2025年7月 6日 (日)

東京都交響楽団演奏会 カネラキス指揮

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梅雨明け間近の東京サントリーホール

涼しげなエントランスのグリーン、奥の水辺も夏は気持ちよい

不快指数高めの日々に、爽快な気分にさせてくれたコンサート

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人気のピアニスト、沙良=オットがソリストとあって、こんな素敵なスタンド花が。

華美にならない飾らない彼女のピアノにマッチした色合いかと。

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     「都響スペシャル」

  ラヴェル  ピアノ協奏曲 ト長調

  サティ   グノシエンヌ 第1番

    アリス・沙良=オット

  マーラー  交響曲第1番 ニ長調 「巨人」

   カリーナ・カネラキス指揮 東京都交響楽団

       コンサートマスター:水谷 晃

                        (2025.7.5 @サントリーホール)

前日の定期とともに、ソールドアウトのコンサート。
ふたりの女性、さらにはメインがマーラーということで人気を呼びました。
わたくしは、カネラキスを前々から海外オケの放送で聴き及んでいて、こんかいの初来日に即座にチケットゲット。
おまけに、ソロが沙良=オットというオマケつきで狂気したものです。
はいそうです、ワタクシはオジサンです。

カネラキスとほぼ同じ背格好、華奢で小柄な沙良=オットがステージに現れるだけで会場の空気が華やいだような気がした。
シルバーに近いドレスはシックで、この日のラヴェルの2楽章の落ち着いた美しさを早くも予見させる。
トレードマークともいえる素足で軽々と登場し、深々と一礼。
カネラキスと目を合わせすぐさまに軽やかに弾き始める、この流れるような一連の所作から、すべてが彼女の音楽だ。
彼女のピアノの音、その弾き姿、聴いて観て、すべてが音楽そのものに奉仕するように没頭感があり、それが嫌味にならず、聴き手の共感を呼ぶ客観性も帯びているところがよい。
 完璧な技巧を感じさせるが、それが強調されることなく、音楽を掘り下げて切りこんでゆく必死の姿をそこに感じ、聴き手も同感の思いで彼女の音楽に没頭することになる。
その点で、某YWさんとは大違い。
オーケストラをよく見ながら一緒になって楽しんでる様子も可愛く、正面から見える席だったので、足の指先まで音楽してる感じでよく動いてましたね。
 ともかくステキすぎたのが2楽章。
楚々たるオーケストラ、そしてコールアングレのソロとともに、透明感あふれるピアノは、天にも昇るばかり、シルクのようなしなやかさと、清流のような澄み切った透明感を感じさせるもので、ずっとずっと聴いていたい、続いて欲しいと思いつつ聴いた。
急転直下の3楽章では、オーケストラとの活発なやり取りが面白く、息つく間もない。
ふだん聴こえないような音がオーケストラに見出したのもカネラキスの目線か、次のマーラーでもそんなシーンはあった。

ステージから去る沙良=オットは、少し小走りに、ぴょんぴょんと跳ねるように楽屋へ向かいます。
そんな姿もオジサンは見逃しません。
何度かのコールで弾いてくれたのは、得意曲のサティ。
まさにアンニュイ感ただよう、儚さと切なさも味わうことができた一瞬でした。

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マーラーの1番は、カネラキスの得意曲のひとつ。
BBC響との2022年promsライブ録音も所持してまして、promsならではの活気あふれる演奏ですが、また彼女ならではの落ち着きも感じられるものでした。
欧米のメジャーオケをたくさん指揮し、オランダ放送フィルの首席、LPOの首席客演といった有力ポストにもあるカネラキス。
オランダ放送というレパートリーを磨くには好適の立場にあり、コンサートにオペラに、かなり通好みのプログラムを手掛けております。
海外の放送音源から、2018年あたりからカネラキスの名前を注目していて、相当数の音源を保有するに至りました。
そんななかで、いちばん気に入ってるのがラフマニノフのシンフォニック・ダンスと、トリスタンとイゾルデ、法悦の詩、ルトスワフスキ・オケコンなどです。
いまの指揮者にありがちな、後期ロマン派以降の作品に強く、古典系はまだまだ、というところではありますが、オペラでの活動も含めて、こんごともにカネラキスは目が離せない指揮者だと思います。

小柄な彼女ですが、指揮台のうえでは伸び上がったり、左右によく動いて、かなり綿密に指示を出します。
横顔を見ながらの位置でしたが、その眼力や表情の変化などもなかなかのもの。
左手での表情付け、タクトの明快さ、身体能力の高さがうかがえる柔軟性ある動きなど、拝見していてとても気持ちのいい指揮者でありました。
小柄でオット嬢にも負けないスリムなお姿とブロンドを束ねた可愛さ、でもどこからそんなパワーが出るのかと思うくらいに統率力があり、人を引き付ける後ろ姿でありました。

慎重すぎるきらいはあったが、盛り上げも充分なよく歌う1楽章、面白いフレーズが聴こえてくるのも発見だった。
緩急豊かでメリハリのよく効いた2楽章が面白かった。
リズム感のいい指揮に都響がよく反応し、こんなに楽しいスケルツォってないなと思いながら聴き、対するレントラーもよく歌いあげ気持ちが極めてよろしい。
ともかく明朗快活なカネラキスの指揮は2楽章で明確になった。
 都響の各奏者の巧さにも助けられ、重さや物憂ささよりは、明るい前向きな歩みを感じさせた3楽章。
このあたりに陰りや若さゆえのほろ苦さを今後、彼女は表現できるようになることだろう。
ちゃんとアタッカで緊張を止めることなく突入してくれた終楽章。
弦への指示も熱く、都響の分厚い弦楽器セクションも大いに荒れて興奮を呼び覚ます。
ヴァイオリン出身のカネラキスの指揮のこの日のハイライトは、このあと静まってからの第2主題。
静やかに、でも細心の丁寧さを持って歌われる弦によるこの美しい旋律、それが徐々に高まる情熱が加わり、気持ちを込めて指揮をするカネラキス、とても感動的なシーンがここで繰り広げられた。
 次いで出現する1回目のクライマックスとの対比も鮮やかに決まり、また静まってから第2主題が奏でられるが、ここでの静寂シーンでの緊張感はさらなる精度を求めたくもあり。
でも繰り返される波動のように徐々に迎えるクライマックスの前兆、このあたりはオケの見事さもあり聴きごたえあり。
テンポも少し早めつつ、やってきたコーダは若々しい情熱の発露のようであり、堂々たるフィナーレというよりは、明朗で爽快、一気に駆け抜ける早春譜のようでもあった。
こんな若々しいマーラー、久しぶりに聴いた。
聴き手によっては、もっと爆発的なフィナーレを期待したかもしれないが、わたしには、こんな健康的ヘルシー・マーラーは新鮮だったのです。

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女性指揮者と、いまや「女性」でくくることはナンセンスではありますが、しいていえば、若手女性指揮者のトップスリーは、グラジニーテ・ティーラとマルヴィッツ、そしてカネラキスと思ってます。
ミルガたん、カネラキスたん、なんて女の子みたいに呼んでた自分を恥じたい。

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また日本に来て欲しいし、オランダ放送、またはロンドンフィルとはガードナーと一緒にやってきて欲しいな。
アメリカのメジャーオケの指揮者になることもありうるな。

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鳴りやまぬ拍手に応えてひとり登場したカネラキス。

飾り気ないなかに、女性らしい優しい所作で感謝を表明。

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サントリーホールの裏にある庭園には桔梗が咲いてました。

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2025年6月26日 (木)

アバドのワーグナー

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もうシーズンは終わってしまいましたが、秦野市の公園のバラ園。

AIの助けを借りて、空を加工して丹沢の向こうに虹をかけてみました。

バラの品種は「マリア・カラス」

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もう1枚、虹を出現させてみました。

6月26日は、クラウディオ・アバド生誕92年の日です。

1933年にミラノで生まれ、2014年にボローニャで永眠。

今年の生誕祭は、ロッシーニでも行こうかと思っていたら、「ラインの黄金」の素晴らしい演奏を聴いたばかりで、頭が完全にワーグナーになってしまっている。
よく食べ物なんかでも、口が〇〇になっちゃってる、といって他のものを食べたくなくなることありますね。
まさにそれ、「アバドのワーグナー」です。

若いときから、ロッシーニとヴェルディは演目を選びながらも積極的に指揮してきたアバド。

ローエングリン

では、ワーグナーはどうだったかというと、極めて慎重だったと思いますが、そこはアバドらしく、ずっと若い時から本格取り込みの準備と機会を暖めていったと感じてます。
スカラ座の音楽監督だったとはいえ、ベルクやムソルグスキーばかりだと聴衆や運営サイドの不満を得るだろう。
だからアバドのピットでの初ワーグナーは、1981年のシーズンオープニングの「ローエングリン」で、スカラ座での活動時期の終盤にあたる頃でした。
この年に、アバドはスカラ座を率いて歴史的な来日公演を行いました。

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「スカラ座の黄金時代」というドキュメントDVDで、スカラ座のローエングリンのリハーサルやタイトルロールのルネ・コロの歌などを観ることができます。
1981年12月、翌年の4月、ストレーラーの演出、コロのほかは、トモワ・シントウ、コネル、ニムスゲルン、ハウクラントといった歌手。
コロは2回だけの出演で、イェルサレムとP・ホフマンに替わってます。
音はあまりよくないですが、ネット上で聴くことができますが、スカラ座のピットでは熱く燃えるアバドだったので、ローエングリンの登場シーンなどなかなかスリリングで手に汗握る雰囲気です。

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当時、レコ芸のイタリア通信を毎月ワクワクしながら読んでいて、このあとアバドはワーグナーにガッツリ取り込んでいくかと思ったら、そんなことはなくこの年の上演で、スカラ座はおろかほかでも取り上げませんでしたね。
唯一、83年夏にエディンバラでロンドン響と2幕のみを演奏していて、こちらはNHKで放送されたので、いまでもエアチェック音源として大切にしてます。
アバドはローエングリンの2幕の持つ「光と陰」の性格に着目していたものと思います。
深い洞察を持って、登場人物たちの心理に切り込み、一方でエルザの教会入場のシーンなどは、思い切り輝かしく演奏してます。

スカラ座からウィーンに移ったアバドは、90年に国立歌劇場でローエングリンを上演しました。
このときの映像が出てはいますが、画質がよくなく、ブルーレイ化を望みたいものですが、私はドミンゴのワーグナーがあまり好きでないので、そこだけがどうも浮ついていて違和感を感じます。

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92年にムジークフェラインでスタジオ録音されたものは、アバドとしてはイェルサレムにローエングリンを変えたことで、落ち着きと安定した歌唱の雰囲気の均一化が図られたことで、透明感とともに柔らかで精緻なワーグナー演奏を打ち立てることができたものと思います。
もし、80年代にロンドンでローエングリン全曲が録音されていれば、それはまたアバドならではの鮮烈な演奏になっていたかと・・・・

トリスタンとイゾルデ

長い活動歴にあって、アバドはワーグナーをいつから指揮をしているか?
いつもお世話になっておりますclaidio abbado 資料館様のデータを参考にして調べてみました。

いちばん最初に指揮したのは「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死です。
1971年のレコ芸の注目の指揮者特集で、高崎保男氏がアバドに関して投稿していて、ヨーロッパでアバドの指揮をいくつか聴いてきて、有望な若手の筆頭として書かれていた。
そこにあったのは、ニュー・フィルハーモニア管でトリスタンを聴いたとあり、当時、もうアバド好きだったワタクシは、アバドがトリスタンを指揮していたということへの驚きと聴いてみたいという願望でありました。
その演奏データが1968年のエディンバラとルツェルンでの演奏会のものでした。
さらにさかのぼると、1962年にローマのチェチーリア管、63年にフェニーチェ座のオケで、前奏曲と愛の死を指揮してました。
あとは70年にフィラデルフィアで前奏曲と愛の死をとり上げたぐらいで、その後は長くあたためて、97年に全曲演奏を見据えてウィーンフィルと演奏。
98年の11月にベルリンでコンサート形式で全曲演奏、これが本来正式録音として残されるものだったかもしれない。
99年にザルツブルクイーズター祭で舞台上演、翌年の夏のザルツブルクではウィーンフィルと演奏予定だったが、キャンセル。
その後に病魔に冒され療養に入り、2000年11月と12月に東京での全曲上演となりました。

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ローエングリンよりも早くから手掛け、98~2000年に最高のトリスタンを作り上げたアバド。
ワーグナー諸作のなかにあって、やはりトリスタンを一番愛したのがアバドであったと思います。
日本における「アバドのトリスタン」の上演を体験できたことは、スカラ座との「シモン」、ベルリン・ドイツ・オペラの「リング」とともに、生涯忘れえぬ最高のオペラ体験だと思ってます。
最初から最後まで、張り詰めた緊張が途切れることなく、オーケストラも歌手も、すべてがアバドのために演奏し歌っているかのように献身的だった。
終わらないで欲しいと願いつつ、「愛の死」が静かに終結したとき、私は涙にくれてました。
そしてカーテンコールで登場した痩せ細ってしまったアバドにショックを受けた。
もう、ゆっくり休んで欲しいとまで思ったのですが、優しい笑顔と鋭い眼光はいつものアバドでした。
2004年にルツェルンで2幕のみを演奏。
ここで年をまたがってもよかったので、気の合う最強オケと全曲を残して欲しかったものです。

ニュルンベルクのマイスタージンガー

トリスタンと同様に、若い頃から前奏曲だけを指揮してきた。
73年のウィーンフィルとの来日ではアンコールとして演奏、それ以外に70年代はウィーンやロンドンで頻繁に演奏。
92年のウィーンでの演奏は、ベルリオーズのテ・デウムとともにDVD化されてるし、翌年のベルリンフィルでのジルヴェスターコンサートでは、ワーグナーガラとして、そのプログラムのなかで演奏されました。
明るいハ調の音楽はアバド向きの曲だし、ウィーンもベルリンも晴れやかな気分にしてくれる大好きな演奏です。
ゆくゆくは、マイスタージンガーの上演も頭にあったようですので、ベルリンでの活動を継続できなかったことは、その点では残念なことです。

パルジファル

アバドが最後に取り組んだ作品が「パルジファル」
ローエングリンに始まり、パルジファルに帰結。
音楽的にはトリスタンの先にあったパルジファル。
ほかの作品のように前奏曲などを演奏しながら全曲にいどむということなく、いきなりベルリンで演奏会形式で全幕を指揮。
東京トリスタンから1年後の2001年の11月。
この演奏はCDR化されていて、やや音の揺れはあるが録音はほぼ万全。
非正規であるので問題ありだが、ここに聴くアバドの無為な姿勢が病後にベルリンフィルとの関係と信頼が一段と深まったことにより、透明感と精緻さにあふれたラテン的な明晰な演奏となっている。
秋にベルリンでコンサートスタイルで演奏し、翌春のイースター音楽祭2002で舞台上演するといった、カラヤン時代から継承されたベルリンフィルのオペラの演奏スタイル。
願わくば、正規録音として残して欲しかったものですが、このザルツブルクでは別途タンホイザー序曲とパルジファルの3幕からの組曲編を録音してまして、これが唯一の貴重なパルジファル正規音源となりました。
同じ2002年には、オーケストラをマーラー・ユーゲントオケに変えて、ミュンヘン、エディンバラ、ルツェルンでもコンサート形式上演をしてます。
新ウィーン楽派の音楽をこよなく愛したアバドにとって、パルジファルは同じく愛したドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」にも通じる抑制の効いた繊細な音楽として、それをいかに精妙に明晰に聴かせるかということにおいて、おおいに共感を抱いていたのではと思います。

ジークフリート牧歌

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これもアバド向きの作品とも若い頃から思っていたけれど、案外とやってくれなかった。
ヨーロッパ室内管との演奏が忽然と登場したときは、アバドがやっていたのを知らなかったので驚いたものです。
88年のルツェルンでのライブ、清潔で幸せな、よく歌う演奏でした。
ベルリンフィルでは97年に取り上げていたようですが、ウィーンやロンドンでは演奏せず。

ファウスト序曲

案外とこの若書きのワーグナーのシリアスな作品も、アバドは得意にしてました。
1983年にロンドン響、ウィーンフィル、ECユースオケ、シカゴ響でそれぞれ演奏。
そのあとは93年と99年にベルリンフィルで。
手元にある99年の放送録音は、音もよく、ほどよい深刻さもあり、なかなかに良い曲だと思わせる演奏です

ヴェーゼンドンク歌曲集

ほぼ指揮せず、演奏会でのアバド最後のワーグナーとなったと思われる2006年のベルリンフィルへの客演で、ゾフィー・オッターの歌唱で取り上げてます。
この演奏は放送もされなかったと記憶しますが、同時に演奏されたシューマンのマンフレッド全曲とともに希少な演奏記録となったのでは、とまたも残念がるわたくしです。

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すり減るほどに聴いた1993年ジルヴェスターコンサート。
当時はNHKで生中継されたのでビデオ録画しながら、大晦日に正座しながら視聴し、興奮の年越しを過ごしましたよ。

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2000年11月の前奏曲と愛の死は、日本に来る直前の演奏で、あのときの凄演を偲ぶよすがとなります。
タンホイザーとパルジファルは2002年のザルツブルクライブ。

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ブリン・ターフェルのワーグナー集に贅沢にもアバドとベルリンフィルを配したDGの当時の意気込み。
こちらも日本に来る前の2000年11月と、パルジファルなどは2001年の5月の録音。
いまでは角が取れてより練れた声や表現で円熟期にあるターフェルだが、この頃は意欲満々、歌いすぎ、アクもやや濃すぎで、アバドの求めるワーグナーとはちょっと違うのでは、と思う1枚。
しかし、オランダ人序曲やガラに次いで2度目のマイスタージンガーのザックスのモノローグ、さらにはアバド唯一のワルキューレのウォータンの告別などが聴ける。
告別での壮麗な夕景を見るような演奏はわたくしには涙ものです。

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2008年12月の録音。
いまをときめくカウフマンのバックを務めた1枚で、文字通り最後のワーグナー。
ローエングリンの名乗り、ジークムントの冬の日は去り、パルジファルのアンフォルタスと役立つのはただひとつの武器。
マーラーチェンバーオケを指揮して室内楽的な精妙極まりない、無垢の域に達してしまったパルジファルが聴ける。

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ずっと聴いてきたクラウディオ・アバド。

放送音源など、そろそろ驚きの新譜など出てこないものかな。

アバド生誕祭 過去記事一覧

「ロメオと法悦の詩 ボストン響」2006

「ジルヴェスターのワーグナー」2007

「ペレアスとメリザンド 組曲」2008

「マーラー 1番 シカゴ響」2009

「ブラームス 交響曲全集」2010

「グレの歌」2011

「エレクトラ」2012

「ワーグナー&ヴェルディ ガラ」2013

「マーラー 復活 3種」2014

「シューベルト ザ・グレート」2015

「新ウィーン楽派の音楽」2016

「メンデルスゾーン スコットランド」2017

「スカラ座のアバド ヴェルディ合唱曲」2018

「ヤナーチェク シンフォニエッタ」2019

「スカラ座 その黄金時代DVD」2020

「ランスへの旅」2021

「アバド&アルゲリッチ」2022


「ヴェルディ ファルスタッフ」2023

「アバド&ロンドン響」2024

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2025年6月23日 (月)

ワーグナー 「ラインの黄金」 神奈川フィルハーモニー

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みなとみらいエリアの20時2分。

17時に低弦5度の音から開始し、19時30分には輝かしい虹の橋への歩みで終結。

呪縛にかかったように聴きとおした2時間半とその後のブラボーの嵐。

終演後の散策、海を渡る風が心地よかったのでした。

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 神奈川フィルハーモニー ドラマテックシリーズⅢ

       ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」

 ウォータン   :青山 貴           ドンナー:黒田  祐貴
 フロー       :チャールズ・キム  ローゲ:澤武 紀行
 ファゾルト   :妻屋 秀和           ファフナー:斉木 建詞
 アルベリヒ   :志村 文彦           ミーメ:高橋 淳
 フライア    :谷口 睦美           フライア:船越 亜弥
 エルダ     :八木 寿子           ウォークリンデ:九嶋 香奈枝
 ウェルグンデ:秋本 悠希             フロースヒルデ:藤井 麻美

  沼尻 竜典 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団

     ゲストコンサートマスター:荻谷 泰朋

         (2025.6.21 @みなとみらいホール)

二期会でワーグナーやシュトラウスを上演する際に目にする皆様方や琵琶湖オペラで活動する方々で構成された最強メンバーによる「ラインゴールド」
「サロメ」「夕鶴」と続いた沼尻&神奈川フィルのオペラコンサート上演のドラマテックシリーズの3作目。
こうなると、リング4部作を続行して、「ハマのワーグナー」の金字塔を打ち立てて欲しいけれども、なかなかそうはいかないでしょう。
でも、多くの聴衆がそう思ったことと思います。
それだけ素晴らしくも完成度の高い演奏だった。

ワーグナーの諸作のなかで、もっとも大編成のオーケストラを要する作品で、4管編成、ホルン8、ハープ6台、ティンパニ2対、打楽器複数、ハンマー、金床×9人・・・ほぼワーグナーの指定通りの楽員さんが、びっしりとステージに並び、壮観なことこのうえない。
ギッシリ観では、マーラーの7番あたりを思い起こします。
ハープ1台は、ステージ後方の席に、金床は同じくで、パイプオルガンの前に9人しっかり陣取りました。
楽団の巧みな広報で、この金床は、地元企業「京浜急行」の提供による実際の鉄道レールを使用したとのことが前々から告知されていたので、多くの聴き手がニーベルハイムへの移動シーンでこれが鳴らされたときに度肝を抜かれたことでしょう。

歌手たちは演技をともないつつ、オーケストラの前で歌い、女声は役柄をイメージしたドレス、男声はいずれもタキシードだったが、ローゲの澤武さんのみ、赤いネクタイとチーフ、さらには髪も一部赤くして「火の神」を表現していた。

今回上演の主役のひとつはオーケストラ。
演奏会形式の「ラインの黄金」の日本上演は、4回目か5回目になると思うが、私が聴いたのは40年前の朝比奈隆のもので、歌手はオーケストラの後方にひな壇を儲けて歌った。
私が行かなかったティーレマンとドレスデンはサントリーホールでP席にて、ヤノフスキの東京の春はオーケストラの手前で、といった歌手配置。
今回の神奈川フィルは、歌手はオーケストラの前、最後のラインの乙女たちだけP席から名残惜しそうに歌った。

オペラの手練れの沼尻マエストロの全体を見通し、的確な指示を与えつつ、巧みに山場を築き上げる手腕は、ここでも安心安全そのもの。
自慢じゃないけれど、ワタクシのように、ワーグナー漬けですべてのシーンと音が脳裏に刻まれている聴き手にとっても、すべてが納得できる普遍的なワーグナー演奏であったこと。
どこにも首を傾げたくなるかしょはなく、すべてOK、ここでがーーっときて、ここで引いて、そこでこういう感じで響かせて、あそこはこうだよね、こう来るよね、ってとこがちゃんと来る。
 原初の開始でもある冒頭は極めてクリアにはじまり、曖昧さはなし、さざ波のように弦楽器が加わって徐々に音が広がってゆく。
このシーンだけでもずっと聴いてきた神奈川フィルの音色のスリムな美しさを感じ、オペラを聴く喜びやワクワク感を味わえるのだった。
そして、そこにラインの乙女たちの登場でホールの雰囲気は最高に高まった。
以降、2時間30分にわたって、緊張の糸のとぎれることのない、でもしなやかで重くないスマートなワーグナー演奏が展開されるのでした。
CDではスピーカーのビリ付きなど、ヒヤヒヤしながら聴くダイナミックなか所も、ホールで聴くので心配無用。
そうした一撃音や件の金床などに、注目しがちだが、ワーグナーがローエングリンの完成から5年を経て到達したライトモティーフを網の目のように張り巡らせた緻密な作曲技法により表現された登場人物たちの内面の音楽表現。
このあたりを完全に知悉しつくした指揮者が、歌手とオーケストラを統率しつつピュアな音楽造りを目指したものと感じた。
 巨人たちの登場もものものしさは皆無で、雷鳴から虹、城への入場と続く壮麗な幕切れのシーンも極めて音楽的でもっともっと盛り上げることは可能だったかと思うが、爽やかさすら感じる爽快明快な終結部に沼尻&神奈川フィルのらしさを感じた。
 大音量よりも、ちょっとした音の変化や、事象に関しても極めて鋭敏に反応し対応していたと思う。
ローゲが語る神々の不死の秘訣や永遠の青春の場面での室内楽的な表現やただようロマンティシズム、ファゾルトの優しい心根をうかがわせるようなモノローグは、わたしも発見が多かったし、アルベリヒの呪いの場面なども指環4部作に通底する本質を確信的に表現。
 自分にとって聴き慣れた「リング」の序夜、こうして聴いていていろんな発見がいまだにあったことが新鮮だったのだ。
このまま4部作にあらたな目線で切りこんで欲しい。

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2階席にあがってパシャリ。こんな風なオーケストラの配置とポツンとハープ。

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邪知にたけた抜け目ないローゲを歌った澤武さんの素晴らしさには驚きでした。
立派なヘルデンで歌われるローゲもあるが、知的で軽やかなこのローゲは狂言回し以上の存在感があり、ウォータンを操り、神々の終焉を予見するようなニヒルな存在であることをしかと示してくれた。
柔らかな声とよく響く高域、明確なドイツ語など感心しまくり。
昨冬のばらの騎士のヴァルツァッキ、この前のアリアドネでもいい味だしてたし、また聴いてみたい歌手となりました。

ファンであります谷口さんのフリッカ。
期待通りの存在感あるお声に立ち居振る舞いは、居丈高でありながら、ラインの黄金ではまだ妻としての夫を思うしおらしさなども巧みに表現。
そのよく通る強い声はいつも魅力的です。

お馴染みの妻屋さんのファフナー。
新国のトーキョー・リングではファフナー、この日のミーメの高橋さんも出ていたが、あれからもう16年。
含蓄のあるファゾルトとなっていて、愛に生きようとしたファゾルトをオーケストラの巧みな背景とともに歌い演じた。
その安定感は舞台が引き締まります。
フライアに秋波を送る仕草はユーモアもたっぷりで、それを露骨に嫌がるフライアのシーンも愉快でしたな。

巨人兄弟のもう一方は朗々とした深いバスの斉木さん。
神奈フィルのワルキューレではフンディング、あとずっと前にオネーギンのグレーミン公を聴いてます。
声の充実ぶりが半端なかったです。

同じ沼尻&神奈川フィルのワルキューレでのウォータンは、青山さんだった。
そのときの若々しいウォータンは、今回は狡猾さもあり、陰影も感じさせる神々の長となっており、矛盾とあふれる行動力という背反する役柄を持ち前の美声で巧みに歌い演じてました。

ベテランの志村さんのアルベリヒ。
いろんな諸役でずいぶんと長く聴いてきたバリトンのひとりですが、今回はおひとりだけ譜面台を用意しての歌唱。
そのせいかどうかわかりませんが、アルベリヒに必要な声の威力が不足していてこもりがち、歌い口の巧さなどはさすがと思わせるところはあったけれども、黄金を奪う場面、聴かせどころの呪いのモノローグなどはややオーケストラやラインの元気な乙女たちに押され気味。

同じくベテランの域に達した高橋さんのミーメは、先に触れた通り新国でもおなじみだし、性格テノールとして数々の舞台に接してきました。
ひぃーひぃー声も、伸びのある特徴的な高域も健在ぶりを確認できて嬉しかったです。

つい先だって、静岡アリアドネでステキなハルレキンを聴いたばかりの黒田さんのドンナー、かっこよかった。
すらりとした姿も神々のひとりとしてふさわしいし、その若々しい伸びのある声はドンナーにしては優しすぎる感もありましたが、ハンマードッカンに負けず渾身の歌唱でした。
カヴァリエバリトンとしての黒田さん、琵琶湖でのコルンゴルトも聴きたかったものです。

代役として登場のチャールズ・キムさん、バイロイトで1年だけパルジファルの小姓を歌っているそうで、ワーグナーを得意にする韓国人テノール。
威勢のいいところを表出しなくてはならないちょい役の神様だけれど、やや精彩に欠いた気がする。
声の力や美声はありと感じましたので、また違う役柄でしっかり登場して欲しいものです。

フライア役は、ジークリンデやエルザなどの登竜門みたいな役柄ですが、船越さんのそれを予見させるような立派だけれど可愛いフライア。
調べたら彼女も琵琶湖でやった最愛のオペラ「死の都」にも出てたんですね。
あの上演、ほんと行きたかった・・・・

そして同じく琵琶湖の死の都はおろか、おおくのオペラで歌っている八木さんのエルダ。
初めて聴いた彼女のメゾの明晰な声に驚きでした。
船越さんもそうですが、関西圏で活躍する歌手は、首都圏ではあまり接する機会がないものですから、沼尻さんの力でしょうが、こうして初めて耳にできる声に新鮮さを覚えることもまた実にいいものです。

ラインの乙女たち、3者三様でワーグナーが与えた3役の特徴をそれぞれがよく表現できてました。
なによりも可愛い、というオジサン目線ですいません。
軽やかで涼やかな九嶋さんのウォークリンデ、リングの最初の発声を飾るにふさわしい晴れやかさもありました。
透明感ある魅力的なメゾの声は秋本さんのヴェルグンデ、歌曲も多く歌われているご様子で素敵なyoutubeチャンネル見つけちゃいましたよ。
そして、昨秋の「影のない女」でとても人間味ある乳母を歌っていた藤井さんのフロースヒルデは、お茶目で明るい末っ子みたいな感じ。
この3人のハーモニーが美しく、息もばっちり整ってましたし、エンディングのP席での「指環を返してよ~」という恨み節もばっちりで、その後に続く壮麗なエンディングを導く素敵な一節となりました。

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40年前の朝比奈リングをすべて聴いた自分は若かった。
その後、二期会の個別日本人初演、ベルリン・ドイツ・オペラの全作、2度の新国での上演などを観劇してきました。
自分もすっかり歳を経ることとなりましたが、日本人だけで、しかも身近な横浜の地、応援する神奈川フィルでかくも素晴らしい「ラインの黄金」が演奏されたという喜び。
このまま4部作の続編にいどんで欲しいと願うものですが、そうはなかなか行かないでしょう。
でも至難のマーラーチクルスもやれちゃった神奈川フィル。
「ハマのワーグナー」を東京春が終わったいま、沼尻&神奈川フィルにより確立して欲しいな。

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画家の真田将太朗氏による今回の公演にむけたオリジナル作品。
錯綜する色彩は愛と葛藤、憎しみや権力欲など多彩な意味合いや人物たちの関係性も交えてここに表現したとのこと。
神奈川フィルのドラマテックシリーズは、こうした「メインビジュアル」が作成され、オペラのイメージアップの一助ともなっていることもよき試みと思います。
しつこいようだけれど、4部作をこうしたビジュアルでも揃えて欲しいなぁ

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2025年6月19日 (木)

アルフレート・ブレンデルを偲んで

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偉大なピアニストのひとり、アルフレート・ブレンデル(1931~2025)が亡くなりました。

享年94歳、ロンドンの自宅で愛する家族に見守られながらの安らかな最期だったそうです。

現在のチェコ、モラヴィアの北部のヴィーセンベルクに生まれ、幼少期にユーゴスラビアのザグレブに移りそこでピアノを習い、さらにはグラーツに移住。
オーストリアでの活動が中心となり、レコードデビューも遅かったりしたものだから、オーストリアないしはウィーンのピアニストというイメージで紹介されたように記憶します。
70年代からはロンドンに住むようになり、ブレンデルはまさにヨーロッパ人として活動し、生きた人でした。

チャンスはいくつかありましたが、実演に接することは残念ながらありませんでした。

多くの残された録音を聴いて、今宵はブレンデルの暖かい人柄のにじみ出た演奏で偲びたいと思います。

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     ベートーヴェン ピアノ協奏曲第1番

      ヴィルフレット・ベッチャー指揮
        シュトゥットガルト・フィルハーモニー


                        (1961)
   
私の初ブレンデルはおろか、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の初聴きは、第1番でこの1枚だった。
1970年、まだ小学生だったこの年は、大阪万博があり、世界中から目もくらむような演奏家たちが日本にやってきた。
同時に、この年はベートーヴェンの生誕200年のアニバーサリーで、さらにはクラシックレコード界に旋風を巻き起こした1000円の廉価盤、ダイアモンドシリーズのLPがたくさん発売された
当然に、ベートーヴェンもたくさん出て、ピアノ協奏曲やピアノソナタはブレンデルという初めて聴く名前のピアニストのものだったのです。

1番の初々しさと、豊富なメロディが好きだったので、皇帝よりも先にこの曲だった。
いま聴いてもブレンデルの若やいだピアノが魅力的で、この曲にぴったり。
子供時代の自分を思い起こしてしまうほどに、懐かしい演奏なんです。

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   ベートーヴェン  ピアノ協奏曲全曲

 ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団

                (1975~77)


70年代のロンドンでの新しい全集。
このあと、レヴァインとシカゴ、ラトルとウィーンフィルでも再録音を重ねたが、わたしはそれらは聴いたことがありませんので、いずれは、との思いはあります。
でも、ハイティンクとその音楽性がぴたりと一致していて、録音もスケールが大きく、深みがあるこのロンドンフィル盤があれば、もういいかな、とも考えてました。
中庸の美という言葉が、いかにも似つかわしいブレンデルとハイティンクのベートーヴェンは、そいれだけで立派で美しいのでした。

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      モーツァルト ピアノ協奏曲全集

 サー・ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団

                       (1971~1984)

72年頃から1枚1枚発売され、全集として実ったブレンデルのモーツァルト。
レコードでは2~3枚しか購入しなかったけれど、CD時代に全集を揃え、いずれの番号もその清潔で端正な演奏で毎日でも聴きたい喜びにあふれていて、大切にしている全集です。
フィリップスレーベルの専属同士で共演するという、いまではあまり考えにくいレーベルの強さやシバリのあった時代。
モーツァルトならマリナーとアカデミーで決り、そんなシリーズでしたね。

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   バッハ 半音階幻想曲とフーガ

               (1976,5)

生真面目で明確、詩的でもあるブレンデルのバッハ。
ピアノによる演奏では、抜群の完成度とよけいなニュアンスを排したシンプルな表現。
平均率やゴールドベルクも残して欲しかった。
この時期のフィリップスの録音の素晴らしさも特筆ものだといまも思う。

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  シューベルト ピアノ作品全集

          (1982~88)

ソナタのほぼ全曲と即興曲、楽興の時などを集大成したセット。
シューベルトがウィーンの人であったことを感じさせる優美さもありつつ、陰影の深み、抒情と情熱など、それらのバランスが実に見事な理想的なシューベルトだと思う。
2度目の録音が多く含まれた全集だけど、70年代のものもいつか聴いてみたいもの。

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   シューマン ピアノ協奏曲 イ短調

 クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

                     (1979.6)

なんどかこのブログでも取り上げている大好きな演奏で、学生時代の思い出も詰まっている。
以前の記事のままに残します。
折り目正しい弾きぶりのなかに、シューマンのロマンティシズムの抽出が見事で、柔和ななかに輝く詩的な演奏。
アバドとロンドン響も、ともかくロマン派の音楽然としていて、溢れいづる音楽の泉にとともに、早春賦のような若々しい表情もある。
芯のある録音の素晴らしさは極めて音楽的で、ピアノの暖かな響きと、オーケストラのウォーム・トーンがしっかりと溶け合って美しい。
 渋谷を闊歩する若かった自分・・・、いまはもうブレンデルもアバドもいない・・・・

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  シューマン 幻想小曲集

                 (1982)

ヨーロッパの秋を思わせるロマンティシズム、知的で明快、やわらかでふくよかな音色。
ブレンデルのシューマンは秋なのでした。
ブレンデルの写真には、アフリカの偶像とか、少し変わったものが音楽のイメージと関係なく写っていることが多いが、こうしたものを収集する嗜好もあったのだそうな。
文筆家としての一面もあり、多彩な芸術的才能を大器晩成的に開かせていったブレンデル。
晩年は耳が不自由になっていったそうだ。

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  リスト 「巡礼の年」第2年「イタリア」

             (1972)

リストもブレンデルにとって重要な作曲家。
ギーレンとハイティンクとで残した協奏曲もいいが、より内省的な作品の方がブレンデル向き。
レコード時代にすり減るほどに聴いたのが「巡礼の年」。
リストの音楽はソナタや協奏曲、超絶技巧作品ばかりでなく、本来こうした内向的な音楽に良さがあると思いおこさせてくれた1枚。
まさに静的な彫刻作品を鑑賞するがごとき内面、内面へと堀りすすめられる演奏で、音楽がおのずと静かに語り始めるのを聴くのだ。

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    ブラームス ピアノ協奏曲

    クラウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

       (1986、91)

ブラームスはかくあるべし、お手本のようなブレンデルのブラームス。
70年代はコンセルトヘボウで、90年代はベルリンで。
若くフレッシュな表情にあふれた70年代ものは、ハイティンクとともに木質の響きと音色が心地よく、コンセルトヘボウとのマッチングも実によい。
1番を録音したイッセルシュテットの急逝で、2番はハイティンクとの録音となったが、この曲の場合はそれが成功したのだと思う。
ちなみに、1番の方は発売されたときにFM録音したのみで、現在はコレクションできてません。

一方、馥郁たる熟成した葡萄酒のような90年代ものは円熟の極みを感じさせますが、2番よりは1番の方がブラームスの若やぎと渋さが両立されて巧みに聴かせるし、アバドとベルリンフィルの明るさとともに重厚な響きもそれにふさわしく感じる。
2番はブレンデル自身があまり好まないと発言したことを知り、なんでだろうといつも思いながら聴くので、勝手に自分的にブレンデルは1番、と思い込みが出来ていた。
でも久しぶりに2番も聴いてみて、とくに緩徐楽章に涙しました。
なんて美しいピアノなんだろうと。

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  ベートーヴェン ピアノソナタ全集

       (1992~95)

3度録音したベートーヴェン全集の最後のもの。
音源としてはこれしか保有してませんが、1番から順番に聴いて過ごすことを何度かやりました。
ともかく誠実で格調高いベートーヴェンで、初期の作品の新鮮さ、中期の冷静さと熱っぽさとのバランスのよさ、そして後期作品の造形美としなやかな抒情、どの曲も適切でありながら考え抜かれたピアノ演奏になってました。

最期に、澄み切った達観した境地の30番を聴きながらブレンデル追悼記事を閉じたいと思います。

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アルフレート・ブレンデルさん、半世紀あまりにわたり、素晴らしいピアノを私は聴かせていただきました。
その魂が安らかでありますことお祈りいたします。

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2025年6月10日 (火)

東京交響楽団定期演奏会 マリオッティ指揮

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梅雨入り間近の日曜日。

関東は好天に恵まれるのは、もしかしたら最後の週末だったかも。

新橋からサントリーホールまで、行きはいつも歩きます。

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    東京交響楽団 第731回 定期演奏会

   モーツァルト 交響曲第25番 ト短調 K.183

    ロッシーニ   スターバト・マーテル

    S  :ハスミック・トロシャン
    Ms:ダニエラ・バルチェローナ
    T  :マキシム・ミロノフ
    Bs :マルコ・ミミカ

  ミケーレ・マリオッティ指揮 東京交響楽団
                東響コーラス
    合唱指揮:辻 裕久
    コンサートマスター:グレブ・ニキティン

       (2025.6.8 @サントリーホール)

悲しみの短調でつらぬかれたプログラム。
でも、そこには優しい微笑みと強い意志がありました。

ボローニャ、ローマとイタリアのオペラの殿堂の指揮者を歴任しているミケーレ・マリオッティ(45)、念願の初聴きとなりました。
ダニエーレ・ルスティオーニ(42)とアンドレア・バティストーニ(37)とならぶイタリアの若手実力指揮者トリオのひとり。
 またマリオッティは、その指揮ぶりがクラウディオ・アバドにそっくりなところも前から注目していて、ともかくこの目で耳で確かめてみたい指揮者でした。

疾風怒濤の小ト短調は、強くて意欲みなぎる出だしにすぐさま感嘆。
しかし若さで押すようなところは一切なく、落ち着きはらった的確な指揮姿、その姿にやはりアバドの動きと似たものを見た思い。
拍子をとる指揮棒は軽く握り、左手のしなやかな動きによるオーケストラのコントロールは抜群で、まさにアバドを見るようだった。
1楽章から指揮に見入るばかりだったが、小編成の東響のクリアな響きも特筆でこの曲の肝でもあるオーボエやホルンも素晴らしい。
ヴィブラートは少なめながら、ガチガチの古楽的な奏法ではなく、マイルドな響きが実に心地よかった。
柔和な2楽章、喜悦感あふれるトリオがずっと聴きたくなるほどだった3楽章、終楽章は急がずにじっくりとした仕上がりで端正そのもの。
奇をてらわず、クリアーで誠実な演奏であったことがなによりでした。

スターバト・マーテル、合唱はP席でなくステージ奥に陣取りますが、休憩後まず最初に左右袖から登場の東響コーラス。
出てくる出て来る、たくさん登場で、お隣の方々も「ずいぶんねー」と驚かれてまして、目の子で数えて男声40/女声60って感じでまさに壮観。
ステージにオーケストラと乗ることで、音の一体感と合唱だけが突出してしまうことがなくなった。
また100名規模の合唱を驚くほど精緻にコントロールを効かせつつ歌わせ、オーケストラと巧みに合わせる、そのマリオッティの手腕の見事さに感心したと同時に、合唱指揮をした辻さんの卓越した指導力も讃えたい思いだ。
英国音楽好きとしては辻さんはお馴染みの存在ですからとてもうれしい。

世界的な4人のソロ歌手たちは、指揮者の左右に。

①沈鬱な導入部、しかしオーケストラも合唱も見通しがよく明晰なので明るさすら感じる。
独唱の登場に、4人がどんな声なのかワクワクする気持ちが抑えきれず。
②そして、あの行進曲調で始まるテノールの名アリア、最高に好きな場面で軽やかなオーケストラにのって、いかにリリックな声を聴かせてくれるか。
ミロノフの優しい声は、ロシア系であるとい先入観を吹き飛ばすほどに繊細な歌だった。
パヴァロッティの朗々たる歌に耳が慣れてしまった自分には渋すぎるこの歌唱は、ややこもり気味の内省的な歌い口に感じた。
でも、あれは商業録音のなかの声であって輝かしすぎて、スターバト・マーテル本来の聖母への同情心を歌いこむこのシーンではミロノフのこの切ない歌はよいのではないかとも思った次第。
③女声ふたりの二重唱では、えも言えぬ美しいハーモニーが。
アバドのヴェルレクでも歌っていたバルチェローナほどの大物が今回の代役抜擢で聴けるとは!
4人のなかでは唯一の生粋イタリア系で、その光沢と深みある声の味わいは素晴らしかったし、そこにいまが旬のトロシャンの抜けのいい美声が加わり、桃源郷を味わうのだった。
オーケストラの後奏も実にステキ。
④バスのミミカの深いけれども軽やかさも併せ持つバスも初聴きの私には驚きでした。
この曲には欠かせない存在となりつつあるようで、ネットでたたくとマリオッティを始め多くの指揮者と共演がある。
⑤バスのミミカはスタンバイしたまま、アカペラでの静謐な合唱とのレシタティーヴォは、強弱を繰り返しこだまするような効果を持つ合唱、教会で聴くかのようなそのロッシーニの音楽も演奏も見事。

⑥一転軽やかでウキウキしてしまうようなステキな4重唱は、思わず身体が動いてスイングしてしまった自分。
羽毛のような響きと心躍るリズム感がマリオッティの指揮で見事にオーケストラから出てくる。
⑦メゾの聴かせどころ、Fac ut portem、われにキリストの死を負わしは、メゾにロッシーニが書いた素晴らしい歌のなかのひとつだろう。
ホルンの牧歌的なソロに導かれ、楚々としながらも情感あふれるカヴァティーナをバルチェローナの豊かな声で眼前に聴く喜び。
オペラだったら、長大なアリアとして発展していくのだろうが、もっと続いて欲しいと思ったものだ。
マリオッティのオーケストラも美しさの極み。
⑧金管の咆哮と緊迫感ある弦というドラマテックな開始による合唱をともなったソプラノのアリア。
絶叫にならないトロシャンのどこまでも清らかな声が実に心地よかった。
それでいて張り詰めた真っ直ぐの声にはドラマテックな強さもあり、表現の幅の広い歌手と聴いた。
そして何よりもエキゾチックな風貌で華のある雰囲気がよろしい。
愛妻を見つめサポートしたマリオッティの指揮も目が離せず・・・
⑨ソリストにて行われるアカペラ四重唱は、今回は合唱によって歌われた。
ジュリーニ、シッパース、ケルテスなどの音源もみな合唱で演奏していた。
グロリアとクレッシェンドして終わるこの章、続いてなだれ込む終曲の合唱への流れは、こうして合唱アカペラから入ることでとても自然だったし、より劇性が強まる効果があったと思った。
⑩手に汗握る演奏となった終章は、前章とともに暗譜で毎回いどむ東響コーラスの精度の高さが光る。
右に左にと、対抗配置のオーケストラへの着実な指示にもオーケストラはすぐさまに反応して、過度に走ることのないマリオッティのもとじわじわと高まるクライマックスを見事に築き上げた。
最後に冒頭の旋律が回帰し、沈滞ムードがおとずれ、そこからあらためて短いながらも劇的な展開となりドラマテックに曲を閉じるが、このあたりの持って行き方が実に素晴らしく、私を初めてする満員の聴衆は壮絶な展開に息つく間もなく聴き入り、ブラボー飛び交う歓声で曲の終わりを迎え讃えたのでありました。

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宗教音楽としてのロッシーニのスターバト・マーテルの本質をしっかりと見据え、歌に傾きすぎることもなく、すべてのフレーズを明晰にしたうえで、過度な歌への傾きも排した練度の極めて高いすぐれたマリオッティのつくり上げた演奏でした。
その流麗かつしなやかな指揮姿は、わたしにはどうしてもアバドを思わせるものでした。
チャイコフスキーとプロコフィエフのロメオのもうひとつの演奏会には、どうしても行くことができないのですが、来シーズンからヴィオッテイを指揮者に迎える東響には、マリオッティも今後とも継続して呼んで欲しい。
そして次はピットのなかでのマリオッティの指揮を聴きたいものです。

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終演後のコールも盛大なものでした。

最前列の方々は握手までできちゃって、ほぉーっという歓声も。

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また来てね、マリオッティさん。

今度はヴェルディやブラームスなんかも是非。

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サントリーホールの裏にある庭園から。

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2025年6月 1日 (日)

ランゴー 交響曲第1番「岩山の田園詩」 オラモ指揮

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大磯の海岸。

私の立つ場所は岩礁エリアで、後背地に堤防と港があり、さらに東は平塚まで広がるなだらかな砂浜。

正面奥は箱根の山と富士。

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残雪のまだある富士に雲がかかり始め、こういう日は強風となります。

もう少し西側の海のそばで育ったものですから、相模湾を眺めて遊んで子供時代を過ごしましたので、私の心象風景のひとつでもあります。

少年時代に海や岩山を眺めた印象を音楽にした天才少年の交響曲を。

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こちらは、スウェーデンの南西部のスコーネ県にある尖がった岩山からなるクレン半島。

地続きでない国で、このスウェーデンにもっとも近いのがデンマークで、その対岸でこの半島を眺めていた少年がルーズ・ランゴー(1893~1952)です。

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  ランゴー 交響曲第1番「岩山の田園詩」

 サカリ・オラモ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (2022.6.16~18 @フィルハーモニー、ベルリン)

コペンハーゲン生まれのルーズ・ランゴーの交響曲は16曲あり、室内楽、ピアノ作品、オペラや大量の声楽作品を含め431曲の作品を残した多作の作曲家。
作曲家・音楽家の父、ピアニストの母の両親のもとに生まれ、音楽家になるべくしてなったランゴー。
ピアニスト、オルガン奏者として少年時代から活動を始め、同時に作曲も開始した、同時代のコルンゴルトと同じような存在とそのキャリア。
その時代からしておのずと、シュトラウスばりの後期ロマン派風の豪華かつ壮大な音楽を書いたが、そうした作風をベースにその形式や編成、音楽構成などは常に斬新なものを求め、さらにはデンマークの先輩作曲家ニールセンと逆張りをするような音楽も書くようになった。
才人ゆえに、ちょっと時代や風潮に逆らう、そんな反骨ぶりも持ち合わせ、なかなか本国では評価されなかったランゴーさん。

マーラーやシュトラウス、ツェムリンスキーやシェーンベルクらの作品が普通に受容されたように、ランゴーの音楽もいま盛んに聴かれるようになり、録音も増えつつあります。
ワタクシもダウスゴーによる交響曲全集やオペラ「アンチ・キリスト」、ピアノ曲集などを徐々に聴き進めているところです。

ランゴーの作品のなかで、いちばん最初にヒットした曲が交響曲第1番。
1908年、14歳で作曲を始めた1番の交響曲。
完成後の1910年にデンマーク演奏会協会に完成したスコアを提出したが、演奏困難とされ、さらにスウェーデンのストックホルムまで行って演奏機会を図ったがそこでも無理とされ、楽譜の改訂を行い最終完成をみたのが1911年17歳のとき。

ちなみに、わたしの大好きなコルンゴルトの大きな作品シンフォニエッタも1912年、作者15歳の作品です。

毎年ベルリンに短期滞在する楽旅をしていたランゴー一家。
ニキシュ治世のベルリンフィルのアシスタントの指揮者にその才能を認められていた若きランゴーは、ベルリンに完成した1番の交響曲の楽譜を持参し、デンマーク出身だったベルリンフィルのコンマスを通じてそのスコアをニキシュに届けてもらった。
2年後の1913年にベルリンフィルで初演が行われることが決定。
マックス・フィードラーの指揮によるその初演は大成功に終わったが、その後は、多くの作品を残しながらも、本国のデンマークであまりいい処遇を得られず、先に書いたように反主流に甘んずる存在となってしまった。
さらなる不幸は、この交響曲のスコアがベルリンにそのままとなり、ランゴーも手稿楽譜としてベルリンの楽壇に寄贈したので、ずっと後年、侵攻したソ連軍によって盗みだされてしまったという。
戦後に同じ共産圏の東ベルリンに戻されることになったのが1959年。

1番の交響曲が広く認知されレコーディングもなされるようになったのは2000年代になってから。
CDは、4種類あって、シュトゥーペル、セーゲルスタム、ダウスゴー、そして今回のオラモです。
本国のオケでも、北欧のオケでもなく、1番にゆかりのベルリンフィルで演奏したところがまさに画期的な1枚なのです。

「岩山の田園詩」:Cliffside Pastorals : Klippepastoraler

このタイトルは後年に自身で名付けられたものらしい。
山の麓から試練と苦難をともに乗り越えて山頂に到達し、壮大な景色を受け止める。
そんな図式の5楽章形式の構成となっており、山の音楽という意味では、シュトラウスのアルペン(1915)、ハウゼッガーの自然交響曲(1917)などと同じくしますが、ノアゴーのそれがいちばん早く作曲されており、逆にタイトルを付けたのがいちばん最後で1940年代ということになります・・・・、なんともいえませんが。
 しかし、考える人ノアゴーは、よく表題を変えたというし、そのそものこの作品のイメージは、少年時代にデンマーク側から見たスウェーデンの半島に突き出た断崖の岩山だと述懐しており、実際に訪問もしていた思い出とも記している。

ハープ2台、ティンパニ2人、打楽器多数、ワーグナーチューバ、別動隊バンダを含む超大編成のオーケストラ。
シュトラウス、ブルックナーやマーラー、ショスタコーヴィチを平然と演奏できる現代のオーケストラでないと、作曲当時でははやりなかなか演奏できなかったろうし、聴衆の理解も追いつかない長大さは、シュトラウスのような聴かせ上手な巧さは皆無なのでなかなかにお呼びがかからなかったであろう。

CDの解説を参照しました
①「打ち寄せる波と太陽の光」
一度聴いたら耳から離れない激しくも情熱的な冒頭主題、このあと何度も登場するし、終楽章では高らかなファンファーレとなって登場する。
勝利の交響曲の常套である。
一方で、弦による甘味な優しい旋律もそのあと出てきて、後期ロマン派音楽好きやチャイコフスキー好きの心をくすぐることこのうえない。
結局、1楽章がこの交響曲のなかで一番優れていると思う。

②「山の花」
1楽章との対比も鮮やかな、田園情緒感じる緩徐楽章、ホルンののどかな響きもよろしい。
山に登り始めるものの天気の急変もあり雨宿り。でも花々は健気に咲いていて、ともかく安らぎの世界感じる楽章。

③「伝説」(当初は「過去からの声」)
静かに始まるがミステリアス感ただよい、楽器の数も徐々に増えてゆく。
遠い過去の人々を声を聴くのか、シリアスなクライマックスを築くも、また徐々に楽章の最初の静かな雰囲気に戻ってゆく。
短いけれど、少年の作風には思えない。

④「登山」
決然とした開始は山登りの始まり、上り坂への挑戦という意欲も感じさせる。
弦のユニゾンと鼓舞するような打楽器がそうした気分をあらわすが、全体になんとなく不安げな様相もあるところが人間的でもある。
短い楽章ながら、心理的な表現もよく書けていると思う。

⑤「勇気」
1楽章と並び長い楽章。
ランゴーは、「山頂の涼しい風、白い地平線、天高く広がる空、遠くに見えるキラキラと光る青い海と白い波しぶき。
これらが心を新しい勇気で満たしてくれる」とこの終楽章について書いている。
フィナーレらしい完結感は、案外とまどろっこしく感じ、ホルンの高揚感もあるが、中間部の展開部では山に恐れを抱くがごとくの緊迫したシーンがやってきて、ぎこちなく足取りを止めてしまう。
ここから立ち上がり、まさに素晴らしい景観に徐々に感動を高めてゆくがごとく、弦を中心に感動的、かつ壮大な高まりをみせていく。
このあたりマーラー的な盛り上がりと聴こえます。
そしてついにバンダ別同部隊が加わって勝利宣言のごとく、輝かしくまばゆい最終場面となり1時間の大曲を閉じる。

大迎な交響曲と思われるでしょうが、メロディ満載、マーラー風味、シュトラウス風味、はたまたツェムリンスキーも顔を出すといった具合で、北欧の民族風味は少なめで、コスモポリタンな後期ロマン派風どっぷりの音楽です。
この作風を維持することなく、ランゴーは多面的な音楽造りに向かい、ときにシンプルであり、また晦渋であったりと、一筋縄ではいかない気難し気な作曲家となっていくのですが、まだ自分にはそうと断じることができるほどにランゴーを聴いてません。
徐々に聴きすすめたいところです。

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クレン半島の位置。

これを見るとデンマークの首都コペンハーゲンはスウェーデンにやたら近いことがわかりますし、このあたりで生まれ活動したランゴーはスウェーデンとは切ってもきれない縁があったのではと推察もされます。
ランゴーは後年、1946年に交響曲第12番を書き、「ヘルシングボリ」というタイトルを付けたが、この7分程度の単一楽章のミニサイズ交響曲は、若き日の1番の超ダイジェスト版なのです。
同じメロディで作られているが、題名のヘルシングボリは、地図の赤丸の下にあるスウェーデンの都市。
12番の副題には、穏やかならぬことが書かれていて、「暴れるぞ!作曲家は爆発する!」とあります。
 デンマークの楽壇に拒絶に近い反応を受け、作曲した作品はほとんどが演奏されず、断られ、オルガニストとしての定職をようやく得るのが46歳で、1番のベルリン初演以外は、まったく恵まれない音楽家として58歳で亡くなる。
若いときの情熱にあふれた交響曲を、まるで幻滅と怒りを持って回顧し、パロディ化したのが12番。
IKEAの本部のあるヘルシングボリ、この街に憎しみでもあったのだろうか、近くにあった大都市を自分を受け入れない世の中の変わりと模したのか・・・・、ヘルは地獄、ヘルシンボリという言葉は北欧神話で出てくる死者の国、黄泉の国のことらしい。。。

ランゴーさんが気の毒になってくるような、後年のひねくれぶりで、自国の成功者ニールセンのことを嫌い、それも表明してはばからなかった。
今回のベルリンフィルとの蘇演を行ったサカリ・オラモのインタビューも見たが、ランゴーに問いたかったことは、なんでニールセンをあんなに嫌ったのですか?ということだと話してました。

大いなる共感を持って誠意あふれる指揮でベルリンフィルから最高の音を弾きだしたオラモの指揮と、高性能でかつ明るい色調のベルリンフィルの演奏に間違いはない。
都会的にすぎるオーケストラの音色やあか抜けすぎのホールの響きと良すぎる録音という点で、ランゴーの音楽がゴージャスになってしまった点を感じはする。
オラモのおおらかで、ナチュラルな音楽造りが好きで、最近よく聴く指揮者となってますが、最近のオラモは、埋もれた作品を掘り起こして完成度の高い演奏でたくさん録音してくれます。
それらを聴いてゆく喜びもあり、BBC響との演奏会でもそうしたプログラムをよく組んでまして、毎回楽しんでる次第です。
ランゴーの1番は、ベルリンフィルと同じ時期にBBC響とも演奏していて、わたしも録音をしました。
プロムスじゃなくて定期なのに、楽章ごとに拍手が入ってしまうという難点はありますが、ベルリンフィルのような凄みはないかわりに、イギリスのオーケストラの渋い響きがまた違うランゴーを聴かせてくれます。

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デンマークのオーケストラとランゴーの全集を録音したダウスゴーの1番も聴いてます。
さすが快速指揮者で、オラモ盤よりテンポは速め、でも響きはどこかひなびていて、華美な雰囲気のないのがよろしく、いわゆる味のある演奏なんです。
ジャケットも美しい。

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大磯の駅舎にある東海道五十三次の「大磯宿」の浮世絵。

雨降る宿場、いまも山の容と松林、海、みんなおんなじにあります。

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2025年5月26日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 沼尻竜典指揮

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サントリーホールのカラヤン広場の一角からパシャリ。

高層ビルや首都高に囲まれたオアシスのような音楽ホール。

東京交響楽団の定期演奏会、この日もほぼ満席でチケットは完売だとか。

へぇ~、と思いつもわかりましたよ

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ショパンコンクール入賞、日本を愛するスペイン生まれの若きピアニストがこの日のソリストだったのです。

東響の定期会員になったものだから、予定表にあった日にホールに向かうだけ。

演目は頭にあっても奏者などの情報はその日に知るという感じなものですから。

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        東京交響楽団 第730回 定期演奏会  

     バルトーク 組曲「中国の不思議な役人」

  リスト   ピアノ協奏曲第1番 変ホ長調 S.124

  シューベルト 「楽興の時」第2曲 変イ長調

      マルティン・ガルシア・ガルシア

  チャイコフスキー 交響曲第4番 へ短調 op.36

        沼尻 竜典 指揮  東京交響楽団

       (2025.05.24 @サントリーホール)

昨シーズンに沼尻さんは。ポーランドの作曲家で固めたプログラムを指揮、今年は前半がハンガリー、後半はロシアで、民族色をうかがえるという意味では筋の通ったプロであります。

先々週に静岡でアリアドネ、先週はいかなかったけれど、川崎で神奈川フィルとベートーヴェン、そして今回の東響、さらに6月には都響、神奈川フィルでラインゴールド。
なかなかに精力的な活動のマエストロです。

中国の不思議な役人=マンダリンは、組曲になると20分ぐらいだし、ラストも盛り上がるので演奏会では全曲版はほぼやらないだろう。
予想通りに出だしから乱痴気感は少なめで、実にスマートかつ整然とした様相で開始、さすがに東響の鉄壁のアンサンブルで聴きごたえがある。
3人の男たちのそれぞれのミステリアスなシーンの対比がなかなか見事で、木管の活躍も味わいあり。
それにしても、マンダリンの登場にいたるこれらの怜悧でありつつ、熱っぽい音楽を書いたバルトークは凄い曲を残したものです。
誰もを興奮の坩堝へと誘うマンダリンの闘争シーンは、熱いうねりというよりも、音楽の面白さをドラマテックに聴かせるという大人の演奏でありました。
ピアノも活躍、そして正面のパイプオルガンもペダルのみで登場というユニークな編成も確認できましたよ。

赤オレンジのハンカチを握りしめながらガルシア君の登場。
バルトークとリスト、その生年を見ると1811年のリスト、1881年のバルトークで、70歳の違いがあるが、ふたつ並べて聴いてみるとそれ以上の年代の開きを感じてしまった。
より民族臭が強く、大胆かつ過激なサウンドのバルトークに、ロマン派どっぷり、絢爛豪華なリスト。
そんな違いがよくわかる沼尻指揮の東響でありました。
もっと鳴らすことはできたかもしれないが、存外に抒情的なピアノを得意とするガルシア君を引きたてるステキなオーケストラで、トライアングルも抑え気味に感じた。
そのガルシア氏ですが、このピアノには感心しましたね。
人気のピアニストということで、斜に構える思いで聴き始めましたが、鮮やかな技巧は予想通りでリストの音楽の豪華な側面もうまく出しつつ、そこにある詩情にあふれた思索する人リストの一面もその対比としてよく弾きだしてました。
彼のピアノで聴く2楽章の美しさは特筆ものでした。
鮮やかで燦然たるフィナーレでは大胆豪快な弾きぶりもみせ、オーケストラとともに瞬間芸出来な壮大な盛り上がりとなりました。
終わるやいなや、ガルシア君はピアノの椅子から飛び上がり、指揮者の沼尻さんに抱き着きました。
この微笑ましい天然仕草に会場はほんわかとしたものです。

鳴りやまぬ拍手に応えたシューベルトが、これまたすばらしく美しい演奏でありました。
こうした優しく抒情的な作品にこのピアニストの特性があるのかも。
突然と変わるシューベルトならではの死の影のような不穏な雰囲気との対比もなかなかの表現力でございました。

チャイコフスキーの4番。
サマーミューザでノット監督の指揮で聴いたのが2年前。
対抗配置でユニークな演奏を聴かせてくれた前回と違い、今回の東響は通常配置で沼尻テンポはより快速でスマートかつ宿命観も少なめ。
すいすい進む1楽章は快感誘うドライブ感で威圧的な雰囲気もなく、チャイコフスキーの音楽そのものをいい音楽だなと感じつつ楽しませるものでした。
1楽章のコーダで、あんだけむちゃくちゃ強奏してた弦楽器、ピッチとか大丈夫かなと思いつつ、すんなり始まる2楽章では木管奏者のみなさんの橋渡しがそれぞれに見事で適度なメランコリー感もいい感じ。
ピチカートの3楽章、これを作曲したチャイコフスキーの天才性にはまいど驚きますが、今宵の演奏の驚きはこの楽章から。
奔放な演奏をここに感じ、木管が加わってからアクセルが踏まれたようで、いままで抑えていた感情表現がむき出しになってきたようにも。
ノットのときもそんな風に聴いたから、この曲に対する自分の思いや聴き方なのかも、とか思いつつ怒涛の終楽章に。
快速でバシバシ進む指揮者とオーケストラ。
来るぞ来るぞと期待しつつ、その期待以上にアッチェランドをかけ、音圧も高めて熱狂の渦を導き出した最終場面。
いやはや、安全運転で締めくくるかと思っていたら、そうはならなかった大爆発エンディングにブラボー飛びまくり。

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いやぁ、満足満足のチャイコフスキー。
バルトーク、リスト、シューベルトと聴いてきて、やはりチャイコフスキーは千両役者だのう。
そうだ、神奈川フィルでのオペラシリーズ、リング継続とオネーギンかスペードの女王も希望しておこう。

※前半には埋まっていた席が空席に・・・
なんでやねん、ちゃんと最後まで聴いてコンサートは完結するんですよ!

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いつもお馴染みの神奈川フィルでは見られない、マエストロ呼び出しコール。

県民オケの神奈川フィルでも、われわれ聴き手が頑張ってやればいいと思うし、あと許可して欲しいのがカーテンコール撮影。
ほとんどのオーケストラが、あのN響さまでも、一定のルールのもと、スマホによる撮影が可能になってます。
コンサートの余韻をあとでも楽しめるよすがともなりますし、恒例のお見送りに加えて、聴衆との一体感向上のためにも是非、と思うんですが。
ただ人気者がいらっしゃるので異なる効果が出てしまうということもあるかもしれないが・・

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2025年5月24日 (土)

R・シュトラウス 「町人貴族」 マリナー指揮

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花の便りとしては遅きに失した感ありますが、ネモフィラとチューリップ。

今年の春は寒暖の差が日々激しく、あれよあれよという間に終わってしまった。

晴れの日にうまく行動できる日がなかったりで、季節の花めぐりも不発に・・・

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ブルーとチューリップの白、さわやかな色合いに癒されました。

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  R・シュトラウス 組曲「町人貴族」 op.60

    サー・ネヴィル・マリナー指揮

 アカデミー・オブ・セント・マーテイン・イン・ザ・フィールズ

   (1955.7 @セント・ジョンズ・スミス・スクゥエア、ロンドン)  

静岡で観劇した「ナクソス島のアリアドネ」の余韻がずっと継続していて、手持ちの音源をとっかえひっかえ聴いていました。
そして同時に、「アリアドネ」としてオペラ独立した元作の一部であった同じ作品番号60を持つ「町人貴族」も聴いてました。
アリアドネを聴きつつ、町人貴族も何度も聴くと、いままではあまり気にしていなかった同じ旋律が見つかったり、またシュトラウスの常套として、他作からの引用などもしっかりみつかり、面白い発見もありました。

作品59の「ばらの騎士」の続く6作目のオペラ作品も、ホフマンスタールとばらの騎士での演出担当マックス・ラインハルトとの協力で企画され、モリエールの戯曲に基づくリュリのコメディ・バレエをベースに編曲や新曲の音楽をつけて劇音楽とし、くわえて悲劇とドタバタ劇を融合させた劇中劇とで「町人貴族」という大作を作り上げた。
そうして1912年に初演はされたものの、構成にやはり無理もあり成功とはいえなかった。

その後、「ヨゼフの物語」や「影のない女」を経て、劇中劇を独立させ、ドタバタの部分をプロローグとしてグレートアップさせた「ナクソス島のアリアドネ」を1916年に初演。
一方の残された「町人貴族」の劇音楽部分は、これもまた手を入れて独立の劇付随音楽作品として規模を拡大して1918年に初演。
さらにここから9曲を選びだして、組曲「町人貴族」が編み出され1920年に初演。
いまでは組曲版しか聴かれることがないかもしれない。
ちなみに、初稿の全曲録音のケント・ナガノ盤はまだ聴いたことがないので、こちらは自身の課題といたしましょう。

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成り上がりものの金持ちジュールダンを風刺した物語。
音楽や舞踏、剣術や哲学まで、貴族としての素養をつけるべく毎日毎晩金にものをいわせて励んでいるものの、まったく身に着かず状態しない。
クレオントという青年が、このジュールダンの娘のリュスィルと愛し合う仲になるが、彼は貴族ではないので、それを理由に結婚は許されず。
そこで一計を案じ、トルコの王子になりすますことになり、めでたくリュスィルと結婚してしまう・・・という他愛のないオハナシ。

①序曲(町人貴族としてのジュールダン、滑稽さと優美さ)
②メヌエット(ダンスのおけいこ中)
③剣術の先生(おおげさな身振りと緊迫感)
④仕立て屋の入場と踊り
⑤リュリのメヌエット(リュリの原曲の編曲)
⑥クーラント(宴会のお開きはカノン風)
⑦クレオントの登場(トルコ王子になりすましてリュリの原曲も活かし、異国情緒も)
⑧2幕前奏曲(ジュールダンも恋心、公爵夫人とその恋人を美しく描く)
⑨饗宴(ジュールダン主催の大宴会、食卓の音楽に料理人たちの踊り)

組曲で抜粋されたので、ストーリー性はなく脈連もない感じだが、いかにもシュトラウスらしい匠の描写性と優美さ、洒脱さあふれる音楽。
37人編成の室内オケは、アリアドネの方と同じく、ともかく軽やかさや晴朗さへのこだわりがあり、歌がないぶん、BGM風に流しつつ、わたしはPC作業など、実に軽やかにキーボード操作も進んだものです。

①のオーボエで奏でられる優美な旋律は、オペラのプロローグで作曲家が歌うモノローグに出てくる。
②のメヌエットの軽やかなフルートも、同じくプロローグで舞踏教師の登場シーンで出てきます。
さらに面白いのは、⑨の宴会での多彩な次々に供される料理の描写に、「ラインの黄金」のラインに娘たちのいる河の流れで鮭料理、自作の「ドン・キホーテ」で羊料理を、「ばらの騎士」の逢瀬の朝の鳥のさえずりで鳥レシピ(!)・・・など、ほんと面白い。

音源は実はあまり持ってませんで、マリナー盤が録音もよく、いつものマリナー&アカデミーのように、さらりとして軽快な演奏なので、何度も聴くのに過不足なくよろしい。
もっと歌いこんで巧く聴かせることもできるのでしょうが、そこはマリナー卿、紳士的な佇まいを崩さず遊び心は抑え気味にでもノーブルさをさりげなく引き出していて心地よい。

あとはテンシュテットとライナー(抜粋)を持ってるのみですが、実はエアチェックしたサヴァリッシュとウィーンフィルのライブがとても素晴らしい演奏なんです。
この作品を演奏するのに、やはりウィーンフィルは最適で、オケの柔和な響きとサヴァリッシュの清新な指揮とがうまくマッチしていて、アリアドネでもベームのあとを受けて指揮をしていたとおり、シュトラウスの持つ地中海的なサウンドを引き出す妙味を味わえます。

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5月の最終週のお天気は連日の曇空や雨予報。

梅雨の訪れも早そうで、季節の巡りはどんどん早くなり、もう若くない自分は身体を慣らすのについていけない。

みなさまも体調管理に気をつけて、やってくる厳しい夏に備えてくださいまし。

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2025年5月14日 (水)

R・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」静岡音楽館AOI

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久しぶりの静岡。
ホールロビーからの富士。
シュトラウスのオペラを演るとあっては行かなくてはなるまい。
都心を離れ、神奈川にいるので、思えば静岡は近い。
新幹線を使わずとも手軽に行けてしまうので、行きは在来線でのんびり、帰りは心地よき疲れに浸りながら新幹線。

駅前にある音楽ホール、静岡音楽館AOIの30周年記念公演、「ナクソスのアリアドネ」演奏会形式上演。
この公演に気が付いたのはそんな前でなく、ホールに電話をしたときは残りわずかで、早々にチケットは完売。

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R・シュトラウス 歌劇「ナクソス島のアリアドネ」op.60

  アリアドネ:田崎 尚美     バッカス:宮里 直樹
  ツェルビネッタ:森野 美咲   執事長:小森 輝彦 
      作曲家:山下 裕賀       音楽教師:池内 響   
  舞踏教師:澤武 紀行      従僕:岸本 大
  ナイヤーデ:守谷 由香     ドリヤーデ:山際 きみ佳
  エコー:隠岐 彩夏       ハルレキン:黒田 祐貴
  ブリゲッラ:小堀 勇介     士官、スカラムッチョ:伊藤 達人
  かつら師、トゥルファルディン:志村 文彦   

       沼尻 竜典 指揮 静岡祝祭管弦楽団

        演出:彌六

        (2025.5.11 @静岡音楽館AOI)

通算4度目のアリアドネの実演観劇。
初めて訪れた静岡音楽館、シューボックス型の館内装飾もそれはステキなホールで、客素618人というところもほどよい規模。
そしてその音響の良さも定評あるところで、今回のこのホールにしては最大規模の作品を上演するにあたり、聴き手からするとすべてがちょうどよろしく、シュトラウスの精妙に張り巡らされた緻密な音楽が、まさに手に取るように見え、聴こえたのです。

序幕のドタバタ風喜劇、劇中劇たるオペラと性格の異なる2部を簡単な演技でコンサート形式で行うことは、ややこしさを回避しシンプルさが増すことで、これまたシュトラウスの音楽の良さが引立つというもの。
都合2時間30分、満員御礼の客席は集中力高く、歌と演技、オーケストラの妙技に聴き入った。
ユーモアを交えた簡潔な演出は、誰にでもわかりやすく、左右の袖から出入りする動きばかりでなく、ときに2階からの動きもあり、空間利用も巧みであり、限られた制約のなかで最適なものでした。

初めて買ったアリアドネの音盤は、ケンペとドレスデンのレコードアカデミー賞受賞の名盤で、当時のそれは豪華極まりない歌手を集めた贅沢なものだった。
今回の静岡キャストは、いま日本でアリアドネをやるならこの歌手たち、という最適かつ隅から隅まで豪華なメンバーを選りすぐったもの。

その歌手たちが予想以上に素晴らしかった。
声の威力と幅広い表現力で圧倒的な存在感を示したのが田崎さんのタイトルロール。
沼尻さんとのサロメ、ヴェルレク、そのほか多く聴いてきたけれど、コンパクトなホールとうこともあり、その強さと繊細さを兼ね備えた声が耳にストレートに響きました。
古くは12年前に同じ沼尻指揮では、ワルキューレたちのひとりだった。

相方のバッカスの宮里さんも驚きの力強さとよく通る声。
この方も昨秋のヴェルレクで輝かしいテノールで聴いたばかり、エリックも田崎さんとオランダ人で予定されていて、明るめの声でのワーグナーも次は聴いてみたい。

元気いっぱいのツェルビネッタを歌った森野さん。
小柄で才気煥発といった、この役柄にぴったりのルックスと軽やかで透明感あふれるお声はチャーミングそのもの。
意欲が空転してしまうスレスレのところも、実にライブ感あってよろしく、見事な声の技巧に感心しながらも、微笑ましかった。
ウィーン在住中とのこと、これからの日本のモーツァルトやシュトラウスの舞台になくてはならない存在となるでしょう。

序幕でキリリとした作曲家を歌った山下さん、この方が実に素晴らしく、生真面目なこの役を強い声で歌いあげたほか、ツェルビネッタの登場で惑わされるシュトラウスならではズボン役としても最高の歌い手かと思いましたね。
会場で大喝采を受けてましたから、みなさん同じ思いで聴いていたことでしょう。
すでに実績をあげてる方ですが、きっとステキなオクタヴィアンに!
昨年はバーミンガムでヤマカズの蝶々さんに出演、チェネレントラ、今年は群響でカルメンなど、楽しみな歌手をまた発見。

語り役の執事長に小森さんという贅沢な布陣。
氏の舞台は数々観てきましたが、ウォータンを歌うバスバリトンが執事長とはまた妙なる配役の妙。
完璧で美しいドイツ語の語感、かたくなさを尊厳な雰囲気でかもし出すベテランの味。さすがでした

このシュトラウスの作品は、とてもよく書かれていて、古典帰りをした明朗な音楽造りは、その構成にもよく出てます。
喝采を受けるアリアが配されているほか、愉快な重唱や、美しいハーモニーにあふれた重唱など、ともかくどこもかしこも歌の聴きどころあふれている。
3人の精たちの透明感あふれる歌声は、それぞれも素敵な声でしたが3人の得も言われぬ声の重なり合いは、さながら夢心地になる気分でした。
守谷、山際、隠岐といった3人の実力派、それぞれにまた聴いてみたいお声でしたね。

あと男声の方もチームワーク抜群の愉快な仲間を楽しく歌い、演じてました。
いちばん聴きどころの多いハルレキンを歌った黒田さんのマイルドで柔らかなバリトンが心地よく、シュトラウスが付けたステキなメロディを堪能しましたし、お隣の女性のお客さんも体を揺らすようにして気持ちよさそうに聴いてましたよ。
ベルカントに秀でた小堀さんの発声の明るいブリゲッラ、影のない女で嫌なヤツに成り下がってしまっていた皇帝役で記憶に新しい伊藤さんのもったいないくらいのスカラムッチョ、そしてもう10年以上前からいろんな役柄でいつも聴いてきた志村さん、失礼ながら役柄にぴったりフィットのかつら師とトゥルファルディンでした。

池内さんの音楽教師、序幕での執事長のむちゃぶりを最初に受けとめ悩む役柄ではありますが、役回りとしては案外に難しい存在を存外の美声バリトンで聴かせてくれました。
キンキラの衣装をまとった舞踏教師の澤武さん、音楽教師と作曲家と相対する役柄ですが、まさに軽やかに、町人貴族による短い歌も楽しく軽やかに歌いました。
思えば昨年のばらの騎士で、軽妙なヴァルツァツキを聴いたんだ。
作曲家と絡む役の従僕の岸本さん、どこかで聞いた名前と思ったら、神奈川フィルの合唱のまとめ役の方でした。

ともかく、みんながすばらしく完璧だった歌手のみなさん、もっと何回もやって、実際の舞台上演も期待したくなるチームです。
その歌手たちを束ねる沼尻さんの指揮。
このマエストロの元で、今回の歌手のみなさんは何度も歌っていて気心も知れているはずで、まさにオペラ職人のような巧みな指揮できっと歌いやすかったことでしょう。
序幕とオペラ部分との性格と音楽の違いも明確にさせていたし、オペラでのシュトラウスが描きだした地中海的な明快・晴朗な世界を引き出すことに成功していたと思う。
ともかく、すべてが的確なオーケストラ。
なんといっても水谷&小林という新旧の東響のコンマスを据えた38名の名人級の室内オーケストラは、各オーケストラからはせ参じたつわものばかりのメンバーで、見たことあるお姿ばかり。
ピットに入った上演しか経験がなかったので、もちろんスコアなんか見たことないので、弦楽セクションがおのおのに、ソロがちょこちょこあったり、ハープが2台もあってやたらと存在感があったり、ピアノやチェレスタがシュトラウスならではの透明感をそのサウンドに特長を与えているところだったり、ともかくオーケストラを見物するというコンサート形式ならではの楽しみも味わい尽くしましたよ。

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こうした果敢な上演を企画してくれた静岡音楽館さんに感謝。
素晴らしいホールを見出した喜びも。
こうした室内規模のオペラの公演を今後も期待したいです。
バロックオペラや、ブリテンなどの近代もの、ほかにはない上演を是非。

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開演のまえに、食事を兼ねて市内散策。

静岡市は大道芸の街、ちょうど「あおばフェス」をやってまして、あちこちで出店やパフォーマンスが繰り広げられてましたよ。
静岡市に降り立ったのは実は15年ぶりぐらいで、その前まではともかく毎月のように仕事で行って、飲んで、食べて、泊まってました。

美味しいものだらけ、夜も賑やかだし、みんな明るい人々ばかり、そんな「しぞーか」が好きです。

なんといっても、ワタクシも父の仕事の関係ではあったけれど、静岡県生まれなんですし。

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こちらもホールからの遠景。

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2025年5月 5日 (月)

ハイドン オラトリオ「四季」 ベーム指揮

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四季の珈琲☕

季節の変わり目ごとに販売される珈琲のパッケージが素敵なのでした。

小川珈琲が出している商品で、いまはどこのスーパーにも売ってます。

毎朝、コーヒーはかかさないものですから、毎日の楽しみです。

季節に応じて産地やブレンドで味わいも替えてます。

春:やわらかい香りとやさしい甘さを活かした軽やかな風味

夏:爽やかな香りとクリアな酸味を活かしたすっきりとした風味

秋:華やかな香りとやわらかな甘さを活かしたまろやかな風味

冬:芳醇な香りとなめらかな口当たりを活かしたしっかりとした風味

今週から、コーヒーコーナーには、早くも「夏」風味が登場してましたね。
次はもう「秋」かぁ・・・・
季節の切りかえ、進みは年々早くなる。

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  ハイドン オラトリオ「四季」 Hob.XXI-3

     ハンネ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ

     ルーカス:ペーター・シュライヤー

     シモン:マルッティ・タルヴェラ

   カール・ベーム指揮 ウィーン交響楽団
             ウィーン楽友協会合唱団

        (1967.4 @ムジークフェライン、ウィーン)

             ※(ジャケットはネットからの借り物です)

四季を描いた音楽はヴィヴァルディがいちばん高名ですが、声楽作品としてはハイドンが随一。
「天地創造」の方に演奏機会の頻度において歩があるが、どちらもハイドンならではのおおらかさとユニークな描写性があり、音楽を心置きなく聴くという楽しみを与えてくれます。

ハイドンには多数のミサ曲があり、オラトリオは2大作品のほか、昨今取り上げられるようになった「トビアの帰還」、諸バージョンのある「十字架上の最後の7つの言葉」などもあります。
1809年、77歳で没するハイドンですが、67~69歳で作曲された「四季」は、ほぼ最後の活動時期の大作となりました。
エステルハージの学長に返り咲き、最後の15年をウィーンで過ごすのですが、そこでは体力と意欲の減退に悩まされ、作品数も限られ、この「四季」のあと、すっかり病弱になってしまったと伝えられている。
全霊をかけたハイドンの「四季」、音楽はそんな緊張感は感じさないところがすばらしく、かつプロフェッショナルなハイドンに感嘆すら覚えます。

J・トムソンというスコットランドの詩人の同名の詩集をスヴィーデン男爵が台本化したものに作曲。
このスヴィーデンさん、よく出てくる名前ですが、本職は役人で、ベートーヴェンが1番の交響曲を献呈していたり、また晩年もモーツァルトを支援したり編曲の依頼などもしているほか、自ら作曲もそこそこに行っている。
やはり、こうした人物が影にあってこそ、古典の時代の音楽がしっかり残されたというわけでしょう。
 一方の原詩の作者であるトムソンさんも、なかなかの人物で、当時のスコットランド~大英帝国にあって、奴隷制廃止をモットーにしていたようで、この「四季」における農民たちの尊き労働の姿、人間と自然の描写など、その目線におおきくうなずけるものがあります。

各季30分ぐらいの長さで、CDにも2枚でちょうど収まる長さ。
農夫親娘、その恋人の3人のソロ、村人、農夫たち、狩人、その他無人格の合唱、こうした編成で繰り広げられる2時間の自然や生活の賛歌。
ヨーロッパののどかな、よき時代を聴きながら思い起こすこともできます。

【春】
荘厳かつ厳粛な出だしを持つが、冬が去って春きたる、まさに喜びにあふれたウキウキ感まんさいの春。
シモンであるバスの独唱による94番の驚愕交響曲の旋律に乗った農作業の始まりの喜びの歌、ここばかりが始めて聴いた中学生の自分には楽しかったという思い出がある。
カラヤンのレコードが出た時にFMで聴いたのが初です。
各季節の終わりには神への賛美や感謝の場面がありますが、春での喜びの爆発は晴れやかです。

【夏】
農夫たちの夏の朝は早い。
ホルンによる夜明けと日の出の表現は、さわやかで気持ちがいい。
輝かしい太陽の輝き、眩しい暑さ、一方でソプラノのハンネは木陰や小川の素晴らしさも涼やかに歌う。
そして夏は天候も急変、嵐が近づくさまも合唱で劇的に描かれ、その嵐のあとの平和と回復のありがたさも歌われる。
小鳥の鳴き声やコオロギ、鐘の音なども巧みに描写され、微笑ましいのです。

【秋】
あまねく人間にとっての実りの秋、春に花をさかせ、夏には成長し、秋には実りをもたらす、とこれまでを回顧しつつ、3人と合唱は喜びを讃えつつ、これまでの努力も肯定的に歌う。
お互いの名前を呼び合う恋人たちふたりの二重唱も愛らしく、喜びに満ちてる。
収穫とともに、狩りの成果もあがる。シモンは狩りの様子を緊張感とともに歌い、銃声が太鼓で鳴る。
農民と狩人たちはラッパが高鳴り興奮する、高鳴るホルンは、「魔弾の射手」の先駆けか、実に見事な音楽だ。
さあ、宴の始まり、新しい葡萄酒ができた!愉快な掛け声も楽しく、歓喜の合唱はとどまることなく、陽気なダンスもあり底抜けに明るいのだ。

【冬】
秋のどんちゃん騒ぎから一転、どんよりとした曇り空が立ち込める雰囲気で、ハイドンの筆致も冴える。
独唱たちは、さんざん周辺の厳しい環境を列挙し、冬の旅よろしく、旅人になりきって街を行く様子を歌う。
そこで目にしたのは、暖かい部屋と人々の団らん。
村娘とハンナは、糸車を回して紬物を結い、求婚者への思いも歌う。
さらにハンナは貴族の求婚のたとえ話と、戒めを歌にして、その清らかな思いも語って村娘たちの喝采を得る。
父シモンは、これまでの3シーズンで贅沢にふけったことの戒めを娘と同じように歌い、徳を大切にと説き、最後の合唱へと導く。
春への希望と神への信頼と感謝を歌うのでした。

4つの季節を真面目に生きる人々の喜びと愛、また次の年もめぐりくることへの期待と感謝。
実に見事に作られた作品だと思います。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先にあげたカラヤン盤は実はまともに聴いてなく、音盤も持ってません。
手持ちのベーム、マリナー、ガーディナーの3種から、やはり一番よく聴いたベーム盤を。

70歳を超えて最充実期にあったベームのハリのある音楽造りは、ときに厳しい表情も見せますが、ウィーンフィルほどに柔和にすぎないウィーン響のナチュラルな響きも手伝ってか、豊かなサウンドをともなって劇場的でもあり、歌謡性にも富んでます。
 録音年の67年といえば、その前年からバイロイトでリングを指揮していたし、トリスタンもロングランで上演中だった頃。
レコーディングでもモーツァルトの一連のオペラなどもこの頃。
凝縮した響きで古典音楽もワーグナーも明晰に演奏をしていたこの頃のベームならではのハイドンかとも思います。
この頃はDGはウィーンフィルを自由に使えなかったはずだし、ベルリンフィルはカラヤンがいて難しかった。
ウィーン響でよかったともいえるが、思えばウィーン響とは不思議なオーケストラです。
カラヤンのあとを受けて、この頃はサヴァリッシュが首席指揮者だったが、そのサヴァリッシュの元では清新な現代的なサウンドのなかに、ウィーンの響きを聴かせていた。
しかしベームが指揮すると、ウィーン訛りも出てきて、ちょっとひなびた音色が優るようになるのを他の映像作品などで感じていました。
60年代に、ベルリンフィルでは無理だったが、ベームには、このウィーン響とベートーヴェン全集を残して欲しかった。
学友協会合唱団も引き締まった充実ぶりでしたね。

ベームのトリスタンで、マルケ王と水夫を歌っていた二人、タルヴェラとシュライヤー。
あとこの年にカラヤンのワルキューレでジークリンデを歌うヤノヴィッツ。
ワーグナーやドイツオペラ、歌曲で大活躍だった3人の歌手がいずれも素晴らしいと思います。
無垢なる声のヤノヴィッツにはまいど癒されます。
まっすぐの声で正確な歌唱でありながら、味わいもあるシュライヤー。
小回りがきかず、お人よし感満載のタルヴェラにベリーやFDのような巧さはないけれど、各種ワーグナーの歌唱にはない豊穣なコクのような声を感じる。
いまやみんな亡くなってしまい、ヤノヴィッツ(1937~)のみがご健在。
懐かしい歌声に、いつまでもお元気で、と祈念する思いです。
最後にDGのこのウィーン録音、とても音がいいです。
すべてが自然で音楽に気持ちよくひたることができます。

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ハイドンの生まれたニーダーオイスタライヒ州にある「ローラウ」という街。
6歳まで過ごし、その後学校に通うため、もう少し北にある都市の寄宿舎に移住、さらにすぐにウィーンに。

Rohrau-02

グーグル先生でいまは博物館となっているハイドンの生家を調べてみました。
湿地や小川が多く自然あふれるローラウ、近くに教会もあり、少し行けば広大な農地が広がってます。
ハイドンはずっとのちに、ロンドンから帰ってきて、郷里を訪問して懐かしんだといいますが、ちょうどこのオラトリオの作曲の頃。
マップで郊外も見てみましょう。

Rohrau-031

なんということでしょう。
おびただしい本数の風力発電の風車が・・・
風の抜けもよいのでしょう。
ヨーロッパの多くの郊外にはこんな光景があると思われ、はたしてそれはecoなんだろうか?と思います。
この殺伐とした景色と、案外と騒音を出す風車の音にハイドンもびっくりでしょうよ・・・

Fuji-01

ふだんは、5月の連休あたりが盛りとなる「藤の花」。

年々、開花が早くなってますし、咲いたらあっというまにしおれてしまう刹那的な寂しさがあるのも桜と同じかも。

季節は夏に向けてまっしぐらな感じです。

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