カテゴリー「ドビュッシー」の記事

2021年2月 4日 (木)

ドビュッシー 前奏曲集 ベロフ

Entoku-01

静謐な庭園と絶妙の日本の間。

人がいなくなるのを待ちましたが、こうしてじっと眺めてしまうのもわかります。

時が止まった感を抱きます。

Entoku-03

昨年晩秋に訪れた京都、圓徳院。

秀吉の菩提寺である高台寺のなかにある院で、北政所ねねが後半生を過ごした場所です。

Debussy-beroff

  ドビュッシー 前奏曲集第1巻・第2巻

    Pf:ミシェル・ベロフ

     (1970.6~7 @サル・ワグラム@パリ)

ショパンの音楽を愛し、敬愛したドビュッシーもまた、ショパンにならって24の前奏曲を作曲しました。
絶対音楽ではなく、標題音楽でもない、まさに印象主義的な音楽、ドビュッシーの神髄のような作品です。
全24曲それぞれに題名は与えられているが、曲頭にあるのでなく、曲の終わりに、さりげなく書かれているそれらの標題。
まさに聴いてみて、弾いてみて、そのように感じて欲しい、味わって欲しいという思いからだとか。
標題から入ると、その印象にまず左右されてしまうものですから。 
 だから、わたしは、いつもドビュッシーの音楽は感じる、受ける、そんな気持ちで聴きます。
同じようにディーリアスの音楽も聴きます。

24曲を12曲づつ2巻に分けて、第1巻は1909~1910年の短期間に、第2巻は1910~1913年にゆっくりと作曲。
前者の方がとっつきやすく、抒情性が濃く、後者の方は円熟の度合いが増し、技巧的に厳しい考え抜かれた様式の作品集となってます。

各曲の題名は邦題でしか知ることはできませんが、いずれもうまく訳したものだと思いますし、いかにもドビュッシーな感じです。

第1巻

①デルフィの舞姫       ②帆        ③野を渡る風   
④音と香りは夕暮れの大気に漂う⑤アナカプリの丘  ⑥雪の上の足跡 
⑦西風の見たもの       ⑧亜麻色の髪の乙女 ⑨とだえたセレナード 
⑩沈める寺          ⑪パックの踊り   ⑫ミンストレル

第2巻

①霧             ②枯葉       ③ヴィーノの門       
④妖精たちはおでやかな踊り子 ⑤ヒースの茂る荒野 ⑥奇人ラヴィーヌ将軍 
⑦月の光がふりそそぐテラス  ⑧水の精      ⑨ピックウィック卿讃頌 
⑩カノープ          ⑪交代する3度    ⑫花火

それぞれを聴いた後、このタイトルを確認するようにして聴きます。
24曲のタイトルを全部覚えて、聴いた瞬間に、これは〇〇とかわかるリスナーがいたらもう大尊敬であります。
私は、第1巻の最初のほうと、亜麻色と沈める寺ぐらいかな、第2巻なんてさっぱり結びつきませぬ。
だからもう、タイトルなんてかなぐりすてて、ドビュッシーの紡ぐ音楽に身を任せるのも、この作品集の聴き方のひとつかもしれません。

そう考えてきたら、ドビュッシーの音楽はみんな模糊としたものに感じられてきた。
これまで多く聴いてきたドビュッシーがなんか遠くへ行ってしまった。
唯一近くに感じられ、その音楽の輪郭線も身近に感じられるのは「ペレアスとメリザンド」で、オペラで物語があり、言葉があることがリアルだからなのか・・・
なにを書いてるんだかわからなくなってきた、いやこの感覚がドビュッシーなのかも。
明確なものは少なく、印象でもって人の感覚に訴えてくる音楽。
空に浮かぶ雲や、夕暮れの凪の海、遠くの野山などをぼんやりと眺めて聴くのがオツというものだ。

変なことばかり書いてますが、全24曲、全部が特徴があり、その受け止めも人それぞれだろうが、「沈める寺」に着眼し、オーケストラ版を作ったストコフスキーはすごいと思います。
キラキラしすぎかもしれないが、静かに始まり、だんだんと重層的に厚みを増して行く響きが、まるでオルガンのようでもあり、寺院の荘重な鐘のようでもあるこの作品の在り方を、オーケストラで完全に再現してみせます。
わたしには、シュレーカーの音楽を思わせました。。
全24曲が、思えば、そんな豊かな響きと、想像力を刺激するイマジネーションを持っているんだと思います。

今日は、懐かしいミシェル・ベロフの若い日々の演奏で聴きました。
10代初期に、メシアンを驚かせた早熟のベロフは、ドビュッシーと、そのメシアンの専門家みたいにしてEMIに多くのレコーディングを残しました。
20歳のときの録音とは思えない落ち着きとともに、青春の輝きのような、1曲1曲に感じながらの新鮮な響きを聴かせてくれます。
曖昧さのない明晰なピアノは、これが出た70年代の当時、驚きをもって迎えられました。
懐かしいです。
同じころに登場した若いピアニストで、ジャン=ルドルフ・カーロスがいて、彼はユダヤ系でインド生まれ、フランスに育って、同じくドビュッシーとメシアンを得意にしました。
カーロスの前奏曲集もデッカから発売されて、ベロフかカーロスかで話題になったのもよく覚えてます。
ちなみに、幣ブログでは、カーロスのディーリアスのピアノ協奏曲を取り上げてます。
そのカーロスは、早くにピアニストを辞めてしまい、86年に聖職者になったようです。
ドビュッシーとメシアンを好み、極めて宗教の道へ・・・なんかわかるような。

ベロフの方は、同じ80年代にヨットレースで右手首を負傷し、両手でピアノが弾けなくなってしまう。
87年にアバドの指揮でラヴェルの左手協奏曲を録音して驚かせましたが、その後苦行のリハビリを経て完全復活したのが1995年。
ロンドン交響楽団のブーレーズ・フェスティバルでの、バルトークの2番の協奏曲で予定されていたポリーニが病欠。
代わりに登場したのがベロフだったとのこと!
なんかすごいです、しかも難曲で打鍵の激しいのバルトーク!
以来、復活したベロフはドビュッシーの再録音も行いましたし、日本にも何度もやってきてますね。
円熟のベロフのドビュッシーは実は未聴で、聴いてみたい気はしますが、わたしには20歳のベロフのドビュッシーのままでいいかと思ったりしてます。
ミケランジェリとかポリーニも聴いてますが、これが一番好き。

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ドビュッシーな雰囲気を感じ取れる(かな?)

ともかく美しかった。

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ことし、初夏の頃にはまた訪れます。

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2017年6月20日 (火)

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲 ハイティンク指揮

Sodegaura

セピア色の海と雲。

以前撮った写真を、ちょっと加工してみました。

曖昧な水平線。

ぼんやりと浮かぶ雲に、夕日があたり、はっきりしないままに、このまま暗くなっていった海辺。

ここは、自分の育った町の海で、小学生くらいまでは、それこそ海鳴りの聴こえるくらいの場所に住んでいて、遊び場はいつも海辺だった。

_3

  ドビュッシー 「牧神の午後への前奏曲」

   ベルナルト・ハイティンク指揮

       アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 

               (1976.12 @アムステルダム)


わたくしの持つこの曲のイメージは、先の写真みたいな感じでも一面あって、そういう意味で、このハイティンクの演奏は、ぴたりとくる。

ハイティンクらしく、柔らかく、ふっくらとした音楽造りに、オーケストラのシルキーな音色、それとフィリップスの豊穣なる素晴らしき録音。

これらが相まって、フランドル調の、いくぶんくすんだ渋い牧神となったのだ。

ともかく美しい。

陶酔感は少なめだけれども、安心して、この絹織の音色たちに身をゆだねることができる。

 真夏の白日、すべてが光によって映し出されるようなブーレーズの演奏も、濃密なばるバルビローリも、ビューティフルなデュトワも、そして、オーケストラの音色が往年のフランス色をとどめながらも、割と先鋭なマルティノン、あと、地中海的な瞬きにあふれたアバド。
これら、みんな好きだけど。

いまの気分は、最高にハイティンク。

牧神ばかりでなく、「海」や「夜想曲」、「映像」もすばらしくステキなハイティンクとコンセルトヘボウなのでした。

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2016年3月30日 (水)

大好きなオペラ総集編

Tokyo_tower

桜は足踏みしたけれど、また暖かさが戻って、一気に咲きそう。

まだ寒い時に、芝公園にて撮った1枚。

すてきでしょ。

大好きなオペラ。

3月も終わりなので、一気にまとめにはいります。

Tristan

  ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」

ワーグナーの魔力をたっぷりと含んだ、そう魅惑の媚薬のような音楽。
この作品に、古来多くの作曲家や芸術家たちが魅かれてきたし、いまもそれは同じ。
我が日本でも、トリスタンは多くの人に愛され、近時は、歌手の進化と、オーケストラの技量のアップもあって、全曲が舞台や、コンサート形式にと、多く取り上げられるようになった。

わたくしも、これまで、9度の舞台(演奏会形式も含む)体験があります。

そして、何度も書いたかもしれませんが、初めて買ったオペラのレコードがこのトリスタンなのであります。
レコード店の奥に鎮座していた、ずしりと重いベームの5枚組を手に取って、レジに向かった中学生を、驚きの眼差しでもって迎えた店員さんの顔はいまでも覚えてますよ。

ですから、指揮も歌手も、バイロイトの響きを捉えた、そう右から第1ヴァイオリンが響いてくる素晴らしい録音も、このベーム盤がいまでも、わたくしのナンバーワンなんです。

次に聴いた、カラヤンのうねりと美感が巧みに両立したトリスタンにも魅惑された。
あとは、スッキリしすぎか、カルロスならバイロイトかスカラ座のライブの方が熱いと思わせたクライバー盤。ここでは、コロの素晴らしいトリスタンが残されたことが大きい。
 それと、いまでは、ちょっと胃にもたれるバーンスタイン盤だけど、集中力がすごいのと、ホフマンがいい。
フルトヴェングラーは、世評通りの名盤とは思うが、いまではちょっと辛いところ。

あと、病後来日し、空前絶後の壮絶な演奏を聴かせてくれたアバド。
あの舞台は、生涯忘れることなない。
1幕は前奏曲のみ、ほかの2幕はバラバラながら聴くことができる。
透明感あふれ、明晰な響きに心が解放されるような「アバドのトリスタン」。
いつかは、完全盤が登場して欲しい。

Ring_full_2

  ワーグナー 「ニーベルングの指環」

わたくしの大好きなオペラ、ナンバーワンかもしれない・・・

興にまかせて、こんな画像を作っちゃいました。

オペラ界の大河ドラマとも呼ぶべきこの4部作は、その壮大さもさることながら、時代に応じて、いろんな視点でみることで、さまざまな演出解釈を施すことができるから、常に新しく、革新的でもある。
 そして、長大な音楽は、極めて緻密に書かれているため、演奏解釈の方も、まだまださまざまな可能性を秘めていて、かつては欧米でしか上演・録音されなかったリングが、アジアや南半球からも登場するようになり、世界の潮流ともなった。

まだまだ進化し続けるであろう、そんなリングの演奏史。

でも、わたくしは、古めです。
バイロイトの放送は、シュタインの指揮から入った。

Bohm_ring1

そして、初めて買ってもらったリングは、73年に忽然と出現したベームのバイロイトライブ。
明けても覚めても、日々、このレコードばかり聴いたし、分厚い解説書と対訳に首っ引きだった。
ライブで燃えるベームの熱い指揮と、当時最高の歌手たち。
ニルソンとヴィントガッセンを筆頭に、その歌声たちは、わたくしの脳裏にしっかりと刻み付けられている。
なんといっても、ベームのリングが一番。

そして、ベーム盤と同時に、4部作がセットで発売されたカラヤン盤も大いに気になった。
でも、こちらと、定盤ショルティは、ちょっと遅れて、CD時代になって即買い求めた。
歌手にでこぼこがあるカラヤンより、総合点ではショルティの方が優れているが、それにしても、カラヤンとベルリンフィルの作り上げた精緻で美しい、でも雄弁な演奏は魅力的。

あと、忘れがたいのが、ブーレーズ盤。
シェローの演出があって成り立ったクリアーで、すみずみに光があたり、曖昧さのないラテン的な演奏だった。歌手も、いまや懐かしいな。
 歌手といえば、ルネ・コロのジークフリートが素晴らしい、そしてドレスデンの木質の渋い響きが味わえたヤノフスキ。

舞台で初めて味わったのが日本初演だったベルリン・ドイツ・オペラ公演。
G・フリードリヒのトンネルリングは、実に面白かったし、なんといっても、コロとリゲンツァが聴けたことが、これまた忘れえぬ思い出だ。

舞台ではあと、若杉さんのチクルスと、新国の2度のK・ウォーナー演出。
あと、朝比奈さんのコンサート全部。
みんな、懐かしいな。。。

以下、各国別にまとめてドン。

ドイツ

 モーツァルト   「フィガロ」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」

 
 ワーグナー   「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」 「ローエングリン」
           「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
            「ニーベルングの指環」「パルシファル」

 ダルベール   「低地」

 R・シュトラウス 「ばらの騎士」「ナクソスのアリアドネ」「影のない女」「アラベラ」
            「ダフネ」「ダナエの愛」「カプリッチョ」

 ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」 (昔々あるとき、夢見るゾルゲ2作は練習中)

 ベルク      「ヴォツェック」「ルル」

 シュレーカー   「はるかな響き」 「烙印された人々」「宝探し」

 コルンゴルト  「死の都」「ヘリアーネの奇蹟」「カトリーン」

 ブラウンフェルス 「鳥たち」

 レハール    「メリー・ウィドウ」「微笑みの国」

イタリア

 ロッシーニ   「セビリアの理髪師」「チェネレントラ」

 ヴェルディ   「マクベス」「リゴレット」「シモン・ボッカネグラ」「仮面舞踏会」
           「ドン・カルロ」「オテロ」「ファルスタッフ」

 カタラーニ   「ワリー」

 マスカーニ   「イリス」

 レオンカヴァッロ  「パリアッチ」「ラ・ボエーム」

 プッチーニ   「マノン・レスコー」「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」「三部作」
           「ラ・ロンディーヌ」「トゥーランドット」

 チレーア    「アドリアーナ・ルクヴルール」

 ジョルダーノ  「アンドレア・シェニエ」「フェドーラ」

 モンテメッツィ 「三王の愛」

 ザンドナーイ  「フランチェスカ・ダ・リミニ」

 アルファーノ  「シラノ・ド・ベルジュラック」「復活」

 レスピーギ   「セミラーナ」「ベルファゴール」「炎」

フランス

 オッフェンバック 「ホフマン物語」

 ビゼー      「カルメン」

 グノー      「ファウスト」

 マスネ      「ウェルテル」

 ドビュッシー   「ペレアスとメリザンド」

イギリス
 

 パーセル   「ダイドーとエネアス」

 スマイス    「難破船掠奪者」

 ディーリアス  「コアンガ」「村のロメオとジュリエット」「フェニモアとゲルダ」

 R・V・ウィリアムズ  「毒の口づけ」「恋するサージョン」「天路歴程」

 バントック   「オマール・ハイヤーム」

 ブリテン    「ピーター・グライムズ」「アルバート・ヘリング」「ビリー・バッド」
          「グロリアーナ」「ねじの回転」「真夏の夜の夢」「カーリュー・リバー」
          「ヴェニスに死す」

ロシア・東欧

 ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」

 チャイコフスキー 「エフゲニ・オネーギン」「スペードの女王」「イオランタ」

 ラフマニノフ    「アレコ」

 ショスタコーヴィチ 「ムチェンスクのマクベス夫人」「鼻」

 ドヴォルザーク   「ルサルカ」

 ヤナーチェク    「カーチャ・カヴァノヴァ」「イエヌーファ」「死者の家より」
             「利口な女狐の物語」「マクロプロス家のこと」

 バルトーク     「青髭公の城」

以上、ハッキリ言って、偏ってます。

イタリア・ベルカント系はありませんし、バロックも、フランス・ロシアも手薄。

新しい、未知のオペラ、しいては、未知の作曲家にチャレンジし、じっくりと開拓してきた部分もある、わたくしのオペラ道。
そんななかで、お気に入りの作品を見つけたときの喜びといったらありません。

それをブログに残すことによって、より自分の理解も深まるという相乗効果もありました。

そして、CD棚には、まだまだ完全に把握できていない未知オペラがたくさん。

これまで、さんざん聴いてきた、ことに、長大なワーグナー作品たちを、今後もどれだけ聴き続けることができるかと思うと同時に、まだ未開の分野もあるということへの、不安と焦り。
もう若くないから、残された時間も悠久ではない。
さらに、忙しくも不安な日々の連続で、ゆったりのんびりとオペラを楽しむ余裕もなくなっている。
それがまた、焦燥感を呼ぶわけだ。

でも、こうして、総決算のようなことをして、少しはスッキリしましたよ。

リングをいろんな演奏でツマミ聴きしながら。。。。
 

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2015年6月21日 (日)

ドビュッシー 夜想曲 アバド指揮

Suga_1

雨の神社に映える紫陽花。

和の落ち着いた空間にこそ、お似合いですね。

最近、カタツムリが少なくなったと思いませんか?

雨粒のついた緑の大ぶりの葉に、カタツムリがいると、もっと日本の梅雨って感じになるけど。

Abbado_debussy

       ドビュッシー    夜想曲

       クラウディオ・アバド指揮 ボストン交響楽団
                        ニュー・イングランド音楽院合唱団

                  (1970.2 @ボストン、シンフォニーホール)

                        ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                        ベルリン放送合唱団

                  (1999.9 @ベルリン、イエス・キリスト教会)


梅雨の時期、そして、雨まじりの天気の日に聴きたくなるような音楽。

ドビュッシーには、そんなイメージをいだかせる作品が多いように思ってます。

誰しも、憂鬱になる雨。
ちょっと、アンニュイな気持ちになる。
雨降りよりは、晴れてた方が気持ちがいい。
でも、そんな雨も降らなくちゃ困る、恵みを授けてくれる存在でもあり。
そんな感謝の気持ちも持ちつつ、「夜想曲」をアバドの指揮で聴く。

ドビュッシー(1862~1918)、37歳のときに完成された「夜想曲」。
「ノクチュルヌ」と、仏語で言った方が、お洒落ですが、やはり、日本語訳の「夜想曲」と呼んだ方が、しっくりくる。

ホイッスラーの芒洋とした曖昧なまでの絵画の世界に、または、同名の詩作に、それぞれに影響を受けたとも言われますが、ここに聴くドビュッシーの音楽は、光と影の綾なすインプレッションを、目でなく、まさに耳で受け取ることができるところに、えも言われぬ感銘を受けるわけです。

「雲」「祭り」「シレーヌ」の3部分。

いまにも、雨粒の落ちてきそうな、雲に覆われた空。
そして、ひとしきり、ひと雨降ったあと、雲間から、強い日差しが差してくる。
人々は、貴重な晴れ間に、夏祭り。
そして、囃子に合わせて、神輿の一団が近づいてきて、人々の興奮はピークを迎える・・・。
しかし、祭りのあとは、寂しいもの。
急速に、勢いは萎えて、人々の去った森の社は、静寂に覆われる。
宵闇迫る中、人々の預かり知らぬ精たちが、夜のしじまに、しなやかに踊る。
村や街は、静かな眠りにつつまれるなか・・・・・。

原曲の描写したこととは関係なしに、ふふっ、こんな風に、妄想しながら聴いてみました。

もうじき、誕生日を迎えるアバドは、この「夜想曲」が大好きでした。
多感な少年時代、この曲をオーケストラで聴いて、いつか自分も指揮者になって、この曲を指揮したいと、誓ったアバド。
 正規録音は、音源では、ボストンとベルリンでふたつ、映像でひとつが残されました。
70年と、99年、アバドは、37歳と67歳。
30年の隔たりをもって録音した二つの演奏。
映像は、ストックホルムでのヨーロッパコンサートのもので、98年。

どれも、わたくしには、大切なアバドの演奏ですが、さすがに30年の年月は、音楽の深みと自在さの点で、大きな違いがあります。

ボストン響が、RCA専属の縛りから離れ、DGに初録音したのが、アバド指揮によるドビュッシーとラヴェルでした。
ベルリンの音色でイメージが出来上がっていたドイツのレーベルが、ついにアメリカで録音を開始した、その第1弾によるこの演奏並びに録音の響きは、明るく、そして派手さのないヨーロピアンなものでした。
当時、FMで聴いても、中学生だった自分にもわかりました。
このレコードは買えませんでしたが、次のアバド&ボストンのチャイコとスクリャービンは、すぐさま購入し、いまでも、アバドの一番の演奏のひとつとして大切にしてます。
 この2枚しか残されなかったアバドとボストンとの演奏ですが、ホールの響きも麗しく、全編明るく、雲ひとつない明瞭なもの。
そこに、アバドらしく、しなやかな歌が加わるものですから、表情がともかく若々しく、「祭り」においては、颯爽とした爽快感と大胆さにあふれております。
女声合唱の精度がもう少し高ければ、との思いもありますが、このボストン盤は、カップリングのラヴェルとともに、若きアバドの最良の姿を写し出した1枚でしょう。

ベルリンフィルでは、その若々しい表情と、爽やかなな歌い口はそのままに、音の彫りが深くなり、音楽の切実さがより増したように感じます。
ことに「シレーヌ」における緻密さと、表現の厳しさが、オーケストラの高性能ぶりで、より引き立っている。
「雲」の神秘感。浮足たたないけれど、熱い「祭り」の盛り上げ。
いずれも、アバドらしい透明感と、明晰さに貫かれた名演です。
しかも、この録音は、フィルハーモニーザールが改装中のときで、カラヤン時代にお馴染みだったイエス・キリスト教会での録音によるもので、自然な美しい響きが、この曲にとても合ってます。

演奏時間は、ボストンが、22分24秒。
ベルリンが、24分26秒。

ルツェルンでは、どのような「夜想曲」を聴かせてくれたのでしょうか・・・・。

アバドの誕生日に聴くディスクは、もう決定済みです。

そして、この曲のカッコイイ「祭り」の演奏で、忘れられないもの。
ショルティとシカゴの来日公演で、マーラー5番のあと、アンコールで、これをやりました。
ダイナミックレンジの広大な、すさまじい威力と虚しささえも感じるすごいものでした!

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2015年1月11日 (日)

新春ピアノ三重奏 Japan×France

Megro_persimmon_2

新春を感じさせるお花が、受付に飾られてました。

音楽と花と香り。

そんな五感をたっぷり楽しませていただける、コンサートに行ってまいりましたよ。

Megro_persimmon_1

 新春ピアノ三重奏

   花と共に奏でる<日本×フランス音楽>の世界

     宮城 道雄   「春の海」

     日本の四季 メドレー

     ドビュッシー  「月の光」

               映像第2集~「金色の魚」

     ラヴェル    「ツィガーヌ」

     サン=サーンス   動物の謝肉祭~「白鳥」

     フォーレ    エレジー

     ラヴェル    ピアノ三重奏曲

       アンコール  「花は咲く」

       ヴァイオリン:松尾 茉莉

       チェロ:    行本 康子

       ピアノ:     加納 裕生野

         フローリスト:元木 花香

         司会     :田添 菜穂子

                (2015.1.10 @目黒パーシモンホール)


神奈川フィルのヴァイオリン奏者であります松尾茉莉さんと、その仲間たちによるコンサート。

Megro

日本のお正月・新春に相応しい宮城道雄の「春の海」で、たおやかに始まりました。

ご覧のとおり、日本の音楽と、フランスの音楽のたくみな組み合わせ。
みなさんのソロをはさんで、最後はラヴェルの色彩的な名作で締めるという考え抜かれたプログラムでした。

日本の四季の歌の数々が「ふるさと」を前後にはさんで奏でられ、会場は、ふんわりとした優しいムードに包まれました。

そのあとの加納さんのドビュッシーは、実に美しく、情感もたっぷりで、この作曲家に打ち込む彼女ならではの桂演でした。

エキゾティックなムードと超絶技巧満載のツィガーヌは、いつも前向きな松尾さんらしい、バリッと冴えた演奏。

後半は、静かな語り口で、超有名曲と、フォーレの渋い曲を弾いてくれた行本さんのチェロでスタート。

最後は、3人の熱のこもったラヴェル。
4つの楽章を持つ30分の大曲ですが、あっと言う間の時間の経過。
1914年の作曲で、いまからちょうど100年前の第1次大戦直前の頃の音楽は、夢想的なロマンと、熱気と躍動感という、ラヴェルのいろんな顔のすべてが、ぎっしりと詰まった音楽です。
きらきら感と、3楽章の神秘的な味わいをとてもよく弾きだしていたのが加納さんのピアノ。
柔らかな音色の行本さん。
そして、松尾さんは、しなやかさと、ひとり神奈川フィルとも呼びたくなるような美音でもって、魅了してくれましたね。
 若い3人の女性奏者たちによるフレッシュで香り高いラヴェル。
堪能しました。

最後は、「花は咲く」で、うるうるさせていただきました。

Megro_3_2

そして、香りといえば、花と香りのアロマを演出されたのが元木さん。
3人が生花をつけて演奏し、しかも、ドレスはトリコロール。
ホワイエには、檜の香りが漂い、いただいた栞にも、お花の香りが。
 おじさんのワタクシですが、音楽と香りのマッチングに、思わず、頬がほころぶのでした。

センスあふれる企画と演奏、いただきました。
 

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2014年6月 7日 (土)

ドビュッシー 「版画」 フランソワ

Tsuzaki_church_a

雨です。

梅雨とはいえ、よく降ります。

こちらは、2年前に行った天草。

ちょうど今頃の季節で、仕事の日は晴天で、翌日フリーにした一日は、雨でした。

港の対岸がら見た、津崎教会。

偶然ですが、雨にピントがあったようで、遠景は滲んだようにして映りました。

今日聴く、音楽にもぴったりのような気がして、昔の写真をひっぱりだしてきました。

Debussy_francois

   ドビュッシー  「版画」

      ピアノ:サンソン・フランソワ

               (1968.7 )


ドビュッシーの数あるピアノ作品には、練習曲とほか数曲をのぞいて、いずれも、詩的で幻想的なタイトルのついた曲ばかり。

それらは、当然ながら写実的なものでなく、あくまで、曲の雰囲気に寄り添うような、少しばかり曖昧なタイトル表現ばかりといっていい。

初期のものは、まだまだフランス・ロマン主義的な、ざーます系のお洒落音楽に身をまとっていますが、世紀の変わり目あたりから、ドビュッシー特有の印象派としての響きの音楽へと変容していきました。

「版画」は、1903年の作品で、交響詩「海」に取り掛かった頃。

 「塔(パゴダ)」 「グラナダの夕べ」 「雨の庭」

この3つからなります。

エキゾテックな様相の「塔」は、パリ万博で聴いたジャワやシナの音楽にインスパイアされたとされ、ガムランの響きを聴きとることもできます。
ただ、あくまで、それは、ドビュッシーその人の印象の反映というにすぎず、塔そのものを描いたものでないことが、それまでの音楽の在り方と異なる点。

ハバネラ舞曲のリズムにのっとった「グラナダの夕べ」は、同じエキゾテックでも、スペインの下町の物憂い雰囲気。
後年の「イベリア」にも通じるものがありますね。

そして、「雨の庭」というタイトルは、予想に反して、アップテンポのちょっと元気のいい曲で、われわれ、日本人のしっとりと、雨に濡れた庭というイメージからすると、かなり違うような気がする。
フランスの古い童謡などがモティーフとされ、子供時代の自宅の庭に降りしきる雨を思いつつ書いたとされますから、少し浮き立つような子供心をも思わせるところが、元気よく聴こえるんでしょう。

雨のイメージは、お国によって、それぞれさまざまですな。

わたくしは、やはり、そぼ降る雨に、緑がしっとり濡れた、小さな和庭園を思いたいですね。
そして、そんな庭を、障子を少し開いて、見つめながら、ドビュッシーのピアノ曲をひねもす聴いてみたい。

最近の、どしゃどしゃ降る雨なんざ、情緒もへったくれもありゃしない。

サンソン・フランソワ。
このお名前を、鼻から息を抜くようにして、発声してみてください。
それだけで、この方のドビュッシーの演奏が、そのまま想像できますよ。

ステキ。

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2014年3月 2日 (日)

ドビュッシー 交響詩「海」 アバド指揮

Abbado_lucerne

ベルリン・フィルの退任を告知しおたおり、退任後は、ずっとあたためていたことがあるんです、と静かに話していたアバド。

その言葉は、ルツェルン音楽祭管弦楽団の立ち上げで、現実のものとなりました。

2002年にベルリン・フィルを退任、そして2003年8月に、ルツェルン音楽祭でスタート。

マーラー・チェンバーの稿でも書きましたが、そちらのメンバーもルツェルンの母体に。

1938年に端を発する「ルツェルン音楽祭」は、ブッシュやトスカニーニ、アンセルメ、ワルターらの指揮者が登場し、そのオーケストラは、スイス・ロマンドを中心とした、スイス国内のオケメンバーによるもの。
いくつかの歴史的な録音で、いまも聴くことができます。

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その後は、外来オーケストラを主体とする名音楽祭になってゆくのですが、グスタフ・マーラー・ユーゲント・オケが、そのレジデントになってのち、アバドの声掛けによる、新生ルツェルン音楽祭オケの誕生となります。

毎年、10年間にわたって映像と実演によって接してきましたが、不変のメンバーもいますし、常にそこには、スタープレイヤーと、若手とが、真剣勝負のように演奏する姿を見せてくれました。

2003年のスタート演目は、ふたつ。

 ① ワーグナー 「ワルキューレ」~ウォータンの告別
              ブリン・ターフェル

  
   ドビュッシー 「聖セヴァスティアンの殉教」

           交響詩「海」

 ② マーラー  交響曲第2番「復活」

Abbado_lucern2003


   ドビュッシー   交響詩「海」

     クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン音楽祭管弦楽団

               (2003.8.14 @ルツェルン 複合文化センター)


子供時代、ドビュッシーの「夜想曲」を聴いて指揮者への道を誓ったアバド。

「夜想曲」は、ボストン響との録音などで、早くからレパートリーとして取り上げてきましたし、「牧神」「イベリア」「セヴァスティアン」、ことに、「ペレアスとメリザンド」は、繰り返し上演し、ことさらの愛情をそそいだドビュッシー作品です。

しかし「海」を指揮するのは、2000年に入ってから。

マーラー・ユーゲントとのツアーで、その演目は、バルトークの弦チェレ、アルゲリッチとのラヴェル、そして、「海」です。
FM放送もされ、わたくしは、アバドの初レパートリーのバルトークとともに、「海」のドラマティックな推進力あふれる演奏に聴き入りました。

そして、このルツェルン。

アバドのルツェルンの「海」は、GMJOの時よりも、さらに若々しく、明るく、しなやかな演奏になりました。

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見渡す限り、すごい顔ぶれのオーケストラ・メンバー。
コンマスは、ブラッハー、クリスト、ポッシュ、グートマン、ハーゲンSQ、パユ、マイヤー、ザビーネ・マイヤー、ジェンセン、フリードリヒ・・・・、もう枚挙にいとまないくらいに勢ぞろい。

その彼らが、病を克服し、すっかり元気になったアバドの指揮のもとで、全霊を込めて演奏に熱中する様子は、映像で見ていてすっかり引き込まれ、感動してしまう。
そして、その彼らの奏でる音の輝かしさといったらない。

無尽蔵と思われるレンジの広さに、音の溶け合いの美しさ。
名手同士が、お互いに音を聴きあいながら、アバドの指揮を見上げるように演奏。

アバドは、ときに笑みを浮かべながら、いつものように、左手をぐるぐると回すように指揮をしてます。
本当に、音楽が大好きで、夢中の様子。
そんなアバドが、もういない・・・・、そう思うと、ドビュッシーの音楽で泣けてきた。

トリスタンとパルシファルに集中していた当時のアバド。
このドビュッシーは、さらに2000年代にも集中して取り上げた、マーラーや新ウィーン楽派といった音楽の流れの中に、しっかりと位置する、演奏に思いました。

大編成でも、決して濁ることのないアバドのドビュッシーの明晰な音楽詩は、ルツェルンという高性能かつ、アバドの意を完全掌握するスーパー・オーケストラでもって、な完璧ものとなった思いがします。
 明るさと、きらめきを感じる、陽光あふれる海の光景。

この輝かしくも、透明感あふれる「海」は、かつてのアンセルメやミュンシュ、マルティノン、デュトワらの伝統的な演奏とも、ブーレーズの知的な明晰さとも、カラヤンやプレヴィン、バレンボイムらの交響詩的な聴かせ上手の演奏とも、まったく異なる、ユニークな演奏に思います。

この映像には、「セバスティアン」は収録されてますが、「ワルキューレ」はなし。
非正規盤CDRで、全曲を1枚のCDで聴くことができます。

いずれ、ちゃんとしたCDでも発売して欲しいと思いますし、2009年のベルリン・フィルとのライブも音源化して欲しいと熱望します。

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喝采を受けるアバド。
会場には、ハイティンクの姿を見受けられました。
ハイティンクは、アバドのピンチヒッターとして、何度も急場を救っていただきました。
オーケストラ、ソリスト、ほかの指揮者たちから、みんなに愛されたアバドです。

ルツェルンの記録、もう少し続けたいと存じます。

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2012年9月18日 (火)

ドビュッシー 弦楽四重奏曲 パレナンSQ

Manseibashi

日の暮れるのが早くなってまいりました。

秋葉原の万世橋。

下を流れるのは神田川です。

左手のレンガの壁は、旧万世橋駅。

激変してしまった秋葉原だけれど、神田や淡路町寄りは、まだまだ風情ある神田の顔が残ってます。

石丸電機は、エディオンになってしまい、一部カラオケビルにもなってしまった。

外資ショップが出てくる前は、石丸電機はクラシック好きにはありがたい存在だったなぁ。
店員さんが詳しくて、商品の扱いも丁寧。
たいていのものは揃っていた。
寂しいなぁ〜。
あと、いま急に思い出したのだけど、神保町の大手スキーショップがレコードやCDを売っていて、クラシックも相当に充実していたし、店員さんもこれまた詳しい人がいました。
レコードからCDへの以降時に大変お世話になりました。
ヴィクリアだったかな?? やばいくらいに記憶が曖昧な自分が悲しいよ。

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      ドビュッシー  弦楽四重奏曲

          パレナン四重奏団

              (1950年代半ば)


曖昧な記憶を優しく包み込んでくれ、そしてさらに模糊とした雰囲気に誘い入れてくれ、それでいい、との、ある種酩酊状態に満足感を与えてくれる。

そんな弦楽四重奏曲です。

旋律的にも、感覚的にも、より明快でおしゃれなラヴェルの四重奏曲と、ほぼ100%カップルになってレコード時代から聴かれているドビュッシーの作品。

1892年、まだ「牧神」の前、印象派的な作風にも達していない30歳の時の音楽。
伝統的な4つの楽章で、精密な循環形式を採用しているが、聴いていて、カッチリした様式よりは、感性の豊かさがもたらす瞬間的な美が先行して感じ、ことに3つめの緩やかな楽章では甘味ささえただよってきて、陶然としてしまいます。

ミステリアスな1楽章に、これまたピチカートが独特の雰囲気を醸し出す2楽章。
終楽章は、全体を俯瞰しつつも、きっぱりとした活気の中に終了。いいです。

パレナン、シャルパンティエ、コロ、ペナソゥのパレナンSQは、EMIにステレオ再録音をしていて、名盤の世評も高いが、こちらはモノラル期に仏パシフィックに録音していたものの復刻盤であります。
お世話になってますEINSATZレーベルのCD、素敵な解説は、わたしにはおなじみのNさんです。
レコードで聴く、弦楽器のぬくもりある美しさと、このフランスの楽団の持つ、甘い音色が決して古臭くなく、むしろ新鮮なくらいに鮮やかに蘇って聴こえます。

暑さに疲れてしまった体、渋いけれど甘さもある日本茶などをすすりながら聴いてみました。
(でも、実際は焼酎をお茶で割って・・・・・・)

「月曜ねこの日」は、今週はお休みを頂戴しております。

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2012年8月22日 (水)

ドビュッシー フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ 

Azumayama_2

毎度恐縮ですが、相模湾をコスモスとともに望む図です。

お正月に菜の花を咲かせるためか、このコスモスたちも早咲きで、もうすぐ刈り取ってしまうそうです。

温暖の地ですからできることですが、秋桜にしては暑すぎの毎日ですね。

しかし、この素晴らしい景色にマイナス要素は、そう、あのマンションです。

反対運動はかなりのものだったが、反対に法的な根拠もなく、建ってしまった。

こうして見ると、いかに景観をぶち壊しているか、無粋な建築物かがわかるというもの。

湘南・西湘エリアは人気の居住エリアですから、こうした開発は、いろんな規制がありながらも、いまも各所で続いております。
複雑な心境であります。

Debussy_sonatas

   ドビュッシー   フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ

          Fl:ジャン・ピエール・ランパル

          Vla:ピエール・パスキエ

          Hp:リリー・ラスキーヌ

                    (1962.4)


今日は、ドビュッシー(1862〜1918)が、150年前に、パリ北部、サン=ジェルマン=アン=レーで生まれた日です(8月22日)。

150年ですよ。
思えば、1970年、わたしがクラシックに目覚めた頃、日本は大阪万博に湧いていたけれど、音楽界では、幾多の来日演奏家に加え、ベートーヴェンの生誕200年で大爆発だった。
わたしの記憶は古いほど鮮明なので、つい先日のこととのように覚えてます。
だからゆえ、ドビュッシーの生誕150年というと、ベートーヴェンとそんなに近かったの?
と勝手に思ってしまう次第。
でも計算すれば90年近く違うわけで、50年の差プラス分、自分がそれだけ歳を経てしまったことに愕然としてしまうのですよ・・・・・。
来年は、ワーグナーとヴェルデイの200年だし、自分に残された年月をも意識せざるを得なくなってくるんです。

変な思いに沈んでしまったのは、ドビュッシーの残したソナタ3つを聴いて、ホワーンとした気分になり妄想してしまったからかも。。。。

今日は、その3つのソナタの中から、一番不思議な楽器の取り合わせの曲を。

交響曲は書かなかったし、協奏曲もなし。
ドイツ的な形式主義を一切拒んだドビュッシーは、もっともフランス的でありなんとする思いから、フランスらしい、そしてフランスのバロック的な自由な形式で、ソナタを6つセットで残そうと考えた。
それが、「チェロとピアノのためのソナタ」と「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」「チェロとピアノのためのソナタ」の3つ。
あとの3曲は、ドビュッシーの死によって結実することがなかった。
自身のメモでは、次は「オーボエ、ホルン、クラブサンのためのソナタ」と記されているそうな。
ユニークな楽器の組み合わせによる、ドビュッシーらしい印象派としての作品が、あと3つあったとしたら、それぞれの楽器奏者にとっても天啓ともいうべき作品が残されたことでありましょう。

1915〜1917年にかけて作曲された3つのソナタ。

ソナタといいながらも、3つの楽章を持ちながらも、それぞれ、「パストラーレ」「間奏曲」「終曲」と、まるで組曲のような名前と配置を持ちます。
パストラーレは、「亜麻色の髪の乙女」の旋律を思わせる美しくたおやかなもの。
この3つの楽器の透明感とクールな優しさが溢れます。
2楽章では、スケルツォ的な場面と、明るく水しぶきをあげるような涼しげなムードが漂う。
フルートとハープの透き通ったこの世ならぬ響きに、ヴィオラが下支えしつつ、どこかアンニュイなムードを添えます。
とらえどころがなかなか難しい曲ですが、雰囲気的・感覚的な模糊とした音楽は妙に魅力的。
終曲へ行くと、こちらも慣れてきて、これらの楽器が醸し出す独特の響きと、捉え難く変転してやまない楽想を、耳が感覚として受け止めるようになってくる・・・気がする。

3つのソナタの中では、一番不可思議だけれど、独特の雰囲気を持つ曲です。

フランス人たち、3人の、ゆかしき演奏。
鼻から空気が抜けていきそうな感じで、いまにも、わたくしフランス語を話せそうな気になりましてよ。

この同じ編成の音楽、あと、バックスと武満徹を持ってます。
いずれとりあげたいと思ってます。

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2012年7月14日 (土)

ドビュッシー 交響詩「海」 バレンボイム指揮

Chibaport5

海に沈む夕日が、子供のときから大好き。

育った場所では、日の出は相模湾から、日の入りは海を隔てて、遠く箱根の山の方向。

どちらも海が、赤や朱色に染まりました。

そして、いま住む千葉の海では海を隔てて、都会の街の方向に太陽は沈んでゆくんです。

こちらは、千葉港から見た東京湾の夕暮れ。

スカイツリー見えます。

そして、ちょうどスカイツリーのあたりに沈んで行きました。

先週のことですから、もう位置はずれてるんでしょう。

Chibaport6

東京都心とスカイツリー。

Debussy_la_mer_barenboim

  ドビュッシー    交響詩「海」

      ダニエル・バレンボイム指揮 パリ管弦楽団

                    (1978.1 パリ)


わたくしのフェイヴァリット曲のひとつ、「海」。
何種類持ってるか数えたことないけれど、どうしても、おフランスのオーケストラに惹かれちゃうのは、日本人ゆえか。
 いや、中国も韓国も、いまや欧州嗜好は強いから、アジアとしての憧れなのでしょうか。

中でも、パリ管は、そのお名前からして、フランス臭プンプンな香りがして、常に羨望の存在。
なにせ、オルケストル・ドゥ・パリなんだからさぁ。
 同じパリのフランス国立管は、オルケストル・ナシオナル・ドゥ・フロンセ。
ともに、鼻に抜けるように発音したりすると、いかにもおフランスざぁますわよ。
さぁ、みなさんご一緒に。

でも、そんな傍から見てる雰囲気とは裏腹に、これらふたつのオーケストラは、クリュイタンス、ミュンシュ、マルティノン亡きあと、指揮者は、非フランス系ばかりで、デュトワという例外があるものの、どうもドイツ色が強くて、外国系の指揮者に振られたフランスのオーケストラといったイメージから脱しきれない恨みがある。

しかし、いまのパーヴォ・ヤルヴィ(パリ)とダニエーレ・ガッティ(国立管)は、いままでと一味違いそう。
よりインターナショナルな彼らだし、どんな国の作曲家の作品を指揮しても、ぬかりなく鮮度高い表現をしてくれるし、曇りなく明快。
味わいや深みはまだまだですが、音楽を聴く喜びを与えてくれることでは近時、随一かも。

今日の、バレンボイムの演奏は、カラヤンやショルティの時代の延長上にある、少しばかり腰の重い克明なドビュッシー。
くっきりとした音楽づくりは、曖昧さを廃してユニークなドビュッシーだけれど、パリ管を聴くわたくしには、先の発音じゃないけれど、フゥー~ンというような色気ある音色も欲しいのですよ。
時に、テンポを落として、濃厚な味わいを聴かせたり、急にサラサラと流してみたりで、ある意味聴いていて、スリルを感じるドビュッシー。

 同時期に、バレンボイムは、パリ管とワーグナーやフランクを録音しているけれど、そちらの方にフランス臭を感じてしまうワタクシ。
でも、この時期のバレンボイムは、いまより好きだったな。
いまの大家然として落ち着いてしまった演奏よりは、イギリス室内管やシカゴ(DG時代)、ロンドンフィルとのもの、そしてパリ管とのもの、これらの方に、バレンボイムの重たいけれど、大変な集中力と粘りを感じさせ複雑な内面ものぞかせる彼の個性を感じます。

思えば、バレンボイムの音楽の特徴ってなんだろう?
ワーグナーのオペラでも、いろんな顔がありすぎなもんで。
どなたか教えてくだされ。

Chibaport4

パリのオーケストラならオペラ座。あとトゥールーズやリール、リヨン、ナンシー、ロワーヌ、ボルドー、少しドイツっぽいけどストラスブールなどなど、そちらのお国ものを見つければ購入するようにしてました。
少し田舎くさくて、洗練されすぎてもいない方がいいんです。

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