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2026年1月11日 (日)

J・シュトラウス 「南国のバラ」

Ginza-01_20260110184301

日の丸も掲げられた年始直前の銀座の街。

なかなか美しいものです。
そして、集団形成のあの人たちのいない本来の大人の街は、かつての姿をちょっとだけ取り戻した感じもしました。

Neujahr-2026

今年のウィーンのニューイヤーコンサートは、ネゼ=セガンの指揮。

カナダの指揮者ですが、同国に自身のオーケストラを持ち、フィラデルフィア管とメトロポリタンオペラの指揮者を務め、欧州でも各地のオーケストラと関係を築いている、いま最前線の指揮者。
セガンは以前よりよく聴いてた指揮者だが、こんなに早くニューイヤーコンサートに出るとは思ってなかった。
ムーティとティーレマン、メストらのベテランの持ち回りばかりでなく、旬の指揮者を順繰りに起用していくことは大賛成で、ウィンナ・ワルツとは無縁と思われた人でも、案外に相性がよかったりして楽しみも増すというものだ。
来年はトゥーガン・ソヒエフというから驚きでもあり。

今年のプログラムは、セガンが力を入れてるアメリカの女性作曲家プライスの作品や、ウィーンで女性オーケストラを創設したりして活躍したヴァインリヒの作品などが選ばれたりして、とても新鮮だったし、映像で見てもセガンのいつもの快活な指揮ぶりが楽しかった。
初めてご覧になる方は、小柄なセガンがそこらのやんちゃな兄ちゃんみたいに見えたかもしれない。
カミングアウトしているので周知の事実ですが、保守的なウィーンもオケのメンバーを見てもわかるとおり変わったものだと思ったりもした。
多様性という言葉はあざとく好きではないが、まさにそんなコンサートにもなったのではないだろうか。

今回演奏された曲のなかで、私の好きなワルツ1曲に絞って、ウィーンフィルの手持ち音源をいろいろ聴いてみた。

  J・シュトラウス ワルツ「南国のバラ」op.388

1880年初演のポルトガルが舞台のオペレッタ「女王のレースのハンカチーフ」からの引用で作られたワルツ。
劇中でオペレッタの主人公であるスペインの作家セルバンテスによって歌われる歌「野ばらのさくところ」というタイトルから、このワルツの名前も付けられたという。
このオペレッタを気に入ったという当時のイタリア国王に献呈されていて、すべてが南欧がらみなところから、このワルツも軽やかで明るく屈託がないです。
レースのハンカチーフは、昨年ウィーンのアン・デア・シアターで上演されていて、録音もしました。

①セガン(2026)
文字通りウィーンフィルの最新の「南国のバラ」は、セガンらしく快活で生き生きとした演奏だった。
入念な節まわしもあったりして、軽やかなウィンナ・ワルツ感は薄め、でもこれもまたセガンらしい高揚感あふれる流れの持って行き方はまさに気分があがるものでしたね。

②ムーティ(2018)
セガンの前は、ムーティがやってました。
もうこの頃のムーティとなると大家の風格で堂々たる構えと押し出しがあり、余裕あるテンポが優雅ささえ引き出して感じる。
ウィーンとの付き合いの長さと気ごころしれた安心感も漂う。

③マゼール(1981)
ムーティ以前の演奏ではこれしか手持ちで見当たらず。
アバドもクライバーもカラヤンもやってなかったんです。
ボスコフスキーのあとを継いだマゼールは、ウィーンとの蜜月の80年代にエンターテインメント性にあふれたニューイヤーを何年も担当。
マゼールらしく切れ味豊かで、はずむようなリズム感も心地よく現代的でスピード感もほどよい。
何曲か聴いて、真面目過ぎるところあるが、いまやこんな面白い指揮者はいないと感じた。

④ベーム(1975)
DGへの正規録音もあるが、日本人ならこれでしょ、伝説のNHKホールライブ。
NHKホールの空気感と熱気をもろに捉えた録音がいまもって素晴らしいと思うし、ウィーンの音色がNHKホールでちゃんと出てるのも驚き。
ベームの指揮には堅苦しいところはなく、この頃はまだ保っていたウィーンフィルの鄙びた音が聴けるのもありがたい。
NHK様は、つまらん紅白に金ばかり使ってないで、ベームの音源と映像をリマスターして新調して欲しい。

⑤ボスコフスキー(1961、1975)

Boskovsky

クレメンス・クラウス後のウィーンフィルのウィンナ・ワルツの権化となったボスコフスキー。
同じ楽員同士で気の置けない仲間同士のリラックスムードあふれる演奏でもありつつ、ボスコフスキーの指揮には古風さはなく、現代的ですらあり、ある意味サバサバしても感じる。
でも歌いまわしは実にうまく、雰囲気満載で、もうまさにわれわれ昭和世代が思い描く憧れのウィーンの街そのものだ。
目をつぶれば、唯一のウィーン訪問のことすら脳裏に浮かんでくる。
ウィーンはウィーンなのだ。
デッカの録音もその思いに拍車をかけてくれる素晴らしさ。
 75年のものは、私のエアチェックで、シュトラウスのアニバーサリーイヤーのときのザルツブルクライブ。
録音がいまや精彩を欠くが、ライブ感あふれるウキウキ演奏だ。
ボスコフスキーやマゼール、アバドやクライバー、メータの時代のお正月のNHKテレビ放送を毎年楽しみにしていて、ウィーンのムードに浸ることで1年が始まるみたいな気分だった。
そうしたことをしなくなって、興味も失ってから久しいし、ウィーフィルもウィーフィルでなくなってしまったと思い込んでも久しいです・・・

⑥シューリヒト(1963)

Schuricht-strauss

なんどかブログ記事を残してますが、中学生の時に会員制のコンサートホールソサエティに加入していて購入したレコード。
これが初めてのウィンナ・ワルツのレコードだった。
来る日も来る日も聴いて、とくにチターの音色に魅せられ、まだ見ぬウィーンの街を思った。
同時に、シューリヒトという大指揮者がいたということも強く意識するようになり、バッハやモーツァルトなどを集めた。
オーケストラは契約上、国立歌劇場管弦楽団と名乗り、冴えない録音だったレコードをCD化されたときに聴きなおして、その刷新されたサウンドに驚いたものだ。
風呂上りの美人のように、見違えるばかりにオーケストラの美音が詰まって感じられたし、緩急豊かな情感ある指揮ぶりにもおどろきだった。
何度も書きましたが、この録音の場に居合わせた岩城宏之氏が、神だ!と言ったとされるその言葉どおりの達人の演奏だった。

⑥サヴァリッシュ(1961)
ウィーンフィルじゃないけどウィーン響。
2枚のシュトラウスファミリーのレコードを残したサヴァリッシュは、N響ではやらなかったし、ほかのオーケストラともやらなかった。
ある意味ウィーンにこだわったのだろうか。
若き日、バイロイトでも活躍をしていた、まさに若手新進気鋭のサヴァリッシュの颯爽としたスタイリッシュなウィンナ・ワルツ。
これはこれで青臭さもありつつ、サヴァリッシュならではの理路整然とした清潔さもあり。
リヒャルトばかりでなかった、ユニークなサヴァリッシュのシュトラウス。

⑦クリップス(1957)
50年代の録音ならではの丸っこい響きが雰囲気あり。
どこか懐かしい、遠くに忘れてきた音がする。
ほぼ70年前のウィーンフィルと今年のウィーンフィルを比べるとオーケストラの巧さ、放送とはいえ隅々まで鮮明なまの録音と比べるべくもない。
大人の音楽を感じた。
あらゆる音に囲まれた現代が不幸にも感じた。

クレメンス・クラウスのシュトラウスファミリーの音源は残念ながら所持してません。

Ginza-02

混迷を深める世界。

イランが崩壊するかもしれないことを日本のマスコミは一切報道しない。
あの国と同じように強権体制国家に対する国民の反発を報道しては日本ではまずいのだ。

セガンが思いを込めて語った今年のニュイヤーコンサートでのあいさつは、世界の平和だった。

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