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2025年11月

2025年11月24日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮 マーラー 第9

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18時開演の演奏会、家を出るときはまだ明るいけれど、17時前にはもう暗い。

街はイルミネーションが灯り、クリスマスシーズンの到来を告げてます。

そんななか、ジョナサン・ノット音楽監督最後の東響定期演奏会でした。

万感迫る思いをいだきつつホールの前に立つわたくし。

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   東京交響楽団 第736回 定期演奏会

       武満 徹  セレモニアル~秋の頌歌

       笙:宮田 まゆみ

  マーラー  交響曲第9番 ニ長調

    ジョナサン・ノット指揮  東京交響楽団

      コンサートマスター:小林 壱成

        (2025.11.22 @サントリーホール)

2014年4月、ジョナサン・ノットが東京交響楽団の音楽監督となったときの就任記念演奏会のプログラムが、今宵の2曲。
音楽監督の任期最後のシーズンの自身の最終定期演奏会のプログラムにも選ばれ、終わりは始まりともいえる見事な円環の完結をなす生涯忘れえぬほどの感銘をもたらす一夜となったのです。

武満作品のセレモニアルは、案外と多く聴いていて、98年と07年にプレヴィンとN響、そして06年にノットとバンベルク響で聴いている。
もちろん、それらのときもすべて宮田まゆみさんの笙でした。
バンベルクのときのプログラムは、セレモニアルに次いで「未完成」で遅めに30分かけた演奏。
後半はベートーヴェン7番で爆発的な演奏、ということで静と動を際立たせたプログラムであり演奏でったと記憶する(ブログあり)
アンコールがリゲティのルーマニア協奏曲という、これまたノットらしい刺激的なコンサートだった。

典礼楽とも呼ぶべき静謐な空間の支配する音楽、セレモニアル。
笙はオーケストラと並ばずに、P席の最上段で演奏し、左右・後方と三方にフルートとオーボエを対にしたペアを配置。
まさに、こだまのように音がどこからともなく響き合う様は空間の音楽でもあり、それはまさに日本のいま去り行く秋を思わせるもの。
宮田さんを聴く4度目、日本人だからわかるわれわれ体内にある音、それが10分間だけれども精妙極まりないノットと東響の響きとともに、とても心地よく聴いたのです。

休憩を入れずに、楽員の補充の間を置いて、ほどなくマーラー。

この日のために、「大地の歌」を何度も聴き、そのあと手持ちの「第9」も連日聴いてきた。
いままさに血肉と化したこの大作、いよいよ始まると思うと緊張でがんじがらめとなり、どこもかしこも聴き知ったように聴きつつも、最初から最後まで一音も逃すまいと体もこわばりカチンコチンだった。

ノットが事前に曲目解説を動画にて行っていて、そこで語っていた「あらゆる感情が表出、共有されています」。
まさにその言葉通り、この第9には、自身のこれまでの作品やほかの偉大な作品などからの引用もあったりで、それらがそうとわからなように、緻密なモザイクのように組み込まれ編まれているが、ノットの演奏はそれらを意識して聴くことで、それらがとても意味を持って奏されているように感じる。
実際に聴いたあとに、ネット配信されたミューザの演奏も何度も聴くことでそのように思うようになった。
ただ指揮者の思いや狙いがオーケストラにさらに如実に反映されるまで、あと何度かやったらと、。。願わぬ思いも抱いたりもしている。

 穏やかに始まる1楽章から美しさの極みだった。
ゆったりめのテンポで終始した1楽章は、その後のふたつの楽章との対比のうえでも効果的。
事前に何度も聴きまくっていたので、序奏から即刻うるうる、第2ヴァイオリンの第1主題でもはや涙ぐむという始末。
しかし、その後はもうそんな緩徐移入はなく、冷静にこの壮麗ともとれる1楽章を聴くことができた。
武満の世界から続く虚空感はここにも感じ、ウェーベルンの音楽も夢想することができた。
終楽章とともに、沈着に聴くことが望ましいと感じた次第だ。

レントラーの2楽章、ノット監督のリズム感の良さの光る演奏で揺れ動くグロテスク感も巧みに表出されていて、この奇矯なる舞踏の音楽をかくも面白く、そして眼前で展開する奏者と指揮姿の視覚的な要素も加わりともかく楽しんだ楽章。

快速で飛ばしまくった3楽章ロンド・ブルレスケの疾走感は、まさにノットならではで、東響もピタリと一糸乱れずについて行く。
飛ばしながらもあらゆるものがポンポン出てくるこの楽章をここまで明確に捉えることが出来たのも目視できるライブゆえかもしれないが、指揮者とオケの緊密さゆえだろう。
中間部のニ長調の抒情と平安のか所は、それはもう美しくも神々しく感じられたが、それは終末でないというこの演奏の在り方の先駆けだったのだろうか。
そんなこんなで熱狂と挑戦ともいえる楽章の終わりはアクセル全開、オケも聴衆も夢中だった。

ほんの少しの間で、サクっと始めたアダージョ4楽章。
ここへきて、もうダメだ、ヴァイオリンの主題が万感の調べを奏するとき涙腺が決壊しそうだった。
ここでもともかく美しく、音楽は慟哭することなく沈着に演奏することで、その持つ意味合いが自然と浮かび上がってくるという、そんな感じだった。
弦楽器主体に何度も繰り返される変奏曲的な仕組みが、その繰り返しとともに知らないうちに、さりげない別れへと誘われてゆく、そんな儚い旅路をこの楽章を通じて、そしてひるがえって1楽章の冒頭に遡るかのように始まりをも期待させるような演奏。
122小節目の弦による強く引き伸ばされるシーン、ノット監督のうなり声もマックスに。
その後の「控えめ・・・」という書き込みの通りに、そこから始まる静寂の描き方、会場も緊張が張り詰め、だれしも身じろぎできず固唾をのむ。
自分の育った家から見える夕焼けシーンと沈みゆく太陽のわずかな光、それが消えてゆく残像をいつも思いながら聴く。
そんな思いがピタリとあてはまる幽玄なるラストシーンだった。

指揮者も奏者もみんな止まった、聴衆も動けない、時間も停止したように感じられ、もうこのままでいいやとも思った。

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いくつかの瑕疵もあったものの、そんなことはもうどうでもいい。
東響のこの演奏にかける感情が随所に見て取れ、指揮者を見る眼差しの真剣さと刹那感も感じ取れた。
首席奏者たちのあまりに素晴らしいソロの数々は、ここではいちいち触れません。
まだ完成形でない、この先ももしかしたらもっと違う世界があるとも思わせる指揮者とオーケストラの関係。
それが別れの美しい姿ではないかとも思った。

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マーラーの第9への畏怖の思いを抱いて半世紀。
1970年のバーンスタインとニューヨークフィルの来日公演でこの作品が取り上げられ、真夏での真っ白いタキシード姿での演奏シーンをレコ芸で見てから、そして吉田秀和さんの論評を読んだ時からずっと気になっていた小学生の自分。
中学生になり、音のカタログで一部、念願の全曲を聴いたのがFM放送。
ずっと特別な作品であり続けた「マーラーの第9」。
いくつもの演奏会も経験したが、忘れえぬバーンスタインとイスラエルフィルの演奏から今年は40年。
その年に、モニュメンタルな感情も加味しても素晴らしい演奏に接することができた。

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ノットと東京交響楽団のコンビに感謝です。

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終演後の盛大なコールには、ありがとう!ノット監督の手ぬぐいを掲げた楽員のみなさんも登場し、会場全員でノット監督を讃えました!

ワタクシもてぬぐい購入しましたよ。

来年は都響に客演しケフェレックとの共演やブルックナーなどが予定されてます。

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2025年11月20日 (木)

マーラー 「大地の歌」 ヨッフム、オーマンディ

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急速に深まる秋は冬の気配にはやくも押されつつあります。

いつも行く秦野の丹沢方面も秋色に染まりました。

この前まで暑いと言ってたのに、この配色の景色に落ち着きと、寂しさも感じます。

「第9」の前に「大地の歌」を聴いておきたい。

それも60年代の渋いところで。

ジャケットはオリジナルを借り物しました。

  マーラー 交響曲「大地の歌」

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        A:ナン・メリマン
        T:エルンスト・ヘフリガー

 オイゲン・ヨッフム指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

        (1963 @コンセルトヘボウ)

ブルックナーの指揮者との認識の強いヨッフムの唯一のマーラー。
ハイティンクを補佐する感じでコンセルトヘボウをベイヌムのあと引き継いだヨッフム。
DGには当時珍しかったコンセルトヘボウの1963年の録音。
同時期にDGにブルックナーの録音を始め、ハイティンクのマーラーは1番のみがフィリップスに録音されたのみで、ハイティンクのマーラーシリーズは66年から本格始動していた、そんな時間軸です。
なぜに大地の歌だけしかやらなかったのか?なぜにフィリップスじゃなかったのか?
いまとなってはよくわかりませんが、ベームと同じくマーラーは声楽付き作品のみを指揮したところがマーラーをやらなかったヨッフムというところでしょうか。
しかし、マーラーオケでもあるコンセルトヘボウであることもあり、声に傾いた演奏ではなく、立派にマーラーの世紀末臭を漂わせた桂演となぅていて、寂寥感ただよう枯淡の演奏なのでありました。
ヘフリガーの声が立派だが、やや明るすぎて感じ浮いてしまうのは、この作品の難しいところだろう。
しかし、トスカニーニの元で多く歌った伝説級の歌手メリマンのやや古風ともとれる歌唱は、ヨッフムの描き出す侘び寂にも通じるモノトーンのマーラーにぴったりで、淡々としたなかに語り掛けるような歌は後ろ髪ひかれるような思いをいだきます。
60年代ならではのセピア調の演奏、加えてマーラーに同化しすぎない客観性を保った渋い演奏でありました。
しかしコンセルトヘボウならでは、時代性を感じさせる味のあるポルタメントなどが聴かれ、オーケストラに根付くマーラーの伝統を感じる。
バイエルン放送ともやったらどうだったろうか。
ちなみにクーベリックのDGのマーラーは1967年から録音が始まります。

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     A:リリ・チューカジアン
     T:リチャード・ルイス

  ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

      (1966.2.9 @タウンホール、フィラデルフィア)   

オーマンディもマーラーと、そしてブルックナーも密接な関係とは言えなかった指揮者かもしれない。
しかし、アメリカで活動をしたオーマンディは、復活交響曲においては演奏とレコーディングのパイオニア的存在でもあった。
なによりも新しいものを積極的に紹介しようとする意欲はオーマンディならでは、第1交響曲は「花の章」付きだったし、10番のクック完成版の初録音もオーマンディだった。
1,2,大地、10番の4作品のみがオーマンディの正規マーラー録音であります。
進取の気象に富んだオーマンディらしいところでありますね。
CD時代になって、CBS時代のものを中心にオーマンディとフィラデルフィアのイメージは、自分的に大きく変わった。
レコードで聴いていた頃は、いわゆる華麗なるフィラデルフィアサウンドといううたい文句が先行して、それが音のイメージとして半ば刷り込こまれ、そんな耳で聞いてたのでキンキンキラキラしてた印象を持っていた。
しかし、CD化されたいくつもの音源を聴いてみて、RCA音源とともに、かなりそのイメージを刷新させられた。
シベリウスやチャイコフスキー、ベートーヴェン、シュトラウス、ラフマニノフ、レスピーギまでもがそうだった。
それは曲のあるがまま、柔軟性に富んだ実直な演奏と感じ、録音もキンキンしたかつての雰囲気とは様変わりして落ち着いた響きに聴こえたのだ。
このマーラーもそう。
各楽器がよく聴こえ鮮明さが行き渡っているのは録音の思いもよらぬ素晴らしさばかりではあるまい。
定評あるヴァイオリンを主体とする弦の美しい鳴らせ方に加え、フィラデルフィアの優秀なブラスも突出せずバランスよく鳴り響く。
全体に思いのほか渋くまとまっていて、テンポ感は速めながら、そんな風には感じさせないし、むしろ淡々としすぎていて、もっと情念が欲しいとも思う。
でもこれがスコアどおりのお手本のような演奏なのだ。
当時、欧米で大活躍の2人の歌手も、歌い過ぎず抑制を保ちながらの歌唱で悪くない。
英国のルイスのテノールは、EMIを始めとするレーベルにかなりの録音があり、バルビローリのゲロンティアスの夢が最高に感動的だった人、
ヒロイックにならないところが好ましかった。
アルメニア系アメリカ人のチューカシアンは録音には恵まれていないが、重なる病魔を克服しながらメットで活躍した大歌手で、そのドラマテックで音域の幅広い豊かな声はなかなか魅力的で、現在の歌手たちの歌に慣れた我々の今の耳でも十分に新鮮だ。
言葉がやや不明瞭であったことは否めない。
でも終楽章での神々しさはオーケストラの絶美な背景を得て素晴らしくも味わい深い歌だった。
ただ、曲の終結はややあっけなく、余韻は少なめか・・・

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「告別」のewig ewig。
これが第9交響曲につながる。

ノット監督最後の東響定期演奏会、マーラーの第9を控え、私は来たりくる感動の涙に震えつつある。

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2025年11月 7日 (金)

ブログ20周年 ベートーヴェン ピアノ協奏曲 ポリーニ&アバド

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ある日の平塚の虹ケ浜海岸。

かつて市営プールがあったところが開発されて、ひらつかシーテラスという施設ができました。

この先の茅ヶ崎の道の駅が予想されたとおり渋滞で週末はたいへんなことになっていて、さらにこちらも・・・

なんかもう、人を寄せるこうしたものはいらないね、と思う。

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空が焼けるまえ、富士の上に虹らしきもの、調べたら「彩雲」というらしい。

ちょっとレアな感じでうれしくなりました。

そんなわけで、このブログが2025年11月で開設20年になるのです。

自分で驚いてます。

最初の記事は、2005年11月7日で、二期会の「さまよえるオランダ人」を観劇したものです。
引退してしまったエド・デ・ワールトが指揮をした上演でした。
以来、ずいぶんと記事を起こしたもので、多い時は毎日のように音楽を聴いては書いてました。
2016年にいろんなことが重なり、ブログの継続が怪しくなり、書く気も失せてしまったことがあり、休止期間がありました。
しばしのちに立ち直り、更新のペースを緩やかにして今に至っております。

思えば、この20年でネット環境が著しく向上し、その頃は有線でつながらなければならなかったものが、いまやWifiもあり、スマホもあり、どこにいても情報発信ができ、あらゆる情報を得ることができるようになりました。
加えて、数々のツールがあり、媒体も多岐にわたり、われわれは情報の洪水のなかにあり、自己責任でもってそれらを選択して取りにいくようなったのです。
こうしてわれわれは情報に追われるようになり、知らないと不安に陥るようになったのかもしれない。
ときおり思う、携帯とかパソコンなんかない時代は何してたんだろ?
こんな便利なもの、なくても幸せだったな・・・とね。

動画も文章も、短いものが好まれ、ともがくショート化され、どんどん消化される時代。
かくいう時代に一般的でない音楽ジャンルのブログで長文を残すという、時代に逆行した行為。
どこまでやれるかわからないが、老いて指が動かなくなるまで続けようじゃないか、と思ってる。
自分がいちばんの読者で、かつての自分の記事に感心したり、驚いたりもしてる。

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   ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲

     ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

     (1992.12 1~4番、1993.1 5番 @ベルリン・フィルハーモニー)

2014年1月にアバドが亡くなり、その10年後の2024年3月にポリーニが亡くなった。
ともにミラノ生まれ、年齢こそ9歳の差はあったが、ともに切ってもきれない朋友でした。
多くの共演歴があり、録音も多数。
73年のノーノに始まり、ブラームス、バルトーク、シューマン、シェーンベルク、ベートーヴェン、そして最後がブラームスの2曲。
もっと多くの作品で共演して欲しかったし、晩年のベームよりは、ポリーニがより強靭で明晰なピアノを聴かせていた70年代にはアバドとやって欲しかった・・・と思う。
あとできれば、プロコフィエフをこのコンビで、シカゴで録音して欲しかった。

92年の年末から翌1月にかけて、ポリーニをソリストにしたベートーヴェンのピアノ協奏曲チクルスが演奏され、それがライブ録音された。
このときの演奏記録をいつもお世話になってるアバド資料館で調べてみたところ、協奏曲は1曲ずつ演奏され、そこでほかに組み合わされた演目は、ルトスワフスキ、リゲティ、ノーノ、リームなどの作品で、いかにもアバドらしい一筋縄ではいかない角度をつけた演奏会になっていた。
新年の5番のみ、田園とのプログラム。

各曲の終わりには、盛大な拍手もそのまま収録されていて、ライブの雰囲気は抜群だし、音質もベルリンのフィルハーモニーザールの響きそのままで、録音も申し分なし。
ポリーニのうなり声も盛大に聴きとれます。
ふたつのジャケット、双方を購入したのですが、あとになってトリプルコンチェルトと組み合わされて出たので、そちらも入手した。

5曲ともに、このふたりの演奏家らしく、一点の曇りもなく、明晰・明快に尽きる演奏。
表情はいずれも若々しく、重厚感など感じさせず、ベルリンフィルの音色も明るく軽やか。
バックハウスとイッセルシュテット、グルダとシュタインなどで馴染んできたベートーヴェンの協奏曲が別物に感じるくらいに鮮明で、音がクリアなのだ。
今回、ほぼ20年ぶりに聴いてみてそのように感じた。
この時期のアバドのベートーヴェンは、エアチェックでもいくつか残しているが、ブライトコプフ版による従来スタイルで、90年代末期からベーレンライター版による演奏に交響曲では切替えました。
同時に古楽的な奏法も取り入れるようになり、ポリーニとのベートーヴェンもあと数年あとだったらまた違った内容になっていたかもしれません。

今回の連続視聴でとても気に入ったのが、1~3番で、4番は聴き慣れすぎの感もあったかもしれないが、前半3曲が、いかにもベートーヴェンの若さを感じさせる瑞々しさにあふれていたのです。
ベルリンフィルから軽やかな響きを引き出すアバドの若々しい感性に、ポリーニのアドリア海の煌めきのようなブルー系の透明感あるピアノが、若い1~3番にはぴったりだった。
ことに、いずれの番号の緩徐楽章のたおやかで抒情的な美しさ、清々しい歌、とんでもなく感動してしまった。
そして、1~5番までの緩徐楽章だけを連続聴きしてみた。
歳とともに、ベートーヴェンは器楽も室内楽も静かな楽章の方が、心にふれる音楽となってきた。
そんな自分にポリーニとアバドの明るめの演奏はとてもぴったりと来るものだった。
皇帝という名前らしくない5番は清々しく端正きわまりない演奏、4番は透明感あふれる神妙極まりないものだった。

丹精で美しい造形の彫刻を思わせるようなふたりの演奏。
まとまりが良すぎて、不満を持つ向きもあろうかと思いますが、この若々しく明るい演奏はいまの初老の自分にはありがたく、豊かな気持ちにさせてくれるもので、まだがんばるぞーと思わせてくれました。

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ブログ20周年でした。

いつまで継続できるかな、目指せ30年。

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2025年11月 3日 (月)

ドヴォルザーク 交響曲第7番

Togawa-01

赤に染まりつつあるコキア。

秦野市内を流れる水無川をたどって丹沢方面にあがったところにある戸川公園です。

近くに新東名高速道路が通り、開通のおりにはサービスエリアができそうです。

深まる秋の日々、連日にわたり、ドヴォルザークの交響曲第7番をばかみたいに聴いた。

  ドヴォルザーク 交響曲第7番 ニ短調 op.70

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秋から冬、しみじみドヴォルザークもいい。
数多い室内楽やヴァイオリンやピアノ作品、オペラもたくさんあるが、ルサルカ以外はあまり上演されない。
あとなんといっても交響曲作家でもあったが、それなのに後半の作品ばかりで1~4番はあまり演奏されない。
そんななかで、最近もっとも演奏頻度があがっている気がするのが「7番」なのであります。
新世界はいまだに新鮮だけど、8番は正直食傷気味なのであります。
あといえば、5,6番はいい曲だと思うのだけど演奏会でほぼなし。

7番は、当時の音楽楽壇の繫栄地ロンドン、そのフィルハーモニー協会から委嘱され、はりきって作曲された作品。
ブラームスの3番を聴いて、おおいに触発され、自信も付けながら完成。
ロンドンでの初演は1885年で大成功。
次の5年後の8番が、かつては「イギリス」と呼ばれたものの、そちらはイギリスで作曲されたわけでもなく、単に出版社がロンドンの社だったのでそのように呼ばれたから、音楽の内容と関係なく「イギリス」と名をつけてしまうなら「7番」のほうがそれに相応しいともいえるかも。
しかし、この7番はイギリスはおろか、ブラームスの亜流といったものを感じさせない音楽なところがよい。
ボヘミアの風土、音楽語法、民族臭などが強めだったこれまでの交響曲に比し、ドイツ的なかっちりした構成と豊かな表現力、オペラをいくつも手掛けてきて養われた劇的な音楽の進め方などが際立つ交響曲なのですね。
しっかりした交響曲でありながら、ドヴォルザークらしいボヘミアの風も感じさせるところが魅力的であります。


最初と最後の楽章が短調だが、それぞれの楽章の第2主題は、田園情緒感じる和みの旋律。
第2楽章が大好きです。
ブラームスの3番の2楽章とも似通っていて、抒情的で歌にあふれていてずっと聴いていたい音楽。

3楽章も、8番のスケルツォ楽章を思わせるメランコリックな雰囲気で、こちらは舞曲的な民族色が濃厚。
新世界→8番→7番の順に好きになっていったけれど、最初は3楽章が気にいったものだ。
いまはダントツで2楽章が好き。

①ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団
           (1960.3.18 @セヴァランスホール、クリーヴランド)
 初めて買ったレコードがセル盤で、この1枚がこの曲の刷り込み。
やや硬質な音で、きっちりした演奏でありながら詩情も忘れず、ゆたかな情感にあふれた名演だった。
CDで買い直したら音もよくなり、さらにいい演奏だと確信したし、終楽章も存外にダイナミックだった。

②ズビン・メータ指揮 イスラエル・フィルハーモニック
           (1968 @テルアビブ)

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 7番の交響曲を初めて聴いたのが、メータとイスラエルフィルのベルリンでのライブ放送で73年のものだったかと記憶。
FMで放送され録音したもので、これを繰り返し聴いてこの曲に馴染んだのちにセルのレコードを買った。
レコードの方は、71か72年にロンドンレコードから発売されたはずだが、CD化はずつとされず外盤で2000年頃に発売されたが、いまや廃盤の様子で、一昨年こちらはうまく入手ができた。
この時期のメータらしいメリハリの効いた、じつにウマい演奏で、旋律の歌わせ方や歯切れのいい金管の心地よい響かせ方、気持ちよく決まるティンパニなど、まさにやるじゃん、と思うナイスな演奏。
面白い演奏だが、憂愁や陰りなないし、ヨーロッパがない。

③ジョン・バルビローリ指揮 ハルレ管弦楽団
           (1957 @マンチェスター)

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 バルビローリのドヴォルザークは3曲の交響曲があるけれど、いずれも大好きですね
慈しむように曲を大事に愛するように指揮するサー・ジョン。
2楽章の滋味あふれる演奏はもう最高です。
まるでディーリアスみたいな音のするオーケストラとちょっとひなびた録音も懐かしい響きにあふれてる。
長く続いたマーク・エルダーに変わったいまのマーラーやショスタコを得意とする指揮者で、ハルレ管が遠くに行ってしまうようで寂しい・・・

④カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ロンドン・フィルハーモニック
           (1976   @アビーロードスタジオ、ロンドン)

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 ジュリーニがいちばんよかったのは、70~80年代前半ぐらいまでと思っているが、その一番の時期の録音がこちら。
DGに移籍する頃で、シカゴと当時ハイテインクのもとで絶好調期にあったロンドンフィル、ウィーン響と録音していたジュリーニ。
ウィーン響との来日でジュリーニファンになったのもこの時期で、誠実で集中力みなぎる指揮者と渋めのカラーのオーケストラで、セピア色のヨーロッパの景色を見るような演奏になっている。
ゆったりした2楽章は、まるでブルックナーの緩徐楽章かと思うくらい。
よく歌う演奏は存外にしなやかで、きっと聴くことのないであろうコンセルトヘボウとの後年の未聴の再録音より若々しいと思ってる。
シカゴとの8番と9番とでセットで素晴らしいジュリーニのドヴォルザークであります。

⑤コリン・デイヴィス指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
           (1975.11 @コンセルトヘボウ)

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 コンセルトヘボウとフィリップスということで思い起こすことのできる、そのイメージ通りの演奏に録音。
この時期のハイティンク、デイヴィスとのハイドンやストラヴィンスキーなど、ともかくコクのある豊かなオーケストラの音色がいずれもすばらしく、ブラームスの3番というイメージに一番近く感じる演奏だと思う。
それにしても、この頃のコンセルトヘボウというオーケストラと、その音を見事にとらえたフィリップスは何を聴いても素晴らしく、私のような思いはノスタルジーにすぎないと思われるかもしれないが、この音がもう失われてしまったと思うと悲しい。

⑥オトマール・スウィトナー指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
           (1981.2 @ベルリン)

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 スウィトナーがあれよあれよという間にドヴォルザークを全曲録音したのには、当時は驚きましたね。
奇をてらわない、ナチュラルな姿勢を貫いたいつものスウィトナーらしい柔和な音楽がここにあります。
ベルリンのオーケストラながら明るい色調があり、響きは軽めで自然児のようなドヴォルザークは魅力があります。
ドイツ統一後のバレンボイムやいまのティーレマンの方が、よっぽど重厚な音がするベルリンシュターツカペレは、オーストリアの指揮者スウィトナーでユニークなコンビだったといまは思います。

⑦ロリン・マゼール指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
           (1983.2 @ウィーン)

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 ウィーンと蜜月だった頃にマゼールはDGとソニーに多くの録音を残したが、そのなかの1枚が後期3曲の交響曲の録音。
案外とまとも、なんていったらおかしいが、変なことしてないストレートな演奏で、素直にウィーフィルの音、ムジークフェラインの音が楽しめる。
それ以上でも以下でもないと思うし、マゼールならもっと掘り下げてやらかして欲しかった。

⑧ネヴィル・マリナー指揮 ミネソタ管弦楽団
           (1983.3 @ミネアポリス)

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 以前書いたものを再掲「早めのテンポで、こだわりなく、すいすい進む。
ときに、ティンパニの強打を見せたり、終楽章でたたみ込むような迫力を見せたりと、思わぬメリハリを展開してみせる。
2楽章のブラームスがボヘミアにやってきたかのような、内声部のほのぼのとした豊かな歌が、マリナー特有のすっきり感でもって、とても爽やかに聴くことができます。」

⑨アンドレ・プレヴィン指揮  ロサンゼルス・フィルハーモニック
           (1988.5 @ロイスホール、UCLA)

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 ジャケットも美しく、ノスタルジックなプレヴィンのドヴォルザークシリーズ。
メータのロスフィルとは別物のように感じる柔和でウォームトーンのオーケストラ。
プレヴィンの優しい目線も感じるこの演奏、やはり2楽章と3楽章が美しく、曲全体に内声部の描き方が新鮮でオヤっと思う瞬間があったりした。
久しぶりに聴いてみて、こんなにいい演奏だったか、と思った次第。
亡くなって6年が経ち、プレヴィンの名も埋もれがちかと思うが、新しいライブなど発掘されないものだろうか。

※ドヴォルザークを語るうえで欠かせないノイマンとチェコフィルの2つの全集、ケルテス、クーベリックといずれも所持してないのです。
これはいけませんね、いつかはと思いつつ・・・という音盤はまだたくさんありますよ。

⑩イルジ・ビエロフラーヴェク指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
           (2012、13 @プラハ)

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 亡くなる5年前に、ビエロフラーヴェクは手兵のチェコフィルでドヴォルザークのいろんな作品を一気に残してくれた。
しかもデッカの録音がとてもよろしくて、すべての交響曲やスタバト・マーテルなど、すべてがスタンダートとなるべき理想的な演奏かと。
冴えたオーケストラの響きには、往年のくすんだ美音とかのイメージのチェコフィルとは異なり、ヨーロッパのオーケストラのひとつという認識を与えるもの。
この傾向は、ビシュコフ盤を聴くとより感じるが、政治的にも安定し、スロヴァキアと分離したいまのチェコは多難な時代のオーケストラの強い個性が失われて感じるものの、ビエロフラーヴェクの元でのドヴォルザークやほかの自国作品においては、完全に自分たちの音楽という自信やプライドがにじみ出ているように思う。
指揮者とオーケストラが一体化した、幸福な結びつきを、9曲の交響曲を順番に全部聴くことでまざまざと感じる。

⑪セミョーン・ビシュコフ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
                              (2023.9 @プラハ)

Semyon-bychkov-czech-philharmonic-orches

 大柄なドヴォルザークというイメージで構えは大きい一方で、細部にも目線が行き届いた緻密な演奏と感じる。
チェコフィルは実にうまいと思うが、もっとスッキリしたビエロフラーヴェクの方が歌が豊かだし、気持ちがいい。
マーラーを得意とし、ブルックナーをやらないビシュコフならではのドヴォルザークと言ったらいいか。
3つの交響曲以上に、「自然と人生と愛」という序曲3部作がとてもいい。
次の首席のフルシャも交響曲を全部録音してくれるだろう。

最後にネット録音した海外ライブから、これから日本でも活躍する注目の若手の演奏

⑫ダニエレ・ルスティオーニ指揮 アルスター管弦楽団
            (2024.8.18 ロイヤル・アルバートホール)

Rustioni-proms

 新イタリアの若手三羽烏のひとり、42歳にしてもうオペラの手練れ。
リヨン歌劇場でレパートリーを広げ、アルスター管、メットオペラの首席客演指揮者、来年からは都響の首席客演となるルスティオーニ。
イケメンイタリア男で、奥さんのヴァイオリニスト、デコーも美人さん。
ともかく欧米の劇場から引く手もあまたの存在。
プロムスで聴衆を熱狂させたこのドヴォルザークは、指揮ぶりは熱烈だけれども、その音楽は本格派で起承転結が見事で構成感も見事。
来年1月の都響では、ヴェルディ、ワーグナー、レズピーギ、夫妻共演ブラームスなどが予定されていて、いずれもチケット入手済み

⑬ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
                              (2024,6.16 @ムジークフェライン)

Viotti

 2世指揮者のなかでもピカイチの実力派、そしてこちらもイケメン極まりない35歳のロレンツォ君は、東京交響楽団の次期音楽監督。
ローザンヌ出身であることから、独・仏・伊、いずれの音楽にも通じ、すでに幅広いレパートリーを身につけている。
こちらもオランダオペラとネーデルランドフィルという、比較的好きなことができるポストで腕を磨いた。
いまや世界のオーケストラとオペラから引っ張りだこだ。
ウィーフィルを指揮してしなやかで、流麗なるドヴォルザークを聴かせてる。
すでに東響でこの曲を指揮しているようだが、実は来期にも取り上げる。
そのときの組み合わせが、ブラームスの3番というから、ロレンッツォ氏のプログラムはなかなかにおもしろい。
ツェムリンスキーやコルンゴルトもよく指揮しているから、今後ともに楽しみな存在であります。

Togawa-02

ドヴォルザークは、メロディーメーカー。
室内楽など、まだまだその宝庫は尽きず、オペラもいくつか揃えているが、この先ちゃんと聴けるかな。         

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