フォーレ レクイエム A・ディヴィス
桜満開のときの小田原城。
ライトアップされた城と桜を見てきました。
高校時代を小田原で過ごしたけれど、お城に登城したのはほんの数回。
むしろ幼稚園や小学校の時の方がよく行っていた。
学校が終わると、音楽が早く聴きたくてお家にまっしぐらだった。
いまや、観光地となった小田原だし、箱根の玄関口として訪れる方もたくさん。
小田原といえば、みなさん海鮮やおでんということになりますが、たしかにそれらは美味しいけれど、城下町グルメはういろうという和菓子とあじの干物に、かまぼこ。
あと、自分の思い出はレトロな昭和のデパートと喫茶店、そこで食べたホットドッグ。
そして「名曲堂」という名のレコード店。
レコードは名曲堂と、ナックというショッピングセンターにあったレコード店。
フォーレのレクイエム
これほどに優しく、心の空白感や喪失感をなだめてくれる音楽はない。
と同時に哀しくないときも、心の平安を呼び覚ましてくれる音楽。
フォーレの音楽は、多くは室内楽作品やピアノ、歌曲などに佳作が多いが、いわゆるフランス音楽的なエスプリとともに、どこか没頭感のある陶酔してしまうようなパッションのようなものも感じる。
フランスはラテンなのだ。
昨今のフランスという国をみているとつくづくと思う。
植民地統治の名残から他民族国家でもありつつ、熱いパッションは変わらない。
一方で、何年か前にノートルダム寺院が火災にあったとき、フランスの人々の悲しみや喪失感を見たときに、カトリック教徒としての熱き信仰心あふれる姿も見ました。
真摯な祈りが基調の音楽は遠くルネサンス期からバロック期までさかのぼり、営々としていまにいたるまで優美ななかに感じ取ることもできると思います。
滋味にあふれるフォーレ独特の陶酔感があふれるレクイエム。
人が無意味に亡くなりすぎる悲しみの連鎖。
フォーレを無性に聴きたくなり、ニュートラルで優しいアンドリュー・デイヴィスの若き頃の演奏で聴く。
フォーレ レクイエム
S:ルチア・ポップ
Br:ジークムント・ニムスゲルン
アンドリュー・デイヴィス指揮 フィルハーモニア管弦楽団
アンブロージアンシンガーズ
(1977.7 @オール・セインツ教会)
※ジャケット画像は借り物です
いまや、英国音楽界の重鎮となったサー・アンドリュー。
指揮活動も50周年を数年前に迎え、コンサートとオペラに味わいのある演奏をいくつも残してます。
地味な印象が先行しがちですが、はったりのない誠実な演奏が、作品の本質を素直に引き出し、大いなる感銘を与えることもしばしです。
昨今の英国音楽の貴重な録音の数々は、ヒコックスやハンドレー、B・トムソン亡きあと、貴重な存在であるとしかいえません。
英国人ではないですが、現BBC響の指揮者としてその任期も延長したサカリ・オラモ、ブラビンス、ウィッグルワース、ジョン・ウィルソンらとともに私の信頼する英国音楽の担い手であります。
ことさらに、多くを語らず、優しい語り口でそっと素直につぶやいてみたような演奏。
イギリスのオケと合唱であることも多弁にならずにいい。
このコンビで、数年前にはデュリュフレのレクイエムの名演も録音している。
のちに、ウォータン歌手となりニムスゲルンも、ここではアクの強さは控えめに、柔らかな歌唱に徹していて好感が持てる。
あとなんといっても、ルチア・ポップの楚々たる、ほどよき甘き歌い口。
ポップの声が大好きな自分にとって、まさに天国からの歌声に聴こえる・・・・
前にも書いたが、人は死ぬ時に、麻薬の症状にも似た、体を麻痺そして高揚させる何かを分泌するとかいうことを読んだことがある。
美しく平安に満ちて亡くなるご尊顔が多い。
神様がすべてを解き放つように仕向けてくれるのだろうか。
フォーレの美しすぎるレクイエム。
あざといぐらいの色合いのイルミネーションで城門もあでやか。
でも桜は、こんなふうに鮮やかに脚色しても美しい。
何十年かぶりに、子供時代、青年時代を過ごしたエリアで暮らすようになった日々。
思い出の連鎖はやはりとどめようがない。
さまよえる自分はここにとどまり、終止符を打つのだろうか・・・・
最近のコメント