2026年8月 9日 (日)

ワーグナー 「リエンツィ」 シュトッツマン指揮 バイロイト2026

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バイロイト祝祭劇場開設から150年の今年。

政治家・ゆかりの人などがスピーチを行う記念式典が行われ、メインの「第9」の模様はさっそくBR放送局のネットで聴きました。
ティーレマンの指揮で、「マイスタージンガー」前奏曲、「タンホイザー」歌の殿堂の合唱もその前に演奏。
最近では珍しくなった重厚な「第9」を聴き、妙に新鮮な気分になったと同時に、いつまでもティーレマンでいいのかな?とも贅沢にも思った自分。

バイロイトの第9といえば、劇場の基礎が施工された記念に1872年にワーグナーの指揮で、バイロイト市内にある辺境伯劇場で演奏されたのが最初。
そのあとの主な記録としては、ワーグナー没後50年の1933年にR・シュトラウスの指揮、あとは1951年の戦後の新バイロイトスタートにフルトヴェングラー、さらには超有名となった1954年のフルトヴェングラー。
ワーグナー生誕150年の1963年にベーム、バイロイト125年・戦後再開50年の2001年にティーレマン。

ちなみに、バイロイト市内でのユダヤ系の作家・元政治家のミハエル・フリードマンの講演も再開され、カタリナ・ワーグナーは今回の式典のなかでもコメントをしている。
ワーグナーの反ユダヤ主義を批判するフリードマンのこの講演は、安全が確保できないとの理由で中止とされたが、そのこと自体も批判され、すったもんだしたようだ。
式典ではうだつのあがらないメルツ首相のスピーチや、カタリナ・ワーグナーのライバルでもあった従姉のニケ・ワーグナーの示唆に富む話などもあったようだ。

ちなみに、画像の背景にある壁画は、この日のために用意されたアートで、劇場の恩人ともいえるルートヴィヒ2世が、ワーグナーに金貨を与える様子がメインとなり、ワーグナーの横にはコジマも見える。
カタリナ・ワーグナー、リニフ、シュトッツマンなどの女性陣、トスカニーニ、フルトヴェングラーなども描かれていて、かつてバイロイトを差さえた巨匠、そしていまは女性もその重席で活躍中とのイメージなのだろう。
ついでにいうとヒトラーも左手奥にいますな・・・・・

式典+第9の次は、今年のプリミエ、「リエンツィ」
「オランダ人」以降の作品に限り上演されてきたバイロイト音楽祭において、初期三作の「妖精」「恋愛禁制」「リエンツィ」は150年間舞台にのることはなかった。
記念の年に、「リエンツィ」を今回限りということで上演され、ネットにてその音源と映像とをさっそく視聴することができた。

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   ワーグナー 歌劇「リエンツィ」

 リエンツィ:アンドレアス・シャガー
 イレーネ(妹):ガブリエッラ・シェラー
 アドリアーノ(妹の恋人、コロンナの息子):ジェニファー・ホロウェイ
 コロンナ(貴族):アンドレアス・バウアー・カナバス
 オルシーニ(貴族):ミヒャエル・ナジ
 枢機卿ライモンド:ヴィタリー・コワリョフ
 バロンェッリ(リエンツィの同士):マティアス・スタイアー
 チェッコ(リエンツィの同士):ミヒャエル・クプファー・ラデッキー
 平和の使者:ヴィクトリア・ランデム

 ナタリー・シュトッツマン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

                バイロイト祝祭合唱団

      合唱指揮:トーマス・エイトラー=デ・リント

      演出:アレクサンドラ・セメレディ
         マグドルナ・バルディトカ
 
                           (2026.7.26  @バイロイト祝祭劇場)

パリで一旗揚げよう、あわせて借金の返済にもあてようと目論んで作曲されたグランドオペラ風の大作「リエンツィ」。
しかしパリでは上演のお呼びがかからず、第2の故郷ドレスデンに帰り、そこでついに初演され異例の大成功を勝ち得る。
同時に作曲されていた「オランダ人」はその翌年に初演。
ワーグナー存命中、そして19世紀には、リエンツィはワーグナーの諸作のなかでいちばん上演されたオペラだという。

それが、バイロイトで上演されない作品となり、さらには一般の劇場でもほぼ上演機会のないオペラとなっているのがイマ。
オペラとして長大にすぎること、作品の完成度としてもオランダ人と比しても劣ること、登場人物が多いうえ実力派歌手が必要なこと、などが作品としての魅力に欠ける点。
 それと大きな要素が、ヒトラーの存在。
ヒトラーはリエンツィの音楽(とくに序曲)にほれ込み、そしてなによりも若き頃のその上演に接し、リエンツィという登場人物に自分の理想とする指導者の姿を見ていた。
リエンツィの総譜は、ナチス政権時代には、ドイツ帝国音楽会議所の所蔵となっていて、ヒトラー50歳の誕生日のプレゼントにされてしまった。
若きヴィーラントは、ヒトラーにワーグナー家に総譜を渡して欲しいと依頼したことがあるが、ヒトラーは拒絶。
よほど好きだったのか。
リエンツィばかりか、妖精も恋愛禁制も、いずれもナチスの所蔵となってしまい終戦時にはそれらは行方不明となったらしい。
現在のリエンツィは、ドイツの楽譜出版会社のショット社による推敲を経た1970年代の全集版によるもの。
 こんな経緯があるものだから、リエンツィの演出では、ヒトラーの影をそのまま投影させるものが多く、映像作品もそうしたものだ。
作品としての出来栄え、政治的に負わされてしまった背景、このふたつの重荷が「リエンツィ」にはあるわけです。

以下、以前のブログから引用~

実際に存在した「コーラ・ディ・リエンツォ(1313~1354)」は、公証人から政治家になった人物で、貴族批判をつらぬき、最後はやりすぎの施策から諸方から嫌悪され殺されてしまう劇的な人生を送った人物のようだ。
思えば、ワーグナーの好みそうな存在だったわけだ。

「平民の出であるリエンツィは貴族たちの横暴に対して平民の自由のため立ち上がり、熱狂した市民たちは国王になってもらいたいと乞われる。しかし、リエンツィは護民官と呼ばれたいという。
貴族たちはリエンツィを殺そうとし、ローマの新皇帝と教皇も貴族たちの奸計によりリエンツィを弾圧する。
扇動された無知な市民たちはリエンツィに反抗的な態度を見せるようになり、リエンツィは教会側から破門。
市民はリエンツィに投石し、彼の話など聞かなくなり、宮殿に火をつけてしまい、リエンツィはその火焔のなかに姿を消す・・・」

~引用終わり
 各幕のあらすじは →過去記事

そうして1年とはいえ、今回のリエンツィ演出に選ばれたのは、ハンガリーの女性チーム。
彼女たちが総合演出、舞台装置・デザイン、衣装とすべてを担当。

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クラッツァーを思わせるカジュアルなビジュアルぶりですが、このふたり侮るなかれ、調べたらオペラ演出では結構な実績があります。
セメレディ(右)はザルツブルクモーツァルテウムに学び、多くの演出家の元で実践を積み、バルディトカはバルトーク音楽院で音楽を本格的に学んでいる。
ふたりが組んで、ブタペストのワーグナー祭で演出を担当したり、最近ではリングもザールランド州立劇場で演出してる。
試しにザールの舞台を調べたら・・・そっとPC画面を閉じたくなるものでしたわ。
さまよえるバイロイトと言いたくなるくらいに、お寒い演出ばかりの昨今に相応しいものとなるか。それとも、「リエンツィ」というバイロイトとワーグナー家にとっての重荷を打破するような画期的なものになるのか・・・・

映像作品として見た限りでは、私はNOでしたね。
過ぎたるは猶及ばざるが如し、あれもこれもぶち込みすぎて、無理筋が多いし、そこまで「イマの世界」と思える結びつけをするもんじゃないだろ。

長い上演を幕ごとにコメントするととんでもなく長くなるので、舞台の様子と思いは羅列します。

時代設定はあたりまえのように動かしていて、ローマ時代から、現代ないしは近い未来。

「序曲」

・この勇壮なる序曲が流れるなか、それとは関係なくドラマは開始。
3つの行き来が出来る部屋があり、リエンツィは書きものに夢中、別の部屋には病気の子供がいてぬいぐるみを抱えて苦しそうにしつつ、リエンツィの部屋に行って熱烈な愛情を注がれる。
真ん中の部屋では妹のイレーネがいて、子供を気遣ったり、リエンツィの書き物にアドバイスをしたりしつつ、リエンツィから兄妹とは思えぬ抱擁を受けたりして尋常でない関係を示す。
でも気の毒にも子供は死んでしまう。
悲しむ間もなく、下から別舞台がせりあがってきて、なぜか劇中ひんぱんに登場する「鳩」の映像がそこここに映り、各部屋には市民と思しき人々が手に手にスマホを持って操作中。
こんななかで、かの行進曲調の序曲が流れるのであります。

「第1幕」

・序曲の終盤から連続するシーンは、いちばん下の階がリエンツィの選対本部みたいで、彼のウィスキーボトルと亡き子の写真。
忙しく動き回るスタッフ~
そこへ支持者とともに出てくるのが貴族であるはずのオルシーニで、ここではスーツで決めたイケメン、イレーネをかどわかすことなく、ネットでリエンツィとの怪しげな関係をさらすという雰囲気で、そのイレーネは事務所でえらいことになったわ、と慌てるだけ。
リエンツィとイレーネのゴシップネタは、ネットで瞬く間に広がり階上の市民たちも大騒ぎ、そこへあらわれた貴族の本来設定のビジネスマンみたいなコロンナも加わり、オルシーニに加勢する。
 そこに割って入るのがコロンナの息子、イレーネを愛するアドリアーノで、ドラマテックソプラノのズボン役ではあるが、ここではダボダボのパンツとゆったりめのジャケットを着た「男装女子」というイメージ。
これはジェンダーレス女子というのだろうか・・・
 やがて貴族・市民(この舞台では設定がみんなメチャくちゃだから誰でもいい)が争いとなり、そこに突然リエンツィが演説台とともに出てきて、序曲で妹とともに造り上げた原稿を読み上げ演説をし、そこにかけよるマスコミの取材陣。
見ている全員は、スマホで撮影し、テレビ放送は首都から、というタイトルで実況中継されている。
リエンツィの演説は市民たちの心をつかみ、みんなニコニコになり、イイネボタンのプラカードをかかげる。
兄に政敵の息子を紹介するイレーネ、そこでの3者会談では、リエンツィはウィスキーをあおっていて、なにかを引きづって入る様子。

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こうして、オルシーニ・リエンツィ・コロンナの3者で選挙が行われることとなり、3者の選挙公約もちゃんと書いてるし、候補者の様子、その家族など、やたらとリアルに演じられ、それがまたテレビ放送されるという手の込んだ入念さ。
市民たちは肌身離さずスマホ。
結果はリエンツィ41、コロンナ33、オルシーニ26という結果。

「第2幕」

リエンツィを讃えるにこやかな市民たちだが、本来は平和の使者、その動きがスローモーションになり、絶頂を迎えるリエンツィが階段を登るとその先は「出口」と書かれたドアの映像。

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そのドアが左右に割かれると、そこに現れたのはクマさんのぬいぐるみを抱いて横たわる子供で、リエンツィは驚きで倒れ、子供は起き上がり血に染まった胸、傷口のあらわな両手の平で降りてくる。
(この作られた設定が混迷を感じる・・・)
コロンナとオルシーニの悪だくみは、仕切りができて、建物外で行われる。
 ついで舞台にしつらえられた劇場で、使者たち歓迎のパントマイムバレーが行われる。
短縮版ではカットされる冗長な場面だ。
やたらとリアルな招待客の入場シーンについで、バイロイト祝祭劇場の前に飾ってある金色のワーグナーそのものの、お子様リヒャルト・ワーグナーが出てきて、舞台を仕切る。
驚くべきことに、ワーグナーのオランダ人以降のすべての作品のパロディが面白おかしく演じられる。
ご丁寧にこの劇中劇には、休憩もあり、観客はトイレに並んだり、酒を飲んだり、プレッツェルをかじったりしてる。
どこの世界も女性トイレの行列の方が長いのだ。
 劇の終わりとともに、リエンツィがなにものかに襲われるが、本来のト書きではオルシーニが刺すはずなのだが犯人は仮面の知らない男だった。
民衆裁判の場となり、皆は親指を下に向け極刑を望む姿勢。
妹とアドリアーノは慈悲の嘆願をし、民衆は仮面を装着し極刑を歌う、このあたりがイマイチよくわからない設定で、音楽的には心理描写も含んだ重唱として聴かせどころと思うが、演出が不明すぎ。
恩赦を決意したリエンツィを讃える妹と恋人、民衆、不満そうな側近たち、主犯格の貴族と心離れを起こしている枢機卿。
みんなグラスを交わしながら宴もたけなわとなるが、ひとりリエンツィはウィスキーをあおりつつ、心ここにあらず、うつろで不安にかられた動きを示す。
 1幕と2幕は連続して上演され、ここで幕が降りるがあ、はやくも「ブー」。

「第3幕」

イレーネの部屋で一夜をすごすアドリアーノのシーンが前奏曲。
ついで逃亡した貴族たちが攻めてくるぞと男達が全員スマホを見ながら終結し、リエンツィの側近たちも、あのとき情けをかけたリエンツィが悪いんだと批判。
出てきたリエンツィは戦闘を鼓舞し自分たちの正当性を演説するとスクリーンには勇ましい軍隊行進の映像と男達の足踏み。
リエンツィが独裁・独善へと走り出したターニングポイントを強調する演出。
でもいきなり掃射をくらってほぼ全員ぶっ倒れると言う極端なシーンには笑ってしまった。
 ここでアドリアーナの劇的なアリアがはいるが、屍を前に、無表情で立ち尽くすリエンツィとイレーネ。
ホロウェイの劇唱が素晴らしいところだ。
このアリア、オランダ人のエリックのカヴァティーナを思わせる。
 この後が戦闘の準備シーンとなり倒れていた男達=ローマ市民は白Tシャツから今風の軍服に着替える。
イレーネがリエンツィに演説の台本を渡し、鼓舞するように命じるようなシーンもあった。
「santo spirito cavaliere(聖霊の騎士よ!)」と何度も繰り返される序曲に出てくる忘れられないフレーズもここでは無味乾燥の軍隊鼓舞にしか見えない。
軍靴の映像、燃える市街(イスラエルに攻撃されたどこかみたいに見えた)の映像が次々と映し出され、戦闘を辞めさせに走りたいアドリアーノと制止するイレーネ、残された女たちの祈りなどが絡み合い舞台は複雑だし、あげくには子供もつれてこられ、彼らにまで軍服を着せ連れてゆくという無謀ぶりまで描かれる(これウクライナじゃね?)。
 あっという間の戦闘終結は、原作もあっけないが、ここではオルシーニとコロンナが引っ立てられてきて、このふたりをリエンツィが銃殺するシーンが描かれていて、ここまでのリアルは原作にはない。
リエンツィはふてぶてしく横暴になりヘラヘラしてる。
映像に映し出される墓。枢機卿、女性たち、負傷した男達もドン引きになり、ふさぎ込み、アドリアーノは激昂して復讐を誓う。
 

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「第4幕」

この上演では、これまで音源などでは5幕の頭にあったリエンツィの高名なあアリアが4幕の冒頭に来てる。
短銃で自決を図ろうとしつつ、酒を浴びるように飲んでるリエンツィ。
音楽はあの美しい旋律が流れるというこの虚しさ。
なんでここまでやらなきゃ気が済まんかね?見る側の想像力を信頼しろ、といいたい。
素晴らしい音楽が台無しなのだよ。
 アリアのあとに、通常の4幕が始まり、全員がスマホを手にリエンツィの悪い噂がある、ドイツ王子の選出にかかわり不興をかっていると騒ぎになる。
アドリアーノも出てきて、そんな証拠はいくらでもあるよ、とスマホを繰りながら歌う。
ともかく、ネコも杓子もスマホで情報を得て、交換し合い、怒ったり泣いたりするのだよ(笑)
アドリアーノはライフルをしょって、高台に登って見張る。
教会に向かうリエンツィとイレーネ、テデウムが厳かに流れ、それを見まもる市民たちは無表情かつスローモーション。
枢機卿や背景の僧侶たちがリエンツィを断罪するとリエンツィは倒れ込んでもがき苦しみ、イレーネは無表情で見つめる。
この静かなシーンはサスペンスタッチでよく出来てると思った。
恋人かあらの逃亡の誘いを断り、リエンツィに駆け寄るイレーネ・・・・

 「第5幕」

テデウムが流れる中、建物の壁が降りてきて、本来の知ってた5幕の2場につながる。

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兄と妹の、まるでワルキューレのようなシーンとなる。
激したリエンツィは、刃物で自傷行為を行い、その手でイレーネを抱きしめるものだから二人の白い衣装は血だらけに・・・
昨今のオペラは平気で血が出る・・・好きじゃないよ。
しまいには妹に刃物を持たせ、彼女は兄をぶっさしてしまうんだ。
絶望する兄とそれを見捨てない、ローマを忘れないとする妹。
舞台の前にぶっ倒れるリエンツィ。
 アドリアーノが出てきて早く逃げようと言うが、ナイフを振りかざして拒絶するイレーネ。
制止する彼をよそ眼に。イレーネはナイフでこれまた自傷。
ワタシは自由と歌う。ここでの決意のイレーネのフレーズはゼンタの自己犠牲の場面にそっくりなことに気づいた。
 リエンツィの館に押し掛ける民衆、この舞台では観客のように席に座ってスローモーションで嘲笑の表情を作りながら非難。
立ち上がったリエンツィは再び鼓舞をして、その背景ではビルの摩天楼が崩壊してゆくシーンが映しだされる。

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レッドカーペットが敷かれた階段が出現し、その先には茫洋とした人物があらわれこちらに向かってくる。
そこに向かって手を差し伸べ倒れるリエンツィ。
画面の奥ではかの少年らしき顔も・・・
最後はイレーネが立ち上がり、こちらを見つめ、暗闇となり幕。

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メチャ長くなりましたがね、こんなんじゃ書ききれないことが舞台で起きていて、よくもまあ4時間あまりのこの複雑なオペラをこうも細かくも分析し解釈し、演出を施せたものだと感心します。
そうした点では大いに評価してよい。

でも先に述べたように、いろんなものを盛り込みすぎで、ただでさえドラマと音楽の求心力がイマイチな作品なだけにかえってやりすぎだと思わざるを得ないのです。

主張したかったであろう点を勝手に想像してみる

・時代設定を近未来にすることで、いま世界でおきているナショナリズム的・自国優先的な動きが独裁を生むという危険性
・スマホひとつでよくも悪くも情報拡散、政治も動かし、気づかぬうちに体制が変わってしまう
・某大統領への揶揄?
・近親相姦、フェミニズム、ジェンダーボーダーレスなど、ワーグナーが先を行っていたとする説の盛り込み
・あたりまえに多様性。目立つアジア系の合唱団員
・自己犠牲の連関、オランダ人と神々の黄昏の先触れの終末論
・意味不明な子供の登場は、もしや救い主?
・海外評では映像で、マタイ伝24章1~33節が映像で流されているという。
 イエスが弟子に語る終末の訓話で、世の終わりの前兆として神殿の崩壊、偽預言者の出現、戦争、迫害などが起きる。
 人の子の到来のしるしがあらわれる。
  これらの苦難に最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

最後の聖書の内容は、この演出に符合すると思う。
バイロイトとワーグナーが背負ってしまったリエンツィの重荷、それを解消するには独裁者を否定し、あらたな世界の到来を予見させる・・・そんな意図が張り巡らされていたのではないだろうか。

そう思うと実によく考えられた演出であったといえる。
そのうえで、私はやりすぎと思う次第です。

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歌手たちは、どんなに賛辞を捧げても足りません。
絶賛されたのがホロウェイで、凛々しくもあり、張り詰めたその声はワーグナーやシュトラウスにぴったり。
重たすぎない声でもあり、サロメ歌いから、今後、ゼンタやジークリンデ、ワーグナー歌手として活躍して欲しい。
 もうひとりのヒロイン、シェラーは美人さんで、リングではイケてるグートルーネを演じてたが、このリエンツィでは聴かせどころは少ないもののクールな演技とその暖かな歌唱が印象的。
彼女も今後、おおいに活躍が見込まれますな。
 タイトルロールのシャガーは、まさに相変わらずのタフガイ。
さすがに声にやや衰えも感じなくもないが、この長丁場を歌いきれるヘルデンテノールはほかにないだろうし、カウフマンの悲劇臭あふれる声にはお似合いの役だが、忙しすぎるからムリだろう。
見た目もふくめ、もう少し若い歌手で観てみたい演出だ。
 お馴染みのナジのオルシーニの美声、ラデツキーの豹変するチェッコ役も印象的だった。
ほかの諸役の水準が高い。
 合唱団は相変わらず強靭でありつつ、ひとりひとりの演技力も問われる演出に見事にこたえてましたね。

最後に絶賛したいのはシュトッツマンの指揮。
完全に作品を手の内に収めた音楽造りで、動きの多い舞台に連動して、巧みにオーケストラをコントロールしていて、CDで聴くリエンツィの音楽よりも、よりニュアンスが豊かに感じたし、強弱の振幅も極めて大きく、それが自然に感じた次第。
シュトッツマン、ますますオペラの手練れになってきた。

映像やバイエルン放送の音源に収められた聴衆の反応では、歌手と合唱、指揮には大ブラボー。
演出陣ご一行には容赦ないブーイングが捧げられるかと思ったら、最後の
ブーは少なめ。
1年限りとされるが、これだけのプロダクションだから、どこかほかの劇場が引き継ぐかもしれないですね。

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美人さんなガブリエッラ・シェラーさま

 リンツィ 過去記事

「スタインバーグの映像、ヴァイグレの音源」(2023)

「ホルライザー指揮 ドレスデン」(2009)

「サヴァリッシュ指揮 フィラデルフィア 初期作序曲集」(2008)

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2026年8月 2日 (日)

サマーミューザ 読売日本交響楽団 ヴァイグレ指揮

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日本のオーケストラの夏の祭典、ファスタ・サマーミューザに再び。

そう、ワーグナーですよ。

バイロイトも150周年の記念の年で、そちらは放送で例年どおり連日楽しんでます。

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  フェスタ・サマーミューザ 読売日本交響楽団演奏会

 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 op.37

 シューベルト    楽興の時 第3番 ~アンコール

       Pf: 鈴木 愛美

    ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
           ~オーケストラル・トリビュート~
         ヘンク・デ・フリーヘル編 日本初演

    セバスティアン・ヴァイグレ指揮 読売日本交響楽団

       コンサートマスター:日下 紗矢子

       (2026.7.31 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

サマーミューザでは、2023年にこのコンビで「ニーベルングの指環」フリーヘル編。
2025年には、ノットと東響で「ニーベルングの指環」マゼール編を、それぞれに聴いてますが、ともにベートーヴェンの8番との組み合わせだった。

そして、今回もワーグナーとベートーヴェンで、協奏曲とはいえ、調性にひとひねりあり、ハ短調とハ調の対比でもありました。
そのハ短調を本格的なベートーヴェンとはかくや、と思わせるピアノを聴かせたのが若い鈴木愛美さん。
私は初めてのピアニストでしたが、すでに彼女のベートーヴェンは定評があり、ファンもたくさんいらしてましたね。
ともかく一音一音がクッキリと明快で、音楽の組み立ても隙なく安定感があるのが年齢を思わせない彼女のスゴさかも。
曲が曲だから、シャープな1楽章では輪郭を際立たせたヴァイグレと読響の音も手伝い、辛口の渋い演奏にも感じた。
緩徐楽章が抒情的なベートーヴェンらしさの最たる作品が3番でもありますが、この2楽章がともかく美しかった。
静謐でありつつ透明感にあふれたピアノのソロに導かれるように柔和なオーケストラが入ってくる冒頭から、もう私はこの演奏に聴き惚れました。
ピアニストの若い、瑞々しい感性がこの楽章にはなみなみとあふれ出ておりましたし、それを優しく見つめ支える指揮者とオーケストラによる幸せな楽章。
次ぐ3楽章はあわてず騒がず、じっくりと短調と長調との橋渡し、その対比もごく自然で気負うことのない落ち着きすら感じ、そうでありながらもしっかりとフィナーレとしての完結感をオーケストラとともに表出。
実に気持ちのいい、夏の暑さも忘れてしまう爽やかかつ堂々たるベートーヴェンでした。
 この気持ちをさらに柔らかさで包み込んでくれたのがシューベルトの音楽。
シューベルトの歌声を感じさせる実にステキな演奏でありました。
誰しも優しい気持ちになります。

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オーケストラルアドベンチャーとして、コンサートの定番にもなった「リング」で高名なデ・フリーヘル(73)が2005年に手掛けたのが「マイスタージンガー」。
フリーヘル編のワーグナーは現在のところ、「リング」(1991)、「パルジファル」(1993)、「トリスタン」(1994)、「マイスタージンガー」(2005)、「タンホイザー」(2018)と未完の草稿の補完・オケ編(1996)となっており、残るは初期3作と「オランダ人」「ローエングリン」。

ということで、自分的にはその存在すらまったく圏外だった「マイスタージンガー」のフリーヘル版があることを今回はじめて知った次第で、音源も父ヤルヴィ、デ・ワールトとあることも知った。

なんたって、ヴァイグレはマイスタージンガーでバイロイト音楽祭デビューを2007年に飾り5年間、カタリナ・ワーグナーのプロダクションをすべて指揮した経緯あり、さらに今回の演奏会の事前インタビューを読んだが、ベルリン国立歌劇場の首席ホルンだった時代に、スウィトナーに率いられた引っ越し公演で東京でマイスタージンガーのピットに入っていたとの発言もありました。
私も観劇したNHKホールでのあのスウィトナーのマイスタージンガー。
指揮者として、オーケストラの一員として、マイスタージンガーばかりでなく、ワーグナーに精通しているヴァイグレですからもう安心して、その素晴らしい「ワーグナーサウンド」に酔いしれることが出来たのです。

前奏曲→①親方たちの集合→②徒弟たちの歌→②ザックスのモノローグ「にわとこの花」→③前奏曲→③洗礼「五重唱」→③各業界組合の行進→③徒弟たちの踊り→③マイスタージンガーたちの入場、ザックス入場→③ヴァルターの歌「朝はばら色に輝き」→③ザックスの戒め「親方たちを侮るなかれ」、終幕合唱

約50分に巧みに集約された構成だが、どうしても3幕ばかりになるのは歌より合唱も多く、動きが多いシーンが3幕だから。
ベックメッサーがまったく登場しないから、2幕からベックメッサーの愉快な歌のシーンや乱闘シーンは入れてもよかったかも・・・です。

それにしても、前奏曲のハ調の出だしからヴァイグレも読響も気合が入っていて、ホールすべてを解放してしまうかのような前向きかつ明るい響きだった。
読響の威力あふれる低弦にもおどろきで、これぞワーグナー、ドイツだとも思ったりもした。
親方たちを点呼するくり返しの音型のある集合シーンも点呼を脳内再生しながら聴くのも楽しかったし、オケがあんなふうに演奏してるんだな、と拝見するのも興味深いものがあり。
 ヨナンニスタークとこれもまた脳内で歌いつつ楽しんだ徒弟の歌や、ザックスの内向的なモノローグシーン。
3幕の前奏曲は絶品で、その音楽の深さとオーケストラのコクと音の厚みも堪能。
そこから抒情的な5重唱は、管楽器などで歌は代行されるが、この楽劇でいちばん美しく霊感あふれる場面なので、ずっと続いて欲しかったとも思いましたね。
そして愉快だったのが組合の行進で、業種ごとにデフォルメされた音楽だけど、ヴァイグレさんの指揮が音楽が乗り移ったみたいで顔芸や写実的な指揮ぶりを披露して、まったく飽きさせることがなく、このあたりは劇場では味わえない面白さだろう。
神妙なるヴァルターの優勝シーンから、ザックスの名演説シーン、このあたりももう、歌を伴う脳内再生で聴きつつその音楽と演奏にのめり込む自分がいて、自分が自分でバカだなぁ~と思うようにしてた(笑)
そんだけ、ワーグナーの音楽が血肉と化してる訳なんですがね、歳とともに客観視もできるようになってきたのに。
予定調和のハ長の大団円に、熱烈ブラボーを飛ばさなかった自分を褒めてあげたい。
P席だったし、まわりはおとなしかったので自分が制御できましたよ・・・・

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安心してすべてを委ねることができた日本で聴ける本物のワーグナー。

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来年に予定される、ヴァイグレによるシュテファンのオペラ、好きな界隈なので是非聴きたいところです。

まだ暑い熱気のこもる外、見上げると朧に月がのぼってましたね。

さあ、夏だ。ワーグナーだ。

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2026年7月26日 (日)

サマーミューザ 東京交響楽団 ヴィオッテイ指揮

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今年も始まりました盛夏の音楽フェスタ、サマーミューザ🎵

オープニングコンサートはミューザ川崎のレジデントオケの東響とその音楽監督。

昨年までのジョナサン・ノットに変わり、新音楽監督のロレンツォ・ヴィオッテイ。

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ヴィオッテイのサインありました

安藤広重の東海道五拾三次之内 「川崎 六郷渡舟」のコラージュ作品。

印象派の芸術家に大きな影響も与えた日本の浮世絵から、1曲目のドビュッシーにつながるという。

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    フェスタ・サマーミューザ 
  東京交響楽団 オープニングコンサート


    【オープニング・ファンファーレ】

  三澤 慶  「音楽のまちのファンファーレ」

    ドビュッシー 「牧神の午後の前奏曲」

  R=コルサコフ 「スペイン奇想曲」op.34

         交響組曲「シェエラザード」 op.35

   ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東京交響楽団

     コンサートマスター:小川ニキティングレブ

        (2026.7.25 @ミューザ川崎コンサートホール)

開始前にヴィオッテイによるプレトークがあり、3つの演目について、それぞれイマジネーション、フェスタ、ファンタジーとわかりやすく説明。
ホール全体を見回しつつ、そして翻訳の女性への気配りも忘れない紳士なヴィオッテイの性格のにじみ出た話とその雰囲気でしたね。

この話を聴いたうえでの演奏会でしたので、なんだか彼の意図やこのプログラミングの妙なども大いに符合することなり、ナイスなトークでした。
また従来はホール前で開催されていたファンファーレが、コンサート会場で演奏されるようになり、昨年までは入場制限などでたどりつけなくて残念な思いをしていたので、とてもありがたく、暑さのほてりを覚ます耳へのインターバルとしても有効なのでありました。

①牧神は、指揮をせず、フルート奏者とハープに任せるという、この前のブラームスの緩徐楽章のような所作で開始した。
知久さんのソロがヴィオッテイの意を受けて繊細かつ柔和なサウンドで、その後の柔らかさを失わない弦楽器のまろやかな音色、曖昧で境界線のない真夏の物憂さはここにはなく、音はみんな鮮明でフレッシュだった。
プレトークで目を閉じて感じて聴いて、と語っていたが、そうはしなかったものの、私にはこのドビュッシーはブルー系のクリアな世界を思わせるものだった。
夜想曲も得意にしているので、いずれは聴きたいものです。

②金管・打楽器が補充され、一転して華やかなる世界に一変。
こんなに違うものかと驚くも、わが耳は一瞬にしてR・コルサコフの魔術に囚われ、ヴィオティの踊るような軽やかな指揮、東響のノリノリのソロや見事なアンサンブルにくぎ付け。
ヌブー氏の軽妙なクラリネットは絶妙で、彼はシェエラザードでも絶好調。
この曲、今年はルスティオーニと都響のラテン的な解放感あふれる演奏を楽しんだばかりだが、音のフレッシュさと勢いではヴィオッティ東響の方が上だったかな。
2曲目の変奏曲夕べの祈りでのさりげない抒情と夏を感じさせるムード、ジプシーの歌、うねるようにしてオーケストラ全体が盛り上がってゆくさまが、生き生きとしたヴィオッテイの指揮姿とともに抜群の高揚感だった。
巧みなアッチェランドでドライブしまくる指揮者と夢中だが完璧の東響。
暑さ吹っ飛ぶ駆け抜ける爽快感に快哉なのでありました!

③シェエラザードは昨年のウィーン交響楽団との音源を聴いているが、そちらは42分ほどで、今回は計測してないがタイムも伸びて、より恰幅がよくなった気がする。
スペインにも増して、各ソロたちの活躍も目立つ作品だが、要所要所で指揮を止めてしまうヴィオッテイはもうそれが彼のスタイルなのか、東響も緊張感を超えて自主的な演奏で実に見事に応えていたと思う。
第1ヴァイオリンの背後の席だったので、ニキティンコンマスのソロがやや遠く感じたが、それでも彼独自の音色の美さ、歌いまわしの巧みさはよくわかりました。
一方、正面から聴くチェロ首席の伊藤さんのソロは力強く音が明快。
ミューザは音の全体の溶け合いを楽しむホールなのだな。
さて、物語りの始まりは穏やかで、その語り口もマイルドだった1楽章。
自然な盛り上げも豊かな音楽性を伴い、無理なくクライマックスを築き上げる手腕と耳の良さも感じた次第。
 繊細なニキティンソロに次いでカレンダー王子登場のファゴットソロは福士さんで、それはブリリアントで見事な音色、この日のファゴットは終始ステキだったな。
2楽章でのオケの名技性も光りました。ソロとトッティが交錯しつつ音楽が盛り上がってゆくさまは、CDでは楽しめない実演ならではのこうした曲の楽しみなのだ。
大好きなロマンあふれる3楽章。
こうした情緒あふれる音楽を、サラリと嫌味なく演奏できるのはヴィオッテイの生真面目な感性なのだろうか。
もっとネットリした語り口の演奏の多いなか、このサラッとした肌触りの音楽は実に爽やかで、東響の弦楽セクションがとても美しかった。
そして、この日の隠れた立役者のひとり、スネアの網川さんの強弱のあらゆる限りを尽くした巧みなる演奏で、コルサコフのスコアの奥行の深さは打楽器の鮮やかな使用にあると思うのだが、ほんとステキだったし、指揮者も大いに讃えてましたね。
同時にピッコロも、この曲では大活躍をするが、お馴染み濱崎さんは、この日も鮮やかかつ正確極まりない演奏で、終楽章の盛り上げに大いに寄与してましたし、ヴィオッテイも彼女を立たせてましたね。
その終楽章は、まさに物語りの総決算・大団円とも呼ぶべき活気とカタストロフィ感あふれる出来栄え。
熱気のなかにも冷静さを保った指揮ぶりだけれど、大振りはぜずとも書かれた音楽にすべてに物語らせる的な、ある意味客観性も感じた演奏でもあり。
静かに迎えた終結に息をひそめて集中、ここでも拍手のタイミングはよろしく、しばしの静寂があり好ましい。

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指揮者もオーケストラも会心の出来栄え。
この先、また演奏する機会もあるこのシェエラザードだろうが、また違う物語を見せてくいれることでしょう。
それだけ、このまだ若いヴィオッテイに期待したいし、ひとりの音楽家の成長を見守ってゆくとういう、音楽ファンの楽しみをこのコンビに見出しつつあるのです。

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終演後は、お馴染みの音楽仲間と一献。
夏野菜、こんなのでいいんだよ、夏は。

情報豊富な皆様のヴィオッテイにまつわるお話しから、アーノンクールの「7つの封印」のライブでは合唱に加わっていたこと、ティーレマンとウィーフィルの2003年の来日に打楽器奏者として参加していたことなど、驚きの情報を得ました。
だからウィーンとは近しい存在なんですね。
チューリヒでオペラ指揮者としてさらに腕を磨いたあとは、ウィーンで・・なんていうコースもありかもです。
いや、なんたって、日本での東響のポストが始まったばかり、ずっと続けて、その演奏をわれわれ日本で残していって欲しい。

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2026年7月19日 (日)

東京交響楽団定期演奏会 ヴィオッテイ指揮

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サントリーホールまでいつものように新橋から徒歩でのアプローチ。

日陰を選びながら歩きましたが、ホール裏手まで来ると坂も多く正面のアークヒルズでしばし身体を冷やしました。

楽しみだったブラームスとドヴォルザークの素敵なシンフォニー・プログラム。

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   東京交響楽団 第743回定期演奏会

 ブラームス     交響曲第3番 ヘ長調 op.90

 ドヴォルザーク 交響曲第7番 ニ短調 op.70 

 ブラームス   ハンガリー舞曲第1番 ト短調
          (アンコール曲)

         ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東京交響楽団

       コンサートマスター:小林 壱成

        (2026.07.18  @サントリーホール)

ありそうでなかったように思えるこの2曲によるプログラム。
ドヴォルザークが影響を受けたブラームス、とりわけ3番の交響曲には大いに触発され、ブラームスもドヴォルザークの才能を認めるという、そんな仲の作曲家による作曲年代もほぼ同じ時期という2曲。
ヴィオッテイはかつて東響で同じドヴォルザークを指揮しているし、各地でも何度も取り上げている得意の曲目。
どちらも譜面台を置かずに暗譜での指揮。

①私のようなオールド・リスナーは名曲全集などの解説本に、ブラームスの英雄交響曲などと書かれていた時代を音楽聴き始め時期として過ごしたのですが、そんなことを一笑に付したくなる、そんな柔和で洗練された演奏だった。
冒頭のモットーは、やわらかく、ふんわりとした感じで扱われスタート。
ここでこの演奏の抒情性を重んじた方向性がわかった。
くり返しはせず、テンポは中庸からゆったりめ。
おおらかに、よく歌い、すみずみまで磨き抜かれた東響の各セクションの音が実に美しい。
この演奏に闘争的な要素はゼロなのだ。
美さは、大好きな2楽章に最大にあらわれ、微笑むような吉野さんのクラリネットを主体とする木管陣の中間色の音色はまさに至福の美さ。
次の3楽章とともに、ヴィオッテイのなかにあるヨーロッパ、その音楽であることも認識できてしまう。
その3楽章は甘くならず、むしろ渋い演奏だったが、ここでもよく歌わせるので音楽が心地よく、ホルンも見事。
アタッカ気味に一瞬の間のみおいて開始した終楽章のダイナミックな展開が、これまでの精妙な美しさとの対比で引立つ。
ここでの情熱的な様相は、次のドヴォルザークにも引き継がれるが、ブラームスの3番の面白さは華やかな大団円でなく、1楽章を回顧しつつ後ろ髪を引かれつつ穏やかに収束していって曲を静かに閉じるところだ。
こうして、柔らかな演奏に徹したヴィオッテイの意図もよくわかったような気がした。
静かな終結に、音が鳴り終わってもホールは静寂に。
この3番の交響曲、すべての楽章が静かに終わる、そんな作品なんです。

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ロビーにはこんなパネルが。

②ドヴォルザークは、1楽章から指揮の気合の入れ具合が違って感じ、うしろから見ていても左右に指示が細かくなされていた。
ブラームスの影響下にあるものと、ボヘミア的なもの、そこに情熱のほとばしりがある、そんな交響曲が7番だと思います。
克明ななかにも、ヴィオッテイらしい洗練されたセンスの良さを感じさせる1楽章は、第2主題の展開が牧歌感よりはもっと純音楽的な美しさであり、やや厳しい曲調の第1主題との展開が聴いていてとても面白く、しいてはドヴォルザークの曲作りはすごいな、うめぇもんだなぁと感心する始末で、コーダの追い込みから寂しげな終結まで、ヴィオッテイと東響の息も抜群。
 その感心でいうと、ブラームスと同じくこれまた大好きな第2楽章がともかく素晴らしく美しく、ワタクシは涙ぐんでしまうのでした。
竹山さんのフルートが最高でした。
ここにおけるドヴォルザークの調べもまさにヨーロッパ、それも中欧を思わせる音楽。
ヴィオッテイは音楽と一体化したような指揮ぶりで、ときに指揮を止めオーケストラに任せ、自ら聴き入るような様子。
ソロのあったみなさんは、それこそ大変だったでしょうが、このあたりのオケの導き手としての指揮者の存在感やあり方、楽員の主体性を重んじ引き出すようなそんな指揮に、今後続くこのコンビの幸せな結びつきを見た思いだ。
それから、この楽章にチェロとヴィオラの分奏があるのを、何度か演奏会で聴きながら、いまさらながらにわかりました。
 メランコリックな3楽章も素敵な演奏で、指揮者のリズム感のよさ、オーケストラの反応の良さを味わう。
そして、いつものように休止はほどんど取らずに緊張感を保ちつつ終楽章へ突入。
ただならない熱気を伴い維持しつつブラームスのときとはまた異なる情熱の吐露。
一転チェロによるステキな旋律の第2主題では、思い切り歌うように大きく両腕を広げ、楽員さんたちもほんと心を込めて演奏しているのがよくわかり、観て聴いて、こちらも心躍る思いだったのだ。
次の展開で打点のよく効いたメリハリ感豊かな追い込みも迫力あり、この楽章の楽想の展開の早さで耳も忙しいが、オーケストラも指揮者の厳しい要求に次々と応えついてゆく。
そして迎えた大団円では大見得切る様子も堂に入っており、その盛り上げ方もごく自然に沸き起こったものと感じ、オーケストラの夢中っぷりもこちらの興奮誘うもの。
この曲の終結でも、ホールはしばしの静寂があり、ヴィオッテイが腕を下ろし、楽員さんも構えを崩したのを見計らっての盛大な拍手とブラボー。

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スラブ舞曲でもやらないかな?と真剣に願っていたら、なんとリトル・サプライズと一言で、ハンガリー舞曲。
聴衆のおっ!という声も。
それがまた興奮誘う快速ハンガリーで、息もつかせぬ鮮やかさとオケの超名人芸っぷりをワタクシ、体を揺らすようにして堪能したのであります。
もう大ブラボー大会でございましたよ。
聴き手の心を鷲掴みにしてしまうヴィオッテイ兄貴に参りました。

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次はサマーミューザです。
暑いし、熱い演奏になりそう。

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2026年7月 4日 (土)

メンデルスゾーン、チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 ミルシテイン&アバド

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梅雨まっさかりの関東。

ちょっとした雨の休止時の散歩。

晴れ間が愛おしいけれど、あと1ヶ月もしたら曇りや雨がそのように思えるようになる暑い夏がやってくる。

チョー久しぶりに「メン・チャイ」を聴く。

中学の音楽の授業で聴いた(聴かされた)メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。
あの哀愁感じるメロディにすぐさま惚れ込みレコード屋さんに走りました。
もちろん少ないお小遣いで買えるのはコロンビアレコードのダイヤモンド1000シリーズの1枚。
もう手もとからなくなってしまったが、ブロノスラウ・ギンペルという往年のヴァイオリニストのソロに、バンベルクのオーケストラの演奏。
カップリングはチャイコフスキーで、まさに私の初メン・チャイ。
ジャケットはまだ覚えていて、アルプスを背にした教会の屋根だったと記憶。
チャイコフスキーはよくわからなくて、メンデルスゾーンばっかり聴いていた。

Mendelssshon-tchaikovsky

 メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64

 チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35

    ナタン・ミルシテイン

 クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

              (1972.9,12 @ムジークフェライン、ウィーン)

このレコードが発売されたのは1973年で、この年来日をしたアバドのファンにすでになっていたワタクシ。
聴いたのはもっと後年ですが、久方ぶりに録音に登場した超ベテランのミルシテインが、若手のアバド、しかもウィーンフィルでの演奏ということで大いに話題になった1枚。
68歳のヴァイオリニストと40歳の指揮者というDGの仕組んだ組み合わせの妙。

ミルシテインは中学生の自分ながら、その名はすでに知っていて、父が職場からもらって来た大量のEMIのレコードの中の1枚に、シャコンヌや熊蜂などの技巧的な小品を集めたものがあり、それをよく聴いていたのでした。
ちなみに、このレコードたちのなかにあったのがビーチャムのディーリアスで、ディーリアスとの出会いもこのときだったのです。

Rekogei

このレコード発売時のレコ芸の広告。
ついでながら、ジャケットには、ウィーンフィルのコンマスのヘッツェルとキュッヘルも写ってまして若い。
こんな風に大いに宣伝されたものですが、レコ芸の月評ではミルシテインのヴァイオリンは絶賛されましたが、アバドの指揮はけちょんけちょんにけなされましたね。
そう、協奏曲担当は当時U氏でしたから。
唯一、チャイコフスキーの2楽章だけ、ウィーンフィルの美さで絶賛するという捻りぶり。
当時、聴いてもないのに腹立ちましたねぇ。
U氏、同様のことは、アバドのほかのレコードでもずっと続きましたがロッシーニだけは手放しで絶賛。。。。

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ヴィルトゥーゾという印象の強かったミルシテインが、ベテランの域に達しDGに残した70年代の一連の録音。
このメンチャイも久しぶりに聴いてみて、その音色の鮮明さ、艶っぽさに驚いた。
達観していい年齢にも達していたのに、その瑞々しさと、名曲を演奏しながらも客観性を感じる知的な演奏。
ミルステインのバッハの無伴奏を聴いたのもここ10年ほどのことで、そこでのスケール感とともに感じた集中力のすごさ。
そのイメージともまた違う若々しさは、曲ゆえか、名曲への姿勢か、アバドという共演者のゆえか。
好々爺とせず、アバドとともに柔和でしなやかなメンチャイを作り上げた感じ。

今回、結構な大音量で聴いてみた。
ミルシテインの艶のあるヴァイオリンもよいが、それ以上に70年代のウィーンフィルの柔らかなな音色とうるさくならないチャイコフスキーでの響き。
ともかく録音がとてもよく感じたし、アバドの強弱を豊かにつけた明快な指揮ぶりもよくわかった。
弱音へのこだわりと、その歌いまわしの美さはアバドならではで、2曲ともに緩徐楽章が極めてステキなもので、躍動感あふれる3楽章との対比もこれも2曲とも鮮やか。
グルダとのモーツァルトにも通じる、アバド&ウィーンフィルの素晴らしさ、ムジークフェラインでの録音の良さです。

このあとミルシテインが録音したブラームスは、指揮がヨッフムに変わり、それはそれで滋味あふれるものでしたが、アバドでも聴きたかったし、ベートーヴェンやモーツァルトもDGに残して欲しかったものです。

それにしても、メン・チャイ、いい曲だわ。
とくに、メンデルスゾーンのあふれるメロディーと屈託のない明るさは、新緑と梅雨空の先に来る青空を感じさせましたよ。
気分いいです~

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ピントを遠くの厳島神社に合わせてみました。

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2026年6月26日 (金)

ブルックナー 交響曲第1番 アバド指揮

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紫陽花シーズンも最盛期、日本は北海道をのぞいて梅雨本番。

近くの町、開成町のあじさい、今年は行けなかったので以前の写真です。

6月26日は、クラウディオ・アバドの誕生日。

1933年生れ、93回目の生誕祭。
私の世代では、若手三羽烏と呼ばれた同世代の、アバド、小澤、メータ。
メータのみが存命で、つい先だって90歳を迎え、現役で活躍中。

 ブルックナー 交響曲第1番 ハ短調

  クラウディオ・アバド指揮 ウィーフィルハーモニー管弦楽団

              ルツェルン祝祭管弦楽団

今年のアバド生誕祭は、ブルックナーの1番。

若い頃からブルックナーは1番のみを好んで指揮していて、4つの録音を聴くことができます。
いつもお世話になっておりますアバド資料館のデータを拝借しますと、ウィーンフィルとは69年を皮切りに、70,72,73,96年。
ローマRAI放送と69年、ロンドン響と70年、ニューヨークフィル、クリーヴランドで70年、シカゴ、フィラデルフィアで71年。
ベルリンフィルで72年と70年代初頭に各地で指揮してます。
その後は96年のウィーンで録音も見据えて取り上げるまで空白あり。
ベルリンではほとんどやらず、晩年のルツェルンでのブルックナーチクルスの一環で2012年に指揮してます。

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この1番ほどには、録音を残した4,5,7,9番は演奏頻度が高くなかった。
もちろん30~40代の頃に1番は集中してますが、90年代とルツェルン時代は録音も見据えたブルックナーチクルスの一環であり、アバドのブルックナーへの取組で、円熟期にもっとも打込んでいたのは、5番と9番ではなかったのではないかと思います。

1番の作品ついては過去記事より引用しておきます。

1866年、ブルックナー42歳の作品。
オルガニストとしての活動の一方、その合間に作曲法を勉強し、ミサ曲や序曲、無印習作交響曲、第0交響曲などを書いていた。
リンツでオルガン奏者を務めつつ、1865年、「トリスタン」の初演に立会い、大いなる感銘を受け、ビューローとの接点もできた。
ワーグナーに触発されつつ完成したのが正式に番号をふった1番。
68年に自身の指揮で初演されたものの、その指揮のまずさとオケのショボさもあり評価は得られず。
その後に77年や84年に改訂をしており、これらの版を「リンツ版」といい、手直し職人の名のとおり、1890~91年、66歳になってから手を入れた版が「ウィーン版」といわれる。
このウィーン版の改訂時には8番がすでに完成し、9番にとりかかる時期。
ブルックナーの音楽のスタイルは30年経っても変わらないことが、1番の改訂を最後の交響曲のあたりでやったという事実でもってわかりますね。
ハ短調に始まり、最後にはハ長調に転じて、勝利宣言のようになるという交響曲の常套を踏んでいるところも妙に愛らしい。

原始霧と呼ばれるブルックナー開始は1番はなく、軽やかさもある刻みで始まり、推進力にあふれる1楽章は、優しく歌謡性にもあふれた第2主題が素敵だし、木管の鳥のさえずりのような動きが随所にあって好き。
 抒情的な2楽章は、ブルックナーの緩徐楽章のなかで、2,6番と並んで大好きでして、もう大昔に行ったスイスアルプスの景色をいつも思い起こしながら聴いてしまう、まさにヨーロッパの音楽と感じる。
 いかにもなブルックナーらしい弾みの良いスケルツォ楽章は、ほかの番号にも通じる変わることないブルックナーらしい音楽。
この楽章のよいところは、中間部のおおらかさ、呑気さ、牧歌感でしょう。
 火のようにと指定された4楽章は気合い充分にみなぎった激しさと苛烈さがありつつ、全体を見通してフィナーレを築き上げようとするシンプルさが後年の作品たちの威容からすると物足りなさがある。
しかしこの推進力と大胆さは、ブルックナーの青さ、若々しさがみなぎっていて捨てがたい。
大家による大人な演奏より、若い指揮者が大胆に指揮することで1番の良さが引立つものと言っていい。
リズムのよさ、軽やかさ、抒情性、歌謡性、大胆さ、このあたりが1番では求められると思いますね。

アバドは一貫して多くの指揮者と同じく「リンツ版」による演奏だったが、最後のルツェルンでは「ウィーン版」を取り上げた。
2012年のルツェルンでの演奏、そしてその翌年2013年は未完成とブルックナーの9番。
その年の秋には日本公演も予定され、私もチケットを確保してましたが体調悪化で中止・・・
そしてその半年後の2014年1月にアバドは亡くなってしまう。
9番の前に改訂したウィーン版をアバドが指揮したかったのは、ルツェルンでのブルックナーチクルスに第9で区切りを付けると言う流れがあったからではないかと思う。
2014年以降は、ブラームスを取り上げる計画だったとか。

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  1969年 ウィーンフィル

ともかく活きがよく、意欲にあふれた演奏。
老舗オーケストラを前に臆することなくやりたいことをやってしまった感じ。
ベートーヴェン7番のリズム感、ロッシーニのような軽快さ、そんな大胆なブルックナー。
動画で70年頃の演奏を観ることができるが、コンマスはボスコフスキーで、ウィーンの面々は何食わぬ顔で演奏。
若い頃のアバドはともかく指揮ぶりがダイナミックで、その姿を見てるととてもブルックナーを指揮しているとは思えないところが面白かった。
第2楽章の清涼感感じる若々しい抒情が素敵だし、スケルツォもノリノリでよろしい。
なんだかんだで、1番好きな演奏かも。
録音はデッカのゾフィエンザール録音のイメージそのものだが、やや古くも感じる。

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  1972年 ウィーフィル・ライブ

数年まえに忽然とあらわれた音源で、ウィーン芸術週間でのライブ。
前半がオイストラフとのブラームスの協奏曲で、この演奏会はNHKFMで放送された。
エアチェック小僧になりたての自分だけれど、これは録音してなかった。
この頃のアバドはウィーフィルと蜜月の度合いを深めていて、前年にパーマネントコンダクターとなり、73年には来日した。
生々しい録音で、デッカのスタジオ録音より、ムジークフェラインでの演奏ということもありウィーンフィル丸出しの印象。
柔らかな響きと丸っこい音色は、いまは失われし70年代のウィーンフィルの音だと感じる。
アバドはライブでは燃えちゃうので勢いがあり、演奏時間は変わらぬが煽るようなところもあり、速めに感じる。
熱さと懐かしさ感じるブルックナー。
終楽章が熱い。

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  1996年 ウィーフィル

1月のライブ録音で、11月には9番を録音して、それがウィーフィルとは最後のレコーディングとなりました。
若い時の録音となんら変わらぬ若々しい表情を持つ演奏で、それこそがアバドの個性ともいえると思う内容。
節まわしのゆとりや、より増した自然さ、間の美しさなど、やはり30年間の重みも感じ充実度が高い。
ウィーフィルはウマくなった感あり、ローカル感は減退。
でもよりインターナショナルになったいまのウィーフィルよりはずっとウィーンしてるし、DGのムジークフェライン録音は潤いも豊かで素晴らしいものだ。
この時期に、いっそのこと、2,3,6番にも挑戦して欲しかった。
8番はアバドが絶対にやりそうもない曲だったけれど。。。

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  2012年 ルツェルン祝祭管弦楽団

ウィーン稿を取り上げたルツェルンでのブルックナーチクルス。
先に触れたとおり、1番を書いたときは、トリスタンに接しワーグナーへの心酔を深めた頃。
このウィーン版では、そのワーグナーへの思いがより強く感じるようにオーケストラの厚みと響きがグレートアップしている。
私の持つ唯一のウィーン版は、ヴァントの録音だが、このアバド&ルツェルンの方が洗練の度合いが増し、壮麗さがあるのは録音の良さばかりでもあるまい。
なんといっても腕っこきのオーケストラの面々が肩の力を抜きつつも、真剣にブルックナーに向き合ったときの音のすごさは、特に4楽章に感じるし、最初から最後まで69年録音のときと同じ若々しさと推進力があるのが驚き。
その4楽章ですが、このウィーン版は大曲然となりすぎていて、屋上屋を重ねるように感じなくもなく、やはり若々しいちょっと青いリンツ版の方がいいと思う。
2楽章での透明感は、病後のアバドが到達した境地であり、翌年の第9もかくやと思わせる無為の域を感じます。
最初の録音と、この最後の録音とで2楽章を何度も聴いて、ここ数日の晩を過ごしました。

ブルックナーの1番を愛したアバドが、とても微笑ましく、アバドという指揮者が最後まで若々しさとしなやかさを保った演奏家であった。
今年の生誕祭には、そんな思いをあらためて強くしました。

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2026年6月16日 (火)

東京交響楽団定期演奏会 ヴァンスカ指揮

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いつも楽しみにしているサントリーホールのカラヤン広場の飾り花壇。

季節に応じた花を配したその見事さは、素人にはできない見事さ。

6月に聴くラフマニノフに相応しい紫陽花の色どりです。

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  東京交響楽団 第741回定期演奏会

 ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調 op.93

 ラフマニノフ  交響曲第2番 ホ短調 op.27

   オスモ・ヴァンスカ指揮 東京交響楽団

     コンサートマスター:小川ニキティングレブ

        (2026.6.13 @サントリーホール)

昨年3月に東響に初客演したオスモ・ヴァンスカ、私もなんどかその機会を図っていた指揮者でしたが、そのときが初ヴァンスカ。
都響とのシベリウスを聴き逃してしまったが、早くも実現した1年後の東響への登場は、その素敵なプログラムとともにおおいに楽しみだった演奏会でした。

昨年夏にノット指揮で聴いたベートーヴェンの8番。
そのときにアクティブで攻めの姿勢に富んだ8番と違い、同じく比較的大きめな編成ながら、ヴァンスカの方はヴィブラートは控えめながらも、おおらかで音もたっぷりと響かせた大人な演奏だった。
東響で聴くベートーヴェンは、この1年間でマルッキの田園、ノットの第8・第9、ヴィオッテイの1番と、そのどれもがまったく異なり、オーケストラのフレキシビリティの高さもわかるわけだが、ベートーヴェンの音楽がそのアプローチの仕方でまったく違って聴こえるということも味わえたことで、会員になっているありがたみも痛感した次第。
 ヴァンスカの指揮は、その指示ぶりなどを見ていると、強弱へのこだわりと、旋律線ばかりか内声部を際立たせたりして、オーケストラもそれに瞬時に反応して、聴き慣れた音楽でも息が抜けず、耳に新しい発見を伴わせてくれる。
これは1年前に感じたことだけれど、ベートーヴェンとラフマニノフでは、それがさらに徹底されていた。

たっぷりと鳴り渡った1楽章、正確なリズムを刻みつつも低弦の動きが面白く楽しめたりもした2楽章。
ソロに向かってまるきり指揮していて、きっと緊張したろうなと思いつつも、それに応え見事だった上間さんのホルン。
スピード感あふれつつも、どの楽器もそれぞれに浮きあがるように引立って聴こえた終楽章。
ミネソタ管とのベートーヴェン全集をこれは聴いてみなくては、と思いましたね。

シベリウスやマーラーのCDを聴いてきて思うヴァンスカの音楽造りの緻密さ。
いろんな声部を巧みに響かせ、新鮮な驚きを与えつつも、旋律線は明快に澄んで聴かせる北欧の音楽家ならではの手腕。
こうした印象が、そのままラフマニノフで感じ取ることができた。
これまで数えきれないほど聴いてきたラフマニノフの2番。
プレヴィンとスラトキンは、思い入れが先行したという感情が入り込んだものだったので、それらを別格にして、これまででいちばんの演奏だったと思う。

甘さや旋律に溺れることのない、むしろ渋い演奏。
ゆったりめの運びで克明な演奏に徹した1楽章。
当然にくり返しあり、演奏時間も他音源に比べても長いのではなかったか。
ラフマニノフの音楽は、ヴィオラがとても重要な存在だと思っていて、そのあたりの思いを確信させてくれるように、そのヴィオラとチェロを浮き上がらせるように、よく鳴らしていたし、首席3人を揃え、お馴染みの青木さんがセカンドプルトにいるという豪華版は、ますますヴィオラ陣のしっかりした音に力を与えていたと思う。
 久々のコンマス・ニキティンさんもノリノリで、ヴァイオリンを立てるようにして激奏、ヴァイオリン陣は第1も第2も、今宵はともかく熱演で、気持ちよくみなさん弾いているのが拝見できました。
 速めにズバズバ進行した2楽章は、おおらかな前の楽章と対比もあざやか。
打楽器も小気味よく、ヴァンスカの指示も各奏者に向け細かに振り分けている。

甘美な旋律に溺れることなく客観性を保ちつつも、しかしラフマニノフの音楽の旋律のよさをとことん味わわせてくれたのが3楽章。
ヌヴーさんの鮮やかだけど、繊細なるクラリネットソロに導かれ、ともかくまんじりとせずに思い切り集中して聴いた。
指揮棒を置いての丁寧な指揮ぶりは、やはりソロ奏者にむけて振るので、当事者はそれこそ大変だなとも思ったが、なにがおこるか毎回わからないノット監督に鍛え上げられた東響はヴァンスカの厳しい指揮に動じることなく、完璧に応えていた。
のめり込むようにして夢中になってしまうこの楽章のクライマックスは、そこに至るまでが着実な積み重ねで浮つきがまったくなく、その流れの必然として頂点が築かれたように感じ、この音楽の真の美しさとラフマニノフが得た自信のようなものまで思いをはせることができた。
ビューティフルなプレヴィンとはまた全然違う精緻な美しさに酔った、涙も出た。
終わらないで欲しいと思った。

カッチリじっくりやるだろうと思った4楽章は、終始熱がこもり、この作品の総決算とも呼ぶべき完全無欠ぶりで興奮誘うものだったのだ。
大好きな第2主題、これはもう指揮者もオケもみんな、ここにむかってやってきたといわんばかりの気持ちいい歌いっぷり。
各章を回顧するシーン、3楽章の振り返りのあと、かなり長く感じられた休止を置いたのが印象的。
聴き手にも間違いなく緊張感が高まったのは事実で、その後から展開される怒涛のフィナーレへと期待とワクワク感が高まりました。
もうあとは、わたくし、指揮者にオーケストラのみなさまにと、きょろきょろしつつ興奮のしっぱなし。
徐々に高まり、ついにあの第2主題が高らかに!
もうダメだ、わなわなしっぱなしの大興奮。
かなりの追い込みをかけたヴァンスカの棒が振り下ろされるや否や大ブラボー大会でした。
ワタクシは慎ましく、一声のみ参加。

Vanska-tso-1

いやぁ、素晴らしいラフマニノフが聴けた。
今回ライブ録音されたらよかったが、ヴァンスカさんには、ミネソタ管で正規録音を残して欲しい。
ノットやヴィオッテイとタイプのまったく異なる職人気質でありつつ、オーケストラの力を巧みに引き出すヴァンスカさん。
常連指揮者になって欲しいです。

Vanska-tso-2

むかしのふくよかなイメージの強かったヴァンスカさん。
ずいぶんスリムになられました。
また登場して、シベリウスならクレルヴォやレンミンカイネン、プロコフィエフは6番やネフスキーなどをやって欲しい・・・

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関東は梅雨本番を迎えます。

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2026年6月12日 (金)

ラフマニノフ 交響曲第2番 プレヴィン

Ajisai-nakai

紫陽花の季節。

よく通る場所でして、毎年、いろんな色彩の紫陽花がまとめられていて奇麗に開くんです。
ちょっと虹を加工して添えてみましたよ。

アルカリ、酸性、とかその土壌によって色が変わると言いますが、ここはいったいどうなってんでしょうね。

梅雨の時期を美しく彩どる紫陽花、日本らしい風情です。

次のコンサートは、ヴァンスカが指揮するラフマニノフの2番。
ずっと好きだった交響曲ですが、ちょっと聴きすぎてしまい、飽いてたところに接したのが昨年の都響来演のスラトキンの名演。
スラトキンのラフマニノフには、思い入れもあり、やっとその指揮で聴くことができた喜び。
セントルイス響をメジャー級に鍛え上げ、録音した一連のラフマニノフ。
そしてN響に来演し指揮した鮮やかなな第2番はリズム感あふれる若々しい演奏だった。

そして「ラフマニノフの第2番」がいまのような人気曲になった、その立役者がアンドレ・プレヴィン(1929~2019)。
プレヴィンが生涯に何度も指揮してきたこの曲を聴ける限り聴いてみた。

  ラフマニノフ 交響曲第2番 ホ短調 op.27

     アンドレ・プレヴィン指揮

Rachmaninov-2-previn-lso-1973

①ロンドン交響楽団 (1973.1)  59分

いうまでもなく、この1枚がラフマニノフの2番という音楽の評価を定着させ、人気曲へと決定づけたといっていいだろう。
2度目の録音で、作者自身もやむなく認め、第2次大戦後にはもう慣例となっていた短縮版によるものでなく、カットを復元し繰り返しをすべて行う完全全曲版による初の演奏だった。
73年の録音だが、それに先立つ1971年にこのコンビは来日してこのラフマニノフを演奏した。
まだ小学生だったワタクシ、NHKがテレビ放送したものを見た記憶があり、大木正興氏が解説だったと思うが、曲や演奏はもうまったく覚えてませんが、ともかくこんな曲を指揮する若いプレヴィンって何者だろう・・・そんな風にしか思わなかった。
当時は、ポップスあがりの指揮者なんて・・・ってな目でしか見てなかったし、ビートルズのようなマッシュルームカットの髪型や太いストライプのシャツなどもクラシックの本流とは違うんだと思い込んでいたのです。

このレコードを手にしたのは長じて、もっとあとのこと。
社会人になってアパートで独り暮らしをするようになり、FMで録音したこの曲。
演奏は、ヤン・クレンツ指揮のケルン放送響で、曲の素晴らしさにいまさらにほれ込み、同時にその演奏があまりに素晴らしくて、カセットテープを何度も何度も聴いたものだ。
都会の寂しいわび住まいを癒すあまりに美しい旋律に酔いしれ、毎晩のように酒を飲みながら聴いた。
 そして、やっぱりこの曲はプレヴィンだよな、ということでレコードを購入。
実家に装置を置いてあったので、週末になると帰って貪るように、すり減るくらいに聴いたプレヴィンの演奏は、それこそ私の体に刷り込まれたこの曲のイメージなのでありました。

「ラフマニノフの音楽の抒情と憂愁、そしてリズムと熱狂、これらを、迷うことなく思いきり聴かせてくれる。
この曲の持つすべての魅力が過不足なく描きだされていて、昨今のすっきり・かっちり系とは違う、私のとって懐かしさにも似た大人社会へ導かれた演奏なんだ。」
以前に書いた私のブログ記事を引用、ほんとそのままの印象をそのまま抱きます。
プレヴィンとロンドン響のラフマニノフとその音楽への愛にあふれたビューティフルなこの演奏は、まさにエヴァーグリーン。

②ロンドン交響楽団 (1966.4) 50分

Rachmaninov-2-previn-lso1960-12

指揮者としてまだ駆け出しの頃、それでも37歳のプレヴィンのRCA時代の録音。
日本国内盤のジャケットはこれ。
プレヴィンの71年の来日記念盤のレコ芸広告から抜き出しました。
カットありの50分の演奏で完全版より10分短い。
始めて聴いたときはカット部分が物足りなく感じたけれど、そんなことは気にならなくなるほどに感性にあふれ、振幅も大きく、ナーヴァスでありつつ曲への没頭感も感じさせる秀演。
ケルテスがLSOを率いていた頃で、同時期にアバドもデッカに録音を始めた頃。
かなりよく歌わせる一方落ち着きもあり、やはりプレヴィンらしい柔和さもある。
捨てがたい1枚です。

③ロンドン交響楽団 (1977 @ザルツブルク) 58分

ロンドン響の熱心なファンが公開しているアーカイブで、ザルツブルク音楽祭での貴重なライブ。
音はイマイチながら、その熱気たるや並々ならない。
3楽章でのうねるような情熱、終楽章での燃え盛るような追い込みなど、スタジオ録音とはまた違うプレヴィンの姿。

④ロンドン交響楽団 (1979 @ロイヤル・フェスティバルホール)59分

これは素晴らしいライブ。
当時のLSOの本拠地で、いつものようにナイスな指揮ぶりで、情熱の込め具合も充分で、3楽章のクライマックスでは感涙したくなるほど。
70年代のプレヴィンとLSOがいかに素晴らしかったか。

⑤ロイヤルフィル (1985.3)  62分

Rachmaninov-2-previn-rpo19851

ロイヤルフィルの指揮者時代のテラーク録音は、音質が生々しく、かつてのEMIの響きの拡散してしまう音と違いリアル感や迫真性が増した。
またテンポも少し動かしたりして全体に勇壮感が増しスケールアップ。
すべてにおいてLSO正規盤よりも成熟度が増しているが、すり減るほどに聴いたEMI盤が録音もふくめどこか懐かしく感じられるのも事実だ。
この音盤単体でいうならば、この曲1,2を争うべき完成度と感性の高さを持った演奏なのだが、自分の人生のなかのひとコマにあったEMI盤の存在感には及ばないのです。
レコードやCDを聴く、保有するということは、そういう意味あいでもあるのかなと・・・

⑥ウィーン・フィル (1992 @ムジークフェライン) 58分

Previn-vpo

NHKFMからのエアチェック音源で音質は上々です。
これはステキな演奏で、ウィーンフィルとの蜜月の頃、オーケストラは慣れない曲ゆえに指揮者に全幅の信頼を置きつつも、自ら気持ちよく歌い弾んでる感じ。
おおらかなプレヴィンの指揮は、連綿とせず、それでいながら3楽章の聴かせどころでは泣かせてくれるし、2000年以降の演奏に比べると覇気と勢いも感じられる。
ウィーンフィルの貴重なラフ2です。

⑦ロンドン交響楽団 (2002 @バービカン) 58分

ますます雄大さも加え、自在の域にあると感じさせる。
ホールのデッドな響きが残念だけど、プレヴィンとロンドン響は常に変わらぬ高貴さを感じさせるお馴染みの演奏。

⑧オスロ・フィル (2002)  59分

NHKFMから録音したもので、演奏年度を記録していなかったが、オスロ在任は2002~06なのでその間の演奏。
⑧のLSOの演奏とほぼ変わらずだが、録音が良い分だけ、音の充実度が高い。
このコンビの録音は1枚程度しかないので貴重。

⑨ NHK交響楽団 (2007 @サントリー) 58分

Previn-nhk

この場に居合わせました。
サントリーホールのP席でプレヴィンを真正面から見つめつつ、その魔法のような指揮、というかそこにプレヴィンがいて、ラフマニノフの2番を指揮しているというだけでオーケストラが柔和でかつリズム感あふれる演奏をしてしまうのがすごいと思った。
武満徹のセレモンディアル、アパラチアの春、そしてラフマニノフというプログラム。
正面から拝見していて、椅子に座りながら、譜面を見ながらの指揮ぶりも、ラフマニノフとなると見違えるばかりにシャキーンとした顔付きと棒さばきになった。
N響への客演はかなり聴いたけれど、この演奏会がいちばん素晴らしかった。
そのときの過去記事はこちら

⑩ ロンドン交響楽団 (2015 @バービカン) 59分

Previn-lso-2015

亡くなる3年半前、プレヴィン最後のLSOへの客演。
当時の妻であったムターと自作のヴァイオリン協奏曲とラフマニノフの2番というプログラム。
ほぼ変わらないスタイルに、都会的な洗練度も増していて、当時86歳という年齢にもかかわらず、弛緩したところやテンポの伸びや揺れもない。
完全にできあがったプレヴィンのラフマニノフ2番に、メンバーは変わっても半世紀あまり連れ添ってきて、プレヴィンのラフマニノフを知悉したロンドン響のしなやかな反応の良さ。
フレーズのひとつひとつに感じる優しさ、愛おしさ、そして微笑み。
演奏者もきっと感無量だったのでは・・・
でも悲しいかな、73年のあのときの録音にある輝きや喜びの爆発はありません。
これがプレヴィンという演奏家の最後の夕映えだった・・・・・

73年のレコード録音のときに、プレヴィンは語った。
「私は惜しみなく、また熱をこめてこう告白します。私はこの作品を愛している。LSOもまた同様である。
そしてわれわれは、これから先も長い間この曲を演奏し続けるであろう」

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レコード発売時のレコ芸の広告。

完全全曲盤との売り込みでありましたが、当時のレコ芸の月評ではまったく評価されず、大衆的と断じられてしまう。

50年前は、そんな時代だった。

音楽の需要の仕方、聴かれる音楽の裾野の広がり、あてにならない頑迷な評論家などなど、いまはほんと変わった。

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2026年5月25日 (月)

東京交響楽団特別演奏会 ヴィオッテイ指揮

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先週に引き続き、東京交響楽団の新任音楽監督のロレンツォ・ヴィオッテイの指揮による演奏会。

サントリーホールからミューザ川崎に場所を移して双方のホールの響きの違いや、東響の音がどう響くなどを確認できた。

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創立80周年の東京交響楽団。

秋山和慶、スダーン、ノットと続いた歴代音楽監督の歴史に、新たな顔ヴィオッテイを迎え、踏み出したまた次の一頁。
その最初に立ち会うことができて、ほんとうによかったし、満足感で一杯のふたつのコンサートでした。

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 東京交響楽団特別演奏会 ヴィオッテイ音楽監督就任披露

    R・シュトラス 4つの最後の歌

      S:マリーナ・レベカ

    ラヴェル バレエ音楽「ダフニスとクロエ」

   ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東京交響楽団
                 東響コーラス
         
         合唱指揮:河原 哲也
         コンサートマスター:小林 壱成

     (2026.5.24 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

シュトラスとラヴェル、ともにオーケストラの作曲技法の限りを尽くした作曲家ふたり。
しかし、晴れやかな作品でなく、ともに内省的な局面もある音楽が選ばれたところが面白い。

世界のオペラハウスで活躍中の第1級のソプラノ、マリーナ・レベカは、この2日間のコンサートのために来日。
いくつかの音源で彼女の声は聴いてきたけれど、そのレパートリーはロッシーニやベッリーニ、ヴェルデイにプッチーニとイタリアもの、あと、私が気に入っていた役はオネーギンのタチャーナ。
琥珀色の声とも言いたくなるような魅惑の歌声なんです。
 シュトラスの絶美とも呼ぶべき彼岸の極にある歌曲集、透明感ある軽めなソプラノで聴くのが好きだけれど、レベカの声は軽やかさよりは、歌の深みを感じさせる豊かな中音域が実に説得力あるもので、その声域でのこの歌手の魅力を堪能できた。
L席という場所のせいなのか、高域がやや響かなかったが、正面で聴いた方はどうだったろう。
タブレット端末で楽譜を確認しながらの歌唱だが、横から拝見していて、ササっと入力操作して開くさまが実にカッコよかった。
 そして何よりもヴィオッテイ指揮する東響が絶対的に美しい。
シュトラウスオケであるこことを再認識したし、レベカを支えるシュトラウスの音楽の晴朗さ、軽やかさは、むしろオーケストラの側にこそあった。
ホルンも素晴らしかったが、小林コンマスの「眠りにつくとき」における絶美のソロには、涙が出てきた。
レベカもこのソロに耳を傾け、その美しさに浸っていたし、指揮者も同じくだった。
かつての昔に聴いた、横浜でのシュナイトと神奈川フィルのときの石田コンマスのソロの繊細さにも増して素晴らしかった小林ソロでした。
息がとまるほど、さらには遠くに思いや目線が行くほどに、感動したのが「夕映えのなか」。
レベカが美しく歌いきったあとの、去り行く夕焼けを思わせる最後、東響の木管の軽やかさはいかばかりか。
長い沈黙が支配した素敵なエンディングでした。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーー

1時間を要するダフニスとクロエ全曲。
合唱入りの完全全曲盤でいどむヴィオッテイの強い意欲。
合唱なしでの全曲演奏は、もう20年近く前にプレヴィンとN響で聴いたことがあるが、やはりアカペラとはいえ合唱が入ることで、音の広がりと迫真性が格段にあがるというものだ。
 第2組曲だけでは味わえない、物語性のあるよどみなく進むラヴェルの佳曲を、ストーリテラー的に舞台に即したわかりやすい音楽づくりに終わることなく、すべての音を磨き上げ東響の実力を極限に引き出した、精緻で美しい演奏だった。

冒頭から混沌ではなく、明快なサウンドで原初的な新鮮な響きをかもし出す。
そこから合唱も声を強めて盛り上がりゆくさま、もうここからして私は鳥肌物だったし、そのあとすぐの弦による旋律の優美さともなう優しさ。
もうウットリでしたね。
そこから高まるフォルテの築き上げ方や、若者たちの踊りでのリズミカルな反応のよさ。
でもまだまだ抑え気味っだったし、曲は始まったばかりなのだ。
 ダフニスの恋敵のファゴットや金管によるユーモアあふれる場面も案外に淡々と進むが切れは実によろしい。
一方のダフニスの踊りのまったり感と優美さも、その対比として面白かったが、決して誇張なく、音楽的。
ダフニスも油断してしまうほどのお姉さんの登場も、外敵襲来の予見とともになかなか緊張の高まりを味わうこととなりました。

 このあと、戦いの踊りまではちょっとダレてしまう場面だけれど、神秘感の表出やウィンドマシンの効果的な使用などを眺めつつダイナミックな爆発を待ち受けました。
オーケストラがしばし休息し、アカペラ合唱によるミステリアスなシーン。
始めて聴いた高校時代は、夜に聴くと、ここ怖かった。
ヴィオッテイはそこそこの数の東響コーラスを充分に抑え込み、金管が不穏な雰囲気を出しつつ、海賊軍団の踊りへの備えを築く。
そしてきましたよ、金管の咆哮と打楽器軍団の炸裂。
その後ピッコロやクラリネットの狂乱ぶりも重なり、饗宴の度合いを高め、男声合唱も加わりスリリングな展開に息を飲みました、
でもまだ力は8分目ぐらいかな、と。
捉えられたクロエの許しを乞う踊りのシーンでの、管や弦のしなやかさと歌わせ上手、ラヴェルの筆致の見事さも味わえる。

 このあたりから、第2組曲へと向かって音楽が聴き知った夜明けへと準備を進めていくシーンの演奏の精妙さといったらなかった。
あのフルートによる流麗かつ清々しいモティーフがついに出てくると、私は鳥肌が立つほどの感動を味わうのでした。
そのあとの弦楽器による日の出の煌めくような美しさ、そこに合唱も加わり築かれる高まり、ほんと感動的だったし、ヴィオッテイ氏も大きく腕を広げて音楽を浴びるようにして指揮してました。
 そして、今宵のハイライトと言ってもよかった竹山さんのフルートによる無言劇。
ただただ美しく、透明でデリケートでもあり、素晴らしすぎた。
4人のフルートとピッコロによる息の合った掛け合いも素敵すぎた。
さあ、こうなるともう、全員の踊りの興奮の坩堝を待ち受けるばかりだ。
高まりゆく音楽の盛り上がりに、指揮もオケも合唱もすべてを全開、まさに歓喜爆発を見せてくれました。
この喜ばしい音楽が最後に待ち受けるようにして書いたラヴェルも素晴らしいが、そこに焦点を持ってゆき、物語の大団円よろしく華々しいフィナーレを作り上げたヴィオッテイの手腕もすごかった。
一瞬誰も拍手ができず、間ができたことも余韻としてすごくよかった。

音が響きとして包まれるように聴こえるサントリーホール。
音がリアルにそのまま届き、さらには上からも降り注ぐようにして降ってくるように聴こえるミューザ。
どちらも優秀なホールです。
そんなことも、この2週間で確認ができた。
また、声楽作品、歌へのこだわりなども感じることのできたヴィオッテイの才能。
ヴィオッテイと東響の2ウィークが終わってしまい、とても寂しくもありました。

ヴィオッテイはこのあとは、オランダでこの前までの手兵のネーデルランドフィルに客演。
ラフマニノフの交響的舞曲を指揮する予定。

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ノット監督との深い絆で結ばれたコンビとはまた違った、まるで仲間のような親密な関係をきっと築きそうなヴィオッテイと東響です。

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会心の演奏を祝う東響のみなさん。
完璧でした、ありがとう。

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このあと、ヴィオッテイを拍手で呼び出し、ふたたび大喝采。

次は7月にまた帰ってきてね。

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2026年5月23日 (土)

ヴィオッテイの音源を確認する

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少し前のバラの花、真っ盛りの秦野の公園

暑かったり、寒かったりで、体調管理が大変な今年の初夏でした

来日中のロレンツォ・ヴィオッテイの次のコンサートを控えて、ここ数年で録音した海外の放送音源を確認してみた。

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ヴィオッテイが常連となっているウィーン交響楽団との演奏会。

ムジークフェラインの黄金カラーが似合う男。

2022年の客演で東響で演奏されるダフニスとクロエ全曲を指揮したときのもので、このときにORFでの放送を録音して聴いてます。
57分の演奏時間、華美に傾かず、渋さすら感じられる堂々たる演奏です。
スイスの時計職人と呼ばれたラヴェル、まさにそんな緻密さとエーゲ海の青も感じさせる明晰さ、そんなダフニスです。
実演がほんとに楽しみ。

数種あるDVD作品はまだ未入手。
正規CDもまだほとんど出ていない状況で、個人で楽しむその前提の放送音源は貴重です。

【音源】

・コルンゴルト シンフォニエッタ ウィーン放送ORF響 (2018)
・ヴェルディ 聖歌四篇 ウィーン響 (2019)
・シェーンベルク 浄夜 ウィーン響  (2019)
・ドビュッシー 夜想曲 ネーデルランド・フィル  (2021)
・チャイコフスキー 悲愴 ネーデルランド・フィル   (2021)
・ツェムリンスキー 人魚姫  ウィーン響 (2021)
・ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ヴォンドラーチェク ウィーン響(2022)
・ラヴェル ダフニスとクロエ ウィーン響 (2022)
・ベートーヴェン 英雄 東響 (2023 ニコ響より)
・R.シュトラス 英雄の生涯  東響 (2023 ニコ響より)
・プッチーニ 三部作 ネーデルランドオペラ (2024)
・ヴェルディ シモン・ボッカネグラ ミラノ・スカラ座 (2024)
・ラフマニノフ  死の島 ウィーフィル (2024)
・R.コルサコフ スペイン奇想曲 ウィーフィル (2024)
・ドヴォルザーク 交響曲第7番 ウィーフィル (2024)
・サン=サーンス チェロ協奏曲 ガベッタ ウィーン響 (2025)
・R.コルサコフ シェエラザード ウィーン響 (2025)
・ツェムリンスキー 春の埋葬 ウィーン響 (2025)
・ブルックナー ミサ曲第3番 ウィーン響  (2025)

たくさん逃しているはずなので、もっと放送されてると思います。
近現代ものが多くありますが、ハイドンやモーツァルトもたくさん指揮してますね。
マーラーは6、8、9番以外は全部やってます。

【映像】

・マーラー 交響曲第7番 グルベンキアン管
・ウィンナ・ワルツ、ラ・ヴァルス ウィーン響
・チャイコフスキー テンペスト ネーデルランドフィル
・ラフマニノフ 死の島 ネーデルランドフィル
・ブリテン シンフォニア・ダ・レクイエム ネーデルランドフィル
・ツェムリンスキー 小びと ネーデルランドオペラ

映像で見ると実演でも感じた通り、大ぶりせず、表情豊かで的確な指揮ぶりがよくわかります。
ツェムリンスキーのオペラがすばらしいです。
来シーズンあたりに、ツェムリンスキーの人魚姫か抒情交響曲を期待したいですね。

ネーデルランドオペラで取り上げた演目も調べてみました。
「ツェムリンスキーのこびと」「サロメ」「トスカ」「トゥーランドット」
「ばらの騎士」「ローエングリン」「三部作」「ピーター・グライムズ」「こうもり」

ヴェルディも得意なので、チューリヒオペラでのさらなるレパートリー拡充が期待できます。
ちなみにコルンゴルト「死の都」もチューリヒで上演したばかり。
こちらはチェルニアコフの演出なだけに映像化して欲しいです。

Lorenzoviotticelmervandermarel
                         (From the website of the Netherlands Opera)

ヨーロッパの街並みに似合う、まるで60年代の頃のようなダンディマン。

これからは日本で素晴らしい演奏と、日本の景色でナイスな写真もたくさん残して欲しいです。

東響での抱負を語ったヴィオッテイは、チクルス的な一定のテーマやコンセプトは設けない、劇場以外でのオペラ上演は現実的でないと語っている。
今回、羅列した最近の演奏記録からは、そんな姿勢がうかがえます。
確たる信念を持っていて、それが今シーズン、次のシーズンとどんな風に展開されていくか、ますます楽しみに。
ホールでのオペラを期待していたワタクシですから、この際、東響がピットに入る時期に新国に是非にも登場して欲しい。

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