ドビュッシー 「海」 サロネン指揮
雨上がりの海で撮れた虹です。
薄ぼんやりとしてますが、このあと眩しく晴れていきました。
海はいいです。
日がな一日、海を眺めていたいです。
海の脅威をいやというほど知らされてしまったけれど、それでも、その先に広がる大きな世界や未知の風物に思いをめぐらせ、寄せては返す波を見ていると気持ちが緩やかになります。
海を見て育ったからよけいかもしれません。
子供の頃、父親と姉と始終来てました。
釣りに飽きた父親は、泳ぎも得意なものだから、沖に向かって一人で、どんどん泳いでいってしまいました。
その姿はどんどん小さくなって、頭も見えなくなってしまい、私と姉はとても不安になってしまうのでした。
でも、ほどなく、その姿が徐々に大ききなり、沖から泳いで帰ってくる父親にえもいわれぬ安心感と強さを見たのでした。
親父が亡くなって、もうだいぶになるけれど、今でも夢に出てくる光景です・・・・。
そんな姿を、自分は、もう大人になる子供たちに見せるまもなく、日々忙殺されて終わってしまいました。
矢のように過ぎる辛い毎日が疎ましく思います。
なんで、こんなになっちゃったんだろ。
ドビュッシーの交響詩「海」。
定期的に取り上げてます、わたしのフェイバリット音楽であります。
昔のデッカイ、ウォークマンに「海」のカセットを仕込んで、砂浜に座ってぼぉ~っと、何度も何度も聴いていたものです。
ジュリーニとフィルハーモニアとデイヴィスとバイエルン(FM)の演奏がいたくお気に入りでしたね。
波の音が、その音楽としまいには一緒になってしまい、雰囲気をいやでも高めてくれまして、ドビュッシーの音楽のすごさが、実物の海と波しぶきによって理解できたような気がしておりました。
サロネンとロサンゼルスフィルのクールでダンディな、今風の見通しのよい明晰なる演奏は、あの時、海で日々聴いたこの曲のイメージにぴったりのような気がします。
大人になって、東京暮らしをしながらも、彼女なしの週末は、誰もいない実家(両親は父親の仕事で名古屋に)に帰って、音楽三昧と、昼は海。
酒屋でビール買って、海で、海を聴きながらビールを飲むという、これまた密やかな楽しみに目覚めました。
夕方は、ロングビーチの下あたりまで、海を走るのです。
若かったですね~
サロネンは、いまはフィルハーモニアに落ち着いてしまいましたが、ロスフィルとの相性は抜群だったと思いますね。
明るくカラフルなサウンドに、ジュリーニ仕込みの音楽を聴き合う落ち着きあるサウンド。
耳の鋭敏なサロネンの研ぎ澄まされた個性に磨きをかけられ、明るい中にも知的で、シェイプされた力強さと脂肪分のない軽やかな音楽が聴かれるようになったと思います。
ドゥダメル君はあんまり聴いてないからわからないけれど、サロネンとロスフィルのコンビなら、マーラーでもブルックナーでもドイツの本場でも聴かないようなユニークな響きで説得力ある演奏が聴かれたものです。
ここでのドビュッシーは、細やかな音の出し入れへの配慮が、とても繊細なタッチで、思わぬ響きに時おり驚くところも多々あります。
パリで指揮した「トリスタン」の音源を持ってますが、あの怜悧でありながら暖かな眼差しを感じさせるワーグナー・サウンドの延長として、この「海」を聴きました。
精密でありながら明るく、そしてダイナミズムの幅が極めて広大。
ラストのエネルギーの放出のような鮮やかさも素晴らしいものでした。
フィンランド生まれの指揮者とカリフォルニアのオーケストラが奏でる、ノルマンディの海。
これもまた、素敵な「海」でした。
| 固定リンク
コメント
このコンビの「海」の生演奏を聴いてしまった私です。。。
もうおっしゃるとおりこのコンビは相性ばっちり、指揮者とオケの最良の関係だったと思います。
実際に聴くと、若干モノトーンな「海」でありましたが(ケント・ナガノ&モントリオールの方がキラキラ感がありました)、
まぁでも曲想の区切りや音色の変化の明晰さは異常なまでに研ぎ澄まされて開いた口がふさがりませんでした。
それにしても、でっかいウォークマンで海辺とは!
といいつつ、私もでっかいの持ってましたけど(笑)。
でも、それで「海」とは!今度iPodでやってみようかしら(笑)。
投稿: minamina | 2011年10月25日 (火) 23時26分
おっ、サロさまとロスの生「海」をお聴きですか。
そりゃ、うらやましい。
音楽創造行為の最先端とおもいっていい、サロネンの指揮ですね。
LAPOがここまで!という驚きもあります。
ドゥダメル君では、正直ムリなところですが、メータのようなグラマラス系でもないところが、意外な見どころかもしれません。
海で聴く海。ビールとともに、是非お勧めですよ。
投稿: yokochan | 2011年10月26日 (水) 23時43分