2025年11月 7日 (金)

ブログ20周年 ベートーヴェン ピアノ協奏曲 ポリーニ&アバド

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ある日の平塚の虹ケ浜海岸。

かつて市営プールがあったところが開発されて、ひらつかシーテラスという施設ができました。

この先の茅ヶ崎の道の駅が予想されたとおり渋滞で週末はたいへんなことになっていて、さらにこちらも・・・

なんかもう、人を寄せるこうしたものはいらないね、と思う。

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空が焼けるまえ、富士の上に虹らしきもの、調べたら「彩雲」というらしい。

ちょっとレアな感じでうれしくなりました。

そんなわけで、このブログが2025年11月で開設20年になるのです。

自分で驚いてます。

最初の記事は、2005年11月7日で、二期会の「さまよえるオランダ人」を観劇したものです。
引退してしまったエド・デ・ワールトが指揮をした上演でした。
以来、ずいぶんと記事を起こしたもので、多い時は毎日のように音楽を聴いては書いてました。
2016年にいろんなことが重なり、ブログの継続が怪しくなり、書く気も失せてしまったことがあり、休止期間がありました。
しばしのちに立ち直り、更新のペースを緩やかにして今に至っております。

思えば、この20年でネット環境が著しく向上し、その頃は有線でつながらなければならなかったものが、いまやWifiもあり、スマホもあり、どこにいても情報発信ができ、あらゆる情報を得ることができるようになりました。
加えて、数々のツールがあり、媒体も多岐にわたり、われわれは情報の洪水のなかにあり、自己責任でもってそれらを選択して取りにいくようなったのです。
こうしてわれわれは情報に追われるようになり、知らないと不安に陥るようになったのかもしれない。
ときおり思う、携帯とかパソコンなんかない時代は何してたんだろ?
こんな便利なもの、なくても幸せだったな・・・とね。

動画も文章も、短いものが好まれ、ともがくショート化され、どんどん消化される時代。
かくいう時代に一般的でない音楽ジャンルのブログで長文を残すという、時代に逆行した行為。
どこまでやれるかわからないが、老いて指が動かなくなるまで続けようじゃないか、と思ってる。
自分がいちばんの読者で、かつての自分の記事に感心したり、驚いたりもしてる。

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   ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲

     ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

     (1992.12 1~4番、1993.1 5番 @ベルリン・フィルハーモニー)

2014年1月にアバドが亡くなり、その10年後の2024年3月にポリーニが亡くなった。
ともにミラノ生まれ、年齢こそ9歳の差はあったが、ともに切ってもきれない朋友でした。
多くの共演歴があり、録音も多数。
73年のノーノに始まり、ブラームス、バルトーク、シューマン、シェーンベルク、ベートーヴェン、そして最後がブラームスの2曲。
もっと多くの作品で共演して欲しかったし、晩年のベームよりは、ポリーニがより強靭で明晰なピアノを聴かせていた70年代にはアバドとやって欲しかった・・・と思う。
あとできれば、プロコフィエフをこのコンビで、シカゴで録音して欲しかった。

92年の年末から翌1月にかけて、ポリーニをソリストにしたベートーヴェンのピアノ協奏曲チクルスが演奏され、それがライブ録音された。
このときの演奏記録をいつもお世話になってるアバド資料館で調べてみたところ、協奏曲は1曲ずつ演奏され、そこでほかに組み合わされた演目は、ルトスワフスキ、リゲティ、ノーノ、リームなどの作品で、いかにもアバドらしい一筋縄ではいかない角度をつけた演奏会になっていた。
新年の5番のみ、田園とのプログラム。

各曲の終わりには、盛大な拍手もそのまま収録されていて、ライブの雰囲気は抜群だし、音質もベルリンのフィルハーモニーザールの響きそのままで、録音も申し分なし。
ポリーニのうなり声も盛大に聴きとれます。
ふたつのジャケット、双方を購入したのですが、あとになってトリプルコンチェルトと組み合わされて出たので、そちらも入手した。

5曲ともに、このふたりの演奏家らしく、一点の曇りもなく、明晰・明快に尽きる演奏。
表情はいずれも若々しく、重厚感など感じさせず、ベルリンフィルの音色も明るく軽やか。
バックハウスとイッセルシュテット、グルダとシュタインなどで馴染んできたベートーヴェンの協奏曲が別物に感じるくらいに鮮明で、音がクリアなのだ。
今回、ほぼ20年ぶりに聴いてみてそのように感じた。
この時期のアバドのベートーヴェンは、エアチェックでもいくつか残しているが、ブライトコプフ版による従来スタイルで、90年代末期からベーレンライター版による演奏に交響曲では切替えました。
同時に古楽的な奏法も取り入れるようになり、ポリーニとのベートーヴェンもあと数年あとだったらまた違った内容になっていたかもしれません。

今回の連続視聴でとても気に入ったのが、1~3番で、4番は聴き慣れすぎの感もあったかもしれないが、前半3曲が、いかにもベートーヴェンの若さを感じさせる瑞々しさにあふれていたのです。
ベルリンフィルから軽やかな響きを引き出すアバドの若々しい感性に、ポリーニのアドリア海の煌めきのようなブルー系の透明感あるピアノが、若い1~3番にはぴったりだった。
ことに、いずれの番号の緩徐楽章のたおやかで抒情的な美しさ、清々しい歌、とんでもなく感動してしまった。
そして、1~5番までの緩徐楽章だけを連続聴きしてみた。
歳とともに、ベートーヴェンは器楽も室内楽も静かな楽章の方が、心にふれる音楽となってきた。
そんな自分にポリーニとアバドの明るめの演奏はとてもぴったりと来るものだった。
皇帝という名前らしくない5番は清々しく端正きわまりない演奏、4番は透明感あふれる神妙極まりないものだった。

丹精で美しい造形の彫刻を思わせるようなふたりの演奏。
まとまりが良すぎて、不満を持つ向きもあろうかと思いますが、この若々しく明るい演奏はいまの初老の自分にはありがたく、豊かな気持ちにさせてくれるもので、まだがんばるぞーと思わせてくれました。

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ブログ20周年でした。

いつまで継続できるかな、目指せ30年。

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2025年11月 3日 (月)

ドヴォルザーク 交響曲第7番

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赤に染まりつつあるコキア。

秦野市内を流れる水無川をたどって丹沢方面にあがったところにある戸川公園です。

近くに新東名高速道路が通り、開通のおりにはサービスエリアができそうです。

深まる秋の日々、連日にわたり、ドヴォルザークの交響曲第7番をばかみたいに聴いた。

  ドヴォルザーク 交響曲第7番 ニ短調 op.70

Szell

秋から冬、しみじみドヴォルザークもいい。
数多い室内楽やヴァイオリンやピアノ作品、オペラもたくさんあるが、ルサルカ以外はあまり上演されない。
あとなんといっても交響曲作家でもあったが、それなのに後半の作品ばかりで1~4番はあまり演奏されない。
そんななかで、最近もっとも演奏頻度があがっている気がするのが「7番」なのであります。
新世界はいまだに新鮮だけど、8番は正直食傷気味なのであります。
あといえば、5,6番はいい曲だと思うのだけど演奏会でほぼなし。

7番は、当時の音楽楽壇の繫栄地ロンドン、そのフィルハーモニー協会から委嘱され、はりきって作曲された作品。
ブラームスの3番を聴いて、おおいに触発され、自信も付けながら完成。
ロンドンでの初演は1885年で大成功。
次の5年後の8番が、かつては「イギリス」と呼ばれたものの、そちらはイギリスで作曲されたわけでもなく、単に出版社がロンドンの社だったのでそのように呼ばれたから、音楽の内容と関係なく「イギリス」と名をつけてしまうなら「7番」のほうがそれに相応しいともいえるかも。
しかし、この7番はイギリスはおろか、ブラームスの亜流といったものを感じさせない音楽なところがよい。
ボヘミアの風土、音楽語法、民族臭などが強めだったこれまでの交響曲に比し、ドイツ的なかっちりした構成と豊かな表現力、オペラをいくつも手掛けてきて養われた劇的な音楽の進め方などが際立つ交響曲なのですね。
しっかりした交響曲でありながら、ドヴォルザークらしいボヘミアの風も感じさせるところが魅力的であります。


最初と最後の楽章が短調だが、それぞれの楽章の第2主題は、田園情緒感じる和みの旋律。
第2楽章が大好きです。
ブラームスの3番の2楽章とも似通っていて、抒情的で歌にあふれていてずっと聴いていたい音楽。

3楽章も、8番のスケルツォ楽章を思わせるメランコリックな雰囲気で、こちらは舞曲的な民族色が濃厚。
新世界→8番→7番の順に好きになっていったけれど、最初は3楽章が気にいったものだ。
いまはダントツで2楽章が好き。

①ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団
           (1960.3.18 @セヴァランスホール、クリーヴランド)
 初めて買ったレコードがセル盤で、この1枚がこの曲の刷り込み。
やや硬質な音で、きっちりした演奏でありながら詩情も忘れず、ゆたかな情感にあふれた名演だった。
CDで買い直したら音もよくなり、さらにいい演奏だと確信したし、終楽章も存外にダイナミックだった。

②ズビン・メータ指揮 イスラエル・フィルハーモニック
           (1968 @テルアビブ)

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 7番の交響曲を初めて聴いたのが、メータとイスラエルフィルのベルリンでのライブ放送で73年のものだったかと記憶。
FMで放送され録音したもので、これを繰り返し聴いてこの曲に馴染んだのちにセルのレコードを買った。
レコードの方は、71か72年にロンドンレコードから発売されたはずだが、CD化はずつとされず外盤で2000年頃に発売されたが、いまや廃盤の様子で、一昨年こちらはうまく入手ができた。
この時期のメータらしいメリハリの効いた、じつにウマい演奏で、旋律の歌わせ方や歯切れのいい金管の心地よい響かせ方、気持ちよく決まるティンパニなど、まさにやるじゃん、と思うナイスな演奏。
面白い演奏だが、憂愁や陰りなないし、ヨーロッパがない。

③ジョン・バルビローリ指揮 ハルレ管弦楽団
           (1957 @マンチェスター)

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 バルビローリのドヴォルザークは3曲の交響曲があるけれど、いずれも大好きですね
慈しむように曲を大事に愛するように指揮するサー・ジョン。
2楽章の滋味あふれる演奏はもう最高です。
まるでディーリアスみたいな音のするオーケストラとちょっとひなびた録音も懐かしい響きにあふれてる。
長く続いたマーク・エルダーに変わったいまのマーラーやショスタコを得意とする指揮者で、ハルレ管が遠くに行ってしまうようで寂しい・・・

④カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ロンドン・フィルハーモニック
           (1976   @アビーロードスタジオ、ロンドン)

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 ジュリーニがいちばんよかったのは、70~80年代前半ぐらいまでと思っているが、その一番の時期の録音がこちら。
DGに移籍する頃で、シカゴと当時ハイテインクのもとで絶好調期にあったロンドンフィル、ウィーン響と録音していたジュリーニ。
ウィーン響との来日でジュリーニファンになったのもこの時期で、誠実で集中力みなぎる指揮者と渋めのカラーのオーケストラで、セピア色のヨーロッパの景色を見るような演奏になっている。
ゆったりした2楽章は、まるでブルックナーの緩徐楽章かと思うくらい。
よく歌う演奏は存外にしなやかで、きっと聴くことのないであろうコンセルトヘボウとの後年の未聴の再録音より若々しいと思ってる。
シカゴとの8番と9番とでセットで素晴らしいジュリーニのドヴォルザークであります。

⑤コリン・デイヴィス指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
           (1975.11 @コンセルトヘボウ)

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 コンセルトヘボウとフィリップスということで思い起こすことのできる、そのイメージ通りの演奏に録音。
この時期のハイティンク、デイヴィスとのハイドンやストラヴィンスキーなど、ともかくコクのある豊かなオーケストラの音色がいずれもすばらしく、ブラームスの3番というイメージに一番近く感じる演奏だと思う。
それにしても、この頃のコンセルトヘボウというオーケストラと、その音を見事にとらえたフィリップスは何を聴いても素晴らしく、私のような思いはノスタルジーにすぎないと思われるかもしれないが、この音がもう失われてしまったと思うと悲しい。

⑥オトマール・スウィトナー指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
           (1981.2 @ベルリン)

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 スウィトナーがあれよあれよという間にドヴォルザークを全曲録音したのには、当時は驚きましたね。
奇をてらわない、ナチュラルな姿勢を貫いたいつものスウィトナーらしい柔和な音楽がここにあります。
ベルリンのオーケストラながら明るい色調があり、響きは軽めで自然児のようなドヴォルザークは魅力があります。
ドイツ統一後のバレンボイムやいまのティーレマンの方が、よっぽど重厚な音がするベルリンシュターツカペレは、オーストリアの指揮者スウィトナーでユニークなコンビだったといまは思います。

⑦ロリン・マゼール指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
           (1983.2 @ウィーン)

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 ウィーンと蜜月だった頃にマゼールはDGとソニーに多くの録音を残したが、そのなかの1枚が後期3曲の交響曲の録音。
案外とまとも、なんていったらおかしいが、変なことしてないストレートな演奏で、素直にウィーフィルの音、ムジークフェラインの音が楽しめる。
それ以上でも以下でもないと思うし、マゼールならもっと掘り下げてやらかして欲しかった。

⑧ネヴィル・マリナー指揮 ミネソタ管弦楽団
           (1983.3 @ミネアポリス)

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 以前書いたものを再掲「早めのテンポで、こだわりなく、すいすい進む。
ときに、ティンパニの強打を見せたり、終楽章でたたみ込むような迫力を見せたりと、思わぬメリハリを展開してみせる。
2楽章のブラームスがボヘミアにやってきたかのような、内声部のほのぼのとした豊かな歌が、マリナー特有のすっきり感でもって、とても爽やかに聴くことができます。」

⑨アンドレ・プレヴィン指揮  ロサンゼルス・フィルハーモニック
           (1988.5 @ロイスホール、UCLA)

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 ジャケットも美しく、ノスタルジックなプレヴィンのドヴォルザークシリーズ。
メータのロスフィルとは別物のように感じる柔和でウォームトーンのオーケストラ。
プレヴィンの優しい目線も感じるこの演奏、やはり2楽章と3楽章が美しく、曲全体に内声部の描き方が新鮮でオヤっと思う瞬間があったりした。
久しぶりに聴いてみて、こんなにいい演奏だったか、と思った次第。
亡くなって6年が経ち、プレヴィンの名も埋もれがちかと思うが、新しいライブなど発掘されないものだろうか。

※ドヴォルザークを語るうえで欠かせないノイマンとチェコフィルの2つの全集、ケルテス、クーベリックといずれも所持してないのです。
これはいけませんね、いつかはと思いつつ・・・という音盤はまだたくさんありますよ。

⑩イルジ・ビエロフラーヴェク指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
           (2012、13 @プラハ)

Dvorak-belohlavek

 亡くなる5年前に、ビエロフラーヴェクは手兵のチェコフィルでドヴォルザークのいろんな作品を一気に残してくれた。
しかもデッカの録音がとてもよろしくて、すべての交響曲やスタバト・マーテルなど、すべてがスタンダートとなるべき理想的な演奏かと。
冴えたオーケストラの響きには、往年のくすんだ美音とかのイメージのチェコフィルとは異なり、ヨーロッパのオーケストラのひとつという認識を与えるもの。
この傾向は、ビシュコフ盤を聴くとより感じるが、政治的にも安定し、スロヴァキアと分離したいまのチェコは多難な時代のオーケストラの強い個性が失われて感じるものの、ビエロフラーヴェクの元でのドヴォルザークやほかの自国作品においては、完全に自分たちの音楽という自信やプライドがにじみ出ているように思う。
指揮者とオーケストラが一体化した、幸福な結びつきを、9曲の交響曲を順番に全部聴くことでまざまざと感じる。

⑪セミョーン・ビシュコフ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
                              (2023.9 @プラハ)

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 大柄なドヴォルザークというイメージで構えは大きい一方で、細部にも目線が行き届いた緻密な演奏と感じる。
チェコフィルは実にうまいと思うが、もっとスッキリしたビエロフラーヴェクの方が歌が豊かだし、気持ちがいい。
マーラーを得意とし、ブルックナーをやらないビシュコフならではのドヴォルザークと言ったらいいか。
3つの交響曲以上に、「自然と人生と愛」という序曲3部作がとてもいい。
次の首席のフルシャも交響曲を全部録音してくれるだろう。

最後にネット録音した海外ライブから、これから日本でも活躍する注目の若手の演奏

⑫ダニエレ・ルスティオーニ指揮 アルスター管弦楽団
            (2024.8.18 ロイヤル・アルバートホール)

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 新イタリアの若手三羽烏のひとり、42歳にしてもうオペラの手練れ。
リヨン歌劇場でレパートリーを広げ、アルスター管、メットオペラの首席客演指揮者、来年からは都響の首席客演となるルスティオーニ。
イケメンイタリア男で、奥さんのヴァイオリニスト、デコーも美人さん。
ともかく欧米の劇場から引く手もあまたの存在。
プロムスで聴衆を熱狂させたこのドヴォルザークは、指揮ぶりは熱烈だけれども、その音楽は本格派で起承転結が見事で構成感も見事。
来年1月の都響では、ヴェルディ、ワーグナー、レズピーギ、夫妻共演ブラームスなどが予定されていて、いずれもチケット入手済み

⑬ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
                              (2024,6.16 @ムジークフェライン)

Viotti

 2世指揮者のなかでもピカイチの実力派、そしてこちらもイケメン極まりない35歳のロレンツォ君は、東京交響楽団の次期音楽監督。
ローザンヌ出身であることから、独・仏・伊、いずれの音楽にも通じ、すでに幅広いレパートリーを身につけている。
こちらもオランダオペラとネーデルランドフィルという、比較的好きなことができるポストで腕を磨いた。
いまや世界のオーケストラとオペラから引っ張りだこだ。
ウィーフィルを指揮してしなやかで、流麗なるドヴォルザークを聴かせてる。
すでに東響でこの曲を指揮しているようだが、実は来期にも取り上げる。
そのときの組み合わせが、ブラームスの3番というから、ロレンッツォ氏のプログラムはなかなかにおもしろい。
ツェムリンスキーやコルンゴルトもよく指揮しているから、今後ともに楽しみな存在であります。

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ドヴォルザークは、メロディーメーカー。
室内楽など、まだまだその宝庫は尽きず、オペラもいくつか揃えているが、この先ちゃんと聴けるかな。         

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2025年10月27日 (月)

J・シュトラウス 「こうもり」 カラヤン&ベーム

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秋の出雲大社相模分祠の手水舎。

神無月の10月なので、神様は出雲にお出まし中ですが・・・

名水の里、秦野市ですから、境内には龍蛇神の社があって、清らかな湧き水が流れ汲むことができます。

いまいる町は秦野に近いので、水はすべて秦野市内にいくつもある名水スポットから汲んできてます。
ともかく美味しい水です。

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2025年は、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の生誕200年の年。
そして、10月25日がその誕生日。

1975年の生誕150年もよく覚えていて、まだウィリー・ボスコフスキーが健在で、数々のライブ放送がFMで放送されたし、なんといってもベームがウィーフィルとやってきて記念碑的な演奏をいくつもNHKホールでやってくれた年だ。
そのなかには、ジュピターとシュトラウス作品集のコンサートもありました。

今宵は、ともにデッカ録音のウィーンフィルとカラヤンとベームの「こうもり」を久方ぶりに聴いてみました。
ウィーンフィルには伝説級のクレメンス・クラウス、以前もブログで書きましたプレヴィンなどの録音もありますが、60~70年代、ウィーンで人気を二分したふたりの巨匠、しかもデッカ録音ということで。
クライバーやボスコフスキーは、またの機会に。

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   J・シュトラウス 喜歌劇「こうもり」

   アイゼンシュタイン:ヴァルデマール・クメント
   ロザリンデ:ヒルデ・ギューデン
   アデーレ:エリカ・ケート
   ファルケ:ワルター・ベリー
   フランク:エベールハルト・ヴェヒター
   オルロフスキー公:レジーナ・レズニック
   アルフレート:ジュゼッペ・ザンピエッリ
   ブリント:ペーター・クライン
   フロッシュ:エーリヒ・クンツ
   イーダ:ヘドヴィヒ・シューベルト

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
                  ウィーン国立歌劇場合唱団

  ガラ・パフォーマンス
    レナータ・テバルディ、フェルナンド・コレーナ
    ビルギット・ニルソン、マリオ・デル・モナコ
    テレサ・ベルガンサ、ジョン・サザーランド
    ユッシ・ビョルリンク、レオンティン・プライス
    ジュリエッタ・シミオナート、エットレ・バスティアニーニ
    リューバ・ヴェリッチュ

  ピロデューサー:ジョン・カルショウ、クリストファー:レイバーン
  エンジニア:ゴードン・パリー、ジェイムス・ブラウン

      (1960.6 @ゾフィエンザール、ウィーン)

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 J・シュトラウス 喜歌劇「こうもり」

   アイゼンシュタイン:エベールハルト・ヴェヒター
   ロザリンデ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
   アデーレ:レナーテ・ホルム
   ファルケ:ハインツ・ホレチェク
   フランク:エーリヒ・クンツ
   オルロフスキー公:ヴォルフガング・ヴィントガッセン

   アルフレート:ヴァルデマール・クメント
   ブリント:エーリヒ・クッヒャー
   フロッシュ:オットー・シェンク(映像)

   イーダ:シルヴァン・ラカン

  カール・ベーム指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
            ウィーン国立歌劇場合唱団

  プロデューサー:ジョン・モードラー
  エンジニア:ジェイムス・ロック、ゴードン・パリー

      (1971.11 @ゾフィエンザール、ウィーン)

10年を隔てたふたつの録音ですが、カラヤン盤はカルショウ率いるデッカのソニックステージの全盛期のもので、ウィーンフィルでゾフィエンザールといえば、カラヤンの一連のイタリアオペラ、ショルティのリングやシュトラウスなどが思い浮かびますね。
まさにそれらと同じく、レコードで視覚的な効果も再現するという、まさにレコード芸術を極めたもので、いま聴いてもそのリアリティは面白く、レコード時代には味わえなかった鮮明さも嬉しいものだ。
しかし、何度も聴くと飽きが来てしまうのも事実だろう。
このカラヤン盤の最大の特徴は、2幕の後半におかれたガラ・パフォーマンス。
11人のいまや伝説級の名歌手たちがまったく予想外のレパートリーを披露してくれる。
テバルディはメリー・ウィドウ、ニルソンはマイフェアレディ、デルモナコがナポリタン、ビョルリンクがレハールなどなど。
これらの豪華メドレーに、その場のパーティー会場の参加者たちはそれぞれに拍手喝采を送っていて、それらも一連の流れでよくできていてまさにリアル。
でもこれらは、この録音のためにその場で歌われたものではなく、音質も均一でないのでやや場違い管は否めず、日ごろ聴くには冗長だろう。
 カラヤン盤のプロデューサーとエンジニアの名前を見るだけでも、当時のデッカ録音の企画力と鮮やかな音がわかるというもの。
半世紀以上経過したいまも昨今のライブ録音とは別な次元でのリアル感ある素晴らしいものだと思います。

レコードを芸術に特化したカラヤン盤から10年後のベーム盤。
こちらはストイックなスタジオ録音で、おあそびはゼロで、登場人物たちのセリフも大幅カット。ガラ・パフォーマンスもなく「雷鳴と電光」のみ。
そうこちらは映像作品あり、その上質なサウンドトラックでもあります。
でも録音はデッカサウンドをしっかり踏襲していて極上であります。
そして、ベーム盤はやはり映像を見ないといけない。
どちらも楽しめるのがベーム盤のいいところ。

「カラヤン盤」

60年代のキリリと引き締まったカラヤンならではの演奏。
しかもウィーンフィルの当時の美質が満載で、まだまだローカル感もほどよくあり、いわゆるウィーン訛りも聴かれるオーケストラだ。
EMIのフィルハーモニアとの旧盤の方が世評は高いようだが、私は未聴。
ウィーン国立歌劇場の音楽監督として在籍した時代、59年アイーダ、60年こうもり、61年オテロ、62年トスカ、63年カルメンと毎年ウィーンフィルとオペラ録音を重ねたカラヤン。
その後はスカラ座、さらにはベルリンフィルとオペラ録音をするようになり、ウィーンフィルとのオペラ録音は74年の蝶々さんまで間が空くことになりました。
いろんな時代のカラヤンのオペラのなかで、60年代がいちばんカラヤンらしく、指揮者中心のオペラでなく、歌手もオーケストラも対等にある総合芸術としてバランスがいいと思う。
歌いまわしの巧さ、キレの良さ、なによりも若々しい表情が魅力で、そこにウィーフィルの音色もプラスされます。
録音の良さも前述のとおり。

歌手に関しては、やや古めかしいと感じる声も散見されるが、なんといっても懐かしい名前ばかりで、まさにウィーンで日頃歌っていた日常の名歌手たちによる歌唱で、チームワークもばっちり。
ギューデンの声の美しさはすばらしく、エリカ・ケートも可愛い、がしかし、いずれも今の歌手たちの歌唱に慣れた耳からするとやや時代を感じさせもする。
クメントとヴェヒターは、ベーム盤でも役柄を変えて登場していて、ともに「ウィーンのこうもり」にはなくてはならない存在だった。
手持ちのCDは、CD初期の西ドイツ原盤だが、最新のリマスターでも聴いてみたいと思う。
とくに賑やかで晴れやかなガラ・パフォーマンスのシーンは刷新された音質で聴いてみたい。

「ベーム盤」

セリフのないぶん、音楽のみに浸ることができ、その結果、シュトラウスのこのオペレッタがメロディーの宝庫とわかる。
汲めども尽きぬ、美しく楽しい音楽。
そして巧みに素敵なアリアが挿入され、それらが実に心ニクイほどによく書けてて、思わず口ずさみたくなるものばかりときた。
このあたりを生まれたばかりの音楽のように鮮やかに演奏してみせたのがクライバーということになるだろう。

ベームの音楽は、決して四角四面のものでなく、またこの時期は覇気にもあふれていたので活気あふれるものです。
さすがに跳ねるようなリズムや、カラヤンのような歌いまわしの巧さなどはありませんが、オペラ的な感興にあふれていて雰囲気豊かです。

歌手たちは、70年代ともなると、自分にはお馴染みの顔ぶれとなり、実際に聴いたこともある名歌手も混じってます。
このあたりが、いにしえ感を感じさせるカラヤンの60年代メンバーと違うところ。
そしてやはり、この時期にウィーンでこうもりを歌っていた常連ばかりで、クンツ、ホレチェク、ホルムはまさにウィーンでの、そしてお馴染みのシェンク演出の常連だった。
そしてこの3人の芸達者ぶりが実に見事なものでした。
あとなんといっても、ヘルデンテノールのヴィントガッセンのオルロフスキー公が愉快だし、まさにあのヴィントガッセンそのものの声で大真面目に歌っている。
その真面目さが逆に滑稽の域に達していて、どこかかったるそうにしているところが聴きもの。
トリスタンを歌うヴィントガッセンに、クルヴェナールを歌うウィーンのカヴァリエバリトンのヴェヒターという組み合わせも妙なる面白さ。
まだまだ若々しいヴェヒターのアイゼンシュタインは、テノールで歌われる同役を器用に、巧みな技巧であくまで自然に歌っていて素晴らしい。
素晴らしついでに、ヤノヴィッツの硬質だけれど美声のロザリンデもこの役の理想形でありました。

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音楽にみを納めたCDは、先に書いた通り、音楽の良さが素直に味わえるのですが、一方でセリフがなく、間がなさすぎることや、ドラマとして真剣に考えると唐突な展開にすぎると言えるかもしれない。
そのうえで、連続して何年振りかでDVDを視聴してみると、これがまた実に面白かったし、実によく出来てる。
舞台でなく、映画のセットでの映像であるだけに、細部にいたるまで完璧だし、豪華絢爛で、ヨーロッパのこの時代の贅沢三昧の人々の生活の上澄みを味わうこともできる。
具象的なシェンクの演出もこうした作品では文句ないし、そのシェンクが愉快なフロッシュ役でドタバタ演技をしているのも楽しい。
 序曲ではベームとウィーフィルの演奏もそのまま収録されていて、この時期のウィーフィルのお馴染みの面々が確認できたりする。
最後にヴィントガッセンはCDで聴くより、こちらの映像の方が数十倍も面白いデス!

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じつは「こうもり」は、劇場で観劇したことがありません。

始終やってるからまあいいや、と思っているうちにお爺さんになってしまった(笑)

神奈川フィルのコンサートオペラでやったらウケると思うんだけど。

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2025年10月21日 (火)

神奈川フィルハーモニー 定期演奏会 沼尻指揮 ブルックナー8番

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この日のみなとみらいは、秋はどこいったかと思わせるような陽気。

ブルックナーの8番、一曲のプログラム

昨年暮れから、8番は3度目で、うち2回は初稿版による演奏で、今回は一般的なノヴァーク版2稿。

満員のみなとみらいホール、開演前に沼尻マエストロから、プレトーク。

終わりの方しか聴けなかったが、マイクが林立していて、今夜の演奏はCD化されると発表。
ゆえに携帯とかチラシ落としなどにご注意を、また昨今話題のフライングブラーボーも、ご自身の証として残したいと思っても、そこはいまはちゃんと消せるし、最後の「ミレド」はちゃんとゲネプロで収録しているので安心してください、とユーモアたっぷりに語りました。
これを抑止力としてか、最後の音が消えても、しばらくホールは静寂につつまれ、ほんとうに至福の瞬間を味わうことができたのでした。

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 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 シリーズ第408回

  ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調 (ノヴァーク版第2稿)

    沼尻 竜典 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団


      コンサートマスター:石田 泰尚

          (2025.10.18 @みなとみらいホール)

8番を聴くとなると、レコード時代から、いまでもCDでも、特にライブでは、ほんとに真剣に構えるようにして聴き入る自分。
それだけ聴き手に緊張と集中を強いるブルックナーの最高傑作であり、交響曲としても最高峰に位置する作品であります。

ですが、そんな肩ひじはって聴かなくても・・・と思わせてくれるくらいに自然でさりげなく始まり展開した1楽章。
自分でかける呪縛が馬鹿らしく思えるほどにカジュアルな演奏とも思った。
すんなり、すいすいと進行し、タメや思い入れはなし、自分がよく聴いてきたブル8と一線を画した演奏に、正直とまどいましたね。
その印象のまま2楽章になり、野人どころか、スマートな「ハマのブルックナー」じゃん、と思うようになった。
だから、トリオの部分はとても美しく夢見るような印象を与えた。
ここまで、オーケストラの精度は完璧で、金管やホルン・ワーグナーチューバのセクションも明るく、でもソフトですらあった。

後半の長大なふたつの楽章。
基本の印象は、前半のままに、しかし3楽章の弦楽器主体に重きを置いたかのような演奏に、神奈川フィルの石田組長率いる弦楽セクションの繊細かつ美音の連続に、それはもう恍惚とするような感動を味わったのです。
ここで歌わせる指揮者、沼尻の意図もあり、弦も木管も、素敵すぎたホルンも、みんな気持ちよくブルックナーの音楽に心を合わせて奏でている。
テンポは速めだが、まんべんなく歌うので、停滞感なくその速さを感じない。
なんてブルックナーの音楽は美しいんだろ、聴いてて何度も何度も思った。
徐々に高まりゆく感興も自然体で、ずっと譜面の奥に頭だけが見えていたふたりの打楽器奏者がすっと立ち上がり、そして来ましたよ、あの頂点。
痺れるような感動というよりも、自然のながれで達した頂きに、さわやかで清らかな感動を味わいました。
その後の美しいコーダに清涼感を感じるのもこの日の沼尻&かなフィルの演奏ならではだった。

終楽章の勇壮なファンファーレも明るく、そしてフレッシュだ。
ホルンとワーグナーチューバの若いメンバーたち、ともかくうまいし、その輝かしい音色が心地よい。
ワタシの大好きなフルートに始まる木管の爽やかなパッセージも素敵だったが、実はもっとじんわりとやって欲しかった思いもある。
ともかく、この演奏は、こちらがこの作品に思い込んでるものをスルーして違う方向から見せてしまうような印象が随所にあったのだ。
ヨーロッパの山々や教会の尖塔、これらを思わせるブルックナーのイメージはここではない。
スマートかつしなやかな都会的なブルックナーの演奏。
でも神奈川県には海と丹沢山麓がある、それらを遠くに見渡す都会、そんな演奏といったら笑われるかもしれない。
随所にパワーを解放するような強奏はあるけれど、オペラの手練れである指揮者は巧みに最終の巨大なコーダへと導く。
すべてを収斂するかのような明るく輝かしい結末に感じた。
そして最後のミ・レ・ドを思いを込めてじっくりと奏し、曲を閉じると、長い静寂にホールは包まれました。

プレトークの抑止力が効いたのか、われわれは素晴らしい聴衆となりました。
鳴りやまぬ拍手に応え、最後は沼尻さん、石田コンマスを引き連れてカーテンコールににこやかに応じておりました。

幸せな気分にさせてくれた演奏。
ヴァントやハイティンクなどの実演で聴いてきたこの8番、次元の異なる演奏を展開してみせたある意味大胆さ。
どこのオーケストラも同じように巧くなり、個性も均一化するなか、みなとみらいホールで育まれてきた神奈川フィルはユニークな音色と響きを持つ存在だと思います。
薄味ながら、わたくしは、こんな和風テイストの「ハマのワーグナー」もいいじゃんよ、と思ったのでした。
これもありだな。

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こちらは「ハマの番長」

横浜DeNAを5年間率いてきた三浦監督も今年で退任。
大洋ホエールズ時代からずっと横浜ファンなので、横浜ひとすじを貫いてくれた三浦大輔はとても親しくも得難い存在だった。
きしくも同じ奈良県出身の高市総理大臣が誕生した今日、橿原市にゆかりがあるのも共通しているふたり。
でも高市総理は熱烈な阪神ファンなんだよね。
三浦はFA宣言のとき、阪神から熱烈コールを受けたけれど、横浜一筋を選んだ。

音楽には関係ないけれど、横浜つながりで「ハマの番長ありがとう」で締めてみました。

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2025年10月13日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 マルッキ指揮

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急に涼しくなった土曜日のサントリーホール。

もう半袖ではとうてい無理で、ジャケットを羽織って向かいました。

2週間前にここでマタイを聴いたときは、まだ暑いと言っていたのに季節は急速に秋に向かいました。

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    東京交響楽団 第735回 定期演奏会

 ベートーヴェン 交響曲第6番 ヘ長調 op.68 「田園」

 ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」

   スザンナ・マルッキ指揮 東京交響楽団

     コンサートマスター:景山 昌太朗

        (2025.10.11 @サントリーホール)

まったく性格のことなる二つの作品によるプログラムだが、案外と多いこの2曲によるコンサート。
古い自分には、かつて晩年のマルケヴィッチが日本フィルに来たときにやったように記憶している。

マタイ受難曲から田園までは81年、田園からハルサイまでは105年、バッハからストラヴィンスキーまで200年の年月の隔たりのある音楽を、2週間のうちに同じオケ同じ席で聴く妙味。
ハルサイは100年前の音楽なんだな、とも今更ながらに思った。
演奏するオーケストラのみなさんは、まさにプロだなと感心しつつ、いまも変化しつつある西洋音楽の流れを思ったものでして、未来にいまのゲンダイの音楽はどう聴かれるのか・・・などとも思いましたね。

さて、フィンランドの指揮者マルッキは、長く務めたヘルシンキフィルの名誉指揮者となっており、いっときは次のニューヨークフィルの指揮者とも言われた実力派。
自国ものと、近現代音楽に強みを持つ彼女の指揮は、おもに海外のネット配信で多く聴いてきたが、ヘルシンキとのシベリウスもさることながら「グレの歌」での濃密な大作を明快に聴かせる手腕に感心をしていました。

シベリウスの1番あたりを聴きたい気もなくはなかったが、「田園」の出だしを聴いた途端に、北欧の風を感じたのです。
一瞬、音と響きが薄く感じられ清冽な風が吹いたようにも思ったが、それが徐々に瑞々しくなり、弦楽のしなやかな美しさにステキな管楽器が唱和する、えもいわれぬ幸福感を1楽章、2楽章で味わうこととなりました。
ベーレンライター版を重視し、セカセカしてしまう田園でなく、昔から聞き馴染んできた僕らの田園がここにあった。
リズム感抜群の3楽章、ティンパニのハリのいい強打がアクセントとなった4楽章、そして誰しもを安堵させ、幸せにしてしまう感動的な終楽章。
東響のみなさんも、ほんと気持ちよさそうに演奏してた。
45分をかけた真摯で丁寧な田園、こんな田園を聴きたかった。
最後の音が鳴り終わったあとのしばしの間もありがたかった。

気分よくロビーにでると、ここは北欧か、欧米か・・・
フィンランド大使館が後援についてることもあり、背の高いいかにも北欧の方風の人が多くいらっしゃいました。

ノット監督のもと、築き上げられてきた東響の鉄壁のアンサンブルと技量に感じ入ることのできた「春の祭典」
存外に冷静沈着に始まり、その流れで淡々と進行した春の兆しは、スピード感よりは的確で確実な音楽の歩みのなかにあった。
マルッキさんの拍子は完璧で、うしろからも素人の自分がみていてもとても判然とわかりやすく、ノット監督の指揮に慣れた東響とすれば、まさにやすやすと着いていきやすい指揮だったろう。
第1部は総じて安全運転のように感じつつも要所要所で切れ味の良さと、立ち上がりの良さ、音楽の変わり身をずばりと決めてゆく心地よさがあった。
マルッキさんの躍動する指揮にあわせて、腰のあたりのお洒落なスカーフが舞い踊るのも実にステキだった

第2部での神秘感あふれる序奏とヴィオラの重奏、アルトフルートの妙技など、こんなに真剣に聴いた自分もありましたが、これらのか所に美しさを見出すことができたのも精度の高い今宵の演奏あってのもの。
そして来ました、11連打!
ここから猛然とアクセル全開、ものすごいスピード感と音圧、オケも夢中、われわれ聴き手も夢中になってしまうマルッキハルサイ。
ホルン陣のベルアップを見るだけでも興奮のワタクシ。
基本、マルッキさんの指揮棒を見つつも、オケの皆さんをそれぞれにみまわし、忙しいよ自分。
スピード感と緊張感を保ったまま生贄の踊りに突入。
巨大なうねりが何度も襲い来る、息つく間もないドラマテックな展開に熱狂の渦を巧みに作り上げる指揮者の実力とオケの力量。
最後の一音の前の一瞬の間も実に見事。
最終音のあとのホールの余韻も含めて完璧だった。

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カーテンコールでは、マルッキさんを盛大な拍手で呼び出し、にこやかにお応えでした。

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実力派指揮者マルッキ、来シーズンは都響に客演して、得意中の得意曲「青髭公の城」をやります。

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1週間後には、こんどはハマのブルックナー。

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2025年10月10日 (金)

バッハ カンタータ第51番、第199番 ドゥヴィエル

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今年の彼岸花は、例年より遅く開花し、ちょっと涼しくもなったものだから長く咲いていたように思います。

ちょっと田舎暮らしなので、少し車を走らせると、畑や田のあぜ道にきれいに整列して咲いてたりして、赤と緑のグラデーションがきれいなのでありました。

ようやく秋。

ノットのマタイから2週間後、はやくも次の東響定期の日がやってきますが、プログラムは「田園」と「ハルサイ」ということで、マタイの耳からいきなりギアチェンジしなくてはならなくて・・・
その前に、バッハの教会カンタータを聴いときます。

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  バッハ カンタータ「全地よ,神に向かいて歓呼せよ」BVW51

      カンタータ「わが心は血の海に漂う」BWV199

           S:ザビーネ・ドゥヴィエル

  ラファエル・ピション指揮 ピグマリオン

       (2020.12 @聖霊教会、パリ)

バッハの教会カンタータのソプラノのための作品の代表作のふたつ。

51番は、三位一体節後第15日曜日(またはすべての機会)=1730年9月17日初演。
199番は、三位一体節後第11日曜日=1713年8月27日初演、1723年再演。
それぞれの礼拝のために書かれたカンタータで、199番は1911年に発見された.

トランペットの華やかなソロもあり、さらにソプラノにもコロラトゥーラの高度な技量も求められる華やかさとともに、清涼な祈りのアリアも持つ明るいカンタータが51番。

一方、おっかないタイトルを持つ199番は、オーボエのソロが活躍し、それはソロに寄り添うように、沈痛であったり最後には喜ばしくあったりととても雰囲気豊かで、人間の篤い信仰心を描いたカンタータです。
ちなみにこのタイトルは義の人イエスに対し、苦悩するわれ(自分)の心情のこと。

アレルヤで締められる神への賛美の51番、同じ賛美でも悲しみと苦悩を経て、感謝へとつながる191番。
トランペットとオーボエという楽器の選択の違いでも、その性格の違いがよくわかる2曲でありました。

こうした作品のふたつをメインにすえ、ヘンデルのブロッケス受難曲、ジュリアスシーザーからのアリアも配したCD。
バッハとヘンデルの音楽の違いも明らかになる。
いま大活躍のフランスのソプラノ、ドゥヴィエルの清らかでありつつ、軽やかで無垢なる歌声がすばらしく、さながら天使のようだ。
透明感もあふれるその声は、バッハの宗教的な作品にその清潔感がぴたりとはまり、それはヘンデルのある意味、人間味あふれる音楽にも混じりけがなく心地よくはまってます。
ご亭主のピションは、オペラ指揮者としてもモーツァルトを中心に目覚ましい活躍を見せてます。
学究肌のピションは、多面的な研究のもと、斬新な解釈をみせるものの、その音楽が四角四面にならずに、ともかく明るく爽やかなところがよい。
ここでも古楽器がいにしえの鄙びた響きでなく、いまここにある現実のものとしてナチュラルに聴かれるところが新鮮だ。

かつて聴き親しんだリヒターの一連のバッハとは、また違う次元、さらにはアーノンクールやヘルヴェッヘ、ガーディナー、鈴木などともまた異なる清涼感もあるラテンテイストのバッハが、とても気にいってます。
同じことがドゥヴィエルの歌唱にもいえて、手持ちのシュターダー、マティス、ポップともまた異なるバッハとして心地よく聴きました。

 「ドゥヴィエルヌ モーツァルト歌曲とアリア」

「ルチア・ポップ カンタータ第51番」

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2025年10月 1日 (水)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮 マタイ受難曲

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サントリーホールのお隣にある霊南坂教会のステンドグラス。

待ちに待った、ノットと東京交響楽団の「マタイ受難曲」

開演に先立ち、教会に立ち寄りました。

次の日、日曜の礼拝にそなえてオルガンを練習する音色も聴かれまして、おそらくバッハのコラールでしょうか

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  東京交響楽団 第734回 定期演奏会

       バッハ マタイ受難曲 BWV244

    エヴァンゲリスト:ヴェルナー・ギューラ
    イエス:ミヒャエル・ナジ
    ソプラノ:カタリナ・コンラディ
    メゾ・ソプラノ:アンナ・ルチア・リヒター
    テノール:櫻田 亮
    バリトン:萩原 潤
    バス  :加藤 宏隆

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
              東響コーラス
              東京少年少女合唱団

      合唱指揮:三浦 洋史
      ヴィオラ・ダ・ガンバ:福澤 宏
      児童合唱指揮:長谷川 久恵
      コンサートマスターⅠ:小林 壱成
      コンサートマスターⅡ:景山 昌太朗

        (2025.9.27 @サントリーホール)    

コンサートホールでのマタイ受難曲。
まさにコンサートスタイルでの現代楽器による演奏スタイルとしては最高峰に位する名演奏でした。
あらゆる演奏スタイルを受容するバッハの音楽、そのどれもがまさにバッハであり、バッハの音楽の懐の深さたる由縁であります。
クラシック聴き始めのころ、ジャック・ルーシェなどのジャズの領域におけるバッハ演奏に、ものすごく反発を覚えた自分です。
しかし、いまやそんなことは乗り越えて、正式にバッハを演奏するにしても、その奏法はあらゆる方法があり、そのどれもがバッハなのであります。

サイモン・ラトルばりに、古楽奏法を意識したスピーディかつ切り詰めた表現をするかと思った。
しかし、そんな予想はまりきり外れ、このサントリーホールでの指揮が自身初のマタイとのノットのすごさを今回も思い知るところろなった。

ふたつのオーケストラを左右に配し、総勢は50名ほど。
合唱は東響コーラスがフルスペックで100名以上に、少年少女合唱団。
ここからしてすでに予想は外れ、ソリストと、いつものにこやかなノットの登場するところとなった。

そして全霊を込めた指揮に導かれて鳴りだした音楽は、ヴィブラートをほぼ抑えながらも、じつに豊かで壮麗なもので、そのテンポ感もゆったりめだった。
この予想外の展開に、一瞬そうきたか、と思ったものの、数秒でもう涙腺を刺激されてしまうほどに真実の響きがあった。
いつもの暗譜での東響コーラスも切実なる歌を聴かせて、さらに加わる清澄な少年少女合唱団にも心動かされた。
 このあといくつもあるコラールは、客観性を持たせつつも、その前後の局面でのイエスの置かれた状況への感情移入を絶妙に変えてみせたように、多面的な表現もプラスされていたと思う。
ただ多くの方が感じたかもしれないが、人数がちょっと多すぎて、コラールでは音の輪郭や核心がぼやけてしまったかもしれない。
あと、子音のアクセントが効きすぎて聴こえたことも指摘しておきたい。
でも、この人数での合唱は、コラール以外の群衆の集団や心理などで、実に有効だったし、そのあたりがノットの狙いでもあったものと思う。

私は聴きながら、何度も涙ぐみ、感動のあまりに心が揺さぶられ、手も組み合わせつつ聴き進んだが、この演奏はリヒターのあの峻厳な演奏を現代によみがえらせ、もっと柔和に血の通った人間ドラマにしたものではないかとも思った。
第1部の最後の合唱における優しい響きはいかばかりだったろうか。
第2部に入ると、ノットの指揮の集中度はさらに高まりつつ、東響のソリストたちの素晴らしさも手伝い、音楽の美しさを掘り下げるようで、アリアの数々は本当に美しくてどこまでも続いて欲しいとその都度思うのだった。
さらに劇性も増してゆくかと思い、「バラバ!」「十字架に!」の群衆の叫びをさぞかし・・・と待ち受けていたら、そんなでもなかった。
そこが突出することを避けたのか、全体のなかのバランスとしての経過点に過ぎず、その後のコラールの静謐さとソプラノのアリアの虚無的なまでの無常観、メゾのアリアの淡々とした悲しみ、このあたりへの対比が実に素晴らしく、ここでもワタクシは涙ひとすじ・・・
「安らかに、おやすみください」の最後の合唱。
3時間以上の受難曲の終わりを飾る慰めと無常に満ちたこの音楽に、合唱もオーケストラもソロたちまでもが一体となってノットの神々しいまでの指揮のもとに応えておりました。
音楽が終わっても、会場は静寂のまま・・・・
最初は拍手することすらできなかった私、涙をぬぐって満場の喝采に参加しました。

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実績ゆたかなウェルナー・ギューラの福音史家、初めて聴くとおもったらそんなことはない、手持ちの音源を調べたらいろんなところに名前が出ていた。
知的かつ繊細な歌いまわしは、客観性もあってイエスの受難の物語の語り部としてふさわしい風格と気品もあった。

イエスを歌ったミヒャエル・ナジ、夏にはバイロイトの新演出マイスタージンガーで、印象的なベックメッサーを歌い演じたばかり。
芳醇な声と明晰さ、そして力強いバスバリトンの声も、ここではホールに響き渡らせてくれた。
多くの聴き手が、ナジの声には驚いたはずで、2部では登場も少なかったので、アリアなども出来れば聴きたいと思ったことだろう。
この先、オランダ人やウォータンとしても活躍すると思う。

コンラディのリリカルだけれど、言葉のひとつひとつが明快で、その澄んだ声と明瞭な言葉がほんとに心地がよかった。
その無垢なる声で歌われるソプラノのアリアの数々、ほんとに素敵だった。
彼女もバイロイトで歌っていてリングの第一声を飾るウォークリンデ役だ。

マタイ受難曲の歌手たちの肝ともいえるメゾのルチア・リヒター。
彼女は、ほんとに素晴らしかった。
バッハの音楽への共感にあふれた没頭感が、その姿と歌声ににじみ出ていて、情感を真摯に言葉に載せるナチュラルさも特筆すべき歌唱だった。
そう、「Erbarme dich」では、小林コンマスの美音のソロも手伝い、あまりの正鵠を射る歌に、この日、最大の落涙をしたのでした。
最後の合唱で、折り番となったコンラディとリヒター、合唱と一緒に感動とともに歌っていたのが印象的だった。

実績ある日本人歌手3人も負けじと素晴らしかった。
テノールの櫻田さん、甘い声でもあり、その優しい歌声がよかった。
数々の舞台で接してきたバリトンの萩原さん、ドイツ語も明快でイエスの死後の晴朗なアリアなどは効きごたえ十分。
ピラトも歌ったバスの加藤さんの深みのある声も魅力的で、わたしのイエスを返せでは景山さんのヴァイオリンソロも素敵で、渋い光沢のある声が光りました。

最後に最大級に讃えたい東響の皆さんのソロ。
竹山愛さんのほれぼれするほどのフルート、篠崎さんとの二重奏も素敵だった
そしてオーボエ・ダカッチャの最上さん、オーボエの荒さんの抜群のコンビネーション。
通奏低音で大活躍のチェロの伊藤さん、こんなに大変なんだと見て聴いて感心。
福澤さんのヴィオラ・ダ・ガンバの古雅な響きに切なさまで感じてしまった。
ふたりのコンマスの美音も先にふれたとおり。

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このようにバッハの音楽には、ひとりとして脇役はおらず、全員がバッハの音楽に奉仕するように作曲されていると思う。
その印象は、ノットの自主性を引きだす自在な指揮によるところも大きかった。

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あまりの感動の大きさに、忙しさもありましたが、しばらくは音楽が聴けない状態にあります。

偉大なり、バッハ、マタイ受難曲

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2025年9月24日 (水)

バッハ コーヒー・カンタータ コレギウム・アウレウム

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ベタですが、コーヒー☕
しかもお馴染みのコメダです。

名古屋発祥のコメダ珈琲店は、かつては愛知県を中心とするローカルチェーン店だった。
私は名古屋に単身赴任歴があり、その頃は東海3県ぐらいの出店で、ともかく外で打ち合わせなどをする場合は必ずコメダだった。
喫茶店&モーニング文化の成熟した名古屋圏ならではのスタイルが、いまは全国に浸透し、日本のすべての都道府県でコメダのコーヒーと美味しい軽食が楽しめるようになりました。

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バッハ カンタータ第211番「お静かに、おしゃべりせずに」

    「コーヒー・カンタータ」

   S:エリー・アメリンク
   Br:ジークムント・ニムスゲルン
   T:ジェラルド・イングリッシュ

   指揮:ラインハルト・ペータース   

    コレギウム・アウレウム合奏団

          (1966 @キルハイム)

教会カンタータと対局にあるバッハの世俗カンタータ。
教会の礼拝や暦に則した教会カンタータに対し、お祝い事などで依頼を受けて書かれたのが世俗カンタータで、いつものバッハの厳しさとは違って、物語り性のある楽しい音楽だったりもします。

文化としてのコーヒーは、ヨーロッパでは1600年代半ばにロンドンを中心にして広まり、フランス、オーストリア、ドイツと広まっていった。
アフリカ、中東からの流れであり、それはイスラムとの関連もあるが、ヨーロッパではまさに列強の植民地からの流れだろう。
バッハのいたライプチヒでもコーヒーは女性を中心に大流行。

すぐれた台本作者であったピカンダーというペンネームを持つクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリツィの台本。
このコンビは、「マタイ受難曲」という人類の宝ともいうべき作品を残してます。

ユーモアに富んだ、楽しくもペーソスあふれる内容。
テノールは語りで、コーヒーに夢中の娘とそれ止めさせたい父親のちょっとした物語。
「静かにおしゃべりをしないで聴いて」とテノールの語りから始まる。
父親は娘が言うことをきかないとこぼし、娘はコーヒーを飲まないとおかしくなる、コーヒーはキスよりも葡萄酒よりもおいしいわ、と歌う。
父は、旦那さんが見つからないぞ、と脅しをかけるが、それならすぐに見つけてきて、それならコーヒーは止めるわよ、とうそぶく。
父は急いで婿探しに出かけるが、実は、娘はコーヒーを飲ませてくれない夫はお断り、と言ってまわっているそうな・・・

可愛いアリアが聴きものの素敵なカンタータ。
コーヒーのかぐわしい香りの似合うバッハの音楽であります。

私のようなちょっと古めの70年代男には、極めて懐かしいコレギウム・アウレウム合奏団。
ハルモニアムンディレーベルは、日本ではBASFレーベルとして、テイチクが販売を請け負っていた。
当時としては斬新だった古楽器を使用しての合奏団で、指揮者は置かず、キルハイムの古城のひと間を録音会場としていた。

ここでは指揮者の名前にラインハルト・ペータースがあり、まとめ役みたいな存在だったのだろうか。
このペータースも日本人には馴染みのある、懐かしい名前です。
N響によく来ていて、いわゆるドイツのオペラハウスの中堅的な存在で手堅い指揮ぶりで、テレビとFMでよく聴いてましたね。
いまこの合奏団の音を聴くと、どこが古楽だろうか、古楽器だろうかと思われるでしょう。
ピッチはやや低めで、ヴィブラートも普通にかけられている。
でもその音には落ち着きがあり、いぶし銀のような渋みもあり、心地よくも懐かしいのです。

そして清廉なるアメリングの歌声は、もはや癒しの境地にすらあり、ほんとに素晴らしい。
ワガママ娘というよりは、父親もコーヒーも大好きな優しい娘に感じます。

父親はニムスゲルン。

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実は、ニムスゲルンはこの9月14日に85歳で亡くなりました。
歌曲も宗教作品も、オペラにも、いずれも第1級のバリトンで、声域はバス・バリトン。
ここで聴く父親としての歌いぶりは、とても若く軽やかです。
のちにリリングのもとでバッハ作品をたくさん録音、カンタータや「マタイ」のイエスも懐かしいです。
さらにアイーダのアムナズロも得意役だったし、なんたってワーグナーですよ。
シェローのあとのバイロイトのリングで、ショルテイに抜擢されウォータンを歌った。
このときの録音は、エアチェックして愛聴しているがとくに指揮がシュナイダーに変わったときのものは、最高の美声のウォータンとして、私は大いに気にいってます。
ここにジークムント・ニムスゲルンへの追悼としても、この記事を起こしました。

アメリングはまだお元気の様子で、1933年生れで92歳。
ずっとお元気でいらして欲しい歌手のひとりです。

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前にハイドンの四季で出した画像ですが、わたくしもコーヒーは欠かせません。

毎朝、食事のともに、2杯は飲みます。
かならずそのまま、なにかを入れると飲めません。

ようやく秋の気配が感じられる頃、今週末はノット&東響の「マタイ受難曲」です。
ここでのイエスは、今年のバイロイトでナイスなベックメッサーを歌ったミヒャエル・ナジです。
もう平常心で聴くことができない予感、聴く前から感動してる自分って・・・
コーヒー飲んで落ち着こう☕

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2025年9月15日 (月)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 シュルト指揮

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桜木町駅周辺からのぞむ「みなとみらいエリア」

あいかわらず、夜景の映える場所です。

少し前まで、あちらの方で神奈川フィルを聴いてまして、一杯きこしめしたあとの、すっかり暗くなった街並みです。

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    神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第407回 定期演奏会

   アルチュニアン トランペット協奏曲 変イ長調

   サンドヴァル  「ミスター バラタン」

      トランペット:ステバン・バタラン

   リスト  ファウスト交響曲 S.108

      テノール:村上 公太

   クレメンス・シュルト指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

               神奈川フィルハーモニック・クワイア
               クワイアマスター:岸本 大

                  ゲストコンサートマスター:戸原 直

         (2025.9.13 @みなとみらいホール)

スペイン生まれのバタランさん、よくぞ神奈川フィルが呼んでくれたものです。
シカゴ響の首席に加え、フィラデルフィア管も兼ねるという超凄腕、これまでスカラ座、グラナダ市管、スペイン放送、香港フィルなどの奏者を歴任している。
ブラスをやっている方なら必ず知っているだろうアレクサンドル・アルチュニアンの協奏曲、私は恥ずかしながらその名も知らず、でした。
アルメニアの作曲家でピアノ作品や交響曲などの大きな作品もある様子。
オーケストラのトレモロにのっていきなり吹きだすバタラン氏のトランペットを一聴して即座に驚き。
なんという真っ直ぐに届く輝かしい音色か。
すぐに始まるヴィルトゥオーゾ風の曲調も軽々と鮮やかにこなしてゆく。
いかにもアルメリアらしい、中近東風なオリエンタルなムードを感じるオツな音楽。
エキゾティックな雰囲気に酔いつつも、それ以上にバタランの人間味さえ感じる暖かな音色がすばらしく、どこまでも柔らかま響きが耳に心地よい。
ほんと素晴らしい、素晴らしいとしかいいようがない。
シカゴ響のHPの楽員紹介ページで、バタラン氏のマーラー5番の冒頭が聴けるが、これはたまりませんね!

アンコールは引き続きオーケストラも交えての作品。
あとで調べたらキューバ出身のジャズトランペット奏者アルトゥーロ・サンドヴァルが2021年にバタランのために書いた作品で、ボブ・バレットという方がオーケストレーションをしたもの。
ちょっと検索するとネットでも配信されてます。
とても美しい音楽で、作者もそうですが、やはりバタランさんの心にあるラテン系の明快さ、透明感といったものが、その音色に出てくるんだろうと思いました。

休憩時のロビーには若い方、きっと音楽を学ぶ学生さんでしょうか、たくさん見受けられましたが、みなさん明るい笑顔で凄いもの聴いたという表情が見てとれましたね。

後半は長大な難敵、リストのファウスト。
指揮はドイツのブレーメン生まれの43歳の中堅指揮者クレメンス・シュルト。
リストゆかりのワイマールでの実績もあり、各地のオペラ劇場に客演しつつ、ミュンヘン室内管とカナダのケベック響の音楽監督も務めている。

ファウストをコンサートで聴くのは初めてでありました。
ベートーヴェンの第9が1824年、ベルリオーズ幻想が1930年、交響曲の名を持つ「ロメオ」が1939年、「ファウストの劫罰」は1846年でリストに献呈。
そしてリストのこの「ファウスト」は1854~57年、その間でシューマンの「ファウスト」が1844~54年にかけて作曲されている。
ベートーヴェンが交響曲に歌を加えた、ベルリオーズが巨大なオーケストラ作品を書き、交響曲の概念を拡張した。
そしてゲーテのファウスト(1833年)が、多くの芸術家の創作に影響を及ぼした。

いずれの作品も影響を受け合っているけれど、ベートーヴェンからのベルリオーズの革新性が目覚ましいと思う。
そんな風に思いつつ聴き始めたけれど、沈鬱な1楽章の冒頭主題を聴いたときに、私はワーグナーの「ワルキューレ」を思い起こした。
2幕の終わりの方、ジークムントが戦いにいどみ去り、ジークリンデが不安に取り残されたところで流れるモティーフにそっくり。
以降、一進一退を繰り返すように長々と続くいろんな主題の繰り返し、それが25分も続くので、こうした捉えどころのないリストの交響詩を倍にしたような規模の1楽章。
この晦渋な楽章は、ファウストの悩みや面倒な性格をそのまま表していると思うが、シュルト氏は奇をてらわず、ストレートな音楽運びで楽譜そのままを聴かせた感じだ。
もっと面白く、もっとダイナミックにもできたかもしれないが、リストのまわりくどい音楽には何もしない方がいいとも思ったものだ。
それでも神奈川フィルの優秀なアンサンブルは聴きごたえあり、弦のしなやかさも特筆。

グレートヒェンを描いた2楽章は、神奈川フィルの美質がよりよく出た演奏で、柔和な木管、スリムだけれど美しい弦のアンサンブルなど、聴き惚れてしまうシーンも続出。
めんどくさい男ファウストと、野望に満ちたメフィストフェレス、それぞれの楽章との対比で、かわいらしい無垢なるグレートヒェンの見事な表出であったかと。

同じモティーフが繰り返されたり、打楽器がジャンスカ鳴ったり、ともかく特徴的で、禍々しさもある3楽章は、シュルトの指揮も相当に力が入り、その熱血ぶりも後ろからみていてよくわかり、ときにジャンプも試みていた。
その意欲が空転しないところはよかったし、神奈川フィルの冷静さに徹したプロ根性もよろしい。
ソロと合唱が、いつどうやってステージに登場するかと、心待ちにしていたら、オルガンは少し前、合唱は文字通り3楽章のその直前にスルスルっとあたわれた。
ここで空気感が一挙に変わるのが、この作品の肝であり、いちばんの聴かせどころだろう。
その清涼感とここまで聴いてきたという達成感は、CDなどでは絶対に味わえないものだ。
20人の神奈フィルクワイアの精鋭による合唱も美しく、明晰であり、加えて清水さんに替わって歌った村上さんのリリックな歌声も心に響いた。
村上さんの歌は、かつてカプリッチョやばらの騎士のいずれもテノール歌手役を聴いているが、のびやかで気持ちのいい声です。
 ちゃんと最後の6~7分に、こんな美しい完結感のあるエンディングを持ってくるなんて、リストさん、ほんと憎いです。
上昇し、浄化するかのようなオーケストラ、ティンパニの一撃も見事に決まり、感動のラストでした。
わたくし、ほどよく一声ブラボーしました。

バラエティあふれる、実によきコンサートでした。
楽員さんがステージを去るなか、消えそうな拍手が徐々に持ち直し、最後にシュルトさんにこやかに登場しました。
また神奈川フィルに来てほしい。
今度はシュトラウスとか、シェーンベルクとかのキラキラ系を聴かせて欲しい。

Kanaphil-book

会場で先行販売された出来立てほやほやの、かなフィル読書部のみなさまのエッセイ集。

お馴染みの楽員さんたちの、演奏を思いうかべつつ拝読させていただきました。

神奈川に住んでるエルフ、というコミックの作者によるカバーも素敵であります。

Yokohama-beer

コンサートの仕上げは、久々のメンバーと横浜地ビールで一献。

こちらもまたよろしくです。

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2025年9月10日 (水)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ネゼ=セガン指揮

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台風が来る前の壮絶な夕焼けシーン。

中学生・高校時代は、ここに富士の頭が見えて、こんな夕焼けを見ながら「ワルキューレ」のウォータンの告別を聴いて痺れていたものです。

わが血肉にもなっているワーグナーの音楽。

また新たな音源を発見し悦に浸っておりますところです。

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   ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

   トリスタン:ステュワート・スケルトン
   イゾルデ:ニーナ・シュティンメ
   マルケ王:タレク・ナズミ
   ブランゲーネ:カレン・カーギル
   クルヴェナール:ブライアン・マリガン
   メロート:フレデリック・バレンティン
    水夫、牧童:パク・ジョンヒョン
    舵取り:ネイサン・シュルデッカー

 ヤニク・ネゼ=セガン指揮 フィラデルフィア管弦楽団
              フィラデルフィアシンフォニック合唱団

    (2025.6.1 @マリアン・アンダーソン・ホール、フィラデルフィア)
   
セガンが手兵のフィラ管でトリスタンを全曲やるという情報は前からつかんでいて、それがついに全3幕をネットストリーミングで聴くことができました。
50歳のモントリオール生まれのセガンは、相変わらず積極的な活動をしていて、フィラデルフィアは2012年から、メトロポリタンオペラは2018年から、それぞれ音楽監督をつとめていて、ヨーロッパでも各地のオーケストラに客演していて、レコーディングの数も極めて多い指揮者となっている。
メットでの指揮をべースにオペラも急速にそのレパートリーを拡張しつつあり、モーツァルトの主要オペラはすべて録音したし、ヴェルディ、プッチーニ、主要フランスオペラ、R・シュトラウスなど多く指揮していて、その多くをネットで聴くことができている。
ワーグナーへの取組みもついに開始し、バーデンバーデンでラインの黄金を指揮したが、ついにトリスタンを手掛けたわけだ。
メットでは、新演出のリングが2028年にスタート予定である。

コンサートでの定評ある指揮にくわえ、オペラでの実績と経験をすごい勢いで積み重ねている才人セガン。
ここで書くべきことでもないが、セガンは堂々とそっち系であることをカミングアウトした小柄だけどマッチョな指揮者だ。
多様性とかいう言葉は全く好きではないいが、かつてのバーンスタインのようなあらゆるものを飲み込み包括できてしまう、そんな心の豊かな音楽家なのではないかと思っている。

そんな彼の「トリスタン」は、フィラデルフィアの「トリスタン」としても大いに注目して聴きました。

・セガンの持ち味である生き生きとして、つねにビビッドな音が全編にあふれている。
・ライトモティーフのもつ説得力がいやでも増す音楽造り。
・ふたりの主役たちの、ワクワク感や焦燥、そうした気持ちがいろんなモティーフや、ちょっとした音の刻みにも表現されていて、聴いていて驚いた場面が多々あり。
・劇的なか所では、もさに興奮さそう盛り上げの巧さがある
・音が新鮮で、鮮度高い
・シンフォニックなアプローチでありつつ、オペラティックな感興にあふれている。
・しかし、陰りや絶望感は薄めで、ワーグナーのねっとり感やネクラ感はなし

豪華な歌手たちを揃えることができるのもアメリカの超メジャーのフィラ管、そしてメットの指揮者であることのゆえん
・ベテランとなったシュティンメは、この公演がイゾルデを歌う最後だという
 イゾルデの卒業となったシュティンメのさすがの貫禄と存在感
 しかし、高域がちょっとキツく感じ、低域が重すぎるようになった
・いまが絶頂期のスケルトン、重量級の声に拍車がかかり3幕のやぶれかぶれぶりは見事
 逆に2幕は抑え気味
・カーギルのブランゲーネは実にいいが、マリガンのアメリカ~ンすぎるクルヴェナールは軽薄だった
・若々しいナズミのマルケは新鮮だった。
・ほかの歌手たちもみ~んなアメリカン

そして、フィラデルフィア管弦楽団はうまかった!
音が明るい、輝かしい、そして重量級だった。

この音源がDGから出るかどうかわかりないが、劇場でもう少し振って、解釈を一貫させ深めてからでもいいかも。
セガンとネルソンスはなんでも録音が早すぎるし多すぎると思うものですからね。

Tristan-phiradelphia

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