プロコフィエフ 交響曲第3番 アバド
昨晩は、ショスタコーヴィチの救いの無い暗い交響曲を聴いた。
今晩は、その少し先輩にあたる、プロコフィエフの交響曲を取り出した。
プロコフィエフの交響曲は、7曲あるが、1番と5番以外はなかなか人気が高まらない。
ショスタコほどには、交響曲作家ではないが、規模の大きい「歌劇」や「バレエ」といった劇場音楽にその真髄をみることができる。ついで言うと、ピアノ作品も、自身が名手であったとおり名作が多い。
7曲の交響曲は、V・ウィリアムズやショスタコーヴィチのように、それぞれが全く違う作風で書かれていてまったく飽きさせない。1番の単純さに続き、2番の春祭のような超暴力的な
作風に驚く、次いで書かれた3番は、2番の持つアヴァンギャルドな雰囲気は残しながらも、甘く美しい旋律も、冒頭の暴力的な旋律も、いわばなんでもありの曲になっている。
比較ばかりで恐縮だが、ショスタコーヴィチの4番の交響曲のようなつかみ所のない多彩な作品に似ている。
さきにふれたとおり、冒頭から叩きつけるような凄いサウンドに度肝を抜かれるが、それは冒頭だけ、続く旋律は親しみやすく、ロシア風の雰囲気になる。
高名な「ロミオとジュリエット」が好きな人ならば、この楽章も好きになるに違いない。
一転して2楽章は、荒涼としたロシアの大地を思わせる怜悧な曲想に支配される。
このクールなリリシズムはプロコフィエフ独自の聴きものかもしれない。
さて、注目は3楽章。いくつにも分かれた弦楽群が、不可思議このうえないグリッサンドを奏でるのだ。ネズミや猫が追いかけっこをしているかのような様子だ。
中間部では優しい旋律が繰返し各楽器間でやりとりされるが、すぐにまたネズミと猫が登場して、ファンファーレのように中間部の旋律も高鳴ってあれよあれよで終わってしまう。
終楽章は、厳しいフォルテの応酬始まり、各楽章の旋律をさまざまに扱いながら技巧の限りを尽くして豪快に終わる。
突拍子もない音楽だが、繰返し聴くとプロコフィエフの独特な味わいが見えてくる。
1968年、アバド34歳の才気溢れる録音で、ロンドン響の曲への適性も抜群。
アバドは有名な5番は全く演らないが、この3番だけは何度も演奏している。
アバドに続くイタリアの指揮者達、ムーティやシャイーもこの曲を得意にしている。
イタリアの歌心を刺激する何かがあるのか。チャイコフスキー、ムソルグスキー、ストラヴィンスキーは演るが、ショスタコーヴィチは演らない。キーは「歌」であろうか?
知ってるようで、知らない、知られざるプロコフィエフ。
私には解明する能力も時間もないが、気になるプロコフィエフその人であった。
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