スーク 「夏の物語」 K・ペトレンコ指揮
浅草の吾妻橋のほとりから。
海上遊覧船が橋の下をくぐってます。
そして、左手にはスカイツリー、中央はアサヒビール本社。
ビルの上に、泡のようなイメージがのった、いかにもバブリーな建物。
その横には、お馴染みのモニュメント。
う○こ、じゃありませんぞ。
今日は、すっかり涼しかったけれど、逝く夏を惜しむ今週の企画。
要するに、盛夏に取り上げる暇がなかったものを、あわてて出してるシリーズともいえよう。
本日は、知ってしまった以上は、根こそぎ聴かずはおれない作曲家のひとり、チェコのヨゼフ・スーク(1874~1935)の、大オーケストラのための交響詩「夏の物語」を。
今年の春に取り上げた「人生の実り」は、自身の生涯を描いた点でも、その最充実期の作品で1917年。
「夏の物語」は、その前1909年の作品で、祖父のドヴォルザークの影響下にあった作風から離脱して、後期ロマン派・印象派風の濃密サウンドにすっかり様変わりした魅力的な作品。
スークの作品数は、どうもそんなに多くはないけれど、その作風の変遷にはとても幅がある。
何の要因がそうさせたか、非常に興味はあるけれども、世紀末の風潮があらゆる芸術家にもたらした幻想的かつ象徴的な要素は、「後がない、先が見えない」といった刹那的な緊迫感からもたらされたもので、古典プラス民族楽派の正統な血統の家系にあったスークですらも飲みこまずにはおかない大きな流れだったのだろう。
この印象派風でもあり、かつ退廃感もただよう音楽は、マーラーやR・シュトラウスをすっかり聴きなれた、現在の私たちにも全く違和感なく共感できる音楽であります。
マーラーは、この同郷の作曲家のことをずっと気にかけていたようで、「夏の物語」を指揮したかったという手紙も残されていて、その思いも果たせずに亡くなってしまう。
5つの楽章からなる50分近い大作。
Ⅰ.「生への呼び声」
Ⅱ.「真昼」
Ⅲ.「インテルメッツォ~盲目の音楽家たち」
Ⅳ.「幻想のなかで」
Ⅴ.「夜」
対訳がないので、各章はこんな感じか・・・。
海の一日を描いたドビュッシーの「海」のように、「夏」の一日、しいては「夏」という季節の盛衰、さらには、それを人生に置き換えたような作品といっていいかもしれない。
曲は曖昧な中から始まり、それがやがてウェーベルンかベルクのような盛り上げ方を示してくれて、すっかりその素晴らしいサウンドに魅了されてしまう自分を発見する。
親しみやすい旋律のⅡは、日本の盛夏ほどには眩しくない真昼の音楽で、物憂げである。
素敵なのは、Ⅲの哀歌のようなインテルメッツォで、やや古風な歌いまわしがいにしえの楽師たちを偲ぶようでもある。ヴィオラのソロも渋いし。
ダイナミックなスケルツォ楽章でもあるⅣは、幻想に取りつかれてしまったかのような没頭感と酩酊感あふれる音楽。
そして、最終のⅤ「夜」は、まるでディーリアスを思い起こすような感覚的、かつすこぶる陶酔的な音楽。わたしゃ、こんな音楽がたまらなく好きなんです。
夜鳥のさえずりや、森のささやきなどが、甘い旋律に乗って歌われます。
キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・コーミュシュオーパー管弦楽団
(2004.1@ベルリン・コーミシュオーパー)
ふたりいるペトレンコのうちの、キリルの方。
(もうひとりは、ワシリー・ペトレンコで、CDが最近たくさん出てるし、日本のオケにも客演してますが、こちらも逸材)
キリル・ペトレンコは、まだ38歳ながら、ドイツ移住後は、オペラハウス中心に地道に活躍をして昇りつめた実力派で、あのホモキのベルリンのコーミシュオーパーの音楽監督をつとめている。
先に書いたとおり、ティーレマンのあとの、バイロイトの「リング」の次期新演出上演の指揮者として最有力視されております。
さらに、運営サイドとの軋轢から潔く辞表を叩きつけたK・ナガノのあとのバイエルン・シュターツオーパーの後釜としてもその名があがっております。
知的なアプローチながらも、熱い音楽を引き出すエモーション豊かな指揮者に思います。
オケが実にうまく、素晴らしいスークの音楽を聴かせてくれる1枚でした。
角度を変えてみると、左奥には、東武鉄道が走ってます。
日光から、浅草まで。
沿線の通勤・通学の足に加えて、国際観光列車となりうるだろうか・・・・。
河の上の長い夏は、こうして終りを告げつつあるのでありました
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