2026年10月12日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 ヴィオッテイ指揮

Trabimonhills

雲ひとつなく晴れ渡った日曜日。

あまりに気持ちがいいので、新橋駅から歩いて溜池のサントリーホールまで。

虎ノ門ヒルズを横切ってホテルオークラとアメリカ大使館の間を抜けて、霊南坂からホールへと。

お気に入りの歩きコースです。

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    東京交響楽団 第746回 定期演奏会

  バッハ(齋藤 秀雄編)   シャコンヌ

  ショスタコーヴィチ  交響曲第10番 ホ短調 op.93

           ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東京交響楽団

      コンサートマスター:景山 昌太朗

                     (2026.10.11 @サントリーホール)

この演奏会は休憩がありません、との事前告知あり。
さらに場内でも2曲の間には休憩を挟まず、続けて演奏されますので・・・とのアナウンスもなされました。 

無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の長大な終曲「シャコンヌ」を斎藤秀雄が編曲した作品が最初に。
「学生たちのためにアンサンブルや表現力を学ぶための実践的教材」として編曲。
弦楽だけでなく、打楽器も含むフルオーケストラ作品となっている。
バッハ作品のオーケストラ版といえばストコフスキーですが、そちらは華麗でゴージャス、壮麗なイメージ。
対する斎藤版シャコンヌは、フルオケ作品でありつつ、その編曲時の目的通りに各楽器・奏者たちがそれぞれに語りあいつつ、ときに室内楽的でもあり、またフルに鳴り渡る大オーケストラサウンドも聴かせたりもする多彩さがある。
しかし、私はそこに「和」のテイストも感じました。
独奏楽器が引立つ場、その背景などに、とくにそう思った。
原曲は高度な技法とともに、ある意味、華々しさを加えて演奏されてしまう場合もあるが、ここではともかく渋い。
 その渋いところを実によく押さえ、内省的な演奏に徹したかのようなヴィオッテイの指揮。
今年の5月にヴィオッテイは、オランダのネーデルランドフィルでこの曲を演奏し、その模様は録音して聴きましたが、そこではコンセルトヘボウと思われる響きの豊かなホールの影響もあり、より華やかな印象を受けていた。
ちなみに、そのオランダでの演奏会は、2曲目がショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲2番、メインはラフマニノフの交響的舞曲。
さらにさかのぼること2月には、ウィーン響とも「シャコンヌ」をやり、そのときはやはり休憩を入れず連続して、ショスタコーヴィチの7番を演奏してます。
 いずれの回でも、シャコンヌのあとはショスタコーヴィチ。

その意はよくわからないが、音楽の根源的な存在のバッハ作品。
とかく社会的な側面から語られるショスタコーヴィチの音楽を純粋音楽として捉えての見方。
ふたつを並べて、さらに連続して演奏することの思いはそんなところにあるのだろうか・・・

ということで、フォルテで終わったバッハのあと、ヴィオッテイは指揮棒を止めたまま、その動きをコントラバスとチェロに向け、抑圧的な重々しい主題が始まった。
この連続性がとても自然だったし、聴き手には嫌でも緊張感を強いるものでその緊張感と集中力を絶やさずに、この長大な1楽章を聴くことになった。
音楽が動き出し、ヌブーさんのクラリネットが第1主題を奏でるが、暗さよりは明晰さ、そしてこの日、冴えわたったフルート知久さんのソロで始まる次の主題も不可思議感というよりは、音の輪郭をはっきりさせ、そのあと続く壮絶な盛り上がりにおいても冷静なる展開を見せ、そこがまた音楽の本質に迫るようで興奮をした次第だ。
ともかく緊張を強いられる1楽章の展開が少しも重々しくなく感じた演奏。
 スピード感あふれる2楽章ではまさに高速ギアにチェンジしたみたいで、ヴィオッテイもオーケストラを追い込んでゆくようで、そのオケも一糸乱れず着いてゆくし、この熱狂的な展開に息を飲み、目を見張ったものだ。
きっとホール中の聴衆がそう思ったであろう。
 1楽章とともに、案外と難しいのが3楽章。
演奏によっては、また一部CDではいつも取り止めなく感じてしまうが、各楽器を明快に浮かびあがらせ、その先にホルンのモットーが自然に入ってくる感じで、どこまでも自然。
ホルンがあざとく感じてしまう場合があるが、ヴィオッティ&東響の自然体の演奏の仕方、吹かせ方はとてもよかったし、ホルン氏よく頑張りました。
その後にやってくるハチャムチャな盛り上がりはスピーディーに徹した展開で、不可思議に静かに終わるこの楽章のなかで突出せずに納得できるものでした。
景山コンマスのソロも最後よかった。
 さてきっとすげぇよ終楽章、と予見しつつ始まった緊張感ある模索的な開始部から、アレグロになだれ込む。
ここでもヴィオッテイは快速ギアを踏み、あとは次々と興奮の坩堝へと聴衆を誘いまくるのでありました。
弦のリズミカルかつ歯切れのよい刻み、耳をつんざくことなく心地よいピッコロの絶叫(濱崎さん、いつもながら見事すぎだろ)、うごめく低弦、全曲に渡りバシバシ決めて決まりまくる綱川さんのスネアや打楽器陣の炸裂大会、小躍りしたくなるホルンの咆哮、、、ともかく誰もかれも、なにもかも、ヴィオッティの鮮やかな手綱さばきに舞い踊るようにして演奏しまくり。
そしてこちとら、興奮しまくり。
こんなにスピードあげても、音楽として破綻することなく、しっかり4つの楽章の帰結として構成感も保たれている気がしたし、あの長大な1楽章が遠い昔に感じるような、そんな完結感あふれる演奏だった。
 昨年聴いた、東響の10番、ヒコックス君もいい演奏だったが、ヴィオッティは鮮烈さでは上回ってました。

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2曲併せての75分間。
こんなに濃密かつ緊張感あふれる演奏会はそうそうに出会えない。
ノット前監督がいつも聴かせてくれた予想できない驚きの展開と、ヴィオッティ新監督にいまのところ感じている劇場空間を思わせる劇的な音楽展開。
どちらも最高に好きです。
そして東響の技量の高さと、能動的かつ鮮度高い音の素晴らしさ。

来シーズンも楽しみすぎる演目ばかりだ。

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コールに応えて登場のロレンツィオ氏。

毎度おなじみの左手にいらっしゃるブラボー氏の声にワオ!

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こんなユーモラスなやり取りもあり和みましたね。

撤収作業中のメンバーもニッコリ。

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2026年10月10日 (土)

東京都交響楽団定期演奏会B ノット指揮

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秋の日はつるべ落とし。

西日が眩しい時刻に家を出て、車中で暮れゆく街並みを見て、すっかり暗くなった都会のホールに到着。

都心でもススキ、秋めいてきました。

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  東京都交響楽団定期演奏会 Bシリーズ 第1053回

 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番 ト長調 op.58

   ヘンデル    メヌエット ト短調 (ケンプ編)~アンコール

      アンヌ・ケフェレック

 ブルックナー  交響曲第6番 イ長調

   ジョナサン・ノット指揮 東京都交響楽団

     コンサートマスター:矢部 達哉

        (2026.10.9 @サントリーホール)

先週に引き続き、ジョナサン・ノットが客演する都響の演奏会へ。
チラシのとおり、「明朗なる歌」。
明るい調性の作品ふたつによるプログラムは今回も秀逸。

コンサートマスターは矢部氏で、その隣には前回演奏会のコンマスで、ノットとの共演を数多く経験してきた水谷さんという布陣。
ほかのセクションも首席がふたりそれぞれ並ぶという豪華ぶり。

高校~学生時代のワタクシのピアノのアイドルはケフェレックでした。
毎年のように日本にやってきてくれる親日家でもあり、いつか聴こうと思いつつも常に逃して半世紀。
実は今回が初ケフェレック姫でございました。
次週にベートーヴェンの後期ソナタ3曲のリサイタルがあり、チケットを押さえにいったら早々に完売・・・

にこやかなノットさんを従え、しっかりした足取りであらわれたアンヌ様は、ともかく華奢でしたが姿勢正しく、気品あふれるお姿でした。
「ベートーヴェンの4番」、開始早々、楚々としたなかにあふれる清楚かつ清らかな音色に瞬時にして耳が釘付け。
見るからに儚いお姿ですが、その打鍵は確かで、その紡ぐ音も明晰きわまりない。
ノットと都響も柔和な響きでバックアップ。
長めのカデンツァを採用したケフェレック、緊張感のなかに微笑みを絶やさぬステキなピアノはここでも明快であり、技巧云々でなく、ともかくどこまでも奥行を感じさせるゆとりがその音楽にあり、聴くワタクシの心の襞にどんどん入ってくるのでした。
 2楽章の深遠な雰囲気もケフェレックのピアノでは優しい微笑みすら感じさせる。
休息を取らず1楽章からすぐさま開始したノットのオーケストラは、ここではかなり歯切れがよく、厳しい表現に切り替えたように感じたが、柔和なピアノとそのオーケストラとの対比がとても聴きごたえあり。
そして3楽章の愉悦感は、ノーブルかつ弾むような軽やかさでケフェレックはここでも丹精さを失わず、品の良さを常に保つ貴婦人そのもの。
そこにピタリとつけるノット・都響も軽快。
どこまでも続いて欲しいと思ったケフェレックのベートーヴェンの4番は、私には忘れえぬ演奏となりました。

アンコールには、得意とするヘンデルの作品。
切なさと求道的なムードも感じさせるこの出だしに、わたくしは思わず涙が出ました。
学生時代に集めたケフェレックのレコードの数々、バッハやリストを思い出し、この半世紀の自分の営みや、この先の不安なども脳裏を駆け巡り・・・・
しばらく拍手もできませんでしたね。
おセンチになりました、ありがとうケフェレックさま。

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「ブルックナー6番」
東響とのブルックナーでコロナの影響で唯一持ち越された6番。
ノットの退任のあとの新シーズンスタートに東響のプログラムに選ばれた懸案の6番を指揮したのはエラス=カサド。
そして東響退任したノットは、今度は都響に招かれてこの6番。
先のシュミットの7つの封印とともに、今年の音楽シーンのトピックのひとつは、カサドとノットのブルックナー6番、あとは外来オケも巻き込んでのマーラー「復活」大会かもしらん。

ふたつのブル6を聴いて、端的に言えば、輝かしくも明るく元気にあふれたカサド、落ち着きと大人の風格のなかにも抒情と情熱を兼ね備えたノット、そんな風にまとめてみた。
どちらも抜群に素晴らしい演奏だったのです。

いつものように対抗配置で、ノットは譜面台は置きつつも暗譜での指揮。
1楽章が始まる寸前に大きな咳が聴こえちょっとガッカリ。
マイクが林立していたこの演奏、ライブ録音されたかもですが、そのあたりはしっかりカットされるだろう。
気を取り直して、朗らかなる1楽章のいつものノットらしい推進力あふれる演奏にすぐさま引き込まれる。
同時に音のブリリアントな艶やかさと厚みは、まさに都響。
木管のさえずりも素敵だし、そのあたりがクッキリと浮かびあがるし、あらゆる楽器の音がよく見えるし聴こえる。
 そして、この日いちばん素晴らしかった第2楽章の自然美あふれる美しさと神々しさ。
木管による哀しみあふれる第1主題、さらにステキすぎたのが第2主題の癒しさえ感じる旋律を慈しむように丁寧に演奏したこと。
その次にくる葬送のような悲しみの旋律も対比として鮮やか。
この3つの主題が織りなす美しいこの楽章に指揮者もオーケストラも無為の境地にあるように感じた。
この楽章の静かにピアニシモの度合いを加えていって終わってゆく様子をノットの指先をずっと見つめて聴いた。
ほんと、少しの指の動きにオーケストラが反応して、最後のヴィオラで静かに終わるところ、息ができないほどに感動した。
 一転、リズミカルなスケルツォ楽章は明快なノットのタクトのもと、都響の分厚い音が軽やかに聴こえるほどに生き生きとした場面を作り出し、中間部のピチカートやホルンも楽しそうに聴こえる。
コンマスふたりはアイコンタクトで実際にニッコリしながら弾いていました。
 ノットさん、きつとアタッカで入りたかった終楽章は、まいどの楽章間の咳払いで間ができたが、それでもすぐさまの開始。
この終楽章は一気呵成の勢いでどんどん進む。
カサドのようにはテンポを動かさず、ノットは都響をかつての東響のようにスリリングに煽りつつ、でもあくまで自然な盛り上げを作り上げるという大人の演奏に徹した。
それでもホールが熱気に包まれてしまうのがいつものノットらしいところで、後期3作品のような納得感ある終わり方を持たない少し唐突な6番のエンディングを鮮やかに完結感を持って示してくれた。
動きを止めた指揮棒、弓を掲げたまま止まったオーケストラ、うれしい静寂がありました。
ノットが静かに腕を下ろすと万来の拍手が巻き起こりました。

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指揮者もオーケストラも、われわれ聴衆もみんな満足の極み。

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いつものノットの呼び出し。
都響だけど、いつもの東響の聴き手もいるはず。

来週は大阪フィルでロンターノ、夜想曲、ブラームス1番。
再来週は広島響でパヌフニク父娘の作品、シュニトケ、ショスタコ9番。
ブラームス以外は完全にノットらしい演目です。
ほぼ1か月の日本滞在はうれしい限りですね。

12月にはいよいよ、バルセロナのリセウ劇場でまずオーケストラコンサート。
牧神の午後、シューマン、ハルサイというプログラム。
さらに年末は、韓国のKBS響で「第9」。
2027年1月にスイスロマンドでマーラー7番。
2月にはリセウのピットに入ってバイエルンで上演されているクラッツァー演出の「ラインの黄金」。
4年かけて「リング」をやる予定。
さらにリセウの来シーズンを調べたらグレゴリアンと「イエヌーファ」、「戦争レクイエム」などが予定されていた。
忙しいオペラハウスの指揮の合間を縫って9月には紀尾井オケに来演予定。
東響の指揮台にも立って欲しいな。

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2026年10月 4日 (日)

東京都交響楽団定期演奏会A ノット指揮

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37日連続の雨、そのあまりうれしくない記録がついに途絶えた10月3日。

池袋の東京芸術劇場に東京都交響楽団の演奏会を聴きに行きました。

昨シーズンまで東響の音楽監督を務めたジョナサン・ノットが都響を初めて指揮するので!

悪戯心で加工して、劇場前の公園ステージにあるスクリーンにノットさんに登場いただきました。

思えばちょうど1年前の秋冬、ノットと東響の最後のシーズンを大曲を通じて堪能していたのでしたが、その1年後にほかのオーケストラに客演して来日するとは思ってもなかった。

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      東京都交響楽団 第1052回 定期演奏会

 メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」op.26

 ブルッフ     スコットランド幻想曲 op.46

   エルガー     「愛の挨拶」op.12 ~アンコール

       Vln: 辻 彩奈

       Hp: 吉野 直子

 ストラヴィンスキー 葬送の歌 op.5

 スクリャービン  「法悦の詩」(交響曲第4番) op.34

    ジョナサン・ノット指揮 東京都交響楽団

     コンサートマスター:水谷 晃

       (2026.10.3 @東京芸術劇場)

とてもユニークだけれど、実によく考え抜かれたプログラム。
前半がドイツロマン派の作曲家によるスコットランド地方にまつわる音楽。
後半は第1次ロシア革命の頃のふたりのロシア作曲家によるワーグナーの影響下にもあるともいえる同時期の作品。
前半にほのぼのとさせ、後半には緊張感を高め、アドレナリンを注入される、そんなムードになったのでした。

暗譜で指揮したフィンガルは、思わぬドラマチックな演奏となった。
ノットらしく、流れのいい展開ながら、波しぶきや風を感じさせるような強さも強調され、都響がまた分厚い音で応えた。
メンデルスゾーンでこんなに迫力ある響きを感じるなんて思ってもみなかった。
一服の清涼剤のように思っていたオーケストラピース的作品が、驚きの大作のように感じられもしたのでした。

次いで、大好きなスコットランド幻想曲。
もう半世紀以上前にテレビでハイフェッツの演奏を視聴して、とくに最終楽章が妙に好きになりました。
いま好きな演奏は、ニコラ・ベネデッティとタスミン・リトル、諏訪内晶子となぜか女性奏者ばかり。

ハープも活躍するこの作品に、名手の吉野さんを配する豪華ぶりで、彼女はヴァイオリンと並んで指揮者の横で演奏。
その配置からか、ハープの響きがヴァイオリンのソロに隠れてしまうように感じたが、席によって違ったのではと思う。
それにしても、初めて聴いた辻彩奈さんのヴァイオリンが極めて素晴らしくて、音が若々しく艶があり、技巧も見事だが繊細さと強さとともに兼ね備えたその音色に酔いました。
神妙な序奏のあと、1楽章に入ってからのオーケストラの優しい響きに誘われ登場するメイン主題に、思わず涙ぐんでしまった。
郷愁さそうステキなメロディ、まだ見ぬハイランド地方の光景も目に浮かぶようなこの旋律を辻さんは、心を込めて丹精に、そして艶やかに弾きましたし、吉野さんのハープの合いの手も美しい。
 スケルツォでは快活なヴァイオリンに、ノットの切れ味あふれる指揮で、終わりの部分の繰り返しもカッコイイ。
そしてまたもや泣けたのは、3楽章の民謡を主題にした展開で、ほのぼのとしつつ、慈しみあふれるメロディにうっとり。
ブルッフのこのあたりの歌謡性と叙情は、ヴァイオリン協奏曲とともに、交響曲でも味わえるもの。
辻さんのヴァイオリンの伸びやかさと嫌味のまったくない素直な歌わせぶり、加えて愛情いっぱい感じるオーケストラの暖かみ。
 一転して終楽章の元気の良さ、屈託のない明るさは晴れ晴れとするようで、ハープもここではこの配置が有効に機能し、なるほどと感心することしきりでした。
この楽章は妙にテンポを落としたりするとダレてしまうのですが、そこはノットの指揮はキビキビしていて、どんなに細かいパッセージでもクッキリ響かせる辻ヴァイオリンとともに鮮やか極まりない。
ラストにしんみりとメインテーマが来てしんみりさせ、そのあとの大団円。
素晴らしい演奏、そしていい曲なのでありました。
 アンコールはヴァイオリンとハープでエルガー。
英国つながり、しかもハープの伴奏とはまた、そうきましたか!と思いました。
これまた心和む美演でございました。
 
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後半のストラヴィンスキー。
バレエ音楽のストラヴィンスキーの音楽とは全く異なる、どちらといえば表現主義的な雰囲気も感じつつ、でも「火の鳥」と近い時期の作品だから、その先駆け的なムードもあり。
こうしたふだん聴き慣れてない音楽を、明快にわかりやすくしてくれるのは毎度のノットの才覚。
エアチェックしたデュトワとシカゴ、ゲルギエフとミュンヘンフィルなどで予習をしておきましたが、それらの模糊とした捉えどころのないイメージは、そんな音楽なんだという印象しかなかったのです。
しかし実演で聴くとやはり違うもんです。
指揮姿とオーケストラの面々、さらには豪華にも吉野さんもハープで加わる演奏を視覚的に捉えることで、音楽がどんどん耳に届き入ってきました。
明確な旋律線などないが、切々たるR・コルサコフの死を悼むというこの音楽のイメージがワーグナー的でもありつつ、色彩感も感じつつ、ひとつの幻想曲のようにも思った。
ノットの共感あふれる指揮のもとに、透明感あふれる響きを紡いだ都響も見事なものでした。
ラストのハープの上昇音とともに曲を閉じる場面はチャイコフスキーのようにも感じました。

さて、大好きな「法悦の詩」。
ほどよく短いし、大迫力のオーケストラが聴けるし、ということでアバドのレコード購入以来何度聴いたかわからない。
しかし、実演で聴くのは初めてで、今回ほど、あっという間の短い時間に感じたことはなかった。
それと同時に、ノットならもっと凄かったはず、との思いもぬぐえない。
あまりにサラサラと進みすぎて、ひっかかりがなさすぎて、気が付いたらクライマックスを迎えてオシマイ、そんな風に思った。
  ノットの指揮ぶりを知り抜いた水谷コンマスのソロはキラリとしていて見事だったし、ここでもハープ席に座った吉野さんも大活躍でよく音が聴こえた。
さらに首席トランペットの一条の光さすような鋭いソロも完璧。
さすがは都響で、各奏者の技量の高さと分厚い響き、高度な合奏も聴きごたえあり、オーケストラを聴く喜びは堪能。
しかし、それらがないまぜになって、ひとつの方向性を持たせ、熱狂とも呼べる熱さを予想外に呼んで行くのがこれまで東響で聴いてきたノットの音楽だったが・・・・
ここでは私はやや燃焼不足の神秘と法悦に思えたのでした。
くり返しますが、演奏としては完璧で、いくつものモティーフが同時進行するさまや、変転するリズムへの対応など、ノットの鋭い指揮とそれに応える都響は見事でした。
言ってはなんですが、東響とではまた違ったかも・・・・
初顔合わせということで、この作品においては1度キリでなく、何度かやって内容を高めて欲しいと思ったのでした。
オルガンも加わり、凄まじい盛り上がりとなり、そのあと静かにロマンティックな表情から徐々にクレッシェンドして眩しく輝くエンディング。
そこはもうドキドキしましたが、ここでももっと行けるんじゃ・・という思いもありました。

スクリャービンはちょっと辛口評価ともなりましたが、この日の最高の演奏はスコットランド幻想曲だった。
次のブルックナーがどうなるか、楽しみです。

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東響での懐かしいコンビ、水谷コンマスとノット。

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今回も盛大な拍手でノットさんの呼び出し。

お馴染みのにこやかな表情。

日本が大好きなノットさん。

都響のあとは、大阪フィル、広島響と西へ向かいます。

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2026年10月 3日 (土)

シューマン 弦楽四重奏曲 作品41 ドロルツ四重奏団

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悪天続きの初秋のなかで、今年の彼岸花は各処でたくさん咲いているのが確認できたし、色も濃くて美しかった。

ほかの花々はイマイチだったけれど、彼岸花だけ。

しかし、雨ばかりで見物に行く機会がなかなかなくてヤキモキしたもんだ。

そんななかの一瞬のスキを突いて大井町まで。
本来なら富士がきれいに見えるんですがね・・・

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     シューマン 弦楽四重奏曲第1番 イ短調 op.41-1
         弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調 op.41-2
         弦楽四重奏曲第3番 イ長調 op.41-3

       ドロルツ弦楽四重奏団

     (1965.12 , 1966.3 @UFAスタジオ、ベルリン)


ジャケ買いしたCDです。
シューマンの弦楽四重奏曲全3曲と同時に録音されたピアノ五重奏曲を2枚に収めたCD。
レコード時代のオリジナルをそのまま復刻したもので、上記が3番の四重奏とピアノ五重奏。
ピアノは若きエッシェンバッハ。
1番と2番の四重奏はこのジャケット。

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この幽玄なる絵画は、おなじみのドイツのロマン主義時代の画家、カスパール・ダーヴィッド・フリードリヒ(1774~1840)。
「海辺の月の出」(1822)、「月を眺める男と女」(1830~5)

シューマン(1810~1856)の活動時期とかぶるフリードリヒの風景画の数々。
シューベルト、メンデルスゾーン、ブラームスなどのジャケットにも昔から多く使われてましたが、シューマンの渋い室内楽のロマンあふれる音楽にはぴったり。

シューマン31歳、前年の1841年が「交響曲の年」であり、翌1842年は「室内楽の年」として、作品41の3曲は短期間に書かれた。

ベートーヴェンやメンデルスゾーンなど古典の形式や先達を意識したこれらの作品。
シューマン家では仲間が集まり、さかんに室内楽の演奏に興じていたが、そこで演奏された先輩たちの音楽にも感化され、研究もした。
伸びやかなメンデルスゾーンの音楽、ベートーヴェンの厳格さや後期作品の求道心などを感じさせるとともに、シューマンらしいロマンの芳香と複雑なる内面をも感じる音楽です。

この前のブログでベートーヴェンの同じ作品番号をもつ3つのピアノソナタ集を聴いた。
ひとりの作曲家が短期に書いた作品集を続けて集中聴きすることの意義は、大きく、そのときその作者がどういう状況だったかなどを推しはかりつつ聴くのも楽しいものだ。

以前にライプチヒ四重奏団の演奏会を聴いたときのblogから補筆してます。

1番:
 イ短調の憂愁と激情の交差するドラマテックかつロマンな曲。

幽玄な出だし、まさにシューマン風の旋律も聴かれる1楽章。
2楽章のスケルツォの面白さ、忙しさ(ちょっと壊れかけてる・・・)
3楽章のロマンあふれる様相は大先達の第9をも思わせた。
終楽章はプレスト。

2番:
牧歌的なおおらかさと流動感あふれる雰囲気はメンデルスゾーンみたいだ。
平和な雰囲気で気分やすらぐ1楽章はずっと浸っていたい。
変奏曲形式の2楽章でもうっとりできるし、その歌謡性はシューベルトの室内楽にも通じる。
3楽章はここでもスケルツォで、短調の展開のなかにハ長の妙に明るいトリオがはいる。
舞踏調の忙しい終楽章は、1番や2番の交響曲の終楽章と同じようなフレーズを感じさせたりもして明るく軽やかだ。


3番:
全体に漂う幻想味。この曲が一番、われわれが思うシューマンらしさあり。

ベートーヴェン風の序奏をともなう自由なスタイルで、自在さただようが緻密に書かれたなかにクララの名前を模したモットーが織り込まれているという。素人のワタクシにはわからないが・・・
2楽章は、スケルツォだが、変奏曲スタイルで書かれた珍しいやり口?曲想やテンポも揺れ動き、不安げだし、そこがとても印象的だ。
3楽章、緩徐部分。ベートーヴェンの抒情にも通じ、より哀感もあり明滅するかのようなロマンがあふれる素晴らしい楽章と聴いた。
終楽章は、とりとめなさが魅力で行進曲風の推進性もあり妙に明るかったりで、これもまたシューマンらしい。

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1950年、すなわち戦後にまもなく結成されたドロルツ四重奏団。
フルトヴェングラーからカラヤンの時代のベルリンフィルのメンバーを中心に、エドゥアルト・ドロルツによって結成されたカルテット。
途中のメンバー交代も含めて広範な活動をして、EMI、オイロディスク、DGなどへの録音も多かった。
しかし、1973年のドロルツの死をもって解散。
その後は、残されたレコードがロマン派系の音楽を中心にファンに愛され続けたものの、CD時代になってはあまり聴かれなくなった存在。
ドイツの四重奏団らしい緊密さと、緻密かつ重厚さもあり、まさに過去のベルリンフィルの顔も感じさせはするが、昨今のハイレベルに達した四重奏団のキリリと引き締まり、時代設定も踏まえた多彩な演奏ぶりなどと比較すると、明らかに緩く感じるのも事実。
まさにそういう時代だったとも思うドロルツ四重奏の演奏ではあるものの、かつて抒情派ともいわれた存在もかくやと思わせる、幽玄たるシューマンのロマンあふれる姿がここに聴かれ、懐かしさとともに、いまやこのような演奏は他に聴くことができないという意味で新鮮でもありました。
かつてのレコ芸の室内楽評を担当した某O氏などは、美音、甘い演奏、通俗性などと指摘し、戦後のこのスタイルはもう復活しないだろう・・・とまで評しておりました・・・・
もう半世紀前の記事でしたが、いま現在の多様化した音楽の聴き方や受容のありかたからすると、こうした評論の内容はいまや的外れと思いたい。
その演奏からレコードや紙ジャケットの手触り。馥郁たるロマンを感じることってもう味わえないのですからね。
DGの60年代の録音もまさにそれが言えていました。

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富士は見えねど、金時山から箱根へ連なる山並みはよく見えますし、眼下の小田原、南足柄などもクッキリ。

好きな場所です。

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2026年9月30日 (水)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 作品31 ギレリス

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お盆前まではやたらと暑かったからコスモスやラベンダーはいいまひとつ。

その後は今度はずっと雨で日照不足や過剰な湿り気で、農作物も花々もさんざんな初秋。

でも涼しくはなって、ピアノ曲や室内楽作品などに耳を澄ますのによい季節。

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 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第16番 ト長調 op.31-1

         ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 op.31-2 「テンペスト」

         ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 op.31-3

        エミール・ギレリス

        (1972.1 トゥルク、1981.10 イエスキリスト協会)

このジャケットのレコードは買うことはなかったけれど、1枚1枚発売されるギレリスのベートーヴェンは常に気になる存在でした。

残念ながら全集を完成することが出来なかったエミール・ギレリスのベートーヴェンを聴く。
残さなかった番号は、1,9,22,24,32番の5曲で、最後の32番がないのが残念だが、DGのまとめてくれた選集は、ブレンデルやコヴァセヴィチ、ポリーニとともに、ベートーヴェンのソナタの私の大切な音盤となってます。
レコード時代は、バックハウス・オンリーだったが、いまでは少しいにしえに過ぎるように感じるようになった・・・

3曲からなる作品31のピアノソナタ集。
1801~04年にかけての作曲で、17番が先に書かれたようだが、曲の性格はそれぞれに異なるものの、中期以降の様式をすでに先取りしていて、とても充実した作品集となっている。
ハリゲンシュタットの遺書の年と重なる時期であるが、ベートーヴェンはすでに難聴に悩み、絶望とともに生への願望、芸術への献身の日々のなかにあった。
そんなことも思いつつ、これらの作品集を聴くと、音楽に尽くし、その創作とともに生きるというベートーヴェンの強さと優しさを感じたりもしましたね。

古典的な佇まいを持つ16番作品31-1は、調性からしても明るく、かつ優雅さも持つ。
トリルの印象的な2楽章、ロンドとタイトルされた終楽章はそのロンド主題がもっぱら活躍するユニークな楽章。
案外ととらえどころなく、難しい作品かもしれず、聴いた後にどんな曲だっけ?と思ったりする不思議さもあったりした。

かつては弟子とされたシントラーに作者自ら「(シェイクスピアの)テンペストを読め」と語ったという逸話から「テンペスト」と名付けられたとされた17番作品31-2。
しかし現在では、この逸話はシントラーの創作であるとされる。
昭和世代のワタクシからすると、ずっとテンペスト・嵐とレコード解説などで読んでイメージしてきたものだからちょっと寂しいものがあります。
それにしても短調で自由かつ奔放な1楽章は厳しくも不安や沈滞ムードにもあふれ、ベートーヴェンの苦しみともとれる。
また独白めいてもいて、幻想的でもあるところが魅力的。
まいど感じるベートーヴェンの緩徐楽章の美さが、17番の2楽章にもありますが、どこかためらいがちで、後ろ髪ひかれる雰囲気も魅力的。
常動曲のようなリスム音型にずっと支配され、単調さが情熱を生むような終楽章。
とても印象的な第1主題はなぜか中学時代より忘れられない旋律で、どこかの家から聴こえたピアノの練習の音の記憶とむずびつく。
刹那的な雰囲気やすう~っと終わってしまうところなんかも妙に中学生の頃の甘酸っぱさを思い起こさせる・・・

3曲のなかで唯一、4楽章形式を持つ18番作品31-3。
この作品は案外と好きで、これもまた昔ばなしですが、ルービンシュタインの最後の録音としてレコードが出た時は大学生になったばかりで、モノクロのジャケットが気になって、18番の作品そのものも気になってしょうがなかった。
結局は、誰の演奏か忘れてしまったがエアチェックして飽くことなく聴いて、この曲が好きになっていった。
2つの舞踏的な楽章を持つユニークな曲で、わたしはこの作品に明るさと生命力をも感じたものです。

2楽章は、ソナタ形式によるスケルツォ楽章で、のちのちの交響曲におけるスケルツォの先駆けみたいに感じる強さと洒脱さもあり面白い。
もうひとつの舞踏的な楽章の3楽章は、メヌエット。
抒情的でもありつつ、付点音符がいいアクセントとなりぞの弾みが心地よい。
一転してプレストになる終楽章も舞踏的で、こちらはタランテラ舞曲風で力強くもあり、明朗快活なベートーヴェンに安堵したりもする。
転調で短調がやってきてちょっと不安になるが、それを吹き飛ばすようにバシッと曲を締める。

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1985年に68歳の若さで亡くなってしまったギレリス。
鋼のピアニストと呼ばれたギレリスも、西側での活動を盛んにおこなうようになり、レコーディングも増えて剛腕ばかりでない精緻で知的なピアニストであることがわかった。
セルとのベートーヴェンとヨッフムとのブラームスの評価が決定的だったろう。
70年代前半から始まったDGへのベートーヴェンのソナタ録音。
この作品集にあっては、まいどながら完璧であるとともに、ベートーヴェンの音楽の若さや澄んだ抒情、また表情の機微なども見事に捉えた柔軟な演奏。
楽想の変わりゆくさまを弾き分けることが実に自然でありつつ、その個々においても説得力がとてもある。
音楽そのものが語っているようにも思える自然さもあり、精緻でありつつも、情感もあふれていて、とても素晴らしいベートーヴェン演奏だと痛感。
中期、後期となるとギレリスの演奏は、さらに厳しさを加えたり、透明感も感じさせたりと、ベートーヴェン作品を順次聴いてゆく楽しみを与えてくれます。

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2026年9月26日 (土)

チャイコフスキー 交響曲第5番、6番 シュタイン指揮

Bentensan

今年の彼岸花はどこを見てもキレイに咲きました。

雨ばかりの悪天で湿り気が多いのがよかったのか・・・

それにしても、まったくその形跡すらないのに、お彼岸の頃になると忽然と伸びてきて赤い怪しい花を咲かせる。

どんなことがあったも、なにがあっても、自然はちゃんとめぐってくるんです。

ずっとヘヴィーな音楽ばかりだったので、このへんでお馴染み極まりない曲を懐かしの指揮者で。

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  チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調 op.64

           交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」

   ホルスト・シュタイン指揮 バンベルク交響楽団

                ウィーン交響楽団

        (1970 @ドミニカナーバウ バンベルク)
                 (1980 @ウィーン)

昨年に忽然と発売され驚いたシュタインのチャイコフスキー。
MQAなるオーディオコーティング技術が用いられ古い音源を新鮮に蘇らせての発売。

「悲愴」の存在はまったく知らなかったが、バンベルクとの5番のレコードの存在は覚えてました。
ずっと聴きたかったレコードが、半世紀を経て音源化されるという驚き。

Tchaikovsky-5-stein

これが日本コロンビアから発売されたときのジャケット。

1973年1月号のレコード芸術のコロンビアレコードの広告。
後生大事に持ってます。
モノクロの写真をAIを使ってカラー化しました。
小さい画像なので文字が潰れてしまうので、曲名とシュタイン、バンベルクは英語表記で指示を入れました。
そうしたらなんということでしょう、Karajan Berliner Philharmonikerに書き替えられ、さらにレーベルもアメリカのコロンビアレーベルにされて組成されました。
AI様も、チャイコフスキー5番と言ったらカラヤンとベルリンフィルとなるんでしょうか、それともワタクシのブログでカラヤンのチャイ5は何度も取り上げて思い入れあるものだから、そのあたりも考えてのことだったのでしょうか・・・
いずれにせよ、恐ろしきAIの能力。
シュタインとバンベルク、手持ちのコロンビアのレーベルも指示すると、ちゃんとこのように出来上がりました。

CD化されたものでは、録音は1973年とありますが、72年の暮れには日本発売されてますので、私は1970年頃の録音と推定しそのように表記しました。
シュタインは器用でレパートリーも広い指揮者でしたし、ことにロシアや北欧ものも得意にしていて、N響での4番の交響曲は大迫力の演奏だったと記憶します。
エアチェックテープがありましたが、上書きしてしまい、いまや聴けないのが残念だし、あれば3大交響曲が揃ったのに・・・
 あと、この5番は、1980年のスイスロマンドとのライブのNHK放送をエアチェックしたものがあり、こちらは自家製CDRにしてます。
1980年の演奏で、同時に演奏されたのはミンツのヴァイオリンで、モーツァルトの3番です。
スイスロマンドとの演奏は実に素晴らしくって、オケの明るさもあり、とてもしなやかで、同時に緩急もつけた自在ぶりとノリの良さがなかなか聴かせるものでした。

その10年前のバンベルクとの5番。
バイロイトで常連となる頃、各地の劇場でなくてはならない存在となりつつあったシュタイン。
1973年のN響デビューに合わせた来日記念盤でもありましたが、録音のせいもありますが、ドイツのオーケストラとは思えない明るさを感じました。
おそらく、当時のバンベルク響の本拠地が教会だったので、その豊かなホールトーンをまとも捉えた録音が今回のマスタリングでさらに磨きがかかったものと思います。
当時のレコ芸の月評でも「反響の長い録音」とか「残響の多い会場」との指摘がなされてました。

試しにいまは音楽専門の素晴らしいホールに移転したバンベルク響のドミニカーナ教会での演奏の画像を調べたらありました。
こちらもAI様にカラー化してもらいましたら、指揮はどうもシュタインのようです。
教会の柱がちゃんとあり、奥はやはり祭壇のようです。
カイルベルトもここで指揮していたんでしょうね。
この画像を見ながら、この演奏を聴くとまた実に雰囲気がいいのでした。

Bamberger-symphoniker-1

響きが多いのに耳が慣れると、やはりシュタインのスタイリッシュなまでの音楽造りが新鮮です。
スイス・ロマンドよりも速めに進行する1楽章ですが、陰りは少なめで音楽は低徊することなく、ストレートにどんどん進む。
2楽章も思い入れや情緒の入れ具合も少なめで、極めて音楽的に進むが、ホルンソロはこの時代の南ドイツ風なやや古風な響きがする。
クライマックスが来て、木管の合いの手を伴いながら主旋律が繰り返されるが、そのときの弦のピチカートは無骨なまでの素っ気なさで、旋律も泣くことなく淡々と歌う。
カラヤンとは大違いなところが微笑ましい。
3楽章の克明さはユニークでかつ律儀な感じだが、存外にスマートな運びでもありました。
終楽章はインテンポでもってかなりの快速ぶりで、ズバズバ進行するが、大げさなダイナミズムや緩急の強い付け方などは皆無。
いつも速めの展開でありつつ内容の詰まった演奏を聴かせたシュタインのワーグナーを思わせる充足感をここでも感じた。
ただ金管の響きなどに時代を感じさせるものがあり、また強奏時に音が混濁する点も終楽章では見受けられたので、そこは録音のせいかもしれない。

念願のシュタインとバンベルクのチャイコフスキー5番。
シュタインらしいスタイリッシュでありつつ、質実剛健さもある演奏でした。

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ウィーン響との共演も多かったシュタイン。
レコーディングは先だって取り上げたシュミットの「7つの封印の書」とシューベルトのハ長調交響曲のみだったので、この「悲愴」の登場はありがたい。
とても流れがよく、スムースで、あのワーグナーのシュタインとは思えないような美しくもしなやかな演奏。
オケの特性もあったのか、多少の無骨さも感じた5番に対し、角も取れた柔軟な響きをかもし出すオーケストラの持ち味を活かした瀟洒な雰囲気も感じる。
とくに2楽章が美しく、まさかのシュタイン!、あのシュタイン、と思わずつぶやいてしまうほどに軽やかで強弱も巧みに効かせた情緒あふれる演奏だった。
もちろん1楽章も美しく、ほんとに久方ぶりに聴いた「悲愴」がこんなに美しい音楽だったと再認識した。
3楽章のダイナミクスも幅広く、タメもなくストレート・直球勝負の剛腕シンプル演奏は新鮮。
終楽章は泣きが入りことなく、譜面が音になったような無駄のない直截な表現に徹しすがすがしいほど。

聴いていて、ウィーン交響楽団がウィーンの楽団であること、ウィーンならではの楽器の特徴は2000年代にはもう消失してしまったとのことをここに感じたこと。
ともかくこの演奏の時代までは、オーケストラにもローカルがあったことを寂しくも認識できたのです。
そう思いながら、終楽章の消えゆく終結部を聴いた。

マスタリングにより刷新されたシュタインの2つのチャイコフスキー。
鮮やかによみがえったと思うが、両曲ともに響きの過多は感じた。
もう少し、シェイプしてもよかったのかも。
そして、それにしてもシュタインという指揮者は多面的な側面もありつつ、どんな音楽でものその本質をがっちりつかんで指揮することのできた根っからの劇場人だったのだと認識できました。
N響でのコンサートの数々をあらためて正規に復刻して欲しい。

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バイロイトでしょうか、ピット内での指揮姿の似合うシュタインでした。

日本を愛してくれたけど、日本ではオーケストラピットに入ることはなかった。

新国がもっと早く出来ていれば、サヴァリッシュ、スウィトナー、シュタイン、3人のワーグナーやシュトラウスが新国で体験できたかも・・・・

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2026年9月21日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 ヴィオッテイ指揮「7つの封印の書」

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秋の装いのサントリーホール

ヴィオッテイ新監督のシーズン演目の目玉がこの日。

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    東京交響楽団 第745回定期演奏会

  フランツ・シュミット オラトリオ「7つの封印の書」

    ヨハネ :マクシミリアン・シュミット
    主の声:ローベルト・ホル
    ソプラノ:クリスティーナ・ランツハマー
    アルト    :カトリオーナ・モリソン
    テノール:パトリック・グラール
    バス  :クレシミル・ストラジャナッツ

   ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東響交響楽団
                  東響コーラス
       合唱指揮:富平 恭平
   
       オルガン:大木 麻
理

     (2026.9.19 @サントリーホール)

1週間前にルイージとN響によるNHKホール公演あり、私は聴きに行けなかったけれどその対比はできませんが、N響は全曲を休憩なしで通しで演奏し、東響の今回は1部と2部の間に休憩あり。
2時間の通し演奏は、この作品特有の緊張感の持続と流れにおいて効果的であると思われるが同じ長さでもマーラーやワーグナーのような親しみがまだない音楽なので、聴き手には辛い一面もあるかもしれない。
映像で保有のルイージの演奏2種、ホーネック、ともに休憩なしのように見られた。

 またソリストの配置にも違いが。
N響ではヨハネと4人の歌手は指揮者の左右、主の声はホール右手のオルガンの横。オルガニストはもちろんそちらに。
東響では、ヨハネはオーケストラ右奥のテューバの横、4人の歌手はその反対側、左手のホルンの横で、さらにオルガンもそちらに。
主の声は正面オルガンの前。
ホールの特性、響きの具合とオルガンの位置関係などから考え抜かれた結果かと思いますが、N響は聴いてないからわからないけど、あの大きなホール空間ではこうするしかないし、その音響も想像ができます。

さらに今回すごいと思ったのは、東響コーラスがいつものとおりに暗譜でいどんだこと。
これまた他演との比較でなんですが、N響もふくめ、すべてNDR合唱団までもがみな譜面を手にしての合唱。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

期待に胸膨らませ、始まったホルンから始まる4つの音による印象的な音型。
ここから大好きなんですが、思い入れも施すなく淡々たる出だしだが、とても柔らかい。
その柔和な雰囲気のままに、今のヨハネのスペシャリストともいえるシュミットのリリカルな声がぴたりとはまる。
ここからもう今宵の素晴らしい演奏の結果が予見され、最後にもう一度繰り返される、4音の音型の再来が楽しみになった。 
 次いで優しい雰囲気のなかでの滋味深いゼーリヒの深い声による主の言葉も素晴らしかった。
4人のソリストたちの贅沢な布陣といったらないくらいで、彼らの聴かせどころの4重唱は文句なく素晴らしく、リリックでもシュミットと異なる清涼さあふれるグラールのテノール、ばらキシですっかりおなじみになったモリソンの深みと光沢あるアルト。
清潔な歌声、バッハなどにも相応しいソプラノのランツハマー、そして驚きのブリリアントなバスのストラジャナッツは初めて聴いたが、こちらも幅広いレパートリーを持っているようでまた聴いてみたい。
 ともかく、6人の独唱たちが高レベルであったことは、この演奏が世界にも誇れる水準となったことの要因のひとつだろう。
ヨハネやソロが歌うとき、ヴィオッテイはオーケストラを抑えめにしていて、ときに慎重すぎると感じた場面もあるが、その分、プロローグでの抒情的な場面の美さが、東響のソロの皆さんの秀逸さもあって聴き惚れてしまうのでした。

1部へのつなぎのオルガンソロは、サントリーホール全体を響きで満たしてしまい、私は奏者のいないパイプの数々を見上げながら仰ぐようにして聴きました。
封印が次々と解かれて音楽も千変万化する第1部。
この日のためにものすごく練習を重ねたであろう東響コーラスが大活躍の第2の封印開封では、オーケストラも炸裂、絶叫の度合いも興奮さそうものでしたし、それを嘆く女声コーラスとの対比もライブで見て聴くと鮮やか!
次ぐ食糧危機を嘆く女声ふたりの悲しみの二重唱の素晴らしさ、そして戦場でのふたりの男の二重唱の囁き合いに、木琴と弦が付きそう場面に息を飲み、そこにオルガンが入ってふたりは融和する、これらの場面に耳を澄ませ、音源では味わえない感動をここでも味わう。
第5の封印で、主の裁きを待つ合唱を受け、ゼーリヒのパルジファルにおけるグルネマンツのような歌唱があり、やがて地震・天変地異の大変動を迎えるが、うごめきうなりをあげる低弦、低音金管、つんざくようなトランペットに高域木管・・・
すべてが精緻に仕上げられ混濁なくクリアなのはヴィオッテイのいつもの音楽造りで、東響の完璧なアンサンブルが大いに寄与。
壮大なフーガに興奮を覚えつつ、合唱にも明快な指示を与えつつカッチリを指揮を進めるヴィオッテイの手腕にも感服だ。

休憩後の第2部の開始は再びオルガンソロ。
1部の終わりのフーガをそのままに引き継ぎ壮大な伽藍を見せてくれた。
大木さんの一音一音に共感あふれるオルガンの音色、またも天井の方を仰ぎ見るようにして聴きました。
サントルリーとミューザ、両方のオルガンを弾き分けるというのも大変なことかもしれないが、その比較もしてみたかった。。。
 ヨハネのこの作品におけるもっとも長大な歌いどころは、ワーグナーのワルキューレのウォータンの2幕の独白かのような内省的かつドラマテックなモノローグに比較できると思う。
ヴィオッテイはここでもオーケストラを抑制しつつ、歌心ある背景をしっかり作っている。
この独白的なか所は、聖書では長大な場面で、幼子の誕生や地上に降り立つ竜・サタンを物語るが、シュミットはかなり端折って書いたと思うので、音楽のリアルティや霊感はやや欠けるように感じてた。
実演でオーケストラの各部の動きを観察しながら聴くと、そのような不満は皆無で、ヴィオッテイの積極的な指揮ぶりも頼もしく感じた。
言葉の明瞭なシュミットの歌唱は疲れることなく、よく通り、何年か前のゲロンティアスでの名唱も思い出した。
4人のソロを挟みつつ、禍いを語り、描きつつ静かに進行する第7のラッパに至るまでのその間の緊迫感と合唱も加わって盛り上がりゆくさまは、ワクワクしたし、ついに壮大なフーガにここでも至り着く、この経過につぶさに立ち会いつんざくようなトランペットの一条の響きで閉じることに鳥肌。
ヨハネの事後の顛末の語りで、最後の結びが近いことの空気感が漂い、ここで主の荘厳なるバスのゼーリヒの3度目の御発声が極めて感動的。
しかしこれでは終わらないのがこの作品。
輝かしい「ハレルヤ」がついに来た。
ヴィオラ、チェロ、ヴァイオリンと上昇音階でもって高上りようなオーケストラの様相を見つつ、合唱団の7度のハレルヤ。
思いのほか淡々と沈着に進行させるヴィオッテイだったが、これがまぁ徐々に、徐々に盛り上げてゆくのがよくわかったし、最後のにはティンパニ3人も加わって輝かしさの極みを作り上げた。涙も出た。
 そのあとの原初的ともいえるグレゴリア聖歌風の男声合唱によるアカペラに神妙な場面となり、いよいよ冒頭の回帰となった。
このあたりの終結感がとてもよくできていて、神は奪い、試し、そして救われる、そんな聖書の詩句が思い浮かぶようなこの黙示録につけた音楽の展開に心より納得のできた演奏だった。
万全の布陣でのヴィオッテイ東響の「7つの封印の書」、完璧な演奏でした。

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公私ともに嫌なことや試練の連続するワタクシですが、この音楽と演奏にひととき救われました。
ありがとうと言いたいです。

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素晴らしかった6人の世界的歌手。
シュミットとゼーリヒは、この作品のスペシャリストでもあります。
オルガンの大木さんもバッハ演奏で秀でた方です、静岡で一度聴いてみたいです。
それと忘れてならない冨平さんが鍛えた合唱の素晴らしさ。
N響での新国合唱団を指揮したのも冨平さんです。

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カーテンコールで喝采に応え、分厚いスコアを掲げるヴィオッテイ。

アーノンクールのウィーンフィル盤の演奏会で合唱に参加していたといいます。

合唱作品やオペラへの適性もとてもあるヴィオッテイです。
まだ若いから、この先、どこかでまたこの大作を指揮するでしょうし、何度も指揮をして将来もまた東響で取り上げて欲しいと思います。
来シーズン以降での、声を伴ったプログラムがどうなるか、それも楽しみです。

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2026年9月18日 (金)

シュミット 7つの封印の書 シュタイン&アーノンクール

Hallelujah

以前にどこかの教会で撮影した「ハレルヤ」の十字架

「HALLELUJAH」、こうしてよく見てると、この言葉のなかに「JAH」という名詞が入っていて、それはヘブライ語で「神」。
旧約ではヤーウェとよく出てくるし、ミッション系の学校を出たのでキリスト教概論などでは、さかんにヤーウェ、ヤーフェと教え込まれたものだ。
「HALLELU」(ハレル)は、ほめたたえよという意です。

シュミットのオラトリオ「7つの封印の書」では、長いその作品の終盤のクライマックスで、この「ハレルヤ」を7回連呼する場面があり、そこがまたやたらと感動的なのです。

ただでさえあまり知られていないウィーンで活躍した作曲家フランツ・シュミット(1874~1939)の長大な声楽作品が、日本でこの9月にふたつの団体で週替わりで演奏される。
世界でも稀なことだと思うし、両楽団の話では、ほんとの奇跡的な偶然で、惑星直列にも匹敵することだとしてます。
ルイージとNHK交響楽団、ヴィオッティと東京交響楽団のふたつ。
東響の会員なのでヴィオッテイは当然として、ルイージの方も行くか迷ったが、しかしワンオペ介護の哀しさよ、連続2週の外出は厳しかった・・・

この作品は以前より音源は持っていたが、真剣な分析や聴き方をしてこなかった。
シュミット作品の音源は、このほかは交響曲とオペラ「ノートルダム」ぐらいしか持ってませんが、今回聴きこむことで、この作品が実によくできていることと、感動的な音楽であることに開眼し、同時にほかの交響曲とノートルダムも聴き進めているところです。

 フランツ・シュミット オラトリオ「7つの封印の書」

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   ヨハネ :エバーハルト・ビュヒナー
   主の声:ローベルト・ホル
   ソプラノ:ガブリエル・フォンタナ
   アルト    :マルガレーテ・ヒンターマイヤー
   テノール:クルト・アツェスベルガー
   バス  :ロベルト・ヘルツァー

 ホルスト・シュタイン指揮 ウィーン交響楽団
              ウィーン楽友協会合唱団
   オルガン:マルティン・ハーゼルベック

       (1996.5 @ムジークフェライン、ウィーン)

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         ヨハネ :クルト・シュトライト
   主の声:フランツ・ハヴァラタ
   ソプラノ:ドロテア・ロシュマン
   アルト    :マリアナ・リポヴシェク
   テノール:ヘルベルト・リッパート

 ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
              ウィーン楽友協会合唱団

   オルガン:ヘルベルト・タヘッツィ

       (2000.4 @ムジークフェライン、ウィーン)

多作家とはいえなかったシュミットは、ブラティスラヴァの出身で、ピアノとオルガンを学んだのちに、ウィーンで学び、チェリスト、ピアニスト、教育者として活躍しつつ、作曲活動も行っていた。
チェロ奏者としては、ウィーン宮廷劇場のオーケストラの奏者となり、大先輩マーラーのもとでも弾いていた。
そんな多彩な才能を持つシュミットのほぼ最後の力作が「7つの封印の書」であります。

ウィーンでの要職の数々、功なしとげた60歳のシュミットは、体調の悪化と衰えを実感し、畢生の大作とすべく「7つの封印の書」を手掛ける。
1935年頃から作曲を開始し、1937年に完成をし、初演は1938年6月にカバスタの指揮でウィーン行われた。
この初演の年の3月には、オーストリアはナチスドイツの巧みな工作により、併合されひとつの主権国家としての存在を失ってしまい、国民投票でも賛成多数という結果となった。
こうした雰囲気のなかでの初演。
武力侵攻を受けたわけでなく、国際的に禁じられていたドイツとオーストリアの合併をオーストリア内部にシンパの政党を作ったりしての工作のもと、スルスルっと一体化してしまった。
このあと、1939年にシュミットは心臓発作を起こして亡くなってしまう。
だからシュミットとナチスの関係は時系列的にもあまりむずびつかないと思う。

Bible

ヨハネ福音書はバッハだが、その福音書でなく、新約聖書の末尾に載っている「ヨハネによる黙示録」を元にした作品。
黙示録を原典にした音楽はほかには見当たらないくらい珍しい。
福音書はイエスの生涯や奇跡を描いているが、黙示録はイエス後の話としての「終末預言」的な内容。
スペクタクルであり、荒唐無稽であり、残酷でもあり、その先に救いあり・・・
何回か読んだけれど、さっぱりわからん。
ちなみに、ほぼ半世紀を経過したわたくしの「聖書」、いかに読んでないかの証左ですが、とても美しく劣化がひとつもない。
頁の1枚1枚は、薄くて繊細だけれど、とても丈夫なんですね、いまさら驚きました。

この黙示録をベースに、全体の目撃者でもあるヨハネが語り役としてソロの大半を歌い、バスが神々しい「主」を担当。
黙示録の登場人物をソプラノ、アルト、テノール、バス。
合唱は群衆であり、黙示録を語る人々でもあり、客観的な存在でもある。

4つの部分からなるが、ずっと歌があるので、ただ聴いてるだけではあまり理解が及ばないと思う。
対訳と聖書を首っ引きで今回はなんども聴いてみて、まとめてみた。
聖書の詩句・言葉を忠実に使用している場面と、まったく使わずシュミットが創作したものとがあり、その区分もしてみました。
悲劇や災害の場面では、聖書は長大で詳細な描かれ方をしてますが、そこは大幅な割愛もあります。

クリックで別窓で開きます。

プロローグ

Sieben-siegeln1

第1部

Sieben-siegeln2

第2部・エピローグ

Sieben-siegeln3

イメージとして思い起こしたエルガーのゲロンティアスは1900年、ブリテン戦争レクイエムは1958年、グレの歌は1911年。
後世の私のような聴き手が、単に結び付けてるだけですが。
ツェムリンスキー、シェーンベルク、シュレーカーらと同じ世代でありながら、時代を考えると保守的な作風でもあったシュミット。
オーケストラはよく鳴るし、くすんだ響きも渋いとこあるし、輝かしさもあるのでオーケストラ好きでも満足できる作品。
またオペラ好きからしても、テノールの活躍はうれしいし、歌手にとってもやりがいあふれる作品だろう。
出番は少ないが、バスにはグルネマンツ的な深みが必要だし、ほかのソロたちももっと見せ場は欲しかったがマタイ的な感じでもある。
そして主役は合唱で、ある意味、語り部として物語りを牽引しつつ、人間そのものを歌う。
緻密さと明瞭な言葉、厚みも必須の合唱。

手持ちのCDは20年前に買ったシュタイン盤とヴィオッテイが東響でやることを知った昨年購入のアーノンクール盤。
ともにウィーンの演奏。
ウィーン響はずっとこの作品を演奏し続けていて、シュタインとの録音が残されたのは幸いだ。
アーノンクールのような劇性や踏込みの深さはないけれど、安定感と日常間がともにある万全の演奏がシュタイン。
オペラ的な立体感がありつつソロが突出しないような慎ましい配慮もあり、各所での盛り上がりに欠けていないシュタインの指揮。
アーノンクールは合唱の扱いが非常にうまく、その合唱もアーノンクールの劇的な指揮にピタリと着いてゆく。
ウィーン響もウィーンフィルもともにまろやかで、強音もうるさくなく心地よい。
歌手ではリリカルなビュヒナーと深みあるホルを配したシュタインの方が好きかな。

録音音源では、メッツマッハーとホーネック盤。
また映像ではデンマークとダラスでのルイージも観ました。
ルイージさん、どんだけシュミットが好きなんだろ。

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2026年9月 3日 (木)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」オーケストラルアドベンチャー ペルトコスキ指揮

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秦野市内を流れる水無川の上流にある「風の吊り橋」。

自然を活かした大きな公園となっていて、丹沢山脈の麓にあり、ともかく気持ちがいいので始終行ってます。

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もう盛りは過ぎたけれど向日葵畑もあり、行く夏を惜しむこともできましたね。

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 ワーグナー 楽劇「ニーベルングの指環」

     オーケストラルアドベンチャー
       ヘンク・フリーヘル編

  タルモ・ペルトコスキ指揮 香港フィルハーモニー管弦楽団

        (2025.6.27,28 香港文化センター)

2000年生れの注目の指揮者、ペルトコスキが2027年のバイロイトで「ローエングリン」を指揮して、同劇場最年少記録を更新するというので、そのペルトコスキのワーグナーを聴いてみた。
フィンランド生まれ(母はフィリピン系)で、あたりまえのようにヨルマ・パヌラの指導を受けており、その門下生であるサカリ・オラモに師事している。
若いとうえば、同じフィンランド人のクラウス・マケラであったが、彼よりも4歳若いのがペルトコスキ。
ラトビア国立響、トゥールーズ・キャピトル管、香港フィルの3つのオーケストラの音楽監督に就任しており、マケラに負けず劣らずの躍進ぶり。
マケラがメジャーオケを総なめにしたのに対し、ペルトコスキ君はバルト3国のオケ、フランス、香港となかなかに渋いところを押さえた感じ。
毛色の違う国のオーケストラで、レパートリーを磨きつつ、オケとともに歩み成長するには、いいポストだとも思う。

マケラはデッカとの契約だが、コンセルトヘボウとシカゴは自主制作レーベルを持っているので、この先デッカ録音はどうなるだろうか。
DGはペルトコスキをどのように売り出してゆくか、それもまた楽しみではあるが、ドツカンマーオケとのモーツァルトに続いて香港フィルワーグナーというところが実に面白い。
しかもLPレコードとネットでの音源配信での発売という名門DGらしからぬ新しい手口。
ダウンロードしてPCオーディオで楽しみましたよ。

これがまあ、かなりの高音質で本格装置で大音量で聴いてみたくなる音源なのです。
リングのハイライトといえば、全部聴けないときのスペクタキュラーな存在として、私のような世代には「ショルティのリング」の抜粋で構成した「ワーグナー・デラックス」で、CD時代初期にはオーケストラだけで「ニュー・ワーグナーデラックス」が長らくの愛聴盤だった。
その後のフリーヘル編はデ・ワールト、あとはテラークのマゼール編で楽しんだ。
もちろんコンサートでもワールト、シュナイダー、ヴァイグレ、ノットなどたくさん聴いてきましたが、いずれにしても私には「歌のないリング」は常にどこか物足りなく脳内で歌唱再生したりして想像力を働かせて聴くというのが毎度のこと。

今回のペルトコスキ・香港フィル盤は、背景に歌を意識させることなく、オーケストラ作品としての演奏に徹しているかのよう。
1時間、スムースな音楽の流れに違和感なく乗っているだけで終わってしまった。
もう一度聴いてみたが、そうあまりにウマいし、なんらの引っ掛かりもないし、すべてのか所がそれなりにあるべくしてちゃんと収まってるし、整っている。
溜めどころ、力の入るところ、情熱的なところ、崇高な場面、感動的な場面、いずれも見事にちゃんと演奏されてる。
模範解答のような「リング」オケ版。
これでいいけど、私にはそれじゃ面白くないとなるんです。
要は、もっとハメを外すくらいにガンガンやるとか、突っ走るとか、重厚長大にやるとか、ハイスピードでやるとか、まったくやる気なさそうにやるとか、ともかく楽しみ与えてくれる「味付け」が欲しかった。

香港フィルはめちゃくちゃ巧い。
デ・ワールトとズヴェーデンでワーグナーやシュトラウス、マーラーを叩きこまれたオーケストラ。
メンバーも白人系の人も多いようだが、その音は案外と野放図なところがあり、大げさが過ぎて感じる奏法や音色やなどもあった。
オケの特性か、指揮者の指示なのか、このオケをちゃんと聴くのは初めてなのでわかりません。
一国二制度で自由が保たれていた香港がこの先どうなっていくか、このオーケストラの先行きもペルトコスキの進化とともに気になるところです。

少年時代からのワーグナー好きが、ワーグナー指揮者になる。
まさにペルトコスキはそういう道を早くも歩んでます。
フィンランドとラトヴィアですでに「リング」を22,3歳で指揮していて、オランダ人、トリスタン、パルジファルも指揮しているという強者。
そうした機会が与えられること自体がその実力のあらわれでしょう。
その様子を確認したかったが、今年2月のオランダオペラでのトリスタンの放送を逃したのは大きかった。
来夏のバイロイトデビューのローエングリンに期待です。

バイロイトの指揮者としての最年少記録は、マゼールの30歳。
その次が、シッパースの33歳、サヴァリッシュ34歳、マーク・エルダー34歳、ラニクルズ37歳、パッパーノとシノーポリの39歳。
ペルトコスキ、ともかく若い。
年齢云々でその演奏を断じるのは、もうそんな時代じゃないのはわかってるけど。
実力をともないつつ、こうした若さゆえの注目のされ具合が先行し、地道に活動している中堅の指揮者に日が当たらず、どんどん埋もれてしまうんじゃないかと懸念します。

Togawa-03

朝晩に秋の予感が。

それにしても雨が多いのが恨めしいし、災害に直結しないように願うばかり。

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2026年8月29日 (土)

ニーベルングの指環 バイロイト2026も勝手に総括

Katte-soukatsu-2026

7月24日から8月26日まで、今年も話題を振りまいたバイロイト音楽祭。

バイロイト劇場創設から150年の今年は、第9(ティーレマン指揮)で始まり、フリーマン教授の講演「沈黙の声」でビシュコフのジークフリート牧歌ほか、「リエンツィ」(シュトッツマン)、「ニーベルングの指環」(ティーレマン)、「さまよえるオランダ人」(リニフ)、「パルジファル」(カサド)、キャサリン・フォスターの歌うワーグナー作品(辺境伯劇場)、新作のパロディ風オペラ「ブリュンヒルデは燃える」など多彩なプログラム。

頼りにしているバイエルン放送のライブは、第9、リエンツィ、リングのみで、オランダ人とパルジファルは放送されなかったのが残念。
数年前まで、すべての演目を放送してくれていたのに、年末のNHKFMもちょっと寂しいことになります。

ということで、放送音源はすべて聴いたのでリングを中心に例年どおり、身勝手極まりない総括なんかをしてしまいます。
「現地に行ったわけじゃない、行ったこともない、きっとこの先も行くことはないだろうバイロイト」ですがね。

「第9」と「リエンツィ」については、前回に書きましたが、今回は「リング」となるわけですが、特殊すぎた今年のリングは音でしか確認できず、その舞台の様子はさっぱりわかりません。

Ring2026

今年のリングのパンフレットは音楽祭のサイトからダウンロードできます。

下方にナゾの一文「RING 10010110 - VON MYTHOS ZUM CODE」

1と0の羅列はデジタルでの2進法で「150」のことだそうで、次のドイツ語は、「神話からコード」。
コードは、AIへの指示や命令とでもいうべきもの。

これだけでもう嫌な感じですがね、今年の記念すべきリングは、「演出」が特定の演出家にゆだねられることはなく、「リング」の4部作の音楽に対し視覚的な映像や画像を投影させるという手法だった。
その映像的なスクリーンの前と後ろで、歌手たちは演出による動作はなく、無味乾燥な衣装をまとって歌うだけ。
演出家的な存在は、キュレーター的な管理者としてマルクス・ロブスという舞台芸術研究家が担当。

舞台装置はなく、キュレーターが素材や指示を与えたAIが作り出す映像や画像が音楽の流れに沿って千変万化しつつイメージを作り上げる、という仕組み。
紗幕だけが装置といえる。
新作の「リエンツィ」が相当に手の込んだ演出や装置だったので、まさにコストカットが巧みになされたともいえるだろう。

海外評でも詳しくは報じられておらず、どんな映像が流れたかは想像するしかないが、ともかくすぐに、つぎつぎと切り替わる映像や光で歌手たちの声やオケの音にゆったりと浸れる状況ではなかったとか。
その映像は、音楽祭のサイトで一部画像公開されているが、過去のリングの上演舞台の画像や、ワーグナー家の人々などで、ヴィーラントの新バイロイト様式の2度の演出のもの、シェローの革命的な演出、クプファーの社会性に富んだ演出、カストロフの取り止めのない演出、これらを確認できた。

以下、音楽祭HPからの引用

「150年もの間、バイロイトでは「ニーベルングの指環」が絶えず再解釈され、再検討され、再演されてきた。
しかし、舞台そのものが思考を始めたらどうなるのだろうか?

バイロイト音楽祭150周年を記念して、観客は先見の明に満ちた実験的な試みを期待できるだろう。
それは、リヒャルト・ワーグナーの楽劇を上演するだけでなく、絶えず変化し、拡大し、再構成される視覚的なレイヤーを通して、その受容史をその中心に据える「プロダクション」である。音楽祭史上初めて、人工知能が舞台に登場する。

登場人物としてではなく、イメージを創造する力として参加する。

存在感と投影の間

歌手たちは、静かで、まるで彫刻のような存在感で、パフォーマンスの中心に立つ。
彼らの身体は、光、質感、歴史、そして連想が織りなす、視覚的に鮮やかな宇宙の中心となる。
次々と現れ、変化し、融合していく映像の中で、舞台装置以上のものが映し出される。
それは150年にわたる言説の反映なのだ。それらを生成するAIは、無数の画像、音声、文書、そしてパフォーマンスから学習してきた。
映し出されるのは単一の「指輪」ではなく、多くの指輪だ。国民的神話、社会政治的激動、芸術、爆発的な力、ロマンチックなユートピア、解体された影。
イメージや連想は固定的なものではないため、すべてのパフォーマンスは唯一無二のものとなる。」引用終わり

これを読んで、なるほどとは思えず、ぜったいうまくいかないだろうな・・・としか思えなかった。
最初だから、前提条件を与えるのは人間、あとは「AI」がみんな考えてくれる。
「AI」は自分で学習し、進化していくから。この先どんな風に考え次のものを作りだしていくか、それはそれで楽しみではあるが・・・・
このプロダクションに接したバイロイトの聴衆の反応は極めて厳しく、演奏陣にはブラボーが、キュレーター諸氏には盛大なブーイングが飛んだ。
ティーレマンも一緒に出たときにも壮大なブーで、さすがのティーレマンも戸惑ったのだそうな。
3度の上演サイクルだったので、初回を経て、AIに対する修正指導もなされたのだそうだ。
これっていいのかね?
最初に観た人は損したみたいじゃんね。


もう「リングの演出やって」とAIさまにひと言でいいんじゃね?

というわけには今後とも絶対にいかないし、やってはダメと思う。

明らかに「AI」は、人間社会を、仕事のあり方を中心に変えつつあるし、この先もっと劇的に変えてしまうだろう。
資格は肩書だけのものとなり、人間の手作業でしかできない技術的な手仕事や芸術の創作的なもの、人間の情でしか判断できない分野以外は、「AI」が取って変わることが起きうる。
巷間でいわれるとおり、ホワイトワーカーの仕事はなくなり1割ぐらいで済むようになってしまう。
演出家の存在も危機に瀕するのか・・・・

それではいけない。

文化・芸術の創造・再現の担い手は、ともかく人間であるべきだ。

AIも組成の当初は人間が絡む。
その最初がいまのAIの2大強国である、C国かUSAかで、とんでもないくらいに違いが出ると思う。
「AIシンギュラリティ」(人間を追い越すとき・・・)が到来してしまった場合(それは避けたいが)、そのAIがどちら側のものなのか、それによって人類の命運すら左右するのではないかと懸念もする。

演出に社会性を持ち込む昨今の風潮だから、AI任せにすることの将来の危険性を感じますね。
本来の実験劇場たる「バイロイト」が「AI」に取り組んだ、その前向きなる姿勢は多いに評価すべきだが、「オペラとAI」はよくよく慎重に対処すべきと考えます。
オペラは人間の編み出した、最高の総合芸術ですからね。

いまこそ、新バイロイトの時期に立ち戻り、簡潔でシンプルな舞台と演出で、ワーグナーの音楽にすべてを語らせ任せるような、そんな再現を観てみたい。
時代錯誤でしょうか・・・・

   ワーグナー 楽劇 四部作「ニーベルングの指環」
  
      クリスティアン・ティーレマン指揮

        バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団

  序夜「ラインの黄金」

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   ウォータン:ミヒャエル・フォレ 
    ドンナー:アレグザンダー・グラサウアー
    フロー :シャボンガ・マキンゴ  
        ローゲ:クラウス・フローリアン・フォークト
        フリッカ:アンナ・キスユジット
        フライア:エヴァエリン・ノヴァク
        エルダ :クリスタ・マイヤー   
        ファゾルト:ミカ・カレス
        ファフナー:ペーター・ローゼ   
        アルベリヒ:ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー
        ミーメ :ゲルハルト・シーゲル   
        ウォークリンデ:カタリーナ・コンラディ 
        ウェルグンデ:ナタリア・スクリッカ 
       フロースヒルデ:マリー・ヘンリエッテ・ラインホルト

                 (2026.7.27)


     第一夜「ワルキューレ」

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   ジークムント:クラウス・フローリアン・フォークト 
   ジークリンデ:エルザ・フォン・デン・フィーヴァ
   フンディンク:ミカ・カレス    
   ウォータン:ミヒャエル・フォレ

   フリッカ:アンナ・キスユジット 
   ブリュンヒルデ:カミラ・ニールント
   その他ワルキューレのみなさん

                (2026.7.28)

  第二夜「ジークフリート」

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   ジークフリート:クラウス・フローリアン・フォークト 
   ミーメ:ゲルハルト・シーゲル
   さすらい人:ミヒャエル・フォレ 
   アルベリヒ:ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー
   ファフナー:ピーター・ローゼ  
   エルダ:クリスタ・アイヤー
   ブリュンヒルデ:カミラ・ニールント      
   森の小鳥:ヴィクトリア・ランデム

                             (2026.7.30)

  第三夜「神々の黄昏」

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   ジークフリート:クラウス・フローリアン・フォークト  
   ブリュンヒルデ:カミラ・ニールント
   グンター:ミハエル・クップファー・ラデツキー      
   ハーゲン:ミカ・カレス
   アルベリヒ:ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー 
   グルトルーネ:マクダレナ・ヒンタードブラー       
   ワルトラウテ:クリスタ
・マイヤー     
   第1のノルン:アンナ・キスユジット      
   第2のノルン:アレクサンドラ・ロニス 
   第3のノルン:マクダレナ・ヒンタードブラー   
   ウォークリンデ:カタリーナ・コンラディ 
   ウエルグンデ:ナタラリア・スクリッカ  
   フロースヒルデ:マリー・ヘンリエッテ・ラインホルト

                      (2026.8.1)

4部作を通じクラウス・フローリアン・フォークトが出演。
ローゲ→ジークムント→ジークフリートを歌った。
この3役をバイロイトで歌ったのはヴィントガッセン、イェルザレムについで3人目というフォークトの今回の快挙。
フォークトのローゲは初めて聴いたけれど、なかなかサマになっているが、生真面目な歌い口とマイルドな声質がローゲのイメージとはちょっと合わないような気もしました。
抜けめない油断ならないローゲというよりは、優しくて、いいつでも助けてくれるお兄さんみたいな感じか(笑)
ここ数年で歌いこんできたフォークトのジークムントとジークフリート、ジークムントの悲劇的な歌い口、その息子の楽天的な存在から愛を知り、死に直面するまでの変化をうまく歌いこんでいたと思う。
シャガーとフォークトに頼らずとも、次のジークフリートの登場も数年後のリングには期待したい。
 いまがピーク時にあると思われるフォレのウォータン、巧みな歌い口は、若々しいウォータンとして意気揚々とした序幕に相応しい存在だったし、なめらかな声でありつつワルキューレでの厳しい歌と、機知に富んださすらい人、3つのウォータンの歌いわけも楽しい聴きものだった。
キスユジットのこれも若々しいフリッカもよき発見だった。
 超ベテランのシーゲルのミーメは懐かしいと同時にまだまだ健在と感じられる優れた歌唱。
シーゲルはなかなか器用な歌手で、ヘルデンの領域までカバーできる力強さもあり、トリスタンも歌えるくらいなので、ずっと活躍を願いたい存在だ。
 ニールントのブリュンヒルデは、チューリヒの頃と比べると安定感が増し、その素直で美しい高音域をうまく生かしていてリリックでユニークなブリュンヒルデとなりつつあるように思えた。
20年前に新国で聴いたマルシャリンでの華奢で、声もスマートだった頃を思うと同じ歌手とは思えないです。
 あと目立ったのはミカ・カレスの大活躍でグロイスベックが出なくなった今、バイロイトのバスをツェッペンフェルトとともに牽引する歌手となった。
強烈な声ではないが黒光りするような魅力ある声質でハーゲンはカレスなくしては成り立たないくらいの当たり役となった。
来年はグルネマンツを歌うそうだ。

4つの画像は、公開されたものからチョイスしましたが、それにしてもこれだけ見ると不思議な画像で、こんなのを次々に見せられたら観客は音楽どころじゃないと思いますね。
劇の進行と関係ないものと、炎や水、リンゴなどリングのモティーフに即したものが、まぜこぜになっていて、AIさんはどう思ってこれを組成したのか、いちいち説明してもらわないといけない、そんなレベルのものだったと推定してます。

ティーレマンの指揮の安定ぶりは毎度の安心感をもたらすものですが、手持ちの音源でみるとテンポ感は速く感じたがリスとにしてみたら、各楽劇でムラがあった。
紗幕越しの歌手たちに演技がないから、タメや思いをつぎ込むのも控えめになったのか、それともティーレマンの変化なのか・・・・

Thielemann-ring-time

ベルリンでバレンボイムに替わって指揮をしたリンデンオーパーでのリングが明らかに長尺。
チェルニアコフ演出の微に入り細に入りと、こだわりある舞台に即したのだろうか、こうして比較するとバイロイトでの演奏時間がほぼ均一であることが面白い。

ともかく不可思議かつ異例だらけの2026年のリングなのでした。
資金的なことを思えば、AIには1951年の新バイロイトのヴィーラント演出を再現させて、先に書いたように
簡素な舞台装置と演技で上演してもよかったのではないか。
それなら映像作品としての記録にもなるだろうし、新バイロイトの革新の「リボーン」にもなったのでは・・・・

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Grigorian-parsifal

放送なしの「オランダ人」と「パルジファル」は音楽面では安定的な高い評価を得たようだ。
リニフの指揮で5年目のチェルニアコフ演出のオランダ人は、グリゴリアンが帰ってきて、ザルツブルクでのカルメンと忙しい掛け持ち。
カサドの指揮が、きっとまたよかったろうと想像するしかないジェイ・シャイブ演出のパルジファルは、4年目の今年で終了。
まったく好きでない演出だったので安心した。

2027年の予定

2作づつ新作を投入するとの予告どおりに、「ローエングリン」と「パルジファル」が新演出。
イタリア人の女性演出家イラリア・ランツィーノによる「ローエングリン」は、26歳のペルトコスキが早くも登場。
マルチなテノール、スパイアーズがタイトルロール、注目のエルザ・ドライジヒがエルザ、これもまた注目のメゾ、ユディット・クタシのオルトルートなど、まことに目が離せない上演となりそう。
マゼールの30歳での最年少バイロイト登場記録を塗り替えるペルトコスキが先物買いに終わるか本物か・・・
演出は恐ろしそうな感じが予見。

「パルジファル」は急速に欧米で名を上げてるエルサン・モンタグで、今年のザルツブルクで舞台を火星に置き換えたアリアドネをやったばかりの演出家。
怖いもの見たさで期待するが、指揮にティーレマンを配し安全弁を確保してる。
パルジファルはベチャワと次世代の期待のヘルデン、アメリカのソコロフスキのダブル。

あとはヒット作クラッツァーの「タンホイザー」をグッガイスが指揮し、ホロウェイがヴェーヌス。
明るくサイケな「マイスタージンガー」が戻ってきて、シモーネ・ヤングが指揮。

なんだか記念の年2026年より面白そうな来年のバイロイトなのでした。

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