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2006年12月12日 (火)

ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」 ヤンソンス指揮

Jansons_rco_shostako7 コンセルトヘボウ歴代音楽監督シリーズ、いよいよ現職6代目の「マリス・ヤンソンス」の登場。2004年の就任からまだ2年。
なのにもう2回もこのコンビは来日している。ヤンソンスの日本贔屓もさることながら、日本の音楽マーケットの豊かさを痛感。

歴代の長期政権を見るにつけ、ヤンソンス治世はまだ始まったばかり。
オケの音色が薄まったとか、ヤンソンスの個性が見られないとかいう議論はまだ尚早。
ハイティンクの時も、シャイーの時も最初は手探りで、お互いの熟成期間が必要だったのだから。ただ、今のヤンソンスはもう一つの手兵「バイエルン放送響」の方が、その機能性と有機性が相性の点でしっくりきているかもしれない。
超優秀な二つのオーケストラを同時に兼任することって、昨今あまり例がないから、今後ヤンソンスがどう繰りまわしていくか、本当に楽しみではある。

ヤンソンスは、旧ソ連のレニングラードで活躍したから「ロシア」っぽいイメージが若干あるが、バルト三国のラトヴィア出身。地図で見るとバルト海を挟んで対岸はスウェーデン。
バルト海を西へ向かい、デンマークを一跨ぎすると、そこは北海。ドイツ・オランダも近い。
何故こんなことを書いたかというと、ヤンソンスは自分がヨーロッパ人であることを強く意識していることを、以前読んだことがあるから。
ハイティンクはオランダ人、シャイーはイタリア人、ヤンソンスはヨーロッパ人、こうして対比してみると、それぞれの指揮者達がコンセルトヘボウと築きあげていった音の公約数が何となくわかるような気がしなくもない。

今回のショスタコーヴィチの第7交響曲は、今年2006年1月のライブ録音の自主制作盤。響きの豊かな素晴らしい録音にまず驚き。
演奏時間74分、1988年のレニングラード・フィルとの旧盤が68分で、テンポが大幅に伸びている以上に、恰幅のよさや、細部の磨き上げのレベルアップが一聴してわかる。
その代わり音楽の勢いや推進力は、旧盤が勝っている。

戦争交響曲とか言われているが、私には有名な第5交響曲の二番煎じのように思える。
時の権力側にいた音楽家から、「人間の主題」(何のこっちゃ?)と呼ばれたハ長の勇壮な主題が全曲のモットーになっているが、ボレロを思わせる執拗な繰り返しによる行進曲は、嫌になるくらいに耳に残り、人間の主題とやらを駆逐してしまう。
これが「戦争の主題」。
 奇妙なスケルツォや神妙なコラールを経て、終楽章では熱狂を突き抜けて「人間の歌」による勝利が高らかに鳴り渡る。・・・・・・。果たして作曲者の意図は?
例のヴォルコフ証言以来、素直にショスタコーヴィチの曲を聞けなくなってしまった感があるが、この曲は反戦と人間の勝利を歌っているだろうことは間違いない(かも?だろう?)

中学生の頃、NHKのドキュメンタリーで、悩む作曲者の横顔を写しながら、この曲が鳴らされていて、例の旋律が以来、耳タコになってしまった。その後のアリナミンのCMは苦笑したが、何やら、朝頑張って家を勇猛と出ていくのにいい音楽にも感じた。

ヤンソンスとコンセルトヘボウは、ハイテンクと同じように作曲者の楽譜を信じ、順音楽的に真摯に取り組んでいて、出てくる音楽は極めて立派。何も言うことはありません。
強いて言えば、作曲者が何を言わんとしたか、何を秘めたか、そうした闇の部分のいわば陰影の表現が少し欲しかったかな。

今後、このコンビがどういうコラボレーションを生み出していくか、1年おきに手兵を変えて日本でもそれを確認できるのが贅沢な話。ますます、懐に厳しいが来ないで、とは言えない。

 

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