バーンスタイン ミサ曲
わたしじゃなくって、息子が撮ってきました。
デジカメを持たせ、撮り方を格別伝授しなくとも、そこそこの写真を撮ってきましたよ。
ふふふっ、親として嬉しい限り。
ネタとして使わせていただけますので(笑)
レナード・バーンスタイン(1918~1990)のミサ曲。
1972年の作品で、この曲を完成させつつあった70年に、バーンスタインは、ニューヨークフィルと来日していて、わたくしは毎度のことながら唯一の情報元であった、「レコ芸」で、その演奏の模様や、小沢・日フィルとの親善野球試合の写真などを憧れのもと、眺めていた小学生だった。
ちなみに、そのときの演目が、幻想、ベト4・5、そして、マーラーの第9だった。
毎度ながらの昔話で、恐縮でございます。
最近、作曲家バーンスタインの方が、親しい存在になりつつある。
指揮者バーンスタインなら、70年代以前のもの。
DG初期からCBS時代。
活気みなぎるバーンスタインが、ヨーロッパを席巻し、世界のレニーになった頃。
このミサ曲の時代背景。アメリカは、ニクソン治下、ベトナム戦争中。
少し前は、R・ケネディの暗殺、沖縄返還合意・・・・。
ソ連との両極関係にありながら、悩める大国は病んでいった。
それを頭に置きながら聴く、バーンスタインのミサ曲。
死語にも匹敵するカテゴリーのミサ曲を近代作曲家が真剣に取り組むなんて、しかも、カトリックの音楽をユダヤ人が手掛けるなんて。
交響曲第3番「カディッシュ」は作曲中起きたJ・F・ケネディの暗殺を受けて、故ケネディに捧げた。1968年のこと。
そして、同時に構想を練りつつあったミサ曲は、ケネデイ未亡人ジャックリーヌ・オナシスの依頼により建てられたケネディ・センターのこけら落しとして作曲が進められることとなった。
そして、出来あがったその曲は、ミサ曲の概念を打ち破る劇場音楽としての上演形式であり、クラシック音楽のカテゴリーに収まりきらない、ロックやブルースを取り入れた総合音楽的様相を呈した大作となったわけである。
バーンスタインは、この作品を「歌い手、演奏家(楽器)、ダンサーのための劇場用作品」と称している。
それは、こんな舞台の様子(後生大事にとってあったFMファンの切り抜きから)。
衣装には、時代を感じさせるが、ミサ典礼文をこんな感じで歌い踊り演じちゃうことに、聴衆は冒瀆よりは、新鮮な感動と共感を覚えた。
教会内の厳めしい形式的な秘義を劇場に解放してしまった・・・とでもいえようか。
こんな発想をすることができたバーンスタインの天才性。
曲は、ラテン語によるミサ典礼文を基本に置きながら、そこに英語によるバーンスタイン自身とS・シュワルツによって書かれた台本がからんでくる。
キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュスデイ、これら通常典礼文がしっかりあって、それらは時にロックのようにシャウトして歌われたり、ブルース風だったり、現代音楽風だったりのバラエティ豊富な展開。
その間に絡んでくるのが、追加された歌唱部分で民衆たる合唱やソロによるものと、ミサ全体を司るCerebrant(司祭)のバリトンによる歌唱。
前半部分は、典礼も挿入部分も主を賛美し、神の栄光を称える。
司祭は冒頭、「Sing God a simle song・・・・・」~「神に、シンプルに歌を捧げよ!生のあらんかぎり、主を讃える歌を歌おう・・・・」と実に美しい讃歌を歌う。
この曲、わたしは気にいってまして、カラオケで歌いたいくらい。
中学生の頃に発売されたこのミサ曲の、特別サンプル17cmLPをCBSに応募してもらったが、その冒頭がこれ。何度も聴きました。変な中学生でした。
しかし、典礼の合間合間に、人々の神への不信や不満が芽生えてきて、「何いってんだ!」とか「早く出てこ~い」なんて好き勝手歌い始める。
不穏な空気が後半はみなぎってくる。
クレド=信仰告白に対しては、「告白すりゃぁ、それでいいってか!」「感じてることは表に出せない、見かけなんて嘘ばかり。ほんとうのもの、主よそれがわからねぇ・・・」と不満をぶつける。
しかし、司祭はそれに対し、「祈りましょう」・・・としか答えることができない。
「選べるのだったら、一本の木だってよかったんだ。人間になんてなるんじゃなかった・・」と病んだ発言。
「あんたは、またやってくると言ってた。いったいいつ来るのよ!いつまでわたしたちを苦しませているのよ、世の中はひどいことになっているよ・・・」
途中、ベートーヴェンへのオマージュのような章もあって、第九の旋律が流れる。
それでも司祭は、祈りましょうと、聖体拝領を行ってミサの儀を進める。
次ぐアニュスデイは、通常のミサやレクイエムでは神妙かつ優しい曲調なので、そう思って聴くと、まったく裏切られることになる。
民衆と個人ソロが入り乱れて、不平不満大会となって沈黙する神への怒りへと変貌してゆき、暴徒化してゆく。音楽も、大音響となって収拾がつかなくなる・・・・・。
そこへ、司祭が「PA・・CEM、Pacem」と叫び、赤葡萄酒に満たされた聖杯を床に叩きつけ、聖杯は大きな音を立てて砕け散る。
「平和、平和を」と叫んだ司祭。
これからが、司祭の最大の歌いどころ。15分以上をソロで歌い抜けなくてはならない。
法衣服を脱ぎ、「粉々に砕けてしまった、物事はなんて簡単に壊れてしまうんだ。」と悲しそうに、そして空しく歌う。
「まだ待っているのかい?・・・、 だが君たちは、君たちなんだ、何が君たち歌い手たちに出来たかを、それを歌い、それを祈るんだ・・・・」
司祭は、舞台の下に消えてゆく。
前半に出てきたオーボエの神秘的なソロの音楽を、こんどはフルートソロが静かに奏で、やがて最初はボーイ・ソプラノの少年合唱で、次いで民衆やソロ、そして再び一般人のなりで現れた司祭役も加わって感動的な「Secret Songs」が始まる。
「Lauda」すなわち、誉め讃えの言葉が繰り返される感動的なエンディングは、マーラーの千人交響曲の神秘の合唱にも似ている。
だが、それと違うところは、「汝に平安され」と囁かれ、「全能の父よ、耳を傾けてください、われわれを祝福し、ここに集まったすべての人を祝福してください、アーメン」と静かに閉じ、ナレーターが最後にミサの終了をアナウンスする壮麗さとは無縁の渋い印象的な終わり方だ。
「The Mass is ended;go in Peace」
不穏な時代にも、人の心にある祈りと平和への思い。
沈黙の神への問いかけは、自分の心への問いかけに等しい。
宗教の概念を超えた素晴らしいミサ曲だと思います。
演奏云々をいうべき音源ではないが、司祭を歌うのが、なんと若き日の、アラン・タイトゥスであります。
いまやバス・バリトン歌手として、バイロイトや新国でウォータンを歌ったあの人。
あの声が全然想像できない、明るめでテノール音域までも楽々とこなす、しかもロック風歌唱もばっちりのタイトゥス。
独壇場ともいうべき素晴らしい歌唱でした!
司祭:アラン・タイトゥス
合唱:ノーマン・スクリブナー合唱団
バークシャー少年合唱団
その他歌手
舞台監督:モーリス・ペレス
指揮:レナード・バーンスタイン
オーケストラ&ロックバンド
プロデューサー:ジョン・マックルーア
(1971.9@ワシントン)
久しぶりに真剣に聴いたバーンスタインのミサ曲。
大いに感動しました。
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コメント
バーンスタインのミサ曲は、中学の時に校内放送で流そうと思って申請したら、音楽の先生にクラシックじゃないと拒絶された思い出がありました。クラオタさんが「中学生の頃に発売されたこのミサ曲の、特別サンプル17cmLPをCBSに応募してもらった」という記事を見て、自分もその17cmLPを持っていたのだと思い出しました。
投稿: faurebrahms | 2011年9月 4日 (日) 19時17分
faurebrahmsさん、こんばんは。
そうですか、当時この曲は賛否両論でしたし、まして中学校ではさすがに先生もびっくりでしたでしょうね。
わたしも、中学校時代はいっとき放送委員をしていましたので、昼休みにショパンなどをかけたりしてました。
同じ中学時代、このサンプルレコードを、ロック好きの友達に聴かせたら、こんなオペラみたいなの嫌だ、と言われてしまいました(笑)
いろいろですね。
投稿: yokochan | 2011年9月 4日 (日) 23時30分
ご無沙汰です。
京都、銀閣寺にLBのミサ曲とは、このマッチングがいいですね。今は事の趣を楽しむところのようになってしまいましたが実は京都もずいぶん尖ったところでありましたものね。このミサ曲は初めて聴いたときのワクワク感を今でも覚えています。現代音楽(という範疇に入るのだと思うのですが)はたとえばアイヴズあたりから始まって、ケージとかシュトックハウゼン、カーターとかヴァレーズあとNYPつながりのブーレーズもこのあたりまでが面白かったですよね。そういえばこれらの源流になった新ウィーン楽派の面々もシュトックハウゼンも今でも尖ってるヘンツェも音楽の都ウィーンやドイツ出身でした。京都もですが歴史があると言うことは新しいものものみ込む懐の大きさがあると言うことなのでしょうか。頑なな伝統ばかりではないわけでしょうか。
投稿: yurikamome122 | 2011年9月 6日 (火) 12時39分
この曲、全曲は聴いたことがありません。ホフマンが歌った録音があるシンプルソングとシークレットソングはこの中の曲なのでしょうか。それほど好きな曲ではなかったのですけど、病気がかなり進行していたころ、本人もそれをまだ知らなかったような1994年、三枝 成彰氏の招きで静岡でリサイタルをしたときのプライベートテープで、シンプルソングのかなり危ういのを聴いて以来、好きになってしまいました。
投稿: edc | 2011年9月 6日 (火) 14時38分
yurikamomeさん、こんばんは。
こちらこそ、ご無沙汰してます。
神奈フィルともご無沙汰しちゃってまして、そろそろ禁断症状がでそうです。
いま聴けば、なんのことはないのですが、このミサ曲を中学生にして聴いたときの驚きは大きかったです。
マーラーというよりは、ベートーヴェン指揮者の認識が強かったバーンスタインの音楽をまともに初めてきいたのも、この曲でしたから。
新ウィーン楽派以来、アメリカ発のゲンダイ音楽は、ドイツ系ないしは、ドイツを追われたユダヤ系の方々だったのですね。
あの時代以降の音楽シーンがとても興味があります。
そして当のドイツ・オーストリアも国際化の波に飲まれながらも、やはり本物の強みを持ってますね。
バイロイトまでも飲みこんだ、ドイツの演出主導のオペラ上演。それは時に、ドイツの背負ってきた暗の部分までも、自ら浮き彫りにし、自己反省につながるくらいの過激さ。
伝統の強みは、ときに、激しい自己批判にもつながるものと思います。
それから始まる、新しい潮流が、伝統の上にしっかり則っているから強いのではないかと思ったりしてます。
日本は時に、伝統を頑なに守る域から脱さない部分が多いですね。
京都のみが、どこか先鋭に感じたりしますのも同感です。
面白いものですね。
投稿: yokochan | 2011年9月 6日 (火) 22時38分
euridiceさん、こんばんは。
おぉ、そうです、シンプルソングとシークレットソングは、このミサ曲の聴きどころのふたつです!
パートはバリトンなのですが、やたら高いところもありまして、ホフマンのようにバリトンの強い声を持った歌手にはバッチリでした。
静岡でも、ホフマンは歌ったのですね。
聴きにいきたかったです。
バーンスタインの初演盤は、いまのウォータン歌手ですから、なんとなく、ホフマンの声との相性もうかがえます。
投稿: yokochan | 2011年9月 6日 (火) 22時58分
yokochanさん
ありがとうございます。
全曲録音もあるのですね。是非聴いてみたいと思います。
>静岡でも、ホフマンは歌ったのですね。
相当体調が悪かったということで、聴くのはつらい・・感じが強いのですけど、それでも心にしみます。ユーチューブに限定であげてありますので、よろしければどうぞ。ブログにリンクを入れました。しばらく置いておきます。とりあえずTBします。
投稿: edc | 2011年9月 7日 (水) 22時43分
euridiceさん、この長大なミサ曲、バーンスタインの自演盤も含めて4種類出てますので是非どうぞ!
そして、ご丁寧にありがとうございます。
ホフマンの静岡の歌、聴かせていただきました。
辛い歌ですが、本当に味わい深いです。
泣きそうになりました・・・・。
いい曲ですし。
投稿: yokochan | 2011年9月 8日 (木) 20時58分
こんばんは。私は高校の頃、地元の合唱団と名フィルがこの曲をやったのを聴いたのが最初です。
最近になってオールソップ盤を聴いてこんな曲だったっけと、記憶を巡らしてます。
バーンスタインだからなし得た曲ですね。
投稿: ピースうさぎ | 2011年9月 8日 (木) 21時22分
ピースうさぎさん、こんばんは。
名フィルでこんな大作をやったのですね。
羨ましいですね。
オールソップにK・ナガノ、F・ジョルダンと、実に興味深い音源が出ているようで、とっても聴いてみたいとおもってます。
バーンスタインの作品も、氏の手を離れて、いろんな解釈が出てくるようになった今ですね!
投稿: yokochan | 2011年9月 9日 (金) 23時39分
(;´д`)トホホ…
この曲は「シンプル・ソング」しか聴いてません。
最近BMG-ソニーの廉価BOXでCBSのバーンスタイン自作自演集が7枚組で出ました。
が「交響曲60CD」と交響曲1・2・3番がダブるので買ってません。
輸入盤ですので、この長大な「ミサ曲」を歌詞対訳なしでは辛いです。
やはり映像で観たいですね。
しかし、レニーがこうした曲を作曲していた時代は
「ゲンダイ音楽」全盛時代で彼は嘲笑の的・・・
彼がもう少し生きていたら、自分のポリシーが正しかったと確認できたのに。
投稿: 影の王子 | 2011年9月21日 (水) 16時56分
影の王子さん、コメントどうもありがとうざいます。
ご返事遅くなってしまいました。
バーンスタインの大作ミサ曲。
国内盤がなさそうなのが残念です。
外盤で数種出てますが、やはり作者のものがまず聴くにはいいのでしょう。
対訳なしで、適当に訳してみましたが、通常のミサ典礼文に、アメリカ語という感じですので、詳細がわからなくてもなんとかなりました。
レニー作品が、作者の手を離れて、いろいろな音楽家の手で語られるようになりました。
やがて、時分の時代が云々の、マーラーみたいな感じになってきました。
ほんと、あと少し長生きしていれば・・・、おっしゃるとおりですね。
継続して他の作品も聴いていきたいと思います。
投稿: yokochan | 2011年9月24日 (土) 11時37分