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2006年11月20日 (月)

ワーグナー 「ジークフリート」 ケンペ指揮

Siegfried_kempe バラバラ・リング、一番の難関は「ジークフリート」。
第2夜のこの作品を単独で録音した物好きなんて、いやしない。
さんざん迷ったあげく、どうしても4部作録音したなかの一つとしてしか、取上げられないため、「ルドルフ・ケンペ」の「バイロイト1960年のライブ」から選んでみることにした。非正規盤ながら、ゴールドディスク仕様で、なかなか見映えのする豪華な仕上がりで、4部作が立派な箱に収まったCD。
もちろん、モノラルだが聴きやすい音で、バイロイトの劇場の雰囲気をよく伝えてくれる。

     ジークフリート:ハンス・ホップ   ミーメ    :ハーロルト・クラウス
     さすらい人  :ヘルマン・ウーデ アルベリヒ:オタカール・クラウス
     エルダ     :マルガ・ヘフゲン ブリュンヒルデ:ビルギット・ニルソン

こんなキャストで、ニルソンを除くとかなり渋いところを集めている。
1951年に始まった戦後の「新バイロイト」は、ヴィーラントとウォルフガンクという大ワーグナーの孫(したがって、ジークフリートとウィニフレットの子供)の二人の演出のみで上演される、文字通り「ワーグナー家の音楽祭」であり、他の劇場の追随を許さない本家本元だった。今では、バイロイトは「One of them」であるけれども・・・・。
 51年から「リング」は兄ヴィーラントが演出し、「パルシファル」とともに抽象的で音楽に語らせる「バイロイト様式」を確立し、同リングは58年まで続いた。
CD化された、クナッパーツブッシュや我々を狂喜させたカイルベルトもこの演出。
 1年置いて、「リング」は弟ウォルフガンクが担当し64年まで続いた。(65年からは、再び兄の演出で、かのベーム盤として残されている)

Giegfred2 どんな演出かは、推測の域を出ないが、70年代のシュタイン指揮による第2次演出のものと大差はないようで、4部作すべてを、舞台上に丸い「おわん」のようないわば、リング(環)を据えて、それをいろいろ変形させて背景を作っていたらしい。昨今のやたら情報発信量過多の演出からすると、貧弱に感じるかもしれないが、シンプルゆえに音楽に没頭できて、何だかとても良さげに感じてしまう。

兄の打ち立てた強烈な個性による舞台があるだけに、弟は比較されさぞやりにくかったろう。ものすごい歌手陣を据えた、兄演出に対し、弟ウォルフガンクは新しい歌手や指揮者を見出し、配置した。(せざるをえなかった?)こうした起用法は、今に残る伝統で、ウォルフガンクの功績なのかもしれない。
 指揮するルドルフ・ケンペは、当時オペラ指揮者としては一流だが、病気がちなこともあって華々しさとは無縁の存在だったらしい。今でこそ晩年の素晴らしい録音で、ファンも多いが当時は極めて地味な職人指揮者だった(のだろう)。
 このリング、なかでも地味ジークフリートではあまりの渋さに、「もっとそこ、こうして」と辟易とするヶ所もあるが、この「いぶし銀」で聴く男声社会のジークフリートは、こんな演奏こそ相応しいような気がしてくる。ドラマ性が少ないだけにこの静的なワーグナーもいい。
でも、幕を追うごとにかなり熱くなってくる。3幕の迫力はなかなかのもので、劇場の人「ケンペ」ならではと思わせる。「黄昏」なんて、そうとうに素晴らしい指揮ぶりだ。

歌手は不満と感銘が五分五分。
暗いオランダ人で鳴らしたウーデのさすらい人は、変に音程が定まらずかえって、妙にヘラヘラと明るくて(?)がっかり。ミーメもへたくそ。
アルベリヒは、かなり性格歌手っぽくていい。
そして、肝心のホップのタイトルロール。フルトヴェングラー時代からの大ベテランだけに、肉太の「ずんぐりむっくり」を想定してしますが、以外やジェームズ・キングばりのバリトンの声域の豊かな気品ある声を聞かせる。でも鍛冶の場面では、ちょっともっさりしてしまうが。
 3幕後半から、元気一杯目覚めるニルソンは、バイロイトデビューしたてで、ともかく声のハリといい明瞭さといい、他のベテランや苦戦の歌手に比し数等すばらしい。

このリングは、「ケンペ」のあと、ウィーン生まれの「ベリスラフ・クロボチャール」に引継がれた。なんて地味なんだろう。クロボチャールは後年N響にも客演した人。
その後の兄演出では、「ベーム」「スウィトナー」「マゼール」で、2次弟が「シュタイン」だから、弟は音楽面でも兄の後塵を拝するような地味な選択をしていたわけである。
 こんな過去のバイロイトの歴史に思いを馳せながら、当時の音源を聴くのも、ワーグナー好きの楽しみ。

演奏やバイロイトのことばかりになってしまったが、「ジークフリート」は殺しの場面はあるし、再び指環争奪戦が繰り広げられる権謀術策の場面もあるが、「リング」の中ではハッピーエンドが用意され、愛を信じて疑わない無邪気な二人の明るい二重唱で終わる。
ここでのジークフリートは、自然児で世間の波に揉まれていないオバカさんだが、平気で自分を育ててくれたミーメや、恐竜ファフナーを殺してしまう、無知な残忍さも持ち合わせている。恐ろしい子供なのだ。
こんな無知で無邪気なオバカさんが、知らずに権力を持ってしまったらどうなるか?
世の演出家は、きっとそんな切り口でも深読み演出を試みるどろうな。(もうあるか?)
無知なる独裁者「ジークフリート」なんて感じで・・・・・。

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