カテゴリー「新ウィーン楽派とその周辺」の記事

2017年11月19日 (日)

シェーンベルク 「グレの歌」 ラトル指揮 LSO

Rainbow_1_2

レインボーブリッジからの日の入りは、ビルばかりで、しかも富士山の姿もごくわずか。

日没ではなくて、日の出の眩しさ、輝かしさに最後は満たされる音楽を。

Proms2017

        シェーンベルク   「グレの歌」 

  ヴァルデマール:サイモン・オニール  トーヴェ:エヴァ-マリア・ウェストブロック
  山鳩:カレン・カーギル                      クラウス:ピーター・ホーレ
    農夫:クリストファー・パーヴェス     語りて :トマス・クヴァストス 

    サー・サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団/合唱団
                      バーミンガム市交響合唱団
                      オルフェオ・カターラ

                       (2017.8.19 ロンドン、Proms2017)


ネットで全演目が期間限定で聴けるProms。
この夏も、充実の演目がたっぷりで、仕事をしながら録音し、あとで聴き返すということを何演目も行いました。

そんななかで、大いに感銘を受けたのが「ラトルのグレの歌」。
音楽監督となったロンドン交響楽団との共演も注目の演目。
そして、なんたって大好きな作品。

グレの歌を知り尽くしたラトルが、この大編成のオケにソロに合唱を完璧に束ね、そして、ラトルの棒のもとに、全員が一丸となっているのをこのライブ録音から感じ取ることができる。
音色は全般にラトル独特の硬質でありながら、ロンドン響の鋼のような鉄壁のアンサンブルを得て、ピアニシモの美しさから、巨大なフォルテまで、幾重にもわたる音の層を美しさを聴くことが出来る。
そう、そんなところまで詳細に聴き取ることができるくらいに、この放送音源は録音が優秀なのであります。ネットだからといって、まったくバカにできません。

Proms_rattle

私にとっての、この曲のリトマス紙的なヵ所、第1部の終わりの方の間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」は、ほぼ完璧で、アバドの最後のルツェルンのものには及ばないが、適度な荒れ具合も万全で、そして極めて美しく、官能的かつ、儚さに満ちている。カーギルのメゾも良い。
歌手では、クヴァストフの登場で後半がさらに引き締まったし、オニールの若干、力任せながらタフなヴァルデマールもテノール好きを唸らせるものだ。

1900~01年に大方完成、同時期には、「浄夜」と「ペレアスとメリザンド」。
結局この時期のものが、一番聴かれているわけだが、そのあたりのことを作曲者自身の講演の話から引用します。(某応援ファンサークルのFBに書いたものを転用)

シェーンベルク著「人が孤独になるとき」1937年 より~細川晋:訳

<私が『浄夜』を作曲したのは今世紀になる前のことです。だから私は、初期の作品とされる『浄夜』で、なんらかの評判を獲得することが出来たのです。
後の時代の作品がそれほど早く評価されたことはありませんが、私が、ある種の評価を(敵の真っただ中にいるときでさえも)享受できるのはそのおかげです。
この作品は、とりわけ管弦楽版で非常によく聴かれています。
ところが、私が次のような不満を耳にする回数ほど頻繁に『浄夜』をお聴きになられている方はおりますまい。「この様式で作曲をし続ければいいのに!
 私の答は、おそらく不審に思われましょう。
私はこう申し上げました、『最初から、同じ様式や同じ方法で作曲することをやめたことなどありません。
違っている点といえば、今では以前よりももっとうまくできるということだけです。今では以前よりもよく注意が払われ、よく考え抜かれてます。』
 もちろん『浄夜』しかご存じない方が、突然、なんの予備知識もなく私の現在の様式に直面すれば、すっかり当惑されることでしょう。・・・・>

 このように、作曲者自らが、自身の作風・様式の変化を語ってますが、根本は変わらないとも。
そして、十二音技法を編み出したとき、それまでの表現主義的な音楽が成功を収めていた時期を振り返ります。

<そのころ突然、大衆は私の書いたあらゆる作品の感情表現力を忘れかけていたのです。・・・中略、そして『浄夜』でさえも忘れ去られ、私は何人かの評論家から単なる建築技師と呼ばれたのです。
この用語を用いることによって、私が直感的に作曲していないこと、私の音楽は無味乾燥で感情表現を欠いていることをほのめかせたかったのです。・・・・>

 こうして、シェーンベルクが新たな様式に踏み入れる都度、聴衆や評論家は批判や拒絶を繰り返した。
しかし、シェーンベルクは、確信をもって言います。

<私にはある使命を達成しなければならないということがわかっておりました。
表現されるべきことを表現しなくてはなりませんでしたし、自分の好むと好まざるとに関わらず、音楽の発展のために自分の理念を開発する義務があると感じていたのです。
にもかかわらず、私はまた大衆の絶対多数はそうしたことを好まないということを理解しなければならなかったのです。
 しかし、私は自分のどの音楽も初めは醜いとみなされてきたことを思い起こしました。
そしてなおも・・・・私の『グレの歌』の最後の合唱で描かれているような夜明けがやってくるはずでした。私がこの世界にもたらしたいと願うような、音楽における期待に満ちた新しい一日の始まりを告げる太陽の光が訪れることもあるに違いないと私には思われたのです。」

音楽の発展に寄与したい、新たな夜明けを切り開きたい、それを願い作曲を続けたシェーンベルクには、過去も未来も逆になく、今ある自分がつくる音楽が現在なのでした。

グレの歌の最後の壮大なエンディングのまばゆさは、シェーンベルクのずっと変わらぬ音楽への想い。
ラトルとLSOのこのライブは、それこそ壮絶な音のシャワーに、聴く私も目も耳も大きく開き、眩しさに身を震わす想いがしたものです。

このライブ、正規音源にならないものか。

そして、ラトルのベルリンフィル盤を聴き直してみる。

Mi0001057935


シェーンベルク   「グレの歌」 

  ヴァルデマール:トマス・モーザー  トーヴェ:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
  山鳩: カリタ・マッティラ            クラウス:フィリップ・ラングリッジ
  農夫、語り手:トマス・クヴァストス 

    サー・サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                      ベルリン放送合唱団
                      MDRライプチヒ放送合唱団
                      エルンスト・ゼンフ合唱団

                       (2001 ベルリン)


16年の開きのある「ラトルのグレの歌」。
こちらは美しい精緻な響きが際立っているほか、やはりベルリンフィルの音色がする。
そしてべらぼうに巧い。
歌手も、こちらの方がオペラに近い雰囲気で、聴きごたえはある。
ことに悲劇的な色合いのモーザーは、トリスタン的だし、マッテラの清楚な歌声と、クールなオッターの山鳩も素敵なものだ。
 でも全体に、LSOのものを聴いちゃうと、踏込みが甘いような気がする。
それは、よく言われるように、録音がイマイチなことで、声はまだしもオーケストラが遠くで鳴っているように感じる。
これはもったいない話だ。
 ラトルとベルリンフィルのグレの歌は、2013年の、フィルハーモニーザール50周年のものがあって、ベルリンフィルの映像アーカイブにはなっているが、そちらの音源化もお願いしたいものだ。

しかし、この曲、ほんと好きなもんだ。
ブーレーズ盤とアバド盤が一番好き。
CDは7種と、音源4種をときおり、とっかえひっかえ聴いてる。

  仰げ 太陽を 天涯に美しき色ありて、東に朝訪れたり。

  夜の暗き流れを出でて 陽は微笑みつつ昇る

  彼の明るき額より 光の髪は輝けり!

未来を見据える、シェーンベルクの素晴らしい音楽であります。

Rainbow_2

過去記事 

「ブーレーズとBBC交響楽団のCD」

「俊友会演奏会」

 「アバドとウィーンフィル」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2017年11月 3日 (金)

ブラウンフェルス オルガン協奏曲 H・アルブレヒト指揮

Tochou

ある夜の、東京都庁。

十三夜間近の月夜でした。

ちょっときれい、だけどゴージャスにすぎる都庁。
優秀な職員によって、緻密な都政は維持されているけど、お偉いさんは迷走中・・・・
Braunfels

ブラウンフェルス  オルガンと少年合唱とオーケストラのための協奏曲

         オルガン:イヴェタ・アプカルナ

                       テルツ少年合唱団

   ハンスイェルク・アルブレヒト指揮 ミュンヘン交響楽団

            (2012.1 ヘラクレスザール、ミュンヘン)


ヴァルター・ブラウンヘルス(1882~1954)は、ドイツの作曲家だが、ユダヤ系ゆえに、ナチス政権より、その音楽が退廃音楽であるとの烙印をおされてしまい、音楽史の裏側に追いやられてしまった。

かつて、そのオペラ「鳥たち」を取り上げたおりの記事から、以下、引用します。
「有名な法律家・翻訳家を父と、リストやクララ・シューマンとも親しかったシュポーアを祖父に持つ母。ブラウンフェルスは、当然のように音楽の教育を受け順調に育っていったが、ミュンヘンの大学で法律と経済学へと方向転換してしまう。
しかし、そこでモットル指揮の「トリスタン」の上演に接し、またもや音楽へと逆戻り。
こんどは、ウィーンでピアノを学び17歳でピアニストデビューを飾る。
同時に作曲をモットルとトゥイレに学んで、作曲家としてドイツ各地で頭目をあらわしてゆくが、1933年に、自身はカトリックの信者であるという抗議にも関わらず、ヒトラーから半ユダヤということで、公職をはく奪され、その音楽も演奏禁止とされてしまう。

オペラを10作、管弦楽・室内楽・器楽・声楽と広範にその作品を残したブラウンフェルス。
「鳥たち」は、1920年にミュンヘンで初演された3番目のオペラで、その時の指揮は、ここでも(前週のコルンゴルトと同様に)ブルーノ・ワルターであった。
そのワルターも、そしてアインシュタインまでもが、この作品の素晴らしさ・美しさを讃えているのでありました(解説書より)」

このように、同時代の演奏家や評者は、ブラウンフェルスの音楽を高く評価しており、モノラル時代には、いくつかの録音も残されていたが、しばらく、その名前すら聞かれなかったものが、デジタル時代になって登場したのは、デッカの退廃音楽シリーズの恩恵でもあろう。

いまは、OEHMSレーベルが、ブラウンフェルスの作品を順次録音してくれていて、今日は、そのなかのひとつ、「オルガン協奏曲」を。

ブラウンフェルスは、熱心なカトリック信者であり、それはその音楽にもあらわれており、オペラの素材(受胎告知、聖女ヨハンナ等)や、宗教的声楽作品(ミサ曲、テ・デウム、オラトリオ)などであるが、このオルガン協奏曲にもそうした局面が大きくにじみ出ている。

オルガンに、オーケストラは、木管楽器がなしで、弦楽器、トランペットとトロンボーン、ティンパニとバスドラという編成、そして少年合唱団。
ユニークな編成だが、オルガンを中心に、華やかさを排除したサウンドになっているところが、この作品にシリアスさと、真摯さを表出しているように思う。

1楽章は、合唱は出ず、オルガンが縦横無尽に活躍し、全編がカデンツァみたいになっている。厳しい表情が続出するが、そのエンディングは、とてもカッコいい!

ブラウンフェルスならではの、抒情とミステリアスな雰囲気にあふれた第2楽章は、とても美しい。
オルガンの上に、光明のように響くトランペット、静かな中に、徐々に音楽が熱くなっていって天使のように出現する少年合唱。最後は長いオルガンのカデンツァ。

さて、3楽章はフーガ形式で、少しばかり錯綜した雰囲気で進むものの、徐々に、そして光がさしてくるように整理されてきて、いよいよのクライマックスが準備されてきて、ついに、合唱と全楽器で、コラール「シオンは物見らの歌うのを聞けり」(バッハのカンタータBWV140<目覚めよと我らに呼ばわる物見らの声>が、高らかに歌われ、感動の極致を味わうこととなります。

 各楽章は、それぞれ、「幻想曲」「コラールと間奏曲」「フーガ」と題され、そう、バッハのオルガン曲をリスペクトする内容ともなっていると思うわけであります。

1927年の作曲、初演は1928年で、ギュンター・ラミンに捧げられ、そのラミンのオルガンで、ライプチヒのトーマス教会にて、フルトヴェングラー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団で初演され、オペラ「鳥たち」以来の大成功を収めたといわれます。
 フルトヴェングラーとブラウンフェルスも、大の仲良しだったそうな。

このCDは、いまのミュンヘン・バッハ管弦楽団を率いるハンスイェルク・アルブレヒトの指揮によるもので、オルガンは、ラトヴィア出身のアプカルナ嬢です。
キリっとした、とてもいい演奏に思います。

ほかに、今度はアルブレヒトのオルガンソロで、トッカータとアダージョ、フーガ。
オーケストラ曲、交響的変奏曲が収録されてまして、それらはまた別の機会に。

ブラウンフェルスの作品、「テ・デウム」と「受胎告知」もまた、いずれの機会に取り上げます。

Tochou_0

 過去記事

 「ブラウンフェルス 鳥たち」

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

2017年6月 3日 (土)

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ホープ、フラング、カヴァコス

Tokyo_tower_4m

晴れの日の5月の空、そしてタワーに美しの花。

気持ちいいもの、大好きなものに囲まれて過ごすことの幸せは、誰しもそう願いたいもの。

でもなかなかに、そうはいかないもの。

とても忙しくなった4月以降。

ことに5月は。

それでも、懐かしさと切なさ、そしてほろ苦い思い出に包まれつつ過ごす日々に、マーラーとコルンゴルトの音楽はうってつけだ。
次はディーリアスかな。

愛するコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲をいくつか入手したので、ずっと聴いております。
 
Korngold_frang

       コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

        Vn:ヴィルデ・フラング

    ジェイムス・ガフィガン指揮 フランクフルト放送交響楽団

                   (2015.7,8 @フランクフルト)


ノルウェー出身のフラングのヴァイオリンは、初めて聴いた。

もう日本には何度か来ているし、CDもそこそこに出ている。

若いのに、着実に実績を積みつつある実力派のようだ。

チャイコフスキーやメンデルスゾーンだったら買わないけれど、コルンゴルトと、おまけにカップリングがブリテンときたら、それはもう!
ちなみに、ムターとプレヴィンのコルンゴルトも愛聴しているが、カップリングのチャイコフスキーは、いまだに聴いたことがないのである・・・・・

さて、このヴィルデちゃんのコルンゴルト、実に自然体で伸びやかななのであります。
それでいて音楽へののめり込み具合も、ある意味、必死感があって、とてもスリリングにも感じる。
彼女によれば、この曲は、ブリテンとともに、2曲携えてレコーディングすることが、長年の夢だったそうな・・。
そんな想いを、ひしひしと感じ取れる夢中さ。
それでいて、冒頭に書いたとおり、自然なのであります。
ノルウェーの山と湖の自然のなかで、伸びのびと育ったと、本人が言っているように、天然素材のようなヴァイオリンの音色で聴くコルンゴルトは、ほんと美しい。
ことに2楽章のロマンスは美品。

ジャケットは、いかにも北欧美人でステキですが、映像などいくつか観たら、まだまだ健康的な女の子って感じ。
大好きなニコラ・ベネデッティが、このところ、大人の女性に変貌しつつある。
ヴィルデちゃも、いつか・・・・、むふふのお楽しみである。


Korngold_hope

       コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

        Vn:ダニエル・ホープ

 アレクサンダー・シェリー指揮 王立ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団

                   (2013.1 @ストックホルム)


「ベン・ハー」の愛のテーマで、いきなり始まる秀逸な企画の1枚。

ESCAPE TO PARADISEと題された、ハリウッドにまつわる銀幕の音楽をぎっしり詰め込んでいるのだ。
そんななかに、主役のように配されているのが、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。

ナチスのドイツから逃れた先がハリウッドの映画界。
コルンゴルトの映画音楽もたくさんあるし、このヴァイオリン協奏曲も、自身のそんな映画音楽から、旋律が編み取られている。

今回は、この協奏曲のみに絞りますが、楽園として亡命した何人かのハリウッドを飾った作曲家たちの素敵な作品も、またいつか取り上げたいと思います。

ヴィルデ・フラングのあと、ダニエル・ホープのヴァイオリンを聴くと、やはりスケール感と練り上げられた音色の深みが違うことに気づきます。
大人の音楽。

繊細さでは、ダニエルさんのほうが上回り、快活さや技巧の冴えではヴィルデちゃん。
1楽章からして、苦みの効いたサウンドが、わたしの気持ちをわしづかみにしてくる。
遠くを見通すかのような淡さもあるし、第2楽章では、過ぎ去った日々を懐かしむ、そんな儚い男の夢にぴたりと寄り添ってくれる、そんなホープの優しいヴァイオリンに涙したい。

ところが3楽章では、それじゃダメとばかりに、エッジの効いた鋭さで、背中を思い切り押してくれる前向きなヴァイオリンを聴かせるホープさん。
歌いまわしも自在で、いやぁ、これはいい。
 
Brso

   コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

        Vn:レオニダス・カヴァコス

    マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団

                   (2016.1.14 @ミュンヘン)


バイエルン放送局のネット配信で視聴したのがこちら。

録音もしちゃいました。

画質も音質も、この局のものはほんとに素晴らしい。
いずれ、音盤になるのかな?
なんたって、ヤンソンスのコルンゴルトだから!!

ちなみに、この日の演奏会の演目は、コリリアーノに、この協奏曲に、ラフマニノフの「鐘」という渋いけれど、好きなひとには堪らないもの。
さらに、このあとの欧州ツアーでは、コルンゴルトに、ショスタコーヴィチの7番。

バイエルンに一筋の男ヤンソンス。
そんなヤンソンスの情熱に、バイエルン放送響の輝かしさと、明るい音色が加わって、絶品のオーケストラ伴奏となっている。
艶やかな弦に、木管のあたたかな囁き、そしてマイルドな金管、色気あるホルン。
ほんと、いいオーケストラだ。

おっと、カヴァコス氏を忘れちゃいけない。
今回の3人のヴァイオリニストのなかで、一番年長。
そのお姿のように、求道的ともいえる集中力を感じる、研ぎ澄まされたヴァイオリンの音色。
そして、驚きの2楽章の美演。
音色の美しさでは、もしかしたら、今回の3人のなかで、一番。
終楽章の盛り上がりも、ライブならではだし、みんな乗せちゃうヤンソンスの指揮の力もあるかも。
 DVDでの演奏も、カヴァコスにはあるけれど、もう一回確認してみなくては。
オーケストラの魅力もあるが、今回の3つの演奏の中では、一番バランスがよい。

で、どれが一番好きかって?

そりゃ、全部だよ。

さて、今宵も、コルンゴルトの音楽に咽び泣きつつ、盃を呷るのでありました・・・・・・。


Tokyo_tower_4m_1

過去記事


「ムター&プレヴィン」

「パールマン&プレヴィン」

「ハイフェッツ」

「シャハム&プレヴィン」

「ハイフェッツ&ウォーレンシュタイン」

「ベネデッティ&カラヴィッツ」


「ズナイダー&ゲルギエフ」

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

2017年5月21日 (日)

コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮

Ninomiya_fuji_2

神奈川の家から遠く富士の夕暮れ。

一日の終わりは、壮麗な夕焼けで幕引きになるのが好き。

そして、後ろ髪をひかれるようにして、昼は去り、夜がやってくるのだ。

こんな景色を大学生の時まで見て暮らした。

社会人になると東京と千葉へ。
でも自分に一番の街はここ。

去ったけど、一生去れない場所。

終わりがなければ始まらない。

そんなことをいくつか繰り返してきたけれど、この春にも大きな変化があったことは、これまでに書いた通り。

マーラーの10番をピークに別れを音楽で追い求めたものだ。

そして、ここしばらくは、コロンゴルトの音楽に足を止めようではないか。

Korngold

  コルンゴルト  「死の都」

   パウル:クラウス・フローリアン・フォークト
   マリエッタ、マリーの幻影:タチアナ・パヴロフスカヤ
   フランク、ピエロ:ミヒャエル・ナジ  ブリギッタ:ヘドヴィク・ファスベンダー
   ユリエッテ:アンナ・ライベルク    ルシエンヌ:ジェニー・カールシュテット
   ガストン:アラン・バルネス       ヴィクトリン:ユリアン・プレガルディエン
   
  セバスチャン・ヴァイグレ指揮 フランクフルト歌劇場管弦楽団
                      フランクフルト歌劇場合唱団

                         (2009.11@フランクフルト歌劇場)


またかとお思いでしょうが、コルンゴルトのオペラ「死の都」であります。

このヴァイグレ盤、このところ毎日のように流し続けていて、4年前に入手していらい、以前はさほどでもなく思っていた、フォークトのパウルが実に素晴らしいことに、いまさらながらに気が付いた。

誰もが、フォークトの美声と、そのユニークなヘルデンの常識を覆すような不思議なほどの力感に驚かれていることの思います。
しかし、よく考え抜かれた歌唱は、どんな役柄でも、フォークトなりの完璧さでもってなりきってしまうことの凄さ。
 パウルという役柄の難しさは、全幕ほとんど出ずっぱりで、没頭感をもって、ドラマティックな力感を伴った歌唱を駆使しまくらなくてはないらいし、甘美さや、ほろ苦い諦念も歌いこまなくてはならないので、パウル歌手は、これまで限定的な存在だった。

ルネ・コロ、J・キング、イェルザレム、T・ケルルなど、いずれもジークムントやトリスタンを歌うような歌手たちの持ち役だ。

そんななかにあってのフォークトの歌の存在。

パウルの心情に同化してしまったかのような、繊細極まりない知的かつ、情熱的な歌唱。
すべてが考え抜かれ、言葉をじっくりと歌いこんでいるのがわかる。
華奢ななかにも、スピントの効いた力強さと、圧倒的な声量も。
きらきらした退廃具合も申し分なし。
いままで、コロとケルルばかりだった私の理想のパウルに、遅ればせながらフォークトが加わった。

このフランクフルト・ライブは、歌手ではフォークトの独り舞台かもしれないが、マリンスキー育ちのパヴロフスカヤは、悪くないが、フレミングの声に似ていて、ちょっと隈取りが濃いかも。
ナジのフランク&ピエロはよい。
バイロイトでもウォルフラムなどで活躍のイケメンバリトンは、今後とも注目。

ライブながら、録音は実によく、オーケストラ・ピットの生々しい音が臨場感豊かに聴こえる。
ヴァイグレの整然としつつ、全体のバランスをよく見通したスタイリッシュな指揮はこれでよいと思う。
まだ音源は多くはないが、過去の正規音源のなかの指揮者では、一番いい。

添付のリブレットには、舞台写真が豊富に載せられていて、想像力を刺激してくれる。
フォークトはスキンヘッドで、詰襟を着ていて、ちょっと病的な感じだし、死神や老婆もたくさん・・・・、マリエッタは赤いドレスで、普通に美しいし。
映像で観てみたいものです。

映像といえば、新国で観たホルテン演出の舞台のDVDでは、フォークトなんだよな。
手に入れねばね。

Ninomiya_fuji_3

現実と夢想が、行き来して、リアルな現実も、夢も、どっちも明滅するように、それこそ、自分の夢に出てくるようになった。

 しかし、現実の人間たる自分は弱いけど、妙に強い。
いまの現実は、前では考えられなくなった違った忙しさに包まれるようになった。
過ぎ去った夢、だんだんと過去のものとして、置き換え、忘れようとしつつあるのが、これまた夢のなか・・・・・・・・。

こんな男の心情にぴたりとくるものを描きつくした、若きコルンゴルトに、啓稔をすら感じます。

 わが憧れ、わが惑いが、この夢に蘇る。

 踊りで得て、そして失ったわが幸せ
 ラインの川沿いで踊る
 月光のなかで、青い瞳が、この身に
 切なる眼差しをそそぎ
 辛い思いを訴える
 ここにいて どこにもいかないで
 故郷を見守って、静かに花開く幸せを
 わが憧れ、わが惑いが この夢に蘇る
 遥かなる魔力が この魂に 火をともす
 踊りの魔力に誘われ
 役者へと たどりつく
 優しすぎる あの女に従い
 涙ながらの口づけを知る

 酔いと苦しみ 惑いと幸せ
 これが曲芸師の定めか
 わが憧れ わが惑いが
 この夢に蘇る
 蘇る 蘇る・・・・


      (訳:広瀬大介)

 この身にとどまるしあわせよ

 永遠にさらば 愛しいひとよ
 死から生が別たれる
 憐れみなき避けられぬさだめ
 光溢れる高みでこの身を待て
 ここで死者がよみがえることはない


      (訳:広瀬大介)


| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

2016年6月26日 (日)

シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク アバド指揮

Ajisai_shiba

関東は、梅雨まっさかり。

そして、ほぼ3ヶ月ぶりの投稿となりました。

幾多の皆さまから、暖かく、そしてご配慮にあふれたコメントを頂戴しながら、まったくご

返信も、反応もしなかったこと、ここに、あらためまして、お詫び申し上げます。

 ともかく、辛く、厳しい日々は、ブログ休止時と変わりなく続いてます。

しかも、予想もしなかったところから、いろんな矢が飛んできたりもします。

やぶれかぶれの感情は、そこから生まれ、音楽なんて、聴くゆとりも、受け入れる感情もありません。

そんな3ヶ月。

 しかし、でも、めぐってきた、「クラウディオ・アバドの誕生日」

存命ならば、今年は、この26日が、83回目。

そんな日に、アバドが生涯愛した、新ウィーン楽派の3人の作曲家を、いずれもウィーンフィルの演奏で聴きます。

Schoenberg_gurre_lieder_abbado

  シェーンベルク  「グレの歌」から 間奏曲、山鳩の歌

長大なグレの歌、全部を聴けないから、この作品のエッセンスとも呼ぶべき、中ほどにある場面を。
1900年に作曲を始め、第3部だけが、オーケストレーションが大幅に遅れ、最終完成は、1911年。
1913年に、シュレーカーの指揮によって初演。

後期ロマン派真っ盛りの作品ながら、最終完成形のときのシェーンベルクは、無調の領域に踏み込んでいたところがおもしろい。
1912年には、ピエロリュネールを生み出している。

むせかえるような甘味で濃厚な間奏曲、無常感あふれる死と悲しみの心情の山鳩の歌。
アバドのしなやかな感性と、ウィーンフィルの味わいが融合して、何度聴いても心の底からのめり込んでしまう。
久々に、音楽に夢中になりました。

アバドのこのライブ録音は、1992年。
88年には、マーラーユーゲントとECユースオケとで、何度も演奏していた。
そして、最後のルツェルンとなった、2013年に、この間奏曲と山鳩を取り上げた。
この最後の演奏が、掛け値なしの超絶名演で、まさに陶酔境に誘ってくれるかのような、わたくしにとってとても大切な演奏となってます。

Abbado_lu

ルツェルンでの最後のアバド。

Abbado_webern_3

  ウェーベルン  パッサカリア

ウェーベルンの作品番号1のこの曲は、1908年の作。

シェーンベルクの弟子になったのが、1904年頃で、グレの歌の流れを組むかのような、これまた濃厚な後期ロマン派的な音楽であり、グレの歌にも増して、トリスタン的でもある。

パッサカリアという古風ないでたちの形式に、ウェーベルンが込めた緻密さとシンプルさが、やがて、大きなうねりを伴って、巨大な大河のようなクライマックスとカタストロフ。

この濃密な10分間を、アバドは、豊かな歌心でもって静寂と強音の鮮やかな対比を見せてくれる。
むせぶようなホルンの効果は、これはまさにウィーンフィルでないと聴けない。

1974年、シェーンベルク生誕100年の年、ウィーンでは、新ウィーン楽派の音楽が数々演奏されたが、そのとき、アバドは、ウィーンフィルとこのパッサカリアや、5つの小品を取り上げ、NHKFMでも放送され、わたくしはエアチェックして、何度も何度も聴いたものだ。
 その音源は、いまも手元にあって、あらためて聴いてみても、若々しい感性が燃えたぎり、ウィーンフィルも、今とはまったく違う、ローカルな音色でもって、それに応じているところが素晴らしい。

Berg_lulu_abbado

  ベルク  交響的組曲 「ルル」

新ウィーン楽派の3人のなかで、一番若く、そして一番早く死を迎えてしまったベルク。

ウェーベルンと同じく、1904年に、シェーンベルクの弟子となり、以降、ずっとウィーンで暮らすことになるベルクだが、ユダヤの出自であった師がアメリカにのがれたのに対し、ベルクはユダヤではない代わりに、その音楽が退廃音楽であるとして、ナチス政権成立後は、その活動にかなりの制約を受けることとなった。

そんななかで、生まれたのが「ルル」。
破天荒な青年時代を送り、ぜんそくに悩まされ、病弱であったベルクは、文学好きということもあって、オペラの素材には、生々しい死がからむ、いわばヴェリスモ的な内容を選択した。
それが「ヴォツェック」であり、「ルル」である。
さらに、晩年の不倫も、「ルル」の背景にはあるともされる。

人生の落後者のような軍人と、魔性の女、ファム・ファタール。
それらが、悲しみとともに描かれているところが、ベルクの優しさであり、彼独自の問題提起の素晴らしさ。

ことに、「ルル」の音楽の運命的なまでに美しく、無情なところは、聴けば聴くほどに、悲しみを覚える。
自分の苦境に照らし合わせることで、さらにその思いは増し、ますます辛く感じた。
そんな自分のルルの聴き方が、また甘味に思えたりするのだ。

「ルル」は、1928~35年にかけての作品。
間があいているのは、アルマの娘マリーの死に接し、かのヴァイオリン協奏曲を書いたためで、ベルクは3幕の途中で亡くなり、未完のエンディングを持つ「ルル」となった。

アバドは、ベルクも若い頃からさかんに指揮していて、70年のロンドン響との作品集に続き、ウィーン時代の94年に、ウィーンフィルといくつもの録音を残している。
ニュートラルなロンドン盤もいいが、やはり、より濃密で、ムジークフェラインの丸みのある響きも捉えたウィーン盤の方が素晴らしい。

ロンド→オスティナート→ルルの歌→変奏曲→アダージョ

オペラの場面をシンフォニックにつないだ組曲に、アバドは、オペラの雰囲気も感じさせる迫真性と抒情をしのばせた。
「ヴォツェック」は何度も指揮したのに、「ルル」は、ついに劇場では振ることがなかった。
ウィーン国立歌劇場時代、上演予定であったが、辞めてしまったため、その計画を実現しなかったから、この組曲盤は、アバド好きにとっては貴重なのであります。

さてさて、暑いです。

まだ梅雨だけど、そぼ降る雨はなくて、晴れか土砂降りみたいな日本。
熊本の地震もあったし、大きな地震への不安は尽きない

ばかな都知事や辞めたけど、疑惑は消えないし、消化不良のまま参院選と、まもなく都知事選が始まる。
矛盾だらけの政治に社会。
 そして、海外へ眼を転ずれば、どこか某国が、偉そうに軍船で領海侵入を繰り返し、虎視眈々と長期計画で持って、ねらってきているし、さらに英国のEU離脱が、世界規模でもって、政治経済に影響を与える流れが進行中。

今後もトピックは、まだまだ続出するでしょうが、ブログ休止してた間に、こんないろんなことが起きてしまう2016年。
「ルル」の原作ではありませんが、「パンドラの箱」が次々に開いてしまうのか・・・・

しばらく、また消えますが、もう事件事故災害は勘弁してください、神様。。。

それでは、また、いつか。

Shiba_8
    

| | コメント (6) | トラックバック (0)
|

2016年3月 5日 (土)

コルンゴルト 交響的序曲「スルスム・コルダ」 リヒター指揮

Shibapark

昼間は、すっかり暖かくなり、夜気も徐々に緩みつつあります。

先週は、風邪をこじらせて、完全沈没してしまった。

ここ数年、風邪をひかなかったのに、歳と共に、体も、気力も無理が効かなくなってきた感がありです。

Korngold


コルンゴルト  交響的序曲「スルスム・コルダ」~心を高く上げよ op13
                     (Sursum Corda)


       カスパール・リヒター指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団

                    (1999.3 @リンツ ブルックナーハウス)


コルンゴルト(1897~1957)の作品番号付きでは、3つめのオーケストラ曲。

1919年に作曲、初演は1920年1月、ウィーンにて作曲者自身。

23歳での作品でありますが、それまでに、オペラをすでに3作(ポリクラテス、ヴィオランタ、死の都)を仕上げているので、オーケストラ技法においては、ますます充実に極みにあったわけです。

そもそも、この曲のタイトル。
「スルスム・コルダ」とは、なんとヘンテコなタイトルかと思いますね。

Sursum Corda、すなわち、ラテン語で、「あなたの心を揚げよ」。
英語では、「Lift up your Hearts!」。

ローマ帝国内に、キリスト教が広がりつつあった2世紀頃の典礼句の一節だったようです。
「主を見上げ、心を高く・・・」、こんな感じでしょうか。

ただし、このコルンゴルトの音楽には、そうした宗教観はまったくなくって、自身がこのタイトルについて述べたところでは、「闘争と大望、嵐と圧迫からの喜ばしい救出」という意味合いを込めたのだそうだ。

2年前に出会った、同じユダヤ系の音楽好きの女性、しかも、ピアノもソプラノの声も素晴らしかったルーツィと相思相愛になり、何度も逢瀬を重ねていた頃である。
そんな高揚した気分も、この曲には、しっかりと反映されていて、まさに、コルンゴルトの気持ちが、おおいに上がっていたなかでの作曲だったわけであります。
  そのルーツィとは、のちに、幸せな結婚をし、子供たちにも恵まれるコルンゴルトなのでした。

そんな幸せのなかにいたコルンゴルトは、音楽活動でも、神童から一流の青年音楽家として、ことにオペラ、「死の都」の爆発的な成功でもって、ヨーロッパにその名を轟かせていたわけですが、1920年の、この「スルスム・コルダ」の初演は、聴衆からの理解が得られずイマイチの成果に終わり、その後のベルリンなどでの再演でも、パッとした評価は得られませんでした。
でも、コルンゴルトは、この曲への想いは強かったのでしょう。
なんといっても、敬愛する、R・シュトラウスに捧げられていて、19分あまりの、まるで雄弁なシュトラウスの交響詩のような雰囲気を持っているのですから。
1922年のシカゴでの演奏会には、自身が、プログラムに、こと細かな楽曲解説を施しております。

そのシカゴの演奏会もいまひとつだったこの曲。
たしかに、明快な形式を持たず、でもソナタ形式の枠にはある。
でも、それは、後期ロマン派的なムードのなかで、かなり拡張解釈され、形式よりは、描写的、絵画的な音楽となっている。
それが、シュトラウスのように、具象性や明快さが伴わないものだから、とっつきが悪い結果となっている。
 しかし、何度も何度も、そして、いつものコルンゴルト節を、しっかり身に付けた耳で聴いてみると、これはこれで、実に魅力的な音楽なのだ。

愛するオペラ「死の都」のムードも踏襲され、旋律的なつながりも感じる。
そして大胆な和声と、ダイナミズムは、パワフルであるとともに、カラフルで、そして、一方で、コルンゴルトならではのクールな抒情。
わたくしには、極めて魅力的な音楽です。

コルンゴルトの管弦楽作品をおさめた音源のなかに、いくつも収録されてます。
手持ちでは、アルベルト、バーメルト、そして、今回のC・リヒターのものがあります。
 ブルックナーゆかりのオーケストラを指揮したリヒター盤が、オーストリアのオーケストラならではの丸い響きでもって、なかなかの雰囲気で聴かせてくれます。
録音の良さと、オーケストラの機能性では、バーメルト。
シュトラウスに近いサウンドでは、アルベルトでしょうか。

この曲では、生前、さっぱりだったコルンゴルトですが、18年後の1938年。
ハリウッドで、映画「ロビンフッドの冒険」の音楽に、この曲から転用していて、ロビン・フッドのテーマともなってます。
 まさに、その高揚感などは、「心を高く・・」という気分が相応しいものとなってますね!

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2015年12月23日 (水)

コルンゴルト 6つの素朴な歌

2

恵比寿ガーデンプレイスの豪奢なツリー。

じゅうぶん大人のワタクシでも、夢の面持ちになってしまいます。

Korngold

     コルンゴルト  6つの素朴な歌 op9

        バリトン:スティーヴン・キンブロー

 

        ピアノ :ダルトン・ボールドウィン

1916年に出版された、早熟のコルンゴルト、14歳から19歳にかけての歌曲集。
それぞれに、短いけれど、歳を追うごとにその作風が充実していくことがわかる作品集。

  1.「まつゆき草」     詩:アイヒェンドルフ

  2.「夜のさまよい人」       〃

  3.「セレナード」          〃

  4.「愛の手紙」      詩:ホーノルト

  5.「庭園の英雄の墓」  詩:キッパー

  6.「夏」           詩:トレビッチ


アイヒェンドルフの詩による最初の3つの作品は、1911年(14歳)。
「愛の手紙」が、1913年(16歳)。
残りのふたつの歌が、1916年(19歳)。

この中で、一番有名なのが、1曲目の「まつゆき草」。
春の初め、まつゆき草は楚々と咲くけれど、まだ残る雪に覆われ、萎れてしまう。
そんな様子を歌を読む詩人に例える。

そんなロマンティックな内容に、早熟のコルンゴルトは、ドイツロマン主義の延長線に立脚しながら、彼ならではの甘味なる旋律をつけました。
ほんとにステキな歌です。

ダイナミックなピアノ伴奏が引き立つ2曲目は、不気味な雰囲気も。
転じて明るいセレナードは、心弾む思いを。
2年後の「愛の手紙」では、あなただけど思い、愛します、と切々と歌い、シュトラウスやウォルフの歌曲の流れを感じさせ、シンプルな表情も好ましい。

そして、19歳の作である2曲は、CD解説にも書いてありますが、すでに2つのオペラを書きあげたあとだけに、ピアノの伴奏もスケールを増していて、歌の方もドラマティックだし、表現の幅、言葉と音との融合も格段に優れている。

音楽の才能とともに、恋多き青春時代を送ったコルンゴルト。
これらの美しい歌曲たちも、そんな恋に後押しされながら書いたのかもしれませんね。

のちに、オーケストレーションも施され、さらにロマンティックに仕立てられました。
B・ヘンドリックスの歌で、一部聴くことができます。

キンブローの誠実な歌いぶりは文句ありませんし、名手ボールドウィンのピアノも素晴らしいものでした。
女声では、ピエチョンカの歌曲全集が出ているので、いずれ聴いてみたいと思ってます。

9

クリスマスまで、もうすぐ。

4

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2015年12月18日 (金)

コルンゴルト 「ヘリアーネの奇蹟」から間奏曲

Nakadouri_1

丸の内、中通りの恒例のイルミネーション。

今年は、枝ぶりがよくないのか、少しさびしい感じなのと、大規模なビル建て替え工事が、通りの中ほどで行われているので、そこでイルミネーションも途切れたりしてましたね。

Nakadouri_2

毎年、この時期には、ワクワクしながら、イルミネーション巡りをしていますが、この冬は、ちょっと気分が乗らない。
 いろんな意味で不調が重なっていて、気持ちも虚ろになりがち。
でもキレイなものには癒されますな。
音楽も同じで、音楽を聴く時間が極度に減ってきているし、オペラも聴いたり観劇したりする時間や集中力も不足しがちながら、いざ、少しの間に聴いたら聴いたで、ワタクシの心はすぐさま復調するのです。
 ともかく美しいものは好き。

それと、最近はかつての映画好きの熱が再来してまして、このところ良く観てますよ。
音楽の時間が、そっちへ移動してる、ともいえよう。

Korngold

 コルンゴルト 歌劇「ヘリアーネの奇蹟」~間奏曲

   カスパール・リヒター指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団

                     (1999.3 @リンツ、ブルックナーハウス)


今回も、コルンゴルト。
いまだ取り上げてないあと1作品の、オペラ「ヘリアーネの奇蹟」。

全曲は、CD3枚の大作で、ドラマの内容もややこしい。
けれども、その音楽は、超がつくほどに美しく、そしてカッコよく、オーケストラの鳴りっぷりも、歌も全部立派なもの。
年内には、記事をあげようかと思ってましたが、無理っぽいので、この大作のなかから、魅惑的なまでに美しい間奏曲を。

「喜ぶことを禁じた国の暴君。そこへ、喜びや愛を説く異邦人がやってくるが、お縄になってしまい、さらに絶世の美女、王妃のヘリアーネとの不義を疑われ自決。
その異邦人を清純の潔白として、甦えさせろと無理難題の暴君。
本当は愛していたことを告白し、異邦人の亡きがらに立ちあがることを念じるが、反応せず、怒れる民衆は彼女を襲おうとする・・・・、そのとき、奇蹟が起こり、異邦人が立ちあがり、暴君を追放し、民衆に喜びや希望を与え、愛する二人は昇天する。。。。」

全曲の記事で、もう少し上手く書ければと思いますが、なかなかに面倒なドラマ内容です。

このオペラで一番有名なアリアが、第2幕のヘリアーネの「Ich ging zu ihm」という歌で、これがともかくふるい付きたくなるほどに素晴らしい。
フレミングが、この曲をよく歌っているので、お聴きになられた方も多いと思います。

それと、その旋律を一部使いながら、全曲を暗示するような流れを持つ間奏曲も絶品なんです。
8分半の長い間奏ですが、緊迫したオペラの中ほど、すなわち第3幕の幕開けにあって、曲のイメージとしては、「カヴァレリア・ルスティカーナ」や、「パリアッチ」の間奏曲のように、甘く、切なく、そして歌心に満ち、さらに清らかさも備えております。
思えば、このオペラ、ヴェリスモ的です。
 このオペラのエッセンスを味わうには、この8分半を、時間のない時には聴くことにしてます。
コンサート・ピースとしても、劇的であり、静謐でもありますので、充分に取り上げられてよい作品かと思いますね。

リンツにあるブルックナーオケの、とびきり美しい演奏で。
モウチェリーの全曲盤における演奏は、全体の流れのなかで存在しているような演奏の在り方ですが、こちらは、これ1曲に全霊を尽したかのような充実の演奏となっております。

1927年、コルンゴルト、30歳のときのオペラ。
同年、ウィーン国立歌劇場でシャルクの指揮により初演されるものの、芳しい評価は得られず、どちらかというと、失敗作との判断を受けることとなってしまった。。。。
ドイツ・オーストリアは、もうすでにきな臭い状況になってきていて、コルンゴルトのヨーロッパでの活動も、あと少しとなっていくのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2015年12月 4日 (金)

コルンゴルト 「雪だるま」 ウーリー

Minatomirai_a

鮮やかな色合いで変化する大観覧車「コスモクロック21」。

ちょうど、ブルーな感じのときに撮れましたよ。

前にも書いたかもしれませんが、1989年の横浜博のときに、この場所よりランドマークよりに据えられたものが解体・移築されたもので、同博覧会には、当時結婚したばかりの新婚状態で遊びに行きましたものです。

この年は、昭和天皇が崩御され、平成が始まった年。
3月に新婚旅行で、ウィーンやスイス、パリに行きました。
そのあとは、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、東欧諸国の共産政権の崩壊などが連続して起こり、やがてソ連の共産体制も滅んでゆくことになるのでした。
そうそう、旅行から帰ってきたら、消費税制がスタートしていた。

もう昔のことですが、歴史は巡りゆくのでしょうか、世界はまたも激動中です。

Minatomirai_b

観覧車といえば、ウィーンのプラター公園にも。

あちらは、横浜のほぼ100年前、1897年。

その年、エーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト(1897~1957)は、生まれているのです。

コルンゴルトの名を神童としてとどろかせた出世作は、11歳のときに書かれた「雪だるま」。
1908~9年にかけての作曲。
ピアノの練習に明け暮れた少年コルンゴルトは、プラター公園に遊ぶ子供心を持っていたでしょうか・・・・。

そんな思いを払拭したくなるような、抒情と遊び心にあふれた「雪だるま」を聴きます。

Korngold_snow_2


   コルンゴルト  パントマイム「雪だるま」 全曲

        ピアノ:スコット・ウーリー

                    (1994.4@シンシナシティ)


             「雪だるま」~序奏、第1場 

        マティアス・バーメルト指揮 BBCフィルハーモニック

 

                    (1997.6@マンチェスター)

作品番号はありませんが、事実上のコルンゴルトの初成功作は、前段にも書いたとおり、11歳の作曲。

幼少よりピアノ演奏に天才的な閃きを見せたコルンゴルトは、5歳の頃からもう、ピアノを弾きながら、思いついた楽想をスケッチしたり、早くも作曲という行為を行うようになった。

父ユリウスが推していたマーラーにも出会い、少年コルンゴルトは自作を披露し、マーラーを感激させたといわれます。
そして、マーラーはコルンゴルトの作曲の師としてツェムリンスキーを紹介する。

そんな環境のなかで書き始めたのが「雪だるま」。
小曲ばかりだったこれまでの作品の情景描写の優秀さを思った父ユリウスは、息子のために、ちょっとしたパントマイム劇を創作してやり、コルンゴルトは、ピアノ独奏用の劇音楽として、1908年のクリスマスから作曲に着手し、翌1909年の春に完成させます。
40分の大作を、11歳の少年がわずか数カ月で書き上げたこと自体が驚きです。

私的な慈善演奏会で演奏されたこの曲に、居合わせた聴き手は驚き、さらにそこにいた皇帝ヨーゼフ1世の密使が、皇帝にこの曲や、作曲者のことを報告するという事態になり、「雪だるま」の正式上演への期待がウィーン中に高まることとなるのでした。

ピアノの原曲をそのままに、オーケストレーションを施したのが、師ツェムリンスキー。
その譜面を携え、出版社がマーラーの後任としてウィーン国立歌劇場の総監督に赴任していたワインガルトナーに勧めたところ、ワインガルトナーはとても気に入って、その上演を快諾。
そして、ついに、1910年10月、作曲から1年半で、フランツ・シャルクの指揮によって初演され、未曾有の大成功を収めることとなりました。
このとき、コルンゴルトは13歳。
ウィーンの寵児の誕生でした・・・・・・。

こうして人々から喝采を受けたコルンゴルトが、のちにアメリカに渡り、映画音楽に手を染め、そして戦後クラシック音楽界に復帰しても、ウィーンを始めとするヨーロッパ楽壇は、彼を冷遇し、失意のうちにアメリカに没するコルンゴルトの運命なのでした。

さて、オーケストラ版は、たぶん全曲がまだなくて、一番長く演奏しているのが、バーメルト指揮するシャンドス盤です。
今日は、ピアノ全曲盤と、オーケストラ版の一部を聴きましょう。

この劇の素材は、道化師、コロンビーヌ、パンタロン(意地悪役)の3人の登場するイタリア仮面即興喜劇で、いわゆるドタバタ系のオモシロ劇なんです。

序奏と、第1部、間奏(ワルツ)、第2部からなり、CDでも4トラックに分けられてます。

①雪のクリスマスの街かど、左手にはパンタロンの家で、姪のコロンビーヌがいる。
貧乏なヴァイオリニストのピエロは、コロンビーヌに恋するけれど、パンタロンに追い出されてしまう。
酒好きのパンタロンが酔って、雪だるまに挨拶する姿を見て、ピエロは、雪だるまに扮装して、窓越しに、愛するコロンビーナを見つめることとします。

②そのピエロが扮した雪だるまばかりを見つめるコロンビーヌに嫉妬したパンタロン氏。
その雪だるまを暖かい家の中に、冗談で、招待してみると、本当に動き出してやってきた。
驚いたパンタロンは、家人に雪だるまをやっつけるように命じるが、全然歯がたたない。
悔しくなって、また酒を飲みだすパンタロンの酔った目には、雪だるまが何人も見えるようになり、そのすきに、コロンビーヌとピエロは手を携えて逃げてします。
 目ざめた、パンタロンは顛末を聞き、怒り、広場にあった雪だるまに体当たりをくらわせる・・・・

                 幕

こんな物語につけられたコルンゴルトの音楽が、実にステキなんです。

登場人物たちに付けられたライトモティーフは簡明ながら、おそらく心情に応じて、表情も変化するし、敵役パンタロンの滑稽さや、ピエロの弾くヴァイオリンの優美さとの対比も鮮やか。
聴いていてその情景が思い浮かぶようです。
 若くしてこの才能。
この作品の5年後、コルンゴルトは、初のオペラを作曲しますが、その素材も、「人生で一番、大切なものを捨てる」という、実に大人な物語をユーモアたっぷりに描くわけです。
そんな劇場作品を次々に生み出し、実写のスクリーンに生き生きとした音楽を付けてゆく、今後の作曲活動の原点を、ここ「雪だるま」の音楽に見ることができます!

ツェムリンスキーのオーケストレーションは、そうしたコルンゴルトの優しくて、甘味な音楽を余すことなく反映させていて、これまたステキなものです。
 しかしながら、ちょっとムーディにすぎるかも。

ピアノ版の方が、もう少しメリハリも効いてて、雰囲気に流されないシンプルなよさを感じます。
それにしても、とっても美しいメロディーが。
ピエロの奏でるセレナーデは蕩けるように美しく、オケ版では、当然にヴァイオリン・ソロによって演奏されます。
それと、ワルツ。
劇中と、1と2の場の間奏曲にも使われます。
ウィーンの伝統に則った、煌めくようなワルツに、後ろ髪引かれるようなノスタルジーさえ感じます。
これを聴いた、ウィーンの人々は、胸をかきむしられるほどの想いを抱いたことでしょう。

あと、エンディングの小粋の効いたユーモア。

音楽だけでなく、映像でもいいからバレエ付きで観てみたいものです。

まだあと少し、コルンゴルトを今月は続けます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2015年11月18日 (水)

コルンゴルト シンフォニエッタ バーメルト指揮

Tower_b

今年も街は、クリスマスのイルミネーションで明るく輝くような季節になりました。

しかし、冬はもうすぐ、晩秋なのに、暖かな陽気で、イルミネーションもいまひとつ美しさに欠けるように思えたりもする。

そう、ほんとは、一日一日と、クリスマスを迎える喜びにあふれるはずなんだけど・・・・。

パリで起きたあまりに残酷な事件と、その前のロシア機の墜落。

犯行声明を出した連中からすれば聖戦ということらしいし、空爆を受け、そちらも民間人の被害が出ていることへの報復ということになろうが、こんな血で血を洗うことに、何の意味があろうというのだろうか・・・・・。

Tower_a

東京タワーは、追悼の意を込めて、ひと晩だけ、トリコロールカラーになりました。

日本は、島国のため、敗戦時の占領治下を除き、外部からの支配を受けたことのない稀有な国だが、地続きのアジアや、中東、ヨーロッパは、長い攻防の歴史がある。
もっと言えば、白人優位社会が、宗教の旗印のもとに蹂躙してきた中東は、同じ地域に3つの宗教の聖地が入り乱れることからも、その不幸の歴史があるのですね。

ここで、それを紐解いて、どちらが悪いということは論じる場所ではないが、ナチスに追われたユダヤ人の国はできたけど、アラブの民は追われることになったし、それ以前の英仏のダブルスタンダード的な対応のひどさも根深い恨みを産むことになったわけだ・・・・。

いま起きているとは十字軍時代にまでさかのぼる、ほんとうに厄介な問題なのだ。

 音楽や文化芸術だけは、国境も、恨みやさげすみもなく、平和の域にあって等しく楽しめるものとしてあり続けて欲しいものだ。

今宵は、神童とされながら、ナチスに翻弄されたユダヤ系としてアメリカに没し、その名前すら一時は埋もれてしまった、エーリヒ・ヴォルフガンク・コルンゴルト(1897~1957)のシンフォニエッタを再び取り上げます。

そして、この作品、11月の神奈川フィル定期演奏会とミューザ特別演奏会で、ウィーンっ子のゲッツェルさんの指揮によって演奏されます。

Korngold

  コルンゴルト  シンフォニエッタ Op5

    マティアス・バーメルト指揮 BBCフィルハーモニック

                         (1994.9 @マンチェスター)

    ヴェルナー・アンドレアス・アルベルト指揮 北西ドイツフィルハーモニー

                         (1986.7 @ヘルフォルト)


幼少期から音楽の才能の片鱗をあらわしたエーリヒ・コルンゴルトは、音楽評論家として、その毒舌ぶりがのちに恐れられることとなる、ユリウスを父として、実業家娘を母として、モラヴィア地方のブルノに生まれる。

この父が、かつてのレオポルドと同じく、神童モーツァルトをヨーロッパ各地にプロデュースしていったように、息子の才能に驚き、歓喜しつつも、ウィーンの寵児としてもてはやされるようにマネジメントしてゆくこととなります。

そして、爽快さと、R・シュトラウスばりの爛熟サウンドを早くも少年期コルンゴルトは造り出すのです。
わずか6,7歳のコルンゴルトの才能に、マーラーは驚きをもって迎え、そして可愛がり、少年エーリヒも大いに慕い、そして、R・シュトラウスは、初出版された少年の作品のスコアを見て、父ユリウスに祝福の言葉を贈っております。

そんな少年、エーリヒの最初の作品は、8歳のときに書いた歌曲で、その後、カンタータやワルツを書いたあと、ピアノのためのバレー音楽「雪だるま」を11歳で作曲し、これがセンセーションを引き起こすこととなります。

1911年、マーラーの没したの年に14歳にして、初の管弦楽作品「劇的序曲」を作曲。
この曲は、ニキシュとゲヴァントハウス管によって初演され、ここでも驚きを持って聴衆に迎えられます。
この曲は14分あまりの大作で、のちの「交響曲」の片鱗をうかがうこともできます。

そしてその次に、コルンゴルトが取り組んだのが、4つの楽章を持つ43分の大曲。
「シンフォニエッタ」と銘打ちつつ、大きな規模を持つ作品を完成させたのが1913年、16歳で、同年、ワインガルトナーとウィーンフィルによって初演され、大成功を導きだします。

シュトラウスや、マーラーやツェムリンスキー、その時代の先輩たちからアドバイスや影響を受けつつもすでに、成熟し完成型にあったその音楽スタイルは、のちのハリウッドでの明快で、煌びやかなサウンドも予見できるところもおもしろい。

本格交響曲のようには構成感や深刻さがなく、「Motiv des frohlichen Herzens」=「Theme of the Happy Heart」とされたテーマ、すなわち、「陽気な心のモティーフ」が全編にわたって用いられ、曲のムードや統一感を作り上げております。
このモティーフ、曲の冒頭から鳴ります。

Korngold_sinfonietta_2(CDリブレットより)


このいかにもコルンゴルト的なシャープのたくさん付いたテーマは、キラキラ感と羽毛のような優しい繊細さが半端ありません♯

第1楽章は、爽やかなムードがあふれるソナタ形式ですが、思わず、心と体が動かしたくなるようなステキなワルツもあらわれ、奮いつきたくなってしまいます。

スケルツォ楽章の第2は、打楽器が大活躍する活気あふれるダイナミックな場面、ここは、後年のオペラ「カトリーン」の劇場の場面を思い起こします。
それと中間部は「夢見るように」と題された場面で、静けさと抒情の煌めきを聴くこととなります。

聴くと、いつも陶酔郷へと導いてくれる、ロマンティックなラブシーンのような音楽が第3楽章。
これがいったい、16歳の青年の作品と思えましょうか。
ここでは、コルンゴルトの特徴でもある、キラキラ系の楽器、ハープ、チェレスタ、鉄琴が、夢の世界へ誘う手助けをしてくれるし、近未来系サウンドとして、当時の聴衆には感嘆の気持ちを抱かせたことでしょう。
ずっとずっと聴いていたい、浸っていたい、そんな第3楽章が大好きです。

そのあと、一転して、ちょっとドタバタ調の、不安な面持ちと、陽気さと入り乱れ、シュトラウスを感嘆せしめるほどの見事なフィナーレを築きあげるのが4楽章。
エンディングは高らかに、「陽気な心のモティーフ」が鳴り渡り、爽快な終結を迎えます。

この曲の音源は4種ほどあるようですが、そのうち、バーメルト盤と、アルベルト盤を聴いてます。
後者は、かつて記事にしておりますので、今回は、バーメルト盤を中心に聴きましたが、この演奏は、重心もどちらかというと軽めで、英国オーケストラならではのナチュラルさと、柔軟さがとても心地よいです。
 録音の取り方にもよるのでしょうが、そのあとに、アルベルト盤を聴くと、音の重心がもう少し下のほうに感じるところが面白いし、旋律の歌わせ方もより濃密です。
英国とドイツのオーケストラの違いでしょうか。
わたくしには、こちらの方が刷り込みですが、3楽章の美麗さでは、バーメルト盤かも。

快活でイキイキとした音楽造りのゲッツェルさんと、コルンゴルト・サウンドを本質的に持ち合わせていると確信している神奈川フィルの演奏、とても楽しみです。
ちなみに、そのコンサートの前半は、オピッツのピアノでブラームスの2番の協奏曲という、豪奢なウィーン特集なんです。

過去記事

 「アルベルト指揮 北西ドイツフィル盤」

神奈川フィル公演案内

  http://www.kanaphil.or.jp/Concert/concert_calendar.php
 
 

| | コメント (5) | トラックバック (0)
|

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

いぬ | ねこ | アイアランド | アバド | アメリカ音楽 | イギリス音楽 | イタリアオペラ | イタリア音楽 | ウェーベルン | エッシェンバッハ | エルガー | オペラ | カラヤン | クラシック音楽以外 | クレー | コルンゴルト | コンサート | シェーンベルク | シベリウス | シュナイト | シュレーカー | シューベルト | シューマン | ショスタコーヴィチ | ショパン | スーク | チャイコフスキー | チャイ5 | ツェムリンスキー | テノール | ディーリアス | ディーヴァ | ドビュッシー | ドヴォルザーク | ハイティンク | ハウェルズ | バス・バリトン | バックス | バッハ | バルビローリ | バレンボイム | バーンスタイン | ヒコックス | ビートルズ | ピアノ | フィンジ | フォーレ | フランス音楽 | ブラームス | ブリテン | ブルックナー | プッチーニ | プティボン | プレヴィン | ベイスターズ | ベネデッティ | ベルク | ベルリオーズ | ベートーヴェン | ベーム | ホルスト | ポップ | マリナー | マーラー | ミンコフスキ | メータ | モーツァルト | ヤナーチェク | ヤンソンス | ラフマニノフ | ランキング | ラヴェル | ルイージ | レクイエム | レスピーギ | ロシア系音楽 | ローエングリン | ワーグナー | ヴェルディ | ヴォーン・ウィリアムズ | 北欧系音楽 | 古楽全般 | 器楽曲 | 小澤征爾 | 尾高忠明 | 幻想交響曲 | 料理 | 新ウィーン楽派とその周辺 | 旅行・地域 | 日本の音楽 | 日記・コラム・つぶやき | 映画 | 書籍・雑誌 | 東欧系音楽 | 歌入り交響曲 | 現田茂夫 | 神奈川フィル | 第5番 | 若杉 弘 | 趣味 | 音楽 | 飯守泰次郎 | R・シュトラウス