« フィンジ ディエス・ナタリス | トップページ | ふたつの2番 チャイコフスキー&ブラームス アバド指揮 »

2022年1月20日 (木)

マーラー 交響曲第9番 アバド指揮

Azumayama-a

晴れた冬の日の朝。

二宮町の吾妻山からの富士。

右手は丹沢連峰で、大山はもう少し右手。

Azumayama-c

相模湾方面に目を転じれば、箱根の山と小田原の街。

ふもとの小学校時代から、ずっと登って親しんできた小さな山ですが、今年はとりわけきれいだった。

テレビやマスコミにもこの町の、都会に比べると何もないが自然があるという魅力が報じられるようになり、若い人たちの移住も増えてきた。

長寿の街に、若い息吹きを感じるこの頃です。

Mahler-9-abbado

  マーラー 交響曲第9番 ニ長調

   クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団

        (2010.8 @コングレスザール、ルツェルン)

1月20日は、クラウディオ・アバドの命日です。

2014年の今日、アバドは旅立ってしまいました。

享年80歳、いろんなプロジェクトをかかえ、まだまだ活動の幅を広げていた時分のアバドでした。

アバドの死を知ったときの驚愕の朝。

「さようならアバド」

アバドのもとに集まった、腕っこきの奏者たちによるスーパー・オーケストラ、ルツェルン祝祭管とのマーラー・シリーズの最後は第9。
翌2011年には、10番を取り上げましたがアダージョのみ。
8番を残して、マーラーシリーズは終わってしまいましたが、その8番は、後任のシャイーが2016年に取り上げ、ルツェルン祝祭管のマーラーは完結しました。

トスカニーニが始めたルツェルンのオーケストラ。
アバドはベルリンフィルを辞めるとき、このあとは何をするんですか?と聞かれ、すごいことを企画してるからお楽しみに~的な発言をしてまして、2003年にベルリンフィルのメンバーに、ヨーロッパのオーケストラの首席や名ソリスト、室内楽団などの奏者たちで創設された新ルツェルン祝祭管弦楽団をスタートさせました。
このスーパーオケに、アバドが育てたマーラー・チェンバーの若い奏者たちも加わり、2010年のこちらのDVDでは、若い顔がかなり目立ちます。

76年からスタートしたアバドのマーラー録音。
シカゴとウィーンとで順調に録音を重ねたが、8番と9番を前にしていったん停止。
8番はともかく、アバドは9番に対してとても慎重でした。
シカゴでなくウィーンを選んだのも、得意とする新ウィーン楽派を意識したものかもしれないが、ついに実現したアバドのマーラー9番に狂気乱舞したが、もう30年が経過した。
そのあと、ベルリンフィル、マーラー・ユーゲントとライブ録音を残し、ついにルツェルンで9番を指揮したのが11年前。

Abbado-mahler-9

テンポも年月とともに伸びました。
マーラー・ユーゲントとの演奏はローマでのライブで、若い奏者たちと聴衆たちの影響もあったのでしょうか、かなり自在な演奏にも聴こえますし、熱い演奏でした。
ウィーン、ベルリン、ルツェルンと名オーケストラとの演奏が残されたのはありがたいことです。
シカゴでも聴いてみたかった。

1_20220120113101

ここでの演奏は、もう言葉にするのも無駄なことに思えるくらい、突き詰められた究極の演奏行為だ。
流れるようないつものアバドの流線形的な指揮は、つねにしなやかで、どんなフォルテでも柔らかく、どんなピアニシモでも歌は忘れない。
アバドの意志を100%理解し汲んだオーケストラは、アバドの指揮と音楽とに完全に没頭していて、それこそ食い入るように演奏している様が映像でよくわかる。
緻密で、それこそ新ウィーン楽派への橋渡しも感じられる1楽章。
にこやかな笑みすら浮かべながら指揮をする2楽章、オーケストラの驚異的な高性能ぶりが燦然と輝く3楽章、ここでもアバドはしなやかさの極致で微笑みも。
感動の極みを味わえる終楽章。
まったくさりげなく始まるが、分厚い弦に無常すら感じさせる管の名手たちの音色が乗り、音楽はどんどん無色透明になっていく感じ。
これまでの録音のなかで、一番テンポが遅くなり、音に込めた思いが強いはずながら、その音は繰り返しますが透明感が高い。
クライマックスの後の、弦の引き伸ばしも壮絶。
「死に絶えるように」のラストシーンは究極なまでの静けさに、息をするのもはばかれるような思いになります。
音が消えてもアバドが指揮棒を胸の前に握りしめて、オーケストラも動きを止め、聴衆も身じろぎもしない。
この静寂も音楽の一部であることを実感できる。

マーラー・ユーゲントとのDVDでも、ラストは照明を落とす演出がなされたが、このルツェルンでもあの時ほどではないが、会場は暗くなり、いやでも静寂を味わい噛みしめることを余儀なくされる。
2006年のこのコンビの来日公演での6番の終結でも、同じく静寂が訪れました。
あのときは、演奏のすごさ、すさまじさに唖然としてしまい、加えてオーケストラメンバーたちの感動もすべてを停止させてしまう伝播となりました。
6番のあとと、この9番のあとの静寂は意味合いが違うと思います。
音楽の持つ必然性をアバドが意識し、そして聴衆もすんなりと受け入れたのだろう。

5_20220120113001

ともかく、この第9の映像を伴った演奏は、アバドのマーラーの到達点であるとともに、数あるマーラーの第9の演奏のなかでトップに位置するものだと思います。
このルツェルンの演奏会に一緒に渡航しませんか?とのお誘いもいただき、真剣に行きたかったけれど、資金的にも仕事的にもあきらめたことを覚えてます。
何をおいても行ってしまうんだった・・・
2013年の秋に、アバド&ルツェルンは再来日を予定されていましたが、アバドの体調悪化で中止となりました。
だから、私がアバドの指揮に出会えたのは、2006年が最後となりました。

Azumayama-b

クラウディオ・アバドの命日に、早い春の菜の花を手向けたいと思います。

いま吾妻山は菜の花が満開です。

 1月20日 過去記事

2021年「シューベルト ミサ曲第6番」

2020年「ベートーヴェン フィデリオ」

2019年「アバドのプロコフィエフ」

2018年「ロッシーニ セビリアの理髪師」

2017年「ブラームス ドイツ・レクイエム」

2016年「マーラー 千人の交響曲」

2015年「モーツァルト レクイエム」

|

« フィンジ ディエス・ナタリス | トップページ | ふたつの2番 チャイコフスキー&ブラームス アバド指揮 »

コメント

お久しぶりです。
ブレずにアバド愛継続中でございますw
マーラー、ルツェルンのは、年を追って聞いていきました。楽器経験者としては、うわー、あのフレーズ、ノーブレスで吹けるんだー、とか、C音下げずに吹けるなんてすごいなー、なんて管楽器奏者のテクニックに目が行ってしまうのですが、アバドの紡いだ音楽には、がっつり浸れるのです。この9番の4楽章、息をするのも惜しむかのように、聞きいっていました。ここ最近の聴き方として、アバドの音楽に対してひたすら身を委ねるというか、流れに身を任して行く快楽?とでも言うのでしょうか??なんとなくそんな楽しみ方をしている私がいます。音を楽しむ素晴らしさ愉悦のひとときをアバドの音楽で感じている昨今です。
多分最終楽章、アバドが曲を納めている間、息してませんでしたね、私(・_・;)

ハイティングショック、まだ抜けきれてないとは思いますが、アバドのオススメも更新してくださいね。ブログ見させていただいてから、キーシンのプロコ、知りました
(。•̀ᴗ-)✧

投稿: にょろふきん | 2022年1月20日 (木) 20時36分

にょろふきんさん、こんにちは。
毎年、この時期にアバドのシリーズを行うことになろうとは思いもしなかったです。
ホントなら、死の前年にブルックナーの第9が聴けていたかもしれません。
メータは85にしてまだまだ健在、ムーティも80歳になりました。
いまでもアバドの旅立ちは残念でなりません。
 そんな風に在りし日のアバドの指揮姿とマーラーの第9とに、終楽章では涙があふれてしまいました。
 ご指摘のとおり、凄腕プレーヤーたちの演奏ぶりを眺める楽しみもあり、私もすべてのマーラーをそろえ、視聴しております。
最後のルツェルン、ベートーヴェンはDVD化されてますが、未完成とブルックナー9番はまだですね。
これもまた楽しみです。
またアバド書きますね。

投稿: yokochan | 2022年1月26日 (水) 09時00分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« フィンジ ディエス・ナタリス | トップページ | ふたつの2番 チャイコフスキー&ブラームス アバド指揮 »