アバドが指揮しなかった作品たち
出雲大社相模分祠の手水舎
アバド没後10年。
あの日の驚愕と悲しみといったら・・・・
La chiesa riformata di Fex-Crasta
スイス南部、イタリア国境よりのグラウビュンデン州、オーバーエンガディンのシルスという街。
ここにある15世紀にひも解かれる歴史ある教会、フェクス・クラスタ。
アバドはここに眠ってます。
その教会の鐘がyoutubeにありました。
どうでしょうか、シルス湖が近くにあり、冬は雪に覆われますが、夏は牧歌的なスイスアルプスの景観。
まさに、マーラーの音楽の世界。
真ん中の雲の下あたりが教会。
アバドの永遠の住処にまさにふさわしい。
ミラノやフェラーラのイタリアにも近く、オーストリアにも近いドイツ語圏です。
ベルリン・フィルハーモニーにあるアバドのブロンズ像。
髪の毛の具合、端正な横顔がまさにアバドです。
そのアバド、モンテヴェルディからノーノやクルタークまで、バロック初期から現代まで、広範にわたる時代の音楽を指揮して、わたしたちに届けてくれました。
バッハはマタイやロ短調も演奏していたし、モーツァルトは4大オペラもふくめ、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ムソルグスキー、チャイコフスキー、マーラー、ウェーベルンなどは、ほぼほとんどのレパートリーを指揮して録音も残しました。
しかし、まったく指揮することのなかった作曲家や作品もたくさんあり、アバド好きとしては気になるところなのです。
①プッチーニ
いちばん、アバドがやらないといわれた作曲家。
以前に読んだアバドのインタビューで、マノンレスコーをやる寸前までなったけれど、そのとき、ペレアスとメリザンドの話しがきて、そちらに躊躇なくしたんだ、と話していましたね。
革新性を好むアバド、並べられたらそちらを選択すますと発言。
トゥーランドットも高く評価はするが、同時期に作曲されたのはシェーンベルクの「期待」ですよと言い、どちらかといえば、シェーンベルクを選びますと言ってました。
まさにアバドらしい。
和声や響きとリズムの革新性があるプッチーニは、マーラーの音楽との類似性もあると思うが、アバドはそうではなく、シェーンベルクとの対比を自分のなかで思ったということ。
プッチーニ好きとしては、アバドもカラヤンのようにプッチーニを巧みに指揮して欲しかったと思いますが、アバドがトスカや蝶々さんを指揮する姿など想像もできないし、絶対にありえないと思うのがまたアバド好きとしての見方です。
極度のセンチメンタルを好まず、冷静な客観性を好み、マーラーの描き方も自然児的であるアバドですから。
音源的には、ネトレプコとの「私のお父さん」、ライブではパヴァロッティとトスカのアリアがありました。
②レスピーギ
プッチーニをやらないから当然に。
ほとんどのイタリア人指揮者が取り上げるローマ三部作。
アバドはまったくやらず。
同様にジュリーニもやらなかったし、ジュリーニはプッチーニを指揮しなかった
ほんというと世紀末臭まんさいの、レスピーギのオペラには興味を示して欲しかったところ、でも革新的ではなかった。
③スラヴ系
おおきなくくりすぎるが、ロシアのR・コルサコフなど、ようはチャイコフスキーを除くムソルグスキー以外。
あっけらかんとした、屈託のない民族系は好きじゃなかったのかも。
東欧系では、ヤナーチェクを好んだのは和声とリズムの大胆さゆえかも。
ヤナーチェクのオペラは多く手掛けてほしかった。
同じ嗜好をラトルが引き継いでるとおもいますね。
スクリャービンは好きだった。
ラフマニノフの交響曲なんて、全く想像もつかない。
ドヴォルザークは7番とか、チェロ協奏曲も聴きたかった。
④北欧系
こちらは、シベリウス、グリーグ、ニールセンなどは全滅、まったく見もしなかったジャンル
曇り空と白夜は好きじゃなかったのかも。
⑤英国系
こちらもほぼ絶無。
演奏記録として、ロンドン時代にヨー・ヨー・マとエルガーのチェロ協奏曲の塩素歴あり。
それのみが英国系の音楽・・かも
⑥ショスタコーヴィチ
晩年に映画にまつわる音楽を、ヴァイオリン協奏曲も、いずれもベルリンで取り上げたけれど、交響曲には極めて慎重で、おそらく指揮することもないと思われた。
でもマーラーを極め、さらには政治的な背景のある音楽に同調しがちだったアバドだから、8番、10番、14番、15番あたりは興味を示したかも。
⑦ワーグナー
ローエングリン、トリスタン、パルジファルの3作を残したアバド。
3作にあるのは、やはり音楽の革新性。
ハ長に徹したマイスタージンガーも生真面目なアバド向きだし、あの明晰なワーグナー解釈をこそ、「ワーグナーのマイスタージンガー」は待っている演奏だったと思う。
⑧ヴェルディ
中期から後期の作品を好んで取り上げたアバド。
歌謡性豊かな作品や煽情的な初期作はあえてスルーして、劇的な筋立てや内包するドラマ性あるオペラをこのんだアバド。
トロヴァトーレ、リゴレット、トラヴィアータ、ナブッコなどはやらず、劇場泣かせ
⑨ブルックナー
1番を、指揮者デビュー時からずっと指揮し続けたアバド。
ウィーンフィルで6曲まで録音し、ルツェルン時代も再録音あり。
結局、2.3.6,8番の4曲は残さず。
8番はアバド向きじゃなけれど、2番と6番の抒情性はアバド向きだし、リズムもきっと牧歌的だろう。
3番はアダージョのみ記録があり、エアチェック音源あり。
8番は、ぜったいにアバド向きな交響曲じゃないから、やらなくてよかった。
⑩アメリカ音楽
これはもうムリな世界(笑)
⑪後期ロマン派以降
新ウィーン楽派の3人は、アバドのレパートリーの中枢ですが、3人の主要作品のうち取り上げてなかったのが「ルル」です。
組曲としては2度の録音もあり、アバドはベルクの音楽を「ヴォツェック」を中心に愛し続けました。
「ルル」を舞台で上演することがなかったのですが、タイミングの問題と主役を歌う歌手にアバドの思う人がいなかったのかもしれません。
新ウィーン楽派以降の作曲家たち、できればアバドに余力があれば、若い頃にやってほしかった。
ツェムリンスキーとシュレーカーあたりは聴いてみたかった。
コルンゴルトはちょっと違う。
以上、好き勝手書きましたが、もっとあるという方、コメントをお寄せくださいませ。
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コメント
いつも楽しく拝見しております。
わたしはシューマンの交響曲。
2番の録音はあります(名演)が、他の3曲も聴きたかったです。ピアノコンチェルトには、いろんなピアニストとの名演が多いだけに、きっと交響曲も素晴らしかっただろうと想像します。
もう一曲、ベートヴェンのミサソレムニス。
投稿: ひな | 2024年1月31日 (水) 10時21分
yokochan様、ひな様、おはようございます。
イタリア人有名指揮者が意外にプッチーニを好まないというのは興味深い現象だと前から思っておりまして、ご指摘のアバド、ジュリーニに加え、現在の大御所ムーティもプッチーニはトスカ、マノン・レスコーぐらいしか録音していなかったかと。甘ったるい旋律と大衆小説的な物語がお気に召さないのでしょうか。
話は変わりますが、時々「初めてオペラを聴く(観る)ならどの作品がおすすめ?」と訊かれることがあります。ドイツ語作品はオペラの起源からして傍流だし、魔笛は難しく、フィデリオは物語が陳腐、最初から、R.シュトラウスやワーグナーでは荷が重いし、ウェーバー、フンパーディンクは所詮マイナーな作品かと。
となると、やはりイタリア物、ということになりまして、①物語が分かりやすい、②音楽が美しい、③長すぎない、という条件で絞り込むと、プッチーニのラ・ボエーム、トスカ、蝶々夫人あたりが浮上すると思うのです。ラ・ボエームは重唱が多くて対訳を見ながら聴いていても「落ちる」リスクがあり、トスカは主役級3人が刺殺、銃殺、飛び降り自殺で死ぬという血なまぐささが少し気になる。となると、蝶々夫人あたりが残るかと。
そこで話がさらにそれるのですが、新国立劇場の高校生のためのオペラ鑑賞教室で蝶々夫人が上演され、それに担任の生徒を引率した旧知の高校教師によると、上演後、多くの生徒から「こんな屈辱的な物語のどこが面白いのか」という感想が出されたのだそうです。
確かにこのオペラ、アジア人蔑視の差別的ストーリーだし、親権を一方的に奪い去る人権侵害に、今日的な意味では(蝶々さんの婚姻時の年齢=15歳)少女虐待的雰囲気もある(笑)。現在の人権問題への関心の高まる風潮の中で、こんなん上演して大丈夫かいな、と感じるのも分からないではありません。
昨今、過激な環境活動家によって芸術活動が妨害される動きがあるようですが、人権侵害を監視するNPOあたりと連携して、全世界の歌劇場に蝶々夫人の上演を即刻中止せよと求める手紙を出したら、このオペラ、あっという間にお蔵入りになってしまうかもしれません。
以上、余計な話で失礼しました。冷え込む週末ですね。くれぐれもご自愛のほど。
、
投稿: KEN | 2024年2月 3日 (土) 07時43分
ひなさん、こんにちは、コメントありがとうございます。
そうです!
シューマンでした。
唯一の交響曲録音の2番は、アバド向きの曲なだけに、晦渋さのない明晰な演奏で素晴らしいですね。
ベルリンで3番の演奏歴があるだけに、どこかに放送音源はあるかもしれません。
声楽作品ではファウストをあれだけ好んでましたし、レクイエムもあり、シューマンはもっとやって欲しかったです。
そしてそう、ミサソレムニスですね・・・
投稿: yokochan | 2024年2月 4日 (日) 11時10分
KENさん、こんにちは、コメントありがとうございます。
イタリア人指揮者の次世代、ガッティやルイージはヴェルディもプッチーニも、ベルカントもヴェリスモも広範に取り上げているのが面白いですし、さらに若い世代、マリオッティ、ルスティオーニ、バッティストーニの3人もしかりです。
オペラハウスでのレパートリーの変化や演出優位の上演や映像化などによるものとも思えます。
そして見事な分析もありがとうございます。
わたしも蝶々さんは、国辱的な内容と思い、絶対に見るもんかと決めてました。
しかし、試しに一度舞台経験をしたら最後、もう涙ちょちょ切れの感動三昧で、見事にプッチーニの術中にはまってしまったのです。
時代背景もあるでしょうが、プッチーニのあの時代、ヨーロッパ以外の国々にたいする憧れや興味は、音楽やオペラの筋立てによく反映してましたね。
西部の娘とトゥーランドットもまさにそれで、荒唐無稽ではありますが、プッチーニの音楽ゆえに許されるものと思ってます。
プッチーニ好きとしては、キャンセルカルチャーのやり玉にあがらぬようにと念じるばかりです。
そういう意味でも、ワーグナーなんてのも、反ユダヤ、近親相姦、不倫略奪愛などなど、やばいものだらけですね(笑)
投稿: yokochan | 2024年2月 4日 (日) 11時51分
yokochan様
アバド様逝去の報道記事(購読の一般紙S新聞)の、アバド様のコメントの中に、『プッチーニを、評価しないわけではありません。ただ、私はより革新的なものに惹かれるのです。』と言うものが、ございました。
偏向した見方かも‥ですが、このプッチーニのオペラ作品は、先鋭的な芸風と切れ味のある指揮テクニックの持ち主が、案外好む傾向があるのでは、ないでしょうか。マゼールが、CBSと引き継いだSonyClassicalへ、オペラ・チクルスを録音していましたし、シノーポリもDGに『蝶々夫人』と『トスカ』を、スカラ座来日公演で『西部の娘』を、取り上げていました。ずっと昔の人では、ミトロプーロスがメトロポリタンで『トスカ』、フィレンツェ5月音楽祭で『西部の娘』の公演に際し、ピット入りしていたようです。大言壮語や同僚への露骨な対抗心の表明はなさらなかったアバド様でしたが、プッチーニを避けていたのは、同世代のマゼール、少し後の世代のシノーポリへの対抗心もあったのでは?とも、思っております。
投稿: 覆面吾郎 | 2025年3月21日 (金) 07時59分
プッチーニをやらないことでは、ジュリーニとともに双璧のアバドでした。
ムーティもトスカとマノンレスコーだけで、ほかは目もくれません。
いずれもプッチーニの連綿たるメランコリックなところが苦手だったのではないかと思います。
マーラーと同じく、斬新なオーケストレーションはあるのですが、感情の傾き具合が、、と思っていたのかもしれません。
マゼールとシノーポリは、そのあたりをバッサリ切り捨てたかのように、プッチーニにメスを入れた指揮者かと思い、カラヤンとは真反対かとも思います。
投稿: yokochan | 2025年3月28日 (金) 11時13分