マーラー 交響曲第2番「復活」 金聖響&神奈川フィル
東京モノレールを真下から、桜と一緒にパシャリ。
東京は、本日、桜満開なり。
ちょっこし寒いですが、本格的な春でございます。
この桜の下は、公園で、実は陣取りのブルーシートだらけ。
そこで楽しむ方々はいいかもしれないけど、あのシートは興ざめであります。
今日もマーラー。
マーラー 交響曲第2番 ハ短調 「復活」
S:澤畑 恵美 Ms:竹本 節子
金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
神奈川フィル合唱団
合唱団音楽監督 近藤政伸
(2010.5.28@神奈川県民ホール)
第1番と同時進行した第2番の作曲は、1888~1894年にかけて。
初演は、1番より1年早く1895年。
日本は明治28年で、前年の日清戦争の勝利の後処理中。
ヨーロッパでは、フランスでドレフュス事件が前年に起きて、ユダヤ人を特別視する風潮が根強くあることを示した。
そんななかで活躍したユダヤ人としてのマーラー。
マーラーは1897年のカトリックへの改宗で、ヨーロッパ楽壇で生き抜く所作を身につけ、処世の術としてます。
現世の厳格なる宗教、ユダヤ思想に「復活」は希薄かと思えますが、この第2交響曲のクロプシュトックの賛歌は、キリスト教的な宗教的な意味合いがある一方で、いまの私たちは、ここに人間の生き様としての「復活」を強く感じて聴くのだと思います。
マーラーは、いつも死を恐れ、死と隣合わせにいたかのような人ということで、暗くて悩める人のイメージがありますが、この「復活」とその素材選びを見ると、決して死を恐れていたのでなく、作曲できなくなる、そして愛するアルマと別れるという意味での告別を恐れていたのではないかと思えるようになります。
前向きで、微笑みの死。
その先には復活があるんだ!イェ~イ!ってなもんで。
マーラーの交響曲をすべて、そんな風に思って聴いて感じると、また違ったものが見えてくるような気もします。
ライブで聴くと、この2番は、まさに前向きに後押しされるようにして、ホールをよしやるぞ的な力強い足取りで火照りながら出ることが出来るんです。
一昨年に聴いた神奈川フィルの創立40周年記念コンサートこそ、まさにそんな幸福な演奏会でありました。
そのライブ録音がCD化されてまして、神奈川フィルの会員の多くの方が、同団のマーラー・チクルス前半の皆勤賞のご褒美に戴いている音盤でございます。
とても素晴らしかった実演。
響きの悪い県民ホールも、あの日は音像も近くに聴こえ、ガンガン鳴ってた。
でも、このCDは少しばかり印象が違ってて、デッドで硬い響きで、楽器によって鳴り方が異なる。
独唱と打楽器はしっかり響いてる。
弦と合唱は渇き気味で、寸詰まりの感あり。
しかもテノール音域マイク拾いすぎ。
木管・金管はちょうどいい。
全体の印象は、少しばかりモコモコ系で、本番のスッキリ感が後退した感ありです。
ヴィブラート少なめも、あの日以上に、かなり実感できます
こうして音盤として残すには、もう少しブレンド感が欲しかったところ・・・・。
でもですよ、オケの美しさ繊細さは味わえますし、なんといっても曲が進むに従って、徐々に熱気を帯びて行って、最後に大爆発する様は、あの時のホールで聴いた印象と感動そのままです!
見通しのいい素直でクリアなマーラーは、粘着系とはほど遠いところにある若者のマーラーでありましょう。
いまのわたしの2番の捉えどころ。
第1楽章は、静かな第2主題がいろいろ姿を変え、この長い楽章の中で何度も登場するところ。それと何度も書きますが、中間部の大休止のあと、低弦からうごめくように胎動する場面。ここを精緻に扱ってもらわないと困ります。
第2楽章。この地味で、眠くなってしまいそうな楽章が年代を経たワタクシにはお好み。
各パートの絡み合い、ことにチェロの動きに着目です。
第3楽章は、コロコロ変わるマーラーの変幻自在の音楽を楽しむこととしますが、「子供の不思議な角笛」の一編とともに比較しながら聴くのも一興であります。
トランペットの夢見るようなソロに、次の章の予告のようなファンファーレにも注目。
第4楽章「原光」は、アルト独唱の深々とした歌声に注目。
3番と同じく、しいては「大地の歌」のように、アルトの声に託したマーラーの想い。
深遠さとそこにある甘味さを味わいたいです。
ヴァイオリンソロにも耳をそばだてましょう。
そして巨大な5楽章は、大きすぎて一つの曲みたいだけれど、前半がオケ、後半が歌。
前半では、場外(?)バンダとステージ上の奏者たちとの掛け合い。
「復活」の動機が金管から広がってゆき、やがて訪れる大ファンファーレのクライマックス。
中学時代、まだ全曲を聴いたことがなかった頃に聴いたこの部分は、CBSソニーのサンプラーレコードカタログのワルターの演奏。
さらに休止のあと、切迫した雰囲気の中、弦の刻みの上に響き渡るトランペット。
かっちょええで! いくつになってもそう思うぞ。
場外バンダと、フルートとピッコロの鳥の掛け合いの清涼感。
合唱が静かに讃歌で入ってきて、ここからはもう、全部が今も昔も夢中になってしまう場面だからその全部が押さえどころです。
とりわけ、合唱がバスからだんだんと声部を上げて盛り上がってゆき、やがてくる最後の高揚感は、もう筆舌に尽くしがたいものがあります。
合唱入りでは、8番とも共通するものありです。
こうして観て聴いて、CDとなっていつでも聴ける神奈川フィルのマーラー。
音の良しあし、そして、より精度の高そうな都響のCDはともかくとして、繊細でしなやかな美しいマーラーオケの存在を確かなものとして感じさせてくれます。
横浜発のマーラーは、発売済みの第9に続いて、第10番も予定されております。
ともかく、いまの時点での全曲音源化を強く強く期待いたします。
交響曲第2番「復活」 過去記事
「アバド&シカゴ響」
「アバド&ルツェルン祝祭管」
「メータ&ウィーンフィル」
「金聖響&神奈川フィル」
「マルクス・シュテンツ&N響」
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コメント
この演奏、我が神奈川フィルの熱演を残念ながらちょっと残念な録音ですよね。もう少しイケていたのですが。
神奈川フィルのマーラーシリーズのおかげで去年は随分マーラーを聴き倒し、いろいろ考えましたが、マーラーの音楽のメルヘン、子供のおとぎ話に出てくる怖さにも似ているのかなって思えてきました。素人の思いつきですからアテにはなりませんが。
昔、「ホントは怖いグリム童話」なんて言うのもあったり、マザーグースやシューベルトの歌曲のいくつか(と言うか大部分)、日本のおとぎ話も結構怖くてエロくて、でもそれは、子供を育てる課程で生と死、性愛などを現実としてリアルに子供に教える、生きると言うことはそういうことだと子供に教えると言うことなのではないかという事を河合隼雄さんが「昔話の深層」と言う本で述べていて、マーラーの曲の生死というのはもちろん自分の生い立ちから来ての表現なのでしょうけど、こういう必然があるから長年受け入れられてきたのかなとも思ってきました。
残念ながら私はこの曲の復活の意味がわかっていたようでわからなかったんですよね、あの311まで。
なんて、メータ盤ではまって以来、思い入れのある曲なので書きすぎてしまいました。すいません。
投稿: yurikamome122 | 2012年4月 9日 (月) 16時29分
yurikamomeさん、2番にもようこそ。
わたくしも同じでして、神奈フィルのおかげで、少しばかり食傷ぎみだったマーラーが、フレッシュになって、また近くにやってきました。
番号順に聴いてゆくことで、神奈川フィルの演奏で味わったことを思い起こしてます。
そしてマーラーの音楽の持つ多様性もまた考えてみたりしてます。
が、しかし、たいてい酔って聴き書いてますので、むちゃくちゃになってますが・・・・。
「昔話の深層」という本は読んでみたいですね。
日本の童謡も恐ろしいものがたくさんありますね。
今の世は、なんでもリアルで、そのリアルじゃないと、若い人には理解できないという悲しみはありますが、昔はそんな風に、いろんなところに大人のヒントが隠されていて、わたしたちはそうして過ごしてきた訳なんですね。
リアル世代が、純心に奏でるマーラーというのも、もしかしたらこれから出てくるマーラーのトレンドかもしれません・・・。
あの日以来、わたしも復活を始めとして、マーラーへの想いが変わったかもです。
示唆に富むコメントどうもありがとうございました。
投稿: yokochan | 2012年4月10日 (火) 22時18分