シェーンベルク 「清められた夜」 バレンボイム指揮
低気圧の去ったあとの、急激かつドラマティックな夕暮れ時を捉えることができました。
夕焼け大好き男が、そのフェイヴァヴァリット嗜好をはぐくんだのは、この場所。
実家の家の、2階にあった自分のお部屋から見た夕焼け。
かつてはなかった建物もありますし、木々が変化して、富士山の頭も見えなくなってしまったけれど、小さな街が海から北側に開ける様子を、こうして横から眺めることができます。
右手は丹沢・大山山系、左手は吾妻山です。
夕暮れ時は、窓から見えるこんな景色を眺めながら、ワルキューレのウォータンの告別や、パルシファルのラストシーン、トリスタン、マーラーの第3や第9、ボエームやトスカ、ディーリアスの儚い音楽の数々、・・・・、あげればキリがないくらいの音楽たちとともに過ごしました。
若くて、多感な日々ですが、歳を経てしまった今では、それらはノスタルジーにしか過ぎず、この場所に戻ってこれるのは年に数回のみ。
自ら選んだ道とはいえ、都会の現実の厳しい日々にさらされる毎日です。
多くの方々にも共感いただける現実ではないでしょうか。
身をおいた境遇から脱することは易くありませんが、音楽はかつての自分に近付けてくれる、なんら変わらない存在なのです。
そう思うと、音楽を聴かないという自分は想像もできないし、音楽の数々のその存在に感謝したくなるんです。
今夜は、そんなノスタルジーかきたてる、そしてあの夕焼けが、だんだん藍色の空に染まって、やがてこの西の空に金星が輝き、暗い空にまたたいてゆくのを眺めて聴いた、シェーンベルクの「浄夜」を。
シェーンベルク 「清められた夜」
ダニエル・バレンボイム指揮 イギリス室内管弦楽団
(1967.6@アビーロード・スタジオ、ロンドン)
後期ロマン派、濃厚な情念あふれるスウィートかつ、どこか苦みも聴いたサウンド。
全編がそんな感じの「浄夜」。
1899年の作曲、シェーンベルク25歳の若き日の作品。
わかりますよ、25歳。
だれしもあった(ある)、20代の燃え盛るような思い。
それは人生に対してであったり、仕事に対してであったり、そして恋愛に対して!
そして、年々、そんな思いはいずれも遠くになりゆき、すべてが客観的になったり・・・・。
ドイツ世紀末の詩人、リヒャルト・デーメルの詩「女と世界」のなかの同名の詩に触発されて書かれた弦楽六重奏曲が原曲で、シェーンベルク自身による弦楽合奏版の編曲の方が演奏機会が多いですね。
いまは「浄夜」という呼び名の方が一般的になったけど、わたしには、いまだにかつて呼び親しんだ「清められた夜」というタイトルが相応しく思える。
どこか古風な感じと、「静」とひた隠しにした思いと、陰なる行為の果て・・・・
男と女が寒々とした林の中を歩んでいる。
月がその歩みにつきそい、二人を見下ろしている。
月は高い樫の木の梢のうえにかかっている・・・・・
原詩ですが、その彼女は、違う男の子どもをはらんでいる。
告白する女。
男はすべてを受け入れ、静かにふたり、月の光のなか歩んでゆく・・・・。
すべては月の光で清められるのでありました、なーんて。うまくいくかね?
今夜は、わたくしにとって懐かしく、カラヤンとともに、忘れ得ぬ、バレンボイムの25歳。
そう、シェーンベルクがこの曲を書いた同じ歳での録音で。
ほぼ、バレンボイムの指揮録音デビュー時の頃のものです。
ピアニストに限らず、器楽奏者が、オーケストラという大きな自分のキャンバスを得たときに、表現意欲過多となる傾向がある。
オイストラフ、ロストロポーヴィチ、アシュケナージ、エッシェンバッハなどに思い当たること。
でも、バレンボイムは、どこか違う。
そんな様相もあるけれど、最初からピアニストと別の顔として、指揮者の並々ならぬ手腕と、生まれながらの指揮者的な不敵な要素も持ち合わせていた。
イギリス室内管を指揮してスタートしたキャリア当初から、堂々たる演奏と、濃厚な表現ぶりが際立っていたように思う。
カラヤンのような綺麗な濃密さとは違い、同じ濃厚さを持ちつつも、爽やかさも持ち合わせた青年が背伸びしたような味わいを持っている。
そんな感じが、「清められた夜」には妙に相応しい。
その後のバレンボイムの歩みは、みなさまご存知のとおり。
若いころの、大人びた演奏の方が好きだな。
このレコード、「ジークフリート牧歌」とヒンデミットがカップリング。
ワーグナーが実に素敵な演奏でした。
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コメント
こんなコンサートプログラム、あったら、いいな。
・’浄夜’=’清められた夜’が冒頭(但し原曲で)。
・モノオペラ’期待’
後半は、
・ペレアスとメリザンド。
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1)前半は、独白オペラの’期待’。作品の異常的心理がより鮮やかに浮かび上がらせるために、「清められた夜」を弦楽六重奏曲の原曲で。
2)小さい編成から、段々、編成が大きくなるのも見栄えがするから。
3)後半は 大きい管弦楽作品だから。演奏が難しいし。。
4)’期待’も実際、金管楽器群にも負担がかかるから。
******
5)聴く聴衆にとっても、3曲ともに、たくさんの人間が舞台にずっと居られても、疲れるし。。
投稿: 清められない夜を過ごした朝の鏡を凝視した人 | 2013年11月18日 (月) 20時37分
清められない夜を過ごした朝の鏡を凝視した人さん。
なんだか、今度は怪しくもただならない雰囲気ですね。
清められた夜には、そんな退廃的なムードが漂います。
うっとりします。
かつて、文化会館の小ホールで、シェーンベルク・ナイトを楽しみました。
六重奏バージョンで浄夜と、ピエロリュネールです。
ご推薦のフルオケまでに発展する、シェーンベルクサイトは完璧ですね。
客が集まりそうもないようでいて、東京ではハマれば大ブレイクしそうな演目です。
休憩中にピアノ作品なんぞ流したい、そんなコンサートです!
投稿: yokochan | 2013年11月19日 (火) 22時48分
こんばんは。
yokochan様の、この曲をお聴きになったシチュエーションも、何とも甘美な世紀末にピッタリですね!
因みに、私がかつて購入した同楽曲のCDジャケットに配されたデザインも、弦楽六重奏版がシーレ、弦楽合奏版がクリムトといった絵画が選ばれておりました。
投稿: Booty☆KETSU oh! ダンス | 2013年11月21日 (木) 20時40分
Booty☆KETSU oh! ダンスさん、こんにちは。
いくつになっても、夢見るオジサンなので、かねて親しんだ風景と状況は忘れることができません。
この曲やペレアスなど、クリムトやシーレなどの、世紀末系の絵画がぴったり符合しますね。
大好きな時代です。
投稿: yokochan | 2013年11月22日 (金) 09時27分