2026年5月15日 (金)

ベートーヴェン 田園と第7 長老指揮者の若き日

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過ぎ去った春を偲んで

近場の桜をめぐって沢山写真を撮ったのでストックはたくさんあるんですが、賞味期限切れです。

天気のよい平日の早朝に、町内の吾妻山へ。

菜の花から桜の時期、休日ともなると大変な人出となるものですから平日に。

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相模湾に右手は伊豆半島、大島も左には見えます。

少し下ったところにある吾妻山神社は、倭建命と橘姫命に由来する由緒ある聖地でありますが、先ごろ不届きな輩により、神社の銅板が大量に盗まれてしまった。
心痛むことばかりが起きます。

ベートーヴェンの6番と7番を懐かしい演奏で聴きました。
現在98歳と90歳の指揮者ふたりの若いころ。

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 ベートーヴェン 交響曲第6番 ヘ長調 op68 「田園」

  ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

      (1977.6.6 @ルカ教会、ドレスデン)

もうジャケットからして泣けてくる。
田園ジャケットの大賞をあげてもいいくらい。
オリジナルのレコードジャケットだけれども、私はCD時代のブロムシュテット画像のものしか保有せず。
レコ芸の当時の広告のモノクロ写真をAIでカラー化してもらったらびっくりするくらいに美しく再現できた。
そして、刷新されたジャケットを眺めつつ、いまから49年前のアナログ最盛期、ブロムシュテット50歳のときの演奏を聴きながら、私は過去にタイムスリップしたかのような懐かしい風景を見たような感動に包まれたのであります。

驚くべきは、もうじき99歳にして若々しい指揮活動を続けるブロムシュテットは、いまも変わらぬ瑞々しい音楽を作っていることで、曲は違えど、ブルックナーやブラームス、マーラーといった大作にいどんでもサラリとした淡麗系の演奏であり、かつてのドレスデンでのベートーヴェンにも同じものを感じたことだ。
ゲヴァントハウスとの全集や、いくつかのライブなどで確認したが、テンポは版や研究成果に基づくもとであろうが、あきらかに早くなっている。
私は中庸でおっとりして、すべてにおいて過不足のないドレスデンでの田園がいちばんと思う。
田園にイメージされるものが、すべて備わったエヴァ―グリーンサウンドであります。
しかも加えて、ここではまだ東ドイツ時代のドレスデンの古雅でありつつ、豊かな厚みある低音と克明でありつつも少しくすんだ音色が味わえるという喜び。
まいどのことで言いたくはないが、ウィーンフィルと同じように、かつてのドレスデンの方がよき時代のヨーロッパを感じさせ、ふたつのオーケストラはともにアナログ時代の方が好きなのであります。

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  ベートーヴェン 交響曲第7番 イ長調 op.92

   ズビン・メータ指揮 ロサンジェルス・フィルハーモニック管弦楽団

      (1974.4 @ロイスホール ロサンジェルス)

今年の4月に90歳を迎えたズビン・メータも衰えを見せることなく活躍中ですが、ときおりの体調不良でキャンセルをすることも多くなってきた。
つい先ごろも、ミュンヘンでのトゥーランドットやマーラーをキャンセルし、90歳祝賀コンサートも演目を変えるなどしたばかり。
菜食主義のブロムシュテットに、メータはカレーパワーなのかと前々から思っていた。
同時代の朋友アバドと小澤が亡きいま、私のクラシック音楽人生のよき伴侶であったメータの存在は大きいですので、ずっとお元気でいて欲しい。

70年代はじめ、ツァラトゥストラ、ハルサイ、惑星と次々に大ヒットを飛ばし、メータとロスフィルは近現代ものにおけるグラマスな演奏でもって強烈な印象を与え続けた。
デッカによる鮮やかな録音もその一助となりました。
 そんなメータが初の古典系ロマン派にいどんだことで話題を呼んだのがベートーヴェンの7番。
当時は、そんなジャンルのメータの演奏は眼中になく、私が聴けたのはそんなに昔でないCD化された音源によるものです。

ゴージャスなイメージとはほど遠い、しごくまっとうで、慎重なメータがここにはありました。
くり返しもすべて行う丁寧な演奏で、熱血漢のベト7を期待すると裏切られます。
というか、メータのこの時期のレコーディングレパートリーでリスナーに刷り込まれてしまった印象の悪影響かと思う。
イスラエルフィルとのモーツァルトなんかも、レコ芸ではけちょんけちょんにされてたけど、もともとは柔軟性あふれるメータの音楽性ですし、どんな音楽でも、その音楽をあるがままにわかりやすく聴かせるという指揮者ですから、このベートーヴェンもしごくまっとうな演奏なんです。
それでもメータとアメリカのオケらしいところは、その音色の明るさや、ホルンやティンパニの強奏ぶりで、そこはなかなかの迫力と聴く側への快感となります。
また終楽章での熱狂は冷静でありつつ、アッチェランドのかけっぷりもそこそこにあり熱いです。
ただリズム的には、全体にもっと軽やかに弾んでもいいかなと思い、全般に重厚にすぎて、そこが今風でないところか。
あっけらかんとしたロスフィルでなく、ウィーンでやったらまったく違う演奏になっていたでしょう。

長老になってもあまり変わらず、むしろサラサラ感の増したブロムシュテットに対し、メータの昨今はテンポがゆったりとなり、スケール感あふれる印象は変わらぬものの、やや弛緩した印象も与えるようになったと思う。

ふたりの偉大なマエストロのますますのご健勝を祈ります!

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2026年5月 9日 (土)

ディーリアス ピアノ協奏曲 シェリー&デイヴィス

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過ぎ去った春

今年の桜はどこも美しかった。
隣町の湿生公園は、幼少時代によく遊んだ場所。

当時はよそ者は入れないような、そんな閉ざされた雰囲気と神聖さすら子供心に感じた場所。
丹沢山系の由来する水源は耐えることなく、清らかさを保っているのは昔と同じく。

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  ディーリアス ピアノ協奏曲 ハ短調 (初稿版)

     Pf:ハワード・シェリー

   アンドリュー・デイヴィス指揮
  ロイヤル・スコテッシュ・ナショナル管弦楽団

     (2011.11 @グラスゴー)

ディーリアス(1862~1934)には、協奏曲作品は4つあり、それらのなかで一番はやく作曲されたのがピアノ協奏曲。
1897年、ディーリアス35歳の作品。
父親の跡継ぎとして実業家になるという縛りから解放され、音楽で生きていくことに舵を切って始めたヨーロッパでの生活。
ドイツで多くの演奏家や作曲家と交わり、影響を受けたが、なかでもグリーグとの出会いは大きく、グリーグ自身もディーリアスの才能を高く評価し支援もした。
ついで生活と活動拠点をパリに移し、そこで本格的に作曲に打ち込むようになり、同時にその頃、1896年にのちに伴侶となるイェルカ・ローーゼンと出会う。
そんななか、ピアノとオーケストラのための幻想曲を作曲。
それは、フロリダ時代にすでに構想されていてスケッチとして残されていたもので、ディーリアスはこの幻想曲をさらに拡大し、3楽章形式のピアノ協奏曲として完成させる。

その初演は、デュッセルドルフの東部、エルバーフェルトにて1904年に行われた。
ドイツで何度か演奏されたが、ディーリアスはこの作品に満足はしていなかった。
その2年後に3楽章を削除して、さらなる改訂を施して、最初の単一楽章形式のものに戻した。
友人でありピアニストでもあったサントー(ブゾーニの弟子)の協力を仰ぎ、ピアノパートがよりヴィルトゥオーゾ風にサントーによって書換えられ、これをディーリアスも承認。
このような曲折を経て、現在演奏されているディーリアスのピアノ協奏曲は、元に戻された1楽章形式の作品ということに落ち着いているわけで、ビーチャムが手を入れたりもしている。
1906年の単一楽章バージョンが23分ほど。
1897~1904年の3楽章オリジナルバージョンは30分。

3つの楽章のテイストを連続する形で巧みに、協奏曲としての形式を真ん中に緩徐楽章的な美しい場面を入れつつ構成した幻想曲ともとれるような1906年版。
以前の記事でも書いてますが、グリーグやシューマンと同じような幻想味と叙情味を簡潔に味わえるロマンテックな通常版でした。

そして3つの楽章がはっきりと分かれている初稿版は、幻想曲というよりはやはり協奏曲としての立ち位置がしっかりあり、規模は大きくなり、3つの楽章の性格とその対比がより明確となっている。
フロリダ時代のアメリカ生活の一端を感じさせるような牧歌的な印象が1楽章ではより強くなった。
 そして、美しく、いかにもディーリアスを思わせる幽玄な2楽章は、改訂版にあるような終結部へのつなぎ的なイメージがなくなり、これだけで独立して取り出して聴きたくなるような、ディーリアス好きにとっては至福を感じるたゆたう儚さの音楽なのであります。 
 3楽章はいくぶんシリアスに、そしてときに5拍子になったりで大胆な雰囲気もある。
オーケストラは複雑な動きを見せ、ピアノも技巧的に、ときに華麗さすら感じさせる。
このあたりがややまとまりに欠け、最終稿における簡潔さのほうが優るような気もしなくもない。
ピアノソロによる長いカデンツァがあるが、この部分をのちにヴァイオリン協奏曲にイメージ転用している。
その後に現れるオーケストラは、静かに印象的に入りつつも、徐々に1楽章の印象的な第2主題を晴れやかに、高らかに奏で始め、勢いを増してそのまま終結。

ディーリアスは青白いもやのようなヴェールにつつまれているような曲、と言ったというが、その言葉が2楽章のことを言ったものだと思いたい。
このハワード・シェリーの献身的なピアノ、ディーリアスへの愛情に満ちた亡きサー・アンドリューの素敵な指揮による演奏と、詩的なジャケットとで、このディーリアスの言葉を受け止めたい。

初稿版の録音はあとピアーズ・レーンのものがありますが、未聴。
改訂版は、カールス、同じくレーン、P・フォークの3種を聴いてます。

 過去記事

「ピアーズ・レーン&ハンドレー」

「ルドルフ・カールス&ギブソン」

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まだ1カ月と少ししかたってないけれど、桜の季節がもう懐かしく、そして愛おしい。

日本の巡りくる季節の移り変わりは美しい。

次のディーリアスは、少し間をおいて二重協奏曲を。


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2026年4月28日 (火)

東京交響楽団 定期演奏会 エラス-カサド指揮

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いつもの東響サントリー定期は土曜の晩で、ミューザ川崎が日曜。

今回は、その逆となりました。
土曜に一瞬忘れたとビックリしてチケットを見返して安心したりもしてました。

この日のホールまでのお散歩は、新橋から日比谷公園を経ての虎ノ門。
都会の真ん中でネモフィラ。

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  東京交響楽団 第739回 定期演奏会

 シューベルト 交響曲第7番 ロ短調 D759 「未完成」

 ブルックナー 交響曲第6番 イ長調 (ノヴァーク版)

   パブロ・エラス-カサド指揮 東京交響楽団

     コンサートマスター:小林 壱成

    (2026.4.26 @サントリーホール)

楽しみにしていたエラス-カサド。
N響には何度か登場していたけれど、私は初カサド。
広範なレパートリーを持つカサドは、私にとっては優れた最先端オペラ指揮者との認識。
モンテヴェルディからモーツァルト、ワーグナー、ヴェルディ、ドニゼッティ、ビゼー、リゲティと、なにが得意なのか、まったく焦点を定めることのできない現状でのオペラへの取組ぶりで、なんといってもウィーンでのモンテヴェルディ3部作とリゲティのグラン・マカーブル、バイロイトでのパルジファルが驚異的な演奏ぶりだと思っていた。
リングへの取組も始めていて、パリで来年、バイロイトで2028年に指揮する予定。

そんなカサドがよく演奏している2曲。
シューベルトとブルックナーという相性のいい2曲。
シューベルトはフライブルクの手兵と、ブルックナーはSWR響とでのエアチェック音源を持ってましたが、今回の東京交響楽団との演奏は、それらよりはるかに上をゆく素晴らしさだった。

タクトを持っての指揮は予想外。
音を極限に絞ったかのようなピアニシモからスタートした「未完成」。
繊細なタッチでよく歌いつつ、一方でフォルテはとても強く、まるで深淵を覗き込むようなドラマチックなその対比に、聴く側もいや、おそらくはオーケストラにも強い緊張を強いるような、そんなカサドの音楽造りだった。
当然にヴィブラートは少なめだけれど、フライブルクのバロックオケに比べると古楽的な奏法はずっと控えめ。
柔和さよりは、清澄な透明感を感じた2楽章は歌にあふれ、でも同じく突然のフォルテは強烈で、そこでも対比は鮮やかでハッとさせられる瞬間があった。
 奏でられる音たちは、すべてピュアで清冽だし、音の絡み合いも美しく、すべての音がよく聴こえ混じり気なく耳に届いた。
このあたりの指揮者の耳の良さや、音を混じり気なく聴かせる才能は、カサドならではで、さらにはオペラなどで強く感じられる独自の即興性は、このシューベルトよりも次のブルックナーにおいてよく感じられたのです。
東響も演奏しなれたこの名曲を緊張感を持って高い集中力をともなって演奏。
その演奏が終わったあとの静かな間も、この演奏の流れのひとつで、とても美しき静寂の間でした。

一転、後半のブルックナーは攻めに徹した積極的かつ陽光あふれる眩しい演奏。
ブルックナーでは後期の3作品は別格として、私は、1番、2番、6番の3曲がとても好きで、地味ながらも可憐さや美しさを常に感じてるのです。
3曲のなかで6番だけが長調で、隅々までブルックナーらしくない朗らかさがあると思ってます。
 そんな6番を指揮するカサドをタクトを見ていて、拍子は極めて明快でしっかり振り分けているし、強弱の付け方、強調したいヶ所への明確な指示など、ともかく開放的な指揮ぶりで、その姿だけを音無しで見ていたらブルックナーを指揮してるとは思えないのが面白いところ。
明るく駆け巡るような1楽章、でも木管のさりげないフレーズなどすべてに面白さや意味があるように鳴るので、ほんとに耳が離せないし、リラックスさせてくれない。
 大好きな自然美あふれる第2楽章。
葬送のような哀しみあふれる第3主題での旋律を支えるピチカート、こんなに楚々とした雰囲気を醸し出すなんて驚きだった。
総じてこの楽章では、旋律の歌わせ方も非常に見事だったが、それを下支えする各セクションが極めて克明で、聴いていてこんなに面白かったっけ、という場面がいくつもあった。
そしてこの楽章の儚くも極めて美しい終結部は東響の精緻さもあり、わたしは息もできないほどに感動し、アルプスならぬ、ピレネーの山のなかの緑の草原で風に吹かれている、そんな気分になってしまったのでした。
 ホルンの素晴らしさが際立った3楽章。
カサドのリズムの良さは抜群で、だからノリのいい楽章となったが、メリハリありすぎで疑問符をいだく方もいたかもしれない。
でもこの軽快さは好き。
 やや速めのテンポで突き進みつつも、おおらかさと、細部へのこだわりも随所に見せる終楽章。
この楽章は短いし、終楽章として座りのよろしくないものであるが、わりと千変万化する楽想を丹念に追って仕上げていくと、実に壮大な音楽になると思っていた。
カサド&東響は、まさにそのあたりが実にうまくて、ブルックナーを聴いていてこんなにワクワクさせてくれるのって初めてかもしれない。
最終コーダでは金管群がリミッター解除したみたいに咆哮を見せ、輝かしいばかりの終結を迎えたのだ。
 この輝かしいブルックナーに、唖然として拍手できなかったし、ホールの一瞬の静寂もそんな思いの聴き手が多かったからかもしらん。

金管も増強していたし、鳴らすときはバンバンいく、こんなブルックナーに好悪はわかれるかもしれない。
私は好きでした。
こんなに1音一音に耳が、そして指揮姿から目を離せないブルックナーがとても刺激的でした。

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そしてジョナサン・ノットと長年連れ添った東響のフレキシビリティの高さや、即興性ある指揮者への高度な適応力などを、こうした感度高い指揮者との共演でよくわかりました。
コンマス小林氏のSNSでは、カサドが東響を気に入ってくれたとの書き込みあり、今後再びの客演も期待できますね。

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ノット前監督とのブルックナーチクルスは、6番を残したままで、こうしてカサドの指揮で補完。
しかし、ノットさんは、この秋に都響に客演してその6番を・・・
秋山さんの急逝もあったが、ノットさんには、早く名誉称号授与を、と願います。

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カサドさん、N響でなく次も東響に来てね。

そして東響は、5月はいよいよヴィオッテイです。

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2026年4月25日 (土)

東京都交響楽団定期演奏会 カラビッツ指揮

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都響の演奏会へ、混雑満員の地下鉄を避けて外歩きでサントリーホールへ。

途中、虎ノ門ヒルズを抜けて向かいました。

車がないと不便なそこそこ田舎にいるものですから、都会人より足腰が弱くなります。

都会に出た時ぐらいは、ともかく歩きます。

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   東京都交響楽団 第1043回 定期演奏会 Bシリーズ

    ブラームス ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 op.15

       Pf:久末 航

    サーリアホ 「地球の影」

       org:オリヴィエ・ラトリー

    プロコフィエフ 交響曲第4番 ハ長調 op.47

         キリル・カラビッツ指揮 東京都交響楽団

      コンサートマスター:矢部 達哉

          (2026.
4.24 @サントリーホール) 

前半に長い協奏曲、後半に現代・近代の音楽と、実に渋いプログラム。
プロコフィエフの音楽をここ数年大系的に聴き進めている自分にとって、そのスペシャリスト的存在であるキリル・カラビッツの来日は絶対に聴き逃すことができないものだった。
そのためには、たぶん実演で初聴きとなる苦手なブラームスの1番の協奏曲を苦難をもって耐えるしかないとの覚悟でいどんだのだ。

ティンパニと思わぬほど強く響いた低弦で開始された長い序奏でまず驚きのカラビッツ指揮の都響の分厚い響き。
しかし、久末氏の爽快なピアノが入ってきてからも、やはりこの曲は自分との相性がよくないのか、どうにも身が入らずに聞き流してしまう。
高校生のときから2番ばっかり聴いていたことからこうなったのか・・・
でもこの日の2楽章の演奏の美しさに目を見張るほどの驚きだった。
リリシストという言葉がピタリとくる、そんな久末氏の繊細かつ、丁寧で心のこもったピアノ。
対する都響の木管と弦セクションの美しさ。
終楽章も1楽章以上に苦手意識があるけれど、オーケストラはなかなかに情熱的だったし、久末氏のピアノの粒立ちのよさ、あざとさの一切ない誠実な演奏がとても好ましく感じました。
この大曲に、アンコールはなしで、ピアノの蓋をそっと閉じた久末氏の爽やかな演奏を讃えたいです。
ほんというと、ブラームスでなく、プロコフィエフの協奏曲をやったらよかったのに・・・と思いました。

日本初演となるサーリアホの「地球の影」という3章からなるオルガンと大オーケストラの作品。
2014年に今宵のラトリーのオルガンとケント・ナガノの指揮でモントリオールで初演されている。
サーリアホは2023年に70歳という若さで亡くなってしまったが、そのときの欧米の楽壇での追悼演奏などの頻度を見て自分としては驚きだった。
そのときに放送された作品をいくつか録音もしたりして聴いていたが、なかでもオペラ「イノセンス」のサスペンス仕立てのドラマとそのクールな音楽に驚き、感心を持ったものです。
そして同郷のフィンランドの演奏家たちがこぞって取り上げていて、サロネン、サラステ、リントゥ、マルッキ、マケラなどがそうで、その点でも興味ある作曲家でもあります。

  ①影は飛び去る
  ②ドーム
  ③花、遺跡、彫像

作者はオルガン協奏曲的なものでなく、まったく性格の異なるオーケストラとオルガンの共存関係と語る。
モノトーンで銀色に輝くようなそんなイメージを抱いたし、独特のヒンヤリとした感触はサーリアホならではとも思った。
多くを語る言葉もないが、腹にも響く重低音から清らかな高音まで、自然に抱かれるような安心感と包容力とを身体のなかから感じとるオルガンの音。
そこにオーケストラが多様な打楽器の奏法をともなって相対してゆくさまを、ホールの右手上の席から眺め、全身で感じ取った18分間は、ある意味、快感ですらあった。
演奏の良し悪しを言えるものでないが、初演者のラトリー、カラビッツと都響に賛辞を。

ほんの少しのインターバルですぐにプロコフィエフ。

数日前のブログで、「放蕩息子」と4番の初稿版について書きつくしたばかり。

カラビッツの本領発揮、その指揮ぶりにも水を得た魚のような軽快な動きと音楽への共感の度合いの深さを感じるものだった。
おおらかにでも、深みも感じさせつつ始まった1楽章。
やがて疾走感あふれる主題は、その変わり身の鮮やかさとオケの反応のよさに感嘆。
ずっと聴いてきたボーンマス響の演奏よりも切れ味よく俊敏に感じたし、終結部も痛快このうえない!

優しい2楽章での柔和な演奏は、放蕩息子の帰還を許す寛大な父親のシーンなのであるが、その場面が思い起こせるような優しい演奏。
そしてチューバや打楽器がそこを支えるが、実演だとその空気感がホールを満たして気持ちよかったのだ。
同様に、放蕩息子をたぶらかす乙女の踊りの場面かなる可愛い3楽章では、踊るような仕草の指揮ぶりで、マッチョなカラビッツがかわゆく見えた(笑)
多くの方が、この楽章ではバレエ音楽のように感じたでしょうが、プロコフィエフの音楽の神髄のひとつは、こうしたバレエの舞台を感じさせるリアリティと親しみやすさだろう。

切迫感あふれる開始の4楽章では、ワタクシはもうワクワクしっぱなしだった。
都響はきっれキレだったし、カラビッツの指揮も縦横無尽に指示を出し、小さくジャンプもしながらの軽快ぶり。
あまり知られてない4番、25分ぐらいのシンフォニエッタサイズの初稿版で、トリを飾って盛り上げるのは至難の業かと思ったが。スピード感を常に保ち、ユーモアと緊張感も持たせたカラビッツの指揮はたいしたものだった。
終楽章コーダでテンポをあげてゆき、独特なリズムを刻みながら徐々にクレッシェンドしていって、わたしはドキドキだ。
そのあとの鮮やかな終結に、カラビッツはどうだと言わんばかりに、身体を観客の方へ向かせつつ指揮を切り上げた。
わーお、ナイスじゃん、と思ったワタクシ。
小声でブラボー!

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昨年に聴いたヤルヴィとN響の演奏は厚塗りの改訂版だったせいもあるが、あちらは重戦車のような逞しさがあったが、カラビッツ&都響は、小気味よく爽快で、しかも中身も濃い鮮やかな演奏だった。

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もっといろんな曲でまた聴きたいカラビッツ。
ベネデッテイのコルンゴルトでバックを務めてたカラビッツ&ボーンマス。
エルガーやチャイコフスキー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチなんかもレパートリーですからして。

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2026年4月22日 (水)

プロコフィエフ 交響曲第4番(初稿)・放蕩息子

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3月8日の富士山
まだ寒かった頃、冠雪は増え広がりを見せてました。
なにより空気も冷たかったので、景色も澄み渡ってましたね。

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そして、桜も終盤となった4月8日の富士は、裾野まで広がった雪がかなり減りました。
なによりも、気温も上がるようになり空気感はやや霞みがち。
これからは、ほんとの早朝でないとクッキリした富士は拝めないようになります。

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ「鋼鉄の歩み」「放蕩息子」、「エジプトの夜」

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

プロコフィエフを年代別に聴いていこうのシリーズ。
好きなジャンルであるオペラと交響曲に偏って集中して聴いてますが。
シンフォニストとしてブレイク、ポスト・マーラーの存在として定着したショスタコーヴィチに比して、プロコフィエフの存在はやや影に回り勝ちだと思う。
このおおあまかな年譜のとおり、プロコフィエフの作風は、ロシア時代とロシアを出てからの時代、祖国回帰でもソ連だった時代とで大きく変転した。
ショスタコーヴィチが国を出ずに仮面をかぶったかのように謎をはらんだ作風で通したのに対し、プロコフィエフの音楽はもっとシンプルで正直だったと思う。
大きく分けて、祖国回帰の前とあと。
それが端的によくわかるのが交響曲第4番かもしらん。
アメリカ滞在中に書かれた作品番号47の初稿、ソ連時代の改訂版の4番の作品番号117。

改訂稿は、作曲時期の順番では6番の後なので、本blogではまたあらためて取り上げることにして、今回は初稿の方を。
そして4番の素材となったバレエ音楽「放蕩息子」も併せて聴いてみた。

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  バレエ音楽「放蕩息子」 op.46

 ミハイル・ユロフス指揮 ケルンWDR交響楽団

         (1996.1 @ケルン)

1929年、ディアギレフのバレエ・リュスのために作曲されたもので、バレエ・リュスのために書かれたバレエとして3作目(道化師、鋼鉄の歩み)にあたるもの。
パリで同年に初演され大成功となるが、制作チームは台本のコフノ、振り付けのバランシン、装置・衣装のルオーという黄金トリオ。
いうまでもなく、聖書のルカ伝15章でイエスが語る「放蕩息子」がベースになっていて、まよえる羊・ステレイシープ、神から見た人間のたとえなのです。
放蕩息子を題材にした作品には、ストラヴィンスキーやブリテンもあります。
物語としてシンプルなことや、身につまされ、人を感動させる内容でもあることからもパリっ子たちはプロコフィエフのこの音楽にも熱狂。
プロコフィエフは祖国を離れ彷徨った自分の境遇などにも重ね合わせて共感しつつ作曲し、「シンプルで、明快、旋律的」と自ら評した。
3場10シーンからなる40分ほどの作品。

「厳粛な父親の元から喧嘩をして財産分与も受けて飛び出した息子。放浪し仲間もできて、さらには美女の誘惑にも負け、財産すべてを巻き上げられてしまい無一文になってしまう。おおいに反省し悔恨の末、父の元に帰還しその足もとに崩れ落ちる。父はすべてを許し息子を抱く」

 ①旅立ち→②友たちと出会う→③美しい乙女→④男たちの踊り→⑤放蕩息子と乙女→⑥酒盛り→⑦略奪→⑧目覚めと後悔→⑨略奪品の分配→⑩帰還

音楽だけ聴いているとサラサラと進んでしまうが、このタイトルをにらみながら聴くと、なるほどそういう感じね、ということになります。
さらに理解を深めるために、ネット上で視聴できるバレエの舞台を見ると実に面白かった。
2013年のニューヨーク・シティバレエの上演だが、1929年初演時の演出や装置・衣装のままで、いま見てもなかなかに斬新だし、身体能力的にも極限の動きで踊りまくるバレエダンサーたちに舌を巻くことになる。

その素材にもよるかもしれないが、プロコフィエフのこの音楽は先鋭さがなく、わかりやすく平明であり、炎の天使でのような刺激的な音楽はみじんもない。
酒盛りや略奪シーンがやや暴力的なのをのぞけば、優しく抒情的でもあり、そんなシーンは乙女の登場や、帰還での父の許しの場などに聴かれ、後者は感動的であります。
悪くないけれど、決定打に欠ける、そんな作品かも。
できれば、この素材でソ連帰還前のこの時期にオペラを書いて欲しかった。
父ユロフスキの指揮は万全です。

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  プロコフィエフ 交響曲第4番 ハ長調 op.47

    キリル・カラビッツ指揮 ボーンマス交響楽団

       (2015.4 @ライトハウス、ドーセット州プール)

オペラ「炎の天使」の素材を交響曲にした3番がそうであったように、プロコフィエフは「放蕩息子」を元に交響曲第4番を作曲。
作品番号は連続していて、放蕩息子作曲中に交響曲を思いつき、1929年のバレエ初演のあとすぐ翌1930年に完成。
バレエと交響曲、ふたつをほぼ同時に書きすすめた姉妹作なのです。

ボストン交響楽団の創立50周年シーズンの1931~32年に演奏することを前提に、セルゲイ・クーセヴィツキーから公共作品の委嘱を受けた。
プロコフィエフはボストン交響楽団に初演権を与える報酬を受け取ったものの、提示された金額は委嘱作品とみなすには低すぎると考えていたらしいが、ともあれ1930年11月にボストンで初演された。

クーセヴィツキとディアギレフ、そしてプロコフィエフの3人はともに「セルゲイ」なのであるが、ともにロシアを去りパリで活動して成功した3人なのであり、この交響曲4番は、この3人が生み出したと言ってもいいのかもしれない。
放蕩息子からひも解いてきて、そう思いますね。

プロコフィエフはボストン初演には出席しなかったが、クーセヴィツキーにプログラムノートの指示を送っている。
楽曲の使い回しだという批判を恐れ「交響曲のいくつかの箇所で、バレエで使用された音楽を用いました。しかし交響曲では、バレエという形式では不可能だったことを交響曲的に展開することができた。このようなアプローチの先例としては、ベートーヴェンのプロメテウスと交響曲第3番に見出すことができます。」
評論家筋の批判を恐れ、プログラムに書いてねと予防線をはったのでした。

しかし、この交響曲の初演のすぐあと、同じ委嘱作であるストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」が演奏され、こちらはプロコフィエフのの作品よりも高く評価され、もともとがストラヴィンスキーと競争関係にあったプロコフィエフはさぞかし落胆したであろう。
放蕩息子初演のあと、ディアギレフが亡くなってしまい、父のように慕ったクーセヴィツキもボストンに居つくようになり、ヨーロッパでのプロコフィエフは孤独や寂しさを覚えていた。
さらに立ち会わなかったアメリカでの初演が思わしくなく終わったと聞き、次ににブリュッセルでのモントゥー指揮による欧州初演も芳しい評価を得られなかったことなど、ふたりの頼りになる「セルゲイ」も近くにいなくなったこともあり、プロコフィエフは祖国でこそ成功が再び得られると思い、母国回帰も考えるようになる。

全4楽章、25分ほどの4楽章形式によるシンプルな構成。
調性も長調であり、2番や3番のような不協和音はみあたらず、放蕩息子と同じようにプロコフィエフが自ら呼んだように簡素ですらあります。
バレエの全10場の音楽やバレエには使用しなかったモティーフなども追加して、バレエの筋立てや曲順などは構わずに再構築。
この点は炎の天使と第3交響曲に同じです。

ソナタ形式の1楽章では、バレエにはないおおらかな雰囲気の旋律による序奏から開始し、その次に来る、この交響曲でいちばんカッコいいリズミカルで疾走感あふれる速い主題には痺れます。
これは④「男たちの踊り」から使用されているし、それに対比する旋律的な優しい旋律がでてくるが、それは⑦「略奪」の乙女のシーン。
こんな感じでスピード感あふれ、小又の切れ上がったような1楽章で、2番や3番のプロコフィエフを期待するとそうではなかったのが2楽章。

緩徐楽章であるアンダンテ・トランクィロは、クールではなく、優しい叙情に満ちた音楽で、それもそのはず、⑩「帰還」の父の大きな博愛を描いた旋律がメインになっているし、そこに⑧「悔恨」の反省著しい内向的なムードも反映されてる。

3楽章は、まんま③「美しい乙女」の音楽で、バレエでは乙女がしゃなりしゃなりと登場して、魅惑的な踊りを披露する。
バレエを見てしまうと、まさにそのイメージのままに、この楽章があるのでこの可愛い楽章が愛おしく感じるようになる。

終楽章は、バレエ冒頭の主題から始まるので切迫感と推進力あり。
おもに①「旅立ち」の活気ある音楽をうまく使い倒して巧みなロンド形式へと仕立てている。
打楽器も効果的に加わりテンポアップして熱狂していくかと思うと、急転直下終了。
実にいさぎよい結末となります。

全4楽章、無駄なものがひとつもなく感じるユニークな交響曲だと思います。

こののちの17年後、交響曲第6番のあとに、大幅改訂を行い、作品番号も112としました。
25分の曲を40分ぐらいの長さとし、ピアノや打楽器も増強し、デラックス化した。
終楽章のコーダも壮大になり、簡潔さが失われた結果となってます。
多くの録音や全集が改訂版を取り上げるのみだが、最近は初稿版も演奏頻度もあがってきていて、カラビッツが都響にやってきて演奏します。

手持ちのプロコフィエフ全集のなかで、いまいちばんはカラビッツとボーンマスの演奏だと思ってる。
切れ味よく、プロコフィエフの抒情味もよく感じて引き出している。
2,3,4番というプロコフィエフのユニークな3つの傑作がカラビッツの共感あふれる指揮で、そのあるべき姿で混じり気なく聴くことができるのだ。
ほかの手持ちの初稿版は、ロストロポーヴィチとゲルギエフであります。
改訂版は、まだだいぶ先に取り上げる予定。

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富士の頭に太陽が沈む、ダイヤモンド富士ではなかったけれど、結構いい感じになりそうでした。

しかし、無情にもこのあと雲が増え、お日様は隠れてしまいました。

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2026年4月14日 (火)

ウォルトン 交響曲第1番、第2番 山田和樹 指揮

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秦野市の水無川沿いの桜並木、丹沢山麓に続くこの川沿いの道には延々と桜が咲いてます。
対岸には途中から枝垂桜、ずっと上流では河津桜が2月末には咲きました。

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さらに南側には併行して「さくら道」があって、こちらは6㎞におよぶ桜並木で、桜の季節には渋滞のメッカとなります。

ほぼお隣の市で、いま住む町には魅力的なスーパーや都市銀行もないので、週に3~4回のペースで秦野に行ってます。

そして秦野出身の指揮者、山田和樹のメジャーレーベル録音が出ましたのでさっそく聴いてみた。
しかも大好きな英国もの。

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  ウォルトン 戴冠式行進曲「宝玉と王の杖」

        交響曲第1番 変ロ短調

        交響曲第2番

   山田 和樹 指揮 バーミンガム市交響楽団

   (2024.12.4、20025.11.5 バーミンガム、シンフォニーホール)

プレヴィン盤でカップリングされていた行進曲の洒落た演奏で始まるこのCD。
2曲ともに収録できるCD時代の強みで、このふたつの交響曲の年代による作風の変化、そしてどちらも変わらぬウォルトン独自のいまの映画音楽の底流にあるものを感じる音楽のかっこよさがふんだんに味わえる1枚なのだ。
戦前の並々ならぬ時期1932年以降で作曲された1番、戦後の1960年の2極化した世界と繁栄の時代の2番。

1932年から書き始めた交響曲第1番は、終楽章の作曲に至り恋愛の失敗などが重なり難航したというが、35年に完成。
苦難から勝利へと導かれる交響曲のセオリー通りの力作。
これまでたくさんの音源に接し、コンサートでも2度ほど経験。
不安と緊張に満ちた音楽の1楽章からしてムチャ好きなんですが、そのあとの「悪意を持って」と題されたスケルツォのシニカルな面白さ。
そして「メランコリーを持って」とされた緩徐楽章は、なかなかに晦渋な雰囲気を持ちつつ、じっくり何度も聴くとスルメのように味わい深い音楽なのだ。
トラジティの積み上げがなす、憂愁と沈鬱の音楽は美しいとともにひんやり感もある。
そして強烈なパワーをもって攻めてくるような爆発的な終楽章はフーガ形式となり、白熱する一方で打楽器打ち乱れる超かっちょいい音楽。

実は、この1番の1楽章は、ある映画の音楽をいつも思い起こしてしまう。
それは1979年制作のジョン・バタム監督の「ドラキュラ」。
そう、吸血鬼ドラキュラの原作に忠実な映画なんです。
そして調べたら、その音楽担当は、ジョン・ウィリアムスで、オーケストラはロンドン響。
う~む、ウォルトン自身も映画への音楽はたくさん書いてるし、名優ローレンス・オリヴィエによる映画に特に多い。
そのオリヴィエ卿、件の「ドラキュラ」にもヘルシング教授役で出ておりますね。
なんか、いろんな因縁を感じます。
コルンゴルトの影響を多大に受けているJ・ウィリアムスですから、ウォルトンのカッコいい音楽からいろいろ学んだとしてもおかしくない。
 さてどこが似ているかというと、1楽章の随所に出てくる主要主題です。
映画の方も、まさにこの主題がメインになっていて、ドラキュラ伯爵とヒロインの切れぬ仲、まさにその宿命的な運命を感じさせる音楽になってるんです。
yotubeにトレイラーとサウンドトラックがありますので、調べてみてください。
夜中にひとりで見るとおっかないですよ。

この山田和樹盤は、不安な時代のこと、つねにつきまとう不安な様相など、そうした背景まったく感じさせることなく、ひたすらにスコアを完璧に音楽にしてみた、そんなピュアな演奏だと思った。
音楽の造形をしっかりつかんで明快に聴かせてくれる才能あふれる指揮と、フレキシビリティあふれるバーミンガムのオーケストラの素晴らしさ。
そして3楽章の冷静さを保った美しさ。
枯淡の境地を聴かせた尾高さんの演奏にはかなわないが、ヤマカズの繊細で感じ切ったしなやかさは捨てがたい。
そしてこけおどし的にはっちゃけない終楽章も長く聴きこむにはいい。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そんなに昔でない1960年作の第2番。
30分あまりの長さで、いわゆる現代音楽が隆盛となりつつあるなかで、交響曲という保守的なジャンルに、これまた保守的な作風と当時はみなされたウォルトンの音楽は、ゴージャスですらあります。
歳を重ねると作曲家はシンプルな作風になったりもしますが、ここでのウォルトンは映画音楽もかくやと思わせるような明快でわかりやすいもので、かつ技法をつくした高度なもの。
実演ではブラビンスの指揮で1度だけ。
尾高さんもこの2番もレパートリーにしていて、かつてPromsで演奏して喝采をあびていた。
レコードでは、セルが大いに評価をしてクリーヴランドと録音してました。
セルやブラビンスの音盤を持ってないので、プレヴィン盤のみで楽しんでましたが、この山田和樹のCDは決定的な演奏になるでしょう。

3楽章編成だが、最初の楽章がソナタ形式でかつスケルツォ的なところが新鮮。
これまたシネマ的なミステリアスサウンドでもあります。
同時に暴力的かつバーバリアンな様相も併せ持ち、ほんと映画音楽みたいでカッコいいんです。
演奏会でやったら、やたらと興奮しますぜ、これ。
 そして、ともかく美しい2楽章。
悲恋をあつかった自作のオペラ「トロイラスとクレシダ」から楽想を得ている。
明滅する儚さをともなったクールな抒情がとてもすてきだし、盛り上がりも高貴な情熱をまとっていてクールすぎる。
 3楽章ではパッサカリア形式となり、12音技法にも踏み込み技巧的かつ複雑な様相をみせる。
しかし変奏とともに姿をいろいろ変えてみせる目をみはる音楽の進行は、なんども聴くと面白くなります。

山田和樹の指揮のうまさは、まさに終楽章で本領発揮。
主題が拡散せず、しっかり見通しよく押さえられつつ展開するさまは圧巻だし、エンディングの壮快なまでの切れ味のよさも抜群だった。
精緻な2楽章ももちろん美しく気に入りましたね。

DGへの次の録音が楽しみ。
DGはこのところ、いろんな指揮者でさまざまな交響曲全集を体系的に録音している。
エルガーやスタンフォード、パリーなんかもやって欲しい。
それともうひとつの手兵となるベルリン・ドイツ響とはどのような活動をしていくか、こちらも楽しみです。
バーミンガムの指揮者は、かつてのラトル、オラモ、ヤンソンスと、いずれも大成してます。

過去記事

「B・トムソン指揮 ロンドンフィル」

「尾高忠明 指揮 芸大フィルハーモニア」

「M・ブラビンス指揮 東京都交響楽団 1番」

「M・ブラビンス指揮 東京都交響楽団 2番」

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秦野市の出身者は有名人、とくに音楽や俳優が多いです。

吉田栄作、菊池凛子、岸井ゆきの、合田雅史、山田涼介、坂井泉水、LUNA SEA(特に先ごろ亡くなった真矢)、古くはスマイリー小原、などなどたくさんいらっしゃる。

なかでも世界に冠たる存在となりつつある山田和樹です。

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神奈川県唯一の盆地である秦野市は、山に囲まれ、豊かな水にあふれる都市です。

いまは八重桜が満開で、食用の桜では日本一らしい。
桜の塩漬けは美味しいですよ。

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2026年4月 5日 (日)

バッハ 復活祭オラトリオ

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霊南坂教会の十字架。

先週のサントリーホールへ行く前にホール裏手の庭園から。
プロテスタント系の教会なので、バッハが似合います。
土曜日には翌日の礼拝に向けてオルガンの練習も行われていて、よく佇んで聴き入ってしまいます。

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コンサートの後は、桜坂の桜と美しいコラボレーション。

復活祭に聴くバッハ。

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  バッハ 「復活祭オラトリオ」 BWV249

             S:ジュディス・ラスキン
      A:モーリーン・フォレスター
      T:リチャード・ルイス
     Bs:ハーバート・ビーティ

  ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団
                テンプル大学合唱団

      (1963.4.17 @アスレチッククラブ、フィラデルフィア)

1725年4月1日、この年の復活祭主日に初演。
ヨハネ受難曲の初演の3日後ということで、まさに受難と復活をそのままになぞった、まさにバッハらしい、また音楽と生活に根ざした宗教という当時の風潮をまさに体現した機会音楽でもあります。
いまから300年前。
日本では徳川第8代将軍「吉宗」の治世で、暴れん坊将軍の享保の改革の最中。
そう思うと、日本にも独自の成熟した文化があり、浄瑠璃などが興隆し、和楽器も盛んになり、また寺社と結びついた尺八の演奏も普遍化。
西欧音楽が楽譜という形でしっかり残ったが、日本での音楽も記録として残されていると思うので、最近は日本の音楽史なんてのにもやたら興味が沸いてます。

曲は50分足らず.
大作の受難曲のように身構えることなく、全体に明るい色調の音楽。
しかし、内容は聖書の人物たちが登場し、磔刑後のイエスを見守り、その復活に歓喜する喜ばしい内容なのです。
マタイ伝とヨハネ伝、マグダラのマリア、もうひとりのマリア、弟子のシモン・ペトロ、ヨハネの4人が登場し、4人の歌手が担当。
冒頭のトランペットが活躍するシンフォニアと、美しいオーボエソロを伴なったアダージョ。
復活の様子を歌うレシタティーボとアリア、合唱曲。

抒情的な様相もともない、峻厳なバッハの顔でなく、明るく前向き、そして優しいバッハの姿がある屈託ない佳曲。

たくさんの宗教的な作品も録音したCBS時代のオーマンディとフィラデルフィア。
いずれも煌びやかさよりは、生真面目で渋いほどによくまとまった演奏が多いです。
私の長年の愛聴盤はオーマンディの「メサイア」なんですが、あちらはほどよく華麗でゴージャス。
でもこのバッハ、ほんと渋く、こじんまりとまとまっている。
フィラ管の名手たちのソロも浮き立つことなく、バッハの音楽に真摯に寄り添う演奏であります。
女声ソロはいいが、男声陣がややアメリカナイズされて聴こえるのが面白いし、合唱団はもうまさに、ザ・アメリカでありました。

手持ちのCDのカップリングは、バーンスタインのマニフィカトで、濃厚さと思い入れ、爆発力がユニークです。

いまから60年以上前のバッハ演奏。
たっぷりと音楽を鳴らして聴かせるスタイルは、古典派もロマン派も同じ。
ややムーディに流れ、野放図にも思いましたが、案外と新鮮な気持ちで聴きました。

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             S:バーバラ・シュリック
      A:カイ・ヴェッセル
      T:ジェイムズ・タイラー
     Bs:ペーター・コーイ

  フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮 コレギウム・ヴォカーレ

        (1994.4 @ゲント、ベルギー)

ほぼ20年前に記事にしてたヘルヴェッヘ盤。
オーマンディのあとこれを聴くと、30年の録音の年月の隔たり以上に隔世の感を感じる。
靄が晴れてスッキリしたかのような印象。
でもこれでも今から30年前の録音で、現在の古楽的演奏はさらに進化している。
ここで思うのはこの演奏の美しさと透明感。
オーマンディの方は、熱心な宗教心あふれるアメリカの人々が日曜日にカジュアルに教会に集っているかのような光景が浮かぶ。
ヘルヴェッヘの方は、ヨーロッパの街や村の教会で、篤信あふれる住民たちが静かに祈ってるような、そんな光景。
でもどっちもバッハなんだよな。
いまでもアメリカのオーケストラでは、オーマンディのようなバッハが演奏されているはずだ。

300年のバッハの音楽の歴史、そして60年前、30年前のバッハ演奏の変化、そのあたりも楽しめた今回のイースターです。
バッハ偉大なり。

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コンサートのあと夜桜を求めて散策。

スペイン大使館近くのスペイン坂あたり。

東京の夜は奇麗だな、1時間かけていま住む神奈川の夜は真っ暗の街に帰りましたよ。

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2026年3月30日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 原田慶太楼指揮

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サントリーホールまで新橋から歩きました。

途中ホテルオークラとアメリカ大使館の間の霊南坂を抜けて歩きます。

そこで見つけた桜と大使館で1枚。
風がなく、星条旗はなびいてませんでした。

コンサートの前半がアメリカ音楽なので、このルートを偶然あるいてニンマリした自分です。

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    東京交響楽団 第738回 定期演奏会

 コープランド  「アメリカの古い歌」第1週

 バーンスタイン 「チチェスター詩篇」

     カウンターテナー:彌勒 忠史

 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調 op.47

    原田 慶太楼 指揮 東京交響楽団

            東響コーラス

       合唱指揮:根本 卓也
       コンサートマスター:小川ニキティングレブ

     (2026.3.28 @サントリーホール)

なかなかにユニークなプログラムで、こういうの好き。
しかもいつも機会を逃していた私にとっての初・原田慶太楼だったんです。
いやぁ、面白いコンサートだった。
アメリカで多彩に活躍してる原田さん、オペラ、声楽系にも強いことがまさによくわかった演奏会。

前半はアメリカ、後半はソ連。
この対比が曲目も演奏も鮮やかだった。
そして3つの作品に通じるのは自作であることはもちろんだが、バーンスタインという音楽家であること。

バーンスタインの朋友でもあり、作曲家の先輩でもあったコープランド
「アメリカの古い歌」という作品は初聴きの合唱曲でした。
19世紀のアメリカの民謡や讃美歌、古謡・ミンストなどを歌曲として編曲、独唱曲集だったものをのちにオーケストラ版にしたもの。
アパラチアの春に出てくるメロディも出てきて懐かしいムードも満載。
5つの曲がそれぞれに特色あり短いながら楽しい作品だった。
メリハリつけてわかりやすい音楽造りをした原田氏、いつものように暗譜で熱心に歌う東響コーラス。
曲によっては、パフォーマンスも伴いながら楽しく歌うさまに、われわれもほっこりしましたよ。

そしてシリアスな宗教曲のジャンルにあるチチェスター詩篇
コンサートでは初めて聴くし、今宵のコンサートではいちばん楽しみだったし、いちばん心動かされた演奏であり音楽だった。
また昔話しで恐縮ですが、1975年8月9日にショスタコーヴィチは亡くなりました。
8月13日、バーンスタインはロンドン響とザルツブルク音楽祭に登場するのでしたが、ショスタコーヴィチ追悼のため、急遽、交響曲第5番の3楽章を演奏したのでした。
前半がその追悼演奏、本来のプログラムのチチェスター詩篇、弾き語りでモーツァルトのK453。
後半にシベリウスの第5番。
このように前半がやたらと長い演奏会となり、この模様はその年の年末にNHKFMでも放送され、私も興奮隠せずエアチェックに成功したのでした。
いまでも自家製CDRとして大切にしてます。
16分もかけたショスタコーヴィチの3楽章の深遠極まりない演奏には驚嘆します。
そして、初めて聴いたチチェスター詩篇で、バーンスタインの音楽のメロディのわかりやすさと、ダイナミックさ、静謐さなど、高校生ながらに何度も聴いて感銘を受けていたものです。
 そして実演で聴くと指揮者の姿があの踊るようにして指揮するバーンスタインとかぶって見えてくる。
冒頭からバーンスタイン色全開の音楽で、爆発的な喜びを発散するかのような合唱に、打楽器を伴った輝かしい金管に心躍った。
2章で立ち上がった彌勒さん、真摯かつ神々しい声で、氏の声を聴くのはもう17年ぶり。
手持ちで聴ける音源では、ほとんどがボーイソプラノなので、無垢なる天上の声のように思って聴いているが、カウンターテナーで聴くとまずうまい!その第一印象となりました。
そして同時に思ったのが、ブリテンの音楽のように聴こえてしまったこと。
どこか怪しく、そして一方で厳しく痛恨でもあるように。
 その後のシリアスな3章へと続く流れもこの歌唱であれば実に自然だと思った。
このあたりの対比は原田さんの指揮も実によくって、このシリアス感の中から見出される平安の調べへの移行も実にスムースで、感動のあまり涙ぐんでしまった。
同時にバーンスタインの音楽のうまさ、天才性も実感。
ヘブライ語による東響コーラスの共感あふれる合唱もほんと素晴らしかった。
詩篇・ダヴイデ、旧約、ユダヤ教ということになるが、ここでバーンスタインが祈りとともに込めた平和への思い。
それがいま、世界を混沌に陥れているのがユダヤの国であるという事実に、天上のバーンスタインはどう思うだろうか・・・・
 曲が静かに閉じると、ホールは静寂のまま。
この「間」がほんとうに美しいと思いました。

後半は、みんな大好きショスタコ5番
前に書いたこと「若い若い頃に聴きすぎて、長じて大人となってからは、どうも醒めてしまった名曲のひとつ。ともかく大好きになって、中・高時代に聴きすぎた。演奏会では、大物指揮者でいくつも聴いたものの、いずれもぼんやりと聴いてしまうのでした。」
こんな自分ですから、うまいこと印象が書けません。
まず、とてもスタイリッシュであり、客観性もあり、オーケストラの奏者たちの技量の高さもあってとてもいい演奏でした。
マゼールに学んだ原田さん、だからその影響もあるかと思い、遠い昔のニューヨークフィルとの来演でのその演奏をblogを読み返したりして思い出したり、クリーヴランドとの音盤なんかも確認してみた。
だがいい意味で原色にそまった、いつものナイスなマゼールらしい変幻自在の演奏とはまったく違う正統派の演奏だった。
またバーンスタインが愛したこの5番、ふたつの音盤にあるこれもまたバーンスタインらしい思い入れたっぷり、熱血演奏ともまったく違う素直でありつつ自然な盛り上げとスピード感や立ち上がりのいい演奏だった。
 私がいちばん気にいったのは、やはり3楽章。
弦がいろいろに分奏するのも拝見していて発見があったし、なによりも抒情的で音楽が隅々まで美しく、磨きあげられた音が清冽にも感じた。
2楽章の終結でテンポを思い切り落としたのはユニークだったし、終楽章のフィナーレでは快速にならず、堂々たる歩みでホールを圧する響きを聴かせてくれた。

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合唱団が抜けたP席はすっきり寂しめ。
音響もより響いて感じました。

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熱い拍手に応え登場したマエストロ慶太楼氏。

東響の正指揮者の任期最後ともあり、感極まって思わず・・・
わたしもグッときてしまいました。
愛される指揮者、また東響で聴いてみたいと思います。
神奈フィルでのコープランドが聴きものだ。

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帰りは桜通りを散策して余韻にひたりました。

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2026年3月25日 (水)

外来オーケストラ

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桜の満開身近、公園の色合いも多彩に華やかになってきました。

今日は、外来オーケストラの演目やその在り方について不満をこぼしてみたい。

2025年の2月にも「なんでやねん!」ということで書いてます。
→こちらの記事
今回も似た内容になりますが、外来オケへのワクワク感がなくなってしまった現実を憂い書きました。

クラシック愛好家なら、ここ数年ずっと不満に思っていたこの同じ思いが、今年の2月、思わずある出来事をきっかけに炎上し、いろんな議論を呼びました。

「ヘルシンキ・フィル」来日ツアーが10月に予定され、プロモーターが制作した公演のチラシに、ヘルシンキフィルと共演の角野隼斗の名前しか記載がされていおらず、指揮のユッカ=ペッカ・サラステの名前がなかった。
クラシックファンなら、外来オケが来る場合、指揮者が誰で、どんな演目をやるか、それが一番の注目点だろう。
いうまでもなく、人気と実力を兼ね備えた角野氏がソリストで帯同するなら、どの協奏曲をやるんだろうと注目もする。
しかし、今回炎上したのは、指揮者の名前がないのに端を発し、高額になったチケットが客寄せとしての角野氏のせいではないかという批判も出た。
角野氏は、すぐにこれにたいするコメントを表明し、その内容は実に真摯で納得できるものだった。
しかし、プロモーション側の回答はやや遅れ、「見やすくするためにわかりやすさ重視にした、オケとソリストのみをSNSなどでは記載することは当社では珍しくなかった。あらたな気づきをいただいた」などと釈明し、こちらはクラヲタ(わたしもそうですぜ)の怒りをさらに買った。

このプロモーターの考え方こそが、いまの日本の外来オケ招聘の悪しき流れを物語っていると思う。

角野クン以外にも、外来オケには、もれなく日本人ソリストがついてくる公演がたくさんあり、超メジャー級オケ以外はみな同じ傾向にある。
彼らが出るとチケット代が高騰する・・・これは正直ほんとのところは検証ができない。
でも人気にあやかって企画していることは事実だろうし、企画側も商売だから採算が上がるからだろう。

私は、どんなソリストが出てもいいと思う。
問題は、そのプログラムなのである。

2025年は数えただけで30団体、2026年は同じく27団体(2027、3月まで含む)が来日。
パリ管、ロスフィル、コンセルトヘボウ、ベルリンフィル、ウィーンフィル、バイエルン放送、ロンドン響などには付いてこない。
調べたら、それ以外にはもれなく付いてくるピアニスト中心の日本人奏者たち。

演奏される協奏曲のランキング
2025年 
①ラフマニノフ2番 ②ショパン1番 ③ショパン2番 ④チャイコフスキー1番
2026年
①ラフマニノフ2番 ②ブラームスVn協 ③皇帝

ダントツでラフマニノフ。
外来オケが来てショパンかよ、ほんとそう思うよ。

ソリストの登場ランキング(2年まとめて)
①辻井 ②反田 ③角野 ④亀井 ⑤藤田・・・韓国系も多し

メインプログラムのランキング
2025年
①ブラームス4番 ②ベートーヴェン7番、ブラームス1番、マーラー5番、チャイコフスキー5番、新世界
2026年
①チャイコフスキー5番 ②巨人 ③ブラームス1、4番、新世界、ショスタコーヴィチ5番、運命

ブラームスの1番と4番、チャイコ5番が強い。
でもね、もう同じような曲ばかりなんでやんのよ。
前半を聴いたソリストのファンが帰ってしまわないように、彼ら彼女らでもわかりやすい名曲を、そんな風にしか思えない。

さらに文句をたれよう。
このオケ、この指揮者なのに・・・
ユロフスキとベルリン放送なのにブラームスの1番と4番
フルシャとバンベルクなのにブラームス1番とベートーヴェン7番
シャニとロッテルダムなのにブラームスの4番と新世界
ワルシャワフィルなのにブラームス1番と新世界
オルソップとポーランド放送なのにブラームス4番
スカラ座フィルなのにブラームス4番と悲愴
ウィーン響なのに運命と新世界
シャニとミュンヘンフィルなのにブラームス4番と巨人
ラニクルズとドレスデンフィルなのにブラームス4番と巨人
スロヴァキアフィルなのにブラームス1番と新世界、未完成
イル・ド・フランスというレアオケなのにブラームス1番と英雄、泣けるぜ
ペトレンコとロイヤルフィルなのにチャイコフスキー5番とラフマニノフp2、s2
ベルギー国立菅なのにチャイコフスキー5番
プラハ響なのに皇帝・新世界、泣けるぜ
エルプフィルなのにブラームス4番と新世界、旧北ドイツ放送響ですぜよ

一方、日本人奏者の付いてこないオーケストラのプログラム

マケラとパリ管 幻想とサンサーンス3番
ヤマカズとバーミンガム エルガーのチェロ協とヘンリ・ウッド編の展覧会
マケラとコンセルトヘボウ オケコン、ブラームスp協1、マーラー5番
ペトレンコとベルリンフィル マンダリン、ペトルーシュカ、ワーグナー、ブラームス1番
ドゥダメルとロスフィル 復活、火の鳥&ハルサイ
パッパーノとロンドン響 復活、ショスタコ5、ブルックナー9 Himariちゃん来るけどモーツァルト1番
ムーティとウィーンフィル ブルックナー8番、チャイコフスキー4番、モーツァルト40番、内田光子でベートーヴェン
ラトルとバイエルン放送 復活、グレート、ハルサイ、ラフマニノフ3番

自慢じゃないけど、触手が動くのは後段の「付いてこない方」のプログラムだ。
日本人奏者が付いてくるのはいいかれど、せめてメインプロには、そのオーケストラの持ち味が出る曲やお国ものを取り上げるべきだろうし、もしくは奏者なしのオーケストラだけのオケの特色の出るプログラムも用意すべきだろう。
そうするとチケット代の格差が出て浮き彫りになってしまうから呼び屋さんはいやがるだろな。

外来オケに行かなくなって久しい。
最後に行ってるのは、2019年のフィラデルフィアとBBCスコテッシュで、もう7年も行ってない。
チケット代がますます高額化しているので、よけいにそうなってるし、日本のオーケストラをチョイスして好きな演目を聴きに行く方がほほど楽しいと思うようになった。
ベルリンフィルがS席5万円、最安席でも3万円・・・後段の有力オケのお値段はみんなこんな感じ。

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クラシック音楽の需要衰退が言われて久しい。
東京と大都市への文化の集中もこの衰退の動きに拍車をかけている。
連日のように行われるコンサートは、そこそこに埋まってるが、自分も含めて聴衆の高年齢化は否めない。

音楽関係者はそんななかで、いかに集客をしていくか
人気アーティストを軸にした企画に舵を切るのもわからなくはない。
でもそれでは特定の層にしか訴求できず、いまの私の気持ちのようなコアなクラシック音楽好きをがっかりさせるだけ。

 前述したワタシらの不満を解消できる後半演目の見直し
そのオケがその時に演奏している定期のプログラムをそのまま持ってきてもらう

いまの高年齢層の後に続く、社会的にも忙しくお金もかかる中年齢層をいかに熱心な音楽好きに仕立てていくか

 このあたりがいちばん難しい。
私も結婚と子育ての時期にはコンサートから遠ざかり、音楽も聴く余裕がなくなったときだった。
クラシック音楽が日本の生活に密着してないゆえだろう。提案も思いつかない。

短いもの、瞬間を楽しむ風潮にある若年層にいかにクラシック音楽を聴かせるか

 中学生には音楽教育の一環として、プロオケの演奏を定期的に必ず聴いてもらう。
全国各地に立派なホールはあるし、いまでも文科省が企画しているプロオケの巡回音楽会はある。
変な団体に公金チューチューされるより、こうしたお金の使い方がまさに適正なのだ。
本格的な交響曲や入門音楽でなく、こま切れでいいから、瞬間瞬間を興味を持って興奮ししてもらう曲ばかりにする
アンコールピースばかりでもいいし、いろんな音楽のフィナーレ集でもいい。
ハルサイ、惑星、ツァラトゥストラ、ベト7、チャイコ4~6、巨人などなど、盛り上がるところだけチョイスでいい。

地方の活性化につながるコンサート開催
 外来オケは、地方巡りもしてもらう。ホールは潤沢にあるだろう。
もちろん日本人ソリストも帯同する。
おっかけファンにも帯同してもらおう。
そして地域のいいところを楽しんでもらおう。
昔は、メジャーオケも驚くほど地方巡回をしていた。
それこそ文化の東京一極集中を見直す機会にもなるし、珍しいプログラムを組めば客は広域から集まる。
地方でも本物が味わえること、それこそが大切だと思う。
私の今住む小さな町でも、N響メンバーが来て周辺地域の演奏家とアンサンブルコンサートを毎年開いてます。
毎年満席になるし、どうみても音楽とは縁遠い雰囲気のオジサン・オバサン方も集まりますよ。
文化を育て、根付かせるには、採算などは度外視できる予算執行や投資の観念も必要かと・・・

話がふくらみすぎました。

ともかく音楽の楽しみ方の幅がひろがった、いや広がりすぎたと言っていい。
コンサートに行かなくても、ネット同時配信が行われ同じ時間をホールの聴き手と共有できる。
今日も東京の春の「グレの歌」をライブ視聴した。
音質もよく、第一級のソロ歌手たちの歌も最高だった。
でもホールにいるとき味わうあの空気感はまた別物ではある。
多くの人が気軽にクラシック音楽を楽しめる場所、それが日本各地にあれば、それがどんなに素晴らしいことでしょうか。

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2026年3月20日 (金)

東京都交響楽団定期演奏会 インキネン指揮

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朝に雨、ちょっとのお湿りがありがたい夕刻のコンサートホール。

風はまだ冷たいけれど、気温は上昇中でいい感じで、早めの桜の季節を迎えようとしてます。


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   東京都交響楽団 第1039回 定期演奏会 Bシリーズ

  ラヴェル  ラ・ヴァルス

  サン=サーンス ピアノ協奏曲第4番 ハ短調 op.44

          左手のための6つの練習曲~第2番「フーガのように」

     Pf:キット・アームストロング

  プロコフィエフ 交響曲第3番 ハ短調 op.44

   ピエタリ・インキネン指揮 東京都交響楽団

        (2026.3.19 @サントリーホール)

一見、風変りなプログラムですが、いずれもパリにおいて初演されたパリ・フランスにゆかりのある作品。
前半はまさにわかりますが、プロコフィエフはロシアから亡命し、アメリカからドイツやフランスで過ごした期間が10年間あり、その間で独創的な作品を多く作曲していて、オペラ「炎の天使」とその素材を元にした交響曲第3番がまさにこの時期のものです。

ハ短調と作品44が共通しているのは、都響の発表だと偶然だそうな。

そのプロコフィエフの3番狙いのワタクシ。
全部プロコフィエフで決めて欲しかった気持ちもありましたが、どうしてどうして、前半も抜群に面白かった。

インキネンとラヴェル、まったくイメージはなかったですが、きらびやかさとは遠い、淡々としたなかに入念できめ細かな味付けもあるユニークなラ・ヴァルスだった。
インキネンを実演で聴くのは初めてですが、シベリウスやドヴォルザーク、ワーグナー、プロコ3番の専門家みたいに思ってたけど、丁寧な仕上げの渋めのラヴェルは悪くないと思った。
演奏会の終わりに晴れやかにやるのでなく、冒頭にホールの空気感をあげるようなこうした選曲は悪くないし、次のサン=サーンスの音楽の舞踏性との対比でも面白かった。

そのサン=サーンス、奏者のアームストロング氏もわたしは初だし、恥ずかしながらお名前も知らなかった。
作曲もなし、オルガン奏者でもある天才肌の音楽家。
小柄な少年のようにサクッと登場し、ササっと弾き始めたそのピアノは、転がるような軽やかなタッチで実に心地よい音色をかもし出す。
これまたコンサート初聴きのサン=サーンスの4番という渋い作品で、変奏形式の第1部の前半とやや難渋な後半ではちょっとワタクシ退屈しかけたけれど、それでもピアノは明快で曇りなし。
楽しい雰囲気になる第2部は、いかにもサンサーンスらしい屈託のない音楽となり、ピアノもオーケストラもウキウキ感が満載だ。
飛翔するがごとく高い技巧に裏うちされたアームストロング君のピアノは、もはや耳に心地よさをもたらす快感ですらあり。
インキネンのオーケストラもここでは煌めきを尽くし、この作品のベースにある循環形式などといった小難しいことは抜きに明るく楽しくアームストロング君を支えてる。
あっという間に盛り上がって、あっという間に終わってしまう協奏曲だったけれど楽しい30分間だった。
 アンコールは驚きの左手作品。
左手だけで演奏してるとはまったく思えない鮮やかなタッチの演奏に舌を巻きましたよ!

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お楽しみのプロコフィエフ
自慢じゃなけど、「炎の天使」を完全マスターしてから交響曲第3番の楽しみ方も増した。
まして今回は、実演初のプロコ3番。
奏者のみなさんが、あんなことしてる、こんな風に弾いてるんだみたいにキョロキョロしながらワクワク忙しくも聴いたものです。

いうまでもなく、8作ある完成されたプロコフィエフのオペラ(ほかに少年時代に4作あり)のなかで、いちばん刺激的でかつ傑作といわれる「炎の天使」だが、三角関係の恋愛、悪魔主義、騎士道精神、キリスト教、これらがないまぜになった筋立ての複雑なオペラです。
堕天使となるヒロインに振り回される騎士、このヒロインの性格がややこしく心変わりも激しく目まぐるしい。
だから、このオペラのモティーフを随所に折り込んだ交響曲第3番も、まさに目まぐるしいほどに、いろんな旋律や動機が交錯し、とつぜんの心がわりのように音楽はつねに変転する。

そのあたりの差配が、インキネンの指揮ぶりを見ていても、曲を完全掌握している感じで頼もしいものがありました。
指揮台にあがるや否やすぐに指揮棒を振り下ろしすぐさまに、ベルを伴うあの強烈なサウンドが開始された。
オーケストラの準備も万端だった。
ヒロインが悪霊にとりつかれたようにして歌うシーンの音楽、そこに低弦はそれをなだめる相方のリベラメの祈り。
もう冒頭からその描き方が着実で一挙に音楽に気持ちが入っていった。
そのあとのヒロインの愛の旋律がいやでも美しく抒情的に奏でられ、オーボエも見事でした。
ミステリアスな緩徐楽章は、修道院入りしたヒロインのシーンで、こうして聴くとオペラでの禍々しさは後退し、抒情的でクールな演奏も手伝い、シンフォニーとして実によく書けてるものだなと感心。
ときおり怪しいムードになるのは、悪魔文献を読み漁るヒロインの姿なのだな、これが。
はい、みなさんお待ちかねの目まぐるしくも弦の分奏による変転グリッサンドの激しい3楽章。
これこそ見て聴いてみたかった。
なるほどなるほどと思いながら聴き、中間部の束の間の正気に戻った抒情味の対比もうまい描き方だ。
オペラでは霊魂の召喚で鳴らされるドアのノックがわりの3つの太鼓、このあたりの腹にずしりとくるところ、打楽器各種の活躍もライブならではの興奮のしどころ。
オペラの眩しい最終シーンで終わる3楽章だが、ラストとそう感じさせることなく、アタッカで終楽章になだれ込むことでよけいに終楽章の奇怪な姿を浮き彫りにできたものと思う。
いうまでもなく、最終幕の悪霊と惑わされた修道女たちのトランス状態の酩酊的な強烈な音楽が入乱れるのであるが、都響の整然としたアンサンブルがあって、またインキネンのアクセルぶかしが生きてくるというものだ。
強烈なエンディングにあっけにとられるホールは、音楽が消えても、インキネンが指揮棒を下ろして構えを解いても、しばしの間がありました。
ブラボー一声かましました。

爆発的な演奏というよりは、冷静さも保ちつつ整然とした抒情味も大切にしたクールで熱い演奏だったように思う。

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都響は次はヴァンスカが来てシベリウス。
インキネンは、次はシベリウスを聴きたいものだ。

さらに都響の4月はカラビッツがやってきてプロコフィエフの4番の初稿版をやります。
これ行きます。

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ホールのうしろの公園には終わりかけのモクレンが。

次は満開の桜坂です。

過去記事

「プロコフィエフ 交響曲第3番」

「プロコフィエフ 炎の天使」音源

「プロコフィエフ 炎の天使」映像

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