2025年4月18日 (金)

NHK交響楽団定期演奏会 ヤルヴィ指揮

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なるべく行きたくない街になってしまった渋谷に、久しぶりに行きました。

外国人観光客に大人気のスクランブル交差点とともに、こちらのハチ公像も人気で、外国人が列をなして順番に記念写真を撮ってました。

かならず外国人が映りこんでしまうので、右側を見切るようにしてうまく撮影できました。

数日前、90回目のハチ公の慰霊祭が行われたばかりで、渋谷にはなくてはならない存在となりました。

ここから雑踏のような公園通りを通過して、丘の上の築52年のNHKホールまで達するのは、正直、苦行でありますが、よきコンサートのあとは足取り軽く、ひょいひょいと駅まで行けちゃうから不思議なもんです。
ナイスなプロコフィエフが聴けて、うきうきしてしまったワタクシです。

Nhkso

   NHK交響楽団 第2034回定期演奏会

 ベルリオーズ 交響曲「イタリアのハロルド」

 バッハ    無伴奏チェロ組曲第1番~サラバンド

      ヴィオラ:アントワーヌ・タメスティ 

 プロコフィエフ 交響曲第4番 ハ長調 op.112 (改訂版:1947)

     パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK交響楽団

         (2025.4.13 @NHKホール)

ヴィオラ独奏をともなう表題交響曲。
しかしながら協奏曲のように最初から最後まで活躍するわけでなく、コンサートでやるときは、ソリストとしてずっと立っていると、どうも間が抜けて見えてしまうし、かといってオケのヴィオラ首席の位置で弾くのもせっかくのソリストなのに申し訳なく、もったいない。
コンサートでは、どうもすわりのわるい作品なのだとずっと思っていた。

しかし、タメスティ氏とパーヴォ氏は、この作品ではなんども共演しているようで、ここではまさにヴィオラソロが、まさに「ハロルドの巡礼」を演じるがごとくステージ上で活躍しました。
オーケストラだけの長い序奏では指揮者だけ、やがて、そろりそろりと周囲を見回すようにして登場したタメスティ・ヴィオラ氏。
ハープみ導かれ、その横でハロルドの主題を弾き始めた。
なんという豊穣なヴィオラの音色だろう。
その印象は、最後まで、いやアンコールのバッハまで変わらず持ち続けたものです。
そしてタメスティは、最初はハープの横で弾いてたと思ったら、きょろきょろとしつつ、4つの楽章のイメージに合わせ、また活躍する楽器に導かれるように、その楽器の近くに行って弾いていたんです。
ハープの次はティンパニ、2楽章の夜の巡礼のときには、仲間たちのヴィオラの近くで、さらに3楽章ではちゃんと指揮者の横のソリスト位置で、山賊の酒盛りシーンと言われる4楽章のベルリオーズらしいはちゃむちゃシーンでは、チューバなどの金管群の横で。
こんな風に広いNHKホールのステージを場所を変えてヴィオラを弾くまくる、ときに聴衆に背を向けてオーケストラを聴いてるといった風に、演技もちゃんとしてしまう。
最後はステージから逃げ出すように走り去ってしまうシーンで、思わず笑いそうになったものです。
また別動隊として奏される弦楽四重奏は、第1ヴァイオリンの末席のふたりと、チェロは中ほどの奏者、それとタメスティの4人でした。
こうした距離感を作りだしたのは、これもまた音の遠近感を楽しめる仕掛けになっていた。
目の離せないソロ付きの「イタリアのハロルド」は、まさにライブでこそ、その面白さがよくわかる仕掛けが施されてました。
ヤルヴィの指揮は、そのあたりよくオーケストラを抑制させつつ、爆発するところは、いつものパーヴォらしく思い切りオケを鳴らし開放すると言った風に、タメスティを引き立てつつ、その方向性は息のあったふたりで完全一致していたことも確認できた次第。

アンコールのバッハが絶品でして、ヴィオラ一挺でこんなに巨大なホールをバッハの深淵な音で満たすことができることが奇跡のようにも感じました。

休憩後はプロコフィエフ。
何度も書いてますが、幣ブログでは、プロコフィエフの作品を年代順に聴いて記事にしてまして、時代別の作風の変遷を、そのときのプロコフィエフをとりまく諸情勢なども鑑みながら確認し聴いております。
オペラ「炎の天使」と交響曲第3番まで取り上げておりまして、ついでバレエの「放蕩息子」や交響曲第4番が視野に入っておりました。

そこで聴いためったに実演で聴くことのできない、今回の4番の交響曲でした。
しかし、今回はずっとのちに改訂された版でのもので、レコーディングも含めてこちらの改訂版が主流となっているのが実情です。

1927年完成の「炎の天使」、そこからの素材で出来た交響曲第3番が1928年、同時に作曲されたバレエ「放蕩息子」も1928年。
そのバレエの素材を一部使って交響曲第4番を完成させたのが1930年で31年にパリで初演。
祖国への思い捨てがたく、体制の変わったソ連に本格帰還してしまうのが1936年。
その前ぐらいから、プロコフィエフの作風は変化していったわけですが、それはまた違う機会に。

ずっとのちになって、成功した5番や6番のあとに、4番は改訂されるのが1947年。
第1稿は作品47で、改訂版は作品112。
30分ぐらいの初稿にくらべ、改訂版は40分ほどで、時間的にもグレートアップされた。
その違いはプロコフィエフシリーズのなかでまた書きたいと思います。

序奏の部分が効果的に拡張され、終楽章で全楽章を回顧しつつ壮大に鳴らされるという、交響曲の常套を踏んだ改訂版。
ヤルヴィの手際がよくも、強弱をたっぷりつけメリハリの効いた演奏で聴くと、このうえない爽快感と快感を覚えたものです。
初稿にはなかったピアノは、指揮者の真ん前に据えて、左右にヴァイオリンとチェロ・ヴィオラを配置するというなかなかに見られない光景でしたが、案外とピアノが決めてになって聴こえるこの交響曲では、実に効果的だったし、音の出方やバランスがとてもよかったと思う。

1楽章は序奏からやがてリズミカルな急速シーンに突入するが、このあたりの繰り返し的なプロコフィエフの効果満点の音楽はヤルヴィのキビキビした指揮ぶりが光る場面で、わたくしをワクワクさせてくれた。
このあたりのオーケストラの精度の高さに舌を巻き、やっぱりN響ってうまいもんだな、と感心することしきり。
 緩徐楽章の息の長い旋律を引き継いでゆく展開も美しく、ここでもオーケストラの合奏力の高さとソノリティの豊かさを実感。
初稿ではもっと簡潔な造りだが、改訂版ではやや冗長に感じさせるこの楽章を、ヤルヴィはよく歌い、各声部をしなやかに浮かび上がらせるようにしてうまく聴かせてくれました。
 原作のバレエにもっとも近づいた雰囲気の3楽章。
軽妙かつ洒脱な雰囲気をよくつかんでいたし、軽やかさもN響から引き出すところもさすが。
 よりシンプルで新古典的な様相を持つ初版の終楽章に対し、大見えをきるような終結部を加えた新版ですが、そこに至るまでの盛り上げのじわじわ感が見事でして、ここでもワタクシは興奮しましてドキドキが止まらないのでありました。
パッチワークみたいな感じの継ぎはぎが、だんだんとまとまってゆくような面白さを、ヤルヴィとN響は見事に演奏しました。
ブラボー一声かけましたよ。
 
プロコフィエフをコンサートで聴く楽しみは、大編成のオーケストラ、とくに金管や打楽器の活躍を一望できることです。
改訂版で強化されたそのあたり、もっと簡潔で凝縮された初稿版にない楽しみを、今回の演奏ではよく味わうことができました。
ヤルヴィって指揮者は、ときにあざといところがどうかとも思ってましたが、この日のベルリオーズとプロコフィエフでは、聞かせ上手のヤルヴィがいろんな工夫をこらして飽きさせずに聴かせてくれました。
4番は、ふたつの版を真ん中に協奏曲かなにかをはさんで一夜でやってくれたら面白いと思うんですがね。

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久しぶりのNHKホール。
記憶していた音響よりもよく聴こえました。
ヤード式のホールで聴くことが多かった最近ですが、音がまとまってブレンドされて直接に聴こえるので、ごまかしは効かないかわりに、音楽に集中できるような気もしました。
わたくしの初NHKホールは、1975年のムーティとウィーンフィルでして、もう半世紀も経つんだ・・・・

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文化に浸ったあとは狂暴な喧騒へと下りました。

せっかくだから雨のスクランブル交差点を拝見しようと隣接するビルからのぞき込みパシャリと1枚。

この街で学生時代を過ごした時代とは隔世の感あります・・・・

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2025年4月12日 (土)

富士と桜 と吾妻山

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今年の春は天候が安定せず、まさに「春に3日の晴れなし」とはよく言ったものです。

今日を逃すと明日はない、と絶好の晴天の日に地元の「吾妻山」に行ってきました。

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初春は菜の花、春は桜、晩夏はコスモスと、花の名所ともなった小高い山ですが、近くにいると案外と行かないものです。

さすがに外国人の姿はいませんが、駅からすぐなものですから、県内・隣県の方々が多くいらっしゃるようになりました。

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麓の小学校に通っていました。

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子供の頃は、公園として整備されてなく、神社と広場があっただけ。

こんな風に富士と桜が楽しめるスポットではなかった。

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各自治体が観光スポットを作りだすようになったのは、そんな昔のことでないと思います。

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オーバーツーリズムには顔をしかめざるをえませんが、日本人が安心して楽しめる日本であって欲しいと思いますね。

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2025年4月 6日 (日)

東京交響楽団 定期演奏会 ノット指揮 ブルックナー8番

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サントリーホールに早く到着したので、近くの桜坂から霊南坂を桜を求めて散策。

美しい桜の回廊を見て、これから聴くブルックナーに胸を高鳴らせる。

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演奏会が終わったあと、すっかり日が落ちてライトアップされた同じ場所の桜を再び。

あまりの素晴らしい演奏に、もう放心状態の自分でした。

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    東京交響楽団 第729回 定期演奏会

 ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調 第1稿 ノヴァーク版

      ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

         (2025.4.5 @サントリーホール)

2014年に就任以来、数々の名演を残してきたノット監督の最終シーズンの今季、ブルックナーの大作でスタート。
2016年に一度取り上げた8番ですが、2度目の今回は第1稿で演奏するという、これもまたノットらしい絶妙の選択。
このコンビを聴きだしてまだ数年の私ですが、今季のプログラムを見て、これはもういまさらながら会員になるしかないと判断しました。

昨年暮れ、「ブルックナーを演奏する会」というアマチュア有志オーケストラが第1稿を果敢に取り上げ、それでこの初稿の版を初めてといっていいくらいに真剣に聴いた。
その時のブログでも書きましたが、インバルのCDやルイージのライブ放送などで聴いてはいたが、かくも全然違う風に聴こえる第1稿に、新鮮さとともに、発見をする喜びを見出したのです。

そして今回の、ノットと東響の完全無欠たる演奏を聴いて、これはもう普段聴いてきた2稿以降のノヴァーク版、ハース版などとともに、峻厳さとともに聳え立つブルックナーの名作だと確信を得ました。
よく言われる「磨きあげられる前の原石」だという表現は、今回の演奏にはふさわしくなく、これはもう巧緻を尽くしたブルックナーが到達した完璧な円熟の境地にある作品と思わせるものだった。
そして、90分間にわたって、全編息もきらさず集中し、まんじりともせずに音楽に集中したコンサートも、これもまた久しぶりのことで、自分のなかでも、これまでの「サロメ」や「エレクトラ」にも通じるものだった。

聴き慣れた版との違いを確かめるように聴きがちな1楽章、ついついあれどこ行った?と、行方知れずの音を探すように聴いてしまうが、今回はそんなことなく、すべてがスムースで、すべてがあるように演奏されて自然体そのもの。
力んだところもまったくなく、洗練の極みのように感じられ、峻厳な作品8番を聴くのに構えることなく受け入れられた自分にも驚き。
それだけ練られた演奏だったということだろう。
フォルテで終わる終結部も洗練されたものだった。

野卑さのまったくないスケルツォは優美にさえ感じるくらいに徹底して磨き上げた表現で、さらに牧歌感の増しているこの初稿版の中間部ではテンポを落としてじっくりと聴かせる。
このように演奏は全体にゆったりめと思った。

いちばん素晴らしかった深淵なる3楽章。
緻密なノットの音楽造りをオーケストラがしっかりと受け止め、息の長い旋律を綿々と歌い継ぐ様子は聴いていても、見ていても胸が詰まってしまうくらいに感動的だった。
そのノットの想いあふれる横顔も印象的で、長らく付き添ったオーケストラのひとりひとりが、しっかりその意図を受け止めて精魂込めて演奏しているのがよくわかった。
指揮者とオーケストラの幸せな結びつきが、こうした静かで感動的な楽章を通じてよくわかるというものだ。
静寂をともなうパウゼもあり、完璧な間として完全に機能したようにも感じた。
2稿以降でシンバルが高鳴る場所がスルーされる1稿に慣れた自分ですが、そのあとにくる3連×2のシンバルとトライアングル、とってつけたように感じていたこの場所が、今回の演奏では痺れるほどの感銘をともなって、こうあらねばならぬというように聴こえた。
この日、好調だったホルンセクションとワーグナーチューバ軍団をともなう、その後の慰めにあふれた場面も感動的で、ずっとずっと続いて欲しいと願いながら聴いていたものだ。

雄軍極まりない終楽章の開始は、輝かしさでなく、決然とした厳しさが支配し、このあとの長い多彩な表情をもつ楽章の序奏として相応しかった。
2稿以降の版で、大好きなフルートによる鳥のさえずりは、1稿ではやはりちょっと寂しく感じ、埋没しすぎと思ったのは変わらず。
勇壮な金管の主要主題の咆哮もよく制御されていて、突出しない。
またコンマスを始め、第1ヴァイオリンが分かれれ分奏するところも、2稿以降にはあったかな?確認してみたいが、さすがニキティン・コンマスだった。
何度か表出する金管群による主題が、回数を追うごとに、だんだんと熱量を帯びてゆくのもノットの感興の豊かさと指揮の巧みさで、楽章も後半に進むにしたがって音楽が熱く、そして輝いていくのをまざまざと感じた。
ノット・マジック、まさに極まれり。
オーケストラも長丁場に負けず、精度と力感も保ったまま最後を迎えるにあたり、全員が集中と感銘のなかにいるようだ。
聴いてるワタクシが、平静でいられるわけがない。
3楽章でも感じたとおり、この長大な音楽がずっと続いて欲しいと願いつつ、感動に打ち震えていたのだ。
 遠大なエンディング、じわじわ高鳴っていくが、音楽は意に反して静まる。
ここでこれまで聴いていた音源や、前回の初聴き演奏会では、あれれ、と思い、その後のあっけない終結に物足りなさを覚えたりもしていた。
しかし、この日のノットと東響の演奏はまったく異なる次元で高みに昇りゆく音楽として、じっくりと堂々と聴かせてくれた。
ふわっとした終わり方を感じさせず、小細工も抜きに、見事なまでに音楽を昇華させたのだ。

最後の音が鳴り終わって、ノットは腕を降ろさず、奏者も身じろぎせず、完璧なる静寂が数十秒ホールに続いた。
その後のブラボーを越えた、歓声のような盛大な声、こんなの始めてだった。

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7番のあとにある8番ということを大いに意識させてくれた1稿での名演。
こんなすごい演奏が聴けるなんて。
ノット監督と東京交響楽団に感謝です。

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おなじみのコールもこの日は盛大でした。

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コンサートのあとの散策、

霊南坂教会と桜。
ブルックナーを聴いたあとに相応しい。
実は演奏会前にも教会のなかのステンドグラスを鑑賞しまして、そのときは礼拝堂で日曜に向けてオルガンの練習する音色が聴こえました。
敬虔な思いのままに、ブルックナーを聴いたわけです。

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今季のノット監督の演奏会、「戦争レクイエム」「マタイ受難曲」「マーラー9番」。

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2025年4月 2日 (水)

東京交響楽団 定期演奏会 オスモ・ヴァンスカ指揮

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春もたけなわ、のはずの3月末でしたが、4月に入ってからも寒の戻りや曇天・雨天で悲しい桜シーズンとなってしまってます。

こちらは商業施設の中の本物そっくりの桜なので散ることなく安心。

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    東京交響楽団  川崎第99回定期演奏会

 ニールセン       序曲「ヘリオス」op.17

 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 op.37

 バッハ カンタータ「楽しき狩りこそわが喜び」BWV208
         「羊は安らかに草を食み」

      ピアノ:イノン・バルナタン

  プロコフィエフ  交響曲第5番 変ロ長調 op.100

     オスモ・ヴァンスカ指揮 東京交響楽団

      (2025.3.30 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

コンサートマスターのニキティン急病とのことで、急遽田尻さんが本日のコンマスとのことでした。
ヴァンスカの指揮を聴くのは今回初めてで、これまでラハティ響との来日、読響、都響への来演も何故か聴くことがなかった。
いずれもシベリウスばかりで、シベリウスの専門家みたいに思われているヴァンスカですが、わたしはマーラーの10番から始まり、ついで全集も購入し、氏の緻密かつ熱いマーラーに共感をいだいておりました。

1曲目のニールセンから集中力と精度の高い演奏が展開された。
海の夜明け、昇りゆき、最後は沈みゆく太陽を描いた作品だが、静かに始まり、輝かしい中間部を経て沈黙の海を思わせるピアニシモで終わる、そのさまをまことに鮮やかに演奏してみせた。
昼からコンサートって、とくに1曲目は入り込みにくかったりするものだが、今回は最初の1音から耳をそばだてるくらいに磨きあげられた緻密さに集中でき、ピークのフォルテも神々しく、息をのむくらいの最終音まで、ほんとに美しく完璧な演奏に感じいった。

ピアノを中央に据え直して始まったベートーヴェンの3番。
イスラエル系のアメリカのピアニスト、イノン・バルナタンは恥ずかしながら、名前を聞くのも初めての方。
ベートーヴェンを中心に多くのCDも出ており、知らなかったのが悔やまれるくらいに実力をともなった素晴らしいピアニストだった。
一聴して、その美しいピアノの音に耳が惹きつけられる。
音楽にしっかり入り込んで、感じ入りながら、そして楽しみながら弾いているのがよくわかる。
その練り上げられた音たちは、緻密でどこまでも美しもあり、短調ならではの厳しさも感じさせたりで、3番という古典からロマン主義への萌芽の時期の位置関係を刻んでくれるような見事な演奏に結実していたと思う。
 ピリオドを意識した奏法でコンパクトで歯切れよいオーケストラは、ヴァンスカの思う切り詰めた簡潔なベートーヴェンにぴったり。
ただティンパニはややうるさかったかな。
バルナタンとヴァンスカが、完全に思いを一致させて、3番がベートーヴェンの意欲作であることをわからせてくれた。
一方で、2楽章のロマンあふれる演奏には、もう陶然としてしまう思いでしたね。
ほんとうに美しいピアノでした。
 別日ではアンコールもベートーヴェンだったらしいが、この日はバッハ。
何気なく、楚々とバルナタンが弾き始めたのがバッハのよく耳に馴染んだ曲だったので、驚きとともに、心に響くその誠実な演奏に、途中から泣きそうになったしまった。
聖夜の田園曲のように、心安らぎ、祈るような気持ちになる曲に演奏でございました。

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後半は、うってかわってプロコフィエフ
プロコフィエフを年代順にすべての作品を聴くシリーズ継続中のなか、ロシア時代初期から亡命時代の斬新な作風に心惹かれる一方で、祖国復帰後のソ連時代は明らかにメロディに傾きつつ、かつての大胆さが減少してしまったと感じてる。
でもプロコフィエフの音楽に通底するモダニズムや抒情が大好きで、すべてを聴き確認したい思いはかわりません。
 そんないま、かつて一番聴いてきた5番の交響曲を演奏会で体験する喜びははかりしれない。
なんといっても激しいダイナミズム、強弱の大きな落差は、スピーカーではなかなか聞き取りにくいし、近所迷惑になること必須なのだ。

そんな思いにぴったりだったヴァンスカと東響の5番だった。
その指揮姿を見ていて、ときおり屈みこむようにして、絶妙な最弱音を要求したとおもえば、最大最強のフォルテを引き出すために両手を大きく上にかかげて指揮をする。
東響は、それにこたえて完璧極まりない反応ぶりで、最高のオーケストラサウンドを聴かせてくれる。

クールな空気感を瞬時に感じさせるような1楽章は、さすがに北欧人ヴァンスカと思わせたし、楽章の最後ではこれでもかとばかりの破壊的な音でこちらも恍惚となった。
軽快でありながら、目まぐるしい激しさを味わえた2楽章は、ピアノも入り、東響の木管も大活躍で目まぐるしいくらいにきょろきょろしながら聴いた。
今回の5番の演奏の白眉だったのが3楽章。
クールな抒情性を見事に聴かせつつも、どこか不安げな様相を持つこの楽章の難しさは、プロコフィエフの色んな複雑な思いが念じこまれていることで、ヴァンスカの指揮はそれをひも解いて丁寧に聴かせてくれる緻密なものだったと思う。
中間部の哀歌などは、実に切実なもので、そこから始まる壮絶なクライマックスの作り方など、まったくもって素晴らしいものだった。
聴いていて鳥肌がたった。
一転して破天荒な雰囲気の4楽章では、木管と金管の大活躍と目まぐるしいほどの弦楽器の七変化ぶりを拝見しながら楽しんだ。
ヴァンスカのキュー出しも、極めて忙しく厳格かつ細密そのものだった。
急転直下のラストは、これまた見事な盛り上げ方で、もうワクワク感が止まらず、圧倒的なエンディングを迎えて興奮は頂点に!

素晴らしき5番を聴かせてもらった。
一連のマーラー演奏で感じていたとおり、ヴァンスカの音楽は効果を狙うような外向的なものでなく、音を緻密に磨き上げて美しい音にこだわるタイプに思っていた。
それに加えて、今回は強弱の付け方、音の出し入れなどがとてもうまく、存外にダイナミックな表現もする人だとの認識も加わりました。
都響にまたシベリウスで来演するようだし、次はマーラーも聴いてみたいものだ。

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ヴァンスカさん、いまは特定のポストは持たずに活動している様子。
これからもたびたび来日して、日本各地のオーケストラに客演して欲しい。

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2025年3月22日 (土)

東京交響楽団 名曲全集 R・アバド指揮

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寒の戻りの雪の関東、明けたらきれいな青空。

川崎の商業施設「ラゾーナ川崎」に早咲き桜が置かれてまして、奥には腹ペコあおむしの子供たちの遊具があり、楽しそうな笑い声がして風は冷たいけれど春っぽい1日でした。

お隣のミューザ川崎で、ロベルト・アバド指揮する東京交響楽団を聴いてまいりました。

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    シューマン      交響曲第4番 ニ短調 op.120

    ベルリオーズ  幻想交響曲  op.14

  ロベルト・アバド指揮 東京交響楽団

      (2025.3.20 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

ロベルト・アバドの叔父は、偉大なるクラウディオ・アバドです。

クラウディオの父ミケランジェロは、ヴェルディ音楽院院長・ヴァイオリニスト・指揮者・教育者。

クラウディオの母マリアは、作家でピアニスト。
彼らがロベルトの祖父母。
父のマルチェロは、クラウディオの兄で、父ミケランジェロの後をついで音楽院院長、そしてピアニストとしても活躍。
そしてロベルトは、指揮者として50年近くのキャリアがあり、若いと思っていたロベルトさんも、もう70歳になります。

ちなみにロベルトの従弟で、クラウディオの息子ダニエーレは演出家として活躍中で、彼も67歳になり、昨年はついにスカラ座で父の愛した「シモン・ボッカネグラ」の演出を担当してます。
この時の指揮がロベルトでなかったのが残念ですが、東京交響楽団の次期音楽監督である、ロレンツォ・ヴィオッテイが指揮しました。
このヴィオッテイも音楽一家でありますね。

一流の音楽一家の家系であるアバド家です。

前置きが長くなりましたが、アバディアンであるわたくしとしては、ロベルトの指揮も絶対に聴くと決めておりました。

颯爽と現れるのが叔父クラウディオの常でありましたが、ロベルトさんは、叔父とほぼ同じ体格で、ささっとさりがねくステージに登場しました。
両曲ともスコアを見ながらの指揮で、今回は指揮棒は持たず、しなやかな動きでの指揮ぶり。
まっさきにわかりました、叔父クラウディオのように指先を反り気味にして振る姿はそっくりで、大振りはせず、でもときに左手を高くあげてフォルテを導きだすところも似てる。
風貌は若い頃のほうがそっくりで、いまは髪もホワイトグレーになり、静かな紳士然としたお姿なのでした。

 シューマンとベルリオーズ、ともに「幻想」つながりで、プログラムとしても、初期ロマン派の馥郁たる音楽を味わえるステキなものです。
シューマンは1841年(1951年改訂)、ベルリオーズは1830年、それぞれの作曲年度ですが、ベルリオーズがいかに斬新でぶっ飛んでいたかがわかります。
シューマンも、ベルリオーズの幻想をすでに知ったうえで、影響を受けつつ書いたわけで、こうしてふたつ並べて聴くことで、ドイツとフランスの違いや、表題性の有無などの違いもあることは明確だが、どちらも情熱と夢想感、孤独感などが曲の根底にあるものと思う。

ロベルト氏は、まずシューマンでは、一気呵成にスマートな響きでもって明るく演奏してみせた感じ。
ともかく音色は明るく、シューマンの晦渋さはいっさい感じさせず、歌に満ちたシューマンの4つの連続する「幻想曲」といったイメージだった。
メインの曲に据えるならもっと強弱をつけて、一気呵成にやることもあったであろうが、後半に控えるベルリオーズとの対比では、こうした歌うシューマンも美しくてよかったと思いました。

ベルリオーズは文句なしの名演。
加えて対抗配置のオーケストラがシューマン以上に鮮やかに効果的だったし、いくつかある分奏も見ていて楽しいものだった。
オペラ指揮者であるロベルト・アバドは、まるでオペラを指揮するように、かなり細かに、的確に奏者のみなさんにキューを出していて、オーケストラがすぐさま反応している様子も正面から見ていて楽しくもあり、関心もいたしました。

 丁寧に細やかな表情付けをともなった1楽章。
固定楽想がこんなに美しく歌い、奏でられるのは久しく聴いたことがなかった。
案外と一番よかったのが2楽章のワルツで、右手に並んで置かれたハープも実に心地よい合いの手を聴かせ、ほんとに美しい舞踏会のシーンでした。
ベルリオーズの抒情性が際立った3楽章は、さすがに東響の奏者たちがべらぼうに巧くて安心して、野の情景にひたりきることができた。
ステージの外で鳴るオーボエと最高だったイングリッシュホルンの最上さんとの遠近感の妙は、例えようがないほどに効果的でもあり美しかった。
真ん中に据えられたこの楽章でのフォルテを境にロベルトさんは、モードを切り替えたくらいにパワーチェンジ。
断頭台の4楽章では4本のファゴットが大活躍、低弦と金管、打楽器、それぞれの対比が鮮やかで、どの部もみんなくっきりと聴こえ、まったくうるさくなく明瞭・明確。
一方で、最後の一撃はかなりがっつりダイナミック。
胸が高鳴る終楽章、怒りの日が思いのほかテヌートぎみに奏され、これはまさに聖歌であることが呼び覚まされたとの思い。
こうしたいろんな発見は全曲のあちこちにあったことも記しておきたい。
オペラ指揮者として、どんな声部もおろそかにせず、息が通っているように響かせることを信条としているのでしょうか。
ともかく曲が進むにつけて、面白さもどんどん増していくような、そんなロベルトの幻想交響曲。
鐘もかなりガンガン鳴らしてくれたし、興奮の度合いもますます増して、吃驚さに加えて、さらにコル・レーニョも効果的に際立たせ、ラストスパートはアッチェランドもかけつつ大団円を迎えました!
もちろんブラボー献上!

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奏者をそれぞれに讃えるロベルト氏、この日も最高に素晴らしかったオケの中にも入ってきて握手してました。
その人の好い姿と品のある笑顔に、やはり一族の血脈を感じましたね。

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ほんとはアンコールで、「運命の力」を聴いてみたかった。
日本に来る前は、ソウルでヴェルディのレクイエムを指揮したようで、かなりうらやましい。
この次は、オーケストラピットにたつロベルト・アバドを聴いてみたいし、マーラーやチャイコフスキーも聴いてみたいですね。
またの来演をお待ちしてます。

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2025年3月18日 (火)

プロコフィエフ 交響曲第3番

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隣町の中井のちょっとした山から見た富士山。

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

プロコフィエフを年代別に聴いていこうのシリーズ。
歌劇「炎の天使」をさんざん視聴しまくり堪能したあとは、交響曲第3番。

1919年から27年まで8年をかけて書いた「炎の天使」だが、改訂の遅れなどが重なり、ワルターの指揮で予定された初演が流れてしまい、クーセヴィツキの指揮でパリにて全3幕のうちの2幕までが演奏会形式で初演。
その後も手を加えつつ5幕7場に書き直したりしたものの、その間、望郷のソ連へ帰還し、さらに舞台初演の目途が立たなくなり、生前はついぞ上演されずに終わった「炎の天使」。

しかし、パリでの一部初演から、このオペラの素材を交響曲として活用しようと思い立ち、1928年に第3番の交響曲として完成させた。
翌年1929年にモントゥーの指揮でパリにて初演。
原作の野心的ともいえるオペラは悪魔崇拝、異端審問、ファウストとマルガレーテ、三角関係、騎士道精神、聖と悪・・・これらをテーマとして、その音楽も激しく、緊張感にあふれ劇的かつ抒情的、そう多面的複雑なものだ。

自身のオペラを素材としているからといっても、「ニーベルングの指環」のアドベンチャー作品のように長いオペラをダイジェストに仕立てたような作品ではまったくない。
素材のオペラを原曲として、オペラの筋や流れとはまったく関係なしに、音楽だけを交響曲に組みあげた別次元作品なのであります。

4楽章の交響曲というスタイルに形式的にも完璧に則しているものの、そこはプロコフィエフで当時の新古典主義的な流れとはまったく迎合せず、やはり素材のオペラのドラマの劇性をしっかり内包しつつも、あまりに主観的だった過激なオペラとはまったく違う客観性と冷徹さを持っている。
子供時代から天才の名を欲しいままにしたプロコフィエフは、なんでも作曲ができてしまい、音楽に書けてしまう。
しかし、シュトラウスなどとまったく違うのはロマンがなかったことかもしれず、交響曲に表題性などはまったく持ち込まなかったことだろう。
7つの交響曲もそんな存在なのであり、この3番を「炎の天使」と呼ぶことに作者が抵抗を感じたのもさもありなんです。

オペラの方を知らなかった自分が聴いてた3番と、オペラをほぼ掌握した自分がいま聴いている3番とでは、印象がかなり異なっている。
つかみどころがなく、暴力的でありつつ抒情もあり、アヴァンギャルドでもあり・・・そんな当初のおっかなびっくりの想い。
しかし、いまはオペラですっかりおなじみなった、全編のあらゆるモティーフやいろんな断片が、そっくりそのまま4つの楽章のなかでつなぎ合わされてさまざまに登場するので、手の内にはいった親しみやすい作品となり、交響曲として見た場合でもこれは傑作であると確信するようになった。
聴き進め慣れるうちに、ショスタコーヴィチの4番にも通じる、飽きのこない面白さ満載の作品だと思う。

1楽章:冒頭はオペラ1幕で、レナータが悪霊にうなされ、やめてと拒否るときの音楽で、同時に低音域では、彼女をなだめるルプレヒトの「リベラメ」が鳴り響く。
そのあとの優しい旋律はレナータの憧れの青年への想い、さらにルプレヒトの元気な旋律、これらが絡み合うソナタ形式で、3幕の活気ある決闘シーンでの音楽も登場し、ワクワク感もあり。
2楽章:5幕の修道院シーンで始まる緩徐楽章で、しずかな抒情的な楽章ではあるが、3部形式となっていて、2幕で魔術に関する文献を読み漁るレナータのシーンも挟まれる。
3楽章:スケルツォ楽章で4幕の居酒屋シーンを思わせる出だしのあとは、多くの聴き手をひきつける13声部による弦のグリッサンドにいよる目まぐるしくも興奮誘う場面。
2幕での伯爵の魂の召喚シーンで、3つのノック音はティンパニが3打する。
この楽章の終わりは、オペラのラストの最終音である。
4楽章:2幕の素材から始まり、そのあとは、同じ2幕でのルプレヒトと魔術師アグリッパとの痛烈な応酬のシーンと同じく5幕ラストの悪夢乱れ飛ぶ興奮シーンの音楽となり、その後に静まって2幕の最初、本屋さんの場面になる。
音楽は最初の興奮呼び覚ます場面が戻ってきて、スピード感を増しつつ激しさも加えクライマックスを迎え、2幕の終了のシーンと同じく痛烈なエンディングとなる。

オペラの最後は3楽章の終わりで使用、交響曲の終わりは第2幕の終わりを使用。
オペラの結末は眩しいような一音が伸ばされ、終わり方にいろんな解釈の余地があるが、交響曲の方は有無をいわせぬ圧倒感で壮絶な結末感があり、交響曲のラストに相応しいものです。

手持ちの音源を手当たり次第に聴きました。

  プロコフィエフ 交響曲第3番 ハ短調 op.44

【CD音源】

Abbado-prokofiev

  クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

      (1969.4 @キングスウェイホール)

ジャケットは拾い物ですが、この曲はこのアバド盤で初めて聴いた。
日本では71年に発売されたかと記憶しますが、その頃はピーターと狼だけで、プロコフィエフなんてまったく聴こうということにはならない少年だった自分。
デビュー時から、この3番を得意曲にしていたアバドですが、いつもお世話になっております「アバド資料館」様のデータを参照いたしましたら、1963年にベルリン放送響とフェニーチェ劇場のオケで取り上げており、以来70年ぐらいまでロンドン、ウィーン、パリ、ボストンなどでさかんに指揮してます。
そこからずっと間があいて、ロンドン響で1977年のpromsで指揮をしてまして、実はこれがアバドが3番を指揮する最後だったのです。
新しさや革新性などを見出して取り上げることの多いアバドらしい「3番」という選択。
絶対に5番は指揮することがなかったが、それでも77年が最後だったとは。

今回、たくさん聴いてみて、36歳のアバドの颯爽とした指揮ぶりが思い浮かぶようなフレッシュな輝きを感じます。
ただ「炎の天使」を知ってしまったいまの耳で聴くと、これもまたアバドらしいところですが、やや穏健な感じに過ぎるかとも思いました。
時代性もあるのかもしれないが、同じホールで10年後に録音されたウェラー盤の方が、もっとぶっ飛んでいるようにも感じます。
 ところが77年の演奏が、ロンドン響のyoutube公式チャンネルで聴くことができまして、それはもっとスピード感もあり、一方で軽やかで俊敏なカッコいい演奏なのでした。
この年にシカゴでプロコフィエフのキージェとスキタイを録音してましが、もしもそこでこの交響曲をやってくれていたかと思うと・・・・

Prokofiev-weller

    ワルター・ウェラー指揮 ロンドン・フィルハーモニック

      (1977.4 @キングスウェイホール)

ウィーンフィルのコンマスから指揮者になったウェラーは、独墺系でいくかと思いきや、デッカでは誰も埋めてくれなかったロシア系の作品のレパートリーに次々とチャレンジしましたね。
そんななかのひとつがプロコフィエフの全集で、ラフマニノフはやや大人すぎる演奏でしたが、こちらはかなりナイスなカッチョいい演奏なのです。
なかでも、3番とか6,7番がいい。
よく歌いつつ、おおらかに歌いあげつつ気持ちいいなぁと思いつつ1楽章を聴いていると、3,4楽章では聴いていて前傾姿勢を取らざるを得ないほどに夢中にさせてくれる熱さとスピード感が快感となる凄い演奏になっていくのある。
憂愁や哀感は弱めですが、このアヴァンギャルド感はこの時期のプロコフィエフの大胆な作風にはぴったりだと思うのです。
70年代の半ば、ハイティンクが指揮者だった頃のロンドンフィルの好調ぶりや、デッカの定評あるキングスウェイホール録音も併せて楽しめるナイスなプロコフィエフ。

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  小澤 征爾 指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

      (1989~92 @ベルリン)

もっと無茶苦茶にして欲しくもあった小澤さんのプロコフィエフ。
せっかくのベルリンフィルなのだから、という思いもあり、もしかしたらボストンかフランス国立菅でやった方が面白かったかも・・・と思ったりもする。
全集として、プロコフィエフの作風の変化や流れを確認・実感できるという意味では、抜群の存在感のある一組だと思う。
小澤さんらしいところは愛のモティーフなどのふるいつきなるくらいな歌わせ豊かな場面、それと激しい部分の対比の鮮やかさ。
美しい都会的な3番の演奏だと思う。

Prokofiev-gergiev

  ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 ロンドン交響楽団

       (2004.5 @バービカン、ロンドン)

なんでも一挙にやってしまうタフなゲルギエフ。
ロンドンでのチクルスのライブであるが、ゲルギエフのあまり聴きたくないうなり声も聴こえ、迫真は感じるものの、やはりいつものとおり急ぎすぎで、プロコフィエフのうつろいゆく音楽の変転やときおり光る抒情などが、スルーされてほいほい進んでしまう気がするのだ。
全部はまだ見れていないが、10年後にモスクワとサンクトペテルブルクでやったチクルスの映像の方がずっと面白いし、アクもあって妙によろしい。
不思議な指揮者ゲルギエフ、そのいまを確認してみたい。
アホみたいな戦争のせいでロシアの音楽家の「今」が聴けない、確認できなくなってしまったのが疎ましい。
しかしyoutubeでマリンスキーやモスクワフィルの最近の演奏が視聴できるので、けっこう楽しんでますし、相当に頭部が進行し、怪僧のようにも見えるようになったゲルギエフは相変わらず精力的にしてまして安心もしてるし、実演もそろそろ接してみたいものです。

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   ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮 フランス国立管弦楽団

                   (1987.4 @グランドオーディトリアム、パリ)

快速のゲルギエフとうって変わって、つかみの大きな巨大さを感じるロストロポーヴィチの演奏。
爆発力も秘めていて、ときおりドカンと来るところが快感でもあり、フランス国立菅の響きが刺激的にならないので、うるさい感じにもならない。
聴けば聴くほど味のある演奏の類かもしれない。
この全集も捨てがたい魅力があるが、いちばんいいのは、2つの版を録音してくれた4番の双方の演奏。
チャイコフスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと優れた全集を残してくれたロストロポーヴィチの望郷の思いあふれる演奏に感謝です。
2楽章のしみじみ感は、この演奏が随一。

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    キリル・カラビッツ指揮 ボーンマス交響楽団

        (2013.7 @プール、ドーセット)

プロコフィエフと同じ、ウクライナが故郷の指揮者カラビッツ。
現在の最高のプロコフィエフのスペシャリストと思う。
一音一音を大切に扱っているのがよくわかり、地にしっかり足がついていて、着実・丁寧に、エモーションに流されずに音楽に真摯に打ち込む様子がよくわかる。
ついつい、ガーーっと勢いやリズムに乗ってやってしまいそうなところでも着実な歩みを感じさせるし、それが逆にプロコフィエフの音楽の良さ、本質が浮かび上がってくる、という仕組みに聴こえるのだ。
とてもクレバーな指揮者だと思いますね。
美しい愛の旋律もほんとに美しく演奏されるし、その後の移り変わるあらゆる旋律やモティーフがオペラを聴き馴染んだ耳からすると、あるべき姿で出てくる感じ。
そして何よりも録音がよろしく音がいいし、オーケストラもウマいもんだ。
ほめ過ぎだけど、カラビッツの演奏は放送などでもここ10年ぐらいかなり聴いてきたし、2019年のエルガーの「ゲロンティアスの夢」などは涙が出るほどに感動した。
彼のプロコフィエフの全集は、いまのところNo.1だな!

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エアチェックと映像でもたくさん持ってます。

【映像】

・ゲルギエフとキーロフの変態的な演奏が目で見えて面白い。
・フランス人指揮者ラングレーとシンシナティ響のセンスあふれる演奏もよい。
ラングレーとシンシナティはいいコンビだったようだが、正規音源がないのが残念で、いまはセナゴーが指揮者となった。
この作品を得意とするインキネンと北ドイツ放送フィルも手の内に入った演奏で、インキネンは都響でこれを取り上げる予定なので聴きにいきたい。
あとネットでは、プロコフィエフを得意とするアンドリュー・リットンとベルゲン・フィルの映像もストリーミングで観れます。
これが最高の演奏で、小太りになってしまったリットンだが、その指揮ぶりは俊敏で熱く、ベルゲン・フィルもクールでうまい!
リットン氏もロシア物を得意とする指揮者だが、本国の英国ものを今後は極めていただきたいものです。

【エアチェック

ユロフスキ(息子)とベルリン放送響の2023年の最新の演奏が、切れ味とともに「炎の天使」を知り尽くした高感度のすさまじい演奏なのであった。
このコンビが来日するのに、日本人人気ソリストとの組み合わせとなり、メインが名曲集なのが勘弁して欲しいわ!
同じ2023年の演奏で、promsでのグスターヴォ・ヒメノとBBC響の演奏も迫真の名演で、ヒメノ氏の実力をいかんなく確認できる。
ヒメノはリセウ劇場で「炎の天使」の上演を指揮していて、やはりそうした積み重ねあってのもの、こちらの上演映像も観れる。
ヒメノさんは、トロント響の指揮者となり、今後ブレイクすると思う。
・アバドの77年演奏は先に触れたとおりだが、イタリア人指揮者が好む3番。
・シャイーがpromsで90年にコンセルトヘボウと演奏したものも録音できていて、まだ切れ味ゆたかな指揮だったシャイーを確認できる。
・ムーティさんも円熟の巨匠となっても気合とともに、シカゴで2018年に指揮してます。
こちらは恰幅がよくなって、テンポも遅くなり壮大かつシカゴの鋼のようなサウンドが楽しめる。
あとアメリカのオケでは、サンフランシスコ響をスロヴァキアのヴァルチュハが振った2018年録音は、若々しい表情付けと清々しさがよろしい演奏だった。

プロコフィエフの交響曲といえば、5番ばかりがコンサートのメイン曲に取り上げられるばかりであるが、この3番もショスタコーヴィチのすべての交響曲が広く受け入れられたいま、誰が聴いても面白く聴くことができる作品だと思い、日本のオケでも外来でもどんどんやって欲しいと思いますね。

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この数週間、「炎の天使」、交響曲第3番を徹底的に聴きまくったせいか、さすがに耳が疲弊しました・・・

プロコフィエフから少し離れて、こんどは何を聴こうか。

その前に今月はコンサートを二つ、4月もノットのブルックナー、神奈フィル・ショスタコとかも続きますし、5月には「ナクソスのアリアドネ」@静岡のチケットも手当できました。

こちらは、中井町の同じ場所で、目を海側に転じ、大島がこんなにでっかく見えた図です。

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2025年3月 8日 (土)

富士と早咲きの桜

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早咲きの桜、河津桜と富士。

暖かい日が続き、冠雪もだいぶ溶けてましたが、また寒さが来て真っ白に。

雲が残念ですが、この時期はこうした雲がかかりやすく、そうしたときには強風となります。

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神奈川県の大井町のゆめの里という里山です。

車で20分ぐらいの距離なので、この日を逃すと晴れがないと思い立ってすぐに行けました。

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丹沢連峰も前日の雪が残っていて、神奈川にありながら雪国のような景色。

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これもまた雪国の春のようなイメージの写真が撮れました。

こんな景色を眺めつつ、頭のなかにはプロコフィエフの音楽が日々鳴ってまして、どんだけ中毒性あるんだろ、と思いますね。

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あと1本、プロコフィエフをやって、はやく普通の頭に切り替えないと本格的な春に聴きたい音楽が間に合わない・・・

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2025年3月 6日 (木)

プロコフィエフ 「炎の天使」 ②

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真っ赤に染まる西の空。

夕焼け大好き人間です。

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                     (バイエルン州立歌劇場)

     プロコフィエフ 「炎の天使」

プロコフィエフのオペラの最高傑作と聴くたび、上演鑑賞するたびに思い、またいったい何なんだろうという不可思議感にもつつまれる。
交響曲第3番も同じように、すぐれた作品としての評価がうなぎのぼり。

あくまで、自分的にこのオペラの聴きどころを羅列しときます。

1幕
・印象的なその出だしは、プロコフィエフのほかのオペラにもいえるが、それはそのオペラの複雑な展開の萌芽のごくさりげない出だしにすぎない。
・隣室でのレナータがうなされる様子も呪文のようで面白いが、なんといってもレナータが「やめて、助けて」と悪霊に言いつのり、ルプレヒトは「リベラメ・ドミネ・・」と祈りを捧げ開放する。
この部分が、第3交響曲の冒頭なのである。
・レナータが身の上話しを語るモノローグの素晴らしさ、オーケストラは美しくもミステリアスな背景。
・ルプレヒトが襲い掛かるも、すぐに萎えてしまうところの音楽の変転ぶり
・禍々しい占い師の場面はオカルト音楽だ

2幕
・呼び出しに応える3つのノック音、最初はかなりビックリするが、こうした効果音を巧みに使うのがプロコフィエフである。
・だんだんと混迷を深めるレナータ、オーケストラのキューキューするグリッサンド効果抜群のシーンは、第3交響曲のスケルツォ。
 ノック音とあいまって、最高の怪しげ効果を出す
・魔術師の部屋での呪術シーンの間奏もオーケストラは最高の荒々しさと禍々しさで、めっちゃカッコいいのだ。
 これもまた交響曲に使用されたシーン。
・そのあとの魔術師の宣告における男声ふたりの声の応酬も、ロシアオペラならではの野太さで痛烈で聴きごたえあり、オケも最高!

3幕
・レナータのマディエルへの愛のモティーフと思われる前奏から始まる、ルプレヒトとのやり取りでは、ここも交響曲に採用
・続くレナータのモノローグが、このオペラにおける歌手の一番の聴かせどころ。
 正気と狂気を揺れ動くさまを歌い演じなくてはならないレナータ役の、唯一の女性らしく、かわいらしいところ。
 幕の終わりの決闘で怪我を負ったルプレヒトを心配する彼女の歌も同様によろしい。
 抒情とクールさ、プロコフィエフならではの音楽
・決闘シーンでの切迫感は、オケの間奏曲でよく出ていて、ナイスなカッコよさもありで、ずっと聴いていられる。
 映像で見たトレリンスキ演出では、この音楽は実に踊りやすいんだと思った。

4幕
・この幕はメフィストフェレスとファウストが出てきてしまうので、ドラマの必然性や緊張感が途絶えてしまうように感じる。
 給仕少年を食ってしまうという意味不明の残虐シーンもあるが、全体の雰囲気としては皮肉とユーモラスな感じ。

5幕
・修道院の場面なので、神妙な雰囲気で静かに始まるのだが、誰がわずか20分後の地獄のようなシーンを想像できるだろうか。
 第3交響曲の2楽章の開始部分そのもの。
・神妙さに急激に影を差すところの急変ぶりもよろしい。
・宗教裁判長に必要とされる圧倒的・威圧的なバスの声は、これもまたロシアオペラならでは。
・聖なるもの、悪魔的な俗の極み、この対立と乱れきった交錯を変転万化するプロコフィエフの音楽は完璧に描いてやまない。
 聴くだけでなく、ここは映像作品で各種観ると、それぞれの無茶苦茶ぶりが感嘆に値する。
 これはもうタンホイザーのバッカナール世界であり、背徳の極みが、最後は一条の光のような眩しい音楽で終結するのだ。
 合唱が聖と悪を歌いつつ、その合唱は6つに分割され複雑さに拍車をかける。
 オーケストラのエキセントリックな強烈ぶりも一度聴いたら忘れられず、こちらの身体も動かしたくなるくらいなのだ。
 最後のシーンばかりでなく、オスティナート効果も随所にあり、プロコフィエフの音楽の中毒性も味わえますぞ。
   第3交響曲の終楽章のデラックスバージョン。

CD音源

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    レナータ:ナディーヌ・セクンデ  
    ルプレヒト:ジークフリート・ローレンツ
    宿屋の女将:ローズマリー・ラング
    占い師、修道院長:ルートヒルト・エンゲルト・エリィ
    アグリッパ、メフィストフェレス:ハインツ・ツェドニク
    ファウスト:ペテッリ・ザロマー
    宗教裁判長:クルト・モル
    グロック:イェスタ・ザヒリソン
    ワイズマン:ブリン・ターフェル  ほか

  ネーメ・ヤルヴィ指揮 エーテボリ交響楽団
             イェスタ・オーリン・ヴォーカルアンサンブル
             プロムジカ室内合唱団

        (1989.5 @エーテボリ)

このオペラの本格初録音は驚きのDGからの発売。
ヤルヴィとエーテボリの当時の蜜月コンビがDGに移って北欧・ロシアものを次々に録音していたころ合い。
いろいろと聴いたうえで、この演奏を聴くとやはりヨーロッパの演奏であり、その響きも洗練されすぎて聴こえる。
歌手も含めてスッキリしすぎて感じるが、何度も聴いて耳に馴染ませるにはこれでいいのかもしれないし、オヤジ・ヤルヴィのまとめ上手からうかびあがってくるプロコフィエフの音楽の斬新さもよくわかる。
ワーグナーを歌うような歌手ばかりのキャストは充実はしているが、特にモルの宗教裁判長はザラストロみたいで違和感ありか。
セクンデがリリカルで案外によろしい。

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    レナータ:ガリーナ・ゴルチャコヴァ  
    ルプレヒト:セルゲイ・レイフェルクス
    宿屋の女将:エフゲニア・オエルラソヴァ=ヴェルコヴィチ
    占い師:ラリッサ・ディアドコヴァ
    グロック:エフゲニ・ボイツォフ

    アグリッパ:ウラディミール・ガルーシン
    メフィストフェレス:コンスタンチン・プルジニコフ

    ファウスト:セルゲイ・アレクサーシン
    修道院長:オリガ・マルコヴァ=ミハイレンコ

    宗教裁判長:ウラディミール・オグノヴィエンコ
    ワイズマン:ユーリ・ラプテフ  ほか

  ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 キーロフ劇場管弦楽団/合唱団

        (1993.9 @マリンスキー劇場、サンクトペテルブルク)

ロシアオペラをほぼコンプリート録音してくれたゲルギエフとマリンスキー劇場に、いまや感謝すべきでしょう。
あまりにも不条理なゲルギエフをはじめとする西側のロシア音楽家の締め出しの継続中のいま、90年代のこのフィリップス録音の数々は快挙であり、いまや音楽愛好家の至宝ともいえると思う。
ヤルヴィも絶倫級に録音を残したが、この頃のゲルギエフの活動も負けてはいない。
西側のプロコフィエフだったヤルヴィ盤に比べ、ここでのプロコフィエフの音楽は強靭さと野太さもあり、一方で音が過剰に広がってしまうのをあえて抑制しているかのようなスピード感がある。
そこでもっとギトギトして欲しいと思う場面があり、そこがまた職人ゲルギエフなのだとも思う。
レイフェルクスにややアクの濃さを感じるものの、歌手全体のレベルが高く、劇場でのいつものメンバーとしてのまとまりがいい。
ゴルチャコヴァが声の力感が申し分ないし、ヴェルデイも得意とする彼女、モノローグでの情感あふれる歌唱も実によろしい。

このライブ演奏が映像化もされていて、youtubeで全編見ましたが、日本の暗黒舞踏(Butoh)に明らかに影響を受けたと思われる白塗りのほぼ裸ダンサーたちが、最初から最後までうごめいていて、正直ウザイと思われた。
最後には憑依された修道女の一部はスッポンポンになり、まさに怪しげな地獄シーンとなるもので、デイヴィッド・フリーマンの演出。
東京でも上演され、コヴェントガーデン、メット、サンフランシスコなんかでも履歴がある。
マリンスキー劇場のサイトで確認したら、この演出はまだ継続していて、2021年のトレーラーを見たがおんなじで、歌手はスキティナとニキティンに刷新されている。
この際、ゲルギエフの指揮での再録音を望みたい。

エアチェック音源

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    レナータ:スヴェトラーナ・ソズダテレヴァ  
    ルプレヒト:エウゲニー・ニキティン
    宿屋の女将:ハイケ・グレーツィンガー
    占い師:エレナ・マニスティーナ
    グロック:クリストフ・ズペース

    アグリッパ:ウラディミール・ガルーシン
    メフィストフェレス:ケヴィン・コナーズ

    ファウスト:イゴール・ツァルコフ
    修道院長:オッカ・フォン・デア・ダームラウ

    宗教裁判長:イェンス・ラールセン
    ワイズマン:ティム・クィパース  ほか

  ウラディミール・ユロフスキ指揮 バイエルン州立歌劇劇場管弦楽団/合唱団

     演出:バリー・コスキー


        (2015.12.12 @バイエルン州立歌劇場、ミュンヘン)

演奏と映像では、これがいちばんだと思う。
忘れもしないコロナ禍での世界の劇場からのオペラ配信で観たバイエルン劇場でのもの。
初めて観た「炎の天使」に衝撃と、こんな面白いオペラや音楽があるのかという驚き。
ユロフスキの鋭い音楽造りと統率力の豊かさを実感し、その魔人のような指揮姿にもびっくりしたもんだ。
主役のふたりも、録音した音源で何度聴いてもすばらしく、ニキティンの従来のロシア歌手にない明晰なる声は実によい。
またソズダテレヴァの迫真の歌も、映像での体当たり的、かつユーモアある演技も残像に残っているので、それも伴い素敵なものだ。

コスキーの演出がとんでもなく面白かった。
ダンスを有効に取り入れるコスキー演出の真骨頂は、このプロコフィエフ作品あってこそ生きてくる。
女装の男性バレエや、酒場での乱痴気シーンなどでの異様ぶり、ラストの魔界シーンも棘の冠をかぶったイエスだらけになり聖と悪との対比も見事。
豪華な内装の高級ホテルからスタートした物語りは、ずっとこのホテルが舞台となり、そのホテルの一室が徐々に廃れて姿を変えて行き、最後にはどす黒い漆黒の部屋にまでなった。
飾りものだが、男性器丸出しのメフィストフェレスなどユーモラスでありキモくありで、全編にコスキーならではの容赦ないユーモアもあり。
これもまた映像作品化を望みたい。

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    レナータ:アウシュリネ・ストゥンディーテ  
    ルプレヒト:ボー・スコウフス
    宿屋の女将、修道院長::ナタースチャ・ペトリンスキー
    占い師:エレナ・ザレンバ
    グロック:アンドリュー・オーウェンス

    アグリッパ、メフィストフェレス::ニコライ・シューコフ
    ファウスト、ワイズマン:マルクス・ブルッタ
    宗教裁判長:アレクセイ・ティコミロフ   ほか

  コンスタンティン・トリンクス指揮 ORFウィーン放送交響楽団
              アーノルド・シェーンベルク合唱団

     演出:アンドレア・ブレス


        (2021.3.27 @テアター・アン・デア・ウィーン)

ウィーンでは演劇もオペラもアヴァンギャルドな上演の多いテアター・アン・デア・劇場。
この作品こそふさわしい。
ORFでの放送を録音しました。
こちらはすでにDVDにもなっているが、まだ未視聴ですが、トレーラーだけ見てこれはいいかな、と判断。
精神病棟に舞台を移した様子で、みんな病んでる。
歌手たちも含めて、「ヴォツェック」を思わせる。
 その歌手たる、いま最高のレナータ役と思われるストゥンデーテが完全に逝っちゃってるくらいの入魂の歌唱。
スコウフスも性格バリトンそのもののこの役を完璧に歌ってる。
新国でドン・ジョヴァンニを聴いたことのあるトリンクスの指揮、なかなかダイナミズムを意識した造りで、リズム感もよろしく、変転しまくるプロコフィエフの音楽の流れもうまくつかんでいる。

映像

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    レナータ:アウシュリネ・ストゥンディーテ  
    ルプレヒト:スコット・ヘンドリクス
    ホテルの女将:ベルナデッタ・グラビアス

    占い師、修道院長::アグニェシカ・レリス
    グロック、医者:パヴォロ・トロストイ
    アグリッパ、メフィストフェレス::アンドレイ・ポポフ
    ファウスト、宗教裁判長、ハインリヒ:クリストフ・バチィク
    ワイズマン、給仕長:ルーカス・ゴリンスキ
       ほか


      大野 和士 指揮  パリ管弦楽団
              ワルシャワ大劇場合唱団

     演出:マリウス・トレリンスキ


        (2018.7.13 @エクサン・プロヴァンス)

これはフランス放送のストリーミングからエアチェック。
大野和士とパリ管という願ってもない組み合わせに狂気して聴き、録音もした。
録音だけで聴いたとき、オーケストラが抑制されすぎ、ややおとなしいように感じた。
しかし、しばらくのちに映像も全編観ることができて、そんなことはまったくなく、オケと歌手、舞台、すべてが一体となった集中力・緊張感の高い上演だったのだと確信した。
エクサン・プロヴァンス音楽祭は半野外上演なので、オーケストラの響きと歌手のバランスなどを考慮した結果なのかと思った。

ここでもストゥンディーテが目を見張るほどにすごくて、とくに映像を伴うと見ながらその歌唱と演技に引き込まれてしまうこと必須。
この役のスペシャリストになった感もありますが、こうして鮮明な映像で見ちゃうと他の歌手が生ぬるく感じてしまう。
声は鋭いけれど、繊細さも併せ持ちつつ、ほの暗いトーンの持ち主。
そうエレクトラも得意役にしているのもわかります。
指の先から、足の指先まで、演技していて、憑依したときの目の白剥く様子も凄まじい。
この上演の年の秋に、ストゥンディーテは大野&都響に来演してツェムリンスキーの抒情交響曲を歌いまして、私もそれを聴いてました。
おっさんに過ぎるルプレヒトのヘンドリクスは、演出に沿った存在そのものに感じ、サラリーマン風の人の良さがその声にも出てました。

ポーランドの演出家トレリンスキは、なかなかに魅せる舞台でありました。
ネオンの光るラブホテルが舞台で、そこにはいろんな宿泊客がいて、随所に登場して味わい深い存在となってまして、思わず笑える連中もいました。
二役を演じる歌手もいるが、あえて同じ衣装であえてわかりにくく同質化をねらったものか。
黙役のかつての恋人ハインリヒ伯爵は、目の不自由な方の設定で、最後のシーンではそのまま宗教裁判長としてレナータを断罪する役ともなる。
オペラの冒頭で音楽の始まる前に寸劇があり、そこでは少年が日本のかつての特撮映画のガメラをブラウン管テレビで見ている。
またレナータと同じクローンのような女性が、ハインリヒ伯爵が出てくるときに何人も出てくる。
伯爵とルプレヒトの決闘のときにたくさんいて、踊り狂うが決闘で敗れたルプレヒトはそのとき子供化してしまう。
メフィストフェレスに食われるのはレナータの子供の姿。
ともかく、レナータもルプレヒトも子供時代のトラウマを背負っているのか、そしてレナータは薬物依存となっているのか・・
修道院シーンにも多数のレナータもどきであふれ大暴れ、自傷行為をする本物のレナータ、ハインリヒかのように抱きしめる宗教裁判長。
レナータは最後、倒れ伏すが、これは彼女の想いがかなったという救いなのか、絶望なのか、地獄行きなのか。。。。
前者をイメージさせる演出だとしたら、それはこのオペラにプロコフィエフが思ったラストシーンなのかもしれない。

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           レナータ:エヴァ・ヴェシン  
    ルプレヒト:リー・メルローズ
    ホテルの女将:アンナ・ヴィクトローヴァ

    占い師、修道院長::マイラム・ソコローヴァ
    グロック:ドミンゴ・ペリコーラ
    アグリッパ::セルゲイ・ラドチェンコ
    ファウスト:アンドリー・ガンチュク
    メフィストフェレス:マキシム・パスター

    宗教裁判長:ゴラン・ユリッチ
    ワイズマン:ピョートル・ソコロフ
       ほか


   アレホ・ペレス 指揮  ローマ歌劇場管弦楽団
             ローマ劇場場合唱団

     演出:エマ・ダンテ


        (2019.5.23 @ローマ歌劇場)

ローマでの上演だし、カトリック総本山の地元ともいうことあり、きっとお堅いんでしょうね、ということの一方で、原作への忠実ぶりも求めてこちらを購入してました。
時代設定も原作どおり、妙な読み込みも少なめで、さらには日本語字幕もあることからフムフムなるほど、という思いで鑑賞しました。
安全運転すぎる演出ではありますが、たくさん出てくる個性豊かな登場人物たち、重要な存在である黙役、思わず踊りたくなるプロコフィエフの音楽に合わせたバレエチーム・・etc、わかりやすく納得感のあるものでした。
ラストシーンの不条理も、ラストピースが最後にひとつハマるような感じでのエンディングでよかった。
ただ、自分的には炎の天使と思しき赤っぽいダンサーがちょっと鬱陶しかった。
また全体に、ほかの演出を観てきてしまうと、刺激の少なさやギリギリの切迫感のようなものの欠如を感じました次第でありました。
あと好きでなかったのが、3つのノックの音が小太鼓で鳴らされたところで、ここはやはり、どんどんドンでしょう、と思いましたね。

聞き知った名前のいない歌手のレヴェルは総じて高く、見た目はこの人もオッサン系のメルローズが暖かい声のバリトンでよかった。
レナータのヴェシンさんは、ほかの盤の鋭い歌唱や演技を知ってしまうとちょっと弱く、演出上もさほどの厳しさを表出していない感じ。
ちなみに5幕の地獄シーンは安心安全のものです。
ほかの場面で1か所だけ、ポ〇リありで頑張りました!
あとこのDVDの一番いいところは、お馴染みペレスの指揮で、機敏でかつ情感にあふれ、オペラの緩急と呼吸感が豊かなところ。

「炎の天使」の映像作品を楽しむなら、まずこのローマ劇場盤で、次はもし製品化されたらバイエルンでしょう。
あと観てみたいのは、リセウ劇場(G・ヒメノ指揮)、チューリヒ劇場(ノセダ指揮)で、ともにストゥンディーテなところもすごい。

前にも書いたが、原作は最後にはレナータには救いの手がのばされてこと切れるが、プロコフィエフのオペラでは、そのあたりの具体的な最後がない。
そのあたりをどのように結論付けた解釈をするかで、いろんな伏線を全編に設けることができるので、このオペラは演出家には腕の振るいがいのある作品であり、傑作なのだと思う。
なんども言いますが、なによりもプロコフィエフの音楽がすばらしい。

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新国立劇場の次のシーズン・ラインナップが発表されましたが・・・
うーーん、という内容ですな。
ヴォツェックとエレクトラの新演出はいいにしても。。。
大野監督、これやって欲しいよう

次は交響曲いきます。

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プロコフィエフ 「炎の天使」 ①

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ある日の壮絶な夕焼け。

こんな日の翌日は雨だったりしますが、この晩遅くに暖かい当地には珍しく雪が舞った。

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  プロコフィエフ 歌劇「炎の天使」op.37

時計回りに、ゲルギエフ&キーロフ(CD)、N・ヤルヴィ&エーテボリ(CD)、ユロフスキ&バイエルン州立歌劇場(エアチェック)、大野和士&パリ管(エアチェック)、トリンクス&ORFウィーン放送響(エアチェック)、ペレス&ローマ歌劇場(DVD)

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

年代順にプロコフィエフの音楽を聴いていこうという遠大なシリーズ。

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「3つのオレンジへの恋」(1921)に続く、プロコフィエフの4作目のオペラ。
日本を経てアメリカに逃れたプロコフィエフ。
アメリカを拠点に、ピアニストとして人気と多忙を極め、本人の想いとはうらはらに「ボリシェヴィキのピアニスト」と呼ばれ人気を博した。
ヴァーレリィ・ブリューソフというロシア象徴主義運動の代表格である作家の1908年発表の同名の小説をもとにした5幕のオペラ。

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原作の表紙、舞台は16世紀のドイツでライプチヒからケルンあたり。
プロコフィエフもこの設定は変えず同じくしており、小説の内容もイメージ的にはほぼ同じ。
原作者のブリューソフ自身の経験に基づく三角関係的な耽溺小説ではあるが、プロコフィエフのオペラの「炎の天使」の筋立てのややこしさや、複雑さは、まさにこの原作にこそある。
さらにそこには、悪魔主義と非現実という象徴的な背景があり、宗教的な愛による救いも原作にはあるが、しかしプロコフィエフのオペラにはそれがない。
まさに救いのないオペラをプロコフィエフは作曲したのであります。

原作の中の挿絵にはこんなおっかない絵もあり

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1919年から作曲を開始したが、完成は1927年と8年の歳月がかかった。
その間、ニューヨークで知り合ったスペイン生まれの歌手リーナ・リュベラと愛し合うようになり、1922年にミュンヘンの南のエタールという街に移り住み、1923年にふたりは結婚した。
リーナはプロコフィエフの最初の妻で、その後もフランスやアメリカでともに暮らすが、プロコフィエフの祖国への帰還を熱い思いに対し、ソ連の体制などを心配して反対したものの、ソ連に移住することになる。
その後のリーナは気の毒で、プロコフィエフはほかの女性と関係を持ち別居となり、離婚届も出されてしまう。
さらには政治的な問題にも巻き込まれ、反体制派として逮捕までされ、プロコフィエフの死後雪解けの時期に名誉回復を得る。
リーナが亡くなったのは1989年と長命なのでした。

リーナとのドイツでの結婚生活のなかで、「炎の天使」の作曲に没頭するプロコフィエフ。
ノイシュバンシュタイン城のあるフュッセンと山ひとつ隔てた場所にある風光明媚な場所で、この斬新きわまりないオペラが書かれたというところが面白い。
1927年に完成し、翌28年に初演を目論んだもののスコアの改訂が間に合わず流れてしまい、パリのオペラ座でクーセヴィツキによって演奏会形式で2幕分のみが初演。
3幕11場の全体構成を5幕7場にするなど、その後も手を入れつつも初演の機会は訪れず、ソビエトに帰還してしまってからは、その内容から同国での上演などおぼつかず、まさにお蔵入りとなりました。
プロコフィエフの死後2年目の1955年にイタリア語翻訳によりヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演となる。
このオペラの主題を用いて交響曲第3番を作り上げたのが1928年。
こちらは1929年にモントゥーの指揮で初演され、いまやコンサートでも人気曲のひとつとなっている。

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       登場人物

    16世紀 ドイツ ライン地方

 レナータ:悪魔に魅入られた娘(ソプラノ)
 ルプレヒト:騎士で旅人 レナータに一目ぼれで愛し抜く(バリトン)
 宿屋の女将:(アルト)
 召使:(バス)    
 占い師:(メゾ)
 ヤコフ・グロック:本屋(テノール)
 アグリッパ・フォン・ネッテスハイム:魔術師、哲学者(テノール)
 マティアス・ヴィスマン:ルプレヒトの学生時代の友人(テノール)
 医師:(テノール)
 メフィストフェレス:悪魔(テノール)
 ファウスト:いわゆるファウスト・哲学者(バリトン)
 居酒屋の主人:(バス)
 尼僧院長:(アルト)
 宗教裁判長:(バス)
 ハインリヒ伯爵:黙役
 その他の連中:3体の骸骨、隣人、尼僧、随行員etc. 合唱、バレエ

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第1幕 宿屋にて
宿屋の女将に案内され、粗末な屋根裏部屋に、アメリカ帰りの騎士ルプレヒトが登場。
この宿で一番良い部屋だと自慢されるが、隣室から叫び声が聞こえて来る。
ルプレヒトが駆け付けると、若い女性が「悪霊に取り憑かれている」と言って悶え苦しんでいる。
この美しいレナータに一発で心ひかれたルプレヒトが事情を聞くと、レナータはその身の上を話し始める。
 子供のころ、マディエリという「炎の天使」といつも一緒に楽しく過ごしていた。
やがてレナータは年頃の乙女になり、その友情は愛情に変わっていった。
レナータがマディエリに恋心を打ち明けると、マディエリは「いずれ時がきたら人間の姿になって再びレナータの前に現れる」と約束して去って行った。
さらに月日は流れ、レナータはハインリッヒと名乗る伯爵に出会う。
このハインリヒ伯爵こそがマディエリの生まれ変わりだと確信し恋に落ちてしまう。
二人は短くも幸せな時を過ごしたが、伯爵はレナータを捨てて突然に姿をくらましてしまった。
それ以来、夜ごと悪夢にうなされながら伯爵を来る日も捜し続けているのであった。
彼女の話を聞くうちに、ルプレヒトはレナータの不思議な魅力に憑かれ、彼女を自分のものにしたいと言う欲望にかられ、普段の冷静さを忘れ襲いかかるが、激しく拒絶される。
しかしルプレヒトは危なげなレナータを愛し、守りたいと強く心に決める。
様子を見に来た女将は、このレナータを売春婦と罵り、ルプレヒトに忠告し、さらに占い師を呼んで来て占うことにする。
占い師はレナータとルプレヒトの血塗られた運命を予言する。怯えるレナータを連れてルプレヒトは宿を逃げ出して行く。

第2幕
第1場 ケルン
ルプレヒトとレナータはケルンにやって来る。
レナータはハインリッヒ伯爵を探し出すために、魔術について文献をあたり調べている。
本屋のグロクが登場し、魔術についての文献を持参するが、黒魔術などは、異端としての裁判の恐れあり勘弁して欲しいという。
 ルプレヒトは再び愛を告白するが、ハインリッヒ伯爵の足元にも及ばないとまったく相手にせず、文献に没頭する。
レナータが伯爵の魂に呼びかけると、ドアをノックする音が3回聞こえて来るので「魔術が成功した」と喜ぶ。
しかしそれは、熱に浮かされたレナータの幻聴であった。
絶望するレナータ、ルプレヒトはまたやって来た本屋グロクの忠告に従って、学者で魔術師のアグリッパ・フォン・ネッテスハイムに助言を求めにいく。

第2場 アグリッパの書斎
学術書や科学的計測器などが散乱するアグリッパの書斎、そこで鳥の剥製や骸骨の並ぶまがまがしい雰囲気のなか研究中。
そこにルプレヒトが訪ねて来て経緯を説明し、助言を求めるが断られる。
ただアグリッパは、魔界に関わってはならないと警告を与え、自分は人間の深淵を探求するのみなのだ、と宣言する。
横に並ぶ3体の骸骨が「アグリッパは嘘をついている」と教えるが、それはルプレヒトには聞こえない。
アグリッパは、真の魔術とは科学そのものであると忠告をする。

第3幕
第1場 ハインリヒ伯爵家の前
レナータはケルンに滞在していた伯爵に巡り合うことが出来たが、伯爵はレナータを魔女と呼んで遠ざける。
レナータは深く傷つき、そんな伯爵なんて火の天使マディエリの約束した化身ではないと考えるようになる。
ルプレヒトはすべては幻だったのだと、アグリッパに会っての結論を言うが、レナータは「自分を辱めた伯爵に決闘を申し込み、殺して欲しい」とルプレヒトに訴える。
ルプレヒトはさっそく伯爵家に決闘を申し込みに向かい、レナータは屋敷の外でマディエリが姿を現わしてくれるように神に祈っていた。
ここでのモノローグはなかなかに切実で、この作品の一番オペラらしい歌唱シーンとなる。
レナータは祈りの陶酔の中、窓に映る伯爵を見上げると、そこにはハインリヒ伯爵が、、やはり伯爵がマディエリの生まれ変わりであるとまたも確信してしまう。
ルプレヒトが決闘の段取りを終えて戻ると、身勝手にもレナータは伯爵を傷つけることを禁じるのである。
なんでやねんと、めちゃめちゃ怒るルプレヒトであった。

第2場 ライン川
レナータから伯爵を傷つけるな!と命令されたルプレヒトは、それでも勇敢に決闘に挑み闘いの末、深手を負う。
突然出てきた友人のヴィスマンに助けられる。
一方の伯爵はまた姿を消してしまう。
レナータはこの顛末に愕然とし絶望に暮れ、ルプレヒトへの愛をいまさらに誓い、命乞いをし、死んでいまったらもう自分は修道院に入るとしおらしくもこの厳しい試練を嘆く。
しかしその誓いを嘲るような声もまた聞こえ、レナータは不安に陥る
ルプレヒトは私を死に追いやりやがってこのやろう!・・・と悪魔の幻影を見る
医師を伴いヴィスマンが戻ってきて、ルプレヒトは一命をとりとめる。

第4幕 ケルンの街角、居酒屋
レナータが介護し、ルプレヒトは回復し、ふたたびレナータとの結婚を望んでいた。
しかしレナータはルプレヒトに感謝はしていたが、愛することはできないという。
レナータはルプレヒトを遠ざけ、未だに伯爵に性的な欲望を感じる自分の体を呪い修道院に入ると言い張る。
混乱するレナータはルプレヒトを悪魔の使いだと責め、ナイフで何度も自傷行為をする。
そして結婚を哀願するルプレヒトの制止を振り切り、ナイフを投げつけて逃亡してしまう。
 その時ファウスト博士と悪魔メフィストフェレスがレナータとルプレヒトの言い争いを居酒屋のテーブルに座って見物していた。
ファウストは天使も悪魔も人間のことが理解できないと意味深に言う。
メフィストフェレスはワインを飲み、肉を持ってこいと給仕の少年に命ずるが、男の子は肉を落としたりして粗相をしてしまうと、その子をメフィストフェレスは食べてしまう。
ファウストはメフィストフェレスの悪ふざけにうんざりしているが、驚いた店主は「男の子を返せ!」と大騒ぎをして、メフィストフェレスは満足げに男の子をゴミ箱から出してみせる。
そんなメフィストフェレスは落胆するルプレヒトに興味を持ち、女に振られ気落ちをしてやがると揶揄し、無理強いでは愛は手に入らない、一緒に飲もうぜと誘っって来る。
ケルンを案内しろ、一緒にくれば、いろいろとわかるぜとメフィストフェレスは誘う。

第5幕 修道院
逃げ出したレナータは修道院に入っていた。
悪霊を信じるのか?見たのか?と僧院長は問い、レナータが来て以来、不思議なことばかりが起きるという。
しかし悪霊に苦悶するレナータによって修道院はだんだんと不穏な空気に包まれる。
尼僧達も不安におののき始める。
尼僧院長はレナータを呼び出し宗教裁判にかけることし、宗教裁判長は十字架をかざし悪魔払いを始める。
この悪魔払いの儀式は修道女達をさらに混乱させ、悪霊を呼び醒ましてしまう。
炎の天使の幻影がついにレナータを制圧し、修道女たちはサタンをも讃美し始めみなトランス状態となりレナータを讃える。
メフィストフェレスとルプレヒトはこの様子を見ていて、ほら、あの女だぜとルプレヒトに見せつける。
ついに宗教裁判所長がレナータに悪魔と通じた堕天使と烙印を押し、拷問と張り付け火炙りの刑を言い渡し、混乱の極みに達する。
最後は近衛兵も乱入し、ついに処刑へとなる・・・・・

                    

とんでもなくややこしく、ヒロインの目まぐるしいまでの心変わりは、悪魔に魅せられた由縁か。
そうした女性を愛し抜くことができるのか。
いるかもしれない悪魔と対峙する男性、ルプレヒトは騎士道精神を発揮して、自らの破滅も顧みずに渦中に飛び込んでいく。
そこまでして愛し、救助するに足る女性なのかを問うのもこのオペラだし、そのあたりが上演にあたっての演出家の腕の見せ所だろう。
ラストシーンは、音楽としてはいろんな解釈を施すことができるような残尿感も漂うが、まばゆい音のエンディングとなる。
ルプレヒトは、メフィストフェレスにとどめられたのか、レナータを救うことが出来ずに傍観者となる。

一方、ブリュソフの原作の方だが、修道院入りしたレナータは、悪魔か聖人に取りつかれた状態になっていて、そうした罪を告白して牢ににつながれてしまう。
それをルプレヒトが救出に向かうが拒否されたあげくに、「炎の天使」と同一視したのかどうか、彼の腕に抱かれつつ死んでしまう。

この結末の描かれ方の違いは大きい。
救いがなく、より悪魔的、暴力的な結末にしたプロコフィエフは、ここに付けられた音楽がまさにそのような出来栄えになっており、予定調和的でないところが、この時期のプロコフィエフの先鋭的な作風にピタリと来るわけです。

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2025年2月25日 (火)

富士と菜の花

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近くにいるとなかなか行かないのが名所だったりします。

名所と呼ぶほどのことはございませんが、久々に登ってきたのが吾妻山。

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これまで何度も登場してる風景ですが、菜の花が満開になるこの時期がいちばん美しい。

音楽ブログのほうは、いま大作にいどんでいるので、その執筆の途上。

ブルーとイエローの世界で、雪の多い地域の方には恐縮ですが、春を先取り。

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箱根の山々と小田原の街も臨めます。

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こんな街でのほほんと過ごし、育ったワタクシでございます。

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