カテゴリー「新ウィーン楽派とその周辺」の記事

2023年11月11日 (土)

フィルハーモニック・ソサエティ・東京 演奏会

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11月も中盤に入り、街にはクリスマスのイルミネーションがちらほら散見されるようになりました。

今日のコンサート会場のお隣で見つけたツリーから。

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ミューザ川崎も、急に寒くなった今日の雰囲気に寄り添うような雰囲気。

音楽が大好きな若い方たちのオーケストラを聴いてきました。

学生オーケストラ出身者によって結成されたオーケストラです。

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 J・ウィリアムズ オリンピックファンファーレとテーマ

         「ジュラシック・パーク」よりテーマ

         「スター・ウォーズ」抜粋

 コルンゴルト   シンフォニエッタ op.5

 J・ウィリアムズ  「インディ・ジョーンズ」よりテーマ

   寺岡 清高 指揮 フィルハーモニック・ソサエティ・東京

     (2023.11.11 @ミューザ川崎 シンフォニーホール)

なんてすばらしい、おもしろいプログラムを組んでくれるんだろ!

コルンゴルト愛のわたくしの目当ては「シンフォニエッタ」。
9月のゲッツェル&都響での同曲のコンサートを早々にチケットを買って楽しみにしていたのに、おりからの台風直撃。
逸れたもののの、お近くの方をのぞくと、東海道線利用の自分には平日でリスクが大きく断念しました。

その悲しみのなか、見つけたのがこのコンサート。
小躍りしましたね。
しかし、悪魔は2度微笑む・・・
川崎に向かう電車内、危険を知らせる通知があり川崎駅で電車が止まっていると。
横浜に着いて、しばし停車、この電車は川崎には止まらず、横須賀線内を迂回とアナウンス。
え、えーー
カラスが置き石をして、駅員が撤去と安全確認をしているとのこと。
すぐさま降りて京急へ向かうも、運悪く急行が出たばかりで、次は空港直のノンストップ。
あちゃ~とばかり、東海道線ホームに舞い戻り、なんとか開始5分前に川崎駅。
ぎりぎりで間に合いましたが、同じように遅れた方も多かった。
カラスよ、もう堪忍してよ。

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こんな艱難を制して着席し、鼓舞するようなオリンピックテーマで勇壮に開始。
めっちゃ、気持ちいい~
84年のLAオリンピック、80年のソ連のアフガン侵攻を受けて、モスクワ五輪を西側がボイコット。
それを受けて、ソ連勢・東側がLAは不参加、中国はモスクワ不参加、LAちゃっかり参加という、極めて政治色の濃かったオリンピックだった。
そんな起源のあるオリンピックテーマだけど、いまやこのJウィリアムズ作品は、反省をもとに世界祭典となったオリンピックの普遍的な音楽になりました。
いまもまた、きな臭い世界の動きにあって、わすれちゃいけない音楽の力であります。
若いオーケストラの輝きあふれるサウンドが心地よい。

ジュラシックパークは、映画館で観なかったこともあり、やや世代ギャップがあり。
しっとりしたホルンの開始がいい
ちょっと音楽的に自分には遠かった。
スーパーマンかETをやって欲しかったなww

30分あまりのスターウォーズ組曲は、もうお馴染みのリズムとメロディが続出。
昭和のオジサンの思いは、77年のロードショーを観た学生時代に飛んで行く。
思えばその時の劇場、渋谷東急も今はない。
しかし、ルークの出て来ないエピソードの音楽となると、DVDで観て知った世界となるので、ここでもまた音楽がやや遠い。
オジサンがそんな思いに浸っているとはつゆ知らず、若者たちは、気持ち良さそうに、身体を音楽に合わせつ演奏にのめり込んでいる。
そんな皆さんが眩しかったし、思い切り共感しつつ演奏しているオーケストラの若者がうらやましかった。
エピソードⅣの大団円の音楽は、エンドロールにも似て、めっちゃくちゃ完結感もあってよかった。
寺岡さんの的確な指揮もあり、オーケストラは各奏者ふくめ、すごく巧い!!
ブルーのライトセーバー、もっと大胆に使えばよかったのにww

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後半は、得意のコルンゴルト。
5つのオペラをのぞけば、コルンゴルトのなかでは、ヴァイオリン協奏曲と並んで一番好きな作品。
失意と一発逆転の時代の大規模な交響曲より、ずっと前向きで明るくファンタジーあふれる曲。

1912年15歳のコルンゴルトの、ハリウッドとは正直無縁の時代の音楽。
コルンゴルトはユダヤ系の出自もあり、ナチスから退廃音楽のレッテルを受け、欧州を逃れアメリカに逃れたのは戦中でずっと後年。
この作品は、シュトラウスやマーラー、ツェムリンスキー、シェーンベルク、シュレーカーの流れと同じくするドイツ・オーストリア音楽のワーグナー次の世代としてのもの。
15歳という早熟ぶりもさることながら、大胆な和声と甘味な旋律の織り成す当時の未来型サウンドであったと思います。
ハープ、チェレスタ、鉄琴、ピアノなどの多用がいかに当時珍しかったか。
のちにハリウッドで活躍する下地がすでに出来がっているし、オペラ作曲家としてのドラマの構成力もここでは十分に発揮されている。

Jウィリアムズの音楽のヒントや発見は、このシンフォニエッタにも限りなくあり、ライブで聴く喜びもそこにあり、さらには全曲を通じてあらわれるモットーの発見と確認の楽しみと美しい旋律の味わいもある。

この日の寺岡&PSTの演奏は、細かなことは度外視して、ほぼ完璧でした。
大好きな曲のあまり、1楽章が始まると、もう涙腺が緩み涙ぐんでしまった。
そのあとの素敵なワルツ、若い皆さんが体を揺らしながら気持ちよさそうにコルンゴルトを演奏している姿を見るだけで幸せだった。
 ダイナミックな第2楽章、実はのちのオペラでも、悪だくみ的な場面に出てくるムードだけど、それとの甘い中間部の対比も見事だった。
わたしの大好きな3楽章。
近未来サウンドを先取りした響きに、ロマンスのような甘味な美しい歌にもうメロメロでしたよ、ソロもみんな頑張った。
シュトラウスのように、どこ果てることもなく、次々に変転してゆくフィナーレ。
もう右に左にオーケストラの活躍を見ながら、寺岡さんの冷静確実な指揮ぶりも見つつ、もうワクワクのしどうし。
ずっと続いて欲しかった瞬間は、あっけないほどに結末を迎えてしまうのも、この作品のよさ。
輝かしいなかに、いさぎよいエンディングをむかえ、ワタクシ、「ブラボー」一発献上いたしました。

いやはや、ほんとに素敵な演奏のコルンゴルトでした。
この作品は、手練れのオーケストラでなく、若い感性にあふれたメンバーのオーケストラで、コルンゴルトの音楽を感じながら演奏するのがいい。
それを聴くのはオジサンのワタクシですが、自分のなかの、コルンゴルトやこの曲にまつわる思い出を、若者はさりげねく引き出してくれるような気がしますのでね。

アンコールは、ビオラ奏者たちの下に最初からあって気になっていた黒い布に包まれたものの正体が・・・
指揮者がテンガロンハットをかぶって登場し、ビオラメンバーがそろって取り出してかぶった!
そう「インディ・ジョーンズ」ときました!

元気よく、爽快にミューザのホールをあとにしました!

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クリスマス、イルミ好きの私は、ミューザの隣のビルのツリーも逃しません。

やたら混んでた東海道線で帰宅し、川崎駅周辺で買い求めた食材で乾杯🍺

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PSTの次のコンサートは、来年の2月。
秋山和慶さんの指揮で、モーツァルトの39番に「英雄の生涯」

またよき音楽を聴かせてください!

シンフォニエッタ 過去記事

 「アルベルト指揮 北西ドイツフィル」

 「バーメルト指揮 BBCフィル」

 「ゲッツェル指揮 神奈川フィル」

 「アルブレヒト指揮 ベルリン放送響」

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2023年4月 7日 (金)

シュレーカー 「はるかな響き」夜曲 エッシェンバッハ指揮

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桜満開の小田原城のライトアップ🌸

城内外、お堀の周りも桜満開。

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月も輝き、ロマンテックな夜でした。

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  シュレーカー 「はるかな響き」夜曲

         「ゆるやかなワルツ」

          室内交響曲

          2つの抒情歌

           S:チェン・レイス

         5つの歌

           Br:マティアス・ゲルネ

         「小組曲」

         「ロマンテックな組曲」

    クリストフ・エッシェンバッハ指揮

     ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

       (2021.3,5 2022.5,6 @コンツェルトハウス、ベルリン)

忽然とあらわれたシュレーカーの音楽の新譜。
しかも指揮が、ばっちりお似合いのエッシェンバッハ。
その濃密な音楽造りと、没頭的な指揮ぶりから、マーラー以降の音楽、さらにはナチスの陥れにあった退廃系とレッテルされた音楽たちには、きっと間違いなく相性を発揮すると思っていたエッシェンバッハ。
いまのベルリンの手兵と、しかもDGへの万全なるスタジオ録音。
シュレーカーファンとしては、そく購入とポチリました。
おりからの急速で訪れた春と咲き誇る桜や花々に圧倒されつつ、連日このシュレーカーの音盤を聴いた。

フランツ・シュレーカー(1878~1934)

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・

ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。

強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。
どこか遠くで鳴ってる音楽。

過去記事を引用しながら、各曲にコメント。

①「はるかな響き」の夜曲は、オペラ2作目で、いよいよ世紀末風ムードの作風に突入していく契機の作品。
3幕の2場への長大な間奏曲。
はるかな響きが聴こえる芸術家とその幼馴染の女性、それぞれの過ちと勘違い、転落の人生。
毎度痛い経歴を持つ登場人物たちの物語が多いのもシュレーカーの特徴。

夜にひとり悲しむヒロインの場面で、これまた超濃厚かつ、月と闇と夜露を感じさせるロマンティックな音楽であります。
鳥のさえずる中庭の死を待つ芸術家の部屋への場面転換の音楽で、ヒロインと最後の邂逅の場面。
トリスタンの物語にも通じるシーンであります。
エッシェンバッハらしい、濃密な演奏は、かつてのシナイスキーとBBCフィルのシャンドス盤があっさりすぎて聴こえる。
オペラ「はるかな響き」過去記事


②「ゆるやかなワルツ」
ウィーン風の瀟洒な感じの小粋なワルツ。
小管弦楽のために、と付されていて、パントマイム(バレエ)「王女の誕生日」との関連性もある桂作です。
クリムト主催の芸術祭でモダン・バレエの祖グレーテ・ヴィーゼンタールから委嘱を受けて作曲された「王女の誕生日」。
原曲も美しい組曲ですが、この繊細なワルツも美しく、演奏もステキなものでした。
(「王女の誕生日」過去記事)

③「
室内交響曲」
「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、わたくしの大好きなシュレーカー臭満載の濃密かつ明滅するような煌めきの音楽。
文字通り室内オーケストラサイズの編成でありながら、打楽器各種はふんだんに、そしてお得意のピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが通常ミニサイズオケに加わっている。
 連続する4つの楽章は、いろんなフレーズが、まるでパッチワークのように散り交ぜられ、それらが混沌としつつも、大きな流れでひとつに繋がっている。
オペラ「はるかな響き」と「音楽箱と王女」に出てきたような、これまでのオペラの旋律が何度か顔を出す。
エッシェンバッハの作り出す煌めきのサウンドは、とりとめなさと、醒めた雰囲気と、輝かしさとが綯い交ぜとなったこの音楽の魅力を引き立てているし、オーケストラも緻密だ。

④⑤「ふたつの抒情歌」「5つの歌曲」
初聴き、もしかしたら初録音のオーケストラ伴奏の歌曲で、これはこのアルバムの白眉かもしれない。
まだ聴きこみ不足だが、くめども尽きない世紀末感に満ちた濃密な歌曲集。
この時代、数多くの作曲家がホイットマンの詩に感化され歌を付けたが、「ふたつの抒情歌」はホイットマンの「草の葉」につけた歌曲で、1912年の作曲。
「5つの歌曲」は1909~22年の作で、アラビアンナイトに基づく原詩への歌曲。
ともに初なので、まだ詩と音楽、つかみ切れてませんが、ともかく美しくて深くて、味わいが深い。
これが歌手の力も強くて、チェン・レイスのヴィブラートのない美しいストレートボイスがえも言われぬ耳の快感をもよおす。
レイスさんは、イスラエル出身で、いま大活躍の歌手だけど、ずいぶんと前、「ばらの騎士」のゾフィーを聴いてます。
はい、美人です。
 M・ゲルネの深いバスによる5つの歌曲も、濃厚で味わい深く神々しいまでの声で、作品が輝いてる。
夜ふけて、ウィスキーをくゆらせて音量を抑えて聴くに相応しい静かでロマンテックな歌曲だった。

詩の内容とあわせて、もう少し掘り下げたい歌曲集でした。

⑥「小組曲」
1928年のシュレーカー後半生の終盤の作品。
オペラでは、もう人気も低下し、未完も含めると最後から3作目「歌う悪魔」は今にいたるまで上演記録はほんの数回で、音源もなし。
ラジオ放送局から、国営ラジオ放送用の新しい音楽を作曲するよう依頼された。
室内オーケストラのためのシュレーカーの小組曲は、放送マイクの限界を念頭に置いて作曲され、電波上でおいて初演された作品で。
これまではあまり例のないの音楽演奏と初演の試み。
しかしこの後、シュレカーのキャリアが下り坂になるとは本人も思うこともあたわず。
失敗したオペラ、出版社との契約のキャンセルや国家社会主義者からの政治的圧力、そしてベルリン音楽大学の作曲教師の辞任やほかの役職の辞任により、このあと数年で彼の人生は終了。
 こんな苦境の時期の作品は、表現主義的で、とっきも悪く、室内オケへの作品ながら、数多くの打楽器、ハープ、チェレスタなどの登用で多彩な響きにあふれてます。
そんな雰囲気にあふれた「小組曲」、シュレーカーがこの先、どんな作風に進んでいくかの指標になるような作品。
でも、後続の少しの作品だけでは、シュレーカーの「この先」は予見することができない。
いまでは死が早かったシュレーカー、その後を期待したかった。

⑦「ロマンテックな組曲
4編からなる1902年の作品。
オペラで言うと初作の歌劇「炎~Flammmen」の前にあたる初期作品。
歌劇「炎」は、室内オケを使いシュトラウスの大幅な影響下にあることを感じさせるものだったが、この組曲は、どちらかというと、のちの「遥かな響き」の先取りを予感させるし、シェーンベルクやウェーベルンの表現主義的なロマンティシズムを感じさせる桂品。

 Ⅰ.「牧歌」
 Ⅱ.「スケルツォ」
 Ⅲ.「インテルメッツォ」
 Ⅳ.「舞曲」

27分ぐらいの「ロマンティックな小交響曲」ともいえる存在。
ウェーベルンの「夏風・・」風な「牧歌」に濃厚でシリアスな雰囲気のシャープな味付けでどうぞ。
スケルツォは、大先輩シューベルトを思わせる爽快さもありつつほの暗い。
インテルメッツォは、以外にも北欧音楽のようなメルヘンと自然の調和のような優しい雰囲気。
最後の舞曲は、快活で前への推進力ある、シンフォニエッタの終楽章的存在に等しい。

こうした作品には軽いタッチで小回りよく聴かせることのできる器用なエッシェンバッハ。
2枚組のこの大作CDのラストを飾り、爽やかさををもたらせてくれました。

ベルリン・コンツェルトハウス管は1952年創設の旧東ベルリンにあった、あのザンデルリンクのベルリン交響楽団です。
4年前からエッシェンバッハが首席で、次の首席はヨアナ・マルヴィッツが決定している。
ちなみに今のベルリン交響楽団は、旧西ベルリンにあったオケがその名前のまま存続している団体。
両オケとも、5~6月に来日するようで、ともに見栄えのしないプログラムでございます。

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 独墺のこの時代の作曲家の生没年

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

 以下、ヴェレス、ハース、クラーサ、アオスラー、ウルマン等々

私が音楽を聴き始めた頃には、こんな作曲家たちの作品が聴けるようになるなんて思いもしなかったし、その存在すら知るすべもなかった。

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音楽を聴く方法、ツールの変遷とともに、世界のあらゆる情報が瞬時に確認できるようになりメディア自体が変化せざるを得なくなった。

高校時代をこの城下町に通って過ごし、駅前にあった大きな本屋さんで毎月レコード芸術を購入して、食い入るように読んでいた。
どんなレコードがいつ発売されるか、それがどんな演奏なのか、海外の演奏会、新録音のニュース、ともにレコード芸術が頼りだった。

そのレコード芸術が今年7月で休刊となるそうだ。
時代の流れを痛感するとともに、感謝してもしきれない思いを感じます。

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2023年2月11日 (土)

コルンゴルト 「ヘリアーネの奇蹟」

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夕焼け、日の入りが好きな自分ですから、毎日夕方になると外を眺めてます。

夕日モードで撮影すると三日月にカクテルのような夕焼を写すことができます。

すぐに暗くなってしまう瞬間のこんな刹那的な空が好き。

5つあるコルンゴルトのオペラ、4作はすべて取り上げましたが、ついにこの作品を。

10年以上、聴き暖めてきたオペラです、長文失礼します。

        コルンゴルト 歌劇「ヘリアーネの奇蹟」

「喜ぶことを禁じた国の支配者。そこへ、喜びや愛を説く異邦人がやってくるが、捕まってしまい、死刑判決を受ける。
さらに王妃のヘリアーネとの不義を疑われ自ら死を選ぶ。

その異邦人を自らの純血の証として、甦えさせろと無理難題の暴君。
愛していたことを告白し、異邦人の亡きがらに立ちあがることを念じるが、反応せず、怒れる民衆は彼女を襲おうとする・・・・
そのとき、奇蹟が起こり、異邦人が立ちあがり、暴君を追放し、民衆に喜びや希望を与え、愛する二人は昇天する。。。。」


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   ヘリアーネ:サラ・ヤクビアク
   異邦人:ブライアン・ジャッジ
   支配者:ヨーゼフ・ヴァーグナー
   支配者の女使者:オッカ・フォン・デア・ダメラウ
   牢番:デレク・ウェルトン
   盲目の断罪官:ブルクハルト・ウルリヒ
   若い男:ギデオン・ポッペ

  マルク・アルブレヒト指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団

               ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団

    演出:クリストフ・ロイ

       (2018.3.30~4.1 @ベルリン・ドイツ・オペラ)

コルンゴルトの音楽を愛するものとしては、5つあるそのオペラをとりわけ愛し大切にしております。

しかしながら、そのなかでも一番の大作「ヘリアーネの奇蹟」は長いうえに、国内盤も買い逃したので、その作品理解に時間を要してました。
もう10年も若ければ、国内盤のない「カトリーン」のときのように辞書を引きつつ作品解明に努めたものですが、寄る年波と仕事の難儀、なによりもCDブックレットの細かい文字を読むのがもうしんどくて、なかなかにこのオペラに立ち向かうことができなかったのでした。
若い方には、視力と気力のあふれるうちに、未知作品を読み解いておくことをお勧めします。

そこで彗星のように現れた日本語字幕付きのベルリン・ドイツ・オペラの上演映像。
音楽はすっかりお馴染みになってましたので、舞台の様子を観ながら、ついに全体像が把握とあいないりました。
痺れるほどに美しく、官能的でもある2幕と3幕の間の間奏曲がとんでもなく好き。

1927年、コルンゴルト、30歳のときのオペラ

  ①「ポリクラテスの指環」(17歳) 

  ②「ヴィオランタ」(18歳)

  ③「死の都」(23歳)

  ④「ヘリアーネの奇蹟」(30歳)

  ⑤「カトリーン」(40歳)


「市の都」の大ヒットで、ウィーンとドイツの各劇場でひっぱりだこの存在となってしまった若きコルンゴルト。
息子を溺愛し、天才として売り出しバックアップしてきた音楽評論家の父ユリウス・コルンゴルトが良きにつけ悪しきにつけ、「ヘリアーネの奇蹟」を成功した前作のように華々しい決定打とならなかった点に大きなマイナス要素となった。
舌鋒するどい父の論評は、その厳しさを恐れる楽壇が、息子エーリヒ・ウォルフガンクの作品を取り上げるようになり、マーラー後の時代を担う存在として、大いに喧伝した。
そんな後ろ盾がなくともコルンゴルトの音楽は時代を超えて、いま完全に受入れられたことで、父の饒舌なバックアップがなくとも、いずれ来る存在であったことがその証でしょう。
不遇の不幸は、足を引っ張ったやりすぎの父の存在以上にナチスの台頭であり、ナチスとその勢力が嫌った革新的な新しい音楽ムーブメントと少しあとのユダヤ人出自という存在であった問題。
 当初はユダヤ排斥よりは、社会的に熱狂的なブームとなったジャズや、クラシック界における十二音や即物主義や、その先の新古典的な音楽という伝統を乗り越えた音楽への嫌悪がナチスのそのターゲットとなった。
コルンゴルトより前に、ユダヤであることの前に、そうした作風の音楽家は批判を浴びたし、作曲家たちはドイツを逃れた。
 こんな情勢下で作曲された「ヘレアーネ」。

原作はカール・カルトネカーという文学者の「聖人」という作品で、彼はコルンゴルトの若き日のオペラ「ヴィオランタ」を観劇して、大いに感銘を受けていて、その思いが熱いうちに「聖人」を書いたという。
カルトネカーは早逝してしまうが、コルンゴルトはこの作品を読んで、すぐにオペラ化を思い立ち、友人のハンス・ミュラーに台本作成を依頼して、生まれたのがこの「ヘリアーネの奇蹟」。

人気絶頂期での新作ヘリアーネの初演は、まずハンブルグで行われ成功。
次いで本丸ウィーン国立歌劇場での初演を数日後に控え、当のウィーンでは、人気のジャズの要素と世紀末的な雰囲気をとりまぜたクシェネクの「ジョニーは演奏する」の上演も先鋭的なグループを中心に企てられており、それにナチス勢力が反対する流れで、コルンゴルト対クシェネクみたいな対立要素が生まれていた。
そんななかで、シャルクの指揮、ロッテ・レーマンの主役で初演されるものの、Wキャストの歌手と指揮者との造反などの音楽面とは違う事情から続演が失敗に終わり、ウィーンでの上演では芳しい評価は得られなかった。
ドイツ各地でのその後の上演も、音楽への評価というより、クシェネクのジョニーの高まる評価に逆切れした父の評論活動が引き続きマイナスとなり、そんなことから、作品の長大さや筋立ての複雑さ、歌手にとっての難解さなどから「ヘリアーネの奇蹟」はここでどちらかというと、失敗作との判断を受けることとなってしまった。

愛する女性との結婚にまでもあれこれ口をはさみ、嫌がらせをした保守的な親父ユリウスの功罪は大きく、この傑作オペラがナチスの退廃烙印以外でも評価が遅れた原因となっていることのいまに至るまでの要因。
でもコルンゴルトが、当時の音楽シーンの移り変わりや最新の動向に鈍感でなかったわけでなく、このヘリアーネでも随所に斬新な手法が目立ちます。
それでもいま、コルンゴルトの音楽がマーラー後の後期ロマン派的な立ち位置にとどまったのは親父殿の存在があってのものと思わざるをえないのであります。


長大かつ、筋立てが複雑な歴史絵巻。
CDでもたっぷり3枚は、聴き応えもある。
大胆な和声と不安を誘う不況和音も随所に聴かれるし、甘いばかりでない表現主義的ともいえるリアルな音楽展開は、ドラマの流れとともにかなり生々しいです。
音楽は、ピアノ、オルガン、複数の鍵盤楽器・打楽器の多用で、より近未来風な響きを醸すようになりつつ、一方でとろけるような美しい旋律があふれだしている。
民衆たる合唱も、移ろいゆく世論に左右されるように、ときに感動的な共感を示すとともに、狂えるようなシャウトも聴かせる。
オケも合唱も、「死の都」とは段違いの成熟ぶりと実験的なチャレンジ意欲にあふれていて大胆きわまりないのだ。

歌手たちの扱いは、従来のオペラの路線を踏襲している。
清廉なソプラノの主人公に、甘いテノール、悪漢風のバリトンという構図は、コルンゴルトの常套で、ここでは意地悪メゾが加わった。

聖なる存在と救済のテノールとして、ローエングリンとパルジファルを思い起こすし、エルザやエリーザベトの存在のようなワーグナー作品との類似性を思い起こすことが可能だ。
同様に邪悪な存在としてのバリトンとメゾも、ローエングリンのそれと同じくする。
そんな風に紐解けば、筋立ての難解さも解けるものかと思う。

とある時代のとある国

第1幕

「愛するものに祝福あり。悪しきなきものは死を逃れる。愛に命を捧げるものは再び蘇る」

大胆な和音で開始したオペラは、こうした合唱で幕開けする。
まさにこのオペラのモットー。
 異国からやってきた男がとらわれ、牢番に連れられてくるが、牢番は彼に同情的で縄を解いてやり、なんで愛や喜びの話をしたんだい?と問いかける。
平和な日々の日常の大切さを説く異邦人、この国に愛はないのだよ、と実態を語る牢番。
そして、この国の支配者が荒々しくやってきて、この俺の国になんていうことをしてくれたんだと怒りまくる。
異邦人は支配者に対し自分の役割を話すが、支配者は逆切れして、愛に捨てられた俺に残されたのは権力だけだと、死刑宣告をする。
死への恐怖に絶望的になった異邦人のもとへ、支配者の妻ヘレアーネが慰めのためにお酒を持って偲んでくる。

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彼女は異邦人の最後の求めに応じ、美しい髪と美しい足を与え、異邦人はそれを愛おしく抱きしめる。
最後に彼女は、異邦人に自身の裸をさらして、彼の心を慰めようとし、いたく感激した異邦人は彼女を抱きしめ、ふたりは愛情を確かめあう。
最後の一線は越えず、ヘリアーネはこの場を外し彼のために祈りに外へ出る。今度は支配者がやってくる。
彼は、愛する妻がまったく心を開かない、俺の代わりに彼女の気持ちを自分に向けさせてくれ、俺が彼女を抱くところを見守って欲しい、そうしたら命は助けてやると強要するが、異邦人は頑として応じない。
そこへ折り悪く、ヘリアーネが裸のままにここへ戻ってきてしまう。
激怒する支配者、異邦人への死刑の確定と妻を不貞で逮捕することを命じる。

第2幕

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怒りの支配者、女使者に妻への不満をぶちまけるが、女使者は、なに言ってんだいあんた、あたしを捨てといてふざけんじゃないよと毒づく。
支配者は彼女にそんなこと言わねーで助けてくれよと助けを求めたりする。
盲目の断罪官と裁判官たちが到着し、ヘレアーネも引っ立てられてくる。
不貞を責められるヘリアーネ、裸を見せたことは真実だが、気持ちだけは捧げ、神に祈りました。
彼の苦悩を感じ、それを共有することで、彼の者になったの、私を殺して欲しいと切々と歌い上げる。
断罪官たちは、判決は神に委ねるべしとする。
理解の及ばない夫は妻に、判決はいらない、これで自決するがよいと短剣を手渡す。
そこへ異邦人が連れてこられ、証言を求められるがそれを拒絶し、最後にヘリアーネと二人にして欲しいと懇願し認められる。

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あなたを救いにきた、自分がいなくなれば支配者は許すでしょうと自分を殺して欲しいと懇願する異邦人。
神に与えられた使命のために逃げて生き抜いて欲しいとするヘリアーネ、最後に口づけを求める異邦人は、ヘレアーネの短剣に飛びこむようにして自決。

騒然となるなか支配者は、なかばヘレアーネを貶めるため、人々に向かい王妃はその純血ゆえに奇蹟を起こすだろう、彼女は奴を死から蘇えらせるだろうと言う。
人々や断罪者は、神への冒涜、天への挑戦だと言う一方、彼女の無実を認め、神を讃えようと意見は二分。
最後に、ヘレアーネは決意し、私のために死んだこの人を蘇えさせると誓う。

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第3幕

人々の意見は二分し分断された。
死はなくなり墓があばかれる。神のみ使いとして死の淵から彼を呼びだす。
いや、死の鍵を握るのは神だけなのだ、けしからん・・・・
 そこへ若い男が語る。
王妃は優しいお方だ、自分の子供が病で苦しんでいるときに救ってくれた、癒しの女王なんだと説き、人々も心動かされ、慈悲深いお方、愛する者には愛をと歌う。
しかし、支配者の女使者は、魔女の仕業に違いないと一蹴する。

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いよいよ神の試練を受けるヘリアーネ。
夫である支配者は、やめるんだ、蘇りができないとお前には死が待ってると説得する。
ついに「神の名のもとに、蘇りなさい」ヘレアーネは異邦人に命ずる。
しかし、彼女は、「できない、私は愛した、ふたりで破滅の道を選んだの、私は聖女なんかじゃない」と告白。
人々のなかでは、だまれ娼婦め、殺せ、嘘つきめ、と動揺と怒りが蔓延しはじめる。
さらにヘリアーネは、夫に向かい、いつも血の匂いがした、闇のなかではもう生きられない、そこからの救いを彼に求めた、幸せはみんなのものよ!と指摘し、ついに支配者も勝手にしろと匙をなげる。
人々はもう大半が離反し、「火刑台へ」と叫ぶ。
そのとき、横たわっていた異邦人がゆっくりと起き上がる!
人々の驚愕。
合唱は、「愛に命を捧げる者は再び蘇る」と歌い神々しい雰囲気につつまれる。
蘇った異邦人はヘレアーネに第7の門に天使が立っているが、その前に試練が待ち受けていると諭す。

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とち狂った支配者はヘレアーネをナイフで刺してしまい、人々も選ばれた女性を殺すとはけしからんと怒り、そして異邦人は出て行け人殺しめと、この場から追い出してしまう。
最後の試練を受けたヘレアーネを抱き起す異邦人、息を吹き返す彼女とともに甘味で長大な二重唱を歌う。
天に向かって昇りゆくふたり、神秘的な雰囲気のなか、「どんなに貧しくとも、失ってはいけないものがある、それは希望」と高らかなオルガンも鳴り響いてオペラは幕を閉じる。

         幕

やや荒唐無稽の感もある筋立てではあるが、神の力と愛の力を描いた清らかな秘蹟ドラマともいえる。
死の都から7年を経て、ひたすら美しく万華鏡的・耽美的音楽にあふれていた前作からすると、よりその趣きを進化させ、前述のとおり、革新的な技法も鮮やかに決まっている。
異邦人が蘇るときのときの、オーケストラの盛り上がりの眩くばかりの効果は、まるでJ・ウィリアムズの音楽と見まがうくらいで、未知との遭遇クラスの驚きの音楽だ。

謎の全裸だけど、これは生まれたままのピュアで清廉な姿ということで、自分を救ってくれるかもしれない人への信頼と愛情の表現とみたい。
見ようによっては色物とされかねない要素なので、ここにはスピリチュアルななにかだと認めたい。

初演時の舞台の様子などを写真で見ると古色蒼然とした王宮のメロドラマ風な感じに見える。
ところが、クリストフ・ロイの舞台はまるきり現代社会のもので、衣装も全員がスーツ姿。
装置も全3幕、大きな会議室のようなホール内で外からの明かりもなく、閉ざされた空間。
このなかでのみ行われる人間ドラマは、まるでサスペンス映画を観ているような人物の心理的な描き方である。
ゆえにこそ、コルンゴルトの素晴らしい音楽に集中でき、逆にその音楽がすべてドラマを語っていることがわかるという具合だ。
壁には時計があるが、その時刻は2時5分で最初から最後まで止まったまま。
まさに愛のないこの世界は、時間軸もないという証か。
最後のふたりの昇天はリアルに描かれず、部屋のドアが開き、外から眩しい光が差し、そこへ向かって二人は歩みを進め出て行く。
人々はすべてその場に倒れているが、ただひとり、ヘリアーネを称賛し信じた若い男のみが生き残りひとり見守る。
こんな風にわかりやすい演出でもありました。

ヘレアーネや「死の都」のマリエッタを持ち役とするヤクビアクは、文字通り一糸まとわぬ体当たり的な演技を見せる。
美しいには違いないが、なにもそこまで的な思いはあるも、その一途な歌唱は素晴らしいものがある一方で、やや言葉が不明瞭でムーディに傾くきらいもあるが、この作品の初DVDには彼女なくしてはならないものになったと思う。
音だけでも最近は何度も聴いていて、聴き慣れると悪くないなと思い始めました。

ふたりの男声もとてもよろしく、ほかのCDの同役に引けを取らない素晴らしさで、とくにヴァーグナーの苦悩に富んだ支配者役は実によろしい。
あとダメラウの憎々しい役柄もよくって、声の張り、言葉の乗せ具合もこうした役柄にはぴったり。

このDVDの最高の立役者は、M・アルブレヒトの共感に富んだ指揮ぶりだろう。
ときおり映るピットの中の指揮姿を見るだけでわかる、この作品へののめり込みぶりで、ピットから熱い歌と煌めきのコルンゴルトサウンドが舞い上がるような感じで、数年前、都響に来演したとき聴いたコルンゴルトの交響曲の熱演を思い起こすことができた。
アルブレヒトはシュトラウス、マーラー、ツェムリンスキーなどを得意としていて、先ごろオランダオペラで上演されたフンパーディンクの「王様の子供」なんかもとてもよかった。
これからの指揮者は、マーラー以降の音楽をいかにうまく聴かせるかということもキーになるだろう。

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   ヘリアーネ:アンナ・トモワ-シントウ
   異邦人:ジョン・デイヴィッド・デ・ハーン
   支配者:ハルトムート・ウェルカー
   支配者の女使者:ラインヒルト・ルンケル
   牢番:ルネ・パペ
   盲目の断罪官:ニコライ・ゲッダ
   若い男:マルティン・ペッツルト

  ジョン・モウチェリ指揮 ベルリン放送交響楽団

              ベルリン放送合唱団

       (1992.2.20~29 @イエス・キリスト教会) 

デッカの「退廃音楽シリーズ」は90年代初めの画期的な録音の一環だった。
そんななかのひとつが、この時代を不運のうちに生きた作曲家たちのオペラで、なかでもコルンゴルトのヘリアーネは、「死の都」がラインスドルフ盤で注目を浴びたあと、「ヴィオランタ」がCBSで録音され、次にきたのがこの録音。
コルンゴルトの作品受容史のなかで、今後もきっと歴史的な存在を占める録音になるでしょう。

外盤CDで購入以来、何度も何度も聴きまして音楽のすべてが耳にはいりました。

聴いてきて思うのは、モウチェリの指揮がシネマチックにすぎるけど、よくオケを歌わせ、シュトラウスばりのオケの分厚さの中に光る歌謡性をうまく表出しているし、いまのベルリン・ドイツオーケストラの機能性豊かな高性能ぶりが見事。
なんたって、録音が素晴らしい。

トモワ=シントウは歌手陣のなかではピカイチの存在。
声の磨きぬかれた美しさ、たくみな表現力、人工的な歌になりかねないこの役柄を、豊かな人間味ある歌で救っている。
ずっと聴いてきたけれど、やや声を揺らしすぎかな、とも思うようになりました。
ウェルカーの支配者役はまさに適役で文句なし。
カンサス出身のアメリカのテノール、デ・ハーン氏はリリックにすぎ、やや頼りなさも。
ピキーンと一筋あって欲しい声でもあります。
モウチェリ盤の不満はここにあります。

でも、パイオニアのようなこの果敢な録音。
これからもありがたく聴きたいと思います。

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   ヘリアーネ:アンネマリー・クレーマー
   異邦人:イアン・ストレイ
        支配者:アリス・アルギリス

   支配者の女使者:カテリーナ・ヘーベルコーヴァ
   牢番:フランク・ヴァン・ホーヴェ
   盲目の断罪官:ヌットハポーン・タンマティ
   若い男:ジェルジ・ハンツァール

 ファブリス・ボロン指揮 フライブルク・フィルハーモニー管弦楽団
             フライブルク歌劇場合唱団 
                                 フライブルク・バッハ合唱団のメンバー


      (2017.7.20~26 @ロルフ・ベーム・ザール、フライブルク) 

デッカの録音から24年、頼りになるナクソスから登場した録音は、舞台に合わせてスタジオでのレコーディング。
ドイツの地方オペラハウスの実力を感じさせる演奏となりました。

3人のメイン歌手がとてもいい。
きりりとしたヘリアーネ役のオランダの歌手クレーマーさん、とてもいいと思いました。
映像になっているトリノでの「ヴィオランタ」でも歌っていて、真っ直ぐな声はコルンゴルトにぴったり。
異国の異邦人役のストーレイも思いのほかよくて、没頭感はないものの、気品ある声は聖なる人の高潔な一面を歌いだしている一方、生硬さもある声は、この役柄の頑迷さも歌いこんでいて妙に納得。
アルギリスの支配者さんも嫌なヤツと認識させてくれる存在だ。

フライブルクのオペラのオーケストラは初聴きだ。
ドイツの地方オケはオペラのオーケストラも兼務することが多いが、なかなかに巧い。
しかし、緻密さや、音の切れ味、重層的な音色では、明らかにベルリンのふたつのオケには敵わない。
でも、ボロンさんの指揮ともども、オペラティックな舞台の雰囲気はとてもゆたかでありました。

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この数週間、ヘリアーネの悲劇を何度も、何度も聴きました。
寝ながら夢のなかででも鳴り響き、聴いてました。

ベルリン・ドイツ・オペラでは3月に、ヤクビアクとアルブレヒト、ヒロインと指揮者を変えずに再び上演されるようです。

お金と時間さえあれば飛んで行って観劇したいです。

でも許されぬいま、夕映えの美しさを眺めつつ、これら3つの音源や映像を楽しむことにします。

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2023年1月28日 (土)

シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」 アバド指揮

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このところの寒波で、丹沢の山々も今朝は白く染まりました。

1年前は、窓の外はビルばっかりだったのに、いまは遠くに丹沢連峰を見渡せる場所にいます。

子供の頃は、左手に富士の頂きが見えたのですが、木々が茂ったのか、まったく見えなくなってしまった。

でも、家を出て数秒上の方に行くと富士はよく見えます。

こんな気持ちのいい景色とまったく関係ない曲を。

それというのも、1月27日は「ホロコーストを想起する国際デー」だった。

wikiによると、「憎悪、偏見、人種差別の危険性を警告することを目的とした国際デーである。1月27日が指定されている。国際ホロコースト記念日とも呼ばれる。」とあります。

ホロコーストというと、ナチスの戦時における行為がそのまま代名詞になっているし、人類史上あってはならない非道なことだったけれど、ソ連もウクライナで同じことをやっているし、いまも戦渦にある場所は世界にいくつかある。
しかし、形骸化した国連組織は、いま現在起きている事実上のホロコーストを止めることはできないし、非難決議すらできない。
国連の常任理事国が、侵略している国だし、民族弾圧をしている国の2か国であることはもう笑い話みたいなことだ。

音楽blogだからこれ以上は書かないが、世界と社会の分断を意図的に図っている組織や連中があり、その背後にはあの国、K産主義者があると思う。
自由と民主の国にK産主義はいらん。

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  シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」

    語り:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
               ベルリン放送合唱団

                        (2001.9.9 @ベルリン)

この音源は、私の私的なもので、FMから録音したカセットテープからCDR化したものです。
正規にないもので申しわけありませんが、今日、この日に聴きなおして衝撃的だったので記事にしました。

この日のベルリンフィルとの演目は、オールシェーンベルクで、「ワルシャワ」に始まり、ピーター・ゼルキンとのピアノ協奏曲、「ペレアスとメリザンド」の3曲でして、CDRにきっちり収まる時間。
自分としては、極めて大切な音源となりました。

アバドは、「ワルシャワの生き残り」を2度録音してまして、ECユースオケとマクシミリアン・シェルの語りの79年ライブ、ウィーンフィルとゴットフリート・ホルニックの語りの89年録音盤。
若い頃にも各地で取り上げていたはずで、アバドの問題意識の一面とその意識を感じます。

1992年に歌手を引退したフィッシャー=ディースカウ。
その後は朗読家としての活動を行ったFD。
そんな一環としてのアバドとの共演だった。
アバドがFDの現役時代に、共演があったかどうかわかりませんが、ヘルマン・プライとは友人としてもよく共演していたので、個性の異なるFDとはあまり合わなかったのかもしれません。

ここで聴く、一期一会のような緊迫感あふれる迫真の演奏。
いかにもディースカウと言いたいくらいに、言葉に載せる心情の切迫感と、とんでもない緊張感。
ベルリンフィルの切れ味あふれる高度な演奏能力を目いっぱいに引き出すアバドのドラマテックな指揮ぶり。
わずか7分ほどの演奏時間に固唾をのんで聴き入るワタクシであった。

以下は、過去記事をコピペ。

1947年アメリカ亡命時のシェーンベルクの作品。
第二次大戦後、ナチスの行った蛮事が明らかになるにつれ、ユダヤ系の多かったリベラルなアメリカでは怒りと悲しみが大きく、ユダヤの出自のシェーンベルクゆえ、さらに姪がナチスに殺されたこともあり、強い憤りでもってこの作品を書くこととあいりました。
クーセヴィッキー音楽財団による委嘱作。
73歳のシェーンベルクは、その前年、心臓発作を起こし命はとりとめたものの、その生涯も病弱であと数年であったが、この音楽に聴く「怒りのエネルギー」は相当な力を持って、聴くわたしたちに迫ってくるものがある。
  12音技法による音楽でありますが、もうこの域に達すると、初期の技法による作品にみられるぎこちなさよりは、考え抜かれた洗練さを感じさせ、頭でっかちの音楽にならずに、音が完全にドラマを表出していて寒気さえ覚えます。

ワルシャワの収容所から地下水道に逃げ込んだ男の回想に基づくドラマで、ほぼ語り、しかし時には歌うような、これもまたシュプレヒシュティンメのひとつ。
英語による明確かつ客観的な語りだが、徐々にリアルを増してきて、ナチス軍人の言葉はドイツ語によって引用される。
これもまたリアル恐怖を呼び起こす効果に満ちている。


叱咤されガス室への行進を余儀なくするその時、オケの切迫感が極度に高まり、いままで無言であった人々、すなわち合唱がヘブライ語で突然歌い出す。
聖歌「イスラエルよ聞け」。
最後の数分のこの出来事は、最初聴いたときには背筋が寒くなるほどに衝撃的だった。
この劇的な効果は、効果をねらうものでなく、あくまでもリアル第一で、ユダヤの長い歴史と苦難を表したものでありましょう。
抗いがたい運命に従わざるを得ないが、古代より続く民族の苦難、それに耐え抜く強さと後世の世代に希望を問いかける叫びを感じるのであります。


フィッシャー=ディースカウとアバド、マーラーやシューマンで共演して欲しかったものです。

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寒さは続く。

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2021年9月 2日 (木)

ベルク 「ルル」 二期会公演

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二期会公演、ベルク作曲の歌劇「ルル」を観劇。

昨年、東京文化会館で上演の予定が1年延期して、今度は別株が登場するなか、果敢なる上演。

きめ細かな対策を取り、舞台も絶妙なディスタンスを保った演出で、見事な上演で、その成功を大いに讃えたいと思います。

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文化会館から場所を移して、新宿文化センターで、この昭和感あふれるレンガの建物には、なんと2006年以来15年ぶりとなります。

そのときは、演奏会形式のR・シュトラウスの「ダナエの愛」で、若杉弘さんの指揮による日本初演でした。

約1,600席(ピット使用時)の比較的コンパクトなホールで、客席の傾斜は緩めなので、前の方が大きかったりするとステージに被ってしまい、一部見ずらいこともある。
残念なことに、斜め前にいた座高の高い方が、幕間で空いていたわたくしの前に移動してきてしまい、2幕ではちょっと往生しました・・・・

そんなことはともかく、演出には、ちょっとひとコトありますが、まずもって素晴らしい上演でありました。

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「ルル」は、未完のオペラ。
ヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を原作にベルクが3幕7場台本を書き作曲を進めたが、完成されたのは2幕までで、3幕はショートスコアのみで、オーケストレーション中途となり、ベルクの死により未完となった。
 別途、3つの幕からチョイスした5つの楽章からなる「ルル」交響曲があり、3幕で使用される予定だった変奏曲(ルルの逃亡)とアダージョ(ルルとゲシュヴィッツ伯爵夫人の死)のふたつを、完成された2幕のあとに続けることで初演され、それが2幕版ということになります。

ベルクの未亡人ヘレーネは、第3者による補筆を禁じていたが、実はその補筆計画は密かに進行していて、フリードリヒ・ツェルハによる3幕完成版が1979年に、シェロー&ブーレーズのコンビにより3幕版として上演されました。

12年前に「ルル」を初観劇しましたが、そのときは3幕版(びわ湖ホール)
今回の二期会公演は2幕版での上演でした。

日本での「ルル」上演史 
 ① 1970年 ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演 ホルライザー指揮
 ② 1999年 コンサート形式          若杉 弘 指揮
 ③ 2003年 日生劇場/二期会           沼尻 竜典 指揮
 ④ 2005年 新国立劇場            アントン・レック指揮
 ⑤ 2009年 びわ湖ホール            沼尻 竜典 指揮
 ⑥ 2021年 二期会              マキシム・パスカル指揮

         ベルク 歌劇「ルル」

  ルル:冨平 安希子    ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:川合 ひとみ
  衣装係、ギムナジウムの学生:杉山 由紀
  医事顧問:加賀 清孝   画家:大川 信之
  シェーン博士:小森 輝彦 アルヴァ:山本 耕平
  シゴルヒ:狩野 賢一   猛獣使い、力業師:小林 啓倫
  公爵、従僕:高柳 圭   劇場支配人:倉本 晋児
  ソロダンサー:中村 蓉

    演出:カロリーネ・グルーバー

  マキシム・パスカル指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

       (2021.8.29 @新宿文化センター)

二期会のサイトで、演出家グルーバーが、2幕版を採用した理由を語っておりました。
・ベルクが残した真正な部分だけで上演することに意義がある。
・ヴェーデキントの独語が古く、ドイツ人でも難解。
 特に3幕は歌手の負担が大きいため
・共同制作は、多くの歌手を手当てできるアンサンブル劇場でないと難しい
ドイツでは、いろんな意味で、音楽にも真正さを追求する動きがあり、世界的にみても2幕版で上演される機会が増えているとのこと。

3幕で、ベルクが完成できなかった場面で、2幕版で省略されるシーン。
1場:パリでの逃亡生活、賭博、株暴落とさらなる逃亡(登場人物多数)
2場:ロンドンでの娼婦生活、その日の最初の客(医事顧問が演じる)
  ルル、ゲシュヴィッツ令嬢、シゴルヒ、アルヴァらのうらぶれた生活
  客の黒人(画家が演じる)によるアルヴァ殺害

2幕版では、以上が略され、続いて3人目、切り裂きジャック(シェーン博士が演じる)の登場とルルの殺害、帰り際にさらにゲシュヴィッツ伯爵令嬢も殺して去り、彼女は虫の息で、ルルへの愛を歌い幕となる。
  
上記の3幕の省略部分は特に、株暴落シーンなど、雑多すぎるし、人物もたくさん出るので私はいつも困惑する場面なのです。
しかし、今回の2幕版は、音楽としては通例通り変奏曲とアダージョが演奏されたわけだが、舞台ではなにも起こらなかった、と言っていい。

舞台上に女性のマネキンを多く配置し、ルルと同じ姿のダンサーを常に登場させ、ルル本人と対比させている。
マネキンは極度に女性の身体を強調した作りで、さまざまな鬘や衣装をまとい、演出家グルーバーさんの意図は、登場男性やゲシュヴィッツ伯爵令嬢からみたルルを意図しているという。
確かに、ルルを男性たちが呼ぶ名前は、ミニョンだったり、エーファ、ネリーだったりして、要は男性が自分の思いをルルに勝手に押し付けているというわけである。
そして、ダンサーはルルの内面の現れをパフォーマンスしている。
舞台の進行に合わせて、ダンサー・ルルは壁沿いを苦痛に満ちて動いたり、遠くから傍観していたりと、愛やもしかしたら感情の薄いルルの心情を表そうと様々に表現していた。

そして、最後のシーンである。
2幕の終わりで、アルヴァと二重唱を歌ったあと、アルヴァの思い、エーファであり母マリアである、聖母マリアの姿になったルル。
アルヴァはデスクに倒れた(寝た)ままにして、ルルはマリアの姿をかなぐりすてて、スリップ姿となり、虚空を見つめるように舞台を左右にさまよう。
そこに、ルルの内面のダンサーが様々に踊りつつ、ルル本体に近づき、ついには絡み合い、一体化したように表現したと見てとれた。
ここで幕となった・・・・・。

そうなんです、切り裂きジャックは登場しないし、当然に殺害シーンもないし、さらにはゲシュヴィッツ伯爵令嬢も出てこないし、彼女も巻き添え死をくらうことなく、令嬢のルルへの愛の声は、その姿なく流されるのみ。
まだかまだかと待ってた、当然にあるべきシーンがなく、拍子抜けだったと正直言いたい。
だって、衝撃的なフォルティシモでも舞台ではなにも起こらず・・・・・です。

事前に見ていたグルーバーの考えからすると、こういうのはありだろうな、というのが後付け的な感想ではあります。
ファム・ファタールとしての「ルル」の見方は間違っている(それこそが古い)と語っておられます。
当時の家父長制の問題が生んだ女性の悲劇であり、消費される女性に対する反証、そのあたりは、オスティナートにおけるシネマ(上田大樹氏による映像作品)で、ルルの逮捕劇・脱獄などの暗示が、おびただしい数のマネキンの部位が降り注ぐなか表現された秀逸なものであった。
さらにグルーバーによると、ベルクがヴェーデキントの劇をおそらく見たとき、当時の識者が、「女性を好きなように利用できる制度のひどさ」を例えて評論したものに接したかもしれない。
100年前の当時で、そのようなことを、しかも男性がいうと言うことは、大きなことであったが、いまはそれが良い方向になったのか?
今現在、真の意味での男女の平等が達成されているのか?
そうした問題提示も意図していると語る演出者。

極度のフェミニズムには、少し距離を取りたい自分ですが、この演出意図を事前に確認して観劇に及びましたが、さしたる過激さはなく、ただ、ルルの殺害シーンを消してしまったことで、効果としては、どこかぼやけてしまったという思いが強い。
内面のルルと実存のルルの最後の一体化は、わからんではないが、例えば映像作品などで、いくつの演出で見ることができる、「死による浄化」的なものを描いてもよかったのでは。
いや、こんな風に思うことが、ルルを単なるファム・ファタールとしてしか捉えていない、古臭い自分だということになるのか・・・・

あと、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の献身的な愛も、最後に姿を少しでも現すことで、その自己犠牲ともとれる存在で、ルルの内面一体化に華を添えることができたのではないかな、素人考えですがね。
コレラに罹患しながらもルルを救ったゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、聖母マリアのブルーの衣装をまとっていたのも意味あることなのだろうか。

舞台全体の印象はシンプルで無駄を省いたスタイリッシュなもの。
ドア付きの稼働する箱、兼スクリーン機能をもった装置がいくつも並び、人物たちは、そのなかで自分の好みのマネキン(すなわち好みの自分のルル)と一緒に、ルルとシェーン博士との緊張のやりとりをのぞき込んだりする。
その箱が動いて、「LULU」の文字を映し出したり、それが「LUST」という言葉に変じたりしていた。
「LUST」、すなわち「欲望」である。

プロローグの猛獣使いのシーンや、場面展開のシーンでは、紗幕がたくみに使われ、観劇するわれわれの想像力を刺激したものだ。

長文となりましたが、1回ではとうてい理解が及ばないし、何度も観てみたい舞台と演出であることは確かだ。

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こうした演出で歌い演じた歌手のみなさんは、ともかくいずれも完璧で素晴らしかった。
12年前のびわ湖ルルで、ルルのカヴァーキャストだった冨平さん、舞台映えするお姿に負けず劣らずの素晴らしい高音を駆使して、同情さそう可愛い女性となってました。
3年前の素敵だったエンヒェン役以来の冨平さん、ただ素晴らしい高音域に対し、中音域の声にもうひとつ力が加わると万全かと思いました。
偉そうなこと書いてますが、コロラトゥーラとドラマティコ双方の難役でもある、このルル役、これだけ歌い演じることができるのは、並大抵のことではありません!

日本人ウォータンとして、最高のバスバリトンと思っている小森さんのシェーン博士も迫真の演技と、ドイツ語の明確できっちりした発声による完璧な歌唱に感銘を受けた。
願わくは、ジャック役でも見てみたかったが。
 このグルーバー2幕版では、おいしい役柄だったアルヴァ役の山本さん、ルル賛美での伸びのある歌かなテノール声は、プッチーニあたりを聴いてみたいと思わせるものでした。
 この演出では、やや影が薄い存在になってしまったゲシュヴィッツ伯爵令嬢の川合さん、3幕版でないとその存在の重さが出ませんが、もっと聴きたい声と、ちょっとセクシーなお衣装も素敵でした。
味のある狩野さんのシゴルヒ、粗暴ななかに力強い小林さんの力業師、リリカルな大川さんの画家、あと存在感があったのは可哀想な学生さん役の杉山さんで少年っぽさ、中性っぽさがよく出ていて可愛かったです。
ちょい役になってしまった医事顧問にベテラン加賀さん、ほかのみなさんも充実。
 演出家の強い意図をしっかり汲んで、しかも困難な環境のなか、練習を積んで見事な成果を結実されたと思います。
もうひとつのキャストと併せて、記録としても映像作品で残して欲しいと思います。

最期に最大級の賛辞を指揮者とオーケストラに。
休憩中、ピットの中をのぞきに行こうとしたら係員に静止されてしまったが(なんでやねん)、第1ヴァイオリンは8挺で、チェロやコントラバスの3~4ぐらいだった。
浅めのピットに、左側が弦、右側が木管・金管、さらに舞台袖に打楽器類ということで、ぎっしりだけど、ホールのキャパや歌手たちへの負担減も合わせた軽めの編成ではなかったかと。
これからの時代、ワーグナーもシュトラウスもこれでいいんじゃね、と思いましたし、聴いて納得でもありました。
 パスカル氏の指揮が、そのあたりを前提としても、実に緻密で抑制力も併せ持ちつつ、劇性も豊かな音楽を作り出していたと思う。
大柄なイケメンさんで、指揮棒を持たず、動きは少なく、オケも歌手たちも指揮者の指先に気持ちを集中させなければならない。
ベルクの微に入り細に入り、なんでも取り入れられた雑多ななかにも精妙さの光る音楽が、最大もらさず再現された。
私がベルクの音楽にいつも求める甘味な、アブナイくらいに宿命を感じさせる音色も東フィルから引き出してます。
ルルとシェーン博士との会話の部分、ラストのアダージョ、もうたまらなくって、わたしは舞台を見つつも、オケの紡ぐサウンドに陶酔境に誘われる思いだった。。。。泣けるぜ。

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私の手元にある「ルル」のDVD、あとメットの上演も。
音源は、ベーム、ブーレーズ、アントン・レックの3つのみ。

この作品は、歌手の技量と演技力の向上とともに、やはり映像で観てみたいもの。

いずれも3幕版ですが、youtubeで観たヴィーラント・ワーグナー演出のライトナーの指揮、シリアのルルによるいにしえ感漂うモノクロ映像がリアルで、もしかしたら初演時はこんな感じだったのか?と思わせるものでした。

2017年、ハンブルクでの上演。
回廊の魔術師、マルターラーの演出、ケント・ナガノの指揮では、斬新な演出が施されたという。
2幕版で、プロローグの場面の自在に動かしたり、最後には、ヴァイオリン協奏曲が全曲演奏されるという大胆さ。
音楽面、ベルクの気持ち的にも、それはありかもの上演。
バーバラ・ブラニガンの身体能力あってのもの。
観てみたい!

かように、まだまだ版や演出の楽しみもある「ルル」。
未完ゆえに、われわれをこの先も悩ませそうであります。

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2019年10月27日 (日)

マーラー祝祭オーケストラ 定期演奏会

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日曜午後、こんな素敵なプログラムの演奏会があるのを発見し、思い立ってミューザ川崎へ。

新ウィーン楽派の3人の作品のみ。

わたくしの大好物ともいえる作品3作です。

マーラー祝祭オーケストラは、2001年に指揮者の井上喜惟氏の提案のもと結成されたアマチュアオーケストラで、国際マーラー協会からも承認を得ている団体。
毎年の演奏会で、すでにマーラーの全交響曲を演奏しつくし、今回は、マーラーに関わり、その後のウィーン楽壇の礎をを築いた3人の作曲家、新ウィーン楽派の3人に作品を取り上げたものです。

Mahler-fsetorche

 ウェーベルン  パッサカリア (1908)

 ベルク            ヴァイオリン協奏曲 (1935)


     Vn:久保田 巧

 シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」(1902~3)

  井上 喜惟 指揮 マーラー祝祭オーケストラ

        (2019.10.27 @ミューザ川崎 コンサートホール)

正直言って寂しい観客の入りで、開演15分前に行って全席自由の当日券でしたが、ふだん、ミューザではなかなか体験できない良席を、両隣を気にすることなく独占し、音楽にのみりこみ、堪能することができました。

マーラーの名は冠してはいても、やはりこうした演目では、なかなか集客は難しいもの。
しかも、川崎の地でもあり、この日は、川崎名物のハロウィンパレードが同時刻に開催。

しかし、そんなの関係ないわたくしは、うきうき気分のミューザ川崎でありました。

ウェーベルンの作品1は、ウェーベルン唯一の大オーケストラによる後期ロマン派臭ただよう10分あまりの作品です。
長さ的に、コンサートの冒頭にもってこられる確率が高くて、これまでのコンサート履歴でも、ほとんどがスタートの演目でした。
しかし、いずれも、オーケストラも聴き手も、あったまる前の状態で、流れるように過ぎてしまうという難点がありまして、今回もまったく同じ状況に感じました。
なにものこりません。
1974年のシェーンベルク生誕100年の年にかかわり、翌年にかけてFMで放送されたアバドとウィーンフィルの演奏が、わたくしの、絶対的な完全・完璧なるデフォルメ演奏であります。
これが耳にある限り、どんな演奏も相当な演奏でないとアカンのですが、今回、この曲のキモもひとつ、曲の終結部の方で、ホルンがオーケストラの中で残り、残影のような響きを聴かせるところ、ここはとてもよかったです。

ベルクのヴァイオリン協奏曲。
この曲が、本日のいちばんの聴きもので、豊かな技巧に裏打ちされ、繊細でリリカルなヴァイオリンを聴かせてくれた久保田さんが素晴らしかった。
本来はデリケートでもあり、バッハのカンタータの旋律も伴う求心的な作品。
主役のヴァイオリンの求道的なソロに、大規模なオーケストラは、ときに咆哮し、打楽器も炸裂するが、このあたりの制御があまり効いておらず、久保田さんのヴァイオリンを覆い隠してしまった場面も多々あり。
ここは、指揮者の問題でもありつつ、全体を聴きながら演奏して欲しいオーケストラにも求めたいところかも。
交響曲のように演奏しては、オペラ作曲家のベルクの作品の魅力は減じてしまうのだから。。。
 でも、曲の最後の方、浄化されたサウンドをミューザの空間を久保田さんのヴァイオリンが満たし、夢見心地のわたくし、死の先の平安を見せていただいたような気がしますよ・・・・
 久保田さんのドレス、ウィーンの同時代を思わせる、パープルとホワイトの素敵なものでした!!

シェーンベルクのペレアスとメリザンド
20日前に、ここミューザで聴いた「グレの歌」とほぼ同時期の、後期ロマン派の作風にあふれるロマンティック極まりない音楽。
ここでも、トリスタンの半音階的手法が用いられ、音楽は当然に男女の物語りだから、濃厚濃密サウンドが展開。
 4管編成の大オーケストラが舞台上にならび、圧倒的なサウンドが繰り広げられ、この作品では、ときおり現れる、各奏者のソロ演奏がキモともなるが、いずれも見事なもので、前半プロとの奏者の編成の違いも判明もしたわけだが、木管、それとトロンボーンセクションとホルン群がここでは素晴らしかった。
単一楽章で、その中に、登場人物たちのモティーフを混ぜあわせながら、それぞれの場面を描き分けるには、指揮者の手腕が試されるところだが、本日はなにも言うまい。
 緊張感を途切れさせず、このはてしない難曲を演奏しきったオーケストラを讃えたいです!

演奏効果や、奏者の出番は考えずに、この素晴らしい演目の順番を、自分的には、前半後半、逆にするのも一手かも、とも。

 1、シェーンベルク ペレアス
 2、ウェーベルン  パッサカリア
 4、ベルク     ヴァイオリン協奏曲

作曲年代順にもなるし、オーケストラと聴衆の集中度と熱の入り方という意味での順番で。。

 次の、このコンビの演奏会は、来年5月に、マーラーが戻ってきて3番です。
蘭子さんのメゾで♡

コンサートの時間帯とかぶるようにして、川崎駅の反対側では、有名となった「川崎ハロウィン・パレード」が行われましたようで、駅へ向かう途上、可愛い仮装の子供たちと、吸血鬼やおっかない妖精さんや、悪魔さんたちにも出会いましたとさ・・・・

わたくしは、やっぱり、世紀末音楽の方が好き・・・・・

(10/30に渋谷でコンサートの予定あり、一日前だから大丈夫でしょうかねぇ)

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2019年10月20日 (日)

ツェムリンスキー 「こびと」 アルブレヒト&コンロン指揮

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こちらも、三島スカイウォークの吊り花。

怪しい色合いの薔薇は、造花です。

美しいけれど、美しい偽物。

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 ツェムリンスキー 歌劇「王女の誕生日」

スペインの王女、クララ:インガ・ニールセン
待女、ギーター:ベアトリーチェ・ハルダス
こびと:ケネス・リーゲル
待従、ドン・エストバン:ディーター・ヴェラー
3人の女中:チェリル・ステューダー、オリーブ・フレドリックス
      マリアンネ・ヒルスティ

 ゲルト・アルブレヒト指揮 ベルリン放送交響楽団
              リアス室内合唱団

      (1984 @ベルリン)

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 ツェムリンスキー 歌劇「こびと」

スペインの王女、クララ:マリー・ドゥンレーヴィー
待女、ギータ:スーザン・アンソニー
こびと:ロドリック・ディクソン
待従、ドン・エストバン:ジェイムス・ジョンソン
3人の女中:メロディ・ムーア、ローレーン・マクニー
      エリザベス・ビショップ

 ジェイムズ・コンロン指揮 ロサンゼルス・オペラ・オーケストラ
              ロサンゼルス・オペラ合唱団

      (2008.03 @ロサンゼルス・オペラ)

音盤と映像のふたつ。

アルブレヒトとコンロン、ともに、ツェムリンスキーの紹介と録音に力を入れた指揮者ふたり。

前回のブログで、シュレーカーの「王女の誕生日」を取り上げ、その作品の経緯や原作について書きました。
すぐれた台本作家でもあったシュレーカーが、オスカー・ワイルドの同名の童話に感化され、新しいオペラの台本をツェムリンスキーに提供しましたが、気が変わって、自らがオペラ化したくなり、その了承をツェムリンスキーに求めた。
シュレーカーのこのオペラ作品は、1918年に「烙印された人々」となる。
 シュレーカーは、代案として違う作品の台本化を提案したものの、ツェムリンスキーは受け入れることが出来ず、どうしても、「王女の誕生日」をオペラ化したくて、シュレーカーの「烙印」から遅れること4年、1922年にゲオルグ・クラーレンの台本により、同名のオペラとして完成され、クレンペラーの指揮で初演された。
 
ツェムリンスキーが、どうしてこの原案にこだわったのか。
これも有名な話ですが、ツェムリンスキーは、想いを寄せていた、アルマ・マーラーに王女を、そして背も低くてあまりいい男とは言えない自分を「こびと」にみたたて考えていたということ。
 そう、アルマこそ、当時のウィーンのファムファタルだったのです。
ただ、彼女は自身がすぐれた芸術家でもあり、そして男性から豊かな芸術性を引き出す才能もあった点でかけがえのない存在。

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音盤と映像盤、ふたつで、タイトルが違います。
84年頃に録音されたアルブレヒト盤は、この作品の世界初録音で、1981年にドレーゼンの演出でハンブルクで蘇演されたバージョンによるもの。
当時のCD1枚に収まるようにとの考えもあったか否か、カット短縮版となっていて、待女のギータの役回りが減らされ、劇の最後も王女の言葉で終了するようになってます。
 この作品の初演の地、ケルンで完全版で上演したのが、1996年のコンロンの指揮によるものでして、EMIにレコーディングもなされました。
さらに、2000年代に入ってロサンゼルスで再びコンロンが上演したものが、映像のDVDなのです。

作曲時期の1922年は、「フィレンツェの悲劇」と「抒情交響曲」の間ぐらい。
その音楽は、甘味でかつ爛熟した響きを背景に、飽和的な音の洪水になる寸前の危うさをはらんでいて、とても危険だけど、触ったら壊れてしまいそうな繊細さと抒情味にもあふれていて極めて魅力的です。

CDとDVDとの音楽の相違点をつぶさに検証することは、素人の私にはできませんでしたが、アルブレヒトの指揮は、こうした作品の紹介と普及に心血を注いだ指揮者ならではの情熱とともに、ツェムリンスキーのクールな音楽を客観的に聴かせていて、素晴らしいと思いました。
東西分裂中のベルリンの機能的な放送オーケストラも巧いものです。
 K・リーゲルの没頭的な歌唱もいい。
80年代、マーラーや後期ロマン派系の音楽になくてはならない、このテノール、バーンスタインや小澤征爾との録音も多い。
そして、ニールセンの白痴美的お姫様も怖いくらいに美しい。。。
あと、ブレイク前のスチューダーが女中役で出ているのも年代を感じさせます。

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ツェムリンスキーが「こびと」で、オスカー・ワイルドの原作童話と変えたところは、王女が原作では12歳だが、オペラでは18歳。
「こびと」は、森で見つかられ、森の親父は厄介払いして清々としたとあるが、ここでは、トルコからの貢ぎ物として王女の誕生日にプレゼントされ、彼は歌うたいということになっている。
それから、待女のギータが、とてもいい人で、こびとに同情的。
王女に想いを寄せるこびとの、いつか裏切られるだろうということを案じて、いまからでも遅くないから帰りなさいとまで言ってあげる。
アルブレヒトの短縮版では、最後は、王女の、「次は心のないおもちゃにしてね」「さ、ダンスに戻りましょう」という残酷な言葉で終わりになるが、オリジナル版は、王女があっけらかんと去ったあと、同情を寄せる待女ギータに、こびとは、薔薇を・・・と瀕死の声でつぶやき、ギータがその白い薔薇を手向けてあげるところで、急転のフォルテによる幕切れとなります。

それにしても、ツェムリンスキーの音楽は妖しいまでに美しい。
色で言えば、銀色に感じる。
王女から、白い薔薇を投げられて、その想いをどんどんエスカレートさせていく「こびと」のモノローグ。
そして、王女との少しばかりの二重唱。
鏡を見てしまった慟哭の想いと、いや違うんだ、まだ王女は自分のことを・・・と想いつつショックで苦しみながら死んでいく「こびと」。
これらのシーンの音楽は、絶品ともいえるキレイさと切なさに満ちている。

みずからを、アルマにあしらわれる惨めな男に読み替えて作曲をしたツェムリンスキーの想いが、なんだかいじらしく感じられる。
そう、映像で見ると、ほんとに気の毒で、涙を誘ってしまうのでありました・・・・

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いずれも、あまり名前の知らない歌手たちですが、みんな役になり切ってまして、80分のドラマに思い切り入り込むことができました。
ドイツのオーケストラからすると、音色が明るすぎる感はありますが、そこはさすがにコンロン。
ツェムリンスキーやシュレーカーも含めて、こうした時代の音楽がほんとに好きなんだな、と指揮姿を見ていてもわかります。
写実的な演出ですが、ベラスケスの絵画そのものでもあって見ごたえがありました。

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この夏に、フランスの放送局がネット配信した、リール歌劇場での「こびと」の上演を録音して楽しみましたが、今回それがyutubeにも優秀な映像でもってUPされていたましたので、こちらも観劇しました。
シンプルな演出で、こびとは、ナイキのスポーツウェアにチープなジーンズ、王女や廷臣たちは、ちょっと未来風な白いドレス。
まさに小柄な、マティアス・ヴィダルのタイトルロールが、実に素晴らしい。
リリカルで同情心も誘うその歌は、今回の音盤や映像よりも、ずっと上かと。。
あと可愛いジェニファー・クーシェの王女も、ビジュアル的にもよし、歌もよしでした。

 さらに、発見したのは、この夏、バイロイトの「タンホイザー」でブレイクしたトビアス・クラッツアーが5月にベルリン・ドイツ・オペラで演出したもののトレイラーがありました。
ほぼツェムリンスキーの風貌の主人公、そして、タンホイザーでもオスカルで登場した役者の方も出演してます。
いずれ、商品化されるものと思われますが、10年の隔たりはあるにしても、保守的なアメリカといまのドイツの演出の違いは大きすぎるほど。
オペラの世界には、現在ではNG用語や存在自体がまずいものがたくさんあるし、私も気にせず書いてしまってますが、なかなか難しい問題ではあります・・・・



ツェムリンスキーのオペラ、全8作中、まだこれで3作目の記事。

あと6作、しかし、そのうち2作は未入手。

「ザレマ」      1895年
「昔あるとき」    1899年
「夢見るゲールゲ」  1906年
「馬子にも衣裳」   1910年
「フィレンツェの悲劇」1916年
「こびと」      1922年
「白墨の輪」     1932年
「カンダウレス王」  1936年

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2019年10月18日 (金)

シュレーカー 「王女の誕生日」組曲 ファレッタ指揮

Mishima-walk-1

三島市にある、三島スカイウォークのイベントスペース。

この道の駅的な観光スポットのウリは、400mの長いつり橋で、そこから見える景色は絶景とのこと。

とのこと、というのは、一度も渡ったことがないからです。
高いところ苦手だし、行くといつも風が強いし、なんたって、渡るのに一人税別1,000円もかかるし、犬や赤ちゃんも専用のカート500円が必要とのことで、あんまり何度も渡る人はいません・・・

しかし、これらの吊り花は、とてもきれいです。

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  シュレーカー 「王女の誕生日」組曲

 ジョアン・ファレッタ指揮 ベルリン放送交響楽団

       (2017.06.17~23 @ベルリン)

フランツ・シュレーカー(1878~1934)に関しましては、これまでオペラを中心に幾度も書いてきましたので、その人となりも含めまして、下段や右バーの「シュレーカー」タグをご照覧ください。

マーラーの後の世代、R・シュトラウスの一回り下、ツェムリンスキーやシェーンベルクと同世代で、指揮者としても活躍し、「グレの歌」の初演者でもあります。
作曲家としては、オペラの作家と言ってよく、台本からすべて自身で制作するというマルチな劇作家でありました。
当時は、シュトラウスや、後年のコルンゴルトなどと人気を分かち合う売れっ子オペラ作者だったのですが、ここでもやはりユダヤの出自ということが災いし、晩年は脳梗塞を罹患し失意のうちに亡くなってます。
 同じ、退廃音楽のレッテルを下されたコルンゴルトが、いまヴァイオリン協奏曲と「死の都」を中心に、多く聴かれるようになったの対し、シュレーカーは音源こそ、そこそこに出てきてはいるものの、まだまだ日の当たらない作曲家であることは間違いありません。
コルンゴルトのような明快かつ甘味なメロディラインを持つ音楽でなく、当時の東西のさまざまな作曲家の作風や技法を緻密に研究し、影響を受けつつ取り入れたその音楽は、斬新さもあるし、旧弊な様子もあるし、はたまた表現主義の先端でもあるし、ドビュッシーやディーリアスといった印象や感覚から来る音楽の作風すらも感じさせます。
そうした、ある意味、とりとめのなさが不明快さにつながり、とっつき悪さも感じさせるんだと思います。

わたくしは、そんなシュレーカーの音楽の、多様さと、そしてオペラにおける素材選びの奇矯さが好きなのであります。
そして、そのオペラたちも、ある程度パターンがあって、親しんでしまうと、とても分かりやすさにあふれていることに気が付きます。

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オペラではない、シュレーカーの劇音楽を。

「王女の誕生日」は、1908年に上演された同名の劇の付随音楽であります。

このパントマイム劇は、クリムトが主催していたウィーンクンストシャウでの上演で、そのときのダンスのプリマは、モダンバレエの祖である、グレーテ・ヴィーゼンタールで、彼女は妹とともに舞台に立ち、その音楽は彼女によってシュレーカーに依頼された。
シュレーカーは、室内オーケストラ用に35分ぐらいの12編からなる音楽を付けたが、のちに、それを拡大して長作のフル編成のオーケストラ作品に仕立て直そうとしたものの、それは実現せず、同じ3管編成の大オーケストラ向けに曲を少なくして、10曲からなる組曲を作り直したのが、いま聴かれるこの作品であります。

原作は、かのオスカー・ワイルドで、「幸福な王子」と「石榴の家」という9編からなる童話集のなかの同名の「王女の誕生日」の物語から採られたもので、シュレーカーは、この童話からインスパイアされて、ツェムリンスキーのためにオペラの台本を準備したが、結局は自らが気に入ってしまい、ツェムリンスキーに了承を得て、自作の台本にオペラを作曲することとなる。
それが、「烙印された人々」となるわけであります。
 一方のツェムリンスキーも、この物語の筋立てには、大いに共感したものだから、オペラにしたいという想いを捨てきれず、「こびと(Der Zwerg)」という作品になって結実した。

シュレーカーの「烙印された人々」は、せむしの醜男が主人公で、それにからむのが、心臓に病を持つ女、性力絶倫男、腐敗政治家・退廃市民などなど、ちょっと特異な方々の物語で、現在では、とても考えにくい設定なのであります。
 そして、「王女の誕生日」も同じく、醜いこびとが題材。

「物語はスペイン。せむしのこびとが遊んでいると、宮廷の廷臣たちに捕らえられてしまい、王女の誕生日プレゼントとして、宮廷に綺麗な服を着せられて差し出されてしまう。得意になって踊るこびとに、人々は笑って喝采を送り、いつしかこびとは、もっと彼女のことが知りたい、そして、王女に愛されていると思い込むようになる。あるとき、宮廷で鏡の部屋に迷い込んだこびとは、姿見に映った自分の姿をみて、そしてそれが自分であることを悟って叫び声をあげて悶絶して死んでしまう。王女は、『今度、おもちゃを持ってくるときは、心のないものにして!』と言い放ち・・・幕」

残酷な物語であります。

ワイルドは、スペインのベラスケスの絵画「女官たち(ラス・メニーナス)」に感化され、この物語を書いたとされます。
その絵が、今回のCDのジャケットになっているわけです。
たしかに、右端にそういう人物がいますし、王女とおぼしき少女は笑みも表情もないところが怖いです。
ワイルドといえば、「サロメ」でありますね。
ファム・ファタールという男をダメにしてしまう謎にあふれた魔性の女、ルルも、マリーもそうですが、シュレーカーのオペラにも不可思議なヒロインたちは続出します。

こんな残酷な物語なのに、この組曲の音楽は平易で、奇矯さはひとつもありません。
「烙印」の主題もそこここに出てきます。
ここから物語の筋を読み解くことができないほどです。
冒頭の第1曲が、いちばんよくって、この旋律はクセになります。

全体としては、短い曲の集積ながら、童話的なお伽噺感に満ちていて、宮廷内の微笑みすら感じさせます。
ある意味、物語の筋と、このシュレーカーの音楽のギャップが恐ろしいところでもありますが・・・・
きっと舞台で、前衛的なダンスなどを付けでもしたら、さらにそら恐ろしく、哀しいものになるんでしょう。。。。

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アメリカのベテラン女性指揮者ファレッタさんは、バッファローフィルを中心に、アメリカ各地と英国・ドイツで活躍してますが、コアなレパートリーを持っていて、シュレーカー作品にも、そのわかりやすい解釈で適性があると思います。
この組曲の前に、のちに「烙印された人々」の前奏曲へとなる「あるドラマへの前奏曲」が収録されているのも、その関連性において秀逸です。
最後には、初期のまさにロマン交響曲的な「ロマンティックな組曲」も収められてます。
 オーケストラは、旧東系のベルリン放送交響楽団。

つぎに取り上げるツェムリンスキーの「こびと」のオーケストラは、西側の旧ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ響)なところが面白いです。

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シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1924


 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年

 「Memnon」メムノン~未完   1933年

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2019年10月 7日 (月)

シェーンベルク 「グレの歌」 ノット指揮 東京交響楽団

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久しぶりの音楽会に、久しぶりのミューザ川崎。

もとより大好きな愛する作品、「グレの歌」に期待に胸躍らせ、ホールへ向かう。

今年、東京は、「グレ」戦争が起こり、大野&都響、カンブルラン&読響、そしてノット&東響と3つの「グレの歌」がしのぎを削ったわけだった。
いずれもチケットが入手できず、2回公演のあった東響にこうして滑りこむことができました。

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ホール入り口には、「グレの歌」の物語をモティーフとしたインスタレーション。
ミューザのジュニアスタッフさんたちの力作だそうです。

左手から順に、物語が進行します。
第1部~ヴァルデマール王とトーヴェ、第一部の最後~山鳩の歌、第2部~ヴァルデマール王の神への非難と第3部の狩、右端は、夜明けの浄化か愛の成就か・・・

このように、長大な難曲を、物語を通して追い、理解するのも一手ではあります。

が、しかし、シェーンベルクの音楽をオペラのように物語だけから入ると、よけいにこの作品の本質を逃してしまうかもしれない。
デンマークのヤコプセンの「サボテンの花ひらく」という未完の長編から、同名の「グレの歌」という詩の独訳に、そのまま作曲されたもの。
もともとが詩であるので、物語的な展開は無理や矛盾もあるので、ストーリーは二の次にして、シェーンベルクの壮麗な音楽を無心に聴くことが一番大切かと。

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  シェーンベルク  「グレの歌」

 ヴァルデマール:トルステン・ケルル   トーヴェ:ドロテア・レシュマン
 山鳩 :オッカ・フォン・デア・ダムラウ 農夫:アルベルト・ドーメン
 道化クラウス:ノルベルト・エルンスト  語り:サー・トーマス・アレン

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
               東響コーラス
         コンサートマスター:水谷 晃
         合唱指揮     :冨平 恭平

      (2019.10.06 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

山鳩は、当初、藤村美穂子さんだったが、ダムラウに交代。
それでも、この豪華なメンバーは、世界一流。
だって、バイロイトのウォータンを歌ってきたドーメンが農夫、オペラから引退したとはいえ、数々の名舞台・名録音を残した、サー・トーマスが、後半のちょこっと役に、という贅沢さ。

ノットの自在な指揮、それに応え、完璧に着いてゆく東京交響楽団の高性能ぶり。
CDで聴くと、その大音響による音割れや、ご近所迷惑という心配事を抱えることにいなるが、ライブではそんな思いは皆無で、思い切り没頭できる喜び。

そして、さらに理解できた、シェーンベルクのこの巨大な作品の骨格と仕組み。

全体は、ワーグナーに強いリスペクトを抱くシェーンベルクが、トリスタンやほかの劇作も思わせるような巨大な枠組みを構築。
1901年と1911年に完成された作品。
そして、第1部は、ヴァルデマールとトーヴェの逢瀬。
トーヴェのいる城へとかけ寄せるヴァルデマールの切迫の想いは、さながらトリスタンの2幕だが、あのようなネットリとした濃厚さは、意外となくて、シェーンベルクの音楽は、緊迫感とロマンのみに感じる。
トリスタン的であるとともに、9つの男女が交互に詩的に歌う歌曲集ともとれ、「大地の歌」とツェムリンスキーの「抒情交響曲」の先達。
 第2部は、闘いを鼓舞するような「ヴァルキューレ」的な章。
 その勢いは第3部にも続き、王のご一行の狩り軍団は、人々を恐れおののかせる。
この荒々しい狩りは、古来、北欧やドイツ北部では、夜の恐怖の象徴でもあり、ヴァルデマールが狩りのために、兵士たちに号令をかけ、それに男声合唱が応じるさまは、まさに、「神々の黄昏」のハーゲンとギービヒ家の男たちの絵そのものだ。
登場する農民は、アルベリヒ、道化はミーメを思い起こさせる。

こんな3つの部分を、流れの良さとともに、舞台の幅の制約もあったかもしれないが、その場に応じて、曲中でも歌手たちを都度出入りをさせた。
このことで、3つの場面が鮮やかに色分けされたと思うし、途中休憩を1部の終わりで取ったのもその点に大いに寄与した結果となったと思う。
映像で観たカンブルランと読響では、休憩は、2部の終わりに、歌手たちは前後で出ずっぱり。
こうした対比も面白いものです。

それから、今回大いに感じ入ったのは、大音響ばかりでない、室内楽的な響き。
弦の分奏も数々あって、その点でもワーグナーを踏襲するものとも思ったが、歌手に弦の各パートがソロを奏でて巧みに絡んだり、えもいわれぬアンサンブルを楚々と聴かせたりする場面が、いずれも素晴らしくて、ノットの眼のゆき届いた指揮のもと、奏者の皆さんが、気持ちを込めて、ほんとに素敵に演奏しているのを目の当たりにすることができました。

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この日のピークは、1部の終わりにある、トーヴェの死を予見し描く間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」。
それと輝かしい最終の合唱のふたつ。
この間奏曲、とりわけ大好きなものだから、聴いていて、わたくしは、コンサートではめったにないことですが、恍惚とした心境に陥り、完全なる陶酔の世界へと誘われたのでした。
ノットの指揮は、即興的ともとれるくらいに、のめり込んで指揮をしていたように感じ、それに応じた東響の音のうねりを、わたくしは、まともに受け止め、先の陶酔境へとなったのでありました。
 続く、山鳩の歌は、ダムラウの明晰かつ、すさまじい集中力をしめした力感のある切実な歌に、これまた痺れ、涙したのでした。

そして、最後の昇りくる朝日の合唱。
そのまえ、間奏曲のピッコロ軍団の近未来の響きに、前半作曲から10年を経て、無調も極めたシェーンベルクの音楽の冴えを感じ、この無情かつ虚無的な展開は、やがて来る朝日による、ずべての開放と救いの前のカオスであり、このあたりのノットの慎重な描き方は素晴らしかった。
そのあとの、サー・トーマスの酸いも甘いも嚙み分けたかのような、味わいのある語りに溜飲を下げ、さらに、そのあとにやってくる合唱を交えた途方もない高揚感は、もうホール全体を輝かしく満たし、きっと誰しもが、ずっと長くこの曲を聴いてきて、やっと最後の閃光を見出した、との思いに至ったものと思います。
指揮者、オーケストラ、合唱、そしてわれわれ聴衆が、ここに至って完全に一体化しました。
わたくしも、わなわなと滲む涙で舞台がかすむ。

前半の夜の光彩から、最後の朝の光彩へ!
愛と死、そして、夜と朝。
シェーンベルクの音楽は、前向きかつ明るい音楽であることを認識させてくれたのも、このノット&東響の演奏のおかげであります。

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先に触れた、ダムラウと、アレン。
そして何よりも驚き、素晴らしかったのが、レシュマンのトーヴェ。
モーツァルト歌手としての認識しかなかったが、最近では役柄も広げているようで、これなら素敵なジークリンデも歌えそうだと思った。
凛々としたそのソプラノは、大編成のオーケストラをものともせず、その響きに乗るようにしてホール全体に響き渡らしていて圧巻だった。
「金の杯を干し・・・」と、間奏曲の魅惑の旋律に乗り歌うところでは、震えが来てきまいました。
 対する相方、ケルルは、第1部では、声がオーケストラにかき消されてしまい、存分にそのバリトン的な魅力ある声を響かせることができなかった。
わたくしの、初の「グレの歌」体験でも、同じようにテノールはまったくオーケストラに埋没してましたので、これはもう、曲がすごすぎだから、というしかないのでしょうか。
ライブ録音がなされていたので、今後出る音源に期待しましょう。
ケルルの名誉のためにも、まだ痩せていた頃に、「カルメン」と「死の都」を聴いてますが、ちゃんと声は届いてました。

もったいないようなドーメンの農夫。
アバドのトリスタンで、クルヴェナールを聴いて以来で、まだまだ健在。
あと、まさにミーメが似合そうなエルンストさんの性格テノールぶりも見事。

合唱も力感と精度、ともによかったです。

残念なのは、2階左側の拍手が数人早すぎたこと。
ノットさんも、あーーって感じで見てました。

でもですよ、そんなことは些細なことにすぎないように思えた、この日の「グレの歌」は、完璧かつ感動的な演奏でした。
楽員が引いても、歌手と指揮者は何度も大きな拍手でコールに応えてました。
こんなときでも、英国紳士のトーマス・アレン卿はユーモアたっぷりで、観客に小学生ぐらいの女の子を見つけて、ナイスってやってたし、スマホでノットさんを撮ったり、聴衆を撮ったりしてました。

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シェーンベルクの言葉。
「ロマンティックを持たぬ作曲家には、基本的に、人間としての本質が欠けているのである」

「浄夜」を書いたあと、この様式でずっと作曲をすればいいのに、と世間はシェーンベルクに対して思った。
その後のシェーンベルクの様式の変化に、「浄夜」しか知らない人は、驚愕した。
しかし、シェーンベルクの本質は変わらなかった。
ただ、シェーンベルクは、音楽の発展のために、自分の理念を開発する義務があると思って作曲をしていた。
無調や、十二音の音楽に足を踏み入れても、シェーンベルクの想いは「ロマンティックであること」だったのだと。

10年を経て完成した「グレの歌」こそ、シェーンベルクのロマンティックの源泉であると、確信した演奏会です。

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2019年3月18日 (月)

ベルク ヴァイオリン協奏曲 

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先週の河津桜と東京タワー。

芝公園の一角で、四季折々の花がきれいに整備され、美しく咲きます。

寒暖の差も大きく、その歩みは一進一退なれど、春はそこまで。

年中聴いてますが、とりわけ桜の季節に、そして沈丁花の香りが漂いだすころに聴きたくなるのがベルクの音楽。

何度かしか経験はないが、ベルクのオペラを観劇したあとは、歩く足元もふわつき、どこか割り切れない不条理さにさいなまれ、そして周辺の空気が甘く感じたりして、官能的な思いに浸りながら帰宅した思いが何度かある。

もう、33年前に初めて観た二期会の若杉さん指揮する「ヴォツェック」の帰り、モクレンの香りだったか。
そして、10年前に琵琶湖まで飛んで行った、「ルル」。
その時の帰りは、湖畔を散策しながら、ほてった頬を冷ましながら、怪しいまでに美しい湖面に浮かぶ月を眺めたものだ。

かようにして、わたくしのベルクへの想いは、香りや、光といった五感の一部とともに印象付けられているのだ。

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    ベルク  ヴァイオリン協奏曲

           ~ある天使の思い出に~


        Vn:ギドン・クレーメル

    サー・コリン・デイヴィス指揮 バイエルン放送交響楽団


             (1984.3 ミュンヘン)

初めて買ったベルクのヴァイオリン協奏曲の音源が、クレーメル盤。
外盤で出て即、買った。
何度も、何度も聴いた。
とりわけ、日曜の晩、床に就く前に、グラスを傾けながら聴くと、より切ない感じになってたまらなかった。。

クレーメルの硬質な、ちょっと神経質な音色もいいが、ほんとは、も少し色が欲しいところ。
でも、デイヴィスとバイエルンの暖かな音色はいい。


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              Vn:ヘンリク・シェリング

    ラファエル・クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団


             (1968.5 ミュンヘン)

そして、その次に買ったのが、LP時代の名演、シェリングとクーベリックのもの。
気品ある端正なヴァイオリンに、クーベリックとバイエルンのこれまたマーラー仕込みの柔らかな響き、この融合にヨーロッパの音楽の流れと歴史を感じる。
この1枚は、ほんとうに気に入った。いまでも大好き。

そして、ベルクのヴァイオリン協奏曲を次々に入手、エアチェックも多数。

ちょいと羅列すると、渡辺玲子、パイネマン、ズッカーマン、スピヴァコフ、スターン、ブラッヒャー、ファウスト、アラベラ・シュタインバッハ、ツィンマーマン、テツラフ、ムローヴァ、堀、アモイヤル・・・・まだあるかも。

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        Vn:イザベル・ファウスト

    クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

               (2010.12@マンツォーニ劇場、ボローニャ)


アバドの指揮する3つの音源。
ソリストも、オーケストラも、いずれも違う。
ムローヴァ(ベルリンフィル、エアチェック音源)、ブラッヒャー(マーラー・チェンバー)、ファウスト(オーケストラ・モーツァルト)。
豊饒さと激性、でも豊富な歌いまわしのムローヴァ盤、気脈の通じた、元コンサートマスターとの自在かつ、緻密なブラッヒャー盤、そして、いまのところ、ベルクのヴァイオリン協奏曲で、一番と思っているのが、イザベル・ファウスト盤。
がっつりと音楽の本質に切り込むファウストのヴァイオリンと、モーツァルトを中心に古典系の音楽をピリオドで演奏することで、透明感を高めていったアバドとモーツァルト管の描き出すベルクは、生と死を通じたバッハの世界へと誘ってくれるような演奏に思う。

過去記事より、曲についてのこと。

1935年、オペラ「ルル」の作曲中、ヴァイオリニストのクラスナーから協奏曲作曲の依嘱を受け、そして、その2カ月後のアルマ・マーラーとグロピウスの娘マノンの19歳の死がきっかけで、生まれた協奏曲。

「ある天使の思い出に」と題されたこの曲がベルク自身の白鳥の歌となった。

第1楽章では、ケルンテン地方の民謡「一羽の鳥がすももの木の上でわたしを起こす・・・」が主要なモティーフとなっていて、晩年、といっても40代中年の恋や、若き日々、夏の別荘で働いていた女性との恋なども織り込まれているとされる。

こうしてみると、可愛がっていたマノンの死への想いばかりでなく、明らかに自身の生涯への決裂と追憶の想いが、この協奏曲にあったとされる。

その二重写しのレクイエムとしてのベルクのヴァイオリン協奏曲の甘味さと、バッハへの回帰と傾倒を示した終末浄化思想は、この曲の魅力をまるで、オペラのような雄弁さでもって伝えてやまないものと思う。

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     バッハ     カンタータ第60番「おお、永遠、そは雷のことば」

        A:ヘルタ・テッパー
        T:エルンスト・ヘフリガー
        Bs:キート・エンゲン

     カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
                   ミュンヘン・バッハ合唱団

                  (1964 ミュンヘン)


ベルクが、引用したバッハのカンタータ。
1723年の作曲で、イエスの行った奇跡を著した福音書をもとに、「恐怖と希望の対話」をえがいたもの。(解説書より)

死に怯える「恐怖」と、一方で、奇跡が起こる強い信仰を持つ「希望」との対話。
やがて、お互いが寄り添い、希望の喜びを歌う。

このカンタータの最後におかれたコラールが、ベルクがその旋律を引用したもの。
ここに聴くバッハの原曲も、憧れとどこか、終末観を感じさせるもので、リヒターのアナログ的な演奏も懐かしく、甘いものがある。
信仰とは、ときに、甘味なるものなのだ。

 「足れり、主よ、み旨にかなわば、割れを解き放ちたまえ!
  わがイエス来たりたもう。いざさらば、おお、世よ!

  われは天なる家に往くなり。われは平安をもて確かに往くなり。
  わが大いなる苦しみは地に葬られる。 足れり」  (訳:杉山 好)

ふたつの作品を聴きつつ過ごした日曜。

朝晩はまだ寒いが、日中は、暖かさに、鼻腔をくすぐる芳香を感じる。

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