カテゴリー「バッハ」の記事

2024年3月31日 (日)

バッハ マタイ受難曲 ヨッフム指揮

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いま咲き始めたソメイヨシノではなく、こちらは少し前の河津桜。

富士の見える丘があるのは、今いる町の隣の町です。

丹沢山脈と大山も大きくみえるステキな場所。

どんなこと、いろんな辛いことがあっても季節は巡ってくる。

春がやってきて、宗教に関係はなくとも、復活祭の日が来ると聴きたくなる音楽。

Matthaus-jochum

  バッハ マタイ受難曲 BWV244

       福音史家:エルンスト・ヘフリガー 
   イエス:ワルター・ベリー
   ペテロ:レオ・ケテラース

   アルト:マルガ・ヘフゲン  
   ソプラノ:アグネス・ギーベル
   テノール:ヨン・ファン・ケステレン  
   バス:フランツ・クラス
  
  オイゲン・ヨッフム指揮 
    アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
    オランダ放送合唱団
    アムステルダム聖ウィリブロード教会少年合唱隊

        (1965.11 @コンセルトヘボウ アムステルダム)

わたしのような世代にとって、マタイ受難曲はかなり特別な存在であり、カール・リヒターの演奏こそが絶対的な存在でありました。

音楽聴き始めの少年にとって、レコ芸のみが音楽知識と情報の根源だったので、評論家諸氏が、「マタイ」という音楽の素晴らしさを連呼し、リヒターのアルフィーフ盤が基本ベースとして語られることが多かった。
当然にマタイを理解するには、東洋の中学生には無理なはなしで、その音楽のみは、リヒターのサンプラーレコードでの最終合唱の場面にみを知るという状況でした。

そんな私に、「バッハのマタイ」を知らしめたのは、ヘルムート・リリングが手兵のシュトットガルト・ゲヒンガー・カントライを率いて来日し、NHKでそのマタイが放送されたときだ。
アダルペルト・クラウスのエヴァンゲリストも鮮烈だったし、なにより聖書を読む福音史家という存在そのものが興味の大いなる対象となった。
ミッション系の学校にいたので、聖書と読み比べ、「マタイによる福音書」の受難の場を実際に読んで、バッハがどう音楽にして、共感して、そこに合唱やアリアをいかにつけていって、感動的な大きな作品をつむいでいったか、そのあたりをよく調べ、勉強もしました。

そこで初めて買ったマタイのレコードが、リヒターではなく「ヨッフムのマタイ」でした。
理由は簡単、フィリップスが宗教音楽の廉価シリーズを出しまして、このマタイは1枚1,800円の4枚組ということで手の出しやすい価格だったからなのです。
このジャケット、レンブラントの「キリストの昇架」を用いていて、オランダつながりでこの演奏にも似た落ち着きと、ほの暗さを感じる秀逸なものだった。
タワレコの復刻CDを入手したが、ここではデッカの濃青と赤のレーベル刻印があり、イメージ的にちょっと残念。

復刻されたその音は、65年という年代を感じさせる、丸っこいもこもこ感もあり、その点はレコードで聴いていた心象のそのままで、もっと刷新された音を期待したものの、でもやはり安心したというのが正直なところでした。

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メンゲルベルク以来の伝統あるコンセルトヘボウの「マタイ」

同楽団の演奏アーカイブを調べてみました。
遡ると1891年からマタイの演奏歴はありました。
作曲家だったユリウス・レントゲンからの記録、メンゲルベルクは1899年から登場し、アーベントロートなどの登場もありますが、1944年までずっと続きます。
その後は、クレンペラーをはさんで、1947年からはベイヌムとなり亡くなる58年まで。
ここでハイティンクが登場するかと思いきや、ベイヌムの追悼演奏会で、マタイの最終合唱曲とブルックナーの8番を指揮したのみでした。
こうしたアーカイブを眺めるのはほんと楽しいです。
メンゲルベルク、ベイヌムのあとを継いだのはオイゲン・ヨッフムです。
ヨッフムは、1961年から1972年まで、コンセルトヘボウのマタイの指揮者となりました。
それ以降の指揮者たちは、ライトナー、ノーベル、アーノンクール、コープマン、フェルドホーフェン、シャイー、ヘルヴェッヘ、ノリントン、I・フィッシャー、I・ボルトン、ブットと年替わりで変わってます。

かつてのようなマタイの絶対的な指揮者がコンセルトヘボウにはもういない、ということでありましょう。
この構図とまったく同じに思えたのが、「バイロイトのパルジファル」です。
クナッパーツブッシュの絶対的な存在のあと、ブーレーズと、ここでもまたヨッフムが続いたわけで、その後は演出も長く続くものはなく、指揮者もその演出によって変わるようになりました。

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ヨッフムの滋味あふれるバッハ。
ヨッフムはバッハの4つの宗教作品をすべて録音しました。
オーケストラもコンセルトハボウとバイエルンというヨッフムにもっとも親しいオケであり、かつブルックナーを指揮するときの手兵でもありました。

古楽器や現代楽器でも古楽奏法によるバッハに耳が慣れてしまった自分。
従来奏法による、フルオケによる演奏は、なんだかとても懐かしく、むかしの家のタイルの風呂にバスクリンを入れて入ったような、そんな安心感と懐かしさを感じます。
変な例えですが、むかしのお風呂はよく響く残響豊かなもので、いまのお風呂はデッドな響きだと思ってます。
子どもの頃、お湯をはらない風呂場にラジカセを持ち込んで楽しんだものです。

話しは脱線しましたが、そんな懐かしい温もりあるマタイの演奏。
リヒターのような厳しさはなく、温和な雰囲気とイエスへの愛情と穏やかな信仰心の裏付けのある誠実な演奏。
ドイツの街々には宗派は問わず、教会があり、街のいたるところに磔刑のイエスが立ったり、宗教画が掲げられたりします。
そんな日常風景が似合う、そこで聴かれているようなマタイだとも思いました。

ヨッフムの温和で、全体を包み込むような優しいタッチの音楽づくりは、健全きわまりないバッハ演奏にふさわしく、ドイツ・ヨーロッパのどこにでもある教会から派生した音楽であることを強く思わせます。

歌手の平均値が高いことも、毎年同じメンバーできっと演奏してきたルーテイン感を通り抜けた完璧な均一な色合いがあることでわかります。
なんといっても、ヘフリガー。
リヒター盤での禁欲的な存在から、少し踏み込んで、人間味を感じる豊かさと、完璧なまでのディクション。
見事の一言につきるし、過剰でない節度を保った感情表現もヨッフムの音楽姿勢によくあってます。
同じことがベリーにもいえて、歌のうまいベリーがかなり神妙に感じたりも。
ギーベル、ヘフゲンといった女声陣も慎ましくも感動的な歌唱で、泣かせます。

若き日より聴きなじんできた音楽家の重なる訃報。
自身でいえば、介護に明け暮れながらも、自宅で仕事ができることのありがたさ。
なによりも、身近なところで、人間の老いの哀しみと希望の見出し方など・・・・いろんな経験と発見がある喜び。
そんななかで聴いた、耳に馴染みある「ヨッフムのマタイ」がともかくありがたかったし、変わりなく耳に響いたことがうれしかった。

ペテロの否認のあと「Erbarme dich」をまじまじと聴く、そして涙す・・・・
ロマンティックに傾くヴァイオリンソロ、遠景のように遠くに響くオーケストラ、感情表現少なめの淡々としたヘフゲンのソロ。
いまではありえない、再現のしようもない、60年代のヨーロッパのバッハ。

世界は東西陣営の時代から、大国陣営の時代、さらにはいまや分裂・分断により多極化の時代となった。
各地で起きてる戦争行為は、同じ連中のもので、次の大戦がもはやサイレントに起きているとも思われる。
こんな世界でも、音楽はかわりなく響き、あらゆる垣根なく、世界の人間に等しく感動的に響く。
ことにバッハの音楽はそのような存在だと思いたい・・・・

Nakai

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2022年4月15日 (金)

バッハ マタイ受難曲 マウエルスベルガー指揮

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芝増上寺の子育地蔵、子供の無事成長、身体健全、水子供養のために、1300体のお地蔵が安置されてます。

桜吹雪を起こす風が、お地蔵さんの風車もからからと回し、彼岸の域の様相を呈します。

拝む神様は、世界でさまざまなれど、その祈る心は同じ。

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3月の最終日、東京生活のピリオドを打ちに参上し、もう終わりかけた増上寺の桜を見てまいりました。

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  バッハ  マタイ受難曲 BWV244

   福音史家:ペーター・シュライアー 
   イエス:テオ・アダム
   ペテロ:ジークフリート・フォーゲル
   ユダ:ヨハネス・キューンツェル
   ピラト:ヘルマン・クリスティアン・ポルスター

   アルト:アンネリース・ブルマイスター  
   ソプラノ:アデーレ・シュトルテ
   テノール:ハンス・ヨアヒム=ロッチェ  
   バス:ギュンター・ライプ
  
  ルドルフ・マウエルスベルガー指揮 
    ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
    ライプチヒ聖トマス教会合唱隊
    ドレスデン十字架教会合唱隊

        (1970 @ルカ教会 ドレスデン)

2022年のイースターは、4月17日。
キリストが磔刑にあった、聖金曜日は15日ということになります。

人類にとっての至芸品ともいえる、バッハのマタイ受難曲。
今年ほど、この音楽が人類への警鐘とも聴こえる年はないのではないか。

キリスト者からみた、人類の救い主たるイエスの受難の物語。
新約聖書のドラマテックなクライマックス、イエスの呪縛と、磔刑にいたる緊迫の物語。
自身を鏡で映しだされてしまうかのような、心の内とその存在の弱さをバッハは厳しくも音楽で優しく描きつくした。
そこに共感することで、宗教を超え、人間としての存在の深淵をのぞきこめる普遍的な価値をここに見出す。


中学生のときに聴いたリヒターの、最後の合唱「Wir setzen uns mit Tranen nieder」。
そこから始まった、わたくしの、マタイ歴はワーグナーとディーリアス同様に長い。
同時に聖書を物語的に読むにつれ深まる疑問とそこにある不変の感銘。
1974年、H・リリングが初来日し、そのときのマタイをテレビやFMで視聴したことが初の全曲体験で、アダルペルト・クラウスの福音史家も思い出深く、テノールのこの役柄がバッハのこの音楽にとっていかに大切なものであるかも、このときに痛感したものだ。
リリンクのあの時の演奏は、マタイを知るきっかけとなった一方、多くの方がそうであるように、リヒターの峻厳な演奏が、マタイのひとつの指標になっていて、それをベースに他の演奏を聴くということが自分でも起きていたと思う。

1972年にレコード発売されたマウエルスベルガー盤は、レコ芸で見てからずっと気になる存在だったけど、もちろんその頃は4枚組のそんな大曲など遠い存在すぎて、聴くすべもなかった。
その後、ずっと忘れていたマウエルスベルガー盤が無性に聴きたくなったのは、ここ数年のことで、昨年、ようやく入手して静かに楽しむこと数日、そしてほんとうに飽きのこない、でもこれと言って大きな主張もないこの演奏がとても好きになりました。

兄弟でバッハの守護者のような存在だった、ルドルフとエールハルトのマウエルスベルガー氏。
全体の指揮をとった兄ルドルフはドレスデンで、弟エールハルトはライプチヒでそれぞれ活躍し、この録音でも双方の教会合唱隊の指導を行ってます。
ルドルフ・マウエルスベルガーは、この録音時81歳で、翌年に亡くなってますので、ピンポイントでほんとうにいい時に録音されたものです。
 ここに名を連ねる、当時の東ドイツ側の歌手たちも、いまや物故してしまった。
ドイツ的なるものを宿していた時期のバッハは、いまのインターナショナル化してしまった旧東ドイツ系のオーケストラでは聴かれない、いい意味での古雅な響きを持っているし、ドレスデンのルカ教会での録音も、まさにこの時期ならではの響きがする。

おそらくバッハにその人生の大半を帰依し、ともにあったマウエルスベルガー兄弟。
リヒターのような強い主張はここではまったくなく、淡々とバッハの音楽が流れゆくのみで、群衆の「バラバ」「十字架に」という言葉も劇的になることなく、必然としてのように歌われるし、ペテロの慟哭のあとのアリアも物静かに進行する。
マウエルスベルガーのマタイは、バッハの音楽そのものしか感じることができず、指揮者の存在や関与を感じさせないという点で稀有の存在なのではないかと思う。
名のある歌手たちも、指揮者の元に極めて禁欲的につとめていて、名エヴァンゲリストとなっていくいくつもあるシュライアーの録音のなかで、これが一番素晴らしいと思う。
過剰な歌いこみのない、ペテロの否認の場面は極めて感動的。
テオ・アダムとブルマイスター、バイロイトでウォータンとフリッカのコンビだったふたりも、抑制された歌いぶりで、いぶし銀的な味わいがあり、ほかの歌手たちも同様。

オーケストラ、独唱、合唱、少年合唱、録音チームのひとりひとりまで、バッハを歌い、演奏するという長き伝統に裏打ちされたひとつの理念でもって統一感があって、何度もいうが、渋いけれど、なにも起きないけれど、普通に素晴らしい演奏だと思うのであります。
リヒター、レオンハルトとともに座右においておきたい。

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花曇りだけど、増上寺と東京タワーに桜は映えます。

東京タワーの横には、ロシア大使館の前に建設中のビルがだんだんと出来上がってきて、正直言って、景観をそこねている。
日本一の高層ビルになるようで、そのようなもの、もういらないとホント思います。
いろんなところでビルの工事中であった東京を去り、何もない場所に帰ってきてほぼ1か月。
毎日、窓の外が額縁みたいです。

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次に聴きたいマタイは、アバドとベルリンフィル。

イタリアのレーベルから限定で出ていたが、あまりに高額で手も足もでない。

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2021年4月 4日 (日)

バッハ カンタータ リヒター&鈴木雅明

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桜前線北上中。

わたしの住む関東はもうおしまい。

例年なら、イースターのころ合いに満開を迎える日本の桜です。

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今年の復活祭は、4月4日。

復活節にまつわるバッハのカンタータをふたつ、往年の演奏と今現在のものとで。

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 バッハ カンタータ第4番 BWV4

    「キリストは死の縄目につながれたり」

   Br:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

 カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
            ミュンヘン・バッハ合唱団

      (1968.7 @ヘラクレス・ザール、ミュンヘン)

復活節日曜日(第1祝日)用
200曲あるバッハの教会カンタータは、聖書と密接に結びつく礼拝に伴うカンターであり、その語句は、聖書はおろか、キリスト教に馴染みのない多くの日本人には、身近な存在とはいえないだろう。
 しかし、バッハの音楽は、そのハンディのようなものを補ってあまりあるもので、汲めどもつきぬ味わいと楽しみがあると思う。
かくいうワタクシは、ほんのさわりだけしか聴いてはいませんので、偉そうなことはいえません。

ライプチヒのトーマス教会カントルの時代に書かれたのが、バッハの教会カンタータの全盛期ですが、そのずっと前、ミュールハウゼン時代からカンタータの創作を始め、「キリストは死の縄目につながれたり」はこの時期のもので、バッハ22歳の頃のもので若い時分の作品です。

若い作曲家にたがわず、実に重々しく充実した内容のカンタータ。
悲劇臭極まりない冒頭シンフォニアに始まり、ルターのコラールを全編に採用し、それを変奏したものを続けるという構成。
前半は「死」という言葉が文字通りに横溢し、後半は生命と死、過越しの子羊に十字架、さらに明るき光明、信仰の生命、ハレルヤと続く。
暗から明、信仰への清き思いという礼拝につながるバッハのカンタータの姿が、若い作品のここにもしっかりある重厚な音楽です。

リヒターの厳しい眼差しを伴った指揮は、ここカンタータでも、マタイやミサ曲の演奏と同じく。
峻厳なバッハには、かねてより襟を正さざるをえませんし、そうした聴き方をずっとしてきた自分。
高校時代からリヒターのバッハを聴いてきて、いつも同じ思いです。
フィッシャー=ディースカウの独唱も、リヒターとバッハをともにするときは、歌いすぎず、巧さもほどほどに、堅実な歌に徹します。
バッハの演奏スタイルは、古楽・古典のそれと合わせて大きく変化して、それぞれが共存している現在、リヒターのバッハにはドイツ音楽としてのバッハを感じさせる気がする。
それもかねての良きドイツ。

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 コロナ緊急事態中は、手水は水を張らずに無味乾燥な存在でしたが、こうして桜を反映させる今、美しいです。

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 バッハ カンタータ第146番 BWV146

  「我らは多くの苦難を経て神の国に入るべし」

   S:レイチェル・ニコルズ
   CT:ロビン・ブレイズ
   T:ゲルト・テュルク
   B:ピーター・コーイ

 鈴木 雅明 指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン
       
    (2008.9.18~22 @神戸松蔭女子学院大学チャペル)

復活節:復活後第3日曜日

ライプチヒ時代、1726~28年の作品で、41~43歳の充実期。
バッハお得意の自作からの引用を冒頭の大きなシンフォニアからいきなり大胆に行ってます。
チェンバロ協奏曲ニ短調 BWV1052からのもので、チェンバロはオルガンにまんま代用されていて、鮮やかなオルガン協奏曲みたい。
次ぐ第2節の合唱も、同じ協奏曲の2楽章からのものです。
ちょっとドラマチックでもあるこのシンフォニアに、礼拝に訪れた信仰の深い聴き手は、ワクワク感と幸福感に冒頭から満たされ引き込まれたことでしょう。
ここでも、暗から明、苦しみから信仰の喜びという流れがこのカンタータでも構成の基本です。
4人のソロがそれぞれに活躍する規模の大きなカンタータでもあります。
第3曲でのオルガンソロでのアルトはふるえる心と、苦しみから抜け出そうとする高揚する面持ちが歌われる。
つぎのソプラノによるレシタティーボは、福音を語りますが、ヨハネ伝16章20節「よくよくあなた方に言っておく。あなた方は泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう」
次ぐ同じソプラノのアリアが美しく素晴らしいと思う。
フルートとオーボエダモーレを伴った落ち着いた雰囲気を伴いつつ、悲しみとともに、種を蒔き、やがて訪れる刈り取りの収穫へと楚々と思いをはせるアリアであります。ここでのニコルズの無垢の歌唱がよい。
やがて、テノールとバスによる喜びにあふれた二重唱は、これまた礼拝堂に集う信仰者の気持ちを高め、明るい思いに満たしたことでしょう。
リズム感あふれるオケに乗って、屈託のない歌は気持ちのいいものです。

今ではすっかりスタンダードになった日本の演奏家によるバッハが、世界でもバッハ演奏の最高のもののひとつとして受け入れられる時代が来ようとは、リヒターのバッハを金科玉条のように思っていた若い時分の私には想像もつきませんでした。
永年の経験と深い探求に裏打ちされたこの精緻なバッハは、繊細で清潔であり、しなやかです。
リヒターのバッハのあとに、鈴木バッハを聴くと、リヒターに聴かれる強烈なバッハへの帰依ともいえるような強靭さのようなものは感じられず、そのかわり、優しく柔和、でも細やかな思いが行き届いているバッハに感じられる。
こんなこと言うと変ですが、農耕民族である日本人のバッハみたいに思いますがいかに。

半世紀の隔たりがあるバッハ演奏。

でもどちらもバッハ。

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2020年4月12日 (日)

マタイとメサイア

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寄り添うように、とか、よく政治家とか、企業CMとか、いやもしかしたら自分も、寄り添うような音楽とかブログで発言してるかもしれない。

けれど、なんか、まやかしのように感じる。
感情論の押し付けであり、ごまかしではないかと・・・

政治家や企業に、本当の心で、そんな風に国民や消費者に接しているとは思えない。
平和なときには、そんな言葉も、優しく響く。
しかし、いまの緊急時には美辞麗句は通用しない。
具体的に何をするかが問われるから。

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しかし、季節はちゃんと巡ってくる。

毎年、イーズターの頃には、散歩も兼ねて増上寺周辺の桜を巡り歩くのだが、今年は、むしろ健康のために歩かなくては、という思いで、控えめの桜見でした。
ここは、見事に美しい椿が桜を背景に咲くのです。

聖金曜日から、復活祭にかけての音楽ということで、「マタイ受難曲」と「メサイア」それぞれ抜粋して聴きました。

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  バッハ 「マタイ受難曲」

   ペテロの否認~あわれみたまえ、わが神よ

    A:ヘルタ・テッパー
    T:エルンスト・ヘフリガー

  カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
             ミュンヘン・バッハ合唱団

先ごろ、ミュンヘンにて亡くなった、テッパーの歌で。
享年95歳のテッパーさんは、理想のオクタヴィアンとして、それとブランゲーネやフリッカなども歌うオペラ歌手でしたが、なんといっても「リヒターのマタイ」のアルト歌手としての存在が、われわれには大きいと思う。

マタイの核心的な場面が、ペテロの否認と、それに次ぐアルトの悔恨のアリアかと思ってます。
この少し前に、イエスによる重要な弟子のひとり、ペテロの裏切りの予言がエヴァンゲリストにより歌われ、鶏が鳴く前に、わたしを知らないと3度言うだろうとします。
そして、ペテロが女中に、この人もイエスと一緒にいたと言われると、わたしはその人を知らないと、ほかのひとにも3度も言ってしまいます。
そこで鶏が鳴き、ペテロは激しく泣くことになります。
 このあたりの、冷静なエヴァンゲリストが、抑揚をつけながらも感情の高ぶりをみせます。

そして、ヴァイオリンソロを伴った感動的なアリアが始まります。
「Erbarme dich」 憐れみたまえ、わが神よ わたしの苦い涙をお認めください
   心も、目も、ともに御前にひざまずき、激しくないております~

人間、誰しも、思い当たることがあるかもしれない、心に秘めたこともあるかもしれない。
そんな心理に光を当てた聖書の場面を、バッハの音楽は実に深く描いている。
テッパーの禁欲的な淡々した歌唱は、この歌の本質をついております。。。。

聴いてて、なんでこんなことになっちゃったんだろ、涙が出てきました。       

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  ヘンデル オラトリオ「メサイア」

   復活~栄光と永遠の命

  S:エディット・マティス   A:アンナ・レイノルズ
  T:ステュワート・バロウズ B:ドナルド・マッキンタイア

 カール・リヒター指揮 ロンドン・フィルハーモニック
            ジョン・オールディス合唱団

Ⅰ「預言と降誕」、Ⅱ「受難と復活」、Ⅲ「栄光と永遠の生命(救いの完成)」

アメリカや日本ではクリスマスに演奏されることが多いので、きらびやかな印象がある「メサイア」。
ましてバッハと比べると、開放的で、音は外に向かって行く印象を受けるが、でもしっとりとしたアリアもたくさん。
アリアと晴れやかな合唱の対比こそ、オペラ作曲家としてのヘンデルの真骨頂。
最近、ヘンデルのオペラをネット視聴したりすることも多く、少しハマりだしました。
そんな耳で聴くと、豊麗なヘンデルサウンドのなかに、人間の悩みや悲しみも織り込まれているのを感じます。

ハレルヤのあと、ソプラノの楚々とした信仰告白ともとれるイエスへの想いを歌ったステキなアリア。
そして不滅の偉大さをトランペットを伴って歌うバスの神々しいアリア。

リヒターの英語版メサイアが、ロンドンフィルで録音されたことはありがたいことでした。
LPOの暖かくも、くすんだ弦が素晴らしく効果をあげてます。
マティスの無垢ともいえる歌声もいい。

最後はイエス賛美の、アーメンコーラス。
キリスト者ではありませんが、人類がいまの苦難に打ち勝つこと、この音楽も輝かしくも、壮麗な光で世界を照らしてくれることを願います。

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早朝のせいもあるけど、誰もいない増上寺(4/4)
ほんと、ひといません。

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来年は、楽しく桜を愛でることができますように。

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2019年9月28日 (土)

バッハ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ アーヨ

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変わりやすい秋の空。

ちぎれたウロコ雲も秋っぽい。

これから深まる秋に、バッハの無伴奏。

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 バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ

     Vn:フェリックス・アーヨ

       (1974.12.29~1975.01.02 @ローマ)

バッハの無伴奏といえば、ヴァイオリンかチェロ。
ヴァイオリンが、ソナタとパルティータで、チェロは組曲。
その楽器の特性を見事に読み込んで、これらの形式を選択して作曲したバッハ、今さらながらその慧眼に驚きと感謝を禁じえません。
あ、あとフルートにも孤高の無伴奏ソナタがありますね。
いっとき、フルートを嗜んだものですから、そのソナタ、最初のほうだけ結構吹きましたものです。

わたくしの無伴奏の初レコードは、フェリックス・アーヨのものです。
初出のときは、高くて手がでなかったし、なによりも、今では2CDで易々と手に入るシェリングやミルシュテインのレコードは3枚組で、6000円以上もしたし。
そして、バッハのシリーズとして2枚組、2,900円で出たアーヨ盤に飛びついたのは、もう40年くらい前。

たくさんの音源を集めましたが、このアーヨ盤が今でも好き。
ソナタのほうは、入手困難で、悶々としておりますが、よりアーヨ向きのパルティータがCD化されて、ほんとにうれしかった。

イ・ムジチのアーヨ、イ・ムジチの「四季」、アーヨの「四季」という塩梅に、アーヨといえば、イ・ムジチと四季から切り離せないイメージがついてまわりますが、そのアーヨも、イ・ムジチを出てから、クァルテットを結成したり、ソロ活動をしたりと活躍の幅を広げたものの、それらの記録があまり残されていないのが残念です。

そんななかで、貴重なものが、このバッハ。
初めて、レコード針を落とした時に、スピーカーから流れだすヴァイオリンの明るく、艶やかな音色に即時、心惹かれ、魅了されてしまいました。
いま、CDでこうして聴いても、その想いに変わりはありません。
CDだと、ノイズも気にしなくてよいし、より情報量が増した感じで、ダイナミックレンジも広く、高域から低域まで、ここまでまんべんなく朗々とヴァイオリンを鳴らすことのできるアーヨに感嘆してます。

それには、フィリップス録音の優秀さも、一役買っているようにも思います。
ローマでの録音とありますが、こちらは教会を会場としてのものなのです。
豊かな響きは、教会の高い天井にこだまするようにして、教会そのものが、ヴァイオリンと一体化して楽器の一部のようにして感じられるのです。
響きばかりで、ふにゃふにゃしては決しておりませんで、アーヨの芯のある力のこもったヴァイオリンの音色もしっかりと捉えているんです。
 某評論家がかつて言ってましたが、よき演奏は、録音もジャケットもよろしい、と。
ジャケットは再発時のものですが、まさに、その三拍子が整った音盤かと!

もっと、情的なものを抜いて、構成感を高め、緊迫した演奏も、この無伴奏には多くありますが、アーヨの艶っぽい、歌心のあるバッハも、日ごろの緊張や疲れを、優しく包み込んでくれるような感じがして、わたくしには大切なバッハの姿の一面を聴かせてくれるものと思います。
長大な「シャコンヌ」では、いかつめらしさは一切なく、滔々とあふれ出る音楽を素直に受け止めることができる。
 そして、明るく軽快さも感じる3番が一番アーヨらしい演奏かも。
言葉はなんですが、普段聴きできる、アーヨの無伴奏なのでありました。

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高い空にバッハ。

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ついでに、懐かしの「アーヨ、イ・ムジチの四季」も聴いてみました。
(画像はネットからからのお借りもの)

なんというレトロ感、いやしかし、いまや、これは新鮮だ!
ムーディに流れるようでいて、各章に、心が込められていて、明るい歌のイタリア感も満載。
1959年の録音ということも、いまさらながらに驚き。
世界のベストセラーは、いま聴いても健在。
なにかとポンコツ気味の自分も頑張らなくちゃ。

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2019年4月20日 (土)

バッハ ヨハネ受難曲 ヨッフム指揮

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増上寺の鐘撞堂と桜。

2週前の桜ですが、今年は、長く楽しめました。

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   バッハ  ヨハネ受難曲 BWV245

福音史家:エルンスト・ヘフリガー イエス:ヴァルター・ベリー
ソプラノ:アグネス・ギーベル   アルト:マルガ・ヘフゲン
テノール:アレグサンダー・ヤング ペテロ、ピラト:フランツ・クラス

 オイゲン・ヨッフム指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
             オランダ放送合唱団

           (1967.6 @コンセルトヘボウ)

今年の受難節はちょっと遅めで、聖金曜日が4月19日、復活祭が4月21日。

信者ではありませんが、キリスト教は、身近な宗教で、幼稚園の頃からプロテスタント系の教会の着いた園に学び、大学もミッション系だったので、キリスト教系の学問も必須授業だったりした。
そして、それ以上に、クラシック音楽を親しむうえで、音楽と宗教の関係は密接であり、教会を訪問したり、宗教美術をながめたりするときには、必ず、頭の中に音楽が流れる。

そして、ショックだったのは、大切なイースターを迎える矢先に、パリのノートルダム大聖堂が火災にみまわれてしまったこと。
パリの人、いやフランス人の心の支柱でもあった聖堂が炎につつまれるのを、祈りながら、涙とともにみつめる市民の姿を見て、こちらも泣きそうになった。

同じように、日本人からしたら、法隆寺や薬師寺、東大寺、京の神社仏閣など、いや、それどころか身近にある神社のお社がそんな被害にあぅたらどうだろうか。
あらゆる神に祈りを捧げてきた日本人。
わたくしも、そのなかのひとりで、神さまにも、仏さまにも、イエスや神さまにも、同じように祈る、神さまに対して見境のない典型的な日本人であります。

それぞれの宗教の真の信者の方には申し訳ありませんが、日本人にとっての神さまとは、相対的に「心のよりどころ」であり、古来より自然の中にあるすべてのものに、その恵みの感謝の念を抱いて生きてきたがゆえの存在ではないかと思います。
そして、何千年と続く皇統の御代がずっとお側にあることも、日本人の心には常に安寧をもたらすご存在として大きいのだと思う。

    ---------------------

さて、ヨハネ受難曲ですが、福音史家と各ソロが主体の「マタイ」に比して、「ヨハネ」は合唱の比重が高く、その意味では劇的な要素が高く感じます。
それゆえに、聖書のイエスの捕縛から磔刑の一番劇的な福音劇を、叙事的に緊張感を持って鋭く描いたのは「静」のマタイであり、それをダイナミックに劇的に描いたのが「動」のヨハネであると思います。

個々には触れませんが、イエスの「こと果たされし」と最後の言葉を受けて歌うアルトのアリアには泣かされます。
ヴィオラ・ダ・ガンバのソロを伴った切々たるその歌、その哀しみは時空が止まってしまったかのような深みを感じます。

古楽器を伴った奏法に耳が慣れてしまった昨今、かつての従来奏法による、しかも大編成による演奏に接すると、実家に帰ってきたような安心感と、慣れしたんだおふくろの味、みたいな思いにつつまれます。
コンセルトヘボウの暖かな音色とホールトーン、懐かしい歌手たちの正統的な歌唱も、そんな思いに拍車をかけます。
ヨッフムの温和で、全体を包み込むような優しいタッチの音楽づくりは、健全きわまりないバッハ演奏にふさわしく、ドイツ・ヨーロッパのどこにでもある教会できっと演奏されたらかくも、と思わせます。

マタイと並んで、こんなヨッフムのバッハも、やはり自分には大切だし、日常使いとして、これからも聴いていきたい演奏のひとつだと思いました。

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春は、一挙にやってきて、花々を開かせます。

過去記事

「ヘレヴェッヘ盤」

「シュナイト指揮 コーロ・ヌーヴォ演奏会」

「リヒター盤」

「シュナイト指揮 シュナイト・バッハ管弦楽団」

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2019年4月 6日 (土)

バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番 アバド指揮

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満開の桜、あとは散るだけとなりましたこの週末。

桜の名所には驚くほどの外国の方が。

日本人のわれわれと同じように、桜を愛で、写真を撮り、その下で楽しんでいる。

桜の咲く日本が誇らしい。

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そして、今週は、5月1日からの新年号「令和」の発表に日本中が沸いた。

清々しく、涼やかでもあり、また美しい語感も伴った年号だと思います。

なによりも、万葉集を由来とする点も、とても麗しい。

富める者も、そうでないものも、聖も貧も等しく万人の歌を集めた1300年以上前の歌集。

来たる新年号を思いつつ、そして30年の平成の時代、今上天皇の残りのご在位のことなどを考えつつ、爽やかな晴天のもと、桜と東京タワーを愛でつつ逍遥いたしました。

そんな気分に、バッハのブランデンブルク協奏曲、それも第5番が晴れやかでぴったり。
しかも、ちょっとギャランとな雰囲気だし。

Brandenburug_abbado_scala

  バッハ  ブランデンブルク協奏曲第5番 

   クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団

          (1975.5 1976.11 @ミラノ)

   Vl:ジュリアーノ・カルミニョーラ

   Fl:ジャック・ズーン

   Cemb:オッタヴィオ・タシトーン

  クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

         (2007.4.21 レッジオ・エミーリア)

スカラ座の音楽監督だったころに、なぜか録音されたアバドのブランデンブルク協奏曲の全曲。
親しい仲間のようだった、スカラ座の面々との、和気あいあいとも感じ取れる親密なアンサンブル。
この頃、「マクベス」や「シモン」といった深刻なドラマを伴うオペラを日々上演していたコンビの、このバッハの演奏は一種の解放感のような「歌」あふれた雅さを感じ取ることができる。

スカラ座フィルハーモニーを創設し、定期演奏会も充実させたアバド。
スカラ座フィルとも、マーラーを録音して欲しかった。
2012年に奇跡のカンバックを遂げたときの「6番」の録音など、残ってないものかな・・・

Abbado-bach  

スカラ座との録音の32年後、孤高の境地の境地に到達したアバドが、自ら創設したオーケストラ・モーツァルトとブランデンブルク協奏曲をライブにて再録音した。
ソロやメンバーに、ルツェルンの仲間たちを交え、若い奏者とベテランが等しく、アバドのもとに集った、こちらは凝縮された緊密なアンサンブル。
古楽奏法で、奏者も刈り込んで、透明感と弾むようなリズム感あふれる若々しい演奏。
スカラ座とのコンサートスタイルの、いわゆる当時の演奏は、あれがオーソドックなものだった。
試みに、愛聴するシューリヒトや、リヒターの演奏を聴いても、タイムの上でも、だいたい同じスタイル。
押しも押されぬ大家となっても、積極的に演奏の在り方を追い求めたアバド。
ベルリンで取り上げた、マタイやロ短調も、その晩年に指揮をしたかったかもしれません。

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門の向こうに見事な桜🌸

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増上寺の桜🌸

ココログが全面リニューアルして、使い勝手がいまだにわかりにくく、いまいちな週末。

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2018年4月19日 (木)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 フレデリック・ハース

Zoujyouji_1

ひとひらの桜の花びら🌸

咲いた桜も美しいが、散る桜も儚くも美しい。

急襲した暖かさは、例年になく早く桜や、春の花々を開花させ、あっという間に散らしてしまった。

四季のメリハリがますます遠のく日本に、どこか不安を覚える。

3~4月は、公私ともに忙しくて、まともに音楽を聴けず、季節の移ろいの速さもそれに加えて、焦燥感を抱いている。
いまもそれは継続中だが、早くに目が覚め、夜寝れない方への音楽を、早朝の目覚めに聴いてみた。

そして、やたらと清新な気分になった。

Goldberg_haas_2

    バッハ  ゴールドベルク変奏曲 BWV988

             チェンバロ:フレデリック・ハース

                 (2010.10 @アセス、ベルギー)


ハースは、1968年生まれのベルギーのハープシコード奏者。
12歳のときからハープシコードを弾き始め、名教授につき、その奏法や楽器の研究に携わり、現在はブリュッセルの王立音楽院の教授も務めているイケメンさん。
ヘレヴェッヘとも関係が深いとのことで、その録音の通奏低音などで参加しているかもしれない。

繰り返しを忠実に行い、全曲は77分。
しかし、この長さ、まったく長いと感じさせない。
学究肌の経歴ながら、そんなことを微塵も感じさせない瑞々しさにあふれたバッハ。
そして、それぞれの変奏にあふれる豊かなニュアンス。
安心して、ずーーっと聴いていられる。
過度に表現しすぎない、でも、しっかりとバッハの音楽の精髄を聴かせてくれるハースのゴールドベルクでした。

25番目の変奏曲がとりわけ深く、瞑想的に聴くことができました。

この演奏のあと、手持ちの音源をつまみ聴きしてみましたが、自由すぎるグールドをはじめ、ハープシコード版、ピアノ版、いずれもみんな全然違って聴こえるところが面白かった。
ハープシコードは、楽器による音色の違いもあるからなおさらに。
かようにして、バッハの音楽には、ともかくいろんな可能性と閃きがあふれているのだと、いまさらながに痛感した次第。

このハースさんの録音で使用されたチェンバロは、1751年のアンリ・エムシュ作のもの。
で、まさにこの古楽器を奏して録音した場所が、ベルギーのアセスにある城。

Chateaudelaposte  Cembalo_2

こんな画像を見ながら聴いたハースさんのゴールドベルク。

眠れぬ朝の夢想なり。

Zoujyouji_2

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2017年4月14日 (金)

バッハ マタイ受難曲 ヘレヴェッヘ指揮

Zojyouji_abcd

桜の季節は、同時に、イースター。

今年の歴では、この終末が復活節となりまして、本日が聖金曜日。
日曜日が、イースターとなります。

しかし、寒くて、暖かい、そして曇りや雨ばかりの4月の早々。
北海道では、雪も積もったりで、ままならない天候。

そして、世界情勢に目を転じれば、シリアの内紛に化学兵器使用の疑いあり、アメリカが中国国家主席の訪米中、しかも、大統領との食事のデザート中に空爆。
朝鮮半島も、北の挑発が止むことなく、緊迫の度合いを深める。

そんななか、安住に慣れ切った、わが日本は、警告を発する一部の方々をのぞいて、のんきに構える日々。

あとで大騒ぎになる、いつもの国民性と、悶着を恐れるマスコミ。

このブログでは、そんな情勢を云々する場ではなく、音楽ブログなのだけれど、さすがに、ここ数ヶ月の、国会における野党と、マスコミの狂ったような姿勢には、フラストレーションがたまる一方だった。
国会運営に一日数億円かかるなか、それは税金で賄われるわけで、あんなくだらない陳腐なショーを見せられて、ほんとに腹がたった。
もっともっと、大切なこと、喫緊の課題がたくさんあるだろうに!
 それも、しかし、ようやく静かになった。
日本の正面から触れてはいけないタブーや、追求者へのブーメランに、ようやく気がついた、ばかな野党とマスコミ・・・・・

あぁ、もうやめておこう。

今日は、聖金曜日。
イエスが十字架に架かった日。
清く、ただしく、マタイを聴くのだ。

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     バッハ  マタイ受難曲 BWV244

  福音史家:イアン・ポストリッジ 
  イエス:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ
  アルト:アンドレアス・ショル    ソプラノ:シビッラ・ルーベンス
  テノール:ヴェルナー・ギューラ  バス:ディートリヒ・ヘンシェル
  
    フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮 コレギウム・ヴォカーレ

                       (1998)
数ある、マタイ受難曲の演奏のなかで、わたくしの4指にはいるヘレヴェッヘ盤。
その4つは、昨年の同時期の記事にあります。

ダントツで、揺るぎのない絶対的な存在のリヒターに、暖かなヨッフム、そして、峻厳でありつつピュアなレオンハルト、それと、日常のなかにふつうに古楽演奏を根付かせてしまったヘレヴェッヘ。

今日は、朝から、仕事中も、この音盤を何度も流しております。

リヒターだと、そんなお気楽に聴くことができず、つねに襟を正して、正座をして聴かなくてはならないような緊張感を強いられる。
ヨッフムは、その対極にあって、ドイツやヨーロッパの日常のなかのマタイ。
レオンハルトは、リヒターに近くもあり、もっと切り詰めた厳しさももしかしたらありつつ、それが、古楽のありかたなところが新鮮。
そのレオンハルトの、これまた対極にあるのが、同じ古楽奏法のヘレヴェッヘ。

4つを、異論は多々ございましょうが、自分では、そんな分類とともに、仕切っている。

 坦々と、静かな音楽運びのヘレヴェッヘの指揮。
劇的な合唱や、心情を吐露するソロたちの場面においても、ことさらに構えることなく、バッハの楽譜を、そのままに純粋に再現している。
 胸かきむしられる、一番の感動どころ、ペテロの否認の場面でも、その音楽運びは、さりげなくも、また第三者的でありながら、磨かれた音色の美しさでもって光っている。
そう、なにもしてないようでいて、出てくる音、ひとつひとつは、深く考察され、ラテン的ともいえる輝きにあふれているように思えるのだ。

ヘレヴェッヘのバッハは、ほとんど聴いたが、この2度目のマタイをピークに、ともかく美しく、磨きつくされている。

そんな指揮者のもと、歌手たちと、手兵の合唱の雄弁さに陥らない、透明感に満ち溢れた率直な歌唱も、指揮者の考えのもとにあるものと聴いた。
ナイーブ極まりないポストリッジのエヴァンゲリストが素晴らしく、ブリテンでの彼の神経質なまでの歌唱にも通じる見事さがある。
禁欲的なヘフリガーと、明晰なプレガルディエンと相立つ名福音詩家だと思う。
シュライヤーは、いろんな顔がありすぎて、自分的にはよくわからない。。。

ショルのアルト歌唱と、ゼーリヒのイエス、バスのヘンシェンも素晴らしいです。
ともかく、このヘレヴェッヘ盤は、歌手が豪華で実力派揃いなところがいいんだ!

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人類にとっての至芸品ともいえる、バッハのマタイ受難曲。

キリスト者からみた、人類の救い主たるイエスの受難の物語。

教徒ではなくとも、新約聖書の、ほんのごく一部から抜きだされたイエスの呪縛と、磔刑にいたる緊迫の物語にからむ、人間ドラマに、大いに共感し、そして自身を鏡で映しだされるかのような、内面と存在の弱さへの共感に、人間としての普遍的な価値を見出すのではないでしょうか。

中学生のときに聴いたリヒターの、最後の合唱「Wir setzen uns mit Tranen nieder」。
そこから始まった、わたくしの、マタイ歴。
そのあとは、聖書を物語的に読むにつれ深まる疑問と、感銘。
来日したH・リリングのマタイが、テレビやFMで何度も放送され、この作品が、完全に好きになった。

これからも、ずっと、大切に聴いていきたい。

そして、新しいマタイとも出会ってみたい。

 過去記事

「スワロフスキー&ウィーン国立歌劇場」

「レオンハルト&ラ・プティットバンド」

「ベーム&ウィーン響」

「4つのマタイ」

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2017年1月 6日 (金)

バッハ トッカータとフーガ ニ短調 リヒター

12_azumayama_2

2017年1月2日の朝焼け。

実家のあるいつもの山の上。

吾妻山です。

朝5時に起きてしまい、思いきって登りました。

日の出は、6時51分。

日の出前は、周辺がこのように朝焼けに染まります。

真鶴に遠くに伊豆半島。

12_azumayama_1

濃いオレンジの夕焼けとはまた違った、濃ピンク系? 朝焼け。

そして、もう少し東に目を向けると、相模湾から太陽が昇る様子が本来なら見えるのでした・・・・

12_azumayama_3

神奈川から見ると、遠く房総半島方面。

こりゃまるで、UFOのように見える日の出。

年末年始、晴天に恵まれたなか、この日の朝だけ、狙ったように雲に覆われました・・・。

ちーーん。

Richter

    バッハ  トッカータとフーガ ニ短調 BWV565

                     カール・リヒター

            (1964.1 @コペンハーゲン イエスボー教会)


ともかく有名な、こちらの名曲。

冒頭だけで、クラシックをふだん聴かない方にもピピッとくるものを持ってる曲。

トリルから始まる最初の2小節。
これが、衝撃的な場面のバックグランドを飾る音楽、いや、それこそ効果音として、数々の映像などに使われた。

でも、ほとんど多くの方々は、その2小節より先の即興的ともいえるフーガ展開部分を聴くことなく、やりすごしているだろう。

子供時代のわたくしも、そんなひとり。

 でも、そんな認識に、ファンタジー的とも呼べる喝を入れてくれたのは、NHKの「朗読の時間」というFMラジオ番組だった。
中学生だった、夏休みの間だったろうか。
朝の10時台くらいに、和洋の文学作品を、NHKアナウンサーが朗読する20分の番組で、1冊の本を、数日かけて取り上げていた。
そして、朗読に織り交ぜて、クラシック音楽を中心に流していたわけ。

そのときの音楽場面が、トッカータとフーガ。

そして、文学小説は、「不思議の国のアリス」。

不可思議な妄想のわく物語に、冒頭場面を外したフーガ場面が巧みにマッチングして、岩波文庫も購入し、耳と文字とで、ルイス・キャロルのアメイジングな文学がリアルに迫ってきて聴こえたものです。

あれから数十年も経ていますが、この作品のイメージから、アリスの世界をぬぐい去ることはできません。

 リヒターの旧盤は、かつて記事にしましたが、放送で使用されていたのは、おそらく、リヒターの2度目のアルヒーフ盤。

虚飾を廃し、音を切り詰めた、緊張感すら感じさせる演奏に思います。

近時、バッハの作品ではないのでは説もありますが、そんなことは関係なく、妄想引き起こす、幻想的な8分間に、いまもって魅せられます。。。。

2017、よき年になりますよう!

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