カテゴリー「ムソルグスキー」の記事

2020年1月12日 (日)

ムソルグスキー/ラヴェル 「展覧会の絵」 マゼール指揮

Ginza-01

2020年に入って、はやくも月の1/3が終了。

毎日がほんと早い。

外人さんだらけの銀座4丁目のショーウインドーは、富士と豪勢なバッグに、銀座の街も写し出していて、なんだか幻想的だった。

いつも長文書いちゃってますが、今日は短く。

Musorgsky-ravel-mazzel

  ムソルグスキー ラヴェル編 組曲「展覧会の絵」

 ロリン・マゼール指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

        (1972.10 @ロンドン)

名曲すぎて、過去聴きすぎて、ミミタコすぎて、もうあんまり聴かなくなってしまった曲。

その代表が、「展覧会の絵」。

チェリビダッケとロンドン響の壮絶な来日演奏の録音、アバドの2種のムソルグスキー臭の強い暗めの演奏。
これらのぞき、どうも、聴いていて、あの大仰な最後がとくにダメなんだ。

でも、レコード時代に気になっていた1枚を入手したので聴いてみた。

デッカのPhase4(フェイズ4)録音によるものもあって、マゼールの指揮だし、ニューの時代のフィルハーモニアだし。

マルチマイク録音で、各楽器が間近に迫るように強調され、かつそれをベースに2チャンネルのステレオサウンドにミックスダウンするという方式。
ストコフスキーのデッカ録音で多く聴いてきました。

で、聴いてみた。
面白いように、各楽器が、右や左からポンポン浮き上がるように出てくるし、聴こえてくる。
ほぼ半世紀前の録音とは思えない鮮明さと、生々しいリアルサウンド。
楽しい、楽しいよ~
ことに、展覧会の絵のような曲では、ソロ楽器が活躍するので、それらが強調されるように楽しめるし、あ~、ほかの楽器もこんな風にしてるんだ、との再発見もあったりして。
いまの現代では、こんな録音は邪道かもしれないが、古風な耳をもった私のような聴き手には、懐かしさと新鮮さがないまぜになったような感情にとらわれました。
フェイズ4とは別次元だが、中学時代は、4チャンネル録音も盛んになされ、アンプは買えなかったけれど、スピーカーの配線を工夫することで疑似4チャンネルが楽しめたものだ。
右や左、前や後ろから、音が万華鏡のように聴こえてきて、ハルサイなんて、最高だったんだ。

なにかしでかす指揮者マゼールは、ここでは意外とおとなしめ、っていうかごく普通。
でも、よく各曲を丹念に描きわけていて、とても丁寧な印象。
展覧会の絵の入門には絶好の演奏とおもしろ録音だと思う。

まだクレンペラーが君臨していた時代のニュー・フィルハーモニアもうまいもんだし、音色に華がある。

おもしろかった。

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2019年2月24日 (日)

ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」 アバド指揮

Haris_2

 

数年目に訪れた、函館の聖ハリストス教会。

 

ロシア正教会の庇護下にあるハリストス正教会。

 

1859年が起源といいます。

 

ロシア・ビザンチン様式のこの教会建築は、見慣れたカトリックのそれとは、まったく違います。

 

函館山の中腹にある3つの教会、元町教会、聖ヨハネ教会とともに、3つの宗派の異なる建築物としても楽しめます、わたくしの大好きな場所です。

 

もう何年も行ってませんが。

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   ムソルグスキー  「ボリス・ゴドゥノフ」

    ボリス・ゴドゥノフ:ニコライ・ギャウロウ
    フョードル:ヘルガ・ミュラー・モリナーリ
    クセーニヤ:アリダ・フェラーリニ
    乳母:エレノーラ・ヤンコヴィック
    シュイスキー公:フィリップ・ラングリッジ
    シチェルカーロフ:ルイジ・デ・コラート
    ピーメン:ニコラ・ギュゼーレフ
    グリゴリー:ミハーイ・スヴェトレーフ
    マリーナ:ルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニ
    ランゴーニ:ジョン・シャーリー・クワーク
    ワルラアーム:ルッジェーロ・ライモンディ
    ミサイール:フォロリンド・アンドレオーリ
    旅籠屋のおかみ:フェドーラ・バルビエーリ
    聖愚者:カルロ・ガイファ
    ニキーチキ:アルフレード・ジャコモッティ
    ミチューハ:ジョヴァンニ・サヴォイアルド 他

     クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                     ミラノ・スカラ座合唱団
             合唱指揮:ロマーノ・ガンドルフィ

              (1978.7.12 ミラノ)


よくいわれるように、アバドのムソルグスキーへの入れ込みようは、執念ともいえるくらいのものでした。

ボリス・ゴドゥノフ」は、ロンドン、スカラ座、ウィーン、ザルツブルクでまんべんなく上演し、「ホヴァンシチナ」も、スカラ座とウィーンでそれぞれ上演。
レコーディングでも、そのふたつのオペラに、「展覧会」は2度、原典版「はげ山」は4回、その「はげ山」を含む管弦楽曲集は2回。
しかも、「展覧会」の余白には、めったに演奏されないオペラの場面がカップリングされるという凝りようで、1回目のロンドン響とのものは、ラヴェルがカップリングされながら、渋いムソルグスキー色の「展覧会」に仕上がっていたし、2度目のベルリンフィルとのものは、オケの音色が明るくなったものの、カップリング曲も含めて、ムソルグスキー色満載。
 チャイコフスキーの交響曲の余白にも、死の色の濃い歌曲も。

こんな風に、アバドはムソルグスキーがほんとに好きだった。

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42歳で亡くなってしまった、ムソルグスキー(1839~1881)のその時代。
ブラームスやブルックナーとかぶる世代。
マーラーは、ボリス作曲のころ、まだ11歳。

 そして、ロシアの国情は、帝政ロマノフ朝の最後期にあり、ニコライ1世からアレクサンドル2世へと治世が変わった頃。
権力者、貴族、地主が潤い、農奴制があったため、民衆=農民は、つねに虐げられていた。
そんななかで起きたクリミア戦争で、武器や戦力に欧州勢との違いを見せつけられ敗北し、社会改革の必要性をアレクサンドル2世も痛感。
 農奴解放令を出し、上からの指令での改革に乗り出すも、反権力者・人民主義者(ナロードニキ)たちの皇帝などの権力者打倒の動きに押され、皇帝は暗殺されてしまう。
その暗殺の年、1881年は、ムソルグスキーが亡くなった年でもあります。

ロシアは、その後、日露戦争、第一次世界大戦でどんどん国力を弱めて行き、1917年のロシア革命と、1922年のソ連の誕生を迎えるわけです。

こんな歴史を念頭に、ムソルグスキーの、とくに人の手が入っていない原典の作品を聴くと、そのほの暗さに、ロシアの民たちの声が聴こえてくるような気もする。
まったく違う曲に思える「はげ山の一夜」や、「ボリス・ゴドゥノフ」などがその典型かと。

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一方で、実在の「ボリス・ゴドゥノフ(1551~1605)」は、ロマノフ王朝前、モスクワ大公国の時代にあり、ここでのロシアは周辺国を次々に呑み込み大国化。
国の基盤も整備したものの、内戦や周辺国との闘いが多く、やはり民衆は疲弊した。

その晩年が独裁的な強帝であった、イワン4世、すなわちイワン雷帝(プロコフィエフの作品にあります)は、家族にも暴力的で、3人の息子のうち、長男を殺めてしまう。

ボリスは、このイワン雷帝の顧問官という立場にあり、雷帝の方針で、貴族を迫害し、ボリスのような新興士族を重用するということもあって、政務に携わることとなった。
 ちなみに、貴族として登場しているのがシュイスキー公で、この公がこのオペラの影のキーマンでもあったりします。
 さて、イワン雷帝が亡くなると、次の皇帝には、次男のフョードル1世が即位するが、彼は知的障害もあって、実の政務はまさにボリスが行うこととなった。
さらに自身の妹をフョードルに嫁がせ、皇帝の縁戚としての立場を着々と築いていった。
独裁的な前帝のあと、心優しいフョードルは、国民に人気で、すなわちボリスの政治は悪くはなかったということになる。

このオペラの肝のひとつは、「聖愚者=ユロージヴィ」の存在で、愚かななかに、聖なるものを見出すという考えです。
これは、フョードル1世にもいえて、さらに考えると「パルジファル」にもつながりますね。

そして、フョードル治世下、イワン雷帝の三男ドミトリーが変死。
跡継ぎのいなかったフョードル帝もなくなり、ここで、モスクワ公国の血筋が途絶え、ボリスが選定されることとなるわけです。
ちなみに、この頃の日本は、秀吉の天下です。

 このボリス・ゴドゥノフの皇帝就任から、その死までの7年間が、このオペラの時間軸。

さらに知っておきたいのは、宗教のこと。
東西教会の分裂でできたキリスト教の二つの派、カトリックと正教会。
正教会の総本山は、なんといってもコンスタンティノープルだったが、イワン雷帝の頃、モスクワが総教主府になり、ロシアが正教会の総本山との意識に立つこととなり、カトリックは異端として弾圧された。
 ところが、ポーランドで旗揚げした偽ドミトリーが、ゴドゥノフ一族を滅ぼし、皇帝を宣言し、今度はカトリックを導入しようとしたところ、民衆の反発に会い、クーデターで滅ぼされる。
その後は、シュイスキー公が皇帝になったり、またもや偽ドミトリー2号が出てくるなど、ロシアは混迷を深め、やがてロマノフ王朝が開かれるわけです。
ほんと、ややこしい。

このあたりまでを頭に置いておくと、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」は、とてもよく書けてるし、R=コルサコフが改訂し、ボリスの死で終わる版が、ムソルグスキーの意図と異なることがわかります。
すなわち、ボリスはタイトルロールでありますが、このオペラで描かれているのは、ロシアという国そのものだと思います。
 皇帝・貴族・民衆と農民、この3者がロシアの大地で織りなす、それぞれの対立軸。
何度も繰り返されるその権力者と民衆の栄枯盛衰は、ソ連になってからも、さらにソ連崩壊後の現在のロシアにあっても、その役柄こそ変化しても、ずっと不透明感があふれているんだろうと思います。

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罪に苛まされて、苦悩のうちに死ぬ権力者の悲劇。
それから、お上が変わっても、いつも貧困や悲しみに苦しむ民衆の悲劇。
このふたつ悲劇が織り込まれたのが、このロシアのオペラの本質であります。

聖愚者=ユロージヴィは歌います。

 「流れよ、流れよ、苦い涙 泣け、泣くがよい、正教徒の民よ
  すぐに敵がやってきて、また闇が訪れるよ
  漆黒の闇、何も見えない暗闇
  苦しみだ、これがロシアの苦悩
  泣け、泣くがいい、ロシアの民よ、飢えたる民!」


ロシアの作曲家が、その作品を多くオペラにした原作者プーシキンの1825年の作。
発禁処分を受けたりと、権力側とも闘争のあったプーシキンならではの、ロシアの悲劇の描き方。
この原作をあまねく活かしたのがムソルグスキーの音楽で、このほの暗いなかに、原色の世界を、見事に描くのがアバドの指揮なのでした。

よく言われますが、ムソルグスキーの音楽には歌があって、そして、旋律線とロシア語という言葉が連動し合う巧みさがあります。
そして、のちの表現主義的な要素もあり、アバドはこうしたあたりにも共感して、ヴェルディを指揮するように、そして、ベルクやシェーンベルク、マーラーを指揮するかのように、ムソルグスキーを指揮していたんだろうと思います。

今回、メインに聴いたスカラ座でのライブは、まさにアバドの真骨頂で、スカラ座のオーケストラから、渋い色調の音色と、一方で開放的な明晰な音色とを引き出しています。
ライブならではの熱気にもあふれていて、聴衆の興奮が、ものすごいブラボーとともに収録されているんです。

93年のベルリンフィルとの録音は、ちゃんとしたレコーディングなので、すべてが完璧極まりなく、精度も高く、オケも歌手もべらぼうに巧いです。
しかし、完璧のベルリン盤もいいが、このスカラ座の熱気に満ちた演奏も実に素晴らしいものがあります。
さらに、わたくしは、自慢じゃないけど、NHKで放送された91年のウィーン国立歌劇場でのライブ音源も所蔵していて、ウィーンフィルの音色も楽しめつつ、やはりムソルグスキーの原色の音楽がここにあります。

そしてさらに、94年9月、NHKホールで観劇したウィーン国立歌劇場との来日上演に、最上の席で立ち会えました。
暗譜で指揮するアバドの指揮に、歌手も合唱も、オーケストラも、そしてわれわれ観劇者も集中しつくし、一体となってしまいました。

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このときの演出が、ロシアの映画監督のタルコフスキーのもので、そもそも、タルコフスキー唯一のオペラ演出が、このボリスで、亡命中のタルコフスキーに、83年にアバドが依頼してロンドンで上演したものなのです。
タルコフスキーは、86年に亡くなってしまうのですが、アバドは、この演出を91年のウィーンでも取り上げ、そして、日本にもこのプロダクションを持ってきたのです。
ごくごく明快で、時代設定も動かさず、わかりやすい舞台でした。
印象的だったのが、舞台のどこかに、少年ドミトリーのような姿が始終あらわれていて、ボリスの心理を圧迫してゆく影武者のようになっていたことです。
 このタルコフスキー演出は、83年、91年、94年(東京)で取り上げてます。
そして、ベルリンフィルとのレコーディングのものは、ベルリンでのコンサートと、ザルツブルクでの上演に関わるもので、こちらの演出は、ヴェルニケとなりました。
94年4月ザルツブルク・イースター、8月にザルツブルクで、ベルリンフィルとウィーンフィルが、それぞれピットに入りました。
そして、その年の9月に東京にやってきたわけです。

集中的にボリスを指揮し続けた1994年、その年以来、アバドはボリスを取り上げる機会がありませんでした。
ボリスを、ムソルグスキーを愛したアバドです。

Boris_godunov_abbado_01

 

 


 ザルツブルクのアバド

このスカラ座盤のいいところは、もうひとつ、ニコライ・ギャウロウのタイトルロールです。
絶頂期にあった、この深くて神々しいまでの美声は、ほんと魅力的です。
ほかの、スカラ座のイタリア歌手たちや、ロシア、ドイツの歌手、みんなアバドの元に素晴らしい歌です。

録音もちゃんとしたステレオで、視聴にはまったく問題ありません。

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ヴェルニケ演出での戴冠式の場。
全然違います。

Haris_1

 

 



長文失礼いたしました。

いつかまた、今度は、「ホヴァンシチナ」を記事にしようと思います。

過去記事

 「ボリス・ゴドゥノフ アバド&ベルリンフィル」

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2012年1月 7日 (土)

ムソルグスキー 「展覧会の絵」 アバド指揮

Tatsu_ginnza_1

銀座の和光のショーウィンドウを写してみました。

龍と玉、いわゆる宝珠。

ちょいと調べたら、龍は中国、玉はインドがその起源だそうな。

中華街で、お祭りには、玉を龍が追いかける踊りがありますね、あれですよ。

Tatsu_ginnza_2

片方の手には、宝珠をグワッシと掴んでました。

登り竜、宝珠を掴む。

なんだか、縁起よろしく、幸せを前向きに掴みたくなりますよ!

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ムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲の組曲「展覧会の絵」。

数日前の「皇帝」と同様、やたらと久しぶりに聴く名曲中の名曲。

オリジナルのピアノ版はともかく、オーケストラ編曲も定番のラヴェル以外に、いくつかあるし、各種編成の版も頻出。
ELPによるロック版も高校時代聴きました。

でもやっぱり、ピアノかラヴェル版ですな。

今日は、ムソルグスキーの使徒といってもいい、クラウディオ・アバドのふたつの演奏で。

まず、1981年11月のロンドン交響楽団との演奏。
ムソルグスキー没後100年の年ゆえに、アバドの並々ならぬ打ち込みぶりがうかがわれる。

RCAレーベルに録音した原典版「はげ山」で、初ムソルグスキーを記録したアバドは、それ以前より、「ボリス・ゴドゥノフ」を盛んに指揮していて、それまでR=コルサコフらの手直しによって、より劇的に、華美に装飾されていたムソルグスキー像をくつがえしてしまうような、厳密なる原典見直しを「ボリス」に対しても行ってきた。
その執念は、ベルリンフィルとの全曲録音や、スカラ座、コヴェントガーデン、そしてウィーン、ザルツブルクでの上演に結実している。
ウィーン国立歌劇場の来日公演に、こんな渋いオペラ作品を持ってくるなんて、いかにもアバドならではで、わたしもピットのアバドに近い席で金縛りにあったように観劇したものでした。

そのアバドが、ラヴェル編曲とはいえ、「展覧会」を指揮したらどうなるか。
初出のレコードをすぐさま買って聴いてみた82年のわたくし。
その渋さにびっくり。
ラヴェルの顔は少なめで、辛酸をなめ尽くしたかのようなムソルグスキーの顔が浮かぶような演奏だった。
その印象はいまも変わらない。
当時だったら、シカゴを使うこともできたのに、よりフレキシブルでニュートラルなロンドン響を使った意味も、これならわかる。
オケのすごさが、却ってムソルグスキー、しいてはロシアの民の忍従のような姿を消してしまうから。
何度も姿を変えて出てくるプロムナードからして地味。
古城におけるサキソフォンは嘆きの悲しみが楚々と伝わるようだし、ビドロの重々しいさはロシアの民が寒い中、寡黙に行列に並んでるよう。
キエフの大門ですら、その延長線上で、聴いていて、ボリスの空しい戴冠式を思いこしてしまった。
30年前に、こんな個性的な展覧会をやってしまったアバドに敬意を表したい。

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ロンドン響との録音から12年、1993年5月に、今度はベルリン・フィルハーモニーとライブにて再録音。
こちらも94年に発売時、即購入。
前回はレコードで、キエフの大門での大音量ではスピーカーが少しビリつき困ったけれど、CD時代の今回は、そんな問題なく、安心して音の大伽藍を楽しむことができた。

アバドのこの曲への基本的な姿勢は変わらず、真摯に社会派ムソルグスキーに向き合い、ラヴェルの華やかさには背を向けたユニークな演奏。
LSO盤より、強弱の幅が強くなり、ことに繊細極まりない弱音、そして弱音で歌うアバドの素晴らしさが味わえる。
この繊細さがあって、野卑な場面や、強大なフォルテも活きてくる。
だがしかし、そこはツワモノ、ベルリン・フィル。
随所に、オケのウマさがにじみ出てしまい、このオケ独特の明るさを伴った音色が顔をだす。カラヤンの亡霊もチラホラ・・・・。
いやそれは考えすぎだけど、アバドはその点で、すこしやりにくかったのではないかと。
好きに振る舞えたロンドン響での方がムソルグスキーらしさがストレートに出ていたような感じです。
しかし、指揮するアバドは燃えていた。アバドの声が聴こえました!!

同時期録音の「ボリス」では、オケは完全にアバドの手足となって凄まじいまでの効果をあげていたし、このCDのカップリングにある「はげ山」や、ほかのこれまた渋い合唱作品もいぶし銀と劇的な効果が相乗作用をする素晴らしい演奏。

名曲ゆえに、オケも黙っちゃいなかった・・・・。

そんなアバドのふたつの「展覧会の絵」でございました。

ルツェルンでもう一度願います!

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2010年10月 1日 (金)

ムソルグスキー 「はげ山の一夜」ほか アバド指揮

Sashimirobataya
今日のお刺身は一見、地味で、色どりも渋いです。
白身を中心に、貝とタコ。
食べ物の色と酒って、微妙に合うようなところがあって、こんな刺し盛りだと、淡麗な辛口日本酒がいい。
マグロとか、かつおだと、ビールやウィスキーもいい。

要は、酒ならなんでもいいんです

長年飲んでると、酒にまつわる逸話がたくさんあるはずなんだけど、わたくしは、その量と酒歴からしたら、少なめかもしれない。
社会人になっての飲みは、学生時代の呑気で大らかな飲みより、気合いも入り、緊張感に満ちたものになったから、飲む量も半端ないけど、二日酔いもかなりのものだった。
独身時代は、帰らない(帰れない)日々が何日も続いたことがあって、会社のトイレで足を洗ったり洗濯したりもした(笑)。さすがに、その洗面台で水浴びはしなかったけど。
まだ酒が残っている状態で、朝、飲み屋か、喫茶店から会社に出社するわけですよ。
朝から、やたらテンション高くて仕事も乗ってて、うるさいくらい。
でも、酒臭いんですよ。
昼前には、急速に元気も萎え、トイレに籠るようになりまして、酒をまったく飲まない当時の上司に、ついにワタクシは、別室に呼ばれ、さんざん説教を受けたもんです。
でも気持ち悪くて、何を言われたかも覚えてないんです。
その人に向かって○○を吐かなくてよかった・・・・。
そんな日々が毎日。ついに上司も折れ(評価を下し)、何も言わなくなってしまったものでありました。(はははっ)
昼ごはんは、食べれません。
でも、夕方になると胃が活性化して、何かを食べたくなる。
そしてまた繰り出して、冷奴に枝豆、刺身に焼き鳥が一日唯一の食事となるのでございました。
 私のまわりには、こんな人ばかり。とんでもない業界であり、会社でございました。
その業界、いまは斜陽ですが、会社はまだしぶとく生き残ってますよ・・・・。
それにしてもおバカな社内でしたよ。
何するかと思ったら、急にデスクの横のゴミ箱に○○吐いてる人いるし、会社に泊まって重役室でパンツ1枚で発見されたヤツもいるし、やはり会社に泊まってパンツ一枚でオートロックに締め出され、新聞捲いて夜を明かし、一番出勤の女子社員に見つかり救助されたヤツもいるし。。。。。
ワタシじゃないですよ(笑)

Abbado_mussorgsky_lso
なんだか、酔っ払い記事になってしまったけれど、今週のテーマは、おわかりでしょうか。
マリナーの来日にちなんで、わたしのフェイバリット指揮者4人を、それもロシア音楽に絞って聴いてみたのです。
写真は、刺身シリーズで、おのずと酒の話に脱線してしまいました。

最後に登場は、クラウディオ・アバドでございます。
もう何度も書いてますがね、アバドを聴いて38年。
ずっと一緒にいるみたいな、朋友みたいな、兄貴みたいな、そんな感じさえ抱いている、私の尊敬すべきマエストロなんです。

そのアバドが、ほとんど異常ともいえる執念を燃やしていたのが、ムソルグスキー。
スカラ座時代に、「ボリス・ゴドゥノフ」と「ホヴァンシチーナ」を上演して、ミラノの聴衆を辟易とさせながらも、その完成度の高さにうるさいオペラゴアーも黙らせてしまった。
しかし、イタリアものは、シモンとツェネレントラばかりで、ヴォツェックやローエングリン、フィガロにボリス、ペレアスばかりを喜々として振っていたアバドは、スカラ座には収まりきらなくなってしまったのも事実。
のちのウィーンでも、同じようなことが展開され、ほんとうにアバドは渋いオペラが大好きなんです。

今日の1枚は、アバド初のムソルグスキーで、ロッシーニとヴェルディの序曲集に次ぐRCAへの録音だった。
その内容がまたチョー渋い。

  1.歌劇「ホヴァンシチーナ」~追放されるゴリツィン公の出発
  2. 「ヨシュア」
  3.歌劇「サランボー」~巫女たちの合唱
  4. スケルツォ変ロ長調
  5.「センナヘリブの敗北」
  6.交響詩「はげ山の一夜」(原典版:聖ヨハネ祭の夜のはげ山)
  7.「アテネのオイディプス王」~神殿の人々の合唱
  8.歌劇「ホヴァンシチーナ」~モスクワ河の夜明け
  9.凱旋行進曲「カルスの奪還」

     クラウディオ・アバド 指揮 ロンドン交響楽団
                     ロンドン交響楽団合唱団
                     (リチャード・ヒコックス指揮!)
                  Ms:セルヴァ・ガル
                   (80.5@ロンドン・キングスウェイホール)

まったくもって、こんな曲目で1枚のCDを作っちゃうところが、ムソルグスキー・フェチたるアバドの所以。
はげ山は、いまでこそ原典版は珍しくないが、当時はこのアバド盤が初か2回目ぐらいの録音で、ほかの曲目はホヴァンシチーナ以外は、ほとんど馴染みのないものばかり。
「スケルツォ」と「はげ山」以外は、R・コルサコフのオーケストレーションによるものの、その根クラな響きは、抑圧されたロシアの民の声そのものを反映しているようで、本当に救いのない暗さなんだ。
曲名からして、追放とか敗北とか入っちゃってるし。

アバドがムソルグスキーにさほどまでこだわるのは、以前にも書いたとおり、リベラルで平和主義者であるアバドが、ムソルグスキーの音楽がいろんな人の手で纏っていた装飾を洗い落し、原色のロシアの大地の声と民衆の心、そしてさまざまな矛盾を本来描いていた作者の真の姿を炙りだすことに執念を燃やしたからにほかならないと思う。

「はげ山」が、通俗名曲じゃなく、ほの暗いて悪魔的な雰囲気の強い作品に聴こえて、ビター過ぎて、とうてい学校の音楽の授業じゃ聴かせることのできない別物になっている。
後の第1版は、歌劇「ソロチンスクの市」の間奏として改編され、そちらの方が有名曲として長く定着してきたわけだが、原典版が出版されたのは1968年まで待たねばならなかった。
アバドは、ライブも含め「はげ山」を都合4回録音しているが、いずれも原典版。
こんな人いません。
ECユースオケ(79)、ロンドン響(80)、ベルリンフィル(93)、ベルリンフィル合唱版(95)。
荒削りな生々しい迫力にかけては、当ロンドン盤が随一かも。
なお、ベルリンフィルとは、「展覧会」とのカップリングで、はげ山とともに、2,3,5,7の各曲、さらに「はげ山」合唱付きバージョンと「ホヴァンシチーナ」のオケ抜粋を再録音していて、そのホヴァンシチーナはウィーン時代に全曲録音もあるから、いずれも複数録音していることになる。
ほんと、好きなんだから。
まだルツェルンでやってないのが気になるところ・・・・・。

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2007年7月14日 (土)

ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」 アバド指揮

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 ザルツブルクのピットのなかのアバド。

 

ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」

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1869年にアマチュア同然のムソルグスキーが30歳にして完成させた社会派オペラ。
プーシキンの原作に基づき、ムソルグスキー自身が台本を書いた。

 

完成時、ロシア当局から、アリアや女声の登場人物が少なく、バレエなどの場面がまったくないことに異議を唱えられ、演奏が却下された。すぐにその指摘を補完して完成させたのが、原典版の決定稿である。

初演は大成功だったらしいが、すぐに忘れ去られ、のちにR・コルサコフが手を入れ大幅に改定された。グランド・オペラ的な体裁が整い、この版がずっと「ボリス」の通常版としての地位を占め続けた。

1970年の大阪万博時の「ボリショイ・オペラ」公演では、ボリス個人の悪逆だけを非として、民衆や政治を善とした解釈で、テレビ観劇した小学生の私も、これが「ボリス・ゴドゥノフ」なのだと刷り込まれてしまった。
豪華絢爛たる、戴冠式の場は今もって脳裏にある。

 レコードでは、同じ70年代、カラヤンがウィーンで録音したデッカ盤が、やはりグランドオペラとしての「ボリス」の典型で、ギャウロウをはじめとする名歌手達の歌と録音の鮮烈がドラマテックな「ボリス」として捉えていた。

悔恨にあえぐ「ボリスの死」によって、幕を閉じると、個人が引き起こした悲劇が終わって、次代に希望を残した終結と感じさせる。

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その後、原典を見直す動きや、ソ連にも自由な空気が入りはじめたことなどで、80年代からは、ムソルグスキーが本来書いた原色のロシア色に塗りこめられた、救いの訪れない世界を表出するようになった。
ボリスは歴史の一コマに過ぎず、民衆は無知蒙昧で、一時的な熱狂に酔うだけ。

日和見の貴族(政治家)や宗教家。ボリスのあとの息子や、偽皇子も先が見えている。

ボリスが死んだあと、凱旋する偽皇子。
だが終わりのない悲劇が繰り返されるロシア、それを予見する聖愚者のつぶやきで幕となる。

 

原典版が見据えた社会派的な問題提起。

それを置き去りにしてきた時代はもう過去のものになったのだろうか?
いまの世界、いや日本にも通じるものを、ムソルグスキーが描いたドラマと音楽に見ることができるような気がする。

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この原典版の興隆に一役かったのが、「クラウディオ・アバ」。

 

アバドは執念のようにムソルグスキーに取り組んできた。
「はげ山」も原典にこだわり、何度も録音している。

ボリス」にいたっては、各地の劇場で何度も上演している。

スカラ座のオープニングに、これをもってきてしまうほどで、華やかなシーズン開幕を期待した聴衆を驚かせてしまったくらい。
その時のライブもあるが、そのすさまじいばかりの説得力にどんな人間も黙らざるを得ない。

    ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」

 

   ボリス・ゴドゥノフ:アナトーリ・コチュルガ  
   フェオドール:リリアーナ・ニチテアヌー
   クセーニャ:ヴァレンティーナ・ヴァレンテ  
   シェイスキー公:フィリップ・ラングリッジ
   ピーメン :サミュエル・レイミー        
   グリゴーリィ :セルゲイ・ラーリン
   マリーナ :マリヤナ・リポヴシェク      
   居酒屋女将 :エレーナ・ザレンパ

 

 クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                 スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団
                 ベルリン放送合唱団 
                       (93年11月 ベルリン)


アバドの指揮するベルリンフィルは、いつもは明るい音色なのに、原色のムソルグスキー・カラーに塗リ込められていて渋い。
 でも随所に恐ろしいほど見事なアンサンブルを聞かせるし、硬派でありながらも、リズム感が抜群なために決して単調にもならず、むしろ多々ある群集の場面では生き生きとした音楽に驚く。
歌手もふくめて、音符の一音一音にアバドの魂が込められた驚くべきムソルグスキー。

 

Boris_wien_2

 


 


 

 

 

 アバドは、1983年にロンドンで、名映画監督「タルコフスキー」(惑星ソラリスの監督)を演出に抜擢し、「ボリス」を上演した。86年にタルコフスキーは病死するが、1991年にも、音楽監督だったウィーンで上演し、94年のウィーンの日本公演にも、このプロダクションを上演した。

 

 NHKホールのS席7列7番という、最高の席で観劇することができた。
金縛りにあったような感銘を受けた。
暗譜で指揮するアバドの指揮棒一本に、歌手も合唱もオケも一体になり、我々聴衆はアバドとタルコフスキーの舞台が提示する問題提起に釘付けとなってしまった。

幕が引けて、渋谷の繁華街に下っても、別世界にいるようでボウっとしてしまったものだ。
先立つ、1993年のザルツブルクでは、時代設定を変えた、ジャケット写真の「ヴェルニケ」演出でも上演している。

 

Boris_wien_3_abbado

 

 

 

 

 






タルコフスキーとアバド、同じ年の生まれで、映像の詩人ともうたわれたタルコフスキーに、社会派アバドは大きく共感した。
ソラリス以外の映画は観たことが、これを機に他の作品を見てみたい。
アバドがどこに共感したのかも見据えてみたいから。

Boris_wien_1

 

 



  タルコフスキー演出の戴冠の場

Boris_godunov_abbado_05

 

 



 時代設定を映したヴェルニケ演出の戴冠の場

 

 

 

 

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