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2024年6月30日 (日)

シュレーカー 「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 日本初演

Kiyose-1
               (東京都清瀬市のけやきホール)

日本ではいまだに本格的な舞台上演のないシュレーカーのオペラ。
唯一、演奏会形式では「はるかな響き」のみがあるのみ。
こうしたなかで、シュレーカーの作品のなかでも、極めてマイナーで、かつ独創的・実験的な「クリストフォロス」を果敢に取り上げ、上演に導いていただいだ田辺とおるさんをはじめとする関係者の皆様に、感謝と敬意を最大限に表したいと思います。

ヨーロッパでは、「はるかな響き」「烙印をおされた人々」「宝探し」の3作がメジャーな劇場で上演されるようになり、さらには地方の有力劇場でも、シュレーカーのオペラは取り上げられつつある。

そんななかで、今回の本邦初演は、作者存命中はあたわず、1978年にフライブルグで初演され、1991年にウィーン交響楽団でコンサート形式で演奏(メッツマッハー指揮)、その後はCDとして残された2001年でのキール上演以降の世界で3度目の上演、4度目の演奏なんです。
シュレーカーのオペラを全部聴いて、ブログに残そうとしている自分にとって、こんなまたとない日本初演の機会でした。
全10作あるシュレーカーのオペラ、ブログ記事は、作品としては7本目となります。
残りは3作ですが、最終の「メムノン」は未完作ですので、あとふたつは、すでに視聴済みで記事にできるように今後聴き込んでいきたいと思います。

あらためて、フランツ・シュレーカー(1878~1934)について、過去記事から引用しておきます。

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・
ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。
強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。どこか遠くで鳴ってる音楽。

クリストフォロス」は、シェーンベルクに捧げられた1929年完成の作品で、シュレーカーのほかのオペラ作品は次のとおり。
下線は過去記事へと飛びます。

 ①「Flammen」 炎  1901年
 ②「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年
 ③「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年 
 ④「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年
 ⑤「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920
 ⑥「Irrelohe」   狂える焔   1924~29年
 ⑦「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1929

 ⑧「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年
   ⑨「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年 
 ⑩「Memnon」メムノン~未完   1933年

Christophorus

この作品、唯一の音源、そして世界で2度目の上演のライブ。 
2001年から2003年まで行われたキールオペラでのシュレーカー・シリーズの一環で2002年のライブです。
音源としては耳になじませてはいたが、英語の解説を読んでもちんぷんかんぷんで、そのせいもあり弊ブログのシュレーカーのオペラシリーズもこの作品で足踏み状態だった。

この度の日本初演に接し、さらにyoutubeでのプレイベントや詳細なるプログラム、さらにはそこに全文掲載された田辺とおるさんの訳による台本、これらにより、おぼろげだった「クリストフォロス・・・」というオペラの姿が見えるようになった。
ほんとうにありがたいことです。

まずは、このオペラにはその伝説は直接に登場しないけれど、必ず頭に置いておかなくてはならないこと、「聖クリストフォロス」のこと。
公演パンフレットにあったものがとても分かりやすいので、ここに貼り付けます。
クリックすると別画面で開きます。(使用に支障ございましたらご指摘ください)

St-christphorus

オペラの登場人物

 アンゼルム(テノール):作曲家でヨハン先生の弟子
 リーザ(ソプラノ)  :ヨハンの娘、アンゼルムに思いを寄せていた
 クリストフ(バリトン):作曲家でヨハン先生の弟子、リーザと結婚
 ヨハン先生(バス)  :信望厚い作曲の先生で弟子多し
 ロジータ(メゾソプラノ:2幕で登場するシャンソン歌手
 シュタルクマン(シュプレヒ):評論家(シュレーカーの批判者のモデル)
 霊媒フロランス(ソプラノ):2幕でリーザを召喚するイタコ
 ハインリヒ(バリトン):ヨハン先生の弟子
 フレデリク(バリトン):ヨハン先生の弟子
 アマンドィス(バリトン):ヨハン先生の弟子
 エルンスト(テノール) :ヨハン先生の弟子
 子供(ソプラノ)    :クリストフとリーザの子
 ハルトゥング博士(バスバリトン):クリストフを観察する心理学的先生
 カルダーニ神父(バス・バリトン):霊媒師に付き添う神父
 待女エッタ(アルト)  :リーザの家政婦さん

シュレーカーのオペラの常で、登場人物は多く、そして多彩で多面的な存在で、それぞれに存在価値を示すのでまったく気が抜けないし、それぞれの歌手が、このオペラではシュプレヒシュティンメ的な存在を求められるので高難度。
歌と語りが混在し、語るようでいつの間にか長い旋律や絶え間ない変転を繰り返す歌へと常に移行するので、歌手はまったく大変だと思う。

オペラの構成

プロローグとエピローグを挟んで、2場からなる第1幕と第2幕とで構成
プロローグでヨハン先生から作曲の課題の提示があり、弟子たちが取り組む。
第1幕の本編以降は、作曲をするアンゼルムに、凡庸ゆえに作曲を卒業して愛に生きるクリストフ、悩み多きリーザの3人を中心とした劇の展開となり、劇中劇の様相を呈する。
さらに、この劇中劇は2幕の後半では、さらなる劇のなかの劇的な展開となり、劇中劇の劇となり、エピローグにつながり、調和和声のなかに音楽と劇も閉じる。
こうした構成が、音源ふだけではマジでややこしく、わからなかった。

オーケストラ

通常の編成に加え、ミュージカルソーという手鋸を弦で弾く珍しい楽器、ピアノ、チェレスタ、ギター、バンジョー、サックス、ハーモニウムなど当時の新機軸ともいえる楽器が総動員されている。
そして、作者の指示で、曲の冒頭や各幕の頭には、鐘が鳴らされる。
宗派によっては、聖クリストフォロスが守護聖人のような存在とされることへのリスペクトでありましょうか。
 今回の上演では、弦楽は最小限に抑えられたアンサンブルとし、金管・木管・打楽器などは2台のエレクトーンで代用。
これが普段聴いていたCDとほぼ類ない再現度合いで、むしろ緊張の度合いや、音楽への集中力を高める効果もあったことは大絶賛していい。

Christphorus-1

 シュレーカー クリストフォロス、
           あるいは「あるオペラの幻影」


   アンゼルム:芹澤 佳通   リーザ:宮部 小牧
   クリストフ:高橋 宏典   ロジータ:塙 梨華
   ヨハン先生:岡部 一朗   シュタルクマン:田辺 とおる
   霊媒フロランス:大澤 桃佳 ハインリヒ:金子 快聖
   フレデリク:上田 駆    アマンドゥス:長島 有葵及
   エルンスト:西條 秀都   子供 :長嶋 穂乃香
   ハルトゥング
博士/司会者:ダニエル・ケルン
   ガルダーニ神父:ヨズア・バルチュ
   待女エッタ:中尾 梓
   ピアニスト:小林 遼、波木井 翔
   ホテルの客:小野寺 礼奈、小林 愛侑、西脇 紫恵

  佐久間 龍也 指揮 クライネス・コンツェルトハウス
          エレクトーン:山木 亜美、柿崎 俊也

   演 出:舘 亜里沙

   公園監督:田辺とおる

          (2024.6.23 @けやきホール、清瀬)

プロローグ

アンゼルムは、思いを寄せる教師の娘リサのことを考えているが、作曲コースの同僚のハインリヒ、アマンドゥス、エルンストは彼を「女々しい」「愚か」「恥さらし」などとからかっている。
聖クリストフの伝説について弦楽四重奏曲を作曲するという課題をヨハン先生が生徒たちに与えていた。
ヨハン先生は、この伝説を生徒たちに順繰りに語らせ、生徒たちも素晴らしい素材だと熱狂する。
 アンゼルムはその仕事に不満を抱き、四重奏曲ではなく、ドラマテックなものを求める。
「甘くて魅惑的な悪魔のような女性」が欠けていると語る。
伝説における悪魔の役割は、リーザによって演じられるべきだと確信し、陶酔する。
リーザがやってきて、不埒なことを言うのではなくてよと、彼女は彼の顔を殴ります。
ひざまずいていたアンゼルムはそこへやってきたクリストフに引きずり上げられ、恥を知れと侮辱。
クリストフはヨハンの作曲クラスに参加して「私が最高だと思う芸術に奉仕」したいと歌う。

第1幕 1年後

アンゼルムはオペラの制作に取り組んでいる。
モノローグでは、インテッルメッツォという名でひとつの幕を加えると歌う。
 彼やヨハン先生の両方に敵対する批評家シュタルクマンが訪ねてくる。
婚約したという若いクリストフに会いたがっているが、アンゼルムはクリストフをこきおろす。
 アンセルムは仕事を続け、エピローグの仕立てに悩み、伝説の存在が頭をめぐるといらつく。

クリストフとリーザやって来て、クリストフはシュタルクマンが彼の交響曲の演奏を推薦したいといったと報告する。
アンゼルスとリーザの間ではいさかいがいまだに残る。
クリストフはアンセルムスを擁護し、よく話しをしなさいと出ていく。
彼女がアンゼルムを怖かったのは彼女が戦おうとしている自分自身のなかにあるなにかの存在の一部に似ているからである。
アンゼルムは感情を爆発させ、あのときからあなたに縛られ鎖につながれていると激しく歌い出ていく。
リーザはショックを受け飛び出していく。

ヨハン先生は 、教師として、また人間としてもの自分の失敗についてクリストフに反省とともに語る。
クリストフは、愛が最も強い力であると強調し、けっして芸術ではないと歌う。
愛であるリーザに今後は使えたいと熱く語り、そこに居合わせたリーザも最愛の人と感激する。
 他の生徒たちは彼女の婚約を祝福するようにいろいろなプレゼントを捧げ、。レデリクは完成した弦楽四重奏曲を捧げる。
シュタルクマンの登場にヨハン先生は困惑するが、クリストフはこれを許し記事の作成も許諾。
そこで、クリストフは、芸術との別れを宣言する。
アンセルムスはリサに自分のオペラの第 1 幕を贈り物として贈る。「弱きものは、永遠で人生と世界を浄化する」と語る。

リーザの部屋。リーザは出産後、自分が美しくなくなったと感じて悩む。
クリストフはアンゼルムに嫉妬していて、そのオペラではリーザが「液体ガラスのように流れ輝き、繊細で銀色、邪悪で狂気の音楽」に合わせて踊ることになっていると歌う。
クリストフはベールのコスチュームを見て怒りに燃える。
クリストフは母としての聖なるものをリーザに感じるが、子供を運ぶことは、リーザにとっては重荷であると考えている。
クリストフは同情はするが、子供のこと、わたしのことも考えてと彼女に警告し去る。

アンゼルムが登場し、自分のオペラの大きな場面が始まろうとしていることを認識。
リーザは、炎、波、罪という地球の精霊の3つをアンゼルが朗読したテキストに合わせて踊る。
踊りながら罪とはなんて柔らかいのだろう、しかし罪は人を滅ぼすと歌いつつ、その罪は勝利すると陶酔。
「あなたは私を思い通りに創造した、私のなかで踊る悪魔を呼び出した」
やがてふたりは抱き合う。

アンセルムスが自分の仕事のコントロールを失っていることに気づくが、、クリストフはその場面を見てしまった。
笑っているのは悪魔だ、死ねと激しく笑い始めたリーザを撃ち殺す。
リーザは「ただの遊びだったのに…」と言い残して息を引き取る。
アンゼルムは捕まるまえに、クリストフを君がすきだからと逃避行を手伝う。

第2幕

ホテル・モンマルトル
アンゼルムとクリストフがジャズバンドで演奏するダンスホール。
ダンスホールともう一方にはアヘンの煙が立ち込める奥の部屋。
ハインリヒは心理学者の博士と一緒に座っている。
ハルトゥングは奥の部屋にいて、彼が唯一認め、逮捕から守りたいと思っているクリストフを救出する計画を立てています。
しかし、ハルトゥングは主にクリストフを心理学的に興味深い症例として見ており、ハインリヒは物乞いへと陥ったヨハン先生とその孫を助けに行く。

シュタルクマンはいまでは海の向こうの音楽に未来を見ている。
ロジータがアンゼルムのシャンソンをピアノ、サックス、ドラムの伴奏で歌ってている間、クリストフはアヘンをやり酩酊のなかにはいりこむ。
司会者に導かれ、霊媒師が死者を呼ぶことができる、みなさんのなかで誰か?と誘うとすかさずクリストフが手をあげる。
アンゼルムはことのなりゆきに、怒り、私の最終章は陳腐で感傷的なものになりさがると嘆く。

禍々しい雰囲気のなか、霊媒師フロランスとクリストフの対話が続き、クリストフが自分が殺し、最後の言葉は、ただの遊びだったとのことを告白。
霊媒師は興奮して、彼ら来る、はここにいると金縛りに会う・・・・

場は変わり、早朝の光のなか、老いたヨハン先生と子供がそれぞれギターとタンバリンを持って出てくる。
子どもは歌う、親愛なるみなさん、どうかお恵みを、僕には父も母もいません、喜んで歌います・・・ラ、ラ、ラ、春風に凍えている、お恵みを、と涙を誘います。
クリストフは目が覚めたようにふたりのもとへ駆け寄る・・・・

        間奏曲

エピローグ

目に見えない声が、老子の『道徳経』の文章を読み歌う。
ここは長く、極めて難解、ここを読み解くのは、今後の課題だし、シュレーカーの音楽の鍵にもなる部分と知った。。。

プロローグと同じ音楽たちの部屋。
アンゼルムはヨハンとリーザに見守られながら、楽譜が足元に乱れ、完成できないオペラに休みなく取り組む。
我が子の世話をするクリストフに話しかける。クリストフと子供はヨハンとリサには見えない。
クリストフは芸術も愛も乗り越え、罪悪さえも制服した、かつて同名の祖先が皇帝と悪魔に仕えたように、地上のあらゆる権力に身を捧げた。
しかし、舞台の中でしか生きることができなかったと淡々と語る。
これにアンゼルムは傷ましい真実、彼は創造主となり、私たちは幻にすぎないと嘆く。
このアンゼルムに対し、リーザは同情し、わたしのせいだと父に救いを求める。

アンゼルムにしか聞こえないクリストフの独白は続く。
子どもに向かい、その目に映る唯一の神格を認め、仕えたいと表明しいかに謝罪するか、最後の慈悲に値するかを問う。
アンゼルムは、そんなの黙れ、ヨハン先生も聞いているとささやく・・・
子どもは、わたしを背負って水のなかを運んでください、僕はますます重くなる、私たちは沈み溺れる・・・そして光のなかで燃えつきる。
お父さん、この苦しみを終わらせてと歌う。
私を家まで連れていって、家へ、家へ、来た場所へ・・・・
クリストフは、子どもを連れて舞台奥へ静かに歩み去る。

ヨハン先生は、アンゼルムに、お前は心の声を聞いている、お前の創った人物はお前のなかに生き、自身となる。
音楽であってそれ以上のものではない、四重奏曲なのだ、息子よ。と語る。

「アンダンテ・コン・リゴーレ」、黒板に向かい作曲の筆をとる。

「彼は子供を背負い、子供が彼を導く、孤独な道を」

音楽は四重奏による平穏な調と和声となり、最後はオーケストラも相和し、平和な雰囲気のうちに閉じる。

                

長いあらすじを起こしてしまいました。
田辺さんによる翻訳台本、CDのリブレット、ネット上の書き込みなども参照にしました。
こうしたオペラは、数年すると、その内容もおぼろげになるので、あとで見返す自分のためにもです。

本編の劇中劇のなかでも、アンゼルムは劇から飛び出し、劇中劇のなかの劇にまで進んでしまう。
マトルーシュカのような多層的なオペラだけれど、これを2時間の枠に収めたことで、展開が性急となり、理解が及ばないという恨みもあり。

しかし、こんな馴染みのない作品を、今回、見事に間断なく歌い演じた歌手のみなさんは大いにリスペクトすべきであります。
ダブルキャストで、わたしは2回目の上演でしたが、その素晴らしい舞台に接し、また前日はクロスするように交換した役柄もあり、双方を確認してみたかった。

没頭的かつ熱狂的なアンゼルムを歌った芹澤さんは、その姿もスタイルもまさにシュレーカーのオペラに相応しい声と演技でした。
リーザの宮部さん、CDでのベルンハルトは、やや不安定な歌唱がまさに揺れるリーザに相応しかったのですが、彼女の正確な生真面目な歌唱が、逆にリーザの複雑な心理とその存在を歌いこんでいたのではと思った。
いくつもダンスのシーンもあり、これは難役だと思いました。
それとクリストフ役の高橋さん、暖かいバリトンは、途中、嫉妬に走り、さらには狂気の世界に入る投役には優しすぎるかとも思いましたが、でも最後に到達した境地を淡々と歌った場面で、これもまたいい役柄でもあり、素敵な声と演技と認識しました。

この上演の立役者、田辺さんの憎たらしい評論家も存在感ばっちり。
最後の舞台挨拶でおっしゃってましたが、「ヴォツェック」からの冒頭場面、大尉がヴォツェックにむかって言う「Langsam Wozzeck、Langsam・・」このフレーズを、評論家の言葉のなかに入れたらしい。
そう、わたしも「あ!」と思いました。
ヴォツェックやベルクもこのオペラをひも解くキーだと思うので、まったく見事としか言いようがありませんね。

若い学生たちも、みなさんそれぞれに立派で力強い声で、その声はしっかりと客席に届きました。
霊媒さんも、子供の無垢な雰囲気も、いすれも声も姿も可愛い存在でしたね。
ふたりのドイツ人出演者、正直、ドイツ語のほんものぶりは、際立ってました。
とはいえ、語りの多いこの難解な作品を、原語上演で完璧に仕上げたこのプロダクションは、日本人として誇るべき精度の高さと音楽性の豊かさ、共感力の高さにあふれたものでした。

ウィーンで学び、オペラの経験も厚い佐久間さんの、適格な指揮もよかったです。
エレクトーンと弦楽アンサンブルで、ここまで雰囲気よくピットのなかのオーケストラが再現できてしまうことにも驚き、素晴らしく感じましたね。

比較的小ぶりなホールで制約のあるなか、全体をコンパクトにまとめつつも、緊張感ある舞台に仕上げた演出の舘さん、実によい出来栄えだったと思います。
ともかく簡潔でわかりやすい、これがいちばん。
紗幕のうまい使い方で、劇中劇と前後のプロローグ、エピローグの対比がしっかりできた。
100年前の社会様式が、いまでは陳腐ともなりかねないが、それが今の世の中にぴったりフィットするような動作や所作。
光と影を巧みに表現。
アヘン窟ではスモークでその怪しげさ満載の舞台となり、そこにいた、それぞれの思いをもった人物たちの怪しい思いがよくわかる仕組みに。
このように、ともかくわかりやすい舞台を仕上げてました、日本初演の舞台として、この簡明さは大正解だと思いました。

このあと、シュレーカーのこの音楽の印象や、自分が思った聴きどころなどは、追加で補筆したいと思います。

Kiyose-3

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コメント

「クリストフォロス」の詳細な解説、ありがとうございました。
yokochan様の音源、私も所有しておりますが、何せ拙い語学力ですので、この記事(おそらく本邦唯一のこのオペラの解説?)により詳細が分かりました。

投稿: IANIS | 2024年7月 2日 (火) 19時00分

IANISさん、まいどです。
自分で書いて、あとでよんでもややこしいオペラでした。
この上演を実現したみなさまに頭がさがります。
あと、ここで触れていないのは、道教との関係。
極めて難解です。
自分のなかで消化できたら書き足そうと思ってます。

投稿: yokochan | 2024年7月 2日 (火) 21時50分

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