2025年3月 8日 (土)

富士と早咲きの桜

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早咲きの桜、河津桜と富士。

暖かい日が続き、冠雪もだいぶ溶けてましたが、また寒さが来て真っ白に。

雲が残念ですが、この時期はこうした雲がかかりやすく、そうしたときには強風となります。

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神奈川県の大井町のゆめの里という里山です。

車で20分ぐらいの距離なので、この日を逃すと晴れがないと思い立ってすぐに行けました。

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丹沢連峰も前日の雪が残っていて、神奈川にありながら雪国のような景色。

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これもまた雪国の春のようなイメージの写真が撮れました。

こんな景色を眺めつつ、頭のなかにはプロコフィエフの音楽が日々鳴ってまして、どんだけ中毒性あるんだろ、と思いますね。

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あと1本、プロコフィエフをやって、はやく普通の頭に切り替えないと本格的な春に聴きたい音楽が間に合わない・・・

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2025年3月 6日 (木)

プロコフィエフ 「炎の天使」 ②

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真っ赤に染まる西の空。

夕焼け大好き人間です。

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                     (バイエルン州立歌劇場)

     プロコフィエフ 「炎の天使」

プロコフィエフのオペラの最高傑作と聴くたび、上演鑑賞するたびに思い、またいったい何なんだろうという不可思議感にもつつまれる。
交響曲第3番も同じように、すぐれた作品としての評価がうなぎのぼり。

あくまで、自分的にこのオペラの聴きどころを羅列しときます。

1幕
・印象的なその出だしは、プロコフィエフのほかのオペラにもいえるが、それはそのオペラの複雑な展開の萌芽のごくさりげない出だしにすぎない。
・隣室でのレナータがうなされる様子も呪文のようで面白いが、なんといってもレナータが「やめて、助けて」と悪霊に言いつのり、ルプレヒトは「リベラメ・ドミネ・・」と祈りを捧げ開放する。
この部分が、第3交響曲の冒頭なのである。
・レナータが身の上話しを語るモノローグの素晴らしさ、オーケストラは美しくもミステリアスな背景。
・ルプレヒトが襲い掛かるも、すぐに萎えてしまうところの音楽の変転ぶり
・禍々しい占い師の場面はオカルト音楽だ

2幕
・呼び出しに応える3つのノック音、最初はかなりビックリするが、こうした効果音を巧みに使うのがプロコフィエフである。
・だんだんと混迷を深めるレナータ、オーケストラのキューキューするグリッサンド効果抜群のシーンは、第3交響曲のスケルツォ。
 ノック音とあいまって、最高の怪しげ効果を出す
・魔術師の部屋での呪術シーンの間奏もオーケストラは最高の荒々しさと禍々しさで、めっちゃカッコいいのだ。
 これもまた交響曲に使用されたシーン。
・そのあとの魔術師の宣告における男声ふたりの声の応酬も、ロシアオペラならではの野太さで痛烈で聴きごたえあり、オケも最高!

3幕
・レナータのマディエルへの愛のモティーフと思われる前奏から始まる、ルプレヒトとのやり取りでは、ここも交響曲に採用
・続くレナータのモノローグが、このオペラにおける歌手の一番の聴かせどころ。
 正気と狂気を揺れ動くさまを歌い演じなくてはならないレナータ役の、唯一の女性らしく、かわいらしいところ。
 幕の終わりの決闘で怪我を負ったルプレヒトを心配する彼女の歌も同様によろしい。
 抒情とクールさ、プロコフィエフならではの音楽
・決闘シーンでの切迫感は、オケの間奏曲でよく出ていて、ナイスなカッコよさもありで、ずっと聴いていられる。
 映像で見たトレリンスキ演出では、この音楽は実に踊りやすいんだと思った。

4幕
・この幕はメフィストフェレスとファウストが出てきてしまうので、ドラマの必然性や緊張感が途絶えてしまうように感じる。
 給仕少年を食ってしまうという意味不明の残虐シーンもあるが、全体の雰囲気としては皮肉とユーモラスな感じ。

5幕
・修道院の場面なので、神妙な雰囲気で静かに始まるのだが、誰がわずか20分後の地獄のようなシーンを想像できるだろうか。
 第3交響曲の2楽章の開始部分そのもの。
・神妙さに急激に影を差すところの急変ぶりもよろしい。
・宗教裁判長に必要とされる圧倒的・威圧的なバスの声は、これもまたロシアオペラならでは。
・聖なるもの、悪魔的な俗の極み、この対立と乱れきった交錯を変転万化するプロコフィエフの音楽は完璧に描いてやまない。
 聴くだけでなく、ここは映像作品で各種観ると、それぞれの無茶苦茶ぶりが感嘆に値する。
 これはもうタンホイザーのバッカナール世界であり、背徳の極みが、最後は一条の光のような眩しい音楽で終結するのだ。
 合唱が聖と悪を歌いつつ、その合唱は6つに分割され複雑さに拍車をかける。
 オーケストラのエキセントリックな強烈ぶりも一度聴いたら忘れられず、こちらの身体も動かしたくなるくらいなのだ。
 最後のシーンばかりでなく、オスティナート効果も随所にあり、プロコフィエフの音楽の中毒性も味わえますぞ。
   第3交響曲の終楽章のデラックスバージョン。

CD音源

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    レナータ:ナディーヌ・セクンデ  
    ルプレヒト:ジークフリート・ローレンツ
    宿屋の女将:ローズマリー・ラング
    占い師、修道院長:ルートヒルト・エンゲルト・エリィ
    アグリッパ、メフィストフェレス:ハインツ・ツェドニク
    ファウスト:ペテッリ・ザロマー
    宗教裁判長:クルト・モル
    グロック:イェスタ・ザヒリソン
    ワイズマン:ブリン・ターフェル  ほか

  ネーメ・ヤルヴィ指揮 エーテボリ交響楽団
             イェスタ・オーリン・ヴォーカルアンサンブル
             プロムジカ室内合唱団

        (1989.5 @エーテボリ)

このオペラの本格初録音は驚きのDGからの発売。
ヤルヴィとエーテボリの当時の蜜月コンビがDGに移って北欧・ロシアものを次々に録音していたころ合い。
いろいろと聴いたうえで、この演奏を聴くとやはりヨーロッパの演奏であり、その響きも洗練されすぎて聴こえる。
歌手も含めてスッキリしすぎて感じるが、何度も聴いて耳に馴染ませるにはこれでいいのかもしれないし、オヤジ・ヤルヴィのまとめ上手からうかびあがってくるプロコフィエフの音楽の斬新さもよくわかる。
ワーグナーを歌うような歌手ばかりのキャストは充実はしているが、特にモルの宗教裁判長はザラストロみたいで違和感ありか。
セクンデがリリカルで案外によろしい。

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    レナータ:ガリーナ・ゴルチャコヴァ  
    ルプレヒト:セルゲイ・レイフェルクス
    宿屋の女将:エフゲニア・オエルラソヴァ=ヴェルコヴィチ
    占い師:ラリッサ・ディアドコヴァ
    グロック:エフゲニ・ボイツォフ

    アグリッパ:ウラディミール・ガルーシン
    メフィストフェレス:コンスタンチン・プルジニコフ

    ファウスト:セルゲイ・アレクサーシン
    修道院長:オリガ・マルコヴァ=ミハイレンコ

    宗教裁判長:ウラディミール・オグノヴィエンコ
    ワイズマン:ユーリ・ラプテフ  ほか

  ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 キーロフ劇場管弦楽団/合唱団

        (1993.9 @マリンスキー劇場、サンクトペテルブルク)

ロシアオペラをほぼコンプリート録音してくれたゲルギエフとマリンスキー劇場に、いまや感謝すべきでしょう。
あまりにも不条理なゲルギエフをはじめとする西側のロシア音楽家の締め出しの継続中のいま、90年代のこのフィリップス録音の数々は快挙であり、いまや音楽愛好家の至宝ともいえると思う。
ヤルヴィも絶倫級に録音を残したが、この頃のゲルギエフの活動も負けてはいない。
西側のプロコフィエフだったヤルヴィ盤に比べ、ここでのプロコフィエフの音楽は強靭さと野太さもあり、一方で音が過剰に広がってしまうのをあえて抑制しているかのようなスピード感がある。
そこでもっとギトギトして欲しいと思う場面があり、そこがまた職人ゲルギエフなのだとも思う。
レイフェルクスにややアクの濃さを感じるものの、歌手全体のレベルが高く、劇場でのいつものメンバーとしてのまとまりがいい。
ゴルチャコヴァが声の力感が申し分ないし、ヴェルデイも得意とする彼女、モノローグでの情感あふれる歌唱も実によろしい。

このライブ演奏が映像化もされていて、youtubeで全編見ましたが、日本の暗黒舞踏(Butoh)に明らかに影響を受けたと思われる白塗りのほぼ裸ダンサーたちが、最初から最後までうごめいていて、正直ウザイと思われた。
最後には憑依された修道女の一部はスッポンポンになり、まさに怪しげな地獄シーンとなるもので、デイヴィッド・フリーマンの演出。
東京でも上演され、コヴェントガーデン、メット、サンフランシスコなんかでも履歴がある。
マリンスキー劇場のサイトで確認したら、この演出はまだ継続していて、2021年のトレーラーを見たがおんなじで、歌手はスキティナとニキティンに刷新されている。
この際、ゲルギエフの指揮での再録音を望みたい。

エアチェック音源

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    レナータ:スヴェトラーナ・ソズダテレヴァ  
    ルプレヒト:エウゲニー・ニキティン
    宿屋の女将:ハイケ・グレーツィンガー
    占い師:エレナ・マニスティーナ
    グロック:クリストフ・ズペース

    アグリッパ:ウラディミール・ガルーシン
    メフィストフェレス:ケヴィン・コナーズ

    ファウスト:イゴール・ツァルコフ
    修道院長:オッカ・フォン・デア・ダームラウ

    宗教裁判長:イェンス・ラールセン
    ワイズマン:ティム・クィパース  ほか

  ウラディミール・ユロフスキ指揮 バイエルン州立歌劇劇場管弦楽団/合唱団

     演出:バリー・コスキー


        (2015.12.12 @バイエルン州立歌劇場、ミュンヘン)

演奏と映像では、これがいちばんだと思う。
忘れもしないコロナ禍での世界の劇場からのオペラ配信で観たバイエルン劇場でのもの。
初めて観た「炎の天使」に衝撃と、こんな面白いオペラや音楽があるのかという驚き。
ユロフスキの鋭い音楽造りと統率力の豊かさを実感し、その魔人のような指揮姿にもびっくりしたもんだ。
主役のふたりも、録音した音源で何度聴いてもすばらしく、ニキティンの従来のロシア歌手にない明晰なる声は実によい。
またソズダテレヴァの迫真の歌も、映像での体当たり的、かつユーモアある演技も残像に残っているので、それも伴い素敵なものだ。

コスキーの演出がとんでもなく面白かった。
ダンスを有効に取り入れるコスキー演出の真骨頂は、このプロコフィエフ作品あってこそ生きてくる。
女装の男性バレエや、酒場での乱痴気シーンなどでの異様ぶり、ラストの魔界シーンも棘の冠をかぶったイエスだらけになり聖と悪との対比も見事。
豪華な内装の高級ホテルからスタートした物語りは、ずっとこのホテルが舞台となり、そのホテルの一室が徐々に廃れて姿を変えて行き、最後にはどす黒い漆黒の部屋にまでなった。
飾りものだが、男性器丸出しのメフィストフェレスなどユーモラスでありキモくありで、全編にコスキーならではの容赦ないユーモアもあり。
これもまた映像作品化を望みたい。

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    レナータ:アウシュリネ・ストゥンディーテ  
    ルプレヒト:ボー・スコウフス
    宿屋の女将、修道院長::ナタースチャ・ペトリンスキー
    占い師:エレナ・ザレンバ
    グロック:アンドリュー・オーウェンス

    アグリッパ、メフィストフェレス::ニコライ・シューコフ
    ファウスト、ワイズマン:マルクス・ブルッタ
    宗教裁判長:アレクセイ・ティコミロフ   ほか

  コンスタンティン・トリンクス指揮 ORFウィーン放送交響楽団
              アーノルド・シェーンベルク合唱団

     演出:アンドレア・ブレス


        (2021.3.27 @テアター・アン・デア・ウィーン)

ウィーンでは演劇もオペラもアヴァンギャルドな上演の多いテアター・アン・デア・劇場。
この作品こそふさわしい。
ORFでの放送を録音しました。
こちらはすでにDVDにもなっているが、まだ未視聴ですが、トレーラーだけ見てこれはいいかな、と判断。
精神病棟に舞台を移した様子で、みんな病んでる。
歌手たちも含めて、「ヴォツェック」を思わせる。
 その歌手たる、いま最高のレナータ役と思われるストゥンデーテが完全に逝っちゃってるくらいの入魂の歌唱。
スコウフスも性格バリトンそのもののこの役を完璧に歌ってる。
新国でドン・ジョヴァンニを聴いたことのあるトリンクスの指揮、なかなかダイナミズムを意識した造りで、リズム感もよろしく、変転しまくるプロコフィエフの音楽の流れもうまくつかんでいる。

映像

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    レナータ:アウシュリネ・ストゥンディーテ  
    ルプレヒト:スコット・ヘンドリクス
    ホテルの女将:ベルナデッタ・グラビアス

    占い師、修道院長::アグニェシカ・レリス
    グロック、医者:パヴォロ・トロストイ
    アグリッパ、メフィストフェレス::アンドレイ・ポポフ
    ファウスト、宗教裁判長、ハインリヒ:クリストフ・バチィク
    ワイズマン、給仕長:ルーカス・ゴリンスキ
       ほか


      大野 和士 指揮  パリ管弦楽団
              ワルシャワ大劇場合唱団

     演出:マリウス・トレリンスキ


        (2018.7.13 @エクサン・プロヴァンス)

これはフランス放送のストリーミングからエアチェック。
大野和士とパリ管という願ってもない組み合わせに狂気して聴き、録音もした。
録音だけで聴いたとき、オーケストラが抑制されすぎ、ややおとなしいように感じた。
しかし、しばらくのちに映像も全編観ることができて、そんなことはまったくなく、オケと歌手、舞台、すべてが一体となった集中力・緊張感の高い上演だったのだと確信した。
エクサン・プロヴァンス音楽祭は半野外上演なので、オーケストラの響きと歌手のバランスなどを考慮した結果なのかと思った。

ここでもストゥンディーテが目を見張るほどにすごくて、とくに映像を伴うと見ながらその歌唱と演技に引き込まれてしまうこと必須。
この役のスペシャリストになった感もありますが、こうして鮮明な映像で見ちゃうと他の歌手が生ぬるく感じてしまう。
声は鋭いけれど、繊細さも併せ持ちつつ、ほの暗いトーンの持ち主。
そうエレクトラも得意役にしているのもわかります。
指の先から、足の指先まで、演技していて、憑依したときの目の白剥く様子も凄まじい。
この上演の年の秋に、ストゥンディーテは大野&都響に来演してツェムリンスキーの抒情交響曲を歌いまして、私もそれを聴いてました。
おっさんに過ぎるルプレヒトのヘンドリクスは、演出に沿った存在そのものに感じ、サラリーマン風の人の良さがその声にも出てました。

ポーランドの演出家トレリンスキは、なかなかに魅せる舞台でありました。
ネオンの光るラブホテルが舞台で、そこにはいろんな宿泊客がいて、随所に登場して味わい深い存在となってまして、思わず笑える連中もいました。
二役を演じる歌手もいるが、あえて同じ衣装であえてわかりにくく同質化をねらったものか。
黙役のかつての恋人ハインリヒ伯爵は、目の不自由な方の設定で、最後のシーンではそのまま宗教裁判長としてレナータを断罪する役ともなる。
オペラの冒頭で音楽の始まる前に寸劇があり、そこでは少年が日本のかつての特撮映画のガメラをブラウン管テレビで見ている。
またレナータと同じクローンのような女性が、ハインリヒ伯爵が出てくるときに何人も出てくる。
伯爵とルプレヒトの決闘のときにたくさんいて、踊り狂うが決闘で敗れたルプレヒトはそのとき子供化してしまう。
メフィストフェレスに食われるのはレナータの子供の姿。
ともかく、レナータもルプレヒトも子供時代のトラウマを背負っているのか、そしてレナータは薬物依存となっているのか・・
修道院シーンにも多数のレナータもどきであふれ大暴れ、自傷行為をする本物のレナータ、ハインリヒかのように抱きしめる宗教裁判長。
レナータは最後、倒れ伏すが、これは彼女の想いがかなったという救いなのか、絶望なのか、地獄行きなのか。。。。
前者をイメージさせる演出だとしたら、それはこのオペラにプロコフィエフが思ったラストシーンなのかもしれない。

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           レナータ:エヴァ・ヴェシン  
    ルプレヒト:リー・メルローズ
    ホテルの女将:アンナ・ヴィクトローヴァ

    占い師、修道院長::マイラム・ソコローヴァ
    グロック:ドミンゴ・ペリコーラ
    アグリッパ::セルゲイ・ラドチェンコ
    ファウスト:アンドリー・ガンチュク
    メフィストフェレス:マキシム・パスター

    宗教裁判長:ゴラン・ユリッチ
    ワイズマン:ピョートル・ソコロフ
       ほか


   アレホ・ペレス 指揮  ローマ歌劇場管弦楽団
             ローマ劇場場合唱団

     演出:エマ・ダンテ


        (2019.5.23 @ローマ歌劇場)

ローマでの上演だし、カトリック総本山の地元ともいうことあり、きっとお堅いんでしょうね、ということの一方で、原作への忠実ぶりも求めてこちらを購入してました。
時代設定も原作どおり、妙な読み込みも少なめで、さらには日本語字幕もあることからフムフムなるほど、という思いで鑑賞しました。
安全運転すぎる演出ではありますが、たくさん出てくる個性豊かな登場人物たち、重要な存在である黙役、思わず踊りたくなるプロコフィエフの音楽に合わせたバレエチーム・・etc、わかりやすく納得感のあるものでした。
ラストシーンの不条理も、ラストピースが最後にひとつハマるような感じでのエンディングでよかった。
ただ、自分的には炎の天使と思しき赤っぽいダンサーがちょっと鬱陶しかった。
また全体に、ほかの演出を観てきてしまうと、刺激の少なさやギリギリの切迫感のようなものの欠如を感じました次第でありました。
あと好きでなかったのが、3つのノックの音が小太鼓で鳴らされたところで、ここはやはり、どんどんドンでしょう、と思いましたね。

聞き知った名前のいない歌手のレヴェルは総じて高く、見た目はこの人もオッサン系のメルローズが暖かい声のバリトンでよかった。
レナータのヴェシンさんは、ほかの盤の鋭い歌唱や演技を知ってしまうとちょっと弱く、演出上もさほどの厳しさを表出していない感じ。
ちなみに5幕の地獄シーンは安心安全のものです。
ほかの場面で1か所だけ、ポ〇リありで頑張りました!
あとこのDVDの一番いいところは、お馴染みペレスの指揮で、機敏でかつ情感にあふれ、オペラの緩急と呼吸感が豊かなところ。

「炎の天使」の映像作品を楽しむなら、まずこのローマ劇場盤で、次はもし製品化されたらバイエルンでしょう。
あと観てみたいのは、リセウ劇場(G・ヒメノ指揮)、チューリヒ劇場(ノセダ指揮)で、ともにストゥンディーテなところもすごい。

前にも書いたが、原作は最後にはレナータには救いの手がのばされてこと切れるが、プロコフィエフのオペラでは、そのあたりの具体的な最後がない。
そのあたりをどのように結論付けた解釈をするかで、いろんな伏線を全編に設けることができるので、このオペラは演出家には腕の振るいがいのある作品であり、傑作なのだと思う。
なんども言いますが、なによりもプロコフィエフの音楽がすばらしい。

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新国立劇場の次のシーズン・ラインナップが発表されましたが・・・
うーーん、という内容ですな。
ヴォツェックとエレクトラの新演出はいいにしても。。。
大野監督、これやって欲しいよう

次は交響曲いきます。

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プロコフィエフ 「炎の天使」 ①

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ある日の壮絶な夕焼け。

こんな日の翌日は雨だったりしますが、この晩遅くに暖かい当地には珍しく雪が舞った。

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  プロコフィエフ 歌劇「炎の天使」op.37

時計回りに、ゲルギエフ&キーロフ(CD)、N・ヤルヴィ&エーテボリ(CD)、ユロフスキ&バイエルン州立歌劇場(エアチェック)、大野和士&パリ管(エアチェック)、トリンクス&ORFウィーン放送響(エアチェック)、ペレス&ローマ歌劇場(DVD)

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

年代順にプロコフィエフの音楽を聴いていこうという遠大なシリーズ。

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「3つのオレンジへの恋」(1921)に続く、プロコフィエフの4作目のオペラ。
日本を経てアメリカに逃れたプロコフィエフ。
アメリカを拠点に、ピアニストとして人気と多忙を極め、本人の想いとはうらはらに「ボリシェヴィキのピアニスト」と呼ばれ人気を博した。
ヴァーレリィ・ブリューソフというロシア象徴主義運動の代表格である作家の1908年発表の同名の小説をもとにした5幕のオペラ。

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原作の表紙、舞台は16世紀のドイツでライプチヒからケルンあたり。
プロコフィエフもこの設定は変えず同じくしており、小説の内容もイメージ的にはほぼ同じ。
原作者のブリューソフ自身の経験に基づく三角関係的な耽溺小説ではあるが、プロコフィエフのオペラの「炎の天使」の筋立てのややこしさや、複雑さは、まさにこの原作にこそある。
さらにそこには、悪魔主義と非現実という象徴的な背景があり、宗教的な愛による救いも原作にはあるが、しかしプロコフィエフのオペラにはそれがない。
まさに救いのないオペラをプロコフィエフは作曲したのであります。

原作の中の挿絵にはこんなおっかない絵もあり

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1919年から作曲を開始したが、完成は1927年と8年の歳月がかかった。
その間、ニューヨークで知り合ったスペイン生まれの歌手リーナ・リュベラと愛し合うようになり、1922年にミュンヘンの南のエタールという街に移り住み、1923年にふたりは結婚した。
リーナはプロコフィエフの最初の妻で、その後もフランスやアメリカでともに暮らすが、プロコフィエフの祖国への帰還を熱い思いに対し、ソ連の体制などを心配して反対したものの、ソ連に移住することになる。
その後のリーナは気の毒で、プロコフィエフはほかの女性と関係を持ち別居となり、離婚届も出されてしまう。
さらには政治的な問題にも巻き込まれ、反体制派として逮捕までされ、プロコフィエフの死後雪解けの時期に名誉回復を得る。
リーナが亡くなったのは1989年と長命なのでした。

リーナとのドイツでの結婚生活のなかで、「炎の天使」の作曲に没頭するプロコフィエフ。
ノイシュバンシュタイン城のあるフュッセンと山ひとつ隔てた場所にある風光明媚な場所で、この斬新きわまりないオペラが書かれたというところが面白い。
1927年に完成し、翌28年に初演を目論んだもののスコアの改訂が間に合わず流れてしまい、パリのオペラ座でクーセヴィツキによって演奏会形式で2幕分のみが初演。
3幕11場の全体構成を5幕7場にするなど、その後も手を入れつつも初演の機会は訪れず、ソビエトに帰還してしまってからは、その内容から同国での上演などおぼつかず、まさにお蔵入りとなりました。
プロコフィエフの死後2年目の1955年にイタリア語翻訳によりヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演となる。
このオペラの主題を用いて交響曲第3番を作り上げたのが1928年。
こちらは1929年にモントゥーの指揮で初演され、いまやコンサートでも人気曲のひとつとなっている。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

       登場人物

    16世紀 ドイツ ライン地方

 レナータ:悪魔に魅入られた娘(ソプラノ)
 ルプレヒト:騎士で旅人 レナータに一目ぼれで愛し抜く(バリトン)
 宿屋の女将:(アルト)
 召使:(バス)    
 占い師:(メゾ)
 ヤコフ・グロック:本屋(テノール)
 アグリッパ・フォン・ネッテスハイム:魔術師、哲学者(テノール)
 マティアス・ヴィスマン:ルプレヒトの学生時代の友人(テノール)
 医師:(テノール)
 メフィストフェレス:悪魔(テノール)
 ファウスト:いわゆるファウスト・哲学者(バリトン)
 居酒屋の主人:(バス)
 尼僧院長:(アルト)
 宗教裁判長:(バス)
 ハインリヒ伯爵:黙役
 その他の連中:3体の骸骨、隣人、尼僧、随行員etc. 合唱、バレエ

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第1幕 宿屋にて
宿屋の女将に案内され、粗末な屋根裏部屋に、アメリカ帰りの騎士ルプレヒトが登場。
この宿で一番良い部屋だと自慢されるが、隣室から叫び声が聞こえて来る。
ルプレヒトが駆け付けると、若い女性が「悪霊に取り憑かれている」と言って悶え苦しんでいる。
この美しいレナータに一発で心ひかれたルプレヒトが事情を聞くと、レナータはその身の上を話し始める。
 子供のころ、マディエリという「炎の天使」といつも一緒に楽しく過ごしていた。
やがてレナータは年頃の乙女になり、その友情は愛情に変わっていった。
レナータがマディエリに恋心を打ち明けると、マディエリは「いずれ時がきたら人間の姿になって再びレナータの前に現れる」と約束して去って行った。
さらに月日は流れ、レナータはハインリッヒと名乗る伯爵に出会う。
このハインリヒ伯爵こそがマディエリの生まれ変わりだと確信し恋に落ちてしまう。
二人は短くも幸せな時を過ごしたが、伯爵はレナータを捨てて突然に姿をくらましてしまった。
それ以来、夜ごと悪夢にうなされながら伯爵を来る日も捜し続けているのであった。
彼女の話を聞くうちに、ルプレヒトはレナータの不思議な魅力に憑かれ、彼女を自分のものにしたいと言う欲望にかられ、普段の冷静さを忘れ襲いかかるが、激しく拒絶される。
しかしルプレヒトは危なげなレナータを愛し、守りたいと強く心に決める。
様子を見に来た女将は、このレナータを売春婦と罵り、ルプレヒトに忠告し、さらに占い師を呼んで来て占うことにする。
占い師はレナータとルプレヒトの血塗られた運命を予言する。怯えるレナータを連れてルプレヒトは宿を逃げ出して行く。

第2幕
第1場 ケルン
ルプレヒトとレナータはケルンにやって来る。
レナータはハインリッヒ伯爵を探し出すために、魔術について文献をあたり調べている。
本屋のグロクが登場し、魔術についての文献を持参するが、黒魔術などは、異端としての裁判の恐れあり勘弁して欲しいという。
 ルプレヒトは再び愛を告白するが、ハインリッヒ伯爵の足元にも及ばないとまったく相手にせず、文献に没頭する。
レナータが伯爵の魂に呼びかけると、ドアをノックする音が3回聞こえて来るので「魔術が成功した」と喜ぶ。
しかしそれは、熱に浮かされたレナータの幻聴であった。
絶望するレナータ、ルプレヒトはまたやって来た本屋グロクの忠告に従って、学者で魔術師のアグリッパ・フォン・ネッテスハイムに助言を求めにいく。

第2場 アグリッパの書斎
学術書や科学的計測器などが散乱するアグリッパの書斎、そこで鳥の剥製や骸骨の並ぶまがまがしい雰囲気のなか研究中。
そこにルプレヒトが訪ねて来て経緯を説明し、助言を求めるが断られる。
ただアグリッパは、魔界に関わってはならないと警告を与え、自分は人間の深淵を探求するのみなのだ、と宣言する。
横に並ぶ3体の骸骨が「アグリッパは嘘をついている」と教えるが、それはルプレヒトには聞こえない。
アグリッパは、真の魔術とは科学そのものであると忠告をする。

第3幕
第1場 ハインリヒ伯爵家の前
レナータはケルンに滞在していた伯爵に巡り合うことが出来たが、伯爵はレナータを魔女と呼んで遠ざける。
レナータは深く傷つき、そんな伯爵なんて火の天使マディエリの約束した化身ではないと考えるようになる。
ルプレヒトはすべては幻だったのだと、アグリッパに会っての結論を言うが、レナータは「自分を辱めた伯爵に決闘を申し込み、殺して欲しい」とルプレヒトに訴える。
ルプレヒトはさっそく伯爵家に決闘を申し込みに向かい、レナータは屋敷の外でマディエリが姿を現わしてくれるように神に祈っていた。
ここでのモノローグはなかなかに切実で、この作品の一番オペラらしい歌唱シーンとなる。
レナータは祈りの陶酔の中、窓に映る伯爵を見上げると、そこにはハインリヒ伯爵が、、やはり伯爵がマディエリの生まれ変わりであるとまたも確信してしまう。
ルプレヒトが決闘の段取りを終えて戻ると、身勝手にもレナータは伯爵を傷つけることを禁じるのである。
なんでやねんと、めちゃめちゃ怒るルプレヒトであった。

第2場 ライン川
レナータから伯爵を傷つけるな!と命令されたルプレヒトは、それでも勇敢に決闘に挑み闘いの末、深手を負う。
突然出てきた友人のヴィスマンに助けられる。
一方の伯爵はまた姿を消してしまう。
レナータはこの顛末に愕然とし絶望に暮れ、ルプレヒトへの愛をいまさらに誓い、命乞いをし、死んでいまったらもう自分は修道院に入るとしおらしくもこの厳しい試練を嘆く。
しかしその誓いを嘲るような声もまた聞こえ、レナータは不安に陥る
ルプレヒトは私を死に追いやりやがってこのやろう!・・・と悪魔の幻影を見る
医師を伴いヴィスマンが戻ってきて、ルプレヒトは一命をとりとめる。

第4幕 ケルンの街角、居酒屋
レナータが介護し、ルプレヒトは回復し、ふたたびレナータとの結婚を望んでいた。
しかしレナータはルプレヒトに感謝はしていたが、愛することはできないという。
レナータはルプレヒトを遠ざけ、未だに伯爵に性的な欲望を感じる自分の体を呪い修道院に入ると言い張る。
混乱するレナータはルプレヒトを悪魔の使いだと責め、ナイフで何度も自傷行為をする。
そして結婚を哀願するルプレヒトの制止を振り切り、ナイフを投げつけて逃亡してしまう。
 その時ファウスト博士と悪魔メフィストフェレスがレナータとルプレヒトの言い争いを居酒屋のテーブルに座って見物していた。
ファウストは天使も悪魔も人間のことが理解できないと意味深に言う。
メフィストフェレスはワインを飲み、肉を持ってこいと給仕の少年に命ずるが、男の子は肉を落としたりして粗相をしてしまうと、その子をメフィストフェレスは食べてしまう。
ファウストはメフィストフェレスの悪ふざけにうんざりしているが、驚いた店主は「男の子を返せ!」と大騒ぎをして、メフィストフェレスは満足げに男の子をゴミ箱から出してみせる。
そんなメフィストフェレスは落胆するルプレヒトに興味を持ち、女に振られ気落ちをしてやがると揶揄し、無理強いでは愛は手に入らない、一緒に飲もうぜと誘っって来る。
ケルンを案内しろ、一緒にくれば、いろいろとわかるぜとメフィストフェレスは誘う。

第5幕 修道院
逃げ出したレナータは修道院に入っていた。
悪霊を信じるのか?見たのか?と僧院長は問い、レナータが来て以来、不思議なことばかりが起きるという。
しかし悪霊に苦悶するレナータによって修道院はだんだんと不穏な空気に包まれる。
尼僧達も不安におののき始める。
尼僧院長はレナータを呼び出し宗教裁判にかけることし、宗教裁判長は十字架をかざし悪魔払いを始める。
この悪魔払いの儀式は修道女達をさらに混乱させ、悪霊を呼び醒ましてしまう。
炎の天使の幻影がついにレナータを制圧し、修道女たちはサタンをも讃美し始めみなトランス状態となりレナータを讃える。
メフィストフェレスとルプレヒトはこの様子を見ていて、ほら、あの女だぜとルプレヒトに見せつける。
ついに宗教裁判所長がレナータに悪魔と通じた堕天使と烙印を押し、拷問と張り付け火炙りの刑を言い渡し、混乱の極みに達する。
最後は近衛兵も乱入し、ついに処刑へとなる・・・・・

                    

とんでもなくややこしく、ヒロインの目まぐるしいまでの心変わりは、悪魔に魅せられた由縁か。
そうした女性を愛し抜くことができるのか。
いるかもしれない悪魔と対峙する男性、ルプレヒトは騎士道精神を発揮して、自らの破滅も顧みずに渦中に飛び込んでいく。
そこまでして愛し、救助するに足る女性なのかを問うのもこのオペラだし、そのあたりが上演にあたっての演出家の腕の見せ所だろう。
ラストシーンは、音楽としてはいろんな解釈を施すことができるような残尿感も漂うが、まばゆい音のエンディングとなる。
ルプレヒトは、メフィストフェレスにとどめられたのか、レナータを救うことが出来ずに傍観者となる。

一方、ブリュソフの原作の方だが、修道院入りしたレナータは、悪魔か聖人に取りつかれた状態になっていて、そうした罪を告白して牢ににつながれてしまう。
それをルプレヒトが救出に向かうが拒否されたあげくに、「炎の天使」と同一視したのかどうか、彼の腕に抱かれつつ死んでしまう。

この結末の描かれ方の違いは大きい。
救いがなく、より悪魔的、暴力的な結末にしたプロコフィエフは、ここに付けられた音楽がまさにそのような出来栄えになっており、予定調和的でないところが、この時期のプロコフィエフの先鋭的な作風にピタリと来るわけです。

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2025年2月25日 (火)

富士と菜の花

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近くにいるとなかなか行かないのが名所だったりします。

名所と呼ぶほどのことはございませんが、久々に登ってきたのが吾妻山。

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これまで何度も登場してる風景ですが、菜の花が満開になるこの時期がいちばん美しい。

音楽ブログのほうは、いま大作にいどんでいるので、その執筆の途上。

ブルーとイエローの世界で、雪の多い地域の方には恐縮ですが、春を先取り。

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箱根の山々と小田原の街も臨めます。

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こんな街でのほほんと過ごし、育ったワタクシでございます。

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2025年2月15日 (土)

雑感、諸々

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春の先触れ、紅梅のほのかな香りも寒い中にも和みます。

今日は、日ごろ思っていることを脈連もなく書いてしまおうという回です。

①「なんでやねん!」

毎年、海外から多くのオーケストラがやってくるのは、コロナ禍を除いて日本という国が重要な音楽消費市場であることの証です。
欧米のオケが、お国ものや、そのときの指揮者の得意曲を引っ提げてくるわけですが、ここ数年のプログラムには??ばかりか、辟易とさえしてしまう思いなのですよ。
海外オケの来日に、多くの場合、日本人ソリストも登場して協奏曲プログラムが入るんです。
ベートーヴェンかチャイコフスキーかラフマニノフの協奏曲に、オケのメイン曲は名曲集ばかり。
多い曲を羅列してしまうと、ベートーヴェンの7番、ブラームスの1番か4番、チャイコフスキーの5番か6番、ドヴォルザークの8番か9番、ショスタコーヴィチの5番、マーラーは1番か5番、展覧会、ボレロなどなど。。。
せっかく、聴きたいオケが来ても、いつも名曲シリーズばかりで触手は伸びない。
しかも、チケットが妙に高くなってるのは、ソリストとマネジメント社のためか?とも思ったりしてしまう。
ともかく人気のある彼らを目当てにチケットは売れる。
前半で帰ってしまわないように、後半は誰でも知ってる曲を持ってくるのか?
マーラーを初めて聴くような聴き手も登場してしまうのです。
プロモーターの問題だとはっきりいって思うぞ。

がっかりプログラムは、ともかくほとんどのオケにいえる。
せっかくのロウヴァリとフィルハーモニアなのにチケットむちゃ高いし、ユロフスキーとベルリン放送なのにブラームスですよ、フルシャとバンベルクでべト7,ブラ1だよ、注目のシャニとロッテルダムなのに脅威のプロコ3番を弾き語りをさせろよ、ブラ4と新世界だぜ。
ケルン・ゲルツェニヒの久々登場は、ロトが「あれして」代役に好きな指揮者オラモになって、マーラー5番はともかく、べト7。
マーラーの5番は、佐渡裕とトーンキュンストラもやるが、5番はもうね、どこもかしこもやりすぎだよ。
オールソップとポーランドのオケが来るのは楽しみだが、またもソリストがーーで、メインも名曲で、ポーランドの音楽聴かせろよ!
ヤマカズとバーミンガムには、いつもの日本人ソリストが出てこないし、プログラムの展覧会にはひとひねりありよろしい。
スカラ座フィルが来るのはいいし、指揮者も目をつぶるが、ここにも日本人ソリストで、なんで悲愴とブラ4なんや。

こんな風につまらなくならないのは、ベルリンフィル、ウィーンフィル、バイエルン、ロンドン響、ボストン響などで、指揮者が大物だったりで、高額チケットでもソリストなしでも集客できると踏んでいるんだろう。
高いといえば、ウィーン国立歌劇場の「フィガロ」と「ばらの騎士」は、S席は土日になると82,000円で最安値でも29,000円ですぜ、だんな。

②「勝手にいじくるな!」

クラシック音楽をテレビで流すのはいいこと。
CMなどでも、効果的に使われ、それに興味を示した方がいれば喜ばしいこと。
ひとむかし前の、ニッサンのブルーバードのラプソディ・イン・ブルー、サントリーウイスキーの大地の歌、太田胃散のショパンなど、とてもセンスがあってよろしかった。
CM以外でも、ウルトラセブンでは曲が大いに寄与して名作となったりもしたのだ。
が、しかし、いまのクラシック音楽の使い方はひどい。
曲の選択と映像の内容に脈連なく、しかも瞬間芸のような切取り使用。
マーラーの千人を勝手に使うな、ヴェルディとモーツァルトのレクイエムもやめてくれ、怒りの日なのに、不適切な利用ばかりだろ、バチあたるぞ、カルメンもそう、みんな瞬間瞬間の効果音としてしか使用されていないのだ。
こんな使い方ではクラシック音楽への興味を引くどころが変な刷り込みとなるだろう。

③「地方分散を急げ」

人口の都市部一極集中、とくに東京への集中を各地に分散しないと日本の衰退は止まらず、他国に飲まれてしまう・・・・
実際は難しいことばかりで理想論だが、地方でも仕事があり、若い人、女性がやっていける社会を確立すれば、子育てにお年寄りも参画できて、少子化・高齢社会対策にもなるだろう。
また人も分散すれば、東京に集中する文化も地方に根付かせるっこともできるし、日本の伝統文化の衰退やネグレクトにもストップがかけられる。
東京はいたるところでビル工事をしているがもうやめて欲しい。
地方の主要都市に高層ビルでなく、それなりの建築物を造り、省庁や会社機能も移転させ、東京に出なくても、各地の中心都市で仕事や用事が済むようになればいい。
いまのままだと、政府の無作為な移民政策で地方に外国人のコミュニティができて日本人社会と異にするものが出来てしまうかもしれない。

④「政治家と官僚とマスコミを作り直せ」

アメリカでは革命とも呼ぶべきドラスティックな動きが進行中。
日本では、その真意をマスコミがまったく報道しないし、否定的ですらあるし、政治家もまったく違う方向を向いている。
基本は、国民のため、自国のため、それらに尽くし、そのためになることを政治化・官僚・マスコミがやればいいだけ。
でもぜんぶがそうじゃないことになっているし、国民の望んでないことばかりをやってる。
戦後80年、あらゆることがもう制度疲労を起こしてるんだと思う、道路陥没も被災地復興の遅延も、みんなそう。
がらがらポンをするときだろう。
愛国者が疎んじられる国は世界でも日本だけだよ。

⑤「横浜ベイスターズよリーグ制覇せよ!」

昨シーズンは史上最大の下剋上をやってのけたわれらがベイスターズ。
こんどこそ、リーグも制覇して、日本シリーズにも出て、総合優勝をして欲しいぞベイ。
川崎時代の大洋ホエールズ時代からの半世紀に及ぶファンです。

⑥「神奈川フィルよこれやって!」

定期会員から離脱してしまいずいぶん経つが、神奈川県人としては、神奈川フィルを愛し応援する心はずっとかわらない。
欲をいえば、現田&シュナイト時代の輝かしくもドイツ的な響きや、深遠なプログラムミングが忘れられない。
そのあとのマーラーチクルスも、オーケストラの存続もかかり、さらには震災というショッキングな出来事もあって、マーラーを一曲づつオケと聴き手が極めていくという喜びもあった。
 その神奈川フィルが、オペラのピットにはかつては多く入っていたし、定期でもよくコンサート形式で取り上げていた。
神奈川のオペラ団がなくなり、県民ホールもなくなってしまうなか、ピット入りは難しいとしても、オペラの手練れ沼尻監督のもとで始まった「ドラマテック・シリーズ」がうれしい。
一昨年に「サロメ」、ことしは「ラインの黄金」が予定されている。
この際、ハードルはあまりに高いが、リング4部作をぜんぶやって、朝比奈、飯守に続く快挙を成し遂げ、レコーディングも敢行して欲しい!

東京のオーケストラとは違った独自色をさらに出して欲しいのです。

以上

※勝手なことを言うはやすし
たまに吐き散らすのもよいでしょう
戯れ言としてお聞き流しくだされば幸いであります

Togawa

河津桜もほころんできました。

春はそこまで🌸

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2025年2月11日 (火)

エデット・マティスを偲んで

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またしても訃報が・・・

エデット・マティスが亡くなりました。

2月9日、ザルツブルクにて、享年86歳。

次の誕生日を迎える2日前とのこと。

もうそんなご年齢だったのか、と哀しみとともに驚きも禁じ得なかった。

そう、マティスはその若々しく可愛いお声でもって、ずっと自分の若かった時代をともにしたような歌手でしたから・・・・

ルツェルン生まれのスイス人で、なんといってもモーツァルト歌手というイメージが強い。

録音の多さも数知れず、多くの指揮者に愛され、夫君のベルンハルト・クレーとの共演も多かったです。

モーツァルトを中心に、マティスさんのいくつかの歌声を聴いて偲びたいと思います。

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ベーム指揮の「フィガロの結婚」
ケルビーノを持ち役でスタートして、ほどなくザ・スザンナと呼べるほどに、歌声も舞台姿もまさにマティスにぴったりの役柄。
プライとのコンビもばっちりで、これはわたしには永遠のフィガロ盤です。
ずっと後年、伯爵夫人も歌うようになったのは、ルチア・ポップと同じですが、やはりマティスはスザンナ。

モーツァルトのオペラでは、イドメネオ(イリア)、パミーナなどが素敵すぎますね。

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魔弾の射手のエンヒェンも素敵な持ち役ですが、わたしが案外に好きなのは、ベルリオーズのファウストでのマルグリートです。
こうした無垢なヒロインはマティスのうってつけだし、フランス語も可愛いし、ミステリアスなベルリオーズの音楽にも合います。
小澤さんも亡く、みんないなくなってしまう・・・・

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リヒターのバッハでもたくさん共演してました。
カンタータ199番「わが心は血の海に漂う」は、ソプラノソロのカンタータの名品ですが、ここでのマティスのシリアスで言葉に心血を注いだようなな歌唱は、いまこのとき、とても心を打ちます。
古楽が主流となったいまのバッハ演奏ですが、リヒターの60~70年代のこの時代の演奏は、厳しい造形がそのまま音になっていて思わず襟を正さざるをえない。

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ジャケットが70年代にすぎますが、若きバレンボイムのドイツ・レクイエムでのマティス。
これがほんとに美しくも無垢なのです。
老練なF=ディースカウとの対比もよいし、バレンボイムとロンドンフィルの作りだす以外にも渋い音楽にも一幅の可憐な花のようです。

Schumann-mathis

シューマンの「女の愛と生涯」
エッシェンバッハと録音したシューマンの歌曲はいずれも絶品で、ドイツ語の美しさが際立ち、揺れ動く感情の機微を愛で優しく包み込んでしまうような、そんな優しい歌声なんです。
ヴィブラートのほとんどない、まっすぐのお声が、実に麗しい。

Rosen-bohem

スザンナを歌っていた頃のマティスに相応しかったのが、ゾフィー役。
ベームのライブ盤では、素敵な可愛いゾフィーが聴かれます。
トロヤノスのオクタヴィアンとの声の対比もばっちり。
大人になってゆく若い女性の描き方も素晴らしいのです。
 シュトラウスでは、あとアラベラでのズデンカが持ち役でしたが、こちらは正規音源ないかも。。
そして自分にとって忘れえないのが、「4つの最後の歌」。
夫君のベルンハルト・クレーとN響にやってきて歌った。
それをエアチェックして何度も何度も聴いた高校時代。
その絶美の音楽に感嘆し、シュトラウスに目覚めていった・・・
大切なカセットテープは失われてしまい、その音源の自家製CDRもどこかに消えてしまった・・・

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ピアノの名手でもあった指揮者のクレーも、モーツァルトの指揮とピアノにかけては素晴らしいものがありました。
このモーツァルト歌曲集は、わたくしの若き日の、エヴァーグリーン的なモーツァルトの1枚。
シンプルだけれども深みのある歌曲、「ラウラに寄せる夕べの想い」をしみじみと聴きます。

バッハ、モーツァルトからマーラー、ヴォルフまで、ドイツの歌の神髄をその優しくピュアなお声でたくさん聴かせてくださいました。

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ベームとの名品、モーツァルトのレクイエムを聴きながら追悼記事を閉じます。

エデット・マティスさんの魂が安らかでありますこと、お祈りいたします。

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2025年2月10日 (月)

秋山和慶さんを偲んで

Akiyama

驚きの訃報から数日が経ってしまいましたが、秋山和慶さんを偲んでチャイコフスキーを聴きました。

ご自宅で転倒され、療養のため指揮活動からの引退も表明され、そのあとすぐの悲報でした。

日本中の多くのオーケストラが、音楽家が、ショックとともに悲しみの表明を次々にされました。

昨年の小澤さんの逝去とはまた違った、その悲しみは、いつでも秋山さんの指揮姿に接することができるという、日本のどかこで必ず指揮をしている。。そんな身近な存在というのが秋山さんだった。

実はわたくしは、秋山さんの指揮は大人になってからちゃんと演奏会で一度も聴いていないのです。
高校の時に、プロオケを聴く授業みたいなのがあって、そこで「新世界」を聴いたようなのですが、ほとんど覚えておらず。

繰り返しますが、いつでも聴ける秋山さん、という思いが常にあったのだと。
あとは、オペラの指揮、とくにワーグナーをあまり取り上げなかったのも若杉さんのように積極的に聴きにいかなかった要因かもしれません。
ただ、グレの歌とモーゼとアロン、いまの自分なら飛びついていたでしょうね。
こうした大作をテキパキと指揮できるのが職人的な秋山さんだった。
3月に母校の創立記念の第9演奏会が予定され、初等部からご縁のあった秋山さんが指揮をする予定だった。
これは行かねばと思いつつ日が経ち、こうしてまた機会を永遠に失してしまった。

斎藤先生や小澤さんとの出会いも語ったインタビュー⇒「学友とともに奏でる「第九」<校友・秋山和慶さん>」

日本のオーケストラの首席のポストは数知れず、あとはおもに北米での活動も目立ちました。
なかでもバンクーバー交響楽団の指揮者を長く務め、ご自身もバンクーバーでの生活を10年以上送り、このオーケストラの実力を高めたことは大いに評価されますね。
同響でも追悼のアナウンスがSNS上で見られました

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バンクーバーとの凱旋公演はNHKでも放送され、プログラムは幻想交響曲でした。
あの放送、記録に残ってないものだろうか。

いくつかの音源しか所有しませんが、堅実で、律儀なまでの忠実な音楽造りは、どんな曲でもその音楽の本来あるべき姿で聴かせてくれました。

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そんななかで、自分でもレアだなと思う札幌交響楽団とのチャイコフスキーの1番を改めて聴きなおしました。
涙が出るほどに美しく、そして寒い冬景色を感じさせる第2楽章。
雪国の暖炉を思い浮かべることもできる、そんな冬の演奏。
チャイコフスキーのロシアの冬でなく、日本の空気の澄んだカラッとした冬を感じます。

秋山さんのブルックナーをこんどは購入してみようと思います。

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             (アオガクプラスより拝借してます)

秋山和慶さんの魂が永遠でありますこと、お祈り申し上げます。

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2025年1月28日 (火)

平塚フィルハーモニー管弦楽団 ウィンターコンサート2025

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平塚市の「ひらしん平塚文化芸術ホール」から見た富士山。

平塚の市民オーケストラ、平塚フィルハーモニーの演奏会に行ってきました。

年に3~4回、本格的なプログラムによるウィンターコンサートと定期演奏会に、ファミリー向けのコンサートなど、積極的な活動をしているオーケストラです。

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 ミヨー    「屋根の上の牛」

 プロコフィエフ 交響的物語「ピーターと狼」op.67

      ナレーション:金子 裕美

         交響曲第5番 変ロ長調 op.100

        「シンデレラ」から”舞踏会に行くシンデレラ”

  田部井 剛 指揮 平塚フィルハーモニー管弦楽団

     (2025.1.26 @ひらしん平塚文化芸術ホール)

いつも果敢なプログラムを組む平塚フィル。
市民に愛されるオーケストラですから、この日も、ピーターと狼ぐらいしかきっと知らないだろうと思われる聴き手で、いつもどおりホールはかなり埋まりました。

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 (打楽器たくさん、ハープにピアノ、これぞプロコフィエフ)

ブラジルの陽光感じる明るくリズミカルな第1曲目。
七夕の里、ラテン的なノリのいい音楽は、平塚のイメージにもぴったり。
楽員さんの楽しそうな演奏も印象的でした。
15回あらわれる明るい主題、途中まで数えていたけれど見失いました。。。

「ピーターと狼」を演奏会で聴くのは初めて。
わたしの楽しみは、平塚を拠点とされるソプラノの金子さんのナレーション。
もう何年もまえだけど、英国歌曲のジョイントコンサートを横浜で聴き、そのときのフィンジを歌った金子さんの素敵な歌声が忘れられなかったのです。
そのときのブログがこちら「英国の薫り」
素晴らしくよく通る涼やかなお声で聴くピーターの物語。
会場には、ほんらい聴いてもらいたかった子供たちはいませんでしたが、老若男女問わず明晰・明瞭極まりないナレーションで導かれる一服の音楽劇を心から楽しんだのでした。
オーケストラのソロもみなさんバッチリでした。

大好きな交響曲第5番。
私のこのブログでは、コロナ禍でプロコフィエフのオペラに目覚め、それからプロコフィエフの主要作品を作曲順に記事にしている途上です。
7つの交響曲、それぞれに好きですが、5番は中学生時代からずっと聴いてきましたが、いまは3番と6番がいちばん好きだったりします。
クールでメロディアスな1楽章は着実にピークを作り上げ、最大のフォルテで楽章を閉じ、わたしも興奮しましたが、会場からも思わず拍手がおきてしまう熱演。
 打楽器とピアノが活躍する2楽章も見ていて楽しいし、若い賛助出演の奏者のみなさんも、いずれもうまく、完璧!
わたしの一番の聴きどころ、これまたクールな抒情が鋼のように強さをまといつつ盛り上がる3楽章、ここに田部井さんはピークを持ってきた感もあり、オーケストラも絶唱ともとれるくらいに頑張り熱くなりました!
 そして洒脱さも感じるナイスな終楽章、変転しまくる音楽の進行は、アマオケには至難の曲ではないかと思ったが、まったく危なげなく、わたしも興奮の坩堝へと最後は導いてくれました。
素晴らしい演奏に、平塚フィルを讃えたい。
ブラボーもしちゃったし、ほかの方も何人か飛ばしてましたね!
指揮の田部井さん、これまでで一番難しい曲をやりました的なことをおっしゃってましたが、実に見事でした。

アンコールもプロコフィエフでしっかり締めます。
憂愁とカッコよさのないまぜになったプロコフィエフ節満載のワルツで!

フロントが解放されたホールから気分よく外へ飛び出しましたよ。

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平塚の帰りは「都まんじゅう」

軽くてほんのり甘くて、あったかい。

子供のときからずっと変わりません。

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2025年1月23日 (木)

ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ アバド指揮

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家を出て南に歩くと10分ちょっとで相模湾です。

満月も近かったこの日、東の空にはきれいなお月様。

冬の海は寒いけれど、澄んだ空気と波の音で脳裏も冴えわたります。

ちょっと忙しくて、数日遅れとなってしまいましたが、1月20日は、クラウディオ・アバドの命日でした。

2014年1月20日、あの日から11年となりました。

「アバドの誕生日」の6月には、毎年いろんな聴き方でアバドを聴くのが常でしたが、そこにまさかの「アバドの命日」というまた特別な日ができてしまった。
それは悲しみの日ではありますが、たくさんの音楽を聴かせていただき、ありがとう=感謝の日でもあるんです。

今年は短めの曲で、しかもこれまで取り上げてなかった曲で。

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     ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ

   クラウディオ・アバド指揮 ボストン交響楽団

                (1970.2.2 @シンフォニーホール、ボストン)

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  ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ

   クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

              (1985.6.10 @ワトフォード・タウンホール、ロンドン)

ラヴェルの感傷的で瀟洒な作品、アバドは録音初期の70年と世界的な指揮者となった80年代のラヴェル全集の一環とで、2度の録音があります。
短い作品なので、演奏時間などに差異はないですが、強いて比較すると、ロンドンでの方がやや短め。

1958年にクーセヴィツキ指揮者コンクールで優勝したことで、同年にボストン響をタングルウッドで指揮。
7月公演の演目は、「未完成」で他の指揮者と振り分けたお披露目コンサートだった様子。
さらにその夏には、アバドの単独の指揮で、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲、モーツァルトのクラリネット協奏曲、チャイコフスキーのロメオというプログラムを指揮している。
ボストン響のアーカイブ情報は充実していて、詳細にタイプ文章が残され公開されているのです。

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ちなみに、ボストン響への定期への正規登場は1970年の1月で、このときに、ラヴェルとドビュッシーが演奏され、DG録音も行われている。
このときの他の曲目では、シューマンの4番という録音されなかった曲が目を引くし、プロコフィエフ3番や、ドホナーニ作品、バルトークのピアノ協奏曲など、いかにもアバドらしい作品ばかりで、それらの録音が残っていないか気になるところです。

ボストン響への客演は、その後もさほど多くはなかったですが、残された2枚分の録音を聴くに、いまもってシカゴと同様、オーケストラとの相性は非常によかったと思います。
ボストンで指揮をした曲目は、ほかではやはりマーラーです。
2番、3番と7番もあり、小澤さんの在籍時だったので、録音は望めなかったのですが、まじに聴いてみたかった。

ロンドン響との演奏は、リアルなラヴェルで、ボストンとのものは、オーケストラの伝統に則したヨーロピアンでエレガントなラヴェル。
そんな風に思いながら聴きました。
ホールトーンの美しさを活かした録音も、ボストンのものは特筆すべきで、アナログ時代のもっとも良き調べを感じる。
ほんとうに優しく、歌うように演奏する当時36歳の若さあふれる指揮。

より緻密に正確に響きを捉えた端正な演奏がロンドン盤で、アバドは52歳になる直前。
ロンドンを中心に、ウィーン、ミラノ、シカゴで活躍し、指揮界の頂点を極めつつあった時期。
ニュートラルなロンドン響の音色は、ボストンのものに比べると薄味ですが、精緻さにおいては比類ない。
ピアニッシモも美しさ、そこでの歌い口もアバドならではで、ロンドンのオケはアバドの思いに自在に付いて行ってる。

どちらのラヴェルも好きですが、自分的にノスタルジーを感じるのはボストンの方かな。

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1970年に発売されたレコードのレコ芸広告。

RCAからDGに専属を移したボストン響、その録音もRCA時代とはまったく一新されたものでした。

小学生だった自分、この広告を見て、おりからのクリスマス時期だったので、この2つのレコードが欲しくてたまらなかったのを覚えてます。
キャッチコピーもなかなか素晴らしいのです。

Megumi

海の近くの私が通った幼稚園がまだ健在です。
もちろん建て替えされてますが、場所も建物の配置も同じです。
むかしむかし、はるかに昔のことでしたが、不思議といろんなこと覚えているんです。

アバドの命日の記事

2024年「ヴェルディ  シモン・ボッカネグラ」

2023年「チャイコフスキー 悲愴」

2022年「マーラー 交響曲第9番」

2021年「シューベルト ミサ曲第6番」

2020年「ベートーヴェン フィデリオ」

2019年「アバドのプロコフィエフ」

2018年「ロッシーニ セビリアの理髪師」

2017年「ブラームス ドイツ・レクイエム」

2016年「マーラー 千人の交響曲」

2015年「モーツァルト レクイエム」
  
2014年「さようなら、アバド」

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2025年1月18日 (土)

東京都交響楽団演奏会 スラットキン指揮

Suntry

ふだん、まじまじと見ないサントリーホールのホワイエのシャンデリア。

6630個のオーストリア・クリスタルからできているといいます。

世界を代表するコンサートホールとなったサントリーホール。

平日の昼公演を聴きにいきました。

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  シンディ・マクティー 弦楽のためのアダージョ(2002)

  ウォルトン ヴァイオリン協奏曲

     Vn:金川 真弓

  ラフマニノフ 交響曲第2番 ホ短調 op.27

   レナード・スラットキン指揮 東京都交響楽団

       (2025.1.15 @サントリーホール)

セントルイス響をメジャーオケに鍛え上げた頃のスラットキン、もう45年近くも経過するけれど、その頃から聴いてきた。
よき時代のアメリカの音楽界を象徴するような指揮者。
そのセントルイスやリヨンのオケと日本に来た時に聴き逃し、さらにN響にもよく客演していたけれど、それらも何故か聴くことができず、齢80歳という超ベテランとなったいま、ようやく聴いたスラットキン。

ずっと聴いてきたスラットキンの音楽のそのままの変わらぬ印象に、若々しさと、目の当たりにした棒さばきの完璧さとに感嘆することとなりました。

スラットキンの夫人でもあるマクティーさんの「弦楽のためのアダージョ」。
9.11事件をきっかけとして作曲した交響曲第1番の2楽章にあたるという。
バーバーの同名の作品を思わせもするが、こちらはもっと深刻な悲しみの響きがあり、ペンデレツキのポーランドレクイエムの旋律が引用されている。
当然に初めて聴く曲でしたが、12分の緊張感に満ちた瞬間をまんじりともせずに味わいました。
交響曲の初演者でもあり、デトロイト響とのレコーディングもあるスラットキンの共感にあふれた指揮も見ていて感情のこもったものでした。

ウォルトン(1902~1983)のヴァイオリン協奏曲は、コンサートでは初聴き。
英国音楽好きとしては外せない作品で、エルガー、ディーリアス、モーランと並ぶイギリスのヴァイオリン協奏曲の代表作の一角。
活躍した年代にもかかわらず保守的な作風でありつつ、そこにカッコイイ近未来的なサウンドとクールなサウンドをにじませたその音楽。
金川さんの小柄ながら物怖じひとつないステージでのお姿と、抜群のテクニックに裏付けられた強靭さも感じる音色。
いくつかあるカデンツァでの完璧な技巧と集中力、この曲に必須の哀感あふれる歌い口など、表現の幅が極めて広く、ともかく見事なヴァイオリンでした。
打楽器も多数はいり、とかく派手になりかねないウォルトンの音楽ですが、スラットキンの指揮は抑制されたもので、英国音楽への造詣の深さを感じさせるノーブルでありつつ斬新さもあるその響きでした。
次はウォルトンの交響曲かエルガーが聴きたいです。

メインのラフマニノフ。
スラットキンにとって自家薬籠中の作品。
いまは失ってしまったが、N響への第1回目の88年客演時の名演奏はカセットテープに録ってそれこそテープが伸びるほどに聴いたものです。
同時にセントルイス時代の初期に録音した78年の演奏もCD時代になって即時購入し聴きつくした。
さらにデトロイトでの2009年の再録音ライブもオケと録音の優秀さでもって、かわらぬスラットキンの演奏を楽しんだ。

そして今回、日本を愛してくれたスラットキンの指揮姿に正面でずっと見入ってしまった。
指揮台を取っ払い、暗譜で指揮するスラットキンですが、音楽のすべてと同時にオーケストラを完全に掌握していて、指先や目で奏者たちを見つめ指示し、どんな細かなフレーズでもさっと反応して奏者を見つめたりOKをしたりと、ともかく完璧にすぎる指揮。
80歳の年齢に達したとはとうてい思えないキビキビした動きと反応の速さなのでありました。
もちろん残像に残っているN響ライブでの跳ねるような指揮ぶりは、もう見られませんが、出てくる音楽の若々しさは往年のものとまったく変わらずでした。

のびやかな1楽章は歌謡性に富みますが流れの良さを重視しつつロマンの表出は抑え気味。
交響曲の1楽章という位置を押えた知的な演奏の仕方だったかと。
速めのテンポでスピード感あふれる2楽章は、中間部との対比も鮮やか。
そして3楽章では、連綿とすることなく、むしろスマートに純音楽的に曲は進行し、ピーク時の盛り上がりは、それは見事だったけれど、哀愁あふれるソロ楽器のいくつかも全体のなかのひとコマ的な解釈。
なにもここで感情を爆発させたり、胸かきむしって見せたりする必要が、この楽章ではないこと、交響曲の緩徐楽章のひとつであることを認識させる演奏でした。
優秀な都響の楽員さんたちあってできたスタイルかと思ったりもした。
 終楽章はエンディングにむかって熱気が帯びてゆき、最後には高らかにはじけるというライブならでは高揚感を見事に味わうことができました。
ここでもテンポは速めで、スタイリッシュな進行なのですが、これまでの楽章の主題が再現されたりするヶ所の歌わせ方の巧さは、全体を振り返りつつ交響曲の全貌を示すという鮮やかな手法で、それが最後の高みに通じることとなって、ほんとうに、ほんとうに感動した。
思わず、控えめながらのブラボー発しました。

ロシア的なもの、ロマンテックなもの、そうした演奏とは違うスラットキンの知的でスタイリッシュなラフマニノフ。
ウクライナ系ユダヤ人を父に持つ西海岸生まれのスラットキン。
アメリカ人ならではのコスモポリタン的な存在として、開放的で明快な音楽性でありつつも、複雑な音楽性を持っていると思いますね。
近年は作曲家としても活動しており、いくつか聴いたことがありますが、そちらもわかりやすく秀逸な作品でした。

大阪フィルと広響にも今回客演をする予定で、この先も元気で、またの来日を期待したいと思います。

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小柄などこにもいるようなオジサンみたいだけど、ひとたび指揮台に立つとオーラがすごい

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明るくユーモアたっぷり。

スラットキン&都響さん、とてもとても楽しゅうございました、ありがとう🎵

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