2026年3月 5日 (木)

マリア・キアーラ アリア集

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満開の河津桜🌸

隣の隣の町、大井町の山頂は毎年こうして桜が満開となり、本来なら富士もきれいに見えるのですが、この日はあいにく薄曇り。

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ソメイヨシノよりもピンクが濃く、よけいに春の訪れを感じさせますな。

近くのひな祭り会場で甘酒もいただきましたよ。

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 マリア・キアーラ アリア集

  ドニゼッティ 「アンナ・ボレーナ」
  ベッリーニ  「清教徒」
  ボイート   「メフィストフェーレ」
  プッチーニ  「ラ・ボエーム」「マノン・レスコー」「トゥーランドット」
  
      チレーア   「アドリアーナ・ルクヴルール」
  ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」
  マスカーニ  「友人フリッツ」
  レオンカヴァッロ 「パリアッチ」
  カタラーニ  「ラ・ワリー」
  マスカーニ  「イリス」

      S:マリア・キアーラ

  ネロ・サンティ指揮 ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団

  クルト・ヘルベルト・アドラー指揮 ナショナル・フィルハーモニー

        (1971.6,9 @ゾフィエンザール、ウィーン
         1977.7 @ヘンリー・ウッドホール、ロンドン)

録音にあまりに恵まれなかった不遇の大ソプラノ、マリア・キアーラを久しぶりに聴く。
1939年ヴェネチアの北あたりのオデルツォという美しい町の生まれ。
まだご存命でして、ともかくデビュー時から美人の誉れ高く、数年前のお姿も確認できましたが、じつに美しくお歳を重ねておいでのご様子でした。
リリコからスタートして、80年代にはアイーダを歌うまでになりドラマティコとなった、その経歴は、先輩のミレッラ・フレーニと同じ。
スコットが1934年、フレーニが1935年、それぞれの生まれなのでキアーラはその少し下。
キアーラと同時期に鮮烈なデビューをし、レパートリーもかぶったリッチャレッリは1946年の生まれです。
ちなみに、リッチャレッリの生まれ故郷はヴェネチアの南西部にあるロヴィーゴという町で、ふたりは案外と近くの生まれなのでした。

少し後輩のリッチャレッリが、カラヤンやアバドに重用され、たくさんのレコーディングに恵まれたのに、キアーラには正規録音がほんとに少なく、あまりに不当で無念すぎる。

71年にデッカに2枚のアリア集、72年にオイロディスクに「蝶々夫人」、76年にデッカにW.フェラーリの「スザンナの秘密」、77年にデッカにヴェリスモアリア集、そして86年の「アイーダ」。
これがすべてで、これしかないのである。
レパートリーはかなりひろく、純正ベルカント系からヴェルディ、プッチーニ、ザンドナイ、ワーグナー(エルザ)、ヘンツェまでを歌った履歴があるという。
1989年にはアレーナ・ディ・ヴェローナ引っ越し公演がバブリーにもありアイーダで来日しているが、当時の自分は、代々木の体育館での見世物みいな上演を小ばかにして観ようとも思わなかったので、残念なことをしたものだ。

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アリア集はレコードとして国内発売されず、キアーラの日本でのレコードデビューは、73年発売の「蝶々夫人」です。
デッカがあまり積極的にならないなか、ドイツのレーベルから、ドイツのオケ、ドイツオペラ系の歌手たちと録音された蝶々さん。
3枚組で当時中学生だったので、なかなか手が伸びなかった。
一方のリッチャレッリはRCAレーベルが推す看板歌手として次々に新録音がでてました。

デッカがもう少し積極的に動いていれば、とも思いますが、キアーラのマネジメントサイドの力量などもあったのかもしれない。

うらんでもしょうがないから、残されている音源を大切に聴くとします。
今回は、アリア集ですが、「蝶々さん」と「アイーダ」は近くまた取り上げるつもりです。

今回のCDは3枚残されたアリア集のうち2枚分を収めたもので、あと1枚はヴェルディですが、未入手であります。

キアーラの声は、ともかく清潔で清純そのもの。
ドニゼッティやベッリーニに聴かれる、若き日のフレーニをも思い起こすようなリリシズムにあふれたベルカント唱法はまさに耳も洗われるほどにフレッシュな魅力にあふれてます。
「清教徒」のエルヴィーラのアリアなど、まことに素晴らしく、デッカはサザーランドでなく、キアーラで録音すべきだったと叱責したくなる。

得意のプッチーニでは、ドラマテックな歌い方よりは、抑制された静的な感情表現がとても慎ましく、愛すべきプッチーニの各タイトルのロールをあまりにも素敵に歌ってます。
ミミなんて、もう理想的な感じでして、ほんの数分のアリアのデリケートな表現に耳をそばだて涙してしまうのでした。
ほんと美しい声だし、ガラスのような儚さもにじませる声なんです。

一転、アドリアーナやマッダレーナあたりになると、ドラマテックな切れ味や恰幅のいい表現力にこの時期のキアーラはまだ不足。
でも無理せず、優しく彼女ならではの声で自分のできる表現に徹しているのが好ましく、ピュアな情感にあふれてます。

リッチャレッリの声は、ややほの暗さ感じる低音が魅力でドラマテックな役柄では常に無理がつきまとった感じがしていたが、キアーラは蝶々さんとアイーダに聴かれるとおり、自分のリリカルな声を活かした優しさと瑞々しい感情表現につくしていて、クレヴァーな歌手だったと思います。

なんどもなんども言いますが、録音が少ないのが悔しすぎます。
キアーラさんには、美しく、いつまでもお元気でいて欲しいです。

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少ししたら富士が顔をだしてくれました。

アンジェリカを歌うキアーラさん。

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2026年2月23日 (月)

神奈川フィルハーモニー 定期演奏会 沼尻竜典 指揮

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世間の連休初日の横浜は、陽気にもめぐまれ、多くの人で賑わってました。

神奈川フィルの定期演奏会へ、ローマ体験に行ってきた4276

1か月間続けた当ブログでの「イタリア」シリーズ。
アバドのメンデルスゾーン→ルスティオーニのローマの祭り→アバドのチェネレントラ→ルスティオーニのヴェルディ→レスピーギのオペラ。
そして仕上げは「ローマ」新説4部作。

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 神奈川フィルハーモニー みなとみらいシリーズ定期第411回

  ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」op.9

  レスピーギ  交響詩「ローマの松」

         交響詩「ローマの噴水」

         交響詩「ローマの祭り」

   沼尻竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

      コンサートマスター:石田 泰尚

        (2026.2.21 @みなとみらいホール)

ローマにまつわる4部作。
レスピーギの三部作を一度にやるのはよくあることですが、ベルリオーズを加えたところが、今回のプログラムの肝です。
ベルリオーズを一緒にやるのは、ploms2014で、デュトワがロイヤルフィルを指揮したものを録音済みですが、そのときはさらにウォルトンのイタリアにまつわる協奏交響曲も加えたという強烈さ。
打楽器、鍵盤楽器多数のフルスペックのオーケストラを要するので、やるならすべてやってしまうのがよろしいようで。

陽気なオペラ「ベンヴェヌート・チェッリーニ」の素材を使った「ローマの謝肉祭」はともかく楽しい演奏。
なにも考えずに受け入れるのがいちばんで、ダブルのタンバリンの妙技も実演では引立ちます。
鈴木さんのコールアングレもほのぼのしててよかった。
この曲は、短いながらベルリオーズならではの歌謡性とハチャムチャ具合をいかに両立させるかが聴きものですが、そこは沼尻マエストロ、神奈フィルの明るいサウンドを得て万全でした。

ベルリオーズから80年の時を隔てた「ローマの松」、その第1音から感じる年月の経過。
音の煌びやかさや、手に取るようにわかるリアルな音楽描写、このあたりは多様な楽器やオーケストラ能力の進化などによるものでしょう。
まばゆさでいけば、神奈川フィルの持ち味だし、みなとみらいホールの明るい響きもおおいにプラスされるので、最高の「松」の演奏が展開されました。
舞台外から聴こえるグレゴリオ聖歌を奏でるトランペットも神々しく見事に決まり、その後の分厚いサウンドも決して威圧的でないまでも目覚ましいものがありました。
そして静まるなか奏でられる斉藤さんのクラリネット、この幻想的なシーンの展開が極めて美しく、いつまでもどこまでも浸っていたいと思いました。
レスピーギの抒情性に着目すると他の作品への視野も広がり、併せて古代の旋法なども絡めて、私の興味はその歌曲やオペラへの興味へと向かったのでした。
そんなきっかけは「ジャニコロの松」なんです。
ナイチンゲールのさえずりも、ホール内のどこからともない方向から聴こえてきて至福のひと時でございました。
そしてひたひたと迫る行進と高まりゆくクレッシェンド、もうあとは眼前の素晴らしき展開に身も心も任すのみ。
決して濁ることのないクリア―な神奈フィルサウンドのシャワーを浴びつくしたのでございました。
あーー、気持ちええーー
コールで出てきた、鳥さんの担当、お魚にみえたけど可愛い鳥のイラストと鳥笛を掲げて4人。
録音だとばっか思ってた、リアル鳥さんでしたよ。

「ローマの噴水」は3部作のなかではいちばん渋いところ。
しかし、幻想味と抒情感では、この曲が随一なので、これもまたかなフィル向き。
朝のまったりとした雰囲気が室内楽的に表現され、各ソロの瞬きも素敵です。
それを打ち破るホルンも見事に決まり、ピアノの活躍も心地よく聴こえるトリトン噴水。
ここから始まるレスピーギの音楽の巧みさを沼尻さんは着実な盛り上げで表現。
音がだんだんと眩しくなってゆくのが丸わかりなのがライブのいいところで、まさに音のシャワーで水しぶきを感じることができるという贅沢。
真昼のトレヴィの高揚感は半端なかった!
オルガンの低音、弦楽器のものすごいパッセージの連続を各奏者さん、とくに石田コンマスの激しい動きを見てるだけで興奮してしまう自分。
その後の急速な静まりと、そこに伴うどこか寂しい雰囲気と安らぎ、この落差の表現も見事。
暗くなってきたので、このままお家に静かに帰りましょう・・ということにはならないよお客さん、祭りだよ!

ということでいちばん大好きな「ローマの祭り」が、楽員さんが補充され準備万端。
指揮台にあがるや、すぐさま開始されるローマ時代への異次元パラレルワールド。
この切迫感ある「いきなりローマ祭り」の始め方は気にいったぞ。
暴力的なチルチェンセスはうるさくならず、弦主体の祈りの歌にかぶる金管や打楽器の咆哮、音が重なってもぜんぶクリアーなところが実によく、沼尻さんの耳の良さと分厚くならいオーケストラの持ち味ゆえか。
寂し気な五十年祭は、ここでも各ソロの巧みさ、独特のレスピーギのエキゾシズムなどなど、見て聴いて楽しむのでした。
徐々に増し行く喜びと祭りへの予感、このあたりのいろんな要素が同時進行しつつ歓喜への方向に持ってゆくレスピーギの筆の冴え。
実演だとほんと楽しく、音楽のすぐれた出来栄えが丸わかりなのです。
夕暮だけど、音楽は酒気を帯びてウキウキしてきたぜ、十月祭。
そして始まりましたよ神奈フィルのウィンドアンサンブルによるセレナーデの蕩けるような美しさと豊かな歌心。
マンドリンの第一人者、父・青山忠さん、先だっての都響の祭りでも登場。
マーラーの7、8、大地の歌でも必ず青山さん。
この方、この親子なくして「祭り」と「千人」「夜の歌」は日本では成り立ちません。
ありがたくイタリアのそよ風をマンドリンで味わい、そのあとは石田コンマスと上森チェロの素敵すぎるソロ。
徐々に漂うカーニヴァル臭、主顕祭。
素っとん狂な音楽に転じるこの鮮やかさも素晴らしく、いやもうワクワクしてきた。
やべえ、手回しオルガン風なところで、身体が泳いじまった。
ユニゾンによる大アリアに酔い、狂乱の一途をたどるどんちゃん騒ぎに色を添える、日本人の心くすぐる多彩な打楽器の大活躍のお囃子に目をみはりつつ、私はもう興奮の坩堝でして、案外冷静に指揮するマエストロよりも、久しぶりに眼前にした石田コンマスの立ち弾きや、オーケストラの皆さんを見回しつつ祭りに参加、堪能したのでござる。
思わず「ブラボー」!
先月のルスティオーニの「祭り」もすさまじかったが、今回は、ローマの旅の終結という完結感もあり、極めて満足感も高く、ホールが一体となった高揚感に満たされたのでした。

あー、おもしろかった!

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アフターコンサートは、久々の神奈フィル応援メンバーに、遠来の音楽仲間も交え、横浜地ビールで乾杯🍺

あんな興奮のあとは、ウマすぎるだろ。

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街はもう夜となってました。

楽しかった「ローマ物語」

過去記事

「ルスティオーニ&都響 ローマの祭り」

「ローマの祭り 聴きまくる」

「川瀬健太郎 ローマ三部作」

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2026年2月20日 (金)

大阪フィルハーモニー東京定期演奏会 尾高忠明 指揮

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ホール前の花壇も春を先取りする色どりになってきました。

大阪フィルの東響定期オール・エルガー・プログラムを聴いてきました。

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  大阪フィルハーモニー 第58回 東京定期演奏会

    エルガー 弦楽のためのセレナード ホ短調 op.20

      「海の絵」 op.37

     Ms:林 眞瑛

       交響曲第3番 ハ短調 op.88
                          (A・ペイン補筆完成版)

  尾高 忠明 指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団

        コンサートマスター:崔 文洙

                             (2026.2.17 @サントリーホール)

エルガーの世界的権威、尾高さんらしいプログラム。
札響時代の東京演奏会でもエルガーは何度か取り上げてましたが、2008年の演奏会では、RVWとディーリアス、そして3番という組み合わせでした。
この日は、3回にわたって満場の聴衆を集めたインバルの千人と被ることになりましたが、平日という同じ日にともにクオリティーの高い演奏会が行われている東京という都市に驚きも禁じえません。

エルガー35歳の愛すべき佳曲、弦楽セレナード愛する妻アリスに捧げられた。
エルガーらしい気品と優しさがたっぷり詰まった名作、そのメロディアスで抒情的な曲想を尾高さんは、まさに優しい目線でもって指揮をしてました。
大フィルストリングスの柔らかな響きもとても素敵でして、どこか間もない春を予見させる、そんな演奏でした。

コンサートでは初めて聴く「海の絵」
ふだん音源で聴いてるとあまり意識しない打楽器を目にすると案外と大きなオーケストラ編成であることに驚き。
予定された昨年にマタイで素晴らしい歌唱を聴いたアンナ・ルチア・リヒターが健康上の理由で来日不可となり、林眞瑛さんが引き継いだ。
初めてのお名前だったのですが、初「海の絵」だったという彼女の歌に大いに惹かれ、とても感心をしました。
「海」をめぐる5つの連作歌曲ですが、歌詞の内容自体は小難しいものではないが、そこに付けたエルガーの瀟洒ともとれる音楽がすばらしい。
短いけれど、これもまた愛らしいアリスの詩につけた2曲が可愛くて、そして素直な林さんの歌が微笑ましくほっこり、オーケストラも泣きたくなるほどに優しい。
戻っての1曲目、精妙なるオーケストラ、尾高さんは抑制された響きを低弦のうごめきでも巧みに引き出し、林さんのスタートを支えた。
3曲目は神々しいオーケストラにのって、林さんの明瞭な発声で聴く英語の語感の素晴らしさも堪能。
いろんなモティーフがさまざまに出てくるエルガーの慎ましいなかに、豊かなオーケストラの展開に感動。
4曲目も2曲目に通じる可愛さがあって、短いかれど、そのいいリズム感に体が反応しそうになってしまう。
一転、エルガーの書く終章の素晴らしさをここでも味わえる5曲目。
決然とした歌唱、ストレートな声がよく響く林さん、いちばんの高域をいくつか通過しなければいけないけれど、いずれもよく決まり、それを支えるキリリとしたオーケストラ。
高揚感も味わえ、わたしは、この歌曲集がこんなにいい曲だったんだと改めて思い、併せて林さんの大健闘にブラボー一声。
多くのブラボーもかかりましたよ!

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世界一の「3番」の指揮者といってもいい尾高さん。
大阪フィルとのエルガーシリーズの一環でもあり、ライブレコーディングも本拠地での演奏ととも行われた様子。
この演奏を聴いて確信した。
この交響曲は、エルガーテイストの作品ではなく、完全に「エルガーの3番の交響曲」なのだと。
尾高さんの自信にみなぎる的確な指揮、大フィルの全霊をかけた熱意あふれる演奏、これを目の当たりにして。

1楽章冒頭のあのひきづるような特徴的な旋律からして尾高&大フィルにはノーブルな慎ましさと抑制された美しさとがある。
いくつもの海外ライブやCDを聴いているが、この冒頭部を結構激しくやる演奏があり、その結果において次の柔和な第2主題との対比が鮮やかになるというものだが、札響との演奏に比してもなお、尾高さんの第1主題と第2主題の扱い、その対比はなだらかで劇的になることを拒絶しているみたいだった。
このふたつの主題が交錯する長い1楽章、曲を完全に理解し愛情を持って指揮している尾高さんの動きは少なく、まるで音楽のなかのエルガーと見つめ合っているのかと思うくらいで、その思いを大フィルも受けとめて夢中になって演奏しているのが奏者の皆さんをみていてよくわかった。
上昇する音型で終わるこの楽章の最後の飛翔感は見事に決まり素敵だった。

可愛らしい2楽章、打楽器の活躍も目視できて楽しいし、中間部との対比もさわやか。
そして、私がこの作品の白眉と思っている3楽章。
曇り空の沈鬱ななか、見え隠れする抒情、それが瞬きするように現れては消えてゆくその明滅感。
そしてクラリネットに導かれでてくる愛おしくなる旋律、その後に橋渡しされてゆく美しいシーン。
ともかくどこも美しい瞬間が連続し、また沈滞ムードに陥り、シリアス度を増してゆくし、はたまた幻想味・ファンタジー度合いも深める。
こうした流れを尾高さんの指揮は、淡々と振りつつも指揮棒、指先、すべてのタッチに優しさと共感がにじみ出ている。
聴いていて、これは枯淡の域にある、そう枯山水のような渋い水墨画の世界だと思った。
欧米人には描けない日本人ならではのエルガーなのだ。

深淵な3楽章とのギャップがでかい終楽章。
金管のファンファーレで曇り空が晴れてしまうような鮮やかさを感じる。
大フィル歯切れのよさ、スカッとした切れ味をここでは堪能。
一方でエルガーらしいユニゾンの豪放な心地よさと、慈しむような旋律の歌いまわしなど、次々に堪能。
エルガーのスケッチが少なく、諸作を参考にしたやや張り合わせ的なイメージを受けることの多い4楽章ですが、この日の演奏にはそんな雰囲気はまったく感じさせないほどに、スムースであり毅然とした演奏からは隅々までエルガーを演奏しているという自信と気概が感じられた。
なによりも奏者のみなさんの表情がとてもよくて、音楽を楽しんでいるのがわかるし、尾高さんに全幅の信頼を寄せて、「尾高のエルガー」をともに打ち立てようという姿勢が眩しかったのです。
1楽章の冒頭主題と、ドラの一音。
長い静寂がありがたく、感動もひとしおだった。

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エルガー・ナイト、実にいい演奏会でした。

以前のように大阪・関西に行かなくなってしまったので、早くも来年の東京定期が楽しみだ。

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2026年2月 6日 (金)

レスピーギ 「ラ・フィアンマ」(炎)

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ある日の壮絶な夕焼け空の太陽。

妖しくも、なにか起こるんじゃないかと心配してしまったのですが、なにごともなくその夜も次の朝も平準でした。

2026年はレスピーギ(1879~1936)の没後90年。
そんなにエポックな節目でもありませんが、演奏会ではそこそこに取り上げられます。

もちろんローマ三部作ばかりが有名で、だれしもが好きな作品でありますし、私も例外ではありません。
しかし、レスピーギはイタリアの作曲家であり、オペラ作曲家でもありました。
そこに着目して、以前より何度も記載してますが、プッチーニだけじゃないヴェルディ以降のイタリアのオペラ作曲家たちを務めて聴くようにしてました。

そんななかで、レスピーギの存在はかなり後期にあり、同時代のイタリアオペラ作曲家としては、マリピエロやピッツェッティらがいて、さらに後輩としてはメノッッティあたりとなります。

56歳という短い生涯にあって、オペラ的な作品は9作残したレスピーギ。
なかなか音源を集めずらいのですが、最近は映像で登場するようにもなり、徐々にコレクションできてます。
今回は完成された最後のオペラ、「ラ・フィアンマ」を取り上げました。

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  レスピーギ 歌劇「ラ・フィアンマ」 ≪炎≫

    シルヴァーナ:ネリー・ミリチオウ
    ドネッロ:ガブリエル・シャーデ
    エウドシア:マリアーナ・ペンチェーヴァ
            バジーリオ:デイヴィッド・ピットマン=ジェニングス
    アグネーゼ:チンツィア・デ・モーラ
    モニカ:オルガ・ロマンコ
    ヴェスコーヴォ:パータ・ブルチュラーゼ ほか

  ジャンルイジ・ジェルメッティ指揮 ローマ歌劇場管弦楽団
                   ローマ歌劇場合唱団

        (1997.12  @ローマ歌劇場)

イタリア人として祖国の風土、歴史、街々を愛したレスピーギ。
ローマ三部作でローマを謳歌した名作を残したが、レスピーギの後半生の心のなかにあった都市はラヴェンナでしょう。
ローマとは半島の反対側、アドリア海に近いエリアでボローニャの東側に立地するのがラヴェンナ。
「ラ・フィアンマ」の舞台はそのラヴェンナです。

1934年、レスピーギの心臓麻痺による56歳の早過ぎる死の2年前にローマで初演。
妻エルザとこのオペラの台本作者グワスタッラと3人でラヴェンナに長期滞在し、この歴史ある街に魅せられたレスピーギ。
オペラの時代設定は7世紀で、その頃はビザンチン帝国=東ローマ帝国と西ローマが対決していた頃。
ラヴェンナはコンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国の総督府があった都市で、帝国は完全支配下になっていなかったイタリア半島をなんとか統治するためにラヴェンナにその機関を置いた。

そんなラヴェンナだから、ビザンチン様式の史跡やモザイク画など、初期キリスト教の東方の文化をにじませた中世前期の色合い残るステキな街とのことで、世界遺産の都市ともなっている。
この機にいろいろ調べてみたけど、メジャーなイタリアの都市を外して、ラヴェンナとか近くのフェラーラを観光するのは実に魅力的だと思った。

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「ラ・フィアンマ」の物語の内容は、ラヴェンナを舞台に、総統一家の悲劇と外部が攻め入る民族との抗争、さらにいちばん大きな軸は、魔女狩りをドラマの核心として描いている。
7世紀の頃は、もしかしたら12~13世紀の中世時代の本格的な魔女狩り・魔女裁判・異端審問などとは違ったかもしれず、多分に台本のフィクション性が高いものとも思われる。
その原作は、ノルウェーの作家ハンス・ヴィアーズ=イエンセンが1908年に書いた「アンヌ・ベダースドッター」という小説で、英訳されてからは「魔女」というタイトルになったもの。
1590年にベルゲンで起きた史実をもとにしたもので、継母が義息子と関係を持ち、そこに魔法がからんでいたとして魔女と告発されて火刑にあってしまう女性を描いている。
 レスピーギのオペラは、それがこの物語の中心となっている。

登場人物を整理・紹介しときます

    シルヴァーナ:総督バジーリオの年若い妻
    ドネッロ:総督バジーリオの前妻との息子、シルヴァーナと幼馴染
    エウドシア:総督バジーリオの母にして、シルヴァーナの義母
             バジーリオ:ラヴェンナ総督府の長
    アグネーゼ:魔女とされ火刑。シルヴァーナの母の知り合い
    モニカ:バジリオ家の若い使用人
    ほかに、悪魔祓い、司教、息子が急逝した母親

東と西の両ローマ帝国の対立軸のなか、バジーリオは皇帝の命により、首都コンスタンティノープルを離れ、ラヴェンナに長期赴任している。
妻は亡くなり、息子のドネッロはコンスタンティノープルで政治や戦略を勉強中。
バジーリオは粗末な家庭出身の若いシルヴァーナと結婚することになり、母エウドシアは最初から反対していた。

第1幕

義母エウドシアは、義理の娘が家政婦に対し必要だとする厳しさが足りないと叱責する。
彼女は亡くなった息子の前妻を、高貴な貴族出身といこともあり規律の模範として考えている。
シルヴァーナは義母のそんな態度に息苦しさを感じ、家の使用人の一人、モニカに打ち明ける。
その時、群衆から怒りの叫び声が聞こえてくる。
アグネーゼ・ディ・チェルヴィアを火刑に処せ、彼女は魔女だと主張する者たちだ。
使用人の娘たちが飛び出して行くと、追いかけていた老婆が突然シルヴァーナの前に現れ、群衆から自分を救い、かくまってくれるよう懇願する。
シルヴァーナは最初は拒否するが、アグネーゼがシルヴァーナの母親もかつて魔女の容疑をかけられていたことをほのめかした途端、その願いに屈し、彼女を匿うことにする。
 バジリオの息子、ドネッロがラヴェンナに帰ってきた。
同い年のふたり、シルヴァーナはバジリオに、まだ子供だった頃に会ったことがあると告げる。
その時も二人は互いに惹かれ合っていて、今回の再会もまさにその通りの展開となる。
エウドシアがやってきて再開した二人の会話に割り込んで、孫のドネッロを歓迎する。
 その時、教会の悪魔祓いに率いられた群衆が、アグネーゼを追って家に押し寄せてきて、彼女が幼い少年チェザーリオに魔法をかけ、死においやったと母親は叫ぶ。
ついに群衆は老女を見つけ出し、火刑場へと引きずり出す。
アグネーゼは厳格なエウドシア、息子のバジリオ、孫のドネッロ、そしてシルヴァーナにも併せて呪いをかけ、いつかお前も火刑に処されると予言し、火刑に処せられる・・・・

第2幕

ドネッロは使用人のモニカと情事を始めていた。
シルヴァーナはこれを知ると、モニカに厳しくあたり、嫉妬に狂ったようになり非難し、ついに友人のようだったモニカを修道院に追放する。
一方、バジリオは息子にローマ教皇に対する戦いに加わるよう命じ、コンスタンティノープル行きを考えさせる。
アグネーゼが炎に倒れる少し前に、シルヴァーナの母親と総督との関係について奇妙なほのめかしをしていたのをシルヴァーナは気にしていた。
バジリオはついにシルヴァーナに、彼女の母親が魔法を使って彼を家に誘い込み、当時まだ成人にもなっていなかった自身の娘と結婚させたことを告白する。
数年後、シルヴァーナの母親が魔女の罪で告発されたとき、バジリオは彼女を擁護し、火刑から救った。
しかし、彼は当時彼女が自分に呪いをかけたと確信しており、自分の信仰によれば罪人を火葬場からは救えたが、地獄の煉獄からは救えなかったという思いにいまでも苛まれていると告げる。
 混乱したシルヴァーナは、なぜ母の死に悲しみを感じなかったのかを理解し始める。
同時に、彼女は母の魔力を受け継いでいると信じはじめ、夢の中で願うことが実現するのは、その力によるものだと確信する。
彼女は義理の息子ドネッロをいまここに出現させようとすると、突然彼が目の前に現れる。
二人は抱き合い、一夜を共に過ごす。

第3幕

シルヴァーナとドネッロは情事を続け、互いに離れることができないくなっていた。
エウドシアはとっくにその事実を知っていたが、息子バジリオのことを思い秘密にしていた。
しかし、彼女は政治的影響力を行使し、いまこそドネッロをコンスタンティノープルへ帰還させるよう仕向けた。
孫にこのことを伝えようとした日、彼女は孫の部屋でシルヴァーナを見つけてしまう。
明かになった二人の不倫関係はもはや隠し通すことができなくなる。
義母の陰謀によってドネッロと引き離されることを知ったシルヴァーナは、怒りと絶望に打ちひしがれ、バジリオに不倫の事実を白状する。
そしてバジリオと過ごした幸せな瞬間はまったくなく、彼の誘いに屈するたびに彼を軽蔑していたと告げ、バジリオを罵倒する。
老いたバジリオは精神的に混乱し崩壊し、心臓麻痺を起こしてしまいそこで息を引き取る。
 エウドシアは息子の死をシルヴァーナのせいにし、彼女を殺人鬼、さらには魔女と罵倒する。

暴徒と化したの群衆の裁きに引き渡されたアグネーゼのときとは異なり、シルヴァーナは司教のもと正式な裁判を受けることとなる。
彼女は姦通に関しては告白するが、魔女の嫌疑は一切を否定する。
彼女の自己の弁護は愛の炎に屈したことが唯一の罪、ドネッロと彼女は愛で結ばれており、この愛に生きると主張。
ドネッロも同じ思いとなり、感動してシルヴァーナを弁護すると、司教と聴衆は心動かされ、シルヴァーナを無罪放免にしようとする。
しかしそのとき、義母エウドシアが口を開き、魔女として有罪判決を受けたアグネーゼとの関係、そしてシルヴァーナの魔女のような母親にまつわる噂を、激しく言いつのり、その過去を全員に思い出させる。
そして最後に、彼女は「魔女!魔女の娘!」という言葉で告発を終える。
ドネッロもこといたっては、シルヴァーナを疑い始め嘘だと言ってくれと責め、シルヴァーナはもはや彼を信頼できないことを悟る。
愛への夢は砕け散ってしまい、自暴自棄の心境となったシルヴァーナ。
司教が十字架を彼女に差し出し、魔女を糾弾する最後の機会を与えた時、彼女はその誓いの言葉を発することができない。
彼女の沈黙は告白とみなされた。
人びとは、神は正しく下された!魔女!と叫ぶ。
シルヴァーナは火葬場へと運ばれる・・・・

                

救いのない絶望的なドラマ。
2度も魔女狩りの火刑があり、不倫あり、突然死あり、義母のいびりあり、嫉妬あり、愛のシーン・・・・
人間の心のなかにある迷信や超常現象的なものに対する恐れと不安のおののき、そして期待と不安への憧れ。
そんな心情もあって、このオペラの初演とその後の各地で世界戦争前夜当時の上演ブームにつながったんだと思います。
それは人々の集団ヒステリーでもあり、キリスト教と邪教との聖邪の対立、厳しい家父長制、女性の心の自立、フェニミズムなどなど、いまでも通じる普遍的な事象をあらわしてもいて、このオペラに社会性をまとわらせた演出が可能であることも証してます。
忘れ去られたこのオペラ、ローマでのライブをメインに聴きましたが、2024年のベルリン・ドイツ・オペラ上演も視聴できました。
研ぎ澄まされたクリストフ・ロイのシンプルな演出の説得力と歌手たちの迫真の演技があまりにも素晴らしく、度肝を抜かれました。

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レスピーギの音楽の素晴らしさ。
冒頭から宿命的なサウンドで、このオペラの逃げようのない苛烈さをすぐさまに感じさせる。
そしてすぐさま、エキゾシズム漂う東方ムードに覆われる使用人たちの女声の歌声。
歌手たちには、アリアなどひとつもなく、独白的な場面でつながれているが、義母エウドシアのまるでワーグナー作品のオルトルートの存在を思わせるような邪悪な雰囲気の音楽や、ドネッロのやたらと甘い役回り、表向き強権ムードのバジリーオ爺さんが、若い妻にはメロメロだったりするシーンなど、ともかくよく書けてる。
そしてヒロインのシルヴァーナの音楽は、とても同情的な側面で書かれている一方で、暗い情念をにじませるような二面性もあり、この役柄を歌いこむ大変さも感じるのであります。
交響詩でも存分に発揮されているオーケストレーションの見事さは、オペラでも各シーンの鮮やかなまでの描き分け、事象を彷彿とさせるリアル感など、ここでも満載です。
 あとなによりも、美しいのは愛を語るシーンでのとろけるような甘美かつ抒情的な音楽。
1幕の若いふたりが、子ども時代を語るシーンでは森や鳥のさえずりなども模写され美しいく清々しい一方、結ばれてしまったあとの3幕での二重唱は濃厚なトリスタン的後期ロマン派の音楽となっている。
 そして、1幕の最後、終幕でのエンディングの強烈さもすさまじいです。

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97年のローマでのライブは舞台の熱気をそのまま感じる優れもの。
ロッシーニ指揮者でもあり近現代ものが強かったジェルメッティは2021年に75歳で亡くなってます。
存命ならばイタリアを代表する巨匠であったでしょう。
ここでのレスピーギは、切れ味よろしくローマのオーケストラとは思えないくらいに鋭い音がでてるし、また歌心もたっぷり。
歌手では実績あるミリチオウが圧倒的な歌声で、清楚さから妖気と諦念もうまく表現していた。
ほかはデコボコあり。

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        シルヴァーナ:オレシア・ゴロヴネヴァ
    ドネッロ:ゲオルギー・ヴァシリエフ
    エウドシア:マルティナ・セラフィン
             バジーリオ:イヴァン・インヴェラルディ
    アグネーゼ:ドリス・ゾッフェル
    モニカ:スア・ジョー   ほか

  カルロ・リッツィ指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
             ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団

      演出:クリストフ・ロイ

        (2024.9.29  @ベルリン・ドイツ・オペラ)

私のヒットゾーンの作品を次々と上演してくれてるベルリン・ドイツ・オペラでのライブ。
ドイツ放送から録音し、さらにその舞台もネット視聴することができました。
この視聴で、ラ・フィアンマの作品理解をかなり深めることができた。
無駄なものをいつもそぎ落とすミニマル演出家ロイ。
室内仕立てのサスペンスを見るかのような求心力と音楽への集中を妨げないシンプルな演出は、ここでも見応え充分。
女声3人とモニカを加えた4人がすばらしい。
役柄に没頭し迫真すぎる演技と柔らかさと強烈さも併せ持ったロシアのゴロヴネヴァはビジュアルもよい。
大ベテランのゾッフェルが鬼気迫る魔女役に、ドラマテックソプラノのセラフィンが、ここではメゾの領域で本ドラマでの悪役に挑戦し、複雑な心境を歌い演じる。
ローマ盤より録音が最新のせいか、バリっとした鮮やかさがあるオーケストラがうまい。

いつかDVD化を望みたい。

音源としては、85年頃のガルデッリ盤があり、当時フンガトロンレーベルにレスピーギのシリーズを録音中だった。
聴きたいのですが、そちらは入手難。

ヴェルディ(1813~1901)以降のイタリアオペラ作曲家

  ・ボイート     (1842~1918)
  ・ポンキエッリ   (1843~1886)
  ・カタラーニ    (1854~1893)
  ・レオンカヴァルロ   (1857~1919)
  ・プッチーニ    (1858~1924)
  ・フランケッティ  (1860~1942)
  ・マスカーニ    (1863~1945)
  ・チレーア     (1866~1950)
  ・ジョルダーノ     (1867~1948)
  ・モンテメッツィ   (18751952)
  ・アルファーノ    (18751954)
  ・ヴォルフ=フェラーリ(1876~1948)
  ・レスピーギ     (1879~1936)
  ・ピツェッティ    (1880~1968)
      ・マリピエロ     (1882~1973)
  ・メノッッティ     (1911~2007)

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まるでゴジラのような雲。

ドラマテックにすぎる空でした。

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2026年1月25日 (日)

東京都交響楽団定期演奏会 ルスティオーニ指揮 ②

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夜の東京文化会館。

昼間の人の多さが考えられないくらいに平日の上野公園口の駅前は静かです。

1961年の開館以来、何度かの改修工事は行われてきたが、今年の5月の連休以降に大規模修繕工事が予定され、3年間にわたり閉館となります。
もしかしたら、閉館まで文化会館のコンサートは行かないかもしれないので、数えきれないくらいにオペラとコンサートでお世話になった文化会館がとても名残惜しく感じたのでした。
もう若くないから、3年という期間は自分には長く感じられます。

この日は先週に続いてダニエーレ・ルスティオーニの指揮によるヴェルディとワーグナー。
どちらの作曲家のオペラも、ここ文化会館で忘れえぬ上演に接してます。
アバドのシモン、若杉のオテロ、小澤のファルスタッフ、ベルリン・ドイツ・オペラのリング、朝比奈、若杉のリング、サヴァリッシュのオランダ人、尾高のタンホイザー、飯守泰次郎のワルキューレ・・・・もうもう書ききれません。

若きイタリアのオペラの名手、ルスティオーニの作りだす鮮やかなオペラの瞬間を堪能しつつ、文化会館で観劇したオペラの数々を思い起こしてました。

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    東京都交響楽団定期演奏会 第1034回

     ヴェルディ 歌劇「運命の力」序曲

         歌劇「マクベス」第3幕 バレエ音楽

          歌劇「オテロ」 第3幕 バレエ音楽

        歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲

  ワーグナー 歌劇「リエンツィ」序曲

        歌劇「タンホイザー」序曲

        歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲

        楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲

    ダニエーレ・ルスティオーニ指揮 東京都交響楽団

          コンサートマスター:矢部 達哉

             (2026.1.23 @東京文化会館)

ともに同じ年に生まれたヴェルディ(1813~1901)とワーグナー(1813~1883)を一夜で聴くという、ありそうでなかった私には極めてうれしかったプログラム。

南北で長いイタリアは、北と南で気質や文化が違うと思いますが、ミラノ生まれ、スカラ座児童合唱団で歌い、スカラ座音楽院で学びコレペティトゥールでオペラの神髄をたたきこみ、シエナの音楽大学を経た生粋のミラノっ子のルスティオーニは北イタリア出身となります。
イタリアから見たドイツは、アルプスの向こう側。
得意中の得意のヴェルディはともかくとして、ルスティオーニがどんなワーグナーを聴かせてくれるか、そこに注目していたし、さらには「マイスタージンガー」でコンサートのトリ、はたして大丈夫か?という懸念もありました。

聴いた結果からいうと、前半も後半もソノリティあふれる明るく明晰な演奏で、それぞれにオペラティックでありながらも単独で完結している独立した音楽という演奏でもあり、オペラの序曲であることと、完成されたコンサートピースであること、それを両立させた見事な演奏だった。
そう、序曲や前奏曲を聴くと、その先も聴きたくなり残尿感すら感じる自分なのですが、ここではそんなことはなく、それぞれに熱中し酔いしれたのであります。

①「運命の力」
壮麗なるこの序曲、スピード感あふれ、でもドラマテックに傾くことなく颯爽と演奏され白熱よりは、まるで今宵始まる物語の小手調べのようにも感じました。

②「マクベス」
パリ版に改訂の際、グランドオペラ風にグレートアップさせるために書かれたこのバレエは、私の手持ちのコヴェントガーデンでのルスティオーニ指揮による上演ではカットされてました。
10分ぐらいの切迫感とどこか哀愁感じる音楽を、ルスティオーニは抜群のリズム感と切れ味あふれる棒さばきでバリっと聴かせてくれました。

③「オテロ」
これもまたパリ版にあるお約束バレエ。
物語の背景ならではのエキゾチックなムード満載の音楽だけど、このあたりになるとヴェルディのオーケストレーションの筆致が高まっているのを感じる。
重奏的に絡むモティーフを巧みに浮きあがらせつつ、短いながら変遷する各バレエの特徴や雰囲気が鮮やかに描きわけられた。
こういうところも、先週のレスピーギやコルサコフで感じたルスティオーニの巧さだ。

④「シチリア島の夕べの祈り」
前半のハイライトはこれ、流したような運命の力と比べても気合の入り具合から違って、いつも録音で激しく聴かれるルスティオーニのうなり声がここではものすごくよく聴こえた。
ともかく歌心満載で、もう待ってましたよ、という気分でしたよワタクシは。
炸裂する打楽器に金管の咆哮も心地よく、チェロのまるでアリアのような歌、また歌、もうたまらなくステキだ。
そして盛り上がるクレッシェンドの高鳴り、高揚感もたまらんし、そのあとの弦の歌、ささえるピチカートもまた泣かせるじゃないか!
手持ちの音源にアルスター管との演奏のものがあり、聴きなおしたが、都響との方がはるかにいいと思った。
ヴェルディの音楽を完全に持ってるルスティオーニ、最高です。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①「リエンツィ」
いまのところルスティオーニの気質に一番あってると思われるリエンツィ。
舞台もローマでイタリアしてるから、輝かしいイタリアの陽光がワーグナーのなかでは一番ある曲だし、演奏もそのあたりを全開してくれた。
もちろんここでも歌心は充分でリエンツィのアリアの朗々たる旋律の歌いまわしも見事で、その盛り上げも実によろしい。
その後のテンポをあげての展開も慌てることなく堂々としていて、これもまた劇中で繰り返し主人公によって訴えられる「神よ守りたまえ」のモティーフが意味あいを込めてしっかり浮きあがる演奏というのも珍しいと思った。
このように効果に走ることなく、音楽の意味合い、物語りとの関連性も把握して、こうした序曲でもしっかり聴かせてくれるルスティオーニは本物のオペラ指揮者だと思います。

②「タンホイザー」
2曲目にタンホイザー。
作曲の年代順にたどる仕組みで、タンホイザーがラストでもコンサートとしてはいいはずだったが、こうしたこだわりが嬉しい。
グランドオペラの残滓が残る大がかりな序曲を、大抑な雰囲気でなく、ここでも明るく明快に聴かせてくれた。
都響のヴィオラセクションがとても巧く、くっきりとどんなときでもよく聴こえているのは、こうした内声部への指揮者のこだわりもあるかもしれない。
ヴェヌスブルクの場面での妖しさよりは透明感を感じるのも好ましかった。
この場から、オペラの本編に突入して欲しいと思うのはワーグナー好きのわたくしのサガとも言えましょうが、いつかルスティオーニの指揮で聖邪あふれる壮麗なるタンホイザーの全曲を聴いてみたいと思った。
手持ちアルスター管とのライブでは、バッカナール付きの24分の演奏で静かに終わるパターンです。
この人、ほんと本格派です。

③「ローエングリン」
清らかさよりは、明快さ、文化会館が明るい地中海サウンドを思わせる響きに満たされた前奏曲。
木質の響きのこのホールが人間の声、歌によく合うということが、この短い曲でよくわかった。
高鳴るシンバルへの持って行き方も陶酔感というよりは、冷静に音を積み上げて高揚していったクレッシェンドの果てでの成り行きであるかのような冷静さ。
神々しく仕上げるのでなく、音の積み上げを楽しませるような、そんなユニークな演奏でした。

④「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
開放感あふれるバリっとしたハ長の始まりを聴いた瞬間、はぁなるほど、これならプログラムの最後ってありね、と確信。
まさに確信あふれるハ長の堂々たる歩み、分厚く響くオーケストラはワーグナーがリング前半とトリスタンを経て獲得した錯綜するけれど、すべてが有機的に結びついている高度な音楽技法。
全部がしっかり聴こえるし、ここでも内声部へのこだわりも極めて効果的に作動し、都響の各セクションもすべての力量を解放したかのように全開したので、ホールが音で満たされ、ワタクシもワーグナーの音に包まれ快感このうえない境地へ。
愛の動機もサラリと流すように演奏される前奏曲演奏が多いなか、ここでは速めながらも実に心のこもった歌いぶり。
アバドの演奏もここは美しかったが、今宵のルスティオーニの演奏もこのうえなく優しく歌心満載でした。
その後のいろんな動機が混ざり合いつつ、徐々にクライマックスを築いてゆくさまは、右へ左へと忙しく指示し、歌を促すルスティオーニを見ながらも、感嘆すべき素晴らしさで、都響のすべての楽器が鳴り切っている。
この前奏曲ひとつで、こんなに興奮し胸が高鳴るのは初めて。
その先にある教会での合唱へのなだれ込みを期待せず、こんな鮮やかな終結部をもたらしたキレのいい演奏に驚きも感じた次第。
指揮者もオケも会心の表情でしたね。

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定期だけど、アンコールにローエングリン3幕前奏曲かヴァルキューレあたりをやるかな?と最初は思っていたけれど、まったくいらない、そんな効果不要の完結したマイスタージンガー前奏曲だったし、今宵のすべての曲がオペラの一部であることも主張しつつ、それぞれがそれでコンサートピースとしても成り立っていた、そんな演奏でありました。

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ルスティオーニ氏、次の都響はマーラー「復活」とドヴォルザーク7番です。
いつしか若杉時代のように、コンサート形式のオペラ上演もやって欲しい。

マリオッティ(46 ペーザロ)、ルスティオーニ(42、ミラノ)、バッティストーニ(38、ヴェローナ)
3人のオペラ指揮者が日本で聴ける幸せ。

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ここ数年、ルスティオーニがリヨンオペラで指揮した作品を中心に、バイエルン、メットなども含めネットでの放送音源を多く聴いてきました。
フィガロ、トロイアの人々、ルチア、エルナーニ、マクベス、アイーダ、ファルスタッフ、金鶏、カヴァ・パリ、ボエーム、蝶々さん、西部の娘、アンドレア・シェニエ、アドリアーナ・ルクヴルールなど14作もアーカイブできてます。
こうしてみるとロッシーニやベルカント系、ワーグナー、シュトラウスなどはまだこれから、という感じです。
アルスター管やピッツバーグなどとのオーケストラ作品もバラエティ豊かで、そのレパートリーはとても広いです。
ともあれ、今後ともに楽しみな指揮者です。

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2026年1月20日 (火)

ロッシーニ 「チェネレントラ」 アバド指揮

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1月20日は、クラウディオ・アバドの命日です。

2014年、あのショックを受けた日からもう12年。
干支が一巡しました。

こちらの画像は、亡くなってすぐのスカラ座での追悼コンサートでのものです。
これを見返しただけでも泣きそうになります。

でもイタリアからは有望な指揮者が続出してますし、世界的にも同じく、ビジネスとしての音楽は曲がり角にあると思いますが、音楽界は活況を呈してます。
混迷する世界情勢の影響は受けざるを得ず、音楽と政治は結びついても欲しくないですが、音楽の持つ力はこんなときこそ大切。
アバドが存命だったら、きっと音楽を通じて人類になにがしかを伝えてくれたことでしょう。

命日に明るい曲の選択となりますが、アバドが愛したオペラのひとつ、「チェネレントラ」を。

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この鮮やかな色彩と70年代当時のサイケデリックな風潮を感じさせるデザインは、いまでも新鮮。

中学生だったので72年発売の3枚組のレコードを購入すべく手立てもなかったが、ワーグナーは買ってた(笑)
音楽雑誌の表紙を大切に補完してあったものですが、CD化されて購入したときは、下のとおり色合いが違っていた。

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  ロッシーニ 歌劇「ラ・チェネレントラ」

     チェネレントラ:テレサ・ベルガンサ   
     王子ドン・ラミロ:ルイジ・アルヴァ

     ダンディーニ:レナート・カペッキ    
     ドン・マニーフィコ:パオロ・モンタルソロ

     クロリンダ :マルゲリータ・グリエルミ 
     ティスベ :ラウラ・ザンニーニ

     アリドーロ :ウーゴ・トラーマ

   クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団
                スコテッシュオペラ合唱団
          チェンバロ:テオドル・グシュルバウアー
              (1971.9 @エディンバラ)

アバド初のオペラ全曲の録音。
1968年にスカラ座の音楽監督となっていたアバドは、スカラより前、1971年8月のスコットランドでのエディンバラ音楽祭で「チェネレントラ」を上演。
フィレンツェ歌劇場との共同制作で、それに先立つ同年5月にフィレンツェにて指揮してます。
DGへの録音はこうした上演で万全の準備を経たもので完全な仕上がりぶりとなってます。
スカラ座でのチェネレントラは1972年から指揮するようになり、劇場の人気レパートリーとなり、その後ずっと上演され、海外引っ越し公演でも持っていくようになりました。

前々から書いてますが、アルベルト・ゼッダの校訂を経た版を採用したその演奏は、当時は斬新で今でこそ当たり前となってしまったスッキリ系のロッシーニの走狗だったのだ。
それまでは打楽器が派手に鳴ったり、オーケストラも無用に分厚く、全体に厚化粧をほどこされたロッシーニだった。
以前書いた記事~「アバドを聴いてから、遡って過去演を聴いたから、順序は逆だけれど、アバドの演奏は、その厚化粧を取り去り、まるで風呂上りのようなサッパリとした風情が漂っている。
でもスッピンの味気なさではなくて、音楽の持つ色気や風情がニュートラルに表わされていて、新鮮かつ活き活きとしている。
いやピチピチとしていると言えようか。
明晰で、どこまでも清潔。まさに水を得た魚のようなアバドに、アバドを無能呼ばわりした評論筋は誰一人不平を唱えられない。
当時、ざまみろ!という心境だった。へへっ。」
こんな風に書いてまして、久しぶりにこの演奏全曲を聴いて、この10年で多くのロッシーニを聴いてきた、いまの自分の耳にもかわらぬ新鮮さがありました。

歌唱に関しては、レベルも高度化してあがったイマの歌手からするとちょっと緩いと思われる人もいますが、でも私にはこのメンバーが最高なんです。
とくにベルガンサのすっきりとした清潔清廉を感じさせる歌唱は、いまもって一番のチェネレントラだと思う。
昨年98歳で亡くなったアルヴァもいまでも色あせしない生粋のベルカントテナーと感じさせて嬉しかった。
あと、フレキシブルなロンドン響であったことも、同時期の「セビリアの理髪師」よりも軽やかさと透明感においてより効果的だったと思う。

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     チェネレントラ:ルチア・ヴァレンティーニ=テッラーリ   
     王子ドン・ラミロ:ルイジ・アルヴァ

     ダンディーニ:エンツォ・ダーラ    
     ドン・マニーフィコ:パオロ・モンタルソロ

     クロリンダ :マルゲリータ・グリエルミ 
     ティスベ :ラウラ・ザンニーニ

     アリドーロ :クラウディオ・デスデーリ

   クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                ミラノ・スカラ座合唱団
          
             (1976.5 @コヴェントガーデン、ロンドン)

1976年のスカラ座のロンドンへの引越し公演ライブ。
ちゃんとしたステレオで音は悪くはないです。
ライブ、とくにピットに入ったときのアバドの若い頃の常で、テンポは速めでときに突っ走るようになることもあり、それがスポーティな快感を覚えることになります。
スカラ座の面々が、それに一糸乱れずについてゆくところもすごい。
最後の聴衆の興奮したロンドンっ子のブラボーもそのときの熱気を感じさせます。
ちなみに、このロンドンへの演目は、あとは「シモン」と「レクイエム」です。
歌手たちはずっとおんなじ、完成された家族のような仲間たちに、ベルガンサとともに、ずっと交代でアバドとやってきたテッラーニ。
あきれかえるような鮮やかなテクニックと、それを感じさせないナチュラルさに深みのあるメゾの声。
数年後に、日本人は東京で彼女のロジーナに驚嘆する。


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     チェネレントラ:フレデリカ・フォン・シュターデ   
     王子ドン・ラミロ:フランチェスコ・アライサ

     ダンディーニ:クラウディオ・デスデーリ    
     ドン・マニーフィコ:パオロ・モンタルソロ

     クロリンダ :マルゲリータ・グリエルミ 
     ティスベ :ラウラ・ザンニーニ

     アリドーロ :ポール・プリシュカ

   クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                ミラノ・スカラ座合唱団
          
              (1981.1 @ミラノ)

ありがたいことに、ずっと上演しつづけたアバドとジャン・ピエール・ポネル演出のチェネレントラが映像化されてます。
舞台上演でなく、スタジオでの映画的作品。
音声はミラノで録音、映画は同じ年の夏にウィーンで撮影と記録されてます。
アバドのチェネレントラの正規音源はこれが最後で、舞台でも82年のミラノを最後に指揮していないようです。
録音がやや平板であるのが残念ですが、ロンドン響との演奏に近い正確無比の演奏となっており、さらにはさすがはスカラと思わせる歌に付ける巧みな表情や歌いまわしが感じられるのもうれしい。
ミラノでのこの録音のとき、アバドは舞台では「ボリス・ゴドゥノフ」に取り組んでいた。
シモンとチェネレントラは、アバドとスカラ座が同じメンバーでもって何度も上演し、完全な舞台に仕上げていったオペラ作品だと思います。

そしてやはりこの演奏は、観て楽しむもの、ビジュアル重視の配役ともなってます。
シュターデの可憐な美しさとスタイルの良さはもうなにものにも代えがたいです。
琥珀の声とも称されたその声もここでは映像をともない、同情さそうその演技やシンデレラとしての凛々しさなど、もうほれぼれとします。
でもベルガンサやテッラーニに比べると弱く、かえってあざとくも感じてもしまうのは贅沢か。
 テッラーニと同じく、アライサも東京でのアルマヴィーヴァ伯爵で目覚ましい存在であることを明らかにしたが、この録音の年の秋だった。
若々しいそのアライサの歌声も嫌味なく甘くてすっきり柑橘系。
アリドーロ役からここでは狂言回しのダンディーニに昇格したデスデーリも実にうまく、存在感あり。
超ベテランとなったモンタルソロも呆れかえるくらいに愉快で間抜けな父親役です。
そして同じくずっとずっと、アバドのチェネレントラではいじわる姉妹を歌っているグリエルミとザンニーニが思わず共感したくなるような人間味あふれる存在に感じられるのも、ポネル演出と映像作品という楽しさです。

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ユーモアあふれるブッフォ作品としての神髄を突いたポネルの演出。
合唱の個の動き、集団としての動き、それぞれに意味あいもあり、面白みもあり、当然に登場人物のすべてがこの作品の面白さやシニカルさに寄与するように仕組まれた名演出。
時代がかった部分もイマの世の中では感じられるものの、映像作品としての出来栄えは完璧だと思います。
このポネル演出、2009年に新国劇場で観劇してまして、ほぼ同じもの。
これも思えばいい経験をしたものです。
カサロヴァにシラクーサという願ってもない名歌手の声も聴けました。
このDVD作品、繰り返しになりますがデジタル処理を施して、いまのソフトフォーカス気味の映像と音源を刷新して欲しい。

Stade-2

チェネレントラ=アンジェリーナのあまりにステキにすぎる幕を閉めるアリア。
洒落たポネル演出もあいまって、ほんとに幸せな気分、ほんわかとした癒され気分になりました。
すべてを許し、飲み込む彼女。
女性が混迷の世界を救うとも思いました。
来日したイタリアのメローニ首相とわが日本の高市総理の熱いハグ。
メローニさんは、高市さんに向かって「思いは同じ、なすべきことのハードルは高いし、きっと難しいこともあるでしょう、そのときは何でも私に言って、親しい友」と別れるときに言いました。

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メローニさんのことが、イタリアのことが大好きになりました。
日本とイタリアが仲良く世界に立つ、こんなうれしいことはないです。
日本のメディアはこのようなことは一切報道しません。

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チェネレントラでのアバドとシュターデ。

先に書いたとおり70年代、日本でのアバドの評価が定まっていなかったころ、さらにはウィーンフィルのパーマネントコンダクターとして来日したとき、何もしてないと、こき下ろしていた評論家筋が多かった。
しかし、その評論家筋にも、アバドのロッシーニ、加えてストラヴィンスキーは有無を言わせぬ才能のほとばしりを認めさせるものでした。
そんな評価の変化ぶりをよく覚えてます。

現在のようにセリアも含め、ロッシーニ作品がたくさん演奏されるようになり、ロッシーニ音楽の受容も多様化しているが、その音楽表現のすべての根源は「アバドのロッシーニ」にあったと思ってます。
それは、アルベルト・ゼッダの研究が元にあり、その忠実で完全な表現者としてアバドがいたからなのであります。
ロッシーニ演奏、アバドのなした、大きな足跡のひとつです。

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秦野市から富士を望む🗻

クラウディオ・アバドの12回目の命日に♰

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2026年1月18日 (日)

東京都交響楽団定期演奏会 ルスティオーニ指揮 ①

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久しぶりの池袋芸術劇場。
かわらぬ人の多さが田舎暮らしに慣れた自分にはキツイものがありました。

イタリア週間 4276

東京都交響楽団の首席客演指揮者となるミラノ生まれのダニエーレ・ルスティオーニ。
その奥さんでミラノとベルガモの間ぐらいにあるレッコ出身のヴァイオリニスト、フランチェスカ・デコ。
この素晴らしい共演でした。
ルスティオーニは、ずっと注目していたオペラ指揮者なので、即座にチケット手配しました。

ちょっと加工してスクリーンに美男美女入れてみました。

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  東京都交響楽団定期演奏会 第1033回

 ブラームス ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77

   バッハ   無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ~ジーグ

     Vn:フランチェスカ・デゴ

 R=コルサコフ スペイン奇想曲 op.34

 レスピーギ   交響詩「ローマの祭」

    ダニエーレ・ルスティオーニ指揮 東京都交響楽団

         (2026.1.17 @東京芸術劇場)

独・露・伊の3人の作曲家がランダムに並んでいるように感じますが、ここに通じているのは南国・南欧への憧れとイタリアそのもの。
ブラームスは、調性も同じくする第2交響曲と同じくペルチャッハで発想・書かれた曲。
ソリストと指揮者の個性が申し分なく発揮できるプログラムだと思いました。

激することなく神妙な雰囲気で始まったブラームス。
デゴのソロの入りもさほどに情熱的でなく一音一音を確かめるような慎重な雰囲気。
ブラームスの協奏曲に抱くイメージが違うと思う方がいるかもしれない。
わたしは、こうした柔和なブラームスは好き。
ヴィブラートをあまり効かせないのも好ましく、華美に傾くことがない。
ともかくデゴさんのヴァイオリンは音色が美しく繊細。
だから第2楽章が絶品で、見事なオーボエソロにも増して、楚々たるアリアのようなヴァイオリンの歌には聞惚れましたよ。
戻って1楽章ですが、カデンツァにブゾーニ編のものが使用され、そこではティンパニがドロロロ~ンと鳴り、背後で終始そのティンパニも静かに鳴り響くと言うヴァイオリンがまるで浮き上がってくるような効果をもたらすもので、実に面白く新鮮だった。
彼女のヴァイオリン協奏曲のCDもそのカデンツァが使われているようで、カップリングは珍しいそのブゾーニの協奏曲だ。
こうした知的なこだわりも彼女ならではなのだろう。
終楽章は明るく爽快に、ルスティオーニの開放的なオーケストラに導かれるように快活なるヴァイオリン。
こんなに爽やかで微笑みに満ちたブラームスの協奏曲は自分では初めてかもしれない。
 ついでにオジサン目線だけれども、演奏中のデゴさん、弾いてないときに空を見つめるような目線、ともに美しかった。
アンコールはお得意のバッハ。
技巧をひけらかすことのない真摯な、でも美しい演奏でした。
別日ではアンコール2曲やった様子ですが、この日は1曲。
翌日の札幌でのソロコンサート、翌々日は東京に戻り武蔵野市でまたソロと、ちょっとハードなスケジュールに合わせてのことだったかもしれません。

ルスティオーニはロシア物も得意にしていて、R・コルサコフでは「金鶏」がDVD化されているほか、チャイコフスキー、ラフマニノフなどもさかんに指揮してます。
明るく歌心にあふれ、ダイナミックな緩急に富んだスペイン奇想曲、めちゃくちゃ面白かった。
シェエラザードにも通じる異国情緒たっぷりの要素を、さすがルスティオーニは歌いまくって巧みにムード満点だし、コルサコフのオーケストレーションの巧さも5つの場面の描きわけの見事さで実によくわかりました。
水谷コンマスのソロを指揮者もオーケストラも楽しそうに聴き入り、そこからもうノリノリの雰囲気で一気呵成に情熱の爆発と開放を成したルスティオーニの指揮のうまさ!

この日の目玉、楽しみにしてた「祭」じゃ!
人員増強して、オルガン席にも奏者が陣取り始まりました金管の咆哮をともなう古代ローマの熱気あふれる世界観。
都響めちゃくちゃうまいし、音に濁りなし、ルスティオーニの整然とした棒さばき。
大振りはしないけれど、動きは多いし、ぴょんぴょん跳ねるし、左右に忙しく、顔の表情も豊か。
こんどは正面席で聴いてみたい。
 ローマを見出した巡礼者の祈りと歓喜での音楽の盛り上げも見事だったし、こうした変化を鮮やかに描き分ける才はオペラ指揮者ならではかもで、十月祭の夕暮ムードも素敵でセレナーデもうっとりしてしまう。
そして急転するムード転身もあざやかで、はちゃむちゃカーニバル状態の第4部の整然とした持って行き方もあざやか。
熱狂するローマ市民ばりに、ワタクシもワクワクが止まらず、ドキドキしてきた。
ずっと終わらないでカーニバルやってくれい、と思わずにはいられない魅惑の時は、無情にも過ぎつつ熱狂うずまくレスピーギ=ルスティオーニワールドはジャンジャンと終結!
思わず、ブラボーしちまった!

Rustioni-tmso-1

最高じゃん、ルスティオーニ。
都響もノリがよくって、みんな楽しそうだった。
われわれ観衆もみんなニコニコで帰りました。

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後半のこうした音楽を指揮したらルスティオーニは無類に上手い指揮者だ。
本格的なシンフォニーとピットでの指揮を聴いてみたい。

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こんなパフォーマンスとオーケストラとやってくれる。

ミラノ生まれといえば、アバドと同郷。
しかし、育った頃はムーティ時代のミラノ。
いつしか、スカラ座の指揮者になって欲しい。
次は、ヴェルディとワーグナーを聴きます。

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2026年1月15日 (木)

メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」 アバド指揮

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今年の早咲きの菜の花は、まだ5分ぐらいなので、昨年の1月終わりぐらいの満開の菜の花と富士。

春の訪れがほんとに待ち遠しい、今年の骨身に染みる寒さ。

でも明るいイタリアが日本にやってくる。

低迷するイタリア経済を立て直し中、強くて明るいイタリアの首相メローニが来日。

イタリアの若手指揮者三羽烏のひとり、ダニエーレ・ルスティオーニが都響の首席客演指揮者となりやってきた。
2回のコンサートを聴きに行く予定。

そして、明るいイタリアとは言いたくはないが、クラウディオ・アバドの命日も近い。
アバドの命日には、また違う作品を取り上げる予定。

ということで1月後半は、まだ行ったことのない「イタリア」を日本で楽しみます。

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 メンデルスゾーン 交響曲第4番 イ長調 op.90「イタリア」

もう何度も記事にしてる。
アバドのメンデルスゾーンは、若い頃からの得意の演目で、デッカの専属だった67年に録音をしてます。
昭和の人、さまよえるクラヲタのワタクシは、1969年頃からクラシックに目覚め、1970年からレコ芸の購読を始めましたので、いまはほとんど処分してしまいましたが、主だった記事や広告はスクラップしてあったりします。
アバドのものはほとんで残してます。
1971年のレコ芸の裏表紙はデッカ=ロンドンレコードが独占してましたが、まだアバードと呼ばれていた時代。
レコ芸のお値段も、このときは300円で、少し前までは270円ぐらいだった。
レコードは新譜だと2000円、シングルジャケットだと1800円だったりも。

メンデルスゾーンのローマ見聞録のようなイタリア交響曲、アバドは3回録音しました。

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① ロンドン交響楽団(1967.2 @キングスウェイホール)

こちらは国内盤での再発のレコード。
スコットランドがメインのジャケットですが、ともかく嫌味なく健康的な音で満たされた幸せなメンデルスゾーン。
これが出たときの評価では、イタリア人という点ばかりが評価され、ともかく歌う明るい演奏と評され、交響曲的な構成力には欠けるちかいわれたものだ。
お国柄で何ごとも判断したり、ドイツに偏重するきらいが見られたのも事実で、そういう時代だった。
たしかに明るく開放的な演奏であることは間違いなく、デッカの分離のいい録音もそれに拍車をかけてる。
一方で、よりロマンティックで陰りのある3番とのカップリングであることから、それとの対比において明るさというよりは明晰さをこそ感じます。
3つの演奏を通して3楽章がいずれも美しいと思った。

② ロンドン交響楽団(1984.10 @聖ジョンズ・スミス・スクエア、ロンドン)

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ロンドン響の音楽監督として、ある意味自分のやりたいことをやっていた頃。
マーラーやベートーヴェンのチクルスに、ゼルキンとのモーツァルト録音と併行してメンデルスゾーンも演奏会で集中して取り上げ、一気に全集録音を遂げた。
そうした流れでの演奏なので、まとまりの良さ仕上がりの完璧さにおいては、17年を経て完璧であり落ち着いた演奏になってる。
アバドの身上でもある、音楽表現のしなやかさがここでは際立ち、音楽に漂う余裕と笑みすら感じる幸福なメンデルスゾーン。
アバドをずっと見聞きしてきた自分には、アバドがときににこやかに、柔和な表情で指揮している姿を思い起こすことができるし、このメンバーでの来日公演で接した指揮者とオーケストラの幸福なむずび付きも懐かしく思い出す。
 この時代、ロンドン交響楽団は名手ぞろいで、とくに管楽器のメンバーはすごい顔ぶれだった。
自分も若かったが、アバドもロンドン響の楽員さんもみんな若かった。
そんな昔を懐かしみつつ、2楽章と3楽章の絹織りの肌触り感じる柔らかさには陶然としてしまった。
アバドとロンドン響は、やはり幸福なコンビだったなぁ。
この全集、1番と2番が一番好き。

③ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1995.12.31 @ベルリン)

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ジルヴェスターコンサートのライブで、真夏の夜の夢と演奏されたメンデルスゾーン・アーベント。
ライブでのアバドは熱い。
劇性と歌謡性のバランスのとれた真夏の夜の夢もロマンあふれる名演だと思いますが、よりホットなイタリア交響曲が自由闊達な感じでよい。
ロンドン響よりベルリンフィルの方が音色が明るい。
そして音も高密度でびっしり詰まった感じ。
ドイツからローマに行ったメンデルスゾーンの気分もかくや、と思わせるくらいに目覚ましい音がベルリンフィルから出ている。

3つの録音の演奏時間はほぼ同じ。
84年のロンドンが、2楽章がほんの少し速めですが、ほぼ同じ。
3つ共に好きなイタリア。
2000年代に、モーツァルト管とも3番とともに演奏履歴があり、そちらもいつかの音源化を希望したい。
生涯にわたって指揮しつづけたメンデルスゾーンは、アバドの持ち味がもっとよく発揮される作曲家だったと思います。
それはロッシーニとも通じます。

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スイセンは、いまが満開の盛りですよ

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2026年1月11日 (日)

J・シュトラウス 「南国のバラ」

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日の丸も掲げられた年始直前の銀座の街。

なかなか美しいものです。
そして、集団形成のあの人たちのいない本来の大人の街は、かつての姿をちょっとだけ取り戻した感じもしました。

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今年のウィーンのニューイヤーコンサートは、ネゼ=セガンの指揮。

カナダの指揮者ですが、同国に自身のオーケストラを持ち、フィラデルフィア管とメトロポリタンオペラの指揮者を務め、欧州でも各地のオーケストラと関係を築いている、いま最前線の指揮者。
セガンは以前よりよく聴いてた指揮者だが、こんなに早くニューイヤーコンサートに出るとは思ってなかった。
ムーティとティーレマン、メストらのベテランの持ち回りばかりでなく、旬の指揮者を順繰りに起用していくことは大賛成で、ウィンナ・ワルツとは無縁と思われた人でも、案外に相性がよかったりして楽しみも増すというものだ。
来年はトゥーガン・ソヒエフというから驚きでもあり。

今年のプログラムは、セガンが力を入れてるアメリカの女性作曲家プライスの作品や、ウィーンで女性オーケストラを創設したりして活躍したヴァインリヒの作品などが選ばれたりして、とても新鮮だったし、映像で見てもセガンのいつもの快活な指揮ぶりが楽しかった。
初めてご覧になる方は、小柄なセガンがそこらのやんちゃな兄ちゃんみたいに見えたかもしれない。
カミングアウトしているので周知の事実ですが、保守的なウィーンもオケのメンバーを見てもわかるとおり変わったものだと思ったりもした。
多様性という言葉はあざとく好きではないが、まさにそんなコンサートにもなったのではないだろうか。

今回演奏された曲のなかで、私の好きなワルツ1曲に絞って、ウィーンフィルの手持ち音源をいろいろ聴いてみた。

  J・シュトラウス ワルツ「南国のバラ」op.388

1880年初演のポルトガルが舞台のオペレッタ「女王のレースのハンカチーフ」からの引用で作られたワルツ。
劇中でオペレッタの主人公であるスペインの作家セルバンテスによって歌われる歌「野ばらのさくところ」というタイトルから、このワルツの名前も付けられたという。
このオペレッタを気に入ったという当時のイタリア国王に献呈されていて、すべてが南欧がらみなところから、このワルツも軽やかで明るく屈託がないです。
レースのハンカチーフは、昨年ウィーンのアン・デア・シアターで上演されていて、録音もしました。

①セガン(2026)
文字通りウィーンフィルの最新の「南国のバラ」は、セガンらしく快活で生き生きとした演奏だった。
入念な節まわしもあったりして、軽やかなウィンナ・ワルツ感は薄め、でもこれもまたセガンらしい高揚感あふれる流れの持って行き方はまさに気分があがるものでしたね。

②ムーティ(2018)
セガンの前は、ムーティがやってました。
もうこの頃のムーティとなると大家の風格で堂々たる構えと押し出しがあり、余裕あるテンポが優雅ささえ引き出して感じる。
ウィーンとの付き合いの長さと気ごころしれた安心感も漂う。

③マゼール(1981)
ムーティ以前の演奏ではこれしか手持ちで見当たらず。
アバドもクライバーもカラヤンもやってなかったんです。
ボスコフスキーのあとを継いだマゼールは、ウィーンとの蜜月の80年代にエンターテインメント性にあふれたニューイヤーを何年も担当。
マゼールらしく切れ味豊かで、はずむようなリズム感も心地よく現代的でスピード感もほどよい。
何曲か聴いて、真面目過ぎるところあるが、いまやこんな面白い指揮者はいないと感じた。

④ベーム(1975)
DGへの正規録音もあるが、日本人ならこれでしょ、伝説のNHKホールライブ。
NHKホールの空気感と熱気をもろに捉えた録音がいまもって素晴らしいと思うし、ウィーンの音色がNHKホールでちゃんと出てるのも驚き。
ベームの指揮には堅苦しいところはなく、この頃はまだ保っていたウィーンフィルの鄙びた音が聴けるのもありがたい。
NHK様は、つまらん紅白に金ばかり使ってないで、ベームの音源と映像をリマスターして新調して欲しい。

⑤ボスコフスキー(1961、1975)

Boskovsky

クレメンス・クラウス後のウィーンフィルのウィンナ・ワルツの権化となったボスコフスキー。
同じ楽員同士で気の置けない仲間同士のリラックスムードあふれる演奏でもありつつ、ボスコフスキーの指揮には古風さはなく、現代的ですらあり、ある意味サバサバしても感じる。
でも歌いまわしは実にうまく、雰囲気満載で、もうまさにわれわれ昭和世代が思い描く憧れのウィーンの街そのものだ。
目をつぶれば、唯一のウィーン訪問のことすら脳裏に浮かんでくる。
ウィーンはウィーンなのだ。
デッカの録音もその思いに拍車をかけてくれる素晴らしさ。
 75年のものは、私のエアチェックで、シュトラウスのアニバーサリーイヤーのときのザルツブルクライブ。
録音がいまや精彩を欠くが、ライブ感あふれるウキウキ演奏だ。
ボスコフスキーやマゼール、アバドやクライバー、メータの時代のお正月のNHKテレビ放送を毎年楽しみにしていて、ウィーンのムードに浸ることで1年が始まるみたいな気分だった。
そうしたことをしなくなって、興味も失ってから久しいし、ウィーフィルもウィーフィルでなくなってしまったと思い込んでも久しいです・・・

⑥シューリヒト(1963)

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なんどかブログ記事を残してますが、中学生の時に会員制のコンサートホールソサエティに加入していて購入したレコード。
これが初めてのウィンナ・ワルツのレコードだった。
来る日も来る日も聴いて、とくにチターの音色に魅せられ、まだ見ぬウィーンの街を思った。
同時に、シューリヒトという大指揮者がいたということも強く意識するようになり、バッハやモーツァルトなどを集めた。
オーケストラは契約上、国立歌劇場管弦楽団と名乗り、冴えない録音だったレコードをCD化されたときに聴きなおして、その刷新されたサウンドに驚いたものだ。
風呂上りの美人のように、見違えるばかりにオーケストラの美音が詰まって感じられたし、緩急豊かな情感ある指揮ぶりにもおどろきだった。
何度も書きましたが、この録音の場に居合わせた岩城宏之氏が、神だ!と言ったとされるその言葉どおりの達人の演奏だった。

⑥サヴァリッシュ(1961)
ウィーンフィルじゃないけどウィーン響。
2枚のシュトラウスファミリーのレコードを残したサヴァリッシュは、N響ではやらなかったし、ほかのオーケストラともやらなかった。
ある意味ウィーンにこだわったのだろうか。
若き日、バイロイトでも活躍をしていた、まさに若手新進気鋭のサヴァリッシュの颯爽としたスタイリッシュなウィンナ・ワルツ。
これはこれで青臭さもありつつ、サヴァリッシュならではの理路整然とした清潔さもあり。
リヒャルトばかりでなかった、ユニークなサヴァリッシュのシュトラウス。

⑦クリップス(1957)
50年代の録音ならではの丸っこい響きが雰囲気あり。
どこか懐かしい、遠くに忘れてきた音がする。
ほぼ70年前のウィーンフィルと今年のウィーンフィルを比べるとオーケストラの巧さ、放送とはいえ隅々まで鮮明なまの録音と比べるべくもない。
大人の音楽を感じた。
あらゆる音に囲まれた現代が不幸にも感じた。

クレメンス・クラウスのシュトラウスファミリーの音源は残念ながら所持してません。

Ginza-02

混迷を深める世界。

イランが崩壊するかもしれないことを日本のマスコミは一切報道しない。
あの国と同じように強権体制国家に対する国民の反発を報道しては日本ではまずいのだ。

セガンが思いを込めて語った今年のニュイヤーコンサートでのあいさつは、世界の平和だった。

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2026年1月 7日 (水)

ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界から」 ダウスゴー指揮

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新年を迎えました。

そしてあっという間に1週間が経とうとしてます。

今年も好きな音楽を聴き、マイペースでブログ記事を起こしていこうと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。

2026年最初の音楽は「新世界」です。
あまりもベタな選曲であり、年中いいけど、新年の演奏会の比率も高い名曲中の名曲。

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 ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調 op.95 「新世界から」

  トーマス・ダウスゴー指揮 スウェーデン室内管弦楽団

        (2006.4,5 @エレブルー・コンサートホール)

もう聴き古した感のある新世界。
私の初レコードは小学生のときの「ケルテスの新世界」だった。
またレコードでも新世界と未完成などを組み合わせたりしたベストレコードがいろんな形で出ていた70年代。
クラシック入門用のレコードの一品としてご家庭で珍重されたものだ。
 さらには、コンサートでは3大交響曲とかいって、「未完成」「運命」「新世界」の3つをプログラミングしたものも人気だ。
クラシック初心の方からベテランリスナーまでを惹き付けてやまない旋律の宝庫と、郷愁誘う懐かしさ、かっこよさも持ち合わせた「新世界」であります。

爾来たくさんの新世界を聴いてきたが、室内オーケストラによる新世界は初めてだった。

デンマークの指揮者ダウスゴーは。スウェーデン室内管を1997~2019年まで20年以上に渡って率いて、その間かなり多くの録音も残しました。
ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス、ブルックナー、ワーグナー、チャイコフスキーなどの多彩なレコーディングがあり、ドヴォルザークも1枚だけですが2曲の交響曲を残してます。
こちらのブログにはそこそこにこのコンビの記事がありますが、私はダウスゴーが好きでCDもほとんど揃えつつあります。

常に速めのテンポ設定をとり、キビキビとしたその演奏は心地よくもあり、でも核心をついた考え抜かれた音楽考察もありつつ、それが乾燥してしまった味気なさを感じさせない深みと大胆さがあります。
このコンビの比較的最初の頃のものだが、徹底したその独自のスタイルがすでに完成している。

聴き古した「新世界」がかくも新鮮に、出来立ての音楽として響く。
1楽章から、いつものお馴染みのメロディがなんの気もなく、ポンポンと飛び出して来て、思い入れや過度の表情付けもなく、ピュアそのもの。
ラルゴなど、透明感にあふれ透けてみえるくらいの純粋な美しさがあった。
快速調のスケルツォなど痛快だし、その対比としての中間部は表情少なめに淡々と流れるのが面白いが、ちょっとした楽器の橋渡しなどが引立ち、いつもと違う瞬間を見出せる。
ずばずばと決まりまくる終楽章。
ヒロイックなところはなく、快速ながら素直に音楽的で、すべての楽器がすべてのモティーフが聴こえ透けてみえる。
最終の和音もずいぶんと長く鳴らして終結するところがユニークだし、これがまた美しい。
ボヘミアやアメリカ、そうした要素は感じられず、ただただドヴォルザークの楽譜を思い入れなく演奏したという感じで、新鮮極まりない。

併録の6番の方が、実はもっと面白くいていい演奏だ。
魅力ある作品である6番が、こんなに楽しい音楽だったとは。
できれば5番も録音して欲しかった。

ダウスゴーさん、昨年来日して新日、大フィル、名フィル、札響などに客演したが、聴く機会をえられなかった。
5年まえのBBCスコテッシュとのマーラーのみが唯一の実演。
シアトル響を辞めてしまったのは、実に残念で、その高音質の自社レーベル録音はユニークな演目とともに楽しみだった。
いまはデンマークやスウェーデンでの桂冠指揮者としての称号しかないが、次なるポストはないものだろうか・・・
レコーディングも最近ないのも寂しい。

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