2025年5月14日 (水)

R・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」静岡音楽館AOI

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久しぶりの静岡。
ホールロビーからの富士。
シュトラウスのオペラを演るとあっては行かなくてはなるまい。
都心を離れ、神奈川にいるので、思えば静岡は近い。
新幹線を使わずとも手軽に行けてしまうので、行きは在来線でのんびり、帰りは心地よき疲れに浸りながら新幹線。

駅前にある音楽ホール、静岡音楽館AOIの30周年記念公演、「ナクソスのアリアドネ」演奏会形式上演。
この公演に気が付いたのはそんな前でなく、ホールに電話をしたときは残りわずかで、早々にチケットは完売。

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R・シュトラウス 歌劇「ナクソス島のアリアドネ」op.60

  アリアドネ:田崎 尚美     バッカス:宮里 直樹
  ツェルビネッタ:森野 美咲   執事長:小森 輝彦 
      作曲家:山下 裕賀       音楽教師:池内 響   
  舞踏教師:澤武 紀行      従僕:岸本 大
  ナイヤーデ:守谷 由香     ドリヤーデ:山際 きみ佳
  エコー:隠岐 彩夏       ハルレキン:黒田 祐貴
  ブリゲッラ:小堀 勇介     士官、スカラムッチョ:伊藤 達人
  かつら師、トゥルファルディン:志村 文彦   

       沼尻 竜典 指揮 静岡祝祭管弦楽団

        演出:彌六

        (2025.5.11 @静岡音楽館AOI)

通算4度目のアリアドネの実演観劇。
初めて訪れた静岡音楽館、シューボックス型の館内装飾もそれはステキなホールで、客素618人というところもほどよい規模。
そしてその音響の良さも定評あるところで、今回のこのホールにしては最大規模の作品を上演するにあたり、聴き手からするとすべてがちょうどよろしく、シュトラウスの精妙に張り巡らされた緻密な音楽が、まさに手に取るように見え、聴こえたのです。

序幕のドタバタ風喜劇、劇中劇たるオペラと性格の異なる2部を簡単な演技でコンサート形式で行うことは、ややこしさを回避しシンプルさが増すことで、これまたシュトラウスの音楽の良さが引立つというもの。
都合2時間30分、満員御礼の客席は集中力高く、歌と演技、オーケストラの妙技に聴き入った。
ユーモアを交えた簡潔な演出は、誰にでもわかりやすく、左右の袖から出入りする動きばかりでなく、ときに2階からの動きもあり、空間利用も巧みであり、限られた制約のなかで最適なものでした。

初めて買ったアリアドネの音盤は、ケンペとドレスデンのレコードアカデミー賞受賞の名盤で、当時のそれは豪華極まりない歌手を集めた贅沢なものだった。
今回の静岡キャストは、いま日本でアリアドネをやるならこの歌手たち、という最適かつ隅から隅まで豪華なメンバーを選りすぐったもの。

その歌手たちが予想以上に素晴らしかった。
声の威力と幅広い表現力で圧倒的な存在感を示したのが田崎さんのタイトルロール。
沼尻さんとのサロメ、ヴェルレク、そのほか多く聴いてきたけれど、コンパクトなホールとうこともあり、その強さと繊細さを兼ね備えた声が耳にストレートに響きました。
古くは12年前に同じ沼尻指揮では、ワルキューレたちのひとりだった。

相方のバッカスの宮里さんも驚きの力強さとよく通る声。
この方も昨秋のヴェルレクで輝かしいテノールで聴いたばかり、エリックも田崎さんとオランダ人で予定されていて、明るめの声でのワーグナーも次は聴いてみたい。

元気いっぱいのツェルビネッタを歌った森野さん。
小柄で才気煥発といった、この役柄にぴったりのルックスと軽やかで透明感あふれるお声はチャーミングそのもの。
意欲が空転してしまうスレスレのところも、実にライブ感あってよろしく、見事な声の技巧に感心しながらも、微笑ましかった。
ウィーン在住中とのこと、これからの日本のモーツァルトやシュトラウスの舞台になくてはならない存在となるでしょう。

序幕でキリリとした作曲家を歌った山下さん、この方が実に素晴らしく、生真面目なこの役を強い声で歌いあげたほか、ツェルビネッタの登場で惑わされるシュトラウスならではズボン役としても最高の歌い手かと思いましたね。
会場で大喝采を受けてましたから、みなさん同じ思いで聴いていたことでしょう。
すでに実績をあげてる方ですが、きっとステキなオクタヴィアンに!
昨年はバーミンガムでヤマカズの蝶々さんに出演、チェネレントラ、今年は群響でカルメンなど、楽しみな歌手をまた発見。

語り役の執事長に小森さんという贅沢な布陣。
氏の舞台は数々観てきましたが、ウォータンを歌うバスバリトンが執事長とはまた妙なる配役の妙。
完璧で美しいドイツ語の語感、かたくなさを尊厳な雰囲気でかもし出すベテランの味。さすがでした

このシュトラウスの作品は、とてもよく書かれていて、古典帰りをした明朗な音楽造りは、その構成にもよく出てます。
喝采を受けるアリアが配されているほか、愉快な重唱や、美しいハーモニーにあふれた重唱など、ともかくどこもかしこも歌の聴きどころあふれている。
3人の精たちの透明感あふれる歌声は、それぞれも素敵な声でしたが3人の得も言われぬ声の重なり合いは、さながら夢心地になる気分でした。
守谷、山際、隠岐といった3人の実力派、それぞれにまた聴いてみたいお声でしたね。

あと男声の方もチームワーク抜群の愉快な仲間を楽しく歌い、演じてました。
いちばん聴きどころの多いハルレキンを歌った黒田さんのマイルドで柔らかなバリトンが心地よく、シュトラウスが付けたステキなメロディを堪能しましたし、お隣の女性のお客さんも体を揺らすようにして気持ちよさそうに聴いてましたよ。
ベルカントに秀でた小堀さんの発声の明るいブリゲッラ、影のない女で嫌なヤツに成り下がってしまっていた皇帝役で記憶に新しい伊藤さんのもったいないくらいのスカラムッチョ、そしてもう10年以上前からいろんな役柄でいつも聴いてきた志村さん、失礼ながら役柄にぴったりフィットのかつら師とトゥルファルディンでした。

池内さんの音楽教師、序幕での執事長のむちゃぶりを最初に受けとめ悩む役柄ではありますが、役回りとしては案外に難しい存在を存外の美声バリトンで聴かせてくれました。
キンキラの衣装をまとった舞踏教師の澤武さん、音楽教師と作曲家と相対する役柄ですが、まさに軽やかに、町人貴族による短い歌も楽しく軽やかに歌いました。
思えば昨年のばらの騎士で、軽妙なヴァルツァツキを聴いたんだ。
作曲家と絡む役の従僕の岸本さん、どこかで聞いた名前と思ったら、神奈川フィルの合唱のまとめ役の方でした。

ともかく、みんながすばらしく完璧だった歌手のみなさん、もっと何回もやって、実際の舞台上演も期待したくなるチームです。
その歌手たちを束ねる沼尻さんの指揮。
このマエストロの元で、今回の歌手のみなさんは何度も歌っていて気心も知れているはずで、まさにオペラ職人のような巧みな指揮できっと歌いやすかったことでしょう。
序幕とオペラ部分との性格と音楽の違いも明確にさせていたし、オペラでのシュトラウスが描きだした地中海的な明快・晴朗な世界を引き出すことに成功していたと思う。
ともかく、すべてが的確なオーケストラ。
なんといっても水谷&小林という新旧の東響のコンマスを据えた38名の名人級の室内オーケストラは、各オーケストラからはせ参じたつわものばかりのメンバーで、見たことあるお姿ばかり。
ピットに入った上演しか経験がなかったので、もちろんスコアなんか見たことないので、弦楽セクションがおのおのに、ソロがちょこちょこあったり、ハープが2台もあってやたらと存在感があったり、ピアノやチェレスタがシュトラウスならではの透明感をそのサウンドに特長を与えているところだったり、ともかくオーケストラを見物するというコンサート形式ならではの楽しみも味わい尽くしましたよ。

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こうした果敢な上演を企画してくれた静岡音楽館さんに感謝。
素晴らしいホールを見出した喜びも。
こうした室内規模のオペラの公演を今後も期待したいです。
バロックオペラや、ブリテンなどの近代もの、ほかにはない上演を是非。

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開演のまえに、食事を兼ねて市内散策。

静岡市は大道芸の街、ちょうど「あおばフェス」をやってまして、あちこちで出店やパフォーマンスが繰り広げられてましたよ。
静岡市に降り立ったのは実は15年ぶりぐらいで、その前まではともかく毎月のように仕事で行って、飲んで、食べて、泊まってました。

美味しいものだらけ、夜も賑やかだし、みんな明るい人々ばかり、そんな「しぞーか」が好きです。

なんといっても、ワタクシも父の仕事の関係ではあったけれど、静岡県生まれなんですし。

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こちらもホールからの遠景。

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2025年5月 5日 (月)

ハイドン オラトリオ「四季」 ベーム指揮

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四季の珈琲☕

季節の変わり目ごとに販売される珈琲のパッケージが素敵なのでした。

小川珈琲が出している商品で、いまはどこのスーパーにも売ってます。

毎朝、コーヒーはかかさないものですから、毎日の楽しみです。

季節に応じて産地やブレンドで味わいも替えてます。

春:やわらかい香りとやさしい甘さを活かした軽やかな風味

夏:爽やかな香りとクリアな酸味を活かしたすっきりとした風味

秋:華やかな香りとやわらかな甘さを活かしたまろやかな風味

冬:芳醇な香りとなめらかな口当たりを活かしたしっかりとした風味

今週から、コーヒーコーナーには、早くも「夏」風味が登場してましたね。
次はもう「秋」かぁ・・・・
季節の切りかえ、進みは年々早くなる。

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  ハイドン オラトリオ「四季」 Hob.XXI-3

     ハンネ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ

     ルーカス:ペーター・シュライヤー

     シモン:マルッティ・タルヴェラ

   カール・ベーム指揮 ウィーン交響楽団
             ウィーン楽友協会合唱団

        (1967.4 @ムジークフェライン、ウィーン)

             ※(ジャケットはネットからの借り物です)

四季を描いた音楽はヴィヴァルディがいちばん高名ですが、声楽作品としてはハイドンが随一。
「天地創造」の方に演奏機会の頻度において歩があるが、どちらもハイドンならではのおおらかさとユニークな描写性があり、音楽を心置きなく聴くという楽しみを与えてくれます。

ハイドンには多数のミサ曲があり、オラトリオは2大作品のほか、昨今取り上げられるようになった「トビアの帰還」、諸バージョンのある「十字架上の最後の7つの言葉」などもあります。
1809年、77歳で没するハイドンですが、67~69歳で作曲された「四季」は、ほぼ最後の活動時期の大作となりました。
エステルハージの学長に返り咲き、最後の15年をウィーンで過ごすのですが、そこでは体力と意欲の減退に悩まされ、作品数も限られ、この「四季」のあと、すっかり病弱になってしまったと伝えられている。
全霊をかけたハイドンの「四季」、音楽はそんな緊張感は感じさないところがすばらしく、かつプロフェッショナルなハイドンに感嘆すら覚えます。

J・トムソンというスコットランドの詩人の同名の詩集をスヴィーデン男爵が台本化したものに作曲。
このスヴィーデンさん、よく出てくる名前ですが、本職は役人で、ベートーヴェンが1番の交響曲を献呈していたり、また晩年もモーツァルトを支援したり編曲の依頼などもしているほか、自ら作曲もそこそこに行っている。
やはり、こうした人物が影にあってこそ、古典の時代の音楽がしっかり残されたというわけでしょう。
 一方の原詩の作者であるトムソンさんも、なかなかの人物で、当時のスコットランド~大英帝国にあって、奴隷制廃止をモットーにしていたようで、この「四季」における農民たちの尊き労働の姿、人間と自然の描写など、その目線におおきくうなずけるものがあります。

各季30分ぐらいの長さで、CDにも2枚でちょうど収まる長さ。
農夫親娘、その恋人の3人のソロ、村人、農夫たち、狩人、その他無人格の合唱、こうした編成で繰り広げられる2時間の自然や生活の賛歌。
ヨーロッパののどかな、よき時代を聴きながら思い起こすこともできます。

【春】
荘厳かつ厳粛な出だしを持つが、冬が去って春きたる、まさに喜びにあふれたウキウキ感まんさいの春。
シモンであるバスの独唱による94番の驚愕交響曲の旋律に乗った農作業の始まりの喜びの歌、ここばかりが始めて聴いた中学生の自分には楽しかったという思い出がある。
カラヤンのレコードが出た時にFMで聴いたのが初です。
各季節の終わりには神への賛美や感謝の場面がありますが、春での喜びの爆発は晴れやかです。

【夏】
農夫たちの夏の朝は早い。
ホルンによる夜明けと日の出の表現は、さわやかで気持ちがいい。
輝かしい太陽の輝き、眩しい暑さ、一方でソプラノのハンネは木陰や小川の素晴らしさも涼やかに歌う。
そして夏は天候も急変、嵐が近づくさまも合唱で劇的に描かれ、その嵐のあとの平和と回復のありがたさも歌われる。
小鳥の鳴き声やコオロギ、鐘の音なども巧みに描写され、微笑ましいのです。

【秋】
あまねく人間にとっての実りの秋、春に花をさかせ、夏には成長し、秋には実りをもたらす、とこれまでを回顧しつつ、3人と合唱は喜びを讃えつつ、これまでの努力も肯定的に歌う。
お互いの名前を呼び合う恋人たちふたりの二重唱も愛らしく、喜びに満ちてる。
収穫とともに、狩りの成果もあがる。シモンは狩りの様子を緊張感とともに歌い、銃声が太鼓で鳴る。
農民と狩人たちはラッパが高鳴り興奮する、高鳴るホルンは、「魔弾の射手」の先駆けか、実に見事な音楽だ。
さあ、宴の始まり、新しい葡萄酒ができた!愉快な掛け声も楽しく、歓喜の合唱はとどまることなく、陽気なダンスもあり底抜けに明るいのだ。

【冬】
秋のどんちゃん騒ぎから一転、どんよりとした曇り空が立ち込める雰囲気で、ハイドンの筆致も冴える。
独唱たちは、さんざん周辺の厳しい環境を列挙し、冬の旅よろしく、旅人になりきって街を行く様子を歌う。
そこで目にしたのは、暖かい部屋と人々の団らん。
村娘とハンナは、糸車を回して紬物を結い、求婚者への思いも歌う。
さらにハンナは貴族の求婚のたとえ話と、戒めを歌にして、その清らかな思いも語って村娘たちの喝采を得る。
父シモンは、これまでの3シーズンで贅沢にふけったことの戒めを娘と同じように歌い、徳を大切にと説き、最後の合唱へと導く。
春への希望と神への信頼と感謝を歌うのでした。

4つの季節を真面目に生きる人々の喜びと愛、また次の年もめぐりくることへの期待と感謝。
実に見事に作られた作品だと思います。

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先にあげたカラヤン盤は実はまともに聴いてなく、音盤も持ってません。
手持ちのベーム、マリナー、ガーディナーの3種から、やはり一番よく聴いたベーム盤を。

70歳を超えて最充実期にあったベームのハリのある音楽造りは、ときに厳しい表情も見せますが、ウィーンフィルほどに柔和にすぎないウィーン響のナチュラルな響きも手伝ってか、豊かなサウンドをともなって劇場的でもあり、歌謡性にも富んでます。
 録音年の67年といえば、その前年からバイロイトでリングを指揮していたし、トリスタンもロングランで上演中だった頃。
レコーディングでもモーツァルトの一連のオペラなどもこの頃。
凝縮した響きで古典音楽もワーグナーも明晰に演奏をしていたこの頃のベームならではのハイドンかとも思います。
この頃はDGはウィーンフィルを自由に使えなかったはずだし、ベルリンフィルはカラヤンがいて難しかった。
ウィーン響でよかったともいえるが、思えばウィーン響とは不思議なオーケストラです。
カラヤンのあとを受けて、この頃はサヴァリッシュが首席指揮者だったが、そのサヴァリッシュの元では清新な現代的なサウンドのなかに、ウィーンの響きを聴かせていた。
しかしベームが指揮すると、ウィーン訛りも出てきて、ちょっとひなびた音色が優るようになるのを他の映像作品などで感じていました。
60年代に、ベルリンフィルでは無理だったが、ベームには、このウィーン響とベートーヴェン全集を残して欲しかった。
学友協会合唱団も引き締まった充実ぶりでしたね。

ベームのトリスタンで、マルケ王と水夫を歌っていた二人、タルヴェラとシュライヤー。
あとこの年にカラヤンのワルキューレでジークリンデを歌うヤノヴィッツ。
ワーグナーやドイツオペラ、歌曲で大活躍だった3人の歌手がいずれも素晴らしいと思います。
無垢なる声のヤノヴィッツにはまいど癒されます。
まっすぐの声で正確な歌唱でありながら、味わいもあるシュライヤー。
小回りがきかず、お人よし感満載のタルヴェラにベリーやFDのような巧さはないけれど、各種ワーグナーの歌唱にはない豊穣なコクのような声を感じる。
いまやみんな亡くなってしまい、ヤノヴィッツ(1937~)のみがご健在。
懐かしい歌声に、いつまでもお元気で、と祈念する思いです。
最後にDGのこのウィーン録音、とても音がいいです。
すべてが自然で音楽に気持ちよくひたることができます。

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ハイドンの生まれたニーダーオイスタライヒ州にある「ローラウ」という街。
6歳まで過ごし、その後学校に通うため、もう少し北にある都市の寄宿舎に移住、さらにすぐにウィーンに。

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グーグル先生でいまは博物館となっているハイドンの生家を調べてみました。
湿地や小川が多く自然あふれるローラウ、近くに教会もあり、少し行けば広大な農地が広がってます。
ハイドンはずっとのちに、ロンドンから帰ってきて、郷里を訪問して懐かしんだといいますが、ちょうどこのオラトリオの作曲の頃。
マップで郊外も見てみましょう。

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なんということでしょう。
おびただしい本数の風力発電の風車が・・・
風の抜けもよいのでしょう。
ヨーロッパの多くの郊外にはこんな光景があると思われ、はたしてそれはecoなんだろうか?と思います。
この殺伐とした景色と、案外と騒音を出す風車の音にハイドンもびっくりでしょうよ・・・

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ふだんは、5月の連休あたりが盛りとなる「藤の花」。

年々、開花が早くなってますし、咲いたらあっというまにしおれてしまう刹那的な寂しさがあるのも桜と同じかも。

季節は夏に向けてまっしぐらな感じです。

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2025年4月27日 (日)

神奈川フィルハーモニー 定期演奏会 沼尻竜典 指揮

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ちょっと涼しかった横浜。

世間はゴールデンウイーク初日とのことで、一大観光地でもある横浜・桜木町界隈は大賑わい。

ツツジの花、まっさかりのみなとみらい、神奈川フィルのシーズン・オープニング定期演奏会を聴いてきました。

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   神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第405回定期演奏会
 
 バツェヴィチ 弦楽オーケストラのための協奏曲

 ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 op.107

   ブリテン   無伴奏チェロ組曲第2番~シャコンヌ

       チェロ:上森 祥平

 ショスタコーヴィチ 交響曲第12番 ニ短調op.112 「1917年」

    沼尻 竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                       コンサートマスター:石田 泰尚
 
                               (2025.4.26 @みなとみらいホール)

ご覧のとおりのなかなかに攻めた感じの果敢なプログラム。
アニバーサリーのショスタコーヴィチはともかくとして、ポーランドの女流作曲家グラジナ・バツェヴィチ(1909~1969)、いま世界的に取り上げ始めたブレイク中の作曲家。
私も音源を揃えつつあり、徐々に聴き始めております。
名前が似ててややこしいクロアチアのドーラ・ペヤチェヴィチ(1885~1923)、英国のエセル・スマイス(1858~1944)、アメリカのフローレンス・プライス(1887~1957)の3人とともに、よく聴く女性作曲家となってます。

1949年の作品である弦楽協奏曲は、のちの交響曲や協奏曲が中期以降のシマノフスキを思わせる先鋭・オリエンタルな雰囲気を持つのに比べ、聴きやすい保守的な作風で、バロックな形式を持つ作品。
各パートのソロもふんだんにあり、そこが協奏的であり、この日の神奈川フィルの弦楽セクションにぴったりの選曲でありました。
男前の音楽造りのバツェヴィチ、颯爽としたユニゾンで始まる1楽章からして、キリリと明快な演奏でばっちりと決まりました。
この日のチェロ首席、山本さんと石田コンマスとの絡みあいも、ずっと聴いてきたかなフィルファンとしてはうれしく、その音色がまた美しいのでした。
バルトークをも思わせるミステリアスな2楽章では、チェロソロに、ヴィオラソロも効果的にあり、なかなかに聴かせる音楽でありひんやりしたなかにも繊細な演奏でした。
快活で洒脱な雰囲気の3楽章は、各ソロと弦楽との掛け合いが楽しく、奏者のみなさんも気持ちよく演奏しているのがわかります。
佳曲、桂演でした!
石田&山本コンビ、帰ってきた神奈川フィルのかつての顔。
やはりかなフィルの弦は、このふたりがいることでその繊細さ美音、加えて攻める積極性も出てくるんだと痛感しましたね。

こうした多くの方が初聴きの曲を取り上げることは、聴き手の集中力や好奇心を引き立てる意味でも大いに意義のあることです。
バツェヴィチのもうひとつの弦楽オケ作品であるディヴェルティメントは、オールソップとポーランド国立放送響の今秋の来日の演目に入って増して、興味があるんですが他の曲がね・・・・

現在の神奈川フィルの首席チェロである上森さんによるチェロ協奏曲。
いきなり始まるくり返し効果抜群の第1主題は、めんどくさい人ショスタコーヴィチを代表するようなメロディで、一度聴いたら忘れられないし、ソロカデンツァ楽章と最後にまたやってきて、この作品を忘れがたくしてくれる。
オケの日頃の仲間と聴き合いながらの上村さんのチェロは、ゴリゴリ弾くタイプではないと感じ、軽やかな1楽章となり、さらに木管の合いの手も素晴らしく、なんといってもこの日素晴らしかった読響からの客演ホルンの松阪さんの存在感が際立っていた。
痛切な2楽章が、この曲の肝だと思い、じっくりと聴きましたが、オケとともに悲壮感を盛り上げていくチェロソロに耳が釘づけに。
謎に満ちたチェレスタが効果的に鳴らされるところも、ライブだとよくわかりますね。
ショスタコーヴィチの緩徐楽章に共通する意味深でありつつ、どこかひねてしまった複雑さを、楽譜に忠実に変な思い入れもせずにしっかり聴かせることで、シリアス度合いがより高まったのだと思いました。
その後に続く長いソロカデンツァは、もう息を殺すようにして聴いたし、ホールの皆さんも1点集中でまんじりともせずに、技巧にあふれた上村さんの演奏を聴いた。
なんという緊張感あふれる音楽を書いてくれたんだろうか、ショスタコさんよ。
ところが一転、終楽章では情熱がほとばしり、爆発するようなオケとソロのぶつかり合いの展開になる、こんなところもショスタコさんの面白きところか。
ホルンを始め、洒脱なクラリネットや耳をつんざく木管に導かれ、例の主題であっけないくらいの結末。
ソロもオケもみんな大変なのでありましたが、息のあったコンビと、沼尻タクトの真摯な統率力で完璧な演奏となりました!

アンコールでは、波の図柄(北斎の神奈川沖?)のはっぴをまとって登場の上村さん。
まるで先のカデンツァの続きかと思わせるような集中力と緊張度の高いブリテンを弾きました。

後半はショスタコーヴィチの12番。
11番との姉妹作であり、粛清の悲劇を劇的に描いた前作に次いでの十月革命を描いたプロパガンダ的な音楽。
ソ連系の時代の演奏は前世の遺物と化し、いまや西欧系の純音楽系解釈によるシンフォニックな演奏が主体となったわけだが、この日の沼尻&神奈川フィルはまさに都会的ともいえるスタイリッシュなショスタコーヴィチで、オーケストラを聴く喜びと快感をも味わわせてくれるものだった。
それほどまでに、完璧で鉄壁のアンサンブルと、奏者のみなさんの優れた技量のもと、クールで鋭利なナイフのようなキラつくサウンドだった。
荘重な低弦の出だしから、速度をあげてすぐさまにクライマックスにいたる、その間のスピード感のよさも感嘆。
 殺伐とした緩徐楽章で木管や金管のソロが吹いては消え、また出てくるといったつかみどころのない雰囲気に、ドラが重々しくなり、そこへトロンボーンの一節が入るシーンなど、まさにライブでオケを見ながら聴く楽しみだ。
こうした沈滞ムードの作り方も精妙な指揮とオケあってのもの。
 一転、激しすぎる3楽章に聴衆はびっくりだ。
うるさくなりすぎないのもこの日の沈着な演奏だっただからだろう。
もっとハチャムチャな演奏もできたかもしれないが、そうした空虚なことはしないし、できないのがこのコンビか。
しかし、ここでの打楽器と金管の大活躍は目を見張るものあり、正直面白かった!
 さて全体総括ともいうべき終楽章は、それこそが虚しい音楽だろう。
妙に明るかったりして、勝利の兆しを見せるのであるが、このあたりの七変化ぶりも神奈川フィルのみなさんの確かな技量で楽しめた。
クレッシェンドしていって高まるクライマックスは耳の御馳走だし、すべての音が明確に聴こえるのも沼尻さんの耳の良さとオペラに精通した構成力のなせる技。
でも、ブラスの咆哮とファンファーレ、晴れやかな弦楽器、ティンパニや太鼓の痛烈な連打など、やればやるほど虚しい音楽なのである。
笑っちゃうくらいにすごかったが、でもそこに何があるんだろ・・・
そう思いながら、神奈川フィルの超熱演を聴いていた。
 すごい歓声とブラボーにつつまれたみなとみらいホール。
オケと指揮者にはブラボーであるが、わたしには12番はなんだかなぁ~という気持ち。
鳴りやまぬ拍手に応え、オケがひいたあと、沼尻さんは呼び出され声援に応えてました!

そうそう、拍手が始まって間もなく、席を急いで立つ方多し。
みなさん、渋谷へN響のマーラー3番へと急いだのでしょう。
サントリーホールでは「仮面舞踏会」、オペラシティでは読響、首都圏の音楽シーンはすごいんです。

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明るい曇り空のみなとみらい。

左奥の大桟橋には、大型クルーズ船が停泊中で、ノルウェー・ジャンスピリットです。
ほかにも何隻か停まっていて、外国人がいつにも増して多かった気がしますね。

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がんばってくれよ、横浜大洋ホエールズ・ベイスターズ。

思い切り楽しめた神奈川フィルの演奏会。

やはり石田組長がトップに座ると、かつては立つくらいに踏む込んだ弾きっぷりをみせたのですが、それでも楽譜に食らいつくようにして全霊を込めて奏でるその姿が楽員すべてに伝播し、音そのものにやる気とかなフィル独自の繊細な美音が出てくる。
それを支える山本さんが、この日はいたので、私がかねてずっと聴いていた頃のままの音と雰囲気が再現されたと思う。
その頃から変わらない楽員さんも多くいらっしゃり、この日はご挨拶もせず早々に引き上げましたが、実力ある若い方の増えた神奈川フィルの新しい音も十分に感じ取れました。
 ほんとうに素晴らしいオーケストラだし、身近にいつもあるわが街オーケストラとして、これからも演目を選んで聴いていきたいと思います。

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2025年4月18日 (金)

NHK交響楽団定期演奏会 ヤルヴィ指揮

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なるべく行きたくない街になってしまった渋谷に、久しぶりに行きました。

外国人観光客に大人気のスクランブル交差点とともに、こちらのハチ公像も人気で、外国人が列をなして順番に記念写真を撮ってました。

かならず外国人が映りこんでしまうので、右側を見切るようにしてうまく撮影できました。

数日前、90回目のハチ公の慰霊祭が行われたばかりで、渋谷にはなくてはならない存在となりました。

ここから雑踏のような公園通りを通過して、丘の上の築52年のNHKホールまで達するのは、正直、苦行でありますが、よきコンサートのあとは足取り軽く、ひょいひょいと駅まで行けちゃうから不思議なもんです。
ナイスなプロコフィエフが聴けて、うきうきしてしまったワタクシです。

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   NHK交響楽団 第2034回定期演奏会

 ベルリオーズ 交響曲「イタリアのハロルド」

 バッハ    無伴奏チェロ組曲第1番~サラバンド

      ヴィオラ:アントワーヌ・タメスティ 

 プロコフィエフ 交響曲第4番 ハ長調 op.112 (改訂版:1947)

     パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK交響楽団

         (2025.4.13 @NHKホール)

ヴィオラ独奏をともなう表題交響曲。
しかしながら協奏曲のように最初から最後まで活躍するわけでなく、コンサートでやるときは、ソリストとしてずっと立っていると、どうも間が抜けて見えてしまうし、かといってオケのヴィオラ首席の位置で弾くのもせっかくのソリストなのに申し訳なく、もったいない。
コンサートでは、どうもすわりのわるい作品なのだとずっと思っていた。

しかし、タメスティ氏とパーヴォ氏は、この作品ではなんども共演しているようで、ここではまさにヴィオラソロが、まさに「ハロルドの巡礼」を演じるがごとくステージ上で活躍しました。
オーケストラだけの長い序奏では指揮者だけ、やがて、そろりそろりと周囲を見回すようにして登場したタメスティ・ヴィオラ氏。
ハープみ導かれ、その横でハロルドの主題を弾き始めた。
なんという豊穣なヴィオラの音色だろう。
その印象は、最後まで、いやアンコールのバッハまで変わらず持ち続けたものです。
そしてタメスティは、最初はハープの横で弾いてたと思ったら、きょろきょろとしつつ、4つの楽章のイメージに合わせ、また活躍する楽器に導かれるように、その楽器の近くに行って弾いていたんです。
ハープの次はティンパニ、2楽章の夜の巡礼のときには、仲間たちのヴィオラの近くで、さらに3楽章ではちゃんと指揮者の横のソリスト位置で、山賊の酒盛りシーンと言われる4楽章のベルリオーズらしいはちゃむちゃシーンでは、チューバなどの金管群の横で。
こんな風に広いNHKホールのステージを場所を変えてヴィオラを弾くまくる、ときに聴衆に背を向けてオーケストラを聴いてるといった風に、演技もちゃんとしてしまう。
最後はステージから逃げ出すように走り去ってしまうシーンで、思わず笑いそうになったものです。
また別動隊として奏される弦楽四重奏は、第1ヴァイオリンの末席のふたりと、チェロは中ほどの奏者、それとタメスティの4人でした。
こうした距離感を作りだしたのは、これもまた音の遠近感を楽しめる仕掛けになっていた。
目の離せないソロ付きの「イタリアのハロルド」は、まさにライブでこそ、その面白さがよくわかる仕掛けが施されてました。
ヤルヴィの指揮は、そのあたりよくオーケストラを抑制させつつ、爆発するところは、いつものパーヴォらしく思い切りオケを鳴らし開放すると言った風に、タメスティを引き立てつつ、その方向性は息のあったふたりで完全一致していたことも確認できた次第。

アンコールのバッハが絶品でして、ヴィオラ一挺でこんなに巨大なホールをバッハの深淵な音で満たすことができることが奇跡のようにも感じました。

休憩後はプロコフィエフ。
何度も書いてますが、幣ブログでは、プロコフィエフの作品を年代順に聴いて記事にしてまして、時代別の作風の変遷を、そのときのプロコフィエフをとりまく諸情勢なども鑑みながら確認し聴いております。
オペラ「炎の天使」と交響曲第3番まで取り上げておりまして、ついでバレエの「放蕩息子」や交響曲第4番が視野に入っておりました。

そこで聴いためったに実演で聴くことのできない、今回の4番の交響曲でした。
しかし、今回はずっとのちに改訂された版でのもので、レコーディングも含めてこちらの改訂版が主流となっているのが実情です。

1927年完成の「炎の天使」、そこからの素材で出来た交響曲第3番が1928年、同時に作曲されたバレエ「放蕩息子」も1928年。
そのバレエの素材を一部使って交響曲第4番を完成させたのが1930年で31年にパリで初演。
祖国への思い捨てがたく、体制の変わったソ連に本格帰還してしまうのが1936年。
その前ぐらいから、プロコフィエフの作風は変化していったわけですが、それはまた違う機会に。

ずっとのちになって、成功した5番や6番のあとに、4番は改訂されるのが1947年。
第1稿は作品47で、改訂版は作品112。
30分ぐらいの初稿にくらべ、改訂版は40分ほどで、時間的にもグレートアップされた。
その違いはプロコフィエフシリーズのなかでまた書きたいと思います。

序奏の部分が効果的に拡張され、終楽章で全楽章を回顧しつつ壮大に鳴らされるという、交響曲の常套を踏んだ改訂版。
ヤルヴィの手際がよくも、強弱をたっぷりつけメリハリの効いた演奏で聴くと、このうえない爽快感と快感を覚えたものです。
初稿にはなかったピアノは、指揮者の真ん前に据えて、左右にヴァイオリンとチェロ・ヴィオラを配置するというなかなかに見られない光景でしたが、案外とピアノが決めてになって聴こえるこの交響曲では、実に効果的だったし、音の出方やバランスがとてもよかったと思う。

1楽章は序奏からやがてリズミカルな急速シーンに突入するが、このあたりの繰り返し的なプロコフィエフの効果満点の音楽はヤルヴィのキビキビした指揮ぶりが光る場面で、わたくしをワクワクさせてくれた。
このあたりのオーケストラの精度の高さに舌を巻き、やっぱりN響ってうまいもんだな、と感心することしきり。
 緩徐楽章の息の長い旋律を引き継いでゆく展開も美しく、ここでもオーケストラの合奏力の高さとソノリティの豊かさを実感。
初稿ではもっと簡潔な造りだが、改訂版ではやや冗長に感じさせるこの楽章を、ヤルヴィはよく歌い、各声部をしなやかに浮かび上がらせるようにしてうまく聴かせてくれました。
 原作のバレエにもっとも近づいた雰囲気の3楽章。
軽妙かつ洒脱な雰囲気をよくつかんでいたし、軽やかさもN響から引き出すところもさすが。
 よりシンプルで新古典的な様相を持つ初版の終楽章に対し、大見えをきるような終結部を加えた新版ですが、そこに至るまでの盛り上げのじわじわ感が見事でして、ここでもワタクシは興奮しましてドキドキが止まらないのでありました。
パッチワークみたいな感じの継ぎはぎが、だんだんとまとまってゆくような面白さを、ヤルヴィとN響は見事に演奏しました。
ブラボー一声かけましたよ。
 
プロコフィエフをコンサートで聴く楽しみは、大編成のオーケストラ、とくに金管や打楽器の活躍を一望できることです。
改訂版で強化されたそのあたり、もっと簡潔で凝縮された初稿版にない楽しみを、今回の演奏ではよく味わうことができました。
ヤルヴィって指揮者は、ときにあざといところがどうかとも思ってましたが、この日のベルリオーズとプロコフィエフでは、聞かせ上手のヤルヴィがいろんな工夫をこらして飽きさせずに聴かせてくれました。
4番は、ふたつの版を真ん中に協奏曲かなにかをはさんで一夜でやってくれたら面白いと思うんですがね。

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久しぶりのNHKホール。
記憶していた音響よりもよく聴こえました。
ヤード式のホールで聴くことが多かった最近ですが、音がまとまってブレンドされて直接に聴こえるので、ごまかしは効かないかわりに、音楽に集中できるような気もしました。
わたくしの初NHKホールは、1975年のムーティとウィーンフィルでして、もう半世紀も経つんだ・・・・

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文化に浸ったあとは狂暴な喧騒へと下りました。

せっかくだから雨のスクランブル交差点を拝見しようと隣接するビルからのぞき込みパシャリと1枚。

この街で学生時代を過ごした時代とは隔世の感あります・・・・

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2025年4月12日 (土)

富士と桜 と吾妻山

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今年の春は天候が安定せず、まさに「春に3日の晴れなし」とはよく言ったものです。

今日を逃すと明日はない、と絶好の晴天の日に地元の「吾妻山」に行ってきました。

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初春は菜の花、春は桜、晩夏はコスモスと、花の名所ともなった小高い山ですが、近くにいると案外と行かないものです。

さすがに外国人の姿はいませんが、駅からすぐなものですから、県内・隣県の方々が多くいらっしゃるようになりました。

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麓の小学校に通っていました。

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子供の頃は、公園として整備されてなく、神社と広場があっただけ。

こんな風に富士と桜が楽しめるスポットではなかった。

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各自治体が観光スポットを作りだすようになったのは、そんな昔のことでないと思います。

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オーバーツーリズムには顔をしかめざるをえませんが、日本人が安心して楽しめる日本であって欲しいと思いますね。

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2025年4月 6日 (日)

東京交響楽団 定期演奏会 ノット指揮 ブルックナー8番

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サントリーホールに早く到着したので、近くの桜坂から霊南坂を桜を求めて散策。

美しい桜の回廊を見て、これから聴くブルックナーに胸を高鳴らせる。

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演奏会が終わったあと、すっかり日が落ちてライトアップされた同じ場所の桜を再び。

あまりの素晴らしい演奏に、もう放心状態の自分でした。

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    東京交響楽団 第729回 定期演奏会

 ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調 第1稿 ノヴァーク版

      ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

         (2025.4.5 @サントリーホール)

2014年に就任以来、数々の名演を残してきたノット監督の最終シーズンの今季、ブルックナーの大作でスタート。
2016年に一度取り上げた8番ですが、2度目の今回は第1稿で演奏するという、これもまたノットらしい絶妙の選択。
このコンビを聴きだしてまだ数年の私ですが、今季のプログラムを見て、これはもういまさらながら会員になるしかないと判断しました。

昨年暮れ、「ブルックナーを演奏する会」というアマチュア有志オーケストラが第1稿を果敢に取り上げ、それでこの初稿の版を初めてといっていいくらいに真剣に聴いた。
その時のブログでも書きましたが、インバルのCDやルイージのライブ放送などで聴いてはいたが、かくも全然違う風に聴こえる第1稿に、新鮮さとともに、発見をする喜びを見出したのです。

そして今回の、ノットと東響の完全無欠たる演奏を聴いて、これはもう普段聴いてきた2稿以降のノヴァーク版、ハース版などとともに、峻厳さとともに聳え立つブルックナーの名作だと確信を得ました。
よく言われる「磨きあげられる前の原石」だという表現は、今回の演奏にはふさわしくなく、これはもう巧緻を尽くしたブルックナーが到達した完璧な円熟の境地にある作品と思わせるものだった。
そして、90分間にわたって、全編息もきらさず集中し、まんじりともせずに音楽に集中したコンサートも、これもまた久しぶりのことで、自分のなかでも、これまでの「サロメ」や「エレクトラ」にも通じるものだった。

聴き慣れた版との違いを確かめるように聴きがちな1楽章、ついついあれどこ行った?と、行方知れずの音を探すように聴いてしまうが、今回はそんなことなく、すべてがスムースで、すべてがあるように演奏されて自然体そのもの。
力んだところもまったくなく、洗練の極みのように感じられ、峻厳な作品8番を聴くのに構えることなく受け入れられた自分にも驚き。
それだけ練られた演奏だったということだろう。
フォルテで終わる終結部も洗練されたものだった。

野卑さのまったくないスケルツォは優美にさえ感じるくらいに徹底して磨き上げた表現で、さらに牧歌感の増しているこの初稿版の中間部ではテンポを落としてじっくりと聴かせる。
このように演奏は全体にゆったりめと思った。

いちばん素晴らしかった深淵なる3楽章。
緻密なノットの音楽造りをオーケストラがしっかりと受け止め、息の長い旋律を綿々と歌い継ぐ様子は聴いていても、見ていても胸が詰まってしまうくらいに感動的だった。
そのノットの想いあふれる横顔も印象的で、長らく付き添ったオーケストラのひとりひとりが、しっかりその意図を受け止めて精魂込めて演奏しているのがよくわかった。
指揮者とオーケストラの幸せな結びつきが、こうした静かで感動的な楽章を通じてよくわかるというものだ。
静寂をともなうパウゼもあり、完璧な間として完全に機能したようにも感じた。
2稿以降でシンバルが高鳴る場所がスルーされる1稿に慣れた自分ですが、そのあとにくる3連×2のシンバルとトライアングル、とってつけたように感じていたこの場所が、今回の演奏では痺れるほどの感銘をともなって、こうあらねばならぬというように聴こえた。
この日、好調だったホルンセクションとワーグナーチューバ軍団をともなう、その後の慰めにあふれた場面も感動的で、ずっとずっと続いて欲しいと願いながら聴いていたものだ。

雄軍極まりない終楽章の開始は、輝かしさでなく、決然とした厳しさが支配し、このあとの長い多彩な表情をもつ楽章の序奏として相応しかった。
2稿以降の版で、大好きなフルートによる鳥のさえずりは、1稿ではやはりちょっと寂しく感じ、埋没しすぎと思ったのは変わらず。
勇壮な金管の主要主題の咆哮もよく制御されていて、突出しない。
またコンマスを始め、第1ヴァイオリンが分かれれ分奏するところも、2稿以降にはあったかな?確認してみたいが、さすがニキティン・コンマスだった。
何度か表出する金管群による主題が、回数を追うごとに、だんだんと熱量を帯びてゆくのもノットの感興の豊かさと指揮の巧みさで、楽章も後半に進むにしたがって音楽が熱く、そして輝いていくのをまざまざと感じた。
ノット・マジック、まさに極まれり。
オーケストラも長丁場に負けず、精度と力感も保ったまま最後を迎えるにあたり、全員が集中と感銘のなかにいるようだ。
聴いてるワタクシが、平静でいられるわけがない。
3楽章でも感じたとおり、この長大な音楽がずっと続いて欲しいと願いつつ、感動に打ち震えていたのだ。
 遠大なエンディング、じわじわ高鳴っていくが、音楽は意に反して静まる。
ここでこれまで聴いていた音源や、前回の初聴き演奏会では、あれれ、と思い、その後のあっけない終結に物足りなさを覚えたりもしていた。
しかし、この日のノットと東響の演奏はまったく異なる次元で高みに昇りゆく音楽として、じっくりと堂々と聴かせてくれた。
ふわっとした終わり方を感じさせず、小細工も抜きに、見事なまでに音楽を昇華させたのだ。

最後の音が鳴り終わって、ノットは腕を降ろさず、奏者も身じろぎせず、完璧なる静寂が数十秒ホールに続いた。
その後のブラボーを越えた、歓声のような盛大な声、こんなの始めてだった。

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7番のあとにある8番ということを大いに意識させてくれた1稿での名演。
こんなすごい演奏が聴けるなんて。
ノット監督と東京交響楽団に感謝です。

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おなじみのコールもこの日は盛大でした。

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コンサートのあとの散策、

霊南坂教会と桜。
ブルックナーを聴いたあとに相応しい。
実は演奏会前にも教会のなかのステンドグラスを鑑賞しまして、そのときは礼拝堂で日曜に向けてオルガンの練習する音色が聴こえました。
敬虔な思いのままに、ブルックナーを聴いたわけです。

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今季のノット監督の演奏会、「戦争レクイエム」「マタイ受難曲」「マーラー9番」。

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2025年4月 2日 (水)

東京交響楽団 定期演奏会 オスモ・ヴァンスカ指揮

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春もたけなわ、のはずの3月末でしたが、4月に入ってからも寒の戻りや曇天・雨天で悲しい桜シーズンとなってしまってます。

こちらは商業施設の中の本物そっくりの桜なので散ることなく安心。

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    東京交響楽団  川崎第99回定期演奏会

 ニールセン       序曲「ヘリオス」op.17

 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 op.37

 バッハ カンタータ「楽しき狩りこそわが喜び」BWV208
         「羊は安らかに草を食み」

      ピアノ:イノン・バルナタン

  プロコフィエフ  交響曲第5番 変ロ長調 op.100

     オスモ・ヴァンスカ指揮 東京交響楽団

      (2025.3.30 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

コンサートマスターのニキティン急病とのことで、急遽田尻さんが本日のコンマスとのことでした。
ヴァンスカの指揮を聴くのは今回初めてで、これまでラハティ響との来日、読響、都響への来演も何故か聴くことがなかった。
いずれもシベリウスばかりで、シベリウスの専門家みたいに思われているヴァンスカですが、わたしはマーラーの10番から始まり、ついで全集も購入し、氏の緻密かつ熱いマーラーに共感をいだいておりました。

1曲目のニールセンから集中力と精度の高い演奏が展開された。
海の夜明け、昇りゆき、最後は沈みゆく太陽を描いた作品だが、静かに始まり、輝かしい中間部を経て沈黙の海を思わせるピアニシモで終わる、そのさまをまことに鮮やかに演奏してみせた。
昼からコンサートって、とくに1曲目は入り込みにくかったりするものだが、今回は最初の1音から耳をそばだてるくらいに磨きあげられた緻密さに集中でき、ピークのフォルテも神々しく、息をのむくらいの最終音まで、ほんとに美しく完璧な演奏に感じいった。

ピアノを中央に据え直して始まったベートーヴェンの3番。
イスラエル系のアメリカのピアニスト、イノン・バルナタンは恥ずかしながら、名前を聞くのも初めての方。
ベートーヴェンを中心に多くのCDも出ており、知らなかったのが悔やまれるくらいに実力をともなった素晴らしいピアニストだった。
一聴して、その美しいピアノの音に耳が惹きつけられる。
音楽にしっかり入り込んで、感じ入りながら、そして楽しみながら弾いているのがよくわかる。
その練り上げられた音たちは、緻密でどこまでも美しもあり、短調ならではの厳しさも感じさせたりで、3番という古典からロマン主義への萌芽の時期の位置関係を刻んでくれるような見事な演奏に結実していたと思う。
 ピリオドを意識した奏法でコンパクトで歯切れよいオーケストラは、ヴァンスカの思う切り詰めた簡潔なベートーヴェンにぴったり。
ただティンパニはややうるさかったかな。
バルナタンとヴァンスカが、完全に思いを一致させて、3番がベートーヴェンの意欲作であることをわからせてくれた。
一方で、2楽章のロマンあふれる演奏には、もう陶然としてしまう思いでしたね。
ほんとうに美しいピアノでした。
 別日ではアンコールもベートーヴェンだったらしいが、この日はバッハ。
何気なく、楚々とバルナタンが弾き始めたのがバッハのよく耳に馴染んだ曲だったので、驚きとともに、心に響くその誠実な演奏に、途中から泣きそうになったしまった。
聖夜の田園曲のように、心安らぎ、祈るような気持ちになる曲に演奏でございました。

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後半は、うってかわってプロコフィエフ
プロコフィエフを年代順にすべての作品を聴くシリーズ継続中のなか、ロシア時代初期から亡命時代の斬新な作風に心惹かれる一方で、祖国復帰後のソ連時代は明らかにメロディに傾きつつ、かつての大胆さが減少してしまったと感じてる。
でもプロコフィエフの音楽に通底するモダニズムや抒情が大好きで、すべてを聴き確認したい思いはかわりません。
 そんないま、かつて一番聴いてきた5番の交響曲を演奏会で体験する喜びははかりしれない。
なんといっても激しいダイナミズム、強弱の大きな落差は、スピーカーではなかなか聞き取りにくいし、近所迷惑になること必須なのだ。

そんな思いにぴったりだったヴァンスカと東響の5番だった。
その指揮姿を見ていて、ときおり屈みこむようにして、絶妙な最弱音を要求したとおもえば、最大最強のフォルテを引き出すために両手を大きく上にかかげて指揮をする。
東響は、それにこたえて完璧極まりない反応ぶりで、最高のオーケストラサウンドを聴かせてくれる。

クールな空気感を瞬時に感じさせるような1楽章は、さすがに北欧人ヴァンスカと思わせたし、楽章の最後ではこれでもかとばかりの破壊的な音でこちらも恍惚となった。
軽快でありながら、目まぐるしい激しさを味わえた2楽章は、ピアノも入り、東響の木管も大活躍で目まぐるしいくらいにきょろきょろしながら聴いた。
今回の5番の演奏の白眉だったのが3楽章。
クールな抒情性を見事に聴かせつつも、どこか不安げな様相を持つこの楽章の難しさは、プロコフィエフの色んな複雑な思いが念じこまれていることで、ヴァンスカの指揮はそれをひも解いて丁寧に聴かせてくれる緻密なものだったと思う。
中間部の哀歌などは、実に切実なもので、そこから始まる壮絶なクライマックスの作り方など、まったくもって素晴らしいものだった。
聴いていて鳥肌がたった。
一転して破天荒な雰囲気の4楽章では、木管と金管の大活躍と目まぐるしいほどの弦楽器の七変化ぶりを拝見しながら楽しんだ。
ヴァンスカのキュー出しも、極めて忙しく厳格かつ細密そのものだった。
急転直下のラストは、これまた見事な盛り上げ方で、もうワクワク感が止まらず、圧倒的なエンディングを迎えて興奮は頂点に!

素晴らしき5番を聴かせてもらった。
一連のマーラー演奏で感じていたとおり、ヴァンスカの音楽は効果を狙うような外向的なものでなく、音を緻密に磨き上げて美しい音にこだわるタイプに思っていた。
それに加えて、今回は強弱の付け方、音の出し入れなどがとてもうまく、存外にダイナミックな表現もする人だとの認識も加わりました。
都響にまたシベリウスで来演するようだし、次はマーラーも聴いてみたいものだ。

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ヴァンスカさん、いまは特定のポストは持たずに活動している様子。
これからもたびたび来日して、日本各地のオーケストラに客演して欲しい。

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2025年3月22日 (土)

東京交響楽団 名曲全集 R・アバド指揮

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寒の戻りの雪の関東、明けたらきれいな青空。

川崎の商業施設「ラゾーナ川崎」に早咲き桜が置かれてまして、奥には腹ペコあおむしの子供たちの遊具があり、楽しそうな笑い声がして風は冷たいけれど春っぽい1日でした。

お隣のミューザ川崎で、ロベルト・アバド指揮する東京交響楽団を聴いてまいりました。

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    シューマン      交響曲第4番 ニ短調 op.120

    ベルリオーズ  幻想交響曲  op.14

  ロベルト・アバド指揮 東京交響楽団

      (2025.3.20 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

ロベルト・アバドの叔父は、偉大なるクラウディオ・アバドです。

クラウディオの父ミケランジェロは、ヴェルディ音楽院院長・ヴァイオリニスト・指揮者・教育者。

クラウディオの母マリアは、作家でピアニスト。
彼らがロベルトの祖父母。
父のマルチェロは、クラウディオの兄で、父ミケランジェロの後をついで音楽院院長、そしてピアニストとしても活躍。
そしてロベルトは、指揮者として50年近くのキャリアがあり、若いと思っていたロベルトさんも、もう70歳になります。

ちなみにロベルトの従弟で、クラウディオの息子ダニエーレは演出家として活躍中で、彼も67歳になり、昨年はついにスカラ座で父の愛した「シモン・ボッカネグラ」の演出を担当してます。
この時の指揮がロベルトでなかったのが残念ですが、東京交響楽団の次期音楽監督である、ロレンツォ・ヴィオッテイが指揮しました。
このヴィオッテイも音楽一家でありますね。

一流の音楽一家の家系であるアバド家です。

前置きが長くなりましたが、アバディアンであるわたくしとしては、ロベルトの指揮も絶対に聴くと決めておりました。

颯爽と現れるのが叔父クラウディオの常でありましたが、ロベルトさんは、叔父とほぼ同じ体格で、ささっとさりがねくステージに登場しました。
両曲ともスコアを見ながらの指揮で、今回は指揮棒は持たず、しなやかな動きでの指揮ぶり。
まっさきにわかりました、叔父クラウディオのように指先を反り気味にして振る姿はそっくりで、大振りはせず、でもときに左手を高くあげてフォルテを導きだすところも似てる。
風貌は若い頃のほうがそっくりで、いまは髪もホワイトグレーになり、静かな紳士然としたお姿なのでした。

 シューマンとベルリオーズ、ともに「幻想」つながりで、プログラムとしても、初期ロマン派の馥郁たる音楽を味わえるステキなものです。
シューマンは1841年(1951年改訂)、ベルリオーズは1830年、それぞれの作曲年度ですが、ベルリオーズがいかに斬新でぶっ飛んでいたかがわかります。
シューマンも、ベルリオーズの幻想をすでに知ったうえで、影響を受けつつ書いたわけで、こうしてふたつ並べて聴くことで、ドイツとフランスの違いや、表題性の有無などの違いもあることは明確だが、どちらも情熱と夢想感、孤独感などが曲の根底にあるものと思う。

ロベルト氏は、まずシューマンでは、一気呵成にスマートな響きでもって明るく演奏してみせた感じ。
ともかく音色は明るく、シューマンの晦渋さはいっさい感じさせず、歌に満ちたシューマンの4つの連続する「幻想曲」といったイメージだった。
メインの曲に据えるならもっと強弱をつけて、一気呵成にやることもあったであろうが、後半に控えるベルリオーズとの対比では、こうした歌うシューマンも美しくてよかったと思いました。

ベルリオーズは文句なしの名演。
加えて対抗配置のオーケストラがシューマン以上に鮮やかに効果的だったし、いくつかある分奏も見ていて楽しいものだった。
オペラ指揮者であるロベルト・アバドは、まるでオペラを指揮するように、かなり細かに、的確に奏者のみなさんにキューを出していて、オーケストラがすぐさま反応している様子も正面から見ていて楽しくもあり、関心もいたしました。

 丁寧に細やかな表情付けをともなった1楽章。
固定楽想がこんなに美しく歌い、奏でられるのは久しく聴いたことがなかった。
案外と一番よかったのが2楽章のワルツで、右手に並んで置かれたハープも実に心地よい合いの手を聴かせ、ほんとに美しい舞踏会のシーンでした。
ベルリオーズの抒情性が際立った3楽章は、さすがに東響の奏者たちがべらぼうに巧くて安心して、野の情景にひたりきることができた。
ステージの外で鳴るオーボエと最高だったイングリッシュホルンの最上さんとの遠近感の妙は、例えようがないほどに効果的でもあり美しかった。
真ん中に据えられたこの楽章でのフォルテを境にロベルトさんは、モードを切り替えたくらいにパワーチェンジ。
断頭台の4楽章では4本のファゴットが大活躍、低弦と金管、打楽器、それぞれの対比が鮮やかで、どの部もみんなくっきりと聴こえ、まったくうるさくなく明瞭・明確。
一方で、最後の一撃はかなりがっつりダイナミック。
胸が高鳴る終楽章、怒りの日が思いのほかテヌートぎみに奏され、これはまさに聖歌であることが呼び覚まされたとの思い。
こうしたいろんな発見は全曲のあちこちにあったことも記しておきたい。
オペラ指揮者として、どんな声部もおろそかにせず、息が通っているように響かせることを信条としているのでしょうか。
ともかく曲が進むにつけて、面白さもどんどん増していくような、そんなロベルトの幻想交響曲。
鐘もかなりガンガン鳴らしてくれたし、興奮の度合いもますます増して、吃驚さに加えて、さらにコル・レーニョも効果的に際立たせ、ラストスパートはアッチェランドもかけつつ大団円を迎えました!
もちろんブラボー献上!

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奏者をそれぞれに讃えるロベルト氏、この日も最高に素晴らしかったオケの中にも入ってきて握手してました。
その人の好い姿と品のある笑顔に、やはり一族の血脈を感じましたね。

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ほんとはアンコールで、「運命の力」を聴いてみたかった。
日本に来る前は、ソウルでヴェルディのレクイエムを指揮したようで、かなりうらやましい。
この次は、オーケストラピットにたつロベルト・アバドを聴いてみたいし、マーラーやチャイコフスキーも聴いてみたいですね。
またの来演をお待ちしてます。

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2025年3月18日 (火)

プロコフィエフ 交響曲第3番

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隣町の中井のちょっとした山から見た富士山。

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

プロコフィエフを年代別に聴いていこうのシリーズ。
歌劇「炎の天使」をさんざん視聴しまくり堪能したあとは、交響曲第3番。

1919年から27年まで8年をかけて書いた「炎の天使」だが、改訂の遅れなどが重なり、ワルターの指揮で予定された初演が流れてしまい、クーセヴィツキの指揮でパリにて全3幕のうちの2幕までが演奏会形式で初演。
その後も手を加えつつ5幕7場に書き直したりしたものの、その間、望郷のソ連へ帰還し、さらに舞台初演の目途が立たなくなり、生前はついぞ上演されずに終わった「炎の天使」。

しかし、パリでの一部初演から、このオペラの素材を交響曲として活用しようと思い立ち、1928年に第3番の交響曲として完成させた。
翌年1929年にモントゥーの指揮でパリにて初演。
原作の野心的ともいえるオペラは悪魔崇拝、異端審問、ファウストとマルガレーテ、三角関係、騎士道精神、聖と悪・・・これらをテーマとして、その音楽も激しく、緊張感にあふれ劇的かつ抒情的、そう多面的複雑なものだ。

自身のオペラを素材としているからといっても、「ニーベルングの指環」のアドベンチャー作品のように長いオペラをダイジェストに仕立てたような作品ではまったくない。
素材のオペラを原曲として、オペラの筋や流れとはまったく関係なしに、音楽だけを交響曲に組みあげた別次元作品なのであります。

4楽章の交響曲というスタイルに形式的にも完璧に則しているものの、そこはプロコフィエフで当時の新古典主義的な流れとはまったく迎合せず、やはり素材のオペラのドラマの劇性をしっかり内包しつつも、あまりに主観的だった過激なオペラとはまったく違う客観性と冷徹さを持っている。
子供時代から天才の名を欲しいままにしたプロコフィエフは、なんでも作曲ができてしまい、音楽に書けてしまう。
しかし、シュトラウスなどとまったく違うのはロマンがなかったことかもしれず、交響曲に表題性などはまったく持ち込まなかったことだろう。
7つの交響曲もそんな存在なのであり、この3番を「炎の天使」と呼ぶことに作者が抵抗を感じたのもさもありなんです。

オペラの方を知らなかった自分が聴いてた3番と、オペラをほぼ掌握した自分がいま聴いている3番とでは、印象がかなり異なっている。
つかみどころがなく、暴力的でありつつ抒情もあり、アヴァンギャルドでもあり・・・そんな当初のおっかなびっくりの想い。
しかし、いまはオペラですっかりおなじみなった、全編のあらゆるモティーフやいろんな断片が、そっくりそのまま4つの楽章のなかでつなぎ合わされてさまざまに登場するので、手の内にはいった親しみやすい作品となり、交響曲として見た場合でもこれは傑作であると確信するようになった。
聴き進め慣れるうちに、ショスタコーヴィチの4番にも通じる、飽きのこない面白さ満載の作品だと思う。

1楽章:冒頭はオペラ1幕で、レナータが悪霊にうなされ、やめてと拒否るときの音楽で、同時に低音域では、彼女をなだめるルプレヒトの「リベラメ」が鳴り響く。
そのあとの優しい旋律はレナータの憧れの青年への想い、さらにルプレヒトの元気な旋律、これらが絡み合うソナタ形式で、3幕の活気ある決闘シーンでの音楽も登場し、ワクワク感もあり。
2楽章:5幕の修道院シーンで始まる緩徐楽章で、しずかな抒情的な楽章ではあるが、3部形式となっていて、2幕で魔術に関する文献を読み漁るレナータのシーンも挟まれる。
3楽章:スケルツォ楽章で4幕の居酒屋シーンを思わせる出だしのあとは、多くの聴き手をひきつける13声部による弦のグリッサンドにいよる目まぐるしくも興奮誘う場面。
2幕での伯爵の魂の召喚シーンで、3つのノック音はティンパニが3打する。
この楽章の終わりは、オペラのラストの最終音である。
4楽章:2幕の素材から始まり、そのあとは、同じ2幕でのルプレヒトと魔術師アグリッパとの痛烈な応酬のシーンと同じく5幕ラストの悪夢乱れ飛ぶ興奮シーンの音楽となり、その後に静まって2幕の最初、本屋さんの場面になる。
音楽は最初の興奮呼び覚ます場面が戻ってきて、スピード感を増しつつ激しさも加えクライマックスを迎え、2幕の終了のシーンと同じく痛烈なエンディングとなる。

オペラの最後は3楽章の終わりで使用、交響曲の終わりは第2幕の終わりを使用。
オペラの結末は眩しいような一音が伸ばされ、終わり方にいろんな解釈の余地があるが、交響曲の方は有無をいわせぬ圧倒感で壮絶な結末感があり、交響曲のラストに相応しいものです。

手持ちの音源を手当たり次第に聴きました。

  プロコフィエフ 交響曲第3番 ハ短調 op.44

【CD音源】

Abbado-prokofiev

  クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

      (1969.4 @キングスウェイホール)

ジャケットは拾い物ですが、この曲はこのアバド盤で初めて聴いた。
日本では71年に発売されたかと記憶しますが、その頃はピーターと狼だけで、プロコフィエフなんてまったく聴こうということにはならない少年だった自分。
デビュー時から、この3番を得意曲にしていたアバドですが、いつもお世話になっております「アバド資料館」様のデータを参照いたしましたら、1963年にベルリン放送響とフェニーチェ劇場のオケで取り上げており、以来70年ぐらいまでロンドン、ウィーン、パリ、ボストンなどでさかんに指揮してます。
そこからずっと間があいて、ロンドン響で1977年のpromsで指揮をしてまして、実はこれがアバドが3番を指揮する最後だったのです。
新しさや革新性などを見出して取り上げることの多いアバドらしい「3番」という選択。
絶対に5番は指揮することがなかったが、それでも77年が最後だったとは。

今回、たくさん聴いてみて、36歳のアバドの颯爽とした指揮ぶりが思い浮かぶようなフレッシュな輝きを感じます。
ただ「炎の天使」を知ってしまったいまの耳で聴くと、これもまたアバドらしいところですが、やや穏健な感じに過ぎるかとも思いました。
時代性もあるのかもしれないが、同じホールで10年後に録音されたウェラー盤の方が、もっとぶっ飛んでいるようにも感じます。
 ところが77年の演奏が、ロンドン響のyoutube公式チャンネルで聴くことができまして、それはもっとスピード感もあり、一方で軽やかで俊敏なカッコいい演奏なのでした。
この年にシカゴでプロコフィエフのキージェとスキタイを録音してましが、もしもそこでこの交響曲をやってくれていたかと思うと・・・・

Prokofiev-weller

    ワルター・ウェラー指揮 ロンドン・フィルハーモニック

      (1977.4 @キングスウェイホール)

ウィーンフィルのコンマスから指揮者になったウェラーは、独墺系でいくかと思いきや、デッカでは誰も埋めてくれなかったロシア系の作品のレパートリーに次々とチャレンジしましたね。
そんななかのひとつがプロコフィエフの全集で、ラフマニノフはやや大人すぎる演奏でしたが、こちらはかなりナイスなカッチョいい演奏なのです。
なかでも、3番とか6,7番がいい。
よく歌いつつ、おおらかに歌いあげつつ気持ちいいなぁと思いつつ1楽章を聴いていると、3,4楽章では聴いていて前傾姿勢を取らざるを得ないほどに夢中にさせてくれる熱さとスピード感が快感となる凄い演奏になっていくのある。
憂愁や哀感は弱めですが、このアヴァンギャルド感はこの時期のプロコフィエフの大胆な作風にはぴったりだと思うのです。
70年代の半ば、ハイティンクが指揮者だった頃のロンドンフィルの好調ぶりや、デッカの定評あるキングスウェイホール録音も併せて楽しめるナイスなプロコフィエフ。

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  小澤 征爾 指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

      (1989~92 @ベルリン)

もっと無茶苦茶にして欲しくもあった小澤さんのプロコフィエフ。
せっかくのベルリンフィルなのだから、という思いもあり、もしかしたらボストンかフランス国立菅でやった方が面白かったかも・・・と思ったりもする。
全集として、プロコフィエフの作風の変化や流れを確認・実感できるという意味では、抜群の存在感のある一組だと思う。
小澤さんらしいところは愛のモティーフなどのふるいつきなるくらいな歌わせ豊かな場面、それと激しい部分の対比の鮮やかさ。
美しい都会的な3番の演奏だと思う。

Prokofiev-gergiev

  ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 ロンドン交響楽団

       (2004.5 @バービカン、ロンドン)

なんでも一挙にやってしまうタフなゲルギエフ。
ロンドンでのチクルスのライブであるが、ゲルギエフのあまり聴きたくないうなり声も聴こえ、迫真は感じるものの、やはりいつものとおり急ぎすぎで、プロコフィエフのうつろいゆく音楽の変転やときおり光る抒情などが、スルーされてほいほい進んでしまう気がするのだ。
全部はまだ見れていないが、10年後にモスクワとサンクトペテルブルクでやったチクルスの映像の方がずっと面白いし、アクもあって妙によろしい。
不思議な指揮者ゲルギエフ、そのいまを確認してみたい。
アホみたいな戦争のせいでロシアの音楽家の「今」が聴けない、確認できなくなってしまったのが疎ましい。
しかしyoutubeでマリンスキーやモスクワフィルの最近の演奏が視聴できるので、けっこう楽しんでますし、相当に頭部が進行し、怪僧のようにも見えるようになったゲルギエフは相変わらず精力的にしてまして安心もしてるし、実演もそろそろ接してみたいものです。

Prokofiev-rostropovich

   ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮 フランス国立管弦楽団

                   (1987.4 @グランドオーディトリアム、パリ)

快速のゲルギエフとうって変わって、つかみの大きな巨大さを感じるロストロポーヴィチの演奏。
爆発力も秘めていて、ときおりドカンと来るところが快感でもあり、フランス国立菅の響きが刺激的にならないので、うるさい感じにもならない。
聴けば聴くほど味のある演奏の類かもしれない。
この全集も捨てがたい魅力があるが、いちばんいいのは、2つの版を録音してくれた4番の双方の演奏。
チャイコフスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと優れた全集を残してくれたロストロポーヴィチの望郷の思いあふれる演奏に感謝です。
2楽章のしみじみ感は、この演奏が随一。

Prokofuev-37-karabits

    キリル・カラビッツ指揮 ボーンマス交響楽団

        (2013.7 @プール、ドーセット)

プロコフィエフと同じ、ウクライナが故郷の指揮者カラビッツ。
現在の最高のプロコフィエフのスペシャリストと思う。
一音一音を大切に扱っているのがよくわかり、地にしっかり足がついていて、着実・丁寧に、エモーションに流されずに音楽に真摯に打ち込む様子がよくわかる。
ついつい、ガーーっと勢いやリズムに乗ってやってしまいそうなところでも着実な歩みを感じさせるし、それが逆にプロコフィエフの音楽の良さ、本質が浮かび上がってくる、という仕組みに聴こえるのだ。
とてもクレバーな指揮者だと思いますね。
美しい愛の旋律もほんとに美しく演奏されるし、その後の移り変わるあらゆる旋律やモティーフがオペラを聴き馴染んだ耳からすると、あるべき姿で出てくる感じ。
そして何よりも録音がよろしく音がいいし、オーケストラもウマいもんだ。
ほめ過ぎだけど、カラビッツの演奏は放送などでもここ10年ぐらいかなり聴いてきたし、2019年のエルガーの「ゲロンティアスの夢」などは涙が出るほどに感動した。
彼のプロコフィエフの全集は、いまのところNo.1だな!

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エアチェックと映像でもたくさん持ってます。

【映像】

・ゲルギエフとキーロフの変態的な演奏が目で見えて面白い。
・フランス人指揮者ラングレーとシンシナティ響のセンスあふれる演奏もよい。
ラングレーとシンシナティはいいコンビだったようだが、正規音源がないのが残念で、いまはセナゴーが指揮者となった。
この作品を得意とするインキネンと北ドイツ放送フィルも手の内に入った演奏で、インキネンは都響でこれを取り上げる予定なので聴きにいきたい。
あとネットでは、プロコフィエフを得意とするアンドリュー・リットンとベルゲン・フィルの映像もストリーミングで観れます。
これが最高の演奏で、小太りになってしまったリットンだが、その指揮ぶりは俊敏で熱く、ベルゲン・フィルもクールでうまい!
リットン氏もロシア物を得意とする指揮者だが、本国の英国ものを今後は極めていただきたいものです。

【エアチェック

ユロフスキ(息子)とベルリン放送響の2023年の最新の演奏が、切れ味とともに「炎の天使」を知り尽くした高感度のすさまじい演奏なのであった。
このコンビが来日するのに、日本人人気ソリストとの組み合わせとなり、メインが名曲集なのが勘弁して欲しいわ!
同じ2023年の演奏で、promsでのグスターヴォ・ヒメノとBBC響の演奏も迫真の名演で、ヒメノ氏の実力をいかんなく確認できる。
ヒメノはリセウ劇場で「炎の天使」の上演を指揮していて、やはりそうした積み重ねあってのもの、こちらの上演映像も観れる。
ヒメノさんは、トロント響の指揮者となり、今後ブレイクすると思う。
・アバドの77年演奏は先に触れたとおりだが、イタリア人指揮者が好む3番。
・シャイーがpromsで90年にコンセルトヘボウと演奏したものも録音できていて、まだ切れ味ゆたかな指揮だったシャイーを確認できる。
・ムーティさんも円熟の巨匠となっても気合とともに、シカゴで2018年に指揮してます。
こちらは恰幅がよくなって、テンポも遅くなり壮大かつシカゴの鋼のようなサウンドが楽しめる。
あとアメリカのオケでは、サンフランシスコ響をスロヴァキアのヴァルチュハが振った2018年録音は、若々しい表情付けと清々しさがよろしい演奏だった。

プロコフィエフの交響曲といえば、5番ばかりがコンサートのメイン曲に取り上げられるばかりであるが、この3番もショスタコーヴィチのすべての交響曲が広く受け入れられたいま、誰が聴いても面白く聴くことができる作品だと思い、日本のオケでも外来でもどんどんやって欲しいと思いますね。

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この数週間、「炎の天使」、交響曲第3番を徹底的に聴きまくったせいか、さすがに耳が疲弊しました・・・

プロコフィエフから少し離れて、こんどは何を聴こうか。

その前に今月はコンサートを二つ、4月もノットのブルックナー、神奈フィル・ショスタコとかも続きますし、5月には「ナクソスのアリアドネ」@静岡のチケットも手当できました。

こちらは、中井町の同じ場所で、目を海側に転じ、大島がこんなにでっかく見えた図です。

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2025年3月 8日 (土)

富士と早咲きの桜

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早咲きの桜、河津桜と富士。

暖かい日が続き、冠雪もだいぶ溶けてましたが、また寒さが来て真っ白に。

雲が残念ですが、この時期はこうした雲がかかりやすく、そうしたときには強風となります。

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神奈川県の大井町のゆめの里という里山です。

車で20分ぐらいの距離なので、この日を逃すと晴れがないと思い立ってすぐに行けました。

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丹沢連峰も前日の雪が残っていて、神奈川にありながら雪国のような景色。

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これもまた雪国の春のようなイメージの写真が撮れました。

こんな景色を眺めつつ、頭のなかにはプロコフィエフの音楽が日々鳴ってまして、どんだけ中毒性あるんだろ、と思いますね。

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あと1本、プロコフィエフをやって、はやく普通の頭に切り替えないと本格的な春に聴きたい音楽が間に合わない・・・

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