カテゴリー「新ウィーン楽派とその周辺」の記事

2018年3月21日 (水)

コルンゴルト シンフォニエッタ アルブレヒト指揮

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もう散ってしまった河津桜。

芝公園の一角から。

春分の日は、あいにくの雨と寒の戻り。

暑さ寒さも彼岸まで、となりますかな。。

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    コルンゴルト 大オーケストラのためのシンフォニエッタ

   ゲルト・アルブレヒト指揮 ベルリン放送交響楽団

              (1983.9 @イエス・キリスト教会)

雨音を聴きながら、大好きなコルンゴルトのシンフォニエッタを。

2年前の晩秋に、サッシャ・ゲッツェル指揮する神奈川フィルハーモニーの演奏会で聴いた記憶が脳裏から離れない。
みなとみらいホールの美しい空間が、コルンゴルトの煌めく音たちで埋まってゆき、それらが、わたくしにきらきらと降り注いでくる、そんな至福の時間、でももうそれは一期一会で会うことはできない。

あれ以来、久方ぶりに聴くシンフォニエッタ。

この甘くて、切なくて、そして愛すべき曲がほんと好き。

前に書いた記事から、そのまま引用して曲のご紹介。

<幼少期から音楽の才能の片鱗をあらわしたエーリヒ・コルンゴルトは、父に巧みにプロデュースされ、ウィーンの寵児としてもてはやされるようなる。

少年、エーリヒの最初の作品は、8歳のときに書いた歌曲で、その後、カンタータやワルツを書いたあと、ピアノのためのバレー音楽「雪だるま」を11歳で作曲し、これがセンセーションを引き起こすこととなります。

1911年、マーラーの没したの年に14歳にして、初の管弦楽作品「劇的序曲」を作曲。
この曲は、ニキシュとゲヴァントハウス管によって初演され、ここでも驚きを持って聴衆に迎えられます。
この曲は14分あまりの大作で、のちの「交響曲」の片鱗をうかがうこともできます。

そしてその次に、コルンゴルトが取り組んだのが、4つの楽章を持つ43分の大曲
「シンフォニエッタ」と銘打ちつつ、大きな規模を持つ作品を完成させたのが1913年、16歳で、同年、ワインガルトナーとウィーンフィルによって初演され、大成功を導きだします。

シュトラウスや、マーラーやツェムリンスキー、その時代の先輩たちからアドバイスや影響を受けつつもすでに、成熟し完成型にあったその音楽スタイルは、のちのハリウッドでの明快で、煌びやかなサウンドも予見できるところもおもしろい。

本格交響曲のようには構成感や深刻さがなく、「Motiv des frohlichen Herzens」=「Theme of the Happy Heart」とされたテーマ、すなわち、「陽気な心のモティーフ」が全編にわたって用いられ、曲のムードや統一感を作り上げております。
このモティーフ、曲の冒頭から鳴ります。

Korngold_sinfonietta_2(CDリブレットより)


このいかにもコルンゴルト的なシャープのたくさん付いたテーマは、キラキラ感と羽毛のような優しい繊細さが半端ありません♯

第1楽章は、爽やかなムードがあふれるソナタ形式ですが、思わず、心と体が動かしたくなるようなステキなワルツもあらわれ、奮いつきたくなってしまいます。

スケルツォ楽章の第2は、打楽器が大活躍する活気あふれるダイナミックな場面、ここは、後年のオペラ「カトリーン」の劇場の場面を思い起こします。
それと中間部は「夢見るように」と題された場面で、静けさと抒情の煌めきを聴くこととなります。

聴くと、いつも陶酔郷へと導いてくれる、ロマンティックなラブシーンのような音楽が第3楽章。
これがいったい、16歳の青年の作品と思えましょうか。
ここでは、コルンゴルトの特徴でもある、キラキラ系の楽器、ハープ、チェレスタ、鉄琴が、夢の世界へ誘う手助けをしてくれるし、近未来系サウンドとして、当時の聴衆には感嘆の気持ちを抱かせたことでしょう。
ずっとずっと聴いていたい、浸っていたい、そんな第3楽章が大好きです。

そのあと、一転して、ちょっとドタバタ調の、不安な面持ちと、陽気さと入り乱れ、シュトラウスを感嘆せしめるほどの見事なフィナーレを築きあげるのが4楽章。
エンディングは高らかに、「陽気な心のモティーフ」が鳴り渡り、爽快な終結を迎えます。>

深刻さがこれっぽちもない、明朗かつ清々しい音楽。
聴いたあとに、幸せな気持ちになれます。
雨空の向こうに、屈託なく、そして楽しかった青春時代さえ、甘酸っぱく思い起こして透けて見えるようです。
若いコルンゴルトも、このあと、歴史と世界の時の流れに流されつつも、どこか取り残されていってしまう、そんな運命へと足を踏み入れ、その甘い音楽にも、ビターなほろ苦さを漂わすようにとなるのです。

この曲の音源は4種あって、リットンとダラス響はまだ未聴。
世界初録音のゲルト・アルブレヒト盤を新品で手にいれました。
1983年の録音、父の作品の録音にプロデューサーとして数々立ち会っていた、ジョージ・コルンゴルト(ゲオルゲ?)の名前もCDのリブレットには見て取れます。
息子ジョージは、70~80年代のコルンゴルト録音のほとんどをプロデュースした人で、この方がいなかったら、いまのようなコルンゴルト・リバイバルはなかったかもしれない。
しかし、惜しくも87年に、58歳の若さで亡くなってしまった。
息子や孫たちもいる様子なので、少し気になるところです。
(でも、ひとり見つけた息子は、顔そっくり、でも薬剤関係の会社の社長さんみたい・・)

サラリとした演奏を一般的な有名曲ではすることの多かったアルブレヒトさんですが、知られていない作品を掘り起こしての、数々の録音は、とても丁寧に、そしてその作品に即した説得力ある演奏を残してくれた。
そんななかのひとつが、このコルンゴルト。
イエス・キリスト教会の美しい響きも相まって、眩くも、輪郭のはっきりとした明確な演奏となってます。
ベルリン放送響(現ベルリン・ドイツ響)は、当時、リッカルド・シャイーが指揮者を務めていた頃で、その機能的性と明るい音色が、ここにも聴かれるように思います。

過去記事

 「アルベルト指揮 北西ドイツフィル」

 「バーメルト指揮 BBCフィル」

 「ゲッツェル指揮 神奈川フィル」

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2018年3月18日 (日)

ツェムリンスキー 「昔あるとき・・」 グラーフ指揮

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ちょっと前ですが、満開の梅。

葵の御紋のある神社。

芝東照宮、徳川家康を祀った神社です。

江戸時代、鎖国をして外部をシャットアウトしたけれど、四方が海だったからできたことかもしれない。
いまは、耳をふさごうと、目を閉じようと、おかまいなしに、世界の今とつながってしまう世の中となった。
まさに、おとぎ話のような昔のはなし・・・

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     ツェムリンスキー 歌劇「昔あるとき」 Es War Einmal

   王女:エヴァ・ヨハンソン      王子:クルト・ヴェスティ
    カスパール:ペル・アルネ・ワールグレン  王:オーゲ・ハウグラント
  警官:オーレ・ヘッデガート    指揮官:クリスチャン・クリスチャンセン
  使者 :クリスチャン・クリスチャンセン 第一の待女:スッセ・リリソーエ

   ハンス・グラーフ指揮 デンマーク国立放送交響楽団
                 デンマーク国立放送合唱団

                     (1987.6 デンマーク放送)


ツェムリンスキー(1871~1942)には、8つのオペラ作品があって、そのうち6作品は入手しており、ときおり聴いてはいるものの、日本語解説がなく、一部は独語のみの解説書だったりして、概要はわかっても詳細な筋建てが不明だったりして、どうにも釈然としない。
オペラの楽しみは、リブレットを理解してのうえで聴きこむ(観る)に限ると思っているので。

ちなみ、未入手のあと2作は、第1作の「ザレマ」と、4作目の「馬子にも衣装」。
ただし、「ザレマ」は録音されたこともない。

ゆっくりとですが、ツェムリンスキーのオペラを順次取り上げたい。

今回は、2作目の「昔あるとき」。

1897年に作曲を始め、1899年に完成。
1900年に、ウィーンの宮廷歌劇場の芸術監督だったマーラーの指揮によって初演。
10数回上演されヒットしたものの、その後は1912年にマンハイムとプラハで上演され、以降半世紀以上も忘れられてしまったオペラ。
 それが、1987年、デンマーク放送によって蘇演され、その時に録音された音盤がこちらで、唯一の音源と思われます。
調べたところ、あと、1991年にキールで、1999年にロンドンで(A・デイヴィスとBBC)演奏されている。

87年の蘇演が、なぜデンマーク?

そう、このオペラの原作が、デンマークの詩人ホルガー・ドラックマンの「Der Var Engang(むかしむかし)」というお伽噺なのですから。
ドラックマンは、ヤクブセンと同年代で、当時は、ドイツやオーストリアでもとても人気がったそうで、この作品をマキシミリアン・シンガーという人が、独語訳されたものを脚本を書きし、ツェムリンスキーがオペラ化したもの。
 
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マーラーは、ツェムリンスキーの1作目オペラ「ザレマ」もミュンヘンで初演していて、作曲家としてのツェムリンスキーを大いに評価していた。
この2作目も、ウィーンで初演するにあたり、シナリオやツェムリンスキーの楽譜にも、かなり注文をつけたり、変更のアドバイスをしたりした。
この録音は、そうした経緯も入念に踏まえてなされたと記されてます。
 で、マーラーとツェムリンスキーのコンビは、次なるオペラ「夢見るゲールゲ」も、同じようにウィーンの劇場で上演しようと目論んだが、マーラーがウィーンでの職を投げ出したことで、見送りになり、その後1980年まで演奏されることはなかった。
 ちなみに、アルマ・シントラーと交際していたツェムリンスキーは、彼女の音楽の師でもあったが、そのアルマが、マーラーと結婚をしたのが1902年。
ツェムリンスキーはどう思っていたのでしょう。
そして、マーラーは、アルマが作曲家であることを快く思っておらず、遠回しにその筆を絶たせたりもした。(かつて観た映画でもこのシーンはありましたよ)
 ツェムリンスキーの仲間や、弟子筋は、シェーンベルク、シュレーカーやコルンゴルトなど、たくさんいて、すごく人がいいんじゃないかなとも思ったりもしてる。
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プロローグと3つの幕からなるが、全体で2時間弱のコンパクトなオペラ。

プロローグ

 むかしあるとき、イリヤという国に、美しいけれど気位の高くて、冷たい王女がいました。
その美貌を求めて、世界から求婚してくる人々はひっきりなし。
気のいい王とともに、男たちに謁見するものの、誰もかれも否定し、縛り首に。
そしてある日、北の国の王子とその友カスパールがやってくる。
王子は、自分の国の美しさ、四季や自然のすばらしさを歌い、求婚するが、王女はまったく関心を示さず、あなたと結婚するなら乞食と結婚した方がまし、と立ち上がり、処刑されたくなければ、ここに膝をついて慈悲を乞いなさいと言い放つ。
王子は、慈悲を乞うためにでなく、自分は愛のためなら膝を屈すると王子、怒った王女は出てゆく。

第1幕

 夜、宮殿の前庭。王子とカスパールはジプシーに扮して待機。
王女と待女たちが、輪回しで楽しそうに遊んでいるところへ、王子らがバラードを歌い気を引く。王子はゴブレットの中に金箔の玉を入れ、さらに蝶の羽を撒く。
王女はそれが欲しくなり、待女のひとりをつかわし、王女の髪に飾った薔薇の花との交換を申し出る。
しかし、王子は、ダメだ、王女の口づけをと望む。
 交渉決裂、王女は帰ろうとするが、その間に、カスパールを王のところに行かせる。
今度は、王子は魔法のヤカンを取り出す。沸騰すると考えたり、言われたりしていることがわかるんだと語る。
これまた王女の気を引き、彼女は民衆にどう思われているかを教えて、という。
ヤカンは、機智や美貌があり、王女は人気がある、でも本当は愛を知り、亭主を持つことでさらにその隠された魅力が引き出されるのだと回答。
王女はヤカン欲しさに、王子に口づけをする。
 そこに来た王様は、王女が知らない男性にキスをするのをみて、そのジプシーと出て行って、結婚しろと追放命令を下す。
王女や待女が嘆願しても無駄、王子は、彼女を引っ張っていく・・・(もちろん王子とは知らず)

第2幕

 海を渡って北の国へ。フィヨルドの森の中の粗末な小屋に到着。
ここで暮らすようになった二人。1幕とは、明らかに身なりも、行いも変わってしまった王女。
いまや、王女でなく、単にキャサリーンという名の女性。
でも、名誉やプライドはまだ残っていて、妻としての行いを思い起こさせようとする王子が、それらをやらせようとすることに対し、軽蔑の思いをもって拒絶する。
 王子は、しかし、それを強いることなく、古い北欧の歌を優しく歌う。
王子は、食料を得るために、森の中へ行くが、一人きりになってしまうことに、不安な王女は、行かないでくれと頼むが、王子はそれを振り切り出てゆく。
王女は、ひとり想いにふけり、哀しみ、遠く離れた地にいまこうして連れてこられたことを嘆くものの、当のジプシーの亭主を憎むことができない。
 そこへ、銃声がして、王子が飛び込んでくる。
かくまってくれということで、別室へ逃げ込む。
そこへ警官が追ってきて、男はどこだと王女を責めるが、亭主は重い病気で寝込んでいると答える。
こんどはそこに、カスパールがやってきて、怪しい男が、森のあっちへ逃げて行ったぞと告げ、警官と出てゆく。
 さぁ、一安心の王子。王女のためにも食料をと、また出ていこうとするが、今度は王女は行かないで欲しい、一緒にいて欲しい、わたしの中のなにかが変わったの、愛しているの、と語る。。。

第3幕

 街の市場で、まるでカーニバルのような雰囲気で、人々は飲んで歌って、踊っている。
王女は、夫婦で焼いた花瓶や壺を売るためにそれらを持って市場にやってきた。
そこへカスパールが登場、どうだい、君の亭主も、もしかしたらそこらへんで飲んで遊んでるかもしれないよ、と茶化すが、彼女は、主人は病気で家で寝ているの、とかばう。
そこへ王子(の姿)や兵士たちがやってきて、王女へさらなる試験をしかける。
王子は、彼女をちゃかして、キスをしてくれたら金貨をあげるよ、とまで言う。
拒む彼女、おまけに、喧騒のなか、売り物の花瓶たちが割れてしまい台無しに。
 ここで使者が大声で伝達。
王子はまもなく異国の王女と結婚式を挙げるが、その姫が急病になり、婚礼衣装を合わせることができない。誰か、同じ体格の女性で衣装合わせをしてくれるものはいないか?
そこで、王子が本物として登場。
小さくなってる王女をみつけ、あなたに衣装合わせをしてほしいと言い出すが、彼女は売り物が壊れ、お金がまったくない自分としてそれを拒絶、それでもどうしてもと王子とカスパールから懇願され着ることになり、美しい花嫁姿になり登場。
 王子は、彼女に、自分と王位をともに継いで欲しいと語る。
王女は、どんな豪華な位よりも、自分は愛のなかに最高の価値を見出したの、王冠よりも、金持ちの生活よりも乞食の妻でありたいのと熱く、優しく語る。
王子は大いに感動して、キャサリーンと声をかける。。。。
 その声に、ジプシーの夫の声と同じ響きを聴き、王女は涙を流して、あなた、あなたなのと、泣きだしてしまう。
カスパールは、さぁ人々よ、めでたいニュースを聴くがよいと宣言。
王子は人々に、長い旅は終わり、ここにいま自分の運命をみつけた。
みなさんは、妖精のゲームをここに見たのだ。
壺焼きの妻が、イリヤの国の王女だったのだ、そしていま私と結婚する!
 人々は喝采し、王子を称える。

                 

CDの独英のみの解説書をたよりに、ざっとこんな感じの筋立てかと。
ちょっと時代めいてるけど面白いでしょ。

そう、「トゥーランドット」とシェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」なんですよ、雰囲気が。

1922年に、この劇作に忠実に作られたデンマーク映画が、ネット上で見ることができました。復刻されたもので、しゃれたピアノソロをバックに、一部の欠落は画像で補うものではありますが、このドラマの大筋は、そちらでもつかむことができました。
この映画が原作に忠実だという前提で、ツェムリンスキーのこのオペラとその台本が端折ったところを補うと。
 
①プロローグで王子が首をはねられなかったのは、逃げ出したお気に入りのオウムが戻ってきて気分がよかったからという理由もひとつ。
②追い出されて悩んだ王子のもとに、爺さんの妖精さんがあらわれ、人の耳を魅了するガラガラ(くるくる回すヤツ)と未来が見える魔法のヤカンを、将来の幸せのためにと渡す。
③王女と待女を魅了したのは、そのガラガラとヤカン。
王子は、最初はキスでガラガラを渡し、次のヤカンで、王女の部屋の鍵を。
④夜中に王子は、王女の部屋で待女付きで一晩を過ごす。
カスパールは、王に対し、デンマーク王子と結婚させなければ、軍が攻めてくると脅したりする。そして、王女の部屋にいざなって、そこにいる王子を発見、そして追放。
⑤異国の地、それはデンマークで、王女はその生活に馴れ、王子と共に神に祈ったりする。そして窯業の職人としての夫をサポート。市場に二人で売りに行くが、トラブルで、王女だけが市場へ。
しかし、野営の兵士に見つかり、商品はこなごなに砕かれ、逃げ惑う。
悲しみのうちに帰宅し、事情を説明したところ、妻は悪くない、くそっとばかりに武器を手に仕返しに行き、殺傷。それを見た警官が家に訪ねてきて、夫を病として匿う王女。
⑥結婚式には、王女の父も、よろよろとやってくる。

あとはだいたい同じ。
手の込んだ仕掛けが、実は本筋の愛情育成になったわけで、なにも王子がそこまで、それから、幾重にもわたるお試しが、くどくも感じるが、そこはまあ、おとぎ話の世界ということで。
オペラに加え、古き映画も見ることで、作品理解が深まるものと思います。



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この古風なフェアリー・テイルにツェムリンスキーがつけた音楽は、マーラーがその背後にあるように、まだシュトラウスの「サロメ」が登場する5年前の音楽シーンを物語っている。
耳に馴染みよい、ワーグナー初期、フンパーデインク系統のオペラの流れがここにあります。
しかし、牧歌的な雰囲気のなかに、キラリとひかるツェムリンスキーの煌めいた筆致は、随所に聴かれます。
美的なオーケストラによる間奏曲、王子や王女のモノローグにおける無常感じる世紀末感など、実に素敵なものがあります。
前半と後半で、がらりと変わる王女の境遇と心情。
その描き分けも、見事なものがあります。

このあとのツェムリンスキーの音楽の進化・変貌も、これを基に聴くと大いに楽しめるものでした。

唯一の音源のこちら、デンマークのオーケストラが北欧風のクールなサウンドと、オーストリアの指揮者グラーフが引き出すツェムリンスキーサウンドを背景に、デンマーク由来の歌手たちが素晴らしい歌唱を聴かせます。
なかでも、ヨハンソンの王女の二面変貌の歌い分けは見事でありました。
2幕における、絶妙の心情変化とその吐露は泣かせますし、終幕のモノローグも!

舞台や映像で観てみたいオペラです。

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梅の写真をいまさら載せましたが、季節は早くも桜です。

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2017年12月12日 (火)

シュレーカー 「狂える焔」 ギュルケ指揮

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六本木けやき坂

今年もこの坂の並木を銀と琥珀色に染める、そんな季節がやってきた。

日々がほんと早いし、体調もすぐれない。

そんな気持ちを、さらにひっ迫させるような緊迫の美にあふれた音楽を聴くのだ。

そして、ウィーン交響楽団、三連発シリーズだったのだ。

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    シュレーカー 歌劇「狂える焔」

 領主ハインリヒ:ミヒャエル・パブスト 森林管:ゴラン・シミック
 エヴァ:ルアナ・デ・フォル      ローラ婆さん:エヴァ・ランドヴァ
 ペーター:モンテ・ペデルソン   クリストバルド:ハインツ・ツェドニク
 牧師:ネーフェン・ベラマリック   貴族:セバスティアン・ホーレック
 フュンクフェン:ヘルムート・ヴィルトハーバー
 シュトラールブッシュ:ネーフェン・ベラマリック
 ラッツェカール:セバスティアン・ホーレック
 アンセルムス:ゴラン・シミック   従者:ヘルムート・ヴィルトハーバー

   ペーター・ギュルケ 指揮 ウィーン交響楽団
                  ウィーン学友協会合唱団
              合唱指揮:ヘルムート・フロシャウアー

           (1989.3.15 @ムジークフェライン、ウィーン)

フランツ・シュレーカー(1878~1934)のオペラ作品を久しぶりに取り上げる。
キリスト教徒のユダヤ人を両親に、父が優秀で宮廷写真家の称号を得ていて、生まれたときはモナコにいた。
ツェムリンスキーの師フックスに学び、ウィーンとドイツワイマールて活躍し、9つのオペラ、オーケストラ曲、声楽作品などを残すも、いまやちょっとマイナーな存在になってしまった。
ナチスが退廃音楽としてレッテル貼りをして、目をつけられる1920年代後半までは、その作品がさかんに上演された人気作曲家であった。

ツェムリンスキーとともに、徐々にリヴァイバルしてきてはいるものの、かといってツェムリンスキーの「抒情交響曲」や「人魚姫」のような人気作はない。
そんな日陰者のシュレーカーが好きで、これまで、9作あるオペラのうち、5作品を取り上げてきました。

「狂える焔」は、9作中の6作目。

そもそも、「狂える焔」って誰がタイトルにしたのだろう。
「Irrelohe」で検索すると、「Irrenlohe」とあり、それはドイツ、バイエルン州、シュヴァンドルフ地区の駅と出てくる。
ニュルンベルクに通じる路線の駅名であり、小さな地区のようである。

このオペラをシュレーカーは、1919年に書き始め、いつもの常としてリブレットも自らが構想・作成しつつのものであったが、最後に行き詰まり止まってしまう。
そう、それこそタイトルがバシッと決まらない。
そんなとき、寝台特急で移動中のときのこと、駅名をコールするアナウンスに飛び起きた。
そう、それが「Irrenlohe」だった。
シュレーカーは、それこそ、これだ!と思い、このオペラを一気に完成させた。
1924年のこと。
同年、ケルンにて、クレンペラーの指揮により初演され、一定の成功を収めたものの、これまで成功続きだったシュレーカーのオペラにしては、人気の持続性に陰りが出始めた。
ナチスは党として発足していたが、勢力はまだまだ。
 シュレーカーの音楽への飽きも、そしていっそう複雑化して行くシュレーカーの音楽への戸惑いも。同時期のR・シュトラウスは、「影のない女」や「町人貴族」「インテルメッツォ」などで、ワーグナーの敷いた道を確実に進化させ、より古典帰りを見せていただけに、その違いが歴然としている。
メロディも豊富で、ストーリーも簡潔なシュトラウスに対し、メロディよりは、大胆な和声とマイナーな調性を主体にしたほの暗いシュレーカーの音楽。

それと半ばワンパターン的な物語の筋立て。
以前にもブログで書いたけれど、「人間の欲望の尽きるところのない性(サガ)と、それへの肯定感」、こんなイメージがシュレーカーの書くドラマと音楽の背景にあるような思いがある。
そして、登場人物たちも、ヒロインは、イタイ女性ばかりで、ちょっと病的かつお嬢様的。
それに対する男声陣は、エキセントリックボーイで煽情的。

こんなパターンがわかっちゃいるけど、やめられない、知っちゃったからこそやめられない、そんなシュレーカーなんです。

外盤の解説書を紐解いて、もう少し書きます。

この物語の時代背景と場所は、「18世紀のイルローエ城とその村」。
そしてこの城にまつわる伝説と、その城を燃やしてしまわないといけない一派。
ヒロインは、城主と愛に陥るが、老母と暮らす、その彼女の幼馴染は嫉妬に狂い、城主を襲うが、逆に殺されてしまう。老母は、それはおまえの弟だよ~と、言う間もなく城は放火され燃え盛るなか、愛する二人は未来へ歩みを踏み出す。。。。。


こんな内容のオペラなんだけれど、まるで、「トロヴァトーレ」。
老母はアズチェーナにあたり、ライバルは兄弟で、そして炎。
解説によれば、ヴェルディの描いた伝統的な運命ドラマに、映画チックなホラー要素を交えたのがシュレーカーのドラマ。
平和な村と、ミステリアスな城は、ドイツの国民オペラ時代のマルシュナーの「吸血鬼」や、城はないものの村人との関係で、「ドン・ジョヴァンニ」を想起させると。
 さらに、炎は、シュトラウスが「火の欠乏」で、ワーグナーが「ワルキューレ」で、さらに、「黄昏」で、ヴァルハラ城の炎上で扱っていて、火は、浄化作用があって、このシュレーカー
のオペラでも城が燃えて、その一方で、二人の男女の愛が成就する、的な内容になっている。
ちなみに、ワーグナーは長調の調性で炎の場面は展開するのに対し、シュレーカーは短調。音楽に多分に狂気性をはらんでいるのもシュレーカーだ。

そして、このオペラのタイトルに戻ると。
「Irre」は、クレイジーとか狂った、「Irren」にすると誤ったとか間違ったと訳される。
「Lohe」は、焼ける、「Lohen」とすると炎。
なるほど、「狂った炎」となります。
ゆえに、シュレーカーは、「狂った焔」という駅名に飛び上がったわけなのであります。

第1幕

老いた母、ローラは、かつて私も若かった、と昔を歌うが、その息子ペーターは、人々があれこれ言うあそこに立つ城の秘密を教えてくれと頼む。
ローラはあの城は愛によって築かれたもの、かつて城主が水の精に恋をして、息子をもうけたが、彼女も亡くなり、父も亡くなり、息子は暗い狂気の炎を宿し、その血は代々に引き継がれている・・・
そして、ペーターは、自分の父はいったい誰なのか、村のものが自分を見る目がそう語っていると母に迫るが、彼女は、父はもう亡くなった、そしてすべては明日、明日に起こるだろうと、と言い残し奥に下がる。
 そこへ旅の人、すなわちクリストバルトがやってきて、一夜の宿と酒を求める。
ペーターを見て、一瞬驚き、幽霊でもみたのかと独り言ちるが、ペターに求められるままに、30年前に、城で起きた出来事を語る。
婚礼の日、村中の鐘という鐘がなり、みんながダンスに興じた。そこに巻き毛の可愛い女性がいて、私は彼女を愛してしまった。しかし、そこに城主が異様な眼差しでもってあらわれ、彼女を遅い、連れ去ってしまったのだ・・・。
 ペーターは、その彼女の名を訪ねると、クリストバルトは、「ローラ」と答え、ペーターは絶叫する。
 残されたペーターのもとへ、幼馴染のエヴァが駆け込んでくる。守って欲しい、あの城のハインリヒが私をつけてくる、昨日も、今日もと。。、これを聞いたペーターは、押し倒され衣服もはがされ・・と狂気のように妄想するので、エヴァは、彼が正気なのか疑う。
エヴァは、そうではないの、あのハインリヒの瞳が忘れられない、寝ても覚めても彼の顔が忘れられないの、と語るので、ペーターは、あいつを愛してるのかと悟り、出ていけと叫ぶ、そして、もう終わった、死以外に残されていないと絶望する。


第2幕

 街角にて、牧師と貴族が出会って挨拶、しかし、貴族は、昨晩、自分の工場が火災にあったことを語り、そして毎年7月13日には火事が起こる、これは不思議ではないかと。
貴族が去ったあと、森林官がやってきて牧師と挨拶、森林官の娘エヴァはこのところ見ないねと話しかけると、彼女はわたしを恐れているようだ、ちょっと話を聞いてもらいたいと、今度は二人で歩み去る。

 今度はラッツェカール、フュンクフェン、シュトラールブッシュの音楽家3人が、それぞれに楽器を持ってあらわれる。
昨晩は大成功、そして今度はあの城さ、われらが兄弟クリストバルトは最高の使い手さ!と気炎をあげる。
 それを隠れて盗み見てしまったエヴァは驚愕し、ハインリヒのことを心配して、急いで知らせようと城へ走る。

次にあらわれたのは、ローラとクリストバルト。彼女はクリストバルトに、そんな昔のことは忘れて欲しい、私は平和に暮らしたいと語るものの、彼は、この日を迎えるのは、30年越しの夢だった、残酷なこの世、すべてのものはみんな罪人なのだ、平和は火のうちにこそやってくるのだ!と執念を燃やす。

ハインリヒは、城へ向かってくるエヴァの姿を認め、熱く歌う。もうこれ以上、自分の人生を背負いたくない、彼女を知って以来、腐った家族の憎しみや城へのバカげた話、そんなものも、城ももうたくさんだ!
 そこへエヴァがやってくる。ハインリヒは執事アンセルムスに自分の想いを綴った手紙を持たせたが、その手紙と行き違いに、違う目的でもってやってきたエヴァ。
しかし、ふたりはお互いに惹かれ合い、熱い二重唱を歌う。
ハインリヒは呪われたアウトローで貧しいこんな自分でも本当に愛してくれるのか?と問うが、エヴァは強く、そんなものは終わらせましょうと強く答え、やがて、ハインリヒは結婚しようと求婚し、ふたりの愛は高まるのでありました。

戸口に佇むクリストバルト、ハインリヒに、婚礼でもあるのですか、迷ってしまったので門の中にはいってもいいかと聞くと、老人よ、どうぞと快く認めるが、エヴァは、嫌な予感と警告、しかし、もう彼の姿はない・・・・
 そこへ、エヴァへの手紙を渡しそこねた執事が帰ってくて、当の本人が、ここにいるのでびっくりする。ハインリヒは将来のあなたの主人といって紹介、そして母や姉たちも呼んで、村にも知らしめ、盛大にと指示を出す。
 外では、この様子を眺めながらクリストバルトが、イレローエ城を燃やしてやると独り言ちする。

第3幕

村の広場のローラの家、ペーターが帰ってくるが苦しそうにしている。
母は、ペーターに、お前は今日はどこへも行ってはいけないよ、あまえの足りない頭が何をしでかすか、アキシデントはいとも簡単におこるのだからと。
ペーターが家の前座っていると、エヴァが帰ってくる。
エヴァは、静かに聞いて欲しいと語りだす、自分たちは幼馴染だけれど、いまは、恐れにもにたものに取りつかれたようなの、それが愛と。しかし、一方のペーターも、昔からの思いでエヴァへの愛を語るものの、彼女は、そんな喜びのない感覚でなない、今までとは違うの、と諭すが、ペーターは、だんだんと狂気じみてきて、恨み節を歌う。
そして、お前に婚礼のダンスなど絶対にさせないと息まき、エヴァは、わたしを脅すのか、あなたの許しなんかいらない、とついに決裂してしまう。
 ペーターは、ローラに、母さん、俺を逃げ出さないように縛ってくれーーといって家に入る。

婚礼のファンファーレや人々の合唱などがにぎやかに錯綜するなか、村の人物たちは、いろんな符合、30年前のこと、エヴァのことなどを語り、不安と期待で慌ただしくしている。
踊りの中では、ハインリヒがローラを称える。
 そんななかローラは、オペラ冒頭の歌、かつての若い頃の想いをつづるが、ペーターは、脱兎のごとく家を飛び出していってしまい、またたく間に踊りのなかに紛れてしまう。
 そして、ハインリヒとエヴァのまえに飛び出したペーターは、エヴァと踊ろうと手を差し伸べた彼に向って、おまえは踊ることができない、俺が許さねぇとすごむ。
ハインリヒは、わけもわからず、この男は何をいってるのだと戸惑うが、ペーターは、遠くのローラを指さし、俺のかぁさんだ、かつてお前の父親が、結婚式の母を奪ったのだ、お前の父親はきっと地獄にいるだろうよ。
ハインリヒは、戸惑い、エヴァは、彼は嘘をついているよと対抗するが、ペーターはさらに毒づき、おい、おまえ、兄よ、すべてのものを共有だ、彼女は今夜、明日はお前、そして目には目を、歯には歯をと復讐に燃える。
丸腰のハインリヒを助けるものいない、ペーターはこの女は俺のものだとわめくが、ハインリヒは、神のお力をと、全力を振り絞って体当たりして首を絞めて、ペーターを殺してしまう。ローラは、ペーターの名を叫び、これはあなたの兄弟なのよと泣き崩れるが、そのとき、鐘が鳴り響き、城に火の手があがる。

クリストバルトは、イレローエが燃えていると炎を背景に小躍りするが、そのさまは、他所からきた魔物のようであった。
叫び、助けを求める人々。狂乱の音楽。

しかし、それも静まり、音楽も平和的なムードに満たされてゆく。
ハインリヒとエヴァのふたり。
ふたりは改めて愛が大きくなり、赤く染まった空も明けていくのを感じ歌う。
黄金の門が開くのを見たわ、灰や血が燃え盛る炎から明るい光に浄化されたの。
愛の輝き、夜と恐怖から解放された「幸福な炎」。
わたしたちの一日が始まった、いま日の光は自分たちのなかにある!

輝かしい音楽で幕!

                

こんな内容のドラマです(対訳がないので、だと思います)

炎による悪しきことの浄化。

そう、前褐のとおり、ワーグナーの「神々の黄昏」にも通じる概念であり、火の修行を経て愛の高みで結ばれる、モーツァルトの「魔笛」にも似たり。

ドイツやイタリアのオペラの歴史を集大成して、自身がすぐれたオペラ指揮者であり、オペラ作曲家であったシュレーカーのオペラ作品。

こんな風に、わたくしは連日聴き、ようやく記事にできるようになりました。

思えば、これまで聴いたシュレーカーのオペラと同じような音楽のパターンはちゃんとあります。
先に書いたように、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。
対する適役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)
 こんな主人公たちがそのパターン。
で、音楽面でのパターンは、扇情的でありつつ、すべてが断片的で、連続する旋律は少なめ。少しづつのフレーズが積み重なって、美的なモザイクのような音楽になってて、クライマックスなどでは、それが同時進行してややこしい流れとなる。
 で、そのオペラには、祭りや祭典のシーンが必ずあって、飲めや歌えや的なにぎやかなバックグランドが築かれる。

今回は、ほんと長いですね。
あと一息、演奏について。

このCDは、1989年、ウィーンでの演奏会形式ライブ録音で、埋もれていたこの作品をちゃんと演奏した蘇演であります。

ベーレンライター版が定着するまえ、独自の校訂を行ったペーター・ギュルケ。
スウィトナーのベートーヴェンがその版だったろうか?N響でも第九を指揮していたはず。
そんなギュルケの危なげのない指揮は、こうした未知の作品の演奏にはぴったり。
で、なんたってウィーン響が機能的かつ美しいし、その響きがいまほどにインターナショナルじゃなくて、ゴシックなシュレーカーの音楽にふさわしく、ほどよく錆びれている。

80~90年代の歌手たちも、自分には懐かしく、いまの映像主体に重心を移した歌唱とは違い、各々、深みがあるように思った。
 なかでも性格テノールのツェドニクが素晴らしい。
放火犯のクレドたる2幕の信条告白はなかなかのもので、とんでもなく疚しい。
あとヒロインのデ・フォルの清純さのなかに、熱を帯びた情熱を感じさせる感情豊かな歌唱。それと懐かしいランドヴァーの母親の声。クンドリーのイメージもその声から浮かびましたよ。
あと特筆は、没頭的だけど、なめらかなバリトンの声を聴かせるペデルソン。
で、ハインリヒ様のヘルデンは、ちょいと一本調子。
しかし、皮肉にも、運命のもとにあったハインリヒの常に切迫した役柄には合っているという符合。

ここ数年、音楽だけは何度も聴いて耳になじませ、その後、徐々にリブレットを解析。
国内情報の少ない気に入った作曲家、気に入ったオペラを楽しむには、ともかく何度も何度も聴くこと。そうして後に、そのオペラが大好きになり、むこうからいろんなものを発信してくれるように感じるようになります。
こんな風にして、3~6か月、じっくり楽しむのです。
以前は、こうして、好きなオペラの拡充に努めてました。
まだまだたくさん、手持ちの未開拓作品あります。
体調管理に気をつけて、ゆっくりと聴いていきたいと思ってます。

この度は、長尺の記事を起こしまして申し訳なく思います。

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シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920年

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 
  1924年

 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年

 「Memnon」メムノン~未完   1933年


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2017年11月19日 (日)

シェーンベルク 「グレの歌」 ラトル指揮 LSO

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レインボーブリッジからの日の入りは、ビルばかりで、しかも富士山の姿もごくわずか。

日没ではなくて、日の出の眩しさ、輝かしさに最後は満たされる音楽を。

Proms2017

        シェーンベルク   「グレの歌」 

  ヴァルデマール:サイモン・オニール  トーヴェ:エヴァ-マリア・ウェストブロック
  山鳩:カレン・カーギル                      クラウス:ピーター・ホーレ
    農夫:クリストファー・パーヴェス     語りて :トマス・クヴァストス 

    サー・サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団/合唱団
                      バーミンガム市交響合唱団
                      オルフェオ・カターラ

                       (2017.8.19 ロンドン、Proms2017)


ネットで全演目が期間限定で聴けるProms。
この夏も、充実の演目がたっぷりで、仕事をしながら録音し、あとで聴き返すということを何演目も行いました。

そんななかで、大いに感銘を受けたのが「ラトルのグレの歌」。
音楽監督となったロンドン交響楽団との共演も注目の演目。
そして、なんたって大好きな作品。

グレの歌を知り尽くしたラトルが、この大編成のオケにソロに合唱を完璧に束ね、そして、ラトルの棒のもとに、全員が一丸となっているのをこのライブ録音から感じ取ることができる。
音色は全般にラトル独特の硬質でありながら、ロンドン響の鋼のような鉄壁のアンサンブルを得て、ピアニシモの美しさから、巨大なフォルテまで、幾重にもわたる音の層を美しさを聴くことが出来る。
そう、そんなところまで詳細に聴き取ることができるくらいに、この放送音源は録音が優秀なのであります。ネットだからといって、まったくバカにできません。

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私にとっての、この曲のリトマス紙的なヵ所、第1部の終わりの方の間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」は、ほぼ完璧で、アバドの最後のルツェルンのものには及ばないが、適度な荒れ具合も万全で、そして極めて美しく、官能的かつ、儚さに満ちている。カーギルのメゾも良い。
歌手では、クヴァストフの登場で後半がさらに引き締まったし、オニールの若干、力任せながらタフなヴァルデマールもテノール好きを唸らせるものだ。

1900~01年に大方完成、同時期には、「浄夜」と「ペレアスとメリザンド」。
結局この時期のものが、一番聴かれているわけだが、そのあたりのことを作曲者自身の講演の話から引用します。(某応援ファンサークルのFBに書いたものを転用)

シェーンベルク著「人が孤独になるとき」1937年 より~細川晋:訳

<私が『浄夜』を作曲したのは今世紀になる前のことです。だから私は、初期の作品とされる『浄夜』で、なんらかの評判を獲得することが出来たのです。
後の時代の作品がそれほど早く評価されたことはありませんが、私が、ある種の評価を(敵の真っただ中にいるときでさえも)享受できるのはそのおかげです。
この作品は、とりわけ管弦楽版で非常によく聴かれています。
ところが、私が次のような不満を耳にする回数ほど頻繁に『浄夜』をお聴きになられている方はおりますまい。「この様式で作曲をし続ければいいのに!
 私の答は、おそらく不審に思われましょう。
私はこう申し上げました、『最初から、同じ様式や同じ方法で作曲することをやめたことなどありません。
違っている点といえば、今では以前よりももっとうまくできるということだけです。今では以前よりもよく注意が払われ、よく考え抜かれてます。』
 もちろん『浄夜』しかご存じない方が、突然、なんの予備知識もなく私の現在の様式に直面すれば、すっかり当惑されることでしょう。・・・・>

 このように、作曲者自らが、自身の作風・様式の変化を語ってますが、根本は変わらないとも。
そして、十二音技法を編み出したとき、それまでの表現主義的な音楽が成功を収めていた時期を振り返ります。

<そのころ突然、大衆は私の書いたあらゆる作品の感情表現力を忘れかけていたのです。・・・中略、そして『浄夜』でさえも忘れ去られ、私は何人かの評論家から単なる建築技師と呼ばれたのです。
この用語を用いることによって、私が直感的に作曲していないこと、私の音楽は無味乾燥で感情表現を欠いていることをほのめかせたかったのです。・・・・>

 こうして、シェーンベルクが新たな様式に踏み入れる都度、聴衆や評論家は批判や拒絶を繰り返した。
しかし、シェーンベルクは、確信をもって言います。

<私にはある使命を達成しなければならないということがわかっておりました。
表現されるべきことを表現しなくてはなりませんでしたし、自分の好むと好まざるとに関わらず、音楽の発展のために自分の理念を開発する義務があると感じていたのです。
にもかかわらず、私はまた大衆の絶対多数はそうしたことを好まないということを理解しなければならなかったのです。
 しかし、私は自分のどの音楽も初めは醜いとみなされてきたことを思い起こしました。
そしてなおも・・・・私の『グレの歌』の最後の合唱で描かれているような夜明けがやってくるはずでした。私がこの世界にもたらしたいと願うような、音楽における期待に満ちた新しい一日の始まりを告げる太陽の光が訪れることもあるに違いないと私には思われたのです。」

音楽の発展に寄与したい、新たな夜明けを切り開きたい、それを願い作曲を続けたシェーンベルクには、過去も未来も逆になく、今ある自分がつくる音楽が現在なのでした。

グレの歌の最後の壮大なエンディングのまばゆさは、シェーンベルクのずっと変わらぬ音楽への想い。
ラトルとLSOのこのライブは、それこそ壮絶な音のシャワーに、聴く私も目も耳も大きく開き、眩しさに身を震わす想いがしたものです。

このライブ、正規音源にならないものか。

そして、ラトルのベルリンフィル盤を聴き直してみる。

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シェーンベルク   「グレの歌」 

  ヴァルデマール:トマス・モーザー  トーヴェ:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
  山鳩: カリタ・マッティラ            クラウス:フィリップ・ラングリッジ
  農夫、語り手:トマス・クヴァストス 

    サー・サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                      ベルリン放送合唱団
                      MDRライプチヒ放送合唱団
                      エルンスト・ゼンフ合唱団

                       (2001 ベルリン)


16年の開きのある「ラトルのグレの歌」。
こちらは美しい精緻な響きが際立っているほか、やはりベルリンフィルの音色がする。
そしてべらぼうに巧い。
歌手も、こちらの方がオペラに近い雰囲気で、聴きごたえはある。
ことに悲劇的な色合いのモーザーは、トリスタン的だし、マッテラの清楚な歌声と、クールなオッターの山鳩も素敵なものだ。
 でも全体に、LSOのものを聴いちゃうと、踏込みが甘いような気がする。
それは、よく言われるように、録音がイマイチなことで、声はまだしもオーケストラが遠くで鳴っているように感じる。
これはもったいない話だ。
 ラトルとベルリンフィルのグレの歌は、2013年の、フィルハーモニーザール50周年のものがあって、ベルリンフィルの映像アーカイブにはなっているが、そちらの音源化もお願いしたいものだ。

しかし、この曲、ほんと好きなもんだ。
ブーレーズ盤とアバド盤が一番好き。
CDは7種と、音源4種をときおり、とっかえひっかえ聴いてる。

  仰げ 太陽を 天涯に美しき色ありて、東に朝訪れたり。

  夜の暗き流れを出でて 陽は微笑みつつ昇る

  彼の明るき額より 光の髪は輝けり!

未来を見据える、シェーンベルクの素晴らしい音楽であります。

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過去記事 

「ブーレーズとBBC交響楽団のCD」

「俊友会演奏会」

 「アバドとウィーンフィル」

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2017年11月 3日 (金)

ブラウンフェルス オルガン協奏曲 H・アルブレヒト指揮

Tochou

ある夜の、東京都庁。

十三夜間近の月夜でした。

ちょっときれい、だけどゴージャスにすぎる都庁。
優秀な職員によって、緻密な都政は維持されているけど、お偉いさんは迷走中・・・・
Braunfels

ブラウンフェルス  オルガンと少年合唱とオーケストラのための協奏曲

         オルガン:イヴェタ・アプカルナ

                       テルツ少年合唱団

   ハンスイェルク・アルブレヒト指揮 ミュンヘン交響楽団

            (2012.1 ヘラクレスザール、ミュンヘン)


ヴァルター・ブラウンヘルス(1882~1954)は、ドイツの作曲家だが、ユダヤ系ゆえに、ナチス政権より、その音楽が退廃音楽であるとの烙印をおされてしまい、音楽史の裏側に追いやられてしまった。

かつて、そのオペラ「鳥たち」を取り上げたおりの記事から、以下、引用します。
「有名な法律家・翻訳家を父と、リストやクララ・シューマンとも親しかったシュポーアを祖父に持つ母。ブラウンフェルスは、当然のように音楽の教育を受け順調に育っていったが、ミュンヘンの大学で法律と経済学へと方向転換してしまう。
しかし、そこでモットル指揮の「トリスタン」の上演に接し、またもや音楽へと逆戻り。
こんどは、ウィーンでピアノを学び17歳でピアニストデビューを飾る。
同時に作曲をモットルとトゥイレに学んで、作曲家としてドイツ各地で頭目をあらわしてゆくが、1933年に、自身はカトリックの信者であるという抗議にも関わらず、ヒトラーから半ユダヤということで、公職をはく奪され、その音楽も演奏禁止とされてしまう。

オペラを10作、管弦楽・室内楽・器楽・声楽と広範にその作品を残したブラウンフェルス。
「鳥たち」は、1920年にミュンヘンで初演された3番目のオペラで、その時の指揮は、ここでも(前週のコルンゴルトと同様に)ブルーノ・ワルターであった。
そのワルターも、そしてアインシュタインまでもが、この作品の素晴らしさ・美しさを讃えているのでありました(解説書より)」

このように、同時代の演奏家や評者は、ブラウンフェルスの音楽を高く評価しており、モノラル時代には、いくつかの録音も残されていたが、しばらく、その名前すら聞かれなかったものが、デジタル時代になって登場したのは、デッカの退廃音楽シリーズの恩恵でもあろう。

いまは、OEHMSレーベルが、ブラウンフェルスの作品を順次録音してくれていて、今日は、そのなかのひとつ、「オルガン協奏曲」を。

ブラウンフェルスは、熱心なカトリック信者であり、それはその音楽にもあらわれており、オペラの素材(受胎告知、聖女ヨハンナ等)や、宗教的声楽作品(ミサ曲、テ・デウム、オラトリオ)などであるが、このオルガン協奏曲にもそうした局面が大きくにじみ出ている。

オルガンに、オーケストラは、木管楽器がなしで、弦楽器、トランペットとトロンボーン、ティンパニとバスドラという編成、そして少年合唱団。
ユニークな編成だが、オルガンを中心に、華やかさを排除したサウンドになっているところが、この作品にシリアスさと、真摯さを表出しているように思う。

1楽章は、合唱は出ず、オルガンが縦横無尽に活躍し、全編がカデンツァみたいになっている。厳しい表情が続出するが、そのエンディングは、とてもカッコいい!

ブラウンフェルスならではの、抒情とミステリアスな雰囲気にあふれた第2楽章は、とても美しい。
オルガンの上に、光明のように響くトランペット、静かな中に、徐々に音楽が熱くなっていって天使のように出現する少年合唱。最後は長いオルガンのカデンツァ。

さて、3楽章はフーガ形式で、少しばかり錯綜した雰囲気で進むものの、徐々に、そして光がさしてくるように整理されてきて、いよいよのクライマックスが準備されてきて、ついに、合唱と全楽器で、コラール「シオンは物見らの歌うのを聞けり」(バッハのカンタータBWV140<目覚めよと我らに呼ばわる物見らの声>が、高らかに歌われ、感動の極致を味わうこととなります。

 各楽章は、それぞれ、「幻想曲」「コラールと間奏曲」「フーガ」と題され、そう、バッハのオルガン曲をリスペクトする内容ともなっていると思うわけであります。

1927年の作曲、初演は1928年で、ギュンター・ラミンに捧げられ、そのラミンのオルガンで、ライプチヒのトーマス教会にて、フルトヴェングラー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団で初演され、オペラ「鳥たち」以来の大成功を収めたといわれます。
 フルトヴェングラーとブラウンフェルスも、大の仲良しだったそうな。

このCDは、いまのミュンヘン・バッハ管弦楽団を率いるハンスイェルク・アルブレヒトの指揮によるもので、オルガンは、ラトヴィア出身のアプカルナ嬢です。
キリっとした、とてもいい演奏に思います。

ほかに、今度はアルブレヒトのオルガンソロで、トッカータとアダージョ、フーガ。
オーケストラ曲、交響的変奏曲が収録されてまして、それらはまた別の機会に。

ブラウンフェルスの作品、「テ・デウム」と「受胎告知」もまた、いずれの機会に取り上げます。

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 過去記事

 「ブラウンフェルス 鳥たち」

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2017年6月 3日 (土)

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ホープ、フラング、カヴァコス

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晴れの日の5月の空、そしてタワーに美しの花。

気持ちいいもの、大好きなものに囲まれて過ごすことの幸せは、誰しもそう願いたいもの。

でもなかなかに、そうはいかないもの。

とても忙しくなった4月以降。

ことに5月は。

それでも、懐かしさと切なさ、そしてほろ苦い思い出に包まれつつ過ごす日々に、マーラーとコルンゴルトの音楽はうってつけだ。
次はディーリアスかな。

愛するコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲をいくつか入手したので、ずっと聴いております。
 
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       コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

        Vn:ヴィルデ・フラング

    ジェイムス・ガフィガン指揮 フランクフルト放送交響楽団

                   (2015.7,8 @フランクフルト)


ノルウェー出身のフラングのヴァイオリンは、初めて聴いた。

もう日本には何度か来ているし、CDもそこそこに出ている。

若いのに、着実に実績を積みつつある実力派のようだ。

チャイコフスキーやメンデルスゾーンだったら買わないけれど、コルンゴルトと、おまけにカップリングがブリテンときたら、それはもう!
ちなみに、ムターとプレヴィンのコルンゴルトも愛聴しているが、カップリングのチャイコフスキーは、いまだに聴いたことがないのである・・・・・

さて、このヴィルデちゃんのコルンゴルト、実に自然体で伸びやかななのであります。
それでいて音楽へののめり込み具合も、ある意味、必死感があって、とてもスリリングにも感じる。
彼女によれば、この曲は、ブリテンとともに、2曲携えてレコーディングすることが、長年の夢だったそうな・・。
そんな想いを、ひしひしと感じ取れる夢中さ。
それでいて、冒頭に書いたとおり、自然なのであります。
ノルウェーの山と湖の自然のなかで、伸びのびと育ったと、本人が言っているように、天然素材のようなヴァイオリンの音色で聴くコルンゴルトは、ほんと美しい。
ことに2楽章のロマンスは美品。

ジャケットは、いかにも北欧美人でステキですが、映像などいくつか観たら、まだまだ健康的な女の子って感じ。
大好きなニコラ・ベネデッティが、このところ、大人の女性に変貌しつつある。
ヴィルデちゃも、いつか・・・・、むふふのお楽しみである。


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       コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

        Vn:ダニエル・ホープ

 アレクサンダー・シェリー指揮 王立ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団

                   (2013.1 @ストックホルム)


「ベン・ハー」の愛のテーマで、いきなり始まる秀逸な企画の1枚。

ESCAPE TO PARADISEと題された、ハリウッドにまつわる銀幕の音楽をぎっしり詰め込んでいるのだ。
そんななかに、主役のように配されているのが、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。

ナチスのドイツから逃れた先がハリウッドの映画界。
コルンゴルトの映画音楽もたくさんあるし、このヴァイオリン協奏曲も、自身のそんな映画音楽から、旋律が編み取られている。

今回は、この協奏曲のみに絞りますが、楽園として亡命した何人かのハリウッドを飾った作曲家たちの素敵な作品も、またいつか取り上げたいと思います。

ヴィルデ・フラングのあと、ダニエル・ホープのヴァイオリンを聴くと、やはりスケール感と練り上げられた音色の深みが違うことに気づきます。
大人の音楽。

繊細さでは、ダニエルさんのほうが上回り、快活さや技巧の冴えではヴィルデちゃん。
1楽章からして、苦みの効いたサウンドが、わたしの気持ちをわしづかみにしてくる。
遠くを見通すかのような淡さもあるし、第2楽章では、過ぎ去った日々を懐かしむ、そんな儚い男の夢にぴたりと寄り添ってくれる、そんなホープの優しいヴァイオリンに涙したい。

ところが3楽章では、それじゃダメとばかりに、エッジの効いた鋭さで、背中を思い切り押してくれる前向きなヴァイオリンを聴かせるホープさん。
歌いまわしも自在で、いやぁ、これはいい。
 
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   コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

        Vn:レオニダス・カヴァコス

    マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団

                   (2016.1.14 @ミュンヘン)


バイエルン放送局のネット配信で視聴したのがこちら。

録音もしちゃいました。

画質も音質も、この局のものはほんとに素晴らしい。
いずれ、音盤になるのかな?
なんたって、ヤンソンスのコルンゴルトだから!!

ちなみに、この日の演奏会の演目は、コリリアーノに、この協奏曲に、ラフマニノフの「鐘」という渋いけれど、好きなひとには堪らないもの。
さらに、このあとの欧州ツアーでは、コルンゴルトに、ショスタコーヴィチの7番。

バイエルンに一筋の男ヤンソンス。
そんなヤンソンスの情熱に、バイエルン放送響の輝かしさと、明るい音色が加わって、絶品のオーケストラ伴奏となっている。
艶やかな弦に、木管のあたたかな囁き、そしてマイルドな金管、色気あるホルン。
ほんと、いいオーケストラだ。

おっと、カヴァコス氏を忘れちゃいけない。
今回の3人のヴァイオリニストのなかで、一番年長。
そのお姿のように、求道的ともいえる集中力を感じる、研ぎ澄まされたヴァイオリンの音色。
そして、驚きの2楽章の美演。
音色の美しさでは、もしかしたら、今回の3人のなかで、一番。
終楽章の盛り上がりも、ライブならではだし、みんな乗せちゃうヤンソンスの指揮の力もあるかも。
 DVDでの演奏も、カヴァコスにはあるけれど、もう一回確認してみなくては。
オーケストラの魅力もあるが、今回の3つの演奏の中では、一番バランスがよい。

で、どれが一番好きかって?

そりゃ、全部だよ。

さて、今宵も、コルンゴルトの音楽に咽び泣きつつ、盃を呷るのでありました・・・・・・。


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過去記事


「ムター&プレヴィン」

「パールマン&プレヴィン」

「ハイフェッツ」

「シャハム&プレヴィン」

「ハイフェッツ&ウォーレンシュタイン」

「ベネデッティ&カラヴィッツ」


「ズナイダー&ゲルギエフ」

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2017年5月21日 (日)

コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮

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神奈川の家から遠く富士の夕暮れ。

一日の終わりは、壮麗な夕焼けで幕引きになるのが好き。

そして、後ろ髪をひかれるようにして、昼は去り、夜がやってくるのだ。

こんな景色を大学生の時まで見て暮らした。

社会人になると東京と千葉へ。
でも自分に一番の街はここ。

去ったけど、一生去れない場所。

終わりがなければ始まらない。

そんなことをいくつか繰り返してきたけれど、この春にも大きな変化があったことは、これまでに書いた通り。

マーラーの10番をピークに別れを音楽で追い求めたものだ。

そして、ここしばらくは、コロンゴルトの音楽に足を止めようではないか。

Korngold

  コルンゴルト  「死の都」

   パウル:クラウス・フローリアン・フォークト
   マリエッタ、マリーの幻影:タチアナ・パヴロフスカヤ
   フランク、ピエロ:ミヒャエル・ナジ  ブリギッタ:ヘドヴィク・ファスベンダー
   ユリエッテ:アンナ・ライベルク    ルシエンヌ:ジェニー・カールシュテット
   ガストン:アラン・バルネス       ヴィクトリン:ユリアン・プレガルディエン
   
  セバスチャン・ヴァイグレ指揮 フランクフルト歌劇場管弦楽団
                      フランクフルト歌劇場合唱団

                         (2009.11@フランクフルト歌劇場)


またかとお思いでしょうが、コルンゴルトのオペラ「死の都」であります。

このヴァイグレ盤、このところ毎日のように流し続けていて、4年前に入手していらい、以前はさほどでもなく思っていた、フォークトのパウルが実に素晴らしいことに、いまさらながらに気が付いた。

誰もが、フォークトの美声と、そのユニークなヘルデンの常識を覆すような不思議なほどの力感に驚かれていることの思います。
しかし、よく考え抜かれた歌唱は、どんな役柄でも、フォークトなりの完璧さでもってなりきってしまうことの凄さ。
 パウルという役柄の難しさは、全幕ほとんど出ずっぱりで、没頭感をもって、ドラマティックな力感を伴った歌唱を駆使しまくらなくてはないらいし、甘美さや、ほろ苦い諦念も歌いこまなくてはならないので、パウル歌手は、これまで限定的な存在だった。

ルネ・コロ、J・キング、イェルザレム、T・ケルルなど、いずれもジークムントやトリスタンを歌うような歌手たちの持ち役だ。

そんななかにあってのフォークトの歌の存在。

パウルの心情に同化してしまったかのような、繊細極まりない知的かつ、情熱的な歌唱。
すべてが考え抜かれ、言葉をじっくりと歌いこんでいるのがわかる。
華奢ななかにも、スピントの効いた力強さと、圧倒的な声量も。
きらきらした退廃具合も申し分なし。
いままで、コロとケルルばかりだった私の理想のパウルに、遅ればせながらフォークトが加わった。

このフランクフルト・ライブは、歌手ではフォークトの独り舞台かもしれないが、マリンスキー育ちのパヴロフスカヤは、悪くないが、フレミングの声に似ていて、ちょっと隈取りが濃いかも。
ナジのフランク&ピエロはよい。
バイロイトでもウォルフラムなどで活躍のイケメンバリトンは、今後とも注目。

ライブながら、録音は実によく、オーケストラ・ピットの生々しい音が臨場感豊かに聴こえる。
ヴァイグレの整然としつつ、全体のバランスをよく見通したスタイリッシュな指揮はこれでよいと思う。
まだ音源は多くはないが、過去の正規音源のなかの指揮者では、一番いい。

添付のリブレットには、舞台写真が豊富に載せられていて、想像力を刺激してくれる。
フォークトはスキンヘッドで、詰襟を着ていて、ちょっと病的な感じだし、死神や老婆もたくさん・・・・、マリエッタは赤いドレスで、普通に美しいし。
映像で観てみたいものです。

映像といえば、新国で観たホルテン演出の舞台のDVDでは、フォークトなんだよな。
手に入れねばね。

Ninomiya_fuji_3

現実と夢想が、行き来して、リアルな現実も、夢も、どっちも明滅するように、それこそ、自分の夢に出てくるようになった。

 しかし、現実の人間たる自分は弱いけど、妙に強い。
いまの現実は、前では考えられなくなった違った忙しさに包まれるようになった。
過ぎ去った夢、だんだんと過去のものとして、置き換え、忘れようとしつつあるのが、これまた夢のなか・・・・・・・・。

こんな男の心情にぴたりとくるものを描きつくした、若きコルンゴルトに、啓稔をすら感じます。

 わが憧れ、わが惑いが、この夢に蘇る。

 踊りで得て、そして失ったわが幸せ
 ラインの川沿いで踊る
 月光のなかで、青い瞳が、この身に
 切なる眼差しをそそぎ
 辛い思いを訴える
 ここにいて どこにもいかないで
 故郷を見守って、静かに花開く幸せを
 わが憧れ、わが惑いが この夢に蘇る
 遥かなる魔力が この魂に 火をともす
 踊りの魔力に誘われ
 役者へと たどりつく
 優しすぎる あの女に従い
 涙ながらの口づけを知る

 酔いと苦しみ 惑いと幸せ
 これが曲芸師の定めか
 わが憧れ わが惑いが
 この夢に蘇る
 蘇る 蘇る・・・・


      (訳:広瀬大介)

 この身にとどまるしあわせよ

 永遠にさらば 愛しいひとよ
 死から生が別たれる
 憐れみなき避けられぬさだめ
 光溢れる高みでこの身を待て
 ここで死者がよみがえることはない


      (訳:広瀬大介)


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2016年6月26日 (日)

シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク アバド指揮

Ajisai_shiba

関東は、梅雨まっさかり。

そして、ほぼ3ヶ月ぶりの投稿となりました。

幾多の皆さまから、暖かく、そしてご配慮にあふれたコメントを頂戴しながら、まったくご

返信も、反応もしなかったこと、ここに、あらためまして、お詫び申し上げます。

 ともかく、辛く、厳しい日々は、ブログ休止時と変わりなく続いてます。

しかも、予想もしなかったところから、いろんな矢が飛んできたりもします。

やぶれかぶれの感情は、そこから生まれ、音楽なんて、聴くゆとりも、受け入れる感情もありません。

そんな3ヶ月。

 しかし、でも、めぐってきた、「クラウディオ・アバドの誕生日」

存命ならば、今年は、この26日が、83回目。

そんな日に、アバドが生涯愛した、新ウィーン楽派の3人の作曲家を、いずれもウィーンフィルの演奏で聴きます。

Schoenberg_gurre_lieder_abbado

  シェーンベルク  「グレの歌」から 間奏曲、山鳩の歌

長大なグレの歌、全部を聴けないから、この作品のエッセンスとも呼ぶべき、中ほどにある場面を。
1900年に作曲を始め、第3部だけが、オーケストレーションが大幅に遅れ、最終完成は、1911年。
1913年に、シュレーカーの指揮によって初演。

後期ロマン派真っ盛りの作品ながら、最終完成形のときのシェーンベルクは、無調の領域に踏み込んでいたところがおもしろい。
1912年には、ピエロリュネールを生み出している。

むせかえるような甘味で濃厚な間奏曲、無常感あふれる死と悲しみの心情の山鳩の歌。
アバドのしなやかな感性と、ウィーンフィルの味わいが融合して、何度聴いても心の底からのめり込んでしまう。
久々に、音楽に夢中になりました。

アバドのこのライブ録音は、1992年。
88年には、マーラーユーゲントとECユースオケとで、何度も演奏していた。
そして、最後のルツェルンとなった、2013年に、この間奏曲と山鳩を取り上げた。
この最後の演奏が、掛け値なしの超絶名演で、まさに陶酔境に誘ってくれるかのような、わたくしにとってとても大切な演奏となってます。

Abbado_lu

ルツェルンでの最後のアバド。

Abbado_webern_3

  ウェーベルン  パッサカリア

ウェーベルンの作品番号1のこの曲は、1908年の作。

シェーンベルクの弟子になったのが、1904年頃で、グレの歌の流れを組むかのような、これまた濃厚な後期ロマン派的な音楽であり、グレの歌にも増して、トリスタン的でもある。

パッサカリアという古風ないでたちの形式に、ウェーベルンが込めた緻密さとシンプルさが、やがて、大きなうねりを伴って、巨大な大河のようなクライマックスとカタストロフ。

この濃密な10分間を、アバドは、豊かな歌心でもって静寂と強音の鮮やかな対比を見せてくれる。
むせぶようなホルンの効果は、これはまさにウィーンフィルでないと聴けない。

1974年、シェーンベルク生誕100年の年、ウィーンでは、新ウィーン楽派の音楽が数々演奏されたが、そのとき、アバドは、ウィーンフィルとこのパッサカリアや、5つの小品を取り上げ、NHKFMでも放送され、わたくしはエアチェックして、何度も何度も聴いたものだ。
 その音源は、いまも手元にあって、あらためて聴いてみても、若々しい感性が燃えたぎり、ウィーンフィルも、今とはまったく違う、ローカルな音色でもって、それに応じているところが素晴らしい。

Berg_lulu_abbado

  ベルク  交響的組曲 「ルル」

新ウィーン楽派の3人のなかで、一番若く、そして一番早く死を迎えてしまったベルク。

ウェーベルンと同じく、1904年に、シェーンベルクの弟子となり、以降、ずっとウィーンで暮らすことになるベルクだが、ユダヤの出自であった師がアメリカにのがれたのに対し、ベルクはユダヤではない代わりに、その音楽が退廃音楽であるとして、ナチス政権成立後は、その活動にかなりの制約を受けることとなった。

そんななかで、生まれたのが「ルル」。
破天荒な青年時代を送り、ぜんそくに悩まされ、病弱であったベルクは、文学好きということもあって、オペラの素材には、生々しい死がからむ、いわばヴェリスモ的な内容を選択した。
それが「ヴォツェック」であり、「ルル」である。
さらに、晩年の不倫も、「ルル」の背景にはあるともされる。

人生の落後者のような軍人と、魔性の女、ファム・ファタール。
それらが、悲しみとともに描かれているところが、ベルクの優しさであり、彼独自の問題提起の素晴らしさ。

ことに、「ルル」の音楽の運命的なまでに美しく、無情なところは、聴けば聴くほどに、悲しみを覚える。
自分の苦境に照らし合わせることで、さらにその思いは増し、ますます辛く感じた。
そんな自分のルルの聴き方が、また甘味に思えたりするのだ。

「ルル」は、1928~35年にかけての作品。
間があいているのは、アルマの娘マリーの死に接し、かのヴァイオリン協奏曲を書いたためで、ベルクは3幕の途中で亡くなり、未完のエンディングを持つ「ルル」となった。

アバドは、ベルクも若い頃からさかんに指揮していて、70年のロンドン響との作品集に続き、ウィーン時代の94年に、ウィーンフィルといくつもの録音を残している。
ニュートラルなロンドン盤もいいが、やはり、より濃密で、ムジークフェラインの丸みのある響きも捉えたウィーン盤の方が素晴らしい。

ロンド→オスティナート→ルルの歌→変奏曲→アダージョ

オペラの場面をシンフォニックにつないだ組曲に、アバドは、オペラの雰囲気も感じさせる迫真性と抒情をしのばせた。
「ヴォツェック」は何度も指揮したのに、「ルル」は、ついに劇場では振ることがなかった。
ウィーン国立歌劇場時代、上演予定であったが、辞めてしまったため、その計画を実現しなかったから、この組曲盤は、アバド好きにとっては貴重なのであります。

さてさて、暑いです。

まだ梅雨だけど、そぼ降る雨はなくて、晴れか土砂降りみたいな日本。
熊本の地震もあったし、大きな地震への不安は尽きない

ばかな都知事や辞めたけど、疑惑は消えないし、消化不良のまま参院選と、まもなく都知事選が始まる。
矛盾だらけの政治に社会。
 そして、海外へ眼を転ずれば、どこか某国が、偉そうに軍船で領海侵入を繰り返し、虎視眈々と長期計画で持って、ねらってきているし、さらに英国のEU離脱が、世界規模でもって、政治経済に影響を与える流れが進行中。

今後もトピックは、まだまだ続出するでしょうが、ブログ休止してた間に、こんないろんなことが起きてしまう2016年。
「ルル」の原作ではありませんが、「パンドラの箱」が次々に開いてしまうのか・・・・

しばらく、また消えますが、もう事件事故災害は勘弁してください、神様。。。

それでは、また、いつか。

Shiba_8
    

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2016年3月 5日 (土)

コルンゴルト 交響的序曲「スルスム・コルダ」 リヒター指揮

Shibapark

昼間は、すっかり暖かくなり、夜気も徐々に緩みつつあります。

先週は、風邪をこじらせて、完全沈没してしまった。

ここ数年、風邪をひかなかったのに、歳と共に、体も、気力も無理が効かなくなってきた感がありです。

Korngold


コルンゴルト  交響的序曲「スルスム・コルダ」~心を高く上げよ op13
                     (Sursum Corda)


       カスパール・リヒター指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団

                    (1999.3 @リンツ ブルックナーハウス)


コルンゴルト(1897~1957)の作品番号付きでは、3つめのオーケストラ曲。

1919年に作曲、初演は1920年1月、ウィーンにて作曲者自身。

23歳での作品でありますが、それまでに、オペラをすでに3作(ポリクラテス、ヴィオランタ、死の都)を仕上げているので、オーケストラ技法においては、ますます充実に極みにあったわけです。

そもそも、この曲のタイトル。
「スルスム・コルダ」とは、なんとヘンテコなタイトルかと思いますね。

Sursum Corda、すなわち、ラテン語で、「あなたの心を揚げよ」。
英語では、「Lift up your Hearts!」。

ローマ帝国内に、キリスト教が広がりつつあった2世紀頃の典礼句の一節だったようです。
「主を見上げ、心を高く・・・」、こんな感じでしょうか。

ただし、このコルンゴルトの音楽には、そうした宗教観はまったくなくって、自身がこのタイトルについて述べたところでは、「闘争と大望、嵐と圧迫からの喜ばしい救出」という意味合いを込めたのだそうだ。

2年前に出会った、同じユダヤ系の音楽好きの女性、しかも、ピアノもソプラノの声も素晴らしかったルーツィと相思相愛になり、何度も逢瀬を重ねていた頃である。
そんな高揚した気分も、この曲には、しっかりと反映されていて、まさに、コルンゴルトの気持ちが、おおいに上がっていたなかでの作曲だったわけであります。
  そのルーツィとは、のちに、幸せな結婚をし、子供たちにも恵まれるコルンゴルトなのでした。

そんな幸せのなかにいたコルンゴルトは、音楽活動でも、神童から一流の青年音楽家として、ことにオペラ、「死の都」の爆発的な成功でもって、ヨーロッパにその名を轟かせていたわけですが、1920年の、この「スルスム・コルダ」の初演は、聴衆からの理解が得られずイマイチの成果に終わり、その後のベルリンなどでの再演でも、パッとした評価は得られませんでした。
でも、コルンゴルトは、この曲への想いは強かったのでしょう。
なんといっても、敬愛する、R・シュトラウスに捧げられていて、19分あまりの、まるで雄弁なシュトラウスの交響詩のような雰囲気を持っているのですから。
1922年のシカゴでの演奏会には、自身が、プログラムに、こと細かな楽曲解説を施しております。

そのシカゴの演奏会もいまひとつだったこの曲。
たしかに、明快な形式を持たず、でもソナタ形式の枠にはある。
でも、それは、後期ロマン派的なムードのなかで、かなり拡張解釈され、形式よりは、描写的、絵画的な音楽となっている。
それが、シュトラウスのように、具象性や明快さが伴わないものだから、とっつきが悪い結果となっている。
 しかし、何度も何度も、そして、いつものコルンゴルト節を、しっかり身に付けた耳で聴いてみると、これはこれで、実に魅力的な音楽なのだ。

愛するオペラ「死の都」のムードも踏襲され、旋律的なつながりも感じる。
そして大胆な和声と、ダイナミズムは、パワフルであるとともに、カラフルで、そして、一方で、コルンゴルトならではのクールな抒情。
わたくしには、極めて魅力的な音楽です。

コルンゴルトの管弦楽作品をおさめた音源のなかに、いくつも収録されてます。
手持ちでは、アルベルト、バーメルト、そして、今回のC・リヒターのものがあります。
 ブルックナーゆかりのオーケストラを指揮したリヒター盤が、オーストリアのオーケストラならではの丸い響きでもって、なかなかの雰囲気で聴かせてくれます。
録音の良さと、オーケストラの機能性では、バーメルト。
シュトラウスに近いサウンドでは、アルベルトでしょうか。

この曲では、生前、さっぱりだったコルンゴルトですが、18年後の1938年。
ハリウッドで、映画「ロビンフッドの冒険」の音楽に、この曲から転用していて、ロビン・フッドのテーマともなってます。
 まさに、その高揚感などは、「心を高く・・」という気分が相応しいものとなってますね!

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2015年12月23日 (水)

コルンゴルト 6つの素朴な歌

2

恵比寿ガーデンプレイスの豪奢なツリー。

じゅうぶん大人のワタクシでも、夢の面持ちになってしまいます。

Korngold

     コルンゴルト  6つの素朴な歌 op9

        バリトン:スティーヴン・キンブロー

 

        ピアノ :ダルトン・ボールドウィン

1916年に出版された、早熟のコルンゴルト、14歳から19歳にかけての歌曲集。
それぞれに、短いけれど、歳を追うごとにその作風が充実していくことがわかる作品集。

  1.「まつゆき草」     詩:アイヒェンドルフ

  2.「夜のさまよい人」       〃

  3.「セレナード」          〃

  4.「愛の手紙」      詩:ホーノルト

  5.「庭園の英雄の墓」  詩:キッパー

  6.「夏」           詩:トレビッチ


アイヒェンドルフの詩による最初の3つの作品は、1911年(14歳)。
「愛の手紙」が、1913年(16歳)。
残りのふたつの歌が、1916年(19歳)。

この中で、一番有名なのが、1曲目の「まつゆき草」。
春の初め、まつゆき草は楚々と咲くけれど、まだ残る雪に覆われ、萎れてしまう。
そんな様子を歌を読む詩人に例える。

そんなロマンティックな内容に、早熟のコルンゴルトは、ドイツロマン主義の延長線に立脚しながら、彼ならではの甘味なる旋律をつけました。
ほんとにステキな歌です。

ダイナミックなピアノ伴奏が引き立つ2曲目は、不気味な雰囲気も。
転じて明るいセレナードは、心弾む思いを。
2年後の「愛の手紙」では、あなただけど思い、愛します、と切々と歌い、シュトラウスやウォルフの歌曲の流れを感じさせ、シンプルな表情も好ましい。

そして、19歳の作である2曲は、CD解説にも書いてありますが、すでに2つのオペラを書きあげたあとだけに、ピアノの伴奏もスケールを増していて、歌の方もドラマティックだし、表現の幅、言葉と音との融合も格段に優れている。

音楽の才能とともに、恋多き青春時代を送ったコルンゴルト。
これらの美しい歌曲たちも、そんな恋に後押しされながら書いたのかもしれませんね。

のちに、オーケストレーションも施され、さらにロマンティックに仕立てられました。
B・ヘンドリックスの歌で、一部聴くことができます。

キンブローの誠実な歌いぶりは文句ありませんし、名手ボールドウィンのピアノも素晴らしいものでした。
女声では、ピエチョンカの歌曲全集が出ているので、いずれ聴いてみたいと思ってます。

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クリスマスまで、もうすぐ。

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