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2025年4月

2025年4月18日 (金)

NHK交響楽団定期演奏会 ヤルヴィ指揮

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なるべく行きたくない街になってしまった渋谷に、久しぶりに行きました。

外国人観光客に大人気のスクランブル交差点とともに、こちらのハチ公像も人気で、外国人が列をなして順番に記念写真を撮ってました。

かならず外国人が映りこんでしまうので、右側を見切るようにしてうまく撮影できました。

数日前、90回目のハチ公の慰霊祭が行われたばかりで、渋谷にはなくてはならない存在となりました。

ここから雑踏のような公園通りを通過して、丘の上の築52年のNHKホールまで達するのは、正直、苦行でありますが、よきコンサートのあとは足取り軽く、ひょいひょいと駅まで行けちゃうから不思議なもんです。
ナイスなプロコフィエフが聴けて、うきうきしてしまったワタクシです。

Nhkso

   NHK交響楽団 第2034回定期演奏会

 ベルリオーズ 交響曲「イタリアのハロルド」

 バッハ    無伴奏チェロ組曲第1番~サラバンド

      ヴィオラ:アントワーヌ・タメスティ 

 プロコフィエフ 交響曲第4番 ハ長調 op.112 (改訂版:1947)

     パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK交響楽団

         (2025.4.13 @NHKホール)

ヴィオラ独奏をともなう表題交響曲。
しかしながら協奏曲のように最初から最後まで活躍するわけでなく、コンサートでやるときは、ソリストとしてずっと立っていると、どうも間が抜けて見えてしまうし、かといってオケのヴィオラ首席の位置で弾くのもせっかくのソリストなのに申し訳なく、もったいない。
コンサートでは、どうもすわりのわるい作品なのだとずっと思っていた。

しかし、タメスティ氏とパーヴォ氏は、この作品ではなんども共演しているようで、ここではまさにヴィオラソロが、まさに「ハロルドの巡礼」を演じるがごとくステージ上で活躍しました。
オーケストラだけの長い序奏では指揮者だけ、やがて、そろりそろりと周囲を見回すようにして登場したタメスティ・ヴィオラ氏。
ハープみ導かれ、その横でハロルドの主題を弾き始めた。
なんという豊穣なヴィオラの音色だろう。
その印象は、最後まで、いやアンコールのバッハまで変わらず持ち続けたものです。
そしてタメスティは、最初はハープの横で弾いてたと思ったら、きょろきょろとしつつ、4つの楽章のイメージに合わせ、また活躍する楽器に導かれるように、その楽器の近くに行って弾いていたんです。
ハープの次はティンパニ、2楽章の夜の巡礼のときには、仲間たちのヴィオラの近くで、さらに3楽章ではちゃんと指揮者の横のソリスト位置で、山賊の酒盛りシーンと言われる4楽章のベルリオーズらしいはちゃむちゃシーンでは、チューバなどの金管群の横で。
こんな風に広いNHKホールのステージを場所を変えてヴィオラを弾くまくる、ときに聴衆に背を向けてオーケストラを聴いてるといった風に、演技もちゃんとしてしまう。
最後はステージから逃げ出すように走り去ってしまうシーンで、思わず笑いそうになったものです。
また別動隊として奏される弦楽四重奏は、第1ヴァイオリンの末席のふたりと、チェロは中ほどの奏者、それとタメスティの4人でした。
こうした距離感を作りだしたのは、これもまた音の遠近感を楽しめる仕掛けになっていた。
目の離せないソロ付きの「イタリアのハロルド」は、まさにライブでこそ、その面白さがよくわかる仕掛けが施されてました。
ヤルヴィの指揮は、そのあたりよくオーケストラを抑制させつつ、爆発するところは、いつものパーヴォらしく思い切りオケを鳴らし開放すると言った風に、タメスティを引き立てつつ、その方向性は息のあったふたりで完全一致していたことも確認できた次第。

アンコールのバッハが絶品でして、ヴィオラ一挺でこんなに巨大なホールをバッハの深淵な音で満たすことができることが奇跡のようにも感じました。

休憩後はプロコフィエフ。
何度も書いてますが、幣ブログでは、プロコフィエフの作品を年代順に聴いて記事にしてまして、時代別の作風の変遷を、そのときのプロコフィエフをとりまく諸情勢なども鑑みながら確認し聴いております。
オペラ「炎の天使」と交響曲第3番まで取り上げておりまして、ついでバレエの「放蕩息子」や交響曲第4番が視野に入っておりました。

そこで聴いためったに実演で聴くことのできない、今回の4番の交響曲でした。
しかし、今回はずっとのちに改訂された版でのもので、レコーディングも含めてこちらの改訂版が主流となっているのが実情です。

1927年完成の「炎の天使」、そこからの素材で出来た交響曲第3番が1928年、同時に作曲されたバレエ「放蕩息子」も1928年。
そのバレエの素材を一部使って交響曲第4番を完成させたのが1930年で31年にパリで初演。
祖国への思い捨てがたく、体制の変わったソ連に本格帰還してしまうのが1936年。
その前ぐらいから、プロコフィエフの作風は変化していったわけですが、それはまた違う機会に。

ずっとのちになって、成功した5番や6番のあとに、4番は改訂されるのが1947年。
第1稿は作品47で、改訂版は作品112。
30分ぐらいの初稿にくらべ、改訂版は40分ほどで、時間的にもグレートアップされた。
その違いはプロコフィエフシリーズのなかでまた書きたいと思います。

序奏の部分が効果的に拡張され、終楽章で全楽章を回顧しつつ壮大に鳴らされるという、交響曲の常套を踏んだ改訂版。
ヤルヴィの手際がよくも、強弱をたっぷりつけメリハリの効いた演奏で聴くと、このうえない爽快感と快感を覚えたものです。
初稿にはなかったピアノは、指揮者の真ん前に据えて、左右にヴァイオリンとチェロ・ヴィオラを配置するというなかなかに見られない光景でしたが、案外とピアノが決めてになって聴こえるこの交響曲では、実に効果的だったし、音の出方やバランスがとてもよかったと思う。

1楽章は序奏からやがてリズミカルな急速シーンに突入するが、このあたりの繰り返し的なプロコフィエフの効果満点の音楽はヤルヴィのキビキビした指揮ぶりが光る場面で、わたくしをワクワクさせてくれた。
このあたりのオーケストラの精度の高さに舌を巻き、やっぱりN響ってうまいもんだな、と感心することしきり。
 緩徐楽章の息の長い旋律を引き継いでゆく展開も美しく、ここでもオーケストラの合奏力の高さとソノリティの豊かさを実感。
初稿ではもっと簡潔な造りだが、改訂版ではやや冗長に感じさせるこの楽章を、ヤルヴィはよく歌い、各声部をしなやかに浮かび上がらせるようにしてうまく聴かせてくれました。
 原作のバレエにもっとも近づいた雰囲気の3楽章。
軽妙かつ洒脱な雰囲気をよくつかんでいたし、軽やかさもN響から引き出すところもさすが。
 よりシンプルで新古典的な様相を持つ初版の終楽章に対し、大見えをきるような終結部を加えた新版ですが、そこに至るまでの盛り上げのじわじわ感が見事でして、ここでもワタクシは興奮しましてドキドキが止まらないのでありました。
パッチワークみたいな感じの継ぎはぎが、だんだんとまとまってゆくような面白さを、ヤルヴィとN響は見事に演奏しました。
ブラボー一声かけましたよ。
 
プロコフィエフをコンサートで聴く楽しみは、大編成のオーケストラ、とくに金管や打楽器の活躍を一望できることです。
改訂版で強化されたそのあたり、もっと簡潔で凝縮された初稿版にない楽しみを、今回の演奏ではよく味わうことができました。
ヤルヴィって指揮者は、ときにあざといところがどうかとも思ってましたが、この日のベルリオーズとプロコフィエフでは、聞かせ上手のヤルヴィがいろんな工夫をこらして飽きさせずに聴かせてくれました。
4番は、ふたつの版を真ん中に協奏曲かなにかをはさんで一夜でやってくれたら面白いと思うんですがね。

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久しぶりのNHKホール。
記憶していた音響よりもよく聴こえました。
ヤード式のホールで聴くことが多かった最近ですが、音がまとまってブレンドされて直接に聴こえるので、ごまかしは効かないかわりに、音楽に集中できるような気もしました。
わたくしの初NHKホールは、1975年のムーティとウィーンフィルでして、もう半世紀も経つんだ・・・・

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文化に浸ったあとは狂暴な喧騒へと下りました。

せっかくだから雨のスクランブル交差点を拝見しようと隣接するビルからのぞき込みパシャリと1枚。

この街で学生時代を過ごした時代とは隔世の感あります・・・・

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2025年4月12日 (土)

富士と桜 と吾妻山

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今年の春は天候が安定せず、まさに「春に3日の晴れなし」とはよく言ったものです。

今日を逃すと明日はない、と絶好の晴天の日に地元の「吾妻山」に行ってきました。

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初春は菜の花、春は桜、晩夏はコスモスと、花の名所ともなった小高い山ですが、近くにいると案外と行かないものです。

さすがに外国人の姿はいませんが、駅からすぐなものですから、県内・隣県の方々が多くいらっしゃるようになりました。

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麓の小学校に通っていました。

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子供の頃は、公園として整備されてなく、神社と広場があっただけ。

こんな風に富士と桜が楽しめるスポットではなかった。

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各自治体が観光スポットを作りだすようになったのは、そんな昔のことでないと思います。

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オーバーツーリズムには顔をしかめざるをえませんが、日本人が安心して楽しめる日本であって欲しいと思いますね。

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2025年4月 6日 (日)

東京交響楽団 定期演奏会 ノット指揮 ブルックナー8番

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サントリーホールに早く到着したので、近くの桜坂から霊南坂を桜を求めて散策。

美しい桜の回廊を見て、これから聴くブルックナーに胸を高鳴らせる。

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演奏会が終わったあと、すっかり日が落ちてライトアップされた同じ場所の桜を再び。

あまりの素晴らしい演奏に、もう放心状態の自分でした。

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    東京交響楽団 第729回 定期演奏会

 ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調 第1稿 ノヴァーク版

      ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

         (2025.4.5 @サントリーホール)

2014年に就任以来、数々の名演を残してきたノット監督の最終シーズンの今季、ブルックナーの大作でスタート。
2016年に一度取り上げた8番ですが、2度目の今回は第1稿で演奏するという、これもまたノットらしい絶妙の選択。
このコンビを聴きだしてまだ数年の私ですが、今季のプログラムを見て、これはもういまさらながら会員になるしかないと判断しました。

昨年暮れ、「ブルックナーを演奏する会」というアマチュア有志オーケストラが第1稿を果敢に取り上げ、それでこの初稿の版を初めてといっていいくらいに真剣に聴いた。
その時のブログでも書きましたが、インバルのCDやルイージのライブ放送などで聴いてはいたが、かくも全然違う風に聴こえる第1稿に、新鮮さとともに、発見をする喜びを見出したのです。

そして今回の、ノットと東響の完全無欠たる演奏を聴いて、これはもう普段聴いてきた2稿以降のノヴァーク版、ハース版などとともに、峻厳さとともに聳え立つブルックナーの名作だと確信を得ました。
よく言われる「磨きあげられる前の原石」だという表現は、今回の演奏にはふさわしくなく、これはもう巧緻を尽くしたブルックナーが到達した完璧な円熟の境地にある作品と思わせるものだった。
そして、90分間にわたって、全編息もきらさず集中し、まんじりともせずに音楽に集中したコンサートも、これもまた久しぶりのことで、自分のなかでも、これまでの「サロメ」や「エレクトラ」にも通じるものだった。

聴き慣れた版との違いを確かめるように聴きがちな1楽章、ついついあれどこ行った?と、行方知れずの音を探すように聴いてしまうが、今回はそんなことなく、すべてがスムースで、すべてがあるように演奏されて自然体そのもの。
力んだところもまったくなく、洗練の極みのように感じられ、峻厳な作品8番を聴くのに構えることなく受け入れられた自分にも驚き。
それだけ練られた演奏だったということだろう。
フォルテで終わる終結部も洗練されたものだった。

野卑さのまったくないスケルツォは優美にさえ感じるくらいに徹底して磨き上げた表現で、さらに牧歌感の増しているこの初稿版の中間部ではテンポを落としてじっくりと聴かせる。
このように演奏は全体にゆったりめと思った。

いちばん素晴らしかった深淵なる3楽章。
緻密なノットの音楽造りをオーケストラがしっかりと受け止め、息の長い旋律を綿々と歌い継ぐ様子は聴いていても、見ていても胸が詰まってしまうくらいに感動的だった。
そのノットの想いあふれる横顔も印象的で、長らく付き添ったオーケストラのひとりひとりが、しっかりその意図を受け止めて精魂込めて演奏しているのがよくわかった。
指揮者とオーケストラの幸せな結びつきが、こうした静かで感動的な楽章を通じてよくわかるというものだ。
静寂をともなうパウゼもあり、完璧な間として完全に機能したようにも感じた。
2稿以降でシンバルが高鳴る場所がスルーされる1稿に慣れた自分ですが、そのあとにくる3連×2のシンバルとトライアングル、とってつけたように感じていたこの場所が、今回の演奏では痺れるほどの感銘をともなって、こうあらねばならぬというように聴こえた。
この日、好調だったホルンセクションとワーグナーチューバ軍団をともなう、その後の慰めにあふれた場面も感動的で、ずっとずっと続いて欲しいと願いながら聴いていたものだ。

雄軍極まりない終楽章の開始は、輝かしさでなく、決然とした厳しさが支配し、このあとの長い多彩な表情をもつ楽章の序奏として相応しかった。
2稿以降の版で、大好きなフルートによる鳥のさえずりは、1稿ではやはりちょっと寂しく感じ、埋没しすぎと思ったのは変わらず。
勇壮な金管の主要主題の咆哮もよく制御されていて、突出しない。
またコンマスを始め、第1ヴァイオリンが分かれれ分奏するところも、2稿以降にはあったかな?確認してみたいが、さすがニキティン・コンマスだった。
何度か表出する金管群による主題が、回数を追うごとに、だんだんと熱量を帯びてゆくのもノットの感興の豊かさと指揮の巧みさで、楽章も後半に進むにしたがって音楽が熱く、そして輝いていくのをまざまざと感じた。
ノット・マジック、まさに極まれり。
オーケストラも長丁場に負けず、精度と力感も保ったまま最後を迎えるにあたり、全員が集中と感銘のなかにいるようだ。
聴いてるワタクシが、平静でいられるわけがない。
3楽章でも感じたとおり、この長大な音楽がずっと続いて欲しいと願いつつ、感動に打ち震えていたのだ。
 遠大なエンディング、じわじわ高鳴っていくが、音楽は意に反して静まる。
ここでこれまで聴いていた音源や、前回の初聴き演奏会では、あれれ、と思い、その後のあっけない終結に物足りなさを覚えたりもしていた。
しかし、この日のノットと東響の演奏はまったく異なる次元で高みに昇りゆく音楽として、じっくりと堂々と聴かせてくれた。
ふわっとした終わり方を感じさせず、小細工も抜きに、見事なまでに音楽を昇華させたのだ。

最後の音が鳴り終わって、ノットは腕を降ろさず、奏者も身じろぎせず、完璧なる静寂が数十秒ホールに続いた。
その後のブラボーを越えた、歓声のような盛大な声、こんなの始めてだった。

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7番のあとにある8番ということを大いに意識させてくれた1稿での名演。
こんなすごい演奏が聴けるなんて。
ノット監督と東京交響楽団に感謝です。

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おなじみのコールもこの日は盛大でした。

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コンサートのあとの散策、

霊南坂教会と桜。
ブルックナーを聴いたあとに相応しい。
実は演奏会前にも教会のなかのステンドグラスを鑑賞しまして、そのときは礼拝堂で日曜に向けてオルガンの練習する音色が聴こえました。
敬虔な思いのままに、ブルックナーを聴いたわけです。

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今季のノット監督の演奏会、「戦争レクイエム」「マタイ受難曲」「マーラー9番」。

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2025年4月 2日 (水)

東京交響楽団 定期演奏会 オスモ・ヴァンスカ指揮

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春もたけなわ、のはずの3月末でしたが、4月に入ってからも寒の戻りや曇天・雨天で悲しい桜シーズンとなってしまってます。

こちらは商業施設の中の本物そっくりの桜なので散ることなく安心。

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    東京交響楽団  川崎第99回定期演奏会

 ニールセン       序曲「ヘリオス」op.17

 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 op.37

 バッハ カンタータ「楽しき狩りこそわが喜び」BWV208
         「羊は安らかに草を食み」

      ピアノ:イノン・バルナタン

  プロコフィエフ  交響曲第5番 変ロ長調 op.100

     オスモ・ヴァンスカ指揮 東京交響楽団

      (2025.3.30 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

コンサートマスターのニキティン急病とのことで、急遽田尻さんが本日のコンマスとのことでした。
ヴァンスカの指揮を聴くのは今回初めてで、これまでラハティ響との来日、読響、都響への来演も何故か聴くことがなかった。
いずれもシベリウスばかりで、シベリウスの専門家みたいに思われているヴァンスカですが、わたしはマーラーの10番から始まり、ついで全集も購入し、氏の緻密かつ熱いマーラーに共感をいだいておりました。

1曲目のニールセンから集中力と精度の高い演奏が展開された。
海の夜明け、昇りゆき、最後は沈みゆく太陽を描いた作品だが、静かに始まり、輝かしい中間部を経て沈黙の海を思わせるピアニシモで終わる、そのさまをまことに鮮やかに演奏してみせた。
昼からコンサートって、とくに1曲目は入り込みにくかったりするものだが、今回は最初の1音から耳をそばだてるくらいに磨きあげられた緻密さに集中でき、ピークのフォルテも神々しく、息をのむくらいの最終音まで、ほんとに美しく完璧な演奏に感じいった。

ピアノを中央に据え直して始まったベートーヴェンの3番。
イスラエル系のアメリカのピアニスト、イノン・バルナタンは恥ずかしながら、名前を聞くのも初めての方。
ベートーヴェンを中心に多くのCDも出ており、知らなかったのが悔やまれるくらいに実力をともなった素晴らしいピアニストだった。
一聴して、その美しいピアノの音に耳が惹きつけられる。
音楽にしっかり入り込んで、感じ入りながら、そして楽しみながら弾いているのがよくわかる。
その練り上げられた音たちは、緻密でどこまでも美しもあり、短調ならではの厳しさも感じさせたりで、3番という古典からロマン主義への萌芽の時期の位置関係を刻んでくれるような見事な演奏に結実していたと思う。
 ピリオドを意識した奏法でコンパクトで歯切れよいオーケストラは、ヴァンスカの思う切り詰めた簡潔なベートーヴェンにぴったり。
ただティンパニはややうるさかったかな。
バルナタンとヴァンスカが、完全に思いを一致させて、3番がベートーヴェンの意欲作であることをわからせてくれた。
一方で、2楽章のロマンあふれる演奏には、もう陶然としてしまう思いでしたね。
ほんとうに美しいピアノでした。
 別日ではアンコールもベートーヴェンだったらしいが、この日はバッハ。
何気なく、楚々とバルナタンが弾き始めたのがバッハのよく耳に馴染んだ曲だったので、驚きとともに、心に響くその誠実な演奏に、途中から泣きそうになったしまった。
聖夜の田園曲のように、心安らぎ、祈るような気持ちになる曲に演奏でございました。

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後半は、うってかわってプロコフィエフ
プロコフィエフを年代順にすべての作品を聴くシリーズ継続中のなか、ロシア時代初期から亡命時代の斬新な作風に心惹かれる一方で、祖国復帰後のソ連時代は明らかにメロディに傾きつつ、かつての大胆さが減少してしまったと感じてる。
でもプロコフィエフの音楽に通底するモダニズムや抒情が大好きで、すべてを聴き確認したい思いはかわりません。
 そんないま、かつて一番聴いてきた5番の交響曲を演奏会で体験する喜びははかりしれない。
なんといっても激しいダイナミズム、強弱の大きな落差は、スピーカーではなかなか聞き取りにくいし、近所迷惑になること必須なのだ。

そんな思いにぴったりだったヴァンスカと東響の5番だった。
その指揮姿を見ていて、ときおり屈みこむようにして、絶妙な最弱音を要求したとおもえば、最大最強のフォルテを引き出すために両手を大きく上にかかげて指揮をする。
東響は、それにこたえて完璧極まりない反応ぶりで、最高のオーケストラサウンドを聴かせてくれる。

クールな空気感を瞬時に感じさせるような1楽章は、さすがに北欧人ヴァンスカと思わせたし、楽章の最後ではこれでもかとばかりの破壊的な音でこちらも恍惚となった。
軽快でありながら、目まぐるしい激しさを味わえた2楽章は、ピアノも入り、東響の木管も大活躍で目まぐるしいくらいにきょろきょろしながら聴いた。
今回の5番の演奏の白眉だったのが3楽章。
クールな抒情性を見事に聴かせつつも、どこか不安げな様相を持つこの楽章の難しさは、プロコフィエフの色んな複雑な思いが念じこまれていることで、ヴァンスカの指揮はそれをひも解いて丁寧に聴かせてくれる緻密なものだったと思う。
中間部の哀歌などは、実に切実なもので、そこから始まる壮絶なクライマックスの作り方など、まったくもって素晴らしいものだった。
聴いていて鳥肌がたった。
一転して破天荒な雰囲気の4楽章では、木管と金管の大活躍と目まぐるしいほどの弦楽器の七変化ぶりを拝見しながら楽しんだ。
ヴァンスカのキュー出しも、極めて忙しく厳格かつ細密そのものだった。
急転直下のラストは、これまた見事な盛り上げ方で、もうワクワク感が止まらず、圧倒的なエンディングを迎えて興奮は頂点に!

素晴らしき5番を聴かせてもらった。
一連のマーラー演奏で感じていたとおり、ヴァンスカの音楽は効果を狙うような外向的なものでなく、音を緻密に磨き上げて美しい音にこだわるタイプに思っていた。
それに加えて、今回は強弱の付け方、音の出し入れなどがとてもうまく、存外にダイナミックな表現もする人だとの認識も加わりました。
都響にまたシベリウスで来演するようだし、次はマーラーも聴いてみたいものだ。

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ヴァンスカさん、いまは特定のポストは持たずに活動している様子。
これからもたびたび来日して、日本各地のオーケストラに客演して欲しい。

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