ベルリオーズ 幻想交響曲 アバド指揮
すっかり遅れてしまいました、5月の小便小僧。
連休があったもんで、なんだかんだで。
ご覧のとおり、桃太郎コスプレですよ。
後ろ姿、可愛いね。
そう、日本一ですよ。
あと数週間で、小便小僧クンも、きっと傘をさすことになるんですね。
日が経つことが、なんと早いこと。
ベルリオーズ 幻想交響曲
クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(2013.5.19 @ベルリン)
ベルリンフィル退任後、いつもの年なら、5月は、クラウディオ・アバドがベルリンに帰ってくる月でした。
今年は、ベルリンっ子も、ベルリンフィルの面々も、きっと寂しい思いをしていることでありましょう。
アバドが指揮する予定だった、今月17日のコンサートは、ラトルが受け持ち、アバド追悼コンサートとなります。
シューベルト「ロザムンデ」間奏曲、モーツァルト ヴァイオリン協奏曲3番(ツィマーマン)、ブルックナー 交響曲第7番、というプログラムです。
ベルリン・フィルとの最後の演奏会だったのが、昨年の5月。
演目は、メンデルゾーン 「真夏の夜の夢」と、ベルリオーズの「幻想交響曲」でした。
楽団のデジタルコンサートのアーカイブにありますので、会員になれば、いつでも鑑賞できますし、さきに、NHKFMで放送もされましたので、録音いたしました。
「アバドの幻想」といえば、1983年のシカゴ響との鮮烈な録音が、その代名詞でありますし、あと、わたくしには、その同じ年に来日したロンドン響との演奏が、いまでもまぶたに浮かぶくらいの鮮やかなものなのです。
その時は、文化会館で、アバドのごく至近で聴いたものですから、その若々しい指揮ぶりをつぶさに観察することもでき、アバド・ファンをさらにまっしぐら、とういう感じでした。
あれから、30年。
その間、アバドが幻想を指揮することは、2006年にシモン・ボリヴァルと、2008年にルツェルンとありましたが、ベルリンでは、わたくしの記憶に間違いがなければ、この2013が初ではなかったのではないでしょうか・・・・。
病後、そしてルツェルン時代、年々、若返るような音楽造りをしていたアバドですが、この演奏には、30年の年月の重みを感じます。
テンポも速く、表情もすっきりと、達観したかのような澄み切った表現を極めていたアバドに、ほんの少し疲れのようなものを感じるのが、この「幻想」でした。
慎重な1楽章は、テンポもゆったりで、どこか乗ってこない感じ。
2楽章のワルツも、ゆったりと丁寧な歌い口で、表情は優しくて、ダンスの熱狂からは程遠いものがあります。
3楽章から生彩をおびだしてきて、繊細かつ緩やかな歌い回しが、しなやかで、いかにもアバドらしい。
徐々に盛り上がりゆくこの楽章の強弱の対比も鮮やかで、ふっきれなく感じた1楽章が遠い昔の出来事みたいに思えました。
ベルリンフィルの管の名手たちの、ブリリアントな音色も相変わらず素敵なもんです。
威圧的に決してならない断頭台は、繰り返しも行い、丹念に克明な仕上がりで、急がず慌てずの巨匠の歩みですが、その表現は極めて渋いです。
ファンファーレも慎ましく、あっさりとしたもので、いままでの威圧的な断頭台の音楽の概念と遠いところにあると思わせます。
ヴァルプルギスも、ゆったりめに、じっくりきます。
鐘は録音で教会のものでしょうか、とても美しく響きます。
デイエスイレを吹く金管もおとなしめで、おどろおどろ感はゼロ。
インテンポで、オーケスストラを抑えめに進行して行きますが、最後の最後に、ベルリンフィルの底力が爆発。
ものすごい音圧で持って、充実極まりないフィナーレを迎えるのでした。
オーケストラの威力でもって、最後は盛大に爆発したわけですが、マーラーとブルックナーをのぞいては、大規模な作品を指揮することがなくなっていた晩年のアバド。
この、いわば渋い「幻想」を聴いて、アバドがこの年、なぜベルリオーズを取り上げたのだろうかと思って、年譜をみたら納得。
コンサートの前半が、メンデルスゾーン(1809~1847)で、後半がベルリオーズ(1803~1869)で、同時代人。
真夏の夜が、1826年と1842年の作曲で、幻想は、1830年の作曲。
ともに、ロマン派の最盛期を築いた作曲家の同じ頃の作品。
ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、シューマン、そしてブラームスと、ルツェルンも含めて、次々と取り上げ、そして取り上げる予定だったアバド。
こうした流れの俯瞰の中に、この渋い「幻想」を、極めて純音楽的に捉えていたのではないでしょうか。
ですから、標題性は薄めな解釈で、驚くことに、楽章間には、間はおかず、全曲がほぼアタッカで演奏されております。
やはり、アバドはすごかった。
いまとなっては、再晩年の演奏ということになりますが、いつまでも、音楽の中に、新鮮な可能性と発見を求めていたのです。
大巨匠と呼ぶに相応しくない、そんないつまでも進取の気性に富んだ、われらがマエストロ、クラウディオの「幻想交響曲」なのでした。
シモン・ボリヴァルとルツェルンのものも、いずれは聴く機会を得たいと思います。
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