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2024年4月 6日 (土)

フンパーディンク 「王様の子ども」 

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ひな祭りの頃の大井町の里山。

つるし飾りと富士。

Ooi-03

里山にある古民家には、さまざまな雛飾り。

古来より、親たちは子供の誕生と成長を喜び、幸福を願い、さまざまに祈ってきたんです。

受け継がれるひな人形や、五月飾り、新しい家族が築かれるとそこには、親から受け継いだものに加えて新しいものも追加されます。
日本独自のこの風習と業界、ぜったいに受け継いでいってほしい。

愛すべきフンパーディンク(1854~1921)のオペラのひとつ。
「ヘンゼルとグレーテル」のみが大衆受けすることもあり超絶有名なフンパーディンクの唯一作品のようになってる。
しかし、ヘンゼルとグレーテルは楽劇と冠され、ワーグナーの影響をがちがちに受けた緻密なライトモティーフ技法によるムジークドラマなんです。
ほかのオペラ、といってもこの「王様の子ども」しか聴ける状況ではありませぬが、ここでも主導動機を元にした作曲技法と、簡明な旋律とに加え、マーラーと同世代ともいえる世紀末的な甘味な音楽の運びもうかがわれ、さらにシェーンベルクやベルクにも通じる、語って歌う手法の先駆けもある。

ヨーロッパでは近年、この作品の評価につながる重要な上演もいくつかあり、今回は映像DVDも楽しみましたので、音源と映像とで理解を深めることができました。

  フンパーディンク 歌劇「王様の子ども」

ヘンゼルとグレーテルは1891年の作曲で、そのあと、同じワーグナー信奉者であり友人でもあったユダヤ人、評論家・指揮者のハインリヒ・ポルゲスの委嘱で1894年に、この音楽劇を作曲することとなった。
台本は、ボルゲスの娘のエルザ・ポルゲス。
彼女は、父親の血を受け継いで熱心なワグネリアンとなり、ワグネリアンたちのサロンを主催するなど、なかなかの影響を与えた人物です。
結婚で、エルザ・バーンスタイン(ベルンシュタイン)の名前となる。
疾患で視力がほとんどなくなり、その才覚は劇作へと向かい、いくつかの文学作品や戯曲を創作。
そんななかで、父の勧めで音楽化されたのが「王様の子ども」です。

オペラとして作曲したかったフンパーディンクに対し、娘エルザ・ベルンシュタインはオペラ化は否定し、演奏会で上演できるメロドラマ形式のものを希望。
フンパーディンクはやむなくそうしたが、作曲者がすでに到達していた当時には前衛的な手法などは、オラトリオみたいなコンサート形式の枠には収まらず、オペラとしての在り方にこだわり、エルザを説得しました。
結果、原作者のエルザも同意して1907年にいまに聴かれるオペラとして再編されることとなったわけです。

1910年にメトロポリタンオペラで初演され、ドイツでは翌11年に初演。
アメリカで初演されたことろが面白いところですが、エルザ・ベルンシュタインは、ナチス台頭時、ユダヤ人であり、ともに視力障害のあった妹をドイツに残して置くことを是とせず渡米しなかった。
結果、姉妹共に収容所送りとなったが、「王様の子ども」の原作者であることがわかり、文化人などが送り込まれた寛容で緩い収容所施設に配置換えとなり生きながらえた。

フンパーディンクのオペラの原作であったことが救った命。
ベルンシュタインの妹は、収容所で病死してしまう。

こんな風に、メルヘンでありながら、あんがいと死の影のまとわりつくオペラが「王様の子ども」なんです。

  王様の子:テノール
  がちょう番の娘:ソプラノ
  魔女:メゾソプラノ
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):バリトン
  木こり:バス
  ほうき作り:テノール
  ほうき作りの娘:若いソプラノ
  上級顧問官:バリトン
  宿屋の主人:バリトン
  宿屋の娘:メゾソプラノ
   ほか  

ほかにも町の人が多数で、音楽だけ聴いてると誰が誰やら混乱します。
映像で気軽に楽しめるようになり、こうした作品にも光があたるようになり、ほんとありがたい。

小さな国の郊外、そこには12羽のガチョウがいて、若い女性がそのお世話をしている。

第1幕

 若い女性は、魔女にこの地に束縛されていて、その魔女は人間たちの住む社会を憎んでいて、魔法で若い女性=がちょう番をしばりつけて、外の社会に出れないようにしている。
魔女は彼女に、ずっと痛むことのないパン、でもそれを半分食べると死んでしまうパンを作らせている。
魔女は蛇や虫の採集に出かけ、がちょう番はひとりきりになる。
そこへ、王の息子が父の元を飛び出し、冒険を求めて狩人の風体でやってくる。
ふたりはすぐに恋に落ちるが、彼女の頭にあった花の冠が風で飛ばされてしまう。
王子は、王冠を代わりにあげてしまい、一緒にここを出ようと言うが、彼女は魔女の封印が解けずにここを出ることすらできない。
業を煮やした王子は、王冠をそのままに、立ち去る。
まもなく、魔女が戻り、誰かが来たことを悟り、また別の魔法で呪縛する。

そこへ、吟遊詩人、木こり、ほうき職人がやってきて、賢明な彼女に、町を今後導く王を見つけ出して欲しいと頼む。
魔女は、明日の昼に最初に町の門をくぐった者が次の王になる、道化のような恰好をしているが、王冠に相応しい人物だと断定。
満足した木こりとほうき職人は町へと帰るが、吟遊詩人は窓の中に若い女性を見つけ、彼女は魔女に囚われていることと、今日若い狩人が来たことを話す。
それは王の息子とわかった吟遊詩人は、彼女と息子が結婚して町を統治すべきだと言う。
しかし、魔女は身分が違いすぎるとして、がちょう番の彼女の両親のことを語る。
絞首刑執行人の娘だった彼女の母親だが、若い領主に見初められ、ひとりの娘を生んだ。
それが違う男のように言う魔女だったが、すべてを悟った吟遊詩人は、母親と領主をよく知っていた、彼女が正当な家系の生まれであることを証言する。
これに勇気を得たがちょう番の彼女は、両親に感謝とここからの脱出の祈りをささげる。
すると魔法は解け、彼女は涙とともにそこを飛び出していく。

第2幕

町の宿屋と近くの広場。
人々は、どんな王様がやってくるのか歓迎しようと興奮状態に。
王の息子は、馬小屋で夜を過ごし、宿屋の娘に気に入られ食べ物や飲み物を出され、さらに迫られてしまう。
がちょう番の彼女が忘れられない王の息子は、さらなる放浪と、確かな跡取りとなる決意を固め、ここで職を得て修行しようとする。
ほうき職人の娘は、王の息子に、ほうきを売ろうとするが、彼はいち文無し、でも少女は彼と楽しく遊びます。
そこへ、町の議員たちが集結し、ほうき職人は、魔女の話しをさらに大きく盛ってみんなに話す。
そんな大げさな王の入場に疑念をはさみ、王にはかっこだけ、人形のような姿を求めるのか?と疑問を呈します。
町の人々は、そんな言葉に怒りを覚え、さらには宿屋の娘は食事代を踏み倒した男よ、と非難し、人々は泥棒野郎と非難し広場は大混乱となる。
 そのとき、約束の正午となり、門が開くと、黄金の冠をかぶったがちょう番の娘が、吟遊詩人と彼女のがちょうたちと登場。
王の息子は大いに喜び、彼女にひざまずき、彼女こそが女王と呼ぶ。
そして吟遊詩人は、彼らこそがこの町の運命の統率者なのだと宣言。
これに、人々は嘲笑し、こん棒や石で攻撃し、若いふたりを追い出してしまう・・・・
誰もいなくなった広場には、ほうき職人の娘と老いた上級審議官。
涙を流す彼女になぜかと問うと、彼らが王様と王女様だったと語る。。。。

第3幕

やがて冬が来て、雪も積もりました。
この間、魔女は嘘の予言をした罪で火あぶりの刑となり、吟遊詩人も投獄されさんざん暴力を受け満足に歩けなくなってしまった。
荒んだかつて魔女の住んだ場所で、がちょうの世話をする吟遊詩人は、悲しみにふさいでいる。
 そこへ、木こりとほうき職人が、多くの子どもたちをつれてやってくる。
町がばらばらになってしまい、荒廃し、子供たちは大人を信用しなくなり反乱が起きているので、町に帰ってきて欲しいと語る。
そんな悪い大人を突き飛ばして、子供たちは、大人たちが間違っていて、王と王女を探し出すのにどうか自分たちを指揮して欲しいと懇願。
吟遊詩人は、子供たちを伴って雪山へ向かう。
 木こりとほうき職人は、魔女のいた小屋に入り、暖を取る。
そこへ放浪に疲れ切った王の息子とがちょう番の娘が抱え合いながらやってくる。
山の上の洞窟にいたが、食べ物がつきて、ここへ避難してきたのだ。
衰弱した彼女を思い、王の息子は健気に振る舞い、泣きたくなるほど悲しく美しい二重唱となる。
小屋のドアをたたき、そこにいた木こりとほうき屋に食料を求め、王冠まで差出し、得たのは小屋にあったパン。
ふたりでパンを分け合い、お互いに手を伸ばし合い、愛を確かめあいながら死んでしまう・・・・
 そこへ、手遅れながら、吟遊詩人と子供たちが戻ってきて、木こりたちが、王冠を持っていることを見つけ、詩人は激怒し、王冠を奪い返し、彼らを追い出します。
子どもたちが、ふたりの亡がらを見つけ、一同は深い悲しみに包まれます。
吟遊新人の歌とともにこの悲しみに満ちたオペラは幕となります。


Humperdinck-konigs-kinder-luisi-1

  王様の子:トマス・モーザー
  がちょう番の娘:ダグマール・シュレンベルガー
  魔女:マリリン・シュミューゲ
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):ディートリヒ・ヘンシェル
  木こり:アンドレアス・コーン
  ほうき作り:ハインリヒ・ウェーバー
 
 ファビオ・ルイージ指揮 バイエルン放送管弦楽団

             バイエルン放送合唱団
             ミュンヘン少年合唱団

        (1996.3 @ミュンヘン)

ずいぶんと前に買っていたCDだけれども、後段のDVDで馴染んでから聴いて、それはまた素晴らしい演奏だと思い、何度も聴いている。
90年代後半から、ドイツを中心に活躍し始めたルイージは、こうしたドイツものと並んで、ベルカント系のオペラをグルベローヴァとともにたくさん録音していた。
緻密な音楽造りと、劇場感覚あふれる雰囲気作りは、才覚以上に天性のものだと感じます。
リリックテノールからドラマチックテノールに変身したモーザーの、トリスタンのような歌唱は聴きごたえがあり、相方のシュレンベルガーも同様にワーグナーにもふさわしい声。
ヘンシェルの味のある吟遊詩人も実によろしい。

EMIには、ハインツ・ワルベルクの指揮による録音もあり、ネットで視聴することができた。
ダラポッツァのタイトルロールがやや甘すぎだが、ドナートとプライ、シュヴァルツにリッダーブッシュと私のような世代には夢のような布陣だった。
今度、探して手にいれなくては・・・・・

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このオペラ、3時間あまりと長いけれど、音楽は簡明でわかりやすく、馴染みやすい。
そしてともかく美しく、大きな音やフォルても少なめで、夜遅くに聴いても安心だぜ。

結構な悲しいオペラなので、メルヘンを期待すると裏切られるが、ドイツのメルヘンには人間の持つ暗い側面もよく表出されているので、この物語りにいろんな比喩やメッセージを読み解くのもまた深みがあるというもの。

大衆は阿りやすく、一定の方向に流されがちで、真実の声は埋没してしまう。
子どもの目におおかたの狂いはなく、濁りのない眼差しは本当のことを見抜く。

全体を通じて出てくるモティーフが詰まった幕開きに相応しい快活な1幕前奏曲。
祝祭的な、まるでマイスタージンガーの歌合戦の始まりのような第2幕の前奏。
時の流れと、魔女や吟遊詩人たちに起こった悲劇を語り、それがやがて若いふたりの悲しい結末を予見させる。あまりにも切ない3幕の前奏。
これら3つのオーケストラ部分を聴くだけでも、フンパーディンクの音楽の素晴らしさがわかるというもの。
時おり入る、バイオリンソロがこれがまた美しくも儚い悲しさがある。
オランダオペラの舞台では、ステージにヴァイオリン奏者が実際に出てきて、愛の象徴としたこのソロ場面がわかりやすく引立っていたのだ。

ヘンゼルとグレーテルでのおっかないけど、ユーモアあふれる魔女は、ここでは悪い役というよりは、かつて誤解され迫害を受けたジプシーのような存在と感じられ、彼女も阻害された不幸な存在として描かれている。
この役に、DVDではドリス・ゾッフェル、ワルベルク盤ではハンナ・シュヴァルツが歌っている。

わたしがとても好きな場所は、王子のがちょう姫との出会いの二重唱の可愛さ。
1幕最後でのがちょう姫の両親への感謝の歌、ファター、ムッターと歌う場面が涙が出るほどに愛らしい・・・
そして3幕前奏の物悲しい美しさに加えて、死を前にした若い二人の泣けるほど美しい二重唱。
トリスタンの世界を超越した、世紀末感あふれるロマンティシズムの極致で、それがフンパーディンクの筆致で無垢な世界へと昇華している。
くり返しいいます、とんでもなく美しく哀しい・・・

ただ、このふたりの悲しみの死がピアニシモで閉じるが、そのあとがまだオペラの続きとしてあったことが、自分にはちょっと残念だった。
そこで幕を閉じずに、吟遊詩人と木こりたちのクダリがあったことで、泣いてた自分がやや虚しくなる。
最後の吟遊詩人のバリトンの歌や、子供たちの合唱には心惹かれますが・・・・
このあたり、音源としてではなく、劇場や映像で見るとそのように感じる方もいるのではと。

Humperdinck-knigskinder

  王様の子:ダニエル・ベーレ
  がちょう番の娘:オルガ・クルチンスカ
  魔女:ドリス・ゾッフェル
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):ヨゼフ・ヴァグナー
  木こり:サム・カール
  ほうき作り:ミヒャエル・プフルム

  ヴァイオリン奏者(愛):カミュ・ジュベール

 
 マルク・アルブレヒト指揮 オランダ・フィルハーモニー管弦楽団

              オランダ国立歌劇場合唱団
              アムステルダム少年少女合唱団

     演出:クリストフ・ロイ


           (2022.10 @アムステルダム)

スタイリッシュでシンプルなロイの演出とその仲間たちの舞台は、過剰な読み替えの少なく、わかりやすく、でもその訴えかけるドラマ性は強い。

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簡潔な中に、見事なまでの、この作品の確信に切り込む演出解釈は、無駄なことをせずとも誰しもがわかり、納得できるものだ。
ホワイトを基調に、ふたりの主人公も純白な衣装で、まさに無垢なふたりを象徴。
四季の移ろいも、このオペラの肝であるが、それをダンサーたちに表出させ、彼らダンサーたちは、ふたりの主人公の心象をときに憐れむようにして寄り添い、客観視しながら舞台に存在する。
町外れにある魔女の館は、ほんとに小さな小屋で、この小屋に住まう魔女、また最後は小屋で暖をとる悪人たちの根城としてわかりやすい存在。
また大きな木が常にあり、町の中心として機能したり、若いふたりが木の下で息絶えるのを見守る役目であったりする。

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このような簡明な装置の元で、世間知らずの若いふたりと、彼らを理解する子供たち、すべてを知り同情と理性にあふれた吟遊詩人。
対する凡庸たる市民と、その代表である木こりやほうき職人。
これらの対比が鮮やかな演出で、魔女さんは、どこか客観的な存在に描かれ、そんなに悪としての存在でもなく、気の毒な存在として描かれている。
魔女と吟遊詩人が、追放されいたぶられるシーンがリアルに描かれているのも、舞台以上に映像作品を意識したものと実感。

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この役を得意とするベーレの王子役が見栄えも含めて、そのリリックで甘い声と物悲しさ、役柄を手中にした歌と演技とで素晴らしい。
クルチンスカのがちょう姫も、好きです。
素朴さ、純情さがありつつ、積極性も歌いこむこの役に申し分ないです。
そして、ベテランのゾッフェルの魔女も貫禄充分。
ヴァグナーの孤高の吟遊詩人も見事なもので、暖かなバリトンは、ワーグナーの諸役も得意にしている。

オランダオペラを率いていたアルブレヒトの積極かつ熱意にあふれた指揮も素晴らしい。
後期ロマン派の作品、とくにオペラを積極的に取り上げたアルブレヒトの意匠は、後任のヴィオッテイに引き継がれてます。
最近の、コルンゴルト、シュレーカーなどのオペラに加え、このアルブレヒトのフンパーディンクは特筆すべき出来栄えかと思います。
この作曲家のワーグナーの亜流的な存在感を越えて、その先の新ウィーン楽派や表現楽派の領域までも達するようなフンパーディンクの側面を垣間見せてくれる、そんな切れ込みも深い解釈をみせた演奏です。

Koenigskinder_127

雪降るなかの、ふたりの悲しすぎる死。
そのあと憎しみ覚える木こりたちも登場するが、吟遊詩人の愛に満ちた告別と悔恨の歌。
まるでワーグナーの楽劇の最後を閉じるようなバリトンの歌は素晴らしい。
「王のこどもたち」と何度も歌う子供たちの歌。
舞台は暗くなっていきました・・・・

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このオペラには、今回取り上げたもの以外にも、いくつかの録音や映像があり確認しました。

・ワルベルク盤 前述のとおり、なんといってもH・プライがすばらしく、ドナートのがちょう姫がかわいい
・ヴァイグレ盤 ここでもベーレが王子役、フランクフルトオペラでのヴァイグレの活躍とその豊富なレパートリーには驚きだ
・メッツマッハー盤 ベルリン・ドイツ響、フォークトやバンゼ、聴いてみたいキャスト
・A.ジョルダン盤  モンペリエ・オペラ カウフマンが主役
・メッツマッハー映像版 若いカウフマンが、いまほど重くなくよろしい。
 チューリヒでの上演で、学校の実験室や学園祭に置き換えた舞台が深刻さゼロでやりすぎだった。

日本でも、このオペラは日本人の共感をえるものと思います。
いつしか上演されますことを望みます。

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