ブリテン シンフォニア・ダ・レクイエム ブリテン指揮
先週、千葉の太平洋側、すなわち外房方面へ仕事でいったおり、訪問した、いすみ市(旧岬町)にある、太東岬灯台。
神奈川育ち、千葉県民のわたくし、同じ海あり県ですので、千葉はかねてより全県廻っておりましたが、こちらに訪問するのは初めて。
いすみ市は、おおざっぱに言うと、千葉県の太平洋側にあって、一宮・九十九里と勝浦・御宿の間ぐらい。
北側は、のんべんだらりとした美しい砂浜の続く九十九里海岸にあって、この地は、一番海側、すなわち、太平洋側に突出した岬にございます。
よって、灯台が古くからあって、安全の目印になっていましたが、戦時には、いち早く米軍の来襲を察知できるとあって、機関銃の銃砲台や、この画像の海軍電波深信儀、すなわちマイクロ・レーダーが据えられていたのです。
まさか、ひと気のないこの地に、戦争の跡を見出すとは思いもよらぬことでした。
当時のままのコンクリート基礎に、その向かう先は太平洋の向こう。
いまの平和な日本には思いもよらない戦争のあった日々。
それは歴史の上では数十年のいっときですが、その時代に生きた人々を戦いに、死に、そして別れと悲しみに追いやることとなりました。
けっして風化してはならない、わたしたち日本人の歴史のひとコマでもあるんです。
だから美化してはならない、でもそこに殉じた方々を決しておとしめてはならず、感謝と報恩の念を持ち続けなくてはなりませぬ。
今日聴く音楽は、人間の命と尊厳を戦いでもって失ってはならない、そんな平和希求の思いをもった真っすぐな作品です。
近隣の国々が、わたしたちの住むこの国を右だ、反省しないだ、なんのかんのかまびすしいですが、ご心配いただくまでもなく、わたしたちこそ、もっとも平和と安全を希求しつつ、精神的にも折り目正しきを重んじ、恥を知り、美を思う国民なのです。
あまたの自然災害をはじめ、あらゆる艱難に耐え、対策をし、反省もし、心を強く持ってきたわれわれ日本人をばかにするのもいい加減にして欲しいものです。
ブリテンが、1976年に63歳で早死にしなかったら、あと20年も活動してくれていたら、きっと平和を愛する日本に、今日の作品の続編をきっと書いてくれていたと思います!
ブリテン シンフォニア・ダ・レクイエム
ベンジャミン・ブリテン指揮 SWR南西ドイツ放送交響楽団
(1956.12 @バーデン・バーデン)
かつてより、現代ものを得意とするこのオーケストラの設立間もない頃の、現代作曲家を招いての放送録音や演奏会の一環であったブリテンの客演。
ちゃんと、お友達ピアーズも伴っての客演では、このレクイエムと、エリザベス2世の戴冠にまつわるふたつの委嘱作、すなわち、オペラ「グロリアーナ」と、「エリザベス朝の主題による変奏曲」という2作と、蹴られたけれど、日本政府からの委嘱作、といった委嘱ものでかためた筋の通ったプログラミングだったのです。
1940年、「日本国皇統2600年」奉祝のための作品依頼を受けたブリテンが作曲したのが、この作品だった。
日本政府は、おそれ多くも、こともあろうに皇国の祝賀に「鎮魂交響曲」とは何事ぞ!と、演奏を拒否してしまった。
1940年は、ブリテンがお友達のピアーズとともに、アメリカに長期滞在中、すなわち良心的兵役拒否という行動の一環としての活動のさなか。
日本国にこの曲を贈った真意は、人間のひとつの生きざまを音楽として捉えたものだと思います。
うごめきだす生、闘いの昼ともいうべき活力の裏には悲惨さも。
そして最後の楽章では、人生の終着点としての安らぎが。
3つの楽章をこんな風に解釈すれば、なにも拒絶することはない、人生譚だと思うのです。
当時の日本国は、ブリテンに対し、拒絶とともに、演奏できなかったことへのお詫びとして契約料以上の多額の報酬を支払ったとされます。
最後の、祈りに満ちた美しくも優しい音楽には、いつ聴いても心が動かされます。
「戦争レクイエム」とともに、そして先日取り上げた姉妹作「英雄のバラード」とで、3部作を形成していると思います。
モノラルの録音ですが、放送音源だけに、細部まで鮮明。
ブリテンの優しさが、その指揮にも表れていて、先鋭な南西ドイツのオケから、とても柔らかく感動的な終結部を導きだしてます。
いま、オペラ「グロリアーナ」を何度も聴いて、その記事を準備中ですが、こちらの組曲版は古典風でありモダニズムでもあり、懐古調でもある面白い作品です。
その組曲版も、大いに作品理解の参考になる音楽でした。
今日、広島の原爆記念日8.6に、ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」を捧げます。
そして、佐村河内さんの交響曲のミューザでの演奏会まであと12日です。
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コメント
今晩は。本当に日本人ほど平和の有難さと重みをよく知っている民族は珍しいと思います。戦前はよくないこともしたかもしれないけれど、戦後は植民地は全部手放しましたから、植民地戦争とも無縁でしたし、戦後は物凄く平和な国になりました。母方の祖母が印度で戦死しておりますので、戦没者を美化する人たちも不当に貶める人たちも本当に嫌ですね。
ブリテンをはじめとする英国音楽は恥ずかしいほどロクに聴いていないのですが、シンフォニア・ダ・レクイエムはラトル指揮バーミンガムと、ベットフォード指揮ロンドン響で聴いています。グロリアーナも組曲版なら聴いたことがあります。確かにブリテンは早死にしなかったら、平和な国になった戦後日本のために素晴らしい名曲を書いていてくれたような気がします。想像しているだけで楽しいです。
投稿: 越後のオックス | 2013年8月 7日 (水) 00時17分
戦死したのは祖母ではなく祖父でした。祖母は亭主を戦争で失い、私の母も含めた3人の子を女1人で育てて大学まで行かせた苦労人でした。
投稿: 越後のオックス | 2013年8月 7日 (水) 00時20分
越後のオックスさん、こんばんは。
ほんとうにそうですよね、平和ボケしてるくらいですから。
今一度、この平和のありがたみを国民が考えるべきですね。
越後のオックスさんのように、戦死されたご親族を持たない=知らない人々が大勢を占める世の中になってます。
わたくしの方も調べればおられると思いますが、だんだんと親族の昔話も途切れるようになってきてます・・・・。
東京の空襲の話を父から聞いたわたしも、子供たちにその話を伝えようにも彼らは興味薄。
なかなか難しいものです・・・・。
ブリテンの反戦・平和への思いはハンパなく、その数々の作品に反映されてます。
音楽は、何年経っても、そこに乗せた思いが色あせることがないのですね!
投稿: yokochan | 2013年8月 7日 (水) 23時36分
この曲との出会いは実演。大阪万博ニューフィルハーモニア管弦楽団来日コンサートでした。本来なら指揮はバルビローリ、彼の急逝をうけプリッチャードになってしまいました。ブリテンとマーラー、確かジャネット・ベーカー(今ならデイム付きでしょうが)の「さすらう若人の歌」と1番でした。
シンフォニア・ダ・レクイエム、当時耳にして何も分からず終わってしまった印象が大いにあります。その後20年後、ラトル指揮ロンドン響のLPを耳にして、この曲の素晴らしさに気づきました。
投稿: ornellaia | 2013年8月 8日 (木) 14時05分
ornellaiaさん、こんばんは。
こちらにも、コメントありがとうございます。
バルビローリの来日中止は、極めて残念でした。
テレビ放送があっただけによけいです。
代役のプリッチャードの公演は、NHKで見たような、みないような曖昧な記憶ですが、この曲も演奏していたのですね。
いま、そのときの音源や映像があれば、どんなに素晴らしいことでしょうか。
わたしの方は、やはりラトルのCD、そしてマリナーと都響のライブがかけがえのない、この音楽の思い出です。
もっと、日本のオーケストラが取り上げていい曲のひとつですね。
投稿: yokochan | 2013年8月10日 (土) 00時35分