ディーリアス レクイエム M・デイヴィス指揮
夏も終盤。
お盆には、いつものように故郷へ帰り、いつもの吾妻山に朝早く登ってきました。
異常な暑さにみまわれたせいか、今年は、早くもコスモスの見頃は終わってました。
季節のサイクルが壊れている。
焦燥にもにた思いを本来、癒しを求めるはずの自然に接して覚えてしまう。
人間にできることはなんだろう・・・
ディーリアス レクイエム
S:ヘザー・ハーパー
Br:ジョン・シャーリー=クヮーク
メレディス・デイヴィス指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ロイヤル・コラール・ソサエティ
(1968.2 キングスウェイホール)
「大戦で散ったすべての若い芸術家の霊に捧げて」
S:ヘザー・ハーパー
Br:ジョン・シャーリー=クヮーク
メレディス・デイヴィス指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ロイヤル・コラール・ソサエティ
(1968.2 キングスウェイホール)
「大戦で散ったすべての若い芸術家の霊に捧げて」
ディーリアス(1862~1934)にもレクイエムはあります。
しかし、無神論者であったディーリアスの残したものだから、キリスト者からは、「異端のレクイエム」と呼ばれたりして、かのビーチャムでさえも、この作品を演奏しようとは思わなかったといいます。
「人生のミサ」では、ニーチェをテクストとしたように、このレクイエムは、旧約聖書の伝道の書や、シェイクスピア、そしてニーチェの書からも採られた、とてもユニークな作品となっている。
アンチ・クリスチャンだったディーリアス。
ディーリアスは、いわゆる宗教上の神という概念を超え、自然を愛しぬいたがゆえの汎神論的な想いをもっていたものと思う。
ディーリアスの音楽には、自然の美しさ、自然と人間、動物たちとの共生、人生における別れの哀しみや存在の虚しさ、過ぎた日々や去ったものへの望郷、などをそのたゆたうような流れの中に常に感じる。
こうして、半世紀あまりもディーリアスの音楽を聴いてきたが、一時たりと、その音楽の本質を掴んだこともないようにも思う。
それがディーリアスの音楽なのかもしれない。
いつの間にか、寄り添うようにして存在してくれている。
----------------------
5つの章からなるレクイエム。
さらに大きく分けると、第1部と第2部のふたつ。
第1部前半は、バリトンが虚しさを説き、合唱は静かな荘重たる葬送的な場面で応えるが、後半は、エキゾティックな激しいやりとりとなる。
女声は、ハレルヤ、男声は、アッラーを唱える。
来世は否定され、いまある現世を享受せよ。
うってかわって、第2部は、哀しみをともなった抒情的な田園ラプソディー。
この作品の白眉的な場面で、静謐な美しさと輝きあふれた音楽。
バリトンが、最愛の人をたたえ、ソプラノもそれに応え彼の名誉を称える。
やがて、雪の残る山や木、冬の眠りから目覚める自然を歌い継いでゆき、やがて来る春の芽吹きを眩しく表出。
ふたたび、自然は巡り、やってくる春を寿いで、曲は静かに終わる。
死者を悼むレクイエムからしたら、まさに異質。
でも、巡り来る自然に、人生の機微を見たディーリアスの優しい目線、そして、第一次大戦で亡くなった若き芸術家たちへ捧げたディーリアスの想いを、ここに感じることで、慰めと癒しの音楽となるのです。
Everything on earth will return again, ever return again
Springtime. Summer, Autumn and Winter, and them comes
Springtime, Springtime!
----------------------
以前にヒコックスの追悼で取り上げた、ヒコックス盤は、「人生のミサ」とのカップリングで、なおかつ録音も素晴らしいが、本日のメレディス・デイヴィス盤は、今でこそ、録音が古めかしく感じるものの、懐かしさ誘う、その全体の響きは、ハーパーとクヮークのジェントルな歌唱とともに、レコードで長らく親しんだものだけに、耳への刷り込みとなっている。
カップリングのこれまた泣けるほどに哀しい「田園詩曲」もともに美しい演奏。
ノスタルジー誘う、我が育ちの街の景色。
相模湾に箱根の山。
夏は富士山も隠れてしまいます。
しかし、無神論者であったディーリアスの残したものだから、キリスト者からは、「異端のレクイエム」と呼ばれたりして、かのビーチャムでさえも、この作品を演奏しようとは思わなかったといいます。
「人生のミサ」では、ニーチェをテクストとしたように、このレクイエムは、旧約聖書の伝道の書や、シェイクスピア、そしてニーチェの書からも採られた、とてもユニークな作品となっている。
アンチ・クリスチャンだったディーリアス。
ディーリアスは、いわゆる宗教上の神という概念を超え、自然を愛しぬいたがゆえの汎神論的な想いをもっていたものと思う。
ディーリアスの音楽には、自然の美しさ、自然と人間、動物たちとの共生、人生における別れの哀しみや存在の虚しさ、過ぎた日々や去ったものへの望郷、などをそのたゆたうような流れの中に常に感じる。
こうして、半世紀あまりもディーリアスの音楽を聴いてきたが、一時たりと、その音楽の本質を掴んだこともないようにも思う。
それがディーリアスの音楽なのかもしれない。
いつの間にか、寄り添うようにして存在してくれている。
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5つの章からなるレクイエム。
さらに大きく分けると、第1部と第2部のふたつ。
第1部前半は、バリトンが虚しさを説き、合唱は静かな荘重たる葬送的な場面で応えるが、後半は、エキゾティックな激しいやりとりとなる。
女声は、ハレルヤ、男声は、アッラーを唱える。
来世は否定され、いまある現世を享受せよ。
うってかわって、第2部は、哀しみをともなった抒情的な田園ラプソディー。
この作品の白眉的な場面で、静謐な美しさと輝きあふれた音楽。
バリトンが、最愛の人をたたえ、ソプラノもそれに応え彼の名誉を称える。
やがて、雪の残る山や木、冬の眠りから目覚める自然を歌い継いでゆき、やがて来る春の芽吹きを眩しく表出。
ふたたび、自然は巡り、やってくる春を寿いで、曲は静かに終わる。
死者を悼むレクイエムからしたら、まさに異質。
でも、巡り来る自然に、人生の機微を見たディーリアスの優しい目線、そして、第一次大戦で亡くなった若き芸術家たちへ捧げたディーリアスの想いを、ここに感じることで、慰めと癒しの音楽となるのです。
Everything on earth will return again, ever return again
Springtime. Summer, Autumn and Winter, and them comes
Springtime, Springtime!
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以前にヒコックスの追悼で取り上げた、ヒコックス盤は、「人生のミサ」とのカップリングで、なおかつ録音も素晴らしいが、本日のメレディス・デイヴィス盤は、今でこそ、録音が古めかしく感じるものの、懐かしさ誘う、その全体の響きは、ハーパーとクヮークのジェントルな歌唱とともに、レコードで長らく親しんだものだけに、耳への刷り込みとなっている。
カップリングのこれまた泣けるほどに哀しい「田園詩曲」もともに美しい演奏。

ノスタルジー誘う、我が育ちの街の景色。
相模湾に箱根の山。

夏は富士山も隠れてしまいます。
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