって、見事なエンディングに至りました。
5番はやっぱり好きだな、とつくづく思います。

休憩後のブルックナーも誠意あふれる演奏で、奏者のみなさんが共感しながら演奏しているのがよくわかります。
平塚からは、丹沢連峰と大山が見渡せます。
山々と、湘南の海、自然にも恵まれた平塚でブルックナー。
新しいホールの鮮度高い響きは、過剰な響きがなく、木質感あふれる柔らかなもので、ブルックナーの音楽が響きに埋もれることなく、一音一音、和音のひとつひとつがよく聴き取れました。

田部井さんの熱意溢れる指揮もときおり小さなジャンプも交えつつ、とてもいいと思いました。
なによりも余計なことはせずに、ストレートに速めのテンポを維持しつつ聴かせてくれた。

見渡すと年配の方も多い聴き手のみなさん。
うつむく方はほとんどおらず、この2曲をしっかりと聴いておられました。
 
最後のシベリウスは暖かくも熱い小曲で、わたしも好きな作品。
ストリングスだけで進み、最後にティンパニが締めました。

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平塚といえば七夕。

シートの色にも仕掛けがありました。(気が付かなかったけど)

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コンサートが終了すると、左手奥の壁と窓がすべて解放され、目の前の広場が広がりました。

気持ちいいホールでした。

平塚には以前、平塚市民センターがあって、そちらが文化芸術の中心でしたが、老朽化から閉館し、この文化芸術ホール開館となりました。
中学生のとき、合唱団に入っていたので、地域の合唱コンクールの際は、かつての市民センターの舞台に立ちました。
上位入賞し、都内の虎ノ門ホールの関東大会まで進んだことも懐かしい思い出です。

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平塚駅。

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2022年12月30日 (金)

交響曲第9番 ジュリーニ指揮

Fujimi

散歩してたら見つけた富士が紅葉ごしに見えるスポット。

まだ散る前で、完全に染まっていなかったけれど、満足のいく1枚。

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今年は生活環境がまったく変化したのだけれど、便利さは犠牲にしても、こんな光景がすぐ近くにあるという幸せ。

2022年もおしまいです。

ジュリーニの第9シリーズを振り返ります。

一部は過去記事を編集して再掲します。

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 ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調

  S:カラン・アームストロング Ms:アンナ・レイノルズ
  T:ロバート・ティアー     Bs:ジョン・シャーリー・クヮーク

   カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ロンドン交響楽団/合唱団

          (1972.11 @キングスウェイホール)

70年代後半に、ジュリーニはさまざまな第9交響曲を取り上げ、録音しました。
ベートーヴェンも先駆けて録音しましたが、8番と同時に録音された2枚組のレコードは、EMIに継続していたベートーヴェンの交響曲の一環という意味あいの方が強かった。
EMIには、6~9番が録音されたわけですが、この第9はテンポをゆったりととる悠揚スタイルのコクのあるジュリーニと言う意味あいでは、次に来る第9シリーズと同様ですが、やや集中度も浅く、細部の克明さにも欠くように感じられる。
しかし3楽章の透明感と流動性は、ジュリーニならではで、1楽章の激遅と2楽章の超快速との対比が面白いし、終楽章の堂々たる歩みも数年後の超巨匠としての刻印を感じさせる。
オケはいいけど、合唱がいまいちかな。

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 ブルックナー 交響曲第9番 ニ短調

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

     (1976.12 @メディナ・テンプル シカゴ)

EMIへのベートーヴェン第9から4年、しかし、その間ジュリーニはウィーン交響楽団の首席指揮者になり、ウィーンにゆかりのある作曲家の作品を格段と指揮するようになった。
74年には、ウィーン響とブルックナーの2番を録音。
NHKFMでも大曲をさかんにとりあげるジュリーニとウィーン響の演奏が放送され、エアチェックにも暇がなかった。
いつしか気になるコンビになっていたジュリーニとウィーン響が日本にやってきた1975年秋、春に来たベーム・ウィーンフィルのチケットが落選となっていた腹いせもあり、東京公演を見事聴くことができた。
演目は、ウェーベルンのパッサカリア、モーツァルトの40番と、ブラームスの1番、アンコールに青きドナウ。
このときから、アバドの兄貴分、ジュリーニが好きになった。

その次の年から始まったジュリーニの「第9シリーズ」
録音順ではマーラーが先んじているが、これはDGの専属となる契約の関係上か。
後年のウィーンとの再録音よりも5分ほど速く、63分でのキリリと引き締まった、そして緊張感にあふれる演奏。
それでいて柔和な微笑みもある歌心にも欠けていないので、おおらかな気持ちにもさせてくれる。
シカゴのブラスの圧倒的な輝かしさは録音のせいもあるかもしれないが眩しすぎと感じるのもご愛敬か。
ウィーン盤とともに、この作品の代表的な1枚かと思いますね。

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 マーラー 交響曲第9番 ニ長調

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

     (1976.4 @メディナ・テンプル シカゴ)

ジュリーニとシカゴ響のマーラー第9のLPは、アバドの復活とともに、発売時に入手してマーラーにのめり込んでいく当時の自分の指標のような存在だった。
シカゴということもあり、明るい音色が基調となっていて歌に満ちあふれているが、しっかりした構成感の元、堅固な造型の中にあるので、全体像が実に引き締まっている。
テンポはゆったりと、沈着で、品格が漂い、緻密であり清澄。
音の重なり合いの美しさはジュリーニならではで、優秀なオーケストラがあってこそ保たれる緊張感のある美的な演奏だと思う。
久々に聴きなおして、このようにともかく美しいと思った。
若い頃のレコードで聴いていた時期は、音楽にまず平伏してしまって「マーラーの第9」は凄い、が真っ先にきてしまって、ジュリーニの音楽がこんなに美しく歌に満ちていたなんて思わなかった。
歳を経て、この思いはますます増してきた。

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 シューベルト 交響曲第9番 ハ長調

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

     (1977.4 @オーケストラホール シカゴ)

これもまた学生時代に買ったレコードで、渋谷の東邦生命ビルにあったショップで購入したもの。
このジャケットにあるように指揮棒を握りしめるようにして、熱く歌うジュリーニの音楽。
遅いテンポで重々しい雰囲気を与えがちな晩年のものに比べ、テンポは遅めでも、どこか軽やかな足取りもあり、横へ横へと広がる豊かな歌謡性が実に心地よい。

2楽章のどこまでも続くような歌、また歌。いつまでも浸っていたい。
同じく3楽章の中間部も思わず、体がゆっくりと動いてしまうようなこれまた歌。
1楽章の主部へ入ってからのテヌートぶりも、いまや懐かしい。

レコードで聴いたときは、当時聴いてたワルターやベームとのあまりの違いにびっくりしたものだが、ジュリーニのこのやり方がすぐに好きになり、頭の中で反芻できるくらいになってしまった。
終楽章では、はちきれるほどの推進力で、シカゴのブラスの輝かしさを堪能できます。
現在、シューベルトは後期の番号でも、軽やかにキビキビと演奏するのが主流となりましたが、ジュリーニの堂々としながらも歌がみなぎる演奏は、極めて心地がよく清新なものでした。

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 ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調 「新世界から」

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

     (1977.4 @オーケストラホール シカゴ)

シカゴ響から引き出したジュリーニの「新世界」の響きは、一点の曇りもなく、明晰でありながら、全体に荘重な建造物のごとくに立派なもの。
全曲に渡って指揮者の強い意志を感じさせ、聴きつくしたお馴染みの「新世界」がこんなに立派な音楽だったとは!と驚かせてくれる。
第2楽章ラルゴは、旋律線をじっくりと歌いむ一方、背景との溶け合いもが実に見事で、ほんとに美しいです。
終楽章も決してカッコいい描き方でなく、堅実にじっくりとまとめあげ、こうでなくてはならぬ的な決意に満ちた盛り上げやエンディングとなっている。

マルティノンの時代から、ジュリーニはシカゴへの客演が多く、EMIにも素敵な録音が60年代からなされていた。
ショルティがシカゴ響の音楽監督になるとき、ショルティが要望したことのひとつは、ジュリーニが主席客演指揮者となることだったらしい。
同時にアバドもシカゴとは相思相愛で、ショルティは後任にはアバドとの思いもあったくらい。

わたしはジュリーニは70年代が一番好きで、シカゴとロスフィル時代が併せて一番好きです。
へそまがりなので、CBSに移ってからの再録音の数々はほとんど聴いていない。

自身の指揮者としてのキャリアと歩みを確かめるようにして70年代に残した「第9シリーズ」。
シカゴという伴侶があってほんとうによかったと思うし、ジュリーニという指揮者の一番輝いていた時期を捉えてくれたことにも感謝したいです。

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季節外れの紅葉ですが、やはり日本の景色や風物には欠かせない美しさがあります。

2022年最後の記事となりますが、週1を目途としてきたblog更新。
blogはオワコンみたいに思われて久しいですが、一時休止はあったものの、こうして続けて、またあとで見返して、そのとき自分はどうだったか、どんな音楽を聴いていたのかなどという風に自分の記録を残すことが大切だから続けます。
オペラなどは念入りに調べてから文書を起こすので手間暇がかかりますが、自分の記事を読んで、またあとで聴くときの参考になったりもするし、よくこんなこと書けたな、と自分で驚いたりすることもあります(笑)。

来年もマイペースで、できれば更新頻度を上げたいな。

2023年もよろしくお願いいたします。

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2022年6月17日 (金)

ブルックナー 交響曲第2番、第3番 ダウスゴー指揮

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小田原城の内堀の花菖蒲、あじさい。

6月初め、まだ5分咲きぐらいでしたが、ライトアップされて、とても幻想的なのでした。

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竹灯篭も城下町っぽくて雰囲気抜群。

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 ブルックナー 交響曲第2番 ハ短調

  トーマス・ダウスゴー指揮 スウェーデン室内管弦楽団

       (2009.1 @エーレブルー・コンサートホール)

久々のブルックナー記事ですが、普段は始終聴いてます。
手持ちのCDもさることながら、ネット配信の最近の演奏も併行してよく聴いてます。
海外のライブが主体となりますが、欧米ともに、コンサートでのプログラムは、コロナ禍のモーツァルト、ベートーヴェンやシューベルトに比べると、コロナが落ち着きを見せると、マーラーとブルックナー、R・シュトラウスがとても多い。
でもシューベルトは、最後のハ長調の大交響曲の演奏頻度がものすごく高いと思う。

そしてブルックナー。
最近ではネルソンスとティーレマンがコンサートでも全曲録音を目指しながら演奏しつづけている。
いずれも、重心低めで集中度も高い厳しい演奏を展開しているが、そんななか聴いた真反対のイメージの演奏がダウスゴー指揮によるブルックナー。

デンマーク出身のダウスゴーは、お気に入りの指揮者で、ここ最近当ブログでもよく登場しますが、演奏会でも聴いたし、promsを始めとするネット放送もほとんど聴いて、CDもかなり揃えました。

ダウスゴーのポストは、シアトル響とBBCスコティッシュ響のふたつでしたが、残念ながらシアトルは任期終了前に辞任したらしい。
コロナにより、渡米が出来ず共演が1年半以上もなかったことなどが要因の様子。
スウェーデン室内管のポストを2019年まで長く務めていたので、相性もよかったそちらとの、意外性あふれるレコーディングがダウスゴーの代表盤となっていて、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスの全集を完成させ、メンデルスゾーンも進行中、ドヴォルザークやチャイコフスキーもワーグナーもあるという室内オケなのにオールマイティ感あふれるレパートリーを披歴中なのだ。

そんななかでワタクシのなかで燦然と輝く桂演となったのがこちらのブルックナーの2番。
前期の作品でありつつも、ブルックナー様式をしっかりと体現しだした、そして自然の息吹きあふれる抒情に満ちた交響曲。
ダウスゴーのきびきびとした明快な指揮で2番の交響曲が、響きが透けてみえるくらいに細やかに聴こえ、あっさりとした歌い口でも十分に内省的な様相を醸し出している。
良質なテクスチャーを備えた機敏な演奏なんです。
楽器が全部見えるような1楽章は、これこそがブルックナーがひとりで自然のなかを逍遥するかのような自在さを感じる。
ブルックナーの緩徐楽章のなかで大好きなこの2番の2楽章の美しさは格別。
スケルツォがまさにスケルツォ然としたきびきびした3楽章。
楽想の転換が目まぐるしく、楽しくなる終楽章はスピード感あり、勇壮なブルックナーの演奏からはもっとも遠くにある。

こんな風に既存のブルックナーの2番のイメージを覆してしまう大胆な演奏です。
ちなみに、既存の、というのは私の思いでして、2番、6番がもともと好きだったが、実際にヨーロッパに行って教会やアルプスの山々の緑を見たことで、緩徐楽章がとくにそのイメージになってます。

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 ブルックナー 交響曲第3番 ニ短調

  トーマス・ダウスゴー指揮 ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団

       (2019.6.17 @グリーグホール、ベルゲン)

2018年に6番を録音したダウスゴーは、スウェーデン室内管でなく、ベルゲンフィルを起用。
翌2019年には3番をこのコンビで録音しました。

2番との連続性ということで3番を取り上げました。
というのも、2番に次いですぐに書かれた3番は、このふたつの交響曲を携えてワーグナーのもとに行き、尊敬の証として捧げたわけですが、緊張のあまり酔ってしまったブルックナーは、どちらがワーグナーのお気に召したか忘れてしまったというエピソードが好きだからです。

そのときの初稿版1873年版でダウスゴーは、録音しました。
その音楽性から、後年充実期の改訂版でなく、ワーグナーの引用もありありでスッキリしている初稿版がダウスゴーにお似合いだからです。

予想通り、快速ブルックナー。
手持ちの同じ初稿版によるブロムシュテットや、ネゼ・セガンなどより圧倒的に演奏時間が短い。
しかし、聴き比べるとそう感じるだけで、ダウスゴー盤を普通に聴けば違和感など感じず、むしろ慎重な溜めや、大きな歌いまわしをまったくしていないところから、風呂上りの見たことないようなサッパリしたブルックナーの姿がここに聴かれます。
ここ数日、もう10回以上聴いたけれど、こんなにスラスラと快適に聴けるブルックナーが楽しくなってきた。

ノルウェーの実力派オケ、ベルゲンフィルもうまいもので、ブルックナーから遠い世界観を巧まずして表現していて、北欧らしい抜けるような響きがまさにそうなんです。

ワーグナーの響きが随所に浮かび上がって見える1楽章は、改訂版の重厚な響きとは大違いで軽やかですらあって痛快。
法悦的なまでの神への祈りを感じていた2楽章では、そんな様相は少なめで、淡々としたまま、すっきりとテンポよく透明感のみを追求したような演奏だ。
超快速3楽章は6分ぐらいであっという間に終了し、改訂版ゆえに、ここでもまた軽やかで俊敏な動きで、一気に駆け抜けてしまう終楽章もワクワク感すら味わわせてくれる。

こんなのブルックナーじゃない、とばっさり言われるかもしれないが、わたしは大いに楽しみ、フルオケと室内オケ双方で、ブルックナーの音楽を鈍長さから100%解放してしまい、既成概念を洗い流して風呂上り、コーヒー牛乳を飲んだような爽快さを、心から味わい尽くしました。

ダウスゴーの手法はいつもこんな感じで、ちょっとの抵抗と、聴いた後の音楽の走り去ったあとの爽やかな聴後感を味わうのみなんです。
あれこれ考えるのは抜きにして、直観のみ、感覚のみで受け入れるべき演奏かと。

ブルックナーも、爽快さで選ばれる、そんないろんな演奏を受け入れるべき時代にきている。

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2017年10月25日 (水)

ブルックナー 交響曲第9番 バレンボイム指揮

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竹芝桟橋からの月島方面の眺望。

日の出の時間帯です。

東京の都心はビルだらけで、空が狭い。

けれども、海方面に行けば、こんなに素晴らしい空も眺めることができる。

東京は、日本各地の美しさにも劣らず、このように美しい街です。

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  ブルックナー  交響曲第9番 ニ短調

    ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

         (1975.5 オーケストラ・ホール シカゴ)


かつては想像もつかないくらいに、ブルックナーとマーラー、それに続いてショスタコーヴィチの交響曲全集が録音されるようになった。
いったいいくつあるんだろう、的なレベルだ。

レコード時代だと何十枚もの組み物になって、何万円もしたものが、いまや数枚、数千円のCD時代の恩恵もあるが、なんといっても、これらのシンフォニーたちが、ベートーヴェンやブラームス並の人気曲になった証であろう。

そんなわけで、自分もそこそこ全集そろえてしまいます。

3回もブルックナーの全集を録音している指揮者は、これまで、バレンボイムをおいて、ほかにいない。
入手して数ヶ月、ようやく聴こうと思ってるベルリン・シュターツカペレとの全集のまえに、最初のシカゴ響とのものをあらためて全部そろえてみて聴いてみた。
ゼロ番から順番に。

何度も聴いてきたもの、今回、初聴きのものも含めて、このシカゴとの全集は、室内オーケストラから、フル・オーケストラを指揮するようになって、まだ間もなかった30代のバレンボイムが、アメリカの超ド級のオーケストラを前にして、少しも臆することなく、堂々と渡り合う姿が、ときに頼もしく、ときに青臭くも感じる、そんな演奏となっている。

ショルティのもと、黄金時代を築いていたシカゴ響は、DGとは、メディナテンプルを録音会場としたデッカより先に、本拠地のオーケストラ・ホールでの録音をバレンボイムとのブルックナーシリーズで開始した。
DG初レコーディングは、72年の「4番」ではなかったのではないかと記憶します。
その次が、75年の「9番」。
このあと、シカゴ響は、アバドやジュリーニとも、76年からマーラーを中心に、怒涛の名録音を残していくことになります。
ちなみに、ジュリーニのこれまた名盤、シカゴとのブルックナー9番は、76年12月の録音であります。

 さて、通して聴いた、バレンボイム&シカゴのブルックナー。
特に、気に入った演奏は、レコード時代から聴きなじんだ4番、それと剛毅な5番、美しい6番、最近食傷気味だったのに、とても新鮮だった7番、若気の至り的に思ったけど、大胆な8番、そして堂々たる9番でありました。

そんななかから「9番」を記事にしてみました。

演奏時間61分、前のめりになることなく、いや、むしろ老成感すら漂わせる風格。
ときおり、若い頃のバレンボイムの力こぶの入った指揮ぶりを思い起こさせるところもある。(初めてバレンボイムの指揮をテレビで見たのが73年の、N響への客演で、実際に拳を握りしめて突き出すような指揮ぶりだった)
 しかし、そんな力の入れ具合が、完璧なアンサンブルと、絶叫感のないシカゴ響が見事に吸収して、堂々たる風格へと全体の雰囲気を作り上げているように思える。
テンポのとり方、間合いも泰然としたものに感じる。

孤高な感じと、スタイリッシュなカッコよさすら感じる1楽章には痺れました。
スケルツォ楽章では、シカゴのパワー全開な一方、デモーニッシュな吃驚感も導き出し、恐ろしい30代と思わせる。
諦念と、抒情、崇高さの相まみえる難しいアダージョ楽章も、若さの片鱗すら感じさせない熟した響きだ。
しかし、全編、ともかくシカゴはうまい。
特にブラスの輝きとパワー。

このレコードが出たとき、レコ芸の批評で、大木正興さんが、「端倪すべからざる演奏」としていたことが、今もって記憶される。
この言葉自体が、その後もバレンボイムの推し量ることのできない才能をあらわすものとして、自分の中には刻まれることとなったが、演奏のムラも一方で多い、この複雑な才人に対する言葉としても、言い得ているようにも思う。

このブル9あたり以降、バレンボイムはトリスタンを手始めに、ワーグナーに傾倒していくことになりますが、そんな気配もこの演奏には感じ取れることができます。
いいときのバレンボイムは、ほんとうに凄い。
2007年のベルリンとの来演のトリスタンがそうです。

さて、シュターツカペレ・ベルリンとの全集の前に、ベルリンフィルとの全集を手当てしようかな・・・悩み中

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2017年9月18日 (月)

ブルックナー 交響曲第8番 ショルティ指揮ウィーンフィル

Shiba

何日か前の東京の壮絶な感じの夕焼け。

このあと、西の方から台風がやってくるのでした。

そして、60年代、ウィーンを中心に嵐を呼んだ指揮者を。

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    ブルックナー  交響曲第8番 ハ短調

    ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                     (1966.11・12 ゾフィエンザール)


ほんとは大好きだけれど、めったなことでは聴くことが少なくなってきていた曲、それが、「ブル8」であります。

「ブル7」は、あまりにも演奏されすぎて、食傷気味。
曲が偉大すぎて、大きすぎるから、8番を敬遠。
9番も、やたらに好きだけれど、こちらは彼岸の曲にすぎるから、逃げてる風があるかもしれない。
だから、ブルックナーは、1、2、4、5、6番を普段聴きしてる。

そんな自分が、ふと気になったのが、ショルティの指揮する「ブル8」。

一般的には、シカゴとの全集録音の一環が、「ショルティのブルックナー」ということになるだろう。
しかし、ショルティが60年代、ヨーロッパを中心に、オペラ指揮者として活躍していた頃のブルックナーやベートーヴェン、マーラーの録音があることに、はたと思い出し、それらを聴いてみようということになったのだ。
 それらは、古いレコ芸の広告や、ロンドン・レコードの冊子などで見て、記憶の片隅にあったもので、これまで聴いてなかったけれども、ノスタルジーをかきたてる、そんな存在でもあったのだ。

で、手始めに聴いてみた「ショルティ&ウィーンフィルのブル8」。

いや、これが、実に爽快であった!

快刀乱麻、鬼のような形相で切りまくるブルックナーでもありながら、すべての音符が明快で、もやもやした、神棚に祀り上げられてしまったような、どこか遠い、崇高すぎるブルックナーではない。
手の届くところにある、ウィーンフィルのブルックナーでもあった。
そう、なんたって、プロデューサーは、ジョン・カルショーであり、音楽エンジニアは、ゴードン・パリーなのだ!!
 66年の録音といえば、58年から始まった、ショルティ&ウィーンフィルのトリスタンを挟んでの「リング」録音が、65年に終結したその翌年。
ホールもスタッフも、みんなおんなじ。

当時は、まだ難解な大曲だった「ブルックナーの8番」を、あの「リング」と同じく、優秀な録音で、明快に、わかりやすく聴いてもらおうという意欲が、演奏者・録音スタッフたちの共通認識だったかもしれない。

録音後、はや50年が経過し、そんな風に思える演奏なのだ。
この1年前、デッカは、同じコンビで7番、メータで9番をリング界隈で残しているのも、そうした意図があるのかもしれません。

全曲は、約75分。

速いところは一気呵成、それと、ドラマティックに燃え上がるところでは、壮年期のあの激しい、切るような怒涛の指揮ぶりが伺われるような、そんなすさまじさもあるけれど、さらに、音圧も強くて、はっきりしすぎの感もあるけれど、でも、相対的に、ブルックナーとしての伸びやかな佇まいと、まばゆさに欠けていないと思いながら聴いた。
ことに、圧巻の終楽章フィナーレは、有無をいわせず、かっこいい!

 で、なんといっても、ウィーンフィルの美しさ。
いまのオールマイティなウィーンフィルにない、ローカルな言語で語られるブルックナーは格別であった。
オーボエを中心に、鄙びた雰囲気の木管に、柔和なホルンに、丸みをおびた金管、そして懐かしいほどの親しみあふれる弦。
 これらを、しっかり捉えたデッカの録音。
あの「リング」の録音の延長線上にあるといっていいかもしれない。

この国内盤の解説には、リングの合間をぬって録音とあるが、それは間違い。

 「アラベラ」     1957年
  「ラインの黄金」  1958年
 ベートーヴェン 交響曲第3番、5番、7番 1958、59年
 「トリスタンとイゾルデ」  1960年
 「サロメ」       1961年
 「ワルキューレ」 1962年
 「ジークフリート」 1964年
 ブルックナー 交響曲第7番 1965年
 「神々の黄昏」          1965年
 ブルックナー 交響曲第8番 1966年
 「エレクトラ」           1966,67年
 「ばらの騎士」          1968年

ウィーンでのショルテイの録音は、あと、ワーグナーの管弦楽作品があるけど、こんな年譜かな。
こうしてみると、ひとつのレーベルが、ウィーンでのオペラ録音をとても計画的進めていったことがよくわかる。
あと、ショルティは、ローマやロンドンで、ヴェルディの録音を同じように行っていた。

ともかく、どちらかというと避けていた、この作品に、この演奏、大いに気にいりましたぞ。

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2015年9月23日 (水)

神奈川フィルハーモニー第312回定期演奏会  児玉 宏指揮

Minatomirai201509

コンサート終了後に、ランドマーク、みなとみらいホールを背に、海の方へ散策。

いい音楽、いい演奏を聴いたあとの充足感に満たされ、頬をうつ海から吹く風も心地よいことこのうえなし。

この日は、モーツァルトとブルックナーの、ともに変ホ長調の作品を聴いたのです。

Kanaphill201409

   モーツァルト  交響曲第39番 変ホ長調 K543

   ブルックナー  交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンティック」
                        (第2稿1878/80 ノヴァーク版)

    児玉 宏 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                     (2015.9.20 @みなとみらいホール)


本日の指揮は、大阪交響楽団の音楽監督、児玉さんの客演。
オペラでの共演はあるそうですが、コンサートでは初登場。
もちろん、わたくしは、初児玉さんですが、そういえば、新国立劇場によく通っているころ、シュトラウスやヴェルディで登場していたのを覚えてるし、なんといっても、大阪響のユニークなおもろい秘曲プログラムも気にはなっていたのでした。
 そして、なんといっても、この方の経歴。
ドイツ各地で、オペラを中心に活躍してきた叩き上げ、カペルマイスター的な存在なのです。

さて、その児玉さんの指揮は、まずはモーツァルトの39番。

ステージに置かれたバロックティンパニを見て、ツィーツィー・コツンコツンを予想したものの、序奏の第1音を聴いて即、その不安(?)は見事に払拭されました。
なんて、柔らかく、落ち着きある響きでしょう。
管はモーツァルトの指定どおり、弦も、刈り込んで、室内オケスタイルでの演奏。
指揮台と置かず、平土間にて、指揮棒をもたない児玉さん。

1楽章主部が始まって、割合ゆったりめの進行は、繰り返しも行いながらで長い楽章となりましたが、弛緩したところは全然なくて、音が生き生きしてました。
 そして、大好きな第2楽章。
ともかく美しい。神奈川フィルの弦の魅力は、少人数でも引き立ちます。
長調と短調の間を行き来するこの楽章の魅力を味わえました。
 クラリネットの競演が微笑み誘う第3楽章に、一転、早めの展開で、駆け抜けるように、そして爽快に終結した4楽章。

モーツァルトの交響曲では、一番好きな39番。
ドレスデンやベルリン、N響などで親しんできた、児玉さんの師、スウィトナーの演奏を思い起こしてしまった。
穏健で柔和。歌心を持った優しいモーツァルトでした。

休憩後はブルックナー。
前半30分、後半70分のロングコンサートですが、それぞれ、その長さをまったく感じさせない。
そんな、ともかく、流れのいい、曖昧さのない、清冽なブルックナー演奏でした。

後ろから拝見する児玉さんの指揮ぶり。
少し、ずんぐりむっくりの、熊さんみたいな風貌で、決して大振りはせず、誠実な棒さばき。
もちろん、ブルックナーでは、指揮台に立ち、指揮棒も手に。
 多くの指揮者は、主旋律や、引き出したい楽器・奏者に体を時に向けて左右に動くのですが、その動きがまったくなく、ほぼ正面に立ったまま。
ですから、その横顔や表情が、後ろの正面客席からは伺えません。
 そんな指揮ぶりに、オペラ指揮者としての片鱗を感じました。
舞台とピットをつなぐ、結点としての指揮者のブレのないあり方。
ですから、音は、どの楽器も声部も、突出することなく、スコアのとおりにすべてがきれいに聴こえるように思えました。
 オーケストラもきっと演奏しやすく、安心の指揮だったのではないでしょうか。

そんな音の絶妙なブレンドの具合が、ブルックナーにはぴったりで、強音でも、音がダンゴにならず、オーケストラは思い切りフォルテの域に達してるのに、全然うるさくなく、どの楽器もちゃんと聴こえるのでした。
 それと、つい細かく分けて振ってしまいがちなブルックナーですが、多くある2拍子をそのままゆとりを持ちながら振ってまして、聴き手から見ても、落ちいて拝見できるものでしたし、出てくる音に、幅とゆとりを生みだすものではなかったでしょうか。

 かなり繊細な出だしの、原始霧。
そこから立ち現われるホルンは、お馴染みの実加ちゃん。
お父さん的な心境で、がんばれがんばれと念じながら聴きましたが、杞憂に終わり、全曲にわたって、艶のある明るい音色が安定して聴くことができました。
彼女をトップに、この日は、若いホルンセクション4人。
とてもよかったと思います。
 そして、ブリリアントな低音金管はベテランのみなさん。
ホルン・金管が突出することなく、マイルドに溶け合う様は、とても見事でした。
 3楽章では、甲冑が煌めく中世の騎士さえ脳裡に浮かぶような、そんな輝かしさも!

その3楽章のトリオでの、牧歌的な木管のほのぼのしたやり取りも楽しく、ベテランと若手の融合がここでも素敵に結実してます。

この演奏で、わたくしが一番感銘を受けたのは、第2楽章です。
ドイツの森を、後ろ手を組んで、ゆっくりと逍遥するイメージを常に抱くこの楽章。
まさに、その思いを満たしてくれる味わい深い演奏。
深みと艶のあるチェロに、存在感の増した渋いヴィオラセクション。
繊細なヴァイオリン群に、軽やかな木管。
ずっと聴いていたかった。

そして、錯綜する、ややもすると複雑に聴こえる終楽章。
オーケストラは全力投入、指揮者も全神経を集中し、極めて密度の高い充実の集大成となりました。
楽章の半ば、弦で回帰してきた、大きな嘆息のように第2主題を、かなり思い切り奏していたのがことさらに印象的です。
難しい、最後の終結部の盛り上げ方も見事で、神々しさすら感じました。

濃厚さや重厚さ、というよりは、叙事詩的な豊かさと、ナチュラルな情感にあふれた、わたしたち日本人の情感に即した名演奏だったと思います。

最後の音が見事に決まったあと、間髪入れず、拍手が起きてしまったことは残念ですが、会場は大きな拍手とブラボーに包まれ、オーケストラの皆さんも、児玉さんを暖かく称えるなか、この満足満点の演奏会は終了しました。

終演後のアフターコンサートは、今回も、体調調整中につきお休みしましたが、応援仲間のみなさんは、美味しいビールで乾杯したそうな。
さぞかし・・・・・。
いつか、そちらも復帰しますよ

神奈川フィル、次回は、川瀬さんの指揮で、ショスタコーヴィチとシベリウス。
大すきなシベ5ですよ
 

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2015年9月20日 (日)

ブルックナー 交響曲第4番 聴きまくる

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雨ばかりの関東に、先週、めずらしく訪れた刹那的な夕焼け。

この時期どおりの天候のなかでは、安定した晴れは、約束されたような美しい夕焼けを運んでくるけれど、最近は、悪天続きで、お日様に出会えない日々が続きました。

この夕焼けも、この日、数時間後には、大雨に変わったりしてます・・・・。

 かつての日々(~子供時代?)が懐かしい。

そう、ここ数年で、これまでの数十年単位の昔の風物や、価値観、そして気象が、極めて劇的に変化してしまった・・・・。
当然に、人々の思いや、思考回路も変化してしまった。

 音楽の受け止め方や、演奏のありようも、当然に変わりつつあり、ゆっくりですが、クラシック音楽界も、演奏する側と、聴く側とで、その時間差はありつつも、変化が生じているように思う昨今。

そんななか、今度の神奈川フィルの定期演奏会で聴くことになる、ブルックナーの交響曲第4番を。
自分が、どちらかとうと、昨今の演奏を聴いてないなか、これまで聴いてきた数種の演奏をつまみ聴きながら、その予習とさせてただきたく。

Buru4

 ブルックナー 交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンティック」

ほぼ交響曲しかないブルックナーの作品の中にあって、おそらく一番人気の作品が4番。

真偽は不明ながら、硬ブツの作者も、ロマンテッシュと呼んだか否か、そんなタイトルも、ほどよい長さも、人気を後押ししてますね。

でも、ブルックナー初心の多くの聴き手は、冒頭の原始霧からあらわれるホルンの響きと、そこから始まる豊かなクレッシェンド、その数分でしか、この曲をイメージできないのではないかと思います。

かく言うワタクシも、そうでありまして、初レコードでも、その場面ばかりを何度も繰り返しきたものでした。
でもね、この場面って、ピアニシモから始まって、雄大なクレッシェンドがやがて創出される・・・・、この曲のもっとも麗しい場面です。

でもしかし、全4楽章を、真摯に聴くようになって、この場面は、ほんの表面的な一部分であって、本来のこの作品の魅力は、第2楽章と、複雑極まりなく聴こえる4楽章にあると、「いえよう」。

本日は、これまで聴いてきた、ブルックナーの4番を、あれこれツマミ聴きしてみましたよ。

画像にあげたものは、レコードやCDで所有しているもの。

これらのなかで、自分の思い出も含めて、思い入れのある演奏は、カラヤンとバレンボイム、そしてアバドです。

初に、この4番を体験したのが、カラヤンのEMI盤です。
わたくしが、クラシック音楽へのめり込んだきっかけを作ってくれた、伯父と従兄のお家で、聴かせてもらい、カセットテープに残したものでした。
 当時、ワーグナーにはぞっこんでしたが、初のブルックナーの壮麗な音楽に、びっくりしたものでした。

その何年後か、ベームがウィーンで録音し、これまたFM録音しました。
そして、バレンボイムのシカゴでの録音を購入し、その録音の素晴らしさと、シカゴのべらぼーなウマさに感服。

・・・・以来、いくつものブル4を聴いてきました。
ブログ開設前ですが、自分でブル4特集を企て、毎日、その音源を聴きまくった日々もあります。

ライブ演奏では、なんといっても、アバドとルツェルンの蒸留水のような澄み切った演奏が、神がかったものとして永遠に記憶されますし、あと、ベルンハルト・クレーと都響の演奏も、孤高の演奏でありました。

そんなこんなで、今夜は、時間の許す限り、手持ち音源を抜粋しながら確認。

やはり、刷り込みとなっている、カラヤンとバレンボイムに、安心感を抱きます。
そして、かつて、本ブログにも取り上げましたが、メータ&ロスフィルのデッカならではの鮮やかな録音と、ゴージャスでありつつ、渋さも兼ね備えた演奏が、大いに気に入りました。
 そして、落ち着きと微笑みを感じさせるのが、ウィーンフィルの演奏。
ベーム、ハイティンク、アバドの音盤は、癒しの域でもあります。
 しかし、「ロマンティック」という名前をかなぐり捨てさせた、シンプルかつ、交響楽的な、純音楽的な解釈を、アバドとルツェルンのライブ演奏で味わい、この作品にまつわる固定観念の払拭へと、この歳にして思わせる結果となりました。

やはり、アバドはすごかった・・・・・。

明日に備え、本日は終了しますが、ブル4の過去演奏への想い、神奈川フィルの演奏は、いかに応えてくれますでしょうか♪

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2015年1月26日 (月)

神奈川フィルハーモニー第305回定期演奏会  サッシャ・ゲッツェル指揮

Minatomirai_20150124

曇天のみなとみらい。

久しぶりのみなとみらいホールに帰ってきた神奈川フィルの定期なのに、ちょっと残念な曇り空。

でも、そんなの関係ないくらいに、熱く、かつ、スマートで、超シビレる最高のコンサートでした。

201501kanaphill

  コルンゴルト    組曲「シュトラウシーナ」

  R・シュトラウス   4つの最後の歌

       ソプラノ:チーデム・ソヤルスラン

   ブルックナー         交響曲第9番 二短調 (ノヴァーク版)

      サッシャ・ゲッツェル指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                      (2015.1.24 @みなとみらいホール)

主席客演指揮者ゲッツェルさんの今回の3つのプログラムの最後。

出身地ウィーンの音楽であり、かつ、3人の作曲家のほぼ最後の作品を集めた魅惑のプログラムです。

可愛くて、ステキなきらめきの音楽、コルンゴルトの「シュトラウシーナ」。
曲の概要は、こちら→FB記事で

「ポルカ」「マズルカ」「ワルツ」の3部の鮮やかな対比は、原曲のJ・シュトラウスの曲の良さを、さらにゴージャスにグレートアップしたコルンゴルトの巧みな手腕を感じます。
 ビジュアルで見ると、ハープにピアノに打楽器が加わるきらきらサウンドの仕組みが、よくわかります。
華やかなワルツには、ウィーンへのオマージュと、どこか後ろ髪惹かれる寂しさも感じる曲ですが、ゲッツェルさんに導かれた神奈川フィルから、爛熟のウィーンの響きを聴き取ることもでき、冒頭から陶酔してしまいましたよ。

あらためて、コルンゴルトと神奈川フィルとの音色の相性の良さを確認しました。

それは、次のもうひとりのシュトラウスの響きでも同じく感じたところ。

「4つの最後の歌」は、2007年に、シュナイトさんの指揮で聴きましたが、それはもう絶品とも呼べる美的かつ、ドイツの深い森から響いてくるような深い音楽でした。
 かつてのシュナイト時代の響きが戻ってきたかの思いのある、今回のゲッツェル・シリーズ。
深さはないけれど、音の美しさと、それを選び取るセンス溢れる美感。
同じ独墺系でも、世代の違いで、スマートさがそこに加わった。
いくぶんのサラサラ感が、次のブルックナーにも感じられるところが今風か。

透明感と少しのあっさり感は、音楽が濃厚になりすぎずに、かえって気持ちがよく、まして、土曜の午後にはぴったりのシュトラウスでした。
ホルンソロも、石田コンマスの華奢だけど、滴るような美音のソロも、素晴らしいものですが、シュナイトの時には、濃密に感じたその音色も、ここでは、すっきりとした透明感のみが支配する感じでした。

そして、ソプラノ・ソロは、トルコ出身のソヤルスランさん。
リリック系で、スーブレット系の役柄、例えば、フィガロや後宮、ミミやジルダなどを持ち役にする逸材のようです。
ボーイッシュなヘアだけど、とても女性的な身のこなしでもって、最初の登場からして、その麗しい歌声を予見させました。
 
 彼女にとっての外国語であると思われるドイツ語。
その言葉を、極めて丁寧に、一語一語に想いをこめて歌う姿は、真摯で、ホールの上の方を見つ目ながらの眼差しもエキゾティックで、われわれ日本人には親しみもあり、とても印象的なのでした。
 そのお声は、確かにモーツァルトを歌うに相応しい軽さもを認めましたが、一方で、わたくしには、少し太く、彩りもちょっと濃く感じる歌声に感じました。
語尾を少し巻いて、蠱惑感を醸し出すあたりは、どうなのかなとも思いましたし、 この曲のもつ「最後の歌」という、透徹な澄みきった心情という側面からすると、ちょっと違うかなと。
 でも、こんな声での「4つの最後の歌」は、妙に新鮮で、どこか、別次元から聴こえてくるような、そんな歌でした。
ある意味、まさに、新しいアジア感覚といいますか、どこにも属さない歌の世界を感じました。
ドイツを中心に活躍する彼女ですが、できれば、その独自性をもってユニークな歌唱を築き上げて欲しいものです。

 
 休憩後は、ブルックナー。

神奈川フィルのブル9は、やはり、シュナイトさんが、かつて取り上げておりますが、それは聴くことができませんでした。
そして、ブルックナーの後期の交響曲の凄演といえば、ギュンター・ヴァントが到達した孤高の世界が、ある一定の模範として、わたくしのなかにはあるのです。
8番しか実演では聴けませんでしたが、CDでの数種ある第9は、もう、それを聴いたら緊張のあまり、なにもすることができない、究極の演奏すぎるところが、ある意味難点で、おいそれと聴くことができません。
 きっと、いまなら、ティーレマンあたりが、そこに重厚などっしり感もまじえて、緊迫のブル9を演奏するのだろうと思います。
ティーレマンというより、スマートなウェルザー・メストみたいな感じ。
若いころの、ちょっと熱いスウィトナーみたいな感じ。
やはり、オーストリアは、イタリアに近い。

この日のゲッツェルさんのブルックナー。

この曲が、最後の作品であることや、未完の、そして彼岸の音楽であること、それらを、まったく意識させることのない、一気通観の、流れのいい演奏でした。
随所に、立ち止まって、ブルックナーの音楽にある、自然の息吹や森のひとこま、鳥のさえずりといったような瞬きは、あんまり感じさせてはくれなかった。
ましてや、オルガン的な重層的な分厚い響きとも遠かった。
 ゲッツェルさんは、流動感と、立ち止まることのない、音楽の勢いを大切にして、オーケストラも聴き手も、引きつけながら、最後の静寂の終結に向かって一気に突き進んでいった感じ。
 時計を見たら、ほぼ60分。
もっと短く実感した。

そこここに、キズはありました。
でも、そんなの全然関係ない。

オーケストラをよく響かせ、鳴りもよく、整然としながら、がんがん煽る。
神奈フィルは、目いっぱい、その指揮に応えて、必死になって演奏してる。
いつもお馴染みのみなさんが、音楽に打ち込み、夢中になって弾いている姿は、それだけでも、自分には感動的でしたが、そこから出てる音楽が、先のとおり、理路整然として、耳に届いてくるところが、ゲッツェル・マジックとも呼ぶべきでしょうか。
2楽章の爆発力と、自在さ、それはもう、この指揮者のもっとも雄弁さが発揮された場面です。

 
 1楽章と3楽章にあるカタストロフ。
その破滅感と、そこからの立ち直りが、この曲の、ある意味かっこいい魅力なのですが、そのあたりの風情は、実は少しあっさり気味。
3楽章では、それを繰り返して、終末観あふれるエンディングを迎えるのですが、そこでも、同じようなイメージ。
ゲッツェルさんが、今後、きっと突き詰めてゆく、これからの世界なのでしょうか。
でも、それは、そうあらなくてはならないという、ブルックナーに込めた自分のイメージに過ぎないのでしょうか。

 
 いろいろ思いつつ、でも、いまここで鳴っているブルックナーの音楽が、響きの豊かな、みなとみらいホールの天井から、まるで教会からのように降り注いでくる思い。
それは、まさにライブではないと、味わえないもの。
それが、美音のブルックナーだったこと。
リズム豊かで、歌にも配慮したゲッツェルさんの指揮だったこと。
そして、なにより、かつての音色に近づいた神奈川フィルの音色だったこと。

それらが、ほんとうに、すばらしくて、このコンビを讃えて、思いきり手が痛くなるほどに、拍手をいたしました。

11月には、ブラームスとコルンゴルトで、また帰ってきてくれるゲッツェルさん。
トルコ、日本、北欧、ウィーン、ドイツを股にかけて活躍中。
彼が、これからどうなって行くか、もちろん、日本では、神奈川フィルオンリーで、絶対注目の指揮者です!

Umaya1

この日も飲みましたねぇ~

出来立ての横浜地ビールを次から次に、美味しい神奈川産のお料理で。

毎度、お疲れのところ、楽員さんや、楽団の方にもご参加いただき、We Love 神奈川フィルは、また、新しい仲間も増えて、楽しい会合を過ごすことができました。

お隣にも、ほかにも楽団員さんが、偶然、お見えになり、神奈フィル大会になってしまったお店なのでした。

楽しくて、はしゃぎすぎちゃいました、お騒がせしまして、すんません~

Pub

思えば、今回のメインプロは、英雄とブル9。

亡きクラウディオ・アバドの、最後のルツェルンでの二つのコンサートがその2曲。
そして、それを引き下げて、昨年秋に来日予定でした。

そんなことも、心にありながら、聴いたこのシリーズ。

忘れ難い演奏会の数々となりました。

 さらに、次のお店で、軽く一杯やって、終電、湾岸列車に飛び乗りました。

ゲッツェル号は、いまごろ、欧州へ。

また帰ってきてね!

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2014年12月30日 (火)

ブルックナー 交響曲第9番 アバド指揮

Tokyo_tower_2

東京タワーには、数日前から2014年の表記が。

そう、あと1日で、終わってしまうんです、2014。

Tokyo_tower_6

2014は、ショックなことが起きた。

最愛のクラウディオ・アバドの死がそうです。

なんで、神様は許してくれなかったんだろう。

音楽に全霊を尽し、謙虚に、静かに生きたクラウディオを、神様はまるで急いだかのようにして、天国に召してしまった。

そんな矛盾と齟齬に、怒り、悲しんだ2014。

 その後も、何人かの聴き親しんできた演奏家たちの訃報が相次いだ2014。

Bruckner9_abbado

  ブルックナー  交響曲第9番 ニ短調

   クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団

                (2013.8.21~26 @ルツェルン)


いまの時点で、アバド最後の演奏の録音です。

今年のブラームス・チクルスは、主を失ったオーケストラを、ネルソンスが救いましたが、2013年のルツェルンでは、アバドは二つのプログラムを指揮しました。

 ①ブラームス   「悲劇的序曲」

   シェーンベルク 「グレの歌」から

  ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」

 ②シューベルト  交響曲第8番「未完成」

   ブルックナー  交響曲第9番

このふたつのプログラムを、2013年の秋には、①の内容を替えて②を携えて、日本にやってくる予定でした。

それから数か月で訪れたアバドの死に、なすすべもなく、泣き崩れたワタクシでした。

①は、NHKで、昨夏、すぐさま放送されましたが、ブラームスとエロイカは、覇気が少し弱く、アバドの指揮にも疲れを感じたのでした。
 でも、シェーンベルクになると、息を吹き返したかのような、感興あふれる没頭感ある指揮ぶりだったところが、いかにもアバドらしくて、気に入りました。

 でも、それにしても、疲労の色濃い、「英雄」の指揮ぶりには、その元気の具合が確かめられるゆえに、不安と不満を覚えたものです。
 ずっと、ずっとアバドを見守り聴いてきた自分には、あの映像にあるアバドの指揮ぶりが、これまでとは明らかに違うものを感じ、録音したその音源にも、一瞬、気が抜けたような箇所を、感じ取っていたのでした。

 この様相と同じものを、かつて、99~00年、最初の癌のときの、少しばかり緊張感の抜けた緩い場面を、そのときどきのライブ放送に、そして、いくつかの録音に感じていたのでした。

そして、今宵の、アバドのブル9。

素晴らしき高みに達した、あきれかえるくらいの音楽再現という名のすさまじい行為。

執念すら感じる、アバドの音楽への打ち込みぶりを感じ、そのアバドの全霊を受けとめ、そっくりそのまま、鏡のように跳ね返すオーケストラ。

演奏という音楽の表現行為の、行き着いた最果ての結果を、ここに感じます。

「無為自然」

あるがまま、なにもせず、すべてが充足し、あるようで、なにもない。

そんな感覚を呼び覚ますのが、アバドが到達した最後のブルックナー。

 気の抜けたような生気の不足は、もしかしたら、現世からの離脱、肩の力が抜けきった、ほんとうの別次元を数々体感した、アバドならではの優しい世界=領域ではなかったか・・・。
そのように、この音盤を聴いて思います。

①で、あれ、っと思ったブラームスとエロイカも、もう一度ちゃんとした映像で確認したくて、正規盤を入手すべく、クリックいたしました。

ひとりの偉大な人間の、最後の瞬き。

こうあって欲しい。

いや、こうあらねばならない。

いろんな想いを抱きつつ聴く1時間は、ほんとに、あっさりと、最後の崇高なアダージョの最終局面を迎えることになるのでした。

ブルックナーの第9とはいえ、格別な存在じゃなくて、普通に存在する名曲として、さらりと演奏してしまった、高度な演奏だと思います。

アバドは、明日も生きようと思っていたし、オケも、このマエストロともに、次のブラームスを楽しみにいていた、そんな前向きな演奏に感じます。

でも、くどいようですが、少しの気の抜け方と、ゆるやかさがどうにも気になる1枚でした。。。。

 アバドのブル9過去記事

 「ウィーン・フィル」

 「ベルリン・フィル」

ベルリンフィルとのライブが、異様なまでのテンションで、切れば血しぶき、ほとばしるような、すさまじい最高潮の名演なんです。

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