ショスタコーヴィチ 交響曲第15番 オーマンディ
多彩と呼ぶには、あまりにも作為的なまでに多面的かつ多作のショスタコーヴィチ。ともかくこの作曲家の内面を知ることは永遠に訪れないであろう。
裏切りの作曲家でもある。それは、ソ連体制への隠れ蓑という以上に、世の音楽愛好家をも手玉に取ったような肩透かしを行い続けたこと。
大作5番の後に、誰が全曲の半分を悲劇的な緩徐楽章と有頂天の6番を予想したろうか?宿命の第9に、何故軽薄なシンフォニエッタ風の曲が来るのか?
作曲当時は最後になるとは思いもしないが、純交響曲とはいえ、「ウィリアム・テル」が鳴ってしまうパロディー交響曲を、よりによって死の雰囲気に満ちた14番の後に作曲するだろうか??
第1楽章は、「ウィリアム・テル」のテーマが引用され、繰り返されるロンド楽章。
第2楽章は、引用はないが、かなり深遠な雰囲気の葬送行進曲。チェロやヴァイオリンのそれぞれ独奏が悲痛な音楽をかねで、ついにはこの作曲家独特の物凄い沈鬱かつ切実なる全奏にいたる。この楽章の鳴き濡れた音楽は、この15番の白眉かもしれない。
第3楽章は、軽薄な感じのアレグレット。打楽器が印象的。
第4楽章は、いきなり「ワルキューレ」の運命の動機がまるっきり響く。ジークムントの死の告知のようだ。しまいには、「ジークフリートの葬送行進曲」までが登場。これらが、ショスタコーヴィチ風の楽想とミックスされて」、「トリスタン」の無調的な響きをも感じさせながら、チェレスタ、打楽器が印象的に鳴り響きながら皮相な雰囲気のまま終結する。
1972年1月に、息子マキシムによって初演。5月には、ロジェストヴェンスキーがモスクワ放送響と日本初演を行った。私は、この時の演奏をテレビで何度も観た。
中学生だった私には、ウィリアム・テルと最後のヘンテコな終結しかわからなかった。
それより、ロジェヴェンの愉快な指揮が印象に残っている。
オーマンディは、同年にアメリカ初演を果たし、このレコーディングを行った。
極めて純音楽的な扱いで、楽譜の再現以上のことはしてないかもしれないが、フィラデルフィアという超優秀なオーケストラが完璧なだけに音楽を楽しむには充分すぎるかもしれない。
解説によると、オーマンディは作曲者のライナーノーツから、1楽章は「玩具屋」の様子で、おもちゃの兵士が吹けるのが「ウィリアム・テル」だけ。終楽章は全く異質なものの組合せで、やむにやまれぬ和解という結論を紡ぎだしている。・・・こんな内容のものを読んだらしい。
さらに、純度の高いハイティンクやヤンソンスは同じロンドン・フィルのくすんだ響きがいい。
45分程度の作品ながら、聴いたあとの印象は重い。
不可解で未解決な思いに囚われるからである。
15番は、作曲者がほくそえみながら、筆を置いた作品ではなかろうか?
16番なんて、絶対書くつもりはなかったのであろう。
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コメント
私はこの曲を1972年にロジェストヴェンスキーとモスクワ放送SOの演奏で日本初演を聴きました。「ウィリアム・テル」のフレーズが出たときはほんとにビックリ!多分、その場にいた全聴衆がそう思ったでしょうけど(笑)
投稿: einsatz | 2006年9月24日 (日) 19時02分
うぉー! この曲のあの日本初演を生で聴いた人なんて貴重品的ですよ。最初はふざけた曲に聴こえたでしょうねぇ。
投稿: yokochan | 2006年9月24日 (日) 20時48分