マーラー 「亡き子をしのぶ歌」 F=ディースカウ
名古屋の「庚申」という店で食べた味噌ラーメン。
伏見の御園座のすぐ裏。
実にインパクトある名古屋風のラーメンだった。そしてともかくウマイ!
麺は、味噌スープに埋没しているから、先にスープを一口すする。
おおっ、こりゃ八丁味噌じゃん。
そう、北海道味噌と岡崎の八丁味噌をブレンドしている由。
ダメな人はだめだけど、私は全然OK。というか美味い。
そして麺が黒いのよ。木炭を一緒にすり込んで打っているらしく、コシがすごくあった。賛否両論かもしらんが、わたしには美味かったでな。
さて、またもや歌曲。
マーラーの「亡き子をしのぶ歌」。
1901年から1904年にかけて作曲されたこの不吉な歌曲は、交響曲第6番の直前の作品。
こちらもリュッケルトの詩によるもので、マーラーはアルマとの結婚前に作曲し、完成は結婚をまたいで完成を見ている。
アルマが、この作品を知って怒ったのは有名な話。
数年後、彼らの娘マリア・アンナが亡くなってしまう。
アルマは、その後も再婚したグロピウスとの娘も亡くなり、ベルクが絶美のヴァイオリン協奏曲を残した・・・・・。
世紀末は、音楽と死は、密接な関係を持ちつづけていた。
この曲は、前日に聴いた「リュッケルト・リーダー」とも表裏一体をなしているように思う。
あちらは、アルマとの幸せな瞬間も歌いこまれているのに対し、こちらは、終始、絶望と厭世が音楽の上に覆いつくされている。
①いま太陽は明るく昇る
②今、私にはわかるのだ、なぜあの暗い炎を
③おまえの母さんが
④よく私は考える
⑤こんなひどい嵐の日には
この音楽ほど、マーラーのなかで、ワーグナーに接近したものはないのではないかと思う。
そう、トリスタン的な半音階上昇の曲調や、寂しげなオーボエに代表される響き、憧れや渇望に満ちた部分や、終末的な結末など・・・・。
よく私は考える、子供たちはちょっと出掛けただけだ。
またすぐに、家へ帰るであろう・・。
悲しい内容に、新婚生活を始めるアルマの不可解な気持ちがよくわかる。
この歌曲に、第6交響曲だもの。
最近の日本の悲しい風潮は、「お父さんは、ちょっと出掛けただけだ・・・・、」あとは言うまい。私の場合は、「お父さんは、ちょっと飲みにいっただけだ、電車がなくなってしまったんだとよ・・・・」
⑤の音楽は、昔、JUNブランドのCMで使われていた。
もう30年くらい前、「ソウルトレイン」のCM。
あれは、サイケでインパクトあったな。
ベームが残した唯一のマーラー。ベルリンフィルを指揮して、それこそシュトラウスかワーグナーのような音がしている。
能弁で色濃いバーンスタインとウィーンフィルの対極にある、ベームとベルリンフィル。
ちょうどモーツァルトの交響曲を録音しつつあった頃で、音符のひとつひとつをしっかりと扱った克明さもある。ドイツの音楽である。
そして、フィッシャー・ディースカウの抜群にうまい歌唱は、言葉の端々に、ただならぬ思いを注入している。声の若々しさも60年代ならではのもので、後年の濃い頭脳プレーはまだあまり感じられず、極めて音楽的な歌唱に思う。
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