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2014年3月17日 (月)

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 アルゲリッチ&アバド

Abbado_mozart_o_3

アバドの連続追悼特集は、今回で、ひとまず終了したいと思います。

オーケストラ・モーツァルトを指揮した2013年のルツェルン・春・イースター音楽祭でのライブ録音が、いまのところ、アバドの最新の録音。
ということは、アバド最後の録音ということになります。

永年の朋友の、マルタ・アルゲリッチのソロで、二人の共演初のモーツァルトの協奏曲。

20番と25番。

アバドは、ともに複数回、数々の名ピアニストと共演と録音を重ねてきました。

20番は、グルダ(ウィーンフィル)、ゼルキン(LSO)、ピリス(モーツァルト管)の3種。
25番は、グルダ(ウィーンフィル)とゼルキン(LSO)。

こんなに、複数回、協奏曲の同一曲の録音を重ねているという指揮者も、ほかにあまりいないのではないでしょうか。

それだけ、奏者の信頼も厚く、共演したい指揮者としてのアバドの姿です。

前にも書きましたが、協奏曲の指揮者として、合わせものの名手として、かねてより名前のあがる指揮者は、オーマンディ、マリナー、ハイティンク、プレヴィン、デュトワ、そしてアバドなのです。

手持ちの放送音源でも、アバドの協奏曲は、とても多いです。
モーツァルトに限って、羅列してみても、カーゾン、ブレンデル、ラローチャ、シフ、P・ゼルキン、ペライア、アシュケナージ・・・、本当にたくさん。

Mozart_argerich_abbado_2

   モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466

          Pf:マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

                   (2013.3 @ルツェルン)


アバドの通算4度目の20番。

最後となってしまった20番は、まさかのアルゲリッチ。
このふたりで、モーツァルトの共演の録音がなされるとは、思いもよらぬことでした。

1955年の、グルダのザルツブルク・ピアノ夏季講習で出会ったふたり。
60年近くの共演歴と、残された録音は、これまで、6枚の音源。

初のモーツァルトに、アルゲリッチ自身は、このライブの音源化に消極的だったといいます。
これまでのふたりの共演は、ベートーヴェンを除けば、ロマン派、ロシア、フランス、という具合で、どちらかといえば、華やかで、ソロもオーケストラも情熱と煌めきが似合うような曲目ばかりでした。

そこへ来て、最後はモーツァルト。

ヴィブラートを抑え気味に、抑制の効いた清楚なオーケストラの背景に徹するアバド。
それでいて、音楽の表情に、そしてピアニストの語る音楽に、敏感に反応し、どこまでもソロにつけてゆく機敏なオーケストラ。

アルゲリッチのイメージでもある奔放さは、どうしても最初から持ってしまう感覚なのですが、このモーツァルトでは、落ち着きと、さりげない一音の中に感じる、音の掘り下げの豊かさをこそ感じます。
 実は、もっとアルゲリッチらしさを期待してはいたのですが、悲愴な短調になかにもみなぎる、モーツァルトの音楽の音の愉悦感を、しっかりと押さえていて、ほどよく力も抜けて、微笑みながら弾いている情景が思い浮かぶようでした。
 鋭さ、哀しさは、少し後退してます。

アバドの指揮にも、同じ印象を受けます。
達観の域に至った大家は、若いオーケストラを意のままに、ピアニストの演奏に、しっかり反応しつつ、透明感あるすっきりとしたモーツァルトを造り上げます。
それは、ときに、もっと劇的に踏み込んで欲しいところも、サラリと通り過ぎて、気が付くと、もう次の場面へと進んでしまうという、こだわりのなさすら感じさせます。

アバドのモーツァルト管時代の、それこそモーツァルトは、意外なくらいに淡泊で、音楽を信じ込んでしまい、なんの解釈も施していないという、摩訶不思議な印象を持っております。
交響曲では、ピリオド奏法を採用し、繰り返しも徹底しておりますが、どこか食いこみがたりない。
 協奏曲では、ヴィブラートはごく自然につけて、打点のキレのよさだけは、引き立たせてます。

話は、飛びますが、アバドのモーツァルトの交響曲では、一番最初の、ロンドン響との40・41番が一番好きで、その後のベルリンでの録音や、モーツァルト管との再録は、まだ自分的には馴染めません。

それと同様、20番というと、多感な少年時代に、初めて聴いたワルターとウィーンフィルの弾き語りが刷り込みで、あそこに求めた自分の気持ちは、「モーツァルトの短調」という、悲しみと愉悦のせめぎ合いでした。

Gulda_abbado

そのワルター盤以上の喜びと感銘を与えてくれたのが、グルダ&アバドの超名盤。
高校生の時に購入し、21番とともに、ほんとうにレコードがすり減るぐらいに、何度も聴きました。
 グルダの弾むようなピアノと、音の粒立ちのよさ。
そして、アバドの指揮するウィーンフィルの歌い回しの美しさ。
録音も絶品で、あの1枚こそ、わたくしの、幸せモーツァルトです。
 のちに、口数の減らないグルダが、あのときのアバドを小僧呼ばわりしたことには、本当に腹がたちました。
あんな、すてきなオーケストラを背景にもらっておきながらのケシカラン発言。
チェリビダッケとともに、饒舌な不遜な音楽家は、好きじゃなくなりました・・・。

これまた、はなしは変わりますが、無口で、人前で話すのが苦手なアバドは、かつては、いつもこうして損をしてるのでした。

大きく脱線してしまいました。

アルゲリッチは、あの奔放さの片鱗を随所に見せつつも、全体の出来栄えは、少しおとなしすぎるのと、老成しすぎ、と思ったりもしました。

しかし、2楽章は極めて素晴らしい。
早めのテンポで、爽快に進めつつ、さりげない表情付けが、とても愛おしく、モーツァルトの音楽をこそ、そこに感じました。
短調の楽章の間に挟まれた、束の間の柔和な楽想。
しかし、突然、舞い戻る激した感情の中間部。
この対比が、アルゲリッチもアバドも、その豊富な人生経験のように、深くエッジが効いていて、聴いていて辛くなるほど・・・・。

そして、アバドが、この世から去ってしまったことの悲しみも感じるのでした。

アバドとモーツァルト管のモーツァルトは、まだ、完成系ではなかったと思います。
奏法のギャップなど、アバド自身も、まだ思考していたのではないかと。

ハイドンを聴いてみたかったです。
ベルリン後半からのバッハでは、徹底して、禁欲の美しさが、古楽の奏法も取り入れつつ出ておりました。

そんな思いは、また、これから記事にしたためていきたいですし、アバドとソリストたちの共演についても、さらにアバドとオペラ、新ウィーン楽派・・・などなど、まだまだ、思うことたくさん。
これから、間をおいて、ゆっくり書いていきたいと思います。

Abbado_mozart_1


アバド逝去後、アバドの歩んだ道を、そのポストとともに2ヶ月間たどってまいりました。

冒頭に書きましたとおり、アバド追悼は、ここでひとまず、筆を置きたいと存じます。

音楽シーンでは、いろんなことが起きましたが、わたくしには、「アバドとの別れ」が、なによりも悲しく、音楽聴きの生活の中で、あまりに大きな出来事でしたので、他のことは、濃淡ありつつも、ささいなことに過ぎませんでした。

ここに、もう一度。

「クラウディオ・アバドさま、42年間、わたくしの音楽ライフに、光を輝きを与えていただき、ほんとうにありがとうございました。
あなたの寡黙ながらも、誠実な音楽への愛に満ちた生き方は、わたくしの、心の師でもあり、兄とも思ってやみません、その思いそのものです。
これからも、あなたの残された音楽を、ずっと聴いて行きたいと思います。
いつまでも、クラウディオの優しくて、、嬉しそうな笑顔を忘れることはありません。
 永遠に、安らかなれ、そして、ゆっくりと、おやすみください」


Abbado_2014120

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コメント

よこちゃんさま、ご無沙汰しています。
八王子のSOKOです。Claudioが永遠の旅へ出てから、早いもので2ヶ月が過ぎました。追悼シリーズをずっと読ませていただきましたよ。よこちゃんさんのClaudioへの想いがビンビン伝わってきて、毎回感動の嵐が吹き荒れました。お疲れさまでした。そして本当にありがとうございました。特に最終回の文章は涙でかすんでしまいました。
私の命がある限り、よこちゃんさんの記事を手引きに、Claudioが歩んできた道のりを旅すること、これが残された人生における私の目標です。イタリア語の新聞記事等を
年代順に少しずつ整理しています。その膨大な量に気が遠くなりそうですが、今まで知らなかったClaudioの姿が次々と明らかになっていくのはこの上ない喜びです。
ところでもうご存じでしょうか?FerraraのTeatro comunaleテアトロ・コムナーレが3月21日より公式名が
"Comunale Claudio Abbado"となりました。その夜、
マーラー・チェンバー・オーケストラを迎えてのコンサートがありましたが、コンサートの前にはイタリア政府やフェッラーラ市のお偉方がステージに上がり、式典が執り行われました。ダニエルとアレッサンドラの姿もあり、ナポリターノ大統領からのメッセージも紹介されました。
フェッラーラはClaudioにとっては第三の故郷(ミラノ、ボローニャに次いで)と呼んでいいほど、結びつきの強い
街でしたからね。フェッラーラから世界へ発信したオペラやコンサートの数は枚挙にいとまがありませんよね。
この夜のプログラムのテーマは「人間の命」ムソルグスキーの歌曲集「子供の部屋」マーラー「子供の不思議な角笛」マーラー「交響曲第4番」で、指揮はミハイル・ユロフスキ、ソプラノはソフィア・フォミナ(ロシアの新進ソプラノ歌手)バリトンはジェラルド・フィンリー(世界的に活躍しているカナダ人)3人とも私は初めて聞く名前でした。マーラー・チェンバー・オーケストラはこのプログラムを持って、次はボローニャ、フランクフルト、ブリュッセルへツアーを予定しているようです。
ミラノのAbbadianiのお友達がこのコンサートへ行ったようで、後日様子を知らせてくれるそうです。何か印刷物も送るとのメールが届きました。とても楽しみです。
よこちゃんさんと是非お会いしてClaudioの話ができたら
嬉しいです。今後とも末永くよろしくお願いします。

投稿: 八王子のSoko | 2014年3月29日 (土) 16時57分

八王子のSOKOさま、こんにちは。
ほぼ2ヶ月間、アバドに集中しました。
ご覧いただきありがとうございました、同じアバディアンとして、心より感謝いたします。

悲しみは、ずっと癒えることがないとは思いますが、幸いにして残された多くにアバドの遺産を聴き紡ぐことで、ずっと身近に感じてゆくことでありましょう。

あらたな情報もありがとうございます。
フェラーラの件は、存じ上げませんでした。
フェラーラで録音された数々の名品は、忘れ得ぬ思いでも満載ですね。
そして、マーラー・チェンバーの演奏会の素敵な演目。
アバドを想うに相応しい曲目ばかりです。
ジェラルド・フィンリーは、英国音楽好きとしては、はずせない名バリトンです。
海外のネット中継を探してみようと思います。

最後に、こちらこそ、今後とも、よろしくお願いいたします。
アバドの集いのお知らせを、ご連絡させていただきました。
どうもありがとうございます。

投稿: yokochan | 2014年3月30日 (日) 12時09分

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