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2025年8月

2025年8月31日 (日)

バイロイト2025 勝手に総括

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夏のワーグナーの祭典、バイロイト音楽祭も終わり、夏も終わりか・・・と思う時分になりました。

現地に行ったわけじゃない、行ったこともない、きっとこの先も行くことはないだろうバイロイト。

でも71年頃から年末の放送をずっと聴いてきたし、ちょっとしたワーグナー好きであります。

夏のバイロイトでの出来事は、一喜一憂してしまうのですから、今年もやります、勝手に総括、お許しください。

祝祭劇場の写真をちょいと編集してしまいました。

2025年の演目は、新演出の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「ニーベルングの指環」(2022年)、「パルジファル」(2023年) 、「ローエングリン」(2018年)、「トリスタンとイゾルデ」(2024年)の5つ。

トリスタンは今年は放送されず、それ以外の作品をBR放送で全部聴きました。

画像はそれぞれ、バイエルン放送協会、バイロイト祝祭劇場のサイトなどからお借りしてます、ありがとうございます。

Meister-1

「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ダニエーレ・ガッティ指揮

すでにレビュー済み。
ザックスを特別扱いせず、むしろ軽い存在とすることで、ドイツ最上、神聖ローマ帝国万歳を薄めてしまい、前任のB・コスキーがえぐりだしたようなユダヤ問題をオブラートに包んでしまった。
踏込みが甘いという見方もあろうが、あれこれ考えずに楽しめたし、巻切れも愉快だったし、色彩の豊かさもよかった。

芸達者なツェッペンフェルトのザックスが期待通りに素晴らしく、深い美声で歌うバスでのザックスはかつてのリッダーブッシュ以来かもしれない。
この1か月で他の役でも多く舞台に立ったわけだが、体調を壊し、終盤ではミヒャエル・フォレとドンナーを歌っていたニコラス・ブラウンリーが代役で歌った。
さらに、好評のダ―ヴィット役のスタイアーも体調不良で降板し、ミーメを歌っていたチュン・ファンが代役に。
おまけに、指揮のガッテイもおかしくなり、1日だけ、お馴染みのアクセル・コバーが急遽指揮台にたった。
猛暑でありながらも、寒くなったりと、天候不順だったバイロイトだったようです。

 「マイスタージンガー2025 記事リンク」

Siegfried

 「ニーベルングの指環」  シモーネ・ヤング指揮

なんだかんだで、最終年度となったシュヴァルツ演出の「リング」。
コロナでお休みがあり、都合4年間、上演されたが毎回激しいブーイングが起きて、ある意味それも楽しみになっていた。
でもしかし、今年は、聴けた放送に限っていえば「ブー」はなし。
もしかしたら、カーテンコールに演出グループが出てきたときに、浴びたのかもしれないが・・・

観客はなにが起こるか認識して観劇していたので耐性がついていたのだろうし、いろいろと手を加えて調整もされていたとも言われている。
マイスター、インキネンから引き継いだヤングの指揮が、昨年以上に素晴らしかった。
あんなヘンテコな演出舞台なのに、音楽だけはやたらと素晴らしい。
それもこれもすべてに堂に入った的確かつ文句なく雰囲気豊かなワーグナーを聴かせるシモーネ・ヤングの指揮によるところだ。
聴いていて思わず膝を打つような場面も続出し、「神々の黄昏」の終盤、葬送行進曲から自己犠牲までの素晴らしい音楽が、こんなに感動的に演奏されるのを久々に聴いた。
ラストは思わず涙が出てきた。

歌手たちも比類ない出来栄えの素晴らしさ。
ジークフリートがすっかり板についてきたフォークトは、声に力と輝きも増してきて、スタミナ配分も充分で、最初から最後まで変わらぬ輝かしさだった。
ブリュンヒルデのフォスター、もしかしたらブリュンヒルデとしてバイロイトはこれが最後かもしれないが、以前のカストルフのプロダクションのときと比べるとはるかに練れてきて、声のハリと言葉の明瞭さ、そして歌に乗せる音楽の意味合いなど、ほんと素晴らしいと思った。
 コニチュニーのウォータンにベテランの味わい、悲劇臭強いスパイアーズのジークムントはヴァルターを歌った同じ人とは思えないほどのなりきりぶり。
ジェニファー・ホロウェイのデビューがあり、素敵なジークリンデだった。
チュン・ファンのミーメの害達者ぶり、ラデッキーのグンターの存外なかっこよさ、見た目グラマーにされたグートルーネのシェラーは、来年のリエンツィにも登場で楽しみ。
ほかの歌手たちも高水準で、長く続いたプロダクションの最後らしい、充実ぶりだった。

初年度だけを映像や音源にするのでなく、2025年度を製品化して欲しいものであります。

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  「パルジファル」 パブロ・ヘラス=カサド指揮

こちらは3年目のプロダクションで、昨年は放送がなかったので、一昨年にも増してカサドのテンポが速くなり、凝縮もされて感じられた。
かつてのブーレーズもかくやと思わせるような、透明感と明るい輝きにあふれたラテン的な演奏で、一方で中身の濃さも。
自分的には、あっけなさも感じたのも事実で、こんな私が「パルジファル」という舞台神聖祭典劇の既成概念にとらわれていることの証なんだろう。
「神聖」という文言を排除してしまったジェイ・シャイブの演出は、初年度の映像を見る限り、私は好きではない。
レアアースの採掘と枯渇、グルネマンツの恋など、環境問題とともに盛り込み、さらには映像の多用と、一部の人しか享受できないARグラス鑑賞など、まことに面白くなく感じてる。
 だが歌手たちは、ここでも素晴らしく、ツェッペンフェルトの美声のグルネマンツは安心して身を委ねることができる。
体調不良の代役は、グロイスベルクで、こちらも好評だったようだ。
シャガーのタフなパルジファルは相変わらずで、いい意味で一本調子なところがこの役にぴったり。
クンドリーはグバノヴァで、美しい低音から叫びまで、彼女ならではの輝く美声を聴かせてくれた。
Wキャストでガランチャも半分受け持って、こちらも絶賛されていた様子。
あとはフォレのアンフォルタスの神々しさも特筆もの。
 合唱団が再編成され、指揮者も変わったが、かつての地鳴りするような腹に響く力強い合唱と比べると弱く感じたがいかに。
まあ、こんな演出なら多少薄い方がいいか・・・・
そして、1幕終了時にはすかさず拍手が、3幕も音が終わってすぐさま拍手が・・・

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  「ローエングリン」 クリスティアン・ティーレマン指揮

3年ぶりのローエングリンというよりも、3年ぶりにティーレマンは帰ってきた、ということで話題になった。
やっぱり、すごい、ティーレマンがいなくては、と多くの方が思い、私も放送で聴いててその段違いのすごさに感嘆したのです。
音の厚み、自然さを増したタメの絶妙さ、全体にみなぎる緊張感など、ガッティやカサドとはけた違い、というか目指す音楽が違う次元で凄いという認識を持った。
これも久々登場のベチャワのローエングリンは、予想外によくて、自分的に気になっていたクセのある甘い歌い口が影をひそめて高貴さと力感のある歌唱となっていたように思う。
しかし、その彼も体調を壊し降板し、フォークトが急場を救う。
シュトラウスやドニゼッティなど、広範なレパートリーを持つファン・デン・フィーファがついにエルザでバイロイトデビュー。
彼女ならではの真摯でひたむきな歌いぶりが聴いてとれた。
来年はジークリンデで再登場予定。
驚きは、これもデビューのフィンランド出身のリサ・ヴァレラのオルトルートの憎々しいほどの巧みな歌い口と力強さ。
この歌手は今後ますます活躍しそうで、来年はクンドリーが予定されている。
合唱に関してのドイツのリスナーレビューは手厳しいが、そんなに悪くないと思ったけど。

シャロンのこのブルーに染まった演出は、最初から好きじゃなかった。
ディズニーの世界かよ、電気技師のローエングリンかよ、電源喪失のあとはお決まりのグリーンで持続可能のエネルギーにしましょう・・
めんどくせーな、よけいなこと盛り込むんじゃねぇよ。
社会問題を持ち込むと、すぐにオワコンになるよ。
このシャロン氏は、2028年には、メットでリングを演出するらしい。

「トリスタンとイゾルデ」が聴けなかったのは残念だけど、ニールントのイゾルデが彼女ならではの細やかな歌で絶賛されている。
あの演出も、小道具が多すぎて、あと暗くてあまり好きじゃないけど。。。

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最後の思い出に、あのヘンテコ演出の極みのワンシーン。

往年のワーグナー好きが観たら、まさかこれがワルキューレ3幕と言われたら卒倒しますぜ。

顔整形中のキャバクラ衣装のワルキューレたち、ちゃんと8人いるけど、わけわからないスーツ姿の男はまさか戦士たち?
監視カメラもあるし、セレブ風のウォータン。
ネトフリでやっているようなアメリカンホームドラマを意識したものだろう。

ともかく、この「リング」で明らかだったのは、リングに必須のモティーフが、肝心の「指環」でさえも、剣、槍、黄金、兜…等々は一切出て来ないし、必須の炎は蝋燭のちょろ火だったりで、ともかくすべてを消し去ることで、演出家が思い込んだドラマに作り変えたことだろう。
彼の意図などもうどうでもいい。
前にも書いたが、ワーグナーが微に入り細に入りモザイクのように造り上げたライトモティーフが完全に無視されたことに怒りを感じる。

毎年の新演出で、こうした傾向は拍車がかかっていて、原作の本質までも捻じ曲げることが多くなっているし、役柄の存在の概念も書き換えることも増えた。
さらにそこに社会問題までも盛り込む。

もうこうしなくてはならないという強迫概念すら感じますよ。

そんななかで、来年2026年の新演出(?)に予定されている「ニーベルングの指環」は人工知能=AIを活用したパフォーマンスになるという。
演出家の名前はクレジットされていらず、かわりに、クリエーターというカテゴリーでの名前になっている。
150年間のワーグナー「受容史に焦点を当てたプロダクション」という風に紹介されている。
想像するにオラトリオ風なのか、AIの造り上げた映像や画像を前にそれと競演するかのようにして歌うのか?
そんなようなことはバイロイト劇場の紹介ページから想像できる。
150年間のバイロイトでの上演履歴をすべて読み込んだうえで、AIが考えるパフォーマンスとなるのか?

このリングを指揮するのはティーレマンで、フォークトがローゲ、ジークムント、ジークフリートの3役をすべて歌う。
フォレのウォータン。ニールントのブリュンヒルデという歌手たち。
記念の年に相応しく、ティーレマンの「第9」で開幕し、バイロイト初めての初期オペラで「リエンツィ」が画期的な上演となる。
指揮はシュトッツマンで、タイトルロールはシャガー。
リエンツィの次作「オランダ人」の再演は、リニフの指揮、グリコリアンが帰ってくる。
あとは、「パルジファル」というラインナップです。

なんだかんだ、観劇に行きもしないで文句ばっかり言いつつ、毎年心待ちにしているバイロイト。
ワーグナー好きのサガといえましょう。

人事的に変化もあり、1月からはベルリン・ドイツ・オペラからマティアス・レーデルというゼネラルマネージャーが就任し、カタリーナ・ワーグナーは芸術監督として2030年まで留任する。
こうして、ワーグナー家の血脈も人材不足ということはあるが、徐々に薄まっていくのも寂しいものではあります。

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2025年8月29日 (金)

ディーリアス 「アパラチア」 ヒコックス指揮

Benten

隣町にある湿生公園。

子供の時、ここは特別な場所として、よそ者が来るのを拒むような独特の雰囲気があり、どこか神聖な思いをいだいていた。

当時は、こんな風に整備されてなくて神社を囲む水辺は変わらないが、ただ緑と水だけの場所だったと記憶します。
春には桜が咲き、レンゲで色どりもよくなり、雲雀が高いところで囀る、まさに楽園でしたね。

私の思い出の心の心象風景のひとつです。

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  ディーリアス 「アパラチア」

   リチャード・ヒコックス指揮

             Br:ジョン・シャーリー=クヮーク

     ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団
     ロンドン交響合唱団

      (1980.4 @キングスウェイホール)

ディーリアス(1862~1934)
その活躍時期は、まさにマーラーと同時代で後期ロマン派。
イギリス音楽のくくりで、ビーチャムが擁護者としてその名を広めることに尽くしたので、イギリス人とも思われるが、両親はドイツ人。
生まれと育ちがイギリスなので、イギリスの自然や風土がまさににじみ出ている音楽が多いけれど、実際のディーリアスはコスモポリタンな存在の人だった。

ドイツやフランス、北欧をまわって音楽仲間と交流し、奔放な生活を過ごす前、自分の跡を継がせたかった父は、息子にアメリカに向かわせプランテーション経営を学ばせることとなる。
その新天地アメリカでディーリスは逆に自由を謳歌し、そしてアメリカの風物や新しい音楽も吸収してゆく。
1884年、ディーリアス22歳のとき。
フロリダ州のオーランドの北部あたり、地図を見たらオレンジ・シティという名の街もあり、ディーリアスのおた往時が偲ばれます。
セントジョンズ川という大きな河川があり、そこを見下ろせる場所だったらしい。
フロリダで想像できるように、原生林や熱帯林、そこにたゆたう河にはきっとワニなんかもいたであろうし、まだまだ開拓前のワイルドさだった。
肝心のプランテーション経営には興味を示さず、フロリダの異世界のような自然に魅せられ巡り歩いたらしい。
当時は、まだまだ奴隷制度の名残もあり、黒人社会だったなかに白人はごく少数で、ディーリアスも黒人の使用人とともに生活をしたようだ。
その彼がバンジョー片手に歌う歌の数々は、ディーリアスの脳裏にしみついたのでした。
わずかに2年ほどのアメリカ生活を切り上げ、ニューヨークから故郷に帰還。
そのあとは、もう音楽家への道まっしぐらで、ライプチヒに向かってしまうディーリアス。

アメリカ体験から10年以上を経過し、忘れられないアメリカで聴いた黒人たちの歌をもとに、オーケストラのための変奏曲を書くことを思い立った。
構想の実現には苦戦をし、その間にオペラや多くの我々の知るディーリアスの作品の数々が作曲され、1902年についにこの作品を完成。
自分が見てきたアメリカの湿地帯や熱帯林の印象、かつての奴隷たちの歌、そうしたものを、黒人民謡を主題とした合唱つきの変奏曲としたのがこの作品。
フロリダとアパラチアとは、まったく関連性なく思えますが、原住民インディアンの言語でいくとアメリカ大陸全体を意味するのが「アパラチア」ということになるらしい。

以下は過去の記事を再掲します。

38分あまりの大作、ディーリアスらしい詩的な雰囲気と、懐かしい過去への思いに満ちていて、どこかで聴いたような、どこかで見たような音の光景がここにある。
序奏と14の変奏、そしてフィナーレからなっているが、要所で合唱が、そして最後のフィナーレの盛り上がりでは、バリトン独唱と合唱が相和して歌う。
その基本旋律が「Oh honny, I'm going down the river in the moning」というかつて聴き、忘れがたかった黒人の歌。

序奏が印象派風ですばらしい。
朝もやのなかに、アメリカの川辺の湿原が浮かび上がってくるかのような雰囲気が醸し出される。
やがて、この曲のモットーである基本旋律が、コールアングレで歌われると、もう聴く者を望郷への世界へと誘ってくれる懐かしサウンドだ。
この旋律さえ気にいって覚えておけば、全曲が楽しく聴くことができる。
いろいろ姿を変えつつ展開され、それぞれに味わいがあるが、最後のクロージング場面が感動的。

あの旋律を木管が歌い、バリトン独唱が「Oh Honny・・・」歌い出すと合唱がすてきな合いの手を入れる。
快活な朝、そしていましもやってくる夜明けをのときを歌い、おおいなるクライマックスとなる。
このクライマックスに対し、オーケストラは、静かに、静かになってゆき、音を失ってゆくにして消えるようにして終わってゆく。

アメリカという国、白人の植民地支配から生まれた国。
そこにはインディアンもいたし、望郷の思いを寄せる遠い故郷を持った黒人もいた。
いまの病める世界の覇権国、巨大な異民族国家となったアメリカと、100年以上前のディーリアスの見たアメリカ。
黒人たちの哀しくも愛にあふれた歌、水辺の大自然・・・・
ディーリアスの描いたアメリカは、美しくも切ない。

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(Thomas Moranというイギリス生まれのアメリカの画家の書いたセントジョンズ川
 年代的にディーリアスのいた頃とかぶるので、きっとこんな景色を見ていたんだ)

バルビローリとA・デイヴィス、リチャード・ヒコックスの3種の音源を聴いてますが、今回は、息子アダムの指揮に接したばかりなので、父親ヒコックスの指揮で聴きました。
ジャケットは拾い物を拝借しましたが、「海流」とカップリングされているので、そのイメージが先行してますが、アーゴレーベルの洒落たデザインです。
オーケストラが、ビーチャムがディーリアスを多く指揮したロイヤル・フィル、合唱はヒコックスが育てたLSOの合唱団ということで、実に味わい深い組み合わせであり、演奏もまた滋味あふれるものです。

いつしか息子氏も、こんな風にディーリアスを指揮してくれる日が来ますように。

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80年代はじめにEMIから発売されたディーリアスの一大アンソロジーのレコード。

バルビローリのアパラチアのジャケットです。

このシリーズはターナーの幻想的で茫洋な世界がすべてに使われ、いま思うとレコードはほんとに芸術品のようでした。

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2025年8月25日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 ヒコックス指揮

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盛夏も終盤、サントリーホールのお花も秋めいた色合いになりました。

でもしかし、連日の猛暑はこの日も容赦なく、木陰を選びながらゆっくりとホールにアプローチしました。

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         東京交響楽団 第733回 定期演奏会

 リャードフ 交響詩「魔法にかけられた湖」op.62

 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 op.18

 チャイコフスキー 「四季」~10月『秋の歌』

      Pf:谷 昴登

 ショスタコーヴィチ 交響曲第10番 ホ短調 op.93

           アダム・ヒコックス指揮 東京交響楽団

                      コンサートマスター:小林 壱成

       (2025.8.23 @サントリーホール)

真夏のロシアプログラム。
指揮するは、イギリス生まれの新鋭。
1996年生れ、2019年指揮デビューのアダム・ヒコックス。
幣ブログには、「ヒコックス」のタグがすでにありまして、そう、イギリス音楽と合唱音楽の伝道師の故リチャード・ヒコックスの息子がアダムです。
英国音楽好きのワタクシですから、父ヒコックスはかなり多く聴いてきましたし、未知のイギリス作品もヒコックスのおかげで開拓できたり、好きになったりしたものです。
父は1948年生れで2008年に60歳という早すぎる痛恨の死を迎えてしまったわけですが、アダムは父が48歳のときに生まれ、12歳のときにその父を亡くしてしまってます。
だから、父親の音楽に接したのはあまり長い期間ではないはずですが、逆に父からするとその年齢での息子は、ほんとうに可愛かったでしょう。

息子アダムがいて指揮者になったのを知ったのはほんの3年前。
日本からでもまだ自由に聴けたBBC Radioにて、彼の名前を見つけたのです。
アルスター管を指揮してのシベリウス5番でしたね。

そしてまさかこんなに早く、彼の指揮姿に接することができるなんて。
ノット監督の人脈や東響さんの目利きのよさに感謝です。
1999年に父リチャードと新日フィルの演奏を聴いてまして、これは何度か記事にしてますが、同時にプレヴィンもN響にやってきて。まったく同じ曲目をやりました。
私は、ヒコックスはブリテン「春の交響曲」を、プレヴィンはRVWの5番を選択しましたが、いま思えばすべてを聴くんだった。

けっこうダイナミックな指揮をするな、と思った父親の方の指揮姿。
そして、颯爽と登場したスラっとスリムな息子アダム。
ときおり見せる横顔は、26年前の父リチャードにそっくりでした。
風貌は、これもまた2世指揮者のマリス・ヤンソンスの若い頃にも似てます。
指揮は、同世代の若い指揮者がダイナミックに動きまわるのに比し、かなり抑制的で動きは少なめ、しっかり拍子をとり、長い左手の表現力も豊かで、表情も印象的で、総じて根っからの指揮者だな、と思わせるナイスなものでした。

1曲目に珍しいリャードフの作品を持ってくるあたり、なかなかの選曲です。
かつてコンドラシンがN響に来た時に指揮した曲で、いまでもそのエアチェック音源は聴いてまして、ロシアの後期ロマン派風の幻想味ゆたかな静かな音楽。
ディーリアスやアイアランドを思わせるような詩的な素敵な作品を丁寧に美しく演奏したアダム&東響、暑くてほてった身体がクールダウンした心境でした。

その名も初の谷 昴登クンの鉄壁のラフマニノフには驚きました。
これもまたヒコックスの指揮と同じく、若さにまかせた演奏ではなく、音楽に共感しつつ、一音一音丁寧に弾くスタイルと思いました。
それが抜群の技巧の裏打ちされたうえで弾かれるラフマニノフの歌と抒情。
だからとりわけ第2楽章の静かな中に秘めた感情が徐々に高まっていくのが奏者・指揮者ともに素晴らしく、耳にタコ状態のラフ2だけれども、心から感動した。
3楽章でのスリムな若いふたりのスマートな演奏が、これも見事な高まりをみせて圧巻のピアノとオケの大トウッティ、とくにオーケストラの皆さんは身体を揺らしつつ感じ入りつつの演奏で、聴くこちらも大感動。
久しぶりに若くてフレッシュなラフマニノフを聴かせていただきました。
アンコールのチャイコフスキーが、ラフマニノフの先取りのような抒情的な作品で、とても洗練されたアンコールを選んだものだと感心。
ホールを静寂につつみこんで、ピアノの一音一音が愛おしくも感じる、そんな素敵な演奏でした。

1953年のショスタコーヴィチ10番は、ソ連当時大いなるイデオロギー論争となったという作品ではあるが、いまはそんなことはまったく関係なく、ショスタコーヴィチの人気曲のひとつとして世界中で演奏されている。
1954年に、この曲を日本初演した東京交響楽団を29歳の若いイギリス人が指揮をする。
これぞまさに、時代の流れと、この曲およびショスタコーヴィチの受容の歴史を感じさせます。

腕の長いヒコックスの指揮は明快で、素人目で見ていても拍子もわかりやすく、動作の若さと説得力があり、気持ちのいい指揮ぶりです。
曲の半分近くを占める長大な1楽章は最初から最後まで、ヒリヒリした緊張感が途切れず、何度か訪れるクライマックスへの持って行き方も落ち着いていて堂々たるものだ。
またDSCHの様々な萌芽も、よく聴きとれる明快さもあり。
精緻なアンサンブルを誇る東響の実力も、この楽章では存分に発揮され、また木管群のそれぞれのソロも最高でした。
 煽ることなく、せかされることもなく、着々と進行させた2楽章は、とても音楽的でオーケストラの動きがこんなによく聴こえたのも驚き。
かつて聴いたことのあるゲルギエフとマリンスキーの演奏は、快速特急でなにも引っ掛かりのない演奏だった。
 この曲で一番不可思議さただよう3楽章だが、ホルンソロのつややかな素晴らしさに感銘。
この楽章に様々な意味合いを見出し、解釈するなどということはせず、若いヒコックスは、楽譜の面白さをそのままに素直に音にしてしまった感があり、優秀なオーケストラあってのものだろう。
ここでも猛然とクライマックスに突き進むヶ所があるが、ヒコックスは落ち着き払ったもので、何度も登場するエルミーラのモティーフの強弱、遠近の付け方、聴こえ方も秀逸でありました。
 物悲しい4楽章の出だし、きっかけを求めて、まるで何かを模索しつつ進むところ、いろんな楽器のつぶやきがそれぞれに面白い。
素っ頓狂なクラリネットから急速展開するところは、オケもうまいし、アダム君のノリの良さも抜群でリズム感も素晴らしい。
ショスタコーヴィチのピッコロの使い方は、どの曲でもほんとうまいね、とか思いつつ、もうこちらも興奮収まり切れず、どきどきワクワクがとまらん。
こうしてDSCH高鳴る圧巻のエンディングへと突き進むのですが、ほんとにちょっと欲をいえば、もっとはじけてもよかったかも。
でもインテンポぎみに着実なラストを築き上げたヒコックスの実力は並々ならないと感じましたね。
楽譜に忠実に、ある程度の客観性も備えた演奏だったかと思います。

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ホールは大喝采でブラボーも多数飛んでましたし、気が付いたら、わたくしも参加してましたよ。

ちなみにジョナサン・ノットと東響の同じ10番を改めて聴いてみましたが、やはりノットは凄かった。
スピード感、音楽の流れの自在さと迫力、緊迫感など・・・

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父リチャードの数々の音盤を愛する私に、またひとつ楽しみができました。
手持ちの放送音源には、ウォルトンのペルシャザールがあり、合唱の扱いや自国物へのリスペクトなど、父親譲りのものがあります。
オペラにも積極的で、ドニゼッティやヴェルディ、プッチーニをとり上げているほか、ヴァインベルクの作品まで指揮するなど、本格派です。
まだまだ若いアダム・ヒコックス、無理せず着実に伸びていって欲しいと思いますね。

ポストとしては、グラインドボーン・シンフォニアの首席のほか、ノルウェーのトロンハイム響の指揮者にこの9月から就任します。
グラインドボーンは夏の音楽祭はティチアーティが音楽監督でロンドンフィルがレジデンツオケになりますが、秋のシーズンでもオペラ上演があり、そこでのオーケストラの指揮者ということになります。
さらにオペラのオケでもあるトロンハイムは、腕を磨くのに申し分のないオケでしょう。

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鳴りやまぬ拍手に応えてひとり登場のヒコックス。
こうしてみると、ほんとに若くてあどけなさも感じます。
同じ2世指揮者、ヴィオッティが音楽監督となる東響の常連指揮者になって欲しい。
そして父譲りの英国音楽などをじっくり聴かせて欲しい。

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2025年8月16日 (土)

フォーレ レクイエム マリナー指揮

Glass

戦後80年の終戦の日でした。

毎年この日は不戦の誓いを国をあげて行い、テレビやマスコミも反戦を主体にした番組や特集が組まれます。

日本は敗戦国であり、つねに反省を求められ、それは80年間変わらずにいまに至っている。

しかし、戦勝国側はどうだろう、勝ったという結果だけで彼らは正しいとされ、彼らによって奪われた無辜の民のことは一向だにされない。

私は終戦の日を迎えても、どこか虚しさを歳とともに感じてしまうのです。

写真は、もうなんども出してますが、いま住む町に東京から疎開してきた少女の像です。
先に疎開していた彼女、東京では空襲があり、父親以外、みんな亡くなったしまう。
彼女の元にひとりやってきた父親と数日を過ごしたものの、駅舎をアメリカ軍機の機銃掃射で無差別攻撃され、父親は即死。
ひとりきりになった彼女が、父の形見のガラス製のうさぎや、周りの人々に勇気づけられ強く生きてゆく。

80年も経過し、戦争すら知らない、どこと戦ったかも知らない若者たちが増え、もうそんな日本なのだから、いつまでも反省ばかりを口にする日本人でなく、多くの罪のない日本人が亡くなったことと、その彼らへの追悼の思い、日本のために戦った人々への感謝、それらだけを表明するだけでいいのではないかと思う。

怒りや自己批判はもういい、優しさと思いやりこそ、日本人の強みではないかと。

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    フォーレ レクイエム op.48

      S:シルヴィア・マクネア

      Br:トーマス・アレン

    サー・ネヴィル・マリナー指揮

 アカデミー・オブ・セント・マーテイン・イン・ザ・フィールズ
                  同  合唱団

    (1993.1 @St.ジョンズ、スミス・スクエア、ロンドン)

癒しのレクイエム、フォーレを聴く。

いつもの夏のとおりに、戦争レクイエムと併せてヴェルディを聴こうかとも思ったが、静かに慎ましく過ごしたくて。

ひと月前に、ノットの指揮による戦争レクイエムを聴いたばかりで、それは淡々としたなかに、戦争のむごさよりは、許し合い、手を取り合い祈ることを感じさせる演奏なのであった。

久しぶりにかの名盤、クリュイタンスとパリ音楽院にしようと聴いた。
その名に恥じない名演で録音も色あせてはないが、歌手のこともあり、ロマンティックに過ぎるかな・・・
あと、ルチア・ポップの歌声が聴きたくて、コリン・デイヴィスとドレスデンのものも聴いた。
しかしポップ以外が重すぎ、サイモン・エステスなんてオランダ人みたいで、辛くなった。
ということで、これもまた久しぶりに聴くこととなったマリナー卿のそれこそ慎ましい演奏をとり上げることとした。

ついでに申せば、フォーレのレクイエムといえば、わたしにはコルボとベルン響、ヘルヴェッヘ、A・デイヴィス、ヒコックス、フルネ、そしてこのマリナーであります。
このマリナー盤のよいところは、その演奏に加え、カップリングに妙があるところ。
レクイエムのあとに同じフォーレのパヴァーヌ、ケックランのフォーレの名によるコラール、フローラン・シュミットのスケルツォ(フォーレの思い出に)、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌと続きます。

美しく清廉・無垢な音楽、フォーレのレクイエムほどあらゆるクラシック音楽のなかで、そのように感じられるものも少ないだろう。
宗教音楽という枠組みを超えて、天国的な音楽であることは、人種・宗教関係なく、あらゆる人間の心を動かくものだろう。
先に触れたとおり、ロマンティックにも演奏できるし、極めて宗教的に静謐な音楽にもできる、はたまたドラマテックな味わいで装うこともできるだろう。

マリナーの演奏は、そのどれでもなく、いつものマリナー卿のように、さりげなく淡々としたものです。
この淡泊さがよいし、作品によっては踏む込みが足りないとする演奏もあるかもしれない。
そんなマリナーらしい、いかにもマリナーなフォーレのレクイエム。
編成も少なめ、ニュートラルな蒸留水のようなすっきりしたアカデミーのオケとコーラス。
モーツァルト歌いのリリカルなマクネアーのピュアなピエ・イエズ、ていねいで気持ちのこもったその歌声は心を打つ。
すっかりおなじみのアレン卿のバリトンは、歌い過ぎず抑制された声が禁欲的でもあり極めて好ましかった。

パヴァーヌからフランス音楽のフォーレの後継をたどる選曲もとてもよく、心安らぎ、優しい気持ちになれます。
最後に、褒めついでに、いつものように当時のフィリップスの録音も素晴らしいです。

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古今にレクイエムは数多くあり、ルネサンス、バロック期のものは静かなものが多く、癒し系としてはカンプラのものが大好きです。
古典からロマン派となると楽器の進歩も加わり、レクイエムにも劇性が加わるようになる。
そんななかで、ブラームスは独自の存在のレクイエム。
そして癒し系統のフォーレとなりますが、近現代になるとデュリュフレやロパルツがそこに連なります。
日本の作曲家にも多くのレクイエムやそれに準ずる作品がありますが、日本の作品は先の大戦や度重なる自然災害などの死者への追悼という意味あいのものが多いです。
宗教性は薄く、われわれ日本人にはより切実なレクイエムとなっている作品ばかり。

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2025年8月10日 (日)

サマーミューザ 神奈川フィル 「トゥーランガリラ」 沼尻竜典 指揮

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ちょっと加工してみました。
帯とイラストは張り付け加工です。
ミューザで撮影したものを使用してます。
初日だったので、出演者のサインはノットさんだけ。

サマーミューザもほぼ終盤、神奈川フィルの「トゥーランガリラ」を聴いてきました。

平日の19時開演なので、その時間のミューザはずいぶんと久しぶり

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  メシアン トゥーランガリラ交響曲

    沼尻竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        ピアノ:北村 朋幹

        オンド・マルトノ:原田 節

        コンサートマスター:石田 泰尚

      (2025.8.8  @ミューザ川崎シンフォニー)

今年のサマーミューザのプラグラムのなかでも、もっとも巨大な作品。
果敢にも愛するオーケストラ、神奈川フィルがとり上げました。

1948年完成のこの大曲は、小澤さんや若杉さんといったメシアンを得意とした先達のおかげもあり、日本人にはなじみのある作品だと思うし、日本人好みの音楽だとも思います。
かく言うワタクシは、じつは98年のデュトワ&N響以来の27年ぶりの実演。
その後のプレヴィンは、震災の年だったので不芳な日々で断念しており、極めて残念でした。
前々から神奈川フィル向きの作品だと思っていて、ついに願望がかなった、その神奈川フィルでも初のトゥーランガリラではなかったでしょうか。
この曲をレパートリーにする音楽監督の沼尻さんあっての今回の演奏会。

全10楽章、75分間、ほぼ埋まったミューザの聴衆はまさにまんじりともせず、この膨大な編成のトゥーランガリラに集中し、聴き入ったのでございます。

いつも思う、いきなり思い切り始まる1楽章。
ここで金管、打楽器、オンド・マルトノが鮮やかに決まり、はやくも気分があがった!
ピアノの北村氏とリズミカルなオケとの掛け合いも見事だし、いろんなことが同時進行する、ここを聴いてアイヴズを思ったりもした。

開放的な愛の歌その1、P席だったのでオンド・マルトノの音はやや聴こえずらいが、暗譜の原田さんはさすがの余裕。
弦の刻みも石田組長のアクティブなリードで楽しく、沼尻さんのダンシングもなかなかだ。

クラリネット、やや緊張が、、でもすぐにいつものクールな斎藤さんに戻り、米長さんのコントラバスも静寂ななかに腹に沁みる

ユーモアなタッチのピッコロとウッドブロック、ピアノもベースも加わり、さらに指揮姿も楽しい愛の歌その2。
繰り返されるオンド・マルトノをともなった愛の主題が、まさに神奈フィルらしい繊細さと美音も兼ね備えた素敵さ。

そして来ましたよ、思わず踊りだしたくなるような星々の喜び。
いろんな楽器がいろんなことするので見ていて忙しいし、なんたってここでも沼尻さんの指揮もダンスのようだったし、石田コンマスのむちゃくちゃ弾きまくり姿も目が離せないし、北村ピアノもすげえぇもんだ。
そして眩しい終結部。

トゥーランガリラで一番好きな緩徐楽章的な愛の眠りの園。
真夏のクールなひととき、永遠に続いて欲しい静的な、そこはかとない愛の鳥のさえずり。
静かな場面でこそミューザの音響の良さも堪能できるというもの。
音はブルーだった。

短い楽章だけれど、ピアノに始まり、打楽器、チェロとフルートソロ、とりとめなさもある音楽だけれど、そこに色彩も感じさせる演奏。

オンド・マルトノがいちばんよく聴こえた楽章。
ピアノの超絶ぶりもすごいが、いろんな主題が錯綜し、繰り返されつつ、トゥッティで愛の主題がちらちらと登場しつつ、ついに全貌をあらわすところが快感だった。
波状攻撃のように、次々とクライマックスがやってくるが、オーケストラはほんとに大変だなと思ったし、指揮者の役割として、それを束ね、ソロも含めて全員を息が途切れないように導いていくところなども感嘆し、正面から見ていてその巧みな指揮ぶりがよくわかった。

くにゃくにゃとした掴みどころのないトゥーランガリラその3だけど、なんか聴いてて日本の舞踊のようにも思った、かわいいな。

みんな大好き、盛り上がる終楽章。
こうなるともうワクワク感が止まらず、目線もあちこちきょろきょろと忙しくて、お馴染みのメンバーさんがどんな風に弾いてるかなども見つつ、分厚かった指揮台のスコアがあと数ページの分量に減っていくのもみつつ、あ~もっと続けと思ったりもした。
そしてついに「愛の主題」が全力で高らかに響き渡る。
もうね、こりゃたまらん、ゾクゾクっとしましたよ!
メシアンの音楽は快感。快楽、神妙さ、そんな感覚を呼び覚ましてくれるんだ。
実演で聴くとほんとにそう確信できる。
すんばらしい演奏だった!!

欲をいえば、ミューザの民よ、とくに上の方、拍手早すぎたよ。
沼尻さん、まだ手を降ろしてなかったし。

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若さみなぎる北村さんの精度の高いピアノ。
メシアンのほかのピアノ作品も聴いてみたいし、リストとノーノを組み合わせたCDなんかも出てるみたいだ。
かつてのベロフや、ルドルフ・カーロスのような存在といっていいかも。
その名も知らなかった自分を恥じる思いです。

オンド・マルトノの世界的な権威者、原田さんあって、トゥーランガリラが成り立つといってもいいかもしれない。
大河ドラマ「伊達政宗」のいまでも耳に残る主題曲でオンド・マルトノを弾いていたのも原田さん。
時空を超越してしまうかの感覚を呼び覚ます、不思議な楽器をかくも音楽的に操る名手。
この先もトゥーランガリラに欠かせない方ですね。

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リズム感と歌心を充分に意識して堪能させてくれた沼尻さんの指揮。
オーケストラとの親密度も高く、楽章間での呼吸の取り方や、奏者たちへ思いやりあふれる様子など、神奈フィルといまとてもいい関係にあると確信。

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石田コンマスが君臨するときの神奈川フィルの覇気に満ちたサウンドと、持ち前の美音が、これほどまでにメシアンの音楽を彩り豊かに聴かせるのだと強く思った。
旧知のメンバーさんも多くいらっしゃいますが、若い奏者もとても増えて、美しい音も持続しつつ、つねにフレッシュ感あふれる神奈川フィル。
 こんかいの演奏が1回限りなんてもったいない。
みなとみらいホールでも聴いてみたいと思いましたね。

暑い夏と、閉塞感あふれるいまの世情や政治をひととき、ふっ飛ばしてくれた快演でした、ありがとう!

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2025年8月 6日 (水)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ガッティ指揮 バイロイト2026

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今年もバイロイト音楽祭が始まりました。

7月24日~8月26日まで、新演出の「マイスタージンガー」、「指環」、「パルジファル」、「トリスタンとイゾルデ」、「ローエングリン」の演目。

日本と同様に猛暑のヨーロッパですが、音楽祭が始まると気温が低下、冷夏のバイエルン地方になっているようで、野外コンサートが楽器への影響などから中止になったりしてます。

バイエルン放送から例年通りライブ配信され、その演奏はさっそくに聴くことができたし、映像作品もすぐさまにDGから公開。

ネット社会の進化は、こういう場面では大いに結構、大いに享受させていただいてます。

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 ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

    ザックス:ゲオルク・ツェッペンフェルト         
    ポーグナー:パク・ジョンミン

    フォゲルゲザンク:マルティン・コッホ 
    ナハティガル:ヴェルナー・ファン・メッフェレン

    ベックメッサー:ミヒャエル・ナジ
    コートナー:ヨルダン・シャハナン
 
    ツォルン:ダニエル・イェンツ  
    アイスリンガー:マシュー・ニューリン

    モーザー:ギデオン・ポッペ
    オルテル:アレクサンダー・グラッサウアー

    シュヴァルツ:ティル・ファヴェイツ
    フォルツ:パトリック・ツィールケ
    ヴァルター:マイケル・スパイアーズ  
    ダーヴィット:マティアス・スタイアー

    エヴァ:クリスティーナ・ニルソン   
     マグダレーネ:クリスタ・マイヤー

     夜警:トビアス・ケーラー

   ダニエレ・ガッティ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
               バイロイト祝祭合唱団
                   
                     合唱指揮:
トーマス・アイトラー・デ・リント

        演出:マティアス・ダーヴィッツ

        (2025.7.25 @バイロイト祝祭劇場)

まずもって面白かった演出、それは舞台装置、衣装、照明など一貫して言えたことだ。
ドイツの一劇場と同じ存在と化してしまった昨今のバイロイトという存在。
場合によっては陳腐と評したくなる舞台のいくつか。
安全運転かもしれないけれど、行きすぎた解釈や原作を踏みにじるような読み替えなどがほとんどなかった点で、ここ数年では保守的な聴衆にも安心できる上演ではなかったろうか。

ドイツ人の演出家ダーヴィッツは、音楽の造形も深く、自身も俳優を演じたほか、ミュージカルシーンなどでの活動が多かった。
フォルクスオーパーやリンツでの活動から、いまはリンツのミュージカル部門の監督を務め、オペラ演出の分野にも進出しつつある今、とのこと。
カタリーナ・ワーグナーからは、「作品(マイスタージンガー)の軽妙さを際立たせて欲しい」という依頼のもとに受諾。

時代設定は中世でもなく、ワーグナーの時代でもなく、まさに少しまえの現代。
同じ現代の設定でも、アメリカナイズしてしまったシュヴァルツの悪夢のリングと比べると、ずっと穏健で、そのリングでも際立ち、さらに昨今のオペラ演出で多用される登場人物たちの「スマホ」操作はいっさいなく、スマホ登場前の年代かもしれないが、そうしたナンセンスなところがないのがよかった。

カラフルで、中世の落ち着いた色合いからしたらキッチュすれすれ。
そんな明るく楽しい舞台のマイスタージンガーだった。

以下、ネタバレありますので、まだご覧になっていない方、きっとやるNHK放送を楽しみにされる方はスルー推奨。

1幕
・昨今の前奏曲や序曲から演技がはじまるのと異なり、今回は幕が閉じたままであのハ長の前奏曲が鳴り渡った。
開幕初日だったので、セレブたちの入場の見学や、場内誘導のゴタゴタから、生配信のため時間通りに始まった前奏曲に間に合わない人がいたらしく、暗闇で席を探す至難さに不平をこぼす聴衆もいたとか・・・

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・あまりにも急な階段が据えられていて、その上に教会。
・急階段注意!と書いた看板が立っていて、東京五輪で流行ったようなピクトグラムが描かれている。
・礼拝を終えたエヴァとマグダレーネは階段を降りてくる。ヴァルター紙ヒコーキをハートにしてる。
・階段が右に移動し開いていくとちょっとしたホールになる。
・よく観察するとバイロイト祝祭劇場かもしらん。
・ここでダーヴィッドは歌のルール説明をし、ヴァルターはお試し試験を受けることになる
・マイスターたちは、ヘンテコな帽子をかぶった結社のような存在(後述)
・試験に落ち、ふてくされたヴァルター、憮然とするザックスとほくそ笑むベックメッサー
 幕切れには階段の上にあった教会が火花とともに、ぶっ壊れる

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 今回の親方たち~海外メディアを参照してwikで調べた「シュララフィア」という男性のみの組織
1859年プラハで結成された芸術愛好家団体で、友愛とユーモアがモットー。
メンバーになるには、シュララフェ(名付け親)によって紹介され、一般投票が行われる前に試用期間を終え、従者からそして騎士(ナイト)へとキャリアを進めなくてはならない。
いまでもドイツを中心に世界のあちこちにある様子
協会のマスコットは、「ふくろう」
なるほど、そんなような騎士とフクロウのあいの子のような帽子だったわけだ。
メンバーには作曲家のレハールとか、ヘルデンテノール兼作曲家のブルーノ・ハイドリヒなどのほか、高名な芸術家多数
ハイドリヒの息子はラインハルト・トリスタン・ハイドリヒで、ナチスの高官、ゲシュタポ長官などを務めた人物
演出のダーヴィッツが、「シュララフィア」をよく調べてマイスターたちとリンクさせたのだろう。

2幕

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・ザックスの家、ポーグナー家がある街角で、黄色い電話ボックスの中は本などのアーカイブたっぷり
・街のつくりは洒落ていて雰囲気抜群
・標識もすてきだし、カラフルな樹木もよろしいのだ

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・ベックメッサーはロック歌手のいでたちで、グラサンかけてエレクトリック・リュートをかき鳴らす
・恋人たちの所作も楽しそうで笑いをこらえきれない
・ザックスは靴ばかりか、あらゆるものを叩いて論評
・家々に徐々に明かりがともり、パジャマ姿のおばさんや親方たち、市民たちがぞろぞろ。
・恋人マグダレーネにちょっかい出したと勘違いしたダーヴィッドはベックメッサーと取っ組み合いのけんか
・ダーヴィッド、ベックメッサー、ともにスタントが出てくるがやがて、本物とあわせ4人で特設リングで拳闘騒ぎ

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・夜警の登場で蜘蛛の子を散らすように人々が消え、負傷したベックメッサーは電話ボックスからよたよた出てくる
・家の間の路地を失念のうちに去るベックメッサーの姿が寂しい

3幕
・ザックスの仕事場、楕円の形状で靴型の山など数々の小道具がリアルで細かい
・母親と少女のセピアカラーの写真があり、ザックスはしばし眺めて嘆息

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・ザックスの神妙なるモノローグ、自分のなすべきことを悟り、はたと顔色がかわり仕草もアクティブに、やや軽い
・傷だらけのベックメッサーとザックスの会話も楽しい
・飽きさせやすい寝起きスッキリのヴァルターとの新曲の組成のシーン、ここでもザックスは軽快すぎる
・エヴァとザックスの仲良しシーンは和む
・ワーグナーの書いたもっとも美しい音楽のひとつ、5重唱は、楕円の仕事場でのシンメトリーが美しく、浮かび上がる効果がすばらしい

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・さあ始まったみんな大好き、まるでカーニヴァルのシーン
・チープな放射状のネオン、これ、某国の人がみたら発狂するんじゃね?

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・牛さんの巨大バルーン
・入場のセレブたちは、みんなニコイチで同じ人間の二人組
 バイロイトの常連メルケル、名前知らないけどスター歌手、われらがヤパンのカワイイ・コギャル、ぬいぐるみに愛を注ぐクイアー、わからんがレズっぽいカップル、各地から選ばれたミスコン美女

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・文句なしに楽しかったのが徒弟ダンスで、全員が等しくセレブもいろんな組み合わせで対を組んだりして、さながらtiktokの流行りのようにして踊る。このセンスのよさは抜群だった
・親方たちの入場は喝采だが、ベックメッサーだけはブーイングされちゃう
・エヴァちゃんは、花束のように花に埋もれて運ばれてくる
・いよいよの人気者ザックスの登場は・・・・まるで遅刻してきた落ちこぼれみたいに、小走りにおろおろと駆け込んでくる。
・ザックスを讃える人々もどこか他人行儀

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・干し草のステージに立つベックメッサー、エレキリュートをハート型のネオンで光らせ、聴衆からも笑いが起こる
・そんなにみすぼらしい結果にはならないベックメッサー
・ヴァルターの歌に、全員が聴き惚れるし、ザックスもめちゃ感心してる。感心しすぎで感情出し過ぎ、朝から夕べ、背景も夜になる

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・花から出てきたエヴァちゃんはカジュアルそのもののいでたち
・マイスターの印である首飾りを拒絶するヴァルターに、ザックスの最高の聴かせどころが続く
・歌に熱が入るザックス、人々はあまり聴いてない雰囲気で、ベックメッサーがちょろちょろと舞台前面に出てきて不自然に置いてあったコンセントプラグを引っこ抜いてしまう。
・すると頭上にあった巨大なウシさんがしぼんできて垂れ下がってきて、照明も暗くなっていく

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・熱唱するザックスをよそに、人々はこれが気になってしょうがない。
・最後のドイツの芸術!と揚々と歌いあげたザックスは、ようやく消失しつつある電源に気が付き、慌ててプラグをつなぎ合わせる
・そんななかで人々はドイツ芸術と、そしてザックスを讃え上げ、ザックスはヴァルターに首飾りを渡すものの、それをエヴァは奪い取る
・エヴァはザックスに掛けることなく、父親につき返す
・呆然とする父とザックスをよそ眼に若いふたりは、ひとびとの暖かい目線のなか手をふりながら去ってしまう
・合唱の間から寝起きの夜警が出てきて、うるさい歌声に耳をふさぐ
・舞台奥ではザックスとベックメッサーが何してくれんだよ、という感じでもめてる
・人々は聴衆に向かい、「さあこんな感じ」、はたまた「なんでやねん」と両手を広げて終了

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長々と書いてしまいましたが、この新プロダクションは聴衆からは一定の評価を得て、評論家先生からは批判を受けてるそうな。
聴衆の反応も幕が降りてもブラボーが優ってましたが、演出家ご一行が出てきたときは、いまやお決まりのようなブーイングが浴びせられた。
でも、ここ数年の、とくにあのシュヴァルツ君の「リング」のような凄まじいブーとは比較にならないくらいにおとなしい。

マイスタージンガーで避けては通れない「ドイツ至上」「ユダヤ問題」このふたつはあえて避けたかのような内容は、前回のバリー・コスキーが果敢に問題提起したのと大違い。
そのあたりの切り込みを期待した向きもあるかもしれないが、ユーモアや笑い、理想などにこだわったところが逆にまた新鮮だったと思う。
 でもここでは「ドイツ的」なるものを避け、みんな等しく芸術を堪能しようという意向も見て取れた。
親方たちを、実在の芸術愛好家組織のメンバーにしたこと、ザックスはそこではちょっと浮いた存在にしたこと。
さらにそのザックスがやたらと感情優先で動くところもまた、人格者というよりは、みんなとおんなじ、そんなザックスにしたかったんだろう。

ザックスを普通の人に仕立て、ベックメッサーも同格の立場に。
ベックメッサーは滑稽な存在が先立つのでなく、どこにでもいる、ちょっとズルい人間として、そしてみんなに仕返しをしちゃうような抜け目ない存在だった。
若いカップルのふたりは、こんな社会から飛び出したかったし、それを見送った市井の人々も多彩な立場の背景のある方々で、まさに多様性と共存をちゃっかりと入れ込んでいる演出。
ここはね、やっぱりそこかい、という思いだが、このあたりがEUのドイツという国なんだろう。

この色彩豊かな舞台は、わたしはほんとうに楽しめた。
サイケデリックな雰囲気は、外電にも書いてあったがモンティパイソンを思わせるものだったし、日本でいえば昭和臭ただようものだ。
マイスタージンガーを演出するさい、つきまとうナチスの影やドイツ至上主義とワーグナーという問題から、うまく距離をとり、巧みにみんな等しく平等という思惑を入れ込んだ、そんなマイスタージンガーだったと思います。

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バス歌手として、バイロイトでバスのすべての役柄を歌ってきたツェッペンフェルト。
バスバリトンの役柄であるザックスは、荷が重いと慎重だったそうだが、持ち前の美声と豊かな低音を背景にしたゆとりある歌唱は、思った以上に素晴らしく、オールマイティなバス歌手としての存在のありがたみを強く感じましたね。
演技の巧さと、持ち前の眼力の強さをともなう表情による演技も見事に決まっていて、普通の人ザックスを描いてやみませんでした。

あと素晴らしいのがヴァルターのスパイアーズで、バリトンからリリックテノールまでの広い音域をもち、ヘンデルやロッシーニも歌う、まさにバリテノールによるワーグナー歌唱は、ジークムントではほの暗さの悲劇臭を出し、ヴァルターでは軽やかなイタリアカラーの歌声でもって驚きの歌唱だった。

見た目も可愛いスゥエーデンのニルソンは、アイーダのようなドラマティコロールも歌うソプラノで、エヴァではよく声を抑制して、透明感ある声で素敵なものだった。
この先、エルザやジークリンデなども期待。

ユニークなベックメッサーを歌ったナジは、生真面目な雰囲気が気の毒なムードをかもし出すが、そのバリトンの声は立派でよく通り、この先、ウォータンでも行けちゃうと思わせるものだった。

それと絶賛に値するのがダーヴィッドのスタイアーで、歌に演技に水際立った軽やかさを表現。
ちょっと腹が出てるけど見た目と裏腹の軽快なテノール。
相方のお馴染みのクリスタ・マイヤーのマグダレーネは、安心の存在だが、見た目がやや・・・、ブーも浴びてた
ブーといえば、ポーグナーの韓国人バスのジョンミンも浴びていて、わたしも最初から最後まで美声は認めるものの言語不明瞭、スムースな耳あたりのいい歌唱に終始し、父親としての存在感は感じず深みも欲しい。

シャハナンのコートナーを始めとする親方たちご一行の充実ぶり、際立つキャラクターづくりでもって、安定感あるのもバイロイト。

予算削減で見直しのなされた合唱団は、新しい指導者にかわったものの、かわりなく揺るがぬ存在であり安心した。

さて最後はガッティの指揮だが、ヴィヴィットで弾むような音楽づくりの前任のジョルダンに比べ、イタリア人ながら重厚な音楽造りに根差したマイスタージンガーにしようとしたかのように感じた。
でも音は美しく磨かれ細部へのこだわりも感じられ、今後もっと演出に則した開放的なハ長の楽劇へと進化させてゆくことでしょう。

ともあれ、面白かった、楽しいマイスタージンガーでありました。

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ほかの演目は音で全部聴き始めました。
夏の終わりにまた勝手なる総括をしようとも思いますよ。

来年はバイロイト音楽祭始まって150年の記念の年。
「リエンツィ」が初めて上演されます。

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