2025年12月 4日 (木)

群馬交響楽団創立80周年 マーラー 千人の交響曲

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前から訪問してみたかった高崎芸術劇場。
駅からベストリアンデッキでつながり5分の好立地。
木質の響きのする音の溶け合いの実によいホールだと思いました。

群馬交響楽団の創立80周年を記念する演奏会。

8つながりはあるにしても、祝祭的な演目としては、いまやダントツの人気曲「千人の交響曲」。
近年、演奏機会が増えてますが、私はこれが5度目です。
初回は1985年のコシュラーと都響の創立20周年記念演奏会で、いまだに鮮明に覚えてますが、まさに1000人が文化会館のステージにギッシリ立ち並びました。

あれから40年。
自分も歳をとったし、その間のマーラーの音楽の受容は完全浸透し、日本のどこかで日々演奏されるようになりました。
ノット&東響の第9の残影がまだ耳に残るなか、高崎に向かいました。

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        群馬交響楽団 80周年記念特別演奏会

 菅野 祐悟 「祝祭」 (群響委嘱 世界初演)

 マーラー 交響曲第8番 変ホ長調 「千人の交響曲」

 S、罪深き女:小林 沙羅      S、贖罪の女:森谷 真理
 S、栄光の聖母:森野 美咲     Ms、サマリアの女:富岡 明子
 Ms、エジプトのマリア:十合 翔子   T、マリア崇拝の博士:宮里 直樹
 Br、法悦の神父:青山 貴       Bs、瞑想の神父:久保 和範

          飯森 範親 指揮 群馬交響楽団
             オーケストラ・アンサンブル金沢(共演)
              群馬交響楽団合唱団
              藤岡市立小野小学校 児童合唱団
        合唱指揮:阿部 純

        コンサートマスター:伊藤 文乃
            
            (2025.11.30 @高崎芸術劇場)

ガラス張りのロビーの遠景には赤城山(たぶん)などの山々が見渡せる、雰囲気豊かなホールに着いたときは、たくさんの花籠と多くの市民・県民の皆様で賑わってました。

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最初に演奏されたのは10分ほどの実に美しく、雰囲気豊かな作品。
作者の菅野氏は、アニメ、大河、シネマ、CM、さらには交響曲や協奏曲なども作曲しているマルチな方で、恥ずかしながら初めて聴くお名前とその作品ということになりました。
 プログラムにはご本人の思いと解説が綴られておりましたが、私の受けた印象はご本人の意図の通りに、祝祭という言葉の持つ晴れやかさはなく、何かが生まれさざめきにつながる様子や、森のささやき、遠くに響く祭りの様子など、どこかわれわれ日本人の心にある懐かしい心象風景のように感じました。
ステキな音楽、もう一度聴いてみたいな。

20分の休憩後、合唱の皆さんが続々と入場し、ホールの空気感も期待とワクワク感が高まります。
そして飯森さんの指揮棒が振り下ろされ、やや控えめなオルガンに続いて合唱が「Ve-ni」と第一声を上げる!
雑味のない大音響が見事に決まった。
定評ある7人のソロ歌手たちは、指揮者の前で歌い、合唱とオーケストラに埋もれることなく、見事な歌唱。
しかし、聴き進むうちに、合唱の声が団子状態に感じられ言葉も明瞭度不足。
でも、そのようなことはもういいや、と思い、この晴れやかな千人交響曲の1部を気持ちよく聴いた。
ひとつ言いえば、合唱は人数をもう少し刈り込んでしまってもよかったのかと。
賑々しさが近時やや苦手となってきた1部ですが、でも実演での大音響を心置きなく楽しめるのはよいこと。

この記念碑的な膨大な作品に果敢に挑み、加えて楽団の創立の周年記念を祝うと言うモニュメンタルな場に対し、このステージに立つすべての人、とくに合唱と少年少女たちは練習と努力を重ねてきたであろう。
こうした場に立てることへのうらやましさ、そして音楽行為への思いの清さ、私は最大限に評価したいと思います。
なんたって、ぐうたらな自分には絶対に出来ないんですから。

千人交響曲の核心はファウストに素材を求めた3つの部に細分される第2部にあり、いつも感動しっぱなしとなる。
緩徐楽章的なアダージョの精妙で神秘的な音楽は多くの人がステージに乗っているにもかかわらず、低弦にピチカート、荒涼とした雰囲気の木管など、実によく分離して耳に届いた。
このあたりがこのホールの音の良さ。
静けさの中でささやくように歌う合唱もここでは格段によかった。
そのあとホルンに導かれ、(そのホルンは、この日はすべてにわたって素晴らしくブリリアントだった)、感極まったバリトン独唱が入ってくるが、ここでも私は鳥肌。
この法悦の神父と深奥なる神父のふたりの歌が大好きなんです。
いつも聴いてる青山さんの気合の入った歌は素晴らしかったが、ベテランの久保さんはちょっと厳しかった。
これまでのライブ経験でも、この歌は激するオケに埋没してしまうケースが高かった。
飯森さんは、オケを抑える指揮ぶりをしたものの、難しいものである。
久保さんは、若杉弘の指揮した「ダナエの愛」でのユピテル役を聴いて以来、幾度となく接してきたバスバリトンですし、藤沢の千人では、法悦の神父の方を歌っていましたことも懐かしい思い出です。

第2の場面、天上から舞い降りるような無垢の児童合唱、女声合唱も素敵だった。
富岡さんの深みのあるメゾに次いで、
主役ともいうべきテノールの宮里さんがすくっと立ち上がり歌い始めると、恍惚としつつもハリのある声による高域も見事に決まり引き締まった。
さらに進んで、オルガンとハープにのったヴァイオリンの極めて美しい旋律が、とても繊細に優しく演奏され、ここで私は涙ぐんだ。
泣けた!
マーラーの8番のいいところはこうしたところにあり、巨大なサウンドばかりじゃないんだ。
飯森&群響は、こうした静かな場所やちょっとしたチェレスタやピアノを含んだ近未来的な音のシーンを丁寧に優しく演奏していて際立っていたと思う。

小林さん、富岡さん、十合さんと、S→MS→MSと続いてゆくそれぞれの歌唱、声の違いを聴き分け楽しめたのも目視できるライブならでは。
罪を重ねた聖書上の女性たち3人の重唱では、その抜群のハーモニー、声の溶け合いも堪能、木管も愉悦に満ちてました。
そこにヒロインともいえるグレートヒェンの森谷さんが歌い継ぎ、児童合唱を交え透明感を増しながら音楽は進んでゆくし、マンドリンも晴朗な雰囲気。
マンドリンはマーラーでは欠かせない青山さんのお姿をしっかり確認してます。
そして左手奥に聖母の清らかな歌、森野さん、最高にステキだった!

テノールのマリアを讃える学者が「Blicket auf」と入ってくるが、ほかにも記したが、ここはワーグナーのオペラのヘルデン役のソロにも匹敵するくらいに好きだし夢中になってしまう歌で、宮里さんヒロイックになりすぎずに抒情味も出しつつ素晴らしかった。
ジワジワと来るその後の展開。
今回、超集中して聴いていたが、のちのシュレーカーやツェムリンスキー、コルンゴルトにも通じる美的かつヒンヤリしたものを感じ取り、鳥肌物で感動し、そして「神秘の合唱」を迎えた。
もうワナワナしてきて、目頭が熱くなる。
ふたりのソプラノがお互いに聴き合いながら、高まりゆく雰囲気に花を添えるような歌声を聴かせ、ついに全ソロ、全合唱による渾身のフィナーレとなり、バンダも加わり輝かしく、眩しい、壮麗なるラストとなったのでした。

もちろんブラボー一声献上!

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わかっちゃいたけど、めちゃくちゃ感動したし、気分の高揚することいちじるしい。
マーラーのこの壮大な音楽は、7番までの作品と違った、ある意味客観性のある音楽なのではないかと思った。
没頭感でなく、曲と必死に格闘しながらも、存外に冷静にコントロールできていた演奏ではなかったかと。
その意味で、熱量と鋭い切り込み具合はやや弱めだったかもしれない。

しかし、なによりも群響の記念碑的な演奏会にこのオーケストラを愛する地元のみなさまとともに立ち会えたことが、なによりも嬉しくありがたかった。

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群響のプログラムは興味深いものばかりで、また聴きに行きたいものです。

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高崎は江戸っ子だった伯父が、仕事のために家族とともに移住し、長く住んだ町。
わたしも何度も訪問しましたが、無類の猫好きだったので、家にはたくさんの猫がいました。
仕事を手伝っていた従姉が急逝し、そのあとすぐに伯父も亡くなり、伯母も数年前に去ってしまいました。
いまでは観音様の麓にあるお墓にお詣りをすることでしか高崎には来なくなりました。

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劇場とは反対側の駅前ではステキなイルミネーション。

若い人たちがたくさん、活気ある町ですね。

ほんとは食事でもして帰りたかったけれど、そうもいかず、取り急ぎ登利平の鳥めし弁当を買って帰りました。

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2025年11月24日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮 マーラー 第9

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18時開演の演奏会、家を出るときはまだ明るいけれど、17時前にはもう暗い。

街はイルミネーションが灯り、クリスマスシーズンの到来を告げてます。

そんななか、ジョナサン・ノット音楽監督最後の東響定期演奏会でした。

万感迫る思いをいだきつつホールの前に立つわたくし。

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   東京交響楽団 第736回 定期演奏会

       武満 徹  セレモニアル~秋の頌歌

       笙:宮田 まゆみ

  マーラー  交響曲第9番 ニ長調

    ジョナサン・ノット指揮  東京交響楽団

      コンサートマスター:小林 壱成

        (2025.11.22 @サントリーホール)

2014年4月、ジョナサン・ノットが東京交響楽団の音楽監督となったときの就任記念演奏会のプログラムが、今宵の2曲。
音楽監督の任期最後のシーズンの自身の最終定期演奏会のプログラムにも選ばれ、終わりは始まりともいえる見事な円環の完結をなす生涯忘れえぬほどの感銘をもたらす一夜となったのです。

武満作品のセレモニアルは、案外と多く聴いていて、98年と07年にプレヴィンとN響、そして06年にノットとバンベルク響で聴いている。
もちろん、それらのときもすべて宮田まゆみさんの笙でした。
バンベルクのときのプログラムは、セレモニアルに次いで「未完成」で遅めに30分かけた演奏。
後半はベートーヴェン7番で爆発的な演奏、ということで静と動を際立たせたプログラムであり演奏でったと記憶する(ブログあり)
アンコールがリゲティのルーマニア協奏曲という、これまたノットらしい刺激的なコンサートだった。

典礼楽とも呼ぶべき静謐な空間の支配する音楽、セレモニアル。
笙はオーケストラと並ばずに、P席の最上段で演奏し、左右・後方と三方にフルートとオーボエを対にしたペアを配置。
まさに、こだまのように音がどこからともなく響き合う様は空間の音楽でもあり、それはまさに日本のいま去り行く秋を思わせるもの。
宮田さんを聴く4度目、日本人だからわかるわれわれ体内にある音、それが10分間だけれども精妙極まりないノットと東響の響きとともに、とても心地よく聴いたのです。

休憩を入れずに、楽員の補充の間を置いて、ほどなくマーラー。

この日のために、「大地の歌」を何度も聴き、そのあと手持ちの「第9」も連日聴いてきた。
いままさに血肉と化したこの大作、いよいよ始まると思うと緊張でがんじがらめとなり、どこもかしこも聴き知ったように聴きつつも、最初から最後まで一音も逃すまいと体もこわばりカチンコチンだった。

ノットが事前に曲目解説を動画にて行っていて、そこで語っていた「あらゆる感情が表出、共有されています」。
まさにその言葉通り、この第9には、自身のこれまでの作品やほかの偉大な作品などからの引用もあったりで、それらがそうとわからなように、緻密なモザイクのように組み込まれ編まれているが、ノットの演奏はそれらを意識して聴くことで、それらがとても意味を持って奏されているように感じる。
実際に聴いたあとに、ネット配信されたミューザの演奏も何度も聴くことでそのように思うようになった。
ただ指揮者の思いや狙いがオーケストラにさらに如実に反映されるまで、あと何度かやったらと、。。願わぬ思いも抱いたりもしている。

 穏やかに始まる1楽章から美しさの極みだった。
ゆったりめのテンポで終始した1楽章は、その後のふたつの楽章との対比のうえでも効果的。
事前に何度も聴きまくっていたので、序奏から即刻うるうる、第2ヴァイオリンの第1主題でもはや涙ぐむという始末。
しかし、その後はもうそんな緩徐移入はなく、冷静にこの壮麗ともとれる1楽章を聴くことができた。
武満の世界から続く虚空感はここにも感じ、ウェーベルンの音楽も夢想することができた。
終楽章とともに、沈着に聴くことが望ましいと感じた次第だ。

レントラーの2楽章、ノット監督のリズム感の良さの光る演奏で揺れ動くグロテスク感も巧みに表出されていて、この奇矯なる舞踏の音楽をかくも面白く、そして眼前で展開する奏者と指揮姿の視覚的な要素も加わりともかく楽しんだ楽章。

快速で飛ばしまくった3楽章ロンド・ブルレスケの疾走感は、まさにノットならではで、東響もピタリと一糸乱れずについて行く。
飛ばしながらもあらゆるものがポンポン出てくるこの楽章をここまで明確に捉えることが出来たのも目視できるライブゆえかもしれないが、指揮者とオケの緊密さゆえだろう。
中間部のニ長調の抒情と平安のか所は、それはもう美しくも神々しく感じられたが、それは終末でないというこの演奏の在り方の先駆けだったのだろうか。
そんなこんなで熱狂と挑戦ともいえる楽章の終わりはアクセル全開、オケも聴衆も夢中だった。

ほんの少しの間で、サクっと始めたアダージョ4楽章。
ここへきて、もうダメだ、ヴァイオリンの主題が万感の調べを奏するとき涙腺が決壊しそうだった。
ここでもともかく美しく、音楽は慟哭することなく沈着に演奏することで、その持つ意味合いが自然と浮かび上がってくるという、そんな感じだった。
弦楽器主体に何度も繰り返される変奏曲的な仕組みが、その繰り返しとともに知らないうちに、さりげない別れへと誘われてゆく、そんな儚い旅路をこの楽章を通じて、そしてひるがえって1楽章の冒頭に遡るかのように始まりをも期待させるような演奏。
122小節目の弦による強く引き伸ばされるシーン、ノット監督のうなり声もマックスに。
その後の「控えめ・・・」という書き込みの通りに、そこから始まる静寂の描き方、会場も緊張が張り詰め、だれしも身じろぎできず固唾をのむ。
自分の育った家から見える夕焼けシーンと沈みゆく太陽のわずかな光、それが消えてゆく残像をいつも思いながら聴く。
そんな思いがピタリとあてはまる幽玄なるラストシーンだった。

指揮者も奏者もみんな止まった、聴衆も動けない、時間も停止したように感じられ、もうこのままでいいやとも思った。

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いくつかの瑕疵もあったものの、そんなことはもうどうでもいい。
東響のこの演奏にかける感情が随所に見て取れ、指揮者を見る眼差しの真剣さと刹那感も感じ取れた。
首席奏者たちのあまりに素晴らしいソロの数々は、ここではいちいち触れません。
まだ完成形でない、この先ももしかしたらもっと違う世界があるとも思わせる指揮者とオーケストラの関係。
それが別れの美しい姿ではないかとも思った。

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マーラーの第9への畏怖の思いを抱いて半世紀。
1970年のバーンスタインとニューヨークフィルの来日公演でこの作品が取り上げられ、真夏での真っ白いタキシード姿での演奏シーンをレコ芸で見てから、そして吉田秀和さんの論評を読んだ時からずっと気になっていた小学生の自分。
中学生になり、音のカタログで一部、念願の全曲を聴いたのがFM放送。
ずっと特別な作品であり続けた「マーラーの第9」。
いくつもの演奏会も経験したが、忘れえぬバーンスタインとイスラエルフィルの演奏から今年は40年。
その年に、モニュメンタルな感情も加味しても素晴らしい演奏に接することができた。

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ノットと東京交響楽団のコンビに感謝です。

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終演後の盛大なコールには、ありがとう!ノット監督の手ぬぐいを掲げた楽員のみなさんも登場し、会場全員でノット監督を讃えました!

ワタクシもてぬぐい購入しましたよ。

来年は都響に客演しケフェレックとの共演やブルックナーなどが予定されてます。

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2025年11月20日 (木)

マーラー 「大地の歌」 ヨッフム、オーマンディ

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急速に深まる秋は冬の気配にはやくも押されつつあります。

いつも行く秦野の丹沢方面も秋色に染まりました。

この前まで暑いと言ってたのに、この配色の景色に落ち着きと、寂しさも感じます。

「第9」の前に「大地の歌」を聴いておきたい。

それも60年代の渋いところで。

ジャケットはオリジナルを借り物しました。

  マーラー 交響曲「大地の歌」

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        A:ナン・メリマン
        T:エルンスト・ヘフリガー

 オイゲン・ヨッフム指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

        (1963 @コンセルトヘボウ)

ブルックナーの指揮者との認識の強いヨッフムの唯一のマーラー。
ハイティンクを補佐する感じでコンセルトヘボウをベイヌムのあと引き継いだヨッフム。
DGには当時珍しかったコンセルトヘボウの1963年の録音。
同時期にDGにブルックナーの録音を始め、ハイティンクのマーラーは1番のみがフィリップスに録音されたのみで、ハイティンクのマーラーシリーズは66年から本格始動していた、そんな時間軸です。
なぜに大地の歌だけしかやらなかったのか?なぜにフィリップスじゃなかったのか?
いまとなってはよくわかりませんが、ベームと同じくマーラーは声楽付き作品のみを指揮したところがマーラーをやらなかったヨッフムというところでしょうか。
しかし、マーラーオケでもあるコンセルトヘボウであることもあり、声に傾いた演奏ではなく、立派にマーラーの世紀末臭を漂わせた桂演となぅていて、寂寥感ただよう枯淡の演奏なのでありました。
ヘフリガーの声が立派だが、やや明るすぎて感じ浮いてしまうのは、この作品の難しいところだろう。
しかし、トスカニーニの元で多く歌った伝説級の歌手メリマンのやや古風ともとれる歌唱は、ヨッフムの描き出す侘び寂にも通じるモノトーンのマーラーにぴったりで、淡々としたなかに語り掛けるような歌は後ろ髪ひかれるような思いをいだきます。
60年代ならではのセピア調の演奏、加えてマーラーに同化しすぎない客観性を保った渋い演奏でありました。
しかしコンセルトヘボウならでは、時代性を感じさせる味のあるポルタメントなどが聴かれ、オーケストラに根付くマーラーの伝統を感じる。
バイエルン放送ともやったらどうだったろうか。
ちなみにクーベリックのDGのマーラーは1967年から録音が始まります。

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     A:リリ・チューカジアン
     T:リチャード・ルイス

  ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

      (1966.2.9 @タウンホール、フィラデルフィア)   

オーマンディもマーラーと、そしてブルックナーも密接な関係とは言えなかった指揮者かもしれない。
しかし、アメリカで活動をしたオーマンディは、復活交響曲においては演奏とレコーディングのパイオニア的存在でもあった。
なによりも新しいものを積極的に紹介しようとする意欲はオーマンディならでは、第1交響曲は「花の章」付きだったし、10番のクック完成版の初録音もオーマンディだった。
1,2,大地、10番の4作品のみがオーマンディの正規マーラー録音であります。
進取の気象に富んだオーマンディらしいところでありますね。
CD時代になって、CBS時代のものを中心にオーマンディとフィラデルフィアのイメージは、自分的に大きく変わった。
レコードで聴いていた頃は、いわゆる華麗なるフィラデルフィアサウンドといううたい文句が先行して、それが音のイメージとして半ば刷り込こまれ、そんな耳で聞いてたのでキンキンキラキラしてた印象を持っていた。
しかし、CD化されたいくつもの音源を聴いてみて、RCA音源とともに、かなりそのイメージを刷新させられた。
シベリウスやチャイコフスキー、ベートーヴェン、シュトラウス、ラフマニノフ、レスピーギまでもがそうだった。
それは曲のあるがまま、柔軟性に富んだ実直な演奏と感じ、録音もキンキンしたかつての雰囲気とは様変わりして落ち着いた響きに聴こえたのだ。
このマーラーもそう。
各楽器がよく聴こえ鮮明さが行き渡っているのは録音の思いもよらぬ素晴らしさばかりではあるまい。
定評あるヴァイオリンを主体とする弦の美しい鳴らせ方に加え、フィラデルフィアの優秀なブラスも突出せずバランスよく鳴り響く。
全体に思いのほか渋くまとまっていて、テンポ感は速めながら、そんな風には感じさせないし、むしろ淡々としすぎていて、もっと情念が欲しいとも思う。
でもこれがスコアどおりのお手本のような演奏なのだ。
当時、欧米で大活躍の2人の歌手も、歌い過ぎず抑制を保ちながらの歌唱で悪くない。
英国のルイスのテノールは、EMIを始めとするレーベルにかなりの録音があり、バルビローリのゲロンティアスの夢が最高に感動的だった人、
ヒロイックにならないところが好ましかった。
アルメニア系アメリカ人のチューカシアンは録音には恵まれていないが、重なる病魔を克服しながらメットで活躍した大歌手で、そのドラマテックで音域の幅広い豊かな声はなかなか魅力的で、現在の歌手たちの歌に慣れた我々の今の耳でも十分に新鮮だ。
言葉がやや不明瞭であったことは否めない。
でも終楽章での神々しさはオーケストラの絶美な背景を得て素晴らしくも味わい深い歌だった。
ただ、曲の終結はややあっけなく、余韻は少なめか・・・

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「告別」のewig ewig。
これが第9交響曲につながる。

ノット監督最後の東響定期演奏会、マーラーの第9を控え、私は来たりくる感動の涙に震えつつある。

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2025年11月 7日 (金)

ブログ20周年 ベートーヴェン ピアノ協奏曲 ポリーニ&アバド

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ある日の平塚の虹ケ浜海岸。

かつて市営プールがあったところが開発されて、ひらつかシーテラスという施設ができました。

この先の茅ヶ崎の道の駅が予想されたとおり渋滞で週末はたいへんなことになっていて、さらにこちらも・・・

なんかもう、人を寄せるこうしたものはいらないね、と思う。

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空が焼けるまえ、富士の上に虹らしきもの、調べたら「彩雲」というらしい。

ちょっとレアな感じでうれしくなりました。

そんなわけで、このブログが2025年11月で開設20年になるのです。

自分で驚いてます。

最初の記事は、2005年11月7日で、二期会の「さまよえるオランダ人」を観劇したものです。
引退してしまったエド・デ・ワールトが指揮をした上演でした。
以来、ずいぶんと記事を起こしたもので、多い時は毎日のように音楽を聴いては書いてました。
2016年にいろんなことが重なり、ブログの継続が怪しくなり、書く気も失せてしまったことがあり、休止期間がありました。
しばしのちに立ち直り、更新のペースを緩やかにして今に至っております。

思えば、この20年でネット環境が著しく向上し、その頃は有線でつながらなければならなかったものが、いまやWifiもあり、スマホもあり、どこにいても情報発信ができ、あらゆる情報を得ることができるようになりました。
加えて、数々のツールがあり、媒体も多岐にわたり、われわれは情報の洪水のなかにあり、自己責任でもってそれらを選択して取りにいくようなったのです。
こうしてわれわれは情報に追われるようになり、知らないと不安に陥るようになったのかもしれない。
ときおり思う、携帯とかパソコンなんかない時代は何してたんだろ?
こんな便利なもの、なくても幸せだったな・・・とね。

動画も文章も、短いものが好まれ、ともがくショート化され、どんどん消化される時代。
かくいう時代に一般的でない音楽ジャンルのブログで長文を残すという、時代に逆行した行為。
どこまでやれるかわからないが、老いて指が動かなくなるまで続けようじゃないか、と思ってる。
自分がいちばんの読者で、かつての自分の記事に感心したり、驚いたりもしてる。

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   ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲

     ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

     (1992.12 1~4番、1993.1 5番 @ベルリン・フィルハーモニー)

2014年1月にアバドが亡くなり、その10年後の2024年3月にポリーニが亡くなった。
ともにミラノ生まれ、年齢こそ9歳の差はあったが、ともに切ってもきれない朋友でした。
多くの共演歴があり、録音も多数。
73年のノーノに始まり、ブラームス、バルトーク、シューマン、シェーンベルク、ベートーヴェン、そして最後がブラームスの2曲。
もっと多くの作品で共演して欲しかったし、晩年のベームよりは、ポリーニがより強靭で明晰なピアノを聴かせていた70年代にはアバドとやって欲しかった・・・と思う。
あとできれば、プロコフィエフをこのコンビで、シカゴで録音して欲しかった。

92年の年末から翌1月にかけて、ポリーニをソリストにしたベートーヴェンのピアノ協奏曲チクルスが演奏され、それがライブ録音された。
このときの演奏記録をいつもお世話になってるアバド資料館で調べてみたところ、協奏曲は1曲ずつ演奏され、そこでほかに組み合わされた演目は、ルトスワフスキ、リゲティ、ノーノ、リームなどの作品で、いかにもアバドらしい一筋縄ではいかない角度をつけた演奏会になっていた。
新年の5番のみ、田園とのプログラム。

各曲の終わりには、盛大な拍手もそのまま収録されていて、ライブの雰囲気は抜群だし、音質もベルリンのフィルハーモニーザールの響きそのままで、録音も申し分なし。
ポリーニのうなり声も盛大に聴きとれます。
ふたつのジャケット、双方を購入したのですが、あとになってトリプルコンチェルトと組み合わされて出たので、そちらも入手した。

5曲ともに、このふたりの演奏家らしく、一点の曇りもなく、明晰・明快に尽きる演奏。
表情はいずれも若々しく、重厚感など感じさせず、ベルリンフィルの音色も明るく軽やか。
バックハウスとイッセルシュテット、グルダとシュタインなどで馴染んできたベートーヴェンの協奏曲が別物に感じるくらいに鮮明で、音がクリアなのだ。
今回、ほぼ20年ぶりに聴いてみてそのように感じた。
この時期のアバドのベートーヴェンは、エアチェックでもいくつか残しているが、ブライトコプフ版による従来スタイルで、90年代末期からベーレンライター版による演奏に交響曲では切替えました。
同時に古楽的な奏法も取り入れるようになり、ポリーニとのベートーヴェンもあと数年あとだったらまた違った内容になっていたかもしれません。

今回の連続視聴でとても気に入ったのが、1~3番で、4番は聴き慣れすぎの感もあったかもしれないが、前半3曲が、いかにもベートーヴェンの若さを感じさせる瑞々しさにあふれていたのです。
ベルリンフィルから軽やかな響きを引き出すアバドの若々しい感性に、ポリーニのアドリア海の煌めきのようなブルー系の透明感あるピアノが、若い1~3番にはぴったりだった。
ことに、いずれの番号の緩徐楽章のたおやかで抒情的な美しさ、清々しい歌、とんでもなく感動してしまった。
そして、1~5番までの緩徐楽章だけを連続聴きしてみた。
歳とともに、ベートーヴェンは器楽も室内楽も静かな楽章の方が、心にふれる音楽となってきた。
そんな自分にポリーニとアバドの明るめの演奏はとてもぴったりと来るものだった。
皇帝という名前らしくない5番は清々しく端正きわまりない演奏、4番は透明感あふれる神妙極まりないものだった。

丹精で美しい造形の彫刻を思わせるようなふたりの演奏。
まとまりが良すぎて、不満を持つ向きもあろうかと思いますが、この若々しく明るい演奏はいまの初老の自分にはありがたく、豊かな気持ちにさせてくれるもので、まだがんばるぞーと思わせてくれました。

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ブログ20周年でした。

いつまで継続できるかな、目指せ30年。

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2025年11月 3日 (月)

ドヴォルザーク 交響曲第7番

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赤に染まりつつあるコキア。

秦野市内を流れる水無川をたどって丹沢方面にあがったところにある戸川公園です。

近くに新東名高速道路が通り、開通のおりにはサービスエリアができそうです。

深まる秋の日々、連日にわたり、ドヴォルザークの交響曲第7番をばかみたいに聴いた。

  ドヴォルザーク 交響曲第7番 ニ短調 op.70

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秋から冬、しみじみドヴォルザークもいい。
数多い室内楽やヴァイオリンやピアノ作品、オペラもたくさんあるが、ルサルカ以外はあまり上演されない。
あとなんといっても交響曲作家でもあったが、それなのに後半の作品ばかりで1~4番はあまり演奏されない。
そんななかで、最近もっとも演奏頻度があがっている気がするのが「7番」なのであります。
新世界はいまだに新鮮だけど、8番は正直食傷気味なのであります。
あといえば、5,6番はいい曲だと思うのだけど演奏会でほぼなし。

7番は、当時の音楽楽壇の繫栄地ロンドン、そのフィルハーモニー協会から委嘱され、はりきって作曲された作品。
ブラームスの3番を聴いて、おおいに触発され、自信も付けながら完成。
ロンドンでの初演は1885年で大成功。
次の5年後の8番が、かつては「イギリス」と呼ばれたものの、そちらはイギリスで作曲されたわけでもなく、単に出版社がロンドンの社だったのでそのように呼ばれたから、音楽の内容と関係なく「イギリス」と名をつけてしまうなら「7番」のほうがそれに相応しいともいえるかも。
しかし、この7番はイギリスはおろか、ブラームスの亜流といったものを感じさせない音楽なところがよい。
ボヘミアの風土、音楽語法、民族臭などが強めだったこれまでの交響曲に比し、ドイツ的なかっちりした構成と豊かな表現力、オペラをいくつも手掛けてきて養われた劇的な音楽の進め方などが際立つ交響曲なのですね。
しっかりした交響曲でありながら、ドヴォルザークらしいボヘミアの風も感じさせるところが魅力的であります。


最初と最後の楽章が短調だが、それぞれの楽章の第2主題は、田園情緒感じる和みの旋律。
第2楽章が大好きです。
ブラームスの3番の2楽章とも似通っていて、抒情的で歌にあふれていてずっと聴いていたい音楽。

3楽章も、8番のスケルツォ楽章を思わせるメランコリックな雰囲気で、こちらは舞曲的な民族色が濃厚。
新世界→8番→7番の順に好きになっていったけれど、最初は3楽章が気にいったものだ。
いまはダントツで2楽章が好き。

①ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団
           (1960.3.18 @セヴァランスホール、クリーヴランド)
 初めて買ったレコードがセル盤で、この1枚がこの曲の刷り込み。
やや硬質な音で、きっちりした演奏でありながら詩情も忘れず、ゆたかな情感にあふれた名演だった。
CDで買い直したら音もよくなり、さらにいい演奏だと確信したし、終楽章も存外にダイナミックだった。

②ズビン・メータ指揮 イスラエル・フィルハーモニック
           (1968 @テルアビブ)

Mheta-dvo7
 
 7番の交響曲を初めて聴いたのが、メータとイスラエルフィルのベルリンでのライブ放送で73年のものだったかと記憶。
FMで放送され録音したもので、これを繰り返し聴いてこの曲に馴染んだのちにセルのレコードを買った。
レコードの方は、71か72年にロンドンレコードから発売されたはずだが、CD化はずつとされず外盤で2000年頃に発売されたが、いまや廃盤の様子で、一昨年こちらはうまく入手ができた。
この時期のメータらしいメリハリの効いた、じつにウマい演奏で、旋律の歌わせ方や歯切れのいい金管の心地よい響かせ方、気持ちよく決まるティンパニなど、まさにやるじゃん、と思うナイスな演奏。
面白い演奏だが、憂愁や陰りなないし、ヨーロッパがない。

③ジョン・バルビローリ指揮 ハルレ管弦楽団
           (1957 @マンチェスター)

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 バルビローリのドヴォルザークは3曲の交響曲があるけれど、いずれも大好きですね
慈しむように曲を大事に愛するように指揮するサー・ジョン。
2楽章の滋味あふれる演奏はもう最高です。
まるでディーリアスみたいな音のするオーケストラとちょっとひなびた録音も懐かしい響きにあふれてる。
長く続いたマーク・エルダーに変わったいまのマーラーやショスタコを得意とする指揮者で、ハルレ管が遠くに行ってしまうようで寂しい・・・

④カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ロンドン・フィルハーモニック
           (1976   @アビーロードスタジオ、ロンドン)

Gullini-dvo7

 ジュリーニがいちばんよかったのは、70~80年代前半ぐらいまでと思っているが、その一番の時期の録音がこちら。
DGに移籍する頃で、シカゴと当時ハイテインクのもとで絶好調期にあったロンドンフィル、ウィーン響と録音していたジュリーニ。
ウィーン響との来日でジュリーニファンになったのもこの時期で、誠実で集中力みなぎる指揮者と渋めのカラーのオーケストラで、セピア色のヨーロッパの景色を見るような演奏になっている。
ゆったりした2楽章は、まるでブルックナーの緩徐楽章かと思うくらい。
よく歌う演奏は存外にしなやかで、きっと聴くことのないであろうコンセルトヘボウとの後年の未聴の再録音より若々しいと思ってる。
シカゴとの8番と9番とでセットで素晴らしいジュリーニのドヴォルザークであります。

⑤コリン・デイヴィス指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
           (1975.11 @コンセルトヘボウ)

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 コンセルトヘボウとフィリップスということで思い起こすことのできる、そのイメージ通りの演奏に録音。
この時期のハイティンク、デイヴィスとのハイドンやストラヴィンスキーなど、ともかくコクのある豊かなオーケストラの音色がいずれもすばらしく、ブラームスの3番というイメージに一番近く感じる演奏だと思う。
それにしても、この頃のコンセルトヘボウというオーケストラと、その音を見事にとらえたフィリップスは何を聴いても素晴らしく、私のような思いはノスタルジーにすぎないと思われるかもしれないが、この音がもう失われてしまったと思うと悲しい。

⑥オトマール・スウィトナー指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
           (1981.2 @ベルリン)

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 スウィトナーがあれよあれよという間にドヴォルザークを全曲録音したのには、当時は驚きましたね。
奇をてらわない、ナチュラルな姿勢を貫いたいつものスウィトナーらしい柔和な音楽がここにあります。
ベルリンのオーケストラながら明るい色調があり、響きは軽めで自然児のようなドヴォルザークは魅力があります。
ドイツ統一後のバレンボイムやいまのティーレマンの方が、よっぽど重厚な音がするベルリンシュターツカペレは、オーストリアの指揮者スウィトナーでユニークなコンビだったといまは思います。

⑦ロリン・マゼール指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
           (1983.2 @ウィーン)

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 ウィーンと蜜月だった頃にマゼールはDGとソニーに多くの録音を残したが、そのなかの1枚が後期3曲の交響曲の録音。
案外とまとも、なんていったらおかしいが、変なことしてないストレートな演奏で、素直にウィーフィルの音、ムジークフェラインの音が楽しめる。
それ以上でも以下でもないと思うし、マゼールならもっと掘り下げてやらかして欲しかった。

⑧ネヴィル・マリナー指揮 ミネソタ管弦楽団
           (1983.3 @ミネアポリス)

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 以前書いたものを再掲「早めのテンポで、こだわりなく、すいすい進む。
ときに、ティンパニの強打を見せたり、終楽章でたたみ込むような迫力を見せたりと、思わぬメリハリを展開してみせる。
2楽章のブラームスがボヘミアにやってきたかのような、内声部のほのぼのとした豊かな歌が、マリナー特有のすっきり感でもって、とても爽やかに聴くことができます。」

⑨アンドレ・プレヴィン指揮  ロサンゼルス・フィルハーモニック
           (1988.5 @ロイスホール、UCLA)

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 ジャケットも美しく、ノスタルジックなプレヴィンのドヴォルザークシリーズ。
メータのロスフィルとは別物のように感じる柔和でウォームトーンのオーケストラ。
プレヴィンの優しい目線も感じるこの演奏、やはり2楽章と3楽章が美しく、曲全体に内声部の描き方が新鮮でオヤっと思う瞬間があったりした。
久しぶりに聴いてみて、こんなにいい演奏だったか、と思った次第。
亡くなって6年が経ち、プレヴィンの名も埋もれがちかと思うが、新しいライブなど発掘されないものだろうか。

※ドヴォルザークを語るうえで欠かせないノイマンとチェコフィルの2つの全集、ケルテス、クーベリックといずれも所持してないのです。
これはいけませんね、いつかはと思いつつ・・・という音盤はまだたくさんありますよ。

⑩イルジ・ビエロフラーヴェク指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
           (2012、13 @プラハ)

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 亡くなる5年前に、ビエロフラーヴェクは手兵のチェコフィルでドヴォルザークのいろんな作品を一気に残してくれた。
しかもデッカの録音がとてもよろしくて、すべての交響曲やスタバト・マーテルなど、すべてがスタンダートとなるべき理想的な演奏かと。
冴えたオーケストラの響きには、往年のくすんだ美音とかのイメージのチェコフィルとは異なり、ヨーロッパのオーケストラのひとつという認識を与えるもの。
この傾向は、ビシュコフ盤を聴くとより感じるが、政治的にも安定し、スロヴァキアと分離したいまのチェコは多難な時代のオーケストラの強い個性が失われて感じるものの、ビエロフラーヴェクの元でのドヴォルザークやほかの自国作品においては、完全に自分たちの音楽という自信やプライドがにじみ出ているように思う。
指揮者とオーケストラが一体化した、幸福な結びつきを、9曲の交響曲を順番に全部聴くことでまざまざと感じる。

⑪セミョーン・ビシュコフ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
                              (2023.9 @プラハ)

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 大柄なドヴォルザークというイメージで構えは大きい一方で、細部にも目線が行き届いた緻密な演奏と感じる。
チェコフィルは実にうまいと思うが、もっとスッキリしたビエロフラーヴェクの方が歌が豊かだし、気持ちがいい。
マーラーを得意とし、ブルックナーをやらないビシュコフならではのドヴォルザークと言ったらいいか。
3つの交響曲以上に、「自然と人生と愛」という序曲3部作がとてもいい。
次の首席のフルシャも交響曲を全部録音してくれるだろう。

最後にネット録音した海外ライブから、これから日本でも活躍する注目の若手の演奏

⑫ダニエレ・ルスティオーニ指揮 アルスター管弦楽団
            (2024.8.18 ロイヤル・アルバートホール)

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 新イタリアの若手三羽烏のひとり、42歳にしてもうオペラの手練れ。
リヨン歌劇場でレパートリーを広げ、アルスター管、メットオペラの首席客演指揮者、来年からは都響の首席客演となるルスティオーニ。
イケメンイタリア男で、奥さんのヴァイオリニスト、デコーも美人さん。
ともかく欧米の劇場から引く手もあまたの存在。
プロムスで聴衆を熱狂させたこのドヴォルザークは、指揮ぶりは熱烈だけれども、その音楽は本格派で起承転結が見事で構成感も見事。
来年1月の都響では、ヴェルディ、ワーグナー、レズピーギ、夫妻共演ブラームスなどが予定されていて、いずれもチケット入手済み

⑬ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
                              (2024,6.16 @ムジークフェライン)

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 2世指揮者のなかでもピカイチの実力派、そしてこちらもイケメン極まりない35歳のロレンツォ君は、東京交響楽団の次期音楽監督。
ローザンヌ出身であることから、独・仏・伊、いずれの音楽にも通じ、すでに幅広いレパートリーを身につけている。
こちらもオランダオペラとネーデルランドフィルという、比較的好きなことができるポストで腕を磨いた。
いまや世界のオーケストラとオペラから引っ張りだこだ。
ウィーフィルを指揮してしなやかで、流麗なるドヴォルザークを聴かせてる。
すでに東響でこの曲を指揮しているようだが、実は来期にも取り上げる。
そのときの組み合わせが、ブラームスの3番というから、ロレンッツォ氏のプログラムはなかなかにおもしろい。
ツェムリンスキーやコルンゴルトもよく指揮しているから、今後ともに楽しみな存在であります。

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ドヴォルザークは、メロディーメーカー。
室内楽など、まだまだその宝庫は尽きず、オペラもいくつか揃えているが、この先ちゃんと聴けるかな。         

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2025年10月27日 (月)

J・シュトラウス 「こうもり」 カラヤン&ベーム

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秋の出雲大社相模分祠の手水舎。

神無月の10月なので、神様は出雲にお出まし中ですが・・・

名水の里、秦野市ですから、境内には龍蛇神の社があって、清らかな湧き水が流れ汲むことができます。

いまいる町は秦野に近いので、水はすべて秦野市内にいくつもある名水スポットから汲んできてます。
ともかく美味しい水です。

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2025年は、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の生誕200年の年。
そして、10月25日がその誕生日。

1975年の生誕150年もよく覚えていて、まだウィリー・ボスコフスキーが健在で、数々のライブ放送がFMで放送されたし、なんといってもベームがウィーフィルとやってきて記念碑的な演奏をいくつもNHKホールでやってくれた年だ。
そのなかには、ジュピターとシュトラウス作品集のコンサートもありました。

今宵は、ともにデッカ録音のウィーンフィルとカラヤンとベームの「こうもり」を久方ぶりに聴いてみました。
ウィーンフィルには伝説級のクレメンス・クラウス、以前もブログで書きましたプレヴィンなどの録音もありますが、60~70年代、ウィーンで人気を二分したふたりの巨匠、しかもデッカ録音ということで。
クライバーやボスコフスキーは、またの機会に。

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   J・シュトラウス 喜歌劇「こうもり」

   アイゼンシュタイン:ヴァルデマール・クメント
   ロザリンデ:ヒルデ・ギューデン
   アデーレ:エリカ・ケート
   ファルケ:ワルター・ベリー
   フランク:エベールハルト・ヴェヒター
   オルロフスキー公:レジーナ・レズニック
   アルフレート:ジュゼッペ・ザンピエッリ
   ブリント:ペーター・クライン
   フロッシュ:エーリヒ・クンツ
   イーダ:ヘドヴィヒ・シューベルト

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
                  ウィーン国立歌劇場合唱団

  ガラ・パフォーマンス
    レナータ・テバルディ、フェルナンド・コレーナ
    ビルギット・ニルソン、マリオ・デル・モナコ
    テレサ・ベルガンサ、ジョン・サザーランド
    ユッシ・ビョルリンク、レオンティン・プライス
    ジュリエッタ・シミオナート、エットレ・バスティアニーニ
    リューバ・ヴェリッチュ

  ピロデューサー:ジョン・カルショウ、クリストファー:レイバーン
  エンジニア:ゴードン・パリー、ジェイムス・ブラウン

      (1960.6 @ゾフィエンザール、ウィーン)

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 J・シュトラウス 喜歌劇「こうもり」

   アイゼンシュタイン:エベールハルト・ヴェヒター
   ロザリンデ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
   アデーレ:レナーテ・ホルム
   ファルケ:ハインツ・ホレチェク
   フランク:エーリヒ・クンツ
   オルロフスキー公:ヴォルフガング・ヴィントガッセン

   アルフレート:ヴァルデマール・クメント
   ブリント:エーリヒ・クッヒャー
   フロッシュ:オットー・シェンク(映像)

   イーダ:シルヴァン・ラカン

  カール・ベーム指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
            ウィーン国立歌劇場合唱団

  プロデューサー:ジョン・モードラー
  エンジニア:ジェイムス・ロック、ゴードン・パリー

      (1971.11 @ゾフィエンザール、ウィーン)

10年を隔てたふたつの録音ですが、カラヤン盤はカルショウ率いるデッカのソニックステージの全盛期のもので、ウィーンフィルでゾフィエンザールといえば、カラヤンの一連のイタリアオペラ、ショルティのリングやシュトラウスなどが思い浮かびますね。
まさにそれらと同じく、レコードで視覚的な効果も再現するという、まさにレコード芸術を極めたもので、いま聴いてもそのリアリティは面白く、レコード時代には味わえなかった鮮明さも嬉しいものだ。
しかし、何度も聴くと飽きが来てしまうのも事実だろう。
このカラヤン盤の最大の特徴は、2幕の後半におかれたガラ・パフォーマンス。
11人のいまや伝説級の名歌手たちがまったく予想外のレパートリーを披露してくれる。
テバルディはメリー・ウィドウ、ニルソンはマイフェアレディ、デルモナコがナポリタン、ビョルリンクがレハールなどなど。
これらの豪華メドレーに、その場のパーティー会場の参加者たちはそれぞれに拍手喝采を送っていて、それらも一連の流れでよくできていてまさにリアル。
でもこれらは、この録音のためにその場で歌われたものではなく、音質も均一でないのでやや場違い管は否めず、日ごろ聴くには冗長だろう。
 カラヤン盤のプロデューサーとエンジニアの名前を見るだけでも、当時のデッカ録音の企画力と鮮やかな音がわかるというもの。
半世紀以上経過したいまも昨今のライブ録音とは別な次元でのリアル感ある素晴らしいものだと思います。

レコードを芸術に特化したカラヤン盤から10年後のベーム盤。
こちらはストイックなスタジオ録音で、おあそびはゼロで、登場人物たちのセリフも大幅カット。ガラ・パフォーマンスもなく「雷鳴と電光」のみ。
そうこちらは映像作品あり、その上質なサウンドトラックでもあります。
でも録音はデッカサウンドをしっかり踏襲していて極上であります。
そして、ベーム盤はやはり映像を見ないといけない。
どちらも楽しめるのがベーム盤のいいところ。

「カラヤン盤」

60年代のキリリと引き締まったカラヤンならではの演奏。
しかもウィーンフィルの当時の美質が満載で、まだまだローカル感もほどよくあり、いわゆるウィーン訛りも聴かれるオーケストラだ。
EMIのフィルハーモニアとの旧盤の方が世評は高いようだが、私は未聴。
ウィーン国立歌劇場の音楽監督として在籍した時代、59年アイーダ、60年こうもり、61年オテロ、62年トスカ、63年カルメンと毎年ウィーンフィルとオペラ録音を重ねたカラヤン。
その後はスカラ座、さらにはベルリンフィルとオペラ録音をするようになり、ウィーンフィルとのオペラ録音は74年の蝶々さんまで間が空くことになりました。
いろんな時代のカラヤンのオペラのなかで、60年代がいちばんカラヤンらしく、指揮者中心のオペラでなく、歌手もオーケストラも対等にある総合芸術としてバランスがいいと思う。
歌いまわしの巧さ、キレの良さ、なによりも若々しい表情が魅力で、そこにウィーフィルの音色もプラスされます。
録音の良さも前述のとおり。

歌手に関しては、やや古めかしいと感じる声も散見されるが、なんといっても懐かしい名前ばかりで、まさにウィーンで日頃歌っていた日常の名歌手たちによる歌唱で、チームワークもばっちり。
ギューデンの声の美しさはすばらしく、エリカ・ケートも可愛い、がしかし、いずれも今の歌手たちの歌唱に慣れた耳からするとやや時代を感じさせもする。
クメントとヴェヒターは、ベーム盤でも役柄を変えて登場していて、ともに「ウィーンのこうもり」にはなくてはならない存在だった。
手持ちのCDは、CD初期の西ドイツ原盤だが、最新のリマスターでも聴いてみたいと思う。
とくに賑やかで晴れやかなガラ・パフォーマンスのシーンは刷新された音質で聴いてみたい。

「ベーム盤」

セリフのないぶん、音楽のみに浸ることができ、その結果、シュトラウスのこのオペレッタがメロディーの宝庫とわかる。
汲めども尽きぬ、美しく楽しい音楽。
そして巧みに素敵なアリアが挿入され、それらが実に心ニクイほどによく書けてて、思わず口ずさみたくなるものばかりときた。
このあたりを生まれたばかりの音楽のように鮮やかに演奏してみせたのがクライバーということになるだろう。

ベームの音楽は、決して四角四面のものでなく、またこの時期は覇気にもあふれていたので活気あふれるものです。
さすがに跳ねるようなリズムや、カラヤンのような歌いまわしの巧さなどはありませんが、オペラ的な感興にあふれていて雰囲気豊かです。

歌手たちは、70年代ともなると、自分にはお馴染みの顔ぶれとなり、実際に聴いたこともある名歌手も混じってます。
このあたりが、いにしえ感を感じさせるカラヤンの60年代メンバーと違うところ。
そしてやはり、この時期にウィーンでこうもりを歌っていた常連ばかりで、クンツ、ホレチェク、ホルムはまさにウィーンでの、そしてお馴染みのシェンク演出の常連だった。
そしてこの3人の芸達者ぶりが実に見事なものでした。
あとなんといっても、ヘルデンテノールのヴィントガッセンのオルロフスキー公が愉快だし、まさにあのヴィントガッセンそのものの声で大真面目に歌っている。
その真面目さが逆に滑稽の域に達していて、どこかかったるそうにしているところが聴きもの。
トリスタンを歌うヴィントガッセンに、クルヴェナールを歌うウィーンのカヴァリエバリトンのヴェヒターという組み合わせも妙なる面白さ。
まだまだ若々しいヴェヒターのアイゼンシュタインは、テノールで歌われる同役を器用に、巧みな技巧であくまで自然に歌っていて素晴らしい。
素晴らしついでに、ヤノヴィッツの硬質だけれど美声のロザリンデもこの役の理想形でありました。

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音楽にみを納めたCDは、先に書いた通り、音楽の良さが素直に味わえるのですが、一方でセリフがなく、間がなさすぎることや、ドラマとして真剣に考えると唐突な展開にすぎると言えるかもしれない。
そのうえで、連続して何年振りかでDVDを視聴してみると、これがまた実に面白かったし、実によく出来てる。
舞台でなく、映画のセットでの映像であるだけに、細部にいたるまで完璧だし、豪華絢爛で、ヨーロッパのこの時代の贅沢三昧の人々の生活の上澄みを味わうこともできる。
具象的なシェンクの演出もこうした作品では文句ないし、そのシェンクが愉快なフロッシュ役でドタバタ演技をしているのも楽しい。
 序曲ではベームとウィーフィルの演奏もそのまま収録されていて、この時期のウィーフィルのお馴染みの面々が確認できたりする。
最後にヴィントガッセンはCDで聴くより、こちらの映像の方が数十倍も面白いデス!

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じつは「こうもり」は、劇場で観劇したことがありません。

始終やってるからまあいいや、と思っているうちにお爺さんになってしまった(笑)

神奈川フィルのコンサートオペラでやったらウケると思うんだけど。

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2025年10月21日 (火)

神奈川フィルハーモニー 定期演奏会 沼尻指揮 ブルックナー8番

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この日のみなとみらいは、秋はどこいったかと思わせるような陽気。

ブルックナーの8番、一曲のプログラム

昨年暮れから、8番は3度目で、うち2回は初稿版による演奏で、今回は一般的なノヴァーク版2稿。

満員のみなとみらいホール、開演前に沼尻マエストロから、プレトーク。

終わりの方しか聴けなかったが、マイクが林立していて、今夜の演奏はCD化されると発表。
ゆえに携帯とかチラシ落としなどにご注意を、また昨今話題のフライングブラーボーも、ご自身の証として残したいと思っても、そこはいまはちゃんと消せるし、最後の「ミレド」はちゃんとゲネプロで収録しているので安心してください、とユーモアたっぷりに語りました。
これを抑止力としてか、最後の音が消えても、しばらくホールは静寂につつまれ、ほんとうに至福の瞬間を味わうことができたのでした。

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 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 シリーズ第408回

  ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調 (ノヴァーク版第2稿)

    沼尻 竜典 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団


      コンサートマスター:石田 泰尚

          (2025.10.18 @みなとみらいホール)

8番を聴くとなると、レコード時代から、いまでもCDでも、特にライブでは、ほんとに真剣に構えるようにして聴き入る自分。
それだけ聴き手に緊張と集中を強いるブルックナーの最高傑作であり、交響曲としても最高峰に位置する作品であります。

ですが、そんな肩ひじはって聴かなくても・・・と思わせてくれるくらいに自然でさりげなく始まり展開した1楽章。
自分でかける呪縛が馬鹿らしく思えるほどにカジュアルな演奏とも思った。
すんなり、すいすいと進行し、タメや思い入れはなし、自分がよく聴いてきたブル8と一線を画した演奏に、正直とまどいましたね。
その印象のまま2楽章になり、野人どころか、スマートな「ハマのブルックナー」じゃん、と思うようになった。
だから、トリオの部分はとても美しく夢見るような印象を与えた。
ここまで、オーケストラの精度は完璧で、金管やホルン・ワーグナーチューバのセクションも明るく、でもソフトですらあった。

後半の長大なふたつの楽章。
基本の印象は、前半のままに、しかし3楽章の弦楽器主体に重きを置いたかのような演奏に、神奈川フィルの石田組長率いる弦楽セクションの繊細かつ美音の連続に、それはもう恍惚とするような感動を味わったのです。
ここで歌わせる指揮者、沼尻の意図もあり、弦も木管も、素敵すぎたホルンも、みんな気持ちよくブルックナーの音楽に心を合わせて奏でている。
テンポは速めだが、まんべんなく歌うので、停滞感なくその速さを感じない。
なんてブルックナーの音楽は美しいんだろ、聴いてて何度も何度も思った。
徐々に高まりゆく感興も自然体で、ずっと譜面の奥に頭だけが見えていたふたりの打楽器奏者がすっと立ち上がり、そして来ましたよ、あの頂点。
痺れるような感動というよりも、自然のながれで達した頂きに、さわやかで清らかな感動を味わいました。
その後の美しいコーダに清涼感を感じるのもこの日の沼尻&かなフィルの演奏ならではだった。

終楽章の勇壮なファンファーレも明るく、そしてフレッシュだ。
ホルンとワーグナーチューバの若いメンバーたち、ともかくうまいし、その輝かしい音色が心地よい。
ワタシの大好きなフルートに始まる木管の爽やかなパッセージも素敵だったが、実はもっとじんわりとやって欲しかった思いもある。
ともかく、この演奏は、こちらがこの作品に思い込んでるものをスルーして違う方向から見せてしまうような印象が随所にあったのだ。
ヨーロッパの山々や教会の尖塔、これらを思わせるブルックナーのイメージはここではない。
スマートかつしなやかな都会的なブルックナーの演奏。
でも神奈川県には海と丹沢山麓がある、それらを遠くに見渡す都会、そんな演奏といったら笑われるかもしれない。
随所にパワーを解放するような強奏はあるけれど、オペラの手練れである指揮者は巧みに最終の巨大なコーダへと導く。
すべてを収斂するかのような明るく輝かしい結末に感じた。
そして最後のミ・レ・ドを思いを込めてじっくりと奏し、曲を閉じると、長い静寂にホールは包まれました。

プレトークの抑止力が効いたのか、われわれは素晴らしい聴衆となりました。
鳴りやまぬ拍手に応え、最後は沼尻さん、石田コンマスを引き連れてカーテンコールににこやかに応じておりました。

幸せな気分にさせてくれた演奏。
ヴァントやハイティンクなどの実演で聴いてきたこの8番、次元の異なる演奏を展開してみせたある意味大胆さ。
どこのオーケストラも同じように巧くなり、個性も均一化するなか、みなとみらいホールで育まれてきた神奈川フィルはユニークな音色と響きを持つ存在だと思います。
薄味ながら、わたくしは、こんな和風テイストの「ハマのワーグナー」もいいじゃんよ、と思ったのでした。
これもありだな。

Miura

こちらは「ハマの番長」

横浜DeNAを5年間率いてきた三浦監督も今年で退任。
大洋ホエールズ時代からずっと横浜ファンなので、横浜ひとすじを貫いてくれた三浦大輔はとても親しくも得難い存在だった。
きしくも同じ奈良県出身の高市総理大臣が誕生した今日、橿原市にゆかりがあるのも共通しているふたり。
でも高市総理は熱烈な阪神ファンなんだよね。
三浦はFA宣言のとき、阪神から熱烈コールを受けたけれど、横浜一筋を選んだ。

音楽には関係ないけれど、横浜つながりで「ハマの番長ありがとう」で締めてみました。

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2025年10月13日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 マルッキ指揮

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急に涼しくなった土曜日のサントリーホール。

もう半袖ではとうてい無理で、ジャケットを羽織って向かいました。

2週間前にここでマタイを聴いたときは、まだ暑いと言っていたのに季節は急速に秋に向かいました。

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    東京交響楽団 第735回 定期演奏会

 ベートーヴェン 交響曲第6番 ヘ長調 op.68 「田園」

 ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」

   スザンナ・マルッキ指揮 東京交響楽団

     コンサートマスター:景山 昌太朗

        (2025.10.11 @サントリーホール)

まったく性格のことなる二つの作品によるプログラムだが、案外と多いこの2曲によるコンサート。
古い自分には、かつて晩年のマルケヴィッチが日本フィルに来たときにやったように記憶している。

マタイ受難曲から田園までは81年、田園からハルサイまでは105年、バッハからストラヴィンスキーまで200年の年月の隔たりのある音楽を、2週間のうちに同じオケ同じ席で聴く妙味。
ハルサイは100年前の音楽なんだな、とも今更ながらに思った。
演奏するオーケストラのみなさんは、まさにプロだなと感心しつつ、いまも変化しつつある西洋音楽の流れを思ったものでして、未来にいまのゲンダイの音楽はどう聴かれるのか・・・などとも思いましたね。

さて、フィンランドの指揮者マルッキは、長く務めたヘルシンキフィルの名誉指揮者となっており、いっときは次のニューヨークフィルの指揮者とも言われた実力派。
自国ものと、近現代音楽に強みを持つ彼女の指揮は、おもに海外のネット配信で多く聴いてきたが、ヘルシンキとのシベリウスもさることながら「グレの歌」での濃密な大作を明快に聴かせる手腕に感心をしていました。

シベリウスの1番あたりを聴きたい気もなくはなかったが、「田園」の出だしを聴いた途端に、北欧の風を感じたのです。
一瞬、音と響きが薄く感じられ清冽な風が吹いたようにも思ったが、それが徐々に瑞々しくなり、弦楽のしなやかな美しさにステキな管楽器が唱和する、えもいわれぬ幸福感を1楽章、2楽章で味わうこととなりました。
ベーレンライター版を重視し、セカセカしてしまう田園でなく、昔から聞き馴染んできた僕らの田園がここにあった。
リズム感抜群の3楽章、ティンパニのハリのいい強打がアクセントとなった4楽章、そして誰しもを安堵させ、幸せにしてしまう感動的な終楽章。
東響のみなさんも、ほんと気持ちよさそうに演奏してた。
45分をかけた真摯で丁寧な田園、こんな田園を聴きたかった。
最後の音が鳴り終わったあとのしばしの間もありがたかった。

気分よくロビーにでると、ここは北欧か、欧米か・・・
フィンランド大使館が後援についてることもあり、背の高いいかにも北欧の方風の人が多くいらっしゃいました。

ノット監督のもと、築き上げられてきた東響の鉄壁のアンサンブルと技量に感じ入ることのできた「春の祭典」
存外に冷静沈着に始まり、その流れで淡々と進行した春の兆しは、スピード感よりは的確で確実な音楽の歩みのなかにあった。
マルッキさんの拍子は完璧で、うしろからも素人の自分がみていてもとても判然とわかりやすく、ノット監督の指揮に慣れた東響とすれば、まさにやすやすと着いていきやすい指揮だったろう。
第1部は総じて安全運転のように感じつつも要所要所で切れ味の良さと、立ち上がりの良さ、音楽の変わり身をずばりと決めてゆく心地よさがあった。
マルッキさんの躍動する指揮にあわせて、腰のあたりのお洒落なスカーフが舞い踊るのも実にステキだった

第2部での神秘感あふれる序奏とヴィオラの重奏、アルトフルートの妙技など、こんなに真剣に聴いた自分もありましたが、これらのか所に美しさを見出すことができたのも精度の高い今宵の演奏あってのもの。
そして来ました、11連打!
ここから猛然とアクセル全開、ものすごいスピード感と音圧、オケも夢中、われわれ聴き手も夢中になってしまうマルッキハルサイ。
ホルン陣のベルアップを見るだけでも興奮のワタクシ。
基本、マルッキさんの指揮棒を見つつも、オケの皆さんをそれぞれにみまわし、忙しいよ自分。
スピード感と緊張感を保ったまま生贄の踊りに突入。
巨大なうねりが何度も襲い来る、息つく間もないドラマテックな展開に熱狂の渦を巧みに作り上げる指揮者の実力とオケの力量。
最後の一音の前の一瞬の間も実に見事。
最終音のあとのホールの余韻も含めて完璧だった。

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カーテンコールでは、マルッキさんを盛大な拍手で呼び出し、にこやかにお応えでした。

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実力派指揮者マルッキ、来シーズンは都響に客演して、得意中の得意曲「青髭公の城」をやります。

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1週間後には、こんどはハマのブルックナー。

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2025年10月10日 (金)

バッハ カンタータ第51番、第199番 ドゥヴィエル

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今年の彼岸花は、例年より遅く開花し、ちょっと涼しくもなったものだから長く咲いていたように思います。

ちょっと田舎暮らしなので、少し車を走らせると、畑や田のあぜ道にきれいに整列して咲いてたりして、赤と緑のグラデーションがきれいなのでありました。

ようやく秋。

ノットのマタイから2週間後、はやくも次の東響定期の日がやってきますが、プログラムは「田園」と「ハルサイ」ということで、マタイの耳からいきなりギアチェンジしなくてはならなくて・・・
その前に、バッハの教会カンタータを聴いときます。

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  バッハ カンタータ「全地よ,神に向かいて歓呼せよ」BVW51

      カンタータ「わが心は血の海に漂う」BWV199

           S:ザビーネ・ドゥヴィエル

  ラファエル・ピション指揮 ピグマリオン

       (2020.12 @聖霊教会、パリ)

バッハの教会カンタータのソプラノのための作品の代表作のふたつ。

51番は、三位一体節後第15日曜日(またはすべての機会)=1730年9月17日初演。
199番は、三位一体節後第11日曜日=1713年8月27日初演、1723年再演。
それぞれの礼拝のために書かれたカンタータで、199番は1911年に発見された.

トランペットの華やかなソロもあり、さらにソプラノにもコロラトゥーラの高度な技量も求められる華やかさとともに、清涼な祈りのアリアも持つ明るいカンタータが51番。

一方、おっかないタイトルを持つ199番は、オーボエのソロが活躍し、それはソロに寄り添うように、沈痛であったり最後には喜ばしくあったりととても雰囲気豊かで、人間の篤い信仰心を描いたカンタータです。
ちなみにこのタイトルは義の人イエスに対し、苦悩するわれ(自分)の心情のこと。

アレルヤで締められる神への賛美の51番、同じ賛美でも悲しみと苦悩を経て、感謝へとつながる191番。
トランペットとオーボエという楽器の選択の違いでも、その性格の違いがよくわかる2曲でありました。

こうした作品のふたつをメインにすえ、ヘンデルのブロッケス受難曲、ジュリアスシーザーからのアリアも配したCD。
バッハとヘンデルの音楽の違いも明らかになる。
いま大活躍のフランスのソプラノ、ドゥヴィエルの清らかでありつつ、軽やかで無垢なる歌声がすばらしく、さながら天使のようだ。
透明感もあふれるその声は、バッハの宗教的な作品にその清潔感がぴたりとはまり、それはヘンデルのある意味、人間味あふれる音楽にも混じりけがなく心地よくはまってます。
ご亭主のピションは、オペラ指揮者としてもモーツァルトを中心に目覚ましい活躍を見せてます。
学究肌のピションは、多面的な研究のもと、斬新な解釈をみせるものの、その音楽が四角四面にならずに、ともかく明るく爽やかなところがよい。
ここでも古楽器がいにしえの鄙びた響きでなく、いまここにある現実のものとしてナチュラルに聴かれるところが新鮮だ。

かつて聴き親しんだリヒターの一連のバッハとは、また違う次元、さらにはアーノンクールやヘルヴェッヘ、ガーディナー、鈴木などともまた異なる清涼感もあるラテンテイストのバッハが、とても気にいってます。
同じことがドゥヴィエルの歌唱にもいえて、手持ちのシュターダー、マティス、ポップともまた異なるバッハとして心地よく聴きました。

 「ドゥヴィエルヌ モーツァルト歌曲とアリア」

「ルチア・ポップ カンタータ第51番」

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2025年10月 1日 (水)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮 マタイ受難曲

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サントリーホールのお隣にある霊南坂教会のステンドグラス。

待ちに待った、ノットと東京交響楽団の「マタイ受難曲」

開演に先立ち、教会に立ち寄りました。

次の日、日曜の礼拝にそなえてオルガンを練習する音色も聴かれまして、おそらくバッハのコラールでしょうか

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  東京交響楽団 第734回 定期演奏会

       バッハ マタイ受難曲 BWV244

    エヴァンゲリスト:ヴェルナー・ギューラ
    イエス:ミヒャエル・ナジ
    ソプラノ:カタリナ・コンラディ
    メゾ・ソプラノ:アンナ・ルチア・リヒター
    テノール:櫻田 亮
    バリトン:萩原 潤
    バス  :加藤 宏隆

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
              東響コーラス
              東京少年少女合唱団

      合唱指揮:三浦 洋史
      ヴィオラ・ダ・ガンバ:福澤 宏
      児童合唱指揮:長谷川 久恵
      コンサートマスターⅠ:小林 壱成
      コンサートマスターⅡ:景山 昌太朗

        (2025.9.27 @サントリーホール)    

コンサートホールでのマタイ受難曲。
まさにコンサートスタイルでの現代楽器による演奏スタイルとしては最高峰に位する名演奏でした。
あらゆる演奏スタイルを受容するバッハの音楽、そのどれもがまさにバッハであり、バッハの音楽の懐の深さたる由縁であります。
クラシック聴き始めのころ、ジャック・ルーシェなどのジャズの領域におけるバッハ演奏に、ものすごく反発を覚えた自分です。
しかし、いまやそんなことは乗り越えて、正式にバッハを演奏するにしても、その奏法はあらゆる方法があり、そのどれもがバッハなのであります。

サイモン・ラトルばりに、古楽奏法を意識したスピーディかつ切り詰めた表現をするかと思った。
しかし、そんな予想はまりきり外れ、このサントリーホールでの指揮が自身初のマタイとのノットのすごさを今回も思い知るところろなった。

ふたつのオーケストラを左右に配し、総勢は50名ほど。
合唱は東響コーラスがフルスペックで100名以上に、少年少女合唱団。
ここからしてすでに予想は外れ、ソリストと、いつものにこやかなノットの登場するところとなった。

そして全霊を込めた指揮に導かれて鳴りだした音楽は、ヴィブラートをほぼ抑えながらも、じつに豊かで壮麗なもので、そのテンポ感もゆったりめだった。
この予想外の展開に、一瞬そうきたか、と思ったものの、数秒でもう涙腺を刺激されてしまうほどに真実の響きがあった。
いつもの暗譜での東響コーラスも切実なる歌を聴かせて、さらに加わる清澄な少年少女合唱団にも心動かされた。
 このあといくつもあるコラールは、客観性を持たせつつも、その前後の局面でのイエスの置かれた状況への感情移入を絶妙に変えてみせたように、多面的な表現もプラスされていたと思う。
ただ多くの方が感じたかもしれないが、人数がちょっと多すぎて、コラールでは音の輪郭や核心がぼやけてしまったかもしれない。
あと、子音のアクセントが効きすぎて聴こえたことも指摘しておきたい。
でも、この人数での合唱は、コラール以外の群衆の集団や心理などで、実に有効だったし、そのあたりがノットの狙いでもあったものと思う。

私は聴きながら、何度も涙ぐみ、感動のあまりに心が揺さぶられ、手も組み合わせつつ聴き進んだが、この演奏はリヒターのあの峻厳な演奏を現代によみがえらせ、もっと柔和に血の通った人間ドラマにしたものではないかとも思った。
第1部の最後の合唱における優しい響きはいかばかりだったろうか。
第2部に入ると、ノットの指揮の集中度はさらに高まりつつ、東響のソリストたちの素晴らしさも手伝い、音楽の美しさを掘り下げるようで、アリアの数々は本当に美しくてどこまでも続いて欲しいとその都度思うのだった。
さらに劇性も増してゆくかと思い、「バラバ!」「十字架に!」の群衆の叫びをさぞかし・・・と待ち受けていたら、そんなでもなかった。
そこが突出することを避けたのか、全体のなかのバランスとしての経過点に過ぎず、その後のコラールの静謐さとソプラノのアリアの虚無的なまでの無常観、メゾのアリアの淡々とした悲しみ、このあたりへの対比が実に素晴らしく、ここでもワタクシは涙ひとすじ・・・
「安らかに、おやすみください」の最後の合唱。
3時間以上の受難曲の終わりを飾る慰めと無常に満ちたこの音楽に、合唱もオーケストラもソロたちまでもが一体となってノットの神々しいまでの指揮のもとに応えておりました。
音楽が終わっても、会場は静寂のまま・・・・
最初は拍手することすらできなかった私、涙をぬぐって満場の喝采に参加しました。

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実績ゆたかなウェルナー・ギューラの福音史家、初めて聴くとおもったらそんなことはない、手持ちの音源を調べたらいろんなところに名前が出ていた。
知的かつ繊細な歌いまわしは、客観性もあってイエスの受難の物語の語り部としてふさわしい風格と気品もあった。

イエスを歌ったミヒャエル・ナジ、夏にはバイロイトの新演出マイスタージンガーで、印象的なベックメッサーを歌い演じたばかり。
芳醇な声と明晰さ、そして力強いバスバリトンの声も、ここではホールに響き渡らせてくれた。
多くの聴き手が、ナジの声には驚いたはずで、2部では登場も少なかったので、アリアなども出来れば聴きたいと思ったことだろう。
この先、オランダ人やウォータンとしても活躍すると思う。

コンラディのリリカルだけれど、言葉のひとつひとつが明快で、その澄んだ声と明瞭な言葉がほんとに心地がよかった。
その無垢なる声で歌われるソプラノのアリアの数々、ほんとに素敵だった。
彼女もバイロイトで歌っていてリングの第一声を飾るウォークリンデ役だ。

マタイ受難曲の歌手たちの肝ともいえるメゾのルチア・リヒター。
彼女は、ほんとに素晴らしかった。
バッハの音楽への共感にあふれた没頭感が、その姿と歌声ににじみ出ていて、情感を真摯に言葉に載せるナチュラルさも特筆すべき歌唱だった。
そう、「Erbarme dich」では、小林コンマスの美音のソロも手伝い、あまりの正鵠を射る歌に、この日、最大の落涙をしたのでした。
最後の合唱で、折り番となったコンラディとリヒター、合唱と一緒に感動とともに歌っていたのが印象的だった。

実績ある日本人歌手3人も負けじと素晴らしかった。
テノールの櫻田さん、甘い声でもあり、その優しい歌声がよかった。
数々の舞台で接してきたバリトンの萩原さん、ドイツ語も明快でイエスの死後の晴朗なアリアなどは効きごたえ十分。
ピラトも歌ったバスの加藤さんの深みのある声も魅力的で、わたしのイエスを返せでは景山さんのヴァイオリンソロも素敵で、渋い光沢のある声が光りました。

最後に最大級に讃えたい東響の皆さんのソロ。
竹山愛さんのほれぼれするほどのフルート、篠崎さんとの二重奏も素敵だった
そしてオーボエ・ダカッチャの最上さん、オーボエの荒さんの抜群のコンビネーション。
通奏低音で大活躍のチェロの伊藤さん、こんなに大変なんだと見て聴いて感心。
福澤さんのヴィオラ・ダ・ガンバの古雅な響きに切なさまで感じてしまった。
ふたりのコンマスの美音も先にふれたとおり。

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このようにバッハの音楽には、ひとりとして脇役はおらず、全員がバッハの音楽に奉仕するように作曲されていると思う。
その印象は、ノットの自主性を引きだす自在な指揮によるところも大きかった。

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あまりの感動の大きさに、忙しさもありましたが、しばらくは音楽が聴けない状態にあります。

偉大なり、バッハ、マタイ受難曲

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