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2025年3月 6日 (木)

プロコフィエフ 「炎の天使」 ②

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真っ赤に染まる西の空。

夕焼け大好き人間です。

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                     (バイエルン州立歌劇場)

     プロコフィエフ 「炎の天使」

プロコフィエフのオペラの最高傑作と聴くたび、上演鑑賞するたびに思い、またいったい何なんだろうという不可思議感にもつつまれる。
交響曲第3番も同じように、すぐれた作品としての評価がうなぎのぼり。

あくまで、自分的にこのオペラの聴きどころを羅列しときます。

1幕
・印象的なその出だしは、プロコフィエフのほかのオペラにもいえるが、それはそのオペラの複雑な展開の萌芽のごくさりげない出だしにすぎない。
・隣室でのレナータがうなされる様子も呪文のようで面白いが、なんといってもレナータが「やめて、助けて」と悪霊に言いつのり、ルプレヒトは「リベラメ・ドミネ・・」と祈りを捧げ開放する。
この部分が、第3交響曲の冒頭なのである。
・レナータが身の上話しを語るモノローグの素晴らしさ、オーケストラは美しくもミステリアスな背景。
・ルプレヒトが襲い掛かるも、すぐに萎えてしまうところの音楽の変転ぶり
・禍々しい占い師の場面はオカルト音楽だ

2幕
・呼び出しに応える3つのノック音、最初はかなりビックリするが、こうした効果音を巧みに使うのがプロコフィエフである。
・だんだんと混迷を深めるレナータ、オーケストラのキューキューするグリッサンド効果抜群のシーンは、第3交響曲のスケルツォ。
 ノック音とあいまって、最高の怪しげ効果を出す
・魔術師の部屋での呪術シーンの間奏もオーケストラは最高の荒々しさと禍々しさで、めっちゃカッコいいのだ。
 これもまた交響曲に使用されたシーン。
・そのあとの魔術師の宣告における男声ふたりの声の応酬も、ロシアオペラならではの野太さで痛烈で聴きごたえあり、オケも最高!

3幕
・レナータのマディエルへの愛のモティーフと思われる前奏から始まる、ルプレヒトとのやり取りでは、ここも交響曲に採用
・続くレナータのモノローグが、このオペラにおける歌手の一番の聴かせどころ。
 正気と狂気を揺れ動くさまを歌い演じなくてはならないレナータ役の、唯一の女性らしく、かわいらしいところ。
 幕の終わりの決闘で怪我を負ったルプレヒトを心配する彼女の歌も同様によろしい。
 抒情とクールさ、プロコフィエフならではの音楽
・決闘シーンでの切迫感は、オケの間奏曲でよく出ていて、ナイスなカッコよさもありで、ずっと聴いていられる。
 映像で見たトレリンスキ演出では、この音楽は実に踊りやすいんだと思った。

4幕
・この幕はメフィストフェレスとファウストが出てきてしまうので、ドラマの必然性や緊張感が途絶えてしまうように感じる。
 給仕少年を食ってしまうという意味不明の残虐シーンもあるが、全体の雰囲気としては皮肉とユーモラスな感じ。

5幕
・修道院の場面なので、神妙な雰囲気で静かに始まるのだが、誰がわずか20分後の地獄のようなシーンを想像できるだろうか。
 第3交響曲の2楽章の開始部分そのもの。
・神妙さに急激に影を差すところの急変ぶりもよろしい。
・宗教裁判長に必要とされる圧倒的・威圧的なバスの声は、これもまたロシアオペラならでは。
・聖なるもの、悪魔的な俗の極み、この対立と乱れきった交錯を変転万化するプロコフィエフの音楽は完璧に描いてやまない。
 聴くだけでなく、ここは映像作品で各種観ると、それぞれの無茶苦茶ぶりが感嘆に値する。
 これはもうタンホイザーのバッカナール世界であり、背徳の極みが、最後は一条の光のような眩しい音楽で終結するのだ。
 合唱が聖と悪を歌いつつ、その合唱は6つに分割され複雑さに拍車をかける。
 オーケストラのエキセントリックな強烈ぶりも一度聴いたら忘れられず、こちらの身体も動かしたくなるくらいなのだ。
 最後のシーンばかりでなく、オスティナート効果も随所にあり、プロコフィエフの音楽の中毒性も味わえますぞ。
   第3交響曲の終楽章のデラックスバージョン。

CD音源

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    レナータ:ナディーヌ・セクンデ  
    ルプレヒト:ジークフリート・ローレンツ
    宿屋の女将:ローズマリー・ラング
    占い師、修道院長:ルートヒルト・エンゲルト・エリィ
    アグリッパ、メフィストフェレス:ハインツ・ツェドニク
    ファウスト:ペテッリ・ザロマー
    宗教裁判長:クルト・モル
    グロック:イェスタ・ザヒリソン
    ワイズマン:ブリン・ターフェル  ほか

  ネーメ・ヤルヴィ指揮 エーテボリ交響楽団
             イェスタ・オーリン・ヴォーカルアンサンブル
             プロムジカ室内合唱団

        (1989.5 @エーテボリ)

このオペラの本格初録音は驚きのDGからの発売。
ヤルヴィとエーテボリの当時の蜜月コンビがDGに移って北欧・ロシアものを次々に録音していたころ合い。
いろいろと聴いたうえで、この演奏を聴くとやはりヨーロッパの演奏であり、その響きも洗練されすぎて聴こえる。
歌手も含めてスッキリしすぎて感じるが、何度も聴いて耳に馴染ませるにはこれでいいのかもしれないし、オヤジ・ヤルヴィのまとめ上手からうかびあがってくるプロコフィエフの音楽の斬新さもよくわかる。
ワーグナーを歌うような歌手ばかりのキャストは充実はしているが、特にモルの宗教裁判長はザラストロみたいで違和感ありか。
セクンデがリリカルで案外によろしい。

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    レナータ:ガリーナ・ゴルチャコヴァ  
    ルプレヒト:セルゲイ・レイフェルクス
    宿屋の女将:エフゲニア・オエルラソヴァ=ヴェルコヴィチ
    占い師:ラリッサ・ディアドコヴァ
    グロック:エフゲニ・ボイツォフ

    アグリッパ:ウラディミール・ガルーシン
    メフィストフェレス:コンスタンチン・プルジニコフ

    ファウスト:セルゲイ・アレクサーシン
    修道院長:オリガ・マルコヴァ=ミハイレンコ

    宗教裁判長:ウラディミール・オグノヴィエンコ
    ワイズマン:ユーリ・ラプテフ  ほか

  ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 キーロフ劇場管弦楽団/合唱団

        (1993.9 @マリンスキー劇場、サンクトペテルブルク)

ロシアオペラをほぼコンプリート録音してくれたゲルギエフとマリンスキー劇場に、いまや感謝すべきでしょう。
あまりにも不条理なゲルギエフをはじめとする西側のロシア音楽家の締め出しの継続中のいま、90年代のこのフィリップス録音の数々は快挙であり、いまや音楽愛好家の至宝ともいえると思う。
ヤルヴィも絶倫級に録音を残したが、この頃のゲルギエフの活動も負けてはいない。
西側のプロコフィエフだったヤルヴィ盤に比べ、ここでのプロコフィエフの音楽は強靭さと野太さもあり、一方で音が過剰に広がってしまうのをあえて抑制しているかのようなスピード感がある。
そこでもっとギトギトして欲しいと思う場面があり、そこがまた職人ゲルギエフなのだとも思う。
レイフェルクスにややアクの濃さを感じるものの、歌手全体のレベルが高く、劇場でのいつものメンバーとしてのまとまりがいい。
ゴルチャコヴァが声の力感が申し分ないし、ヴェルデイも得意とする彼女、モノローグでの情感あふれる歌唱も実によろしい。

このライブ演奏が映像化もされていて、youtubeで全編見ましたが、日本の暗黒舞踏(Butoh)に明らかに影響を受けたと思われる白塗りのほぼ裸ダンサーたちが、最初から最後までうごめいていて、正直ウザイと思われた。
最後には憑依された修道女の一部はスッポンポンになり、まさに怪しげな地獄シーンとなるもので、デイヴィッド・フリーマンの演出。
東京でも上演され、コヴェントガーデン、メット、サンフランシスコなんかでも履歴がある。
マリンスキー劇場のサイトで確認したら、この演出はまだ継続していて、2021年のトレーラーを見たがおんなじで、歌手はスキティナとニキティンに刷新されている。
この際、ゲルギエフの指揮での再録音を望みたい。

エアチェック音源

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    レナータ:スヴェトラーナ・ソズダテレヴァ  
    ルプレヒト:エウゲニー・ニキティン
    宿屋の女将:ハイケ・グレーツィンガー
    占い師:エレナ・マニスティーナ
    グロック:クリストフ・ズペース

    アグリッパ:ウラディミール・ガルーシン
    メフィストフェレス:ケヴィン・コナーズ

    ファウスト:イゴール・ツァルコフ
    修道院長:オッカ・フォン・デア・ダームラウ

    宗教裁判長:イェンス・ラールセン
    ワイズマン:ティム・クィパース  ほか

  ウラディミール・ユロフスキ指揮 バイエルン州立歌劇劇場管弦楽団/合唱団

     演出:バリー・コスキー


        (2015.12.12 @バイエルン州立歌劇場、ミュンヘン)

演奏と映像では、これがいちばんだと思う。
忘れもしないコロナ禍での世界の劇場からのオペラ配信で観たバイエルン劇場でのもの。
初めて観た「炎の天使」に衝撃と、こんな面白いオペラや音楽があるのかという驚き。
ユロフスキの鋭い音楽造りと統率力の豊かさを実感し、その魔人のような指揮姿にもびっくりしたもんだ。
主役のふたりも、録音した音源で何度聴いてもすばらしく、ニキティンの従来のロシア歌手にない明晰なる声は実によい。
またソズダテレヴァの迫真の歌も、映像での体当たり的、かつユーモアある演技も残像に残っているので、それも伴い素敵なものだ。

コスキーの演出がとんでもなく面白かった。
ダンスを有効に取り入れるコスキー演出の真骨頂は、このプロコフィエフ作品あってこそ生きてくる。
女装の男性バレエや、酒場での乱痴気シーンなどでの異様ぶり、ラストの魔界シーンも棘の冠をかぶったイエスだらけになり聖と悪との対比も見事。
豪華な内装の高級ホテルからスタートした物語りは、ずっとこのホテルが舞台となり、そのホテルの一室が徐々に廃れて姿を変えて行き、最後にはどす黒い漆黒の部屋にまでなった。
飾りものだが、男性器丸出しのメフィストフェレスなどユーモラスでありキモくありで、全編にコスキーならではの容赦ないユーモアもあり。
これもまた映像作品化を望みたい。

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    レナータ:アウシュリネ・ストゥンディーテ  
    ルプレヒト:ボー・スコウフス
    宿屋の女将、修道院長::ナタースチャ・ペトリンスキー
    占い師:エレナ・ザレンバ
    グロック:アンドリュー・オーウェンス

    アグリッパ、メフィストフェレス::ニコライ・シューコフ
    ファウスト、ワイズマン:マルクス・ブルッタ
    宗教裁判長:アレクセイ・ティコミロフ   ほか

  コンスタンティン・トリンクス指揮 ORFウィーン放送交響楽団
              アーノルド・シェーンベルク合唱団

     演出:アンドレア・ブレス


        (2021.3.27 @テアター・アン・デア・ウィーン)

ウィーンでは演劇もオペラもアヴァンギャルドな上演の多いテアター・アン・デア・劇場。
この作品こそふさわしい。
ORFでの放送を録音しました。
こちらはすでにDVDにもなっているが、まだ未視聴ですが、トレーラーだけ見てこれはいいかな、と判断。
精神病棟に舞台を移した様子で、みんな病んでる。
歌手たちも含めて、「ヴォツェック」を思わせる。
 その歌手たる、いま最高のレナータ役と思われるストゥンデーテが完全に逝っちゃってるくらいの入魂の歌唱。
スコウフスも性格バリトンそのもののこの役を完璧に歌ってる。
新国でドン・ジョヴァンニを聴いたことのあるトリンクスの指揮、なかなかダイナミズムを意識した造りで、リズム感もよろしく、変転しまくるプロコフィエフの音楽の流れもうまくつかんでいる。

映像

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    レナータ:アウシュリネ・ストゥンディーテ  
    ルプレヒト:スコット・ヘンドリクス
    ホテルの女将:ベルナデッタ・グラビアス

    占い師、修道院長::アグニェシカ・レリス
    グロック、医者:パヴォロ・トロストイ
    アグリッパ、メフィストフェレス::アンドレイ・ポポフ
    ファウスト、宗教裁判長、ハインリヒ:クリストフ・バチィク
    ワイズマン、給仕長:ルーカス・ゴリンスキ
       ほか


      大野 和士 指揮  パリ管弦楽団
              ワルシャワ大劇場合唱団

     演出:マリウス・トレリンスキ


        (2018.7.13 @エクサン・プロヴァンス)

これはフランス放送のストリーミングからエアチェック。
大野和士とパリ管という願ってもない組み合わせに狂気して聴き、録音もした。
録音だけで聴いたとき、オーケストラが抑制されすぎ、ややおとなしいように感じた。
しかし、しばらくのちに映像も全編観ることができて、そんなことはまったくなく、オケと歌手、舞台、すべてが一体となった集中力・緊張感の高い上演だったのだと確信した。
エクサン・プロヴァンス音楽祭は半野外上演なので、オーケストラの響きと歌手のバランスなどを考慮した結果なのかと思った。

ここでもストゥンディーテが目を見張るほどにすごくて、とくに映像を伴うと見ながらその歌唱と演技に引き込まれてしまうこと必須。
この役のスペシャリストになった感もありますが、こうして鮮明な映像で見ちゃうと他の歌手が生ぬるく感じてしまう。
声は鋭いけれど、繊細さも併せ持ちつつ、ほの暗いトーンの持ち主。
そうエレクトラも得意役にしているのもわかります。
指の先から、足の指先まで、演技していて、憑依したときの目の白剥く様子も凄まじい。
この上演の年の秋に、ストゥンディーテは大野&都響に来演してツェムリンスキーの抒情交響曲を歌いまして、私もそれを聴いてました。
おっさんに過ぎるルプレヒトのヘンドリクスは、演出に沿った存在そのものに感じ、サラリーマン風の人の良さがその声にも出てました。

ポーランドの演出家トレリンスキは、なかなかに魅せる舞台でありました。
ネオンの光るラブホテルが舞台で、そこにはいろんな宿泊客がいて、随所に登場して味わい深い存在となってまして、思わず笑える連中もいました。
二役を演じる歌手もいるが、あえて同じ衣装であえてわかりにくく同質化をねらったものか。
黙役のかつての恋人ハインリヒ伯爵は、目の不自由な方の設定で、最後のシーンではそのまま宗教裁判長としてレナータを断罪する役ともなる。
オペラの冒頭で音楽の始まる前に寸劇があり、そこでは少年が日本のかつての特撮映画のガメラをブラウン管テレビで見ている。
またレナータと同じクローンのような女性が、ハインリヒ伯爵が出てくるときに何人も出てくる。
伯爵とルプレヒトの決闘のときにたくさんいて、踊り狂うが決闘で敗れたルプレヒトはそのとき子供化してしまう。
メフィストフェレスに食われるのはレナータの子供の姿。
ともかく、レナータもルプレヒトも子供時代のトラウマを背負っているのか、そしてレナータは薬物依存となっているのか・・
修道院シーンにも多数のレナータもどきであふれ大暴れ、自傷行為をする本物のレナータ、ハインリヒかのように抱きしめる宗教裁判長。
レナータは最後、倒れ伏すが、これは彼女の想いがかなったという救いなのか、絶望なのか、地獄行きなのか。。。。
前者をイメージさせる演出だとしたら、それはこのオペラにプロコフィエフが思ったラストシーンなのかもしれない。

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           レナータ:エヴァ・ヴェシン  
    ルプレヒト:リー・メルローズ
    ホテルの女将:アンナ・ヴィクトローヴァ

    占い師、修道院長::マイラム・ソコローヴァ
    グロック:ドミンゴ・ペリコーラ
    アグリッパ::セルゲイ・ラドチェンコ
    ファウスト:アンドリー・ガンチュク
    メフィストフェレス:マキシム・パスター

    宗教裁判長:ゴラン・ユリッチ
    ワイズマン:ピョートル・ソコロフ
       ほか


   アレホ・ペレス 指揮  ローマ歌劇場管弦楽団
             ローマ劇場場合唱団

     演出:エマ・ダンテ


        (2019.5.23 @ローマ歌劇場)

ローマでの上演だし、カトリック総本山の地元ともいうことあり、きっとお堅いんでしょうね、ということの一方で、原作への忠実ぶりも求めてこちらを購入してました。
時代設定も原作どおり、妙な読み込みも少なめで、さらには日本語字幕もあることからフムフムなるほど、という思いで鑑賞しました。
安全運転すぎる演出ではありますが、たくさん出てくる個性豊かな登場人物たち、重要な存在である黙役、思わず踊りたくなるプロコフィエフの音楽に合わせたバレエチーム・・etc、わかりやすく納得感のあるものでした。
ラストシーンの不条理も、ラストピースが最後にひとつハマるような感じでのエンディングでよかった。
ただ、自分的には炎の天使と思しき赤っぽいダンサーがちょっと鬱陶しかった。
また全体に、ほかの演出を観てきてしまうと、刺激の少なさやギリギリの切迫感のようなものの欠如を感じました次第でありました。
あと好きでなかったのが、3つのノックの音が小太鼓で鳴らされたところで、ここはやはり、どんどんドンでしょう、と思いましたね。

聞き知った名前のいない歌手のレヴェルは総じて高く、見た目はこの人もオッサン系のメルローズが暖かい声のバリトンでよかった。
レナータのヴェシンさんは、ほかの盤の鋭い歌唱や演技を知ってしまうとちょっと弱く、演出上もさほどの厳しさを表出していない感じ。
ちなみに5幕の地獄シーンは安心安全のものです。
ほかの場面で1か所だけ、ポ〇リありで頑張りました!
あとこのDVDの一番いいところは、お馴染みペレスの指揮で、機敏でかつ情感にあふれ、オペラの緩急と呼吸感が豊かなところ。

「炎の天使」の映像作品を楽しむなら、まずこのローマ劇場盤で、次はもし製品化されたらバイエルンでしょう。
あと観てみたいのは、リセウ劇場(G・ヒメノ指揮)、チューリヒ劇場(ノセダ指揮)で、ともにストゥンディーテなところもすごい。

前にも書いたが、原作は最後にはレナータには救いの手がのばされてこと切れるが、プロコフィエフのオペラでは、そのあたりの具体的な最後がない。
そのあたりをどのように結論付けた解釈をするかで、いろんな伏線を全編に設けることができるので、このオペラは演出家には腕の振るいがいのある作品であり、傑作なのだと思う。
なんども言いますが、なによりもプロコフィエフの音楽がすばらしい。

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新国立劇場の次のシーズン・ラインナップが発表されましたが・・・
うーーん、という内容ですな。
ヴォツェックとエレクトラの新演出はいいにしても。。。
大野監督、これやって欲しいよう

次は交響曲いきます。

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プロコフィエフ 「炎の天使」 ①

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ある日の壮絶な夕焼け。

こんな日の翌日は雨だったりしますが、この晩遅くに暖かい当地には珍しく雪が舞った。

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  プロコフィエフ 歌劇「炎の天使」op.37

時計回りに、ゲルギエフ&キーロフ(CD)、N・ヤルヴィ&エーテボリ(CD)、ユロフスキ&バイエルン州立歌劇場(エアチェック)、大野和士&パリ管(エアチェック)、トリンクス&ORFウィーン放送響(エアチェック)、ペレス&ローマ歌劇場(DVD)

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

年代順にプロコフィエフの音楽を聴いていこうという遠大なシリーズ。

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「3つのオレンジへの恋」(1921)に続く、プロコフィエフの4作目のオペラ。
日本を経てアメリカに逃れたプロコフィエフ。
アメリカを拠点に、ピアニストとして人気と多忙を極め、本人の想いとはうらはらに「ボリシェヴィキのピアニスト」と呼ばれ人気を博した。
ヴァーレリィ・ブリューソフというロシア象徴主義運動の代表格である作家の1908年発表の同名の小説をもとにした5幕のオペラ。

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原作の表紙、舞台は16世紀のドイツでライプチヒからケルンあたり。
プロコフィエフもこの設定は変えず同じくしており、小説の内容もイメージ的にはほぼ同じ。
原作者のブリューソフ自身の経験に基づく三角関係的な耽溺小説ではあるが、プロコフィエフのオペラの「炎の天使」の筋立てのややこしさや、複雑さは、まさにこの原作にこそある。
さらにそこには、悪魔主義と非現実という象徴的な背景があり、宗教的な愛による救いも原作にはあるが、しかしプロコフィエフのオペラにはそれがない。
まさに救いのないオペラをプロコフィエフは作曲したのであります。

原作の中の挿絵にはこんなおっかない絵もあり

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1919年から作曲を開始したが、完成は1927年と8年の歳月がかかった。
その間、ニューヨークで知り合ったスペイン生まれの歌手リーナ・リュベラと愛し合うようになり、1922年にミュンヘンの南のエタールという街に移り住み、1923年にふたりは結婚した。
リーナはプロコフィエフの最初の妻で、その後もフランスやアメリカでともに暮らすが、プロコフィエフの祖国への帰還を熱い思いに対し、ソ連の体制などを心配して反対したものの、ソ連に移住することになる。
その後のリーナは気の毒で、プロコフィエフはほかの女性と関係を持ち別居となり、離婚届も出されてしまう。
さらには政治的な問題にも巻き込まれ、反体制派として逮捕までされ、プロコフィエフの死後雪解けの時期に名誉回復を得る。
リーナが亡くなったのは1989年と長命なのでした。

リーナとのドイツでの結婚生活のなかで、「炎の天使」の作曲に没頭するプロコフィエフ。
ノイシュバンシュタイン城のあるフュッセンと山ひとつ隔てた場所にある風光明媚な場所で、この斬新きわまりないオペラが書かれたというところが面白い。
1927年に完成し、翌28年に初演を目論んだもののスコアの改訂が間に合わず流れてしまい、パリのオペラ座でクーセヴィツキによって演奏会形式で2幕分のみが初演。
3幕11場の全体構成を5幕7場にするなど、その後も手を入れつつも初演の機会は訪れず、ソビエトに帰還してしまってからは、その内容から同国での上演などおぼつかず、まさにお蔵入りとなりました。
プロコフィエフの死後2年目の1955年にイタリア語翻訳によりヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演となる。
このオペラの主題を用いて交響曲第3番を作り上げたのが1928年。
こちらは1929年にモントゥーの指揮で初演され、いまやコンサートでも人気曲のひとつとなっている。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

       登場人物

    16世紀 ドイツ ライン地方

 レナータ:悪魔に魅入られた娘(ソプラノ)
 ルプレヒト:騎士で旅人 レナータに一目ぼれで愛し抜く(バリトン)
 宿屋の女将:(アルト)
 召使:(バス)    
 占い師:(メゾ)
 ヤコフ・グロック:本屋(テノール)
 アグリッパ・フォン・ネッテスハイム:魔術師、哲学者(テノール)
 マティアス・ヴィスマン:ルプレヒトの学生時代の友人(テノール)
 医師:(テノール)
 メフィストフェレス:悪魔(テノール)
 ファウスト:いわゆるファウスト・哲学者(バリトン)
 居酒屋の主人:(バス)
 尼僧院長:(アルト)
 宗教裁判長:(バス)
 ハインリヒ伯爵:黙役
 その他の連中:3体の骸骨、隣人、尼僧、随行員etc. 合唱、バレエ

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第1幕 宿屋にて
宿屋の女将に案内され、粗末な屋根裏部屋に、アメリカ帰りの騎士ルプレヒトが登場。
この宿で一番良い部屋だと自慢されるが、隣室から叫び声が聞こえて来る。
ルプレヒトが駆け付けると、若い女性が「悪霊に取り憑かれている」と言って悶え苦しんでいる。
この美しいレナータに一発で心ひかれたルプレヒトが事情を聞くと、レナータはその身の上を話し始める。
 子供のころ、マディエリという「炎の天使」といつも一緒に楽しく過ごしていた。
やがてレナータは年頃の乙女になり、その友情は愛情に変わっていった。
レナータがマディエリに恋心を打ち明けると、マディエリは「いずれ時がきたら人間の姿になって再びレナータの前に現れる」と約束して去って行った。
さらに月日は流れ、レナータはハインリッヒと名乗る伯爵に出会う。
このハインリヒ伯爵こそがマディエリの生まれ変わりだと確信し恋に落ちてしまう。
二人は短くも幸せな時を過ごしたが、伯爵はレナータを捨てて突然に姿をくらましてしまった。
それ以来、夜ごと悪夢にうなされながら伯爵を来る日も捜し続けているのであった。
彼女の話を聞くうちに、ルプレヒトはレナータの不思議な魅力に憑かれ、彼女を自分のものにしたいと言う欲望にかられ、普段の冷静さを忘れ襲いかかるが、激しく拒絶される。
しかしルプレヒトは危なげなレナータを愛し、守りたいと強く心に決める。
様子を見に来た女将は、このレナータを売春婦と罵り、ルプレヒトに忠告し、さらに占い師を呼んで来て占うことにする。
占い師はレナータとルプレヒトの血塗られた運命を予言する。怯えるレナータを連れてルプレヒトは宿を逃げ出して行く。

第2幕
第1場 ケルン
ルプレヒトとレナータはケルンにやって来る。
レナータはハインリッヒ伯爵を探し出すために、魔術について文献をあたり調べている。
本屋のグロクが登場し、魔術についての文献を持参するが、黒魔術などは、異端としての裁判の恐れあり勘弁して欲しいという。
 ルプレヒトは再び愛を告白するが、ハインリッヒ伯爵の足元にも及ばないとまったく相手にせず、文献に没頭する。
レナータが伯爵の魂に呼びかけると、ドアをノックする音が3回聞こえて来るので「魔術が成功した」と喜ぶ。
しかしそれは、熱に浮かされたレナータの幻聴であった。
絶望するレナータ、ルプレヒトはまたやって来た本屋グロクの忠告に従って、学者で魔術師のアグリッパ・フォン・ネッテスハイムに助言を求めにいく。

第2場 アグリッパの書斎
学術書や科学的計測器などが散乱するアグリッパの書斎、そこで鳥の剥製や骸骨の並ぶまがまがしい雰囲気のなか研究中。
そこにルプレヒトが訪ねて来て経緯を説明し、助言を求めるが断られる。
ただアグリッパは、魔界に関わってはならないと警告を与え、自分は人間の深淵を探求するのみなのだ、と宣言する。
横に並ぶ3体の骸骨が「アグリッパは嘘をついている」と教えるが、それはルプレヒトには聞こえない。
アグリッパは、真の魔術とは科学そのものであると忠告をする。

第3幕
第1場 ハインリヒ伯爵家の前
レナータはケルンに滞在していた伯爵に巡り合うことが出来たが、伯爵はレナータを魔女と呼んで遠ざける。
レナータは深く傷つき、そんな伯爵なんて火の天使マディエリの約束した化身ではないと考えるようになる。
ルプレヒトはすべては幻だったのだと、アグリッパに会っての結論を言うが、レナータは「自分を辱めた伯爵に決闘を申し込み、殺して欲しい」とルプレヒトに訴える。
ルプレヒトはさっそく伯爵家に決闘を申し込みに向かい、レナータは屋敷の外でマディエリが姿を現わしてくれるように神に祈っていた。
ここでのモノローグはなかなかに切実で、この作品の一番オペラらしい歌唱シーンとなる。
レナータは祈りの陶酔の中、窓に映る伯爵を見上げると、そこにはハインリヒ伯爵が、、やはり伯爵がマディエリの生まれ変わりであるとまたも確信してしまう。
ルプレヒトが決闘の段取りを終えて戻ると、身勝手にもレナータは伯爵を傷つけることを禁じるのである。
なんでやねんと、めちゃめちゃ怒るルプレヒトであった。

第2場 ライン川
レナータから伯爵を傷つけるな!と命令されたルプレヒトは、それでも勇敢に決闘に挑み闘いの末、深手を負う。
突然出てきた友人のヴィスマンに助けられる。
一方の伯爵はまた姿を消してしまう。
レナータはこの顛末に愕然とし絶望に暮れ、ルプレヒトへの愛をいまさらに誓い、命乞いをし、死んでいまったらもう自分は修道院に入るとしおらしくもこの厳しい試練を嘆く。
しかしその誓いを嘲るような声もまた聞こえ、レナータは不安に陥る
ルプレヒトは私を死に追いやりやがってこのやろう!・・・と悪魔の幻影を見る
医師を伴いヴィスマンが戻ってきて、ルプレヒトは一命をとりとめる。

第4幕 ケルンの街角、居酒屋
レナータが介護し、ルプレヒトは回復し、ふたたびレナータとの結婚を望んでいた。
しかしレナータはルプレヒトに感謝はしていたが、愛することはできないという。
レナータはルプレヒトを遠ざけ、未だに伯爵に性的な欲望を感じる自分の体を呪い修道院に入ると言い張る。
混乱するレナータはルプレヒトを悪魔の使いだと責め、ナイフで何度も自傷行為をする。
そして結婚を哀願するルプレヒトの制止を振り切り、ナイフを投げつけて逃亡してしまう。
 その時ファウスト博士と悪魔メフィストフェレスがレナータとルプレヒトの言い争いを居酒屋のテーブルに座って見物していた。
ファウストは天使も悪魔も人間のことが理解できないと意味深に言う。
メフィストフェレスはワインを飲み、肉を持ってこいと給仕の少年に命ずるが、男の子は肉を落としたりして粗相をしてしまうと、その子をメフィストフェレスは食べてしまう。
ファウストはメフィストフェレスの悪ふざけにうんざりしているが、驚いた店主は「男の子を返せ!」と大騒ぎをして、メフィストフェレスは満足げに男の子をゴミ箱から出してみせる。
そんなメフィストフェレスは落胆するルプレヒトに興味を持ち、女に振られ気落ちをしてやがると揶揄し、無理強いでは愛は手に入らない、一緒に飲もうぜと誘っって来る。
ケルンを案内しろ、一緒にくれば、いろいろとわかるぜとメフィストフェレスは誘う。

第5幕 修道院
逃げ出したレナータは修道院に入っていた。
悪霊を信じるのか?見たのか?と僧院長は問い、レナータが来て以来、不思議なことばかりが起きるという。
しかし悪霊に苦悶するレナータによって修道院はだんだんと不穏な空気に包まれる。
尼僧達も不安におののき始める。
尼僧院長はレナータを呼び出し宗教裁判にかけることし、宗教裁判長は十字架をかざし悪魔払いを始める。
この悪魔払いの儀式は修道女達をさらに混乱させ、悪霊を呼び醒ましてしまう。
炎の天使の幻影がついにレナータを制圧し、修道女たちはサタンをも讃美し始めみなトランス状態となりレナータを讃える。
メフィストフェレスとルプレヒトはこの様子を見ていて、ほら、あの女だぜとルプレヒトに見せつける。
ついに宗教裁判所長がレナータに悪魔と通じた堕天使と烙印を押し、拷問と張り付け火炙りの刑を言い渡し、混乱の極みに達する。
最後は近衛兵も乱入し、ついに処刑へとなる・・・・・

                    

とんでもなくややこしく、ヒロインの目まぐるしいまでの心変わりは、悪魔に魅せられた由縁か。
そうした女性を愛し抜くことができるのか。
いるかもしれない悪魔と対峙する男性、ルプレヒトは騎士道精神を発揮して、自らの破滅も顧みずに渦中に飛び込んでいく。
そこまでして愛し、救助するに足る女性なのかを問うのもこのオペラだし、そのあたりが上演にあたっての演出家の腕の見せ所だろう。
ラストシーンは、音楽としてはいろんな解釈を施すことができるような残尿感も漂うが、まばゆい音のエンディングとなる。
ルプレヒトは、メフィストフェレスにとどめられたのか、レナータを救うことが出来ずに傍観者となる。

一方、ブリュソフの原作の方だが、修道院入りしたレナータは、悪魔か聖人に取りつかれた状態になっていて、そうした罪を告白して牢ににつながれてしまう。
それをルプレヒトが救出に向かうが拒否されたあげくに、「炎の天使」と同一視したのかどうか、彼の腕に抱かれつつ死んでしまう。

この結末の描かれ方の違いは大きい。
救いがなく、より悪魔的、暴力的な結末にしたプロコフィエフは、ここに付けられた音楽がまさにそのような出来栄えになっており、予定調和的でないところが、この時期のプロコフィエフの先鋭的な作風にピタリと来るわけです。

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2024年12月21日 (土)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 ノット&東響

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サントリーホール、カラヤン広場のクリスマスツリー。

この日は、ジョナサン・ノットと東京交響楽団のR・シュトラウスのオペラシリーズ第3弾にして最終回、「ばらの騎士」を観劇。

17時に開演して、20分休憩を2回はさんで、再びこのツリーの横を通ってホールを出たのは21時30分になってました。
カットなしの完全版で、コンサート形式での簡易なオペラ上演は、これまでの2作と同じくして、サー・トーマス・サレンの演出監修によるもの。

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これまでの2作もタイトルロールに世界ナンバーワンの歌手を据え、他役も超一流で固めた、まさにノット監督の人脈をフルに活かした配役による上演でした。
サロメにグリゴリアン、エレクトラにガーキーと、いずれもいまでもその歌声は耳にこびりついている。
今回の配役も実に素晴らしい布陣です。

結論から申しますと、多く観劇してきた「ばらの騎士」の上演・演奏のなかで、いちばん鮮烈な感銘を受けることとなりました。

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 R・シュトラウス 「ばらの騎士」

  マルシャリン:ミア・パーション 
  オクタヴィアン:カトリオーナ・モリソン
  ゾフィー:エルザ・ブノワ         
  オックス男爵 :アルベルト・ペーゼンドルファー
  ファーニナル:マルクス・アイヒェ 
  マリアンネ、帽子屋:渡邊 仁美
  ヴァルツァッキ:澤武 紀行
  アンニーナ:中島 郁子

  ヴァルツァッキ:デイヴィツト・ソー    
  歌手:村上 公太

    警部、公証人:河野 鉄平
  執事(元帥家)、料理屋の主人:高梨 英次郎
  動物売り、執事(ファーニナル家):下村 将太
  3人の孤児:田崎 美香、松本 真代、田村 由貴絵
  モハメッド役:越津 克充

 ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
             二期会合唱団

   演出監修:サー・トーマス・アレン

     (2024.12.13 @サントリーホール)
  

満席のホール、いつものように颯爽とあらわれ、さっと指揮を始めると、高揚感たっぷりのホルンで素晴らしい音楽ドラマの幕が開く。
左手に二人掛けソファ、右手はテーブルに2脚の椅子、ステージ右奥には衝立。
これだけが舞台装置で、歌手たちはこれらの椅子に腰かけつつも、基本はほとんど立ちながらの演技で歌う。

「ばらの騎士」は、あらゆるオペラの中で、5指に入るくらいに好きで、その舞台もたくさん見ておりますが久々の実演。
かつて「ばら戦争」といわれ、短期間に「ばらの騎士」がいくつも上演されたときがあり、まだ若かった自分、いろんな意味でのゆとりもあり、そのほとんどを観劇し、来る日も来る日も「ばらの騎士」の音楽が頭のなかを渦巻いていたものでした。
2007年のこと、あれからもう17年が経過し、脳裏を「ばらの騎士」がよぎり続ける日々がまた再び来ようとは・・・・

素晴らしいオーケストラ、素晴らしい歌手たち、集中力の高い聴衆、これらすべてが完璧に決まりました。

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サロメとエレクトラで、巨大編成のオーケストラを存分に鳴らしまくり、ワーグナーの延長とその先にあるシュトラウス・サウンドを堪能させてくれたノットと東響。
エレクトラからわずか2年後の1910年の「ばらの騎士」は、歴史絵巻の素材から、18世紀に時代を移し、音楽は、軽やかで透明感あふれるモーツァルトを意識した世界へと変貌。
ホフマンスタールとの膨大な往復書簡のなかで述べているように、「フィガロの結婚」を前提としても書いている。
そのホフマンスタールも、メロディによる台本の拘束は、モーツァルト的なものとして好ましく、我慢しがたいワーグナー流の際限のない、愛の咆哮からの離脱を見る思い、だと書いてました。
ワーグナー好きの自分からすると、なにもそこまで言わなくても、とホフマンスタールに言いたくはなりますがね・・・
しかしシュトラウスは台本に熱中し、台本が完成するより先に作曲を進めてしまったくらいに打込んだ。

モーツァルトの時代には存在しなかったワルツが随所に散りばめられ、それはこのオペラの大衆性をも呼び起こすことにもなりますが、その数々のワルツをふるいつきたくなるくらいに、まるで羽毛のように軽やかに演奏したのがクライバー、ゴージャスに演奏したのがカラヤン。
しかし、ノットはワルツでもそのように、ワルツばかりが突出してしまうことを避けるかのように、シュトラウスが緻密に張り巡らせた音楽の流れのなかのひとコマとして指揮していたように思う。
うつろいゆくシュトラウスの音楽の流れをあくまで自然体で、流れるように聴かせてくれ、近くで歌う歌手たちとのコンタクトもとりつつ、歌い手にとっても呼吸感ゆたかな安心できるオーケストラ。
シュトラウスの千変万化する音楽の表情を、ノットは巧まずして押さえ、東響から導きだしていたと思う。
その東京交響楽団が、先日の影のない女でも痛感したように、シュトラウスの煌めくサウンドと名技性とを完璧に演奏しきっていて、我が国最高のシュトラウスオケと確信。
是非にもCD化して世界に広めて欲しい。
 多くの聴き手と同じように、3幕での3重唱の高揚感と美しさには、美音が降りそそぐようで、あまりの素晴らしさに涙が頬を伝うのを止められず・・・
音源で聴いていると、女声3人の歌声でスピーカーがビリついてしまう録音もあるくらいだが、ライブでの演奏ではそんな不安はこれっぽちもなく、まさに心の底から堪能しました。

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5人の主要歌手たち、脇を固めた日本人歌手たち、いずれの皆様、賛辞の言葉を尽くしてもやむことができないほどに素晴らしかった。

驚きの素敵な歌唱とその立ち居振る舞いをみせてくれたミア・パーションのマルシャリン。
モーツァルト歌手としての実績のみが頭にあり、こんなに大人のそして優しさと哀しみを表出できる歌手だったとは!
声量も充分で、ホールに響き渡るその澄み切った声は、北欧の歌手ならではで、クセのない揺れのほとんどないクリアボイスで歌われる1幕のモノローグには、もう涙を禁じえなかった。
これでドイツ語のディクションにさらなる厳しさも加わったらより完璧。
いまこれを書きつつ、外をみると風に散る枯葉が舞ってました。
彼女の歌とノットの作りだしたあの儚い場面を思い出し、そしてこれまで観てきたマルシャリンたちの1幕の幕切れのシーンをも回顧して、なんとも言えない気持ちになってきたのでした。。。
ゾフィーが持ち役だった彼女が、こうしてマルシャリンに成長してきたその姿は、まるでかつてのルチア・ポップを思い起こす。
もしかしたら、きっとマドレーヌも素晴らしく歌ってくれるのでは・・・

会場を驚かせた歌手、オクタヴィアンのモリソンは、この日がオクタヴィアンの初ロールだということ。
豊かな声量と安定感あるメゾの領域は、これまた驚きの連続でした。
これで軽やかさが加わったたら最強のオクタヴィアンになるかもです。
気になって手持ちの録音音源を調べたら、ピッツバーグでモツレク、BBCでスマイスのミサ曲などを歌ってました。
フリッカも歌い始めたようなので、マーラーの諸曲も含めて、今後期待大の歌手です。

対するゾフィーのフランスのソプラノ、ブノワも実にステキでして、そのリリカルな声は、薔薇の献呈の場では陶酔境に誘われるほど。
まさにこれが決り、最終シーンでもうっとりさせていただきました。
一方で、現代っ娘的な意思の強さも歌いだす強い声もあり、幅広いレパートリーをもつこともうなづけます。
オクタヴィアンとゾフィーの2幕におけるヴァルツァッキ達の踏込み前までの2重唱、このオペラでもっとも好きな音楽のひとつですが、これもまた天国級の美しさなのでした。

大柄なオーストリアのバス、存在感たっぷりのペーゼンドルファー。
ハーゲン役として音源や映像でいくつか聴いていたが、初の実演は、深いバスでありながら小回りの利く小気味よさもありつつ、上から下までよく伸びるその声、実に美声で破綻なく安心の2幕のエンディングでしたね。

多くの録音やバイロイトのライブでもおなじみのアイフェのファーニナル。
暖かく人のよさのにじみ出たアイフェのバリトンは、現在、最高のウォルフラムやグンターだと思いますが、貪欲な市民階級の役柄を歌わせても、どこか憎めず、いい人オジサンにしてしまう。
性急なまでに貴族へのステップアップを狙い、一目を気にする小人物であるが、憎めない、最後は娘の幸せを願う父親に。
そんなファーニナルを見事に歌い演じるアイフェでした。

せんだって、ヴェルデイのレクイエムで見事なソロを聴いた中島さんのアンニーナ、ここでも充分に存在感を示してまして、小回り効く澤武さんのヴァルツァッキとともに、狂言回しとして、このオペラになくてはならない役柄であることを認識できました。
テノール歌手の村上さんも、驚きの渾身の美声で、ステージ上の登場人物たちもまさに聞惚れるほど。
刑事コロンボのようなコートをまとった警部の河野さんも、役柄にはまった歌唱と演技で、オクタヴィアンの投げる衣装を受け取る姿もまた楽しい場面でした。
そしてもったいないくらいの渡邊仁美さんのマリアンネも、舞台を引き締める役割をそのお姿でも担いました。

モーツァルトシリーズからシュトラウスまで、演技指導の名歌手トーマス・アレン卿の手際のいい仕事は、制約の多いコンサートスタイルにおいても、簡潔で納得感あるものです。
これだけ有名なオペラになると、大方の場面は、こちらの想像力で補うことができるからこれでいいのです。
3幕の悪戯の仕掛けなど、客席も使ってみた方がおもしろいかも、とは思ったりもしましたが、登場人物たちが、指揮者やオケの奏者たちに絡んだりする場面などユーモアたっぷり。
モハメド君のハンカチ拾いも、定番通りでよかったです。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

歳を経た自分が、元帥夫人に共感し、思い入れも以前にもまして深めてしいます。
日々揺れ動く気持ち。
自分を見つめることで、いまさらに時間の経過に気付く。
自戒と諦念、そして、まだまだだと、あらたな道へと踏み出す勇気を持つべしとも思う自分。


こんな儚い気持ちを感じさせてくれるドラマに、シュトラウスはなんてすばらしい音楽をつけてくれたものだろうか。
シュトラウス晩年の「カプリッチョ」にも人生の岐路に差し掛かった自分は、格段に思い入れを感じる今日この頃。。。

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過去記事 舞台観劇

 「新国立劇場 シュナイダー指揮」

 「チューリヒ歌劇場 W・メスト指揮」

 「ドレスデン国立劇場 ルイージ指揮」

 「県民ホール 神奈川フィル 沼尻 竜典指揮」

 「新日フィル コンサート形式 アルミンク指揮」

 「二期会 ヴァイグレ指揮」

過去記事 音源・映像

 「バーンスタイン&ウィーンフィル」
 
 「ドホナーニ&ウィーンフィル」

 「クライバー&バイエルン国立歌劇場」

 「ギブソン&スコティッシュ、デルネッシュ」

 「ビシュコフ&ウィーンフィル」

 「クライバー ミュンヘンDVD」

 「ラトル&メトロポリタンオペラ」

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手持ちの映像から、ガーシントン・オペラでのパーションの元帥夫人。
この演出がお洒落でセンスあふれるものでした。
数回目のシュトラウスのオペラ全作シリーズ、次は「ばらの騎士」を予定してまして、そこで音源や映像の数々をレビューしたいと思います。

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2024年12月 1日 (日)

プッチーニ 「トスカ」 レッシーニョ指揮

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 昨年にオープンの港区の麻布台ヒルズ。

近くの役所まで行く用事があり寄ってみましたが、クリスマスイルミネーションはこの日の翌日からで、スタッフが慌ただしく準備中のところを拝見しました。
都会から離れてしまったので、早々に行けないけれど、夜はさぞかし奇麗だろうなぁ。

さて、2024年11月29日は、プッチーニの没後100年の命日にあたりました。

1858年12月22日生まれ、1924年11月29日没。

いうまでもなく、最後のオペラ「トゥーランドット」を完成することなく、咽頭がんの手術も功を奏さず亡くなったのが100年前。
ちなみに、ワタクシは、プッチーニの100年後に生まれてます。

中学生のとき、NHKがプッチーニのテレビドラマを放送して、わたしは毎回楽しみにして観たものです。
かなりリアルにそっくりで、吹き替えの声は高島忠夫だった。
中学生ながらに思ったのは、プッチーニがずいぶんと恋多き人物で、ハラハラしたし、またあらゆるものへのこだわりが強く、妥協を許さず、ちょっとワガママに過ぎる人だな、、、なんてことでした。
トゥーランドットのトスカニーニによる初演もリアルに再現され、リューの死の後、悲しみにつつまれるなか、トスカニーニが聴衆に向かって、「先生が書かれたのはここまででした・・」と語る場面で泣きそうになってしまった。

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  プッチーニ 「トスカ」

   トスカ:ミレッラ・フレーニ
   カヴァラドッシ:ルチアーノ・パヴァロッティ
   スカルピア:シェリル・ミルンズ
   アンジェロッティ:リチャード・ヴァン・アラン
   堂守:イタロ・ターヨ
   スポレッタ:ミシェル・シェネシャル
   シャローネ:ポール・ハドソン
   看守:ジョン・トムリンソン
   羊飼い:ワルター・バラッティ

  ニコラ・レッシーニョ指揮ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団
              ロンドン・オペラ・コーラス
              ワンズワース少年合唱団

      (1978.6  @キングスウェイホール、アルバートホール)

これまで「トスカ」を記事にしたことが限りなく多く、最後にリスト化してますが、没後100年にも、やはりこのオペラを選びました。
プッチーニのオペラ、基本、ぜんぶが好きなのですが、いまは「ラ・ロンディーヌ」が一番好き。
でも、初めてのプッチーニは、「ボエーム」や「蝶々さん」よりは「トスカ」だった。

何度も書いてて恐縮ですが、1973年のNHKホールのこけら落としに招聘された第7次イタリアオペラ団の演目のひとつが「トスカ」。
「アイーダ」「トラヴィアータ」「ファウスト」と併せて4演目、中学生だった自分、すべてはテレビ観劇でした。
ライナ・カヴァイヴァンスカ、フラビアーノ・ラボー、ジャン・ピエロ・マストロヤンニの3人で、指揮は老練のファヴリティース。
演出は伝統的なブルーノ・ノフリで、その具象的な装置や当たり前にト書き通りの演技、初めて見るトスカとしては理想的でしたし、なんといっても赤いドレスの美人のカヴァイヴァンスカの素晴らしい演技に、子供ながらに感激しましたね。

以来、トスカは大好きなオペラとして数多くの音源や映像を鑑賞してきましたが、そんななかでも、いちばん耳に優しく、殺人事件っぽくない演奏がレッシーニョ盤。
久しぶりに聴いても、その印象です。

デッカにボエーム、蝶々夫人とカラヤンの指揮で録音してきたフレーニとパヴァロッティのコンビ。
数年遅れて、デッカが録音したが、指揮はカラヤンでなく、生粋のイタリアオペラのベテラン指揮者レッシーニョとなった。
当時、わたくしはちょっとがっかりしたものです。
この録音は78年で、カラヤンは翌79年に、DGにベルリン・フィルと録音。
ザルツブルクがらみでなく、フィルハーモニーでのスタジオ録音で、こちらはリッチャレッリとカレーラスを前提とした商業録音だったので、レーベルの関係なのか、カラヤンの歌手の人選にこだわったのか、よくわかりません。

しかし、じっくりと聴いてみて、この歌手たちであれば、カラヤンでなくてよかったと、いまも思います。
カラヤンならリリックなふたりの主役を巧みにコントロールして、見事なトスカを作り上げるとは思いますが、カラヤンのイタリアオペラに感じる嵩がかかったようなゴージャスなサウンドは、ときにやりすぎ感を感じることもある。
マリア・カラスが好んだレッシーニョ。
イタリア系のアメリカ人ではありますが、アメリカオペラ界の立役者で、全米各地にオペラ上演の根をはったことでもアメリカでは偉大なオペラ指揮者と評されてます。
もちろんカラスとの共演や録音が多かったのが、その名を残すきっかけではありますが、それのみが偉大な功績となってしまった感があります。

歌を大事にした、オーケストラが突出しない流麗な「トスカ」。
このようなオペラ演奏は、最近あまりないものだから、ある意味新鮮だった。
3人の主役たちのソロに聴くオーケストラが、いかに歌を引き立て、歌詞に反応しているか、とても興味深く聴いた。
一方で、プッチーニの斬新なサウンドや、ドラマテックな劇性がやや後退して聴こえるのも確かで、ここではもっと、がーーっと鳴らして欲しいという場面もありました。
当時、各レーベルで引っ張りだこだったロンドンの腕っこきオーケストラ、ナショナルフィルは実にうまいものです。

フレーニとパヴァロッティ、ふたりの幼馴染のトスカとカヴァラドッシにやはりまったく同質の歌と表現を感じます。
嫉妬と怒り、深い愛情と信仰心で、トスカのイメージは出来上がっていますが、フレーニのトスカはそんなある意味、烈女的な熱烈な存在でなく、もっと身近で、優しく、ひたむきな愛を貫く女性を歌いこんでいる。
1幕で、マリオと呼びながらの登場も可愛いし、教会の中で嫉妬に狂う場面もおっかなくない。
「恋に生き歌に生き」は、心に響く清らかな名唱です。
ラストの自死の場も無理せず、フレーニらしい儚い最後を感じさせてくれた。

ヒロイックでないパヴァロッティのカヴァラドッシも、丁寧な歌い口で、あの豊穣極まりない声を楽しむことができる。
この頃はまだ声の若々しさを保っていて、テノールを楽しむ気分の爽快さも味わえました。

わたしには、スカルピアといえば、ゴッピだけれど、それ以外はミルンズであります。
役柄にあったミルンズの声は、ここではときに壮麗にすぎて、厳しさや悪玉感が不足しますが、やはりテ・デウムにおけるその歌唱には痺れますな!

当時、超大ベテランだった、イタロ・ターヨの妙に生真面目な堂守や、脇役の定番シエネシャルも味わい深く、のちに大成するトムリンソンがちょい役で出てるのも楽しいものだ。

アナログ最盛期のデッカ録音、プロデューサーは、ジェイムス・マリンソン。
エンジニアリングにケンス・ウィルキンソンとコリン・ムアフットの名前があり、この頃のデッカならではの優秀録音が楽しめました。
キングスウェイホールとヘンリ・ウッドホール、響きのパーシペクティブや音の芯の強さではキングスウェイホールが、ほかのレーベルの録音でも好きなんですが、おそらく1幕はキングスウェイホール。

この時期のレコード業界はまさに黄金期でした。

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 「トスカ」過去記事

「マゼール指揮 ローマ聖チェチーリア」

「シュタイン指揮 ベルリン国立歌劇場」

「シャスラン指揮 新国立劇場」

「カリニャーニ指揮 チューリヒ歌劇場」映像

「T・トーマス指揮 ハンガリー国立響」

「コリン・デイヴィス指揮 コヴェントガーデン」

「マゼール指揮 ローマ聖チェチーリア」独語ハイライト

「テ・デウム特集」

「メータ指揮 ニュー・フィルハーモニア」

「没後100年」

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カヴァイヴァンスカのトスカ(1973年 NHKホール)

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2024年10月28日 (月)

R・シュトラウス 「影のない女」 二期会公演

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2022年に予定されながら、流行り病の影響で流れた二期会の「影のない女」
クラウドファンディングや関係者の尽力の積み重ねで、ついに上演のはこびに。

その全オペラを楽しみ、愛するわたくし、シュトラウスの初オペラ体験がこの「影のない女」でした。
忘れもしない、ハンブルク国立歌劇場の来日公演。
1984年の5月7日、日本初演の初日から3日後で、このオペラはその2回のみの上演でした。
場所は同じく東京文化会館で、大切にしているチケットを確認したら、1階10列24番。
今回の二期会上演の席は、よく見たらその席のほぼすぐ近く。

40年を経過し、ワタクシも歳を経ましたが、あのときの感動はいまでも鮮やかに覚えてます。
ドホナーニの指揮、皇后:リザネック、皇帝:R・シェンク、乳母:デルネッシュ、バラクの妻:G・ジョーンズ、バラク:ネンドヴィヒ、、こんなキラ星のようなキャストで、その素晴らしい声の饗宴に痺れまくり。
なかでも3幕で、きらめく泉が皇后の顔にあたり、その頬が光るなか、「Ich will nicht・・・」と苦しみつつも発するリザネックに背筋がゾクゾクするような感動を覚えました。

このオペラのひとつの聴きどころ・見どころであるそのシーンは、今回どうなるのか・・・

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  R・シュトラウス 「影のない女」

     皇帝 :伊達 達人         
     皇后 :冨平 安希子

         乳母 :藤井 麻美     
              伝令使:友清 崇
      〃 :高田 智士
      〃 :宮城島 康
     若い男:高柳 圭
         鷹の声:宮地 江奈
     バラク:大沼 徹
     バラクの妻:板波 利加 
             バラクの兄弟:児玉 和弘
                      〃        岩田 健示
         〃     水島 正樹


    アレホ・ペレス指揮 東京交響楽団
             二期会合唱団
  
   演出:ペーター・コンヴィチュニー
   舞台美術:ヨハネス・ライアカー
   照明:グゥイド・ペツォルト
   ドラマトゥルク:ベッティーナ・バルツ

     (2024.10.26 @東京文化会館)

コンヴィチュニーだから、普通の演出じゃなくて、いろんな仕掛けをかましてくるだろうなと思っていたし、これまで観劇してきたコンヴィチュニー演出は4作あり、正直いずれも楽しんだし、面白かった。
また20年前ぐらい、まだ読み替え演出に嫌悪感のあった自分に、その楽しみを植え付けてくれたのもコンヴィチュニー演出なのだ。

しかし、今回はどうしたものだろう。

できるだけ情報をシャットアウトして、公演に挑むのが常であるが、二期会のSNSや出演者たちの「X」が目に入るようになり、気になって公式HPにアクセスして確認してみた。
カットと筋立ての読み替え、場の入替えなどがあらかじめ、あらすじ概要とともに書かれていた。
それを読んだとき、カットがあることに正直がっかりしたし、筋の内容も読んで暗澹たる気分になった。
でも実際の舞台に接すれば、コンヴィチュニー演出のことだ、面白いし納得感もあるに違いないという思いで上野に向かった。

今回のコンヴィチュニーの「影のない女」は、これまで好意的だった私としては、「No」と言っておきたい。
読み替え自体はそれは問題ではなく、でも今回のは好きじゃなかったけれど、やはりシュトラウス&ホフマンスタールの「原作」と「音楽」にあまりに手を入れすぎで、それはもう私には冒涜クラスのものに思われた。
「原作」の最終場面は正直言って取ってつけたようなエンディングで、アリアドネにもそんな風に感じることもあるが、長いオペラをずっと聴いてきて訪れる予定調和の平和は、なによりも安心感や安らぎを与えるのだ。
さらに、私がいつもこのオペラでこの皇后はどう歌うんだろうと注目する「否定」の場面。
あそこを冨平さんの皇后で聴きたかったし、観たかった。
そんな風な楽しみを奪われたと思う観客は多かったのではないだろうか。

忘れないうちに、どこをカットされたか、どうつながれたかを自分でまとめて、こんなの作りました。
クリックすると別画面で拡大表示します。
間違っていたらすいません。
背景は、上野駅で見かけたパンダの絵です。
たぶん夫婦のパンダですwww

Frau-ohne-schatten

こうなったらユーモアで封じるしかないか。

「影」は北欧伝説によると「多産」の象徴、すなわち「子」を意味し、霊魂の影じたいが肉体とも結びつくとされ、影を売る行為は、魂を売り渡してしまうという意味にも通じる。(ハンブルクオペラのときのパンフから)。
しかし、そんな高尚なところはみじんもなく、二組の夫婦の子をめぐる思いと抗争のみがここにあり。
夫婦は相手を入れ替えたらめでたく子ができてしまった。

子ができなかったのは、夫婦どっちが悪い?
「種のない男」「豊かな畑のない女」どっちだ・・・いやどっちでもなく、なんのことはない、相手を変えたらできちゃった。
こんなインモラルなのありか、会場には中学生ぐらいの女子もいたぞ。

この書き換え構想を担ったドラマトゥルクのベッティーナ・バルツの書いた前置き、二期会HPでも読めます。

このオペラは現実の物語ではなく、象徴的な出来事を描いている。筋の通った物語ではなく、架空の二層の世界で演じられる悪夢のようなエピソードであり、そのルールはどこにも制定されておらず、理解不能である。人物、場所、ルールは、夢の中のように流動的で変化する。
このプロダクションでは、妻が夫に隷属することを賛美し、美化するような筋書きのない終幕のフィナーレを排除し、代わりに元の第2幕のシーンを最後に置く皮肉な場面で終わる。」

まさにこの前置き通りの想定でオペラは進行した。
常套的なカットをいれても3時間の作品が、今回は2時間40分に短縮。

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前の一覧にある通り、最終場面などはまったく演奏されず、幕という枠も排除し、場をばらばらにして交互にしたりして入れ替えてしまった。
夫婦を入れ違えてめでたく子ができたのもつかの間、暴力的な死の横溢するシーンで幕となった。

ちなみに、この演出でのエンディングシーンとなった2幕のラストは、わたくしは最初に影のない女を聴き馴染んだころ、めちゃくちゃ気にいって、初めて聴きエアチェックした75年のベームのザルツブルク上演を何度も聴いて、この激しくもダイナミックなシーンを指揮真似しながら興奮して楽しんだものだ。

しかし、今回の上演では、わたくしは意識することなく、このエンディングで幕が降りた瞬間「ブー」と叫んでいた。

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前段のバルツさんの書いたこの書き換えの意図を読んでみた。
正直、なにいってやがんだ・・という思いです。

「影のない女」の内容を家父長思考賛美、女性蔑視と断じ、「読み替えなしという選択肢はありえなかった。今日のわれわれが、道徳的に納得できる上演は読み替えによってよってのみ可能となる」としている。
「演出する私たちは、当時の男女の関係や問題を反映している芸術的な内容の部分を明らかにするために、このように手を加えることが必要だと考えている。この作品がなぜ、そんな手入れを必要とするほど、救いがたい出来損ないになってしまったかを検討してみたい」と書いている。
なぜに出来損ないなのか?
ホフマンスタールの台本が1911~19年にわたって何度も書き換えられ、「意味不明な童話的要素に満ちた悪趣味な混ぜ物になった。」
この作品は「子を産めない、あるいは産みたくないすべての女を。役立たずで下等な人間のくずと貶めるのが狙いだ」とホフマンスタールを断じている。
被害者はここに登場する作者さえ同情を寄せない女性の3人、加害者(男×2)は文字通り賛美される。
さらにバラクの弟たち、いまでは禁句となった障碍ある3人でさえ、男性であることからバラクの妻を蔑視していると。
こんな風に長々と書かれていて、しまいに、シュトラウスは「音楽と俳優のバランス」と言ったとおり、「歌手でなく俳優」と意識していた。
音楽ばかりでなく「演劇」もみたかったのだとシュトラウスの音楽をいじくったことの弁明をしているように感じた。

好意的にこの解釈を理解した人々からは、子供を産んでも断ざれてしまう女性ふたり、そのエンディングは、いまだに変わらない女性の立ち位置に対する猛烈な皮肉だったと評するだろう。

まあこういった議論がでて、賛否両論を呼ぶこと自体がコンヴィチュニー演出の意図でもあろう。
しかし、今回は、コンヴィチュニーがこのバルツ氏の書き換えた台本に乗ってしまったことは失敗だったと思う。
ここは日本だよ、ドイツじゃないし、男女は大昔から平等だし、ジェンダー指数なんて表面的なウソっぱちだい!
もう一回、この素晴らしいキャストとオケで、ちゃんとした演出で、演奏会形式でもいいからやり直して欲しい。
バラクの日本語のアドリブセリフ「ちゃんと台本通りやろうよ」だよう。

こんなところに不平等を見つけ出し、問題の顕在化をしてみせて、結果としてシュトラウスの素晴らしい音楽の一部を失くしてしまい、それを楽しみにしていた聴き手の心も消沈させてしまった。
始終、日本で上演されていて何度も接するオペラならまだしも、10年に1度クラスの上演機会のオペラで、これをやっちゃオシマイだよという気分です。
繰り返しますが読み替え演出は、わたしはぜんぜんOKだし、今回のピストルドンパチ、立ちんぼ、性描写などもがっかりはしても否定はしません。

舞台の詳しい様子は、今後書く気になったら記憶のある限り補足します。

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出演者の皆様を讃える大きな拍手とブラボー。
幕が降りた瞬間のブーのみで、わたくしは盛大な拍手をいたしました。
演出陣が出てきたらかましてやろうと待ってましたが出て来ず残念でした・・・・

こちらの歌手たちの皆さんについては、賛美しても尽くせない素晴らしさでした。

まず、皇后と乳母のふたり。
冨平さんはエンヒェンもルルもよかったが、今回は、あの演出でありながら、完全に役柄に没頭しての歌と演技。
その歌は涼やかな高音域が安定して美しかったし、音域の広い役柄なので、低い方の声にも哀しみが宿るような神々しさもありました。
二ールントの歌にもにたその歌唱、ドイツ語の発声も素敵でありました。
皇后との声の対比で万全だったのが乳母の藤井さん、明瞭ではっきりしたよく通る声で、一語一語がよく聴こえたし、ユーモラスな演技もその歌とともに印象的。
 バラクの妻役の板波さんの力ある声も際立っていて、バラクの大沼さんとの夫婦漫才のようなやり取りも楽しかったです。
その大沼さんのバラクの人の好さそうな声質の暖かなバリトンも実によかった。
かなフィルのサロメでのヨカナーンは歌う位置で損をしたイメージがあったけれど、背中でも演技するステキな、(うらやましい)役柄でしたねぇ。
 皇帝の伊達さんは、このヒロイックな役柄には軽すぎ・きれいごとすぎるように感じた。
確かに美声でクセのない声は素晴らしいが、今回の演出でのダーティに過ぎる存在もマイナスになってしまったのかもですが、ちょっと残念。
それにしても、なんであんな悪いヤツに仕立ててしまったんだろ・・・・
 伝令を歌った、前のコンヴィチュニー・サロメでヨカナーン役の友清さんを見出したのもうれしかった。
あと登場場面の多かった、まるきり鷹じゃない、可愛い夜鷹(?)となった宮地さんもリリカルなお声がよかったです。

ペレスの指揮する東京交響楽団は、この日ピットでシュトラウスの音楽の神髄を、クソみたいな演出にもかかわらずしっかり聴かせてくれた感謝すべき存在だと思うし、大々絶賛されていい。
ノット監督のもと、シュトラウスオペラを順次演奏してきている経験値や近世の音楽の演奏履歴などを経て、どんな大音響でも混濁せずに聴かせてしまうオケ。
さらに各奏者たちの能動的な演奏姿勢が有機的なサウンドを産み出すというシュトラウスにとってなくてはならない能力も兼ね備える。
ヴァイオリンとチェロ、ふたりのソロも最高でした。
 アルゼンチン出身のオペラ指揮者ペレス氏は、魔弾の射手に次いで2度目ですが、だれることのないスピード感あるテンポ設定と、抒情的な場面では美しく各パートを際立たせるような繊細な音楽造りもありました。
良い指揮者です。

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もやもやする。

ジェイムズ・キングの皇帝を聴き、あの嫌なヤツとなった姿の皇帝をリセットし、聴けなかった皇后の3幕をリザネックとニールントで補完する日曜でした。

最後にもう一言、入りはよくなかったけれど、怒りつつも楽しんだのも事実ですし、二期会さんには、今後も攻めのプロダクションをぜひともお願いします。

追記)
公演前に何種類も聴いた「影のない女」のオーケストラ編幻想曲をあらためて聴いた。
20数分の管弦楽曲ですが、ここでの最後は、オペラと同じく3幕の二組夫婦によるシーンで静かに終わっています。
この曲は、シュトラウス晩年の1846年に、作者自らが選んで編曲した作品です。
シュトラウス晩年の思いも宿っているのではないでしょうか。。。

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2024年7月13日 (土)

シュレーカー「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 ②

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             (ある日の窓の外はこんな夕暮でした)

シュレーカーの3大オペラは、「はるかな響き」「烙印を押された人々」「宝さがし」の3作ですが、「
はるかな響き」のピアノ版のヴォーカルスコアを作成したのはアルバン・ベルク、シェーンベルクの「グレの歌」の初演を指揮し、「クリストフォロス」を献呈もした。

シュレーカーと同時代の独墺系の人々を有名どころのみ列挙します。
これも過去記事からのコピペですが、この時代の人々、そしてユダヤの出自やその関連から音楽史から消し去られてしまった人々を鑑みることも、いままた訪れつつある不自由なレッテル貼り社会を危惧する意味で大切なこと。
ここにあげた作曲家の作品はいまや完全に受容されているのだから、過去の間違いを犯してはならないということ。
このなかでもシュレーカーは、ウィーンやベルリンで要職を務めたこともあり、横のつながりもたくさんあり、当時はビッグネームだった。

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

独墺系以外のこの時代の作曲家にも注目することも、音楽の幅と楽しみを増強することだろう。
イタリアオペラの流れにある作曲家、イギリスのブリテン以前の作曲家、スラヴ系の民族とこの時代の流れを融合した作曲家。
そして、否定してはならないロシア系。

シュレーカーのオペラは、シュトラウスとツェムリンスキー、そして仲間のベルクの音楽の延長線上にありつつ、それらとはまた違った地平線をみせることで独自性を誇っている。
大オーケストラに、それに張り合う強い声の歌手たち。
エキセントリックな極端な歌い口、一方で抒情的な繊細な歌い口も要するので歌手には難役が多い。
重いワーグナー歌手よりも、後期のシュトラウスの自在さと軽やかさを伴ったオペラが歌えるような、リリカルさと強靭さを兼ね備えた歌手が必要なのがシュレーカーのオペラ。


シュレーカーのオペラを聴いてきて、見出した共通する音楽のパターン。

①ライトモティーフのさりげなかったり、あけすけな効果的な利用

②基本にある後期ロマン派の響き。
表現主義や象徴主義、印象派風、新古典風、民族風・・・、あの時代のあらゆる要素を後期ロマン派様式に入れ込んだ。

ゆえに中途半端な印象やとらえどころのなさ、なんでもあり的な印象を与えることとなる。

③超濃厚絶美なロマンテック場面が必ずある。
ヒロインのソプラノが夢見心地に陶酔感をもって歌うシーン。

④酒池肉林的な、はちゃむちゃ乱痴気シーンが必ず出てくる。
パーリー・ピープル大活躍。

そこでは、大衆的なダンス音楽だったり、高尚なワルツだったりと、舞踏の権化がつかの間展開。

⑤シュプレッヒシュテンメの先駆的な活用。
語りと歌唱の境目が薄く、ゆえに怪しい雰囲気と人物たちの心象の揺れを見事に表出。

⑥ヒロインの女性の心理が摩訶不思議で男性陣には理解が不能。
その女性たちは、たいてい「イタイ、どこか陰りある女性」たち。
わかっちゃいるけどイケナイ恋にはまってしまい、悔恨にくれることになるのが常。
彼女たちに与えられた没頭的な歌が実はステキで、そんな歌や役柄は、シュレーカー以外の作品にはあまりないと思う。
シュレーカーの心理もここに反映されているのか、同時代のフロイトの影響もあるのか。。。。


 ーーーーーー

このパターンを「クリストフォロス」に見出してみよう。

①ライトモティーフ
ワーグナーのような行動や心理を伴う裏付けとしてのライトモティーフはないが、登場人物、そして重要なか所での旋律の共通点はあり。
また全体に旋律の統一感はあり、よく聞けば過去を振り返ることも、また先に進んで、あのときの・・・と思い起こすこともできる。

②後期ロマン派の響き
それは基調としても、シュトラウスのような大衆性やオペラの勘所をわざとはずしたかのような塩梅が中途半端を与える。
しかし、このオペラではヴェリスモ的な様相に加え、甘味な濃厚サウンド、さらにはジャズ的な要素、新古典主義的な要素、それらも加え、極めて多彩な顔を見せてくれる。

③濃厚甘味な場面
危ういヒロインがみずから足を踏みはずし、主人公の思いと行動をかぶらせる1幕後半の銃殺の前のシーン。
その前段でのエキセントリックないがみあう二人のシーンも強烈で、冷静さを保とうとした夫のクリストフが、ふたりの抱擁を見て激高していく流れもなかなかに魅力的だ。

④乱痴気シーン
2幕はジャズの流れるダンスホールで、しかもイケないことにアヘン決めちゃってますぜ。
はちゃむちゃ・ハーレムサウンドはシュレーカーお得意だ。

⑤歌と語りがもう融合してしまい、語りのシーンが多いのに、みんな歌に聴こえちゃう

⑥イタイヒロイン、あぶない主人公、変貌する凡人たる夫、しかしここではその夫は聖人にさらに変貌するという二重舞台構造を越えたマトリューシュカ的な効果を味わえる。

以前の記事のコピペですが、これここでもあたってる。
ほかのオペラでは、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。

対する敵役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。
(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)

 こんな主人公たちがそのパターン。

こんな風にシュレーカーのオペラに共通な場面を、クリストフォロスにあてはめてみた。

でもこの「クリストフォロス」が特異なのは、クリストフォロスというキリスト教の聖人を扱っていながら、このオペラの根底にある、あるとされる「道教」のこと。
これが難しくて、一朝一夕には理解が及ばない。

第2幕でクリストフは、子供の登場で開眼し、妻殺しから修験の道へと目覚め、聖人クリストフォロスになったかのようになる。
これを目撃したアンゼルムは、オペラの作曲の筆を折り、ヨハン先生の教えのとおり、聖人クリストフォロスにちなんだ純音楽・四重奏曲の作曲に切り替えてこのオペラは終結する。
エピローグにおける、老子の『道徳経』を歌う場面。
ここが、その内容が難解なのです。

当日の詳細なプログラムから拝借します(独語和訳:田辺とおるさん)

「自分の男声的な強さを知り、しかし女性的な弱さの中に身を置くものは、
 この世の川床である。
 もし彼がこの世の川床ならば、永遠の生は彼から離れない
 そして再び引き返し、幼子のようになることができる、

 自分の光を知り、しかし闇のなかに身を置くものは
 この世の模範である。
 もし彼がこの世の模範ならば、永遠の生を欠くことはない
 そして、再び引き返すことができる
 いまだならざるものへと

 自分の名誉を知り
 しかし恥辱のなかに身を置くものは
 この夜の谷である
 もし彼がこの世の谷ならば
 永遠の生の充ち足りるを待つ。
 そして、再び引き返すことができる
 単純さへと」
 
難解ではあるが、じっくりと読むと、これらの言葉が、解説にあったようにクリストフとアンゼルムに対するものと思うこともできる。
「単純さへの回帰」
文字通りに、このオペラの最後は平安なシンプルな音楽で結末を迎える。

シュレーカーは当時、評論家筋に女々しい、弱い、退廃的だと批判されたが、このオペラでのモデルとされたヴァイスマンが急先鋒で、ウィーンでもかのコルンゴルトの親父ユリウスも批判者のひとりだった。
アンゼルムがシュレーカーであり、彼は才能があるも弱々しい存在で、クリストフは強い存在だが凡庸。
アンゼルムのオペラでの存在は、歌と語りで、クリストフはほぼ歌っている。
この二面性ある2人の対比とある意味同一性は、最後には一体となる。
このふたりと、リーザという女性の三角関係がオペラ部分とそれ以外の部分での対比で、また聴きものであると思う。

シュレーカーが抱いていた思いは、「オペラの行き先、それは終焉なのか?」ということもあるかと思いました。
同時代人が、ジャズ満載の「ジョニーは演奏する」やヴェリスモ的な「ヴォツェック」と「ルル」、新古典主義の「カルディアック」、人気を博すシュトラウスオペラの数々。。。これらに対しどうあるべきか、悩んだんだろうと思います。
思えば凄い時代です。
70年前に、ブーレーズがオペラは終わったと発言したが、その終わった発言が、いま世界的に訪れている経済危機や文化芸術への軽視、異様なまでのグローバリズムにおいて、まさにオペラの危機が西側にはやってきているものと思う。

シュレーカーのオペラ、このあと「歌う悪魔」「ヘントの鍛冶屋」を聴きこんでいきます。
あとツェムリンスキーのオペラもコンプリートできたし、こちらも全作のブログ記事がんばらねば。

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2024年6月30日 (日)

シュレーカー 「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 日本初演

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               (東京都清瀬市のけやきホール)

日本ではいまだに本格的な舞台上演のないシュレーカーのオペラ。
唯一、演奏会形式では「はるかな響き」のみがあるのみ。
こうしたなかで、シュレーカーの作品のなかでも、極めてマイナーで、かつ独創的・実験的な「クリストフォロス」を果敢に取り上げ、上演に導いていただいだ田辺とおるさんをはじめとする関係者の皆様に、感謝と敬意を最大限に表したいと思います。

ヨーロッパでは、「はるかな響き」「烙印をおされた人々」「宝探し」の3作がメジャーな劇場で上演されるようになり、さらには地方の有力劇場でも、シュレーカーのオペラは取り上げられつつある。

そんななかで、今回の本邦初演は、作者存命中はあたわず、1978年にフライブルグで初演され、1991年にウィーン交響楽団でコンサート形式で演奏(メッツマッハー指揮)、その後はCDとして残された2001年でのキール上演以降の世界で3度目の上演、4度目の演奏なんです。
シュレーカーのオペラを全部聴いて、ブログに残そうとしている自分にとって、こんなまたとない日本初演の機会でした。
全10作あるシュレーカーのオペラ、ブログ記事は、作品としては7本目となります。
残りは3作ですが、最終の「メムノン」は未完作ですので、あとふたつは、すでに視聴済みで記事にできるように今後聴き込んでいきたいと思います。

あらためて、フランツ・シュレーカー(1878~1934)について、過去記事から引用しておきます。

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・
ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。
強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。どこか遠くで鳴ってる音楽。

クリストフォロス」は、シェーンベルクに捧げられた1929年完成の作品で、シュレーカーのほかのオペラ作品は次のとおり。
下線は過去記事へと飛びます。

 ①「Flammen」 炎  1901年
 ②「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年
 ③「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年 
 ④「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年
 ⑤「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920
 ⑥「Irrelohe」   狂える焔   1924~29年
 ⑦「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1929

 ⑧「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年
   ⑨「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年 
 ⑩「Memnon」メムノン~未完   1933年

Christophorus

この作品、唯一の音源、そして世界で2度目の上演のライブ。 
2001年から2003年まで行われたキールオペラでのシュレーカー・シリーズの一環で2002年のライブです。
音源としては耳になじませてはいたが、英語の解説を読んでもちんぷんかんぷんで、そのせいもあり弊ブログのシュレーカーのオペラシリーズもこの作品で足踏み状態だった。

この度の日本初演に接し、さらにyoutubeでのプレイベントや詳細なるプログラム、さらにはそこに全文掲載された田辺とおるさんの訳による台本、これらにより、おぼろげだった「クリストフォロス・・・」というオペラの姿が見えるようになった。
ほんとうにありがたいことです。

まずは、このオペラにはその伝説は直接に登場しないけれど、必ず頭に置いておかなくてはならないこと、「聖クリストフォロス」のこと。
公演パンフレットにあったものがとても分かりやすいので、ここに貼り付けます。
クリックすると別画面で開きます。(使用に支障ございましたらご指摘ください)

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オペラの登場人物

 アンゼルム(テノール):作曲家でヨハン先生の弟子
 リーザ(ソプラノ)  :ヨハンの娘、アンゼルムに思いを寄せていた
 クリストフ(バリトン):作曲家でヨハン先生の弟子、リーザと結婚
 ヨハン先生(バス)  :信望厚い作曲の先生で弟子多し
 ロジータ(メゾソプラノ:2幕で登場するシャンソン歌手
 シュタルクマン(シュプレヒ):評論家(シュレーカーの批判者のモデル)
 霊媒フロランス(ソプラノ):2幕でリーザを召喚するイタコ
 ハインリヒ(バリトン):ヨハン先生の弟子
 フレデリク(バリトン):ヨハン先生の弟子
 アマンドィス(バリトン):ヨハン先生の弟子
 エルンスト(テノール) :ヨハン先生の弟子
 子供(ソプラノ)    :クリストフとリーザの子
 ハルトゥング博士(バスバリトン):クリストフを観察する心理学的先生
 カルダーニ神父(バス・バリトン):霊媒師に付き添う神父
 待女エッタ(アルト)  :リーザの家政婦さん

シュレーカーのオペラの常で、登場人物は多く、そして多彩で多面的な存在で、それぞれに存在価値を示すのでまったく気が抜けないし、それぞれの歌手が、このオペラではシュプレヒシュティンメ的な存在を求められるので高難度。
歌と語りが混在し、語るようでいつの間にか長い旋律や絶え間ない変転を繰り返す歌へと常に移行するので、歌手はまったく大変だと思う。

オペラの構成

プロローグとエピローグを挟んで、2場からなる第1幕と第2幕とで構成
プロローグでヨハン先生から作曲の課題の提示があり、弟子たちが取り組む。
第1幕の本編以降は、作曲をするアンゼルムに、凡庸ゆえに作曲を卒業して愛に生きるクリストフ、悩み多きリーザの3人を中心とした劇の展開となり、劇中劇の様相を呈する。
さらに、この劇中劇は2幕の後半では、さらなる劇のなかの劇的な展開となり、劇中劇の劇となり、エピローグにつながり、調和和声のなかに音楽と劇も閉じる。
こうした構成が、音源ふだけではマジでややこしく、わからなかった。

オーケストラ

通常の編成に加え、ミュージカルソーという手鋸を弦で弾く珍しい楽器、ピアノ、チェレスタ、ギター、バンジョー、サックス、ハーモニウムなど当時の新機軸ともいえる楽器が総動員されている。
そして、作者の指示で、曲の冒頭や各幕の頭には、鐘が鳴らされる。
宗派によっては、聖クリストフォロスが守護聖人のような存在とされることへのリスペクトでありましょうか。
 今回の上演では、弦楽は最小限に抑えられたアンサンブルとし、金管・木管・打楽器などは2台のエレクトーンで代用。
これが普段聴いていたCDとほぼ類ない再現度合いで、むしろ緊張の度合いや、音楽への集中力を高める効果もあったことは大絶賛していい。

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 シュレーカー クリストフォロス、
           あるいは「あるオペラの幻影」


   アンゼルム:芹澤 佳通   リーザ:宮部 小牧
   クリストフ:高橋 宏典   ロジータ:塙 梨華
   ヨハン先生:岡部 一朗   シュタルクマン:田辺 とおる
   霊媒フロランス:大澤 桃佳 ハインリヒ:金子 快聖
   フレデリク:上田 駆    アマンドゥス:長島 有葵及
   エルンスト:西條 秀都   子供 :長嶋 穂乃香
   ハルトゥング
博士/司会者:ダニエル・ケルン
   ガルダーニ神父:ヨズア・バルチュ
   待女エッタ:中尾 梓
   ピアニスト:小林 遼、波木井 翔
   ホテルの客:小野寺 礼奈、小林 愛侑、西脇 紫恵

  佐久間 龍也 指揮 クライネス・コンツェルトハウス
          エレクトーン:山木 亜美、柿崎 俊也

   演 出:舘 亜里沙

   公園監督:田辺とおる

          (2024.6.23 @けやきホール、清瀬)

プロローグ

アンゼルムは、思いを寄せる教師の娘リサのことを考えているが、作曲コースの同僚のハインリヒ、アマンドゥス、エルンストは彼を「女々しい」「愚か」「恥さらし」などとからかっている。
聖クリストフの伝説について弦楽四重奏曲を作曲するという課題をヨハン先生が生徒たちに与えていた。
ヨハン先生は、この伝説を生徒たちに順繰りに語らせ、生徒たちも素晴らしい素材だと熱狂する。
 アンゼルムはその仕事に不満を抱き、四重奏曲ではなく、ドラマテックなものを求める。
「甘くて魅惑的な悪魔のような女性」が欠けていると語る。
伝説における悪魔の役割は、リーザによって演じられるべきだと確信し、陶酔する。
リーザがやってきて、不埒なことを言うのではなくてよと、彼女は彼の顔を殴ります。
ひざまずいていたアンゼルムはそこへやってきたクリストフに引きずり上げられ、恥を知れと侮辱。
クリストフはヨハンの作曲クラスに参加して「私が最高だと思う芸術に奉仕」したいと歌う。

第1幕 1年後

アンゼルムはオペラの制作に取り組んでいる。
モノローグでは、インテッルメッツォという名でひとつの幕を加えると歌う。
 彼やヨハン先生の両方に敵対する批評家シュタルクマンが訪ねてくる。
婚約したという若いクリストフに会いたがっているが、アンゼルムはクリストフをこきおろす。
 アンセルムは仕事を続け、エピローグの仕立てに悩み、伝説の存在が頭をめぐるといらつく。

クリストフとリーザやって来て、クリストフはシュタルクマンが彼の交響曲の演奏を推薦したいといったと報告する。
アンゼルスとリーザの間ではいさかいがいまだに残る。
クリストフはアンセルムスを擁護し、よく話しをしなさいと出ていく。
彼女がアンゼルムを怖かったのは彼女が戦おうとしている自分自身のなかにあるなにかの存在の一部に似ているからである。
アンゼルムは感情を爆発させ、あのときからあなたに縛られ鎖につながれていると激しく歌い出ていく。
リーザはショックを受け飛び出していく。

ヨハン先生は 、教師として、また人間としてもの自分の失敗についてクリストフに反省とともに語る。
クリストフは、愛が最も強い力であると強調し、けっして芸術ではないと歌う。
愛であるリーザに今後は使えたいと熱く語り、そこに居合わせたリーザも最愛の人と感激する。
 他の生徒たちは彼女の婚約を祝福するようにいろいろなプレゼントを捧げ、。レデリクは完成した弦楽四重奏曲を捧げる。
シュタルクマンの登場にヨハン先生は困惑するが、クリストフはこれを許し記事の作成も許諾。
そこで、クリストフは、芸術との別れを宣言する。
アンセルムスはリサに自分のオペラの第 1 幕を贈り物として贈る。「弱きものは、永遠で人生と世界を浄化する」と語る。

リーザの部屋。リーザは出産後、自分が美しくなくなったと感じて悩む。
クリストフはアンゼルムに嫉妬していて、そのオペラではリーザが「液体ガラスのように流れ輝き、繊細で銀色、邪悪で狂気の音楽」に合わせて踊ることになっていると歌う。
クリストフはベールのコスチュームを見て怒りに燃える。
クリストフは母としての聖なるものをリーザに感じるが、子供を運ぶことは、リーザにとっては重荷であると考えている。
クリストフは同情はするが、子供のこと、わたしのことも考えてと彼女に警告し去る。

アンゼルムが登場し、自分のオペラの大きな場面が始まろうとしていることを認識。
リーザは、炎、波、罪という地球の精霊の3つをアンゼルが朗読したテキストに合わせて踊る。
踊りながら罪とはなんて柔らかいのだろう、しかし罪は人を滅ぼすと歌いつつ、その罪は勝利すると陶酔。
「あなたは私を思い通りに創造した、私のなかで踊る悪魔を呼び出した」
やがてふたりは抱き合う。

アンセルムスが自分の仕事のコントロールを失っていることに気づくが、、クリストフはその場面を見てしまった。
笑っているのは悪魔だ、死ねと激しく笑い始めたリーザを撃ち殺す。
リーザは「ただの遊びだったのに…」と言い残して息を引き取る。
アンゼルムは捕まるまえに、クリストフを君がすきだからと逃避行を手伝う。

第2幕

ホテル・モンマルトル
アンゼルムとクリストフがジャズバンドで演奏するダンスホール。
ダンスホールともう一方にはアヘンの煙が立ち込める奥の部屋。
ハインリヒは心理学者の博士と一緒に座っている。
ハルトゥングは奥の部屋にいて、彼が唯一認め、逮捕から守りたいと思っているクリストフを救出する計画を立てています。
しかし、ハルトゥングは主にクリストフを心理学的に興味深い症例として見ており、ハインリヒは物乞いへと陥ったヨハン先生とその孫を助けに行く。

シュタルクマンはいまでは海の向こうの音楽に未来を見ている。
ロジータがアンゼルムのシャンソンをピアノ、サックス、ドラムの伴奏で歌ってている間、クリストフはアヘンをやり酩酊のなかにはいりこむ。
司会者に導かれ、霊媒師が死者を呼ぶことができる、みなさんのなかで誰か?と誘うとすかさずクリストフが手をあげる。
アンゼルムはことのなりゆきに、怒り、私の最終章は陳腐で感傷的なものになりさがると嘆く。

禍々しい雰囲気のなか、霊媒師フロランスとクリストフの対話が続き、クリストフが自分が殺し、最後の言葉は、ただの遊びだったとのことを告白。
霊媒師は興奮して、彼ら来る、はここにいると金縛りに会う・・・・

場は変わり、早朝の光のなか、老いたヨハン先生と子供がそれぞれギターとタンバリンを持って出てくる。
子どもは歌う、親愛なるみなさん、どうかお恵みを、僕には父も母もいません、喜んで歌います・・・ラ、ラ、ラ、春風に凍えている、お恵みを、と涙を誘います。
クリストフは目が覚めたようにふたりのもとへ駆け寄る・・・・

        間奏曲

エピローグ

目に見えない声が、老子の『道徳経』の文章を読み歌う。
ここは長く、極めて難解、ここを読み解くのは、今後の課題だし、シュレーカーの音楽の鍵にもなる部分と知った。。。

プロローグと同じ音楽たちの部屋。
アンゼルムはヨハンとリーザに見守られながら、楽譜が足元に乱れ、完成できないオペラに休みなく取り組む。
我が子の世話をするクリストフに話しかける。クリストフと子供はヨハンとリサには見えない。
クリストフは芸術も愛も乗り越え、罪悪さえも制服した、かつて同名の祖先が皇帝と悪魔に仕えたように、地上のあらゆる権力に身を捧げた。
しかし、舞台の中でしか生きることができなかったと淡々と語る。
これにアンゼルムは傷ましい真実、彼は創造主となり、私たちは幻にすぎないと嘆く。
このアンゼルムに対し、リーザは同情し、わたしのせいだと父に救いを求める。

アンゼルムにしか聞こえないクリストフの独白は続く。
子どもに向かい、その目に映る唯一の神格を認め、仕えたいと表明しいかに謝罪するか、最後の慈悲に値するかを問う。
アンゼルムは、そんなの黙れ、ヨハン先生も聞いているとささやく・・・
子どもは、わたしを背負って水のなかを運んでください、僕はますます重くなる、私たちは沈み溺れる・・・そして光のなかで燃えつきる。
お父さん、この苦しみを終わらせてと歌う。
私を家まで連れていって、家へ、家へ、来た場所へ・・・・
クリストフは、子どもを連れて舞台奥へ静かに歩み去る。

ヨハン先生は、アンゼルムに、お前は心の声を聞いている、お前の創った人物はお前のなかに生き、自身となる。
音楽であってそれ以上のものではない、四重奏曲なのだ、息子よ。と語る。

「アンダンテ・コン・リゴーレ」、黒板に向かい作曲の筆をとる。

「彼は子供を背負い、子供が彼を導く、孤独な道を」

音楽は四重奏による平穏な調と和声となり、最後はオーケストラも相和し、平和な雰囲気のうちに閉じる。

                

長いあらすじを起こしてしまいました。
田辺さんによる翻訳台本、CDのリブレット、ネット上の書き込みなども参照にしました。
こうしたオペラは、数年すると、その内容もおぼろげになるので、あとで見返す自分のためにもです。

本編の劇中劇のなかでも、アンゼルムは劇から飛び出し、劇中劇のなかの劇にまで進んでしまう。
マトルーシュカのような多層的なオペラだけれど、これを2時間の枠に収めたことで、展開が性急となり、理解が及ばないという恨みもあり。

しかし、こんな馴染みのない作品を、今回、見事に間断なく歌い演じた歌手のみなさんは大いにリスペクトすべきであります。
ダブルキャストで、わたしは2回目の上演でしたが、その素晴らしい舞台に接し、また前日はクロスするように交換した役柄もあり、双方を確認してみたかった。

没頭的かつ熱狂的なアンゼルムを歌った芹澤さんは、その姿もスタイルもまさにシュレーカーのオペラに相応しい声と演技でした。
リーザの宮部さん、CDでのベルンハルトは、やや不安定な歌唱がまさに揺れるリーザに相応しかったのですが、彼女の正確な生真面目な歌唱が、逆にリーザの複雑な心理とその存在を歌いこんでいたのではと思った。
いくつもダンスのシーンもあり、これは難役だと思いました。
それとクリストフ役の高橋さん、暖かいバリトンは、途中、嫉妬に走り、さらには狂気の世界に入る投役には優しすぎるかとも思いましたが、でも最後に到達した境地を淡々と歌った場面で、これもまたいい役柄でもあり、素敵な声と演技と認識しました。

この上演の立役者、田辺さんの憎たらしい評論家も存在感ばっちり。
最後の舞台挨拶でおっしゃってましたが、「ヴォツェック」からの冒頭場面、大尉がヴォツェックにむかって言う「Langsam Wozzeck、Langsam・・」このフレーズを、評論家の言葉のなかに入れたらしい。
そう、わたしも「あ!」と思いました。
ヴォツェックやベルクもこのオペラをひも解くキーだと思うので、まったく見事としか言いようがありませんね。

若い学生たちも、みなさんそれぞれに立派で力強い声で、その声はしっかりと客席に届きました。
霊媒さんも、子供の無垢な雰囲気も、いすれも声も姿も可愛い存在でしたね。
ふたりのドイツ人出演者、正直、ドイツ語のほんものぶりは、際立ってました。
とはいえ、語りの多いこの難解な作品を、原語上演で完璧に仕上げたこのプロダクションは、日本人として誇るべき精度の高さと音楽性の豊かさ、共感力の高さにあふれたものでした。

ウィーンで学び、オペラの経験も厚い佐久間さんの、適格な指揮もよかったです。
エレクトーンと弦楽アンサンブルで、ここまで雰囲気よくピットのなかのオーケストラが再現できてしまうことにも驚き、素晴らしく感じましたね。

比較的小ぶりなホールで制約のあるなか、全体をコンパクトにまとめつつも、緊張感ある舞台に仕上げた演出の舘さん、実によい出来栄えだったと思います。
ともかく簡潔でわかりやすい、これがいちばん。
紗幕のうまい使い方で、劇中劇と前後のプロローグ、エピローグの対比がしっかりできた。
100年前の社会様式が、いまでは陳腐ともなりかねないが、それが今の世の中にぴったりフィットするような動作や所作。
光と影を巧みに表現。
アヘン窟ではスモークでその怪しげさ満載の舞台となり、そこにいた、それぞれの思いをもった人物たちの怪しい思いがよくわかる仕組みに。
このように、ともかくわかりやすい舞台を仕上げてました、日本初演の舞台として、この簡明さは大正解だと思いました。

このあと、シュレーカーのこの音楽の印象や、自分が思った聴きどころなどは、追加で補筆したいと思います。

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2024年4月 6日 (土)

フンパーディンク 「王様の子ども」 

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ひな祭りの頃の大井町の里山。

つるし飾りと富士。

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里山にある古民家には、さまざまな雛飾り。

古来より、親たちは子供の誕生と成長を喜び、幸福を願い、さまざまに祈ってきたんです。

受け継がれるひな人形や、五月飾り、新しい家族が築かれるとそこには、親から受け継いだものに加えて新しいものも追加されます。
日本独自のこの風習と業界、ぜったいに受け継いでいってほしい。

愛すべきフンパーディンク(1854~1921)のオペラのひとつ。
「ヘンゼルとグレーテル」のみが大衆受けすることもあり超絶有名なフンパーディンクの唯一作品のようになってる。
しかし、ヘンゼルとグレーテルは楽劇と冠され、ワーグナーの影響をがちがちに受けた緻密なライトモティーフ技法によるムジークドラマなんです。
ほかのオペラ、といってもこの「王様の子ども」しか聴ける状況ではありませぬが、ここでも主導動機を元にした作曲技法と、簡明な旋律とに加え、マーラーと同世代ともいえる世紀末的な甘味な音楽の運びもうかがわれ、さらにシェーンベルクやベルクにも通じる、語って歌う手法の先駆けもある。

ヨーロッパでは近年、この作品の評価につながる重要な上演もいくつかあり、今回は映像DVDも楽しみましたので、音源と映像とで理解を深めることができました。

  フンパーディンク 歌劇「王様の子ども」

ヘンゼルとグレーテルは1891年の作曲で、そのあと、同じワーグナー信奉者であり友人でもあったユダヤ人、評論家・指揮者のハインリヒ・ポルゲスの委嘱で1894年に、この音楽劇を作曲することとなった。
台本は、ボルゲスの娘のエルザ・ポルゲス。
彼女は、父親の血を受け継いで熱心なワグネリアンとなり、ワグネリアンたちのサロンを主催するなど、なかなかの影響を与えた人物です。
結婚で、エルザ・バーンスタイン(ベルンシュタイン)の名前となる。
疾患で視力がほとんどなくなり、その才覚は劇作へと向かい、いくつかの文学作品や戯曲を創作。
そんななかで、父の勧めで音楽化されたのが「王様の子ども」です。

オペラとして作曲したかったフンパーディンクに対し、娘エルザ・ベルンシュタインはオペラ化は否定し、演奏会で上演できるメロドラマ形式のものを希望。
フンパーディンクはやむなくそうしたが、作曲者がすでに到達していた当時には前衛的な手法などは、オラトリオみたいなコンサート形式の枠には収まらず、オペラとしての在り方にこだわり、エルザを説得しました。
結果、原作者のエルザも同意して1907年にいまに聴かれるオペラとして再編されることとなったわけです。

1910年にメトロポリタンオペラで初演され、ドイツでは翌11年に初演。
アメリカで初演されたことろが面白いところですが、エルザ・ベルンシュタインは、ナチス台頭時、ユダヤ人であり、ともに視力障害のあった妹をドイツに残して置くことを是とせず渡米しなかった。
結果、姉妹共に収容所送りとなったが、「王様の子ども」の原作者であることがわかり、文化人などが送り込まれた寛容で緩い収容所施設に配置換えとなり生きながらえた。

フンパーディンクのオペラの原作であったことが救った命。
ベルンシュタインの妹は、収容所で病死してしまう。

こんな風に、メルヘンでありながら、あんがいと死の影のまとわりつくオペラが「王様の子ども」なんです。

  王様の子:テノール
  がちょう番の娘:ソプラノ
  魔女:メゾソプラノ
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):バリトン
  木こり:バス
  ほうき作り:テノール
  ほうき作りの娘:若いソプラノ
  上級顧問官:バリトン
  宿屋の主人:バリトン
  宿屋の娘:メゾソプラノ
   ほか  

ほかにも町の人が多数で、音楽だけ聴いてると誰が誰やら混乱します。
映像で気軽に楽しめるようになり、こうした作品にも光があたるようになり、ほんとありがたい。

小さな国の郊外、そこには12羽のガチョウがいて、若い女性がそのお世話をしている。

第1幕

 若い女性は、魔女にこの地に束縛されていて、その魔女は人間たちの住む社会を憎んでいて、魔法で若い女性=がちょう番をしばりつけて、外の社会に出れないようにしている。
魔女は彼女に、ずっと痛むことのないパン、でもそれを半分食べると死んでしまうパンを作らせている。
魔女は蛇や虫の採集に出かけ、がちょう番はひとりきりになる。
そこへ、王の息子が父の元を飛び出し、冒険を求めて狩人の風体でやってくる。
ふたりはすぐに恋に落ちるが、彼女の頭にあった花の冠が風で飛ばされてしまう。
王子は、王冠を代わりにあげてしまい、一緒にここを出ようと言うが、彼女は魔女の封印が解けずにここを出ることすらできない。
業を煮やした王子は、王冠をそのままに、立ち去る。
まもなく、魔女が戻り、誰かが来たことを悟り、また別の魔法で呪縛する。

そこへ、吟遊詩人、木こり、ほうき職人がやってきて、賢明な彼女に、町を今後導く王を見つけ出して欲しいと頼む。
魔女は、明日の昼に最初に町の門をくぐった者が次の王になる、道化のような恰好をしているが、王冠に相応しい人物だと断定。
満足した木こりとほうき職人は町へと帰るが、吟遊詩人は窓の中に若い女性を見つけ、彼女は魔女に囚われていることと、今日若い狩人が来たことを話す。
それは王の息子とわかった吟遊詩人は、彼女と息子が結婚して町を統治すべきだと言う。
しかし、魔女は身分が違いすぎるとして、がちょう番の彼女の両親のことを語る。
絞首刑執行人の娘だった彼女の母親だが、若い領主に見初められ、ひとりの娘を生んだ。
それが違う男のように言う魔女だったが、すべてを悟った吟遊詩人は、母親と領主をよく知っていた、彼女が正当な家系の生まれであることを証言する。
これに勇気を得たがちょう番の彼女は、両親に感謝とここからの脱出の祈りをささげる。
すると魔法は解け、彼女は涙とともにそこを飛び出していく。

第2幕

町の宿屋と近くの広場。
人々は、どんな王様がやってくるのか歓迎しようと興奮状態に。
王の息子は、馬小屋で夜を過ごし、宿屋の娘に気に入られ食べ物や飲み物を出され、さらに迫られてしまう。
がちょう番の彼女が忘れられない王の息子は、さらなる放浪と、確かな跡取りとなる決意を固め、ここで職を得て修行しようとする。
ほうき職人の娘は、王の息子に、ほうきを売ろうとするが、彼はいち文無し、でも少女は彼と楽しく遊びます。
そこへ、町の議員たちが集結し、ほうき職人は、魔女の話しをさらに大きく盛ってみんなに話す。
そんな大げさな王の入場に疑念をはさみ、王にはかっこだけ、人形のような姿を求めるのか?と疑問を呈します。
町の人々は、そんな言葉に怒りを覚え、さらには宿屋の娘は食事代を踏み倒した男よ、と非難し、人々は泥棒野郎と非難し広場は大混乱となる。
 そのとき、約束の正午となり、門が開くと、黄金の冠をかぶったがちょう番の娘が、吟遊詩人と彼女のがちょうたちと登場。
王の息子は大いに喜び、彼女にひざまずき、彼女こそが女王と呼ぶ。
そして吟遊詩人は、彼らこそがこの町の運命の統率者なのだと宣言。
これに、人々は嘲笑し、こん棒や石で攻撃し、若いふたりを追い出してしまう・・・・
誰もいなくなった広場には、ほうき職人の娘と老いた上級審議官。
涙を流す彼女になぜかと問うと、彼らが王様と王女様だったと語る。。。。

第3幕

やがて冬が来て、雪も積もりました。
この間、魔女は嘘の予言をした罪で火あぶりの刑となり、吟遊詩人も投獄されさんざん暴力を受け満足に歩けなくなってしまった。
荒んだかつて魔女の住んだ場所で、がちょうの世話をする吟遊詩人は、悲しみにふさいでいる。
 そこへ、木こりとほうき職人が、多くの子どもたちをつれてやってくる。
町がばらばらになってしまい、荒廃し、子供たちは大人を信用しなくなり反乱が起きているので、町に帰ってきて欲しいと語る。
そんな悪い大人を突き飛ばして、子供たちは、大人たちが間違っていて、王と王女を探し出すのにどうか自分たちを指揮して欲しいと懇願。
吟遊詩人は、子供たちを伴って雪山へ向かう。
 木こりとほうき職人は、魔女のいた小屋に入り、暖を取る。
そこへ放浪に疲れ切った王の息子とがちょう番の娘が抱え合いながらやってくる。
山の上の洞窟にいたが、食べ物がつきて、ここへ避難してきたのだ。
衰弱した彼女を思い、王の息子は健気に振る舞い、泣きたくなるほど悲しく美しい二重唱となる。
小屋のドアをたたき、そこにいた木こりとほうき屋に食料を求め、王冠まで差出し、得たのは小屋にあったパン。
ふたりでパンを分け合い、お互いに手を伸ばし合い、愛を確かめあいながら死んでしまう・・・・
 そこへ、手遅れながら、吟遊詩人と子供たちが戻ってきて、木こりたちが、王冠を持っていることを見つけ、詩人は激怒し、王冠を奪い返し、彼らを追い出します。
子どもたちが、ふたりの亡がらを見つけ、一同は深い悲しみに包まれます。
吟遊新人の歌とともにこの悲しみに満ちたオペラは幕となります。


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  王様の子:トマス・モーザー
  がちょう番の娘:ダグマール・シュレンベルガー
  魔女:マリリン・シュミューゲ
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):ディートリヒ・ヘンシェル
  木こり:アンドレアス・コーン
  ほうき作り:ハインリヒ・ウェーバー
 
 ファビオ・ルイージ指揮 バイエルン放送管弦楽団

             バイエルン放送合唱団
             ミュンヘン少年合唱団

        (1996.3 @ミュンヘン)

ずいぶんと前に買っていたCDだけれども、後段のDVDで馴染んでから聴いて、それはまた素晴らしい演奏だと思い、何度も聴いている。
90年代後半から、ドイツを中心に活躍し始めたルイージは、こうしたドイツものと並んで、ベルカント系のオペラをグルベローヴァとともにたくさん録音していた。
緻密な音楽造りと、劇場感覚あふれる雰囲気作りは、才覚以上に天性のものだと感じます。
リリックテノールからドラマチックテノールに変身したモーザーの、トリスタンのような歌唱は聴きごたえがあり、相方のシュレンベルガーも同様にワーグナーにもふさわしい声。
ヘンシェルの味のある吟遊詩人も実によろしい。

EMIには、ハインツ・ワルベルクの指揮による録音もあり、ネットで視聴することができた。
ダラポッツァのタイトルロールがやや甘すぎだが、ドナートとプライ、シュヴァルツにリッダーブッシュと私のような世代には夢のような布陣だった。
今度、探して手にいれなくては・・・・・

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このオペラ、3時間あまりと長いけれど、音楽は簡明でわかりやすく、馴染みやすい。
そしてともかく美しく、大きな音やフォルても少なめで、夜遅くに聴いても安心だぜ。

結構な悲しいオペラなので、メルヘンを期待すると裏切られるが、ドイツのメルヘンには人間の持つ暗い側面もよく表出されているので、この物語りにいろんな比喩やメッセージを読み解くのもまた深みがあるというもの。

大衆は阿りやすく、一定の方向に流されがちで、真実の声は埋没してしまう。
子どもの目におおかたの狂いはなく、濁りのない眼差しは本当のことを見抜く。

全体を通じて出てくるモティーフが詰まった幕開きに相応しい快活な1幕前奏曲。
祝祭的な、まるでマイスタージンガーの歌合戦の始まりのような第2幕の前奏。
時の流れと、魔女や吟遊詩人たちに起こった悲劇を語り、それがやがて若いふたりの悲しい結末を予見させる。あまりにも切ない3幕の前奏。
これら3つのオーケストラ部分を聴くだけでも、フンパーディンクの音楽の素晴らしさがわかるというもの。
時おり入る、バイオリンソロがこれがまた美しくも儚い悲しさがある。
オランダオペラの舞台では、ステージにヴァイオリン奏者が実際に出てきて、愛の象徴としたこのソロ場面がわかりやすく引立っていたのだ。

ヘンゼルとグレーテルでのおっかないけど、ユーモアあふれる魔女は、ここでは悪い役というよりは、かつて誤解され迫害を受けたジプシーのような存在と感じられ、彼女も阻害された不幸な存在として描かれている。
この役に、DVDではドリス・ゾッフェル、ワルベルク盤ではハンナ・シュヴァルツが歌っている。

わたしがとても好きな場所は、王子のがちょう姫との出会いの二重唱の可愛さ。
1幕最後でのがちょう姫の両親への感謝の歌、ファター、ムッターと歌う場面が涙が出るほどに愛らしい・・・
そして3幕前奏の物悲しい美しさに加えて、死を前にした若い二人の泣けるほど美しい二重唱。
トリスタンの世界を超越した、世紀末感あふれるロマンティシズムの極致で、それがフンパーディンクの筆致で無垢な世界へと昇華している。
くり返しいいます、とんでもなく美しく哀しい・・・

ただ、このふたりの悲しみの死がピアニシモで閉じるが、そのあとがまだオペラの続きとしてあったことが、自分にはちょっと残念だった。
そこで幕を閉じずに、吟遊詩人と木こりたちのクダリがあったことで、泣いてた自分がやや虚しくなる。
最後の吟遊詩人のバリトンの歌や、子供たちの合唱には心惹かれますが・・・・
このあたり、音源としてではなく、劇場や映像で見るとそのように感じる方もいるのではと。

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  王様の子:ダニエル・ベーレ
  がちょう番の娘:オルガ・クルチンスカ
  魔女:ドリス・ゾッフェル
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):ヨゼフ・ヴァグナー
  木こり:サム・カール
  ほうき作り:ミヒャエル・プフルム

  ヴァイオリン奏者(愛):カミュ・ジュベール

 
 マルク・アルブレヒト指揮 オランダ・フィルハーモニー管弦楽団

              オランダ国立歌劇場合唱団
              アムステルダム少年少女合唱団

     演出:クリストフ・ロイ


           (2022.10 @アムステルダム)

スタイリッシュでシンプルなロイの演出とその仲間たちの舞台は、過剰な読み替えの少なく、わかりやすく、でもその訴えかけるドラマ性は強い。

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簡潔な中に、見事なまでの、この作品の確信に切り込む演出解釈は、無駄なことをせずとも誰しもがわかり、納得できるものだ。
ホワイトを基調に、ふたりの主人公も純白な衣装で、まさに無垢なふたりを象徴。
四季の移ろいも、このオペラの肝であるが、それをダンサーたちに表出させ、彼らダンサーたちは、ふたりの主人公の心象をときに憐れむようにして寄り添い、客観視しながら舞台に存在する。
町外れにある魔女の館は、ほんとに小さな小屋で、この小屋に住まう魔女、また最後は小屋で暖をとる悪人たちの根城としてわかりやすい存在。
また大きな木が常にあり、町の中心として機能したり、若いふたりが木の下で息絶えるのを見守る役目であったりする。

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このような簡明な装置の元で、世間知らずの若いふたりと、彼らを理解する子供たち、すべてを知り同情と理性にあふれた吟遊詩人。
対する凡庸たる市民と、その代表である木こりやほうき職人。
これらの対比が鮮やかな演出で、魔女さんは、どこか客観的な存在に描かれ、そんなに悪としての存在でもなく、気の毒な存在として描かれている。
魔女と吟遊詩人が、追放されいたぶられるシーンがリアルに描かれているのも、舞台以上に映像作品を意識したものと実感。

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この役を得意とするベーレの王子役が見栄えも含めて、そのリリックで甘い声と物悲しさ、役柄を手中にした歌と演技とで素晴らしい。
クルチンスカのがちょう姫も、好きです。
素朴さ、純情さがありつつ、積極性も歌いこむこの役に申し分ないです。
そして、ベテランのゾッフェルの魔女も貫禄充分。
ヴァグナーの孤高の吟遊詩人も見事なもので、暖かなバリトンは、ワーグナーの諸役も得意にしている。

オランダオペラを率いていたアルブレヒトの積極かつ熱意にあふれた指揮も素晴らしい。
後期ロマン派の作品、とくにオペラを積極的に取り上げたアルブレヒトの意匠は、後任のヴィオッテイに引き継がれてます。
最近の、コルンゴルト、シュレーカーなどのオペラに加え、このアルブレヒトのフンパーディンクは特筆すべき出来栄えかと思います。
この作曲家のワーグナーの亜流的な存在感を越えて、その先の新ウィーン楽派や表現楽派の領域までも達するようなフンパーディンクの側面を垣間見せてくれる、そんな切れ込みも深い解釈をみせた演奏です。

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雪降るなかの、ふたりの悲しすぎる死。
そのあと憎しみ覚える木こりたちも登場するが、吟遊詩人の愛に満ちた告別と悔恨の歌。
まるでワーグナーの楽劇の最後を閉じるようなバリトンの歌は素晴らしい。
「王のこどもたち」と何度も歌う子供たちの歌。
舞台は暗くなっていきました・・・・

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このオペラには、今回取り上げたもの以外にも、いくつかの録音や映像があり確認しました。

・ワルベルク盤 前述のとおり、なんといってもH・プライがすばらしく、ドナートのがちょう姫がかわいい
・ヴァイグレ盤 ここでもベーレが王子役、フランクフルトオペラでのヴァイグレの活躍とその豊富なレパートリーには驚きだ
・メッツマッハー盤 ベルリン・ドイツ響、フォークトやバンゼ、聴いてみたいキャスト
・A.ジョルダン盤  モンペリエ・オペラ カウフマンが主役
・メッツマッハー映像版 若いカウフマンが、いまほど重くなくよろしい。
 チューリヒでの上演で、学校の実験室や学園祭に置き換えた舞台が深刻さゼロでやりすぎだった。

日本でも、このオペラは日本人の共感をえるものと思います。
いつしか上演されますことを望みます。

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2023年12月17日 (日)

ガラコンサート in ウィーン @1988

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六本木ヒルズ内の毛利庭園。

ここには通年ハートのモニュメントがあって、恋人たちの撮影スポットになってる。

そんなことには無縁のオジサンは、ここでの背景にできた麻布台ヒルズと東京タワーをいかにきれいに納めるか、だれも映さないで撮るかに全力集中するのであります。

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ヒルズ内のお馬さんのツリー。

ここは毎年JRAのツリーが飾られるのですが、人は少なめ、そのかわりこの先にある欅坂を見とおせる最高の撮影スポットが人だかりとなります。
この日は平日だったのに、とんでもない人で何重にも人が重なっていて、まったく写真も撮れず。
こんなことこれまでなかった。
しかも、7割がたが異国の方。

華やかな都会には月に1度か2度しか行きません。

耳のごちそう、ガラコンサートを聴きましょう。

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     Opera Stars in Concert

              1988年9月4日 ムジークフェライン

①「セヴィリアの理髪師」 トマス・ハンプソン
②     〃      パトリツィア・パーチェ
③     〃      フレデリカ・フォン・シュターデ
             トマス・ハンプソン
④「アルジェのイタリア女」テレサ・ベルガンサ
⑤「愛の妙薬」      アルフレート・クラウス
⑥「アッティラ」     ピエロ・カプッチルリ
⑦「マクベス」      マーラ・ザンピエッリ
⑧「トロヴァトーレ」   カティア・リッチャレッリ
             ピエロ・カプッチルリ
⑨「運命の力」      マリア・キアーラ
⑩「ドン・カルロ」    エヴァ・マルトン
⑪   〃        ジャコモ・アラガル
             クルト・リドゥル
             マーラ・ザンピエッリ

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①「アンドレア・シェニエ」マテオ・マヌグエッラ
②「フェドーラ」     ニコライ・ゲッダ
③「ラ・ワリー」     カティア・リッチャレッリ
④「マノン・レスコー」  マーラ・ザンピエッリ
⑤「トスカ」       マリア・キアーラ
⑥「エウゲニ・オネーギン」 ニコライ・ゲッダ
⑦    〃        クルト・リドゥル
⑧「サムソンとデリラ」  クリスタ・ルートヴィヒ
⑨「ラ・ペリコール」   テレサ・ベルガンサ
⑩「カルメン」      テレサ・ベルガンサ
⑪  〃         パトリツィア・パ-チェ
⑫「カディスの娘たち」  フレデリカ・フォン・シュターデ
⑬「エロディアート」   トマス・ハンプソン
⑭「ロミオとジュリエット」 アルフレート・クラウス
⑮「ファウスト」      カティア・リッチャレッリ
              アルフレート・クラウス
              クルト・リドゥル

   アントン・グアダーニョ指揮 ORF交響楽団

70~90年代初めにかけて世界中で活躍したキラ星のごとくのオペラ歌手たち。

もう物故してしまった歌手も、引退した歌手も、はたまたいまだに現役の歌手も!

88年のウィーンでのガラコンサートで、かつてはこんな風な超一流歌手によるガラコンサートがよく行われていたと思う。

それにしてもすごいメンバーです。

ここにあと、カバリエとか、スコット、フレーニ、カレーラス、ギャウロウ、ミルンズなどが加わったらそれこそ世界イチでしょう。
ドイツものがあえてないので、3部構成で、ドイツ系の歌手もいれたらさらにすごいことに。

NHKFMの日曜午後のオペラアワーでは、本編のオペラ全曲の余白に、よくこうしたガラコンサートやアリアコンサートの海外ライブを放送していたと思います。
昨今では人気歌手たちをスケジュール的にも押さえることが大変だし、興行的にもかなりの高額チケットとなってしまい採算的にも売り上げ的にも厳しいのではと思います。

よくも悪くも、あのころはよかったということになります。

いまも現役、T・ハンプソンの生きのいいフィガロは大喝采を浴びてます。
そのハンプソンは、フランス物でも的確かつ熱い歌。
アバドもよく起用した、P・パーチェのリリックな声もよし。
蠱惑のヴォイス、シュターデのここでの登場もうれしくて、ドリーブの小粋な歌曲ではその魅力が全開。
心洗われる清廉なるクラウスの声、愛の妙薬も、われわれ日本人には懐かしいファウストもすんばらしい!

あと、なんたってカプッチルリのヴェルディ!!!
ほんもののヴェルディ歌唱ここにあり、リッチャレッリとのルーナ伯爵もすんばらしい!!
そのリッチャレッリの声も、わたくしにはお馴染みの声で、少しの陰りが極めて素敵で、カタラーニにも震える。
同時期に活躍、あまり録音に恵まれなかったキアーラの声も、わたしは好き。
正統派のソプラノ、キアーラの声には華がある。

ザンピエッリは強い声だが、その声に揺れがあるのがちょっと。
マルトンも立派だけど、若さ不足。
とか贅沢なことも感じるのがガラコンサート。

なつかしのニコライ・ゲッダ。
ルートヴィヒの定番のデリラには泣けましたな・・・・
マヌグエッラもいいが、ここではトニオが聴きたかったし、ジェラールならカプッチルリだな。
万能のベルガンサ、ブリリアントなお声と、スマートな歌いまわしで観客を魅惑しちゃってる。
いまも昔もウィーンの重鎮リドゥルに、これまた贅沢なアラガル。

隅から隅まで、もうニンマリし通しの歌の祭典。

これを引き締め、完璧にオペラのひとコマの雰囲気を出してるグアダーニョの指揮。

昨今の知らない人たちばかりの紅白歌合戦なんて興味ありません。
こんなCDばかり、聴いて年を越したいと思いますぞ。

今思えば、バブルの頃、NBSが企画した80年代前半の2度のガラコンサートに行きました。
そのときの日記を探して、いずれ記録に残しておきたい。
フレーニ(風邪でお休みで舞台でお謝っていた)、ボニッゾッリ、カプッチルリ、ギャウロウ、ヴァルツァ、ヤノヴィッツ、リザネック、イェルサレム・・・・・
若かった独身時代の自分。
めちゃくちゃ興奮して、ますますオペラにのめりこんでいったのでした。
懐かしいな。

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2023年6月26日 (月)

ヴェルディ 「ファルスタッフ」 アバド指揮

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毎年の梅雨の時期には、小田原城で紫陽花と菖蒲を楽しみます。


Odawara-17

そして、6月26日は、クラウディオ・アバドの90回目の誕生日。

90越えで現役のブロムシュテットとドホナーニが眩しい存在です。

2005年秋にblogを開設以来、2006年のアバドの誕生日を祝福しつつアバドの記事を書くこと、今年で17回目となりました。

さらに1972年にアバドの大ファンになって以来、今年はもう51年が経過。

つくづく永く、アバドを聴いてきたものです。

今年の生誕日には、アバドの演奏のなかでも、間違いなくトップ10に入るだろう大傑作録音、「ファルスタッフ」を取り上げました。

Falstaff-abbado

  ヴェルディ 「ファルスタッフ」

   ファルスタッフ:ブリン・ターフェル   
   フォード:トマス・ハンプソン
   フェントン:ダニエル・シュトゥーダ  
   カイユス:エンリコ・ファチーニ
   バルドルフォ:アンソニー・ミー 
   ピストーラ:アナトゥーリ・コチュルガ
   フォード夫人アリーチェ:アドリアンネ・ピエチョンカ
   ナンネッタ:ドロテア・レシュマン 
   クイックリー夫人:・ラリッサ・ディアドコヴァ
   ページ夫人メグ:ステラ・ドゥフェクシス

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
               ベルリン放送合唱団

        (2001.4 @フィルハーモニー、ベルリン)


2000年の春に胃癌のため活動を停止し、その年の10月から11月にかけて、日本にやってきてくれた。
そのときの瘦せ細った姿と裏腹に、鬼気迫る指揮ぶりは今でも脳裏に焼き付いています。
その翌年2001年からフル活動のアバドは、いまDVDに残るベートーヴェンのチクルスを敢行し、そのあとザルツブルクのイースター祭で「ファルスタッフ」を上演します。
それに合わせて録音されたのが、このCD。

病後のベルリンフィル退任前の2年間は、アバドとしても、ベルリンフィルとのコンビとしても、豊穣のとき、長いコンビが相思相愛、完全に結びついた時期だったかと思います。
ベルリンフィルにカラヤン後の新たな風を吹かせた、そんなアバドの理想のヴェルディがここに完結した感がある。

一聴してわかる、音の輝かしさと明るさ伴う若々しさ。
カラヤンとは違う意味で雄弁極まりないオーケストラは、アンサンブルオペラ的なこの作品において、歌手たちの歌と言葉に、完璧に寄り添い、緻密にヴェルディの書いた音符を完璧に再現。
オーケストラも歌手も、完全にアンサンブルとして機能し、その生気たるや、いま生まれたての瑞々しさにあふれてる。
ヴェルディの音楽におけるオーケストラの完成度という意味では、アバドのファルスタッフは私にはNo.1だと思う。
カラヤンのドン・カルロもすごいけれど、あそこまで嵩にかかったオーケストラにはひれ伏すのみだが、アバドのヴェルディにおけるベルリンフィルは、しなやかさと俊敏さがあり、何度も聴いても耳に優しい。
若い恋人たちの美しいシーンはほんとうに美しいし、2幕最後の洗濯籠のシーンもオーケストラは抜群のアンサンブルを聴かせ、ワクワク感がハンパない。
各幕のエンディングの切れ味と爽快感もこのうえなし。
さらには、3幕後半の月明りのシーンの清涼感とブルー系のオケの響きも無類に美しく、そのあとのドタバタとの対比感も鮮やか!

ファルスタッフのオーケストラでいえば、カラヤンのウィーンフィルは雄弁かつオペラティックで面白いし、うまいもんだ。
同じウィーンフィルでも、バーンスタインはヴェルディを自分の方に引き寄せすぎ、でも面白い。
トスカニーニのNBCは鉄壁かつ、でも歌心満載。案外アバドの目指した境地かも・・・
ジュリーニのロスフィルは、これがあのメータのロスフィルかと思えるくらいに、落ち着きと紳士的な雰囲気。
スカラ座時代にアバドがファルスタッフを取り上げていたらどうだったろうか。
と空想にふけるのもまたファンの楽しみです。

病気あがりで、ザルツブルクでの上演前にみっちり練習を兼ねたレコーディング。
ファルスタッフのターフェルがレコ芸のインタビューで、そのときの様子を語ってました。
「彼はかなり痩せてしまい、皆とても心配していた。すると彼は音楽をすることによってエネルギーを得て、本当に元気になってしまいました。録音中、彼の瞳はきらきらと輝き、指揮をしながら飛び上がっていたのです。彼はこのオペラの生気、朗らかさを心の底から愛しているのだと思います。それが彼の健康に素晴らしい効力を発揮したのでした」
その音楽に明確な意見を持ちながら、若い歌手や演奏家たちに、完璧主義者でありながらフレンドリーで暖かく指導することで、レコーディング自体がすばらしいレッスンだったとも語ってました。
アバドの人柄と、あの大病を克服した音楽への愛を強く感じるエピソードです。

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ターフェルが36歳のときの録音で、その頃、すでにファルスタッフを持ち役にしていただけあって、その歌唱には抜群の巧さと切れ味がある。
初演の練習にずっと立ち会ったヴェルディは、歌手たちに細かい指示を出し、それはリコルディ社は書き取り記録したそうだ。
その細かな指示を歌手は反映させなくてはならず、ファルスタッフの多彩な性格の登場人物たちは、そのあたりでも役柄の描き分けが必要なわけ。
ターフェルは若い威力あふれる声を抑制しつつ、緻密な歌いぶりで、きっとアバドとの連携もしっかり生きていることでしょう。

ハンプソンのフォードも若々しく、ターフェルとの巧みなやりとりも聴きがいがある。
若すぎな雰囲気から、娘に対する頑迷な雰囲気はあまり出ないが、この歌手ならではの知的なスタイルはアバドの指揮にもよく合っている。

女声陣の中では、ナンネッタのレシュマンが断然ステキで、軽やかな美声を堪能できる。
ピエチョンカを筆頭とする夫人たちの、声のバランスもいいし、なかでは、クイックリー夫人が楽しい。
2000年当時の実力派若手歌手の組み合わせは、いまでも新鮮につきます。

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シェイクスピアと台本のボイート、そしてヴェルディの三位一体で極められた最高のオペラがファルスタッフ。
昔の栄光をいまだに忘れられない没落の士、ファルスタッフは、経済的な打開策としても、夫人たちに声をかけた。
それがしっぺ返しを食らうわけだが、思えば可哀想なファルスタッフ。
喜劇と悲劇を混在させたかのような見事なドラマと音楽に乾杯。

「世の中すべて冗談だ。
 人間すべて道化師、誠実なんてひょうろく玉よ、知性なんてあてにはならぬ。
 人間全部いかさま師!みんな他人を笑うけど、最後に笑うものだけが、ほんとうに笑う者なのだ」
                (手持ちの対訳シリーズ、永竹由幸氏訳)

皮肉に見つつも、真実を見極めた言葉に、屈託のないヴェルディの輝きあふれる音楽。
でも真摯極まりないアバドの演奏は、もしかしたら遊びの部分が少なめかも。

シェイクスピアに素材を求めたヴェルデイのオペラは、「マクベス」「オテロ」そして「ファルスタッフ」。
いずれもアバドは指揮しましたが、残念ながら「オテロ」は95~97年に3年連続でベルリンフィルと演奏してますが、録音としては残されませんでした。
オテロ役が3年で全部ことなり、レーベルのライセンスの問題もあるかもしれないし、おそらくアバドは理想のオテロ歌手に出会えなかったのかもしれません。
台本に内在する人間ドラマにもこだわる、そんなアバドが好き。
そんなアバドの高貴なヴェルディ演奏が好きなんです。

「ファルスタッフ過去記事」

「新国立劇場公演 2007」

「ジュリーニ&LAPO」

小澤征爾と二期会のファルスタッフを観劇したのが1982年。
国内上演4度目のものを体験。
先ごろ亡くなった栗山昌良さんの演出、タイトルロールは栗林義信さんだった。
日本語による上演で、今思えば悠長なものでしたが、でもわかりやすく、舞台に普通に釘付けとなりましたね。
「わっかい頃は、この俺だって・・・」とファルスタッフが自慢げに歌う場面は、日本語で歌えるくらいに覚えちゃったし、クィクリー夫人登場の挨拶は、「よろし~~く」で、もう出てくるたびに会場は笑いに包まれたものだ。
きびきびと楽しそうに指揮していた小澤さんも若かったなぁ。



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6月のアバドの誕生祭は、毎年、紫陽花が多め。

忙しかったので、記事は遅れ、バックデートして投稿してます。

アバド生誕祭 過去記事一覧

「ロメオと法悦の詩 ボストン響」2006

「ジルヴェスターのワーグナー」2007

「ペレアスとメリザンド 組曲」2008

「マーラー 1番 シカゴ響」2009

「ブラームス 交響曲全集」2010

「グレの歌」2011

「エレクトラ」2012

「ワーグナー&ヴェルディ ガラ」2013

「マーラー 復活 3種」2014

「シューベルト ザ・グレート」2015

「新ウィーン楽派の音楽」2016

「メンデルスゾーン スコットランド」2017

「スカラ座のアバド ヴェルディ合唱曲」2018

「ヤナーチェク シンフォニエッタ」2019

「スカラ座 その黄金時代DVD」2020

「ランスへの旅」2021

「アバド&アルゲリッチ」2022

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