カテゴリー「バッハ」の記事

2026年4月 5日 (日)

バッハ 復活祭オラトリオ

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霊南坂教会の十字架。

先週のサントリーホールへ行く前にホール裏手の庭園から。
プロテスタント系の教会なので、バッハが似合います。
土曜日には翌日の礼拝に向けてオルガンの練習も行われていて、よく佇んで聴き入ってしまいます。

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コンサートの後は、桜坂の桜と美しいコラボレーション。

復活祭に聴くバッハ。

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  バッハ 「復活祭オラトリオ」 BWV249

             S:ジュディス・ラスキン
      A:モーリーン・フォレスター
      T:リチャード・ルイス
     Bs:ハーバート・ビーティ

  ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団
                テンプル大学合唱団

      (1963.4.17 @アスレチッククラブ、フィラデルフィア)

1725年4月1日、この年の復活祭主日に初演。
ヨハネ受難曲の初演の3日後ということで、まさに受難と復活をそのままになぞった、まさにバッハらしい、また音楽と生活に根ざした宗教という当時の風潮をまさに体現した機会音楽でもあります。
いまから300年前。
日本では徳川第8代将軍「吉宗」の治世で、暴れん坊将軍の享保の改革の最中。
そう思うと、日本にも独自の成熟した文化があり、浄瑠璃などが興隆し、和楽器も盛んになり、また寺社と結びついた尺八の演奏も普遍化。
西欧音楽が楽譜という形でしっかり残ったが、日本での音楽も記録として残されていると思うので、最近は日本の音楽史なんてのにもやたら興味が沸いてます。

曲は50分足らず.
大作の受難曲のように身構えることなく、全体に明るい色調の音楽。
しかし、内容は聖書の人物たちが登場し、磔刑後のイエスを見守り、その復活に歓喜する喜ばしい内容なのです。
マタイ伝とヨハネ伝、マグダラのマリア、もうひとりのマリア、弟子のシモン・ペトロ、ヨハネの4人が登場し、4人の歌手が担当。
冒頭のトランペットが活躍するシンフォニアと、美しいオーボエソロを伴なったアダージョ。
復活の様子を歌うレシタティーボとアリア、合唱曲。

抒情的な様相もともない、峻厳なバッハの顔でなく、明るく前向き、そして優しいバッハの姿がある屈託ない佳曲。

たくさんの宗教的な作品も録音したCBS時代のオーマンディとフィラデルフィア。
いずれも煌びやかさよりは、生真面目で渋いほどによくまとまった演奏が多いです。
私の長年の愛聴盤はオーマンディの「メサイア」なんですが、あちらはほどよく華麗でゴージャス。
でもこのバッハ、ほんと渋く、こじんまりとまとまっている。
フィラ管の名手たちのソロも浮き立つことなく、バッハの音楽に真摯に寄り添う演奏であります。
女声ソロはいいが、男声陣がややアメリカナイズされて聴こえるのが面白いし、合唱団はもうまさに、ザ・アメリカでありました。

手持ちのCDのカップリングは、バーンスタインのマニフィカトで、濃厚さと思い入れ、爆発力がユニークです。

いまから60年以上前のバッハ演奏。
たっぷりと音楽を鳴らして聴かせるスタイルは、古典派もロマン派も同じ。
ややムーディに流れ、野放図にも思いましたが、案外と新鮮な気持ちで聴きました。

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             S:バーバラ・シュリック
      A:カイ・ヴェッセル
      T:ジェイムズ・タイラー
     Bs:ペーター・コーイ

  フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮 コレギウム・ヴォカーレ

        (1994.4 @ゲント、ベルギー)

ほぼ20年前に記事にしてたヘルヴェッヘ盤。
オーマンディのあとこれを聴くと、30年の録音の年月の隔たり以上に隔世の感を感じる。
靄が晴れてスッキリしたかのような印象。
でもこれでも今から30年前の録音で、現在の古楽的演奏はさらに進化している。
ここで思うのはこの演奏の美しさと透明感。
オーマンディの方は、熱心な宗教心あふれるアメリカの人々が日曜日にカジュアルに教会に集っているかのような光景が浮かぶ。
ヘルヴェッヘの方は、ヨーロッパの街や村の教会で、篤信あふれる住民たちが静かに祈ってるような、そんな光景。
でもどっちもバッハなんだよな。
いまでもアメリカのオーケストラでは、オーマンディのようなバッハが演奏されているはずだ。

300年のバッハの音楽の歴史、そして60年前、30年前のバッハ演奏の変化、そのあたりも楽しめた今回のイースターです。
バッハ偉大なり。

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コンサートのあと夜桜を求めて散策。

スペイン大使館近くのスペイン坂あたり。

東京の夜は奇麗だな、1時間かけていま住む神奈川の夜は真っ暗の街に帰りましたよ。

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2025年12月25日 (木)

バッハ クリスマス・オラトリオ リヒター指揮

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11月から12月、そして12月に入ってからの日々の経つことの早さよ。

歳をとると月日が経過するのがやたらと早いとよく言われるが、それは予想以上だった。

この歳になって、毎日がこんなに忙しいなんて思いもしなかった。

ありがたいことにお仕事を頂けてるのが幸いなのだけれども、同時にワンオペ介護、時おり孫、、家事、その間を縫って音楽会に上京 etc・・・
ストレス解消にと音楽会に積極的に行くようになったが、外出中も気が気でないときもあり、それがまたストレスになってしまったり・・・
昨年は多飲と不摂生がたたり入院もしてしまい、お酒を飲まなくても大丈夫な自分になったが、それもまたストレスでもあるし、身体の不安もまたストレスでもあるという悩み多き初老・・・・

でもまあ、これもまた生きていることの証でありましょう。
ちょっとしたことに楽しみや喜びを見出したりするのも幸せなことのでしょう。

音楽がなかったらちょっとダメだったかも。

バッハを聴こう。

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       バッハ クリスマス・オラトリオ BWV248

      S:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
      Ms:クリスタ・ルートヴィッヒ
      T:フリッツ・ヴンダーリヒ
          Bs:フランツ・クラス

   カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
              ミュンヘン・バッハ合唱団

         (1965.2~6 @ヘラクレス・ザール、ミュンヘン)

来年2026年に生誕100年を迎えるカール・リヒター。
1981年に54歳にして早逝してしまってから、もう45年になる。
心臓麻痺で亡くなった報を聞いたとき、これから社会人となる矢先のときだったが、かなりのショックだった。
バッハといえばリヒター。
そのように若いながら信じ込んでいた自分でした。
その思いは、古楽的な奏法が主流となり、バッハ演奏も多様化したいまも変わりません。

メサイアとともに、クリスマスに聴くにもっとも相応しいバッハのオラトリオ。
メサイアは降誕から死と栄光までを描いたのに対し、バッハの方は暦のうえでのクリスマスの6日間をカンタータ形式で描いた作品。
ともに、シンフォニア・田園曲が牧歌的かつ平安とともに挿入されていて、クリスマスの夜に和みます。

過去に書いたものを以下また再掲

  ①降誕節第1祝日 24日
  ②降誕節第2祝日 25日

  ③降誕節第3祝日 26日
  ④新年        1日
  ⑤新年最初の祝日  2日 
  ⑥主顕節       6日
      

主顕節というのは、イエスが初めて公に姿を現わされた日のことで、東方からの3博士が星に導かれて生後12日目のイエスを訪ねた日をいう。
 1734年、バッハ壮年期に完成し、その年のクリスマスに暦どおりに1曲ずつ演奏し、翌新年にもまたがって演奏されている。

バッハの常として、この作品はそれまでの自作のカンタータなどからの転用で出来上がっているが、旋律は同じでも、当然に歌詞が違うから、その雰囲気に合わせて歌手や楽器の取り合わせなども全く変えていて、それらがまた元の作品と全然違う雰囲気に仕上がっている。
バッハのカンタータは総じて、パロディの集積とよく云われるが、それは自作のいい意味での使い回し、なおかつ最良のあるべき姿を求めての作曲家自身の信仰と音楽の融合の証しでもありましょう。

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リヒターのことを書くたびに再三触れることだが、中学生のときに買った1枚のリヒターのレコード。
750円だったかと記憶するが、リヒターの演奏のサンプラー盤で同様の企画が、カラヤンとアルヒーフレーベルにもあった。
1曲目がクリスマスオラトリオの第1曲めで、私は一発でこの晴れやかな音楽が好きになってしまった。
そしてリヒターという音楽家とバッハの音楽の切り離すことのできないイメージが植え付けられ、指揮、鍵盤楽器奏者としてのマルチぶりも印象付けることとなりました。
そう、このレコードには、ほかにマタイの最終合唱曲と「トッカータとフーガ」「イタリア協奏曲」が収められていたほか、ハイドンの時計の2楽章も収録されていました。
まさにすり減るほどに聴いた1枚なのです。

この演奏で、輝かしいトランペットを一部担当しているのは、モーリス・アンドレです。
しかし、それが突出しないのは、リヒターの厳しい目線と音楽造りがあるから。
カッチリした構成のもと6つのカンタータの集積であることもよくわかるし、それぞれの祝日の意味合いもクリスマスという喜ばしい、キリスト教徒最大の祭日の日々に相応しいワクワク感も感じさせます。
6つのカンタータのそれぞれの祝日に合わせたカンタータの特徴と、それらをひとつにまとめ込む構成力の豊かさ。
そしてそこにあるのは、敬虔な祈りとバッハの音楽への演奏家たちの熱い情熱と貫かれた緊張感。
リヒターの一連のバッハ演奏に共通するものです。
迎えることのなかった60代のリヒター、さらに円熟を重ねるはずだったそのあとのリヒター、その演奏を永遠に確かめることが出来なくなったのは、人類の痛恨事だと思う。

まさに天使のようなヤノヴィッツの無垢なる美声、いま聴くとヴィブラートがやや気になるが、やはりその声の存在感と馴染みある声が魅力のルートヴィッヒ。
なによりもこの録音の翌年に亡くなってしまうヴンダーリヒの素晴らしいエヴァンゲリストとテノール。
このテノールの早逝もリヒターと同じく、音楽界の痛手であり、最高の福音士家とシューベルトとモーツァルト歌いを失ったことになる。
早くに引退したバスのフランツ・クラスも私にはワーグナー歌手としてありがたい存在で、美声の深い声は素晴らしいです。

指揮者、歌手、このメンバーのなかで唯一存命なのは、ヤノヴィッツさん。
1937年生れで、母国オーストリアにてまだお元気のご様子。
ルートヴィッヒは4年前に93歳で亡くなっているが、ともにベームやカラヤンのもとで歌ってきた大歌手。
お元気でお過ごしいただきたいです。

リヒターの記念年、あらたなマスタリングで名盤が再発される様子です。
刷新された音で、新鮮な発見もあるかもです。

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東京は相変わらず華やかでして、電車に乗って1時間でいま住む町に帰ってくると、真っ暗で唖然とします。

キレイだけれど、毎日見てるとどうだろうかと思うし、毎日見るなら海や山の方がいいと思うようになった。

Marunouchi

丸の内の仲通りも、人でごった返してましたよ。

次のブログでは、今年お別れをした演奏家を振り返ってみたいと思います。

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2025年10月10日 (金)

バッハ カンタータ第51番、第199番 ドゥヴィエル

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今年の彼岸花は、例年より遅く開花し、ちょっと涼しくもなったものだから長く咲いていたように思います。

ちょっと田舎暮らしなので、少し車を走らせると、畑や田のあぜ道にきれいに整列して咲いてたりして、赤と緑のグラデーションがきれいなのでありました。

ようやく秋。

ノットのマタイから2週間後、はやくも次の東響定期の日がやってきますが、プログラムは「田園」と「ハルサイ」ということで、マタイの耳からいきなりギアチェンジしなくてはならなくて・・・
その前に、バッハの教会カンタータを聴いときます。

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  バッハ カンタータ「全地よ,神に向かいて歓呼せよ」BVW51

      カンタータ「わが心は血の海に漂う」BWV199

           S:ザビーネ・ドゥヴィエル

  ラファエル・ピション指揮 ピグマリオン

       (2020.12 @聖霊教会、パリ)

バッハの教会カンタータのソプラノのための作品の代表作のふたつ。

51番は、三位一体節後第15日曜日(またはすべての機会)=1730年9月17日初演。
199番は、三位一体節後第11日曜日=1713年8月27日初演、1723年再演。
それぞれの礼拝のために書かれたカンタータで、199番は1911年に発見された.

トランペットの華やかなソロもあり、さらにソプラノにもコロラトゥーラの高度な技量も求められる華やかさとともに、清涼な祈りのアリアも持つ明るいカンタータが51番。

一方、おっかないタイトルを持つ199番は、オーボエのソロが活躍し、それはソロに寄り添うように、沈痛であったり最後には喜ばしくあったりととても雰囲気豊かで、人間の篤い信仰心を描いたカンタータです。
ちなみにこのタイトルは義の人イエスに対し、苦悩するわれ(自分)の心情のこと。

アレルヤで締められる神への賛美の51番、同じ賛美でも悲しみと苦悩を経て、感謝へとつながる191番。
トランペットとオーボエという楽器の選択の違いでも、その性格の違いがよくわかる2曲でありました。

こうした作品のふたつをメインにすえ、ヘンデルのブロッケス受難曲、ジュリアスシーザーからのアリアも配したCD。
バッハとヘンデルの音楽の違いも明らかになる。
いま大活躍のフランスのソプラノ、ドゥヴィエルの清らかでありつつ、軽やかで無垢なる歌声がすばらしく、さながら天使のようだ。
透明感もあふれるその声は、バッハの宗教的な作品にその清潔感がぴたりとはまり、それはヘンデルのある意味、人間味あふれる音楽にも混じりけがなく心地よくはまってます。
ご亭主のピションは、オペラ指揮者としてもモーツァルトを中心に目覚ましい活躍を見せてます。
学究肌のピションは、多面的な研究のもと、斬新な解釈をみせるものの、その音楽が四角四面にならずに、ともかく明るく爽やかなところがよい。
ここでも古楽器がいにしえの鄙びた響きでなく、いまここにある現実のものとしてナチュラルに聴かれるところが新鮮だ。

かつて聴き親しんだリヒターの一連のバッハとは、また違う次元、さらにはアーノンクールやヘルヴェッヘ、ガーディナー、鈴木などともまた異なる清涼感もあるラテンテイストのバッハが、とても気にいってます。
同じことがドゥヴィエルの歌唱にもいえて、手持ちのシュターダー、マティス、ポップともまた異なるバッハとして心地よく聴きました。

 「ドゥヴィエルヌ モーツァルト歌曲とアリア」

「ルチア・ポップ カンタータ第51番」

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2025年10月 1日 (水)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮 マタイ受難曲

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サントリーホールのお隣にある霊南坂教会のステンドグラス。

待ちに待った、ノットと東京交響楽団の「マタイ受難曲」

開演に先立ち、教会に立ち寄りました。

次の日、日曜の礼拝にそなえてオルガンを練習する音色も聴かれまして、おそらくバッハのコラールでしょうか

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  東京交響楽団 第734回 定期演奏会

       バッハ マタイ受難曲 BWV244

    エヴァンゲリスト:ヴェルナー・ギューラ
    イエス:ミヒャエル・ナジ
    ソプラノ:カタリナ・コンラディ
    メゾ・ソプラノ:アンナ・ルチア・リヒター
    テノール:櫻田 亮
    バリトン:萩原 潤
    バス  :加藤 宏隆

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
              東響コーラス
              東京少年少女合唱団

      合唱指揮:三浦 洋史
      ヴィオラ・ダ・ガンバ:福澤 宏
      児童合唱指揮:長谷川 久恵
      コンサートマスターⅠ:小林 壱成
      コンサートマスターⅡ:景山 昌太朗

        (2025.9.27 @サントリーホール)    

コンサートホールでのマタイ受難曲。
まさにコンサートスタイルでの現代楽器による演奏スタイルとしては最高峰に位する名演奏でした。
あらゆる演奏スタイルを受容するバッハの音楽、そのどれもがまさにバッハであり、バッハの音楽の懐の深さたる由縁であります。
クラシック聴き始めのころ、ジャック・ルーシェなどのジャズの領域におけるバッハ演奏に、ものすごく反発を覚えた自分です。
しかし、いまやそんなことは乗り越えて、正式にバッハを演奏するにしても、その奏法はあらゆる方法があり、そのどれもがバッハなのであります。

サイモン・ラトルばりに、古楽奏法を意識したスピーディかつ切り詰めた表現をするかと思った。
しかし、そんな予想はまりきり外れ、このサントリーホールでの指揮が自身初のマタイとのノットのすごさを今回も思い知るところろなった。

ふたつのオーケストラを左右に配し、総勢は50名ほど。
合唱は東響コーラスがフルスペックで100名以上に、少年少女合唱団。
ここからしてすでに予想は外れ、ソリストと、いつものにこやかなノットの登場するところとなった。

そして全霊を込めた指揮に導かれて鳴りだした音楽は、ヴィブラートをほぼ抑えながらも、じつに豊かで壮麗なもので、そのテンポ感もゆったりめだった。
この予想外の展開に、一瞬そうきたか、と思ったものの、数秒でもう涙腺を刺激されてしまうほどに真実の響きがあった。
いつもの暗譜での東響コーラスも切実なる歌を聴かせて、さらに加わる清澄な少年少女合唱団にも心動かされた。
 このあといくつもあるコラールは、客観性を持たせつつも、その前後の局面でのイエスの置かれた状況への感情移入を絶妙に変えてみせたように、多面的な表現もプラスされていたと思う。
ただ多くの方が感じたかもしれないが、人数がちょっと多すぎて、コラールでは音の輪郭や核心がぼやけてしまったかもしれない。
あと、子音のアクセントが効きすぎて聴こえたことも指摘しておきたい。
でも、この人数での合唱は、コラール以外の群衆の集団や心理などで、実に有効だったし、そのあたりがノットの狙いでもあったものと思う。

私は聴きながら、何度も涙ぐみ、感動のあまりに心が揺さぶられ、手も組み合わせつつ聴き進んだが、この演奏はリヒターのあの峻厳な演奏を現代によみがえらせ、もっと柔和に血の通った人間ドラマにしたものではないかとも思った。
第1部の最後の合唱における優しい響きはいかばかりだったろうか。
第2部に入ると、ノットの指揮の集中度はさらに高まりつつ、東響のソリストたちの素晴らしさも手伝い、音楽の美しさを掘り下げるようで、アリアの数々は本当に美しくてどこまでも続いて欲しいとその都度思うのだった。
さらに劇性も増してゆくかと思い、「バラバ!」「十字架に!」の群衆の叫びをさぞかし・・・と待ち受けていたら、そんなでもなかった。
そこが突出することを避けたのか、全体のなかのバランスとしての経過点に過ぎず、その後のコラールの静謐さとソプラノのアリアの虚無的なまでの無常観、メゾのアリアの淡々とした悲しみ、このあたりへの対比が実に素晴らしく、ここでもワタクシは涙ひとすじ・・・
「安らかに、おやすみください」の最後の合唱。
3時間以上の受難曲の終わりを飾る慰めと無常に満ちたこの音楽に、合唱もオーケストラもソロたちまでもが一体となってノットの神々しいまでの指揮のもとに応えておりました。
音楽が終わっても、会場は静寂のまま・・・・
最初は拍手することすらできなかった私、涙をぬぐって満場の喝采に参加しました。

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実績ゆたかなウェルナー・ギューラの福音史家、初めて聴くとおもったらそんなことはない、手持ちの音源を調べたらいろんなところに名前が出ていた。
知的かつ繊細な歌いまわしは、客観性もあってイエスの受難の物語の語り部としてふさわしい風格と気品もあった。

イエスを歌ったミヒャエル・ナジ、夏にはバイロイトの新演出マイスタージンガーで、印象的なベックメッサーを歌い演じたばかり。
芳醇な声と明晰さ、そして力強いバスバリトンの声も、ここではホールに響き渡らせてくれた。
多くの聴き手が、ナジの声には驚いたはずで、2部では登場も少なかったので、アリアなども出来れば聴きたいと思ったことだろう。
この先、オランダ人やウォータンとしても活躍すると思う。

コンラディのリリカルだけれど、言葉のひとつひとつが明快で、その澄んだ声と明瞭な言葉がほんとに心地がよかった。
その無垢なる声で歌われるソプラノのアリアの数々、ほんとに素敵だった。
彼女もバイロイトで歌っていてリングの第一声を飾るウォークリンデ役だ。

マタイ受難曲の歌手たちの肝ともいえるメゾのルチア・リヒター。
彼女は、ほんとに素晴らしかった。
バッハの音楽への共感にあふれた没頭感が、その姿と歌声ににじみ出ていて、情感を真摯に言葉に載せるナチュラルさも特筆すべき歌唱だった。
そう、「Erbarme dich」では、小林コンマスの美音のソロも手伝い、あまりの正鵠を射る歌に、この日、最大の落涙をしたのでした。
最後の合唱で、折り番となったコンラディとリヒター、合唱と一緒に感動とともに歌っていたのが印象的だった。

実績ある日本人歌手3人も負けじと素晴らしかった。
テノールの櫻田さん、甘い声でもあり、その優しい歌声がよかった。
数々の舞台で接してきたバリトンの萩原さん、ドイツ語も明快でイエスの死後の晴朗なアリアなどは効きごたえ十分。
ピラトも歌ったバスの加藤さんの深みのある声も魅力的で、わたしのイエスを返せでは景山さんのヴァイオリンソロも素敵で、渋い光沢のある声が光りました。

最後に最大級に讃えたい東響の皆さんのソロ。
竹山愛さんのほれぼれするほどのフルート、篠崎さんとの二重奏も素敵だった
そしてオーボエ・ダカッチャの最上さん、オーボエの荒さんの抜群のコンビネーション。
通奏低音で大活躍のチェロの伊藤さん、こんなに大変なんだと見て聴いて感心。
福澤さんのヴィオラ・ダ・ガンバの古雅な響きに切なさまで感じてしまった。
ふたりのコンマスの美音も先にふれたとおり。

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このようにバッハの音楽には、ひとりとして脇役はおらず、全員がバッハの音楽に奉仕するように作曲されていると思う。
その印象は、ノットの自主性を引きだす自在な指揮によるところも大きかった。

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あまりの感動の大きさに、忙しさもありましたが、しばらくは音楽が聴けない状態にあります。

偉大なり、バッハ、マタイ受難曲

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2025年9月24日 (水)

バッハ コーヒー・カンタータ コレギウム・アウレウム

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ベタですが、コーヒー☕
しかもお馴染みのコメダです。

名古屋発祥のコメダ珈琲店は、かつては愛知県を中心とするローカルチェーン店だった。
私は名古屋に単身赴任歴があり、その頃は東海3県ぐらいの出店で、ともかく外で打ち合わせなどをする場合は必ずコメダだった。
喫茶店&モーニング文化の成熟した名古屋圏ならではのスタイルが、いまは全国に浸透し、日本のすべての都道府県でコメダのコーヒーと美味しい軽食が楽しめるようになりました。

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バッハ カンタータ第211番「お静かに、おしゃべりせずに」

    「コーヒー・カンタータ」

   S:エリー・アメリンク
   Br:ジークムント・ニムスゲルン
   T:ジェラルド・イングリッシュ

   指揮:ラインハルト・ペータース   

    コレギウム・アウレウム合奏団

          (1966 @キルハイム)

教会カンタータと対局にあるバッハの世俗カンタータ。
教会の礼拝や暦に則した教会カンタータに対し、お祝い事などで依頼を受けて書かれたのが世俗カンタータで、いつものバッハの厳しさとは違って、物語り性のある楽しい音楽だったりもします。

文化としてのコーヒーは、ヨーロッパでは1600年代半ばにロンドンを中心にして広まり、フランス、オーストリア、ドイツと広まっていった。
アフリカ、中東からの流れであり、それはイスラムとの関連もあるが、ヨーロッパではまさに列強の植民地からの流れだろう。
バッハのいたライプチヒでもコーヒーは女性を中心に大流行。

すぐれた台本作者であったピカンダーというペンネームを持つクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリツィの台本。
このコンビは、「マタイ受難曲」という人類の宝ともいうべき作品を残してます。

ユーモアに富んだ、楽しくもペーソスあふれる内容。
テノールは語りで、コーヒーに夢中の娘とそれ止めさせたい父親のちょっとした物語。
「静かにおしゃべりをしないで聴いて」とテノールの語りから始まる。
父親は娘が言うことをきかないとこぼし、娘はコーヒーを飲まないとおかしくなる、コーヒーはキスよりも葡萄酒よりもおいしいわ、と歌う。
父は、旦那さんが見つからないぞ、と脅しをかけるが、それならすぐに見つけてきて、それならコーヒーは止めるわよ、とうそぶく。
父は急いで婿探しに出かけるが、実は、娘はコーヒーを飲ませてくれない夫はお断り、と言ってまわっているそうな・・・

可愛いアリアが聴きものの素敵なカンタータ。
コーヒーのかぐわしい香りの似合うバッハの音楽であります。

私のようなちょっと古めの70年代男には、極めて懐かしいコレギウム・アウレウム合奏団。
ハルモニアムンディレーベルは、日本ではBASFレーベルとして、テイチクが販売を請け負っていた。
当時としては斬新だった古楽器を使用しての合奏団で、指揮者は置かず、キルハイムの古城のひと間を録音会場としていた。

ここでは指揮者の名前にラインハルト・ペータースがあり、まとめ役みたいな存在だったのだろうか。
このペータースも日本人には馴染みのある、懐かしい名前です。
N響によく来ていて、いわゆるドイツのオペラハウスの中堅的な存在で手堅い指揮ぶりで、テレビとFMでよく聴いてましたね。
いまこの合奏団の音を聴くと、どこが古楽だろうか、古楽器だろうかと思われるでしょう。
ピッチはやや低めで、ヴィブラートも普通にかけられている。
でもその音には落ち着きがあり、いぶし銀のような渋みもあり、心地よくも懐かしいのです。

そして清廉なるアメリングの歌声は、もはや癒しの境地にすらあり、ほんとに素晴らしい。
ワガママ娘というよりは、父親もコーヒーも大好きな優しい娘に感じます。

父親はニムスゲルン。

Nimsgern

実は、ニムスゲルンはこの9月14日に85歳で亡くなりました。
歌曲も宗教作品も、オペラにも、いずれも第1級のバリトンで、声域はバス・バリトン。
ここで聴く父親としての歌いぶりは、とても若く軽やかです。
のちにリリングのもとでバッハ作品をたくさん録音、カンタータや「マタイ」のイエスも懐かしいです。
さらにアイーダのアムナズロも得意役だったし、なんたってワーグナーですよ。
シェローのあとのバイロイトのリングで、ショルテイに抜擢されウォータンを歌った。
このときの録音は、エアチェックして愛聴しているがとくに指揮がシュナイダーに変わったときのものは、最高の美声のウォータンとして、私は大いに気にいってます。
ここにジークムント・ニムスゲルンへの追悼としても、この記事を起こしました。

アメリングはまだお元気の様子で、1933年生れで92歳。
ずっとお元気でいらして欲しい歌手のひとりです。

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前にハイドンの四季で出した画像ですが、わたくしもコーヒーは欠かせません。

毎朝、食事のともに、2杯は飲みます。
かならずそのまま、なにかを入れると飲めません。

ようやく秋の気配が感じられる頃、今週末はノット&東響の「マタイ受難曲」です。
ここでのイエスは、今年のバイロイトでナイスなベックメッサーを歌ったミヒャエル・ナジです。
もう平常心で聴くことができない予感、聴く前から感動してる自分って・・・
コーヒー飲んで落ち着こう☕

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2024年3月31日 (日)

バッハ マタイ受難曲 ヨッフム指揮

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いま咲き始めたソメイヨシノではなく、こちらは少し前の河津桜。

富士の見える丘があるのは、今いる町の隣の町です。

丹沢山脈と大山も大きくみえるステキな場所。

どんなこと、いろんな辛いことがあっても季節は巡ってくる。

春がやってきて、宗教に関係はなくとも、復活祭の日が来ると聴きたくなる音楽。

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  バッハ マタイ受難曲 BWV244

       福音史家:エルンスト・ヘフリガー 
   イエス:ワルター・ベリー
   ペテロ:レオ・ケテラース

   アルト:マルガ・ヘフゲン  
   ソプラノ:アグネス・ギーベル
   テノール:ヨン・ファン・ケステレン  
   バス:フランツ・クラス
  
  オイゲン・ヨッフム指揮 
    アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
    オランダ放送合唱団
    アムステルダム聖ウィリブロード教会少年合唱隊

        (1965.11 @コンセルトヘボウ アムステルダム)

わたしのような世代にとって、マタイ受難曲はかなり特別な存在であり、カール・リヒターの演奏こそが絶対的な存在でありました。

音楽聴き始めの少年にとって、レコ芸のみが音楽知識と情報の根源だったので、評論家諸氏が、「マタイ」という音楽の素晴らしさを連呼し、リヒターのアルフィーフ盤が基本ベースとして語られることが多かった。
当然にマタイを理解するには、東洋の中学生には無理なはなしで、その音楽のみは、リヒターのサンプラーレコードでの最終合唱の場面にみを知るという状況でした。

そんな私に、「バッハのマタイ」を知らしめたのは、ヘルムート・リリングが手兵のシュトットガルト・ゲヒンガー・カントライを率いて来日し、NHKでそのマタイが放送されたときだ。
アダルペルト・クラウスのエヴァンゲリストも鮮烈だったし、なにより聖書を読む福音史家という存在そのものが興味の大いなる対象となった。
ミッション系の学校にいたので、聖書と読み比べ、「マタイによる福音書」の受難の場を実際に読んで、バッハがどう音楽にして、共感して、そこに合唱やアリアをいかにつけていって、感動的な大きな作品をつむいでいったか、そのあたりをよく調べ、勉強もしました。

そこで初めて買ったマタイのレコードが、リヒターではなく「ヨッフムのマタイ」でした。
理由は簡単、フィリップスが宗教音楽の廉価シリーズを出しまして、このマタイは1枚1,800円の4枚組ということで手の出しやすい価格だったからなのです。
このジャケット、レンブラントの「キリストの昇架」を用いていて、オランダつながりでこの演奏にも似た落ち着きと、ほの暗さを感じる秀逸なものだった。
タワレコの復刻CDを入手したが、ここではデッカの濃青と赤のレーベル刻印があり、イメージ的にちょっと残念。

復刻されたその音は、65年という年代を感じさせる、丸っこいもこもこ感もあり、その点はレコードで聴いていた心象のそのままで、もっと刷新された音を期待したものの、でもやはり安心したというのが正直なところでした。

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メンゲルベルク以来の伝統あるコンセルトヘボウの「マタイ」

同楽団の演奏アーカイブを調べてみました。
遡ると1891年からマタイの演奏歴はありました。
作曲家だったユリウス・レントゲンからの記録、メンゲルベルクは1899年から登場し、アーベントロートなどの登場もありますが、1944年までずっと続きます。
その後は、クレンペラーをはさんで、1947年からはベイヌムとなり亡くなる58年まで。
ここでハイティンクが登場するかと思いきや、ベイヌムの追悼演奏会で、マタイの最終合唱曲とブルックナーの8番を指揮したのみでした。
こうしたアーカイブを眺めるのはほんと楽しいです。
メンゲルベルク、ベイヌムのあとを継いだのはオイゲン・ヨッフムです。
ヨッフムは、1961年から1972年まで、コンセルトヘボウのマタイの指揮者となりました。
それ以降の指揮者たちは、ライトナー、ノーベル、アーノンクール、コープマン、フェルドホーフェン、シャイー、ヘルヴェッヘ、ノリントン、I・フィッシャー、I・ボルトン、ブットと年替わりで変わってます。

かつてのようなマタイの絶対的な指揮者がコンセルトヘボウにはもういない、ということでありましょう。
この構図とまったく同じに思えたのが、「バイロイトのパルジファル」です。
クナッパーツブッシュの絶対的な存在のあと、ブーレーズと、ここでもまたヨッフムが続いたわけで、その後は演出も長く続くものはなく、指揮者もその演出によって変わるようになりました。

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ヨッフムの滋味あふれるバッハ。
ヨッフムはバッハの4つの宗教作品をすべて録音しました。
オーケストラもコンセルトハボウとバイエルンというヨッフムにもっとも親しいオケであり、かつブルックナーを指揮するときの手兵でもありました。

古楽器や現代楽器でも古楽奏法によるバッハに耳が慣れてしまった自分。
従来奏法による、フルオケによる演奏は、なんだかとても懐かしく、むかしの家のタイルの風呂にバスクリンを入れて入ったような、そんな安心感と懐かしさを感じます。
変な例えですが、むかしのお風呂はよく響く残響豊かなもので、いまのお風呂はデッドな響きだと思ってます。
子どもの頃、お湯をはらない風呂場にラジカセを持ち込んで楽しんだものです。

話しは脱線しましたが、そんな懐かしい温もりあるマタイの演奏。
リヒターのような厳しさはなく、温和な雰囲気とイエスへの愛情と穏やかな信仰心の裏付けのある誠実な演奏。
ドイツの街々には宗派は問わず、教会があり、街のいたるところに磔刑のイエスが立ったり、宗教画が掲げられたりします。
そんな日常風景が似合う、そこで聴かれているようなマタイだとも思いました。

ヨッフムの温和で、全体を包み込むような優しいタッチの音楽づくりは、健全きわまりないバッハ演奏にふさわしく、ドイツ・ヨーロッパのどこにでもある教会から派生した音楽であることを強く思わせます。

歌手の平均値が高いことも、毎年同じメンバーできっと演奏してきたルーテイン感を通り抜けた完璧な均一な色合いがあることでわかります。
なんといっても、ヘフリガー。
リヒター盤での禁欲的な存在から、少し踏み込んで、人間味を感じる豊かさと、完璧なまでのディクション。
見事の一言につきるし、過剰でない節度を保った感情表現もヨッフムの音楽姿勢によくあってます。
同じことがベリーにもいえて、歌のうまいベリーがかなり神妙に感じたりも。
ギーベル、ヘフゲンといった女声陣も慎ましくも感動的な歌唱で、泣かせます。

若き日より聴きなじんできた音楽家の重なる訃報。
自身でいえば、介護に明け暮れながらも、自宅で仕事ができることのありがたさ。
なによりも、身近なところで、人間の老いの哀しみと希望の見出し方など・・・・いろんな経験と発見がある喜び。
そんななかで聴いた、耳に馴染みある「ヨッフムのマタイ」がともかくありがたかったし、変わりなく耳に響いたことがうれしかった。

ペテロの否認のあと「Erbarme dich」をまじまじと聴く、そして涙す・・・・
ロマンティックに傾くヴァイオリンソロ、遠景のように遠くに響くオーケストラ、感情表現少なめの淡々としたヘフゲンのソロ。
いまではありえない、再現のしようもない、60年代のヨーロッパのバッハ。

世界は東西陣営の時代から、大国陣営の時代、さらにはいまや分裂・分断により多極化の時代となった。
各地で起きてる戦争行為は、同じ連中のもので、次の大戦がもはやサイレントに起きているとも思われる。
こんな世界でも、音楽はかわりなく響き、あらゆる垣根なく、世界の人間に等しく感動的に響く。
ことにバッハの音楽はそのような存在だと思いたい・・・・

Nakai

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2022年4月15日 (金)

バッハ マタイ受難曲 マウエルスベルガー指揮

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芝増上寺の子育地蔵、子供の無事成長、身体健全、水子供養のために、1300体のお地蔵が安置されてます。

桜吹雪を起こす風が、お地蔵さんの風車もからからと回し、彼岸の域の様相を呈します。

拝む神様は、世界でさまざまなれど、その祈る心は同じ。

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3月の最終日、東京生活のピリオドを打ちに参上し、もう終わりかけた増上寺の桜を見てまいりました。

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  バッハ  マタイ受難曲 BWV244

   福音史家:ペーター・シュライアー 
   イエス:テオ・アダム
   ペテロ:ジークフリート・フォーゲル
   ユダ:ヨハネス・キューンツェル
   ピラト:ヘルマン・クリスティアン・ポルスター

   アルト:アンネリース・ブルマイスター  
   ソプラノ:アデーレ・シュトルテ
   テノール:ハンス・ヨアヒム=ロッチェ  
   バス:ギュンター・ライプ
  
  ルドルフ・マウエルスベルガー指揮 
    ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
    ライプチヒ聖トマス教会合唱隊
    ドレスデン十字架教会合唱隊

        (1970 @ルカ教会 ドレスデン)

2022年のイースターは、4月17日。
キリストが磔刑にあった、聖金曜日は15日ということになります。

人類にとっての至芸品ともいえる、バッハのマタイ受難曲。
今年ほど、この音楽が人類への警鐘とも聴こえる年はないのではないか。

キリスト者からみた、人類の救い主たるイエスの受難の物語。
新約聖書のドラマテックなクライマックス、イエスの呪縛と、磔刑にいたる緊迫の物語。
自身を鏡で映しだされてしまうかのような、心の内とその存在の弱さをバッハは厳しくも音楽で優しく描きつくした。
そこに共感することで、宗教を超え、人間としての存在の深淵をのぞきこめる普遍的な価値をここに見出す。


中学生のときに聴いたリヒターの、最後の合唱「Wir setzen uns mit Tranen nieder」。
そこから始まった、わたくしの、マタイ歴はワーグナーとディーリアス同様に長い。
同時に聖書を物語的に読むにつれ深まる疑問とそこにある不変の感銘。
1974年、H・リリングが初来日し、そのときのマタイをテレビやFMで視聴したことが初の全曲体験で、アダルペルト・クラウスの福音史家も思い出深く、テノールのこの役柄がバッハのこの音楽にとっていかに大切なものであるかも、このときに痛感したものだ。
リリンクのあの時の演奏は、マタイを知るきっかけとなった一方、多くの方がそうであるように、リヒターの峻厳な演奏が、マタイのひとつの指標になっていて、それをベースに他の演奏を聴くということが自分でも起きていたと思う。

1972年にレコード発売されたマウエルスベルガー盤は、レコ芸で見てからずっと気になる存在だったけど、もちろんその頃は4枚組のそんな大曲など遠い存在すぎて、聴くすべもなかった。
その後、ずっと忘れていたマウエルスベルガー盤が無性に聴きたくなったのは、ここ数年のことで、昨年、ようやく入手して静かに楽しむこと数日、そしてほんとうに飽きのこない、でもこれと言って大きな主張もないこの演奏がとても好きになりました。

兄弟でバッハの守護者のような存在だった、ルドルフとエールハルトのマウエルスベルガー氏。
全体の指揮をとった兄ルドルフはドレスデンで、弟エールハルトはライプチヒでそれぞれ活躍し、この録音でも双方の教会合唱隊の指導を行ってます。
ルドルフ・マウエルスベルガーは、この録音時81歳で、翌年に亡くなってますので、ピンポイントでほんとうにいい時に録音されたものです。
 ここに名を連ねる、当時の東ドイツ側の歌手たちも、いまや物故してしまった。
ドイツ的なるものを宿していた時期のバッハは、いまのインターナショナル化してしまった旧東ドイツ系のオーケストラでは聴かれない、いい意味での古雅な響きを持っているし、ドレスデンのルカ教会での録音も、まさにこの時期ならではの響きがする。

おそらくバッハにその人生の大半を帰依し、ともにあったマウエルスベルガー兄弟。
リヒターのような強い主張はここではまったくなく、淡々とバッハの音楽が流れゆくのみで、群衆の「バラバ」「十字架に」という言葉も劇的になることなく、必然としてのように歌われるし、ペテロの慟哭のあとのアリアも物静かに進行する。
マウエルスベルガーのマタイは、バッハの音楽そのものしか感じることができず、指揮者の存在や関与を感じさせないという点で稀有の存在なのではないかと思う。
名のある歌手たちも、指揮者の元に極めて禁欲的につとめていて、名エヴァンゲリストとなっていくいくつもあるシュライアーの録音のなかで、これが一番素晴らしいと思う。
過剰な歌いこみのない、ペテロの否認の場面は極めて感動的。
テオ・アダムとブルマイスター、バイロイトでウォータンとフリッカのコンビだったふたりも、抑制された歌いぶりで、いぶし銀的な味わいがあり、ほかの歌手たちも同様。

オーケストラ、独唱、合唱、少年合唱、録音チームのひとりひとりまで、バッハを歌い、演奏するという長き伝統に裏打ちされたひとつの理念でもって統一感があって、何度もいうが、渋いけれど、なにも起きないけれど、普通に素晴らしい演奏だと思うのであります。
リヒター、レオンハルトとともに座右においておきたい。

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花曇りだけど、増上寺と東京タワーに桜は映えます。

東京タワーの横には、ロシア大使館の前に建設中のビルがだんだんと出来上がってきて、正直言って、景観をそこねている。
日本一の高層ビルになるようで、そのようなもの、もういらないとホント思います。
いろんなところでビルの工事中であった東京を去り、何もない場所に帰ってきてほぼ1か月。
毎日、窓の外が額縁みたいです。

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次に聴きたいマタイは、アバドとベルリンフィル。

イタリアのレーベルから限定で出ていたが、あまりに高額で手も足もでない。

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2021年4月 4日 (日)

バッハ カンタータ リヒター&鈴木雅明

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桜前線北上中。

わたしの住む関東はもうおしまい。

例年なら、イースターのころ合いに満開を迎える日本の桜です。

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今年の復活祭は、4月4日。

復活節にまつわるバッハのカンタータをふたつ、往年の演奏と今現在のものとで。

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 バッハ カンタータ第4番 BWV4

    「キリストは死の縄目につながれたり」

   Br:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

 カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
            ミュンヘン・バッハ合唱団

      (1968.7 @ヘラクレス・ザール、ミュンヘン)

復活節日曜日(第1祝日)用
200曲あるバッハの教会カンタータは、聖書と密接に結びつく礼拝に伴うカンターであり、その語句は、聖書はおろか、キリスト教に馴染みのない多くの日本人には、身近な存在とはいえないだろう。
 しかし、バッハの音楽は、そのハンディのようなものを補ってあまりあるもので、汲めどもつきぬ味わいと楽しみがあると思う。
かくいうワタクシは、ほんのさわりだけしか聴いてはいませんので、偉そうなことはいえません。

ライプチヒのトーマス教会カントルの時代に書かれたのが、バッハの教会カンタータの全盛期ですが、そのずっと前、ミュールハウゼン時代からカンタータの創作を始め、「キリストは死の縄目につながれたり」はこの時期のもので、バッハ22歳の頃のもので若い時分の作品です。

若い作曲家にたがわず、実に重々しく充実した内容のカンタータ。
悲劇臭極まりない冒頭シンフォニアに始まり、ルターのコラールを全編に採用し、それを変奏したものを続けるという構成。
前半は「死」という言葉が文字通りに横溢し、後半は生命と死、過越しの子羊に十字架、さらに明るき光明、信仰の生命、ハレルヤと続く。
暗から明、信仰への清き思いという礼拝につながるバッハのカンタータの姿が、若い作品のここにもしっかりある重厚な音楽です。

リヒターの厳しい眼差しを伴った指揮は、ここカンタータでも、マタイやミサ曲の演奏と同じく。
峻厳なバッハには、かねてより襟を正さざるをえませんし、そうした聴き方をずっとしてきた自分。
高校時代からリヒターのバッハを聴いてきて、いつも同じ思いです。
フィッシャー=ディースカウの独唱も、リヒターとバッハをともにするときは、歌いすぎず、巧さもほどほどに、堅実な歌に徹します。
バッハの演奏スタイルは、古楽・古典のそれと合わせて大きく変化して、それぞれが共存している現在、リヒターのバッハにはドイツ音楽としてのバッハを感じさせる気がする。
それもかねての良きドイツ。

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 コロナ緊急事態中は、手水は水を張らずに無味乾燥な存在でしたが、こうして桜を反映させる今、美しいです。

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 バッハ カンタータ第146番 BWV146

  「我らは多くの苦難を経て神の国に入るべし」

   S:レイチェル・ニコルズ
   CT:ロビン・ブレイズ
   T:ゲルト・テュルク
   B:ピーター・コーイ

 鈴木 雅明 指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン
       
    (2008.9.18~22 @神戸松蔭女子学院大学チャペル)

復活節:復活後第3日曜日

ライプチヒ時代、1726~28年の作品で、41~43歳の充実期。
バッハお得意の自作からの引用を冒頭の大きなシンフォニアからいきなり大胆に行ってます。
チェンバロ協奏曲ニ短調 BWV1052からのもので、チェンバロはオルガンにまんま代用されていて、鮮やかなオルガン協奏曲みたい。
次ぐ第2節の合唱も、同じ協奏曲の2楽章からのものです。
ちょっとドラマチックでもあるこのシンフォニアに、礼拝に訪れた信仰の深い聴き手は、ワクワク感と幸福感に冒頭から満たされ引き込まれたことでしょう。
ここでも、暗から明、苦しみから信仰の喜びという流れがこのカンタータでも構成の基本です。
4人のソロがそれぞれに活躍する規模の大きなカンタータでもあります。
第3曲でのオルガンソロでのアルトはふるえる心と、苦しみから抜け出そうとする高揚する面持ちが歌われる。
つぎのソプラノによるレシタティーボは、福音を語りますが、ヨハネ伝16章20節「よくよくあなた方に言っておく。あなた方は泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう」
次ぐ同じソプラノのアリアが美しく素晴らしいと思う。
フルートとオーボエダモーレを伴った落ち着いた雰囲気を伴いつつ、悲しみとともに、種を蒔き、やがて訪れる刈り取りの収穫へと楚々と思いをはせるアリアであります。ここでのニコルズの無垢の歌唱がよい。
やがて、テノールとバスによる喜びにあふれた二重唱は、これまた礼拝堂に集う信仰者の気持ちを高め、明るい思いに満たしたことでしょう。
リズム感あふれるオケに乗って、屈託のない歌は気持ちのいいものです。

今ではすっかりスタンダードになった日本の演奏家によるバッハが、世界でもバッハ演奏の最高のもののひとつとして受け入れられる時代が来ようとは、リヒターのバッハを金科玉条のように思っていた若い時分の私には想像もつきませんでした。
永年の経験と深い探求に裏打ちされたこの精緻なバッハは、繊細で清潔であり、しなやかです。
リヒターのバッハのあとに、鈴木バッハを聴くと、リヒターに聴かれる強烈なバッハへの帰依ともいえるような強靭さのようなものは感じられず、そのかわり、優しく柔和、でも細やかな思いが行き届いているバッハに感じられる。
こんなこと言うと変ですが、農耕民族である日本人のバッハみたいに思いますがいかに。

半世紀の隔たりがあるバッハ演奏。

でもどちらもバッハ。

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2020年4月12日 (日)

マタイとメサイア

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寄り添うように、とか、よく政治家とか、企業CMとか、いやもしかしたら自分も、寄り添うような音楽とかブログで発言してるかもしれない。

けれど、なんか、まやかしのように感じる。
感情論の押し付けであり、ごまかしではないかと・・・

政治家や企業に、本当の心で、そんな風に国民や消費者に接しているとは思えない。
平和なときには、そんな言葉も、優しく響く。
しかし、いまの緊急時には美辞麗句は通用しない。
具体的に何をするかが問われるから。

Shiba-tok-b

しかし、季節はちゃんと巡ってくる。

毎年、イーズターの頃には、散歩も兼ねて増上寺周辺の桜を巡り歩くのだが、今年は、むしろ健康のために歩かなくては、という思いで、控えめの桜見でした。
ここは、見事に美しい椿が桜を背景に咲くのです。

聖金曜日から、復活祭にかけての音楽ということで、「マタイ受難曲」と「メサイア」それぞれ抜粋して聴きました。

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  バッハ 「マタイ受難曲」

   ペテロの否認~あわれみたまえ、わが神よ

    A:ヘルタ・テッパー
    T:エルンスト・ヘフリガー

  カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
             ミュンヘン・バッハ合唱団

先ごろ、ミュンヘンにて亡くなった、テッパーの歌で。
享年95歳のテッパーさんは、理想のオクタヴィアンとして、それとブランゲーネやフリッカなども歌うオペラ歌手でしたが、なんといっても「リヒターのマタイ」のアルト歌手としての存在が、われわれには大きいと思う。

マタイの核心的な場面が、ペテロの否認と、それに次ぐアルトの悔恨のアリアかと思ってます。
この少し前に、イエスによる重要な弟子のひとり、ペテロの裏切りの予言がエヴァンゲリストにより歌われ、鶏が鳴く前に、わたしを知らないと3度言うだろうとします。
そして、ペテロが女中に、この人もイエスと一緒にいたと言われると、わたしはその人を知らないと、ほかのひとにも3度も言ってしまいます。
そこで鶏が鳴き、ペテロは激しく泣くことになります。
 このあたりの、冷静なエヴァンゲリストが、抑揚をつけながらも感情の高ぶりをみせます。

そして、ヴァイオリンソロを伴った感動的なアリアが始まります。
「Erbarme dich」 憐れみたまえ、わが神よ わたしの苦い涙をお認めください
   心も、目も、ともに御前にひざまずき、激しくないております~

人間、誰しも、思い当たることがあるかもしれない、心に秘めたこともあるかもしれない。
そんな心理に光を当てた聖書の場面を、バッハの音楽は実に深く描いている。
テッパーの禁欲的な淡々した歌唱は、この歌の本質をついております。。。。

聴いてて、なんでこんなことになっちゃったんだろ、涙が出てきました。       

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  ヘンデル オラトリオ「メサイア」

   復活~栄光と永遠の命

  S:エディット・マティス   A:アンナ・レイノルズ
  T:ステュワート・バロウズ B:ドナルド・マッキンタイア

 カール・リヒター指揮 ロンドン・フィルハーモニック
            ジョン・オールディス合唱団

Ⅰ「預言と降誕」、Ⅱ「受難と復活」、Ⅲ「栄光と永遠の生命(救いの完成)」

アメリカや日本ではクリスマスに演奏されることが多いので、きらびやかな印象がある「メサイア」。
ましてバッハと比べると、開放的で、音は外に向かって行く印象を受けるが、でもしっとりとしたアリアもたくさん。
アリアと晴れやかな合唱の対比こそ、オペラ作曲家としてのヘンデルの真骨頂。
最近、ヘンデルのオペラをネット視聴したりすることも多く、少しハマりだしました。
そんな耳で聴くと、豊麗なヘンデルサウンドのなかに、人間の悩みや悲しみも織り込まれているのを感じます。

ハレルヤのあと、ソプラノの楚々とした信仰告白ともとれるイエスへの想いを歌ったステキなアリア。
そして不滅の偉大さをトランペットを伴って歌うバスの神々しいアリア。

リヒターの英語版メサイアが、ロンドンフィルで録音されたことはありがたいことでした。
LPOの暖かくも、くすんだ弦が素晴らしく効果をあげてます。
マティスの無垢ともいえる歌声もいい。

最後はイエス賛美の、アーメンコーラス。
キリスト者ではありませんが、人類がいまの苦難に打ち勝つこと、この音楽も輝かしくも、壮麗な光で世界を照らしてくれることを願います。

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早朝のせいもあるけど、誰もいない増上寺(4/4)
ほんと、ひといません。

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来年は、楽しく桜を愛でることができますように。

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2019年9月28日 (土)

バッハ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ アーヨ

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変わりやすい秋の空。

ちぎれたウロコ雲も秋っぽい。

これから深まる秋に、バッハの無伴奏。

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 バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ

     Vn:フェリックス・アーヨ

       (1974.12.29~1975.01.02 @ローマ)

バッハの無伴奏といえば、ヴァイオリンかチェロ。
ヴァイオリンが、ソナタとパルティータで、チェロは組曲。
その楽器の特性を見事に読み込んで、これらの形式を選択して作曲したバッハ、今さらながらその慧眼に驚きと感謝を禁じえません。
あ、あとフルートにも孤高の無伴奏ソナタがありますね。
いっとき、フルートを嗜んだものですから、そのソナタ、最初のほうだけ結構吹きましたものです。

わたくしの無伴奏の初レコードは、フェリックス・アーヨのものです。
初出のときは、高くて手がでなかったし、なによりも、今では2CDで易々と手に入るシェリングやミルシュテインのレコードは3枚組で、6000円以上もしたし。
そして、バッハのシリーズとして2枚組、2,900円で出たアーヨ盤に飛びついたのは、もう40年くらい前。

たくさんの音源を集めましたが、このアーヨ盤が今でも好き。
ソナタのほうは、入手困難で、悶々としておりますが、よりアーヨ向きのパルティータがCD化されて、ほんとにうれしかった。

イ・ムジチのアーヨ、イ・ムジチの「四季」、アーヨの「四季」という塩梅に、アーヨといえば、イ・ムジチと四季から切り離せないイメージがついてまわりますが、そのアーヨも、イ・ムジチを出てから、クァルテットを結成したり、ソロ活動をしたりと活躍の幅を広げたものの、それらの記録があまり残されていないのが残念です。

そんななかで、貴重なものが、このバッハ。
初めて、レコード針を落とした時に、スピーカーから流れだすヴァイオリンの明るく、艶やかな音色に即時、心惹かれ、魅了されてしまいました。
いま、CDでこうして聴いても、その想いに変わりはありません。
CDだと、ノイズも気にしなくてよいし、より情報量が増した感じで、ダイナミックレンジも広く、高域から低域まで、ここまでまんべんなく朗々とヴァイオリンを鳴らすことのできるアーヨに感嘆してます。

それには、フィリップス録音の優秀さも、一役買っているようにも思います。
ローマでの録音とありますが、こちらは教会を会場としてのものなのです。
豊かな響きは、教会の高い天井にこだまするようにして、教会そのものが、ヴァイオリンと一体化して楽器の一部のようにして感じられるのです。
響きばかりで、ふにゃふにゃしては決しておりませんで、アーヨの芯のある力のこもったヴァイオリンの音色もしっかりと捉えているんです。
 某評論家がかつて言ってましたが、よき演奏は、録音もジャケットもよろしい、と。
ジャケットは再発時のものですが、まさに、その三拍子が整った音盤かと!

もっと、情的なものを抜いて、構成感を高め、緊迫した演奏も、この無伴奏には多くありますが、アーヨの艶っぽい、歌心のあるバッハも、日ごろの緊張や疲れを、優しく包み込んでくれるような感じがして、わたくしには大切なバッハの姿の一面を聴かせてくれるものと思います。
長大な「シャコンヌ」では、いかつめらしさは一切なく、滔々とあふれ出る音楽を素直に受け止めることができる。
 そして、明るく軽快さも感じる3番が一番アーヨらしい演奏かも。
言葉はなんですが、普段聴きできる、アーヨの無伴奏なのでありました。

Shiba-3

高い空にバッハ。

Vivaldi-ayo

ついでに、懐かしの「アーヨ、イ・ムジチの四季」も聴いてみました。
(画像はネットからからのお借りもの)

なんというレトロ感、いやしかし、いまや、これは新鮮だ!
ムーディに流れるようでいて、各章に、心が込められていて、明るい歌のイタリア感も満載。
1959年の録音ということも、いまさらながらに驚き。
世界のベストセラーは、いま聴いても健在。
なにかとポンコツ気味の自分も頑張らなくちゃ。

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