カテゴリー「チャイコフスキー」の記事

2024年7月28日 (日)

フェスタサマーミューザ2024 ノット&東響 オープニングコンサート

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今年もフェスタサマーミューザの開幕を迎えました。

昨年に続き、オープニングコンサートに行ってまいりました。

連日、猛烈な暑さの続くなか聴いた「真夏のチャイコフスキー」はクールダウンにもなり、また熱気と興奮で熱くもなりました。

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 チャイコフスキー 交響曲第2番 ハ短調 op.17 「小ロシア」

          交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」

    ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

        ゲストコンサートマスター:景山 昌太朗

       (2024.7.27 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

昨年は、3番と4番で、今年が2番・6番、ということは来年は1番と5番でチャイコフスキー全曲完結となりますか!
2026年3月がノット監督の任期なので、マンフレッドはどうなるか?
いずれにせよ、毎年の楽しみではあります。

わかり切った名曲だと、パンフも見ずに聴き挑んで早々、耳に沁みついたアバドのふたつの音盤とあきらかに違う曲だと気が付いた2番の1楽章。
そう、1楽章をほぼ書き直した聴き慣れた8年後の改訂版でなく、初稿版を採用したノット監督ならではの慧眼。
冒頭の素晴らしいホルンの導入は同じなれど、その後が全然違う。
くり返しのくどさが増し、曲調も荒々しい雰囲気に。
2番のこのたびの演奏は、全般に荒々しさとスピード感と抜群のリズム感、雄大なまでのダイナミズムに満ち溢れた、まだまだロシアの民俗楽派の流れの元にもあったチャイコフスキーの姿を聴かせてくれたものだと思う。
 チャイコフスキーは、ウクライナの南方にあるカムンカというモルドバ寄りのドニエストル川流域の地で夏の休暇を過ごし、そこでウクライナ民謡などを取り入れつつ作曲した。
南方へのあこがれと、それを体感し堪能した解放感がこの曲にはあります。
初稿版採用のこだわりは、そんな背景もあるのだと思いました。
パンフには、タイトルが「ウクライナ」とされ、かっこ書きで(小ロシア)と表記されてましたが、ウクライナ民謡が扱われていることからついた呼称なので正しいといえます。
チャイコフスキーの頃は、ウクライナでなく、ロシアからみたら「小ロシア」だったかと思います。
これ以上書くとややこしくなるし、多方面から矢が飛んできそうなので辞めます・・・

ともかく、爽快きわまりない、ノット&東響の2番でした。
蛇足ながら、曲中、補聴器ピーピーが2度聴かれました。
そのピーピーがメロディのように聴こえ、実際の演奏に同調しているかのように聴こえました。
ライブ録音もされていたなか、修正はなされるでしょうが・・・・

名曲の鏡ともいえる「悲愴」に一石を投じるかのような、これもまた爽快な演奏。
なんたって、悲愴臭なし、いい意味で流れるような流線形的な演奏。
とくに1楽章での旋律の歌わせ方は、第1主題はさりげない表現で、切ないはずの第2主題もあっけない辛口表現。
まさかのバスクラ不使用のファゴット落ちの後の展開部のクライマックスも切実さよりは、より楽譜の的確・忠実な再現に務めた感じで、音楽の持つ力を信じての演奏に徹していたように感じた。
 5拍子の2楽章でも辛口表現で、甘さなしで心地よい。
嫌でも興奮してしまう3楽章では、オケの威力全開で、ノットもここぞおばかりに煽りますし、オケも楽々と着いていく様子が、指揮者の真正面の位置で、楽員さんの演奏姿を見ていてよくわかりましたね。
拍手なしで堪えて終楽章。
ここでも徹頭徹尾、楽譜の忠実な再現ながら、気合とみなぎる指揮者の緊張感は並々ならず、オケもそれをヒシと受け止め、高まりゆく音楽の波をいやでも表出。
音楽の本来持つ力だけで、思い入れや、悲劇臭の注入・没頭感もなく、ここまで見事に演奏できるのだと体感。
低弦だけとなり、コントラバスのピチカート、チェロの低音だけで消え入るように曲は終わった。
静寂につつまれるホール。
全員で無の余韻をしばし楽しむ。
ノットが手を降ろして、しばし後に拍手がじわじわと広がり、やがてブラボーに包まれました。
これぞ、コンサートの楽しみ、喜びを堪能しました。

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全方位、みんなの拍手ににこやかに答えるノットさんでした。

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終演後、音楽聴き仲間とご挨拶し、軽く喉を潤しました。
音楽で観劇・興奮したあとの一杯は最高です。
夏はこんなツマミでいいんだよ。

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バッハさん、毎年、日焼けしすぎじゃね。

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2023年12月22日 (金)

チャイコフスキー くるみ割り人形 スラットキン指揮

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クリスマスシーズンになると訪れる銀座の教文館。

毎年ステキな雰囲気あふれる飾り付けがなされ、心洗われます。

右の方にはイエスの降誕のシーンが。
そちらは次に。

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こちらはゴージャスな六本木のカルティエのツリー。

数年年前の自粛時の人けの少ないクリスマスが嘘のように、今年はどちらも、内外の人々も含めて賑やかだ。

LEDの進化と普及で、ますますイルミネーションは多彩になったが、それもこれもわれらが日本人の同胞の発明によるところだ。
ありがたくも楽しませていただく。

そして、クリスマスは心温まる物語もつきもの。

いくつになっても、爺ちゃんになっても大好きな「くるみ割り人形」。

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 チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」

  レナード・スラットキン指揮 セントルイス交響楽団

    (1985.3.26,28 @パウエル・シンフォニーホール)

みんな大好きチャイコフスキーの「くるみ割り人形」。

小学5年か6年に組曲版で小学校の授業で聴きました。
当時もう、クラシックが好きでレコードを集めだしていただけに、音楽の先生のレコードの扱い方がぞんざいで、指紋がついちゃうとか冷や冷やしてましたね~
町のレコード屋で、毎度お世話になったコロンビアのダイアモンド1000シリーズのなかの1枚を購入したが、廉価盤業界のなかの名指揮者ハンス・ユイゲン・ワルター指揮のプロ・ムジカ交響楽団の演奏だった。
今一度聴いてみたい。。。

チャイコフスキーの晩年の傑作群のひとつ。
「眠れる森」、交響曲第5番や「スペードの女王」と「イオランタ」「悲愴」に挟まれた時期である1891年の作曲。

大人から子供まで、みんなが楽しめるバレエとして「白鳥の湖」とともに世界中で上演されているし、コンサートでも全曲版や2幕が、一夜のプログラムや後半のメインとして演奏される。

数々の全曲盤があり、いずれもそのジャケットはメルヘンを感じさせ、とても美しく楽しい。
スラットキン盤のジャケットはネットからの借り物ですが、いかにもアメリカらしくリアルで写実的なもので悪くないです。
チャイコフスキーを得意とするスラットキンがセントルイス時代に、交響曲全曲と3大バレエを一気に録音した。
いつも若くて元気な印象のスラットキンですが、もう79歳になります。
そのスラットキン40歳のときの録音は、最新のものと比べるとやや潤い不足ですが、ホールの残響少なめな、これもジャケットのようなリアルサウンドで、音楽そのものを楽しめる。
全体に速めにキリリと引き締まった演奏で、そのリズム感のよさはスラットキンならではで、クリスマスのワクワク感や、各バレエの弾むような楽しさがとてもよい。
もちろん夢見るようなファンタジーシーンもいいが、このあたりはもうちょっと連綿とやって欲しかったとも思う。
よくも悪くもアメリカらしい、明るくもあっけらかんとした演奏ともいえよう(笑)

スラットキンは日本には何度も来ていてきっと日本びいきなのだろう。
テラークレーベルから高音質CDを連発していたころ、N響にやってきた。
たしか、84年のことだったか、得意のラフマニノフ2番や幻想などが演目で、私は狂喜してエアチェックにいそしみ、その弾むような指揮ぶりもテレビで見て、当時のN響から鮮やかな音を引き出すその指揮ぶりがおおいに気にいったものだ。
音楽監督選出にもその名前があがって、最終的にはデュトワになったのもいまでは懐かしい。
セントルイス(79~96)のあとは、ナショナル響、BBC響、ナッシュビル響、デトロイト響、リヨン管と欧米のオケを歴任したスラットキンですが、いまでもセントルイスでは名誉指揮者のポストにあり、毎シーズン客演しているようだ。
再来年には都響に来てラフマニノフの2番を指揮してくれるから楽しみだ。

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以前の記事の再掲で、私の好きなシーンをいくつか。

       第1幕

①おなじみの序曲とそれに続くワクワク感満載の「クリスマスツリー」の情景。

②祖父ドロッセルマイヤの踊り。こんな楽しいお爺ちゃんになりたい。

③お客さんが帰り、夜。そしていよいよの高揚感。

④冬の松林~チャイコフスキーならではの情景描写

⑤雪片の踊り~こ洒落たワルツ、女声(児童)合唱を入れたところ、天才的

       第2幕

⑥お菓子の国と魔法の城~城を見渡せる高台にいるかのような気分でわくわく

⑦クララと王子~さあさあ、主人公たちの登場ですよって感じ

⑧ディヴェルティスマン~各国のダンスが勢ぞろい、いずれの筆致も神がかり

⑨花のワルツこそ、チャイコフスキーの代名詞か。
  ステキすぎるだろ、このワルツ。

⑩パ・ド・ドゥ~ロマンティックなアダージョで夢見る少女な気分になれるよ、
         こんなオジサンでも。
         そしてタランテラときて、金平糖さんは可愛いチェレスタ
         でもって、急転直下のコーダ
         この展開好き♡

⑪終幕のワルツにアポテオーズ~ドラマチックになりすぎない可愛い終幕
         夢から覚めた夢を見た感じ

ともかく楽しく、メロディアスで何度でも聴いちゃうくるみ割り人形。
楽しいったらありゃしない。

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アメリカ中西部の都市セントルイスは歴史の街でもあります。
ミズーリ川とミシシッピ川にはさまれ、R66とR40も通る、水上と陸上の交通の要衝。
さらには、スポーツでは高名なるカージナルスがあり、野球は大人気で、ヌートバーがいるところ。
人口は周辺のセントルイス都市圏でみると280万人で、巨大企業もたくさん存在。

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ミシシッピ川沿いに立つゲートウェイアーチが有名で、いわゆる絵になるインスタ映えする名所もあります。
典型的なアメリカの大都市のひとつで、名物グルメもアメリカらしく、バーベキューにステーキに、ステーキ肉を刻んでトッピングしたセントルイスピザが有名だとか。

音楽では一般的には、ブルースということになりますが、われわれクラシック愛好家には、セントルイスといえば、オーケストラです。
オーケストラでは、アメリカ第2の古さを有する名門。
1880年の創立で、歴代指揮者で有名どころは、ゴルシュマン、ジェスキント、セムコフ、そしてスラットキンときて、フォンク、ロバートソンと続き、現在はドゥヌーヴが音楽監督として2019年から務めてます。

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セントルイス響の本拠地、パウエル・ホール。
ここで数々の名録音が生まれたが、現在は大規模修繕で閉業中で、2025年に新規開業の予定とか。
アメリカ人指揮者ロバートソンあたりから、録音が途絶え、ドゥヌーヴの録音もひとつも出てないと思う。

スラットキンが指揮者となって、テラーク、EMI、RCAと次々と録音が増え、オーケストラの実力もうなぎ登りとなり、スラットキンのオーケストラビルダーとしての力量も70年代後半から評価されるようになった。
83年だったかと思うが、タイム誌のアメリカのオケランキングで、セントルイス響をいきなりビッグファイブのなかに選出。
このときは世界がどよめきましたし、わたしも、レコ芸のみが情報源でしたがビックリしたもんです。
80年代をピークにセントルイス響の人気や実力もやや下降ぎみ。
いまのこのオケの姿をこの耳で確かめたいものだ。
ネット放送もなく、youtubeでいくつか断片的に聴けるにとどまる状況ですが、ほかのアメリカのオケ、いや世界のオケによくあるように、メンバーにはアジア系の弦楽器奏者が大半を占めてます。
隣国のふたつの国の、教育水準の高さと熱心さは見習わなくてはならないですが、彼らの物怖じしない強さもわが邦にはないものです。

セントルイスを舞台にした映画、邦題は「若草の頃」、Meet Me in St.Luis~セントルイスで会いましょう。
終戦間近の1944年の作品で、ジュデイ・ガーランドの主演。
クリスマスイブに妹に歌うHave Yourself a Merry Little Christmasは、クリスマスソングの定番となり、涙が出るほどにステキだ。

アメリカには夢があった・・・・
正直それはもう過去形です。
かつでは20年遅れぐらいで、アメリカの波が日本にも起きたけれど、いまはもうすぐに来るし、病めるアメリカと同じ波がもう来てる。
悲しいことに、過去を思い出すことで幸せを感じるようになったと思う。

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いや、それじゃだめじゃん、いくつになっても希望や夢を捨てちゃダメだ。

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2023年7月23日 (日)

フェスタサマーミューザ ノット&東響 オープニングコンサート

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アロハ着た、ファンキーなサマー・モーツァルトがお出迎え。

2004年に開館、翌2005年から始まったサマーミューザ、18年目の今回、オープニングコンサートに行ってきました。

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 チャイコフスキー 交響曲第3番 ニ長調 Op.29「ポーランド」

          交響曲第4番 へ短調 Op.36

       ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

          コンマス:グレブ・ニキティン

        (2023.7.22 @ミューザ川崎シンフォニーホール) 

真夏のチャイコフスキーを堪能。

めったに演奏されない3番、全集の一環としてしか録音されない、6つの交響曲の中では一番地味な存在。

あらかじめ、ノット監督のチャイコフスキーの交響曲に対する考えを読んでから望んだコンサートで、氏の思いとする演奏になったと2曲ともに思いますが、両曲で解釈が違った。

ノットが東響の指揮者になって10年。
この間、協奏曲はおろか交響曲も一度もとり上げたことがないそうだ。
海外では4番と5番は指揮しているし、「エウゲニ・オネーギン」も何度も取り上げているという。
オペラの叩き上げの指揮者ノットにとって、チャイコフスキーはフォルテが3つも付いた爆音や、勇ましい金管などではなく、詩情とはかなさに満ちた音楽に神髄があると見出しているようだ。
 また1~3番をよく見通したうえで、さらにはロシアの他の作曲家についても思いを巡らして検証したとも語っている。
ノットの演奏は、同じ演目でも次の日は解釈が違う場合があるというし、ホールによっても変わって来るともいう。
考える人ノットのこうした思いを、東響は完全に理解して、ほんのちょっとの動きや視線などにもすべて反応できているという。

さて3番。
ワタクシは、ハイティンクやアバドのヨーロピアンな演奏が刷りこみで、ロシア系の演奏はほとんど聴いてません。
ゆえに民族臭を一切感じさせない、スタイリッシュなノットの演奏にはすんなりと入りこめ、ワクワク感もひとしおだった。
5つの楽章で、まるでマーラーの7番を思わせる構成は、ノットも語っている。
両端楽章に挟まれた3つの楽章、その両端はワルツやスケルツォで、ど真ん中が詩的な緩徐楽章。
わたしには真ん中の楽章が夜曲のように聞こえたし、その次の4楽章は、奇異でファンタジックな様相を巧みに表出。
一転して終楽章は、一気にギアを上げた感じで。ポロネーズではあるけれど、一気呵成のロンド楽章のような解釈。
私は手に汗するくらいにこの演奏にのめりこみ、ドキドキが止まらなかった。
バレエっぽい様相もあるけれど、こちらはオペラの大団円みたいな壮大さで、高らかに鳴り渡るオーケストラに留飲が下がりました。

後半の4番。
聴き慣れたこちらもユニークな演奏で、冒頭のホルンの抑えた咆哮ぶりは期待していた向きには、冷水を浴びせるような響きだった。

チャイコフスキーがメック夫人に宛てたというそれぞれの楽章の注釈。
①運命の旋律! これが中間部のメランコリックな雰囲気に浸っていても、人間を現実に戻してしまう。
②仕事に疲労困憊。夜中に過去を想う。
③酒を飲んだときのとりとめない観念。
④生きるには素朴な喜びが必要。どんなに苦しくても、その存在を認め、悲しみを克服するために生き続ける・・・・・。

まさにこれ。
圧倒的な1楽章の悲観的な最後も、さほどの狂気はなく、どこか後ろ髪を引かれるもどかしさも伴った。
東響の素晴らしい木管陣が見事だった2楽章は抑制が効いていて、憂鬱度合いは少なめ。
そして、ここでもムードを一転させたのが3楽章。
テンポを速めにとり、一気呵成に、酒酔いの混乱も次の喜びへの前哨戦のようだ。
アタッカで突入した終楽章は、音色の明るさの爆発で、ミューザの高い天井から輝かしい音たちが降り落ちてくるのを体感でき、暑さも吹っ飛ぶ爽快さに脱帽。
決して圧倒感と効果のための盛り上げ感などとは無縁の明るさあふれるエンディングでありました。

おお盛り上がりの会場。
鳴りやまぬ拍手に応え、ノット監督ひとりで登場し喝采を浴びてました。
さらに、この日退団のため最後のステージとなったトランペットの佐藤さんを伴って再度登場、自身も暖かい拍手を長年務めた団員に捧げておりました。
ノットと東京交響楽団の絆の深さを、あらためて感じたチャイコフスキーでした。

ちなみにオーケストラの配置は、対抗配置で、チェロは第1ヴァイオリンの横、その左手奥にコントラバスといった具合で、この配置が、特に3番の場合、実に効果的であったことを最後に書いておきます。

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この日は、遠来の音楽愛好仲間でノットの追っかけをされてますS氏と、アバドの日本一の愛好家のY夫妻と、ほんとに久方ぶりにお会いできました。
短い時間でしたが、みなさんお車関係などで飲めるのはワタクシだけで申しわけなくもビールを一杯。
楽しいアフターコンサートを過ごし、お別れしたワタクシは賑わう川崎の街にひとりフラフラと。

そこで飲んだのが、糖質ゼロのパーフェクトビールの生。
缶では飲んでるけど、生で出てくるのは初めて。

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枝豆食って、唐揚げ食べて、ハイボール飲んで、気分よろしく川崎をあとにしましたよ。

サマーミューザ、次は・・・ふっふっふ🎵

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2023年3月23日 (木)

神奈川フィル @小田原三の丸ホール 

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毎度おなじみ小田原城。

自分の育った神奈川西部エリアに帰ってきてから1年。

小田原と平塚には始終行くようになりましたが、鶴首していたのがこのふたつの街に出来た新しいホールでのコンサート。

平塚のホールは先月に行きました。

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昨年オープンした小田原三の丸ホールでは、待望の神奈川フィルの演奏会♪

お堀のすぐそばの、まさに三の丸が位置した場所にできたホール。

長年、小田原の文化の中心だった市民会館が閉館し、その跡を継いだのがこちらのホール。

市民会館は何度かその舞台にも立ったこともあり、寂しいものですが、この美しい新ホールには今回まったく心奪われました。

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2階のホワイエから望めるお城と背景は丹沢連峰、この左手奥には箱根の山々も見えます。

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落ち着いた雰囲気のホール、先日聴いた平塚ひらしんホールよりも天井高で、音の広がりのよさを予見できる造り。

そして実際に聴いてみて、素晴らしい音響に感嘆。

フォルテからピアニシモまですべてがよく聴こえ、どんな強音でも楽器ひとつひとつが聴こえる分離の良さと、併せて音のブレンド感も豊か。
ずっと浸っていたい安心で気持ちのいい響きと聴こえの良さでしたね。
サントリーホールはいいけど、響き過ぎる。
実にちょうどいい三の丸ホールで、県立音楽堂を新しくしたような音だと思いました。
次は声やピアノも聴いてみないものです。

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  ブラームス    ハンガリー舞曲第1番、第5番

  ドヴォルザーク  チェロ協奏曲 ロ短調

  マーク・サマー  Jukie-O~ジュリー・オー
                     (アンコール)
     チェロ:宮田 大

  チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調

    飯森 範親 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        (2023.3.19 @小田原三の丸ホール)

ブラームス、ドヴォルザーク、チャイコフスキーという同時期に活躍した民族色の強い作曲家たち。
しかも昨年のホールオープニングに来演した都響のオールブラームス・プログラムからの流れを意識して飯森さんが選んだものとありました。

それで付け足しとも思われたハンガリー舞曲の意味がわかった。
オーケストラを乗らせ、整える意味、観客も乗せるという意味では短い舞曲はよかったかも。
5番のラストではパウゼに溜めをつくって、飯森さん、観客を振りむいて、どう?っていう仕草をしましてリラックスムードも作り上げましたね。

前半の目玉、宮田大さんのドヴォコン。
ほんとは、エルガーが聴きたかったと思いつつ、実に久方ぶりのドヴォルザーク。
まさにメロディーメーカーだなと楽しみつつ聴きました。
1楽章はソロとオケがしっくりくるまで見守りましたが、楽譜なしの暗譜の飯森さんの指揮がなかなか的確でありつつも、ソロとの齟齬もややあったかな、と思いました。
でもですね、2楽章の牧歌的かつ詩的な演奏はもう絶品。
神奈川フィルの木管のソロの素晴らしさにみちびかれ、チェロソロが入ってくるところなんざ感涙ものでした。
この楽章でのソロとオケとの幸せな交歓の様子、聴いて、見て、本当に幸せな気分になりましたね。
終楽章も好調のまま、なんやら自然に囲まれた小田原の街の緩やかさと、温厚な機微をその音楽と演奏にと感じることができたのでした。
宮田さんの豊かで繊細なチェロの音色は神奈川フィルにぴったり。

アンコールがすごくて、ドヴォルザークを食ってしまったかも。
ジャズチェロというジャンルがあるかどうか知らないが、まさにそんな感じで、ファンキーさリズム、そして歌にあふれた佳曲で、ピチカート、胴たたきも駆使した技巧的な作品。
めちゃくちゃよかった、大拍手でしたよ。

後半は、神奈川フィルも出演のドラマ「リバーサルオーケストラ」でみなさんにすっかりお馴染みのチャイコフスキー5番。
ドラマではこの作品がちょこっとアレンジされて、運命的なあの動機と2楽章のロマンテックな旋律が随所で流れてました。
最終回、オーケストラの存続を決めるコンサートでは、まさにこの交響曲が勝負曲となり、晴れやかなラストシーンとなっておりました。
わたしの席のお隣には小学校高学年ぐらいの少女を伴ったお母さまがいらして、後半が始まるときに少女はお母さんに、「いよいよチャイ5だね」とささやいてました。
こうして、クラシック音楽も広がりを見せていくことに、音楽を聴く前から感動しちゃいました。

この曲が自分も小学生以来大好きで、もう半世紀以上はいろんな演奏で聴いてきましたが、神奈川フィルでの実演はこれが3度目で一番多い。
その神奈川フィルの演奏会も仕事のこともあり、生活環境の変化もありで、実に7年ぶりとなりました。
舞台に並ぶ神奈川フィルのメンバーのみなさん、半分以上は懐かしく、知悉の方々。
そんな神奈フィルメンバーが奏でるチャイ5は、ドラマでも田中圭演じる指揮者、常葉朝陽の言葉によれば、チャイ5はみんなに聴かせどころがある交響曲。
ほんとその通りで、スコアを見ると、どの楽器も、第1も第2もみんなまんべんなく活躍するし、めちゃくちゃ難しいし音符の数もはんぱなく多い作品。
それぞれのソロや聴かせどころでは、〇〇さん、〇〇ちゃん、頑張れとドキドキしながら聴く始末。
プロのオケだからそんな思いは不要だけれども、自分にとって神奈川フィルは、そんな思いでずっと聴いていたオーケストラだった。
聖響さんの時代のときの公益社団法人への法人格見直し時における存続危機に一喜一憂しながら応援したオーケストラ。

7年もご無沙汰してしまった反省と後悔も、このチャイ5の素晴らしい演奏で気持ちの高ぶりをとどめようがない状況になりました。
冒頭のあの動機を奏でる管楽の演奏から、こりゃまずい、涙腺が・・となりました。
オーソドックスな飯森さんの指揮にみちびかれ、観客もすぐにチャイ5に入り込みました。
アタッカで続いた2楽章、若いホルン首席の方、マイルドでブリリアント、完璧でした、心配した自分がバカでした。
めくるめくような甘味さと、感傷の交錯、ロシア系の濃厚さとは真反対にある神奈川フィルの煌めきのサウンドは、かつてずっと聴いていた音とまったく同じ。
石田組長はいなくても、小田原で聴いてるこの音は神奈川フィルサウンドそのものだった。
もうここで泣いちゃうと思いつつ聴いてた。
休止を置いて、まろやかな3楽章。
終楽章もアタッカで続けて、さて来ましたと会場の雰囲気、おっという感じになったのもドラマの効果でしょうか。
堂々と、でも軽やかに、しなやかにすすむ。
指揮の飯森さんも、ときにオケに任せつつ、ときにドライブをかけつつ、すっかりのりのり。
お馴染みの楽員さんたちが、隣同士で聴き合い、確認しあいつつ、体を動かしつつ、そしてなによりも楽しそうに演奏してる。
もうめちゃ嬉しい、テンションめちゃあがり。
そして、ラスト、コーダで金管の堂々たる高らかな咆哮、指揮者は指揮を止めてオケに任せ、その開放的なサウンドが三の丸ホールの隅々に響き渡る。
それを五感のずべてで感じるかのような喜びたるや!
込みあがるような感動と興奮を味わいつつ終演。

声掛けはお控えくださいとの開演前のアナウンスに、ブラボーは飛ばせませんでした。
もう、いいんじゃね、と思いますがね。



飯森さんの合図で、撮影タイム30秒。
しかし、みなさんあわてて起動しても、なかなか間に合いませんねぇ(笑)
こんどは起動タイム1分、撮影タイム30秒でお願いね。

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こちらは1年前の城址公園の桜。

2022年4月8日の撮影ですが、今年はその頃にはもう散ってしまうでしょう。

桜の花は儚いですが、音楽はずっと変わらず、わたしたちの傍らにいてくれます。

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神奈川フィル、また聴きに行こう。

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2023年1月20日 (金)

チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 アバド指揮

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地元の海の1月のある日の日没。

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日が沈む瞬間の輝きは眩しいほどに美しかった。

1月20日は、クラウディオ・アバドの命日です。

アバドは「悲愴」の録音を4種残しました。

同じチャイコフスキーの5番とともに、ずっと指揮してきた重要レパートリーのひとつです。

 チャイコフスキー 交響曲第6番 ロ短調 op74 「悲愴」

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  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

      (1973.10.1~ @ムジークフェライン、ウィーン)

1973年の初来日、日本から帰った数カ月後にウィーンで録音されたのが「悲愴」。

日本発売されたその日に、高校生の自分、速効買いました。

ムジークフェラインの響きを、まともに捉えた生々しい録音は、硬くなく柔らかでとてもリアルな音だった。
そこには、いまとは違うウィーンフィルのウィーンフィルの音としての音色と響きが、しっかりとここに刻印されておりました。
柔らかな音楽造りするアバドの持ち味が、ウィーンのまろやかなサウンドと相まって、実にピュアな「悲愴」となっておりました。

高校時代の日々、毎日飽くことなく聴きましたね。
冒頭のファゴットと低弦のあとの木管は、ウィーンの楽器が耳に刷り込まれているので、ほかの楽団の楽器では物足りないと思うようになった。
当時のウィーンフィルは、現在と違ってチャイコフスキーを演奏することなどあまりなく、若いアバドにすべてをゆだねてしまったようで、出てくる音はどこまでがアバドか、どこまでがウィーンフィルかわからないくらいに、幸せな共同作業になっていると思う。

4つあるアバドの悲愴のなかでは、いまでもこれが一番好きです。
アバドは10年後の83年にウィーンフィルとコンサートで取り上げてまして、NHKでも放送され、わたくしも録音しましたが、そのCDRがどこかへ行ってしまった・・・
もったいないことしました。 

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   シカゴ交響楽団

      (1986.11.10 @シカゴ)

ウィーン盤から13年後、アバドはその間、スカラ座、ロンドン響、ウィーン国立歌劇場に加えて、相性のよかったシカゴでもポジションを得て、指揮界の頂点にさしかかる途上にあり、そのシカゴとの悲愴再録音。
チャイコフスキー全集の3作目で、ここではやはり、シカゴの高性能ぶりが際立ち、克明なアンサンブルと音の明快さ、金管の輝かしさなどが目覚ましいです。
アバドの流麗な音楽造りは自然さも増して、流れるようにスムースに音楽が進行するが、そこにあふれる歌はもしかしたらウィーン盤以上かもしれない。
ことに2楽章がほんと美しい。
ただいつも書くことかもしれないが、録音が私には潤い不足に感じ、これがDGだったらと思わざるをえません。
またはオケがボストン響だったら、チャイコフスキーの場合はよかったかもしれない。

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  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

    (1993.8.23 @ザルツブルク音楽祭)

指揮者とオーケストラの集中力と、それが引き起こす熱気は尋常ではない。(以前の記事より)
第1楽章が歌いまくりつつも終始熱いまま終え、オケの隅々まで気持ちよさそうな第2楽章を経て、元気な第3楽章では最初のほうこそ手堅くきっちりと進行するものの、徐々にテンションが上がってきて、テンポもあがって最後は熱狂的になる。
そのエンディングから息つく暇もなく、アタッカで始まる最終楽章。
これが、この演奏の白眉。
歌いまくる弦に、思いの丈を入れ込んだ管、むせび泣くような金管にメリハリの効いたティンパニ。
強弱の幅もはっきりしてて、高性能のオーケストラが、すべてをかなぐり捨てて、熱く燃え上がるアバドの棒のもとにその思いを集中させている。
ここでは、めったに聞くことができないアバドの唸り声も聴こえる。
この頃のアバドはライブで燃え上がり、ベルリンフィルもアバドの魅力に取りつかれつつある時期だった。

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  シモン・ボリヴァル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

   (2010.3.18 @ルツェルン)

ベルリンを退任してから、ルツェルン祝祭管との活動と併行して、アバドはマーラー・ユーゲント、マーラー室内管、モーツァルト管など、若者のオーケストラをますます指導、指揮するようになっていった。
そんな一貫として、キューバやベネズエラを訪れ、独自システムにより音楽への道を歩んでいた若者を指導するようにもなりました。
シモン・ボリヴァルの若いオーケストラを積極的にヨーロッパに紹介し、自ら指揮したり、ドゥダメルを推したりもしたアバド。
唯一の音源が彼らをルツェルンに引き連れていったコンサートのものです。
プロコフィエフの「スキタイ」組曲、ベルクの「ルル」組曲、モーツァルトの「魔笛」のアリア、そして「悲愴」交響曲という盛りだくさんのコンサート。
このなかでは、個人的にはプロコフィエフが一番よいと思う。
そして「悲愴」は、アバドらしく流動的な滔々と流れるような演奏で、句読点はあえて少なめにサラリとした感触を受けます。
ルツェルンの仲間たちとの一連のマーラーのように、無為の境地にある指揮者に、オーケストラが夢中になって演奏している様子が見て取れる。
映像で観ると、若い奏者たちは譜面に夢中だけど、体を大きく揺らし演奏しつつも前に立つ指揮者のオーラに感化されゆく姿もわかります。
しかし、ここでも欲をいえば、ルツェルンのオケだったらどうだっただろうかという気持ちになります。
シモン・ボリヴァルの若者オケは彼らの良き個性だと思うが開放的にすぎて、音が広がりすぎて聴こえます。
編成も大きいので、緻密に簡潔な演奏をするようになった晩年のアバド様式にはちょっと・・という気がしました。
メンバーのなかに、ベルリンフィルやルツェルンのオケでのちに見るようになる顔や、ホルンに今やモントリオール響の指揮者となったラファエル・パヤーレの姿も見受けられます。

こうしたとおり、アバドが愛し、育てた音楽家が世界でどんどん活躍するようになってます。
これぞ、アバドが願い、目指し、築いた音楽の世界だったと日に日に思うようになりました。
アタッカで終楽章に入るアバドスタイル。
アバドの思いを考えながら、少し照明を落として演奏されている4楽章が消えるように終わり、長い沈黙のあと拍手が始まる。
アバドは感謝するように手を合わせてました・・・・

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アバドの命日の記事

2022年「マーラー 交響曲第9番」

2021年「シューベルト ミサ曲第6番」

2020年「ベートーヴェン フィデリオ」

2019年「アバドのプロコフィエフ」

2018年「ロッシーニ セビリアの理髪師」

2017年「ブラームス ドイツ・レクイエム」

2016年「マーラー 千人の交響曲」

2015年「モーツァルト レクイエム」
  
2014年「さようなら、アバド」

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2022年2月 4日 (金)

ふたつの2番 チャイコフスキー&ブラームス アバド指揮

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わが吾妻山の菜の花と背景の相模湾

春の兆しは1月終わりぐらいからもうやってきてます。

晴れと寒さも加わり、今年の吾妻山はことさらに美しく、カメラを構える方も多数。

今日は、アバドの若き日々のふたつの2番を。

ともにすでにブログで書いておりますが、アバドらしさ満載です。

チャイコフスキーとブラームスの交響曲第2番。

どちらが先に書かれたか?

ブラームス!と思ってしまいますが、実はチャイコフスキーの2番の方が先に書かれてます。

チャイコフスキーの2番が1872年、ブラームスの2番が1877年。

ブラームスは1833年生れ、1897年没。
チャイコフスキーは1840年生れ、1893年没、ということで、チャイコフスキーの方が後に生まれ、先に亡くなっています。
いかに、ブラームスが慎重で晩成型のタイプであったことがわかるし、チャイコフスキーが才能を早くから開花させ、そして急ぐようにして急逝してしまったか・・・・

しかし、これら2番に共通するのは、南へのあこがれと、それを堪能した解放感です。
チャイコフスキーは、ウクライナの南方にあるカムヤンカというモルドバ寄りのドニエストル川流域の地で夏の休暇を過ごし、そこでウクライナ民謡などを取り入れつつ作曲。
ブラームスは、オーストリアの風光明媚なウェルター湖畔ペルチャッハで、同じく6月から10月までの夏のタイミングで作曲。
ともに、明らかに明るさが基調となる素敵な交響曲となりました。

その2曲を若いアバドはDGに録音。

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 チャイコフスキー 交響曲第2番 ハ短調 op.17

  クラウディオ・アバド指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

        (1968.2.20 @ロンドン) ジャケットは借り物です

アバドがレコードデビューしてまだ2年、ロンドン響との録音も始まっていたが、同時期に共演を始めていたニュー・フィルハーモニア管とのいまでは希少な録音。
同オーケストラとは、あと、ブラームスのカンタータ「リナルド」があります。
ともかく渋いところを30代初めのアバドは責めてました。

DGがそんなアバドに注目してレコーディングパートナーにしたけど、必ずしも演奏会の演目と並行して録音したわけじゃないみたいだ。
いつもお世話になっておりますアバド資料館を拝見しますと、このチャイコフスキーも次のブラームスも同時期の演奏会記録にはなくて、録音だけの曲目選択だったと思われます。
いまでは考えられないことだけど、かつては、レーベルやプロデューサーの意向で、そんな采配ができた。
さらにデータを見ると、同じ1968年2月、アルゲリッチとショパンとリストを録音していて、そちらはロンドン響。

むかしのレコ芸で、高崎保男先生が、ニュー・フィルハモニアを指揮するアバドのトリスタン前奏曲と愛の死を聴いたことを書いておられ、60年代のアバドがどんなトリスタンを演奏していたのか、ともかく気になってしょうがなかった思いがありました。

8年経過して1楽章を全面的に改定した版を作って、いまがそれが定番となりましたが、全編明るい雰囲気のただよう2番を、イタリア人が奔放に指揮した、というような評価ばかりだった。
しかし、あっけらかんとした終楽章にも、アバドらしい冷静さを伺えるとともに、何と言っても、この曲の魅力であるロシアの抒情にあふれた、それはファンタジックな1番にも通じる第1楽章の演奏が、旋律美とリズム感にあふれまくっていて、そのあたりの抒情を巧みに引き出し、メリハリとともに、全体のバランスも見事にとった構成感を感じさせる真摯な演奏なのであります。
16年後のシカゴとの演奏もアバドゆえに好きだけど、オケが立派すぎるし、録音に雰囲気が少なすぎるので、比べたら旧盤の方が好き。
随所にあらわれるアバドの歌心と表情の若々しさ。
イギリスのオーケストラのニュートラルさも、この時期のアバドの感性をそのまま映し出してくれるようだ。
それにしてもウクライナ・・・・・いかになるのでしょう。

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    ブラームス 交響曲第2番 ニ長調  Op.73

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

   (1970.11 @イエス・キリスト教会、ベルリン)ジャケットは借り物です

1970年といえば、日本では大阪万博の年でアポロ11号が月から持ち帰った「月の石」で大フィーバーしていた。
音楽界でも、世界中のオーケストラやオペラ、ソリストたちが次々に来日、おまけにベートーヴェンの生誕200年の年でもありました。
カラヤンとベルリンフィルは5月に来日し、大阪でベートーヴェン・チクルスを行い、東京でもベートーヴェン、ブラームス、幻想、チャイコフスキー5番などを演奏していて、そのプログラム数の多さはいまでは考えられないくらいだ。

その年の秋の録音であるアバドとのブラームス2番。
カラヤンが文字通り独占状態だったベルリンフィルのレコーディングは、ベーム、ヨッフム、ライトナー、なぜかプロデューサーのゲルデス以外にDGへの録音はなかなかなされなかった時分。
若いイタリア人指揮者がカラヤンの主力レパートリーのひとつをベルリンフィルでいきなり録音することは、当時の感覚からすると驚きでした。

このレコードが発売されたときは、自分は中学生で、当時のNHKは、新譜レコードをよく放送してくれていたものだからFMで聴いた記憶があります。
ブラームスはなぜか4番しか聴いたことがなく、1番すらよく知らなかった自分にとって、ともかく明るくきれいな曲だな、という印象でした。
そして当時のレコ芸などでも、このアバド盤は絶賛されていて、この曲の決定盤は、カラヤンかアバドだとかされてました。
数年後に、4つのオーケストラを振り分けた交響曲全集で、ようやく正規にレコードを購入しました。→ブラームス 交響曲全集
全集のなかで、この2番がいまだに一番いい演奏だと思うし、のちの88年の再録音よりも自分は好きですね。
 なんたって、若やいだ、のびのびとした演奏で、北からやってきたブラームスが、春光あふれる自然のなかでくつろいでるような、そんなイメージなんです。
歌にあふれた演奏、美しい弱音、均整のとれた全曲を見通す構成感など、後世にずっと変わらないアバドの個性がここに満載です。

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相模湾に、小田原の街、箱根の山

春はもう少し

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アバドの若き日々の演奏に、こちらも若き日々を思い起こし、なんだかとても爽やかな気分になれました。

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2021年5月 1日 (土)

チャイコフスキー 後期交響曲 カラヤン指揮

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今年の春は、桜も早かったけど、追いかけるようにツツジも早くて、双方同時に楽しめました。

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4月最初の頃の吾妻山。

色彩鮮やかな一番いい季節です。

思い切った企画で、いくつも録音のあるカラヤンのチャイコフスキーの交響曲をベルリン・フィルに絞って聴いてみましたの巻。

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  チャイコフスキー 交響曲第4番 へ短調 op.36

      (1966.10 @イエス・キリスト教会)

           交響曲第5番 ホ短調 op.64

                  (1965.9.22,11.8 @イエス・キリスト教会)

           交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 op.74

      (1964.2.11~12  @イエス・キリスト教会)

だいたい5年ぐらいの間隔で、カラヤンはチャイコフスキーの後期3つの交響曲を録音し続けました。
最後は、8年ぐらいの間をあけて、ウィーンフィルと。
晩年はベルリンフィルとの関係に隙間風も吹き、ウィーンとのつながりの方を求めるようになったカラヤン。
ほんとなら、いっそ、最後もベルリンフィルでやって欲しかった。
ウィーン盤は聴いたことがないので、ほかの録音もありますが、3回のベルリンフィルとの演奏を全部聴いてみました。

カラヤン56~58歳の気力充実期の録音。
DG専属として、次々と精力的にそのレパートリーの録音を本格化していた60年代。
データを見ると1年置きに録音。
次のEMI録音は一気に、3度目は1年ぐらいの間で。
当然に、演奏会でも取り上げて練り上げての録音なので、こちらのDG1回目では、チャイコフスキーのオーケストラ作品も同時期に隣接するようにして色々取り上げてます。

もう何度も何度も書いてますが、こちらの5番は、わたくしのチャイコフスキーの5番のすりこみかつ、いちばん好きな演奏のひとつ。
今回、3曲を連続して聴いてみて、やはりこの5番が一番耳になじむ。
しかも久しぶりの5番、カラヤンの若々しさと、流麗さを伴った語り口のうまさに感嘆した。
3つの中では一番古い6番は、このとき、カラヤンとしては4度目の録音だった。
完璧な仕上がりで、細部まで実によく練り上げられているし、ここでも惚れ惚れとするくらいの歌い口でニクイほど。
4番は、力感あふれるダイナミックな印象。
これでもか、とばかりにベルリンフィルの威力を示すが、ちょっとハズしたりしたとこも感じたけどいかに。
この4番の録音は、67年のザルツブルクでの「リング」が「ワルキューレ」で開始される前年で、音楽祭でちょうど発売が間に合うようにその録音がなされていた時期と重なる。
ベルリンフィルがオペラのオーケストラとしても活動開始したときなので、そんなことも思いながら聴いた4番でありました。
 イエス・キリスト教会の響きもDGらしい、豊かな響きをとらえた美しい録音ですが、ちょっと古さも感じたのも事実。
プロデューサー陣に、オットー・ゲルデスやギュンター・ヘルマンスの名前も確認できるのもこの時期ならでは。

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  チャイコフスキー 交響曲第4番 へ短調 op.36

           交響曲第5番 ホ短調 op.64

           交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 op.74

      (1971.9.16~21  @イエス・キリスト教会)

ファンのなかでは、この一挙に録音されたEMI盤の評価が高い。
たしかに、3曲に通じる燃焼度の高さと、勢いは、尋常でなく感じます。
70年代になって、EMIへの録音も復活させたカラヤン。
EMIにはオペラとか本格的な音楽を、DGには少しポピュラーな音楽を、それぞれに振り分けながら録音していく方向のなかのひとつ、3枚組のこの演奏のレコードだった。
レコードアカデミー賞も取ったはずだ。
 しかし、よく言われるように録音が悪い。
DG1回目の方がずっといい。
音が遠くと近くとでで鳴っているように感じ、なんたって強音で混濁するのには閉口だ。
カラヤンのEMI録音が、レコード時代に2枚組3000円で廉価化されたとき、確か大学の生協で買ったと思うが、私は、ワーグナー管弦楽曲集のものと、英雄の生涯とドン・キホーテの2組を購入した。
そのとき、友人は、このチャイコフスキーとブルックナーを買い求めたと記憶するが、お前の選択の方が正しかったというようなことを言ってたと記憶します。
それは、この音のことだったのかもしらん。
5番だけはFM放送のエアチェックを持っていたけど、とりわけ4番がよろしくない。
なんでも、当時流行ったSQ4チャンネルシステムでの録音だったとかで、さらには4番のマスターが損傷しているとか。
 しかし、そんな悪条件を乗り越えてここに聴くカラヤンとベルリンフィルの気迫の演奏はライブ感すら感じるエネルギッシュなもの。
CDとして、ディスキーから発売された5、6番、国内盤で単独に4番を購入。
4番の1楽章と4楽章のラストは、馬鹿らしくなるほどに、あっけらかんとした壮大無比ぶりで、なにもそこまで・・・と思うくらい。
でも正直、ここまで真剣にやっちゃうカラヤンとベルリンフィルに清々しささえ感じちゃう。
 お得意のテヌートがけが引き立つ5番は、DG盤よりも堂々としていて、いくぶん即興性も感じるし、2楽章なんて恥ずかしくなるくらいに連綿として甘い。
記憶にあるエアチェックテープの方が晴れやかで、音もよかったと感じるのは不思議で、CDになって音が悪くなった稀な例なのかもしらん。
威圧的なまでに鳴るティンパニとギラギラのトランペットが妙に分離よく聴こえるフィナーレは、これはこれで面白いが、ちょっと疲れる。
 疲れるというか、あきれるというか、唖然としてしまうのは、6番の3楽章。
ともかく速い、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを、見てみろと言わんばかり。
その強烈な対比が、強弱のレンジを極端に幅広くとった終楽章で見せてくれるところが、これまたニクイ。
 ということで、EMI盤は、カラヤンの個性を恥も外聞もなく堪能できる演奏なのでありました。
これより前のブルックナーとか、数か月後のトリスタンとか、こんなに音は悪くないのに。

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  チャイコフスキー 交響曲第4番 へ短調 op.36

      (1976.12.9~10 @フィルハーモニー、ベルリン)

           交響曲第5番 ホ短調 op.64

                  (1975.10.22 @フィルハーモニー、ベルリン)

           交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 op.74

      (1976.5.5~7  @フィルハーモニー、ベルリン)

カラヤンとベルリンフィルは、録音会場をイエス・キリスト教会から本拠地のフィルハーモニーザールに移したのは、1973年からで、確かEMIでの「オテロ」であったはず。
DGもフィルハーモニーに移し、ロ短調ミサあたりから。
そこで、かつての録音を次々と再録音を開始する。
チャイコフスキーは、75年と76年の短期間で録音するが、それより前、73年にはカラヤンが主役の演奏映画を残していて、そちらにも通じる演奏かもしれない。(NHKで放送されたものを観てます)
 なんたって、バリっとした録音がこちらはよろしい。ようやく安心できる。
気力充実、よく歌い、テンポも堂々と歩む4番、でも最後はやっぱかっこよすぎる終楽章に唖然。
フィルハーモニーの響きは明るく、ベルリンフィルの音が燦然と輝かしいので、この4番には陰りは少なめだけど、オーケストラを聴く楽しみを充分に与えてくれる。
5番は、おなじみの若々しかった65年盤とは違った意味で、新鮮で、それはホールの音色にもあると思うが、この時期には、カラヤンはベルリンフィルとほぼ一体化していたのではないかと思っている。
映像で見ても、カラヤンの指揮の意のままに、屈強のベルリンフィルがまるで高性能軍団として、ひとつの楽器のようになって見えたものだ。
それと同じ感覚で、カラヤンの奏でる大きな楽器によるチャイコフスキーと感じた5番。
蠱惑的な旋律の歌わせ方で、6番は悲愴なんだ、チャイコフスキーは胸かきむしって浪漫の限りを尽くしたメロディーを書いたんだ、と実感できる1楽章からして、ともかくウマいもんだ。
pが6つの最弱音からのフォルティシモ、カラヤンとベルリンフィルの面目躍如のシーンでありました。
終楽章では、ティンパニを強調し大仰すぎるくらいに悲劇性を醸し出すが、これもまた「悲愴」なのであることを思い起こさせる。

ベートーヴェンの再録音や、ブルックナー、ローエングリンなどを続々と録音していた時期です。
アナログ期のカラヤンのピークの時代かもしれません。

こうして3曲×3を聴いてみて、カラヤンはほんと正直で、自分のやりたいことに真っ直ぐだったことがいまさらながらわかりました。
そして、ベルリンフィルを自分と一体化してしまう経過を10年間の録音のなかにまざまざと感じた。
根っからのオペラ指揮者だからこそできた、思い切りチャイコフスキーに耽溺してしまわせる手口。
ほんと、まいりました。

でもね、ちょっと疲れました。
2日間で、聴きまくった3曲×3=カラヤン
しばらくいいです。
しかしきっと、65年ものの5番は、またすぐに聴くことでしょう。
3曲のなかで、音楽としても、演奏としても、あらためていちばん好きになりました、5番の2楽章。
いい音楽だ。

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2020年5月19日 (火)

チャイコフスキー 交響曲第5番 アメリカオケ

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5月の青空に鯉のぼり。

この連休中に、ひと気の少ない東京タワーの足元には、今年もたくさんの鯉のぼりが泳いでました。

東日本大震災の折には、岩手県大船渡市にエールを送るため、「さんまのぼり」も登場。
今年も元気に泳いでました。

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自粛による経済活動の低下で、空も空気も澄んでいて、皮肉なものです・・・・

  チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調

世界のオペラハウスが発信してくれる豊富なオペラ映像に、日々うつつを抜かしてますが、そんな合間に聴き親しんだ名曲をしみじみと、いや、これでもか、とばかりに聴いてみた。
オペラばかり観てると、たまに聴くシンフォニー作品は、メチャクチャ新鮮だった。

全体に古めのものばかり、ステレオ録音前提で、いまは呼ばなくなったアメリカの5大オーケストラで。

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    ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

         (1959.1.25 @フィラデルフィア)

オーマンディの古い方、懐かしいCBS録音。
ジャケット写真は借り物ですが、子供の頃、レコード店でよく手にとって眺めていたのを覚えてる。
2枚組、3,300円のダブルシリーズ。
ずっとあとに、廉価盤になったものを聴いたが、ちょっとキンキンする音だったけど、でもそこに煌めくフィラデルフィアサウンドが、これか、と刷り込まれるような明るい音色があった。
CD化されたものは、もっと落ち着いていて、堂々とした歩みを感じさせる貫禄の演奏に感じた。
後述のセルもバーンスタインもそうだけど、CD化によって、イメージを変えてしまうことが多いのはCBS録音だったりします。
後年のRCA録音は未聴、いずれ聴きたいけど・・・

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  ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団

          (1959年10.23 @クリーヴランド)

懐かしいジャケットで、セル&クリーヴランドの芸術だったかで、廉価盤になったときに聴いたもので大学生だった。
マスタリングされたCDを聴いたのは、最近のこと。
これもイメージ一新。
硬派なきっぱり型の演奏はかつて思い通りだけど、思ったより潤いがあり、とても豊かなチャイコフスキーだと見直した。
アゴーギクも効かせ、思わぬ効果も多々生んでるし、最終章の有名なシンバル追加も新鮮なもんだ。
こういうチャイコフスキー5番も実にいい!
セル&クリーヴランドが大阪万博で来日して、今年で50年。
帰国後亡くなってしまったセルの没後50年でもあります。
小学生だった自分、テレビ放送された、シベリウスの2番が大いに気に入って、亡くなった志村けんさんの、アイーンじゃないけど、胸のあたりで左手を水平にして、オーケストラをコントロールするセルの指揮ぶりを真似たりしたものです・・・
なんだか、いろんな思いが渦巻くセル&クリーヴランドのチャイコフスキー5番でした。

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  レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

      (1960.5.16 @NY)

このジャケットが好き。
バーンスタインの旧盤は、CBSソニーが出したベストクラシックという自社レーベル音源総動員のシリーズものの1枚で、中学生だった自分は、ワンコインで送ってもらえた「音のカタログ」で、この演奏の4楽章冒頭を何度も聴いたものです。
ここだけ、ともかく、懐かしーーー
 CD化されたものを聴いたのはDGの新盤を聴いたあと。
悠揚たる新録音に比べ、まったく違うと感じてしまう、自由自在なフーダム演奏は、思わずずっこけたり、おいおい待って~とか、聴く側のワタクシが追いかけるようなイメージの演奏。
思いのたけを、思い切りその音楽にぶつけて、そのまま音にしてしまうバーンスタンの凄さをここでも感じる次第です。
でも、やりすぎ、疲れちゃう、のも歳を経た自分には感じさせるもので、後年のDG盤もいまの自分にはそんな風に感じます。

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   サー・ゲオルグ・ショルティ指揮 シカゴ交響楽団

     (1975.5.15 メディナ・テンプル、シカゴ)

これぞ、ショルティ&シカゴと思わせる肉太な演奏。
アバドやジュリーニの指揮でシカゴが好きになり、それとは違う骨太シカゴの音を聴いて驚いた70年代。
このコンビのベートーヴェンの交響曲は、全部集められなかったけど、安い装置が実によく鳴る録音の生々しさもさることながら、音楽そのものを混じり気なく聴かせる真っ直ぐな演奏だった。
そのイメージどおりのストレートなチャイコフスキー。
カラヤン&ベルリンフィルの磨き抜かれた嗜好品のような演奏とはまた違う、高度なオーケストラの機能性の行き着いた到着点のような演奏に感じる。
77年発売当時のレコ芸の広告を載せたのは、ここに書かれたことが、このショルティ盤のイメージそのものだからです。
後年の再録音では、もっと柔和になってしまうが、70年代のこのコンビはすごかった。
シカゴの高性能で完璧なアンサンブルを縦横無尽に、猛獣使いのようにコントロールしつつ、その音楽は実に緻密で豊か。
スコアから外れたことはひとつも行っていない模範演奏。
そう、完璧なる模範演奏なんです。
久しぶりに聴いて、ほんと感動しました。

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  小沢 征爾 指揮 ボストン交響楽団

     (1977.2.16 @ボストン)

われらが小澤さん、ざーさん、@70年代、in ボストン。
これらの簡略言葉で、その演奏の様子を書けてしまう自分ぐらいの世代。
 小澤さんはカッコよかった。
同朋日本人が、アメリカのメジャーオケの指揮者になり、メジャーレーベルの看板指揮者になり、ナイスな録音を次々に繰り出していた70~80年代。
高校時代、下手クソながら、クラブ活動のオーケストラに所属させていただいた。
メンバーたちと箱根に遠足(お膝元だったので)したとき、アメリカ人夫妻がいて、果敢な高校生たちは、どこからいらしたんですか?と声をかけた。
そしたら、ボストン!とお答えになった。
すかさず、ワタクシは、オー、セイジ・オザワ、ボストン・シンフォニーとへなちょこながら発し、ご夫妻は、オールライト!ベリーグッド!と満面の笑みでお答えになりました。
 この時ほど、小澤さんの存在が誇らしいという思いをしたことがありません。

3度の録音のある小澤さんのチャイ5の、真ん中の音源。
シカゴ、ボストン、ベルリンフィルとすごいオケとの録音歴を持つ小澤さん。
果敢な雰囲気だけど、以外に慎重なシカゴ盤、練れに練れた柔軟姿勢、オケが抜群にうまいベルリンフィル盤。
それらに挟まれたボストン盤は、細やかで、目の行き届いた欠点ゼロの美味なる演奏。
無駄なことなく、妙な味付けもなし、流麗ななかに、チャイコフスキーの音楽が爽やかで潤いに満ちたものであることを認識できます。
第2楽章は、後年、侘び寂びにやがて行き着く小澤さんの片りんを感じさせますが、ボストンの音の美しさは例えようもないです。

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こたびの5番聴きまくり、いまの心境や状況からの自分のランキング。

 セル → ショルティ → 小澤 → オーマンディ → バーンスタイン

でも、ところと状況がかわれば、もしかしたらまったく逆になるかも(笑)

アメリカのオーケストラ、5大オケなんてのはもう古くて、ロサンゼルスとサンフランシスコも同等の実力だし、デトロイト、ピッツバーグ、シンシナティ、セントルイス、ダラス、ヒューストン、シアトル、ミネソタ、ナショナル、アトランタ等々、みんな凄腕で、彼らのチャイコフスキーも追いかけたいな・・・・

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美しき5月、とはいかなかったけれど、なんとか切り抜けて来年の鯉の飛翔もみたいと思います。

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2020年3月 8日 (日)

チャイコフスキー ピアノソナタ(大ソナタ) L・ハワード

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少し前ですが、大井町の河津桜。

小高い松田山では、毎年2月後半、河津桜と菜の花が満開になって、桜まつりが開催されます。

天気にも恵まれ、多くの人出でした。

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  チャイコフスキー ピアノソナタ ト長調 op37
                                 ~大ソナタ~

      ピアノ:レスリー・ハワード

  (1993.10 @オールセインツ教会、ピーターズハム、ロンドン)

管弦楽作品、室内楽・器楽、オペラ、声楽と、広範なジャンルに作品を残したチャイコフスキーですが、聴かれる作品は案外と限られていると思います。
そんななかでも、ちょっとマイナーなイメージのあるピアノ作品たち。
1番の協奏曲ばかりがもてはやされるけれど、2番もステキな曲だし、未完の3番もいい。
そして、ピアノソナタは2曲あって、なかでも今日の「大ソナタ」は、構えの大きな力作であります。

作品番号37は、ちょうどヴァイオリン協奏曲と同じ時期のもので、4番の交響曲のあとで1878年。
もうひとつは、作品80がついているけれども、出版がずっと後になったためということで、1865年。
あと、このCDに収められているのは、奏者のハワードによって補筆完成させた単一楽章の作品もあって、ここでは1番のソナタとされてます(1863年)。
メック夫人の援助もあり、充実した作曲活動の時期だったが、どうもこのソナタの筆は鈍りがち。
ヴァイオリン協奏曲と交差するように、その作曲も交えて、ようやく完成させ、ニコライ・ルビンシュタインによって初演。
そして大成功をおさめたとされます。

大ソナタは、30分ぐらいの手ごろな長さだけれども、一聴してわかるのは、その難しさ。
スコアを一瞥すると、素人のワタクシでも驚くほどの音符の多さ。
これを書いちゃうのもすごいし、私には才はないから、これを演奏して、ちゃんと音楽にしてしまうピアニストというのもすごい。
 「グランド」というタイトルのとおりに、チャイコフスキーが意識したのは、シューマンのこと。

4つの楽章からなり、第1楽章が一番長いのだけれど、その出だしから、シューマン風で、ロマン派のピアノ作品を聴いてる気がしてくる。
でも勇壮な、その1楽章にも、ちょこちょこ、ピアノ協奏曲で聴きなじんだチャイコフスキー風のフレーズが顔をのぞかせたりして、嬉しくなります。
 沈鬱ムードの出だしの2楽章は、一瞬、ベートーヴェンのソナタの緩徐楽章っぽくて悩み多きチャイコフスキーの横顔が、ベートーヴェンやシューマンと被るが、中間部は明るくなって、そして盛り上がりも見せ、明るさと沈鬱が交互に明滅したりして、なかなかの聴きものの楽章だった。
 次いで、ごく短いスケルツォは、忙しい雰囲気で、中間部のトリオも上から下まで、音が繁茂に行き来して楽しくもまた幻想的だったり。
第4交響曲のスケルツォ楽章にも似たり。
そして、そのまま忙しさを継続させ終楽章になだれ込むが、ここはそれこそ音符だらけで、そんな合間にメロディアスな民謡風なフレーズも顔を出したりで、最後は華々しく曲を終えるが、この楽章も第4交響曲と同じ香りを感じた次第。

リスト弾きとして高名なレスリー・ハワードの冴えたピアノは、2楽章の抒情も、高度な技巧の場面でも、ばっちりでした。
このCDには、チャイコフスキーのソナタ作品が全部収録されていてありがたい1枚です。
ちなみに、もうひとつのソナタの3楽章の一部は、そのまま交響曲第1番の「冬の日の幻想」の3楽章に引用されてまして、これもまた楽しい聴きものでありました。


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大陸からやってきた災厄のおかげで、社会機能が一部不全となりつつあり、音楽界にも暗い影を落としてます。

相次ぐ公演の中止や、外来の演奏家の来日中止。

そんななか、無聴衆で演奏し、ネット配信して、ファンの渇望を癒してくれる果敢な試みもたくさん。

この週末は、びわ湖ホール、プロデュースオペラ「神々の黄昏」をネット観劇しました。
4年目の今年は、リングの完結で、楽しみにされていた方も多かったと思います。
4部作を通して、同じ演出と演奏者で観るというのは、人生でそう何度も味わえるものではありません。
本当に残念なことでしたが、でも関係者のみなさんの熱い思いをひしひしと感じる熱い演奏に歌唱で、感動的な舞台でした!

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日当たりのいい斜面には、ミカンも満載。

コ〇〇早く消えろ、といいたい。

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2019年12月14日 (土)

ヤンソンスを偲んで ⑤アムステルダム

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いつもながらセンスあふれるコンセルトヘボウのネット上のページ。

そんななかに、ヤンソンスを悼む枠ができるなんて、もっとずっと先のことだと思っていた。
追悼のページを拝見して、センスあふれるなんて、無粋すぎますね....

でもコンセルトヘボウは、ガッティが退任に追い込まれたり、名誉指揮者のハイティンクが勇退、そしてまさかのヤンソンスの死、昨年からこのオーケストラにとって激変が続きます。

ヤンソンス追悼シリーズも終盤。

バイエルン放送響が2003年、ほぼ同じくして、コンセルトヘボウが2004年、ヤンソンスをそれぞれに首席指揮者として任命しました。
ピッツバーグから、ヨーロッパの名門に。
どちらのオーケストラも、これまでに日本に何度もやってきていて、とても馴染みのある存在で、そこに、日本大好きなヤンソンスですから、交互に毎年来日するという夢のような年が続きました。

コンセルトヘボウとの来演で聴いた曲は、「ベートーヴェン2番」「英雄の生涯」「ペトルーシュカ」「悲愴」「エグモント序曲」「ベートーヴェン8番」「新世界」「モーツァルト ピアノ協奏曲25番(内田光子)」「巨人」「ドヴォルザーク8番」「ティル」「ラ・ヴァルス」「マーラー3番」などです。
そして、マーラーをのぞいて、毎回、お馴染みのアンコール曲たち。

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  ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

 マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

          (2003.6.6 @コンセルトヘボウ)

コンセルトヘボウとは、EMIに91年に幻想を録音してますが、そのとき以来(たぶん)。
コンセルトヘボウの自主レーベルでもありました。
このレーベルのジャケットは、いずれも楽しく、色彩的で、曲のイメージも大づかみにしていて、収集する喜びもありました。
就任まえの「新世界」で、このコンビのスタート直前第1弾。
ヤンソンスらしい、リズム感と歌心にあふれてますが、「ラルゴ」の美しさと痛切さは、なかなかのものです。
そして相変わらず、聴かせ上手で、思わず夢中にさせてしまう音楽づくりで、「新世界」にのめり込んだ少年時代の気分もかくやと、思わせるものです。

ただ、自分の耳に、脳裏に刻み込まれている、フィリップス録音のアムステルダム・コンセルトヘボウの音とは、もはや別物と感じたことも事実。
シャイーになってデッカに録音主体が移ってから、コンセルトヘボウは、もう往年のサウンドとは違うものとなってしまっていたのですが、あの単刀直入すぎるシャーの音楽よりは、ヤンソンスの血も涙もある人間的な音楽造りは、コンセルトヘボウにはお似合いのものかと思ったりもしました。

このあと、2004年には、就任記念演奏会としてのライブ「英雄の生涯」が録音されましたが、その年には私は、その「英雄の生涯」や「悲愴」を東京で聴くことができて、一挙にヤンソンスとコンセルトヘボウの虜となりました。

Franck

   フランク 交響曲 ニ短調

 マリス・ヤンソンス指 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

       (2004.12 @コンセルトヘボウ)

創立120周年のアニヴァーサリーで、ネット上でジャケットとともにダウンロードできた貴重な1枚。
ハイティンク、ジュリーニ、アーノンクール、バーンスタイン、コンドラシン、ミュンフンなどの指揮者の音源も同時に配信されました。

そう、コンセルトヘボウで聴くフランク。
デ・ワールトの録音しかなく、いまはそれも廃盤。
フランクと同じフランドル系のオーケストラで聴くというのは、この渋い交響曲には理想的なことだと思ってます。
 それをかなえてくれたヤンソンスの指揮。
でも渋いというよりは、全体の色調は明るめで、ヤンソンスらしい爽快さが先にたちます。
しかし、繰り返される循環主題が、いろいろと色調を変えて登場する際の描き分け方は、耳をそばだてることも多く、単調に、そして晦渋になりがちなフランクの音楽がとても聴きやすく、あっという間の40分間となります。
バイエルンでもこの曲は残さなかったのではないかしら・・・

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  マーラー 交響曲第1番「巨人」

 マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

         (2006.11 @コンセルトヘボウ)

コンセルトヘボウの指揮者になったからには、そう、マーラー。
映像もふくめて、全部残したのかどうか、もうわからなくなってしまいましたし、その半分ぐらいしか聴いてません。
そんななかで、録音と同じころに日本でも聴いた1番が、ヤンソンスにはお似合いの曲だとも思うので、とりあげます。

洗練の度合いを増したこのコンビ、マーラーの陰りを描き出すというよりは、マーラーの音楽にいっぱい詰まったいろんな要素を、完璧に引き出して開陳してみせる感じで、その後のコンセルトヘボウとのマーラーには、そんな、ちょっと綺麗ごとてきなものも感じてしまうこともあった。
美しすぎる録音のせいもあるかもしれない。

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でも、マーラーの実演で、2010年にミューザで聴いた「3番」には、ことのほか圧倒された。→過去記事

最後の楽章に頂点を築いたかのような、そこに向かってひたひたと昇りつめるような演奏に、ホール中の聴き手を金縛りにかけてしまう感がありました。
そして、その終楽章、「愛がわたしに語るもの」は、生涯忘れえぬような感動につつまれ、涙がとまりませんでした・・・・・

このときの来日以降、わたしはヤンソンスを実演で聴くことがありませんでした。
翌年の震災もあり、仕事の方も大不芳に陥り、神奈フィル以外の音楽会に行く余裕すらなくなりました・・・・
 あのときのヤンソンスのマーラーが聴けて。ほんとうによかったと、つくづく思いました。

しかし、しかしですよ、その後のバイエルンとのマーラー第9を聴いた方から、そのときの様子を聞くにつれ、痛恨の極みに包まれるのでありました。。。。。

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  プーランク グローリア

    S:リューバ・オルゴナソヴァ

 マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
            オランダ放送合唱団

        (2005,12 @コンセルトヘボウ)

コンセルトヘボウとバイエルンに着任して以来、ヤンソンスは声楽作品を積極的に取り上げ続けました。
ドヴォルザークのレクイエムという名演も残しましたが、今回は、ヤンソンスならではの抜群のリズム感と緻密さとが、プーランクの軽妙さと信仰深い神妙さとを見事に描き出した「グローリア」をじっくり聴きました。

ジャケットも美しいものだし、コンセルトヘボウもまた美しい。
カップリングのオネゲルの「典礼風」も、ムラヴィンスキーの得意とした曲で、オスロ時代もいい演奏を残してました。
感動的な3楽章がステキすぎます。

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  ラフマニノフ 交響的舞曲

 マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

       (2004.12 @コンセルトヘボウ)

ヤンソンスの残したラフマニノフでは、ロンドン編で取り上げたフィルハーモニアとの2番と並んで、この「交響的舞曲」がいい。
全編、まさに舞曲ともいえるくらいに弾んで、泣いて、むせんで、笑って、爆発する、そんなマーラーも顔負けの喜怒哀楽の激しいラフマニノフの音楽。
コンセルトヘボウの音色がラフマニノフにぴったりとくる。
録音だけのはなしでいえば、マーラーよりもラフマニノフの方が、コンセルトヘボウにはあってる、と思うくらい。
最近、この曲が2番よりもブームじゃないかと世界を見ていて思う。

憂愁で2番ほどベタつかず、長さもほどほどだし、オーケストラの名技性も発揮できるし、なによりも聴いていて面白い。
いま言ったいいところを全部そなえているのがヤンソンスのこの演奏じゃないか、と。

Onegin-jansons

    チャイコフスキー 「エウゲニ・オネーギン」

  オネーギン:ボー・スコウフス 
  タチャーナ:クラッシミーラ・ストヤノヴァ
  レンスキー:アンドレイ・ドゥナエフ
  オリガ:エレーナ・マクシモーヴァ
  グレーミン公:ミハイル・ペトレンコ

   演出:シュテファン・ヘアハイム

 マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
             ネーデルランド・オペラ合唱団

       (2011.6~7 @ネーデルランド・オペラ劇場)

アムステルダムでは、ヤンソンスは、手兵がピットに入るネーデルランド・オペラの指揮台に何度か立ちました。
ウィーンでは何度かあったはずだけど、これまでなかなかできなかった、オペラピットでの指揮。

得意のチャイコフスキーのオペラ、このオネーギンに続いて、2016年には同じヘアハイムの演出で「スペードの女王」も上演してますし、昨年2018年にはザルツブルクで、ノイエンフェレスのオモシロ演出でも「スペードの女王」を指揮してます。
この「スペードの女王」、ヤンソンスはバイエルンでも演奏会形式で取り上げ、そのまま録音もなされました。
作品的には、「オネーギン」より、「スペードの女王」の方が優れているとは思いますが、豊富なメロディがあふれんばかりに詰まっているオネーギンの方が、一般には聴きやすいオペラでしょう。

残念ながら、アムステルダムでの「スペードの女王」はまだ未入手ですので、今回の追悼特集では、「オネーギン」をつまみ聴きしました。
ヘアハイムの演出には「いにしえのロシア」臭はありませんが、ユニークさでは語り尽くせぬものがあります。
舞台には目をつぶって、オケピットのなかの音に耳を集中すると、やはりコンセルトヘボウの優秀さと、音の深みを強く感じる。
ヤンソンスも生来のオペラ指揮者のように、てきぱきと、手際のいい仕事ぶりで、演出で行われていることとは、ちょっと乖離した純正チャイコフスキー・サウンドをピットの中から起ち上げてます。
手紙のアリアや、レンスキーのアリアなど、泣けてきます・・・・・

ヤンソンスのオペラの記録が、あとショスタコーヴィチの「ムツェンスク」を除いてあまり残されず残念でした。
チャイコフスキーは当然として、ムソルグスキー、R.シュトラウスやプッチーニ、ワーグナーの前半の3作などは、ヤンソンス向きだったと思うのです。

Rco-5

コンセルトヘボウのツイッター。

最後はミュンヘン。

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