カテゴリー「ツェムリンスキー」の記事

2024年12月10日 (火)

3つのシンフォニエッタ(風の作品)

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隣町にある厳島湿生公園のイルミネーション🎄

厳島神社を島として取り囲むような泉があり、そこは清水が湧いていて古くから野鳥や生物の住む湿性池となってます。

奥に見えるのは大山で、丹沢からの清らかな水系がこの町にも流れてます。

シンフォニストとしてその時代の先端を走ったマーラー(1860~1911)、オーケストラ音楽を極め、オペラ作曲家としてワーグナー後の大家となったR・シュトラウス(1864~1949)。
このふたりの大物と同時代か次の世代の作曲家3人のシンフォニエッタないしは、シンフォニエッタ的な作品を聴きます。

 ・ツェムリンスキー (1871~1941)
 ・シュレーカー   (1873~1934)
 ・コルンゴルト   (1897~1957)

この3人、いずれもユダヤ系であることから戦渦においては大きすぎる影響を受けていることも共通するが、ともにオペラ作曲家でもあったことが共通。
コルンゴルトだけ、年代が少しあとだが、そのため師匠はツェムリンスキーだったりする。
3人ともに、生前は大きく評価され作曲家として、また演奏家として大人気だったし、コルンゴルト以外は教育者でもあったので、弟子筋も多岐にわたっている。

そしてシンフォニストとしてはどうだったかというと、3人ともに本格的な交響曲をいくつも書くタイプではなかった。
・ツェムリンスキー 交響曲第1番、第2番、「抒情交響曲」
・シュレーカー   交響曲op1
・コルンゴルト   交響曲 嬰ヘ長調
ツェムリンスキーには2曲の本格交響曲があるけれど、ちょっとイマイチで、後年の充実期の素晴らしい声楽交響曲の抒情交響曲にはおよばない。
シュレーカーの作品も習作的な雰囲気を出ないがシュレーカーの匂いはする。
そしてコルンゴルトの交響曲はウィーンを出てアメリカに渡ったあと、またウィーンでひと花・・という時期だけにJ・ウィリアムズにも影響を与えたゴージャスシンフォニーだ。

交響曲は3人に濃淡あれど、シンフォニエッタ的な作品は、いずれもそれぞれの特徴が満載で実にステキなものだ。
最近、この3つの作品の演奏頻度があがっていて、海外ネット配信でたくさん聴けてます。
やはりマーラー後の音楽、シンフォニー作品に聴き手の裾野が広がっている。
作曲年代順に。

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     コルンゴルト シンフォニエッタ op.5  (1912)

  ヨン・ストゥールゴールズ指揮 ヘルシンキ・フィルハーモニック

                     (2011.8.10 @ヘルシンキ)

もう大好きすぎて、音源はほぼ持ってます。
演奏会でも2度経験、いつもつい聴いてしまうし、過去記事もたくさん。
同じことばかり書いてるので、コピペします。

1911年、マーラーの没したの年に14歳にして、初の管弦楽作品「劇的序曲」を作曲。
ニキシュとゲヴァントハウス管によって初演され、天才出現の驚きを持って聴衆に迎えられる。
14分あまりの大作で、のちのアメリカ時代の「交響曲」の片鱗をうかがうこともできる佳作。
そしてその次に、コルンゴルトが取り組んだのが、4つの楽章を持つ43分の大曲。
「シンフォニエッタ」と銘打ちつつ、この大きな規模。
完成は、1913年、16歳のときにワインガルトナーとウィーンフィルによって初演され、大成功を導きだします。


シュトラウスや、マーラーやツェムリンスキー、その時代の先輩たちからアドバイスや影響を受けつつもすでに、成熟し完成型にあったその音楽スタイルは、のちのハリウッドでの明快で、煌びやかなサウンドも予見できるところもおもしろい。
本格交響曲のようには構成感や深刻さがなく、「Motiv des frohlichen Herzens」=「Theme of the Happy Heart」とされたテーマ、すなわち、「陽気な心のモティーフ」が全編にわたって用いられ、曲のムードや統一感を作り上げております。
このモティーフ、曲の冒頭から鳴り、決め所の随所で響きます。
大胆な和声と甘味な旋律の織り成すこの音楽は、このあとのシュレーカーやツェムリンスキーの作品よりも、ある意味先を行っているともいえます。
ハープ、チェレスタ、鉄琴、ピアノなどの多用は、ほかのふたりと同じく、やはり当時、いかに珍しかったか興味深い。
のちにハリウッドで活躍するコルンゴルトのその下地がすでに出来がっているし、オペラ作曲家としてのドラマの構成力もここでは十分に発揮されている。
楽天的ではありますが、ともかく、ワタクシを幸せな気持ちにしてくれる、ほんとにありがたい音楽です。
いまの時期のクリスマスイルミネーションにぴったり。

フィンランドの指揮者ストゥールゴールズは、お国もののシベリウスを当然に得意にしているけれど、マーラー以降の後期ロマン派から世紀末系の音楽もさかんに指揮して録音も残してます。
最近ではBBCフィルの指揮者としてショスタコーヴィチを連続して取り上げて評価をあげてます。
ヘルシンキフィルのコルンゴルトとは珍しいと思い、カップリングの「空騒ぎ」との2枚組、興味津々で聴いたものですが、これがどうして、軽やかで、そしてコルンゴルトに必須の煌めきと、近未来風サウンド、イケイケ風の明るいドタバタ調など、さらにはウィーン風の軽やかなワルツなど、ともかく普通に素敵にコルンゴルトしてるイケてる演奏だったのでした。
10年以上を経過し、ストゥールゴールズには、いまの手兵BBCフィルともう一度やって欲しい。

この曲の海外ネット放送も、いくつも聴いてます。
注目の女性指揮者、マリー・ジャコーの指揮するウィーン響の今年の録音は、ウィーンのオケだけに、そしてフランスの指揮者だけに実に敏感かつしなやかな演奏。
ジャコーは、デンマーク国立菅の指揮者であり、ウィーン響の首席客演、次期ケルンWDR響の指揮者になることが決ってます。
 あと、次期といえば、東京交響楽団のノットのあとの指揮者、ロレンツォ・ヴィオッテイがやはりウィーンのオケ、ORF放送響との2018年ライブも愛聴していて、こちらもヴィオッテイ向きの作品なので、リズム感あふれる躍動感とキラキラ感がよろしいのです。
さらにはライブ録音としてはコンロンとケルンのものも、コンロンお得意の分野だけあって素晴らしい聴きものでしたね。
いやぁ、ほんとこの曲好き💛

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   シュレーカー 室内交響曲 (1916)

 クリストフ・エッシェンバッハ指揮 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

       (2021.3,5 @コンツェルトハウス、ベルリン)


オペラばかりを追いかけて聴いてきた私にとって、シュレーカーの「室内交響曲」は、やや遅れて自分にやってきた存在。
「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、そのオペラの濃密な世界に通じるような、かつ明滅するような煌めきの音楽。

文字通り1管編成の室内オーケストラサイズの編成で、最低人数は24人とありながら、打楽器各種、ピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが加わっているので、余計に近未来的煌めきサウンドとなっていて、まさにシューレーカーの目指した音の色を感じることができる。
のちにオケの編成を広げてシンフォニエッタに改編する意向もあったこともうなずける音楽。

1916年ウィーン音楽院の創立100年を記念しての作品で、初演は翌年1917年3月にシュレーカーの指揮でウィーンのムジークフェラインにて。
あの黄金のホールで、この曲が初演され、どう響いたか、思うだけでうっとりしてしまう。
単一楽章ながら、連続する4つの章からなり、交響曲の形式を保っている。
1915年に着手され未完のままになったオペラ「Die tönenden Sphären」(単純に訳すと「音の出る球体」)からの引用がなされていて、さらには、このあとの「烙印を押された人々(1918)」を先取りする旋律も感じるほか、「はるかな響き」「音楽箱と王女」にも通じる旋律も私は聴いてとれた。
シェーンベルクが「室内交響曲」をマーラーが活躍中の時分、1906年に書き、それは交響曲の新たな姿やあり方のひとつを示してみせたわけだが、同じ室内交響曲としても、シュレーカーの方には革新性は少なめで、先に書いた通り、音色と色彩に光をあて、さらにはオペラ作曲家としての歌やドラマをも求めた交響曲となったと思う。

エッシェンバッハの演奏は、完璧なもので、指揮者の特性と音楽が合致したもの。
録音も最新のものだけあって素晴らしい。
CDではこの盤のみの保有ですが、シュレーカーの代表曲だけあり、色々出てます。
最近の海外演奏では、マーク・エルダーの指揮によるものが出色だった。

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  ツェムリンスキー シンフォニエッタ op.23   (1934)

 ジェイムス・ジャッド指揮 ニュージーランド交響楽団

       (2006.6 @ウェリントン)

友人であり義理の兄弟でもあったシェーンベルクが1934年にアメリカに逃れ、その年にツェムリンスキーはプラハやベルリンから活動拠点をウィーンに移し、そしてこのシンフォニエッタを完成。
1935年にプラハで初演後、作者の指揮でウィーンを始め各地で演奏。
しかし、1938年にツエムリンスキーはアメリカへの亡命を決意し、ニューヨークに移住。
シェーンベルクは西海岸のロサンゼルスで名声を博していたのに比し、ツエムリンスキーはまったく忘れ去られた作曲家として埋没してしまうが、1940年の暮れに、ミトロプーロスがニューヨークフィルでこのシンフォニエッタをアメリカ初演を行い、成功を収める。
友人をずっと気にかけていたシェーンベルクは、西海岸でのこの曲の演奏会を聴き、ツエムリンスキーを励まし、これでアメリカでの成功の始まりとなることを願いますと手紙を書いた。
しかし、悲しいことに、病気がちだったツエムリンスキーは、その数日後に亡くなってしまう。

「非常に重く」「一定の歩調でと記されたバラード」「ロンド・非常に元気よく」
この3つの楽章からなるが、2楽章では、作品13(1910年)のメーテルリンク歌曲集の最終章が引用されている。
この章は、「城に来た・・」というタイトルで、王が王妃に、どこへ行く?夕暮には気をつけてと問う内容で、とても寂しく暗に別れを歌う内容。
この音楽がそのまま2楽章では使われていて、ナチス台頭で身の置き所に不安を感じていたツエムリンスキーのこのときの心情そのものです。
淡々としつつも、哀しみと死の影を感じるこの音楽は深いです。
1楽章では、先だって取り上げたクルト・ヴァイルを思わせる辛辣な雰囲気もあり、終わりの方では次にくるメーテルリンク歌曲のさわりも出てくる。
3楽章は、明るいなかにも陰りあり、そしてツエムリンスキーが後半生で強く打ち出したエキゾシズム満載で忘れがたいリズム感もあり。
来年には取り上げたい、この頃に作曲されたオペラ「白墨の輪」の音楽の雰囲気も感じます。

「人魚姫」とカップリングされたジャッド指揮によるCDは、とても明快で録音もよく、この作品に馴染むにはまったく問題ないです。
手持ちの音源には、コンロン、ピンチャー、P・ハーンなどの演奏会録音もありますが、ネット録音したベルンハルト・クレーの演奏が一番いい。1980年録音のコッホ・シュヴァン盤で入手難です。

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3人の作品をこうして何度も聴いて思ったこと。

3人は無調(すれすれまで行った作品もあるけど)や、12音、過度の表現主義や新古典主義にも向かわず、後期ロマン派の流れを忠実に汲み、そこにとどまったのだということ。

そして、あの時代のユダヤの出自という宿命が、かれらの音楽の次の可能性を狂わせてしまった。

でも、いまを生きるわたしたちには、彼らの作品をこうしてちゃんと聴くことができる時代になったこと、このことが幸せなのです。

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 コルンゴルト シンフォニエッタ 過去記事

 「アルベルト指揮 北西ドイツフィル」

 「バーメルト指揮 BBCフィル」

 「ゲッツェル指揮 神奈川フィル」

 「アルブレヒト指揮 ベルリン放送響」

 「寺岡 清高 指揮 フィルハーモニック・ソサエティ・東京 演奏会」

 シュレーカー 室内交響曲 過去記事

 「はるかな響き 夜曲 エッシェンバッハ指揮」


 ツェムリンスキー シンフォニエッタ 過去記事

 「大野 和士 指揮 東京都交響楽団 演奏会」

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2019年10月20日 (日)

ツェムリンスキー 「こびと」 アルブレヒト&コンロン指揮

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こちらも、三島スカイウォークの吊り花。

怪しい色合いの薔薇は、造花です。

美しいけれど、美しい偽物。

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 ツェムリンスキー 歌劇「王女の誕生日」

スペインの王女、クララ:インガ・ニールセン
待女、ギーター:ベアトリーチェ・ハルダス
こびと:ケネス・リーゲル
待従、ドン・エストバン:ディーター・ヴェラー
3人の女中:チェリル・ステューダー、オリーブ・フレドリックス
      マリアンネ・ヒルスティ

 ゲルト・アルブレヒト指揮 ベルリン放送交響楽団
              リアス室内合唱団

      (1984 @ベルリン)

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 ツェムリンスキー 歌劇「こびと」

スペインの王女、クララ:マリー・ドゥンレーヴィー
待女、ギータ:スーザン・アンソニー
こびと:ロドリック・ディクソン
待従、ドン・エストバン:ジェイムス・ジョンソン
3人の女中:メロディ・ムーア、ローレーン・マクニー
      エリザベス・ビショップ

 ジェイムズ・コンロン指揮 ロサンゼルス・オペラ・オーケストラ
              ロサンゼルス・オペラ合唱団

      (2008.03 @ロサンゼルス・オペラ)

音盤と映像のふたつ。

アルブレヒトとコンロン、ともに、ツェムリンスキーの紹介と録音に力を入れた指揮者ふたり。

前回のブログで、シュレーカーの「王女の誕生日」を取り上げ、その作品の経緯や原作について書きました。
すぐれた台本作家でもあったシュレーカーが、オスカー・ワイルドの同名の童話に感化され、新しいオペラの台本をツェムリンスキーに提供しましたが、気が変わって、自らがオペラ化したくなり、その了承をツェムリンスキーに求めた。
シュレーカーのこのオペラ作品は、1918年に「烙印された人々」となる。
 シュレーカーは、代案として違う作品の台本化を提案したものの、ツェムリンスキーは受け入れることが出来ず、どうしても、「王女の誕生日」をオペラ化したくて、シュレーカーの「烙印」から遅れること4年、1922年にゲオルグ・クラーレンの台本により、同名のオペラとして完成され、クレンペラーの指揮で初演された。
 
ツェムリンスキーが、どうしてこの原案にこだわったのか。
これも有名な話ですが、ツェムリンスキーは、想いを寄せていた、アルマ・マーラーに王女を、そして背も低くてあまりいい男とは言えない自分を「こびと」にみたたて考えていたということ。
 そう、アルマこそ、当時のウィーンのファムファタルだったのです。
ただ、彼女は自身がすぐれた芸術家でもあり、そして男性から豊かな芸術性を引き出す才能もあった点でかけがえのない存在。

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音盤と映像盤、ふたつで、タイトルが違います。
84年頃に録音されたアルブレヒト盤は、この作品の世界初録音で、1981年にドレーゼンの演出でハンブルクで蘇演されたバージョンによるもの。
当時のCD1枚に収まるようにとの考えもあったか否か、カット短縮版となっていて、待女のギータの役回りが減らされ、劇の最後も王女の言葉で終了するようになってます。
 この作品の初演の地、ケルンで完全版で上演したのが、1996年のコンロンの指揮によるものでして、EMIにレコーディングもなされました。
さらに、2000年代に入ってロサンゼルスで再びコンロンが上演したものが、映像のDVDなのです。

作曲時期の1922年は、「フィレンツェの悲劇」と「抒情交響曲」の間ぐらい。
その音楽は、甘味でかつ爛熟した響きを背景に、飽和的な音の洪水になる寸前の危うさをはらんでいて、とても危険だけど、触ったら壊れてしまいそうな繊細さと抒情味にもあふれていて極めて魅力的です。

CDとDVDとの音楽の相違点をつぶさに検証することは、素人の私にはできませんでしたが、アルブレヒトの指揮は、こうした作品の紹介と普及に心血を注いだ指揮者ならではの情熱とともに、ツェムリンスキーのクールな音楽を客観的に聴かせていて、素晴らしいと思いました。
東西分裂中のベルリンの機能的な放送オーケストラも巧いものです。
 K・リーゲルの没頭的な歌唱もいい。
80年代、マーラーや後期ロマン派系の音楽になくてはならない、このテノール、バーンスタインや小澤征爾との録音も多い。
そして、ニールセンの白痴美的お姫様も怖いくらいに美しい。。。
あと、ブレイク前のスチューダーが女中役で出ているのも年代を感じさせます。

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ツェムリンスキーが「こびと」で、オスカー・ワイルドの原作童話と変えたところは、王女が原作では12歳だが、オペラでは18歳。
「こびと」は、森で見つかられ、森の親父は厄介払いして清々としたとあるが、ここでは、トルコからの貢ぎ物として王女の誕生日にプレゼントされ、彼は歌うたいということになっている。
それから、待女のギータが、とてもいい人で、こびとに同情的。
王女に想いを寄せるこびとの、いつか裏切られるだろうということを案じて、いまからでも遅くないから帰りなさいとまで言ってあげる。
アルブレヒトの短縮版では、最後は、王女の、「次は心のないおもちゃにしてね」「さ、ダンスに戻りましょう」という残酷な言葉で終わりになるが、オリジナル版は、王女があっけらかんと去ったあと、同情を寄せる待女ギータに、こびとは、薔薇を・・・と瀕死の声でつぶやき、ギータがその白い薔薇を手向けてあげるところで、急転のフォルテによる幕切れとなります。

それにしても、ツェムリンスキーの音楽は妖しいまでに美しい。
色で言えば、銀色に感じる。
王女から、白い薔薇を投げられて、その想いをどんどんエスカレートさせていく「こびと」のモノローグ。
そして、王女との少しばかりの二重唱。
鏡を見てしまった慟哭の想いと、いや違うんだ、まだ王女は自分のことを・・・と想いつつショックで苦しみながら死んでいく「こびと」。
これらのシーンの音楽は、絶品ともいえるキレイさと切なさに満ちている。

みずからを、アルマにあしらわれる惨めな男に読み替えて作曲をしたツェムリンスキーの想いが、なんだかいじらしく感じられる。
そう、映像で見ると、ほんとに気の毒で、涙を誘ってしまうのでありました・・・・

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いずれも、あまり名前の知らない歌手たちですが、みんな役になり切ってまして、80分のドラマに思い切り入り込むことができました。
ドイツのオーケストラからすると、音色が明るすぎる感はありますが、そこはさすがにコンロン。
ツェムリンスキーやシュレーカーも含めて、こうした時代の音楽がほんとに好きなんだな、と指揮姿を見ていてもわかります。
写実的な演出ですが、ベラスケスの絵画そのものでもあって見ごたえがありました。

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この夏に、フランスの放送局がネット配信した、リール歌劇場での「こびと」の上演を録音して楽しみましたが、今回それがyutubeにも優秀な映像でもってUPされていたましたので、こちらも観劇しました。
シンプルな演出で、こびとは、ナイキのスポーツウェアにチープなジーンズ、王女や廷臣たちは、ちょっと未来風な白いドレス。
まさに小柄な、マティアス・ヴィダルのタイトルロールが、実に素晴らしい。
リリカルで同情心も誘うその歌は、今回の音盤や映像よりも、ずっと上かと。。
あと可愛いジェニファー・クーシェの王女も、ビジュアル的にもよし、歌もよしでした。

 さらに、発見したのは、この夏、バイロイトの「タンホイザー」でブレイクしたトビアス・クラッツアーが5月にベルリン・ドイツ・オペラで演出したもののトレイラーがありました。
ほぼツェムリンスキーの風貌の主人公、そして、タンホイザーでもオスカルで登場した役者の方も出演してます。
いずれ、商品化されるものと思われますが、10年の隔たりはあるにしても、保守的なアメリカといまのドイツの演出の違いは大きすぎるほど。
オペラの世界には、現在ではNG用語や存在自体がまずいものがたくさんあるし、私も気にせず書いてしまってますが、なかなか難しい問題ではあります・・・・



ツェムリンスキーのオペラ、全8作中、まだこれで3作目の記事。

あと6作、しかし、そのうち2作は未入手。

「ザレマ」      1895年
「昔あるとき」    1899年
「夢見るゲールゲ」  1906年
「馬子にも衣裳」   1910年
「フィレンツェの悲劇」1916年
「こびと」      1922年
「白墨の輪」     1932年
「カンダウレス王」  1936年

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2018年11月 3日 (土)

東京都交響楽団定期演奏会 シュレーカー、ツェムリンスキー

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 パソコンが逝ってしまったり、データも吹っ飛んでしまったりで傷心の日々。
遅ればせながら、超楽しみにしていたコンサートのことを書きます。

  東京都交響楽団 第864回定期演奏会

 シュレーカー      室内交響曲

 ツェムリンスキー   抒情交響曲

              S:アウシュリネ・ストゥンティーデ

      Br:アルマス・スヴィルパ

    大野 和士 指揮 東京都交響楽団

         (2018.10.24 @東京文化会館)

今年1月の「人魚姫」に続く、大野さんと都響のツェムリンスキー。
そして、シュレーカーとくれば、もう、わたくしのド・ストライク・ゾーンのコンサートなんです。

秋の装いが深まりつつある上野の森の晩、見上げれば月が美しい。

そこで響いた、後期ロマン派の終焉と、不安と焦燥、そして煌めく世紀末、それらを強く感じさせるふたりの作曲家の音楽。
その響きに身をゆだね、心身ともに開放され、我が脳裏は、100年前のウィーンやドイツの街を彷徨うような、そんな想いに満たされたのでした。

 シュレーカーの音楽をオペラを中心に聴き進めてきました。
9作あるオペラのうち、6作はブログにしました。
残る3作のうち、2つは準備中ですが、あとひとつが録音もない(たぶん)。
しかし、こんなわたくしも、「室内交響曲」は、存外の蚊帳の外状態でした。
音源も持ってるつもりが、持ってなかった。
 コンサートに合わせて予習しましたが、初期のブラームスチックな曲かと思いきや、「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、わたくしの大好きなシュレーカー臭満載の、濃密かつ、明滅するような煌めきの音楽なのでした。

 文字通り、室内オーケストラサイズの編成でありながら、打楽器各種はふんだんに、そしてお得意のピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが通常ミニサイズオケの後ろにぎっしり並んでる。
 連続する4つの楽章は、いろんなフレーズが、まるでパッチワークのように散り交ぜられ、それらが、混沌としつつも、大きな流れでひとつに繋がっているのを、眼前で、指揮姿や演奏姿を観ながら聴くとよくわかる。
それらの中で、オペラ「はるかな響き」と「音楽箱と王女」に出てきたような、聴きやすい旋律が何度か顔を出すのもうれしい聴きものでした。
 大野さんの、作品をしっかり掴んだ指揮ぶりは安定していて、都響のメンバーたちの感度の高い演奏スキルも見事なものでした。
 シュレーカーの音楽を聴いたあとに感じる、とりとめなさと、どこか離れたところにいる磨かずじまいの光沢ガラスみたいな感じ。
いつも思う、そんな感じも、自分的には、ちゃんとしっかり味わえました(笑)

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シュレーカー(1878~1934)、ツェムリンスキー(1871~1942)、ともにオペラ中心の作曲家であり、指揮者であり、教育者でもありました。
そして、ともに、ユダヤ系であったこともあり、活動期に登場するナチス政権により、他国に逃れたり、活動の制限を受けたりもしたし、シュレーカーの音楽にあっては、退廃音楽とのレッテルを貼られてしまう。
このふたりの音楽を並べて聴く意義を休憩時間にかみしめつつ。

後半は、オーケストラがステージ一杯にぎっしり。

黒い燕尾服に、シックな黒いドレス、リトアニアからやってきた、大野さんとも共演の多い二人の歌手は、指揮者の両脇に。

そして、始まったティンパニの強打と金管の咆哮。
この曲のモットーのようなモティーフ。
これを聴いちゃうと、もう数日間、このモティーフが頭に鳴り続けることになる。
この厭世観漂う、暗い宿命的な出だし、大野さん指揮する都響は、濁りなく豊かな響きでもって、この木質の文化会館のホールを満たした。
上々すぎる出だしに、加えてスヴィルパのバリトンがオーケストラを突き抜けるようにして豊麗なる歌声を聴かせるではないか。
不安に取りつかれたようなさまが、実に素晴らしい。
 それに対し、2楽章でのソプラノ、ストゥンティーデは、その出だしから声がこもりがち。
途中、強大化するオーケストラに、声が飲み込まれてしまう。
でも、のちの楽章では、しっかり復調したように、なかなかに尖がった、でもなかなかの美声を聴くことができて、とても安心した。

不安と焦燥から、こんどは濃密な愛を語る中間部。
バリトンの歌う、「Du bist mein Eigen、mein du,・・・」
「おまえは、わたしのもの、わたしのもの、わたしの絶えることのない、夢の中の住人よ」
もっとも好きなところ、まさに抒情交響曲と呼ぶにふさわしい場面。
胸が震えるほどステキだった。
 さらに、ソプラノがそれに応える、「Sprich zu mir , Geliebter」
「話してください、いとしい方」
復調のストゥンティーデのガラスのような繊細な歌声、それに絡まる、ヴァイオリンソロや、ハープにチェレスタといったキラキラサウンド。
耳を澄まして、そして研ぎ澄ませて、わたくしは、陶酔境へ誘われる思いだった。

でも、早くも男は愛から逃れようとし、女は別れを口にする。
大野さんのダイナミックな指揮のもと、激しいオーケストラの展開、打楽器の強打に、ビジュアル的にも目が離せない。
ここでのストゥンティーデの、カタストロフ的な絶叫も、ライブで聴くとCDと違ってスピーカーを心配することがなく、安心して堪能。
静的ななかでの、強大なダイナミズムの幅。
素晴らしい音楽であり、見事な都響の演奏と感じ入る。

最終章は、バリトンの回顧録。
スヴィルパさん、とてもマイルドな歌声で素晴らしい。
わたくしも、これまでの、この演奏のはじめから、振り返るような気持ちで聴き入りました。
そして、わたくしは、愛に満ちたマーラーの10番を思い起こしてしまった。
ときおり、あのモットーが顔を出しながらも、濃密でありながら、どこか吹っ切れたような、別れの音楽。
 ふだん、CDでは、あまり意識してなかった、オーケストラのグリッサンドが、この演奏ではとても強調され、そして効果的に聴こえたことも特筆すべきです。

静かに、しずかに終わったあとのしばしの静寂。
ひとこと、「ブラボ」と静かに発しようと思ったけど、そして、いい感じにできそうだったけれど、やめときました。
心のなかで、静かに声にするにとどめました。

この作品の良さを、心行くまで聴かせてくれた素晴らしい演奏でした。
大野さんの、この時代の音楽、オペラ指揮者としての適性をまた強く感じたこともここに記しておきたいです。

甘やかな気持ちで、ホールを出ると、月はさらに高く昇ってました。

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近くで軽く嗜んでから夢見心地で帰りました。

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2018年3月18日 (日)

ツェムリンスキー 「昔あるとき・・」 グラーフ指揮

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ちょっと前ですが、満開の梅。

葵の御紋のある神社。

芝東照宮、徳川家康を祀った神社です。

江戸時代、鎖国をして外部をシャットアウトしたけれど、四方が海だったからできたことかもしれない。
いまは、耳をふさごうと、目を閉じようと、おかまいなしに、世界の今とつながってしまう世の中となった。
まさに、おとぎ話のような昔のはなし・・・

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     ツェムリンスキー 歌劇「昔あるとき」 Es War Einmal

   王女:エヴァ・ヨハンソン      王子:クルト・ヴェスティ
    カスパール:ペル・アルネ・ワールグレン  王:オーゲ・ハウグラント
  警官:オーレ・ヘッデガート    指揮官:クリスチャン・クリスチャンセン
  使者 :クリスチャン・クリスチャンセン 第一の待女:スッセ・リリソーエ

   ハンス・グラーフ指揮 デンマーク国立放送交響楽団
                 デンマーク国立放送合唱団

                     (1987.6 デンマーク放送)


ツェムリンスキー(1871~1942)には、8つのオペラ作品があって、そのうち6作品は入手しており、ときおり聴いてはいるものの、日本語解説がなく、一部は独語のみの解説書だったりして、概要はわかっても詳細な筋建てが不明だったりして、どうにも釈然としない。
オペラの楽しみは、リブレットを理解してのうえで聴きこむ(観る)に限ると思っているので。

ちなみ、未入手のあと2作は、第1作の「ザレマ」と、4作目の「馬子にも衣装」。
ただし、「ザレマ」は録音されたこともない。

ゆっくりとですが、ツェムリンスキーのオペラを順次取り上げたい。

今回は、2作目の「昔あるとき」。

1897年に作曲を始め、1899年に完成。
1900年に、ウィーンの宮廷歌劇場の芸術監督だったマーラーの指揮によって初演。
10数回上演されヒットしたものの、その後は1912年にマンハイムとプラハで上演され、以降半世紀以上も忘れられてしまったオペラ。
 それが、1987年、デンマーク放送によって蘇演され、その時に録音された音盤がこちらで、唯一の音源と思われます。
調べたところ、あと、1991年にキールで、1999年にロンドンで(A・デイヴィスとBBC)演奏されている。

87年の蘇演が、なぜデンマーク?

そう、このオペラの原作が、デンマークの詩人ホルガー・ドラックマンの「Der Var Engang(むかしむかし)」というお伽噺なのですから。
ドラックマンは、ヤクブセンと同年代で、当時は、ドイツやオーストリアでもとても人気がったそうで、この作品をマキシミリアン・シンガーという人が、独語訳されたものを脚本を書きし、ツェムリンスキーがオペラ化したもの。
 
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マーラーは、ツェムリンスキーの1作目オペラ「ザレマ」もミュンヘンで初演していて、作曲家としてのツェムリンスキーを大いに評価していた。
この2作目も、ウィーンで初演するにあたり、シナリオやツェムリンスキーの楽譜にも、かなり注文をつけたり、変更のアドバイスをしたりした。
この録音は、そうした経緯も入念に踏まえてなされたと記されてます。
 で、マーラーとツェムリンスキーのコンビは、次なるオペラ「夢見るゲールゲ」も、同じようにウィーンの劇場で上演しようと目論んだが、マーラーがウィーンでの職を投げ出したことで、見送りになり、その後1980年まで演奏されることはなかった。
 ちなみに、アルマ・シントラーと交際していたツェムリンスキーは、彼女の音楽の師でもあったが、そのアルマが、マーラーと結婚をしたのが1902年。
ツェムリンスキーはどう思っていたのでしょう。
そして、マーラーは、アルマが作曲家であることを快く思っておらず、遠回しにその筆を絶たせたりもした。(かつて観た映画でもこのシーンはありましたよ)
 ツェムリンスキーの仲間や、弟子筋は、シェーンベルク、シュレーカーやコルンゴルトなど、たくさんいて、すごく人がいいんじゃないかなとも思ったりもしてる。
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プロローグと3つの幕からなるが、全体で2時間弱のコンパクトなオペラ。

プロローグ

 むかしあるとき、イリヤという国に、美しいけれど気位の高くて、冷たい王女がいました。
その美貌を求めて、世界から求婚してくる人々はひっきりなし。
気のいい王とともに、男たちに謁見するものの、誰もかれも否定し、縛り首に。
そしてある日、北の国の王子とその友カスパールがやってくる。
王子は、自分の国の美しさ、四季や自然のすばらしさを歌い、求婚するが、王女はまったく関心を示さず、あなたと結婚するなら乞食と結婚した方がまし、と立ち上がり、処刑されたくなければ、ここに膝をついて慈悲を乞いなさいと言い放つ。
王子は、慈悲を乞うためにでなく、自分は愛のためなら膝を屈すると王子、怒った王女は出てゆく。

第1幕

 夜、宮殿の前庭。王子とカスパールはジプシーに扮して待機。
王女と待女たちが、輪回しで楽しそうに遊んでいるところへ、王子らがバラードを歌い気を引く。王子はゴブレットの中に金箔の玉を入れ、さらに蝶の羽を撒く。
王女はそれが欲しくなり、待女のひとりをつかわし、王女の髪に飾った薔薇の花との交換を申し出る。
しかし、王子は、ダメだ、王女の口づけをと望む。
 交渉決裂、王女は帰ろうとするが、その間に、カスパールを王のところに行かせる。
今度は、王子は魔法のヤカンを取り出す。沸騰すると考えたり、言われたりしていることがわかるんだと語る。
これまた王女の気を引き、彼女は民衆にどう思われているかを教えて、という。
ヤカンは、機智や美貌があり、王女は人気がある、でも本当は愛を知り、亭主を持つことでさらにその隠された魅力が引き出されるのだと回答。
王女はヤカン欲しさに、王子に口づけをする。
 そこに来た王様は、王女が知らない男性にキスをするのをみて、そのジプシーと出て行って、結婚しろと追放命令を下す。
王女や待女が嘆願しても無駄、王子は、彼女を引っ張っていく・・・(もちろん王子とは知らず)

第2幕

 海を渡って北の国へ。フィヨルドの森の中の粗末な小屋に到着。
ここで暮らすようになった二人。1幕とは、明らかに身なりも、行いも変わってしまった王女。
いまや、王女でなく、単にキャサリーンという名の女性。
でも、名誉やプライドはまだ残っていて、妻としての行いを思い起こさせようとする王子が、それらをやらせようとすることに対し、軽蔑の思いをもって拒絶する。
 王子は、しかし、それを強いることなく、古い北欧の歌を優しく歌う。
王子は、食料を得るために、森の中へ行くが、一人きりになってしまうことに、不安な王女は、行かないでくれと頼むが、王子はそれを振り切り出てゆく。
王女は、ひとり想いにふけり、哀しみ、遠く離れた地にいまこうして連れてこられたことを嘆くものの、当のジプシーの亭主を憎むことができない。
 そこへ、銃声がして、王子が飛び込んでくる。
かくまってくれということで、別室へ逃げ込む。
そこへ警官が追ってきて、男はどこだと王女を責めるが、亭主は重い病気で寝込んでいると答える。
こんどはそこに、カスパールがやってきて、怪しい男が、森のあっちへ逃げて行ったぞと告げ、警官と出てゆく。
 さぁ、一安心の王子。王女のためにも食料をと、また出ていこうとするが、今度は王女は行かないで欲しい、一緒にいて欲しい、わたしの中のなにかが変わったの、愛しているの、と語る。。。

第3幕

 街の市場で、まるでカーニバルのような雰囲気で、人々は飲んで歌って、踊っている。
王女は、夫婦で焼いた花瓶や壺を売るためにそれらを持って市場にやってきた。
そこへカスパールが登場、どうだい、君の亭主も、もしかしたらそこらへんで飲んで遊んでるかもしれないよ、と茶化すが、彼女は、主人は病気で家で寝ているの、とかばう。
そこへ王子(の姿)や兵士たちがやってきて、王女へさらなる試験をしかける。
王子は、彼女をちゃかして、キスをしてくれたら金貨をあげるよ、とまで言う。
拒む彼女、おまけに、喧騒のなか、売り物の花瓶たちが割れてしまい台無しに。
 ここで使者が大声で伝達。
王子はまもなく異国の王女と結婚式を挙げるが、その姫が急病になり、婚礼衣装を合わせることができない。誰か、同じ体格の女性で衣装合わせをしてくれるものはいないか?
そこで、王子が本物として登場。
小さくなってる王女をみつけ、あなたに衣装合わせをしてほしいと言い出すが、彼女は売り物が壊れ、お金がまったくない自分としてそれを拒絶、それでもどうしてもと王子とカスパールから懇願され着ることになり、美しい花嫁姿になり登場。
 王子は、彼女に、自分と王位をともに継いで欲しいと語る。
王女は、どんな豪華な位よりも、自分は愛のなかに最高の価値を見出したの、王冠よりも、金持ちの生活よりも乞食の妻でありたいのと熱く、優しく語る。
王子は大いに感動して、キャサリーンと声をかける。。。。
 その声に、ジプシーの夫の声と同じ響きを聴き、王女は涙を流して、あなた、あなたなのと、泣きだしてしまう。
カスパールは、さぁ人々よ、めでたいニュースを聴くがよいと宣言。
王子は人々に、長い旅は終わり、ここにいま自分の運命をみつけた。
みなさんは、妖精のゲームをここに見たのだ。
壺焼きの妻が、イリヤの国の王女だったのだ、そしていま私と結婚する!
 人々は喝采し、王子を称える。

                 

CDの独英のみの解説書をたよりに、ざっとこんな感じの筋立てかと。
ちょっと時代めいてるけど面白いでしょ。

そう、「トゥーランドット」とシェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」なんですよ、雰囲気が。

1922年に、この劇作に忠実に作られたデンマーク映画が、ネット上で見ることができました。復刻されたもので、しゃれたピアノソロをバックに、一部の欠落は画像で補うものではありますが、このドラマの大筋は、そちらでもつかむことができました。
この映画が原作に忠実だという前提で、ツェムリンスキーのこのオペラとその台本が端折ったところを補うと。
 
①プロローグで王子が首をはねられなかったのは、逃げ出したお気に入りのオウムが戻ってきて気分がよかったからという理由もひとつ。
②追い出されて悩んだ王子のもとに、爺さんの妖精さんがあらわれ、人の耳を魅了するガラガラ(くるくる回すヤツ)と未来が見える魔法のヤカンを、将来の幸せのためにと渡す。
③王女と待女を魅了したのは、そのガラガラとヤカン。
王子は、最初はキスでガラガラを渡し、次のヤカンで、王女の部屋の鍵を。
④夜中に王子は、王女の部屋で待女付きで一晩を過ごす。
カスパールは、王に対し、デンマーク王子と結婚させなければ、軍が攻めてくると脅したりする。そして、王女の部屋にいざなって、そこにいる王子を発見、そして追放。
⑤異国の地、それはデンマークで、王女はその生活に馴れ、王子と共に神に祈ったりする。そして窯業の職人としての夫をサポート。市場に二人で売りに行くが、トラブルで、王女だけが市場へ。
しかし、野営の兵士に見つかり、商品はこなごなに砕かれ、逃げ惑う。
悲しみのうちに帰宅し、事情を説明したところ、妻は悪くない、くそっとばかりに武器を手に仕返しに行き、殺傷。それを見た警官が家に訪ねてきて、夫を病として匿う王女。
⑥結婚式には、王女の父も、よろよろとやってくる。

あとはだいたい同じ。
手の込んだ仕掛けが、実は本筋の愛情育成になったわけで、なにも王子がそこまで、それから、幾重にもわたるお試しが、くどくも感じるが、そこはまあ、おとぎ話の世界ということで。
オペラに加え、古き映画も見ることで、作品理解が深まるものと思います。



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この古風なフェアリー・テイルにツェムリンスキーがつけた音楽は、マーラーがその背後にあるように、まだシュトラウスの「サロメ」が登場する5年前の音楽シーンを物語っている。
耳に馴染みよい、ワーグナー初期、フンパーデインク系統のオペラの流れがここにあります。
しかし、牧歌的な雰囲気のなかに、キラリとひかるツェムリンスキーの煌めいた筆致は、随所に聴かれます。
美的なオーケストラによる間奏曲、王子や王女のモノローグにおける無常感じる世紀末感など、実に素敵なものがあります。
前半と後半で、がらりと変わる王女の境遇と心情。
その描き分けも、見事なものがあります。

このあとのツェムリンスキーの音楽の進化・変貌も、これを基に聴くと大いに楽しめるものでした。

唯一の音源のこちら、デンマークのオーケストラが北欧風のクールなサウンドと、オーストリアの指揮者グラーフが引き出すツェムリンスキーサウンドを背景に、デンマーク由来の歌手たちが素晴らしい歌唱を聴かせます。
なかでも、ヨハンソンの王女の二面変貌の歌い分けは見事でありました。
2幕における、絶妙の心情変化とその吐露は泣かせますし、終幕のモノローグも!

舞台や映像で観てみたいオペラです。

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梅の写真をいまさら載せましたが、季節は早くも桜です。

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2018年1月13日 (土)

「町人貴族」「人魚姫」 大野和士指揮 東京都交響楽団

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サントリーホールのエントランスには、Happy New Yearが。

その写真を撮って、都響のパンフを貼り合わせてみました。

    東京都交響楽団 第846回 定期演奏会

  R・シュトラウス   組曲「町人貴族」

  ツェムリンスキー  交響詩「人魚姫」

     大野 和士指揮 東京都交響楽団

              (2018.1.10 サントリーホール)


両曲とも、コンサートで聴くのはお初の新年演奏会初め。

大好きな二人の作曲家、ことに、ツェムリンスキーを聴き逃す手はない。

ピアノを中心に、打楽器各種を交えた室内編成のオーケストラ。
それぞれのソロがふんだんにあるものだから、都響の名手たちを聴く楽しみもある。

モリエールの町人貴族につけたリュリの音楽の編曲も、シュトラウスの手にかかると、煌びやかで、ちょっと甘味なテイストに。
シュトラウスのオリジナル作曲部分は、もっと手がこんでいて、古典風な姿をまといつつも、ナクソスのアリアドネを思わせる、地中海風な明快さと透明感のあるサウンドが実に心地よいのだ。
実演で聴くと、集中して聴くものだから、そんな想いを容易に抱くことができました。
 週のなか日、連休疲れもあります、そんな聴衆の中には、この心地よい音楽と滑らかな演奏に、すやすやとお休みになられる方もそこそこ見受けられました。

ドン・キホーテやばらの騎士よりの引用がチラホラ出てくる、終曲が音楽としてもこれまた面白くて、あと、ラインの黄金が出てくるところも、今回はちゃんと確認できたのもうれしかった!
洒脱なエンディングもナイスでした。

という感じで、前半は、肩慣らし的に。

後半は、お目当ての「人魚姫」。
「抒情交響曲」は、レコード時代、マゼール盤で開眼し、「人魚姫」は、かれこれ25年ほど前に、シャイーのライブ演奏を録音し、それを飽くことなく聴きまくり、その後に出たスタジオ録音のCDで、この曲が愛おしい存在となりました。

悲しい、そして同情をそそる、アンデルセンの童話につけられたツェムリンスキーの音楽は、ともかく美しい。
ライトモティーフも用いて、全3楽章が有機的につながり、アンデルセンの物語に沿って、その筋を思いながら聴くもよし、大オーケストラの音の洪水や、煌めくような音のシャワーや甘味なるサウンドに思い切り浸るもよしだ。

ピアニシモから強大なフォルテまで、演奏会で聴くことができたので、普段、まわりに気兼ねしてしまうCD聴きとは大違いに、音楽そのものにのめり込むことができた。

大野さんは、シュトラウスでは譜面を見ながら、ツェムリンスキーでは、譜面台も置かず、暗譜で指揮をした。
大野さんの指揮は、新国のトリスタンでも感じたことだが、指揮棒や指先から、音符が音になって振り撒かれるように、音楽そのもに一体化してしまうもので、このツェムリンスキーでも、その指揮姿を拝見しているだけで曲のイメージが沸き上がってくる。
オーケストラもこうした的確で安定的な指揮だと、きっと演奏しやすいであろう。

都響ならではの分厚い響きと、繊細な音色を堪能できたが、今回の演奏は浮ついたところがなく、キリリと引き締まったもので、大人の世紀末サウンドと感じました。
コンサートマスターの矢部さんの奏でる、麗しの愛の動機と、そこに合いの手を入れる木管の煌めき・・・、なんて美しいのだろう、と恍惚としてしまうことしきりでした。

人魚姫が死をえらび、海の泡となって立ち上ってゆく最終場面は、さながらレクイエムのようで、哀しさに身もつまされるような想いになりました。
心を込めた演奏ゆえ、ほんとうに沁みわたりました。

ホールを出ると、冷たい冬が待ってましたが、わたくしは、あのヴァイオリンの旋律を何度も思い浮かべながら暖かな心持ちで街を歩きました。

 当ブログの「ツェムリンスキー」記事


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ツェムリンスキー 「人魚姫」 と同じ香りのする音楽

 シェーンベルク 「ペレアスとメリザンド」
            「清められた夜」

 コルンゴルト  「シンフォニエッタ」

 アルヴェーン  交響曲第4番「海辺の岩礁から」

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2012年6月17日 (日)

ツェムリンスキー 交響詩「人魚姫」 J・ジャッド指揮

Enoshima_2

実家の町にある吾妻山から。

360度の眺望の山上ではなく、中腹から湘南相模湾方面を。

近くは大磯の街、遠くは三浦半島に江の島が見えます。

もっとちゃんとしたカメラが欲しいところデス。

Enoshima_1

アップにして撮ってみましたが、解像度悪すぎ。

江の島の手前に、烏帽子岩が見えますよ。

この海に、山、ワタクシの原風景にございます。

ですから、海と山の音楽にもいろんな思いが想起されて大好きなのです。

Zemlinsky_maermaid_judd

  ツェムリンスキー 交響詩「人魚姫」

    ジェイムズ・ジャッド指揮 ニュージーランド交響楽団

                 (2006.6 @ウェリントン)


ムチャクチャ大好きなこの曲、2006年以来、久々に取り上げます。

アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871~1941)は、ウィーン生れの両親の改宗にもよるが、ユダヤ系の作曲家。
マーラーやRシュトラウスの10年あと、シェーンベルクと同時代の人。
指導者・指揮者としても戦前は活躍したが、ナチス台頭でアメリカに逃れ、忘却の彼方となった作曲家。
そうした存在として、コルンゴルトとまったく同じで、そのコルンゴルトは、ツェムリンスキーの弟子でもあります。

さらに、シェーンベルクの師でもあり、義理の兄でもある。
そして、アルマの師で、かつアルマへの求婚者だった人。
アルマはマーラーに取られ、でも、マーラーはツェムリンスキーの擁護者として、そのオペラを積極的に上演してゆく。
いまや、マーラーが中心となって語られるウィーンの世紀末音楽シーンですが、実はキー・マンみたいな存在がツェムリンスキーなんです。

忘れられたツェムリンスキーのリバイバルは、80年代初頭。
ラサールSQや、アルブレヒト、マゼール、シャイーなどが積極的に取り上げて、ポスト・マーラー兼シェーンベルクのように聴くことができることが判明。

ことに、マゼールの「抒情交響曲」とシャイーの「人魚姫」が、ともにメジャーレーベルということもあり、画期的なツェムリンスキー見直しの音盤となりました。

ともに、いろんな録音が増えましたが、ナクソスからいずれも素晴らしい録音が登場してます。
イギリスの指揮者ジェイムズ・ジャッドが南半球のクールなオーケストラ、ニュージーランド響を指揮した1枚。
ジャッドはN響にも客演してますが、英国ならではのスマートかつフレキシビリティあふれる音楽造りをする人。
英国指揮者は、本国ではあまり活躍しないパターンのとおり、他国での活躍が目立ちます。ニュージーランドでも長く音楽監督をつとめ、後任は、お馴染みのインキネン。

現地マオリ系の方々も奏者にいらっしゃるニュージーランドのこちらのオーケストラ。
欧米のオケとは異なる新たな勢力として、オーストラリア、わが邦、ひいては韓国・中国などもオーケストラ音楽の発信源となってゆくことでありましょう。

NZSO(ニュージランド響)のカッコよすぎるホームページはこちら。
http://www.nzso.co.nz/

シーズン演目のページなどは、指揮者や楽員をモデルに、映画風、ニュージーランド風のあまりに素晴らしくクールな出来栄え。
欧米のオケの王道を極めたスマートなページとはまた異なる、個性的かつ濃すぎのHPは、日本のオーケストラも参照すべき点ありです。

「人魚姫」は、1903年の作品。
マーラーは6番の交響曲に取り組んでいた年。
1903年の作曲、シェーンべルクの「ペレアス」と同時に、自身の指揮により初演されたのが1905年。
妹婿のシェーンベルクの方に活躍の勢いもあり、思うような成功を収められなかったツェムリンスキー。
その後、作曲者の名前ともども忘れさられ、日の目をみなくなったこの作品は、アンデルセンの有名な童話「人魚姫」に基づくもので、3つの楽章からなる甘味かつロマンティックな交響幻想曲なのであります。

人魚国の王の6人娘の15歳の末っ子が、人間の王子に恋をした。
16歳の王子の誕生パーティで、彼の乗った船が転覆し、人魚姫は必死に助けるも、人間にその姿を見られてはならない悲しさ。通りがかりのとある女性が王子を介抱し、王子も命の恩人と思いこんでしまう。
 王子を忘れられない人魚姫は、自分が救ったともいえない。その声と引き換えに人間の姿をもらうこととなるが、もし王子と結婚できないならばその次ぎの日にはその心臓が泡と消えてしまうとの宿命を背負うことになる。
そして、王子に妹のように可愛がられ近くに仕えることとなり幸せを感じる日々が始まった。
でも、言葉を発することができず、王子は介抱してくれた女性を選び、結婚することに。
人魚姫の姉たちは、王子を殺せば、また元の姿に戻れると諭すが、王子を愛する彼女は、そんなことができず、海に身を投げ自らの命を差し出す。
彼女の体は海の中でみるみるうちに溶けだし、やがていくたの泡となり、空気の精となって永遠の魂を得て昇天する・・・・・。

悲しい報われない恋を描いたこのストーリーを想いながら、この美しい音楽を聴くと、気の毒な人魚姫が愛おしくなります。
世紀末風のもしかしたら明日はもうない的な、刹那的な雰囲気もただようこのツェムリンスキーの音楽は本当にステキなものです。
最後に人魚姫が靄のようになって昇ってゆく場面では、音楽は海に沈む美しい夕映えのようであります。

演奏は、シャイーの名盤に肉薄するような素晴らしさ。
オケの明るい響きも印象的でありました。

過去記事

 「シャイー&ベルリン放送交響楽団」

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わたしには、海も感じさせる、ノスタルジーあふれる音楽でもあります。

そうそう、子供のころ、アンデルセン物語のソノシート(レコード絵本みたいなもの)を買ってもらって、来る日も来る日も夢想しておりました。

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2010年11月 1日 (月)

ツェムリンスキー 抒情交響曲 クレー指揮

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夕暮れ、お江戸日本橋。

今日から、来年4月の建造100年を前に、橋の大規模洗浄作業が始まったとのこと。
1ヶ月もかかるんだそうな。

橋の上をすっぽりふさぐ首都高速。
歴史的な場所の上を、こんな風にしてしまう国ってないでしょうな。
今の日本なら絶対にやらないことだけど、高度成長期にあっては、こんなのはありだったんだろう。
河も浄化されたし、暗くなると光が河に映って、こんな具合にキレイなんです。
きっと、洗浄水は河にそのまま流れてしまうから、洗浄技術や洗浄液はきっと自然由来の高度なものなのでしょう。
ドイツ企業が行うみたいですよ!

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ベルンハルト・クレーのシリーズ。
クレーのドイツ音楽。
そして、わたしがもっとも好きなクレーの音盤のひとつが、ツェムリンスキー「抒情交響曲」

        S:エリザベス・ゼーデルシュトレム
        Br:デイル・デュージング

     ベルンハルト・クレー指揮 ベルリン放送交響楽団

この素晴らしい作品を清潔なる紳士クレーが録音を残してくれたことは感謝に堪えませぬ。
そして、大好きなこの作品、このブログでもこれで3度目の登場となります。
曲のことは、過去記事をご参照くださいませ。

 「シャイー&コンセルトヘボウ」
 「エッシェンバッハ&パリ管」

この表現主義的で、悩ましいくらいの官能と甘味な瞬きに満ちた連作歌曲シンフォニーがこんなに人気曲になるなんて思いもよらなかった。
この曲、しいてはツェムリンスキーがブレイクしたのは、いうまでもなく、DGへのマゼールとベルリンフィル、FD・ヴァラディ夫妻のレコーディングで、1981年のこと。
ベルリンでの定期演奏会に併せての録音。
あのカンディンスキーの絵のジャケットとともに、私には、この曲の刷り込みレコードとして、酒を飲みつつ、擦り切れるくらいに聴き、楽しんだ1枚として忘れえないものなのだ。
同じころに、マゼール・BPOのラフマニノフ3番も聴きまくったのだ。
ブルー系のクールでひんやりするようなマゼールのツェムリンスキーは、いまでも大好きな演奏です。
ただし、ヴァラディはふるいつきたくなるけれど、F・ディースカウがうまいけれども、テカテカしすぎで、独特の陰りが欲しいところでありました。

でも、同じ頃に、同じベルリンで、ベルンハルト・クレーがこの曲を録音しているんです。
今は亡き、独コッホ・シュヴァンのレーベルは、当時かなり珍しいレパートリーばかりを取り上げていて、これもその一環で当CDには記載はないものの、81年の録音と推測される。
あと、この後ぐらいに、G・フェッロも録音していて、このあたりが「抒情交響曲」のパイオニア的な録音でありましょう。
マゼールだけが注目されてしまった。メジャーの強みとしかいいようがない。

で、このクレー盤は、マゼール盤や、その後多々あらわれた演奏に決してひけをとらない、きちんとした折り目正しい名演奏なのです。
伝統に根ざしたそうした様相も持ちつつ、歌ものを得意とする指揮者ならではの歌手を中心に据え、ときには控えめに、時には音を抑えつつ繊細に。
しかし、全7曲を一本筋の通ったまとまりのよさで聴かせてしまうところが素晴らしいのだ。
ここがどうの、あそこはどうの、という微細なこだわりはなくて、劇性にあふれた連続する7つの歌による交響曲としての作品を強く感じさせる。
 強い個性の歌手たちを起用していないことも成功の要因。
バリトンに比重ある曲だが、デュージングの素直で、クセのない歌声は私にはとても好ましく感じ、クレーの音楽性にもとても合っているように思われる。
デュージングは、ベームのドン・ジョヴァンニに出ているくらいしか記憶にないが、このツェムリンスキーの歌唱は、まったく素晴らしく、美声バリトンを堪能できるし、歌詞の内容への歌の乗せ方が濃厚すぎない気持ちの入れ込み方で、とても好ましい。
「Ich bin friedlos」とか、「Du bist」とか、決め台詞のような出だしからして、まさに見事に決まっていて、一緒に歌いたくなってしまうナイスな歌唱。
 そして、世紀末歌手と勝手に思っているゼーデルシュテレムのヴィブラートのかからない直線的な歌唱も、ある意味濃密でありながらも、不感症的な醒めた眼差しを感じさせて、私には素晴らしいと思えるのだ。

この曲のバリトンは、ゲルネと、このデュージング。
ソプラノは、シェーファーとヴァラディ、そしてゼーデルシュテレムが最高であります。

マーラーの「大地の歌」と同じようで、まったく違う音楽。
あちらは「生への告別」をうたった厭世的な曲。
こちらは、リアルな死や告別でなく、終末観ただよう濃密な男女の結びつきと神秘主義。
どちらも、いかにも世紀末でございましょう。

「心の休まるときがない 遥かなるものを渇望し 
 我が魂は暗きかなたの縁に触れようとし
 あこがれの中をさまよいまわる・・・・・」


辛い毎日。
わたしには、こうした音楽が一番の慰めであります。
ついでに申さば、ワーグナー、シュトラウス、プッチーニ、世紀末系、英国音楽などがわたしの本当に好きな音楽なんだな、とつくづく思うのでございます。
これらは、ファエヴァリット演奏家とはまた違う次元での音楽の嗜好に関すること・・・・。

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2010年10月 6日 (水)

ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」 コンロン指揮

Chuka_police
中華風のイルミネーション。
安安心全~安全安心、どちらでも意味が通る。
漢字ってすごい文字であります。
中華街の入口のひとつにある警察署の前庭より。
なんだかんだいって、中華料理は週に一度は食べてるかも。
しかしですねぇ、お手柔らかにお願いしますよ、なんたって悠久の大国なんだから。

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アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871~1942)の1幕物のオペラ「フィレンツェの悲劇」を。
前回のシュレーカーとほぼ同時代人で、やや年上。
ともに、マーラーの意匠を次ぐ作曲家で、同じユダヤ人として、晩年はナチス台頭により不遇の晩年をむかえている。
そして、指導者と指揮者としても大きな足跡を残している。

ツェムリンスキーは、いうまでもなく、シェーンベルクの良き友であり師であり、義理の兄でもあった。それとマーラーと結婚する前のアルマの音楽の師でもあり、愛情も抱いていた。
あと有名なところでは、コルンゴルトもいたし、当然に新ウィーン楽派の面々も間接的にそう。
指揮者としては、ウィーンやプラハで優れたオペラ指揮者でポストももっていたくらい。

一方のシュレーカーは、ベルリン音楽大学長を務めたので、その門弟はたくさん。
ラートハウス、クルシェネク、グロース、フィビヒ、ホーレンシュタイン、ロジンスキ、ローゼンストック・・・・。
ウィーンからフランクフルト、ベルリンとそれぞれ拠点を変えて、指揮活動も盛んで、ご存知のとおり、マーラー千人の初演者であります。

このふたりは、互いに自作を指揮しあってたはずだし、優れた台本作家でもあったシュレーカーにツェムリンスキーは、オペラ台本を依頼したりもしている。

ふたりの音楽は、初期のものほどお互いにロマン派の流れの中にあり折衷的だが、世紀をまたぐと、甘味濃厚後期ロマンティシズムの境地にあふれるようになっている。
しかし、シュレーカーがメロディアスで、プッチーニ的であるのに対し、ツェムリンスキーはより生々しく表現主義的な様相が強い。
ともかく、オペラ作曲家として、わたしにとって、探求のしがいのあるふたりなのであります。

ツェムリンスキーのオペラ作品は8作。
「フィレンツェの悲劇」は、その5番目のもので、1916年の作。
原作は、かのオスカー・ワイルド。
1時間を切るコンパクト作品として、同じ作曲家の「こびと」や、フィレンツェを舞台にした「ジャンニ・スキッキ」などとも抱き合わせて上演されたりする。

    グィド・バルディ(若い貴族):デイヴィッド・キューブラー  
    シモーネ(商人):ドニー・レイ・アルバート
    ビアンカ(シモーネの若い妻):デヴォラ・ヴォイト

 ジェイムス・コンロン 指揮 ケルン・フィルハーモニー・ギュルツニッヒ管弦楽団
                         (97.3@ケルン)

16世紀 フィレンツェ 商人シモーネの邸宅

商人の邸宅の居間で、貴族バルディが、商人の妻ビアンカの元に膝をつき、お互い目を見つめっている・・・・。
そこへ、壮年の旦那、シモーネが帰ってくるので、ビアンカはあわてて飛びあがり、ふたりは離れる。
シモーネは、衣料の外商からの帰りで、大きな荷物を背負っている。
 妻にずいぶんゆっくりなお出迎えだな、もっと早く来い、とあたる。
そして、彼は、この二人の関係を怪しんでいる。
この男は誰だ?親類かなにかか?と問うシモーネに、グイドは、自分の名前を明かす。
これを聞いたとたん、コロッと態度を変え、ななんと、フィレンツェに並ぶもののいない偉大な支配者のご子息であられますか・・・・、と。
グィドは、あなたの留守中に何度か来てたんですよ、孤独で気の毒な奥さまのお相手をしていたんですよ。と気楽に応える。
シモーネは、それはそれは。。。と、商売のチャンスとばかりに、妻に荷物を持ってこさせ、高価なダマスク織りを見せて、あーだこーだと褒めそやし売りつけてしまう。
正直者のシモーネさん、お金は明日届けさせますよと、グィド。
さらに調子にのって、次から次に高額商品を売り付けるシモーネ。
大金の約束に、ついには、この家にあるものは、みんなあなたのものですとシモーネは言う。
ところが、グィドが指名した欲しいものは、ビアンカであった。
シモーネは笑顔で、「そりゃ冗談でしょ、この女は家事や糸紡ぎの仕事があるんでさ。」
とビアンカに部屋に籠ってろと叱る。
あれこれ、忙しく出たり入ったりしているシモーネの傍らで、「恥を知れ」とか、「商売しか頭にない、あんな男は大嫌い、死んでしまえばいい」、とグィドにささやくビアンカ。
 そこに戻ってきたシモーネは、「いま、死とかなんとか言ったか?」と問い、しばし妄想にふけり独白する。やがて冬が来て、わしの頭はグレーに染まり、そして賢さを増すというものだ・・・・・。そして、リュートを取り出し、グィドに弾くようにせがむが、若者はいまはそんな
気分じゃない、と断る。

やがて、シモーネは庭に続く扉を開けて、月に照らされた庭に出てゆく。
二人きりになった、グィドとビアンカは、もう最高に甘ったるい濃厚二重唱を歌う。
 しばしのち、シモーネが戻ってくる。
グィドは、暇を告げるが、え、もう、ドームの鐘はまだ鳴ってませんぜ、もうここで会えなくなるんじゃないかと不安なもんでね、とシモーネ。

かつて、わが家系が不名誉を受けそうになったときに、わしはそりゃ抵抗したものよ。。。
 え、あなたはいったい何を言い出すんだと、グィド。
だんだんと激昂してくるシモーネは、ビアンカに剣を持ってこいと命じ、決闘を挑むが、グィドはやめるんだと言いつつも、剣をとる。
ビアンカは、やっちまえ、死んでしまえ、と若い方を応援する。
やがて、取っ組み合いの決闘となると、シモーネはグィドの喉元を渾身の力で締め付け、お前はここで裁かれるのだと、とどめに最後の力を振り絞る。
苦しい声で神に祈りを捧げるグィドに、アーメンで弔うシモーネ。。。。
 さて、もう一人だ。。。、とゆっくりと立ち上がってビアンカに向かうシモーネ。
ところが、ビアンカちゃんは、優しく、うっとりと、「なんで、あなたはそんなに強いって言ってくれなかったの?」
シモーネは、「え? お前はどうしてそんなにキレイなんだ」と、ふたりは熱く抱き合うのでした。。。


           ~幕~

あれ?偉い人の後継ぎ殺しちゃって、そのままそれでいいのかよ?って残尿感のたっぷり残る幕切れ。
一見、ヴェリスモ風な血なまぐさい市井の出来事を扱っているようだか、そこはオスカー・ワイルド。
力(権力)の前に屈服する人間の弱さと偽善を描いたものとされる。
なるほどね。

それにしても、力強く豊饒な前奏曲の出だしに続いて、すぐさまに官能的な旋律が流れだす。このオペラはこうした対比の連続で、一方で、商人がお宝を次々に引っ張り出して披露する場面では、金銀財宝キラキラ的な写実感にあふれていて、これはまさにR・シュトラウスのお得意の技とおんなじだ。
そして、夫の隙をついた濃厚ラブシーンでは、そりゃもう甘々のとろけるサウンドが耳をくすぐるんだ。もう堪りませぬよ。
ちゃんと歯を磨いて寝ないと、虫歯になっちゃうくらいに危険な甘さなんだ。
 で、最後の劇的な決闘シーンに、あっけないくらいの夫婦見直しのシーン。
静かに、夜の帳が降りるように曲は終ります。
うっふっーーーん

ツェムリンスキーに異常な執念を燃やしたJ・コンロンケルンのオケは、実にスマートでかつ濃密。ツェムリンスキーの音楽の特徴を余すことなく捉えているし、オペラに長けた人だけにその雰囲気もばつぐん。
 剛直なアルベルトの商人は、このオペラの主役だけに歌いどころもたくさんあるかわりに、コロコロ変わる心情を歌い込まなくてはならないが、見事なバスバリトンでしたよ。
シャイー盤の、ほの暗いドーメンも捨てがたいし。
で、登場が少なめだけど、デヴォラ・ヴォイトもこうした曲ではホントうまい。
一言ふたこと、が実にサマになってるし、決闘シーンの殺せ殺せは、まるでサロメかエレクトラみたいな没頭的なもの。
 キューブラーのリリカルな甘さはこれでよしの若様ぶりでした。

コンロン盤とシャイー盤、ふたつでかなり満足だけど、息子ジョルダンのパリ演奏も気になるひとつであります。
ツェムリンスキーのオペラもシリーズ化しますよ。

Hamasuta
ある夜のハマスタ。
身売り報道もなんとか移転なしで済みそうで、つくづくも迷惑な一言だった。
あとひと試合。
意気消沈の選手たち、このところ1点も取れません・・・・。
やっぱ、強くなきゃ、ファンも権力もやどりませんな。
大量の解雇や引退が吹き荒れる厳しい状況は身につまされます。
木塚の引退、佐伯の解雇、田代2軍監督のドラゴンズ行き・・・、理不尽な人事が昔から多いのもこのチーム。

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2010年4月 6日 (火)

小山 由美 サントリー音楽賞受賞記念コンサート

Sakurazaka1
アークヒルズのお隣にある「桜坂」。
福山さまの歌の「桜坂」とは違うみたい。
Sakurazaka2
ライトアップされ、こんな美しさ。
いまいち画像ですが。

Koyama_mami2010
日本を代表する最高のメゾソプラノ歌手、小山由美さんが、2008年度の活躍を評価され、昨年第40回のサントリー音楽賞を受賞されました。
その記念コンサートでありました。
パンフレットによりますれば、初回が小林道夫さんで、あとは歴代、日本の音楽史が書けそうな方々が受賞されております。
小山さんのご活躍がおおいに評価されての受賞、まさに慶賀の至りでございます。
ワーグナー好きのわたくしですから、ワーグナーやシュトラウスの緒役をレパートリーにする小山さんの舞台はかなり拝見しておりまして、逆にそれらの上演においては、小山さんはいまやなくてはならぬ存在になっているわけ。
これまでの観劇記録をひもとくと、オルトルート、マグダレーネ、フリッカ、クンドリー、ヘロディアス、エミリア・マルティ、ゲシュヴィツ公爵夫人などなど、たくさん接し、いずれもキリリとした歌唱とお姿は舞台を引き締め、牽引する小山さんが極めて印象的でありました。

 ワーグナー 「ワルキューレ」
          ワルキューレの騎行、第2幕~フリッカとウォータンの場面
 
 R・シュトラウス 「カプリッチョ」
          前奏曲、月光の音楽

 ツェムリンスキー 「メーテルリンクの詩による6つの歌曲」

 ワーグナー   「パルシファル」
          前奏曲、第2幕後半

 R・シュトラウス 「献呈」

     Ms:小山 由美

     T: 成田 勝美(パルシファル)

    飯守泰次郎 指揮 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
                           (2010.4.5 @サントリーホール)


実に素晴らしいプログラミング。
この演目を拝見し、小山さんだし、即チケット入手だ。
新国「神々の黄昏」、東京春「パルシファル」と続いてのこのコンサート。
まさに、ワーグナー週間、ワーグナー祭りでございますよ。
何もこんなに集中してやってくれなくてもいいじゃないと、半ば嬉しく、そして苦しい懐中に鞭打ちつつのワーグナー祭。
その仕上げに相応しく、リングとパルシファル、そしてワーグナーに派生したシュトラウスとツェムリンスキーの配合。
まったく見事なまでに、自分の中で完結した連続体験なのだ。
しかも、最後は日本人が達成した最高のワーグナー演奏で締めることができて、こんなにうれしいことはないし、自分のワーグナー鑑賞歴に大きなひとコマを刻むことができた大いなる満足感もひとしお。

ともかく、小山さんの歌とその立居振舞が素晴らしい。

まずはやはり、クンドリー!
数日前にシュスターの強烈なクンドリーを絶賛したばかりだが、テオリンのブリュンヒリデも含めて、その歌唱は強く圧倒的だが、あまりに凄過ぎて、かえって遠い近寄りがたい存在に感じたりもする。
それはいい意味で外国人が自分たちの音楽をむちゃくちゃ高度に歌い演じた姿であって、われわれ日本人からすると憧れの存在であろうか。
でも、小山さんのクンドリーは遠くなく身近な存在であり、シュスターのようにおっかない異次元クンドリーじゃなくて、転びの弱さも感じさせる、極めて人間的で情味溢れるクンドリーでありました。
高音域から低域までを存分に駆け巡らなくてはならない至難の役。
すさまじかったシュスターは、少し荒れて音程も怪しくなったが、小山さんは完璧だし、叫び声のようにはならなかった。
日生劇場で観劇したパルシファルを思いだしながら聴いた。
その時は、3幕ともに味わいを変えてのクンドリー。最後に、洗礼を受けて両手で目を覆って涙するクンドリーに、私も涙ボロボロでありました・・・・。
今回は前半・後半でドレスと髪型を変えての小山さん。
完全にクンドリー入ってました。
ドイツ語の語感の快さ。明晰な発声とほどよい感情移入。きりっとした切れのよさ。
音符に乗せた言葉の重みを感じさせる豊かな歌いこみ。
クンドリーのみならず、小山さんのドイツものは常にこうした感銘を与えてくれる。

 成田さんのパルシファル。
アンフォールタースの決め言葉、サントリーホールを揺るがしました!
安定感あります。カットはあったけど、小山さんとのあうんの演技も堂に入っていて、パルシファルの緊迫した2幕を心から感激しながら聴くことができた!
 もちろん、飯守さん指揮する東京シティフィルの、これぞワーグナーというべきサウンドは、もう何も言葉にすることはできないのであります。
多少の傷はまったくといっていいほど気にならない、そんな音楽の流れのよさと必然に満ちている演奏。

遡って、ワルキューレ。
騎行はともかくとして、馴染み深い小山さんのフリッカ。
気品と気位の高さを感じさせる。
ツェムリンスキーの歌曲を、実演で聴けるのも望外の幸せ。
小山さんの新境地ともいうべき、後期ロマン派こてこての世界は、先のベルクの「ルル」の系譜につながるもの。
思い切りこの系統が好きなもんだから、ハープのグリッサンドにピアノ、チェレスタの味付け、濃厚かつ緩めの音楽。まったくリラックスしてしまう。

この歌曲集は、オッターの蒸留水的な歌で聴いているが、小山さんの脂肪分ゼロのクリアーで透明な歌唱もツェムリンスキーにぴったり。
ここでは飯守&シティフィルは、絶妙のタッチで透明感と濃密感を見事に表現していたのが印象的で、オーケストラ部分だけ聴いていても存分に楽しめたのであります。
 そのオケが、私の大好きな「カプリッチョ」を演奏してくれた。
弦楽6重奏による前奏曲は、飯守さんは椅子に腰掛けて聴いいて、月光の音楽のみ指揮。シティフィルによる「カプリッチョ」は昨秋、日生で聴いて、その素敵な演出でノックアウトされてしまった。
その時の思い出が、次々に思い起こされてきて、素晴らしい月光の音楽では、涙が出てきてしまった。もう勘弁してよ、って心境。
 アンコールに、シュトラウスの歌曲をもってきたのも、小山さんと飯守さん、そして、今回のコンサートの流れを見事に完結する巧みな配分でありました!

素敵なコンサートでした。
盛大な拍手にブラボー、私も一声いきましたよ!
今年のびわ湖でのイゾルデ挑戦、楽しみですね。
トリスタンだらけだけど、なんとか観劇したいものです。

終演後は、ヲタ会理事のおひとりminaminaさんと、ホール近くの居酒屋で、軽く一杯。
長いコンサートだったのですが、やはり締めは飲まなくては。
ちゃんとお互い終電前に帰宅の途につきました!
お疲れさまでした。

Sakurazaka3
数日前の桜坂。
六部咲き花曇り。

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2008年9月11日 (木)

ツェムリンスキー 「抒情交響曲」 エッシェンバッハ指揮

Softbank 告白した女性に「タダトモでいましょう」と言われ悲嘆にくれる兄。
「人生には、いろいろある」と父。
「オヤジ がんも!!

最高に笑える名作CMではないか
白い犬「カイくん」の人気もすごいね。
北大寺欣也の声がまたよろしい。

わたしも、息子を叱る時は、「おまえには、まだ早い」とか言っちゃったりしてますぜ。

Zemlinsky_lyrische_sym_eschenbach_2 年端もいかないお子様が聴いてはいけない音楽のひとつが、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」だ。
子供たちには、「おまえにはまだ早い」「くるみ割り人形」でも聴いて寝ちまえ!と息巻いて、自分は後期ロマン派臭がプンプンのツェムリンスキーを一人楽しむ悪い大人なのだ。

今日の歌入り交響曲は、ツェムリンスキー(1871~1942)の「抒情交響曲」
1823年完成、翌年自身により初演。
マーラーやR・シュトラウスの後継者であり、シェーンベルクの義兄であり、その「新ウィーン楽派」作曲家たちやコルンゴルドらの師であったツェムリンスキー。
初期の頃はブラームス流でもあったが、無調→十二音に行き着くことなく、マーラーの先を推し進めた、新しくて、かつ後ろ向きの作曲家。
マーラーが完璧に受容された80年代後半頃からその再評価が始まった。
オペラの数々に、人魚姫に、3つの番号交響曲、室内楽曲、歌曲、詩篇など。
でもその代表は「抒情交響曲」であろうな。
バリトンとソプラノの独唱を配した7曲の連作歌曲のような交響曲。
そう、まさに「大地の歌」。作者自身も、その延長上にある作品と公言しているし、原詩をインドのノーベル賞作家「ラビンドラナート・タゴール」のベンガル語の叙情詩に求めていることから、世紀末的な東洋主義への傾倒ぶりにおいても、マーラーと同じ世界である。
 その英語訳が「The Gardener」という名前の詩集で、「園丁(庭師)」という軽々しさを持っているが、さらにそのドイツ語訳のテキストなので、なかなかにインドの雰囲気は見出すことが出来ない。
男女の出会いと、その愛の憧れの成就と別離による終末が歌われていて、その音楽は繰返しになるが、ギンギンの後期ロマン派風であり、甘味で濃厚、汲めども尽きぬロマンティシズムの泉である。

Ⅰ「私は不安だ、彼方のものに焦がれているのだ・・」
Ⅱ「お母さま、若い王子さまは、この戸口の前を・・・」
Ⅲ「おまえは、私の夢の空に広がる夕べの雲」
Ⅳ「お話下さい、いとしいお方!」
Ⅴ「おまえの甘ききびきから解き放しておくれ、恋人よ」
Ⅵ「最後の歌を歌って、別れましょう」
Ⅶ「安らかに、わが心よ。別れの時を甘味なるものにさせよう・・・」

わたしは、「人魚姫」と並んで、ともかくこの曲が好きで、レコード時代のマゼールBPO&F・ディースカウ夫妻の名演に始まり、ギーレン、シノーポリ、シャイー、クレーなどを愛聴している。
     
   Br:マティアス・ゲルネ   S:クリスティーネ・シェーファー

    クリストフ・エッシェンバッハ指揮 パリ管弦楽団
                           (2005.6)

このエッシェンバッハ盤はやたら滅法に素晴らしい。
もたれるくらいに念入りな指揮ぶりだが、だれることなく、気力がみなぎっていて、一音足りとも気の抜けた音がない。甘味さやロマンティシズムよりは、入念さがもたらす緊張感が全曲に貫かれているのがいい。終曲のエンディングの濃密な雰囲気などため息もの。
そして、ドイツのオケでなく、パリ管であるところがまたこの演奏のウリ。
パリ管は歴代非フランス系の指揮者だっただけに、インターナショナルな音を響かせることにかけては、国際級だが、それでも管の音色はさすがに、おフランス系のきらびやかさがある。管ばかりでなく、咆哮するブラスに泣きの弦や唸りを上げる低弦。それらに身を浸らせる喜びは堪らない喜びをもたらしてくれる。
 そして二人の歌手も、他の音盤が霞んでしまうくらいに理想的。
FDの弟子にして、FDを忘れさせてしまう知的かつ情熱的な歌声のゲルネはとんでもなく素晴らしい。
それと、シェーファー。こうした音楽を歌うために生まれてきたかのような同質ぶり。
ピエロリュネールやルルとともに、絵に描いたようにはまっている
第6曲など背筋が寒くなるようなスゴサなんだ。

いやはや、この1枚は私にとってかけがえのない1枚となりそうだ。

「人生には、いろいろある」、大人たちよ、ツェムリンスキーのこの曲を聴け!!

過去記事

 「シャイーの抒情交響曲」
 「シャイーの人魚姫」

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