カテゴリー「カラヤン」の記事

2024年1月13日 (土)

ワーグナー ワルキューレ1幕後半 ベルリンフィルで聴く

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数日前、極寒の曇り空に1日に、夕方には雲が切れて壮絶な夕焼けとなりました。

次の日はきれいに晴れ渡る好天でした。

日本は広い、被災エリアにお日様の暖かさを届けたいものだ。

大晦日に行われたベルリンフィルのジルヴェスターコンサートでは、久方ぶりにワーグナーが特集された。
指揮はもちろん、キリル・ペトレンコで前半に「タンホイザー」序曲とバッカナール、メインが「ワルキューレ」第1幕でした。

そこで歴代指揮者たちで、ワルキューレ1幕をベルリンフィルで聴いてみた、の巻です。
アバド盤が2重唱以降なので、コンパクトに後半のみを。

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    ジークムント:ジョン・ヴィッカース

    ジークリンデ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (1966.12 @イエス・キリスト教会)

ザルツブルクでの4年間の上演に先立ち録音された1年おきのリング4部作。
最初の録音がワルキューレで、リリックな歌手を起用してカラヤンのリングに対する考え方を明らかにさせ、世界を驚かせた。
全編、抒情的で緻密な演奏で、その音楽は磨きぬかれて洗練の極み。
2重唱も美しく、とくに繊細でしなやかなヤノヴィッツの歌うか所では、オーケストラは耽美的ですらある。
しかし、そんななかでもさすがはカラヤンと思わせるのが、ふたりの愛の高まりとともに、オーケストラの高揚感も最高に高まり、最後は手に汗握るような情熱のかたまりとなる。
こういうところがオペラ指揮者としてのカラヤンのすごいところ。
ベルリンフィルも鉄壁であるが、録音会場が響きすぎるのがやや難点か。
しかし、60年代録音で聴き慣れた、自分には馴染みある響きでもあり。
ヴィッカースは異質である。

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    ジークムント:ジークフリート・イェルサレム

    ジークリンデ:ヴァルトラウト・マイヤー

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (1993.12.31 @フィルハーモニー)

カラヤンのワルキューレから27年後。
ローエングリンのみをそのレパートリーにしていたアバドが、ジルヴェスターで抜粋とはいえ、オランダ人、タンホイザー、マイスタージンガー、そしてワルキューレを指揮した。
当時は、NHK様がジルヴェスターコンサートはテレビでライブ中継していたころで、わたしはもう画面に釘付け。
毎年、テーマを設けてひとりの作曲家や文学作品、民族などを特集していたアバド。
慎重なアバドだが、やはりライブでは燃える。
この夜のハイライトはやはりワルキューレだった。
音たちの磨きぬかれた美しさは、もしかしたらカラヤン以上で、混じり物のないクリアで明晰なワーグナーは、のちのトリスタンで突き詰めたアバドのワーグナー演奏の端緒ともいえる。
カラヤンとはまったく違った、よい意味での音の軽さは、ベルリンフィルの名技性があってのものだろう。
ここにアバドの大胆さを感じる。
ここに聴く抒情は、カラヤンのウマさのともなう美しさでなく、どこまでもしなやかでピュアで、新鮮だし、抑えに抑えたオーケストラはそれこそ室内楽のようで、歌手と対等の立場にある。
 わたしの世代では、コロやホフマンとならぶヘルデンだったイェルサレムが好きだ。
イェルサレムのジークムントは実演で2度聴けたが、ここでも知的でありつつ、熱くもあり、力感も十分だ。
同じく実演でのジークリンデを経験できたマイヤーもステキの一言につきる。
彼女のメゾがかった弱音が実に素晴らしいのだ。
ということで、アバド盤、ほめすぎですかね。
ラストの白熱感も、着実でたまらなく素晴らしいです。

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    ジークムント:ヨナス・カウフマン

    ジークリンデ:ヴィダ・ミクネヴィシウテ

  キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (2023.12.31 @フィルハーモニー)

アバドのジルヴェスターから30年。
私も歳をとったが、ベルリンフィルの超絶うまさは健在だ。
ラトルもワルキューレはザルツブルクで上演しているが、残念ながら聴いたことがないのでここでは省略。

ペトレンコ就任から4年を経て、そのレパートリーも音楽もだんだんわかってきた。
しかし、ベルリンフィルの指揮者になったからといって、ベートーヴェンやブラームスの全集を作ったり、メジャーレーベルを股にかけて活躍したりといったことはいっさいせずに、わが道をゆくといった求道的な姿を見せるペトレンコ。
豊富なオペラ指揮者としての経験がありながら、劇場レパートリーをこなすといった日常のルーティンワークでなく、思い定めた作品を徹底的に極めていくタイプ。
であるがゆえに、その演奏は徹底していて完璧さを求める緊張感にあふれている。
そして相方がベルリンフィルというだけあって、その完璧さが鉄壁にすぎて、ときに緊張疲れしてしまうのではないかとわたしは危ぶむ。
両社の緊張関係が途切れたときどうなる・・・わたしにはわからない。
だから完璧にうまくいっているこのコンビを今こそ聴くべきなのだろう。

以上つらつらと思ったままの演奏がこのワルキューレ。
ペトレンコにまいどのことで、そのテンポは速めで、そのうえに情報はぎっしり詰まっている。
カラヤンにあった甘味な抒情、アバドにあった優しさと微笑みの歌、それらはまったくなく、ワーグナーの厳しい造形音楽と感じる。
これをライブで、または劇場で舞台を伴って聴いたなら、CDやDVDよりも完璧に感じ、同時に音の熱量も高いので、体を焦がすような興奮も味わえるだろう。
カラヤン、アバド、ラトル、それぞれのベルリンフィルと、また違う次元のオーケストラサウンドをペトレンコは導き出すものと思う。

お叱りを覚悟でいいます、なんでもかんでもカウフマン、少し食傷気味です。
バリトンがかった悲劇臭あふれるジークムントは、たしかに役柄的に最適だが、カウフマンの声はもう重すぎると思った。
突き抜けるようなテノールの声がないので、曇り空なんです。
同時期のウィーンでのトゥーランドットも最近聴いたけれど、こちらはプッチーニだけに、不満はもっと大きかった。
 一方、売り出し中のリトアニア出身のミクネヴィシウテの若々しい、張りのある声がすばらしい。
ベルリン国立歌劇場ですでにジークリンデを歌っていて、この夏はバイロイトで、何度も共演してるシモーネ・ヤングの指揮でもジークリンデを歌う予定。

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我が家の庭にある紅梅も咲きはじめ、甘い香りが漂ってます。

ジークリンデの「君こそが春」、ジークムントの「冬の嵐は去り」を聴いて、まさに甘い思いに浸る。

ベルリンフィルというオーケストラは、まさにスーパーな存在であり、楽員たちが選ぶその指揮者たちとも歴代にわたり、見事な結実を示してきました。

ラトルも含めて、ベルリンフィルをこうしてさまざまに聴ける幸せをかみしめたいものです。
これはウィーンフィルでは絶対に感じない思いです。

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2022年12月24日 (土)

クリスマス with レオンティン・プライス 

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毎年めぐりくるクリスマス・シーズン、あたりまえですが。

しかし、今年ほど不穏なうちに迎えたクリスマスもないと思います。

来年ももっと深刻な年になるかもしれません。

クリスマスの装飾に心和ませ、クリスマスの音楽に落ち着きと平安を求めましょう。

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   Chistmas with Leontyne Price

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     カラヤン/アヴェ・マリア

   きよしこの夜
   あめにはさかえ
   われら三人の王
   あら野の果てに
   もみの木
   ともに喜びすごせ
   あめなる神には
   高き天より
   おさなごイエス(黒人霊歌)
   アヴェ・マリア(シューベルト)
   オ・ホーリー・ナイト
   アヴェ・マリア(バッハ)
   アレルヤ(モーツァルト)

    レオンティン・プライス

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団員
           
    ウィーン楽友協会合唱団/ウィーン・グロスシュタット少年合唱団

    プロデューサー:ジョン・カルショウ
    エンジニア:ゴードン・パリー

       (1961.6.3~5  ゾフィエンザール、ウィーン)

オリジナルだと、クリスマスwithレオンティン・プライス、日本国内盤だとカラヤン/アヴェ・マリアになってしまう。
オペラハウスで引っ張りだことなったミシシッピー生まれのアメリカ人歌手と、その才能を見出し重用した大指揮者、そして名門オーケストラと、それほどまでに豪華な1枚。
そして忘れてならない、プロデューサーのカルショウの存在はデッカならでは。

録音はいまでこそ丸っこい音に感じるが、それでも音量を上げて聴くと、オーケストラの音に低域の豊かさと分離の良さと力強さ、ホールの響きの良さを感じる。
なにもカラヤンとウィーンフィルでなくてもよかったんじゃない?と思ってしまうが、それでもカラヤンはカラヤンの音がする。
たっぷりとした豊かな歌いまわしは豪華そのものだし、柔和なウィーンの音色もあります。

60年代にはいるとカラヤンはウィーンフィル、カルショウとともにオペラの数々を録音するようになりました。
60年には「こうもり」、そしてこのクリスマスアルバムの1か月前には、真反対の音楽ともいえる「オテロ」を録音。
翌62年にはプライスと「トスカ」、63年には同じくプライスと「カルメン」。
ウィーン国立歌劇場の芸術監督(56~64年)の時代と重なる、こんな流れのなかにあるクリスマスアルバムということが私には興味深い。
ベルリンで後年にヤノヴィッツあたりとクリスマスアルバムを作ってくれたらよかったのに、とも思いますね。

そのカラヤンが愛したソプラノ、レオンティン・プライスの声は、全盛期ゆえにゴージャスそのもの。
高音域に聴かれる声の美しさは素晴らしく、輝かしい。
低域もずっと後年はドスが効きすぎて、またヴィブラートがややきつくて厳しいものがあったが、この時期はそうでもなく、暖かみを感じる。
これらの定番のクリスマス曲のなかにあって、一番すばらしいのが、無伴奏で歌われる「おさなごイエス」。
祈りにあふれたような真摯なプライスの歌唱は感銘深いです。

プライスの歌は過去の録音ほどいい。
プッチーニのアリアとR・シュトラウスのモノローグを集めた2CDを久方ぶりに聴いてみた。
マノンレスコーと蝶々さんは刹那的なまでの歌いぶりで、そこに美的なスリルも感じたりもしました。
カラヤンが愛したのはゴージャスな声とそうした刹那感だったかもしれません。
一方で、カラヤンはR・シュトラウスには、ショルティと違ってプライスを起用することはありませんでした。
カラヤンは、ワーグナーやシュトラウスでは、よりリリカルな声を好みましたね。
しかし、久しぶりで聴いたプライスのサロメ、痺れるほどにいい。
破滅的な陶酔感が存外に素晴らしいのだ。
ラインスドルフとボストン響がバックを務めていて悪かろうはずがない。

ピュアなクリスマス音楽を聴いて、サロメに至るという、どこか背徳的な聴き方をしてしまったが、降誕の直前の旧約聖書の世界に至るのも悪くない聖書巡りかもしれません。(やっぱり変か)

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グリーンなクリスマスもいい、緑もクリスマスカラー。

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ハッピーホリデー、なんてまっぴらごめんだ。

メリークリスマスだ。

よきクリスマスをお迎えください。

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2021年5月 1日 (土)

チャイコフスキー 後期交響曲 カラヤン指揮

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今年の春は、桜も早かったけど、追いかけるようにツツジも早くて、双方同時に楽しめました。

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4月最初の頃の吾妻山。

色彩鮮やかな一番いい季節です。

思い切った企画で、いくつも録音のあるカラヤンのチャイコフスキーの交響曲をベルリン・フィルに絞って聴いてみましたの巻。

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  チャイコフスキー 交響曲第4番 へ短調 op.36

      (1966.10 @イエス・キリスト教会)

           交響曲第5番 ホ短調 op.64

                  (1965.9.22,11.8 @イエス・キリスト教会)

           交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 op.74

      (1964.2.11~12  @イエス・キリスト教会)

だいたい5年ぐらいの間隔で、カラヤンはチャイコフスキーの後期3つの交響曲を録音し続けました。
最後は、8年ぐらいの間をあけて、ウィーンフィルと。
晩年はベルリンフィルとの関係に隙間風も吹き、ウィーンとのつながりの方を求めるようになったカラヤン。
ほんとなら、いっそ、最後もベルリンフィルでやって欲しかった。
ウィーン盤は聴いたことがないので、ほかの録音もありますが、3回のベルリンフィルとの演奏を全部聴いてみました。

カラヤン56~58歳の気力充実期の録音。
DG専属として、次々と精力的にそのレパートリーの録音を本格化していた60年代。
データを見ると1年置きに録音。
次のEMI録音は一気に、3度目は1年ぐらいの間で。
当然に、演奏会でも取り上げて練り上げての録音なので、こちらのDG1回目では、チャイコフスキーのオーケストラ作品も同時期に隣接するようにして色々取り上げてます。

もう何度も何度も書いてますが、こちらの5番は、わたくしのチャイコフスキーの5番のすりこみかつ、いちばん好きな演奏のひとつ。
今回、3曲を連続して聴いてみて、やはりこの5番が一番耳になじむ。
しかも久しぶりの5番、カラヤンの若々しさと、流麗さを伴った語り口のうまさに感嘆した。
3つの中では一番古い6番は、このとき、カラヤンとしては4度目の録音だった。
完璧な仕上がりで、細部まで実によく練り上げられているし、ここでも惚れ惚れとするくらいの歌い口でニクイほど。
4番は、力感あふれるダイナミックな印象。
これでもか、とばかりにベルリンフィルの威力を示すが、ちょっとハズしたりしたとこも感じたけどいかに。
この4番の録音は、67年のザルツブルクでの「リング」が「ワルキューレ」で開始される前年で、音楽祭でちょうど発売が間に合うようにその録音がなされていた時期と重なる。
ベルリンフィルがオペラのオーケストラとしても活動開始したときなので、そんなことも思いながら聴いた4番でありました。
 イエス・キリスト教会の響きもDGらしい、豊かな響きをとらえた美しい録音ですが、ちょっと古さも感じたのも事実。
プロデューサー陣に、オットー・ゲルデスやギュンター・ヘルマンスの名前も確認できるのもこの時期ならでは。

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  チャイコフスキー 交響曲第4番 へ短調 op.36

           交響曲第5番 ホ短調 op.64

           交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 op.74

      (1971.9.16~21  @イエス・キリスト教会)

ファンのなかでは、この一挙に録音されたEMI盤の評価が高い。
たしかに、3曲に通じる燃焼度の高さと、勢いは、尋常でなく感じます。
70年代になって、EMIへの録音も復活させたカラヤン。
EMIにはオペラとか本格的な音楽を、DGには少しポピュラーな音楽を、それぞれに振り分けながら録音していく方向のなかのひとつ、3枚組のこの演奏のレコードだった。
レコードアカデミー賞も取ったはずだ。
 しかし、よく言われるように録音が悪い。
DG1回目の方がずっといい。
音が遠くと近くとでで鳴っているように感じ、なんたって強音で混濁するのには閉口だ。
カラヤンのEMI録音が、レコード時代に2枚組3000円で廉価化されたとき、確か大学の生協で買ったと思うが、私は、ワーグナー管弦楽曲集のものと、英雄の生涯とドン・キホーテの2組を購入した。
そのとき、友人は、このチャイコフスキーとブルックナーを買い求めたと記憶するが、お前の選択の方が正しかったというようなことを言ってたと記憶します。
それは、この音のことだったのかもしらん。
5番だけはFM放送のエアチェックを持っていたけど、とりわけ4番がよろしくない。
なんでも、当時流行ったSQ4チャンネルシステムでの録音だったとかで、さらには4番のマスターが損傷しているとか。
 しかし、そんな悪条件を乗り越えてここに聴くカラヤンとベルリンフィルの気迫の演奏はライブ感すら感じるエネルギッシュなもの。
CDとして、ディスキーから発売された5、6番、国内盤で単独に4番を購入。
4番の1楽章と4楽章のラストは、馬鹿らしくなるほどに、あっけらかんとした壮大無比ぶりで、なにもそこまで・・・と思うくらい。
でも正直、ここまで真剣にやっちゃうカラヤンとベルリンフィルに清々しささえ感じちゃう。
 お得意のテヌートがけが引き立つ5番は、DG盤よりも堂々としていて、いくぶん即興性も感じるし、2楽章なんて恥ずかしくなるくらいに連綿として甘い。
記憶にあるエアチェックテープの方が晴れやかで、音もよかったと感じるのは不思議で、CDになって音が悪くなった稀な例なのかもしらん。
威圧的なまでに鳴るティンパニとギラギラのトランペットが妙に分離よく聴こえるフィナーレは、これはこれで面白いが、ちょっと疲れる。
 疲れるというか、あきれるというか、唖然としてしまうのは、6番の3楽章。
ともかく速い、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを、見てみろと言わんばかり。
その強烈な対比が、強弱のレンジを極端に幅広くとった終楽章で見せてくれるところが、これまたニクイ。
 ということで、EMI盤は、カラヤンの個性を恥も外聞もなく堪能できる演奏なのでありました。
これより前のブルックナーとか、数か月後のトリスタンとか、こんなに音は悪くないのに。

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  チャイコフスキー 交響曲第4番 へ短調 op.36

      (1976.12.9~10 @フィルハーモニー、ベルリン)

           交響曲第5番 ホ短調 op.64

                  (1975.10.22 @フィルハーモニー、ベルリン)

           交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 op.74

      (1976.5.5~7  @フィルハーモニー、ベルリン)

カラヤンとベルリンフィルは、録音会場をイエス・キリスト教会から本拠地のフィルハーモニーザールに移したのは、1973年からで、確かEMIでの「オテロ」であったはず。
DGもフィルハーモニーに移し、ロ短調ミサあたりから。
そこで、かつての録音を次々と再録音を開始する。
チャイコフスキーは、75年と76年の短期間で録音するが、それより前、73年にはカラヤンが主役の演奏映画を残していて、そちらにも通じる演奏かもしれない。(NHKで放送されたものを観てます)
 なんたって、バリっとした録音がこちらはよろしい。ようやく安心できる。
気力充実、よく歌い、テンポも堂々と歩む4番、でも最後はやっぱかっこよすぎる終楽章に唖然。
フィルハーモニーの響きは明るく、ベルリンフィルの音が燦然と輝かしいので、この4番には陰りは少なめだけど、オーケストラを聴く楽しみを充分に与えてくれる。
5番は、おなじみの若々しかった65年盤とは違った意味で、新鮮で、それはホールの音色にもあると思うが、この時期には、カラヤンはベルリンフィルとほぼ一体化していたのではないかと思っている。
映像で見ても、カラヤンの指揮の意のままに、屈強のベルリンフィルがまるで高性能軍団として、ひとつの楽器のようになって見えたものだ。
それと同じ感覚で、カラヤンの奏でる大きな楽器によるチャイコフスキーと感じた5番。
蠱惑的な旋律の歌わせ方で、6番は悲愴なんだ、チャイコフスキーは胸かきむしって浪漫の限りを尽くしたメロディーを書いたんだ、と実感できる1楽章からして、ともかくウマいもんだ。
pが6つの最弱音からのフォルティシモ、カラヤンとベルリンフィルの面目躍如のシーンでありました。
終楽章では、ティンパニを強調し大仰すぎるくらいに悲劇性を醸し出すが、これもまた「悲愴」なのであることを思い起こさせる。

ベートーヴェンの再録音や、ブルックナー、ローエングリンなどを続々と録音していた時期です。
アナログ期のカラヤンのピークの時代かもしれません。

こうして3曲×3を聴いてみて、カラヤンはほんと正直で、自分のやりたいことに真っ直ぐだったことがいまさらながらわかりました。
そして、ベルリンフィルを自分と一体化してしまう経過を10年間の録音のなかにまざまざと感じた。
根っからのオペラ指揮者だからこそできた、思い切りチャイコフスキーに耽溺してしまわせる手口。
ほんと、まいりました。

でもね、ちょっと疲れました。
2日間で、聴きまくった3曲×3=カラヤン
しばらくいいです。
しかしきっと、65年ものの5番は、またすぐに聴くことでしょう。
3曲のなかで、音楽としても、演奏としても、あらためていちばん好きになりました、5番の2楽章。
いい音楽だ。

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2019年12月30日 (月)

ワーグナー 「ワルキューレ」 カラヤン指揮メット

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六本木けやき坂。

毎冬の風物詩のイルミネーションは、青と白、SNOW&BLUE。

何年か前は、シルバーとレッドが時間で切り替わるものだったけど、わたしはこの色合いが落ち着いていて好き。

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歩いて往復80分くらいの散歩コースなのですが、年々キツくなってきた。
寒いのもあるが、歳とともに落ちる体力を実感してる。
今年は帰りは、途中で電車に乗ってしまった。

来年は、まとめて歩かずに、毎日少しづつでも歩くことを重ねていきたいと思ってる。

で、今年最後はワーグナー。
ちょっとおっかないジャケットだけど、ニルソンBOXから。

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  ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」

        ウォータン:テオ・アダム   
      ジークムント:ジョン・ヴィッカース 
        ジークリンデ:レジーヌ・クレスパン
        ブリュンヒルデ:ビルギット・ニルソン   
        フンディンク:マルッティ・タルヴェラ 
        フリッカ:ジョセフィーヌ・ヴィージー

        ワルキューレ:ジュディス・デ・ポール、キャルロッタ・オーデッセイ
          グェンドリン・キレブルー、ルイーゼ・パール
         マルシア・バルドウィン、フィリス・ブリル
         ジョアン・グリロ、シャーリー・ラブ

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 メトロポリタン・オペラハウス管弦楽団

           (1969.3.1 メトロポリタン・オペラハウス)

ベームとカラヤンのリングのキャストを混ぜたような歌手たち。
レコードでは、ヤノヴィッツがジークリンデで、クレスパンはブリュンヒルデ。
よりリリックな組み合わせで、「カラヤンのリング」を特徴づけるワルキューレだった。

ベルリンフィルをピットに入れることで、カラヤンのオペラの美学の完成を求めたザルツブルク・イースター音楽祭。
4年をかけた「リング」のスタートが「ワルキューレ」で、ザルツブルクの本番は、1967年。
そして、同じキャストで、ザルツブルクの上演に合わせて発売できるように1966年にベルリンのイエスキリスト教会でレコーディング。
こんな仕組みが、このあと何年も続くことになり、完成度の高い「カラヤンとベルリンフィルのオペラ」がいくつも録音されることになった。

同時に、カラヤンはアメリカの市場も、同じ仕組みでねらって、レコードが発売されるタイミングで、メトロポリタン・オペラに客演して「ラインの黄金」と「ワルキューレ」を指揮していた。
さすがカラヤンなれど、「ジークフリート」と「黄昏」だけは指揮しておらず、そのかわり、自身のザルツブルクの演出は引き継がれ、ラインスドルフやエールリンクの指揮で上演されている。

 メットのデータベースを調べたら、カラヤンのメットでの指揮は全部で15回で、「ラインの黄金」と「ワルキューレ」のみ。
1967年11月、12月 「ワルキューレ」 5回
1968年10月、11月 「ラインの黄金」 3回 「ワルキューレ」 3回
1969年2月、3月   「ラインの黄金」 2回 「ワルキューレ」 2回

これらのうちの、1969年3月の「ワルキューレ」が今回の貴重な録音で、ここでの指揮がカラヤンのメトロポリタン・オペラでの最後の指揮であります。

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カラヤンのライブはやはりスゴイ。
燃える指揮なのだ。
試みに演奏タイムを比較。

             1幕   2幕  3幕
 1966年スタジオ録音  67分  97分  72分
 1969年メットライブ  61分  86分  63分

各幕に、熱狂的な拍手が入ってるので、ライブはもう少し短い。
スタジオでは、よりをかけて入念に指揮しているし、編集もあって細部にこだわり完璧にしあがっているからであろう、その分テンポも伸びているし、緩急はそんなにつけてない。
しかし、メットライブは局所局面で、舞台上のドラマにのめり込むような箇所が多くあり、1幕の終わりの方などは官能と激情のほとばしりとともに、急速なアクセルふかしとなっていて興奮の極致だ。
2幕も同じく、ジークムントの死の告知あたりから、ただならぬ興奮が漂いはじめ緊迫の演奏となっている。
感動的な父娘の対話も、熱っぽい。
カラヤンに煽られてるのか、カラヤンを煽ってるのか、ニルソンとアダムの歌のすごさも、ここでは目をみはるばかりで、ベーム盤を思い起こすような感じだ。
 ウォータンの告別の感動の高まりも冷静なカラヤンとは思えないほどの熱さで、快速調だが、実に情のこもったものだ。
アメリカのオーケストラらしく、奏者自らも感動しちゃって興奮しちゃってる感じも伝わってくる。

スタジオ録音での完璧さと、きれいごとに包まれてない、カラヤンのライブは、本来の劇場の人であるカラヤンのほんとうの姿かもしれない。

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ニルソンはやはりニルソン。
幾多のブリュンヒルデやイゾルデをほかにもたくさん聴いてきたけれど、ニルソンは安心して聴いていれるし、自分には、スタートがニルソンだったし、ブリュンヒルデとイゾルデはニルソンでないとダメなのだ。
冷凛たる声と高貴さ。強靭さとしなやかさ、いずれもニルソンの声にはあると思う。

本来のジークリンデの声であったクレスパン。
メットでも実はニルソンとあわせてブリュンヒルデを歌っていたようで、ヤノヴィッツもジークリンデを歌った日があるようだ。
だがここでのクレスパンは、ショルティの録音のものより、少し不安定な感じを受けた。
 ヴィッカースは相変わらずで、いつものヴィッカースで威勢はよいが、キングのような不幸を背負ったような悲しみの切迫感が弱めです。
テオ・アダムは完璧!
文句なしのウォータンで、ステュワートの回でなく、アダムの録音が残されたのは幸いだった。
あと、J・ヴィージーもここでも最高のフリッカです。
ワルキューレたちは、完全なアメリカ娘で、激しくておおげさで笑えちゃうのも時代を感じさせるところ。

年代を考えるとモノラルなところが残念ですが、音質は良好で、このドラマチックなワルキューレを大いに楽しめるものであります。

ニルソンBOX、まだまだ面白い録音がたくさんありますので、またとりあげましょう。

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令和を迎えた日本。

内外ともに、安穏としていられない情勢は年々高まりつつあると思います。

そして、自分や家族・親族になにかと変化がありました。

そんななかでも、やはり音楽を聴くという行為は相変わらずでして、それをブログというツールに記録していくということも週1ぐらいのペースで継続できました。
暮れは、好きな演奏家の訃報もあって記事は頻出させましたが、またゆったりとやっていきたいと思ってます。
多くのコメントもいただきましてありがとうございました。

来年はベートーヴェンイヤーとなりますな。
何を聴こうかな・・・・

よいお年をお迎えください。

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2019年9月16日 (月)

フランク 交響曲 カラヤン指揮

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ふつうのコスモスと、キバナコスモスがいっしょくたに咲いてたので、適当に撮ってみました。

こうした混合ミックスも美しいもんです。

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  フランク 交響曲 ニ短調

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 パリ管弦楽団

      (1969.11 @サルワグラム、パリ)

自分にとって懐かしの1枚。

小学生高学年のときだったと思う。
テレビで、N響の演奏会でフランクの交響曲を聴いた。
指揮は、岩城宏之か、森正だった。
1楽章の循環しまくる主題がカッコいい、3楽章までしかない交響曲の、その3楽章の明るい主題もカッコいい。
そんな風にして、フランクの交響曲に目覚めた。

ほどなく中学生になって発売された、カラヤンのレコード。
親にせがんで買ってもらった。
当時は、カラヤンが大好きで、ワーグナーも好きだった。
友達からは、「カラグナー」と呼ばれた。
アンチ・カラヤンに転じたのは、高校時代になって、アンチ巨人になったと同じような反発心からだったかしら・・・

このレコード、擦り切れるほどに聴いた。
ダブルジャケットだったけれど、紙質は薄っぺらいものだった。
でも、いい匂いだった。
その匂いとともに、カラヤン初のパリ管のフランクの響きが、ずっと脳裏に残って、いまに至る。

CD化された初期のもので、久しぶりに聴く。
匂いは、ここにはないが、同じ響きがよみがえってきた。

ん?
でも、なんだか重すぎやしないか?
パリ管の瀟洒な響きを期待すると裏切られる演奏であることは、ずっとイメージとして持っていた。
でも、右側から聴こえてくる低弦が重い。
EMIの録音のせいも多分にあると思うが、やはりカラヤンの指揮によるところも大きいのだろう。

過去記事をご覧いただければお分かりになると思いますが、ワタクシ、フランクの交響曲フェチなんざんす。
手放してしまったものも多いが、通算25枚ぐらいは揃えたと思う。
おもしろいもので、この作品には、ベルギーやフランスのオーケストラによる地元系やローカル系のCDも多い。
ちなみに、ロンバール(ボルドー)、プラッソン(トゥールーズ)、バルトロメイ(リエージュ)、ノイホルト(フランダース)、ベンツィ(アーネム)、デゥトワ(モントリオール)、なんかがそうです。
そうした演奏を主体に好むようになってきたから、余計にカラヤンの演奏が、「重い」と感じるようになったのかもしれない。

カラヤンは、このカラヤン向きと思われるフランクの交響曲を1度しか録音せず、ベルリンで演奏したかどうかも不明です。
独特の陰りと、響きの豊かさ、輝かしさも持ち合わせるこの交響曲は、カラヤンの得意とするところであるはずなのですが。
 パリ管の初代芸術監督、ミュンシュの急逝で、1969年から2年間、その任にあたったカラヤン。
その第一弾が、ドビュッシーやラヴェルでなく、フランクであったことが興味深いです。
そう、指揮者とオーケストラ、両方の持ち味が活かせる選曲であったに違いありません。
重低音の弦から、きらびやかな木管などの広域まで、ピラミッド型の安定感ある、それこそ重厚な音楽づくりのカラヤンのもと、オーケストラは、指揮者の厳しい手綱から、ちょこっとはじけるようにして、各奏者たちが随所に名人芸を聴かせる。
そこが、あまり多く録音を残すことがなかった、このコンビの面白いところかもしれません。
 オケがベルリンだったら、曲がベルリオーズだったら、という想いは置いておきましょう。

かなり深刻だけど、大きく構えたカラヤンのカッコよさが引き立つ第1楽章、そして年を経て聴く、2楽章のこの演奏の素晴らしさは、パリ管ならではだし、終楽章の最後の輝かしさは、やはり素晴らしいものがあります。

パリ管は、プレートルとボドに補佐されながら、カラヤンの次はショルティ、バレンボイム、ビシュコフ、ドホナーニ、エッシェンバッハ、ヤルヴィときて、ハーディングです。
フランス系の自国の指揮者が一度もその首席にはなっていない。
そして、いいコンビのハーディングも、パイロットになる彼の夢のための指揮者卒業で終了。
首席客演はヘンゲルブロック。
 どこへ行くパリ管。

フランク交響曲 過去記事

「バレンボイム指揮 パリ管」

「バルビローリ指揮 チェコフィル」

「コンドラシン指揮 バイエルン放送響」

「ノイホルト指揮 フランダースフィル、ベンツィ指揮 アーネムフィル」

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2018年4月28日 (土)

ヴィヴァルデイ 四季 カラヤン指揮 

Shiba_1

もう、とっくに散ってしまった八重桜。

例年なら、GWまで楽しめることもあるけど、今年はつつじも南関東ではもうおしまい。

東北・南北海道まで北上した桜前線も足早やにすぎた。

3月の観測史史上、一番高かった気温の影響とも。

このようにして、日本の四季が、寒いのと、暑いのとに二分化されつつあるように感じます。

で、カラヤンの「四季」ですよ。

Vivaldi_karajan

  ヴィヴァルディ 協奏曲集 「四季」

      Vn:ミシェル・シュヴァルベ

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                    (1972.8 @サンモリッツ)

で、カラヤンの「四季」です。

1973年春、「カラヤンの四季」が発売されたとき、わたくしは、アンチ・カラヤンの中学生だった。
強過ぎる巨人に対する反発にも似て、アンチを気取った中坊は、「カラヤンの四季」の登場に、「カラヤンよお前もか!」という思いで、おしゃれなジャケットには、大いに気を惹かれつつも手を出すことは、CD時代、かなりを経てから。

はいはい、そうですとも、オペラのカラヤンはずっと凄いと思ってましたが、オーケストラ作品でも、カラヤン様は凄いことを、酸いも甘いも噛み分けるようなオジサンになってから痛感いたしましたとも。。

そんな一環の「カラヤンの四季」。

イ・ムジチのを越えられないから、「四季」はやらない、ともされたけれど、一家に1枚ともされた当時の定盤、アーヨ&イ・ムジチ盤とは違う次元で、当時最高レヴェルのヴィヴァルディを作り上げたところがカラヤンらしいところ。

レガート多めの滑らかかつ、耳触りのよさが勝るところはカラヤンならではだが、サンモリッツの教会の豊かな響きを背景に、チェンバロの音色を控えめにして、ヴァイオリン・ソロと弦楽合奏の豊かな溶け合いの妙を、カラヤンは心憎いまでに聴かせてくれる。
いまの、古楽器や、ヴィブラート少なめの奏法からすると、豊饒にすぎるかもしれないし、ピッチも高めに感じるが、当時は、こんなニュアンス豊かな演奏がバロック音楽の一面でもあったように思う。
 こんないくぶんムーディーな四季もまた、ヨーロッパの貴族社会の目からみた「ヨーロッパの四季」のように感じる。
それは、宮殿や館の窓から見るような「四季」で、春には花瓶に美しい花が飾られ、夏の厳しい暑さや雷鳴は、石造りの館の中からはあまり感じない。
でも、豊饒の秋には、たくさんの収穫物がテーブルの上にはならび、狩りの犬の吠え声も遠い。そして、寒い冬は、あたたかい暖炉でぬくぬくと、窓の外は厳しいけれど。

こんな、四季もヨーロッパの一面だし、「カラヤンの四季」は、ともかく美しいのだ。

Shiba_2

日本の四季よ、なくならないで・・・・

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2018年2月24日 (土)

高崎保男先生を偲んで

Tamachi_2

最後まで残っていた冬のイルミネーションですが、バレンタインの終わった週末を限りに、こちらも終了してしまいました。

このあたりは、旧薩摩藩の敷地で、幕末の出来事と所縁のある場所。
ビルの立ち並ぶエリアに、ぽつんと、勝海舟と西郷隆盛の会ったところ、などの表示があったりします。

Abbado_requiem

音楽評論家の高崎保男先生が、12月にお亡くなりなっていたそうです。

レコード芸術で、目立たぬように静かに記事になっていました。

故人のご遺志とのこと。

近年、ただでさえ、オペラの新譜が、ことに国内盤ではまったく発売されなくなり、レコ芸オペラ担当の、高崎さんの名評論がまったく読むことができなくなっていた。
しかし、ときおり出るソロCDなどで、今度は高崎先生の名前が見られなくなっていたので、ちょっと心配をしておりました。

そして、この訃報。

静かに去られた高崎先生。

わたくしが生まれて間もないころからずっとレコ芸のオペラ担当をされていらっしゃいました。
わたくしがオペラが好きになったのも、それから、クラウディオ・アバドが大好きになったのも、高崎先生の数々の文章があってのもの。

心に残るいくつかの記事を思いおこすと、今後活躍する指揮者の特集での「アバド」の記事。
オペラ評論での、「アバドのチェネレントラ」「カラヤンのトリスタン」「ベームのリング」「ヴェルデイ、オペラ合唱曲、アバド・スカラ座」「アバドのマクベス」「アバドのシモンボッカネグラ」・・・・数限りなくあります。

オールドファンの域に達しつつあるわたくし。
音楽を活字と共に味わう世代だったかもしれません。
今のように、あふれかえる音源を自由自在に受け止めることのできる時代とはまったく違う世の中だった。
高額だった1枚のレコードを擦り減るように聴き、そしてそれを買うにも、大切な指標となったのが評論家の先生の記事。
自分の想いと、波長のあう方のご意見なら間違いないと思う先生の存在がうれしかった。

そんな高崎先生でした。

同じレコ芸の、今度は巻末の訃報欄に、同じく音楽評論家の岩井宏之さんがお亡くなりなった記事が出てました。
岩井さんも、好きな音楽評論家でした。
やはり、アバドのことを高く評価し、さらには、神奈川フィルの役員もつとめられた方。

時の流れを大きく感じます。

高崎、岩井、両先生に感謝をいたしますとともに、その魂の安らかならんことをお祈りいたします。

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2017年7月23日 (日)

ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界から」 カラヤン指揮

Mitama

7月15日の靖国神社、みたま祭り。

かつては、御霊祭りと書かれていたように記憶するけど、いまは、みたま祭り。

もう何度もここで書いているけど、社会人生活を始めた会社が、靖国神社のすぐそばにあって、新人1年目の夏に、同期で御霊祭りに行ったけれど、その頃は、よくある村の神社の夏祭りみたいで、屋台は各種たくさんあり、おまけに、お化け屋敷とか、明らかに昭和な感じの、ろくろ首などの見世物小屋なんかも。。。

いろんな経緯を経て、屋台・出し物を取りやめて、光の演出のもと、盆踊りや神輿、日本各地の踊りなど、シンプルな祭りが定着し、参拝と祭り参加の方々も、若い人たちに加えて、海外の方々がとても多くなりました。

いろんな思いを心に、しっかり参拝、そしてひとり、祭りを楽しみました。

Dvorak_karajan

ドヴォルザーク  交響曲第9番 ホ短調 「新世界より」

   ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                    (1964.3 @ベルリン、イエスキリスト教会)

このところ、外出をしない場合は、仕事をしながらでも、音楽を流していることが多くなった。
ながら聴きのたぐいだが、それが結構聴けちゃう。

交響曲の歴史をたどろうと、ハイドン前は端折って、そのパパ・ハイドンから始め、そうはいいつつ、全作無理だから、モーツァルトも同じように、後半の作品のみを。
ベートーヴェンに、シューベルトに、ベルリオーズに・・・・、そして、チャイコフスキーにたどり着いたら、思い切って、全作品を、と思い立ち、ネットで聴ける限りの作品を、オペラや器楽・室内もろとも聞き流し倒した!

そして、いまは、ドヴォルザーク中。
初期の交響曲は、なかなかにう~む・・・的だったけど、ふんだんにある室内楽作品やピアノ曲に魅せられた。
あと、声楽作品も素晴らしく、金太郎飴的な感じもあるが、どれもこれも、なみなみとしたメロディにあふれまくっているんだ。
オペラは、その音源自体がなくて、その大半は聴けないが、ルサルカだけじゃないよ、と確信。

後期に入って、新世界にアメリカに、いままでにない聴き方もできた気もする。

 それと、もうひとつ。
カラヤンを再び聴こう、という最近の思いだ。

恥ずかしながら、カラヤンの新世界は、初めて聴いた。
音楽入門の小中学の頃、なんでもかんでもカラヤンばかり。
でも新世界は、ケルテスを買ってしまったから、同じ曲の異演などは買うことができない少年時代だった。
 しかし、いつの日からか、アンチカラヤンに転じた自分。
オペラのカラヤン以外は、ことごとく聴かなくなった。

でも、いまは、60~70年代、DG時代のカラヤンを、当時聴けなかったという想いの裏返しもあり、少しづつ聴き始めたのだ。
カラヤン好きだった少年時代に刷り込みとなった、チャイコフスキー5番も、ほかの番号を、断片的だったベートーヴェンも、まったく手つかずだったブラームスもだ。

で、入手したカラヤンの新世界。

おー、なんてカッコいいんだろ。
この作品の、勇壮さや、郷愁感、爽快感、そんなイメージを、しっかりわしづかみにして、ベルリンフィルの高度な演奏能力を余すことなく開陳してみせた、そんな演奏。
 そんな行き届いた心地よさが、大昔の自分にはもどかしかったのだろうか。

クラシック聴き始めのころへのノスタルジーも、この時代のカラヤンを、やたらと聴いてみたいという想いを後押ししているかもしれない。

でもしかし、いま真摯に聴いてみて、きわめて音楽的で、どの楽器も思い切り鳴りきっているさまは、いまの高規格世界標準化してしまったベルリンフィルと同じではあるものの、まだまだローカルドイツの重厚さを保っていることも実感できた。

第2楽章には、ホロリときてしまった。
コッホが吹いているのかしら、フルートはツェラー、クラリネットはライスター、ホルンはザイフェルトかな・・・・なんて思いながら聴くのも楽しかった。

カラヤン、見直し中、ドヴォルザークのいろんなメロディも、日々駆け巡り中。

Komachu

靖国のあとは、神保町まで下って、ほっぴーなる、お神酒をいただきました(笑)

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2015年5月29日 (金)

「オペラ間奏曲集」 カラヤン指揮

Takt_1

色鮮やかな、イタリアンサラダ。

こちらは、東京都内だけど、湘南野菜だけにこだわったお店。

歯ごたえも楽しめ、野菜の甘みもたっぷりあるんですよ。

Takt_2

メインのお肉は、短角牛の香味ロースト。

柔らかくジューシーなお肉に、頬がとろけそう・・・。

ちょっと前の画像です。

知ってる人は知っている、いまは、こんな美味しい生活をしてませんワタクシです。

でも、たまには、いい。
あとで、調整するという生活のサイクルを身につければね。

Karajan

     「オペラ間奏曲集」  

 
  1.ヴェルディ 「ラ・トラヴィアータ」 第3幕間奏曲

  2.マスカーニ 「カヴァレリア・ルスティカーナ」 間奏曲

  3.プッチーニ 「修道女アンジェリカ」 間奏曲

  4.レオンカヴァルロ 「パリアッチ」 間奏曲

  5.ムソルグスキー  「ホヴァンシチナ」 第4幕間奏曲

  6.プッチーニ 「マノン・レスコー」 第3幕間奏曲

  7.F・シュミット 「ノートル・ダム」 間奏曲

  8.マスネ    「タイース」 瞑想曲

  9.ジョルダーノ 「フェドーラ」 第2幕間奏曲

 10.チレーア   「アドリアーナ・ルクヴルール」 第2幕間奏曲

 11.ウォルフ・フェラーリ 「マドンナの宝石」 第3幕間奏曲

 12.マスカニーニ  「友人フリッツ」 間奏曲

   ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                      (1967.9.22 @イエス・キリスト教会)


今宵は、大好物の1枚を。

このジャケットからして懐かしい。

レコード時代、カラヤンのこのカッコいい横顔のジャケットは、ベートーヴェンの第9のゴージャスなジャケットと同じものでした。

そして、久しぶりに聴き直してみて、うめぇ~もんだ、と、思わず膝を叩くことになりました。

カラヤンとベルリンフィルが、もっとも、「カラヤンのベルリン・フィル」だった時代。

DGに大量の録音を、せっせと行っていた60年代。
ザルツブルクで併行上演中だった、リングも、ワルキューレやジークフリートの頃。
そんな大作に混じって、このような小粋なアルバムも、本気モードで録音してたカラヤン。

イタリア・オペラが中心ながら、ロシアとフランスも少し。

オペラ指揮者としてのカラヤンの面目躍如たるこの1枚は、序曲や前奏曲でなく、オペラ劇中の間奏曲=インテルメッツオばかりを集めたところがミソです。

オペラの中で、序曲や前奏曲は、劇全体の雰囲気を先取りした、いわばエッセンス的なものが多いのですが、間奏曲の場合は、劇の中の「つなぎ」「箸休め」的な存在。
そして、ドラマの進行のなかで、全体の話ではなく、直前に起こったこと、または、これからの幕で起こるであろう出来事を暗示したりもする役割を担います。

そんな間奏曲たちを、全力投球でもって演奏した、カラヤンとベルリンフィル。

ともかく、心をくすぐられ、痒いところに手が届くほどに、気が効いてるし、隙もなく完璧で、お上手。
特に、連綿たる旋律が、人工甘味料的な甘さと、怖いほどに美的に、滔々と演奏されるのは、耳の快楽であるとともに、イケナイものを聴いてしまった的な不安をも呼び起こします。
 それほどまでに、凄い魔力を持つこの1枚。

プッチーニ狂としては、そのオケ作品としては、もっとも大好きな「マノン・レスコー」が、世紀末の香りもぷんぷん、退廃的なまでに濃厚で、狂おしいほどの演奏です。
 全曲録音している、お得意の「カヴァ・パリ」も、実に堂に入った演奏で、うなりをあげるベルリンフィルの威力に、完全にお手上げになります。

「タイス」では、かのシュヴァルベの名ソロが、泣けるほどに美しい。
そして、カラヤンのチレーアも、実に貴重で、4幕の前奏曲でなく、2幕の間奏曲を選んだのが実に心ニクイ。
いじらしいほどに、ステキなチレーアの音楽の真髄を味わえるのだ。
この「アドリアーナ」に、「アンジェリカ」、「フェドーラ」は、いずれも大好きなオペラだけに、カラヤン節の一節でも録音が残されたのはうれしい。

しかし、純正なイタリア・オペラのカンタービレからすると、これら「カラヤンのベルリンフィル」の音は、正直、異質です。
あまりに、威力がありすぎて、嵩にかかったように鳴り渡る音の洪水は、しんどいことも事実。
「ノートル・ダム」と「友人フリッツ」にとくに強く、それを感じます・・・・。

ですが、豪華絢爛のエンターテイメント、ときには、こんな美味しいものを、次々にいただくのも、耳の贅沢というものです。

美味しゅうございました

いまや、姿を変えたベルリンフィルは、次のシェフを選べずに混迷してます。
あらためて、カラヤンの凄さを実感したし、大指揮者の時代、そしてアバドのような名指揮者の時代も、すでに過去のものになった感ありです。

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2014年12月 9日 (火)

チャイコフスキー 3大バレエ組曲 カラヤン指揮

Tokyo_tower4

東京タワーの足元には、毎年、この時期、大きなツリーとテーマを持ったイルミネーションが出現します。

そのテーマは、「くるみ割り人形」

Tokyo_tower7

映画化された「くるみ割り人形」です。

その映画は、3Dで、声優には、旬の有名どころがたくさん出てるみたいですよ。

http://kurumiwari-movie.com/

Tchaikovsky_karajan

  チャイコフスキー 3大バレエ・ハイライツ

      「白鳥の湖」

      「くるみ割り人形」
 

      「眠りの森の美女」

  ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

           ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                (1961,65 @ウィーン、ゾフィエンザール)


さすがに映画のくるみ割りには、縁がなさそうな自分ですが、こちらは、かつての昔より、聴き親しんでまいりましたね。

「くるみ割り人形」は、全曲もコンパクトだし、全編に渡ってファンタジーの世界だから、軽く聴けちゃうけど、ほかのふたつの全曲を聴くのは、ちょっと構えてしまいます。
なんたって、「眠りの森」の方は、全曲盤すら持っておりませんで。

バレエ観劇もしたことないし、映像でも「くるみ割り」以外は、全部見たことないし。

だから、組曲版は、重宝しますし、CD時代になって、3つ一緒に聴けるのも嬉しい。

中学の音楽の授業で、必ず聴かされる「くるみ割り」ですが、当然にクラ好きのワタクシですから、レコードも持ってました。

それは、当時、まったく画期的だった、驚きの1000円のレコード、日本コロンビアのダイアモンド1000シリーズの中の1枚でした。

1000

ヨーロッパ各地の写真をあしらったジャケットは、70年当時、クラシック音楽の本場へのあこがれも相まって、気分を高揚させるものでしたね。
 レコードですので、「眠りの森」は、入ってませんが、その演奏は、このシリーズで名をあげた(?)、もう一人のワルター、ハンス・ユイゲン・ワルター指揮する、謎のオケ、ハンブルク放送と、プロ・ムジカ管。
プレーヤーを導入して、もう一度、聴いてみたいぞ。

「眠りの森」は、その後、コンサート・ホール・レーベルのマゼールの抜粋盤の一部を入手しました。

Maazel

画像は拾いものですが、これもまた、復刻希望ですな。

でも、くるみ割りとか、白鳥の湖とか、クラヲタになりつつあった、中高生になると、偉そうに小ばかにしてしまう傾向があって、見向きもしなくなりましたね・・・・。

そんな自分が、買ったのが、ロンドン・レーベルがついにカラヤンのデッカ録音を、1300年の廉価盤として限定発売したとき。

これを聴いて、目が覚めるような思いを味わいましたね。

なんたって、安い装置でしたが、それがよく鳴るいい音、いい録音。
そして、思わずのめり込んでしまうような、巧みなカラヤンの歌い口のウマさ、その魔の手にまんまとひっかかってしまったのでした。
あと、なんたって、したたるような、まさにウィーン・フィルの音色。

CDでいま聴いても、同じ感想です。

60年代、ウィーンフィルが、ウィーンフィルであった頃。
ゾフィエンザールでの、カルショウ、G・パリーのコンビが生み出した名録音のひとつ。
同時期に、ショルティのリングが録音されてるわけですよ。
丸みをおびた、暖色系の音色は、ちょっと鄙びた木管や、鋭くない金管とともに耳に優しい。
独特のポルタメントの一味がある、ふるいつきたくなるような弦。
 それらを、カラヤンは、抑えることがなく、ソフトムードでもって活かしているように感じます。
 のちのベルリンでの再録音では、その巧みさが、少し鼻につくようになりますが・・・・

ヴァイオリンソロは、ヨゼフ・シヴォー。チェロは、ブラベックです。

古き良き時代と断言しておきましょう。

 歳を経てもかわらぬウィーンのイメージであります。

3大バレエ組曲ならば、このカラヤン盤と、プレヴィン盤がお気に入りです。

そして出来れば、プレヴィンはウィーンでも録音して欲しかった。

Tokyo_tower3_2

いつまでも、夢見るオジサンです。

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